『源平盛衰記』(国民文庫)
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源平盛衰記
以巻 第一
S0101 平家繁昌並特長寿院導師事
祇園精舎の鐘声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花色、盛者必衰の理を顕す。奢れる者も久からず、春の夜の夢の如し。猛心も終には亡ぬ、風前の塵に同じ。遠く訪異朝夏寒■、秦趙高、漢王莽、梁周伊、唐禄山、皆これ旧主先皇の政にも不随、民間の愁、世の乱をも不知しかば、久からずして滅にき。近尋我朝、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、侈れる心も武き事も、とりどりに有けれ共、まぢかく入道太政大臣平清盛と申ける人の有様、伝聞こそ心も詞も及ばれね。桓武天皇第五の王子、一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛孫、刑部卿忠盛嫡男也。彼親王御子高見(有朋上P002)王は、無官無位にして失給にけり。其御子高望王の時、寛平元年五月十二日に、始て平姓を賜て、上総介に成給しより以来、忽に王氏を出でて人臣に連る。其子鎮守府将軍良望、後には常陸大丞国香と改、国香より貞盛、経衡、正度、正衡、正盛に至まで六代は、諸国の受領たりといへ共、
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未殿上の仙籍をばゆりず。忠盛朝臣備前守たりし時、鳥羽院御願得長寿院とて、鳳城の左鴨河の東に、三十三間の御堂を造進し、一千一体の観音を奉居。勧賞には闕国を賜べき由被仰下但馬国賜ふ。其外結縁経営の人、手足奉公の者までも、程々に随て蒙勧賞、真実の御善根と覚えたり。崇徳院御宇長承元年壬子二月十六日に勅願の御供養有べしと、公卿僉議有て、同二十一日の午の一点と被定たりけるに、其時刻に及て、大雨大風共に夥かりければ延引す。同廿五日に又有僉議、廿九日は天老日也、勅願の御供養宜しかるべしとて可被遂けるに、氷の雨大降、牛馬人畜打損ずる計なりければ、上下不及出行又延引す。禅定法皇大に被歎思召けり。昔近江国に有仏事けり。風雨煩たびたびに及ければ、甚雨を陰谷に流刑して、堂舎を供養すといへり、されば雨風の鎮有べきかと云議あり、尤可然とて諸寺の高僧に仰て御祈あり。度々延引の後、重て有僉議。同年三月十三日、曜宿相応の良辰なり(有朋上P003)とて、其日供養に被定。御導師には、天台座主東陽房忠尋僧正と聞ゆ。臨期日、一人三公卿相雲客洛中辺土貴賤上下、参集聴聞結縁しけり。当座主僧正は、顕蜜兼学の法燈、智弁無窮の秀才也。説法舌和にして、弁智詞滑也。末世の富留那弁士の舎利弗と覚たり。聴聞集会万人は随喜の涙を流し、結縁群参の道俗は歓喜の袖を絞る。無始罪障雲消るかと思、本有の月輪の光照すかと疑。説法は三時計なりけるを、聴衆は刹那の程と思へり。誠に像法転ずる時、医王善逝の化現歟、又転法輪堂、釈迦如来の説法かとあやまたる。座主は高座より下給ひ、正面の左の柱の本に
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座し給へり。法皇御感の余に、玉御簾■て、汝は坐道場之徳用を備たり、朕は解脱分之善根を植たり、汝毎聴説法随喜思ひ骨に徹し、信心身の毛堅て、落涙まことに難押と有勅定、当座の叡嘆山門の眉目也。御布施には千石千貫沙金千両、其外被物裏物、庭上岡をなせるが如し。実御善根の志は、施物に色顕れたり。及夜陰導師退出す。為餝仏庭為照聴衆、万燈を炬されたり。偖も彼寺の異名をば平愈寺と申す也。導師祈願の句に、衆病悉除身心安楽と、高に唱へ給たりけるが、其声洛中白川に響けり。斎宮の女御、折節怪き瘡をいたはらせ給けるが、御限と奉見けるに、衆病悉除、風に聞召て、則御平愈、其外一時の(有朋上P004)内に、辺土洛陽に、上下男女、二万三千人の病愈たりけるに依て也。
異説〔には〕、二宮地主権現の非人と現じて、日光月光、十二神将を相具して、説法と云事あり、僻事〔にてありける〕歟。
S0102 五節夜闇打附五節始並周成王臣下事
〔加様に〕忠盛、仏智に叶程の寺を造進したりければ、禅定法皇叡感に堪させ給はず、被下遷任之上、当座に刑部卿になさる、内の被免昇殿。昇殿は是象外の選なれば、俗骨望事なし。就中先祖高見王より、其跡久く絶たりし、忠盛三十六にして被免けり。院の殿上すら難上、況や内の昇殿に於てをや。当時の面目、子孫の繁昌と覚たり。法皇常の仰には、忠盛なからましかば、誰か朕をば仏に成べきとて、或時は御剣御衣、或時は紗金錦絹を、得長寿院へ可奉廻向とて下賜ひけり。其上闕国のあれかし、庄園のあけかし、重々もたばんと思召しければ、雲の上人嘲憤て、同年十一月の五節、二十三日
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の豊明節会の夜、闇打にせんと支度あり。忠盛此事風聞て、我右筆の身に非、武勇の家に生て、今此恥にあはん事、為身為家、心うかるべし、又此事を聞ながら、出仕(有朋上P005)を留めんも云甲斐なし、所詮身を全して君に仕るは、忠臣の法と云事ありと云て、内々有用意。爰に忠盛朝臣の郎等に、進三郎大夫季房子、左兵衛尉平家貞と云者あり。本は忠盛の父正盛の一門たりしが、正盛の時始て郎等職と成りたりし、木工右馬允平貞光が孫也。備前守の許に参て申けるは、今夜五節の御出仕には、僻事いでくべき由承候、但祖父貞光は、乍恐御一門の末にて侍りけるが、故入道殿の御時に、始て郎等に罷成候けりと承、貞光には孫也、季房には子也、親祖父に勝るべきならねば、其振舞を仕る、殿中の人々、我も\と思輩は、かず多くこそ侍らめども、加様の実の詮にあひ奉らん者は、類少こそ候らめ、御伴には家貞参べし、無御憚可有御出仕と申ければ、忠盛然べしとて召具す。家貞は布衣下に、萌黄の腹巻衛府の太刀佩、烏帽子引入袖纈て、殿上の小庭にあり。子息平六家長は歳十七、長高骨太して剛者、度々はがねを顕して逞き者、これも布衣下に、紫威の腹巻著て、赤銅造の太刀佩て、無官なれば徐々として、左右の手を土につきて、犬居に居て、雲透に殿上の方を伺見て、親の家貞あゝといはば、子息の家長も、つと可打入支度也。殿上の人々怪をなしければ、頭左中弁師俊朝臣、蔵人判官平時信を召て、宇津保柱より内に、布衣の者候ぬるは何者ぞ、事の体狼籍也、罷出(有朋上P006)挿絵(有朋上P007)挿絵(有朋上P008)よといはせたりければ、家貞は、主君備前守今夜闇打にせらるべき由承ればなり、果給はん様、奉見べけれ
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ばとて畏つて候ければ、事の様、実に主ことにあはば、堂上までも可切上頬魂なりける上に、忠盛朝臣黒鞘巻を装束の上に横たへ、指して支度計なき体にて、腰の程を差くつろげたる様にして、柄を人にぞ見せける。人々事がら尤しとや被思合けん、其夜の闇打はなかりけり。
昔漢高祖沛公たりし時、項羽と雍丘と云所にて、秦の軍と合戦す。沛公の兵、諸侯に先立て覇上に至る。秦の王子嬰皇帝璽符を捧て降人に参る。諸将これを殺さんと云。沛公降人を殺事不祥なりとて、吏に預らるる。咸陽宮に入て、暫休とし給けるを、樊■張良諌申ければ、秦の宝物たる庫共を封じて、覇上に帰給けり。秦の父老の苛法の政に苦めるを召集て宣けるは、吾諸侯と約束して、先に関に入ん者を王とせんと云き、我既に先に入、王たるべしとて、父老と三章の法を約し給けり。人を殺せらん者をば死せしめん、人を破り及盗せらん者をば罪にいたさん、此外は秦の法を除て捨よと宣ける。十一月に、項羽諸侯の兵を引、関に入らんとす。守関兵ありて入事を得ず。又沛公咸陽宮を破て、其威を施すと聞て、項羽大に怒て関を撃、遂に戯と云所に至りぬ。沛公が臣、曹無傷と云者、項羽に中言して、沛公(有朋上P009)王たらんとすと言たりければ、項羽弥憤て、沛公をうたんとす。爰に項羽一家に項伯と云者、沛公に志ありければ、失なき由を述て、殺事不義也と諌ければ、其事暫思止にけり。さて沛公鴻門に行て項羽に対面して、浄心なき由慇懃に謝しければ、項羽云、是は沛公が左司馬曹無傷が告たる也、さらでは争か知べき、宜とヾまり給へ、酒すゝめんとて留置けり。
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彼座の為体、項伯は東に対て居り、亜父は南に向てあり。亜父とは項羽が憑たる兵也。沛公は北に向ひ、張良は西に向てぞ居たりける。亜父玉■をもたげて項羽に目くばせす、是沛公を討との心也。加様に三度まですれども、大方不心得不思寄。亜父座を起て、項荘を招て云、項羽人の謀に随ず、汝沛公をもてなす様にて、剣を抜て舞近付て頸を切ん、然らずんば我等還て彼が攻を可蒙と云ければ、項荘替り入て亜父が教のまゝに、左の手に剣を提て、舞ては沛公に近づきけり。項伯沛公が空く伐事哀みて、剣を抜て共に舞、項荘が近づく時、必沛公を立隠しけり。張良此事を浅猿見て、坐を立て樊■に語る。樊■大に驚きて門を入に、守門の兵禦之ければ、楯を先立て破入ぬ。幕を■て西に向て立り。大に嗔て項羽を見に、頭の髪筋立上、眼広くさけたり。項羽恐て剣を取て跪き、何者ぞと問ければ、張良が云、沛公が臣樊■(有朋上P010)也と答けり。さらば酒勧よとて、一斗を入る盃にて与たれば、樊■悦気色にて事ともせず呑てけり。■の肩を肴に出たりけるをば、楯の上にて太刀を抜て切て食す。猶も飲てんやと項羽云ければ、命を失ふ共争か辞し申べき、況一斗の酒物の数に待らずとて、眸長裂て瞋立る頬魂いぶせく思はれけるにや、沛公事ゆゑなく遁れにけり。忠盛朝臣も、此郎等ゆゑに其夜の恥辱を遁けり。縫殿陣、黒戸の御所の辺にて、怪人こそ遇たりけれ。忠盛見咎て物をばいはず、一尺三寸の鞘巻を抜、手の内に耀様なるを、鬢の髪にすはりすはりと掻撫て、良ありて哀是を以て、狼籍結構する悪き者に、
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一当当ばやなと云ければ、あやしばみたる人則倒伏にけり。勘解由小路中納言経房卿、其時は頭弁にて、折節通合給へり。花やかに装束したる者、うつぶしに伏たりける間、誰人ぞとて引起給たれば、わなゝくわなゝく弱々しき声にて、忠盛が刀を抜て我をきらんとしつるが、身には負たる疵はなけれ共、臆病の自火に攻られて絶入たりけるにやと宣へば、経房卿は、あな物弱や、実に闇討の張本とも不覚とて見給たれば、中宮亮秀成にてぞ御座ける。理や此人元来臆病の人の末成けり。父秀俊卿は中納言にて、歳四十二と申しし時、夢想に侵れて死給へる人の子なればにや、係る目にあひ給ふこそをかしけれ。抑五節と申は、昔清見原(有朋上P011)帝御宇に、唐土の御門より崑崙山の玉を五つ進給へり。其玉暗を照事、一玉の光遠五十両の車に至る、是を豊明と名付たり。御秘蔵の玉にて、人是を見事なし。天武天皇芳野河に御幸して、御心を澄し、琴を弾じ給しに、神女空より降下り、清美原の庭にて、廻雪の袖を翻けれども、天暗して見えざりければ、彼玉を出され、仙女の形を御覧じき。玉の光に輝て、
乙女ごが乙女さびすもから玉を乙女さびすも其から玉を K001
と五声歌給ひつゝ、五たび袖を翻す。五人の仙女舞事各異節也、さてこそ五節と名付たれ。彼舞の手を模つゝ、雲の上人舞とかや、其時拍子には、白薄様厚染紫の紙、巻上の糸、鞆絵書たる筆の軸やと、はやす也。仙女の衣の薄透通りて、厳き有様が、薄様と厚染紫の紙に相似たり。舞の袖を翻、簪より上方に、巻上たる貌、糸を以て巻たるが如く鞆絵を書たる筆の軸を、差上たる様なれば、昔より五節宴酔の肩脱には、必かくはやす
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を、御前の召に依て忠盛の舞ける時に、さはなくて、俄に拍子を替て、伊勢平氏は眇なりけりとはやしたりけり。目のすがみたりければ、取成はやされける、最興ありてぞ聞えし。忠盛身のかたわを謂れて、安からず思へ共、無為方著座の始より、(有朋上P012)殊に大なる黒鞘巻を隠たる気もなく、指ほこらかしたりけるが、乱舞の時も猶さしたりけり。未御遊も終らざるに、退出の次に、火のほの暗き影にて、おほ刀を抜出し、鬢にすはりと\と引当ければ、火の光に輝合てきらめきければ、殿上の人々皆見之。忠盛如此して出様に、紫宸殿の後にて主殿司を招寄、腰刀を鞘ながら抜、後に必尋あるべし、慥に預けんとて出にけり。家貞主を待受て、如何にと申ければ、有の儘に語らば僻事すべき者なれば、別の事なしとぞ答ける。五節以後公卿殿上人一同に訴申されけるは、忠盛さこそ重代の弓矢取ならんからに、加様の雲上の交に、殿上人たる者、腰刀を差顕す条、傍若無人の振舞也、雄剣を帯して公庭に座列し、兵杖を賜て宮中を出入する事は、格式の礼を定たり、而を忠盛或相伝の郎等と号して、布衣の兵を殿上の小庭に召置、或其身腰の刀を横たへ差て、節会の座に列す、希代の狼藉也、早御札を削て可被解官停任由被申たり。上皇は群臣の列訴に驚思召て、忠盛を召て有御尋。陳じ申けるは、郎従小庭に伺候の事不存知仕、但近日人々子細を被相構、依有其聞、年来の家人為助其難忠盛に知せずして推参する、罪科可有聖断、次に刀の事、主殿司に預置候、被召出依実否咎の御左右あるべき歟と奏しければ、誠に有其謂とて、件の刀を召(有朋上P013)出して、及叡覧。上
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は黒漆の鞘巻、中は木刀に銀薄を押たり。為遁当座之恥横たへ差たれ共、恐後日之訴木刀を構たり、用意之体神妙也、郎従小庭の推参、武士の郎等の習歟、無存知之由申上は、忠盛が咎にあらずと、還て預叡感けり。
周成王の忠臣に、きりうと云兵あり。依勧賞位至丞相早鬼大臣と云。代を治て人を憐事、頗君王の如なりければ、御気色超世、恩賞傍輩に過たり。羣臣妬之。亡さんと思へ共、猛人にて折を得ず。臣下内議して、皇居に古文と云御遊を始て、其中にして闇打にせんと支度す。彼大臣の武具を制せんがために、衛府の太刀を禁断す。早鬼先立て存知しければ、我身並に相従輩に、木剣を持しめ殿上に交る。大臣の気色あたりを払て、嗔れる有様なりければ、存知しにけりとて、其夜の乱を止めけり。雲客後日に参内して、当座一同の不与僉議、綸言非違背哉、殿上に用ぬ雄剣を帯して、大家の党に交条、例を乱る処也。尤罪科重し、早く罪せらるべきをやと訴申ければ、公驚思食て、早鬼大臣に御尋あり。大臣陳の言に申さく、雲客腰に太刀を付、忠臣手に雄剣を提るは、是国を鎮奉守公処也。何ぞ清君の祈に、文の節会を立ながら、剣を可被誡哉、然而与一同之僉議実の刀を止といへ共、忠臣は大内を助んと、謀を廻して木の剣を構たりとて、件の剣を召寄て及叡覧けり。公大に御感ありて、実に帝を助る忠臣なりとて、不及罪科沙汰、斯りければ天下悉重し、雲客皆靡て、偏執の思おだしくし、賢臣の誉を仰けるとかや。異国本朝上古末代異なれ共、事がら実
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に相同じ。忠盛此事を摸して、加様に思寄けるにやと嘆ぬ人こそなかりけれ。
S0103 兼家李仲基高家継忠雅等拍子附忠盛卒事
忠盛は、桓武天皇の御苗裔、葛原親王の後胤とは申ながら、中比は無下に打下て官途も浅く、近来より都の住居も疎々敷、常は伊賀伊勢にのみ居住せし人なれば、此一門をば伊勢平氏と申けるに依て、彼国の器に准て、忠盛右の目の眇たりければ、伊勢平氏はすがめ成けりとは、はやしけるにこそ。或人の申けるは、忠盛心憂くもはやされつる者哉、如何計口惜かりけん、其答をば如何にせざりけるやらん、痛く心おくれせぬ男とこそ、世に知たるにと申ければ、又或人の語けるは、昔も係るためしなきに非、村上帝の御宇、左中将兼家と云人あり、北方を三人持たれば、異名には三妻錐と申けり、或時此三人の北方、一所に寄合て、妬色の顕れて、打合取合髪かなぐり、衣引破りなんどし(有朋上P015)て見苦かりければ、中将は穴六借とて、宿所を捨て出給ぬ、取さふる者もなくて、二三日まで組合て息つき居たり、二人の打合は常の事也、まして三人なれば、誰を敵共なく、向ふを敵と打合けるこそ■しけれ、是も五節に拍子をかへて取障る人なき宿には、三妻錐こそ揉合なれ、穴広々ひろき穴かな、とはやしけり。
太宰権師李仲卿は余に色の黒かりければ、人黒師とぞ申ける。蔵人頭なりける時、それも穴黒々黒き頭哉、如何なる人の漆塗らんと拍したりければ、李仲卿に並て御座ける、基高卿の舞れけるに、此人余に色の白かりければ、李仲卿の方人と覚しくて、穴白々白き頭哉、如何なる人薄押けんと、拍し返し
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ける殿上人もおはしけり。
右中将家継と云人、祖父の代までは時めきたりけるが、父が時より氏たえて、有か無かにておはしけるが、下臈徳人の聟に成て、舅の徳に右の中将に成給たりけり、此も五節に、絶ぬる父云に及ばず、祖父の代までは家継ぞかし、左曲の右中将とぞ拍したる、貧き者たのしき妻をまうくるは、左ゆがみと云事なれば、かくはやしける也。
花山院入道、太政大臣忠雅の、十歳にて父中納言忠宗卿に後れ給ひ、孤子にておはせしを、中御門中納言家成卿の、播磨守の時聟に取て、花やかにもてなされければ、是も五節に、播磨米は、木賊か、椋の葉か、人の■を(有朋上P016)付るはとぞ拍したりける、上代は角こそ有しか共異なる事なし、末代は如何あるべきと人の心覚束なし。
忠盛朝臣子息あまた有き。嫡子清盛、二男経盛、三男教盛、四男家盛、五男頼盛、六男忠重、七男忠度、以上七人皆諸衛佐を経て、殿上の交り、人更に嫌に及ばず。日本国には男子七人あるをば長者と申事なれば、人多く羨みけり。是も得長寿院の御利生と覚たり。但命は限ある事なれば、近衛院御宇仁平三年癸酉正月十五日、行年五十八にて卒しけり。猶も盛とこそ見えしに、春立霞にたぐひ、雲井の煙と消上り、指たる病もなし。いつも正月十五日、精進潔斎しけるが、今年も又心身を清め沐浴して、本尊の御前に香を焼花を供じて念仏申、西に向て睡が如して引入にけり。今生には一千一体
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の観音の利益を蒙、四海に栄花を開、終焉には上品中品の、弥陀の来迎に預つて、九品の蓮台に生、見人聞人も不敬と云事なし。女子五人、男子七人有き。清盛嫡男なれば、其跡を継。諸国庄園を譲るのみに非、家中の重宝同相伝して、他家に移事なし。中にも唐皮と云鎧、小烏と云太刀、清盛に被授。又抜丸も此家に止まるべかりけるを、頼盛当腹の嫡子にて伝之。その事に依て、兄弟中悪かりけるとぞ聞えし。(有朋上P017)
S0104 清盛行大威徳法附行陀天並清水寺詣事
仰清盛打続繁昌し給ける事、幼少の昔中御門家成卿の許に、局ずみして有けるに、彼卿の祈の師に、大納言阿闍梨祐真とて、貴き真言師あり。家成卿の持仏堂にて、護身加持しておはしければ、清盛も常に有対面問給ける事は、真言乗上乗の秘法の中に、何なる法が加様の在家の者の奉行、*掲焉の預利生事候と被申たりければ、阿闍梨答云、信心至て修行すれば、何れの法も可成就、但振威於一天、抽徳於万人者、五大明王の其一、大威徳の法こそ成就あれば、必天子の位に昇とは申たれと云ければ、則阿闍梨を師匠と憑て件の法を伝受して、七箇年の間一向清浄に斎戒し、可会が滋味をも断じ、玄石が美き酒をも禁じて勇猛精進し、信心勤行し給けり。七箇年に満たる夜、道場の上に声ありて云、
つとめんと思ふこゝろのきよもりは花はさきつゝ朶もさかえん K002
と、清盛後憑もしくおもひて、いよ\致精誠祈念しけれ共、余の貧者なりければ、倩案じて思ひけるは、我諸国荘園の主也、縦ひ何
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となけれ共、生得の報とて、身一つ助る分(有朋上P018)は有ぞかし、況清盛が身に於てをや、希代の果報哉と怪処に、或時連台野にして、大なる狐を追出し、弓手に相付て、既に射んとしけるに、狐忽に黄女に変じて、莞爾と笑ひ立向て、やゝ我命を助給はば、汝が所望を叶へんと云ければ、清盛矢をはづし、如何なる人にておはすぞと問ふ。女答て云、我は七十四道中の王にて有ぞと聞ゆ。さては貴狐天王にて御座にやとて、馬より下て敬屈すれば、女又本の狐と成て、コウ\鳴て失ぬ。清盛案じけるは、我財宝にうゑたる事は、荒神の所為にぞ、荒神を鎮て財宝を得には、弁才妙音には不如、今の貴狐天王は、妙音の其一也、さては我陀天の法を成就すべき者にこそとて、彼法を行ける程に、又返して案じけるは、実や外法成就の者は、子孫に不伝と云者を、いかゞ有べきと被思けるが、よし\当時のごとく、貧者にてながらへんよりは、一時に富て名を揚にはとて被行けれ共、遉が後いぶせく思て、兼て清水寺の観音を奉憑蒙御利生と千日詣を被始たり。雨の降にも風の吹にも日を闕ず、千日既に満じける夜は通夜したり。夜半計に両眼抜て、中に廻て失ぬと夢を見る。覚て後浅猿と思て、実や仏神は来らざる果報を願へば、還て災を与へ給といへり、あはれ是は分ならぬ幸を願に依て、観音の罰に、我魂を抜給か見えぬるやらんと現心もなし。去に(有朋上P019)ても人に尋んとて、我眼の抜て中に廻て去ぬると、夢に見たるは善歟悪歟と札に書て、清水寺の大門に立て、人を付て令聞之。参り下向の人多く札を見て、不心得と而巳云て、誰も善悪をばいはず。両三日を経て後に、或人見之
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打うなづきて、実に目出き夢也、吉事をば目出しと云、目出しとは目出ると書り、眼の抜は目の出る也、此夢主は日来心苦く侘しき事をのみ見けるが、此観音に依奉帰依、難の眼を脱棄給て、吉事を見んずる新き眼を、可入替給御利生にや、あつぱれ夢や\と両三度嘆て去ぬ。使帰て角と申ければ、清盛大に悦て、さては好相成けりとて、彼礼を深く納て、仰天果報を俟つ。
S0105 清盛捕化鳥並一族官位昇進附禿童並王莽事
〔去程に〕夢見て、七日と申夜は、内裏に伺候したりけり。夜半計に及て、南殿に鵺の音して、一鳥ひめき渡たり。藤侍従秀方、折節番にておはしけるが、殿上より高声に、人や候\と被召けり。左衛門佐にて間近候ければ、清盛と答。南殿に朝敵あり、罷出て搦よと仰す。清盛こはいかに、目に見る者也とも、飛行自在にて天を翔けらん者をば、(有朋上P020)争か取べき、況暗さはくらし体も見えず、音計あらん者を、角とれと仰出さるゝ事の浅猿さよ、如何がはせんと思けるが、急度思直て、実や綸言と号せばや、様ある事也、天竺には号勅定、獅子を取大臣もあり、漢家には宣旨の使と名乗て、荒たる虎をとる者も有けり、我朝には任叡慮雲に響雷を取臣下も有けり、延喜御宇には、池の汀の鷺を取たる蔵人もあり、末代といへ共、日月地に墜給はず、争例を追ざるべき、取て進せばやと思ければ、畏てとて、音に付て踊懸る処に、、此鳥騒て左衛門佐の左の袖の内に飛入、則取て進せたり。叡覧あれば実に小き鳥也、何鳥と云事を不知食、癖物なりとて有御評定。よく\見れば毛じゆう也。毛じゆうとは、鼠の唐名也。加様の者までも皇居に懸念をなしけるにや、博士召せとて召れたり。占申けるは、此事漢家本朝に希也、但
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垂仁天皇三年二月二日、毛じゆう皇居に其変をなす、武者所蒙仰とらんとしけるに、不取得して門外に飛出ぬ、此故に七年の大疫癘、七年の大飢饉、七年の大兵乱なりければ、廿一年の間、上下万人其愁絶ず、而るを清盛綸言の下に、朝威を重じて怪鳥を取事を得たり、尤吉事に候、天下十六箇年の間、風雨時に随ひ、寒暑おりを不可■と奏し申ければ、偖は希代の吉相にやとて、南台の竹を召、中に篭て、清水寺の岡に埋れ(有朋上P021)たり。御悩の時に勅使立て、被含宣命時、毛じゆう一竹が塚と云は是也。公卿有僉議、天下安穏に、万民愁を休めんには、恠異を鎮て進するには不如、これ非朝敵鎮や、勧賞あるべしとて、安芸守になさる。是清水寺の夢想の験也。鼠は大黒天神の仕者也。此人の栄花の先表たり、威勢は大威徳天、福分は弁才妙音陀天の御利生也。されば清盛安芸守と申しし時、保元元年に、左大臣謀叛の時、ことなる賞ありて、同年七月十一日、安芸守より播磨守に移り、同八月十日、任太宰大弐。平治元年信頼卿謀叛之時、勲功ありて、同年十二月廿七日に、経盛伊賀守、頼盛尾張守、宗盛遠江守、重盛伊予守、教盛越中守、基盛任左衛門佐。永暦元年に正三位して拝参議。同二年、右衛門督、検非違使別当、権中納言に任ず。長寛三年に、権大納言に至り、仁安元年、任内大臣兼。宣旨並饗禄なかりけれ共、忠義公の例とぞ聞えし。同二年に太政大臣に上る。左右を経ずして此位に至る事、九条大相国信長公の外惣じて先蹤なし。大将にあらね共、兵杖を賜て、随身を召具して、執政の人の如し。輦車に乗て宮中を出入す、偏に女御入内の儀式也。太政大臣は、訓導
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之礼重く儀刑之寄深ければ、地勢大といへ共、賢慮不足者、無当其仁、雖天才高、政理不明者猶非其器、非其人黷べき官にあらざれど(有朋上P022)も、一天の安危由身、万機の理乱在掌ければ、不及子細。親子兄弟、大国を賜り、兼官重職に任じける上、三品の階級に至るまで、九代の先蹤を超、角栄けるをゆゝしき事と思し程に、清盛仁安三年十一月十一日、歳五十一にて重病に侵され、為存命忽に出家入道す、法名は浄海なり。其験にや宿病立どころに愈て、天命を全す。人の従ひ付事は、吹風の草木を靡すが如く、世の普く仰ぐ事、ふる雨の国土を潤に異ならず。されば六波羅殿の御一家の公達と云てければ、花族も英才も、面を向へ肩を並る人なかりけり。太政入道の小舅に、平大納言時忠卿の常の言に、此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被申ける。斯りければ、如何なる人も、相構て其一門其ゆかりにむすぼほれんとぞしける。
〔昔〕呉王好剣客、百姓多瘢瘡、楚王好細腰、宮中多餓死、城中好広眉、四方且半額、城中好大袖、四方用疋帛、と云事あり。されば烏帽子のためやう、衣紋のかゝりより始て、何事も六波羅様と云てければ、天下の人皆学之随之けり。如何なる賢王聖主の御政をも、摂政関白の成敗なれども、何となく世にあまされたる徒者なんどの、謗り傾け申事は常の習ぞかし。されども此入道の世の間は、聊も忽緒に申者なかりけり。其故は入道の計ひにて、十四五若は十六七計なる、童部の髪(有朋上P023)を頸の廻に切つゝ、三百人被召仕けり。童にもあらず、法師にもあらず、こは何者の貌やらん、一色に長絹
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の直垂を著る時は、褐の布袴をきせ、一色に繍物の直垂を著時は、赤袴をきせ、梅の■の三尺計なるを、手もと白く汰て右に持、鳥を一羽づつ鈴付の羽に赤符を付て、左の手にすゑさせて、面々にもたせて明ても暮ても遊行せしむ。是は霊烏頭のみさき者とて、大会宴の珠童を学れたり。又、耳聞也。もし浄海があたりに意趣あらば、忽緒に云者あるべし、其者をば聞出して申も上よ、相尋んとの給ければ、京中の条里小路、門々戸々耳を峙、思も思はぬも其あたりの事を云をば、聞出し申ければ、咎なきあたりをも多損じけり。最冷くぞ在ける、不祥とも愚也。入道殿の禿と云ければ、京中には又もなき高家の者也。九重白川の在家人多く大事をして、子孫を禿に入ければ、三百人洛中に充満たり。世を■る馬牛車、宜輿車も道をよきてぞ通りける。適路次に逢輩は、御幸行幸に参会たる様にて、手をつき腰をかゞめ、走のきてぞ過行ける。禿が申事をば、善悪を糺さず、入道許容し給ければ、上下万人是に追従して、善も悪も平家の事をば云ず。又禿に悪しと思はれたる者は、入道殿に讒せられて、咎なくして多く損する者も有けり。おち\も内々は此禿の体こそ心得ね、縱京中の耳聞の為成(有朋上P024)挿絵(有朋上P025)挿絵(有朋上P026)とも、只普通の童にてあれかし、必しも汰へらるゝ事よ、又一人も闕れば、入立てて三百人をきはめらるゝも不審也。梅の■鳥のもち様、何様にも存ずる子細おはすらん、昔も是風情の例や有らんとぞ私語ける。或人の申けるは、本朝に例なし、漢家に八葉大臣と云ける人、天下無双の賢臣にて、忠を賞し罪を憐事、堯舜の政化にも不異、依之今の如く禿童を多そろへて、金帰鳥と云鳥を持せて、
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国々巷々に放立て仰含て云、国広民多して、万人の愁歎難及天聴歟、聞出すに随て奏せよ、直に召行はんと有ければ、愁を残す者もなく、恨を含者もなし。国豊民悦、政徳海内に及ぼしけり、されば是をば善者の童と名付といへり、今の禿童は事に触て歎き、物の煩ありければ、悪者の童と云つべし、漢家本朝、上古末代、善悪には替れ共、権威は実に不劣ぞ有ける、入道福原に御座ける時は、賀茂大明神禿に現じて、三百人に打まぎれて御近習に有けり、何れ今の童やらん、本の禿やらん、恐しかりける事也。又九条殿の御物語とて人の語けるは、異国にもさる例ありけり、漢の孝平帝の代に王莽と云ふ大臣あり、位を貪らん為に、計を廻す事は、海人に誂へて幾千万ともいはず亀を捕集めて、甲の上に勝と云文字を書て、浦々に放ち、銅にて馬と人とを造て、近国の竹のよを透して多入之、其後姙て(有朋上P027)七月になる女を三百人召集めて、朱砂を煎じて、謾薬と云薬を合てこれを呑しむ、月満て生たる子皆色赤して、偏に鬼の如し、彼赤き童を人に知せずして、深山に籠て是をそだつ、成長する間に、歌を作教て云、亀の甲の上に勝と云文字あり、竹のよの中に銅の人馬あり、王莽帝位を継で可治天下験也と歌て、十四五計の時、髪を肩の廻りにそぎまはして、都へ出して三百人拍子を打て同音に歌けり。此景気に驚て、帝に奏聞す、則彼童べを南庭に召れたり、うたふ事如前、孝平帝恠て、有公卿僉議、歌の実否をたゞさんが為に、浦々の海人に仰せて亀を取見、竹林に入て人馬を取出す、聊も歌に不違とて、帝位を王莽に授給けり、天下を治て僅に三箇年、終には亡にき。
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されば入道も此事を表して、三百人を召仕、位を心に懸て、角や有とぞ語ける。何様にも名聞の至り歟、天狗之所為にやとぞ私語ける。昔唐に弘農の楊玄■が女に、楊貴妃と云美人ありき。玄宗皇帝に召て、寵愛類なかりけるあまり、叔父昆弟皆清貫につらなり、姉妹国夫人に封じて、富王室にひとしく、車服大長公主に同じかりければ、禁門を出入する時に、名姓を不問、京師の長吏是が為に目をそばめたりと云事あり。彼れ久しからずして亡にき。是直事にあらずとぞ覚たる。清盛我身の栄花をきはむるのみに非、子孫の(有朋上P028)繁昌は龍の雲に昇るよりも速也。男は各誇官職、女子は取々に幸しけり。長男重盛内大臣の左大将、二男宗盛中納言の右大将、三男知盛三位の中将、嫡孫維盛四位少将、家門の繁昌子孫の栄花、類もなく例もなし。凡一門の卿相雲客、諸国の受領衛府諸司、惣じて六十余人なり、百官既に半に過たり、世には又人なしと見たり。日本は是神国也、伊弉諾伊弉冊尊の御子孫国の政を助給ふ。昔天照大神、邪神を悪み給ひて天岩戸に籠らせ給たりしかば、天下禿く闇にして、人民悲み歎しに、御弟の天児屋根尊八万四千の神達を相語ひ、岩戸の御前にして様々祈申させ給たりければ、日神再び天下を照し、人民大に悦けるに、天照大神、児屋根尊に仰合せて云く、我子孫は此国の主として万人を憐れまん、汝が子孫は臣下として国の政を助よと依有御約束、御裳濯河の御流、海内を治め御座し、春日明神の御子孫、朝の政を輔給へり。されば摂政関白の御末の外は、輙く官職を諍べきにあらず。就中天平十二年正月、始て以参議兵部卿藤原豊成
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卿中衛大将を置る。宝亀四年、大納言中務卿藤原魚丸、初て兼近衛大将、大同二年四月、改近衛府左近府とし、中衛府を以て右近府とせしより以来、兄弟左右に相並例、僅に四箇度也。文徳天皇御宇、斎衡元年に、左に忠仁公良房、冬嗣公二男西三条右大臣良相(有朋上P029)公、同五男朱雀院御宇、天慶八年に、左に清慎公実頼、貞信公一男右九条右大臣師輔公、同二男後朱雀院御宇、寛徳二年、左に大二条関白教通公、御堂の二男右に堀河右大臣頼宗公、同三男二条院御宇、応保元年、左に中山関白基房公、法性寺関白二男右に後法性寺関白兼実公、同三男相並給へりき、是皆節禄の臣の公達なり。凡人にとりて無先例、偏に官位を重んじ、賢才を選し故なり、況昔は殿上の交りをだに嫌れし人の子孫ぞかし。今は禁色雑袍をゆり、顕職温官を経て父子丞相の位に至り、兄弟将相栄を並たり。末代といへ共、不思議なりし事共なり。政道忽に乱れ、官途こゝに廃るゝ歟、是は偏に大威徳明王の御利生にやと覚たり。世には不敵の者も有けり。入道の宿所六波羅の門前に、札を書て立たりけるは、
伊予讃岐左右の大将かきこめて欲の方には一の人哉 K003 (有朋上P030)