『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四
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爾巻 第四
S0401 鹿谷酒宴静憲止御幸事
新大納言成親卿は、日比内々相語輩偸に催集て、鹿谷に衆会し、一日酒宴して軍の評定あり。法皇も忍て御幸有べかりけるが、故少納言入道信西の子息、静憲法印を召て、此事を被仰含けり。法印は、努々不可思食寄御事也、伏羲神農の聖人たる、猶瓊樹根を別にし、軒轅虞舜の明王たる、又玉体種を分つ、夏殷周晋春の花、芬馥気種々に含、梁陳隋唐の秋の月、清光区に朗也。夫天下を治事如此。況や君は忝も地神五代の御苗裔を受させ御座して、人皇億歳の宝祚を踏給へり。逆臣背き奉らば、忽に天罰を蒙て、兵略を廻らかさずと云共、自滅亡せん事疑あらじ、日月為一物不暗其明、明王為一人不曲其法と云事侍り、成親卿一人が勤によつて、万人悩乱の災を致さん事、豈天地の心に叶はんや、全政道有徳の基に非ず、こは浅増き御企也と、大に諌申ければ、法皇の御幸は無りけり。鹿谷には軍の評定の為に、人々多集て一日(有朋上P102)挿絵(有朋上P103)挿絵(有朋上P104)酒盛しけり。多田蔵人が前に杯の有けるに、新大納言青侍を招て私語給へり。青侍まかり立て、程なく長櫃一合、縁の上に舁居たり。尋常なる臼布五十端取出して、蔵人が前に積置せて大納言日けるは、日比談義申侍つる事、大将軍には一向に奉憑、其弓袋の料に進ずる也、今一度候ばやとぞ強たりける。蔵人居直り
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畏て、三度呑て、布に手打係て押除たれば、郎等よつて取之。其後押まはし/\、得たり指たりする程に、既晩に及ぶ。庭には用意に持たりける傘をあまた張立たり。山下の風に笠共吹れて倒ければ、引立々々置たる馬共驚て、散々に駻踊、食合踏合しければ、舎人雑色馬をしづめんと、庭上々を下へ返て狼藉也。酒宴の人々も少々座を立けるに、瓶子を直垂の袖に懸て頸をぞ打折てける。大納言見之、戯呼事の始に平氏倒侍りぬと被申たり。面々咲壺会也。康頼突立て、大方近代あまりに平氏多して持酔たるに既に倒亡ぬ、倒たる平氏頸をば取に不如とて、是を差上て一時舞たり。さて取たる首をば可懸也とて、大路を渡すと云て、広縁を三度廻し、獄門の樗木に係と名て、大床の柱に烏帽子懸につらぬきて結付けたり。土の穴を堀て云事だに漏と云、まして左程の座席にて加様にや有べきと後おそろし。石に口すゝぎ流に枕すと云事有と思者は、偸に座を起つ人もあ(有朋上P105)りけるとかや。北面は白川院御宇より被始置、衛府共あまた在けり。為俊守重童部より、千寿丸今犬丸とて切者にて侍けり。鳥羽院御時は、季範季頼父子共に、近奉被召仕伝奏する折も有けり。去ども皆身の程を計てこそ振舞けるに、此御時の北面の下臈腹共は、事の外に過分にて、公卿殿上人をも物共せず、無礼義。理や下北面より上北面に移り、上北面より殿上をゆるさるゝ者も有ければ、驕れる心も有ける也。其内故少納言入道信西のもとに、師光成景と云者あり。成景は京の者小舎人童太郎丸と云けり。師光は阿波国の者、種根田舎人也けり。童部より常に召具しけるが、院御所にて信西御前に候
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けるに、天台の不思議共御尋有けるに、折節廃亡して演得ざりければ、如何して御前を立べきと、身体苦く思煩たる心地色に、顕て在ければ、童是を遥見危て、沓脱、近居寄て高かに、御内より御召有て、御使三箇度参り如何と云たり。信西得たる折節とて罷出ぬ。如何にと尋ぬれば、童答て云、御座を起ばやと思召御気色の見させ給へば、自が虚誕也と申。信西打頷許て、神妙々々と感ず。喩へば紅山に入て道を失へりしに、牛童に教へられて都に入、所望を遂と、銀心大臣が書る筆も、今被思合と感じて、烏帽子をたび、恪勧者なんどに仕けるが、両人勒負尉になさる。事にふれて賢々しかり(有朋上P106)ければ、院の御目にも懸進せて被召仕けり。師光は左衛門尉、成景は右衛門尉とぞ申ける。信西平治の乱に討れし時、二人共に出家して、左衛門入道は西光、右衛門入道は西景とぞ申ける。二人ながら御蔵の預にて、猶被召仕けり。其西光が子息に、近藤左衛門尉師高きり者也ければ、検非違使五位丞まで成て、安元元年十一月廿九日に、追儺の除目に加賀守になる。国務を取行間、様々の非法非礼張行之余、神社仏寺の御領、権門勢家の庄園を倒し、散々の事共にてぞ有ける。縦召公が跡を伝と云とも、穏便の政を行べきに、心の儘に振舞し程に、
S0402 涌泉寺喧嘩事
目代師経在国の間、白山中宮の末寺に、涌泉寺と云寺あり。国司の庁より程近き所也。彼山寺の湯屋にて、目代が舎人、馬の湯洗しけり。僧徒等制止して、当山創草より以来、いまだ此所にて牛馬の湯洗無先例と云けれども、国は国司の御進止なり、誰人か可奉背御目代とて、在俗不当の輩、散々の悪口に及んで更に承引せざりければ、
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狼藉也とて涌泉寺の衆徒蜂起して、目代が馬の尾を切、足打折、舎人がそくびを突、寺内(有朋上P107)の外へ追出す。此由角と馳告ければ、目代師経大に憤て、在庁国人等を駈催して、数百人の勢を引率して、彼寺に押寄て不日に坊舎を焼払。懸ければ北の四箇寺に、隆明寺、涌泉寺、長寛寺、善興寺、南四箇寺に昌隆寺、護国寺、松谷寺、連花寺、八院の衆徒等会合して、使者を中宮へ立たりけり。別宮佐羅中宮、三社の衆徒、急下て一になる。岩本、金剣、下白山三宮、奈谷寺、栄谷寺、宇谷寺三寺四社の大衆も馳集りて同意しけり。時刻を廻すべからず、目代師経を誅罰すべしとて、七月一日数百人の大衆喚て庁へぞ押寄ける。師経は涌泉寺焼失の後、僻事しつと思つゝ、忍て京へ逃上たりければ、庁には人こそなかりけれ。八院三社の衆徒の張本に、智積、覚明、法台、金台、学円、仏光寺の宗人の大衆三十余人、三寺四社の衆徒等相具して、其勢二千余騎、国分寺に衆会して、評定あり。目代逃上ぬる上には、国にして左右すべきに非ず、本山に訴へて、師高師経を可断罪也とて、子細を録して寺宮六人を差上て、山門に訴詔しけり。大衆此事を聞、本社白山の事ならば左も有なん、彼社の末寺也、許容に及ずとて其沙汰なし。寺官等力なくして、十一月の比国に下る。衆徒会合して云、理訴を極ずして下向の条謂なし。山門にてこそ、火にも水にも成べけれとて、重て又追上す。寺官山上に越年して、(有朋上P108)谷々坊々に訴れども不事行、此由かくと申下たりければ、又八院三社の大衆、三寺四社の衆徒、不日に衆会して僉議して云、謹で白山妙理権現の垂跡を尋奉れば、日本根子高瑞浄足姫御宇、
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養老年中に鎮護国家の大徳神、融禅師行出し給て、星霜既に五百歳に及で、効験于今新なり。日本無双の霊峯として、朝家唯一の神明也。而を目代師経程の者に、末寺一院を被焼亡て、非可黙止、此条もし無沙汰ならば、向後の嘲不可断絶、
S0403 白山神輿登山事
糾断遅々の上は、神輿を本山延暦寺に奉振上、訴申さんに、大衆定贔負せられば、訴訟争か不達、若目代師経に被狂て、理訴非に被処者、我寺々に跡をとゞむべからずと議定して、各白山権現の御前にして、一味の起請を書灰に焼て、神水に浮て呑之、身の毛竪てぞ覚ける。さらば何をか期すべき、奉出とて、白山七所の其中に、佐羅の早松の御輿を奉飾、本地は不動明王、悪魔降伏忿怒形、賞罰厳重の大明神也。安元三年正月三十日辛未日、吉日也とて、御門出あり。同二月五日丙子を吉日として、早松の社より願成寺へつかせ給ふ。御共の大衆一千余人、皆甲冑を帯して是を晴とぞ出立たる。六日は仏(有朋上P109)が原、金剣宮へ奉入。此明神と申は、嵯峨天皇御宇、弘仁十四年に、此所に奉祝て三百五十余年也。本地は倶梨伽羅不動明王也、魔王と威勢を諍て、邪見の剣を呑給ふ。当社に両三日の逗留あり。衆徒も神人も念珠を揉、手を叩て、帰命頂礼、早松金剣両所権現、本地垂跡力合せ、思を一にして、速に師高、師経を召捕給へと、口々に咒咀しけるこそ恐しけれ。同九日留守所より牒状あり。使には橘次大夫則次、田次大夫忠俊也。彼状云、留守所牒、白山中宮衆徒之衙まらうとい
欲早被停止衆徒之参洛事
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牒衆徒載神輿、企参洛、擬致訴訟之条、非無不審、依之差遣在庁忠俊、尋申子細之処、就石井法橋之訴詔、令参洛之由返答之趣、理豈可然、争依小事可奉動大神哉、若為国司之御沙汰、可被裁許者、速賜解状、可申上也、仍察状以牒。
安元三年二月九日 散位財朝臣
散位大江朝臣
散位源朝臣各在判
とぞ書たりける。衆徒の返牒状云、(有朋上P110)
白山中宮大衆政所返牒 留守所衙
来牒一紙被載送、神輿御上洛事
牒、今月九日牒状同日到来、依状案事情、人成恨神起嗔、神明与衆徒鬱憤和合、而既点定吉日、早進発旅宿、人力不可成敗、冥慮輙不可測矣、仍返牒之状如件。
安元三年二月九日 中宮大衆等と
書すてて、同十日金剣宮を出し奉てあはづへ著せ給ふ。十一日には須河社、十二日には越前国細呂宜山の麓、福龍寺森の御堂へ入せ給ふ。今日神人宮仕此彼より参集て、御伴の人数九千余人、在々所々に充満たり。是に留主所より神輿を留め奉らんために、在庁の中に糾の二郎大夫為俊、安二郎大夫
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忠俊二人、所従眷属五十余人相具して追ける程に、野代山にて馳附たりけるが、坂中にて馬を倒て、足を折、目くれ腰直などしければ、これ直事ならずとて、八丈二尺御幣衣に進て、跋行留主所へ帰にけり。見之大衆も神人も、冥慮憑く思ければ、各勇て進上、十三日には木田河の耳、十四日には小林の宮、十五日にはかへるの堂、十六日には水津の浦、十七日には敦賀の津、北の端、金が崎の観音堂へ奉入。路次の煩衆徒の憤、山上洛中不斜。当時の貫首明雲僧正と申すは、(有朋上P111)久我太政大臣雅実の御嫡子、六条源大納言顕通の御子也。白山の神輿登山の事、可奉禦留之由、院宣を被下之間、貫首の御沙汰として、門跡の大衆二十人に被下知之間、衆徒、院宣並寺牒を帯して、本寺の専当千仁金力等を先として、同十九日敦賀津に下て、寺牒を披露し、奉留神輿。其状云、
延暦寺政所下、 加賀馬場先達神人等
可早止上洛儀待御裁下事
右近日住僧神官等、捧神輿企上道之旨、在其聞、甚以不可然、相当仙洞熊野参詣之折節、訴訟奏聞無便、就中件訴、貫首度々雖有沙汰、其後成敗自然遅引、重可有御沙汰也、而此間無左右企上洛者、雖有狼戻勘発、更無訴訟裁判歟、忽任自由者、定及後悔歟、云先達云、神人閑廻随分之思案、可存向後之安堵宜承知、止参洛之状以下。
安元三年二月日 小寺主法師琳海
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都維那大法師
寺主大法師(有朋上P112)
上座大法師
修理別当法眼和尚位
とぞ書たりける。中宮の衆徒僉議して云、且は本山の大衆、上下三百余人下向あり、且は制止の寺牒到来せり、先捧返牒、且く可待裁許とて注状云、
請謹延暦寺御寺牒まらうといやまと
被載下可止白山神輿上洛事
右当山権現者、掛忝天神元初之、国常立尊之、為守実祚、垂迹于我朝、為弘仏法、濫觴于此砌也、依之代々聖主、帰妙理大菩薩之効験、世々臣公仰神融小禅師之徳行、爰為目代師経、焼払涌泉一寺、没倒寺社料所之間、以去年十月之比、欲企推参蒙裁許之処、被下宣命並御下文云、冥侍聖断仰上載於鬱訴、相賂者可言上子細云々、仍以同十一月、雖差専使致訴詔、于今無御裁報、而空送年月畢、倩案事情、白山妙理権現者、雖有敷地、併山門三千之聖供也、雖有兎田、又当任没倒、非神物、故只有名更無実、是以恒例之神事仏事、此時既断絶、以往之八講、三十講、今正及闕退、随而近来無有参詣、再拝之輩、不見帰敬奉幣之頴、大悲
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和光之素意難(有朋上P113)測、三所垂迹之玄応失憲歟、云寺僧云氏人、歎冥威之陵怠、非権迹之衰微、而奉戴神輿、所企推参也、痛哉神明閉扉、不見星宿之光、哀哉往侶迷道、永忘後栄之思、五尺之洪鐘、徒侍響於松栢之風、六時之行法、空任声於紫蘭之嵐矣、但慮神明之冥覧、定不可失徳、人倫之迷情争可知霊応、早示現将来之吉凶、託宣当時之眉目給江登社僧、一心合掌、神女三業、低頭而致祈誓之処、人恨融于神、神嗔通于人、依有夢想之告託宣之聞、憑神託驚示現、暫不顧本寺之厳制、既奉動末社之神輿畢、雖然任御寺牒之趣、奉相待裁報之左右所、抑留神明之上洛也、仍返牒言上如件、
安元三年二月廿日 中宮衆徒等請文
とぞ書上たる。此上は山門の衆徒登山しぬ、其後神明の旅宿、訴詔の遅怠、心元なしとて、中宮の大衆の中に、智積、覚明、仏光等の骨張の輩六人、同二十八日に坂本につき、同二十九日に登山して、西塔院谷、千光院の助公貞寛がもとを宿房として、子細を訴申間、貞寛満山三塔に披露しければ、大衆度々蜂起して衆議する処に、三月九日被下院宣云。(有朋上P114)
加賀国温河焼失事
右非白山々門之末寺之由、在庁雖令申、大衆強訴申由、依令申給、目代師経可被行罪科。抑依大衆之語号末寺、致無道濫訴、恣動神輿、欲企参洛、悪僧張本二人、南陽房明恵聖道房坐蓮 慥令召
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進、可被尋問子細者也、依御気色上啓如件。
三月九日 右京大夫泰経
謹上、山座主僧正御房とぞ有ける。寺官依貫首の御下知、一山三院に披露しけれ共、是を用ず、則其夜大講堂の庭に三塔会合して僉議して云、上之為上依下之崇敬、下之為下守上之威応、千里駒非毎不行、揚宝雀離母不飛云事あり。然者末寺の訴詔不可疎、末寺の僧侶不可苟、末寺として既に本山を憑、本山争末寺を棄ん。就中神輿旅宿に御座、空本社に還御あらば、白山面目を失、神慮尤難測、早本末力を一にして、神輿を迎え奉り、仏神威を垂給はば、豈無裁許哉と云ければ、尤々と同じけり。仏光以下の輩悦て、十一日に山を立て、十二日に敦賀津に著。僉議の趣披露しければ、白山の衆徒等勇悦で、十三日に神輿を奉出、荒智の中山立越て、海津の浦に著給ふ。是より御舟に召て海上に浮給へり。或は浜路を歩大衆もあり、或は波路を分る神人もあり。比
(有朋上P115)叡辻の神主が夢に見たりけるは、戸津比叡辻の浦に、いみじく飾尋常なる船七艘有、日中なるに篝を燃す。舟ごとに狩衣に玉襷あげたる者の、北へ向て舟を漕。いかなる人の御物詣ぞと問ば、白山権現の神輿の御上洛之間、御迎にとて山王の出させ給御舟也と申。角云者の姿をみれば、身は人、面は猿にてぞ有ける。打驚たれば汗身にあまれり。不思議やと思立出て、四方を見渡せば、此山より黒雲一叢引渡、雷電ひゞきて氷の雨ふり、能美の山の峰つゞき、塩津、海津、伊吹の山、比良の裾野、和爾、片田、比叡山、
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唐崎、志賀、三井寺に至まで、皆白平に雪ぞ降。十四日の子時には、客人の宮の拝殿へ奉入。客人の神明は、金の扉を押開、早松の明神は、錦の帳を巻揚て、御訴詔の有様御物語もや有らんと身の毛竪てぞ覚ける。三千の衆徒踵を継、礼拝袖をぞ列ける。係ければ、山門大衆奏状を捧て、国司師高を被流罪。目代師経を可被禁獄之由度々奏聞に及けれ共、更に御裁許なかりけり、太政大臣已下さも可然公卿殿上人、哀とく御裁許有べき物を、山門の訴詔は昔より也に異也、大蔵卿為房、太宰師李仲卿は、朝家の重臣也しか共、大衆の訴詔に依、被流罪き。況師高、師経等が事は、物の数にや有べき。子細に及ぬ事也と、内々は私語申けれ共、言に顕て奏聞の人なし。理や大臣重禄不諌、小臣(有朋上P116)畏罪不言、下の情不通上、此患之大也と云事あり。去ば各口をぞ閉たりける。後朱雀院御宇、長暦年中に、宇治関白頼通公の吹挙に依、三井の明尊僧正、天台座主に被補之時、山門の衆徒関白殿に訴申刻、衆徒と軍兵と忽に動乱及けり。此事の張本と号して、頼寿、良円両僧都罪名を被勘ける程に、主上御悩の事あり。様々御祈有けるに、山王託宣して云、吾は是悪霊に非、死霊に非、根本叡山の主也、内一乗の教法を味て寿とし、外に三千の僧侶を養て子とする神也。去し春、山僧等不慮の殃にあへり、此事訴申さん為に、玉体に奉近付也とありければ、即頼寿良円が罪名を被宥つゝ、様々の御をこたり申させ給けり。白川院は賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕心に随ぬ者と、常は仰の有けるとぞ申伝たる。
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鳥羽院御時、平泉寺を以、園城寺へ被付由、其聞え有しに、山門の衆徒騒動して、奏状を捧て訴申、非拠之乱訴也けれ共、院宣には帰依不浅、遂に以非為理所被裁許也とぞ被仰下ける。堀川院御宇、寛治四年に大蔵卿為房を哀みさゝへさせ給けるに、江中納言匡房被申けるは、三千の衆徒、七社の神輿を陣頭に奉振訴申さん時、君はいかゞ可有御計と奏申ければ、実に難黙止事也とぞ仰ける。同帝御宇、嘉保二年に伊予入道源頼義が子に、美濃守義綱朝臣、当国の新立の庄(有朋上P117)を倒しける故に、事出来て山門の久往者円応被殺害けり。此事訴申さん為に、同十月廿四日、山門衆徒社司寺官等を以捧解状、卅余人下洛之由風聞あり。武士を川原へ被差向て禦けれ共、押破て陣頭へ参。中宮大夫師忠が申状に依、時の関白師道後二条殿、中務丞頼治と云侍を召て、只法に任て可禦也と仰含られければ、頼治承て興有事に思散々に禦。疵を蒙る神民六人、死する者二人、禰宜友実が背に矢立ける上は、社司も寺官も四方に逃失にけり。神慮誠難測ぞ覚ける。猶子細を為奏聞とて、一山僧綱等下洛しけれ共、武士を西坂本へ差遣被禦しかば、空く帰登。同廿五日に大衆大講堂の庭に会合僉議して云、我山は是日本無双の霊地、国家守護の道場也、而子細奏聞の使をば被追返、寺官社司は被射殺ぬ、此上は当山に跡を止て何にかせん、中堂講堂已下諸堂、大宮二宮以下の諸社灰燼と成て、各有縁の方へ赴べしとて、三千の枢を閉修学の窓を塞離山しけるが、最後の名残を
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惜み、三山の参詣を遂、伽藍の御前に跪きては、叡慮の恨しき事を申、横川の御■に参ては、離山袖をぞ絞ける。角て三千の衆徒東坂本に下七社の宝前にして、真読の大般若あり。社々にて申上有ける内、八王子の御前にて、仲胤法印いまだ供奉にて御座けるが、啓白の導師として高座に上り説法して、教化の詞に云、菜種(有朋上P118)の竹馬の昔より、生立たる友実と知ながら、蒸物に合て腰絡し給殿に鏑矢一放給へ、大八王子権現とぞ申ける。其上禰宜友実を八王子の拝殿に舁入て、社官神女等手を拍声を挙て、関白殿を呪咀しけるこそ、聞も身の毛竪けれ。山王慥聞食入させ給けるにや八王子の御神殿より、鏑箭鳴出て、王城を指て鳴行とぞ、諸人の耳に聞えける。係りければ大衆は神明も力を合給にこそとて、離山を止て七社の神輿を荘奉て、根本中堂振上奉り、関白殿を咒咀しけるこそ恐ろしけれ。神輿の御動座是ぞ始也ける。権中納言匡房は、和漢の才幹世にゆるされ、廉直の政理に私なき人也。此事大に歎申給へり。師忠悪様執申さずは、関白御憤あらんや、関白頼治に下知し給はずば、神明御恥に及給ふべしや、讒臣乱国といへり。為世為人に哀亡国の基かなとぞ宣ける。去程に関白殿御夢御覧じけるこそ恐ろしけれ。比叡大岳頽割て、御身に係ると覚え、打驚給て浅増と思召処に、又うつゝに東坂本の方より鏑矢の鳴り来つて、御殿の上に慥に立とぞ被聞召ける。即青侍を以て、被見ければ、寝殿の狐戸に、しでの付たる青榊一本、立たりけるこそ不思議なれ。関白殿は夢も現も山王の御祟、恐ろしく被思召ける程に、御髪際に悪瘡出来させ給へりと披露あり。牛馬巷に馳違、輿車門前に多し。(有朋上P119)
S0404 殿下御母立願事
父の大殿、御母儀、北政所の御歎不斜、かた/゛\御祈始らる。一■手半の薬師
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如来像、延命菩薩像各一体、又等身薬師一体、造立供養あり。日吉社にして、千僧供養あり。又同社壇にて、十箇日の千座千僧の仁王講被行、又一切経並金泥の法華経書写供養あり。澄禅法印を以て被啓白。又根本中堂にして、薬師経転読あり。其外諸寺諸社にして、貴僧高僧に仰て様々御祈有ける上に、■■■■の類、金銀幣帛の賁り、神社仏寺に被送進けれ共、御心地いよ/\重くならせ給ければ、又丈六の薬師七■、阿弥陀如来一体造立あり。除病延命の御祈は、御志を尽し御座けれ共、更に御験なし。父京極の大殿、憑なき御有様を御覧じて、二紙の願書をあそばして、日吉社にて可被啓白之由仰て、天台座主へ被送進。其願書に云、日吉社にて臨時の祭を居、百番の御子の渡物、百番の一物、百番の流鏑馬、百番の競馬、百番の相撲、廊の御神楽、三千人の衆徒に、毎年の冬衣食の二事十箇年連いて可送と也。され共いよ/\重らせ給ければ、御母儀北政所忍て御参社有て、七箇日御参篭あり、三の御願を立給へり。是をば人知ざり(有朋上P120)けり。出羽の羽黒より上たる身吉と云童御子の篭たりけるが、十禅師の御前にて、俄に狂出て舞乙でけるが、暫有て死入けり。何者ぞ門外へ舁出せと云けるに、事の様を見よとて、大庭に舁居て守之。やゝ在て走出で舞乙、人奇特の思を成処に、汗押拭申けるは、衆生等慥にきけ、我には十禅師権現乗居させ給へり。我御前には摂禄の御母儀、大殿の北政所、七箇日御参篭有て、心中に三の御願あり、摂禄山王の御とがめとて、親に先立て世を早し給はんとす。今度の命を助させ給候はば、一には八王子の御前より二宮楼門まで、渡廊
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造連て可進。大衆参社之時、雨露之難を除かんため也。二には五人の姫君に御前にて、芝田楽躍せて、可奉見と也。此事こそ哀に思食せ、女御后にもといつきかしつき、玉簾錦茵に労奉て、あたにも出入給はぬ姫君達を、一人の子の悲さは、角思召こそ糸惜けれ。三には自都の住居を捨て、御輿の下殿に候ふ。宮篭に相交て、唐崎より白砂を千日運て進せんと也。太政大臣家の北政所として、此態已に命を捨給程の御事也。此三の御願は、七社権現の外に人不知之、真に争知べき。親子の眤恩愛の情こそ神慮も悲思食とて、左右の袖を顔に当て、はら/\とこそ泣たりけれ。暫有て、母の子を思ふ志、助ばやと思召ども、世に安かりし訴詔を大事に成、所司(有朋上P121)社司射殺され、山上山下叫声、我身の上の歎也。禰宜友実が頼治に被射たりし疵は、我身に立たる也、血出して見せんとて、肩を脱たりければ、背の中に疵あり。疵の中より血の出事夥し。此上はいかに祈申させ給共、助奉らんとはえ申さじとて、如元舞乙づ。参詣の道俗男女御子宮司、身の毛竪てぞ覚ける。北政所も忍て御身をやつし、宮篭の中に御坐けるが、つく/゛\聞食之悶絶して、地に倒もだえ■給けり。何習はせ給たる御事にあらね共、責の御子の悲さに、徒跣にて御足の欠損ずるをも顧させ給はず、御参有けるに、角聞召けん御心中、被推量哀也。心地観経に、悲母恩深如大海と説給へるも、今こそ被思知けれ。北政所は泣々又御心中に、一の願を立させ給けり。良久有て彼童神子申けるは、既に上らせ給はんとしつるに、北政所重て御心の底に、一の願を発給へり。長命までこそ叶はず共、半年一年也共、今度
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の命を助給へ、八王子の御前にて毎日法花講行て、法楽に備へんと也。此間様々の御願有といへ共、一乗の法味は飽思召事なし、聞ども/\弥めづら也。何の願よりも目出ければ、三年の命を奉る、其後は我を恨と思召な、必死決定とて権現上せ給にけり。北政所御所に帰入せ給て、此御物語有ければ、上下万人身の毛立てぞ覚ける。御託宣聊もたがはせ給はず、御腫物(有朋上P122)いへさせ給て、御心地本復せさせ給ければ、紀伊国田中庄は、殿下渡庄也けれ共、八王子に御寄附あり。依之問答講とて今に退転なし。其後中二年有て、承徳二年六月廿一日に、関白殿本の御髪際に又悪瘡出きさせ給へり。兼て御託宣有しかば、今は一筋に後世の御営有けるが、同廿八日に、大殿に先立給て薨じ給ふ、御年三十八、未盛の御事也。京極の前大相国師実公の長男、御母は右大臣師房御娘也。才幹抜粋にして、容貌端正に御座し上、時の関白に御座しかば、百官袂を絞り、万庶悲を含り。まして父の大殿、北政所の御心中、たゞ推量べし。此御病は御髪際に出て、悪瘡にて大に腫させ給へり。御看病に伺候したる輩、立烏帽子を著て前後に侍けるが、互に見ぬ程に大に高腫させ給たれば、入棺可奉葬送御有様にも非。父の大殿是を守御覧じて、御涙に咽ばせ給ながら、御行水召れて、春日大明神を伏拝せ給て、子息師通山王の御咎とて世を早し候ぬ。いかに春日明神は、思食捨させ給けるやらん。但定業限あらん命、今は力及侍らず、かゝる浅間敷有様にて、恥隠べき様なし、此後の氏人々々たるべきならば、此姿を本の形に成給へ、最後の孝養仕んと、泣々口説給けるこそ哀なれ。御納受有けるにや、忽に御腫の
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しへさせ給て、入棺事畢にけり。関白殿のさこそ御心も猛、理つ(有朋上P123)よくゆゝしき人にて御座しか共、事の急に成けるには、御命を惜給けり、誠に惜べき御齢也。未四十にだにも成せ給はず、何事も先世の事と申ながら、親に先立せ給ふ御怨も哀也し御事也。されば昔も今も山門の訴詔は恐しき事也、大衆憤をなし、山王の衆徒を育御坐事難黙止と申伝たり。中宮大夫師忠、奸邪の詞を出さずは、かゝる大事にや及べき。江中納言匡房卿の大に被歎申けるも、思知るゝとぞ申あへりける。
関白殿薨去の後、八王子と三宮との神殿の間、磐石あり。彼石の下に、雨の降夜は、常に人の愁吟する声聞えけり。参詣の貴賎あやしみ思けり。余多人の夢に見けるは、束帯したる気高上臈の仰には、我はこれ前関白従一位内大臣師通也。八王子権現我魂を此岩の下に籠置せ給へり。さらぬだに悲、雨の降夜は石をとりて責押に依て、其苦み難堪也とて、石の中に御座とぞ示給たりける。星霜やう/\経程に、今は愁吟の音絶にけり。人の夢に、我久磐石の下に被籠置たりつれ共、長日の法華講経の功力に依、相助り、都卒天宮に生たりと告られけり。さてこそ磐石の重き苦の御音もなかりけれ。悪様に申勧まいらせたりける中宮大夫師忠も、幾程なくして失にけり。禰宜友実を射たりける中務丞頼治自害して、一類も皆亡けり。神明罰愚人とは此事にや、申すも中々疎也。(有朋上P124)
今年改元有て治承元年といふ。
S0405 山門御輿振事
治承元年四月十三日辰刻に、山門大衆日吉七社の神輿を奉荘、根本中堂へ振上奉、先八王子、客人権現、
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十禅師、三社の神輿下洛有。白山、早松の神輿、同振下奉、大岳水呑不動堂、西坂本、下松、伐堤、梅忠、法城寺に成ければ、祗園三社、北野京極寺末社なれば、賀茂川原待受て、力合て振たりけり。東北院の辺より神人宮仕多来副て、手を扣音調て、をめき叫、貴賎上下走集て之拝し奉る。法施の声々響天、財施の散米地を埋たり。一条を西へぞ入せ給ける。まだ朝の事なれば、神宝日に輝て、日月地に落給へるかと覚たり。源平の軍兵依勅命四方の陣を警固す。神輿堀川猪熊を過させ給て、北の陣より達智門を志てぞふり寄たてまつる。
源兵庫頭頼政は、赤地錦直垂に、品皮威の鎧著て、五枚甲に滋藤の弓、廿四指たる大中黒の箭負て、宿赭白毛馬に白伏輪の鞍置て乗、三十余騎にて固たり。神輿既に門前近入せ給ければ、頼政急下馬す。甲を脱弓を平め、左右の臂(ひぢ)を地に突。頭を傾け奉拝。大将軍(有朋上P125)角しける上は、家子も郎等も各下馬して拝けり。大衆見之子細有らんとして、暫神輿をゆらへたり。頼政は丁七唱と云者を招で、子細を含て大衆の中へ使者に立。唱は小桜を黄に返たる鎧に、甲を脇に挟み弓を平め、神輿近参寄、敬屈して云、是は渡部党、箕田源氏綱が末葉に、丁七唱と申者にて侍。大衆の御中へ可申とて、源兵庫頭殿の御使に参て侍。加賀守師高狼藉の事に依、聖断遅々之間、山王神輿陣頭に入せ給べき由、其聞有て公家殊に騒驚き思召、門々を可守護之旨、勅定を蒙て、源平の官兵四方の陣を固る内、達智門を警固仕、昔は源平勝劣なかりき。今は源氏においては無力如し。頼政纔に其末に残て、
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たま/\綸言を蒙、勅命背き難ければ此門を固むる計也。然共年来医王山に首を傾奉て、子孫の神恩を奉仰、今更神輿に向奉て、弓を引可放矢ならねば、門を開て下馬仕引退て神輿を可奉入、其上纔の小勢也、衆徒を禦奉るに及ず、此上は大衆の御計たるべし。但三千の衆徒神輿を先立奉り、頼政■弱の勢にて固て候門を、推破奉入ては、衆徒御高名候まじ、京童部が弱目の水とか笑申さん事をば、争か可無御憚。東面の北脇陽明門をば、小松内大臣重盛公、三万余騎にて固らる。其より入せ御座べくや候らん。さらば神威の程も顕れ、御訴詔も成就し、衆徒後代の御高名(有朋上P126)にても候はんずれ。角申を押て入せ給はば、頼政今日より弓箭を捨て、命をば君に奉、骸を山王の御前にて曝べしと申せと候とて、太刀のつか砕よと握らへて立たり。大衆聞之、若衆徒は何条是非にや及べき、唯押破て陣頭へ奉入と云けるを、物に心得たる大衆老僧は、さればこそ子細有らんと思つるにとて、奉抑神輿暫僉議しけり。
S0406 豪雲僉議事
其中に西塔の法師に、摂津竪者豪雲と云者あり、悪僧にして学匠也。詩歌に達して口利也けるが、大音挙て僉議しけるは、大内の四方門々端多し、強に北陣より非可奉入。就中彼頼政は、六孫王より以来、弓箭の芸に携て、代々不覚の名をとらず、是は其家なれば、いかゞせん、和漢の才人風月の達者、かた/゛\優の仁にて有なる者を、
S0407 頼雅歌事
実や一とせ近衛院御位の時、当座の御会に、深山見花と云ふ題給りて、
深山木の其梢共みえざりし桜は花にあらはれにけり K026(有朋上P127)
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と秀歌仕たりけるやさ男、さる情深き名仁ぞや。首を山王に傾て、年久掌を衆徒に合て降を乞、嗷々無情門々端多し、頼政が申状に随はるべき歟哉と■ければ、大衆尤々と同じて三社の神輿を舁返し、東面の北の端、陽明門をぞ破ける。此門をば重盛の軍兵ぞ固たりける。警固の武士は神輿入たてまつらじと支たり。大衆神人は陣頭を押破らんとしける程に、以外に狼藉出来て、官兵矢を放。其矢十禅師の御輿に立。神人一人宮仕一人射殺さる。蒙疵者も多かりけり。神輿に矢立神民殺害の上は、衆徒音を揚てをめき叫事夥し。見聞の貴賎も身毛立ばかり也。大衆は神輿を陣頭に奉振捨、なくなく本山に帰のぼりぬ。
抑豪雲と云は、二品中務親王具平七代の孫、民部大輔憲政が子也けり。訴詔の事有て、後白川法皇の御所に参す。折節法皇南殿に出御有て、御座いかなる僧ぞと御尋あり。山僧摂津竪者豪雲と申者にて侍と奏したり。法皇被仰下けるは、実や和僧は山門僉議者と聞召、己が山門の講堂の庭にて僉議するならん様に只今申せ、訴詔あらば直に可被裁許と、豪雲蒙勅定、頭を地に傾畏て奏しけるは、山門の僉議と申事は、異なる様に侍、歌詠ずる音にもあらず、経論を説音にも非、又指向言談する体をもはなれたり、(有朋上P128)先王の舞を舞なるには、面摸の下にて鼻をにかむる事に侍る也。三塔の僉議と申事は、大講堂の庭に三千人の衆徒会合して、破たる袈裟にて頭を裹、入堂杖とて三尺許なる杖を面々に突、道芝の露打払、小石一づつ持、其石に尻懸居並るに、弟子にも同宿にも、聞しられぬ様にもてなし、鼻を押へ声を替て、満山の大衆立廻られよやと申て、訴詔の趣を僉議仕に、可然をば尤々と同ず、不可然をば此条無謂と申、仮令勅定なればとて、ひた頭直面にては争か僉議仕べきと申上れば、法皇先与に入せ給、早々罷帰て山門
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にて僉議するらん様に出立て、急参て僉議仕れと被仰下。豪雲宿坊に帰て、同宿共には袈裟にて裹頭、童部には直垂の袖にて頭裹せて、三十余人引具して、御前の雨打の石に尻係て並居たり。豪雲己が鼻を押へて、大衆立廻られよやと云て、我訴訟の趣を、事の始より終まで一時が程こそ申たれ。同宿共兼て存知の事なれば、尤々と訴詔其謂あり、道理顕然也、早可被経奏聞、聖代明時之政化、争か無御裁許哉と申たりければ、法皇御興有て、則被仰付たりけるとかや。係者也ければ、さしもの乱の折節に、僉議して頼政難を遁たり。
蔵人左少弁兼光仰を承て、先例を大外記師尚に被尋ける上、院の殿上にて、公卿僉議あり。保安の例とて、神輿を祗園社へ可奉渡之由、諸(有朋上P129)卿各被申ければ、未刻に及で、彼社の別当権大僧都澄憲を召て、神輿を可奉迎入由仰含けり。澄憲畏つて奏申、我山は是日本無双之霊地、鎮護国家之道場也、我神は又和光垂跡之根元、効験掲焉之明神也、日吉の神威、異于他、山門の効験勝于世、恵亮脳を摧て、清和位に即給、尊意剣を振て、将門終に亡にき、神は又あくまで一乗の法味をなめて、感応風雲よりも速に、独百神の化導に秀、賞罰日月よりも明なり。
住吉明神託宣云、天慶年中に凶賊を誅する陣には、我大将軍にして、山王副将軍たり。康平年中の官軍には、山王大将軍として、我副将軍たりきと、依之代々の聖主、一山験徳を憑、世々の臣公七社の冥鑒を仰。神の神たるは、人の礼に依て也。人の人たるは神の加護に任たり。而を今度朝儀遅々の間、神輿入洛に及、尤恐思召べき事也、伝聞延喜帝の御宇に、飢饉疫癘起て、天下に餓死する者
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多し。帝民の亡るを歎思食て、我山に仰付て可祈止之由勅定あり、三塔会合して、僉議区也。雨を祈雨を降し、日を祈て日を輝す事、非無先例。而に普天の飢饉四海の疫癘、いかゞ有べきと云大衆あり。或云辞申せば勅命を背に似たり、領掌すれば先蹤なしといへ共、皇王を守護し、夷狄を降伏し、天災を除地夭を転ずる事、我山万山に勝たり。況閻浮提人病之良薬、若人有病得聞是経、(有朋上P130)病即消滅不老不死と説り。一乗法花を転読して、七社権現に祈誓せば、何どか勝利なからんやと云大衆あり。或云、七難を滅して七福を生じ、不祥を退、夭蘖を払はんが為に、仏護国の法を説給へり。然者仁王経を転読講尺此時に当れりと云ければ、此義最然べしとて、三千衆徒一七箇日、山上三塔の諸堂にして、一万部の仁王般若を転読して、供養を山王の宝前にて遂けり、飢饉に責られ疫癘に浸れて、親に後る子、恩徳の高き涙を流し、子を先立る親、哀愍の深き袖を絞る。兄弟夫婦互に別亡ければ、京中も田舎も、皆触穢にて社参の者なし。折節四月上旬にて、導師説法の終に、卯月は神の月なれども、再拝と云人もなく、八日は薬師の日なれども、南無と唱る声もせず、緋の玉垣地に倒、青葉の榊も不差けりとしたりければ、三千の衆徒一同に墨染の袖をぞ絞ける。神明御納受有ければ、則夜に帝の御夢想に、比叡山より天童二人下て、左手に瑠璃の壺を持、右の手に榊の枝を持て、榊を壺の水に指入て、京中辺土の病者に灑ければ、家々より青鬼赤鬼いくらと云数を知ず出て、さると叡覧あり。打驚御座て、朕が歎衆徒の祈、仏神に感応して、無為の代に成ぬるにこそと御感有て、説法の草案を被召、
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御衣の袖をぞ絞らせ給ける。いつしか民の煙もにぎはひ、烟絶せぬ御代に改たりければ、古歌を思食(有朋上P131)出て、
高きやに上てみれば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり K027
と、かゝる目出き我山也。係目出き垂跡也。下洛実不輙、衆徒の憤冥慮に通する時、神輿必入洛あり、急可有裁許哉。
S0408 山王垂跡事
凡山王権現と申は、磯城島金■宮、即位元年、大和国城上郡大三輪神と天降給しが、大津宮即位元年に、俗形老翁の体にて、大比叡大明神と顕給へり。大乗院の座主慶命、山王の本地を被祈申けるに、御託宣に云、此にして無量歳仏果を期し、是にして無量歳群生を利すと仰ければ、座主提婆品の我見釈迦如来於無量劫、難行苦行積功累徳、求菩薩道未曾止息、観三千大千世界、乃至無有如芥子許非是菩提捨身命処と云文に思合て、大宮権現ははや釈尊の示現也けり。されば我滅度後於末法中、現大明神広度衆生とも仰られ、汝勿帝泣於閻浮提、或復還生現大明神とも慰給けるは、日本叡岳の麓に、日吉の大明神と垂跡し給べき事を説給けるにこそと、感涙をぞ流されける。地主権現と(有朋上P132)申は、豹留尊仏の時、天竺の南海に、一切衆生、悉有仏性と唱る波立て、東北方へ引けるに、彼波に乗て留らん所に落付んと思食けるに、遥に百千万里の波路を凌て、小比叡の杉下に留らせ給けり、其後天照大神天の岩戸を開、天御鋒を以て海中を捜せ給しに、鋒に当人あり。誰人ぞと尋給ければ、我は是日本国の地主也とぞ答給ける、昔天地開闢の初の、国常立の尊の天降給へる也。此神日吉に顕給けるには、三津川の水五色の浪を流しけり。されば我朝は、大比叡小比叡とて大宮二宮の御国也。迹を叡山の麓に垂て、威を一朝の間に振、円宗守護之霊神、王城鎮護之霊社也。依之代々の
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帰敬是深、世々の崇信不浅、四海之甲乙掌を合、諸国之男女歩を運べり。
係目出き神輿を塵灰に蹴立て、白昼に雑人共に交奉り入奉らん事、其恐侍るべしと奏申たりければ、上一人より奉始、当参の卿相雲客、随喜の涙を流して、偈仰の袖を絞けり。仍及晩陰祇園社へ奉入、神輿に立所の矢をば、神人を以て抜せられけり。
山門の大衆訴詔を致す時、聖断遅々の間、神輿を下し奉事、度々に及べり。
鳥羽院御宇嘉承三年三月三十日、尊勝寺灌頂の事に依、二社八王子客人神輿、下松まで下給へり。可有裁許之由、即時に被仰下ければ、其夜御帰座、四月一日彼寺灌頂(有朋上P133)被付天台両門之旨、被仰下畢。
崇徳院御宇、保安四年七月十八日、忠盛朝臣、神人殺害事に依、三聖並、三宮奉下神輿。官軍川原に馳向禦間、神人等神輿を奉捨分散す。大衆数百人感神院に引篭て官軍と合戦に及。
同御宇保延四年四月廿九日、賀茂社領住人、日吉馬上対捍の事に依、八王子、客人、十禅師三社の神輿を仙洞へ、鳥羽院奉振。即時に裁許有ければ、大衆帰山の次で、鴨禰宜住宅を破却しけり。
近衛院御宇、久安三年六月廿八日、清盛朝臣郎従依神人殺害事、三社の御輿を陣頭に奉振。同日に忠盛可被配流之由、被仰下畢。
二条院御宇、永暦元年十一月十二日、菅貞衡朝臣息男資成、依有智山僧坊焼失事、三社の御輿を仙洞へ
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後白川院 奉振当日貞衡解官資成流罪、安楽寺住僧六人禁獄之由、右大弁雅頼を以て、大衆の中被仰下。大衆不日の勅裁を悦予して、倶舎頌を誦して帰山畢、やさしかりける事也。
高倉院御宇、嘉応元年十二月廿二日、尾張国目代政友、依平野の神人陵礫の事、三社の神輿を奉振大内、裁報遅々の間、御輿を南殿に向奉振居。同廿四日成親卿解官配流、備中国政友、禁獄之由被宣下畢。
神輿下洛の御事、代々及六箇度、毎度に武士を召て被禦けれ共、御輿に矢を進る事はなかりき。今度の御輿に矢の立事、乱国基歟、浅間しと云も疎也。(有朋上P134)人恨神怒れば災害必成といへり、天下の大事に及なんと、心ある者は上下皆歎恐けり。
四月十四日に、大衆なを可下洛之由聞えければ、夜中に主上腰与に召て、院御所法住寺殿へ行幸、内大臣重盛以下の人々、直衣に矢負て供奉せらる。軍兵御輿の前後に打囲て雲霞の如く也。中宮は御車にて行啓、禁中何と無く周章騒、男女東西に走迷へり。関白以下大臣公卿殿上の侍臣皆馳参りけり。聖断遅々の間、衆徒多矢にあたり、神人殺害に及上は、神輿の残四社を奉振下、七社の神殿、三塔の仏閣一宇も不残焼払、山野に交るべし、悲哉西光一人が姦邪に依て、忽に園融十乗の教法を亡さん事をと、三千の衆徒僉議すと聞えければ、当山の上綱を召て、可有御成敗之旨依被仰下、十五日勅定を披露の為に、僧綱等登山しけるを、衆徒嗔を成て、水飲に下向て追臨す。僧綱色を失て逃下。
S0409 師高流罪宣事
廿日
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加賀守師高解官、尾張国流罪由被宣下。上卿は権中納言忠親卿也。此宣旨を以、急登山して、山門騒動を可鎮之由仰けれ共、衆徒の蜂起に恐、登山せんと云人なし。平大納言(有朋上P135)時忠卿、其時は中納言にて御座けるが、本より心猛勇る人にて、乱の中の面目とや被思けん、侍十人花を折て装束し、雑色共人に至まで当色きせて出立給へり。山上には、時忠登山あらば、速にもとゞりを切、湖水にはめよなんど僉議すと聞り。時忠卿既に有登山。実に衆徒の嗔れる気色面を向べき様に非、只今可会事体也ければ、供に有つる侍も雑色も、大床の下御堂の陰に忍居たり。時忠卿は少も騒給はず、大講堂の庭に進出て、懐中より矢立墨筆取出して、所司を招硯に水入、畳紙に一筆書てぞ給たりける。所司状を捧て大衆の前ことに披露す。其詞に云、衆徒致濫悪者、魔縁之所行、明王加制止者、善逝之加護也とぞ書たりける。大衆各見之、理なれば不及引張、還優に書れたる一筆かなと、称美賛嘆に及落涙する衆徒も多かりけり。其後師高解官配流の宣旨を取出て披露あり。
今月十三日叡山衆徒、舁日吉社、感神院等之神輿、不憚勅制乱入陣中。爰警固之輩、相禦凶党之間、其矢誤中神輿事、雖不図、何不行其科、宣仰検非違使、召平利家、同家兼、藤原通久、同成直、同光景、田使俊行等、給獄所者也。従五位上加賀守藤原朝臣師高解官流罪尾張国、目代師経流罪備後国、奉射神輿官兵七人、禁獄事者、(有朋上P136)今日宣下訖。以此旨、可令披露山上給之由所候也、恐々謹言。
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四月二十日 権中納言藤原光能
執当法眼御房へとぞ有ける。
追書に云、禁獄官兵等之交名、山上定令不審候歟、仍内々委相尋尻付交名一通、所被相副候也、平利家字平次、是は薩摩入道家季孫、中務丞家資子、同家兼字平五、故筑後入道家貞孫、平田太郎家継子、藤原通久字加藤太、同成直字十郎、是は右馬允成高子、同光景字新次郎、是は前左衛門尉忠清子、成田兵衛尉為成、田使俊行、難波吾郎と注したり。
衆徒取廻々々見之事柄よかりければ、逃隠たりつる侍も雑色も、此彼より出たりけり。時忠卿則下洛して、参内事の次第一々に被奏聞けり、ゆゝしくぞ聞えける。後に大衆口々に申けるは、哀能はいみじき者かな、此時忠が五言四句の筆のすさみを以て、三千一山の憤を平げつゝ、難逃虎口を遁て、見るべき身の恥を逃ぬるこそ有難けれと感じけり。
昔大国に魏文帝と云御門御座けり。其弟に陳思王と云ふ人あり。同母の兄弟にて、蘭菊の契深かるべかりけるに、何事の隔有けるやらん、兄の文帝、陳思王を悪で(有朋上P137)殺さんと思つゝ、弟を前に呼居て云けるは、汝七歩が間に詩を造、不然者速に汝を可殺と聞えければ、陳思死を逃んが為に、文帝の前を立ちて七歩しける間に、煮豆燃豆■豆在釜中泣、本是同根生、相煎何太急と云たりけれ。文帝感之弟を許し、厚断金兄弟の昵を成けり。是を七歩の才といへり。陳思王は七歩の詩を造て一生の命を助け、時忠卿は両句の筆に依、三千の恥を遁たり。誠に時の災をまぬかるゝ事、芸能に過たるはなかりけり。
S0410 京中焼失事
四月廿八日亥刻に、樋口、富小路より焼亡あり。是は神輿を奉禦とて狼藉に及武士七人、禁獄之
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内、十禅師の御輿に、矢を射立進らせける。成田兵衛為成と云者は、小松殿の乳人子也。ことに重科の者也。衆徒の手に給て、唐崎に八付にせん罧にせんなど訴申ければ、小松殿よりとかく山門を被宥て、禁獄をも乞免し、伊賀国へ流せとて所領へ下遺けるが、今日の晩程に、遺惜まんとて、同僚共が樋口富小路なる所に寄合て酒盛しけり。酒は飲ば酔習なれ共、各物狂しき心地出来て、成田が前に杯の有ける時、或(有朋上P138)者が申けるは、兵衛殿田舎へ御下向に、御肴に進べき物なし、便宜能是こそ候へとて、もとゞり切て抛出たり。又或者が、穴面白や、あれに劣べきかとて、耳を切て抛出す。又或仁思中には、大事の財惜からず、大事の財には命に過ぎたる者有まじ、是を希にして、腹掻切て臥ぬ。成田兵衛が、穴ゆゝしの肴共や、帰上て又酒飲事も難有、為成も肴出さんとて、自害して臥。家主の男思けるは、此者共かゝらんには、我身残たり共、六波羅へ被召出安穏なるまじとて、家に火さして炎の中に飛入て焼にけり。折節巽の風はげしく吹て、乾を指て燃ひろごる。融大臣塩釜や川原院より焼そめて、名所卅余箇所公卿家十七箇所焼にけり。染殿と申すは忠仁公の家也。正親町京極 小一条殿と申は、貞仁公の家とかや。近衛東洞院 染殿の南には、C和院、小二条、款冬殿と申は、二条東洞院也 三条宮の御子、左の小蔵宮とぞ申ける。照宣公の堀河殿、大炊御門、冷泉院、中御門の高陽院、寛平法皇の亭子院、永頼三位の山井殿、鷹司殿、大炊殿、押小路町の鴨井殿、六条院、小松殿、公任大納言の四条殿、良相公の西三条、高明御子の西宮、三条朱雀に、朱雀院、神泉苑、勧学院、奨学院、穀倉院、東三条
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近衛院、滋野井本院、小野宮、冬嗣大臣の閑院殿、北野天神紅梅殿、梅苑、桃苑、高松殿、中務の宮の千種殿、(有朋上P139)枇杷殿、一院京極殿、天の橋立に至まで、一字も残らず焼にけり。まして其外家々は数を知ず、はては大内に吹付たりければ、朱雀門、応天門、会昌門、陽明、待賢、郁芳門、清涼、紫宸、大極殿、豊楽院、天透垣、竜の小路、殿上の小庭、延喜の荒海、見参の立板、動の橋、諸司八省までも、皆焼亡ぬ。浅揩ニ云も疎也。
S0411 盲ト事
大炊御門堀川に、盲の占する入道あり。占云言時日を違ず、人皆さすのみこと思へり。焼亡と■りければ、此の盲目何く候ぞと問。火本は樋口富小路とこそ聞と云。盲しばし打案じて、戯呼一定此火は是様へ可来焼亡也、ゆゝしき大焼亡かな、在地の人々も、家々壊儲物共したゝめ置べきぞと云。聞者皆をかしう思て、樋口は遥の下、富の小路は東の端、さしもやは有べき、いかにと意得てかくは云ぞと問ければ、占は推条口占とて、火口といへば、燃広がらん、富小路といへば、鳶は天狗の乗物也、少路は歩道也、天狗は愛宕山に住ば、天狗のしわざにて、巽の樋口より乾の愛宕を指て、筋違さまに焼ぬと覚ゆとて、妻子引具し資財取運て逃にけり。人嗚呼がましく思けれ共、焼て(有朋上P140)後にぞ思合ける。
S0412 大極殿焼失事
樋口富少路よりすぢかへに乾を差て、車の輪程也ける炎、内裡の方へぞ飛行ける。これ直事非、比叡山より猿共が、松に火を付持下つゝ、京中を焼払ふとぞ、人の夢には見たりける。神輿に矢立、神人宮司、被射殺たりければ、山王嗔を成給、角亡し給けるにこそ。人恨神嗔、必災害成といへり。誠哉此事、大極殿〔は〕清和帝の御時、貞観十八年四月九日焼たりけるを、同十九年正月三日、陽成院の御即位
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は豊楽院にてぞ有ける。元慶元年四月九日事始有て、同三年十月八日ぞ被造出たりける。後冷泉院御宇、天喜五年二月廿一日に又焼にけり。治暦四年八月二日事始有て、同年十月十日棟上有けれ共不被造出、後冷泉院は隠れさせ給にけり。後三条院の御時、延久四年十月五日、被造出行幸有て宴会被行、文人詩を奉、伶人楽をぞ奏しける。今は世末に成、国の力衰て、又造出さるゝ事難もやあらんと、皆人嘆合給けり。嵯峨帝の御時、空海僧都勅を奉て、大極殿の額を被書たり。小野道風見之大極殿には非、火極殿とぞ見えたる、(有朋上P141)火極とは火極と読り、未来いかゞ有べかるらん、筆勢過たりとぞ笑ける。去ばにや、今かく亡ぬるこそ浅増けれ。