『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本巻第五

P0103(有朋上P143)
保巻 第五
S0501 座主流罪事
安元三年五月五日、明雲僧正被止公請之上、蔵人を遣て、被召返御本尊。其上使庁の使を以て、今度奉振下神輿、大衆の張本を被召けり。加賀国には座主の御房領あり。師高国務之刻、是を停廃の間、其宿意に依て、門徒の大衆を語らひ訴訟を致。既に朝家の及御大事之由、西光法師父子讒奏之間、法皇大に逆鱗有て、殊に重科を行べき由被思召けり。
同六日検非違使師房、使庁の下部二十余人を相具して、白河高畠の座主の御坊内に乱入て、狼藉古今に絶たり。軈当日に印鎰を御経蔵へ奉渡。山門京都耳目を驚せり。衆徒谷々坊々に寄合々々私語けり。十一日七条の七宮覚快 天台座主に成せ給。是は鳥羽院の第七の皇子、故青蓮院大僧正行玄の御弟子なり。同日に明法へ被尋下、宣旨状云、
延暦寺前座主僧正明雲条々所犯事(有朋上P144)
一故大僧正快秀、為当山座主間、相語悪僧等、令追払山門事。
一去嘉応元年、就美濃国比良野庄民等、結構訴訟、発当山之悪徒、令乱入宮城狼藉事。
一近日大衆蜂起事、次第超過、彼嘉応狼藉、先一旦意趣、催三塔凶徒、外構制止之詞、内成騒動企、
P0104
蔑爾朝章、欲滅仏法、或以凶徒、乱入陣中、数箇所放火、或対警固之輩合戦、或帯兵具、可下洛之由、令執奏、誠是朝家之怨敵、偏叡山之魔滅者歟、仰下明法博士、就彼条々所犯、可勘申明雲所当罪名。
   安元三年五月十一日        蔵人頭右近衛中将藤原朝臣光能奉とぞ有ける。十二日に前座主所職を被止之上、大衆の張本を出すべき由、検非違使二人を被差遣、水火の責に及けり。此事に依て衆徒憤申て、猶参洛すべしと聞ければ、内裏並に法住寺殿に軍兵を被召置、大臣以下殿上の侍臣皆馳集りければ、京中の上下騒あへり。
S0502 山門奏状事(有朋上P145)
同十五日に前座主明雲僧正減死罪一等、可被遠流之由法家勘申之旨風聞有ければ、衆徒捧奏状云、
延暦寺三千大衆法師等誠惶誠恐謹言。
 請特蒙天恩、早被停止前座主明雲配流並私領没官子細事
右座主、是挑法燈之職、和尚又伝戒光之仁也、若処重科、被配流者、豈非天台円宗、忽滅菩薩大戒、永矢哉、因茲我山開闢之後、貫首草創以来、百王理乱、雖是異、一山安危、雖随時、只有帰敬之礼、都無流罪之例、就中明雲是顕密之棟梁、智行之賢徳也、一山九院之陵遅、此時復旧跡、四教三密之紹隆其儀不恥、上代、今忽赴遠方、永別我山、衆徒悲歎何事如之、何況前座主、於天朝者、是一乗経之師範也、須尽千歳之供給於仙院者、又菩薩戒之和尚也、盍運三時
P0105
之礼敬、今没官所知、更被蒙重科、寧非大逆罪哉、謹尋異域訪旧例、未聞一朝国師無故、蒙逆害矣、抑配流科怠何事乎、如閭巷説者、或人讒言度々、山門訴訟、或追却快秀僧正、或訴申成親卿、又当時師高之事等、偏是明雲之結構者也、因此讒達忽蒙勅勘、云々、若如風聞者、何用浮言、須対決彼此被糾真偽也、至件等事者、大衆鬱憤致訴訟之刻、於前座主(有朋上P146)者、毎度禁制之、蓋山門動揺、為貫主痛故也、対決処無其隠歟、設有不慮越度、何及重科耶、衆徒等、謹驚天聴欲救末寺愚僧之処、被召其張本、為歎之間、終失本山之高僧之条、不慮愁無物取喩、夫不蒙聖勅、勿散怨望、是常例也、今雖仰天裁、還蒙厳罰、未得意矣、抑我君太上法皇、偏仰医王山王之冥徳、久帰台岳三宝、専愍山修山学之襌侶、忝抽興隆之叡慮、而今仁恩忽変、誅戮俄来、数百歳之仏日云、迷心神之所行、三千人之胸火熾燃、不知愚身之所措、若明雲被配流者、衆徒誰留跡、鎮護国家道場、眼前欲魔滅、早宥明雲配流、被停止私領没官者、十二願王新護持玉体、三千衆徒弥奉祈宝算矣、誠惶誠恐謹言。
   安元三年五月日
とぞ書たりける。但此奏状、誰人を以つてか伝奏すべきと僉議ありけるに、禅門平相国は、既に一朝之固、万人之眼也。天下の乱山上の愁、争か其成敗なかるべき。就中前座主は是れ大相国の為に菩薩戒の和尚也。此事に於ては尤可被鳴諫鼓。若此憤を散ぜずして、大戒の和尚を令還俗、なほ被流罪
P0106
者、則吾山の仏法破滅時至るなるべし、一字を習伝、一戒を受持たらん者は、師資の門葉也、誰人か背之、相国禅門受戒の弟子(有朋上P147)たり、仙洞を宥申されんに、なびき給はずば、三千の学侶、誰か身命を惜べきとて、各大講堂の前にして、満山の仏神伽藍の護法を驚奉て、泣々起請して云、衆徒の鬱憤不散して、固被流罪者、大衆皆従彼同蒙配流之罪、満山学侶一人も不可留。我山存亡只在此成敗、宣察此趣被執申とて、同十七日に、所司等を以、福原の禅門大相国へぞ送遣ける。二十日前座主の罪科の事、可有僉議とて、太政大臣以下の公卿十三人参内あり。陣の座に著て其定有けれ共、冥には七社権現の照覧も難測、顕には三千衆徒の鬱憤も恐しくやおぼしけん、諸卿各口を閉て申す旨もなかりけり。其中に八条中納言長方卿、其時は左大弁宰相にて御座けるが被申けるは、法華の勘文に任て、死罪一等を減じて、雖可被遠流、前座主僧正は、顕密兼学、浄行持律の上、公家には一乗園宗御師範也。法皇には円頓受戒の和尚たり、御経の師、御戒の師にや、被行重科事、冥の照覧難測、還俗遠流を可被宥かと、無所憚被申ければ、当座の公卿、各長方卿の被定申之義に同ずと被申けれ共、法皇の御憤深かりければ、終に流罪に定りけり。太政入道も此事角と承ければ、申止進らせんとて被参たれ共、御風の気とて御前へも召れず、御憤りの深きよと心得て出給にけり。二十一日に前座主明雲僧正をば、大納言大夫(有朋上P148)藤原松枝と名を改て、伊豆国へ流罪と定る。係りければ、山門なほ騒動して、又神輿を振奉べしと聞えければ、御輿を下奉らんとて、西坂本の坂口、此彼
P0107
松木を切持て行て、逆木にこそ引たりけれ。最をかしく見えし。いかなる者の読たるやらん、門の柱に御改名を添て、
  松枝は皆さかもぎに切はてて山にはざすにする者もなし K028 
寺法師の所行とぞ申ける。座主の流罪の事、人々諌申けれ共、西光法師が無実の讒奏に依て、かく被行けり。今夜都を出奉らんとて、宣旨■しかりければ、追立の検非違使、白河高畠の御坊に参て責申しけり。座主は白河の御所を出給て、粟田口の辺、一切経の別所へ出させ給けり。大衆聞之、西光法師父子が名を書て、根本中堂に御座す。金毘羅大将の御足の下に蹈奉て、十二神将、七千夜叉、東西満山護法聖衆、山王七社、両所三聖、時刻を廻さず召捕り給へと呪咀しけるこそ懼しけれ。又大講堂の庭に、三塔会合して僉議しけり。伝教、慈覚、智証大師の御事は不及申、義真和尚より以来五十五代、いまだ天台座主流罪の例を聞かず、末代と云とも、争か吾山に疵をば可付、心憂事也、天下を闇に成べしなんど喚叫ぶと聞えけり。同二十三日に、座主一切経の別所を出て配所へ(有朋上P149)赴給ふ。慈覚大師の自造り給へる如意輪の御像ばかりを、泣々御頸に被懸ける。朝夕に見馴給へる御弟子一人も不奉付、門徒の大衆も不参、御覧じも知ぬ武士に伴て出給ける御有様、よその袂も絞けり。被召たる馬は浅猿き野馬に、けしかる鞍具足也。彼粟田口、両葉山、四宮河原を打過て、影も涼しき会坂の、関の清水を過越て、粟津の浦にぞ出給。漫々たる海上に、山田、矢橋の渡舟、漕わかれける形勢も、渺々たる浦路の、志賀
P0108
坂本に立煙、空に消ゆく景気まで、我身の上とぞ思召。無動寺の御本坊、根本中堂の杉の本、遥に顧給て、御名残こそ惜かりけめ。汀に遊鴎鳥、群居て思やなかるらん、唐崎の一松、友なき事をや歎らん。此れを見彼れを見給ても、唯香染の御衣をぞ被絞ける。角て暫く粟津の国分寺の毘沙門洞に立入給へり。
S0503 澄憲賜血脈事
故少納言入道信西の子息に、安居院の法印澄憲、いまだ権大僧都にて御座けるが、座主の遺を慕ひつゝ、国分寺まで奉送。座主は君に捨られ奉て、配所の道に出ぬるを、是までの芳志こそ憂身の旅の思出なれ、かゝる勅勘の者なれば、再び花洛に帰上らんまで、命なが(有朋上P150)らふべし共覚えず、弘通を遐代に及し、利益を有縁に施給へ、諸仏己心の所証也、天台秘密の法門也とて、一心三観の相承血脈を授らる。抑此法不輙、如来四十余年懐に在て説給はず、此法難聞ければ、衆生無量億劫耳の外にして未聞、適釈尊出世の昔一乗弘宣の時、本迹二門に権智実智の一心三観を被演。灰沙の二乗は無生の悟を開、塵数の菩薩は増進の益に預き。竜女が速成を現じ、達多が授記を蒙し此法力也。天台大師は、大蘇山法花三昧の道場にして、行道誦経せし時に、霊山の一会現じつゝ、多宝塔中の釈迦より此法を伝給き。伝教大師は渡唐の時、台州臨海県の竜興寺極楽浄土院にして、道邃和尚に奉値、此法を伝受し給しより以来、相承聊爾ならず、血脈法機を守る、就中国は粟散辺土也、時は濁世末代也、誠に非可輙、今日の情けに堪へずして、澄憲付属を得たりけり。僧都は血脈を給ひて、法衣の袖に裹みつゝ、泣々御前を立ちたまふ。
P0109
去る程に満山の大衆残留もなく、東坂本に下つゝ、十禅師御前にて、各涙を流し僉議しけるは、当山五十五代、いまだ天台座主流罪の例を聞ず、此時始て顕密の主を失ひ、修学の窓を閉事、唯当時の失面目のみに非、末代までも口惜かるべし、然者三千の衆徒等、違勅の咎を顧ず、貫首に代奉て粟津へ向、座主を可奉取留、但追立の官人両送使等有(有朋上P151)なれば、取得奉らん事難有からんか、此事冥慮に相叶、我山可為我山者、山王権現力を合せ給へ、衆徒の愁歎神明哀と思召ば、只今験を見せ給へと、肝胆を砕て祈申ける程に、十禅師の宮の造合より、白髪たる老女一人現じて、心身を苦ましめ、五体に汗を流て、我に十禅師権現乗居させ給へり、誠に衆徒の歎難黙止、我此所に跡を垂事、円宗の仏法を守、三千の学侶を為育也。而今様なき例を我山に留、三千の貫首を被流罪事、我一人が歎なれば、冥慮誠に難休、速に可奉迎、深力を合べし、あな心うやとて左右の袖を顔に当、さめ/゛\とぞ泣ける。大衆恠之、誠に十禅師権現の御託宣ならば、我等験を奉らん、本の主々に返給とて、各念珠を大庭へ抛たりけり。物付是を取集て、左の手にくり懸て、立廻々々若干の念珠少も違へず、本の主々へ賦渡す。不思議なりし事共也。山王権現の霊験の新なる忝さに、衆徒涙を流つゝ、さらば迎へ奉れやとて、袈裟衣をば甲冑に脱替て、或は渺々たる志賀唐崎の浦路に、歩引唱衆徒もあり、或は漫々たる山田矢橋の湖上に、舟に竿さす大衆もあり。角て国分寺の毘沙門堂へ参りければ、稠げなりつる追立の官人も見えず、両送使も失にけり。座主は此有様を御覧じて、大に恐給被仰けるは、勅勘の者は月日の
P0110
光にだにも不当とこそ申せ、況や不廻時刻、可被(有朋上P152)追下之由、被宣下上は、暫もやすらふべきに非、衆徒はとく/\帰上給へとて、端近出給宣けるは、三台槐門の家を出て、四明幽渓の窓に入しより以来、広円宗の教法を学して、只我山の興隆をのみ思ひ、奉祈国家事も不疎、衆徒を育志も深りき。然而身に誤なうして、無実の讒奏により、遠流の重科を蒙る事、両所三聖定めて知見照覧し給らん、倩事の情を案ずるに、大唐には慈恩大師達磨和尚、配所の草に名を埋み、我朝には役優婆塞遠流の露に袖を絞給へりき。我身一人に非ず、是皆先世の宿業にこそと思へば、代をも人をも神をも仏をも奉恨心なし、是まで訪来り給へる衆徒の芳志こそ難申尽とて、香染の袖をぞ絞らせ給ける。奉見之衆徒、争か袖を絞ざるべき、皆鎧の袖をぞぬらしける。軈て御輿を舁寄て被召候へと勧申けれ共、昔こそ三千人の貫首たりしか、今は係身に成て、再我山に還登事だに難有、いかゞ無止事修学者、智慧深大徳達に被舁捧上べき。■なんど云物をはきて、同じ様に歩連てこそと宣へば、西塔法師に戒浄坊相模阿闇梨祐慶は、三塔無双の悪僧也。此僧は本園城寺の衆徒にて、よき学匠也けり。倶舎、成実の性相より、法相、天台の深義を極め、顕密両宗に亘つて三院三井の法燈也けるが、大慢偏執の者にて我執強僧也。我寺山徒の為にあざむかるゝ事、生々(有朋上P153)世々の遺恨に思けるが、妄念晴れ難く覚て、よしよし此寺にあればこそ此の思もあれ、不如山門に移住せんにはと変改して、住馴し三井の流を打捨て、西塔院へぞ渡にける。本より心立たる者なれば、三枚甲を居頸に著なし、黒皮威の大荒目の冑に、
P0111
三尺の大長刀の茅の葉の如なる杖に突て、衆徒の中に進入て申けるは、倩事の心を案ずるに、当山建立以後数百歳の星霜を送、貫首代々相続て、忝顕密の教法を弘通し給へり。四明の法燈一天之戒珠に御座す、而も姦臣の讒訴に依て実否糾されず、重科に被行給はん事、末代と云ながら心憂次第に非や。且は朝家の師範、且は山門の官長に御座、誰人か歎訪ひ奉らざらん、今度流罪に沈給はんに於ては、衆徒何の面目有りてか当山に可止跡、いづくまでも御供をこそ被申めとて、衆徒の中を指越々々座主の御前に参て、大長刀杖に突て、座主をはたと奉睨申けるは、加様に御心弱渡らせ給へばこそ、係る憂目をも御覧じ、山門に様なき疵をも付させ給へ、急御登山あらましかば、衆徒これ程の骨をばよも折侍らじ、其に貫首は三千衆徒に代て、流罪の宣旨を蒙らせ給ふ上は、衆徒貫首に代り奉て、命を失はん事、全くうれへに非ず、唯とく/\御輿に召されよやとて、御手をむずと取奉、引立御輿に奉舁乗。座主は戦々乗給けり。祐慶やがて先輿を仕る、東塔南谷、妙光坊の大和(有朋上P154)阿闍梨仙性と云ふ者、後陣を舁、国分の毘沙門堂より、鳥の飛が如風の吹様に、粟津原打出の浜、大津三井寺志賀の里、先陣後陣劣らずこそ見えけれ共、仙性が後陣には、時々大衆代りけり。祐慶が先陣は初より物具脱事もなく、高紐に甲を懸、輿を轅に長刀の柄折よ摧よと把具し、坂本早尾舁越して、さしも嶮しき東坂、一度も代らず、講堂の庭に舁付たり。爰に行歩に不叶老僧、若は花族の修学者、此事いかゞ有べき、日来は一山の貫首たりといへ共、今は流罪の宣旨を蒙給へり。横に取のぼせ奉事、違勅の咎難遁かと、様々僉議あり。
P0112
実と云衆徒も多かりけり。去ども祐慶は少もへらず、鎧の胸板きらめかし、扇披遣て申けるは、我山は是日本無双之霊地、鎮護国家之道場也。一乗之教風扇四海七社之威光耀卒土、仏法王法午角にして、山上山下安泰なり。当山超万山之威験、此宗勝諸宗之教法、依之聖代明時合掌於一実之円宗、皇門后宮傾頭於一山之効験。然ば大衆の意趣も人にまさり、賎き法師原までも世以て軽しめず、何況や前座主明雲僧正は、智慧高貴にして一山の為和尚。徳行無双にして三千の貫長たり。当代に無罪被遠流給はん事、是山上洛中の歎のみに非ず、併興福園城の嘲也。悲哉止観上乗之窓前に、廃蛍雪之勤、怨哉瑜伽三密之壇上に、絶護摩之煙。就中於大唐震旦、天台山(有朋上P155)長安城之艮也。於我朝日本、延暦寺平安城之鬼門也。伝教大師の御記文には、此山滅亡せば、国家も必ず滅亡せんといへり。而に末寺末社の訴訟に依て、衆徒子細を奏するは先例也。聖断遅々する時神輿の下洛ある事は是冥慮也。大衆争か可不被合力哉、異見の僉議に付て例を此時に残されば、生々世々可口惜事なれば、所詮祐慶今度三塔の張本に召れて、被行禁獄流罪、たとひ雖被刎首、今生の面目、冥途の思出なるべし、全く怨に非ず、衆徒争か我山の疵を可不思と高声に■り、双眼より涙をはら/\と流しければ、満山の大衆を聞、皆袖絞りつゝ尤々と同じければ、軈座主を奉舁東塔南谷妙光坊へ奉入。其よりしてぞ祐慶をば、いかめ房とは申しける。
S0504 一行流罪事
 時の横災は、権化の人も、猶遁れ給はざりけるにや、大唐の一行阿闍梨は、無実の讒訴に依つて火羅国へ流され給ひけり。たとへば
P0113
一行は玄宗皇帝の御加持の僧にて御座しが、而も天下第一の相人に御座ける。皇帝と楊貴妃と、連理の御情深くして、万機の政務も廃給程也けり。一行帝后二人の御中を相するに、后には御臍の下に黒子あり、野辺にし(有朋上P156)て死し給相也。帝には御うしろに紫の黒子あり、思に死する御相也と申けり。皇帝此の事を聞し召て、大方の相は正しく見る共、争か膚をば知るべき、通道のあればこそ臍の下の黒子をば知らめとて、可流罪之由被仰下ける程に、公卿僉議有つて、一行は朝家の国師、仏法の先達也、就中相に於ては天下第一也、音を聞て五体を知り、面を見て心中を相するに敢て違ふ事なし、いかゞ可被流罪と申ければ、且くさし置給たりけるに、一行の弟子に賢鑁阿闍梨と云者あり、仏教博学にして智徳高く長ぜり。忽に師資の儀を忘て、独天下に秀でん事を思ければ、偸に一行の亡失ん事を思ける折節、流罪の沙汰の有ければ、次をえて后の御事種々に讒申ければ、帝逆鱗有りて火羅国へぞ被流ける。彼の国へ行には、三の道あるとかや、一には林池道とて古き都也ければ、御幸の外にはおぼろげにては人通はず。一には幽池道とて、雑人の通路也。一には闇穴道とて、罪ある者を流す道也。されば一行も此道よりぞ遣しける。件の道は、七日七夜が間空を見ずして行なれば、闇穴道とぞ名けたる。七十里の大河あり、碧潭深流れて、白浪高揚也、冥々として独行、閑々として人もなし。前途の末も知ざれば、さこそは悲く覚しけめ。天道無実の咎を哀て、九曜形を現つゝ闇穴道をぞ照されける。一行右の指を食切(有朋上P157)て、其の血を以て右の袖に写し留め給ひけり。九曜曼陀羅は其よりして弘まれり。彼一行阿闍梨と申は、本は天台の一行三昧の禅師也けるが、後に真言に移て悪行高顕て国家の重宝たり、慈悲普覆て、人臣の所帰也。被讒申けるこそ懼しけれ。一行無実之由、皇帝披聞召、則被召返、賢鑁造逆也、不善之咎難遁とて、被流罪ける程に、竪牢地神の罰蒙て、大地忽に裂て、乍生大地獄にぞ落にける。在家を出て仏家に入、師恩を受て法恩を聞、たとひ報謝の心こそなから
P0114
め、争か阿党を成べき。在世の調達滅後の賢鑁とりどりにこそ無慙なれ。さても一行の相し申さるゝ如く、楊貴妃は案禄山が為にすかし出されて、馬嵬の野辺に露と伴て消給ふ。皇帝は后の遺を悲て方士を以て蓬莱宮を尋らる、玉の簪し金鋏刀を被返送、いとゞ歎に臥給ひ、思死にぞ失給ふ。去ば顕密兼学、浄行持律の天台の座主讒し申す西光も、いかゞと覚ておぼつかなし。
S0505 山門落書事
山門大衆等流罪の座主を奉取留之由法皇聞食て、不安思召しける上に、西光法師内々申けるは、山法師の昔より猥き沙汰仕る事は、今に始ぬ事なれ共、今度の狼藉は先代(有朋上P158)未聞の事に侍り、下として猥きを、上として緩に御沙汰あらば、世は世にても侍るまじ、能々可有御誡とぞ奏しける。只今我身の亡をも不知、山王権現の神慮にも不憚、加様に申ていとゞ宸襟を悩し奉る。讒臣乱国、妬婦破家とも云、叢蘭欲茂秋風破之、王者欲明讒臣隠之ともいへり、誠哉此事、抑今度大衆之狼藉仍可被責山門之由、被仰武家けれ共、進ざりければ、新大納言成親卿已下近習の輩武士を集て、大衆を可傾之由其沙汰あり、物にも覚えぬ若者共、北面の下臈等は、興ある事に思て勇みけり。少も物の心弁たる人々は、こはいかゞせん、只今天下の大事出来なんとぞ歎ける。内々又大衆をも誘、仰の有けるは、院宣の下も忝し、王土にはさまれて、さのみ詔命を対捍せんも恐有とて、思返靡き奉る衆徒もあり。大衆二心出来ぬと聞食ければ、座主は責の御事有し時、兎も角も成たりせば、今は思切なまし、中々衆徒に被取登又いかに成べき身やらんと、御心細く思召けるに、大講堂の庭に会合僉議しけるは、前座主を中途にして奉取留事、依軽朝威公家殊に御
P0115
憤深由、其の聞えあり、此事いかゞ有るべき、今は唯可奉宥逆鱗歟と云ける。砌に、落書あり、其状に云、
 告申大衆御中可被遣入道大相国許事(有朋上P159)
夫前座主明雲僧正者、挑法燈於三院之学■、灑戒水於四海之受者顕密之大将、大戒之和尚也、三観之隙必専金輪之九転、六時之次先祈玉体之長生、誠是仏法之命也、王法之守也、爰興隆思深而悛九院之朽梁、護国志厚而却六蛮之凶徒、依之法侶励修学之労、悪党隠弓箭之具、制修羅之巧、而飾護国之道場、豈非為山門之奇異哉、亦停兵俗之器、而残法僧之道具、寧非専朝家之祈願哉、為天朝為国家治者也、明人也、而有一類謗家所悪成瘡瘠矣、其不被糺是非、不被尋真偽、預重科蒙流罪之条、是非君有偏、亦非臣無忠、讒奏之酷、偽言之巧故也、讒口、煖於黄金、毀言銷白骨此謂歟、夫末寺末社之訴者、非始于当代、皆是往代例也、或断根本之仏事、或闕恒規之祭礼之時、受末所之愁訴、而及本山之悲歎、列大師門徒之族習、皆成教綱之者、何可悦三聖之威光消、誰不悲一山之仏法滅乎、然者衆徒三千之蜂起、豈被引座主一人之結構哉、何況於先座主者、大畏勅制、而頻雖制大衆蜂起、依残愁訴尚以烏合者也、抑考山門之故実、懐理訴無裁許之時、衆徒等戴三社之宝輿、而、参九重之金闕、曩時之例中古之法也、厥皇化者、専天下之太平、貫首者慕山上之安穏、
P0116
臣家可思奏者可案、豈勧騒動於衆徒、招朝勘於一身乎、凡大衆不叶貫首之進止、欲(有朋上P160)遂訴訟之本意、先皇之代在之、明哲之時非無依之、驚先座主之罪名、雖捧衆徒之愁訴、近臣依怨家之語、而全不達上聞、弁官随姦人之謀、更不奏聞、然間不被決理非、忽蒙使庁之責、不被糺実否、俄定配流之国、以好言而全人、以悪口損人者也、政忘先例、讒達巧故也、亦君非奇叡山之仏法、怨人之不知食所疵乎、誠魔界競我山、而法滅之期、得此時歟、波旬怯洛城、而無実之咎達叡庁歟、爰衆徒等、悲仏法之命根断、歎大戒之血脈失之処、如風聞者、師高往向二村之辺、可夭害先座主、云々、弥失前後正亡思慮、且芳先賢之明徳、且為最後之面拝、欲陣申子細、尚配流路頭之計也、夫根朽枝葉必枯矣、一宗長者衰、三千倶可衰、非痛貫首之流罪、只痛師資相承之断、非惜一人嘉名、偏惜顕密両教之廃、況先座主、鎮祠候於鳳城、而竪護持於龍顔、縦雖有重罪之甚、何不被免於積労、縦雖有過去之業、何不被置礼儀於戒師、若夫有証拠者、尤可賜正文也、非返勅定、陣子細計也、以此旨可被執啓、夫国土理乱任臣忠否、若不被糺邪正之道者、寧天子之守在海外乎。
   安元三年五月  日  とぞ書たりける。
此落書に依て、山門の大衆の座主を奉取留事は、公家御沙汰に不及(有朋上P161)けり。是偏医王山王の御利生也とぞ、人貴み申ける。
P0117
S0506 行綱中言事
新大納言成親卿は、山門の騒動に依て、私の宿意をば暫被押けり。其内議支度は様々也けれ共、儀勢計にて其事可叶共見えざりければ、さしも契深く憑れたりける多田蔵人行綱は、弓袋の料の白布を、直垂小袴に裁縫せて、家子郎等に著つゝ、目打しばだたきてつく/゛\案じつゝ、此事無益也と思ふ二心付にけり。倩平家の繁昌を見に、当時輒く難傾、大納言の語ひ給軍兵は、僅にこそあれ、可立用之輩希也、無由事に与して、若聞えぬる者ならば、被誅事疑なし、無甲斐身にも命こそ大切なれ、他人の口より洩ぬ先にとて、五月廿日西八条へ推参して見ば、馬車数も知ず集たり、蔵人何事やらんと思て尋問ければ、案内者とおぼしくて答けるは、是は入道殿福原御下向の御留守に、君達会合して貝覆の御勝負也と云ければ、同廿七日に蔵人鞭を上て福原へ下向す。入道の宿所に行向て、可申入事侍りて行綱下向と申ければ、常にも不参者也、何事ぞ其聞とて、主馬判官盛国を被出たり。人伝に非可申事、直に見参に可申入と云たりければ、入道(有朋上P162)宣けるは、行綱は源氏の最中也、隙もあらば平家を亡して、世を知らんと思心も有らんなれば、非可打解とて、子息重衡を相具し、銀にて蛭巻したる小長刀、盛国に持せて中門の廊に出合れたり。行綱申ければ、院中の人々兵具を調へ軍兵を集らるゝ事は、知召れ候やらんと申す。入道、其事にや、西光法師が依讒奏、山門の大衆を可被責と聞ゆ。さまでの御企有べし共覚ずと、いと事もなげに宣ふ。行綱居寄て私語けるは、其義には侍らずとよ、御一門の事に候、仮令ば新大納言殿、使を以て可申事あり、可立寄と承し間、
P0118
如御諚山門の事と存候て、中御門の宿所へ罷向之処に、行綱見え来らば鹿の谷へ可参とぞ仰也と申間、則打越て見廻し侍れば、馬車其数立並たり、分入みれば酒宴の座席也、人々目に懸て其へ其へと申に付て著座す、やがて酒をすゝむ、当座には新大納言家父子、近江中将入道殿、法勝寺執行法印、平判官康頼、西光法師ぞ候き、行綱酒三度たべて後、大納言宣しは、平家は悪行法に過て、動すれば奉嘲朝家之間、可追討之由、被下院宣たり。但源平両氏は、昔より朝家前後之将軍として、逆臣を誅戮して所蒙異賞也、されば今度の合戦には御辺を憑、可有其意と被仰間、こは浅間敷事かな、いかゞ返答申べきと存ぜしかども、左程の座席にて而も院宣と仰られんに、争か(有朋上P163)叶じとは可申なれば、左も右も勅定にこそと申侍し程に、折節一村雨して、山下風の風烈く吹侍しに、庭に張立置たる傘共のふかるゝに、馬共驚駻躍、蹈合食合なんどするを見て、末座の人共の立騒、直垂の袖に瓶子を係て引倒し、其頸を打折て侍しを、座席静つて後、大納言殿、あゝ事の始に平氏倒たりと宣しかば、満座咲壺の会にて侍き、是こそ浅間敷事云たりと存ぜしに、申も口恐しく侍れども、西光法師倒れたる瓶子の頸をば取て、大路を可渡と申を、康頼つと立て、当職の検非違使に侍とて、烏帽子懸を以て、瓶子の頸を貫捧て、一時舞て広縁を三度持廻して、獄門の木に懸と申て、縁の柱に結付て侍し事、身の毛竪て浅間敷こそ侍しか、何の弓矢取と云事なく、当時一旦の君の御糸惜みに誇て、西光が我一人と事行して申振舞し事、下刻上之至也と不思議に存じ、侍き、法皇の御幸
P0119
も成べきにて候けるを、静憲法印の、様々こは浅間敷御事也、天下の大事只今出来なん、いかに人勧申とても、国土の主として争でか一天の煩を引出し御座べきなんど、諌申けるに依て、御幸は止らせ給ぬとぞ私語申候し、やがて鹿谷究竟の城郭也とて、其にて兵具を可調と承き、加様の事人伝に被聞召なば、誤なき行綱までも、御勘当後恐しく候へば、内々告知せ進する也とて、人の能言云たりしをば、我申たるになし、我(有朋上P164)悪口吐たりしをば、人の云たるになし、殆有し事よりも過ては云たりけれ共、五十端の白布をば一端も語らざりけり。入道大に驚騒手を打、君の御為に命を捨る事度々也、いかに人申とも、争入道をば子々孫々までも捨させ給べきとて、座を起ち障子をはたと立て入給ぬ。行綱はある事なき事散々に中言して出でけるが、入道の気色を見つるより心騒がし、慥の証人にや立られんずらんと恐しく覚えければ、取袴して足早にこそ還にけれ。
S0507 成親已下被召捕事
同廿九日、入道上洛して西八条の宿所に著きて、肥後守、飛騨守を召て、貞能、景家、慥に承れ、謀叛之輩多し。与力同心の上下の北面等、一人も漏さず可搦進之由、行綱が口状に付て下知し給。又一門の人々侍共に可相触とて、使を方々へ遣ければ、右大将宗盛、三位中将知盛、左馬頭重衡已下の一門の人々甲冑を著し、弓箭を帯して馳せ集る。其外軍兵聞伝て馳参ければ、其夜の中に、四五千騎こそ集つたれ。又貞能景家は、二百騎、三百騎の勢にて、此彼に押寄押寄搦捕、京中の騒ぎ不斜。
P0120
六月一日未明、太政入道、(有朋上P165)検非違使安部資成と云者を召して、院御所に参て、信業をして申さん様は、近く被召仕之輩、恣に朝恩に誇、剰謀叛を巧世を乱べきよし承間、尋沙汰仕るべきと申せとて進す。資成法住寺殿に参、大膳大夫信業を尋ね出し此由を申す。信業色を失て御前に参て奏聞しけれども、分明の御返事なし。只此事こそ御意得なけれ、こは何事ぞと計仰ければ、資成帰参じて此様を申す。入道去社よも御返事あらじ、行綱は実を云けり、法皇も知召たるにこそとて、此輩を召誡けり。其内に西光法師を召取て、大庭に引居たり。相国は素絹の衣を著、尻切はき、長念珠後手に取て、聖柄の刀さし、中門の縁に立ちて、西光法師を一時睨で嗔声にて、無云甲斐下臈の過分に成上、朝恩に誇る余、無誤天台座主奉流罪、剰入道を亡さんと申行ける条はいかに、あら希怪や希怪や、凶也凶也、すははや山王之冥罰は蒙ぬるはと宣けり。西光は天性死生不知の不当仁にて、入道をはたと睨返して、西光全く謀叛の企を不存、此恥にあふ事運の窮にあり。但耳に留事あり、侍程の者が、靫負尉にもなり、受領検非違使に至らん事、何か過分なるべき、始たる事に非ず、去てかく宣和入道は、いかに王孫とこそ名乗給へども、昔の事は見ねば知ず、御辺の父忠盛は、正しく殿上の交を嫌れし人ぞかし、其嫡子におはせしかば、十四五ま(有朋上P166)では叙爵をだにも不賜、しかも継母には値たり、難過かりければこそ、中御門藤中納言家成卿の播磨守にておはせし時、受領の鞭を取り、朝夕に■の直垂に縄絃の足駄はきて通給しかば、京童部は高平太と云ひて咲しぞかし、其を恥しとや
P0121
思給けん、扇にて顔を隠し骨の中より鼻を出して、閑道を通給しかば、又童部が先を切て、高平太殿が扇にて鼻を挟みたるぞやとて、後には鼻平太々々々とこそいはれ給しか、去ども故刑部卿殿近江国水海船木の奥にて、海賊廿人を被搦進たりし勲功の賞に依つて、保延の比かとよ、御辺十八歟九歟にて、四位の兵衛佐に成給ひたりしをこそ人々としと申しが、其が今太政大臣に成たるをこそ下臈の過分とは申すべき。此条は争か諍給ふべきと、高声に門外まで聞えよと云たりければ、入道余に腹を立て、為方なかりければ、縁の上にて三踊四躍々給ふ。猶腹を居兼て、大庭に飛下り、西光が頬を蹴たり蹈たりし給けれ共、西光は口は少も減ず、去て其は左は無りし事か、彼は有し事ぞかし、哀足手だにも安穏ならば、報答申してんと云ければ、入道如何様にも謀叛の次第委く相尋て後、しや口割て誡よと宣ひければ、松浦太郎高俊、拷木に懸て打せため、事の興を尋けり。始は大に不知と云けれ共、悪口は吐ぬ、不落とても非可宥、人が云ひたればこそ入道殿も是程は知給た(有朋上P167)るらめ、去ばいはんと思つゝ、休よ語らんと云ければ、拷木より下して、硯紙取寄て聞之、西光有の儘にぞ云ける。執事別当新大納言殿、院宣とて催れしかば、院中に被召使身として不叶と申すべきにあらねば、平家一門打失て、西光も世にあらんと思て与して侍き。院宣の趣き誰か可奉背とて、始より終まで白状四五枚に記して、判形せさせて後、高俊、西光法師が頭を蹈て口を割、重て誡置てげり。新大納言の許へは、大切に可奉申合事侍、時の程立より給へとて使者を遣れたり。大納言は我身の上
P0122
とは露知給はず、例の山の大衆の事を、院へ被申ずるにこそ、此事はゆゝしく御憤深き御事也、可叶とは覚ねども、何様にも参りてこそ申さめとて急ぎ被出けり。安元二年七月に、建春門女院隠させ給て、其御一周を果ざれば、諒闇の直衣ことに内浄たわやかにして、諸大夫一人、侍二三人花やかに装束せさせて、入道の宿所、西八条へおはしけり。近く成儘に其辺を見給へば、軍兵四五町に充満たり。穴恐し、こは何事ぞやと、■打騒給へり。門の前近く遣寄、車より下て門の内へ入給ければ、内にも兵所もなく並居たり。只今事の出来たる体也。中門の外に恐しげなる者二人立向て、大納言の左右の手を取、天にも揚ず、地にもつけず、引持てゆき、もとゞりを取て打臥ける儘に、是は可奉誡や(有朋上P168)らんと申ければ、入道は大床に立れたりけるが、さすが[* 「すさが」と有るのを他本により訂正]昨日迄も面を向へ肩を並し卿相也、眼前に縄付事は、かはゆくや被思けん、去ず共有なんといはれければ、中門の廊へ入られて、縄をば不奉付けり。只一間なる所に、大なる木を以て、蜘蛛手を結、其中にぞ奉押篭ける、糸惜なんどは云計なし。蕭樊囚執、韓彭■醢、晁錯受戮、周魏見辜、其余佐命立功之士、賈誼亜夫之徒、皆信命世之才、抱将相之具、而受小人之讒、並受禍敗之辱と云事あり、蕭何、樊会、韓信、彭越と云ひしは、皆漢の高祖の功臣たりしか共、かくのみこそ有けれ、異国にも不限、我朝にも保元平治の比より打続き浅間敷事のみ有しに、又此大納言の係る目に合給ふ事、いかゞはせんとぞ悲み合給ける。大納言の共に有りける、諸大夫も侍も被起隔、雑色牛飼までも忙騒、身々の恐さに牛車を捨
P0123
て、散々に逃失ぬ。大納言はかばかりなく熱く難堪比、一間なる所に被禁籠、汗も涙も諍つゝ、肝心も消はてて、こはいかにしつる事ぞや、日比のあらまし事の聞えけるにこそ、何者の漏しぬるやらん、北面の者の中にぞ有らんとぞ被思ける。小松の内府は見え給はぬやらん、去とも思捨給ふ事はあらじ者をと被思けれ共、誰して云べき便も無れば、唯悲の涙にのみぞ咽給ける。小松殿へは人参て、謀叛の者とて人々被召禁侍、大納言殿も(有朋上P169)被召籠おはしつるが、此晩に可奉失なんど聞え候と申ければ、内大臣は良久有て、子息の中将車の尻に乗せて、衛府四五人、随身二三人被食具たり。各布衣にて、物具したる者は一人も不具給、最のどやかにて西八条へ被入けり。入道を奉始、一門の人々思はず思ひ給へり。弟の殿原何に係る大事の出来て侍にと口々に宣へば、内府は只今何条事か有べき、物騒き者かなと被静ければ、兵杖を帯給へる人々も、そゞろきてぞ見えける。入道は帽子甲に、萌黄の腹巻の袖付たるを著て、小長刀計にて立給たりけるが、大臣の挙動を遥に見て、急ぎ内に入、素絹の衣に脱替て、さらぬ体にて御座けり。内府は、さても大納言はいかに成給ぬるやらん、唯今の程には失ふまでの事はよもあらじとて見廻り給ふに、一間の障子を大なる木を打違て、蜘蛛手を結たる所あり。爰にこそと哀に悲くおぼして、立寄急ぎ音なひ給へば、大納言蜘蛛手の間より、幽に大臣を見付給、地獄にて罪人の地蔵菩薩を奉見らんも、是には争か可過と嬉さ不斜、泣々宣けるは、成親身に誤ありと不存、今かゝる憂目に逢て侍り、さて御渡あれば、去ともと憑思奉とて、
P0124
はら/\と涙を流し給ふも無慙也。大臣の返事には、人の讒言にぞ侍らん、御命計はいかにも申請ばやとこそ存ずれ共、入道腹悪き人にておはすれば、そもいかゞ(有朋上P170)侍らんずらんと憑気なく宣へば、いとゞ心細くおぼして、成親平治の乱に切らるべかりしを、御恩にて命を生られ奉りて、正二位の大納言に至り、歳四十に余りぬ、生々世々に難報謝、同は今度の命を助給へ、出家入道して高野粉河にも籠り、一筋に後世の勤仕らんと宣へば、重盛かくて侍れば、去共と思召るべし、御命にも替奉らんとこそ存ずれとて被起ければ、又奉見事もやと、遥に見送給ては、かひなき袖をぞ絞給ふ。少将も被召捕ぬるやらん、少者共の跡に残留るもいかゞ成ぬらんと■なし。身の悲さ、跡のいぶせさ思つゞけ給へば、熱さに難堪うへ胸塞て、晩を待ずして可消入こそおぼしけれ。内大臣の訪れつる程は、聊慰みて取延る心地也けるが、立帰給て後は今少心細く、悲被思ける。理と覚て哀也。
S0508 小松殿教訓事
小松内府、入道の許に参じ申給けるは、大納言を被失事は、能々可有御思案事也、六条修理大府顕季卿、白川院に召仕てより以来家久く成りて、位正二位、官大納言まで経上、君の御糸惜も不浅仁を、忽に被刎首事、いかゞ侍るべき、唯都の外へ出さ(有朋上P171)れん事足ぬべし。角は聞食ども、若僻事ならば弥不便の事に侍べし。北野天神は、時平大臣の依讒奏、西海の浪に流され、西の宮の大臣は、多田新発が依姦訴、山陽の霧に埋る、各無実なれ共被流罪給けり。皆是延喜の聖主安和の御門の御僻事とこそ申伝侍れ、上古猶如此、況末代をや。賢王猶御誤あり、況凡夫をや。委御尋もあり、能々御
P0125
案も侍べし、物騒き事は必後悔あり、既かく被召置ぬる上は、急不被失とも、何の苦か有べき。罪之重をば軽し、功之浅をば重くせよと云本文あり。何様にも今夜卒爾の死罪不可然と被申けれ共、入道いかにも心不行気に宣ければ、申請旨御承引なくば、侍一人に仰付て、先重盛が可被刎首、かかる乱たる世にながらへて、命生ても何の詮かは有べき。又重盛彼大納言の妹に相具し、維盛又聟也、傍親く成て候へば、角申とや思召るらん、一切其儀は侍ず、為世為家の事を思て歎申計也。我朝には嵯峨帝の御宇、左衛門尉仲成を被誅後、死罪を被止より以来廿五代に及しを、少納言入道信西が執権の時に相当て、絶て久き例を背き、保元の乱の時、多の源氏平氏の頸を切、宇治の左府の墓を掘、死骸を実検せし其酬にや、中二年こそ有しが、平治に事出来て、田原の奥に被埋たりし、信西が被堀起、頸を渡獄門の木に被懸き。是はさせる朝敵にあらね共、併(有朋上P172)挿絵(有朋上P173)挿絵(有朋上P174)保元の罪の報と覚て、恐しくこそ侍しか。是又させる朝敵に非ず、旁以可有恐、御身は御栄花残所なければ、思食置事なくとも、子々孫々までも繁昌こそあらまほしく侍れ。積善之家必有余慶、不善之家必有余殃とこそ承れ、去ば文王は太公望に命じて、四知己を恐れ、唐太祖は張蘊古を切つて後、五奏を被用、又行善則休徴報之、行悪則咎徴随之とも申す、父祖の善悪は必及子孫ともいへりなど、様々に被誘申ければ、入道余に口解立られて、実とや思給けん、今夜切事は止給にけり。内大臣は中門に出給、さも可然侍共を召集被仰含けるは、入道殿の仰なればとて、大納言を不可有失
P0126
事、腹の立給ふ儘に物劇事あらば、後に必悔み給べし、不拘制止ひが事して重盛恨な、経遠兼康が大納言に情なく当たりける事、返々も希恠也。重盛が還聞所をば、争か可不憚、哀景家忠清なんどならば、いかに仰を承りたりとも角はよもあらじ、かた田舎の者は懸るぞとよ、と仰られければ、大納言引張たりける備前国住人難波次郎経遠、備中国住人、妹尾太郎兼康、恐入りてぞ候ひける。其外の侍共は、舌を振てぞ、威合ける。大納言の供に有ける者、中御門高倉の宿所に走帰、上には西八条殿に召籠られさせ給ぬ。今夕可奉失とて、晩を待つとこそ承つれとて、有つる事共泣々細々と申ければ、(有朋上P175)北方より始て、男女上下声を揚てぞ叫びける。是は何故ぞや■し、夢かや夢かともだえ焦給けれ共、眠の中の歎ならねば猶うつゝ也、さこそ悲かりけめと被推量無慙也、何に角ては御座しますぞや、少将殿をも君達をも、一々に召とり進せんとこそ承りつれ、去ば叶はぬまでも、暫く立忍ばせ給へかしと申ければ、か程の事に成て隠れ忍びたらば、いかばかりの事ぞ、雉のかくれとかやの風情か、大納言殿の左様に成給ふ程にては、此身々ばかり安穏也共、甲斐あるまじ。只同じ草葉の露と消ん事こそ本意なれ。今朝を限の別ぞと思はざりける悲さよとて、北方臥倒て泣給ふ。げにもと覚て哀なり。兵既に来なんと人申ければ、遉角て憂目を見る事も、恥がましければ、一間戸も立忍ばんとて、尻頭どもなき小き人共、車に取のせ奉り、いづくを指て行ともなく遣出して、大宮を上りに、北山雲林院の辺まではおはしにけり。其辺なる僧坊に
P0127
下居奉て、送の者共も身々の難捨おそろしさに、皆散々に帰りぬ。今は無云甲斐小き人々ばかり留居て、又事問ふ人も無くて御座けん、北方の御心中推測べし。日影の暮行を見給に付ても、大納言の露の命今日を限と聞つれば、はや空き事にもやと思やり給ひては、絶入絶入し給ふも、いと悲し。取敢ぬ事也ければ、女房侍共もかちはだしにて恥をもしらず迷出ければ、見苦き物共を(有朋上P176)不及取認、門をだに押立る人もなし。只我先にと周章出けるも理也。馬屋には馬共鼻を並て立たりけれども、草飼舎人もなし。夜明れば馬車門に立并賓客座に列居て、遊戯れ舞踊、世は世とも思はれず、近き渡りの人々、物をだにも高もいはず、門前を過る者もおぢ恐れてこそ昨日迄も有つるに、夜のまに替る形勢、天上之五衰は人間にも有けりと哀也。此北方と申は、山城守敏賢の女也、建春門院の御乳母師人とて、御身近人、取り立て進られたりけるを、法皇浅からず思召て、十四歳より十六迄御糸惜みふかゝりしを、二条院御位の時御覧じて、忍々に御書を被遣、常には唯是へ参と云仰繁かりければ、師人も女院の思召所も憚覚れば、旁々内へ参られんは、然べしなどゆるされければ、法皇の御所をばまぎれ出て、十六の歳内裏へ参給て、互の御志深かりしが、中二年有て十九の歳、二条の先帝崩御の後は、雲井の月の昔語を忘かね、大炊御門高倉の雨織戸の内に、掻き籠て、渡らせ給しを、大納言の宿所、中御門の移徙の夜、師人に語寄押て取られ給しより、鸞鳳の鏡に影を并、鴛鴦の衾に枕を寄てこそ御座ましけるに、大納言被召捕給しより、楽み尽て悲み来り、北山雲林院の菩提講おこなふ処に、忍びておはしけり。
P0128
此大納言は余に誇て、戯れ事にも無由言すごす事も有けり。後白川院の近習者に、坊門中納言親信と(有朋上P177)云人、御座けり、右京大夫信輔朝臣の子也。彼信輔武蔵守たりし時、当国に下りて儲たりけるが、元服して叙爵し給たりければ、異名に坂東大夫と申けるが、兵衛佐に成たりけるにも、猶坂東兵衛など申けるを、新大納言、法皇の御前にて、戯て、やゝいかに親信、坂東には何事共かあると被申たりけるに、兵衛佐取敢ず、縄目の色革こそ多候へと答たりければ、大納言顔のけしき少替て、又物も宣ざりけり。此大納言は平治の乱逆の時、信頼卿に同心とて、六波羅へ被召しに、島摺の直垂著て、高手小手に縛られて、恥をさらしたりける事を思出て、縄目にそへて申たりけるにこそ。御前に人々あまた候はれける中に、按察使大納言資賢の後に常に宣ひけるは、兵衛佐はゆゝしく返答したりしものかな、成親卿は事の外に苦りたりし事様也とぞ被申ける。されば人は聊の戯言にも、人の疵をば云まじき事也けり。(有朋上P178)