『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十二

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遠巻 第十二
S1201 大臣以下流罪事
治承三年十一月十五日、入道奉恨朝家由聞えしか共、静憲法印院宣の御使にて、様々会釈申ければ、事の外にくつろぎ給たり。上下大に悦で、今はさしもやはと人々思被申けるに、四十二人の官職を止て、被追籠。その内参議皇太后宮権大夫兼右兵衛督藤原光能卿、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階泰経朝臣、蔵人右少弁兼中宮権大進藤原基親朝臣、以上三官被止。按察使大納言資賢卿、中納言師家卿、右近衛権少将兼讃岐権守資時朝臣、大皇太后宮権少進兼備中守藤原光憲朝臣、已上被止二官。上卿は藤大納言実国、職事左少弁行隆、別当平大納言時忠とぞ聞えし。
当時関白太政大臣基房公〈 松殿と申 〉をば、太宰権師に奉移、筑紫へ奉流。住馴し都を別れ、悲き妻子を振捨、遠旅に出させ給ければ、係る浮世にながらへて何にかはせんと覚召、つや/\物も進ず、御命も危く聞えさせ給けるが、思召切せ給ひ、大原の本覚坊の上人を召して、淀に古川と云所にて、御出家(有朋上P388)受戒あり、御年三十五。世中御昌りにて礼儀よくしろしめし、曇なき鏡にて御座つる御事をと、上下奉惜。入道は、出家の人をば、本の約束の国へは遣ぬ事にてある也とて、筑紫へはさもなくて、備前国湯迫と云所へぞ奉流ける。大臣流罪の事、左大臣蘇我赤兄、右大臣豊成公、左大臣魚名公、右大臣菅原、
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右大臣高明公、内大臣藤原伊周公等に至るまで六人也。されども清和帝御宇、摂政にて太政大臣良房〈 忠仁公 〉白川殿〈 又染殿 〉小松帝御宇、関白にて太政大臣基経、〈 昭宣公 〉堀川殿と申より以来、帝皇廿四代、摂録十八代、摂政関白流罪の事是を始とぞ申ける。按察使大納言資賢子息左少将通家孫、右少将雅賢三人京中を可追出由、博士判官中原章貞に被下知ければ、追立検非違使来て、遅々と責追けるこそいと悲けれ。恐しさの余に北の方に物をだにもはか/゛\しく不宣置、子孫引具して出給ふ。仮初のありきにだにも、馬よ牛よ輿ぞ車ぞとて、あたりを払、綺羅を研てこそ出入給しに、浅間敷賤がはきものわらぐつなど云物をはき給て出給へば、北方より始て女房侍に至る迄、無人を送出す様に喚叫事不斜。三人夜中に出給ける上に、落る涙にかきくれて、行先も見え給はず。心うや配所を何所とだに定ぬ事よと悲くて、九重の内を紛れ出て、八重立雲の外へ、足に任て這々、彼大江山、生野の道を越過て、丹波(有朋上P389)国村雲と云所にぞ暫さすらひ給ける。後には召返されて信濃国奥郡へ流され給けり。此資賢卿は今様朗詠の上手にて、院の近習者当時の寵臣にて御座しければ、法皇諸事内外なく被仰合けるに依て、入道殊にあたまれけるとかや。
同七日に妙音院太政大臣師長は、参河国へとは披露有けれども、実には尾張国井戸田へ流罪とて、都を出され給けり。此大臣は去保元元年に、中納言中将と申て、御歳二十にて御座ける時、父宇治悪左府の世を乱り給し事に依て、兄弟四人土佐国へ流され給たりけるが、御兄の右大将兼長卿も、御弟の左中将
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隆長朝臣も、範長禅師も、配所にて失給にき。此は九年をへて、長寛二年六月廿七日に被召返、其年の閏十月十三日に本位にかへし、次年八月十七日に正二位し給て、仁安元年十一月五日、前中納言より権大納言に移り給ふ。大納言のあかざりければ、員の外に加給けり。大納言六人になる事、是より始れり。又前中納言より、大納言に移る事も、先蹤希也とぞ承る。阿波守藤原真作の子後山階大臣三守公、源大納言俊賢の子、宇治大納言隆国卿の外、其例希也。此大臣は管絃の道に達し、才芸人に勝れ給て、君も臣も奉重しかば、次第の昇進不滞、程なく太政大臣に上らせ給へりしに、いかなる事にて又係御目に合せ給らんと、人々歎申けり。十六日の晩に、山階まで出奉りて、同十七日の(有朋上P390)暁深く出給へば、会坂山に積る雪、四方の梢も白して、遊子残月に行ける、函谷の関を思出て、是や此延喜第四の御子、会坂の蝉丸、琵琶を弾じ和歌を詠じて嵐の風を凌つつ、住給けん藁屋の跡と心ぼそく打過て、打出浜、粟津原、未夜なれば見分ず。抑昔天智天皇御宇、大和国飛鳥の岡本の宮より、当国志賀郡に移て、大津宮を造たりと聞にも、此程は皇居の跡ぞかしと思出て、あけぼのの空にも成行ば、勢多唐橋渡る程、湖海遥に顕て、彼満誓沙弥が比良山に居て、漕行舟の跡の白波と詠じけんも哀也。野路宿にも懸ぬれば、枯野の草に置る露、日影に解て旅衣、乾間もなく絞りつゝ、篠原の東西を見渡せば、遥に長堤あり。北には郷人棲をしめ、南には池水遠く清めり。遥の向の岸の汀には、翠り深き十八公、白波の色に移りつゝ、南山の影を浸ねども、青して滉瀁たり。州崎にさわぐ鴛鴦鴎
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の、葦手を書ける心地して、鏡宿にも著ぬれば、むかし扇の絵合に、老やしぬらんと詠じけんも、此山の事也。去程に師長は武佐寺に著給ふ。峰の嵐夜ふくる程に身に入て、都には引替て、枕に近き鐘の声、暁の空に音信て、彼遺愛寺の草庵の、ねざめも角やと思知れつゝ、蒲生原をも過給へば、老曽森の杉村に、梢に白く懸る雪、朝立袖に払ひ敢ず、音に聞えし醒井の、暗き岩根に出水、柏原をも過ぬれば、美濃国関山(有朋上P391)にも懸りつゝ、谷川雪の底に声咽嵐、松の梢に時雨つゝ、日影も見えぬ木の下路、心ぼそくぞ越え給ふ。不破の関屋の板廂、年へにけりと見置つゝ、妹瀬川にも留給ふ。此は霜月廿日に及ぶ事なれば、皆白妙の晴の空、清き河瀬にうつりつゝ、照月波もすみわたり、二千里外古人心、想像旅の哀さ最深し。去程に尾張の井戸田の里に著給。保元の昔は西海土佐の畑に被遷て、愛別離苦の怨を含、治承の今は、東関尾張国へ被流、怨僧会苦の悲を含給。但し心ある人は皆罪なくして、配所の月を見んと願事なれば、大臣彼唐太子賓客白楽天の、元和十五年の秋、九江郡の司馬に被左遷、潯陽江側に遊覧し給ける古きことに思慰て、鳴海潟塩路遥に遠見して、常は朗月を望、浦吹風にうそぶきつゝ、琵琶を弾じ和歌を詠じて、等閑に日を送り給けり。或夜当国第三宮、熱田の社に詣し給へり。年へたる森の木間より、漏り来月のさし入て、緋玉垣色をそへ、和光利物の榊葉に、引立標縄の兎に角に、風に乱るゝ有様、何事に付ても神さびたる気色也。此宮と申は、素盞烏尊是也。始は出雲国の宮造りして、八重立雲と云三十一字の言葉は此御時より始れり。景行天皇御宇に此
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砌に跡をたれ給へり。(有朋上P392)
S1202 師長熱田社琵琶事
師長公終夜為神明納受、初には法施を手向奉り、後には琵琶をぞ弾じ給ける。調弾数曲を尽し、夜漏及深更で、流泉、啄木、揚真藻の三曲を弾給処に、本より無智の俗なれば、情を知人希也。邑老村女魚人野叟参り集り、頭を低欹耳といへども、更に清濁を分ち、呂律を知事はなけれ共、瓠巴琴を弾ぜしかば魚鱗踊躍き。虞公謌を発せしかば、梁塵動揺けり。物の妙を極る時は、自然の感を催す理にて、満座涙を押へ、諸人袂を絞けり。増て神慮の御納受さこそは嬉く覚すらめ。暁係て吹風は、岸打波にや通らん、五更の空の鳥の音も、旅寝の夢を驚す。夜もやう/\あけぼのに成行ば、月も西山に傾く。大臣御心をすまして、初には、
  普合調中花含粉馥気、流泉曲間月挙清明光、 
と云朗詠して、重て、
  願以今生世俗文字業狂言綺語之誤、翻為当来世々讃仏乗之因転法輪之縁、
〔と〕被詠て、御祈念と覚しくて、暫物も仰られず。良ありて御琵琶を掻寄て、上玄石像と云(有朋上P393)秘曲を弾澄給へり。其声凄々切々として又浄々たり。■々窃々として錯雑弾、大絃小絃の金柱の操、大珠小珠の玉盤に落るに相似たり。御祈誓の験にや、御納受の至か、神明の感応と覚くて、宝殿大に動揺し、■振玉の簾のさゞめきけり。霊験に恐て大臣暫琵琶を閣給けり。神明白貍に乗給示して云、我天上にしては文曲星と顕て、一切衆生の本命元辰として是を化益し、此国に天降ては、赤青童子と示し
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て、一切衆生に珍宝を与、今此社壇に垂跡して年久。而を汝が秘曲に不堪、我今影向せり。君配所に下り給はずは、争此秘曲を聞べき、帰京の所願疑なし、必復本位給べしと御託宣有て、明神上らせ給たりしかば、諸人身毛竪て奇異の信心を発す。大臣も平家係る悪業を致さずは、今此瑞相を可奉拝や、災は幸と云事は、加様の事にやと感涙を流し給ても、又末憑しくぞ覚しける。抑此曲と申は、仁明天皇御宇、承和二年に、掃部頭貞敏、遣唐使として牒状を賜り、観密府に参じ、上覧に達して、琵琶の博士を望申れしに、開成二年の秋の比、廉承武を被送て、秘曲を被授、我朝に伝しは、流泉、啄木、楊真操の三曲也。其後村上帝御宇、朗月明々として澄渡り、秋風さつ/\として物哀なる夜、御心をすまし、昼御座の上にして、玄象と云琵琶を、水牛の角の撥にて弾じすまさせ給ひ、小夜深人定るまで(有朋上P394)唯一人御座有けるに、一叢の雲南殿の廂に引覆、影の如なる者空より飛参て、琵琶の音に合て舞侍ければ、何者ぞと問せ給ふ。我は是大唐の琵琶の博士、劉次郎廉承武也。琵琶を極て仙を得たり。御琵琶の撥音のいみじさに参たり。去承和の比、遣唐使貞敏に三曲を授て今二曲を残せり。君の玄象の御調べの目出きに、貞敏に惜て秘蔵したりし曲也、授奉んと申せば、聖主叡感の気まし/\て、御琵琶を差遣たりければ、掻直して、此は廉承武が琵琶也、貞敏に二賜ひたりし内也と申て、終夜御談話有て、上玄、石象の二曲を奉授、仙人即飛去ぬ。帝御名残惜く思召、雲井遥に叡覧ありて、感涙を流させ給し曲也。三曲と云時は、流泉、啄木、楊真操是也。五曲と云時は、上玄、石象を具すとか
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や。係る目出き曲なれば、廉承武も貞敏には惜て伝ざりし曲也。玄象と云も、又彼仙人の琵琶也。希代の重宝なりければ、清暑堂の御厨子に、ふかく被納たり。
 < 異本に云、此曲と申は、かたじけなく、霊仙玉廂軒にして操学、神楽につたへし妙調、堯採館の月の下に、承武が攘■に立翔り、天子にさづけし秘曲也。>
此師長公、保元の昔西国へ流され給しに、年十二三計と見えて、優なる童一人御舟に参て、朝夕に仕へけり。彼国近く成て、童暇を申て罷さらんとしければ、大臣怪之、汝は何の国のいかなる者ぞと問給へば、京都に侍る者也、(有朋上P395)君の流罪の由を承て、路の程の御徒然に参りたりと申す。都にても御覧たりとも覚えず、京は何所ぞと尋給ければ、大内裏に常に出入侍也と申。我内裏に奉公して年久し、去共懸る童在とも不覚者をやとて、能々尋給ければ、清涼殿の御節の箱に、玄上と申琵琶也とて、掻消様に失にけり。されば師長流罪の後は、玄上の甲はなれ絃切て、天下の騒にぞ有ける。理や西国までまし/\たりければ也。此大臣配所の徒然を慰まんとて、宮路山へ分入給つゝ、木々の紅葉を遊覧あり。此は十月二十日余の事なれば、梢まばらにして、落葉道を埋、白霧山を阻て、鳥声幽也。山又山の奥なれば、旅寝の里も見えざりけり。後は松山峨々として、白石滝水流れ出、苔石面に生て、嵐尾上の冷、誠に石上珍泉の便を得たる勝地あり。御心の澄ければ、上玄の曲を調つべくぞ覚しける。岩の上に虎皮の御敷皮を打しき、紫藤の甲の御琵琶一面を掻すゑて、撥をとり絃を打鳴し給へり。四絃弾
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の中には、宮商弾を宗とし、五絃弾の中には、玉しやう弾を先とす、軽■慢撚て撥復挑、初為霓裳、後には六幺す。大絃は■々如急雨、小絃窃々如私語、第一第二絃の声は索々たり。春の鶯関々として、花本に滑也。第三第四絃の声は窃々たり。閑泉幽咽して氷の下眤、鳳凰鴛鴦の和鳴の声を添へずといへ共、事の体山祇感をたれ給らんと(有朋上P396)覚えたり。さびしき梢なれ共、萩花啄木は空に玲瓏の響を送る。其時水の底より青黒色の鬼神出現して、膝拍子を打て、和に厳き音を以て、御琵琶に付て唱歌せり。何者の仕業なる覧と覚束なし。曲終り撥を納給時、我は是此水の底に多の年月を経しかども、未是ほどの面白く、目出き御事をば承及ばず、此御悦には今十日の内に帰洛せさせ奉らんと、申も終らず掻消様にぞ失にける、水神の所行といちじるし。此等の事を思召合するにも、悪縁は即善縁の始なりけりと、今さら思ひ知給ふ。されば明神の御託宣水神の悦申の験にや、第五箇日と申に、帰洛の奉書を被下たり。管絃の音曲を極て、当代までも妙音院の大相国と申は、此大臣の御事なり。
 < 治承三年に流され給て、同四年に召返ありと。>
此大臣帰洛の後有御参内。御前にて琵琶を調べ給ければ、月卿雲客頭をうなだれ、廉中堂上目をあやにして、何なる秘曲をか弾じ給はんずらんと被思けるに、珍しからぬ還城楽をぞ弾じ給ふ、皆人思はずに思へりけり。去共大臣御心には深き所存御座けり。還城楽とは、都に帰て楽と云読のあれ
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ば、昨日は東関の外に被遷、草庵に懶住居也しか共、今日は北闕の内に仕て、槐門に楽み栄えて御座ければ、此曲を奏し給ふも理也と、後にぞ思合られける。(有朋上P397)
S1203 高博稲荷社琵琶事
高博と云し人の母、重病を受て存命不定なりしが、逝て不還ば、盛年、別て会がたきは悲の親也。いかゞせんとて、様々労けれ共、終に療治の効なかりければ、稲荷社に七箇日参篭して、母の病を祈申けり。第七日の夜及深更、心を澄て琵琶を抱て、上玄石象の曲を弾ぜしに、折節御前の燈炉の火消なんとしけるを、御宝殿の内より金の扉を押開き、玉簾を巻上て、丱童一人出現し、燈をぞ挑ける。高博奉拝之、神慮の御納受憑しく覚て、即下向したりければ、母の重病たちどころに平愈して、更に恙ぞなかりける。懸る目出き秘曲也、争か輙聞給べきに、適大臣の依配流此曲を弾ぜしかば、熱田大明神も御納受ありけり。左衛門佐業房は伊豆国へ流し遣さる。備中守光憲は罪科せられぬ前に、無由とて本どり切て引籠りぬ。源判官遠業は、四十二人の罪科之内と聞て、さては難遁身にこそ、伊豆国の流人、前兵衛佐殿こそ、思へば末たのもしき人なれ、打憑み下りたらば、自然に遁るゝ事も有なんとて、子息相具して、瓦坂の家を打出、稲荷山に籠て醍醐の山を伝ひ、田上通に野路の原より関東へ下んと思立たりけるが、抑兵衛佐殿と云も、世に有人(有朋上P398)にてもおはせず、左右なく請取給事も不定也、又平家の人々在々所々に充満たり、中々路頭にて云甲斐なく被討捕、恥を見ん事心うしと思返、瓦坂の家に打帰て、屋に火を懸て父子二人手を取組て、炎中に飛入て焼死にけり。鳴呼がましき
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様には云けれども、時に取てもゆゝしき剛者、哀也と云者も多かりけり。此外の人々も、只今いかなる事をかきかんずると周章騒ぎて、安堵の思なかりけり。
近衛入道殿下をば、其時は中殿とぞ申ける。其御子に、二位の中将とて御座けるを、太政入道聟に奉取て、一度に内大臣より関白になし奉る。大納言をへずして、二位中将より大臣関白になる事其例なし、是ぞ始なる。節会も行はれ、大臣召の有事もあり、先例ある事にや。上卿も宰相も、大外記大夫の史までも、皆あきれ迷て肝心も身に副ぬ体也けり。去ば是何故ぞと■なし。昔堀川関白忠義公 兼通、従三位権中納言にておはしけるが、一条摂政殿失給たりしに、天禄三年十一月廿七日に、俄に大納言をへ給はず、中納言より内大臣に成給て、内覧の宣旨を被下たりしこそ、珍しき事と人思へりしに、是は非参議して、大臣摂禄、ためしなき事也。
去々年の夏、成親卿父子、法勝寺執行俊寛、北面の下搴、が、事にあひしをこそ、君も臣も浅猿と被思召しに、是は今一きはの事也、今関白に成給へる、二位中将殿の、中納言に成(有朋上399)給べきにて有を、太政入道三度まで執申されしを、御免なくして、前関白殿の御子、三位中将師家の、八歳になり給へるが、傍より押違へて成給へる故也。されば静憲法印にも被怨申ける其一也と人申ければ、さらば関白殿計こそ事にもあひ給ふべきに、四十余人まで罪なるべしや、何様にも直事には非ず、是は偏に入道に、天魔の入替たるにやとぞ申ける。
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S1204 教盛夢忠正為義事
去保元年中に、新院讃岐に遷され御座し、左府流矢にあたり給ひ、般若野に奉送たりけるを、信西が計ひとして左府の御首を掘起して被実検、首を山野に奉捨、新院讃岐国にて、五部大乗経を御書写ありて、是を都近き所に納奉らせんと仰けるを、是も信西が計ひとして、入れ進せざりければ、新院口惜事也、我身にこそ角憂目を御覧ずとも、大乗経何の咎御座てか都の内に入せ給はざるべき、今生の怨のみに非ず、後生まで敵にこそとて、思死に隠させ給しかば、旁の怨霊の故にや、打続世の中静ならず。依之去年七月に讃岐院を神と奉祝、崇徳院と御追号あり。宇治左府には贈位とて、正一位を宣下あり(有朋上P400)けれ共、怨霊猶しづまり給はざりけるにや、平中納言教盛の夢に見給ひたりけるは、保元に討れし、平馬助忠正、六条判官入道為義、大将軍と覚しくて、数百騎の勢共有ける中に、或柿衣に不動袈裟係たり、或鴟甲に鎧著たり、或首丁頭巾に腹巻きたりなんどして、讃岐院を張輿にのせ奉て、木幡山の峠に舁すゑ奉て、可奉入都由評定しけり。新院の御貌を奉見ば、足手の御爪長々と生、御髪は空様に生て、銀の針を立たるが如し。御眼は鵄の目に似させ給へり。是も柿の衣をぞ召たりける。為義申けるは、西国より遥々と是まで上著ぬ。抑君をば何所へ可入進やらんと申せば、忠正子細にや及べき、法皇の御所法住寺殿へと云。為義其は叶候はじ、院御所は当時天台座主御修法にて、不動大威徳門々を守護し給へり、輙入れ奉り難しと申せば、さてはいかゞ有べきと、種々に評定しけるに、新院仰の有けるは、御所に成べき便宜の所なくば、只太政入道の宿所へ入進せよと仰けれ
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ば、さらば舁進せよやとて、忠正は前輿為義は後輿を仕て、数百騎の者共手々に奉捧て、入道の宿所西八条へ入進するとぞ見えたりける。教盛卿は夢覚給たりけれ共、猶現とは思はれず、此由角と内々申給けれ共、入道はさる片顔なしの人にて、更に用給はざりける上、げにも怨霊のよく入替給たりけるにや、現心もなく物狂しくして、天下(有朋上P401)を乱り臣下を悩す。入道猶腹をすゑ兼たりと聞えければ、残る人々も今いかなる事を聞んずらんと、肝魂を消す。馬も車も騒しく通れば、あは何事やらんと浅増く、大路門に人の物を云ば、我身の上かと心噪くして、貴も賤も安堵の思ひぞなかりける。
S1205 行隆被召出事
前左少弁行隆と申人御座けり。故中納言顕時卿の長男にて御座しが、二条院の御代に近召仕れ奉て、弁に成給へりし時も、右少弁長方を越て、左に加り給へり。五位正上し給へりし中にも、顕要の人八人を越などして、優々しかりしが、二条院に奉後て時を失へり。仁安元年四月六日より、官を止られて篭居し給しより、永く前途を失て、十五年の春秋を送つゝ、夏冬の更衣も力なく、朝暮の食事も心に叶はで、悲の涙を流し、明し暮させ給けり。十六日の狭夜更程に、太政入道より使とて、急ぎ立寄給へ、可申合事ありと、事々敷云ければ、行隆何事やらんと、うつゝ心なく騒給へり。此十五年の間何事も相綺事なし、身に取て覚る事はなけれ共、上下事にあふ折節なれば、若謀叛などに与する由、人の讒言に依て、成親卿の被引張し様にやと振わなゝき、思はぬ事もなく思はれけれ(有朋上P402)共、何様にも行向てこそ、兎にも角にも機嫌に随はめと思ひて、憖に参ずべき由、返事はし給たりけれ共、装束
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牛車もなかりければ、弟の前左衛門権佐時光の本へ、係る事と歎遣したりければ、牛車雑色装束ども、急ぎ遣したり。軈て取乗て出給ふ。北方より子息家人に至るまで、何事にかと肝心を迷て泣悲、左右なく出給べからず、よく/\世間をもきき、太政入道の気色をも伺ひ給てこそと、口々に申けり。理也、上揄コ搓゚科せられて、東国西国へ被流遣折節なれば、留め申さるも道理也。行隆は不参は中々様がまししとて、西八条へ御座しつゝ、車より下、わなゝく/\、中門の廊に居給へり。入道やがて出合て見参して宣けるは、故中納言殿も親く御座上、殊に奉憑大小事申合せ進候き。其御名残とてましましせば、疎にも不奉思、御篭居久く成をも歎存侍しかども、法皇の御計なれば力及ばず過ぬ。今は疾々御出仕有べしと宣ければ、左も右も御計に随ひ奉べしとて、ほくそ咲て出られぬ。宿所は還て入道のかくいはれつると語給へば、北方より始て、出給ひつる心苦さに、今は皆泣笑して喜合給へり。後朝に源大夫判官季貞を使として、小八葉の車に、入道殿の秘蔵の牛係て、牛飼の装束相具し、百石の米、百匹の絹、被送遣ける上に、今日軈弁に奉成返と有ければ、大形嬉などは云計なし。手の舞足の踏所を(有朋上P403)忘たり。被免出仕だにも有難に、さしも貧しかりつる家中に、百石百匹牛車を見廻し給ひけん心中、唯推量るべし。一門の人々も馳集、家中の者ども寄合て酒宴歓楽しても、抑是は夢かや/\とぞ云ける。十七日に右中弁親宗朝臣の被追籠たりける、其所に行隆成かへり、同十八日に五位蔵人に成り給けり。今年五十一、今更若やぎ給ふも哀也。
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S1206 一院鳥羽篭居事
同二十〔一〕日、院御所七条殿に軍兵如雲霞馳集て四面を打囲、二三万騎もや有らんとぞ見えける。御所中に候合たる公卿殿上人、上下の北面女房達、こは何事ぞとあきれ迷けり。昔悪右衛門督信頼卿、三条殿を仕たりし様に、御所に火を懸て、人をも皆可焼殺なんど云者も有ければ、局々の女房女童部までをめき叫、かちはだしにて、物をだにも打かづかず迷ひ出て、倒れふためきて騒合り。理也。法皇は日比の有様、事の体御心得ぬ事なれ共、流石忽に懸べしとは思召よらざりけるに、まのあたり心憂事を叡覧ありければ、只あきれてぞ渡らせ給ける。御車寄には前右大将宗盛卿参給へり。法皇の仰には、こは何事(有朋上P404)ぞ、遠国へも遷し人なき島にも放つべきにや、左程の罪有とこそ思めさね、主上さて御座せば世務に口入する事計にてこそあれ、其事不可然、向後は天下の事にいろはでこそあらめ、汝さてあれば、思放つ事はよもあらじとこそ思召せ、其にいかにかく心憂目をば見するぞと仰られもあへず、竜眼より御涙をはら/\と流させ給けり。大将も見進せては涙を流被申けるは、指もの御事は争有べき、世間鎮らんまで、暫く鳥羽殿へ移し進せんとぞ、入道は申侍つると被申ければ、左も右も計にこそと仰もはてさせ給はぬに、御車を指よせて大将軈て御車寄に候はれけり。御経箱計ぞ御車には入させ給ける。御供をも仕れかしと御気色の見えければ、宗盛卿心苦く思進て、御供候て見置進たくは思給ひけれども、入道いかゞ宣はんずらんと恐さに、涙を押へて留り給ふ。公卿殿上人の供奉する一人もなし、北面の下搏三人ぞ候ける。御力者に金行法師は、君はいづくへ御幸有て、何と
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ならせ給やらんとて、御車の後に、下揩ネればかきまぎれて泣々ぞ参ける。其外の人々は、七条殿よりちり/゛\に皆帰にけり。御車の前後左右には、軍兵いくらと云数を不知、打囲て、七条殿を西へ朱雀を下に渡らせ給ければ、上下貴賤の男女迄も、法皇の流され御座と■り見進ければ、御供の兵までも涙をぞ流しける。鳥羽の北殿(有朋上P405)へ入進せけり。平家の侍に肥前守泰綱奉て奉守護。御所には然べき者一人も候はず、右衛門佐と申ける女房の、尼に成て、尼御前をば略して、尼ぜと申ける計ぞ免されて候ける。唯夢の心地してぞ御座ける。供御進たりけれ共、御覧じ入るゝ御事なし、不尽けるは、唯御涙計也。門の内外には武士充満して所もなし、国々より駈上せたる夷共なれば、争か御覧じ知せ給べき。つへたましげなる顔気色、うとましげなる事様也。大膳大大業忠、其時は兵衛尉とて十六に成けるを召れて、朕は今夜失はれぬと覚る也、最後の御所作の料に、御湯召されたきは叶はじや、水などは冷じく思召にと仰ければ、業忠今朝よりは肝魂も身に添はず、只音魂計にて有けるに、此仰を奉て、いとゞ絶入心地して、物も覚えず悲かりけれ共、狩衣の玉襷上て、水を汲たれども薪もなし。縁の束柱を放集てたき物として、御湯構出して進たりければ、御湯懸召て泣々御行始りて後は、終夜法華経をぞ遊しける。最後の御勤と思召ければにや、例よりも殊に物悲くて、鈴の響も耳に透り、読経の御音も肝に銘ず。二聖二天、十羅刹女も、十三大会、菩薩聖衆も、いかに哀と覚しけん、今夜別の御事なくて明にけり。去七日の大地震、係る浅増き事の有べくて、十六洛叉の底迄も答つゝ、竪牢地祇、竜神
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八部も驚騒給けるにこそと覚たれ。陰陽頭泰親(有朋上P406)が馳参て泣々奏聞しけるも、今こそ被思知けれ。彼泰親は、清明六代の跡を伝て、天文の淵源を尽し、占文の秘枢を極めたり。推条は掌をさすが如く、卜巫は眼に見に似たり。一事も違事なければ、異名には指神子とぞ云ける。されば雷落懸たりけれども、少も恙なかりけり。十二神将をも進退し、三十六禽をも相従けり。いか様にも、正身の神歟仏歟、非直人とぞ申ける。
S1207 静憲鳥羽殿参事
静憲法印入道の許へ行向て被申けるは、法皇を鳥羽の御所に移し入おはすなるは、如何なる御咎の御座候やらん、一日承し御憤の未はれさせ給はぬにや、人一人も不付進と承ば、想像進て心苦く覚侍るに、蒙御免参て、御徒然をも慰め進ばやと被申たり。此法印はうるはしき人、濁れる世をも澄し、事あやまるまじき者なれば、何か苦からんと被免けり。法印悦で宿坊へも帰らず、軈て鳥羽殿へ参給へり。法皇は御経高らかに遊して、御前には人も候はず、法印急ぎ音なひて参たりけるを叡覧有て、強にうれしげに覚しつゝ、あれはいかにと仰もはてず、はら/\とこぼるゝ御涙は御経の上にぞ懸ける。(有朋上P407)法印も御有様を見進て、御心中さこそはと忝く覚ければ、やがて裘の袖を顔にあてて、音も惜ず泣給。尼ぜも臥沈たりけるが、法印被参たりけるに、力付て起あがり、泣々申けるは、昨日の朝七条殿にて貢御進たりし外は、夕も今朝も御熟米をだにも御覧じ入させ給はず、永き夜すがら御寝もならず、御歎のみ御心苦げに渡らせ御座せば、ながらへさせ給はん事もいかゞと覚るとて、又さめ/゛\となかりけり。法印心を定めて申されける、此事更に歎思召べから
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ず。平家は凡人と申ながら、家を興し世を取て、天下を我儘にして、二十余年の栄耀にほこるといへ共、何事も限あり、彼等は臣下也、君は国主に御座、忝も御裳濯川の御末、百王億載の御ゆづりを受させ給へり。草木風に靡きて、枝全く、万物地に依て生長す、非情の心なき猶以如此、況人臣として、朝家を嘲、在下上を蔑にせん事、いざ/\例多といへども、素懐をとげたる者なし、遠は三年を過ず、只今天の責を蒙なんず、是は偏に天魔入道に入替て、其家の正に亡んずる也、御歎に及ばず、只今こそ角渡らせ給とも、伊勢太神宮、八幡大菩薩、殊には君の憑み思召さるゝ、山王七社、両所三聖、よも捨果進せ給はじ、災妖不勝善政、夢怪不勝善行と申事侍ば、只先非を悔させ給ひ、人民に恵を施し、政務に私あらじと思召ば、天下は忽に君の御代に立返、(有朋上P408)悪徒は必水の泡と消失ん事疑なし、御心づよく思召べしとて、貢御勧め被申ければ、いさゝか慰む御心地とて、御湯づけ少聞召入られけり。尼ぜも力付て覚えけり。此尼ぜと申は、法皇の御母儀侍賢門院の御妹、上西門院にも候はれけるが、品いみじき人にては無りけれども、心様さか/\しき上、一生不犯の女房にておはしければ、清き者也とて、法皇も幼稚の御時より近く召仕はせまし/\ければ、臣下も君の御気色に依て、尼御前とはかしづきよばはれけるを、法皇はたゞ尼ぜとぞ仰ける。鳥羽殿の唯一人付進せて候けり。君舟臣水、々治浪舟能浮水、湛波舟又覆と云ふ事あり。太政入道保元平治両度の合戦には、御方にて凶徒を退て君を助奉りき。水波を治めよく舟を浮たり。治承の今は勲功の威に誇て君を褊し奉る、水
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波を湛て舟を覆す憂あり。貞観政要の文、実也とぞ覚たる。
S1208 主上鳥羽御篭居御歎事
主上は臣下のかく成るをだにも、不便の事に歎き思食けるに、法皇の御事聞召ては、不斜御歎き有て、何事もおぼし召入ぬ御有様にて日を経つゝ、はか/゛\しく貢御も進ず、打(有朋上P409)解御寝もならず、御心地悩しとて、常は夜のおとゞに入せ御座ければ、后宮を始進せて、近く候はれける女房達も、心苦く見進ける。内より鳥羽殿へ御書あり。世もかくなり君も左様に御座ん上は、位に候ても何にかは仕べき、花山法皇の御座けん様に、国を捨家を出て、山々寺々をも修行せんと思食とまで、申させ給たりければ、法皇、我御身は君のさて御座をこそ憑にて候へ、さやうに思召立なん後は、何の憑かは侍べき、左も右も此身のならん様を御覧じ終させ給へと、様々の御返事有ければ、いとゞ御歎の色深して、御書を竜顔にあてさせ御座して、御涙に咽せ給けるぞ悲き。太政入道は天下の大小事一筋に、内の御計に有べしとて、福原へ下向あり。宗盛此由を被奏聞。思召れけるは、主上聟也、天下を我儘にせんとや、法皇の御譲をえたる御世にも非ず、縦さりとても、法皇鳥羽殿に御心憂御形勢に御座す、何のいさみ有てか、世事を可聞召入、我御心に任する世ならば、法皇をぞ打籠進せざらんと被思召けるにや、いかにも宗盛可相計、又関白に申せとぞ仰は有ける。只明ても暮ても法皇の御事をのみ歎思食て、世事はつゆ御計ひなかりけり。去二十日法皇鳥羽殿へ移らせ給と聞食し後は、御神事とて、夜のおとゞへ入せ給ひ、毎夜に石灰の壇にて、太神宮をぞ拝し奉らせ給ける。法皇の御事を祈申させ給ける(有朋上P410)にこそ、
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同父子の御間なれども、殊に御志深かりけるこそ哀なれ。見進せける余所の袂も乾く間ぞなかりける。百行の中には孝行を先とし、万行の間には、孝養勝たり、如来万徳の尊孝を以て正覚を成、明王一天の主、孝を以て国土を治といへり。去ば唐堯は衰老の母を貴、虞舜は頑なる父を敬へり。延喜の聖主は我朝の賢帝に御座けれども、北野天神の御事に依て、寛平法皇の背仰給て、悪道に入せ給けり。二条院も賢王にて御座けれ共、天子に父母なしとて、常に法皇の背仰申させ給ける故にや、継体の君までも御座さず、先立せ給、御ゆづりを受させ給たりし六条院も、御在位僅に三箇年、五歳にて御位を退せ給ひ、太上天皇の尊号ありしか共、未御元服もなかりしに、御年十三にて、安元二年七月二十七日に隠させ給にき、哀也し御事也。
鳥羽殿には月日の重に付ても、御歎は浅からず、折々の御遊、所々の御幸、御賀の儀式の目出かりし、今様朗詠の興ありし事、扇合絵合までも、忘るゝ御隙なく、只今の様にぞ被思召出ける。自参よる人もなし。理也、法皇も恐思食て召れず、大相国も免し給はざりければなり。唯秋山の嵐烈く、軒ばをつたふ友となり、古宮の月さやけくして、涙の露に影を宿す、夜深しては枕に通砧の声、御寝の夢を覚し、暁かけては氷を碾車の音、老牛心を傷しむ。御眼に遮る物(有朋上P411)とては、昇せ煩ふ策の火、叡慮にかゝる事とては、いつまで旅の襟ひ、白雪庭を埋ども、道を払人もなく、結氷も池を閉て、群居鳥だに見えざりけり。大宮大相国伊通、三条内大臣公教、葉室大納言光頼、中山中納言顕時など申し人々
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も被失にき。古人とては民部卿親範、宰相成頼、左大弁宰相俊経なんどの御座せしも、此代の成行有様を見給て、左も右も有なん、大中納言に成たりとも、只夢なるべしとて、未四十にだにも成給はざりける人々の、忽に世を遁れ家を出て、親範は大原の霞に跡を隠し、成頼は高野の雲に身を交へ、俊経は仁和寺の閑居をしつらひて、偏に後世菩提をこそ被祈けれ。漢四皓は商山の洞に住、晉七賢は竹林の庵に隠、首陽山に蕨を採、頴川の水に耳を洗し人も有ける也。まして此世には、心あらん者、一日も跡を留むべきにあらざりけり。中にも宰相入道成頼、此事共を伝へ聞給ては、哀うれしくも心とく世を遁たるもの哉、角て聞も同事なれども、世に立交てまのあたり見ましかば、いかばかりか心憂からまし、保元平治の乱をこそ浅猿と思ひしに、世の末になればにや、弥増々々に成行たり。此後又如何あらんずらん。雲を分ても上、地を堀ても入ぬべくこそ覚ゆれとぞ宣ける。賢も思切給へる人々也と、叶ぬ身にも申けり。
治承四年正月元三の間も、鳥羽殿には参寄人もなし。藤中納言成範、(有朋上P412)左京大夫修範是二人ぞ被免候ける。年去年来れ共、くつろがせ給御事もなし。筧のつらゝの心地して、閉籠られさせ給たるぞ哀しき。二十日春宮の御袴著、御まな始可聞召とて、花やかなる御事共世間には■りひそめきけれ共、法皇は御耳のよそにぞ被聞召ける。
S1209 安徳天皇御位事
二月十九日、春宮位に即せ給。安徳天皇と申、僅に三歳にぞ成せ給、いつしかなり。先帝も異なる御事
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もましまさね共、我御孫子を付奉んためにおろし奉る。是も太政入道の、万事思様なる故也と、人々私語傾申けり。平大納言時忠卿聞之被申けるは、なじかはいつしか也と申べき、異国には周の成王三歳、晋穆帝二歳、皆襁褓の中に裹れて、衣帯を正くせざりしか共、或は摂政負て位につき、或は母后懐て朝に望といへり。後漢孝殤皇帝は、生て百余日にて践祚ありき、我朝には近衛院三歳、六条院二歳、これ皆天子の位を践給ふ、非無前蹤、なじかは人の傾申べきと嗔り宣ければ、是の才人達、穴おそろし/\物云はじ、去ば其は吉例にやは有とぞつぶやきける。春宮位に即せ給けれ(有朋上P413)ば、外祖父、外祖母とて、太政入道夫婦ともに、三后に准る宣旨を蒙て、年官年爵を賜て、上日の者を被召仕ければ、絵書花付たる侍ども出入て、院宮の如にてぞ有ける。出家入道の後も、なほ栄輝名聞は尽ざりけりとぞ見えし。出家の人の准三后の宣旨を蒙事は、法興院の大入道殿の御例とぞ承る。大入道殿とは、九条右丞相師輔の第三男、東三条太政大臣兼家の御事也。かくはなやかに目出き事は有けれども、世中は不穏。
S1210 新院厳島鳥羽御幸事
三月十七日には、新院安芸国一宮厳島の社へ可成御幸由披露有ける程に、諸寺諸山騒動して、京中の貴賤何となく騒合ける上、山門の衆徒僉議しけるは、帝王位を退せ給ては、必ず先八幡賀茂両社の御幸有て、其後何れの社へも思召立御事也。但白川院【*白河院】は、先熊野御参詣、後白川院【*後白河院】は先日吉の御幸有き。去ば任先例、此神々へこそ先可有御幸に、不思寄厳島御参詣也、速に可被停止。此上猶御幸
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あらば、京中に打入て、可及狼藉之由蜂起すと聞召ければ、俄に又思食止らせ給ぬと聞えけり。新院猶御宿願を果さんと思召けるに依て、内々は其御用意にて、供奉の人々も忍て被仰合けれども、山門(有朋上P414)の訴訟も煩はしとて、よそ聞には鳥羽殿へ御幸と御披露有て、十八日の夜、太政入道の宿所、西八条へ入せ給て、前右大将宗盛を召て、明日鳥羽殿へ参ばやと思召御事あり、入道に不相触しては叶はじやと、仰も終ぬに、竜眼に御涙を浮めさせ給ければ、大将も哀に覚て、宗盛角て候へば、何かは苦かるべきと被申けり。不斜御悦有て、去ば鳥羽殿へ御気色申せと仰ければ、大将急其夜の中に被申たり。法皇は覚御心もなく悦び御座して、余に恋しく思召御事とて、夢に見つるやらんとまで仰けるこそ哀なれ。
十九日には鳥羽殿へ御幸とて、西八条を夜中に出させ給けり。比は三月半余の事なれば、雲井の月は朧にて四方の山辺も霞こめ、越路を差て帰鴈、音絶々にぞ聞召。御供の公卿には藤中納言家成卿の子息に、師大納言隆季、前右馬助盛国の子息に、五条大納言邦綱、三条内大臣公教の子息に、藤大納言実国、前右大将宗盛、久我内大臣雅通の子息に土御門宰相中将通親、殿上人には、隆季の子息に、右中将隆房朝臣、中納言資長子息に、右中弁兼光朝臣、三位範家子息に、宮内少輔棟範、公卿五人、殿上人三人、北面四人、十二人ぞ候ける。新院、鳥羽殿にては門前にして御車より下させ給ひて入せ給けり。暮行春の景なれば、梢の花色衰、宮の鶯音老たり。庭上草深して、宮中に人希也。指入せ給より、
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御涙ぞすゝませ給け(有朋上P415)る。去年正月六日朝観の御為に、七条殿の行幸思召出させ給ても、只夢の御心地にぞまし/\ける。彼行幸には、諸衛陣を引、諸卿列に立、楽屋に乱声を奏し、院司公卿参向て、幔門を開き、掃部寮の筵道をしき、正しかりし御事也しかども、是は儀式一事もなし。成範中納言参給て、御気色被申ければ、入せ御座けり。法皇も新院も、御目を御覧じ合せまし/\て、互に一言の仰はなくして、唯御涙に咽ばせ給けり。少し指退きて尼ぜの候けるが、御二所の御有様を見進て、うつぶしに臥て泣けり。良久有て、法皇御涙を推のごはせ給て、何なる御宿願にて、遥々と厳島まで思召立せ給にやと、申させ給ひければ、新院は深く祈申旨候と計にて、又御涙を流させ給。法皇は此身の角打籠られたる事を、痛く歎かせ給ふなるに合て、祈誓せさせ給はん為にこそと、御心得有けるに、いとゞ哀に思召れて、共に御涙に咽ばせ給ふ。御浄衣の袖も御衣の袂も、絞る計にぞ見えける。昔今の御物語ども仰かはさせ御座すに、日暮夜を明させ給ふ共、尽しがたき御事なれば、御名残は惜く思召けれども、泣々出させ給ひけり。法皇は今日の御見参をぞ返々悦申させ給ける。新院今年二十に満せ給けるが、御冠際、御鬢茎より始て、気高く愛々しくて、此世の人とも見えさせ給はず。御母儀故建春門院に似させおはしければ、いとゞ哀にぞ思召御覧じ(有朋上P416)ける。月比日比の御歎にや、事外に面痩て見えさせ給に付ても、らふたくうつくしくぞ渡らせ給ける。新院は出させ給とて、今一度見進せずして、何事もやと御心憂侍つるにとて、立せ給ふ。法皇は御名残惜くて、今暫くとも被思召けるが、
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日影も高く成上、いつも名残はと思召けるに、去気なくもてなさせ給けれ共、なほ御涙はつきざりけり。叡慮推はかり進ては、供奉の人々も袂を返して涙をぞのごひける。南門より御舟には移らせ給けり。御おくりの人々は、是より帰上る。厳島までの供奉の公卿殿上人は、内々用意ありければ、浄衣にて被参詣たり。前右大将宗盛、数百騎の随兵を召具し給へり。けしからず見えけり。二十六日に厳島に御参著、神主佐伯景弘、当国国司有経、当社座主尊叡勧賞を蒙。