『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫本)巻第十四
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佳巻 第十四
S1401 木下馬事
抑三位入道頼政の、係る悪事を宮に申勧め奉る事は馬故なり。嫡子伊豆守仲綱が家人、東国に有けるが、八箇国第一の馬とて伊豆守に進たり。鹿毛なる馬の太逞が、曲進退にして逸物也。所々に星有ければ、星鹿毛と云けり。仲綱是を秘蔵して立飼けり。実に難有馬也ければ、武士の宝には能馬に過たる物、なにかは有べきとて、あだにも引出事なければ、木の下と云名を付て、自愛して飼ける程に、或人右大将に申けるは、伊豆守許にこそ、東国より究竟の逸物の馬出来て侍るなれ、被召て御覧候へかしと申。大将軈て人を遣て、誠や面白馬の出来て侍るなる、少し見度候と云れたり。仲綱これを聞て、暫しは物もいはず、良久有て、御目に懸るべき馬には侍ざりしかども、けしかる馬の遠国より上て、爪をかきて見苦げに候し間、相労はらんとて田舎へ下して候ふと返事しけり。人申けるは、一昨日は湯洗、昨日は庭乗、今朝も坪の内に引出て有つる也と申。右大将(有朋上P450)さては惜にこそとて、重て使を遣す。彼御馬は一定是に侍る由承る、さる名馬にて侍るなれば、一見の志計也と謂れけり。伊豆守は我だにも猶見飽ず、不得心なりと思て、猶もなしと答ければ、大将は負じと一日に二度三度使を遣し、六七度遣日も有けれ共、悪惜て終にやらず、一首かくこそ読たりけれ。
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恋敷はきてもみよかし身に副るかげをばいかゞ放遣べき K074
木下鹿毛の馬也。我身の影に添けるにや、最やさしく聞えけれ共、一門亡て後にこそ、放つまじき影を放て、角亡にけり、歌に読負たりとぞ申ける。三位入道仲綱を呼て、いかに其馬をば遣さぬぞ、あの人の乞かけたらんには、金銀の馬也とても進べし、縦乞給ずとても、世に随習なれば、追従にも進べきにこそ、増て左程に乞給はんをば、惜むべきに非ず、況馬と云ぱのらん為也、家内に隠置ては何の詮か有るべき、とく/\其馬進すべしと宣ひければ、仲綱力及ばず、父の命に随て、木下を、右大将の許へ遣けり。聞に合て実に能馬也ければ、舎人あまた付て、内厩に秘蔵して立飼けり。日数経て後、伊豆守以使者、召置れ候し木下丸返給べき由申たり。右大将此馬をば惜て、其代りと覚しくて、南鐐と云馬を賜たりけり。極て白馬也ければ、南鐐とは呼けり。是も誠に太逞(有朋上P451)してよき馬也けれども、木下には及付べき馬に非。係し程に当家他家の公卿殿上人、右大将の亭に会合の事あり。或人実や仲綱が秘蔵の木下と申馬の、此御所に参て侍けるは、逸物と聞えけり、見侍ばやと申たり。大将さる馬侍りとて、伊豆守がさしも惜つる心を悪で、木下と云名をばよばずして、馬主の実名を呼で、其伊豆に轡はげて引出し、庭乗して見参に入よと宣ふ。仰に依て引出し、庭乗様々しけり。右大将は仲綱こはくば打はれ、さて仲綱引入てしたゝかにつなぎ付よと下知し給ふ。左程の砌也ければ、なじかは隠あるべき、程なく伊豆守も聞てげり。口惜と思て、父三位入道の許に行て、仲綱こそ京都
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の咲ぐさに成て候へ。平家は桓武帝の苗裔とは申せども、時代久く下て十三代、中比は下国の受領をだにも不免けるが、近く家を興せり。当家は清和帝の御末、多田満仲の後胤として、入道殿まで九代間近御事也。但源平両氏朝家前後の将軍なれば、必しも申乙有まじき事なれ共、一旦の果報に依て、当時暫く官途に浅深あるにこそ。其に宗盛が詞のにくかりしかば、木下をば惜遂んと存ぜしを、御命に背きがたさに馬をば遣し候ぬ。縦宗盛心の底に不思とも、礼義なれば悦申べきに、さはさくて、剰当家他家の酒宴の席にて、仲綱に轡はげよ、仲綱こはくば打はれ、仲綱庭乗せよ、仲綱引入よ、仲綱(有朋上P452)つなぎ付よなどと、宗盛の申けん事、今生の恥辱弓取の遺恨、何事かこれにすぎ侍るべき。今は世に立廻りても云甲斐なし、されば宗盛が宿所に行向て、骸を曝か、さらでは髻を切て、山林に隠籠か、此外は他事あらじとて、はら/\と泣けり。三位入道これを聞ては、さこそ遺恨に思けめ。さてこそ此悪事を、宮にも申勧め奉りけるとは、後には披露有けれ。さればあやしくいさめる乗物をば、不可用けるにや。
S1402 周朝八匹馬事
昔周穆王と申帝御座き。或人駿馬八匹を献。彼馬一日に行事万里なれば、鳥の飛よりも猶速也。穆王独愛して乗之給、四荒八極に至りつゝ、都に還御なかりければ、七廟の祭も怠り、万機の政も絶にけり。去間には民愁国荒て、穆王終に亡にけり。されば白楽天は、戒奇物とて、奇しき乗物を不用とぞ書れたりける。漢文帝の御時、一日に千里を行馬を奉たりけるには、帝の仰に御幸の時には、必千官万乗相従、我独千里の馬に乗て、先立て行くべきに非ずとて、遂に用給事なかりけり。依之民富国治れり。
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木下丸もいなゝきいさむにして、天下無双の奇物也けるをや、係不思議も出来にけり。昔周帝は、(有朋上P453)八匹の蹄を愛して、穆王遂に亡けり。今の仲綱は一匹の馬故に、一門悉絶ぬる事こそ哀なれ。
S1403 小松大臣情事
懸る一匹の馬故に、世の乱と成けるに付ても、小松殿の事をぞ上下忍申ける。小松大臣中宮の御方へ、被申べき事有て被参たりけるが、仁寿殿に候はれて、師典侍殿と申女房と暫し対面有けるに、良ありて師典侍殿の左の袴のすそより、大なる蛇はひ出て、重盛の右の膝の下へはひ入けり。大臣これを見給、我さわいで立ならば、中宮も御騒有べき、師典侍殿も驚給べし、此事旁悪かりなんと推しづめ給て、左の手にて蛇の頭をおさへ、右の手にて尾を押へて、六位参と召ければ、伊豆守其時は、未蔵人所に候けるが、指出たりけるに、是は何と被仰たれば、見候とてつとより、布衣の袖を打覆て、罷出て御倉町の前に出て、人や候参と呼ければ、小舎人参たり。これ賜ていづくにも捨よとて、差出したれば、一目見て赤面して逃帰りぬ。郎等省に賜たれば、不恐蛇の頭を取て、大路に出て打振て捨たれば、蛇即死けり。翌日に小松殿自筆にて御文あり。昨日の御振舞(有朋上P454)還城楽と奉見候き。雖異体候、一匹一振令送進候とぞ有ける。黒き馬の七寸に余て、太逞に白覆輪の鞍置て、厚房の鞦を懸たり。太刀は長伏輪也けるを、錦の袋に入られたり。優にやさしく見えける。仲綱御返事には、御剣御馬謹拝領、御芳志之至、殊畏入候。抑去夜誠還城楽の心地仕候き。仲綱頓首謹言と書たりけり。還城楽とは、蛇を取舞なれば、角問答有けるこそ。小松殿は加様にそ御座しに、其弟にて、いかに
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宗盛はかゝる情なく御座らんと申けり。
或説云、木下丸とは今の逸物の馬也と云事あり。
S1404 三位入道入寺事
高倉宮は十四日に都を落させ給て、終夜三井寺に入給たりけれ共、ゆゝしく申し頼政法師も不見来、況国々の源氏一人も馳参らざりければ、こはいかに有べき事やらんと思召れける程に、廿日源三位入道嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱〈 甥を養子にす 〉三男判官代頼兼木曾冠者義仲が兄に、六条蔵人仲家、其子に蔵人太郎、六条蔵人とは、帯刀先生義賢子也。義賢討れて後孤子也けるを、是をも三位入道の養ひたりける也。此等の一類郎等(有朋上P455)に渡辺党を引具して、三位入道の近衛河原の家に火係て焼払ひ、三井寺へこそ参けれ。渡辺党に箕田源氏綱が末葉、昇の滝口子息に、競滝口と云者あり。弓矢取ては並敵もなく、心も剛に謀もいみじかりけるが、而も王城第一の美男也。宿所は平家の右大将の、六波羅の宿所の裏築地也。入道三井寺へ落給けるに、傍輩ども此事を競に告知せんと申。入道さらで有なん、彼家は平家の近隣也、周章たる使にて、角と云物ならば、妻子所従泣悲て、物運ぞ逃隠などせば、中々悪かりなん、只打棄て音なせそ、競は深く入道を憑たり、又謀賢者なれば、いづくにも落付く所をだにも聞ならば、時を指て来らんずる者也と宣へば、打捨て告ざりけり。去程に三位入道は、高倉宮を尋進て、三井寺へと披露あり。右大将人を遣して、競も供して行けるかと被見。使帰て、競は未是に候と申。まこととも不覚、存の外也。入道の内には競こそ一二の者よ、いかに供をばせぬぞ、僻事にこそとて、楢の
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太郎友真、讃岐四郎大夫広綱二人を遣て、慥に見て参と宣ふ。此等も帰参て、さりげもなくて宿所に候と申。さらば召とて召ければ、競は使と共に参たり。大将出合宣けるは、いかに、主の入道は寺へと聞に、汝は伴もせざりけるぞと宣へば、競は角とも告給はねば、争か知侍るべきと申。さもあらずとよ、入道の内には汝(有朋上P456)等こそ身に替り、命をも捨べき一二の者と、世に沙汰するに、告げざる事は大に覚束なしと宣へば、競其も様こそ侍らめ、但此間は怨申子細候に付て、心を置るゝ事共も侍り、仮令入道殿こそ告給はずとも、親者多候に、角とも申さぬは、よく主人の勘当の深ければこそ、加様の大事には人一人も大切にこそ侍べきに、さすが競などを打すて給事は、おぼろげの所存にはあらじ、其上は又追て参ずるに及ばず、慕も様によるべき事なれば、当時はさてこそ候へと申。大将打うなづきて、年来ほし/\と思て、入道にも度々乞しかども叶はざりつるに、然べき折節也、よき侍一人儲たりと悦で、向後は宗盛を憑かし、三位入道の恩程の事は、などか思宛ざらんと宣へば、競はあらはかなの宣事や、縦命は失とも、宮仕はすまじき者を、但只今いなと云べき折に非ず、相従はんと思て申けるは、競させる身にあやまる事候はず、身にも命にも替奉り候はんとこそ存ずれども、入道殿此間心を置給へば、奉恨奉公も不仕、内々は申入ばやと存候つるが、主に中違ていつしかと人の御景迹も恥し、自然の次をと存処に、此仰身の幸也と申。大将不斜嬉げにて、見参の始なればとて、随分秘蔵し給たりける小糟毛と云馬に貝鞍置、遠山と云馬引具し、黒糸威の鎧甲
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皆具給てけり。競は畏り給て、ほくそ咲て罷帰ぬ。大将宣ひけ(有朋上P457)るは、能侍儲たり、王城一の美男也、心剛に弓箭取てよし、渡辺党の最中也。此裏築地を朝夕に出入を見るにも、目醒しくほしかりつるに、期も有けりと悦給へり。競家に帰ても、さすが覚束なくて早晩人を遣して、競は有か候と、又人を遣て、競は有か候と隙なくこそ問ひ給けれ。競思けるは、是程の大事を思立給ながら、告給はぬ事は真実に遺恨也、大将の角打たへ語ひ給ふもいなみ難し、時の花をかざしの花にせよと云事あり、さてもあらばやと思けるが、又案じけるは、告給はぬも様あるらん、六波羅近き家なれば無骨也、中々にとも被思つらん、忠臣不仕二君、貞女不嫁二夫と云事あり。蘇武は胡敵に足を切れしか共、猶夷には不随、紀信は帝位いつはりて、高祖の命にも替りけり。我争か相伝の主を捨奉て、今更平家にうでくびをにぎらん、末代までも名こそ惜けれと思て、大将より給ぬる鎧著て、小糟毛に乗、遠山に乗替の童乗て、郎等三騎家子二騎、都合七騎にて三井寺へとて打出けり。大将の惣門の前を通るとて、手綱かいくり鐙蹈張立上り、門の内へのぞき入、高声に申けるは、競こそ只今御前を罷り通り侍れ、昨日の御馬鎧悦存れば、尤も御宮仕申べく侍れ共、年来の主君入道殿恋く思奉候へば、寺へこそ罷越候よと、よばはりて打過けり。競は滝口の名残を惜けるにや、白羽の矢をぞ負(有朋上P458)挿絵(有朋上P459)挿絵(有朋上P460)たりける。大将の侍共これを聞て、競こそ小糟毛に乗、遠山に童乗て、しか/゛\と喚て、門前を下馬もせで通侍、奇怪に覚れば、追係て討留なんと申。大将はぬけ/\としなされ、尾籠の男にこそ、但止る事はいかゞ有べき、
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小糟毛は早走也、一町共延なば追付難し、競は弓の上手也、小勢にてあやまちすなよ/\、さる白痴にはゆきあはぬにはしかじ、音なせそとぞ制し給ふ、云甲斐なくぞ聞えし。競寺に馳著て、親き者共に、いかに口惜も殿原は、此程の御大事角とも告げ給はで、捨ておはするぞと恨申せば、さればこそ告んと申つるを、入道殿の仰に、競が宿所は大将の向なれば、つげては中々無骨也。何所にも落著ぬと聞なば、深く我を憑たる者也、定て時を指て来べき者ぞと仰の有つれば、さてこそと答ければ、競さては嬉くこそ、何事に御隔あらんと心元なく侍りつるに、つげずとも聞ては参べき者ぞと、憑れ進せける競こそ、我身ながらも糸惜けれとて、咲まげてぞ有ける。宮の御所には三位入道父子三院の大衆、軍の評定して並居たり。競進出て申けるは、右大将家へ被招間、事の体をも伺見んとて行たれば、いかに入道と共に入寺はなきぞ、我に宮仕せよとて、甲冑馬鞍引出物に得たり。宿所に帰たれば、隙なくあるか/\と問給ける事、一々に申て、馬も鎧も盗て取たらばや、不当とも云はれめ、(有朋上P461)賢人も折によるべし、係る時は物具も乗物も大切也と存て、乗て参つるに、大将の門前にて名乗て通つる事語畢て、さても競を宗盛年来の主を捨て他人の門踏んずる者と思ひけん事のあぶなさよと申たりければ、宮を始進て、僧も俗も咲つぼの会にてぞ有ける。伊豆守仲綱は、木下丸を大将に乞れて、仲綱打はれと云れたるを、安からず思ひければ、競が引出物に得たる小糟毛を取寄て、髪をかり法師に切て、平宗盛入道と金焼して、京へ向てぞ追放つ。未暁大将の六波羅の大庭に放れ馬あり、よく/\見給へば小糟毛
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也。是はいかにと引廻し/\見給へば、平宗盛入道と金焼したり。大将は木下が報答せられたりとぞ宣ける。昔斉桓公の孤竹国を伐けるに、春往て冬還、深雪道を埋て帰事をえざりけり。管仲計ひ申けるは、老馬の智を用べしとて、老たる馬を雪の中に放つゝ、馬に随行ければ、斉国にも還にけり。今の宗盛の小糟毛も、六波羅三井寺遠けれども、道芝の草を分朝露にしをれつゝ、関山関屋も歩過、本の主の家なれば、大将の亭にぞ帰りける。
S1405 南都山門牒状等事(有朋上P462)
法輪院には、警固の大衆守護の武士、様々軍の談議評定しける中に、三位入道申けるは、合戦の習、勢には依らず、謀をむねとすと申伝たれ共、南都山門へ牒状を遣て、大衆を召るべきかと宣ふ。衆徒の僉議には、近来の作法を見、平家の振舞を案ずるに、仏法の衰微、王法の牢籠時至れり。依之人臣専憂之、僧徒大に歎之。雖然、且く浄海入道の威に恐て、在家出家閉口処に、二宮御入寺偏に是正八幡宮の衛護、新羅明神の冥助也。我寺の興隆此時に相当れり。速に平相国が暴悪を炳誡せん事、衆徒の力によるべし。誰やの人かを憑べき。何の時をか期べき。天神も地祇も、必納受をたれ、仏力も神力も速に降伏をくはへ御座さん事、疑有べからず。抑北嶺は円宗一味の学地、南都は出家得度の戒場也。為仏法為王法被牒送処に、争か与力なからんやと云ければ、尤々と一同して、両寺へ牒状あり。先南都へ牒送の状に云、
園城寺牒、興福寺衙〈 まらうとゐかまと 〉
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請殊蒙合力、被助当寺仏法破滅状
右仏法之殊勝、為護王法也、王法之長久、則依仏法也、而自項年以来、入道前太政大臣平清盛、恣窃国威、濫乱明政、付内付外、成恨成歎之間、今月十四日夜、(有朋上P463)一院第二皇子、忽為免不慮之難、俄所令入寺給也、而重号院宣、有可奉出之、責衆徒不能欲罷、而奉惜之処、彼禅門欲入武士於当寺云々、然者云王法云仏法、一時将破滅、諸衆盍愁歎乎、昔唐会昌天子、以軍兵令破滅仏法之時、清涼山衆徒、合戦禦之、王憲猶如此、何況於謀叛、八虐之輩、誰人可諛順乎、就中南京者、被配流無罪之長者、意念動胸中、非今度者、何日遂会稽願、衆徒内助仏法之破滅、外退悪逆之伴類、同心之至本懐可足、衆徒僉議如此、仍牒送如件。
治承四年五月廿日 小寺主法師成賀
都維那大法師定算
勾当法師忍慶
上座法橋大法師忠成
とぞ書たりける。興福寺大衆会合僉議して、尤同心して、仏法の助専命王法愁吟を休め奉べしとて、進士蔵人入道信救に仰て、返牒あるべしと議定畢。又山門へも牒状を送けり。其状に云、(有朋上P464)
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園城寺牒 延暦寺衙〈 まらうとゐかまと 〉
欲殊致合力、被助当時仏法破滅状
右入道浄海、恣失皇法、又滅仏法、愁歎無極之間、去十四日夜、一院第二皇子、不慮之外、所令入寺給也、爰号院宣、雖有可奉出之責、皇子須令固辞、衆徒専奉守護之処、可放遣官軍之旨、有其聞、当寺破滅将当此時歟、而延暦園城両寺者、門跡雖分慈覚智証之遺訓、所学是同円実頓悟之教文、喩如鳥之翅不闕、又似車之輪相備、於一方闕者、争無其歎哉、特致合力被助仏法破滅者、早忘年来之遺恨、必復住山之往昔、衆徒之僉議如斯、仍牒送如件。
治承四年五月廿一日 小寺主法師成賀
都維那大法師定算
寺主大法師忍慶
上座法橋上人位忠成
とぞ書たりける。山門の衆徒、不及返牒けれ共、先同心参加の由憑しく申たり。
S1406 自興福寺有同心返牒。
其状云、(有朋上P465)
興福寺牒園城寺衙
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被載可相禦為清盛入道欲破滅貴寺仏法由事、
来牒一紙
牒、今月二十日牒状、今日到来、披閲之処、悲喜相交、如何者、玉泉玉花、雖立両箇之宗儀、金章金句同出一代之教文、南京北京、倶以為如来之弟子、貴寺他寺互可防調達之魔障、就中貴寺者、我等本師弥勒慈尊常往之精舎也、何況或公家、或姑山、或諸宮、或相門講席之時、令戦智諍儀事、是則天台、法相、三論、花厳等而己、若一宗相闕豈不恨乎、然者天台学徒、被魔滅者、法相独留如何為哉、凡緇林之詮乙甲者、則是兄弟之諍也、白衣之蔑仏法者、寧非魔軍之企哉、所及贔屓最可相救也、抑異或本朝弓馬之道、労力苦身、雖平王敵、抽賞以不過千金万戸、官位未必及子孫兄弟、其中我朝自古賞武之道、無授高位、既異唐家、天平御宇、大野東人雖斬魁首、僅預八座次、弘仁御宇、坂上将軍、遠攘奥州之狡獪、近鎮平城之煙塵、雖加九卿、無昇三公、爰清盛入道者、平氏之糟糠、武家之塵芥也、祖父正盛仕蔵人五位之家、把諸国受領之鞭、大蔵卿為房、為賀州刺史之古、補検非違所、修理大夫(有朋上P466)顕季、為播磨太守之昔、任馬厩別当職、曁于親父忠盛、被聴昇殿之時、都鄙老少皆惜蓬壺之瑕瑾、内外英豪各依馬台之験文、忠盛雖刷青雲之翅、世人猶軽白屋之種、惜名青侍、無臨其家、然間去平治元年、右金吾信頼謀叛之時、太上天皇感一戦之功、被行不次之賞以降、高昇相国、兼賜兵仗男子、或忝
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台階、或列羽林女子、或備中宮職、或蒙准后宣、兄弟庶子皆歩棘路、其孫彼甥悉割竹符、加之統領九州、不辞封家、細官進退百司、皆為奴婢僕従、一毛違心、縦雖皇候禽之、一言背命不嫌公卿醢之、是以為延一旦之身命、為遁片時之陵辱、万乗聖主尚成面展之媚、重代之家、君還致膝行之礼、雖奪代々相伝之家領、上裁恐命巻舌、雖押宮々相承之庄園、天子憚威無言、乗勝之余、其驕倍増、去年十一月追捕太上天皇之棲抄、掠種々之財貨、押流博陸輔佐之身、奪取国々之庄園、叛逆之甚誠絶古今、其時我等須行向賊徒以問其罪也、然而或相量神慮、或依称皇憲、抑鬱胸送光陰之間、清盛入道重発軍兵、打囲一院第二親王宮之処、八幡三所、春日大明神、窃垂影向、奉■銭弼、送附貴寺、奉預新羅権現之間、押開金枢、奉守玉体、王法不可尽之旨明矣、随又貴寺捨命奉守護之条、含識之類、誰不随喜哉、(有朋上P467)我等在遠域感其情之処、清盛入道猶起凶器、欲打入貴寺之由側以承及、兼致用意、為成合力、二十二日晨旦発大衆、二十三日牒送諸寺、下知末寺、調得軍士之後、欲達案内之刻、青鳥飛来、投一芳紙、数日之鬱念一時解散、彼唐家清涼、一山之■蒭、尚返武宗之官兵、況和国南北両門之衆徒、盍擺謀臣之群類、能固梁園左右之陣、宣待我等進発之告者、勒衆議牒送如件、察状勿疑殆故牒。
治承四年五月廿三日 権都維那法師善勝
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都維那大法師有実
権寺主大法師俊範
権寺主大法師兼清
権上座大法師禅慶
上座法橋上人位俊慶
と書て、三井寺へ送。又興福寺より、諸寺に牒送する状云、
興福寺大衆牒東大寺衙
欲早駈末寺庄園被供奉今明中発向洛陽可助園城寺仏法破滅状(有朋上P468)
牒、諸宗雖異、皆十二代聖教、諸寺雖区、同安三世之仏像、就中園城寺者、弥勒如来常住霊崛也、我等受阿僧之流、憤慈氏之教、又貴寺八宗教法、相並学之、豈不憶彼寺之破滅乎、而花洛之間有一臣猜、平治元年以来、押領於四海八■、如奴婢、進退於百司六宮、任我意、一毛違心則、雖云王侯禽之、片言乖思、又雖為公卿醢之、是以累代相伝之家、君還成膝行之礼、万乗尊重之国主、殆致面展之矯、遂廻趙高指鹿之謀、滅王室、剰追弗沙飛象跡、失仏家、即今明之間、欲残害園城寺、以未発以前、不相救者、我等独全有何益乎、然則不日調兵、欲向京洛、仏法興廃只有此縡、且祈誓仏神、可降伏魔軍、且駈催末寺庄園被供奉
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者、冥叶天地之神慮、願保南北之仏法而己、仍粗勒由緒、牒送如件、密状勿令遅引、故牒。
治承四年五月二十三日 興福寺大衆等と、加様に書て十五大寺送遣けり。
S1407 山門変改事(有朋上P469)
山門南都同心の由聞えければ、宮の軍兵等の衆徒、大に勇悦けり。六波羅には大勢馳集て、合戦の評定様々也ける中に、上総介忠清計ひ申けるは、山門南都同心せば、合戦ゆゝしき大事也、三井寺には、大関小関を伐塞、山には東西の坂に弩はり、海道北陸二の道を催て、防戦程に、南都の大衆、芳野十津川の悪党等を相語て、宇治路淀路より挟で寄ならば、前後に敵を拘へん事、ゆゝしき大事也。官兵数を尽し、日数程を経るならば、国々の源氏も馳上て、軍に勝ん事難し。されば先貫首に仰て、山門を制し、内々三千衆徒を可詐宥也。いかなる者も、財に耽らぬ事やはある。殊に山法師は、詐安ものぞと申ければ、可然計ひ申たりとて、先院宣被下、状云、
園城寺者、元是謀叛之地也。誠乎箇事、非寺之訴、非法之鬱、同意八虐之輩、忽失皇法、欲滅仏法、早今日中企登山、勅定之趣、具可被仰衆徒、内祈善神、外降悪党耳、抑深懸叡念於叡山、蓋誡一寺於一門、其上凶徒等、忽被責兵甲者、定遁隠山上歟、兼得此意、慥可令守護者、宣守院宣之趣之状如件、仍言上如件。
治承四年五月廿四日 左少弁行隆奉
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謹上 天台座主御房(有朋上P470)とぞ有ける。猶重たる院宣云、園城寺衆徒等、尚背勅命、於今者可被遣追討使也、一寺滅亡雖歎思召、万民之煩不可黙止歟、誠是魔縁之結構、盍仰仏界之冥助哉、満山衆徒、異口同音、可令祈申、又大威徳供可被始行之由、依院宣言上如件。
五月廿四日 左少弁行隆奉
と有ければ、座主登山有て、衆徒を宥制し給ひける上に、事を往来に寄て、近江米一万石、美濃絹三千匹を上て、谷々坊々に積て引之けり。取者は一人して五匹十匹をも取けり。空手て不取衆徒も有けれ共、一山大に悦で、忽に三井の発向を変改す。米とり絹取たる大衆等、大講堂に会合して僉議あり。倩園城寺の牒状を見に、延暦園城の両寺は、鳥の左右の翅の如く、車の二の輪に似りといへり。此条奇怪の申状也。山門は本山也、園城は末寺也、本末混合の牒状、豈同心すべきや。此時若合力あらば、向後定て同輩せんか、不可然と申たりければ、衆徒一同して不与力、一門賄賂に耽て、忽に変改と聞えければ、三井の衆徒角ぞつゞけける。
山法師織のべ衣うすくして恥をばえこそ隠さゞりけれ K075(有朋上P471)
絹にあたらざりける山法師読たりけるとかや。
織のべを一切もえぬ我らさへ薄恥をかくことぞ悲しき K076
与せんと申て変改有ければ、三位入道角ぞ送遣しける。
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薪こる賤がねりその短きかいふ言のはの末のあはねば K077
山門の衆徒底恥しくこそ思けめ。高倉宮の御謀叛によりて、山門園城騒動すと聞えければ、主上俄に入道の宿所西八条に行幸あり。新院日比是に御座けり。日次かた/゛\悪かりけれ共、かゝる急々の折節なれば、是非の沙汰にも及ばず、又御輿の前後に、軍兵数千騎打囲たり。事の外に騒しくぞ見えける。
堀川院御宇、承保元年十二月には、八幡、賀茂両社の行幸の日、園城寺の悪徒等、参洛すと聞えしかば、前下野守義家弓箭を帯し、軍兵三千余騎にて御輿の後、右衛門の陣に候ひしをこそ、希代の勝事也とて、人驚耳目。近来の御幸行幸には、ともすれば軍兵前後に仕るぞ浅猿き。
S1408 三井寺僉議附浄見原天皇事
〔去程に〕三位入道被申けるは、山門は変改、南都は未参、小勢にて合戦ゆゝしき大事也。(有朋上P472)平家を夜討にせんは、よかりなん。さらば老僧児共、童部法師原一二千人、如意峯に指遣て、続松手々に用意して、足軽二三百人、法勝寺の北さまより、三条河原祇園の辺まで、するりと遣て、在家に火を放ちなば、六波羅の早雄の武者共、軍兵に招れて馳来ば、引退引退あひしらひ、矢少々射させて岩坂桜本に引籠て戦はん。其隙に指違て、能者四五百人六波羅へ打入つて、風上に火を係て、太政入道右大将を焼出して、などかは討ざるべきと宣へば、大衆夜討の義尤然べし、軍は不如乗勝とて、三院の大衆、貝鐘鳴し、金堂の前に会合して、已に夜討の手分する処に、一如坊阿闍梨真海と云者あり。太政入道の祈の師也。同宿済々と引具し
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て、僉議して云、抑仏法王法は助君守法、文官武官は、治国鎮乱、其中に源平両氏の将軍は、朝家前後の守護として、国土を治奉守君主、互に牛角たりき。然倩近来を見に、源家は運衰て、諸国に零落し、平家は威盛にして、一天を管領せり。依之五畿七道、不背其命、百官万庶相従其威。衆流の海に入が如く、万木の似靡風。一寺の衆徒の力を以て、一族多勢の兵を傾事たやすからじ。但蟷螂車を還と云こと侍ば、其にはよるまじき上、親王の御入寺は、寺門の繁昌衆徒の面目也、当此時、誰か等閑を存じ、勇心なからん。然者卒爾の夜討を止て、能々謀を横縦に廻し、(有朋上P473)勢を東西に催して軍せんは可宣か、角申せばとて、全く平家の方人には非、いかにも寺門の安堵衆徒の高名こそ末代までも存ずる事なれと、言と心と引替て、夜を明さんと、閑々長々とぞ僉議したる。此に乗円坊阿闍梨慶秀は、下腹巻に衣装束、長絹袈裟にて頭を裹、打刀前垂指、進出て云けるは、軍に勝こと勢には依らず、証拠外になし。我寺の本願主、浄見原の宮と申は、事新けれども天智天皇御弟、大海人王子是也。天皇我御子達には譲位給はで、浄見原宮に譲給へりしかば、天智崩御の後、皇子大友位に洩給ひぬる事を恨て、謀叛をおこし、浄見原宮を襲ひ給しかば、宮都を出て吉野山に入給ふ。天神憐を垂給けるにや、天女あま降り、天の羽衣にて廻雪の袖をかなでしかば、後憑しくぞ思召けるに、猶芳野山を責べき聞えありければ、彼山を出給、伊賀国へ越、伊勢と近江の境なる、鈴鹿山に入り給。深山陰幽にして人跡絶、更闌夜暗して、月不照ければ、東西に迷給、為方を失へり。前後左右
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を見廻給へば、山中に幽に火の光あり、彼にたどり至て御覧ずれば、奇き柴庵に、夫婦とおぼしくて老翁老嫗あり。御宿を借り給へば、不惜奉請入。宮問云、在所多之、何心在てか此深山に栖と。翁答曰、此地は霊地にして、凡境に非ず、此に栖者王に肩を並る地形あり、故に爰を栖とし侍と。浄見原の宮、奇異(有朋上P474)の思を成給ふ。王に肩を並るとは、朕が事を示にやと、憑しく思召し、重て汝に子ありやと、御尋ねありければ、我に一人の女子あり、后相を具せる故に、凡人に隠して、此山の上に御所を造て、居置侍ると。宮の仰に云、我は是浄見原の宮也、天智の譲をえたれ共、大友の王子に襲れて、爰に迷来れり、汝が女朕が后に可祝とて、即其夜中に、彼御所に入給。又宮翁に仰て云、大友王子に、見目、聞耳、かぐ鼻とて、三人の不思議の者を召仕ふ。一旦此に隠忍たりとも、遂には顕なん、いかゞすべきと語給へば、翁畏て申、君の御先祖と申は、天照太神也。程近伊勢国渡会郡、五十鈴の河上に崇られ給て、御子孫を守護し奉らんと御誓あり。御参あり祈念あらば、御恙あらじと申ければ、即老翁を召具して、御参詣あり。折節降雨車軸を下して、鈴鹿川に洪水漲下りて、渡り難かりけるに、二頭鹿参て、両人を背に乗、河を奉渡、其より彼河を鈴鹿川と改名せり。敵兵攻来ると聞えしかば、翁太神宮の御後に、大なる岩屋あり、君を奉入、銀の盤の上に金の鉢に水を入て、御足を指入させ奉て、敵来侍ん時は、御足にて水をかは/\と鳴させ給へと申て忍隠ぬ。敵程なく責来たれども、岩屋の口にて失行方、あきれ立たり。宮御足にて水を、かは/\と鳴し給ふ。大友
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王子、見目に仰て、いづくにかおはすると宣へ(有朋上P475)ば、三千界の内には見え給はずと、次に聞鼻承て、三千界の内に其香なしと、次に聞耳承て、暫く聞て、此君は此界には御座せず、其故は此世界の構様は、風輪の上に水輪あり、上に金輪あり、上に地輪あり、而を浄見原の宮、只今金輪の上の水輪を渡給ふ、足音かは/\と鳴侍るとて、是より皆々都へ帰上ぬ。其後翁来て岩屋の戸を開て奉出。君太神宮の御宝前にて御神楽あり。神明顕現じ給ひて御託宣あり、君は国津神を集、東夷を催して禦敵給へ。大友は都西の戎を以て、責来るべし。近江と美濃との境に、城構して相待給へ。我擁護を加て勝事をえしめ、必可有即位と、宮悦思召て、近江国の山伝して、百済寺山を通て、美濃国に入り給ひ、是彼忍隠給けり、大友王子聞給て勢を催て、美濃国へ向けり。何の所にか有けん、宮を奉見付て追懸たり。危かりける時、野中に大なる榎木一本あり。二に破て中開たり。宮其中に入給へば、木又いえ合ぬ。敵打廻見けれども、見え給はざりければ、陣に帰ぬ。其後榎木又破れて中より出給ぬ。大童に成て御身を窄し、其辺に廻て、宮仕せんと宣へば、関の辺に一人の長者あり。招入て仕試るに、万に賢かりければ、只人共不覚して、かしづき仕けるに、夜々夢に日月を仕と見る。不審によりて、抑誰人ぞ、若大友王子に忍給ふなる、浄見原の宮にて御座か、(有朋上P476)左にはあらずと仰あらば、王子の軍兵に見せ奉んと申せば、宮名乗て憑まんとおぼして、丸は浄見原の宮也、深く汝を憑と宣へば、長者畏て聟に取奉て、隠し置奉る。年月を経て、王子二三人出き給へり。其後長者東夷を催て、白鳳元年壬午
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始て不破関を置て、美濃国にて軍構し給へり。王子此由聞給て、西戎を集て向給ふ。両軍山中宿にて合戦す。山中の東なる河を阻て戦けり。両陣互に白刃を合せければ、其川黒き血に流けり。さてこそ彼川をば、黒血川とは名付たれ、宮の勢は東国より走集て如雲霞。王子の軍は敗て、終に亡にけり。宮都に上給ひ、即位給にけり。天武天皇とは是也。浄見原天皇共申。天皇崩御の後、関の長者の恩を思召けるにや、神と被祝給へり。関明神と申は是也。関所の殿原と云は、彼長者の女に儲給へる末葉也。去ば天皇大和国宇多郡を通給けるには上下十七騎、遂には軍に勝て位に即給へり。昔を以て今を思ふに、不可依無勢。十七騎猶軍に勝、況三院の衆徒をや、況源氏の与力をや。就中窮鳥入懐、人倫憐と云事あり。況宮の御入寺をや。異計を廻さんとて、徒に時日を隔ならば、敵に上手を討れて、後悔無益也。自余は不知慶秀が弟子共は、急ぎ先陣仕て、慥に太政入道の首を取て、親王の御代に成進せよとて、ひしめきけり。実にゆゝしくぞ見えける。円満院の大輔(有朋上P477)進出て、唯一口に、衆徒の僉議端多し、五月の短夜明なんとす、急寄られよと云ければ、尤々とて如意峯より、師法印乗智が弟子共に、義法禅永等五十余人、乗円坊の慶秀が同宿等に、加賀刑部光乗一来を始として、六十余人、律浄坊の日胤が同宿に、伊賀越前上総坊を始めとし五十余人、其外児共童部、大津の在家駈具して、千余人、手々に続松支度して向けり。六波羅の討手には、伊豆守仲綱を大将軍として、侍には渡辺党満馬允、子息省の播磨次郎、其子授薩摩兵衛、刈源太、与馬允、競滝口、唱丁七
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清、濯等也。僧には法輪院荒土佐、円満院大輔、平等院因幡竪者、荒大夫松井肥後、角六郎坊、島阿闍梨北院の金光院六天狗に、大輔、式部、能登、加賀、佐渡、肥後等也。常喜院には、鬼土佐、筒井法師に、卿阿闍梨悪少納言、我耶筑前、南勝院に、肥後房、日尾定雲四郎坊、後中院に但馬坊、大矢修定、此等は皆弓矢を取ても打物以ても一人当千の兵也。堂衆には、筒井浄妙、明秀、小蔵には、尊月、尊永、慈慶、楽住、金拳、賢永等こそ伴けれ。僧俗勢都合七百余騎、皆長刀を持たりけり。如意峯の手は、物具を帯して、嶮山を上ける上に、五月二十日余の事なれば、雲井の月もおぼろにて、木の下も、又暗ければ、進もやらざりけり。六波羅の手は、宮御入寺の後は、用心の為に、大関小関(有朋上P478)堀塞、逆木垣楯構たりければ、彼等を取払、堀に橋渡などする程に、五月の短夜推移、関路の鶏鳴あへり。伊豆守は夜討こそよかりつれ、鶏鳴頻也、夜既明なんとす、今は叶はじとて引へたり。円満院大輔は、褐の直垂に、黒皮威の大荒目の鎧の、一枚まぜなる草摺長にさゞめかし、白星の甲に、大の長刀杖につきて申けるは、昔漢朝に孟嘗君と云人あり。本は斉の国の人也けり。狐白の裘と云て、千の狐の脇の皮を取集て、しつらひ作たる秘蔵の物を持たりけり。秦昭王に心ならず乞取れて不安思けり。彼孟嘗君は、様々の能者を、三千人従仕ひけり。其中にりうていと云者は、勝たる犬の学の上手にて、而も盗人也けるを以て、犬の学して蔵を破、白狐裘を盗出して逃けるに、昭王兵を遣して、孟嘗君を討んとす。孟嘗君三千人の客を引卒して、函谷関にぞ係ける。彼関は鶏不鳴さきには戸を開かぬ習
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なれば、夜深して通り難し。敵は既襲来る、遁るべき様もなかりけるに、三千人の客の中に、馮■と云者あり、鶏の音をまねぶ上手也ければ、関の戸近き木に昇て、鶏の真音をぞ啼たりける。関路の鶏聞伝て、一羽も不残鳴ければ、いまだ夜半の事なれども、関守戸をぞ開てげる。孟嘗君希有にして遁にけり。其よりしてぞ馮■をば、鶏鳴とも申ける。されば是も敵の謀にや有らん、只寄給へと云けれども、今(有朋上P479)はいかにも叶はじとて、山階よりこそ引返せ。懸しかば如意が手をも呼返し、其夜も空く明ぞ行。此事真海阿闍梨が長僉議の故也とて、一如坊へ押寄て、切坊に及ければ、禦戦けれども、同宿あまた討れて、真海希有にしてまぬかれ出、はふ/\六波羅へ行向、此由角と訴申けれども、六波羅には兼て大勢用意ありければ、更に騒事なし。いざ/゛\、真海も寺法師也、敵の計ごとにもや有らん、打解がたしとて無興なりければ、真海兎に角に、面目なくて還にけり。(有朋上P480)