『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十五
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世巻 第十五
S1501 高倉宮出寺事
高倉宮は、暫く此にも御渡あらばやと、思召けれ共、山門の大衆は変改、国々の源氏は未参、寺ばかりにては叶はじとて、廿五日に園城寺を出させ給て、南都を憑て落させ給けるが、先金堂に御入堂ありて、蝉折と云御秘蔵の御笛を以て、万秋楽の秘曲をあそばして御廻向あり。南無大慈大悲当来導師弥勒慈尊、戒善の余薫拙くして、今生こそ空くとも、竜笛の結縁を以て、後生助給へとて、泣々仏前に差置せ給けるこそ哀なれ。警固の大衆も、御伴の兵も、皆袖をぞ絞りける。
S1502 万秋楽曲事
< 抑万秋楽と云曲は、本は都卒天上の楽也。是即弥勒の内院の秘密灌頂の陀羅尼なり。釈迦如来■利の雲上にして、弥勒に袈裟を付属し給ひし時、彼天の万秋楽と云木下にて、(有朋上P482)天衆菩薩此楽を奏して、如来を供養し奉しかば、万秋楽と名たり。昔朱雀院御子に日蔵上人とて貴人にて、金峯山に行澄して御座けるを、蔵王権現の御方便にて、秘密瑜伽の独古を把て六道を見廻給けるに、都卒の内院に参給へり。折節弥勒慈尊は、大厦高堂に黙然として座し給たりけるに、菩薩聖衆秘密陀羅尼を妓楽に移し、此曲を奏して慈尊を奉供養。日蔵上人絃の道に長じ給たりければ、唱歌を以て伝へつゝ、我朝の管絃に被移たり。此に都卒天の楽と云。序三帖、破六帖合て九品に是をあつ。舞の終に必膝をついて居事は、弥勒を敬由也。手に合掌の曲あり、見仏聞法の楽とも云。迦毘相経第六に説て云、此万秋楽伝受人天、決定住生都卒天上〈 文 〉、誠大陀羅尼の功徳也、不輙妙曲也。
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或説云、日蔵上人大唐より此曲を伝と云云。>
S1503 蝉折笛事
< 蝉折と云御笛は、鳥羽院御時、唐土の国王より御堂造営の為にとて、檜木の材木を所望ありけるに、砂金千両に檜木の材木を被進送たりければ、唐土の国王其御志を感じて、種々の重宝を被報進ける中に、漢竹一両節間被制たり。竹の節生たり。蝉につゆたがは(有朋上P483)ざりければ、希代の宝物と思召て、三井寺の法輪院覚祐僧正に仰て、護摩の壇上に立て、七箇日加持して後、彫たりける御笛也ければ、おぼろげの御遊には取りも出されざりけり。鳥羽殿にて御賀の舞のありけるに、閑院の一門に、高松中納言実平、此御笛を給て吹けるが、すき声のしけるをあたゝめんとて、普通様に思ひつゝ、膝の下に推かいて、又取上吹んとしてけるに、笛咎めや思けん、取はづして落して蝉を打折けり。其よりして此笛を、蝉折とぞ名ける。高倉宮管絃に長じまし/\ける上、ことに御笛の上手にて渡らせ給ひければ、御孫子とて、鳥羽院此宮には御譲ありける也。宮も故院の御形見と被思召ければ、聊も御身を放たせ給はざりけれ共、深く竜華の値遇と思召ければ、彼天の楽を奏して、此寺の本尊に進給ひけるこそ哀なれ。>
S1504 宇治合戦附頼政最後事
宮は御馬に召て、既に寺を出させ給けり。児共大衆行歩叶はぬ老僧までも、此程の御なごりを奉惜て、墨染袖を絞りけり。中にも乗円坊阿闍梨慶秀は、七十有余の老僧也。腰二重にて鳩杖に係り、御前に進て奏けるは、慶秀齢己に八旬に及て行歩に力なし、御志(有朋上P484)はいかにもと存ずれ共、御伴に不叶、弟子にて侍る、刑部房俊秀は、相模国住人、山内須藤刑部丞俊通と申し者が子息に侍、彼俊通は、去し平治の合戦に義朝が伴して、六条川原の軍に討死して、孤子にて侍しを、慶秀跡懐より生し立てて、心の中も身の力もよく/\知て候、不敵の僧にて心際悪からぬ者にて侍り、慶秀御伴仕と思召して、
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御前近く召仕はせ給べしとて、涙を流し墨染の袖を絞ければ、宮も聞し召し御覧じて、仮そめのなじみに、加程に思覧事よと思召ければ、御涙ぞ進みける。宮は御浄衣にて御馬に召、三位入道の一類、并寺法師、都合三百余騎御伴に候けり。新羅社の御前にては御心計に再拝して、大関通に御出なる。東を望めば湖水茫々として波清く、西を顧ば嶺松鬱々として風冷じ。関寺関山打つゞき、住人来人会坂や、一叢杉木下より、筧の妙美井絶々也。くゞ井坂、神無の森、醍醐路に懸て、木幡の里を伝つゝ、宇治へぞ入せ給ける。宇治と寺との間、行程纔に三里計也、六箇度まで御落馬あり。御馬に合期せさせ給はぬ故にや、又此程打解御寝ならぬ故にや、是も然べき御運の際とは申ながら、加程の御大事の中に、睡落させ給ける御事云かひなし。加様に度々御落馬在ければ、暫く休め進せんとて、宇治の平等院に入進て御寝あり。其間に宇治橋三間引て、衆徒も武士も宮をぞ奉守護。平家は(有朋上P485)宮南都へ入せ給由聞て、追討使を被差遣に、左兵衛督知盛卿、蔵人頭重衡朝臣、中宮亮通盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、左馬頭行盛朝臣、淡路守清房朝臣、侍には上総忠清、上総大夫判官忠綱、摂津判官盛澄、高橋判官長綱、河内判官季国、飛騨守景家、飛騨判官景高、都合二万余騎、宇治路より南都を差て追て懸。平等院に敵ありと見ければ、平家の兵共雲霞の如くに馳集て、河の東の端に引へて、時を造る事三箇度、夥しとも不斜。宮の兵共も時の音を合て、橋爪に打立て禦矢射けり。其中に寺法師に、大矢の秀定、渡辺清、究竟の手だり也けるが、矢面に進んで、差詰/\射けるにぞ、楯も鎧も不叶し
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て多の者も討れける。平家の先陣も、始は橋を隔て射合けるが、後には橋上に進上て散々に射。其中に信濃国住人、吉田安藤馬允、笠原平五、常葉江三郎を始として、二百余騎進出て戦けるに、常葉江三郎内甲射させて引退く。宮の兵は橋の西爪にて、差詰々々射ければ、面を向がたし。平家の軍兵は、東の爪に轡を並て如雲霞。橋は狭し人は多、我劣らじ/\と上が上に籠入けり。未暁の事なるに、上川霧立て暗さは闇し、橋をさへ引たりければ、先陣に進者、橋を引たるぞ/\と、口々によばはりけれ共、指もどゞめく中なれば、唯我先にと馳こみける程に、先陣二百余騎をば川の中へぞ推落す。夜もほの/゛\と明け(有朋上P486)れば、寺法師は筒井の浄妙明春と云者あり、自門他門に被免たる悪僧也、橋の手にぞ向ける。明春今日は事を好てぞ装束したる、しかまの褐の冑直垂に、紺の頭巾に黒糸威の大荒目の冑の一枚交なるを、草摺長にゆり下し、三枚甲の緒を強くしめて、黒ぬりの太刀の、三尺五寸あるに、練つば入て熊皮の尻鞘をさす。同毛色のつらぬきをぞ帯たりける。黒塗の箙に、塗篦に黒つ羽を以てはぎたる矢を、廿四差たるを、頭だかに負なしつつ、七もちりなるまゆみのしめ塗にぬりたるに、塗づる懸て真中を取、烏黒の馬の七寸にはづみたる黒鞍置て、熊皮泥障指てぞ乗たりける。同宿廿人、同毛色に真黒にぞ出立たる。三尺五寸の長刀童に持せて具足せり。明春云けるは、殿原暫軍止め給へ、其故は敵の楯に我箭を射立て、我楯に敵の箭をのみ射立られて、勝負有べきとも不見、橋の上の軍は、明春命を捨てぞ事行べき、続かんと思人は連やと云儘に、馬より飛下てつらぬき抜捨、橋桁の上に
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挙りて申けるは、者その者にあらざれば、音にはよも聞給はじ、園城寺には隠れなし、筒井浄妙明春とて一人当千の兵なり、手なみ見給へとて、散々に射ければ、敵十二騎射殺して十一人に手負て、一は残して箙にあり。箭種尽ければ、弓をばかしこに投捨ぬ。彼はいかにと見処に、箙も解て打すて、童に持せたる長刀取、左の(有朋上P487)脇にかい挟みて、射向の袖をゆり合せ、しころを傾、橋桁の上を走渡る。橋桁は僅に七八寸の広さ也。川深して底見えざれば、普通の者は渡べきにあらざれ共、走渡りける有様、浄妙が心には、一条二条の大路とこそ振舞けれ。廿人の堂衆等も続ざりける。其中に十七になる一来法師計こそ少しも劣らず連けれ。明春元より好所也ければ、今日を限と四方四角振舞て飛廻りければ、面を向る者なかりけり、電光の如にひらめきけり。立に敵九騎討捕て、十人と申けるに、甲の鉢にしたゝかに打当て、長刀こらへずして折ければ、河へからと投入て、太刀抜て戦けり。太刀にて七騎討捕て、六騎に手負て休居たり。平家の方より、悪き法師の振舞哉、さのみ一人に多者討れたるこそ安からねとて、しころを傾けて、ながえを指出たる兵あり。明春是を見て、面白し、東門五色の熟瓜ぞやとて、甲の鉢を打破て、喉笛まで打さかんと打たりけるに、太刀もこらへずして、目貫穴のもとより折にけり。太刀は折たれ共、甲も頭も打破れて、真逆に川中へぞ落にける。憑処は腰刀計也、腰刀を抜持てはねて係りて戦けり。死狂とぞ見えたりける。見之浄妙討すな者共とて、後中院但馬、金剛院六天狗、鬼土佐、佐渡、備中、備後、能登、加賀、小蔵尊月、尊養、慈行、楽住、金拳玄永
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等命を不惜戦たり。橋桁はせばし、(有朋上P488)そばより通にも非ず、明春に並たりける一来、今は暫く休給へ浄妙房、一来進て合戦せんと云ければ、尤然べしとて、行桁の上に、ちと平みたる処を、無礼に候とて、一来法師兎ばねにぞ越たりける。敵も御方も是を見て、はねたり/\あつはねたり、越たり越たりよつ越たりと、美ぬ者こそなかりけれ。此一来法師は、普通の人より長ひきく、勢ちひさし、肝神の太き事、万人に勝れたり。さればこそ甲冑をよろひ、弓矢兵仗を帯しながら、身の惜事をも顧みず、あれ程狭き行桁を走渡、大の法師をかけずはね越たりけめ、太刀のかげ天にも在地にもあり、雷などのひらめくが如し。切落し切伏らるゝ者、其数を不知、上下万人目を澄てぞ侍りける。明春、一来師、弟子二人に討るゝもの、八十三人也。誠に一人当千の兵也、あたら者共討すな、荒手の軍兵入替よや/\と、源三位入道下知しければ、渡辺党に、省、連、至、覚、授、与、競、唱、列、配、早、清、進、なんどを始として、各一文字声々名乗て、三十余騎馬より飛下飛下、橋桁渡て戦けり。明春は此等を後陣に従へて弥力付て、忠清が三百余騎の勢に向て、死生不知にぞ戦ける。三百余騎と見しかども、明春一来が手に懸り、渡辺党に討れて、百騎計に成て引退く。平家の大将是を見て、橋の手こそしらみて見れ、返合よ/\と下知しければ、我も(有朋上P489)/\と橋の上にぞ走重。橋は二間引れたり、後より御方に推れて、心ならず七十余騎川へ落て流けり。三位入道見之て、世を宇治川の橋下さへ、落入ぬれば難堪、況冥途の三途川こそ思やらるれとて、
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思やれくらき暗路のみつせ川瀬々の白浪払あへじを K078
筒井浄妙俄に弥陀願力の舟に心を係て、
宇治川にしづむを見れば弥陀仏誓の舟ぞいとゞ恋しき K079
明春心は猛く思へども、手負ければ引退て、平等院の門外、芝の上にて物具ぬぎ置、冑甲に立所の矢六十三、大事の手は五所也、閑所に立寄て、彼是炙治し、頭はからげ弓打切杖につき、平足駄著て独言して云けるは、法師等が外は軍心に入たる者はみえず、いかにも始終墓々しからじとて、阿弥陀仏〔と〕申て奈良の方へぞ落行ける。
円満院大輔慶秀、矢切但馬明禅と云ふ者あり。是又、武勇の道人にゆるされたる兵也。慶秀は白帷の脇かきたるに、黄大口著て、萌黄の腹巻に袖付たり。明禅は脇かきたりける褐の帷に、白大口に、洗革の腹巻に、射向の袖をぞ付たりける。各長刀脇に挟て、しころを傾て、又行桁を渡けるを、平家の軍兵矢衾を作て射ければ、射すくめられて渡えざりけるに、長刀を振上て、(有朋上P490)水車を廻ければ、雨の降如くに射けれども、長刀にたゝかれて、箭四方にちる、春の野に蜻蜒の飛散が如くなり。敵も御方も皆興に入て、ほめぬ者こそなかりけれ。中にも後中院の但馬房を矢切と申けるは、左の脇に長刀を挟、右の手には三尺二寸の太刀抜持て、敵の射箭を切落す。下る矢をば踊越え、上矢をばついくゞり、向矢をば伐落す。懸ければ、身に立矢こそなかりけれ。其間に敵八人討捕て引退。さてこそ矢切の但馬
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とも申けれ。橋を引てければ、敵数千騎ありといへ共渡えず、明春等に被禦て、合戦時をぞ移しける。矢切但馬、浄妙、一来、此等三人橋桁を渡ける。敵共残り少く被切落ければ、後には渡る兵なし。平等院の前西岸の上、橋の爪に打立たる宮の御方の軍兵共、我も/\と扇を揚て、渡せや渡せやと召て■けるは、其程臆病なる軍将やはある、太政入道心おとりせり、懸不覚の者共を合戦の庭に差遣す条、非一門恥辱やと云て、舞かなづる者もあり、踊はぬる者もあり、されども進兵なかりけり。寺法師、法輪院荒土佐鏡■をば、雷房とぞ申ける。雷は卅六町を響かす音あり、此土佐も三十六町の外にある者を呼驚す大音声なれば、さだかにはよも聞えじとて、岸の上の松木に上て、一期の大音声今日を限とぞ呼ける。一切衆生法界円満輪皆是身命為第一宝とて、生ある者は皆命を惜(有朋上P491)習なれ共、致奉公忠勤輩、更に以て身命を惜事あるべからず、況合戦の庭に敵を目に懸けながら、轡を押へて馬に鞭打さる条、致大臆病処也、平家の軍将心おとりせり、源家の一門ならましかば、今は此河を渡なまし、栄花を一天に開く、臆病を宇治川の橋の畔に現す、禁物好物自在にして、四百四病はなけれ共、一人当千兵に会ぬれば、臆病計は身に余りけり。良平家の公達聞給へ、此には源三位入道殿の矢筈を取て待給ぞ、源平両門の中に選れて、■射給たりし大将軍ぞや、臆する処尤道理也、爰に一来法師太刀を振ば、二万余騎こそ引へたれ、尾籠也見苦見苦、思切て渡や/\とぞ呼ける。左兵衛督知盛聞之、不安事かな、加様に笑れぬるこそ後代の恥と覚ゆれ、橋桁を渡せばこそ無勢
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にて多兵をば射落さるれ、大勢を川に打ひたして渡とぞ宣ける。平家方より伊勢国住人古市の白児党とて、さゞめきて押寄たり。宮御方より渡辺者共、省、授、与、列、競、唱、清、濯と名乗合て、散々に射。白児党に先陣に進戦ける内に、三人共に赤威の鎧に、赤注付たりける武者、馬を射させて川中へはね入られて、浮ぬ沈ぬ流て宇治の網代による。秋の紅葉の竜田川の浪に浮に異ならず。網代に懸て、弓筈を岩のはざまにゆり立て、希有にしてこそあがりけれ。源氏これを見て、(有朋上P492)
白児党皆火威の鎧きて宇治の網代に懸りけるかな K080
と、平家の侍に、上総守忠清、此有様を見て申けるは、橋は引たれば難渡、河は水早して底不見、人種は尽とも渡すべしとも不覚、追手の勢少々を此に置て敵にあひしらひ、搦手を淀路河内路へ廻て、敵の前を塞て戦はんと云ければ、下野国住人、足利又太郎忠綱進出でて、淀路河内路も我等が大事、全く余の武者の向べきに非ず、橋を引れ河を阻たればとて、目にかけたる敵を見捨て、時刻をへるならば、芳野法師奈良法師参集てゆゝしき大事、此川は近江湖水の末なれば、旱事更にあるべからず、武蔵と上野との境に、利根川と云大河あり、其にはよも過じ物を、昔秩父と足利と、中悪て、度々合戦しけるに、寄時には瀬を蹈舟に乗て渡りけれども、軍に負て落けるには、舟にも乗らず淵瀬を嫌事なし、され共馬も殺さず人も死なず、又足利より秩父へ寄けるに、上野の新田入道を語て、搦手に憑、大手は古野杉の渡をしけり。搦手は長井の渡と定たりける程に、秩父に舟を破れて、新田入道河の端に引へ
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たり。入道申けるは、人に憑れて搦手に向ひながら、船なしとて暫も此にやすらふならば、大手軍に負なんず、去ば永く弓矢の道に別べし、縦骸を底のみくづと成とも、名を此川に流せやとて、長井の渡を越けり。同は我等も(有朋上P493)水溺れては死とも、争か敵を余所に見るべき、況や此河は浪早しといへ共、底深からず、岩高しといへ共、渡瀬多し、河を渡し岸を落す事は、鐙の蹈様手綱のあやつりにあり、馬の足をかぞへて浪間を分よ者共とて進みければ、然べきとて伴者ども、一門には小野寺の禅師太郎、戸屋子七郎太郎、佐貫四郎大夫弘綱、応護、高屋、ふかず、山上、那波太郎、郎等には金子の舟次郎、大岡の安五郎、戸根四郎、田中藤太、小衾二郎、鎮西八切宇の六郎、産小野次郎を始として、三百余騎を伴ける。足利又太郎、真先係て下知しけり。此川は流荒して底深し、大事の川ぞ過すな、肩を並て手を取り組、さがらん者をば弓筈に取付せよ、強馬をば上手に立よ、弱馬をば下手に並よ、馬の足のとづかん程は、手綱をすくうて歩ませよ、馬の足はづまば、手綱をくれておよがせよ、前輪には多くかゝれ、水越ば馬の草頭に乗さがれ、水には多く力を入よ、馬には軽く身をかくべし、手綱に実をあらせよ、去ばとて引かづくな、敵に目をかけよ、余りに仰のき内甲射さすな、余りにうつぶきててへん射すな、鎧の袖を真額にあてよ、水の上にて身繕すな、我馬弱とて、人の馬にかゝりて、二人ながら推流るな、我等渡すと見るならば、敵は矢衾つくりて射ずらん、敵は射とも各返し矢いんとて、河の中にて弓引て推流されて笑はるな、(有朋上P494)弓の本はず童すがりに打かけよ、あまたが心を一になし、曳声
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出して渡すべし、金に渡て過すな、水に従て流渡に渡べしとて、橋より上へ三段計打あげて、三百余騎さと打入、曳々とをめき叫て渡たり。橋の下へ一段さがらず、三百余騎一騎も流さず皆具して向の岸へざと上る。見之て千騎二千騎、打入打入渡たり。二万余騎、馬と人とに防がれて、漏る水こそ見えざりけれ。自ら前後の勢に連かずして、十騎廿騎渡しける者は、一人もたまらず押流さる。大勢河を渡しければ、宮の兵共暫平等院に引退。足利又太郎は、西の岸に打上て、鐙蹈ばり弓杖突、物具の水はしらかし、鎧突す。鎧は緋威に金物を打、未己の時とぞ見えし。白星の甲居頸に著なし、大中黒の廿四差たる矢、頭高に負、滋籐の弓の真中取、紅のほろ懸て、連銭葦毛の馬の太逞に、金覆輪の鞍置てぞ乗つたりける。平等院の惣門の前に打寄て、皆紅の扇ひらき仕ひ、鐙蹈張弓杖つきて申けるは、只今宇治川の先陣渡せるは、昔朱雀院御宇、承平に将門を討、勧賞に預し下野国住人俵藤太秀郷が五代の苗裔、足利太郎俊綱が子に、又太郎忠綱、生年十七歳、童名王法師、小事は不知、大事の軍は三箇度、未不覚仕、係無官無位の遠国の夷の身として、忝も宮に向進て、弓を引矢を放侍ん事、天の恐候へ共、是も私の宿意に非ず、平家の下知にて(有朋上P495)侍れば、果報冥加は太政入道殿の御身に侍べしと。名を得たらん兵、忠綱打捕やと云て懸ければ、大夫判官兼綱申けるは、秀郷朝臣は含綸旨朝敵を誅しき、彼朝臣が後胤として、今宗盛卿が郎徒と名乗、何の面目有てか先賢を顕して其恥をしめす、甚拙なしとぞ咲ける。忠綱不取敢申けるは、秀郷朝臣が将門を誅せし時も、征夷
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の大将軍は参議右衛門督藤原の忠文朝臣也き。宗盛卿今征夷将軍也、依勅定随将軍、是兵の法也。汝は摂津守頼光朝臣非遺孫や、将軍次将の作法を不存歟、尤不便也と云係て、兼綱に組んとて懸ければ、飛騨兵衛尉景康、上総次郎友綱を始として、三百余騎轡を並て兼綱にかゝる。大夫判官郎等小源太嗣、内藤太守助、小藤太重助、源次加を始として五十余騎、折塞て戦けり。或は組で落もあり、或は互に被射落もあり、何れ隙有共不見、此にて源平両氏の名を得たる郎等被多討けり。
源三位入道は、薄墨染の長絹直垂に、品革威の鎧を著、今日を限とや思けん、態甲は不著けり。紫革威とは、藍皮に文にしたをぞ付たりける。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦直垂に、黒糸威の鎧著たり、是も甲は不著けり。矢束を長く引んと也。同舎弟源大夫判官兼綱は、萌黄の生絹直垂に、緋威の鎧著て、白星の甲に、芦毛の馬にぞ乗たりける。父子兄弟矢先を揃て散々に射。其間(有朋上P496)に宮は南を指て延させ給へば、三位入道も続て落行けり。上総太郎判官忠綱、七百余騎を引率して、勝に乗てぞ追懸ける。源大夫判官兼綱は、父の入道を延さんと、只一人引返引返散々に戦ける程に、痛手を負、今は叶はじと思て、鞭を揚て落行けり。太郎判官忠綱申けるは、兼綱と見は僻事か、逃ばいづくまで延べきぞ、弓矢取身は我も人も、死の後の名こそ惜けれ、うたてくも後を見する物哉、返せや/\とて責懸たり。兼綱は宮の御伴に参也とて馳けれども、無下に間近く追係たれば、思切、馬の鼻を引返
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て宮を延し進せんと、七百余騎が中に蒐入つゝ、蛛手十文字に狂ければ、寄て組者はなかりけり。唯中を開てぞ通しける。上総太郎判官、弓を引儲て、箭所のしづまるを待処に、忠綱に組んと志て馳て懸けるを、能引放つ箭に、源大夫判官が内甲を射たりければ、箭尻はうなじへつと通り、血は眼にぞ流入。判官今は世間掻暗て、弓を引太刀を抜事不叶けるを、太郎判官が童に、二郎丸とて大力有けり。兼綱が頸をとらんとて打て懸けるを、播磨二郎省と云者、主の首を取れじと立塞て戦けるが、兼綱いかにも難遁見えければ、省主の首を掻落し、泣々暫しは持たりけれ共、三位入道も伊豆守も、皆自害し給ひぬと聞ける後は、石を本どりに結付て、河の中へ投入つゝ、我も御伴申さんとて、(有朋上P497)
君故に身をば省とせしかども名は宇治川に流しぬる哉 K081
と思つゞけて、腹かい切て、同く河にぞ入にける。三位入道は右の膝を射させたりけれ共、宮の御伴に落行けるが、子息の判官が討るゝを見て申けるは、兼綱こそ入道を延さんとて討死仕ぬれば、若き子が討るるを見て、老たる入道がいつまで命を生とて、いづくまでか落行べし、禦矢を仕べし、急南都へ入せ給て、深く衆徒を御憑有べし、今こそ今生の最後に侍れ、さらば暇給べしとて引返ければ、宮も御遺惜く思召、御涙に咽ばせ給ふ。入道は養由をも欺ける程の弓の上手也ければ、年闌たれども引とり/\、散々に射ければあだ矢は一もなし。平家の大勢射しらまされて、度々河耳へ引退。右の膝も痛手也、矢種も既に尽ければ、郎等の肩に懸、平等院の釣殿におり居て、唱法師源八副を招いて宣
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けるは、身仕六代之賢君、齢及八旬之衰老、官位己越列祖武略不慙等倫、為道為家有慶無恨、偏為天下今挙義兵、雖亡命於此時、留名於後世、是勇士所庶、武将非幸哉、各防矢射て、閑に自害を進めよと申ければ、源蔵人仲家、足利判官代義清、源次加を始として三十余人、皆甲を脱、矢先を調て射ければ、飛騨守景家、上総介忠清、飛騨判官景高を始として、三百余騎前を諍て懸けり。伊勢国住人、堀六郎貞保、同七郎貞俊、(有朋上P498)緋威冑に白き幌係て、楼門のきはまで攻寄たりけるを、唱法師勝たる弓の上手也ければ、一の矢に貞保が内甲をいて落してけり。貞俊是を見て太刀を抜、唱を討とらんと懸けるを、二の矢に貞俊頸骨を被射て、馬の弓手に落にけり。伊賀国住人森小兵太利宗と名乗て懸けるが、源次加につるばしりの板を筋違様に射ぬかれて、馬の前に落にけり。此外或はあきまを被射落者もあり、或は馬の腹をいさせてはね落さるゝ者もあり、敵をいとるたびには、声を調て嘲り咲けり。敵もおくしぬべくぞ聞えける。三位入道此有様を見て申ける、軍敗をけやけくたゝかふ事は敵による事なり、此奴原は近国の者共にこそ有ぬれ、さのみ罪な作そ、今は弓を収て各自害をすべしとて、我身も鎧脱捨、下総国住人下河部藤三清恒と云郎等を招き宣けるは、敵の中にて討死をもすべかりつれ共、老衰たる首をとられて、是ぞ三位入道が頸とて、敵の中にて取渡されん事、心憂思つれば、心閑にと存て是へ来れり、我首敵にうたすな、人手にかくな、急ぎ伐ていづくにも隠し棄よと宣ふ。清恒目もくれ心も迷ければ是を辞申。因幡国住人弥太郎盛兼
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に被仰けれ共、同是を辞す。渡辺の丁七唱を召て、今は限と覚る也、敵に知せで急頸を討と宣へば、唱も年来の主君を伐奉らん事の哀しさに、御自害候へかし、御頸をば給(有朋上P499)候はんとて、太刀を差やりたりければ、入道池の水にて手口をすゝぎ西に向て念仏三百返計申て、最後の言ぞ哀なる。
埋木は花咲事もなかりしに身のなるはてぞ哀なりける K082
と云も果ぬに、太刀の先を腹に取当て倒懸り、貫てぞ死にける。此時歌など読べしとは覚ねども、若より心に懸好みければ、最後にも思出けるにこそ、哀にやさしき事也。入道の首をば下河部藤三郎取て、平等院の後戸の板敷の壁をつき破て隠し入る。同子息伊豆守仲綱も散々に戦ひて後、入道の跡を尋て、平等院の御堂に立入て、物具脱捨腹掻切て死にけり。弥太郎盛兼其頸を掻落して、入道の首と一所に隠し置、人不知之。後日に竹格子の下より、血の流出たりけるを恠て、御堂を開て見ければ、頸もなき死人あり、誰と云事を不知、後にこそ伊豆守とも披露しけれ。其よりしてこそ、其名をば自害の間とも申也。弥太郎盛兼走廻て、入道殿も伊豆守殿も御自害也と申したりければ、さてはかうにこそとて、入道の養子にしたりける木曾が兄に六条蔵人仲家、其子の蔵人太郎父子二人、太刀を抜き、腹と腹とにさし違てぞ死にける。宮の兵共かように宗徒の者討死しければ、恥を思輩は同死ぬ。渡辺党の宗徒の者三十余有けるも、入道父子亡にけ(有朋上P500)れば、此彼に馳合馳合討死するもあり、蒙疵自害するも有りければ、遁は少く死は多し。其中に競が事をば、右大将不安被思ければ、兵共に
P0367
相構て虜て進せよ、鋸にて頸きらんと下知し給ければ、官兵其意を得て、競と名乗ば弓を引かず、太刀をぬかず、辺に廻て伺ける間に、滝口は先に心得て射廻り切廻りければ、人は討れ手負けれ共、競は身に恙なし。侍ども今は只討とれ、人一人生どらんとて多兵を失べきに非ずとて、中に取籠散々に戦ければ、競も終に打死して失にけり。伊豆守仲綱の郎等に、公藤四郎、同五郎兄弟は、御室戸より伊勢路に向て落にけり。円満院大輔は、赤威の鎧に、そり返りたる長刀持て、平等院の門外に進出て、高倉宮未これに御座あり、参て見参に入者共とて、持て開て走出ければ、馬の足薙れじとて、百騎計馬より下、太刀を抜てぞ懸ける。大輔は長刀打振て、しころを傾て向ふ。敵に刎て懸ければ、左右へさと引退き、中を開て通しけり。大輔は河を下に落て、行足はやくして飛が如し。馬も人も追付かざりければ、唯遠矢にのみぞ射ける。大輔は川の耳に物具ぬぎ捨て、しづ/\と川を渡り、向の岸におよぎ付、いかに殿原渡し給へ/\と申て、我寺へこそ帰にけれ。(有朋上P501)
S1505 宮中流矢事
宮は平等院を落させ給つゝ、男山八幡大菩薩を伏拝御座して、新野の池も過させ給ひて、井出の渡と云所まで延させ給ひけり。御寝もならず喉も乾せまし/\て、水進度思召ければ、小河の流たりけるを汲て進けり。此所をばいづこと云ぞ、又此河をば何と云ぞと御尋あり。此辺をば、山城国井出の渡と申、河をば水なしと申候と答申ければ、打頷許せ給て、思召つゞけけるは、
山城の井出の渡に時雨して水なし川に浪や立らん K083
P0368
と御口ずさみ有りて、光明山へかゝらせ給に、軍兵後より追係進せけるが、何者が射たりける矢やらん、鳥居の前にて流矢来つて、宮の御かた腹に立たりければ、即御馬より真逆に落させ給ふ。やがて消入せ給て御目も御覧じあけず。園城寺法師に、讃岐阿闍梨覚尊と云者、長絹の衣に違袖して、下に腹巻著て、御伴に候けるが、馬より飛で下り奉拘。御伴の人々は未追付進せず、黒丸と申舎人計ぞ候ひける。覚尊と二人して、相構へて御馬に掻のせ進せんとする処に、飛騨判官景高奉見之、鞭を揚てあれ/\と云(有朋上P502)挿絵(有朋上P503)挿絵(有朋上P504)ければ、郎等落合て、宮の御頸をば取てげり、悲と云も疎也。寺法師律浄坊の日印の弟子に伊賀坊、乗円坊の慶秀が弟子に刑部房、残り留て、命も惜まず戦けり。白刃を拭に隙なし。爰にして飛騨判官が郎等多打れにけり。律浄坊日印も、打死して失にけり。心は猛く思へども、小勢は力及ばずして、伊賀房、刑部房、奈良の方へ落にける。彼律浄坊と申は、兵衛佐頼朝の流人に〔し〕て伊豆に御座せし時、忍で諸寺諸山の僧徒に祈を付給ひけるに、寺には此律浄坊を以て師匠に憑給へり。日印八幡宮に参篭する事、千日、無言大般若を読けるに、七百日に当る夜、御宝殿より金の鎧を給と示現を蒙りたりければ、悦をなし、夜を以日に継伊豆国へ馳下、此由兵衛佐殿に語申。聞給て、いか様にも末憑もしき事にこそと夢合し給て、世に候はば思知べしと宣たりけるが、平家滅亡の後に、兵衛佐殿三井寺へ尋給けるに、治承の比高倉宮の御伴申て、光明山の鳥居の辺にて打死也と申たりければ、不便の事にこそ、且は祈の師也、又夢の勧賞も宛給はんと思しに、死ける事の無慙さ
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よ、但其人なければとて、兼て存ぜし事争か空かるべきとて、伊賀国山田郷を三井寺へ寄られて、律浄坊が孝養報恩無退転とぞ聞ゆる。(有朋上P505)
S1506 季札剣事
< 昔異国に季札と云し兵あり。呉王の使として、魯国へ行けるに、徐君と云ふ知人の有けるに、一夜の宿を借たりけり。家主徐君、季札が帯たる剣に目を係て、口には乞事なかりけれ共、是もがなと思へる気色見えたりけり。季札心に思様、吾呉王の使として、他国へ行、ほしがる貌たて如何せん、先与ん事難叶、魯国より帰らん時は、必与んと思て去にけり。季札不久して呉国へ帰けるに、又徐君が家に行て角と云ければ、世を早して今はなしと答。季札泣悲て、墓はいづくぞと問ば、家僕相具して行。塚に松うゑたり。是徐君の墓と云ければ、心にゆるしたりし剣なり、死たりとて争か其心を違へんと思て、剣を解、松の枝に懸て、徐君が霊を祭て去、其ためしにぞ似たりける。彼は剣を解て松に懸て旧友を祭、是は庄を寄て奉仏師匠を弔ふ、心の中の約束を違ざるこそ哀なれ。>
S1507 南都騒動始事
南都の大衆三万余人御迎に参けるが、先陣は既に木津川に著、後陣は猶興福寺の南大門(有朋上P506)にと聞えければ、御憑しく思召けるに、今五十余町御座つかで、討れさせ給ひにけり。法皇第二御子なれば、帝位に即て天下の政ましまさん事も難かるべきにあらず、其までこそ御座ざらめ、目の渡り懸御事にあはせ給事、先世の御宿業にこそとは思へども、哀也ける事ども也。
左大夫宗信は、御身を離れず御伴に候て、三井寺宇治までも参たり。宮の落させ給ければ、三位入道の油鹿毛と云馬に乗て、後進せじと打けれ共、馬弱くて進みえず、敵は後より責懸る。無為方
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馬を捨て、新野池の水の中にはひ入て、草に顔を隠して蛙などの様に泣居たり。宮は今は奈良坂にも、かゝらせ給ぬらんと思ける処に、軍兵のけ甲に成て雲霞の如くに帰ける。中に、浄衣著たる死人の首もなきが、あふだに舁れて、通を見れば、腰に笛をさせり。穴心うや、宮の御むくろにこそ、早討たれさせ給にけりと思て、走出ていだきつき進せんとまで覚けれ共、さすが武士共恐ろしければ其も不叶。御笛と云は御秘蔵の小枝也。此御笛をば、我死たらん時は必棺に入よと仰けるとぞ、佐大夫後に語たりける。大夫は夜に入て、池の中よりはひ出て、はふ/\京へ上にけり。甲斐なき命ばかり生て、五十までは官もなかりけるが、正治元年に改名して近江守になり、邦輔とぞ云ける。宮の御頸、并討所の頸共五十余捧て、平家の軍兵都へ帰入。後は(有朋上P507)不知ゆゝしくぞ見えし。高倉宮宇治を過て、南都へ越させ給由聞えければ、蔵人頭重衡、左少将維盛朝臣、五百余騎の軍兵を卒して、宇治に馳向ける程に、此人々に先立て、忠清、景家等勝負を決してければ、上は源三位入道已下の首を取て入洛しけり。未刻に維盛朝臣は重服也ければ、つるばみの袍に衣冠にて東門より参入、重衡朝臣は、冑を著て西門より参上す、両人の装束不同也。とりどりにぞ人称美しける。合戦の次第御尋あり、両人の申詞事多といへ共、頼政党類、於平等院追討の趣は一同也。晩頭に及で、景家は頼政入道、仲家、嗣、守、助、重等が首を捧げて、八条高倉前右大将の亭に帰参す。忠清又兼綱、義清、唱法師、配が首をさゝげて、同参しけり。左衛門尉重清、又加が首を捕て参入しけり。各事柄いづれもゆゆしく
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ぞ見えける。
上総守忠清、相国禅門に申けるは、今度合戦の高名、足利太郎忠綱が宇治川の先陣の故也。向後の為に、速に勧賞候べしと、細々申ければ、入道大に感じて忠綱をめし、宇治川の先陣返々神妙、勧賞乞に依べしと宣ふ。忠綱畏て、靭負尉、検非違使、受領をも申べく候へ共、父足利太郎俊綱が、上野十六郡の大介と、新田庄を屋敷所に申候しが、其事空く候き。御恩には、同は父が本意をもとげ、身の面目にもそなへん為に、彼両条をゆるし給り候はんと申。入道(有朋上P508)当座に被下知たり。忠綱大に悦〔の〕眉を開て宿所に帰る。足利が一門此事を聞て、十六人連署して訴訟す。宇治河を渡す事、忠綱一人が高名に非ず、一門不与ば忠綱争か渡すべき。されば勧賞は十六人に配分候べし、忠綱が大介を不召返ば、向後の御大事には忠綱一人を召れ候べしと、一事に三度まで申たりければ、入道力及給はで、巳時に給たりける御教書を、未刻に被召返けり。午時許ぞ有ければ、京童部が、足利又太郎が上野の大介は、午介とぞ笑ける。高倉宮には常に人の参寄事もなかりければ、見知進たる者もなし。先年御悩の時、御療治に参たりしかばとて、典薬頭定成朝臣を召けり。定成大に痛申ければ、さては如何すべきとて、或女房を尋出して、見進すべき由申されけり。彼御頸を只一目打見進て、後は兎も角も被仰旨はなかりけり。只袖を顔に当て臥倒てぞ泣給ふ。去こそ一定の御頸とも知にけれ。彼女房も御身近く召れ、御子あまた御座ば、不疎思召れし御遺の惜さに、替れる御姿也共、今一度
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見進ばやと、尽せぬ志に引れては参たれ共、見進て後は、中々由なかりける事にやとぞ歎給ける。此宮は先年御顔に悪き瘡の出きて、御大事に及べかりけるを、典薬頭定成参て、目出療治し進たりける。其御療のあと御座ければ、まがふべくぞなかりける。廿五日に摂政殿より、南都の騒動(有朋上P509)を為被静、有官別当忠成を差遣さる。衆徒成憤散々に陵礫し、衣装を剥取て追出す。其上勧学院の雑色二人が本どりを切てげり。此事狼藉也、子細あらば訴訟に及べしとて、重て左衛門権佐親雅を御使として下遣す処に、大衆蜂起して、木津川の辺に来向、御使を打はらんなんど云ければ、親雅色を失て逃上けり。衆徒狼藉真に法に過たり、直事に非とぞ聞えし。
同廿七日院御所にて、高倉宮の御事議定あり。左大臣経宗、右大臣兼実、師大納言隆季、三条大納言実房、中御門大納言宗家、堀川中納言忠親、前源中納言雅頼〈 聴本座 〉皇太后宮大夫朝方、右兵衛督家通、右宰相中将実守、新宰相中将通親、堀河宰相頼定卿なんどぞ被参ける。蔵人左少弁行隆仰を奉て、南の簀子に跪て、右大臣に仰て曰、源朝臣以光、背勅命園城寺をのがれ、南都に赴く、而彼衆徒同意して、謀危国家、仍被差遣官兵之間、南都に向処に、官兵と宇治にして合戦す。興福寺の衆徒、又同意〈 云々 〉、依之摂政度々被加制止之処に、氏院の有官の別当を打擲し、雑色が本どりを切て、長者の命に不可随之由成群議、両寺の罪科何様に可被行哉、可被定申とぞ仰ける。猶子細を尽して後、張本を召れて可被処罪科之趣、大略一同也。此に新宰相中将は、
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背勅命危国家、早被遣官兵、可被追討被定申けるを、(有朋上P510)師大納言聞之、色を変じて泣れけり。思処ありけるにや、議奏の趣一揆せざりければ、行隆為奏聞とて、其座を立て退けり。
三十日調伏法承て行ける僧共勧賞蒙、権少僧都良弘大僧都に伝し、法眼実海小僧都にあがり、勝遍阿闍梨律師に成されけり。又右大将宗盛子息侍従清宗は、三位して三位侍従と云、今年十二に成給ふ。二階賞預給ける間、叔父の蔵人頭にて御座する重衡より始て、多の人を超給けり。宗盛卿は此年の程までは、兵衛佐にてこそ御座しに、是は上達部に至り給へり。世をとる人の子と云ながら、一はやくぞ覚えし。一人の嫡子などこそ加様の昇進はし給へと、時の人傾申けり。聞書には、父前右大将の源以光、并頼政法師已下、追討の賞とぞ有ける。源以光とは、高倉宮の御事也。法皇の王子にて御座さずと云成して、源の姓を奉り、凡人にさへ奉成事、浅間しとも云計なし。
S1508 相形事
抑相者洽浩五天之雲洪、携九州之風、五行結気成膚成形、四相禀運保寿保神、依之月氏映光、教主釈尊屡応其言、日或伝景太子上宮、剰顕其証、(有朋上P511)一行襌師者、漢家三密之大祖、円輪満月床傍、審一百廿之篇章、延昌僧正者、我朝一宗之先賢、界如三千之窓内、省七十余家之施設内外共詩沛p、凡聖同弘斯業、なじかは違べき。されば昔登乗と申相人ありき。帥内大臣伊周をば、流罪相御座と相たりけるが、彼伊周公の類なく通給ける女房の許へ、寛平法皇の忍で御幸成けるを、驚し進せんとて、蟇目を似て射奉りたりければ、被流罪給へり。
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又太政大臣頼道〈 宇治殿 〉、太政大臣教道〈 大二条殿 〉二所ながら、御命八十、共に三代の関白と相し奉たりけるも、少も不違けり。又聖徳太子は、御叔父崇峻天皇を横死に合給べき御相御座と仰けるに、馬子の大臣に被殺給けり。又太政大臣兼家〈 東三条殿 〉四男に、粟田関白道兼の、不例の事おはしけるに、小野宮の太政大臣実頼、御訪に御座たりければ、御簾越に見参し給て、久世を治給べき由被仰けるに、風の御簾を吹揚たりける間より奉見給て、只今失給べき人と被仰たりけるも不違けり。又御堂馬頭顕信を、民部卿斉信の聟にとり給へと人申ければ、此人近く出家の相あり、為我為人いかゞはと被申たりけるが、終に十九の御年出家ありて、比叡山に篭らせ給にけり。又六条右大臣は、白川院【*白河院】を見進て、御命は長く渡らせ給べきが、頓死御相御座と申たりけるも違はざりけり。さも然べき人々は、必(有朋上P512)相人としもなけれ共、皆かく眼かしこくぞ御座ける、況や此少納言惟長も、目出き相人にて、露見損ずる事なし。されば異名に、相少納言とこそいはれけるに、高倉宮をば何と見進たりけるやらん、位に即給べしと申たりけるが、今角ならせ給ぬるこそ然べき事と申ながら、相少納言誤にけりと申けり。
S1509 宮御子達事
高倉宮には、腹々に御子あまたまし/\けり。宮討れさせ給ぬと披露ありければ、世を恐まし/\て、散々に忍隠させ給、墨染の袖にやつれさせ給けり。其中に伊予守盛章の娘の、八条院に候はれける三位殿と申けるを、忍つゝ通はせ給けるに、若宮姫宮御座けり。彼三位局をば、女院殊に隔なき御事
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に思召れければ、此宮達をも御衣の下より生立進せ給て、御いとほしき御事にぞ思召ける。宮御謀叛起して失させ給ぬと聞召しより、御子達も御心迷して、つや/\貢御も進らず、唯御涙に咽ばせ給けり。御母の三位殿も、何なる御事にか聞成奉らんと、肝心も御座まさず、あきれて御座ける程に、池中納言頼盛は、女院の御方に疎からぬ人也けるを、御使にて前右大将宗盛、女院へ被申けるは、高倉宮(有朋上P513)の若君の御座候なる、渡奉べしと有ければ、女院も三位殿も、兼て思召儲たる御事なれ共、今更いかに被仰べきとも思召分ず、只あきれてぞおはしける。日比は朝夕仕る中納言なれども、かく参て申ければ、あらぬ人の様に恐しくぞ思召れける。いかなる御大事に及とも、出奉べしとも思召れねば、宮をば御寝所の内に隠し置進せて、係る世の騒の聞えし暁より、比御所には御座さず、御乳人などの心をさなく奉具失にけるにこそ、何処とも行末しろしめさずと仰られけれども、入道憤深事なれば、大将もなほざりならず被申けり。中納言も情をかけ奉り難て、兵共多く門々にすゑ置て、はしたなき事様也ければ、御所中の上下色を失ひつゝ、いとゞ騒ぎあへり。世が世にてもあらばや、法皇へも申させ給べき。去年の冬より被打籠まし/\て、御心憂御挙動なれば、如何にすべしとも思召さゞりけり。若公も少き御心に、事の様難遁や思召れけん、是程の御大事に及ばん上は、只出させ給へ、我ゆゑ御所中の御煩痛しと申させ給ければ、女院を始進て、御母の三位の局、女房達老も若も、音を調て泣悲けり。心なかるべき女童部までも、皆袖をぞ絞りける。若宮今年は八にならせ給けり。
P0376
おとなしくも被仰けるこそ哀なれ。中納言もさすが岩木ならねば、打しめりて候はれけるに、大将の御許より、(有朋上P514)如何に/\と使頻に申ければ、頼盛も打そへ被申けり。女院は少しさもやと聞食御事有て、同じ御年程なる少者を尋させ給けれ共、大方なかりければ、力及ばせ給はで、若宮を奉渡けり。宮をば女院の御前へ請出進せて、御母三位殿御気荘進せ、御髪掻靡御ひたたれ奉らせなどして、出立進せ給ても唯夢の様に思召。如何にならせ給はんずるやらんと御心元なければ、尽ぬ御涙計を流させ給ける。中納言も、由なき御使也と、いとかなしくぞ被思けるに、若宮既出させ給へり。見進すればらふたく厳く御座しけり。少き御心にも思召入たる御有様悲く思給へば、いとゞ狩衣の袖を絞つゝ、御車の尻に参て六波羅へ奉渡、宮出させ給にければ、女院も三位殿も、同枕に臥沈て、湯水をだにも御喉へ入させ給はず。これに付ても女院は、由なかりける人を、此七八年手ならし奉りて物を思と、責ての事には悔しくぞ被思召ける。七八などはさすが何事も思召分べき事ならね共、我ゆゑ大事の出来事をかたはら痛く思召て、出させ給ぬる御事の悲さよとて、御涙せき敢させ給はず。宮六波羅に入せ給たりければ、大将出合見進て、哀なる御事に奉思涙を拭ひ給ければ、宮も御涙をぞ流させ給ける。池中納言頼盛申されけるは、女院御ふところの中より生立進させ給たりとて、不斜御歎御痛く、心苦思進せ候、ことなる御(有朋上P515)事なき様に、御計もあれかしと宣へば、大将又此趣を入道に口説被申ければ、仁和寺の守覚法親王へ奉渡て、御出家あり、御名を道尊とぞ申ける。
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彼法親王は、則後白河院の御子なれば、此若宮は御甥也、御年十八にして隠させ給にけり。又殷富門女院の御所に、治部卿局と申女房の腹に、若君姫君まし/\けり。若宮御出家の後には、安院宮僧正とぞ申ける。東寺の一長者也、姫君は野依宮と申けり。南都にも宮の御渡あり。盛興寺の宮をば、書写の宮とぞ申ける。又御子一人おはしけるをば、高倉宮の御乳人讃岐前司重秀が、北国へ具し下し進たりけるを、木曾もてなし奉て、越中国宮崎と云処に、御所を造てすゑ進せ、御元服ありければ、木曾が宮とも申、又還俗の宮とも申けり。嵯峨の今屋殿と申けるは、此宮の御事也。(有朋上P516)