『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十六

P0378(有朋上P517)
陀巻 第十六
S1601 帝位非人力事
抑昔延喜帝の第十六の御子兼明親王と、村上帝の第八の御子具平親王とは叔父甥にて、前中書王、後中書王と申奉る。賢王聖主の御子、才智才学目出く御座しき。されば前中書王は、後兄の第四の御子、無実に依て城の外に移され給ひたりけるが、宮も藁屋もとながめ給ひけるを、理りに思食、王位も詮なしとて、只一筋に仏道をのみ求給て、小椋山の麓に庵を結給ひ、詩を造り琵琶を弾、御心をなぐさめ給しに、或時晴たる空に雲上り、良暫く有りて雲のたゝずまひ物恐しき中より、青き鬼来て、庇に畏り居たりけり。親王御心をしづめ、能々御覧ありけるに、彼鬼恐れたる気色にて、申す言も無りければ、親王何人の何事にかと問給へば、鬼答て申様、吾は是宋朝の作文の博士、好色の遊客也、名を長文成元真と申き、色に耽ては詩を作り、女を恋ては歌を成せり。彼好念の積りつゝ、かく青鬼と成侍、而に病の床に臥、最後に及し時、九月尽の露菊を見て、一句(有朋上P518)の詩を造れり。
  不是花中偏愛菊 此花開後更無花 K084 
此花ひらけつきてとこそ作たりしを、当世の人開て後と読侍り、我が所存には非ず、君作文詩歌に長じ御座せば、本意を申入んとて参上する所也とて、雲井遥に去にけり。村上の帝、上玄石上の琵琶
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の秘曲を、廉承武に伝へ給しには、猶まさりてぞ覚ゆる。加様に目出き御事に御座しかども、帝位につかせ給ふ御運は、可然御宿報なれば、さてこそやませ給ひしか、謀叛をば起させ給はず。後三条院の第三王子輔仁親王は、白河院には御弟也。目出き人にて御座を、春宮御位の後には、必此御子を太子に可奉立と後三条院返々白河院に御遺言ありければ、院も慥に御言請あり。親王の宮も必御譲を受させ給ふべき由思食けるに、東宮実仁、永保元年八月十五日に、御年十一にて御元服ありしが、応徳二年二月八日、十五にて隠れさせ給しかば、後三条院の任御遺言、三宮輔仁太子に立せ給べかりしを、無其御沙汰。承保元年十二月十六日に、白川院【*白河院】の一宮敦文親王御誕生、今上后腹の、一御子にて御座しかば、太子に立せ給べかりしか共、承暦元年八月六日、御とし四歳にて失給けり。同三年七月七日、堀川院御誕生あり。同年十一月(有朋上P519)三日、親王の宣旨を下されにければ左に右に三宮被引違給へり。堀川院も八歳まで太子にも立せ給はず、親王にて、応徳三年十一月二十六日に、受御譲させ給て、軈其日春宮に立せ給。寛治三年正月五日、御年十一にて御元服有けり。三宮は御位こそ不叶共、太子にもと思召けるに、寛治元年六月二日、三宮陽明門院にて御元服有しに、太子の御沙汰にも及ばざりしかば、輔仁親王御位空して、仁和寺の花園と云所に住せ給けり。白川【*白河】法皇より、何にいつとなく、さ程に引籠らせ給にか、時々は御出仕なんども候べしとて、国庄あまた被進ける御返事に、
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  有花有獣山中友、無愁無歎世上情 K085 
と申させ給たり。すべて詩歌管絃に長じ御座しかば、世にもなく官もなき人々は、院内の御事よりも、中々珍しく奉思て、参通人多かりければ、時人三宮の百大夫とぞ申ける。御位相違有しか共、世の乱はなかりし者を、三宮の御子花園左大臣有仁を、白川院【*白河院】の御前にて元服せさせ進せ、源氏の姓を奉らせ給て、無位より一度に三位して、やがて中将になし奉けり。是は三宮輔仁親王の御怨を休奉り、又後三条院の御遺言をも恐させ給けるにこそ。一世の源氏無位より三位し給事は、嵯峨天皇の御子陽成院大納言定卿(有朋上P520)の外無其例。
S1602 満仲讒西宮殿事
冷泉院御位の時、覚御心もなく、御物狂はしくのみ御座ければ、ながらへて天下を知召さん事もいかゞと思食けるに、御弟の染殿式部卿宮は、西宮の左大臣の御聟にておはしけるを、能人にて渡らせ給と申ければ、中務丞橘敏延、僧連茂、多田の満仲、千晴など寄合て、式部卿宮を取奉て東国へ赴、軍兵を起即位進せんと、右近の馬場にて夜々談議しける程に、満仲心替して此由を奏聞しけるに依て、西宮殿は被流罪給にけり。敏延は播磨国を賜らん、連茂は一度に僧正にならんとて、係る事を思立けり。満仲返り忠しける事は、西宮殿にて敏延と満仲と、相撲を取りけるに、満仲力劣にて、格子に被抛付顔を打欠たり。満仲不安思て腰刀を抜て敏延を突んとしける。敏延高欄の■木を引放て、近付ばしや頭を打破らんとて、立袴て有ければ、満仲不及力さて止ぬ。時の人あゝ源氏の名折たりと云ければ、敏延を失はんとて返忠したりといへり。西の宮殿は聊も不知召けるを、敏延
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失ん為に、讒訴の次に式部卿宮の御舅なればとて讒申けるを、(有朋上P521)一条左大臣師尹、殊に申沙汰して、西宮左大臣を流して、其所に成替給たりけるが、幾程もなく声の失る病をし、一月余り悩て失給にけり。僧連茂をば検非違使召捕て、拷器に寄て謀叛の意趣を責問けり。余の難堪さに、連茂音を上て、南無帰命頂礼、金剛瑜伽秘密教主、胎金両部、諸会聖衆、伝燈阿闍梨耶、竜猛竜智助給へ/\と唱へければ、上乗密宗の力にて、拷器も笞杖も折砕てこそ失にけれ。
S1603 仁寛流罪事
白川院【*白河院】の御子、全子内親王をば、二条皇太后宮とぞ申しける。鳥羽院は康和五年正月十六日に御誕生、同八月十七日に東宮に立せ給て、嘉承二年七月十九日、御年五歳にて位に即せ給ければ、御母代とて内裏に渡らせ給けるに、其御方に、永久元年十月の比、落書あり。折節怪童の有けるを、搦て問ければ、醍醐の勝覚僧都の童、千手丸也。人の語に依て、侵君進せんとて、常に内裏にたゝずむなりとぞ申ける。法皇大に驚思食、検非違使盛重に仰て千手丸を被推問。醍醐寺の仁寛阿闍梨が語也と申す。彼仁寛は三宮の御持僧也。御位の恩宿願を遂させ給はんが為に、或青童の貌、或内侍の形にて、日夜に奉(有朋上P522)伺便宜き。不叶して今かく成侍ぬとぞ落たりける。やがて仰盛重仁寛を召捕て、公卿僉議あり。罪斬刑に当るといへ共、死罪一等を減じて、遠流に定、仁寛をば伊豆国、千手丸をば佐渡国へぞ被流ける。さしも重科の者なれ共、かく被寛ける事、皇化と覚て止事なし。其上縁者の沙汰ありけるを、大蔵卿為房参議にて僉議の座におはしけるが、加程の悪逆必しも父母兄弟の結構にあらじ、然者不可及罪科歟と
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被申たりければ、当座の諸卿皆為房卿の議に同ずとて、縁者の沙汰はなかりけり。為君に忠あり、為人に仁あり、為房卿子孫繁昌し給ふも、理也とぞ人申ける。昔も浅増き様ありけれ共、及子孫事はなかりき。高倉宮討れさせ給ぬれば、今は何条事かは有べきなれども、小宮々も角成せ給けるこそ糸惜けれ。六条殿と申す女房の御腹に、法皇の御子おはしけり。故建春門院の御子にし進て、七歳にて、安元元年七月五日天台座主快修僧正の御房へ入進て、釈子に定まし/\けれ共、未御出家はなかりけり。高倉宮も角成給ぬ。其御子達も捜取れさせ給と聞えければ、穴恐とて日次の御沙汰にも不及、周章騒て剃落し進けり。今年は十二歳にぞ成せ給。係る乱の世也ければ、無御受戒、只沙弥にてぞ御座しける。(有朋上P523)
S1604 円満院大輔登山事
円満院の大輔は、宇治の軍を脱出て、本寺に帰て息つぎ居たりけるが、三位入道父子眷属を始て、衆徒も多く討れ、又宮も中流矢うせ御座し、其宮々も一々に被尋出給ぬと聞て、つく/゛\物を案ずれば、山僧の心替より角成ぬと不安思へり。如何となれば、伝教師資の流を汲み、円頓実教の法を学しながら、勅使といひ戒壇と云、御灌頂と云、赤袈裟と云、事に於て山僧等が為に被妨て無安心処に、今又同心の由承伏して忽に変改、御運の尽ると云ひながら、口惜事也。本より異儀を存ぜば、急南都へ奉遷、などか遂本意ざるべき。今寺門の失面目事、生々世々の怨敵也、速に登山して、堂舎仏閣悉く磨滅の煙となさばやと大悪心を発、燧付茸硫黄など用意して、燧袋にしつらひ入、形を修行者
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法師に造成して、山門へこそ忍登れ。先根本中堂に参て、内外東西見廻つゝ、此にや火をさすべき、彼にや炬火を投べきと思廻し、暫く正面に虚念誦して居たりけるが、不断の燈明光を並べ、三部の長講音澄めり。最貴覚て案じけるは、抑此伽藍と申は、我等が祖師伝教大師建立の寺院、生身の医王常住の精舎也、智証大師の御作、(有朋上P524)七仏薬師の霊像も此堂に安置せり、忠仁公の梵釈四天、准三公の十二神将も御座、縦末学雖存意趣、争か祖師の本尊を奉失べきなれば、此伽藍は叶はじと思返して、中堂を出て大講堂に臨で伺見ば、大厦の棟梁天に挟、四面の采椽雲に懸たり。何に火を差べし共覚ざる上、本尊を拝すれば、胎蔵の大毘廬遮那坐し給へば、左右に弥勒観音の脇士立給へり。紫金膚を研て、白豪光円也。仏法擁護の四天あり。大聖文殊の聖僧あり。嗚呼此伽藍を忽に灰となさん事の悲さよと思ければ、又此を出て惣持院に入るに、塔もあり堂もあり。堂は是秘密真言の霊場、胎金両部熾盛光等の大曼陀羅を安置せり。塔は又多宝全身の霊廟、胎蔵の五仏座を並べ、法華の千部を奉納せり。遠くは大唐の青竜寺に准へ、近くは本朝鎮国の道場を開けり。人こそ悪からめ、争か国家守護の霊室を失べきと思て、此を出でて彼に渡、彼を去て此に来見廻ば、法華常行は両堂軒を並べ、戒壇四王は両院甍を交たり。文殊楼、延命院、五仏院、実相院、或は大師大徳の御作、一人三公の建立、或は三密瑜伽の道場、一乗読誦の精舎也。功能何もとりどりに、御願誠に品々也。杉吹渡る風の音、実相の理をや調ぶらん、草葉に置る露の色、無■価の玉をぞ研たる。谷に並る松坊は、稽古
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修学の窓なれや、尾を隔たる草庵は、円頓観解の砌也。大輔(有朋上P525)は是を見彼を拝つゝ、穴貴の所やと信心忽に発て、帰敬の思萌ければ、大講堂の軒の下に立帰、我にはよく天魔の付にけるなり、何ぞ一旦の以我執、十乗の峰を亡、永劫の苦因を殖て、無間の底に入らん、縦興隆の心こそなからめ、豈及破滅企と、心に心を恥しめて、懺悔の涙を流けり。既本寺に帰けるが、余執又起て、是迄思立ぬる事を、空く人にも知られざらんは無念也、三塔に披露せんと思て、大講堂の柱に続松を結付て、札を制してぞ立たりける。其詞に曰、日比山門園城の我執を存し、当時牒送変改の遺恨に依て、三塔を焼払はんが為に数日登山の処に、倩案らく、一乗一味の法門は、三塔三井の所学也、山門寺門の伽藍は、祖師大師の建立也、何ぞ磨滅の煙を立て、空く荒廃の塵を遺んと、仍無益偏執を閣て、速に有心に放火を止ぬ、円満院大輔源海と書て、大講堂の大鐘鳴して下にけり。満山の大衆鐘に驚、谷々坊々騒動して講堂の庭に会合し、大輔が所為を見て、志の之ところ所存誠に不敵也、邪を翻て正に帰る情ありとぞ感じける。
S1605 三位入道歌等附昇殿事
源三位入道は、ゆゝしく計ひ申たりけれ共、遠国の者までは不及云、近国の源氏だにも(有朋上P526)急ぎ打上る者一人もなし、山門の大衆は心替しつ、不遂其先途、風吹ば木不安と、世の煩人の歎、為身為家、無由事申勧まゐらせて亡ぬる者かなと、貴賤口々に申けり。彼入道と申は、清和帝の第六皇子貞純親王の二代の苗裔、多田新発意満仲が子、摂津守頼光が三代の後胤、参河守頼綱が孫、兵庫頭仲正
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が子也、保元の合戦の時、御方にて一方の先陣を賜り、凶徒を退たりけれども、指る勲功の賞にも不預、怨を含ながら、大内の守護して年久く成、地下にのみして殿上をゆりされざりければ、
  人しれぬ大内山の山もりは木がくれてのみ月を見るかな K086 
と読て進たりければ、不便なりとて、四位して昇殿を免る。始て殿上を通りけるに、ある女房の、
  つき/゛\しくもあゆぶものかな
と云たりければ、頼政とりあへず、
  いつしかに雲の上をば蹈なれて K087 
と申たりければ、優に甲斐々々しと感じけり。又四位の殿上人にて、久く世に仕へ奉けるに、述懐仕て、(有朋上P527)
  上るべきたよりなければ木の本に椎を拾ひて世を渡るかな K088 
と申たりけるに依て、七十五にて三位を被免て後、先途既に遂ぬとて、出家して源三位入道ともいはれけり。大方此頼政は、歌に於ては手広者にぞ被思召ける。鳥羽院御時に、宇治河、藤鞭、桐火桶、頼政と、四題を下させ給。一首に隠して進よと勅定ありけるに、
  宇治川のせゞの淵々落たぎりひをけさいかに寄まさるらんK089 
と申たりければ、時の人、我々は一題をだにも、一首に隠はゆゝしき大事なるに、あまたの題を程なく
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仕たる事、実に難有と感じ申けり。君もいみじく仕りたりと、叡感有けり。
S1606 菖蒲前事
殊に名をあげ施面目ける事は、鳥羽院御中に、菖蒲前とて世に勝たる美人あり。心の色深して、形人に越たりければ、君の御糸惜も類なかりけり。雲客卿相、始は艶書は遣し情を係事隙なかりけれ共、心に任せぬ我身なれば、一筆の返事、何方へもせで過しけ(有朋上P528)る程に、或時頼政菖蒲を一目見て後は、いつも其時の心地して忘るる事なかりければ常に文を遣しけれども、一筆一詞の返事もせず。頼政こりずまゝに、又遣し/\なんどする程に、年も三年に成にけり。何にして漏たりけん、此由を聞食に依て、君菖蒲を御前に召、実や頼政が申言の積なると綸言ありければ、菖蒲顔打あかめて御返事詳ならず、頼政を召て御尋あらばやとて、御使有て召れけり。比は五月の五日の片夕暮許也。頼政は木賊色の狩衣に、声華に引繕て参上、縫殿の正見の板に畏て候ず。院は良遥許して御出ありけるが、じつはふの者には物仰にくければとて、殊に咲を含ませ御座。何事を被仰出ずるやらんと思ふ処に、誠か頼政菖蒲を忍申なるはと御諚あり。頼政は大に失色恐畏て候けり。院は憚思ふにこそ、勅諚の御返事は遅かるらめ、但菖蒲をば誰彼時の盧目歟、又立舞袖の追風を、徐ながらこそ慕ふらめ、何かは近付き其験をも弁べき。一目見たりし頼政が、眼精を見ばやとぞ思食ける。菖蒲が歳長色貌少も替ぬ女二人に、菖蒲を具して、三人同じ装束同重になり、見すまさせて被出たり。三人頼政が前に列居たり。梁の鸞の並べるが如く、窓の梅の綻たるに似たり。頼政よ其中に忍申す菖蒲侍る也、朕占思召女也、有御免ぞ、相具して罷出よ
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と有綸言ければ、頼政いとゞ(有朋上P529)失色、額を大地に付て実に畏入たり。思けるは、十善の君はかりなく被思食女を、凡人争か申よりべかりける。其上縦雲の上に時々なると云とも、愚なる眼精及なんや、増てよそながらほの見たりし貌也、何を験何ぞなるらん共不覚、蒙綸言不賜も尾籠也、見紛つゝよその袂を引きたらんもをかしかるべし、当座の恥のみに非、累代の名を下し果ん事、心憂かるべきにこそと、歎入たる景色顕也ければ、重て勅諚に、菖蒲は実に侍るなり、疾給て出よとぞ被仰下ける。御諚終らざりける前に、掻繕ひて頼政かく仕る。
  五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引ぞわづらふ K090 
と申たりけるにこそ、御感の余に竜眼より御涙を流させ給ながら、御座を立たせ給て、女の手を御手に取て、引立おはしまし、是こそ菖蒲よ、疾く汝に給也とて、頼政に授させ給けり。是を賜て相具して、仙洞を罷出ければ、上下男女歌の道を嗜ん者、尤かくこそ徳をば顕すべけれと、各感涙を流けり。実に頼政と菖蒲とが志、水魚の如にして無二の心中也けり。三年の程心ながく思し情の積にやと、やさしかりし事共也ければ、京童部申けるは、二人の志わりなかりけるこそ理なれ、媒が痛見苦もなければとぞ咲ひける。伊豆守仲綱は、即彼菖蒲が腹の子也。(有朋上P530)
S1607 三位入道芸等事
又打物に取て名を揚る事ありき。悪右衛門督信頼が天下に秀たりし時、殿上の刻み階に、夫男一人立たり。信頼彼は何に狼藉也と申ければ、掻消様に失ぬ。某に一の剣あり。信頼くせ事也と思て、宝物
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の御剣にも候らん、焼鐔の剣ならば、山をも岩をも可破崩とて、此剣を抜御坪の石を切るに、剣七重八重にゆがむ。曲なき者也とて、温明殿の縁に棄置れぬ。折節頼政参会たり。信頼欺之、いかに剣は見知給へるかと申。頼政弓矢取身にて侍る、如形知たる候と云。其時少輔内侍と云ふ以女房、大床に棄置所の剣を被召寄けるに、曲たる剣忽に直て、鞘に納る。不思議也とて頼政にみせらる。頼政打見て仰て、まめやかの御剣也、朝家の御守たるべし、其故は太神宮に五の剣あり、当時内裏に御座す、宝剣は第二の剣、是は第三の剣也、但頼政いかゞして神剣を知侍るべきなれ共、作人に依て剣体を知、其上今夜の夜半におよびて、天の告示給事あり、国を守らん為に皇居に一の剣を奉る、即宝剣是也、亡国の時は、此剣又宝剣たるべし、為用意奉権剣と見て候。折節今日御剣出現之条、併国の御守と覚ゆと申。其時信頼卿ふしぎ也と思ひ、さらば(有朋上P531)剣の徳を施給へと云。頼政霊剣自由の恐ありといへ共、仰にて侍ば、何事をか仕べきと申。御前の坪の石をと聞ゆ。畏てとて頼政彼石を切かけず散々に切破て、見参に入奉る。禁中さゝめき上下驚目。信頼始は欺て云たりけれ共、今は恐くぞ思ける。さて剣の咒返を満て、鞘にさして温明殿に移し置る。加様に勘申けれども、不肖に被思召ければ、頼政が言を不被信。元暦二年三月廿四日に、宝剣浪の底に沈ませ給て後、彼剣宝剣と成し時こそ頼政実に非直者と被思召けれ。世下つて後も頼政程の者なかりけり。諸道を不疎、立る能ごとに不顕威と云事なし。花鳥風月弓箭兵仗、都てこのみと好む事、名を揚げ人に勝れたり。就中
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弓矢に験を顕はしき。
後白河院第一御子をば二条院とぞ申ける。去久寿二年九月廿三日、御歳十三にて、春宮に立せ御座し、保元三年八月十一日、御年十六にて御即位ありけるが、平治二年の夏の始より御不予の御事まし/\けり。五月上旬の比は、御悩殊外に取頻らせ給て、夜深人定る程には、俄に必おびえたまぎらせ給けり。
 < 異説云、仁安元年の春の比、可有春宮御即位由有其沙汰、此東宮と申は高倉院の御事也。五条高倉に栖せ給ければ、高倉宮とぞ申ける、同年四月中旬より、宮御悩ありと云云。>(有朋上P532)
一院不斜歎思食て、諸寺諸山にして、御祈を始め、医師に仰て、御薬を勧め参せけれ共、更に其験ましまさず見えければ、東三条の森より、黒雲一叢立来、南殿の上に引覆、■と云鳥の音を鳴時に、必振ひたまぎらせ給ひけり。天下の大なる歎也ければ、日夜に諸卿参内ありて、各僉議あり。有験の験者にて可奉祈歟、以博士可送歟なんど取々に被申けるに、徳大寺左大臣公能の被申けるは、目に不見物ならば可祈祭、是は目の当也、弓の上手を以て射さすべき歟。其故は去寛治年中に、堀川院御悩の事御座き、療治も祈祷も叶はざりけるに、公卿僉議ありて、此御悩非直事、以武士大内を可警固とて、八幡太郎義家に仰す、義家蒙勅て、甲冑を著し弓箭を帯して、南庭に立跨殿上を睨で高声に、清和の帝には四代の孫、多田新発意満仲が三代の後胤、伊予守頼義入道が嫡男、前陸奥守
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源義家、大内を守護し奉、いかなる悪霊鬼神なり共、争望をなすべき、罷退けと名乗懸て、弓の絃を三度鳴したりければ、殿人も階下も身毛竪て覚けるに、御悩忽に癒させ給けり。去ば是は怪鳥か変化か、目に顕たる者也、以武士射さすべき也とぞ被勘申ける。大臣公卿此義最可然とて、弓の上手を勝られけり。源平の中に何なるべきぞと義定有けるに、石廉将軍が末葉に、大和国住人石川次郎秀廉を召されけ(有朋上P533)り。秀廉庭上に参て蒙綸言云、天下に媚物あり、殊なる朝敵也、深夜に及で明見仕れと被仰下。秀廉畏て勅諚謹承候畢。此身旧宅に住して、名字既に故人に通、蒙勅命事、生前の面目に侍、但弓箭年旧て、其手未練也、先祖を尋送らるといへ共、末代尤難叶。勅命を承て、不鎮朝敵ば、弓矢の名絶なん事、当時一身の歎のみに非、先祖の将軍が威を失はん事、大なる恥也。然ば蒙御免侍ばやと嘆申ければ、関白殿汝が痛申処、実に不便也。但綸言と号して、鬼神を鎮め夷賊を平る例是多し。当今の御代に至て、仏法王法互に相対せり、などか以朝威不仕、自由の辞状尤罪科也。天下の勝事に身を惜は、在王土無其詮、速に配所へとぞ被仰下ける。石河次郎秀廉、失面目罷出ぬ。其後誰をかと有僉議。関白殿の仰に、頼光が末葉、頼政器量の仁に当れりとて、源兵庫頭を召れけり。頼政は例の歌道の御会にやとて、木賊色の狩衣になり、見澄して参たり。深夜に臨で媚物あり、玉体を奉侵、及其期明見仕と仰ければ、頼政畏承候ぬとて、御前を罷立て、近衛川原の宿所に帰る。本の装束脱替て、朝敵を鎮る形にぞ出立ける。生衣の捻重に黄なる大口、
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葉早黄色の直垂をぞ著たりける。彼直垂には、左の肩には八幡大菩薩と縫、右の肩には山鳩をぞ縫たりける。産衣と云鎧を著て、男山三度奉伏拝、其後(有朋上P534)鎧をば脱置て、直垂小袴計也。郎等に丁七唱、遠江国住人早太と云者二人を相具したり。唱は小桜を黄にかへしたる腹巻を著せ、十六指たる大中黒の矢の、おもてに水破兵破といふ鏑矢二つ差、雷上動といふ弓を持せたり。水破といふ矢は、黒鷲の羽を以てはぎ、兵破といふ矢をば、山鳥の羽にてはぎたりけり。早太には骨食といふ太刀を、ふところにささせたり。
 < 水破兵破雷上動と云弓箭は、是大国の養由が所持也。彼の養由とは、楚国の者、秦王の時の人也。大聖文殊の化身也。或時文殊養由に有対面いはく、汝は我化身也、吾汝に一徳ををしへんとて、文殊双眼の精を取て二の鏑に作れり。五台山の麓に、両頭の蛇一つあり。信敬慙愧の衣の糸を、八尺五寸の絃により係て、一張の弓をなし、多羅葉をとりあつめて、直垂と云物に作りきる。今の葉早黄色と云ふは是也。柳葉を的として、射術を教給故に、天下無双の弓の上手にて、養由弓をとれば雁列を乱り、飛鳥たちまちに地に落つるいきほひありき。而養由七百歳を経て、天下を見案ずるに、雲州に我弓矢をつたふべき仁なし、娘の桝花女と云ふ女に、是を伝置て、其身むなしく去りにき。桝花女命尽なんとする時に、弓の弟子を尋ぬるに、本朝にあり。今の摂津守頼光是也。或時頼光昼寝したりけるに、天より影の如なる者下て、我が養由より所伝の弓箭を帯せり、汝にさづけんとて巨細を語りて(有朋上P535)去りぬ。夢醒て傍を見れば、件の弓矢直垂あり。頼光是を傅得て弓の徳を施すに、更に我が養由が芸に劣らず、頼光より頼国〈 美濃守 〉頼綱〈 参河守蔵人 〉仲政〈 兵庫頭下総守 〉頼政〈 三位 〉まで、子孫相傅して五代也、先祖の重宝也。身に取
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て一朝の大事不如之とて、加様に用意して参る。>
目にも見えぬ媚物を、而も五月の暗夜に射よとの勅命、弓取の運の極と覚たり。天の下に住乍蒙朝恩、器量の仁と被撰、非可辞申とて、主従三人出けるが、頼政向早太、我所存汝得たりやと問ければ、先立存知仕て侍、今度殿下より蒙仰給ひ、媚物を殿上にて一矢に射損じたらば、二の矢に可奉射、殿下、去ば軈て似骨食、我御頸を給て出よとこそ被思召候らめ、振舞侍べしと申ければ、汝が言は是大菩薩の御託宣とこそ覚ゆれ。憑むぞよとて宿所を出て、陣頭に参じ、河竹呉竹の北南にて、明見仕る景気、誠に優にして頬魂ひ武勇の大将と見たり。頼政宣旨を蒙て、媚物射んずる見よとて、公卿殿上人参集、堂上堂下内外男女、市をなせり。今や/\と通夜是を待、子の刻も過ぬ、丑の刻の半に及で、如例東三条の森より、黒雲一叢立渡、御殿の上に引覆としければ、主上はほと/\と振ひ出させ給ひけり。頼政は黒雲とは見たれ共、天は実に暗し、いづくを射るべしと矢所さだかならず、心中に帰命頂礼八幡大菩薩、国家鎮守の明神、祖族帰敬(有朋上P536)の冥応に御座〔と〕、頼政頭を傾けて年久、今蒙勅命怪異を鎮めんとす、射はづしなば、速に命を捨べし、氏人々々たるべくは、深守となり御座せと、男山三度伏拝み心を静めて能見れば、黒雲大に聳て、御殿の上にうづまきたり。頼政水破と云ふ矢を取て番て、雲の真中を志て、能引て兵と放つ、ひいと鳴て、かゝる処に、黒雲頻に騒いで、御殿の上を立、■の声してひゝなきて立所を見負て、二の矢に兵破と云鏑を取て番ひ、兵と射る。ひいふつと手答し
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て覚ゆるに、御殿の上をころ/\ところびて、庭上に動と落。其時に兵庫頭源頼政変化の者仕たりや/\と叫ければ、唱つと寄て得たりや/\とて懐たり。貴賤上下女房男房、上を下に返し、堂上も堂下も紙燭を出し炬火をとぼして見之。早太寄て縄を付、庭上に引すゑたり。有叡覧に癖物也。頭は猿背は虎尾は狐足は狸、音は■也。実に希代の癖物也。苟禽獣も加様の徳を以て奉悩君事の有ける事よ、不思議也とぞ仰ける。見聞の男女は口々に、頼政あ射たり/\とぞ嘆たりける。彼変化の者をば、清水寺の岡に被埋にけり。主上の御悩忽に宜成らせ給にければ、鳥羽院より有御伝ける、師子王と申御剣に御衣一重脱そへて、関白太政大臣基実公を御使にて頼政に被下けり。頼政は階の三階に右の膝を突、左の袂を擁て、畏て是を拝領す。五月廿日余の事なるに、折知がほ(有朋上P537)に敦公の一声二声、雲井に名乗て通けるを、関白殿聞召て、
  敦公名をば雲井にあぐるかな と、仰せければ、
  弓はり月のいるにまかせて K091 と、頼政申たり。
 < 五月やみ雲井に名をもあぐるかなたそがれ時も過ぬと思ふに K092 と、異本也。>
実に弓矢を取ても並なし、歌の道にも類有じと覚たり。大国の養由は、雲上の雁を落し、我朝の頼政は深夜の■を射る、弓矢の全事取々にぞ覚たる。加様に上下万人に被嘆、七十に余三位して、今年七十七、何なる楽に栄ありとても、今幾程か有べき。子息仲綱受領して、伊豆国知行し、丹波には五箇庄
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給て、家中も楽く人目も羨れてこそ有つるに、無由事勧申て子孫までも亡ぬるこそ不便なれ。馬ゆゑとは申ながら、非直事、偏に怨霊の致す処也とぞ歎ける。
S1608 三井僧綱被召附三井寺焼失事
三井寺にも、南都にも、猶尻引あて、悪徒の張本召るべき由其沙汰あり。昔より山門の大衆こそ、横紙をやり、非分の訴を致に、今度は不違宣旨随平家、南都園城には或は宮を入進、(有朋上P538)或は御迎に参つゝ、狼藉斜ならざりければ、太政入道大に安からぬ事に思ひ宣けり。殊に南都にも深く鬱て、殿下の御使を散々に陵礫せり、是又たゞ事にあらずと覚たり。廿一日園城寺円恵法親王〈 後白河院御子 〉天王寺の別当被止。其上彼寺の僧綱、公請を被停止、以使庁使、張本を被召けり。被下院宣云、園城寺悪僧等、違背朝家、忽企謀叛、依之門徒僧綱已下、皆悉停止公請、解却見任并綱徳兼亦末寺庄園及彼寺僧等私領、仰諸国之宰史、早可令収公、但於有限寺用者、為国司之沙汰付彼寺、所司任其用途、莫令退転恒例仏事、無品円恵法親王、宜令停止所帯天王寺検校職とぞ有ける。僧綱には、一乗院僧正房覚をば、飛騨判官景高承て召之。常陸法印実慶をば、上総判官忠綱承、中納言法印行乗をば、博士判官章貞承る。真如院法印能慶をば、和泉判官仲頼承。亮法印真円をば、源大夫判官季貞承。美濃僧正覚智をば、摂津判官盛澄承。蔵人法橋勝慶をば、祇園博士大夫判官基康承。宰相僧正公顕をば、出羽判官光長承、僧正覚讃をば、斎藤判官友実承、明王院僧都乗智をば、新志明基承、右大臣法眼実印をば、仁府生経広承、中納言法眼勘忠、大蔵卿法印
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行暁両人をば紀府生兼康承、各水火(有朋上P539)の責にぞ及ける。二会講師には、円全、性猷、澄兼、公胤〈 已上四人 〉被停止公請、学生十八人、被載罪名。高倉宮三井寺に籠らせ給に依て、衆徒も多く被誅、宮も亡びさせ給ひぬ。僧綱さへ公請を止られければ、哀入道の失滅よかし、耳にも聞じ目にも見じなど、園城も南都も大衆蜂起騒動すと聞えければ、東国の乱逆を前に抱て、園城寺を攻べしと聞ゆ。頼朝の謀叛には、尤南都北嶺に仰て、天下安穏の祈をこそ可仰付、入道の憤深ければ、其事既に治定すと有披露。三院の大衆会合僉議して、大関小関堀塞で、垣楯をかき逆茂木引て、構城郭たり。
十一月十二日、頭中将重衡大将軍として、一千余騎の軍兵を率して、三井寺へ発向す。大衆も思儲たる事なれば、大関小関二手に造て防戦けれ共、大勢に打落されて、大衆法師原に至るまで、死ぬる者八百余人、重衡勝に乗て、寺中に乱入、坊舎に火を係たれば、南中北の三院、金堂、講堂、神社、仏閣、一宇も不残焼にけり。本覚院、鶏足院、常喜院、真如院、桂園院、尊星王堂、普賢堂、青竜院、大宝院、新熊野、同拝殿護法善神の社壇、教待和尚の本坊、同御身像七宇の鐘楼、二階大門八間四面の大講堂、三重一基宝塔、阿弥陀堂、唐院宝蔵山王宝殿、四足一宇四面廻廊、五輪院、十二間大坊、三院各別灌頂院、惣〔じて〕坊舎塔廟六百三十七宇、大津の在家(有朋上P540)二千八百五十三宇、速に■煙となるこそ悲けれ。仏像二千余体、経巻幾千万ぞ数を不知。文徳天皇御宇仁寿三年に、智証大師自入唐して、渡し給へる唐本の一切経、七千余巻も焼にけり。顕密須臾に亡て、大小の書籍も失にけり。三密瑜伽
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の道場もなければ、振鈴声を断て、一夏安居の仏前もなければ、供花の薫も絶にけり。宿老碩徳の明師は怠行学、受法相承の弟子は、経巻に別れぬ。或は漫々たる浮海、船と共にこがるゝ大衆もあり、或は峨々たる峯に上て、嵐と同咽僧侶もあり、仏宝僧宝忽に亡つゝ、在家出家歎悲けり。抑三井寺者是、近江国志賀郡、擬大領大友夜須良麿が私の寺たりしを、天武天皇の御願に奉寄附、本仏も彼時の御本尊、生身の弥勒と申しを、教待和尚百六十年行ひ給て、其後智証大師の草創也。係目出三井の法水も忽に亡ぬるこそ悲けれ。天智天武持統三代の帝の御産湯の水をくみたりける故に三井寺と名たり。大師此所を伝法灌頂の霊地として、井花の水を汲事、慈尊の朝、三会の暁を待ゆゑに、三井寺とも申とかや。角止事なき聖跡に、兵俗乱入つゝ、塵灰となす事、有心人皆歎けり。況寺門老少の心の中、推量りても哀なり。(有朋上P541)
S1609 遷都附将軍塚附司天台事
治承四年五月廿九日には、都遷あるべき由有其沙汰。来月三日福原へ行幸と被定仰下けり。日頃も猿荒増事ありと私語けれ共、指もはやと思ける程に、既に被仰下ければ、京中貴賤迷是非ひ、周章騒つゝ、更にうつゝとは覚えず。兼ては六月三日と有披露しに、俄に二日に被引上ける間、供奉の人々上下周章騒て、取物も不取敢、東関の雲の夕、西海の波の暁、仮寝の床の草枕、一夜の名残も惜ければ、跡に心は留りて、思を残す事ぞかし。久此京に住馴て、始て旅だたん事倦ければ、外人には世に恐ていはざりけれ共、親き族は寄合て、額を合て泣悲、何なるべし共覚ねば、各袖を
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ぞ絞ける。二日既行幸あり、入道の年来執通給ひける所なるに依て也。中宮、一院、新院、摂政殿を奉始、公卿殿上人被供奉、三日と有披露だにも、忙かりしに、今一日引上られける間、御伴の上下いとゞ周章騒、取物も不取敢、帝王の稚御座には、后こそ同輿には召に、是は御乳母の平大納言時忠卿の北方、師の内侍と申ぞ被参ける。先例なき事也と、人欺申けり。係儘には法皇道すがら御心細、御涙せきあへさせ給はず、ゆゝしく木影の繁き森を御覧じ(有朋上P542)て、此は何所ぞと御尋あり。近く候ける人、広田大明神の社也と奏ければ、こは猿事にこそと思召て、今度無別御事、都へ有還御、政務如元ならば、御所近奉祝と有御祈念けるこそ哀なれ。御心中計の御事なれば人は此事をば不知けり。三月池大納言頼盛の家を皇居と定て、主上渡らせ給ふ。同四日頼盛家の賞を蒙て、正二位し給へり。九条左大臣兼実の御子、右大将良通越られ給へり。法皇をば福原に三間なる板屋を造て、四面に波多板し廻して、南に向て口一つ開たるにぞ居進ける。筑紫武士、石戸の諸卿種直が子に、佐原の大夫種益奉守護けり。一日に二度如形供御を進せけり。懸ければ此御所をば、童部は楼御所とぞ申ける守護の武士厳かりければ、輙人も不参、鳥羽殿を出させ給しかば、くつろぐやらんと思召けるに、高倉宮の御謀叛の事出来て、又角のみ渡らせ給へば、こは如何しつるぞや、心憂とぞ思召ける。今は世の事もしろしめし度もなし、花山法皇の御座けん様に、山々寺々をも修行して、任御心御座ばやとぞ被思召ける。鳥羽殿にてはさすが広かりしかば、慰む御事も有し物
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を、由なく出にける者哉と思食けるも、責の御事と哀なり。
抑神武天皇は天神七代を過、地神五代御末、葺不合尊の御譲を受させ給つゝ、人代百王の始の帝にまし/\しが、辛酉歳日向国宮崎郡にて、皇王(有朋上P543)の宝祚を継給へり。五十九年と申し、己未年十月に東征して、豊葦原中津国に留り御座、近来大和国と云は是也。高市郡、畝傍山を点じて、帝都を立、橿原の地を伐払て、宮室を作り給き。即橿原の宮といへり。自爾以降、代々の帝王、都を移さるゝ事、三十度に余り、四十度に及べり。
神武天皇より景行天皇まで十二代は、大和国所々に宮造して遷御座き。景行天皇御宇に、大和国纏向日代宮より、近江国志賀郡に被遷、穴穂宮を造り給。仲哀天皇二年の九月に、穴穂宮より長門国に移されて、豊浦宮に御座す。神功皇后御宇に、大和国十市郡に被移て、稚桜宮に御座。仁徳天皇元年に、同国軽島豊明宮より、摂津国難波に移されて、高津宮に住給。履中天皇二年に、大和国十市郡へ帰御座。反正天皇元年に河内国へうつされて、柴垣の宮に御座す。允恭天皇四十二年に、又大和国へ帰て遠明日香宮に御座。安康天皇三年、同国泊瀬朝倉宮に御座。其後六代は同国所々に住給ふ。
継体天皇五年に、山城国、筒城に移されて十二年、其後乙訓住給ふ。宣化天皇元年に猶大和国へ帰て、檜隈廬入野宮に御座。欽明天皇より皇極天皇まで七代は、大和国郡々に宮居して、他国へは
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不還給。孝徳天皇大化元年に、摂津国長柄にうつされて、豊崎宮に御座。斉明天皇二年に又大和国へ帰つて、飛鳥岡本の宮に御座。天智天皇(有朋上P544)六年、近江国に被移て、志賀郡大津宮に住給ふ。天武天皇元年に、大和国に帰て、岡本宮に御座、是を飛鳥の浄見原宮と申。持統天皇より光仁天皇まで、九代は猶大和国奈良の都に住給ふ。桓武天皇御宇、延暦三年十月に、山城国に遷されて、長岡宮に十年御座しけるが、此京狭とて、同十二年正月に、大納言藤原小黒丸、参議左大弁紀古作美、大僧都賢■等を遣して、当国の中、葛野郡宇太村を見せらる。三人共に奏して申、此地は左青竜、右百虎、前朱雀、後玄武、一も闕ず、四神相応の霊地也と、依之愛宕郡に御座、賀茂大明神に被告申、同十三年に、長岡京より此平安城へ遷給て以来、都を他所へ不被遷、帝王三十二代、星霜四百余歳也。昔より多の都ありけれ共、此京程に地景目出く、王業久かるべき所なしとて被遷たり。末代までも此京を他所へ遷されぬ事や在るべきとて、大臣公卿、賢者才人、諸道の博士等を被召集て、有僉議。長久なるべき様とて、土にて八尺の人形を造、鉄の甲冑を著せ弓矢を持せて、帝自土の向人形祝申させ給けるは、必此京の守護神となり給へ、若未来に此都を他所へ移す事あらば、竪く王城を守其人を罰せよと被含宣命て後、東山の峯に深一丈余の穴を堀て、西向に立て被埋けり。将軍塚とて今にあり。去ば天下に事出来、兵革興んとては、兼て告知しむる習あり。(有朋上P545)嵯峨天皇御宇、大同五年に他国へ遷されんとし給しかば、公卿僉議有て、奉諌し上、貴賤騒歎しかば、さてこそ止給けれ。一天
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の君万乗の主、猶御心に任給はず、凡人の身として輙も思企給けるこそ浅猿けれ。柏原天皇と申は、平家の先祖に御座。先祖〔の〕帝のさしも執し思召〔給〕ける都を、他国へ移給しも■なし。此京をば平安城とて、文字には平ら安き城と書り。旁以難捨。就中主上上皇共に平家の外孫にて御座、君も争か捨させ給べき。是は国々の夷共責上て、平家都に跡をとゞめず、山野に交べき瑞相にやとぞ私語ける。将軍塚の守護神、争か可不成怒、只今世は失なんず、心憂事也。平家専もてはやすべき都をや。入道天下を手に把り、心の儘に振舞給ける余り、当帝を奉下、我孫を位に付進、法皇の第二の王子高倉宮を奉誅御首を切、太政大臣の官を止て奉流関白殿、我聟近衛殿を奉成摂政、惣て卿相雲客、北面の下揩ノ至まで、或は流し或は死し、自由の悪行数を尽して、今又及遷都けるこそ不思議なれ。守護の仏神豈禀非礼給はんや、四海の黎民其歎幾許ぞ。犯人者有乱亡之患、犯神者有疾夭之禍と云本文あり、恐々といへり。就中福原と云は平安城の西也、今年大将軍在酉、方角既に塞れり、いかゞ有べきと申人ありければ、陰陽博士安倍季弘に仰て、勘文を被召ける。勘状に云、(有朋上P546)
本条云、大将軍王相不論遠近、同可忌避諸事、然而至于遷都者、先例不避之歟、桓武天皇、延暦十三年十月廿一日に、自長岡京、遷都於葛野京、今年大将軍為北之分、当王相方、然者就延暦之佳例案之、雖為大将軍之方、何可有其憚哉とぞ申たる。聞之人々舌を振て申
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けるは、延暦の遷都に御方違ありき。但永此城を捨られんには、強に方角の禁忌の不可及沙汰。勘文を召るゝならば、何様にも可有御方違者ぞ。季弘が勘状矯飾の申状歟。倩案事情、昔唐に司天台とて高二十丈の台を造、天文博士を置れたり。太史天変を見て、吉凶を奏する官也。漢元帝、成帝、父子二代之間、政無道にして天変頻也。北辰光少く、五星煌々として、赤事如火、芒を耀し、角を動して、三台を射る上、台半ば滅て、中台折たり。是必世乱国亡べき天変也。司天の大史是を見るといへ共、無道の君に恐て、毎望明光殿、只慶雲寿星とて、御悦来、御寿永かるべき天変とのみ奏せしかば、政を正事なくして、終に国乱帝亡給にけり。去ば季弘も入道の無道の政に恐つゝ、方角の禁忌をも不申けるにやとぞ、人唇を返ける。新都行幸の供奉に参ける人の、旧都の柱に書つけたりけるは、
  百年をよかへり迄に過こしに愛宕の里は荒や果なん K093 (有朋上P547)
行幸既にならせ給ければ、諸卿已下衛府諸司供奉せり。何者の態なりけるにや、東寺の門の道ばたに、札を立たり。
  咲出づる花の都をふり捨て風ふく原の末ぞあやふき K094 
行幸の御門出に、いま/\しくぞ見えし。(有朋上P548)