『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十九
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津巻 第十九
S1901 文覚発心附東帰節女事
文覚道心の起を尋れば、女故也けり。文覚がために、内戚の姨母一人あり。其昔事の縁に付て、奥州衣川に有けるが、帰上て故郷に住。一家の者ども衣川殿と云。若く盛んなりし時は、みめ形人に勝、心ばへなども優にやさしかりけるが、今は盛過て世中も衰へ、寡にて物さびしき住居也。娘一人あり、名をばあとまとぞ云ける。去共衣川の子なればとて、異名には袈裟と呼。親に似たる子とて、青黛の眉渡たんくわの口付愛々敷、桃李の粧芙蓉の眸、最気高して、緑の簪雪の膚、楊貴妃、李夫人は見ねば不知、愛敬百の媚一つも闕ず、さしも厳女房の、心さへ情深して、物を憐咎を恐事不斜。毛■西施が再誕歟、観音勢至の垂跡歟、深窓の内に扶られて、既に成人也。軒端の梅の匂いと芳、庭上の花実に細にして、十四の春を迎たり。栄花名聞人々我も/\と心を通す。其中に並の里に、源左衛門尉渡とて、一門也けるが、内外に付て申ければ、恥しからぬ事也とて、(有朋上P630)これを遣す。互の心不浅して、はや三年に成ぬ。女今年は十六也。盛遠は十七に成けるが、其歳の三月中旬に、渡辺の橋供養あり。盛遠紺村濃の直垂に、黒糸威の腹巻に、袖付て、折烏帽子係にかけ、銀の蛭巻二筋通して巻たる長刀、左の脇にはさみ、其日の奉行しければ、辻々固めたる兵士共下知し廻して、橋の上に立渡、ゆゝしくぞ有ける。
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供養既に終て、方々へ下向しける中に、北の橋爪より東へ三間隔て有ける桟敷の内より、女房達あまた出て下向しける中に、十六七にもや有らんと見ゆる女房、輿に乗らんとて簾を打挙けるを見れば、世に有難き女也。盛遠目くれ心消して、何くの者やらん、何なる人の妻子なるらんと、行末見たく思ければ、輿に付て行程に、並の里に渡と云者が家に見入たり。是は聞えし衣川の女房の女や、過失なき美人なりけり、如何すべきと、春の末より秋の半まで、臥ぬ起きぬぞ案じける。思澄して、九月十三日のまだ朝、母の衣川が許に伺行、則刀をぬき、無是非母が立頸を取て、腹に刀を指当て害せんとす。女うつつ心なし。能々見れば甥の遠藤武者盛遠也。女泣々申けるは、抑和殿は我には甥、我は和殿に姨母、此中には殊なる怨くねなし、就中御辺の母死して後は、孤子なれば、孫子を思様に糸惜し奉る、父とも母とも憑み給ふべし、何人か如何と讒言したたれば角うき振舞(有朋上P631)をばし給ふぞ、身に誤ありと覚ず、暫く命を助て、怨の通を宣へ、晴申さんと手を摺て泣。盛遠は慈悲なし、目を大に見はりて、伯母也とても、我を殺さんとし給ふ敵なれば、遁すまじ。渡辺党の習として、一目なれども敵を目に懸て置ず、すは/\只今指殺んとて、腹に刀をひや/\と差当たり。姨母は肝魂もなし、わなゝく/\、誰人の申ぞ、我寡にして夫なし、和殿に於て意趣なし、思ひよらぬ事をも宣ふ物哉、是は何なる事ぞやと申。盛遠は、人の申に非ず、袈裟御前を女房にせんと、内々申侍りしを聞給はず、渡が許へ遣たれば、此三箇年人しれず恋に迷て、身は蝉のぬけがらの如くに成ぬ、命は草葉の露の様に消なんとす、恋には人の死ぬ
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ものかは、是こそ姨母の甥を殺し給なれ、生て物を思ふも苦しければ、敵と一所に死なんと思ふ也と云。衣川は責ての命の惜さに申けるは、旁申し中に角とは聞しか共、さまでの事とも思はず、身貧なれば何方共思分ざりしを、渡奪が如して取しかば力なし、加程に思給はば安事也、刀を納よ、今夕呼て見せんと云。盛遠は等閑に口を竪めては悪かりなんと思て、虚言せし渡が方へ返忠せじなど、能々竪めて刀をさし、今夕参らんとて帰にけり。衣川は涙を流し如何はせんとぞ悲みける。此盛遠が有様、云事を聞ずば一定事にあひぬべし、さて又呼て逢せなば、渡が怨いかゞ(有朋上P632)せんと思けるが、案廻して娘の許へ文をやる。此程風の心地候。打臥までの事はなければ、披露までは事々しく候。忍ておはしませ、可申合事侍。寡なる身には墓なき事のみ侍り。返々忍て只一人おはしませと書たり。娘消息を取上見て、心細き御文の様哉とて胸打騒、女の童一人具して、仮初に出づる様にて、母のもとに来れり。母つく/゛\と娘の顔を見て、はら/\と泣て、良久有て手箱より小刀を取出して云けるは、此を以て我を殺し給へとて与ければ、娘大に騒て、是は何事にか、御物狂はしく成給へるかとて、顔打あかめて居たり。母が云、今朝盛遠が来て、様々振舞つる事共、有の儘に云ひつゞけて、此事いかにも/\盛遠が思の晴ざらんには、我終に安穏なるべし共覚えず、去ばとて渡が心を破らんとにも非ず、由なき和御前故に、武者の手に係て亡びんよりは、憂目を見ぬ前に、和御前我を殺し給へとて、さめ/゛\と泣。娘これを聞て、実に様なき事也、心憂事哉と不斜歎けるが、つく/゛\是を案じて、親の為には去ぬ孝養をもする習也、
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御命に代り奉らん、結の神も哀と思召とて、口には甲斐々々しく云けれ共、渡が事を思ひ出つゝ、目には涙をこぼしけり。日も既に暮ぬ。盛遠は独咲して鬢をかき髭をなで、色めきてはや来て、女と共に臥居たり。狭夜も漸々更行て、暁方に成ければ、鶏既に啼(有朋上P633)渡、女暇を乞。盛遠申けるは、会ずば逢ぬにて有べし、弓矢取身と生て、あかぬ女に暇をとらせて恋する習なし、会で思し思は数ならず、何なる目に合とても、暇奉らんとは申まじ、今より後は長き契、是だにあらば何事か有べきとて、太刀を抜て傍に立たり。嗚呼今は世の乱ぞ、思儲し事なれば、会ぬる後は命くらべ、和御前のためには命も惜からず、和御前の不祥、盛遠が不祥、渡が不祥、三つの不祥が一度に可来宿習にてこそ有りつらめとて、惣て思切たる気色也。女良案じて云けるは、暇を奉乞は女の習、志の程を知らんとなり、角申も打付心の中〔は〕末憑れぬ様なれば、憚あれ共何事も此世の事に非ずと聞侍れば、実も前世の契にこそ侍らめ、去ば我思心を知せ奉らん、渡に相馴て、今年三年に成侍けれ共、折々に付て心ならぬ事のみ侍ば、思はずに覚て何へも走失なばやと思事度々也。去共母の仰の難背さに、今迄候計也、誠浅からず思召事ならば、只思切て左衛門尉を殺し給へ、互に心安からん、去ば謀を構んと云。盛遠悦ぶ色限なし。謀はいかにと問へば、女が云、我家に帰て、左衛門尉が髪を洗はせ、酒に酔せて内に入れ、高殿に伏たらんに、ぬれたる髪を捜て殺し給へと云。盛遠悦て夜討の支度しけり。女暇を得て家に帰、酒を儲渡を請じて申けるは、母の労とて忍て呼給し程に、昨日罷て(有朋上P634)侍しに、此暁よりよく成せ給ぬ、悦遊びせ
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んとて、我身も呑夫をも強たりけり。元来思中の酒盛なれば、左衛門尉前後不覚にぞ飲酔たる。夫をば帳台の奥にかき臥て、我身は髪を濡し、たぶさに取て烏帽子を枕に置、帳台の端に臥て、今や/\と待処に、盛遠夜半計に忍やかにねらひ寄、ぬれたる髪をさぐり合て、唯一刀に首を斬、袖に裹て家に帰、そらふしして思けり。嗚呼終の禍事由なく、肝もつぶさず鎮ぬるこそ嬉けれ。年来日来諸々の神々廻行祈る祷の甲斐ありて、本意をとげぬる嬉しさよ、昔も今も神の御利生厳重也、春日八幡賀茂下上、松尾平野稲荷祇園に参つゝ、賽せんとぞ悦ける。爰郎等一人馳来て申様、不思議の事こそ候へ、何者の所為やらん、今夜渡左衛門殿の女房の御首を切進て侍る程に、左衛門殿は口惜事也とて、門戸を閉て臥沈給へりと披露あり、吊には御渡候まじきやらんと云ければ、穴無慙や、此女房が夫の命に代りけるにこそと思て、首を取出して見れば、女房の首也。一目見より倒伏、音も不惜叫けり。三年の恋も夢なれや、一夜の眤も何ならず、落る涙にかきくれて、身の置所もなかりけり。其日も暮ぬ。盛遠起居て、つく/゛\と諸法の無常を観けり。生ある者は必ず死すればこそ、三世の仏も炎の煙を示し給ふらめ、会事有りて別るればこそ、上界の天人も退没の雲には悲む(有朋上P635)らめ、況下界をや、凡夫をや、夫婦の契前後の怨み世の習也、人の癖也、されば是は然べき善知識也、非可歎、あかぬ別の妻故にこそ、道心を発すためしは多かりけれ、神明三宝の御利生也と思切、明ければ例よりも尋常に出立ちて、郎等あまた相具して渡が家へ行たれば、門戸を閉て音もせず。門を扣て盛遠参たりといはすれば、戸をとぢながら
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内より答けるは、御渡悦存候、但面目なき事なる間、向後は人々に見参せじと云願を発せり、御帰あるべしと云。盛遠重て云けるは、女房の御首切て候奴を聞出して、かしこへ打向ひつゝ、搦捕て参つる程に、遅参仕候、急ぎ門を開給へと云ければ、歎中にも嬉て、門を開て入れたり。左衛門尉は、頭もなき女房の傍に臥沈たり。盛遠は走寄、御敵具して参たり、先御首御覧ぜよとて、懐より女房の首を取出して其の身に指合て、腰刀を抜て左衛門尉に与て、盛遠が所為也、和殿の頸を掻と思たれば、係事を仕出したり、余に心憂ければ自害せんと思へ共、同は御辺の手に懸りて死なん、さこそ本意なく思給らめ、疾々切給へとて、頸を延てぞ居たりける。渡は、刀は我も持たれば人の刀に依べからず、但加程に思はん人の頭を切に及ばず、又自害し給ても其詮なし、是も然べき善知識にこそ有けめ、唯御辺も我も、無人の後世を弔、一仏土の往生こそあらまほし(有朋上P636)挿絵(有朋上P637)挿絵(有朋上P638)けれ、今生我執を起して、来世苦難を招ん事、自他互に由なし。倩是を案ずるに、此女房は観音優婆夷の身を現じて、我等が道心を催し給ふと観ずべしとて、渡自刀を抜て先髻を切てげり。盛遠是を見て、渡を七度礼拝して、是も髪をぞ切てげる。此形勢を見ける者、男女の間に三十余人ぞ出家しける。衣川の女房も尼に成て、真の道に入けれども、恩愛前後の悲は、いつ晴べし共覚えず。彼女房消息細々と書て、手箱に入て形見に留む。是をひらき見れば、去ぬだにも女は罪深しと承り侍るに、憂身〔の〕故にあまたの人の失ぬべければ、我身を失候ぬ、独残留御座て、歎思召ん事こそ痛しく侍れ。何事も然べき事と申ながら、先立進ぬる
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悲さよ、相構て後の世よく弔て給らん。仏になり侍なば、母御前をも渡をも、必迎奉るべし。よろづ細に申度侍れども、落涙に水茎の跡見え分ずとて、
露深き浅茅が原に迷ふ身のいとゞ暗路に入るぞ悲しき K110
と、母これを披見に付ても、目もくれ心も消て、悶え焦ける有様は、実に無為方ぞ見えける。深淵の底猛き炎の中なりとも、共に入なんとこそ思ひしに、こは何としつる事やらん、老て甲斐なき露の身を、葎の宿に留め置、いかにせよとて残らん、昨日を限と知(有朋上P639)たりせば、などか飽まで見ざるべき、同道にと口説けども、帰らぬ旅の癖なれば、更に答事なし。せめての事に母泣々、
闇路にも共に迷はで蓬生に独り露けき身をいかにせん K111
と、娘の文に書そへてぞ詠じける。其後母は尼になり、天王寺に参篭して、唯疾命を召し、浄土に導給へ、救世観音、太子聖霊悟を開て、無人の生所を求め、一仏蓮台の上にして、再び行合はんと祈念しければ、次の年十月八日、生年四十五にて目出き往生を遂にけり。左衛門尉渡は、僧を請じ剃髪、三聚浄海を受持て、俗名に付たりし渡と云文字にて、渡阿弥陀仏とぞ申ける。生死の苦海を渡て、菩提の彼岸に届かん事を志、渡阿弥陀仏とも云けるにや。遠藤武者も入道して、在俗の時の盛遠の盛をとり、盛阿弥陀仏と云けり。失にし女の骨を拾後園に墓を築、第三年の間は、行道念仏して、不斜弔けるとぞ承る。去ばにや、夢に墓所の上に蓮花開て、袈裟聖霊其上に坐せりと見て、さめて後
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歓喜の涙を流しけり。其後盛阿弥陀仏、日本国を修行して、求法の志最苦也。斯かりしかば智者になり、盛阿弥陀仏を改て文覚と云、利根聡明にして有験世に勝れたり。さる知法効験の時までも、昔の女の事思出て、常は衣の袖を絞けり。若や慰とて彼女の(有朋上P640)影を移て、本尊と共に頸に懸て、恋しきにも是を見、悲にも是を弔ひけるこそ責ての事と哀なれ。
< 懸かるためしは異国にも有けり。昔唐に東帰の節女と云けるは、長安の大昌里人と云者が妻也けり。其夫に敵あり、常に伺けれ共、殺す事叶ず。かたき節女が父を縛て、女を呼びて云、汝が夫は我が大なる敵也、其夫を我に与へずば、汝が父を殺さんと云ひければ、女答曰、妾夫を助ん為に、争生育の父を殺させん、速に汝が為に、妾が夫を殺さしめん、妾常に楼上に寝ぬる、夫は東首に臥、妾は西を枕とす、須来て東首を切れと教て、家に帰つて思はく、父に恩愛の慈悲深し、夫に偕老の情の浅からず、夫の命を助けんとすれば父の命危し、父が身を育まんとすれば、夫の身亡びなんとす、不如父を助けんが為に、夫を敵に与へつ、我又夫が命に替らんとて、自東首に伏して、夫を西に枕せり。敵伺入つて、忽に東首を切て家に帰りて、朝に是を見れば非夫首して、妻が頭也。敵大に悲て、此の女父の為に孝あり、夫が為に忠あり、我いかゞせんと云、終に節女が夫を招て、長く骨肉の眤をなしけり。夫婦が語ひとり/゛\なり。彼は今生の契を結び、是は菩提の道に入にけり。>(有朋上P641)
S1902 文覚頼朝対面附白首附曹公尋父骸事
抑文覚配流の後、篭居したる所をば奈古屋寺と云。本尊は観音大悲の霊像也。効験無双の薩■[*土+垂]也ければ、国中の貴賤参詣隙なし。其上文覚、我目出き相人也と披露しければ、事を御堂詣によせて、男女多く入集て相せらる。向後は知ず過こし方は露違はず、有難相人也と云。兵衛佐殿は、胡馬北風に
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嘶え、越鳥南枝に巣くふ習にて、都の人の床しさに、行て物語し、身の相をも聞ばやと思召けれ共、人目もいぶせく機嫌も知らざりければ、思ひながらさてのみ過る程に、文覚が庵室と、兵衛佐の館とは、無下に近き程也ければ、藤九郎盛長を以て、先文覚が弟子に相照と云僧を被招けり。則参たれば、佐殿遥に花の都を出されて、角草深住居なれば、都の方も恋しかりつるに、何事共か侍と宣。相照京白川の有様より、藤氏平家前官当職、公家仙洞事に至るまで、はる/゛\と申けり。さて佐殿、上人に見参せばやと相存、いかゞ有べきと宣へば、相照、いと安事にこそ、庵室へ入給べきか、又被召べきか、但物狂の人にて、悪様にや御目に懸候はんずらん、其条こそ恐入たれと申。物狂とはいかにと御座やらんと問給へば、相照、師匠の事にて候へ共、(有朋上P642)うつゝ心なくして、或時は高声多言にして、傍若無人也、或時は柔和神妙にして禅定に入が如く也、時雨の空の晴陰る様に、紅葉の秋の濃薄が如く、取定めぬ心にて、三尺計なる榊の枝をあまた用意して、是非なく人を打侍る間、弟子共四五十人もや出入侍ぬらん、余に打程に、堪ずして皆逃失て今は一人も侍らず、此間こそ三十計なる僧の同宿せんとて見え候を、さのみ打侍る程に、彼僧腹立して、親は子を育、師は弟子を憐習也、同宿なればとて、咎なき者を角しもや打つべきとて杖を奪取、上人が頭血の流るゝほど打返す、上人頭押さすりて、此法師は神秘ある者也、法師程の者を打返は直者に非じ、文覚を打返たれば、和法師をば文覚といはんとて、同宿したる者計こそ候へ、大方うつゝ心なき人にて侍ると申す。佐殿打笑て、其意を得てこそ見参せめと
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宣へば、相照庵室に帰りて、此由文覚に語ければ、来給へかしと云。相照又立帰て、佐殿に申せば、盛長を召具して、上人が庵室へ渡り給ふ。文覚目も懸ず、詞も出さず、佐殿の御座する処を、黒脛かゝげ、うわげけはきて、前へ後へ通、行事四五返して後に、障子の内に入て、頭ばかりを指出して、両目にては睨、片目にては睨、立上ては睨、さしうつぶきては睨。佐殿は今や打/\、いかに打共こらへなん、実に堪へ難は逃んと被思て、面も損ぜず身もは(有朋上P643)たらかさず、掻刷て良久御座ける。文覚は遥に加様にため見て、障子をさとあけて佐殿の前に出合て、戯呼御辺は、故下野殿の三男とこそ見奉れ、歳のかさなるとて、以外にくまれ給ひけり、糸惜糸惜とて、やがてはら/\と泣て、切て継たる様に強に畏て礼儀しけり。佐殿は聞つる如く、げにも尋常ならず思はれけり。文覚良有て云けるは、法師日本国修行して、在々所々に六孫王の末葉とて、見参するを見るに、大将と成て一天四海を奉行すべき人なし。或は心勇て、人思付べからず、或は性穏して人に無威応、穏して威なきも身の難也、勇みて猛きも人の怨也、されば威応ありて穏しからんは、国の主と成べし。殿を見奉るに、心操穏して、威応の相御座、是は者の思付相也、項羽は心奢て帝位に不昇、高祖は性おだしくして諸侯を相従へり。御辺は後憑しき人や、目出し/\と嘆たり。兵衛佐是を聞、壁に耳、石に口、人や聞らん、恐し/\と被思ければ、其日は館に帰給ひぬ。其後は佐殿も忍て時々通給ふ。文覚も又折々は参じけり。日来よく/\相馴て、文覚重て申けるは、良佐殿、源平両家は相互に、一天の守護、四海の将軍たり
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き。而に太政入道、一旦の果報に引れて、天下を管領すれども、悪逆無道にして、宿運既に尽たり、家を続べかりし小松内府、日本に相応せず、一門に過分して薨給ぬ、其(有朋上P644)弟共あまた有といへ共、世を治べき仁なし、今は何事か侍べき。御辺は大果報の後憑しき人也。文覚相し損じ奉るまじ、法師が目凡夫の眼に非ず、左は大聖不動、右は孔雀明王の御目也。人の果報をしり、日本国を照し見事掌の中也。疾々謀叛を発し、平家を打亡して、父の恥をも雪、又国の主共成給へ、〈 漢書 〉天与不取反受其咎、時至不行反受其殃と云事あり、運の開給べき時至給へり、沈過し給ふべからず、急給へ/\と細々と申。兵衛佐聞給ては、此上人は心際怖しき者にて、角語はん程に、左右なく心とけて、謀叛をも起さんといはば、頼朝が首を取て平家にとらせ、己が罪を遁れんと謀にもやあるらんと思はれければ、我身は勅勘を蒙りたれば、日月の光に当るだにも憚あり、池殿尼御前に身を助けられ奉りて、たもち難かりし命の、今までながらへるも、併彼御恩也、されば争か弓矢を取りて平家に向侍べき、又世の末に左様の腹黒などあらせし料に、国に下付なば、狩漁すべからず、人の為に慈悲有べし、不用の名立べからず、事に於て穏便にして、経をよみ仏を唱へて、父の菩提をも弔、我後生をも助るべしなど、差も仰を蒙侍き。実に栄花栄耀にほこる共、一期の作法程なし。意執我執を存ぜん事、三途の苦悩難遁、然べき善知識の仰と思とり侍しかば、毎日に法華経二部転読して、父母親属、殊(有朋上P645)には池尼御前の菩提を弔奉るより外は、営む事候はず、悪事など思寄ざる事也と宣へば、文覚懐より白き布袋
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の少し旧たるに、裹みたる物を取出して、やゝ佐殿、是ぞ故下野殿の御首よ、法師獄定せられたりし時、世に立廻らば奉らんとて盗みたりき。赦免の後は、是彼に隠したりしを、伊豆国へ被流べきと聞しかば、定て見参し奉らんずらん、さては進せんとて頸に懸て下たりき。日比は次で悪く侍つれば、庵室に置奉て候き。国こそ多所こそ広きに、当国へしも被流けるは、然べき佐殿の父の骸に見参し給ふべき事にやと、哀にこそ候へ、其進ぜんとて、はら/\と泣きけり。兵衛佐殿是を見給ひて、一定とは不知ども、父の首と聞より、いつしかなつかしく思ひつゝ、泣々是を請取て、袋の中より取出して見給へば、白曝たる頭也。膝の上にかき居奉て、良久ぞ泣給ふ。此下野守には、子息あまた御座せし中に、兵衛佐を鬼武者とて、十ばかりまでも、膝の上に居ゑて、愛し給し志の報にや、今は其骸を請取て、ひざの上に置奉りて、眤じく覚え、其後ぞ深合体し給ける。志合則胡越為昆弟、由余子臧是、不合則、骨肉為讐敵、朱象管蔡是、只志を明とせり、必ずしも親を明とせずとぞ、文覚常には申しける。
< 昔大国に、曹公と云し者の父、秦泉河と云川を渡けるに、流烈波高して、舟覆水に溺て失にけり。曹公(有朋上P656)歎悲て、彼秦泉河の底に入て、父が骸を尋けるに、水神憐之、曹公を相具して其骸の流寄たる所に行、十五里を下て、柳原の下に被推上たりけるを与たりければ、曹公泣々父の骸を懐て臥てかくぞ云ける。
昔惜身命、為報高恩、 今双遺骨為休恋慕
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とて、亡父の骸を懐臥ながら、曹公七日に死けり。遠近人も是を見て、皆涙をぞ流しける。昔の曹公は骸を懐て臥、今の頼朝はひざに安して泣、彼は十五里を去て、水神与之、是は廿余年を経て、文覚持来れり。恩愛骨肉の情、とりどりに哀也。>
S1903 文覚入定京上事
文覚佐殿に申けるは、我神護寺造営の志ありて、院御所を勧進し奉りしに、辛目をみるのみに非ず、流罪の宣旨を蒙る時、心中に発願の占形をする事は、我必神護寺を造営成就すべき願望をとげんならば、配所へ下著まで断食せんに、死すべからず、其事難叶ならば、途中に骸をさらすべしと誓たりしが、仏神加護して建立成就すべきにや、三十一日に此所に下著したり、疾々平家を打亡して後、且は父の菩提のため、且は文覚が(有朋上P647)本意の如大願を果し給へといへば、佐殿は、頼朝勅勘を免されずしては、何事も其恐有べしと宣ふ。文覚誠に思立給はば、京に上り院宣を申べしと云ひければ、佐殿は御免の院宣を給り、平家追討の勅命を蒙らば、争思立ざるべし、但御辺も勅勘の身也、いかがはと宣ふ。文覚は忍て上洛すべきとて、国中に披露する様、七箇日入定とて、方丈の庵室を造り、三方をば壁にぬり、一方に口一つ開て、中に縄床を居ゑ、入定の後には戸を立て外より鎖をさせと約束せり。斯りければ、奈古屋の上人の入定とて、国中の貴賤市の如くに集て是を拝む。文覚は縄床に上、結伽趺坐して、大日の印相を結で、睡れるが如なり。誠貴ぞ見えける。終日拝れて後は、弟子の僧約束に任て、扉を閉外より鎖をさす、入定の後も毎日に人多く来拝む。文覚は夜に入て方丈の板敷の下より、我仮屋の庵室へ、地の底を掘て、通道を構たり。彼穴より這出て夜に紛て上洛す。新都福原の楼御所に参て、院
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の近習者に前兵衛督光能と云人は、文覚には外戚に付てゆかり也、其人の許に行向て申けるは、伊豆国の流人兵衛佐頼朝こそ、朝家の御歎、天下の牢籠を承て、院宣を下給るならば、東八箇国の家人催集て、都に上平家を亡し、仙洞の被打籠御座、逆鱗をも休め奉り、国土をも鎮侍なんと申。言に合て事の様伺見に、よそ目には勅勘の者とて憚様(有朋上P648)なれ共、内心は皆通用せり、況院宣など被下なば、大名小名誰か一人も背侍るべき、いつとなく御心苦き御目を御覧ぜんより、院宣を被免下よかしと奏し給へと語。光能宣けるは、実に君も被打籠御座して、世の御事不知召、さこそ御心憂思召らめ、我も宰相、右兵衛督、皇太后宮の権大夫、此三官を止られて歎居たり。頼朝左様に申らん事、帝運の再堯舜の代に改らん事こそ嬉けれとて、密に御気色を伺ひけり。然べき御事にやとて御免有ければ、即光能奉て、院宣を書て給にけり。文覚是を給て、上下向八箇日に、伊豆に著、今日は出定の日也とて、又国中の男女雲霞の如くに集て拝んとす。弟子の僧、鎖をはづして戸を開たり。威儀不乱、定印不違、髪生のびて痩黒たり。弟子銅の鈴を以て、入定の前にて二つ是を鳴す。文覚鈴に驚て出定せり。見人いよ/\仏の如くに貴みけり。角て兵衛佐殿の許に行向て申けるは、院宣はよく/\申さば賜気也、今は安堵し給へ、勢を語ひ給へと云。佐殿は縦院宣を手に把たり共、斯かる有様には左右なく人同心すまじ、況未給さきに叶ふべからず、そも不定なる由なき上人の云事に付て、此事顕れなば、再憂目をや見るべかるらんと宣へば、文覚は申固めて下たり。肝を
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つぶし給ひそ、法皇の仰には、頼朝左様に憑しく申なれば、子細にやと被仰出けり。又京(有朋上P649)上こそ煩しけれ共、佐殿の本意の叶ふ、かなはぬをば、唯文覚が計ひ也、其に取て我此国へ被流罪事も、高雄の神護寺造立の故也、又院宣を給らん事も、御辺の力にて、彼寺をや造んと云所存也、されば院宣を急ぎ給らんと思給はば、高雄へ庄園を寄進有べしと云ければ、佐殿は我身だにも安堵せずして、いかにとして奉べしと宣ふ。文覚が計に随て、はや寄給へと云。佐殿は我軍に勝て、日本国を手に把ば、一国二国をも乞によるべしと宣へば、文覚は手にとり得つれば、必惜き事也、なき物は惜からず、国も広博也、唯所知を十余所寄進し給へとて、紙硯取向、丹波国には、新庄、本庄、雀部、宇津、縄野、播磨国には、五箇庄、土佐国には、高賀茂郷を始として、十三箇所を選出し、それ/\と云ければ、佐殿鼻うそやきて被思けれ共、寄進状を書判形を加て、文覚に給ふ。文覚ほくそ咲て、あゝ御辺は以外に心広き人哉、我物顔にいみじく寄給へり、其荒涼にては、一定天下の主と成給なん、されば院宣進つらんとて、懐より文袋を取出し、中なる院宣を進る。佐殿は手洗嗽、浄衣に紐さしなどして、是を披見し給ひけり。
S1904
其状に云、
早可追討清盛法師并一類事
右君子不直人者、令民成愁、姦臣在于朝者、賢者不進、彼一類者、啻非忽緒朝(有朋上P650)家、失神威与仏法、既為仏神之怨敵、亦為王法之朝敵、仍仰前右兵衛権佐源頼朝朝臣、宣令追討
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彼輩、早退怨敵、奉安宸襟矣、依院宣執達如件。
治承四年七月五日 散位光能奉
謹上、前右兵衛権佐殿とぞ被書たる。
S1905 義朝首出獄事
抑昔武蔵権守平将門已下の朝敵の頭共は、両獄門に納らる。文覚争義朝の首をば可盗取、是は兵衛佐に謀叛を勧んが為に、奈古屋が沖に曝たる頭の有けるを以て、仮初に偽申たりける也。実には父義朝の首獄門に有よし聞給ければ、世静て後、文覚上人を使として、奏聞して申し賜給けり。彼首は東の獄門の前の、樗木に係たりけるを、紺五郎と云紺掻の有けるが、下野守在生の時は、折々に参りて、深く憑み申ければ、不便の者に被思けるが、其情を忘れず博士判官兼成に付て、年来哀不便と思召す人也。久獄門に被梟て、曝恥給事目もあてられず悲侍、今は被納置候へかし、孝養仕らんと申たりければ、兼成大理に申御免有て、紺五郎申給て、左の獄門の乾の角に墓を築て埋た(有朋上P651)りけるを、今度掘り起して見ければ、額には義朝と云銅の銘を打たり。正清が首も同く在けり。左馬頭義朝には贈官あり、補太政大臣、首をば蒔絵の手箱に入て、錦袋に裹、文覚上人頸に懸たり。正清が頭をば檜木の桶に入て、布袋に裹、弟子の僧が懸頸、公家より御使には、宮内判官公朝を副られたり。文覚下ると聞えければ、御迎にとて、御迎片瀬川まで参たり。既鎌倉に下著有ければ、佐殿は庭上に下り向給て、上人の馬の口を取給ふ。只今父下野守殿の入給と思ひ給けるにや、涙を流して左の
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袖をひらきてぞ、義朝の首をば請取給ひける。正清が首をば娘ぞ是を請取ける。哀は何もとりどり也。大名小名皆庭上に下り居つゝ、各袖を絞けり。誠会稽の恥を雪めたりとぞ見えたりける。後にこそ角は有けれ共、初には父の首と語ければ、哀に嬉覚て、上人に心を打解て、此院宣をば給けり。兵衛佐殿は院宣拝奉て、先都の方に向、八幡大菩薩を伏拝奉りけり。
S1906 聞性検八員事
伊豆山に、聞性坊阿闍梨某と云僧は、兵衛佐年比の祈の師也ければ、急使を遣て招請あり。阿闍梨何事哉覧と胸打騒て馳来れり。宣けるは、頼朝勅勘に預て年久し、今平家(有朋上P652)を追討すべき由、院宣を蒙れり、是御坊の祈誓に酬と存ず。就之故親父下野守の為に、法華経千部転読の願を発して、既に八百部の功を訖て、今二百部を残せり。部数を満とすれば、二百部の転読月日を重ぬべし、平家の漏聞て、討手を下さばゆゝしき大事也。宿願を果さずして合戦の企あらば、源平の乱逆に懈有て、報恩の志空や成侍らん、此事進退きはまれり、よく計ひ給へと有ければ、阿闍梨暫案じて云く、八は悉地の成ずる数也、二百部の未読更に事闕侍るべからず、八百部の己読、最嘉例と云つべし。何にとなれば、釈迦如来は、八正慈悲の門より出て、八相成道の窓に入、八十の寿命を持て、八万の法蔵を説給へり。衆生本覚の心蓮は、八葉の貌也、一乗妙法の首題も、八葉の蓮也、八角の幢は極楽の瑠璃治、八徳の水は宝国の金砂池に湛たり、宗に八宗、戒に八戒あり、天に八天、竜に八竜あり、八福田あり、八解脱あり、伏犠氏の時には亀八卦の文を負て来る、人の吉凶を占へり、高陽高辛の代には、八元八凱の臣を以て、天下を治むと見えたり。
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穆王は八匹の天馬に乗て、四荒八極に至り、老子は八十年胎内にはらまれて、明王の代を待けり。内外に住す処是多し。就中諸経の説時不同にして、巻軸区に分れたれ共、法華は八箇年に説て、八軸に調巻せり。薬王菩薩は、八万の塔婆を立て、臂(ひぢ)を(有朋上P653)妙法に焼、妙音大士は、八万の菩薩と来て、耳を一乗に欹てり。況又御先祖貞純親王の御子、六孫王の御時、武勇の名を取つて、始て源氏の姓を給しより以来、経基、満仲、頼信、頼義、義家、為義、義朝、佐殿まで八代也。又故伊予守頼義三人の男を三社の神に奉る。太郎義家石清水、次郎義綱賀茂社、三郎義光新羅の社、其中に佐殿正縁として八幡殿の後胤也。八幡宮の氏人也。日本国広し、東八箇国の中に被流給も子細あり、文覚上下往復の間、八箇日に院宣を披見給ふも不思議也、されば八百部の功既終給へらば、本意をとげ給べき員数也。急思立給へ、時日を廻し給な。去ば軍のうらかたには、先当国の目代、八牧の判官を被討べし。今二百部は追の転読と申ければ、佐殿よに嬉しげにて、師僧の教訓は神明の託宣にやとて、当国には伊豆箱根に立願の状を捧て、即聞性坊阿闍梨を以て啓白し、其外様々の立願、社々におこされけり。八百部の転読かつ/\供養有べしとて、飲食に能米八石、衣服に美絹八匹、臥具に筵枕に八、医薬に様々の薬八裹あり。已上四種の供養の上に、又四種を被副たり。砂金八両、壇紙八束、白布八端、綿八箇、都合八種の布施也。八は悉地の成ずる由申つゞくるに依也。如此調て、且は先考の菩提に廻向し、且は後代の繁栄を祈誓有べしとて、伊豆山の聞性坊へ被送遣(有朋上P654)けり。誠に銘々敷見え
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けり。
S1907 兵衛佐催家人事
さて北条を召て、平家追討の院宣を給りたれ共、折節無勢也、いかがすべきと宣へば、時政悦申けるは、東八箇国には、党も高家も、大名小名君の御家人ならぬ者は候はず、去共平家世を取に依て、暫身命を続んとて、一旦平家に相従計也、思召立給はば、誰か参ざらん。就中今便を得たりと覚ゆる事は、伊藤右衛門尉忠清被配流、上総国の時、介八郎広常志を尽し、思を運て賞翫し、愛養する事甚し。而に忠清厚免を蒙て、上洛後、忽に芳恩を忘て、還て阿党をなし、広常を平家に讒て、所職を奪とする間、子息能常参洛して、子細を申といへ共、猶広常を召間、含憤恨をなす折節也。甘言を以て召れんに、是能隙なり。千葉介経胤、三浦介義明は、其性有義不戻、其心有信不頑、為一族之長、已為衆兵之頭、何奉背真旧之主、豈可与違勅之賊乎、早被遣専使、院宣之趣を可被仰合、土肥、土屋、岡崎の輩は、元来給仕し奉る上は、広経、経胤、義明三人御方に参なば、八箇国之輩、縦あやぶむ心ある者多と云ども、皆身の勢なければ、(有朋上P655)一人抜出て背奉らんと仕者有べからず、八箇国帰伏し奉らば、北国西国の輩、手を降参ぜん事疑なし。此に相模国住人大場三郎景親は、既に三代相伝の御家人なれ共、当時平家重恩のものにて、其勢国に蔓れり。又武蔵国住人畠山庄司重能、小山田別当有重、平家の大番勤て侍なれば、重能が男重忠、有重が男重成、固可奉背、其勢景親に劣るべからず、今事を企て勝負を決せん事、彼輩に有とぞ申ける。其言実ありて、其詞弁有ければ、兵衛佐も深く信じ給ひけり。時政若知天之時歟、将又得兵之法歟、其詞一事も違事
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なかりけり。昔晋文信勃■之言以、旧威愕、斉桓用管仲之計、以天下を匡せりき。今頼朝と時政と、合体同心して、廻籌於氈帳之中、烏合群謀之賊束手於軍門、決勝於島夷之外、狼戻返逆之徒伝、首於京都、天下遂平定、海内永一統せり。誠哉得其人則其国以興、失其人則、其国以亡といへる事は。治承四年八月三日、佐殿北条に被仰けるは、軍立ならば国々怱々にして、在々所々の八幡の御放生会、及違乱事冥の恐あり、十五日以後其沙汰有べしと被下知けり。斯りければ重代の家人等、内々此事聞者は、忍て夜々に参集る。(有朋上P656)
S1908 佐々木取馬下向事
其中に故左馬頭の猶子に、近江国の住人、佐々木源三秀義が子共、平治の乱の後は、此彼にかゞまり居たり。太郎定綱は、下野宇都宮にあり、次郎経高は、相模の波多野にあり、三郎盛綱は、同国渋野にあり、四郎高綱は都にあり、五郎義清は大場三郎が妹聟にて相模にあり。其中に高綱は心も剛に身も健也。姨母に付て都の東、吉田辺に有ければ、世に随習也。平家に奉公もすべかりけれ共、思けるは、父秀義は故六条判官為義に父子の儀をなされて、代々一門の好をなす。淵は瀬となる世の中也。あるやうあらんずらんとて、姨母に養れて居たりけるが、佐殿謀叛を起給と聞て、嬉事に思つゝ、姨母ばかりに暇を乞、偸に田舎へ下けり。世になき身なれば、馬もなき次第、脛巾に編笠を著、腰の刀に太刀かづきて、京をば未明に出たれ共、不習歩道なれば、なへぐ/\其日は守山の宿に著、知たる者に馬をも乞、乗ばやとは思へども、都近程也、世中つゝましく思ければ、さもなくて暁は守山を立、野州の河原に出ぬ、如法暁の事なれば、旅人も
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未見けるに、草鞍置たる馬追て男一人見え来る。高綱、和殿はいづくの人ぞ、何へ渡るぞ(有朋上P657)と問へば、是は栗太の者にて候が、蒲生郡小脇の八日市へ行く者也と答。名をば誰と云ぞと問へば、男怪気に思て、左右なく明さず。兎角誘へ問ければ、紀介とぞ名乗たる。高綱は、やゝ紀介殿、此河渡ん程、御辺の馬借給へかし。紀介叶候はじ、遥の市より重荷を負せて帰らんずれば、我も労て不乗馬也、又今朝の水のつめたき事もなし、唯渡り給へと云。紀介殿たゞ借給へかし、悦は思当らんと云ければ、紀介思様、此人の馬のかりやう心得ず、歩徒跣にて誰共知ず、我身だにも合期せぬ人の、何事の悦を賀し給べき、去共借さずして悪き事もやと思ければ借てげり。高綱馬に打乗、此馬こそ早我物よと思つゝ、空悦して野州川原を渡つゝ、鞭を打てぞ歩せたる。紀介は馬に後じと走けり。はや下給へ/\、河ばかりとこそ宣つるにと云へ共、此にて下彼にて下とて、篠原堤まで乗て行。商人馬の癖なれば、肢爪竪してなづまざりけり。哀是だにも有ならば、下著なんと思けるに、紀介は馬を乞侘て、下給はぬ物ならば、馬盗人と叫ばんと云。高綱、此事穏便ならず、左様にも謂れなば、恥がましき事有りなん、さらば下なんとて馬より下けるが、馬なくては難叶、いかゞすべきと案じて、兵衛佐殿世に御座さば、近江国は我物也、紀介が後生をこそ弔はめ、指殺て馬を取んと思て、やゝ紀介殿、馬奉んとて近く呼(有朋上P658)よせたり。八月上旬の事也。秋の習の癖なれば、朝露籠てよそ見えず、上下の旅人も無りけり。高綱腰の刀を抜持て、紀介を取て引寄つゝ、太腹に刀指通し、傍なる溝に打入て、荷鞍に乗て鞭を打、武佐宿にて知たる
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者二鞍を乞、夜を日に継て下けり。馬も究竟の逸物也、更に泥事なくて、伊豆国へぞ下にける。さてこそ今の世までも紀介が後生をば吊ふなれ。兵衛佐殿に見参に入奉たれば、祖父故六条判官、各の親父佐々木殿と、父子の儀を奉成上は、万事阻なく憑存ずれ共、世になき身なれば思出侍らず、聞あへ給はず下向〔の条〕、返々神妙なり、平家を亡て世に立給はん事は、併人々の力を憑む也、さてさて兄弟の殿原〔達を〕尋給へと被仰ければ、高綱旁人をぞ遣ける。太郎定綱は下野国宇都宮より馳上、次郎盛経は相模国、波多野より馳参、三郎盛綱同国渋谷より馳来る、兄弟四人佐殿を守護し奉る。誠に一人当千の武者、あたりを払て見えたりけり。五郎義清はいかにと尋給へば、大場三郎が妹に相具して候へば、人の心難知侍り、志思進せば、参らんずらん、左右なく知せじと存也とて不呼けり。