『源平盛衰記』(国民文庫)
呂巻 第二
S0201 清盛息女事
御娘八人御座けるも、皆取々に幸し給へり。一は本は桜町中納言成範卿の相具し給し程に、彼卿下野や室の八島へ被(レ)流後、花山院左大臣兼雅の御台盤所に成り給へり。実は成範卿と、左大臣家とは、兄弟の契りにて無(二)内外(一)中なりけり。左大臣の北方もおはせで、二三年男上人にて、常は心を澄し、よろづ倦気なる有様なりければ、直事に非、如何にも子細御座にこそ人皆恠を成す。大臣或時御乳人の三位局を召て、御物語あり、去々年の春成範の女房を、雲上にて風見たりしより、心苦思あり、男の習は后をも奉(レ)盗、国の騒とも成ぞかし、況是は左も右も謀り出して、思をはるべけれ共、中納言の為に後闇き事は有まじ、兄弟の契ながら、相思の情浅からず、縱ひ我思の女なりとも、所望せば慰べし、只余所ながら無(レ)由見そめけん事こそつらかりけりと思へば、色に出て汝にさへ心苦き思を付る事こそ不便なれなんど、徒の忍の御物語あり。三位局宿所に(有朋上P032)帰て、大臣は由々しき大事の病はつき給にけりと歎けり。此局の妹の侍従を呼て、此事を語。侍従申様、其事にや、一日中納言の仰に、大臣殿の御景気は、如何にも人を恋給と見えたり、いかなる人に思を残し給ふやらん、哀成範が妻なんどならば奉りなん、隔なく申眤び奉る詮には、是こそ実の志なれと被(レ)仰、かばかり
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思ひ奉るとはよも思ひ給はじと、御心苦気に候しぞや、参て申てみんとて、立帰りつゝ中納言に私語申たれば、打咲給て、去ばこそ能見たりけり、嬉く聞せ給ひたりとて、三位局を召見参して宣ひけるは、無(レ)隔角聞え侍る事、返々神妙にこそ、是へ可(レ)奉(レ)入か、其へ可(レ)進か、御心に相叶はん事を計ひ給へと。三位申けるは、理なき御志の色に顕御座す御事、申も中々愚に覚てこそ候へ、是へ入進せんも、あれへ入らせ御座さんも、旁其憚あれば、御心安も思召ばかり、只離別し給ふと御披露候へかしと。中納言宣ひけるは、避と申したらば、我志にはあらじ、如何にも奉公の為にこそ、悲き別をせんずるにと聞えければ、三位其は二三日も過侍りてこそ此由をば委申入侍らめ、兼て申たらば、定て御心元なく思召べしと計ひ申ければ、さらば其義にこそとて、中納言北方に此由被(レ)申けり。女房は、事に触て我を捨てんとおぼすにこそ懸る様や有るべきと、無(レ)限涙に咽給ひければ、中納言(有朋上P033)も袖を絞て、此世には隔なく、志の色を顕し、後世には懸念無量劫とかやの罪をも遁給へかしと、為(レ)我為(レ)人かく思侍るにや、愚の御事には非ずと、様々誓言を申給へば、其上は不(レ)及(レ)力とて、心ならぬ別をし給けるこそ糸惜けれ。此由角と披露有ければ、三位局の計にて、迎取給ひけり。大臣はうつゝならずとぞ思はれける。中納言はさすが飽ぬ別の道なれば、忍の涙を流給ひけり。彼朱明が妻を避し志、管寧が金を断し情も、角やと覚て最やさし。其後三位局,大臣に角やと申ければ、大に驚給て、かくぞ送給ける。
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たぐふべき方も渚のうつせ貝くだけて君を思ふとをしれ K004
と、中納言此歌を見てこそ、さては御心に相叶給けるよと、歎の中にも悦給ひけれ。例なき情也と人申けり。成範中納言の北方、花山院御台盤所に成給たりと、世に披露有ければ、何者の読たりけるやらん、四足の柱に、
花の山高き梢と聞きしかど蜑の子かとよふるめひろふは K005
と、此御台所は、御美も厳しく情も深く御座ける上、天下に類なき絵書にてぞ御座ける。紫宸殿の御障子に、伊勢物語を絵に書せ給ふ御事あり。昔貞員親王の生れ給へる御うぶやにて、人々歌読侍りける中に、御伯父方翁の、(有朋上P034)
我門に千尋ある竹を植つれば夏冬誰か隠ざるべき K006
と読たりけり。御うぶやとは親王の御産所なり。其うぶやの前に鳳凰の千尋の竹に居たるを、かゝせ給たりけるが、余に目出度魂を書こめさせ給たりけるにや、其後紫宸殿に、時々笙の笛を調ぶる声あり。人々此を恠て、忍て御覧じければ、千尋の竹に書給へる、鳳凰の鳴音にぞ侍ける、難(レ)有御事也。
昔忠平中将の扇に書たりける郭公こそ、扇をひらく度ごとに、郭公とは啼けるなれ。
宇治関白殿の中門に、円心法師が書たりける鶏は、寒夜暁鳴事度々ありけり。
金峯山蔵王権現に造進したりける、定朝が獅子狛犬は、社殿の上に啖合て、大床より落たりき。
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定朝七代の孫、院賢法橋が、栢の木を以て造進したりし、芹谷の地蔵堂の小鬼は、夜々失事事有りて、暁は必ず露にそぼぬれて本座にあり。近隣の里に女常に鬼子を生、寺僧怪て金鎖を以て件の鬼を繋たれば、其後鬼露にもぬれず、女鬼を生事なし。絵に書、木に造りたる非情なれ共、物の妙を極る、事の精を尽せる、上古も今の代も不思議なりける事也。
仰此成範卿とは、故小納言入道信西三男也。桜町中納言と申事は、優に情深き人にて、吉野山を思出して、桜を愛し給ひけり。室八島より帰上後、町の四方に吉野の桜を移植、其中に屋を立て住給ひければ、(有朋上P035)見人此町をば、樋口町桜町と申けり。又は此中納言桜の名残を惜て、立行春を悲み,又こん春を待わび給しかば、異名に桜町中納言ともいへり。殊に執し思はれける桜あり、七日に咲散事を歎て、春ごとに花の命を惜て、泰山府君を祭られける上、天照太神に祈申させ給ければ、三七日の齢を延たりけり。されば角ぞ思つゞけ給ひける。
千早振現人神のかみたれば花も齢はのびにけるかな K007
と、人の祈実ありければ、神の霊験あらたにして、七日中に咲散花なれ共、三七日まで遺あり。君も御感有て、花の本には此人をぞすべきとて、勅書に桜町の中納言とぞ仰ける。二には徳子后に立給ふ。皇子御誕生有ければ、後には建礼門院と申き。天下の国母に御座し上、とかく申に及ず、三には六条摂政基実公の北政所也。是は世に勝れ給へる琵琶の上手に御座き。経信大納言より四代の門葉、治部尼上の流れを伝て、流泉、啄木まで極給へり。高倉上皇御即位の時、御母代にて、三后に准る宣旨を賜て、
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世には重き人にて御座き、白川殿とぞ申ける。
四には冷泉大納言隆房北方にて、御子数多御座き。是又情ある女房にて、琴の上手とぞ聞え給ひし。昔唐の白居易は、琴詩酒の三を友として、常は琴を引て心を養ひ給けり。管絃の道はなをざりなれ共、此を調るに、自つれ/゛\(有朋上P036)を慰む事たりぬと書置給けり。彼楽天の筆に自在を得給て、聊も作給へる詩篇を、よく人に被(レ)知給へり。其中に、随分管絃還自足、等閑篇詠被(レ)知(レ)人と書給へる詩を、北方常に詠じて心澄まし琴を弾じ給へりけり。太政入道は琴を愛して、女房達を集めて、常に聞給ける中に、秋風、鈴虫、唐琴渋と云、代の宝物四張あり。西園寺の名主、閑院少将、当摩寺紅葉、堀川侍従とて、四天王に算へられたる琴の上手を招寄て、常にひかせて聞給へども、異なる瑞相はなかりしに、此北方、村雲と云琴を調べ給へる時、色々の村雲忽に聳て、軒端の上に引覆、万人目を驚し、入道感涙を流し給ふ。狭衣の大将光源氏の君、管絃を奏し給しに、天人影向し給しも、角やと被(二)思知(一)たり。五には近衛殿下基通公北政所、形厳くして、水精の玉を薄衣に裹みたる様に、御衣も透通て見えければ、父相国も異名には、衣通姫とぞよばはれける。殿下も角と仰ければ、北政所も我御名と心得て、答まし/\ては互に■(わら)ひ給けり。歌の道に達して、並なき御事也。中にも内より御使あり、何事ぞと御尋あれば、当座の御会あり、日夕以前と披露申けり。殿下不(二)取敢(一)御装束召れけるが、北政所に仰の有けるは、当座の御会争か其題を可(レ)知なれ共、頭弁心有ものにて、密に五の題を告申たり、装束
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し侍らん其間に、歌読儲て給はら(有朋上P037)んとて、題をさし置せ給たりければ、北政所これを御覧じて、打うなづき給つゝ、やがて墨すり筆染て、案ずるまでの御事に及ず、古歌を書がごとく、
春日山神祇 春日山かすめる空にちはやぶる神の光はのどけかりけり K009
鷲山釈教 わしの山おろす嵐のいかなれば雲ものこらずてらす月かげ K010
是心仏玉文 まどひつゝ仏の道をもとむればわが心にぞたづね入ぬる K011
旅立空秋無常 草村におく白露に身をよせてふく秋風をきくぞ悲しき K012
恋(レ)昔旧跡 あるじなき宿の軒ばに匂ふむめいとゞ昔のはなぞこひしき K013
己上五首、御装束己前にあそばし儲させ給ひたりけるに、文字一も引直させ給はず、日比の歌を書よりも猶安くぞ有ける。殿下是を御覧じては、実に由々しくも遊したりとぞ申させ給ける。
六には、七条修理大夫信隆卿に相具し給へり。翠黛紅顔の粧ひ、花よりも猶かうばしく、玉の簪照月の姿、あたりも耀ばかりなり。歌よみ連歌し、絵書花結、あくまで御心に情御座す人也。され共五障の女身を悲て、常は持仏堂に入、仏に花香奉り、法華経そらに読覚え給て、毎日御転読あり、龍女が速成を貴み、如説の往生をしたひて、菩提の道をぞ祈らせ給ける。人間有為の栄耀は、兎ても角ても有ぬべし、悟の道(有朋上P038)の知べこそ、思へば実に貴けれ。
七には、安芸の厳島の内侍が腹の娘也。指たる才芸はなかりけれ共、美貌は人に勝給へり。嬋娟たる両鬢
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は、秋の蝉の翼、宛転たる双蛾は、遠山の色とぞ見え給ふ、秋夜月を待、はつかに山を出る清光を見が如し、夏日蓮を思ふ、初て、氷を穿つ紅艶を見よりも潔し。此御娘十八の年、後白河院へ参給へり、更衣の后にてぞ御座ける。入道さしもなき事せられたりと申合けり。其上程なく失給にけり。母の内侍は、越中前司盛俊が賜て具したりけるが、盛俊一谷にて討れて後は、土肥次郎実平が具したりけるとぞ聞えし。
八には、九条院雑子、常葉が腹の娘成けるを、花山院左大臣の御台盤所に親く御座せばとて、上搶蘭[にて御座けり。三条殿とも申けり。又は廊の御方とも申けり。大臣殿も密に通給ければ、姫君一人出来給へり。此女房和琴の上手にてまし/\ける上、類なき手書にて御座ければ、手本賜はらんとて、人々色々の料紙を奉り置たれば、書も敢給ず、色々の料紙共、傍に取置せ給たりければ、朝夕は錦を曝す砌とぞ見えける。
異本に云、八は大納言有房卿の北方也。絵書、花結、諸道に達し給へり。心に哀み深して人に情を重くせり、女房なれ共、聯句作文も並なく、手跡さへ厳して、昼図の障子に百詠の心を絵に書せ給て、やがて一筆に色紙形の銘をも書せ給たり(有朋上P039)ければ、院も希代の女房なりとぞ仰ける。
抑日本秋津島は僅に六十六箇国、平家知行の国三十余箇国、既半国に及べり。其上庄園五百箇所、田畠はいくらと云ふ数を不(レ)知、綺羅充満して堂上花の如く、軒騎群集して門前成(レ)市、楊州之金、荊岫之
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玉、呉郡之綾、蜀江之錦、七珍万宝、一として闕事なし、歌堂舞閣之基ゐ、魚龍雀馬之翫物、恐くは帝闕も仙洞も、是には争か揩驍ラき。勢既に君朝にならび、富又皇室に過たりと、目出度こそ被(レ)見けれ。昔より源平両氏、朝家に被(二)召仕(一)てより以来、皇化に不(レ)随朝憲を軽ずる者をば、互に誡を加しかば、世の乱はなかりき。保元に為義きられ、平治に義朝討れし後は、末々の源氏、此彼に有しか共、或は流され或は討たれて、今は平家の一類のみ、独武威を奪て、自政を恣にせしかば、頭さし出者なし、五代十代の末の世までも誰かは諍者有べきとぞみえし。
S0202 日向太郎通良懸(レ)頸事
平治元年の比、肥前国住人、日向太郎通良、野心を挟みて朝威を傾けんとする聞えありしかば、可(二)追討(一)之由、清盛朝臣に被(二)仰下(一)。勅命を蒙て、筑後守家貞を召て申含。家貞(有朋上P040)西府に下向して、通良が城に押寄て、度々の合戦に及ぶ。城も究竟の城也、主も勇者成ければ、輙く落ざりけれ共、月を隔日を重ては、官兵は雲如に集りければ、賊徒は霧の如に散けり。永暦元年四月に、通良以下の党類、三百三十五人討取之由、家貞が許より交名を注して申上たれば、清盛朝臣事の由を奏聞す。同五月十五日、鳥羽殿に御幸有、通良並子息通秀親良以下の首七、御桟敷の前を渡されて被(二)御覧(一)。清盛朝臣御前に候せり。御随身を以て名字を御尋あり、家貞馬上にて名謁す、事の体ゆゝしくぞ見へける。家貞甲を著して、郎等二百余騎を相具して渡る。容貌美麗にして進退見つべかりければ、今日の見物只家貞に有りとぞ上下称しあへりける。七条川原にて検非違使(けんびゐし)、通良等が首を請取て、大路を渡し
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て獄門の木に懸られけり。同六月三日、先小除目おこなはる。平頼盛朝臣、従四位上に叙す。舎兄清盛朝臣、鎮西の住人通良を、追討の賞とぞ聞えし。同廿日太宰大弐、清盛朝臣正三位に叙す。勲功の賞に依て、忽に越階す。
S0203 基盛打(二)殿下御随身(一)附主上上皇除目相違事
去五月廿二日に、殿下参内し給けるに、清盛卿の二男遠江守基盛が車を、門外に立たり(有朋上P041)けるを、御随身やりのけよと責けれ共、牛飼童不(二)承引(一)して悪口しければ、御随身等、弓を以て打たりける程に、基盛が郎等太刀を抜、御随身等を取籠めて散々に打伏ければ、陣の内外騒動しけり。是ぞ平家の乱行の初とは聞えし。去ぬる保元元年に、鳥羽院晏駕の後は、兵革打続、死罪、流刑、解官、停任、常に被(レ)行て、海内も不(レ)静、世間も不(レ)安、就(レ)中永暦応保の比より、禁裏の近習をば仙洞より被(二)召禁(一)、仙洞の近習をば禁裏より被(レ)加(レ)刑。主上上皇御父子の御間なれば、何事の御不審かは有べきなれ共、思の外の事共有けるとぞ聞えし。是世及(二)澆■(ぎようり)之俗(一)人、挟(二)梟悪之心(一)故なり。
永暦元年二月廿一日に、上皇内裏に臨幸有て、清盛朝臣に仰て、権大納言経宗、別当惟方卿を被(二)召捕(一)けり。経宗卿は外戚也、惟方卿は叔父也、縱八虐の犯ありて、五刑の法を被(レ)行とも、罪名に及ばずして忽ちに繋索せられんやと、世傾け申し、人々疑をなせり。同三月十一日に、経宗卿は阿波、惟方卿は長門へぞ被(レ)流ける。六月十五日に、又前出雲守光保朝臣の息男、備後守光宗、薩摩国へ配流せらる。是は上皇を危ぶめ奉らんと謀由聞えければ、其咎を被(レ)行けり。光宗は配流の由宣下の後、自害
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して失にけり。
応保元年九月十五日には、左馬権頭平頼盛、右少弁時忠被(二)解官(一)けり。是は高倉院の宮にて御座けるを、太子に(有朋上P042)立て奉らんと謀ける故也。又上皇政務を不(レ)可(二)聞召(一)之由清盛卿申行ひけり。君の威忽ちに廃れ、臣の驕速にいちじるし。同日の除目に以(二)信範(一)被(レ)任(二)右少弁(一)、以(二)時忠(一)可(レ)被(レ)補(二)五位蔵人(一)之由、院より執申させ給けるに、彼両人をば被(レ)解官(一)て、以(二)長方(一)被(レ)任(二)右少弁(一)、以(二)重方(一)被(レ)補(二)五位蔵人(一)けり。天子には無(二)父母(一)、上皇の仰なればとて、政務に私不(レ)可(レ)存と仰けるとぞ聞えし。誠に求(二)其人(一)、被(レ)置(二)其官(一)とも、上皇御素意には忽に相違せり。延喜の聖主の天子に無(二)父母(一)とて、寛平法皇の仰を背せ給けるをば、御誤りとこそ申伝たるに、思召出させ給はざりけるにや、諫諍の臣も諂けるにや、政道には叶給へれ共孝道には大に背けりとぞ。同二年六月二日、修理大夫資賢、少将通家、上総介雅賢等、見任を被(二)解却(一)。是は去る比、賀茂社に参篭する男有、事の体恠しかりければ、社司彼男を搦捕て、内裏に奉たりければ、子細を被(レ)召問(一)けり。天子を奉(二)咒阻(一)之由、白状したりけり、若此人々の造意なり〔に〕けるにや。係りければ、高きも賎きも安き心なし。只深淵に臨、薄氷を踏が如し。主人とは二条院、上皇とは後白河法皇、此法皇の御譲りにて、主上は御位に即給ふ。父子の御中なれば、百行の中に孝行尤第一也。上皇の叡慮に叶御座べきに、さもなくて角思ひの外の事共あり。其中に人耳目を驚し、世に傾申事ありき。(有朋上P043)
S0204 二代后附則天皇后事
故近衛院の后に、太皇太后宮と申は、徳大寺の左大臣公能の御娘也。
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中宮より太皇太后に上らせ給たりけるが、先帝に後れさせ給て後は、九重の中をば住憂思召て、近衛川原の御所にぞ移り住せ給ける。先朝の后の宮にて、ふるめかしく幽なる御有様なりけるが、永暦応保の比は、御年廿七八の程にもや成せ給けん。天下第一の美人にて御座由聞えさせ給ければ、主人御色にそむる御心有て、密に高力士に詔して、外宮に引求させ給て忍つゝ、彼太皇太后宮へ御書有けれ共、后うつゝならず思召れければ、更に聞召入させ給はず。主人は忍の御書も度重りけれ共、空き御書なりければ、今はひたすら穂に顕まし/\て、后入内有べき由、父の左大臣家に宣旨を被(レ)下けり、此事珍き御事也。先帝の后宮二代の后に奉(レ)祝事、いかゞ有べきとて、公卿僉議有けれ共、各難(二)意得(一)之由、被(レ)申けり。但し先例を可(二)相尋(一)之旨、議定あり。
遠く異朝の先蹤を考るに、則天皇后と申は、唐太宗の后、高宗皇帝には継母也。太宗崩御し給しかば、御飾をおろし比丘尼と成りて、感業寺に篭らせ給て、先帝の御菩提を弔給けり。高宗位を継給たりけるが、我宮室に入り(有朋上P044)て政を助給へと、天使五度勅を宣ひけれ共、敢てなびき給はず。高宗自感業寺に臨幸有て云、朕私の志を以て還幸を勧め奉るにはあらず、唯天下の政の為なりと仰けれ共、皇后先帝の崩御を訪ひ奉らんが為に、適釈門に入、争か二度世俗の塵裏に帰て、王業の政務を営まんとて、確然として動給はず。扈従の群臣守(二)勅命(一)、横に取奉る如して都に返し入れ奉れり。后泣々長髪し御座て、重て皇后と成給へり。高宗、則天相共に、政を治給しかば、御在位三十四年、国富民楽みけり。さてこそ彼御時を二和の御宇とは申けれ。高宗崩御の後、皇后女帝として廿一年有りて、位を中宗帝に授給けり。年号を神龍元年と云。我朝の文武天皇、慶雲二年乙巳歳に相当れり。
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唐則天皇后は、大宗高宗両帝の后に立給ふ、異朝の例はあれ共、本朝の先規を勘るに、神武天皇より已来、人王七十余代、未二代の后に立給る其例を聞ずと、諸卿僉議一同なりければ、法皇も此事不(レ)可(レ)然と、度々申させ給けれ共、主上の仰には、天子に無(二)父母(一)万乗の宝位を忝せん上は、此程の事叡慮に任べしとて、既御入内の日時を被(二)宣下(一)ける上は、不(レ)及(二)子細(一)、后は此御事被(二)聞召(一)けるより、引かづき御座しつゝ御歎の色深くぞ見えさせ給ける。先帝に後れ進らせし久寿の秋の始に、同草葉の露とも消、家を出〔て〕世を遁たりせば、懸る例なき事は(有朋上P045)きかざらましとぞ思召れける。父の大臣彼宮に参て、世に随ふを以て人倫とし、世に背くを以狂人とすと云事侍り、既に詔命を被(レ)下之上は、子細を不(レ)及(レ)申、たゞとく進せ御座すべき也、是偏に愚老を助させ給べき、孝養の御計ひたるべし、知ず又此末に皇子御誕生なんども有て、後には、君も国母と祝れ、愚老も又帝祖といはるべき、家門繁昌の栄花にしてもや侍らんと、様々こしらへ申させ給ひけれども、皇后は御返事なかりけり。只御涙のみぞすゝませ給ける。何となき御手習の次に、かくぞ書すさませ御座ける。
浮節に沈みもはてで川竹の世にためしなき名をばながしつ K014
と、世には如何にして漏けるやらん、哀に情しき様しにぞ申ける。既に後入内の日時にも成しかば,父の大臣は供奉の上達部、出車の儀式、心も詞も及ず。小夜も漸深けければ、后は御車に被(二)扶載(一)御座けり。色深き御衣をば不(レ)被(レ)召、殊に白き御衣十計をぞ召れける。内へ参せ給にしかば、やがて恩を
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蒙り麗景殿にぞ渡らせ給ける。ひたすら朝政をすゝめ申させ給ふ御有様也。
彼紫宸殿の皇居には賢聖の障子を被(レ)立たり。西に十六人、東に十六人、三十二人の賢聖あり。是は後漢功臣二十八将に、王常、李通、宝融、卓茂の四将を具して也。其外、伊尹、第五倫、虞世南、太公望、角里先生、李勣司馬も(有朋上P046)あるとかや。手長、足長、馬形の障子、鬼間、李将軍が姿の写せる障子も有、金岡が書ける荒海の障子の北なる御障子には、遠山の有明の月をぞ書れたる。故近衛院、未幼帝にて御座ける当時、何となき御手すさみに、書曇かさせ給たりけるが、有しながらに少も替ざりけるを御覧じけるにも、先朝の昔や恋しく思食けん、御心内所せくまで思召つづけさせ給けるこそ御いたはしけれ。
思きや憂身ながらに廻きておなじ雲井の月をみんとは K015
と、さても此間の御なからひ、昔をしたふ御哀、今を専にする御情、旁わりなき御事共なりし程に、永万元年の春の比より、主上御不予の御事有と聞えしかば、其年の夏の始に成しかば,事の外に重らせ給ければ、大蔵大輔紀兼盛が娘の腹に、二歳にならせ給ふ皇子の御座けるを、皇太子に立て奉る可き由聞えし程に、六月二十五日、俄に親王の宣旨を被(レ)下て、やがて其夜位を譲り奉せ給ひき。何となく上下周章たり。我朝の童帝の例を尋れば、清和帝九歳にして、天安二年八月に、文徳天皇の御譲を受させ給しより始れり。周公旦の成王にかはりつゝ、南面にして一日万機の政を行しに准て、
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外祖忠仁公、幼主を扶持し奉り給へり。摂政又是より始れり。鳥羽院五歳、近衛院三歳にて御即位(有朋上P047)有りしをこそとしと人々思申しに、是は僅に二歳、いまだ先例なし、物騒しくぞ覚えし。
S0205 新帝御即位同崩御附郭公並雨禁獄事
永万元年六月二十七日に、大極殿にして新帝御即位の事ありしに、同七月廿三日に、春寛法印御験者に参り祈申けるに、御邪気始て顕て、讃岐院の御霊とぞ聞えし。同二十八日に、新院隠れさせ給にけり。御歳二十二、位をさらせ給て、僅に三十余日也。天下憂喜相交て、不(二)取敢(一)事也。
同二十九日、修理大夫頼盛朝臣、参川守光雅、主典代置能等、陰陽師宣憲を相具して御葬の地を点ず。宣憲次第の事共勘申けるに、日時は母后の御衰日を選び、方角は公家の御方忌を用る、是偏に宣憲が失錯のみに非ず、己天下の怪異たり、浅増かりし事共也。同八月七日御葬送あり。■従(こじう)の公卿衣冠に纓を巻て、各歩行せり。右大臣経宗、中宮大夫実長、別当公保、新中納言実国、大宮宰相隆李、左大弁資長、右大弁雅頼、平宰相親教卿也。押小路を西へ、烏丸を北へ、衣笠岡に至り、暁天の程に荼毘し奉けり。左中将頼定朝臣御骨を奉(レ)懸、香隆寺に渡し入奉る、実に哀な(有朋上P048)りし事共也。后宮より奉(レ)始、御身近召仕れし女房、恩禄あつく賜へりし。卿相雲客御遺を慕ひ、後れ奉らじと歎悲み給けれども、死に随ふ習なければ、只御一所送捨進せて、泣々還合せ給。比は秋の最中の事なれば、雲井を照す月影、尾上にかよふ風の音、萩の上風身にしみ、萩が下露置ませば、山分衣しほれつゝ、ぬれぬ所ぞなかりける。叢にすだく虫の音々も、我を訪ふ心地して、いとゞ哀ぞ増ける。さても宮に還れ
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ども、無御跡の習にて、高きも賤きも、涙の露にぞ袖ぬらす。近衛大宮は、先規なき二代の后に立せ給たりけれ共、さまで御幸も御座さず、いつしか此君にも後れさせ給ひしかば、やがて御髪おろさせ給て、北山の麓に引篭らせ給けるこそ哀なれ。
今年の夏、敦公京中にみち/\て、頻に群り啼けり。此鳥は初音ゆかしき鳥也とて、すき人は深山の奥へも尋入例多き事なるに、今はけしからぬ事也とて、人耳を峙る程也けるに、二羽の敦公空にて食ひ合ひ、殿上に飛落たりけり。野鳥入(レ)室、主人将(レ)去と云本文あり、此恠異也とて、二羽の敦公を捕て、獄舎に被(レ)禁にけり。白川院御時、金泥の一切経を被(二)書写(一)、法勝寺にて御供養と被(レ)定。其日時に及て、甚雨有りければ延引す。又日時を被(レ)定たりければ、甚雨に依て延引す。又日時を被(レ)定たりければ、甚雨に依〔て〕延引〔す〕。既に三箇度まで延引あり。(有朋上P049)第四箇度に適御供養有ける日、空掻曇り雨降て、俗も僧もしほ/\として、法会の儀式最興醒たりければ、天気逆鱗有て、雨を器に受入て、獄舎に被(レ)入たりしをこそ珍しき事に申して、敦公の禁獄先例なし。
位を去せ給ふ事、今に不(レ)始事なれ共、六月に御座をすべらせ給て、何しか七月に崩御、怪鳥殿上に入ける故にや、本文もおもひしられ哀なり。
S0206 額打論附山僧焼(二)清水寺(一)並会稽山事
新院御葬送の夜、延暦興福両寺の大衆、額打論じて狼藉に及べり。その故は、主上御葬送の作法は、諸寺諸山の僧徒等、悉く供養して我寺々の額を立、次第を守て御供を仕る。南都には、一番には東大寺の行を立て額を打、二番には興福寺の行を立て額を打、其外末寺々々打並ぶ。北京には、一番に延暦寺の行を立て額を打、山々寺々次第を守て立並るは先例也。爰に山門の衆徒、今度の御葬送にいかゞ
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思ひけん、東大寺の行の次に、延暦寺の額を打たりければ、興福寺の大衆の中に、東門院の観音房、勢至房と云ふ悪僧あり、三枚皮威の大荒目の鎧、草摺長にさゞめかし、三尺五寸の太刀前低にはき、興福寺(有朋上P050)の額を大長刀に取具して、高く指上て延暦寺の額の上に、我寺の額を立副て、皆紅の月出したる扇披、山門の衆徒に向て申けるは、先規に任て額をさげられて、衆徒安堵せられよやとて、高声に申けれ共、山門の衆徒良久申旨なし。観音房、勢至房、長刀にて延暦寺の額を二刀切て、衆徒の所存其心をえず、我と思はん大衆は、落合や/\と■(ののしつ)て馳廻けれ共、落合者共なし。二人の者共は、うれしや水鳴は滝水と歌て、おれこだれおれこだれ、一時計舞たりける。延暦寺の大衆先例を背き狼藉を出す程ならば、其庭にして手向へすべきに、臆病の至り歟、所存のあるか、一言もいはざりけり。一天の君、万乗の主、世を早せさせ給ぬれば、心なき草木までも猶愁の色有べし、況人倫僧徒の法に於をや、而をかゝる浅猿き事し出して、式作法散々と有ければ、高も卑もをめき叫び、東西に迷けるこそ不便なれ。
同八月九日、山門の大衆下洛すと云披露あり。巷説一に非ず、或は清水寺へ押寄せて可(二)焼払(一)とも云、或上皇大衆に仰て、事を南都の会憤によせて、平相国清盛を可(レ)被(レ)誅由聞えけり。兵庫頭頼政、大夫尉信兼、左衛門尉源重貞、同尉為経、康綱等を切堤へ差遣て被(二)守護(一)。内蔵頭教盛朝臣は、立烏帽子に冑を著す、若狭守経盛朝臣は、折烏帽子に冑を著す。大夫尉貞能已下、甲冑を著して皇居の四面
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を守護(有朋上P051)す。陣の口には、雑役の車を以逆茂木に引、随兵東西に馳迷て、偏に迷惑の体也。検非違使(けんびゐし)李光を切堤へ遣して形勢を見せらる。帰参して申けるは、衆徒数百人、山路より菩提樹院を透りて霊山に群集す、山路に於ては相防に無(レ)力由をぞ申入ける。清盛の事と聞えければ、右兵衛督重盛卿、修理大夫頼盛朝臣、左馬頭宗盛朝臣已下、一族の人々、六波羅に馳集る。衆徒を防ぐ心なくして、堅く城内を守る。去程に大衆の下向は、平家の事には非、去七日の額立論に、会稽の恥を雪んが為に、興福寺末寺なれば、清水寺を焼払はんとて下ると云ければ、清水法師老少をいはず騒あへり。俄事にてはあり、物具の有も無もいはず、二手に分て相待けり。一手は清水清閑両寺の境ひ堀切りて逆茂木引て、滝の尾の不動堂より木戸口まで、五百余騎にて固めたり。一手は山井の谷の懸橋引落して、西の大門に垣楯かき、食堂廻廊木戸口まで、一千余騎には過ざりけり。京童部が申けるは、蟷螂挙(レ)手招(二)毒蛇(一)、蜘蛛張(レ)網襲(二)飛鳥(一)と云喩は此事にや、山門の大勢に敵対して、危々とぞ■(わらひ)ける。山門大衆追手搦手二手につくる。搦手は大関小関四宮川原も打過ぎて、九集滅道や清閑寺、歌中山まで責寄たり。追手は西坂本、下松、新道超を打過て、清水坂、晴尾の観音寺まで責付たり。清水法師も思切、楯の面に進出て、散々に戦けれど(有朋上P052)も、大勢雲霞の如くなりける上に、時刻を経ず、やがて坊舎に火を懸けたり。折節西の風烈く吹て、黒煙東に覆ひければ、寺僧今は防戦ふに無(レ)力、本尊を負、坊舎を捨て、延年寺、赤築地二の閑道へぞ落行ける。さてこそ山門は、会稽の恥をば雪ぬと思けれ。
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会稽の恥を雪とは、異朝に稽山の洞と云所あり、蚕山とも名、会稽山とも申也。呉越の境に在(レ)之とか。両国境を論じて代々に軍絶えず。此山には桑多生じて、蚕繭をつくり、糸を出し綿を成故也。越国の允常王と呉国の闔閭王と、此山を論じて合戦絶えざりける程に、呉王軍に誅れて、越国知(レ)之。越王の子に勾践(こうせん)と云ふ王あり、呉王の子に夫差と云ふ王あり、互に親の敵也ければ、勾践(こうせん)思けるは、夫差が父をば我父誅(レ)之、されば我をば敵と思て、定てうたんと思ふ心有らんとて、軍を起て戦ふ程に、あやまちて勾践(こうせん)被(レ)虜たり。呉国に止誡られて本国に帰事をえず。勾践(こうせん)木をこり草をからぬ計に奉公しければ、死刑を被(レ)宥召仕はれけり。夫差病する事有き、療術力なきに似たり。医師の云、尿を令(レ)飲味を以て存否をしらんと云けれ共、彼を飲んと云臣妾なし。囚勾践(こうせん)が云、我無益の謀反を起して誤ちて虜れぬ、其咎死刑にありと云へども、君の恵に依つて命を助けられたり、洪恩生々に難(レ)報須恩を謝せんと云て飲(レ)之。夫差其志の深事を感じて、本国に反遣(有朋上P053)しつ。勾践(こうせん)後に大軍を起て、終に呉王を亡しけり。会稽山を論じて、軍に負尿を飲は恥也、本国に還て敵を誅て、彼山を知は恥を雪る也、故に会稽の恥を雪といへり。去七日は、山門額を切れて恥に及、今九日には清水煙と昇て、面を洗ぐ、実に恥を雪と云べきにや。京童部が云けるは、山僧は田楽法師に似たり、打敵をば打返反さで、傍なる者を打様に、興福寺の衆徒に額をきられて、清水法師が頭をはりたりとぞ笑ひける。
昔嵯峨天皇の后に、春子女御と申は、二条右大臣、坂上田村丸の御娘也。御懐姙の時、御産平安ならば、我氏寺に三重の塔をくまんと御願を被(レ)立たり。其験にや平に王子御誕生あり。第三の王子に、門居親王とは此御事也。御宿願を遂げられんが為に官府を申承和四年に建立せられたりし三重の塔婆、空輪高く輝きて、宝鈴雲に響しも焼にけり。猛火爰に、止て、本堂一宇は残たり。大衆既に帰り上ら
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んとしけるに、東塔南谷教光坊大和阿闍梨仙性とて、学匠の而も大悪僧也けるが、進出て僉議して云、罪業本より所有なし、妄想顛倒より起る、心性源深ければ、衆生即仏なり、罪として更に不(レ)恐、本堂に火を差や/\と申ければ、衆徒尤々と一同して、手々に火をともしつゝ、堂の四方に付たれば、黒煙はるかに立上り、赤日のひかりも見えざりけり。(有朋上P054)
S0207 清水寺縁起並上皇臨(二)幸六波羅(一)事
〔此〕清水寺と申は、昔大和国子嶋寺に沙門あり、其名を賢心と云。淀河を渡給けるに、水の中に金色〔の〕一筋の流れあり、是直事に非ずとて、流に随て源を尋ぬ。山城国愛宕郡〔に〕、八坂郷、東山の辺り、清水の滝の下に至れり。恠しげなる草庵あり、中に白衣の居士あり。年齢既に老々として、白髪さらに皓々たり。賢心問て云、汝は是誰人ぞ、こゝに住して幾年をか経たると。居士答云、我をば行叡と云、此地に住事数百歳、心に観音の威神力を念じ、口に千手の真言を誦す、我に東国修行の志あり、汝慥に聞、此草庵の跡は伽藍を立べき勝地也、前なる株は観音の■[*米+斤]木也、必汝宿望を果すべしと云て、東〔を〕指て去にけり。賢心此に住して、六時三昧怠ず、練行坐禅年経ける程に、坂上田村丸、東山遊猟の次に、種々の瑞異に驚て、賢心と師檀の契を結びつゝ、宝亀十一年に始て伽藍を草創して、金色八尺の千手観音を造立す。延暦大同に仏殿を造闊て、清水寺と号せしより以来、星霜己に四百余歳に及けり。
嵯峨天皇御宸筆の勅書には、以(二)清水寺(一)宜(レ)為(二)鎮護国家之道場(一)と被(二)宣下(一)たり。誠古仙経行之聖跡、大悲利物之霊崛也。天子万乗の聖主(有朋上P055)も、薩■[*土+垂](さつた)之弘誓を仰ぎ、土民七道の男女も、闡提の悲願を憑けり。懸る目出き大伽藍精舎は、煙と、上つゝ、仏像灰と変じけん。千手の廿八部衆照見、誠に難(レ)知。衆徒かく焼払て帰登にけり。平相国清盛徒に数千の軍兵を集置といへ共、更に咫尺の災難を救ふ事なし。
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衆徒悪行を致せども、武勇防制せず、王威の衰微、仏法の破滅、此時にあり。清水寺焼失の後、切堤川原の武士等陣頭に参ず。子細を為(レ)被(二)召問(一)、頼政を陣の中にめさる。頼政は白き見紋紗の水干、小袴に藍摺の帷著て、立烏帽子に太刀帯て、胡■[*竹冠+録](やなぐひ)を不(レ)負ば、浅沓をはけり。渡辺の源三競と云郎等一人相具せり。誠に花やかに由ありて見えたり。子息伊豆守仲綱已下の随兵等は、門外に候ひけり。源氏の作法優にして異(レ)他也と、見物の上下感申けり。兼の巷説に、清盛卿の事と聞えければ、六波羅には武士雲霞の如く馳集る。大内を守護する者も、平将の亭に馳行ければ、左衛門督重盛卿は、当家追討の披露一定僻事にこそ、参て御気色伺はんとて、院参し給ける程に、上皇は又閭巷の説を為(レ)被(二)謝仰(一)六波羅へ御幸あり。左衛門督公光卿、治部光隆卿供奉せられたり。重盛卿道にて参会給ひ、御供申て奉(レ)入。平中納言清盛は、用心の為にや所労と称して見参に入らざりければ、空く還御有けり。河陽之蒐春秋猶忌(レ)之といへり、忽に君臣の道(有朋上P056)を忘て、今上下の礼を背けれ共、君として其罪を責るにあたはず、臣として其咎を恐るる事なし。朝家の恥武将の驕、只此事にあり。是又平家の狼藉の第二度也。重盛卿御送に参りて六波羅へ帰り、父に向て、さても一院の御幸こそおそれ覚ゆれと宣ひければ、清盛は、思召寄仰す旨の聊もあればこそ。平家追討と云事も洩聞ゆらめなれば、御幸有とても不(レ)可(レ)被(二)打解(一)憤られければ、重盛は、此事ゆめ/\色にも詞にも出させ給べからず、保元平治より、逆臣を討罰して勲功端し多し、今に至るまで、君の御為不忠を存ぜられず、何に依てか一門
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追討の御企有べき、加様の事にこそ人の心つきて、実なき事に悪事をも思出す事に候、向後も叡慮に背き給はず、人の為に恵を施さんと思めさば、神明三宝の御加護有べし、去ば御身の恐有るべからずとて被(レ)立ければ、清盛は、此の重盛はゆゝしく大様の者かなとぞいはれける。
一院は六波羅より還御の後、疎らぬ近臣按察使入道資賢を始て、人々御前に候はれけるに、仰の有けるは、平家追討とは何者か云ひ出しけるやらん、加様の事は浮説なれ共、世の大事に及ぶ也と被(レ)仰ければ、諸人口を閉て物申事なし。西光法師折節御前近く候けるが、天に口なし人代ていへり、驕て無礼なるは是天罰の徴なり、清盛以外に過分也、亡びん瑞相にやと申ければ、人々聞(レ)之、壁に耳(有朋上P057)ありとて、抜足して退出する族も有けり。
清水寺囘禄の後朝、焼大門の前にかくぞ書て立たりける。観音よ/\火坑変成池は、いかにと誓ける事ぞと。翌日返札と覚しくて、歴劫不思議の事なれば、不(レ)及(レ)陳とぞ書たりける。又いかなる跡なし者の態にか有けん、札に書て立副たり。補陀落山に有し間なれば、火不能焼の験はなしとぞ書たりける、哀に浅猿き中にも、をかしかりける事共也。
同十日祇園所司奉状を進る。興福寺衆徒、当社を焼払はんとす、官兵を賜て可(レ)被(二)守護(一)、不(レ)然ば神礼を奉(レ)負可(二)登山(一)とぞ申入ける。又山階寺の大衆、参洛を企て、延暦寺末寺末社を可(二)焼払(一)之由言上しければ、蔵人木工頭重方、勅定を蒙て彼寺別当に仰けるは、任(二)意趣(一)可(二)上奏(一)、不(レ)押(二)参洛(一)者別当
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已下、可(レ)有(二)違勅罪(一)とぞ被(二)宣下(一) ける。同[* 「用」と有るのを他本により訂正]十二日、法務僧正恵信、官を被(レ)辞、又源義基、伊予国に配流。是は先日彼僧正卒(二)義基等(一)発(二)向南都(一)、是山階寺の大衆、今度蜂起之間、僧正可(二)与力(一)者可(レ)免衆勘(レ)之由、衆議を成ければ、僧正承諾して発向す。仍被(レ)行(二)其罪(一)けり。先帝崩御之後、今日相(二)当二七日(一)けり。被(レ)行(二)刑罰(一)けるこそ、最甚しく覚えけれ。(有朋上P058)P0043(有朋上P059)