『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十三
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牟巻 第二十三
S2301 新院厳島御幸附入道奉勧起請事
治承四年九月廿一日、新院又厳島の御幸あり。御伴には、入道大相国、前右大将宗盛、大納言邦綱、藤大納言実国、源宰相中将通親、頭左中将重衡、宮内少輔棟範、安芸守在経已下八人也。此御幸と申は、当院御位の時、太政入道物狂はしくて、事に於て邪になりけるを、いかゞして宥め直さんと思召ける程に、入道相国、此明神の事を強に、忝申ければ、然べき事にこそあるらめ、彼社に参て祈申ばやと思召つゞける処に、去二月の比静なりける夜、入道御前に参て世上の事教訓申ける次に、帝王下居の後は、御幸始とて御物詣ある事に侍り、神社仏寺の間に、いづくへも思召立御座し候へかしと奏する時、よき次と思召て然べく被申たり。厳島へと思召由仰ければ、入道不斜悦て出立進て、三月には御参詣ありき。御祈誓は法皇の鳥羽殿に被打籠させ給へる御事にぞ有らんと人人思申けるに合て、鳥羽殿より事故なく都へ還御ありき。随て入道も被思(有朋上P744)直と聞えしかば、彼明神の験にやとぞ覚ける。去ば其御賽の為なるべし。さしも深き御志也。明神も争か御納受なかるべき。御願文御自あそばして、摂政清書せられけり。熊野御参詣の事に思召けれ共、仰出す御事もなかりけるに、頼朝追討の宣下の後、入道又夜に入て参たりけるに、新院の仰には、東国の兵乱の事、頼朝
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は一人也、討手の使は三人也、別の事あらじ、心安こそ思召、早く其祈可被申、先厳島へ被参よかし、さらば是も思たゝんと仰下さる。入道余の嬉さに手を合悦泣して、関東へは若者共を差下て候へば、実に何事かは侍べき、鳥風ならばこそ此等を差越ては頼朝に勢付べき、皆々禦留なん憑しく候、勅定のごとく厳島へ御伴仕て、天下安穏の事を祈申べしとて俄に出し立進て御幸あり。彼島に著せ給て、御参社以前に、入道と宗盛と父子二人、院の御前に参よりて、自余の人々をば被除て、入道被申けるは、東国の乱逆に依て頼朝を可追討之由、御宣下の上は、不審候はねども、源氏に一つ御心あらじと御起請あそばして、入道に給御座候へ、心安存じいよ/\御宮仕申候べし、此言聞召入られずば、君をば此島に捨置進て帰上候なんと申ければ、新院少しもさわがせ給はず、良御計有て、今めかし、年来何事をか入道のそれ申事背たる、今明始て二心ある身と思ふらん(有朋上P745)こそ本意なければ、彼起請いとやすし、いかにもいはんに随ふべしと仰有ければ、前右大将硯紙執進せり。入道近参て耳語申ければ、其儘にあそばしてたびぬ。入道披之拝て、今こそ憑しく候へとてほくそ笑て、大将に見せらる。宗盛此上は左右の事有べからずと申。相国取て懐に入て立給けるが、よにも心地よげにて、各御前へ参らせ給へと申ける時、邦綱卿被参たり。あやしと思はれけれ共、人々口を閉て申事もなかりけるに、重衡朝臣いかにぞやと阿翁にさゝやきければ、打うなづきて心得たる体也けれ共、御伴の人々は其心を得ず、国庄を給り給へる歟、いかばかりの悦
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し給へるぞと、いと■く思はれたり。其後御社参ありて、神馬神宝進て御啓白あり。
新院御宸筆御願文云、〈 高倉院御事也 〉
蓋聞法性山静、十四十五之月高晴、権化地深、一陰一陽之風旁扇、方便力用不可測量者歟、夫厳島者、名称普聞之場、効験無双之砌也、遥嶺之廻社壇也、自顕大悲之高峙、巨海之及祠宇也、暗表弘誓之深湛、仰之明徳在頂、現当之望必満帰之、答■随心鏡谷之応惟新也、凡卒土之浜靡然向風、伏惟、初以庸昧之身、忝蹈皇王之位、握乾符兮、顧微分鎮迷南面之理、政望四海兮、恥薄徳更無万民之威、仁仍守(有朋上P746)謙遜於■郷之訓、楽閑放於射山之属、而後偸抽一心之精誠、先詣孤島之幽、遂機感純熟、欽仰弥切者也、是宿善之所致也、豈非深信令然乎、況瑞籬之下、仰冥恩凝懇念而、流汗宝宮之裏、垂霊詫有其告之銘肝、就中殊指怖畏謹慎之期、専当季夏初秋之候、而間病痾忽侵、弥思神威之不空、萍桂頻転、猶無医術施験、雖求祈祷、難散霧霞、不如抽心府之志、重欲企斗籔之行、因茲白蔵已闌之律、玄英漸近之、天殊専斉蕭遂以予参、漠々寒嵐之底、臥旅泊而破夢、凄々微陽之前、望遠路而極眼、遂就枌楡之砌、敬展清浄之筵、奉書写色紙墨字妙法蓮華経一部八巻、開結般若心阿弥陀等経各一巻、手自奉書写金泥提婆品一巻、文々之尽懇精、正施紫摩於瑠璃之上字々之隔妙跡未畳漂波於張池之中、沖襟之至、世垂哀愍、于時蒼松蒼栢之陰、共添善利之種、潮去潮来之
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響、暗和梵唄之声、法会得処、随喜双催、抑弟子辞北闕之雲、八箇日矣、雖無涼燠之多、廻凌西海之浪二箇度焉、誠知機縁之不浅帰依之思此故増進渇仰之志因茲竪固、加之、今度忝至苔庭奉添松府神、而有知莫棄我願、殊以白業奉祈紫宮、一日万機之化、広被竜図鳳展之運、惟久、弟子病患忽散、伝淮南道士之方、寿算無疆論、山中射若之命、抑当社者、混俗塵而済生、利人界、(有朋上P747)而振徳、或三公九卿之臣、或芻蕘台齢之輩、朝祈之客匪一、暮賽之者且千、但尊貴之帰敬雖多、院宮之往来未有之、禅定法皇初貽其儀、弟子■身徐運其志、彼崇高山之月前、漢武未拝和光之影、蓬莱洞之雲底、天仙空隔垂跡之塵、如当社者、曾無此類、仰願大明神、伏乞一乗経、新照丹祈、忽彰玄応、敬白。
治承四年九月二十一日 太上天皇〈 御諱 〉敬白
とぞ有ける。御伴人々参社の神女までも随喜の思を成て、いよ/\明神の効験をぞ貴みける。
S2302 朝敵追討例附駅路鈴事
同廿二日に追討使官符を帯して福原の新都を立。大将軍三人の内、権亮少将維盛朝臣は、平将軍より九代、正盛より五代、大相国の嫡孫重盛の一男なれば、平家嫡々の正統也。今凶徒の逆乱を成に依て、大将軍に被撰たり。薩摩守忠度は入道の舎弟也、熊野より生立て心猛者と聞ゆ。古郡より可相具と沙汰あり。参河守知度は入道の乙子也。侍には上総介忠清を始として、伊藤有官無官、惣而五万余騎とぞ聞えける。長井斎藤別当(有朋上P748)真盛は、東国の案内者とて先陣をたぶ。抑朝敵追討のため
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に、外土へ向ふ先例を尋に、大将軍先参代して節刀を給るに、宸儀は南殿に出御し、近衛司は階下に陣を引、内弁外弁の公卿参列して中儀の節会を被行。大将軍副将軍、各礼儀を正しくして是を給る。されども承平天慶之前蹤、年久して難准とて、今度は堀川院御宇嘉承二年十二月に、因幡守平正盛が、前対馬守源義親を追討の為に出雲国へ発向せし例とぞ聞えし。鈴ばかりを給て、革袋に入て、人の頸に懸たりけるとかや。朱雀院の御宇承平年中に、武蔵権守平将門が、下総国相馬郡に居住して八箇国を押領し、自平親王と称して都へ責上、帝位を傾奉らんと云謀叛を思立聞有ければ、花洛の騒不斜。依之天台山当時の貫首、法性坊大僧都尊意蒙勅命、延暦寺の講堂にして、承平二年二月に、将門調伏の為に不動安鎮の法を修す。加之諸寺の諸僧に仰て、降伏の祈誓怠らず、又追討使を被下けり。今の維盛先祖平貞盛無官にして上平太と云けるが、兵の聞え有けるに依て被仰下けり。貞盛宣旨を蒙て、例ある事なれば節刀を給り鈴を給り、大将軍の礼義振舞て、弓場殿の南の小戸より罷出、ゆゝしくぞ見えし。大将軍は貞盛、副将軍は宇治民部卿忠文、刑部大輔藤原忠舒、右京亮藤原国■、大監物平清基、散位源就国、散位源経(有朋上P749)基等相従て東国へ発向す。貞盛已下の勇士東路に打向ひはる/゛\と下けり。道すがら様々やさしき事も猛事も哀なる事も有ける中に、駿河国富士の麓野、浮島原を前に当て、清見関に宿けり。此関の有様、右を望ば海水広く湛て、眼雲の浪に迷、左を顧れば長山聳連て、耳松風に冷じ。身をそばめて行、足を峙て
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歩む、釣する海人の、通夜浪に消ざる篝火、世渡人の習とて、浮ぬ沈ぬ漕けるを、軍監清原の滋藤と云者、副将軍民部卿忠文に伴て下けるが、此形勢を見て、
漁舟火影冷焼波、駅路鈴声夜過山 K117
と云唐歌を詠じければ、折から優に聞えつゝ、皆人涙を流けり。
< 漁舟とは、すなどりする船なり。火の影は、彼舟には篝の火をたけば、諸の魚の集りてとらるゝ也。冷焼波とは、水にうつろふ篝の火の、波をやく様に見ゆる也。駅路とは旅の宿なり。鈴の声とは、大国には馬に鈴を付て仕へば、よもすがら旅の馬山を過けるを、かく云ける也。貞盛朝敵追討の蒙宣旨、凶徒降伏の鈴を給り、此関に宿たる折節、釣する海人が篝を焼て魚をとる有様思知られければ、かく詠じけるにこそ。>(有朋上P750)
S2303 貞盛将門合戦附勧賞事
下野国住人俵藤太秀郷は、将門追討の使、下べき由聞えければ、平親王にくみせんとて行向たりけるに、大将軍の相なしと見うとみて、憑み憑まんと偽て、本国に帰、貞盛を待受て相従てぞ下ける。
承平三年二月十三日、貞盛已下の官兵将門が館へ発向す。将門は下総国辛島郡北山と云所に陣を取、其勢纔に四千余騎。同十四日未時に矢合して散々に戦。官兵凶徒に撃変されて、死する者八十余人、疵を蒙る者数をしらず。貞盛秀郷等引退刻に、二千九百人の官軍落失ぬ。将門勝に乗て責戦時、貞盛秀郷等精兵二百余人をそろへて、身命を棄て返合て戦けり。爰に将門自甲冑を
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著、駿馬を疾て先陣に進みて戦処に、王事靡塩、天罰正顕て、馬は風飛歩を忘、人は李老之術を失へり。其上法性坊調伏の祈誓にこたへつゝ、神鏑頂に中て将門終に亡けり。同四月二十五日、将門が首都へ上る。大路を渡て左の獄門の木に懸らる。哀哉昨日は東夷の親王とかしづかれて威を振、今日は北闕に逆賊と成て恥をさらす事を。貪徳背公、宛如憑威践鉾之虎と云本文あり、最慎べき事也けり。貞盛又希有にして遁上れり。譬へば馬前の(有朋上P751)秣は野原に遺り、爼上の魚の江海に帰が如し。帝運の然らしむると云ながら、武芸のよく秀たる事を感じけり。将門が舎弟将頼、并常陸介藤原玄茂は、相模国にて討れけり。武蔵権守興世は上総国にして被誅。坂上近高、藤原玄明、常陸国にて切れたり。伴ふ類与党多かりけれ共、妻子を捨て入道出家して山林に迷けり。将門追討の勧賞被行けり。左大臣実頼〈 小野宮殿 〉、右大臣師輔〈 九条殿 〉已下、公卿殿上人陣の座に列し給へり。大将軍貞盛は上平太なりけるが、正五位に叙して平将軍の宣旨を蒙る。藤原秀郷は従四位下に叙して、武蔵下野両国の押領使を給り、右馬助源経基は従五位下に叙して、太宰の少弐に任けり。次副将軍忠文卿の勧賞の事沙汰有けるに、小野宮殿の御義に云、今度の合戦偏へに大将軍の忠にあり、副将軍は功なきが如し、恩賞不可輙と申させ給けるに、重て九条殿の仰に、兵を選て賊徒を誅する事、大将軍も副将軍も、共に詔命に依りて敵陣に向ふ。大将軍の先陣に勇事は、後陣の副将軍の勢を憑むゆゑ也。副将軍の後陣に踉■ことは、大将軍の進退を守、共に以て午角也、争か朝恩なからん。但大将軍
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の賞ほどこそなく共、■様なる勲功候べきをやと度々被奏けるに、小野宮殿さのみ勧賞無念に候、忠による禄なるべしと、固く諌申させ給ひければ、民部卿終に漏にけり。(有朋上P752)
S2304 忠文祝神附追使門出事
爰に忠文大悪心を起して、面目なく内裏を罷出けるが、天も響き地も崩るゝ計の大音声を放云けるは、口惜事也、同勅命を蒙て同朝敵を平ぐ、一人は賞に預り一人は恩に漏る、小野宮殿の御計、生々世々不可忘、されば家門衰弊し給て、其末葉たらん人は、ながく九条殿の御子孫の奴婢と成給ふべしとて、高く■り手をはたと打て拳を把りたりければ、左右の八の爪、手の甲に通り、血流れ出ければ紅を絞りたるが如し。やがて宿所に帰り飲食を断、思死に失にけり。悪霊と成て様々おそろしき事共有ければ、怨霊を宥申べしとて、忠文を神と祝奉、宇治に離宮明神と申は是也。誠に其恨の通りけるにや、小野宮殿の御子孫は絶給へるが如し。たま/\まします人も、必皆九条殿の奴婢とぞ成給へる。九条殿は一言の情に依て、摂政関白今に絶させ給はず、朝敵を平げたる形勢、上代はかくこそ有けるに、新都の大裏、討手の大将、礼儀忘れたるが如く、儀式前蹤を守らず、いさ/\維盛の追討使、事行がたし、只物の為歟とぞ内々は傾申ける。二十二日に福原の京を立たりけるが、其日は昆陽野に宿す。二十三日に故京に著、二十四五六日は逗留(有朋上P753)す。各鎧甲より始て、弓箭馬鞍、かゞやくばかり出立たりければ、見人目を驚す。維盛は赤地錦直垂に、大頸端袖は紺地の錦にてぞたゝれたる。萌黄匂の糸威の鎧に金覆輪を懸たり。連銭葦毛の馬の太逞きに、鋳懸地の黄覆輪の鞍置たり。年二十二、
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美め形勝たり。絵にかく共、筆も難及とぞ見えたりける。薩摩守忠度の許へ、志深き女房の小袖を一重贈りたりけるに、いひおこせたりけるは、
東路の草葉を分る袖よりもたゝぬ袂は露ぞこぼるゝ K118
忠度の返事には、
別路を何歎くらん越て行く関をむかしの跡と思へば K119
と、此返事は先祖の貞盛、将門追討の為に大将軍に選れて、東国へ下りし事を思出してよめるにや。女房の歌は、大方の余波にてさる事なれ共、忠度の歌は、軍の門出にいま/\しき事哉とぞ申ける。各既に出立ぬ。二十七日には近江の国野路の宿につく。二十八日同国蒲生野に著。廿九日に同国小野宿に著。晦日美濃国府に著。十月一日同国墨俣につく。二日尾張国萱津宿に著、三日同国鳴海に著。四日三川国矢矧につく。五日同国豊川に著。六日遠江国橋本につき、七日同国池田宿につく。八日同国懸川の宿に著。九日(有朋上P754)同国波津蔵につき、十日駿河国府につく。其より清見関まで攻下たれども、国々の兵随付勢なし。適ある者も山野にぞ逃隠ける。道すがら人のたくはへ持るもの共、打入打入奪取ければ、世の乱人の歎不斜。
S2305 源氏隅田河原取陣事
兵衛佐頼朝は、平家の軍兵東国へ下向の由聞給て、武蔵と下総との境なる隅田川原に陣を取て、国々の兵を被召けり。爰に武蔵国住人、江戸太郎、葛西三郎、一類眷属引率して参たり。兵衛佐殿宣けるは、
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彼輩は衣笠にして御方を討者共也、参上の体尤不審あり、大場畠山に同意して後矢射べき謀にやと宣ければ、様々陣申に依て被宥けり。兵衛佐上総介八郎を召て、今一両日此に逗留して、上野下野の勢を催立て、渡瀬を廻て打上らん事如何あるべきと宣へば、弘経畏て、其事悪く候なん、其故は、小松少将維盛大将軍として、侍には上総守忠清等、数万騎の勢を引率して下向と聞え候。斎藤別当真盛、東国の案内者にて一陣と承。日数を経るならば、武蔵相模の勇士等、大場畠山が下知に随て平家の方へ参べし。されば急ぎ此川を渡して足柄を後にあて、富士川を前に請(有朋上P755)て陣を取ならば、武蔵相模の者共は必御方へ参候べし。此両国の兵共随参なば、日本国は我御儘と被思召べし。上野下野の輩は、とても追継追継に馳参べしと計申ければ、然べしとて、江戸葛西に仰て浮橋渡すべしと下知せらる。江戸葛西は、石橋にして佐殿を奉射し事恐思けるに、此仰を蒙て悦をなして、在家をこぼちて浮橋尋常に渡たり。軍兵是より打渡して、武蔵国豊島の上、滝野河松橋と云所に陣を取。其勢既十万余騎、懸りければ八箇国の大名、小名、別当、庄司、検校、允、介なんど云までも、二十騎三十騎五十騎百騎、白旗白じるし付つゝ、此彼より参集。佐殿はいとゞ力付給て、先当国六所大明神に御参詣ありて、神馬を引上矢を奉られたり。
S2306 畠山推参附大場降人事
〔斯る処に〕畠山庄司次郎は、半沢六郎を呼て云けるは、此世の中いかゞ有べき、倩兵衛佐殿の繁昌し給ふを見るに直事に非ず、八箇国の大名小名皆帰伏の上は、参るべきにこそあるか、指たる意趣はなけれ共、父の庄司、伯父の別当、平家に当参の間、
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憖に小坪坂にて三浦と合戦す、されば参らんも恐あり、参らでもいかゞ有べき、相計と云けれ(有朋上P756)ば、成清申けるは、たゞ平に御参候へ、小坪の軍は三浦の殿原存知あるらん、弓矢取身は父子両方に別れ、兄弟左右にあつて合戦する事尋常也、保元の先蹤近例也、且は又平家は当時一旦の恩、佐殿は相伝四代の君也、御参候はんに其恐有べからず、若御遅参あらば一定討手を被差遣候べし、其条ゆゝしき御大事也、急御参ありて、何事も陳じ申させ給ふべしと云ければ、五百余騎を相具して、白旗白弓袋を指上て参たり。生年十七歳、容儀事様実に一方の大将軍と見えたり。兵衛佐殿宣ひけるは、父重能伯父有重、平家に奉公して当時在京也、不知東国の案内者して、今度の討手にもや下るらん、されば一門を引別て、父子敵対せんと思ふべきに非ず、就中小坪坂にして御方を射き、其上所差白旗、全く頼朝が旗に相違なし、兵衛佐だにもさす旗也、重忠不可劣と思にや、参上之条旁以不審也と仰ければ、重忠畏て陳じ申けるは、小坪の合戦の事、三浦に於て私の宿意なく、君の御為に不忠候はぬ由、再三問答の処に、不慮の合戦に及候き、三浦の人々に御尋あらば其隠候まじ、旗の事是私の結構にあらず、君の御先祖八幡殿、宣旨を蒙らせ給て武平、家平を追討の時、重忠が、四代祖父秩父の十郎武綱、初参して侍りければ、此白旗を給て先陣を勤め、武平以下の凶徒を誅し候畢ぬ。近は御舎兄悪源太殿、上野国(有朋上P757)大蔵の館にて、多古の先生殿を攻られける時、父の庄司重能、又此旗を差て即攻落し奉り候ぬ。されば源氏の御為には御祝の旗也とて、吉例と名を付て、代々相伝
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仕る。されば君御代を知召べき御軍なれば、先祖代々の吉例を指て参たりと申せば、佐殿は土肥、千葉を召て、此事いかゞ有べきと仰合す。御返事には、当時畠山を御勘当努々有べからず、就中陳じ申処一々に其請候、極実法の者に候へば、向後も御憑あらんに、一方の大将軍をば承るべき者にて侍り、其に御勘当あらば、武蔵相模の者共、此は人の上にあらず、畠山だにもかく罪せられ、増て我等はとて更に参候まじ、誰々も此等をぞ守り候らんと計申ければ、兵衛佐殿は、所陳申被聞召ぬ、頼朝日本国を鎮むほどは、汝先陣を勤べし、但汝が旗の、余にとりかへもなく似たるに、是を押とて藍皮一文を賜下し給へり。其より畠山が旗の注には、小紋の藍皮を押ける也。畠山既に参て先陣を給と披露有ければ、武蔵相模の住人等我も/\と参けり。大場三郎景親は、今は叶はじと思て、三千余騎にて平家の御迎として上洛しけるが、足柄山を起てあひ沢宿に著、前には甲斐源氏、二万余騎にて駿河国に越て東国の勢を待。後には兵衛佐殿、雲霞の如く責上と聞えければ、中間に被取籠ていかゞせんと色を失ひて仰天しければ、家人郎等憑(有朋上P758)なくて思々落失ぬ。景親心弱成て、鎧の一の草摺切落して二所権現に奉り、足柄より北星山と云所に逃籠て息つき居たり。其外石橋の軍に佐殿を射し輩、皆頸を延て参集る。重科の者は忽に切らるべきにて有けれ共、宗徒の大場をすかし出さん為に宣けるは、罪科雖難遁、降人として参る上は咎を行ふに及ばず、但各軍に忠を尽すべし、忠により還て賞あるべしなど御沙汰在て、馬鞍などたびて宥め具し給ひければ、命ばかりは生べきにこそとて、各先陣
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に進みて忠を抽でんと思ひけり。斯しかば大場も終に首を延て参けり。源氏は加様に大勢招集て、足柄山を打越て、伊豆国府に著て三島大明神を伏拝み、木瀬川宿、車返、富士の麓野原中宿、多胡宿、富士川のはた、木の下草の中にみち/\たり。其勢二十万六千余騎とぞ注したる。
S2307 平氏清見関下事
平家は東路に日数を経つゝ、路次の兵召具して、五万余騎にて駿河国清見が関まで責下れり。旅の空の習は、哀を催事多けれ共、此関ことに面白し、実に伝聞しよりも猶興を催す。南と西とを見渡せば、天と海と一にて、高低眼を迷はせり。東と北とに行向(有朋上P759)ば、磯と山と境て、嶮難足をつまだてたり。岩根に寄る白浪は、時さだめなき花なれや、尾上に渡る青嵐も、折しりがほにいと冷。汀に遊鴎鳥、群居て水に戯れ、叢に住虫の音、とり/゛\心を痛しむ。其より沖津、国崎、湯井、蒲原、富士川の西のはた迄責寄たり。此河の有様、水上は信濃より流とかや、此より南へ落たり。渚は大海へ二里ばかり有と云。河の広さ、或一町ばかり或は二町ばかり、水濁て浪高し。流の早事立板に水を懸に似たり。まして雨降水出たらん時は向べきに非ず。東西の河原も遠広に、西の耳には平家赤旗を捧て固め、東の河原には源氏白旗を捧たり。源氏の方よりは、安田冠者義貞先陣に有けるが、時々使者を立て、其へ参べきか、是へ御渡有べき歟、見参何時ぞや、名対面共して、何方よりも忽に寄べき様もなし。かく空く日数をふる、大なる鬱なりとする間に、屋形共を指上て、閑に幔幕引て居たりなどする程に、東国広ければにや、源氏の勢いや/\に付て、勢もの恐しく見ゆ。白旗の風に吹るゝ事は、さゞ浪なんどの
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様にぞ有ける。権亮少将維盛は斎藤別当を召て、抑頼朝が勢の中に、己程の弓勢の者いくら程かある、東国の者なれば案内は知たるらんと問給へば、真盛などをよき者と思召候か、弓は三人張五人張、矢束は弓に似たる事なれば、十四束十五束、あきまを(有朋上P760)挿絵(有朋上P761)挿絵(有朋上P762)かぞへて矢継早し、一矢にて二三人をも射落されば、鎧は二領三領をも射貫候、惣じて英矢射者なし、加様の者、大名一人が中に廿人卅人は候らん、無下の荒郷一所が主にも二人三人は侍るらん、馬は牧の内より心に任て撰取り立飼たれば、早走の曲進退の逸物を、一人して五匹十匹ひかせたり、彼馬乗負せて、朝夕鹿狩狐狩して、山林を家と思て馳習たれば、乗とは知れども落事なし、坂東武者の習にて、父が死ばとて子も引ず、子が討ればとて親も退ず、死ぬるが上を乗越乗越、死生不知に戦ふ、真盛なんどを其に並候へば、物の数にも非ず、御方の兵と申は畿内近国の駈武者なれば、親手負ば、其に事付て一門引つれて子は退、主討れば、郎等はよき次とて兄弟相具して落失ぬ、馬と云は博労馬の、兎角つくろひ飼たれば、京出ばかりこそ首をも少持挙侍りしか、はや乗損じて物の用に難叶、東国の荒手の馬に一当あてられなば、更に立あがるべからず、されば馬と云人と云、西国の者共二十騎三十騎ぞ東国の一騎に当り候はんずる。其に御方の勢は五万余騎、源氏は聞体廿万騎、縦同勢也共、敵対に及ばじ、況四分が一也、大勢に蒐立られなば、彼等は国々の案内者、野山を跼て知らぬ所なし、御方は西国さまの者也、始て来旅なれば、道ばかりこそ覚え候らめ、されば東国の者共が前をきり後に塞りて、中(有朋上P763)に取籠戦候は
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んには、やは一人も遁出べき、ゆゝしき大事に侍り、是に付ても哀とく御下向在て、武蔵相模の勢を靡かして攻下らせ給へと、再三申候し物を、後悔先に立ぬ事なれ共、口惜候者哉、今度の軍、いかにも叶べきとも存ぜず。
S2308 真盛京上附平家逃上事
真盛は大臣殿の御恩山よりも高く、海よりも深く蒙て候、今度いかなる事もあらんには見奉らん事かたし、御暇を給て罷上り、大臣殿見進せ、又こそ帰り参らめとて、一千余騎を引分て京へ上にけり。権亮少将維盛は、むねと東国の案内者に憑み給ける真盛は叶じとて上りぬ。心弱は思はれけれ共、軍兵に力をそへんとて、よし/\真盛がなき所には軍はせぬかとて留り給へり。上総介忠清を先陣に差向給へ共、ためらひて進み戦ふ事なし。維盛は忠清が計に随て進給はず。斯ければ猛思ふ者も少々有けれども、一人かけ出べきならねば、支て待ほどに、南海道西海道の勢は、下るらんなんど申合けるに、月の比も過て闇に成ぬ、互に人のかよふ事なければ、目にのみ見に、御方には付副勢なし。源氏は日にそへ時を遂て雲霞の如くに集る。さはあれ共、此川を何方よりも渡すべき(有朋上P764)様なければ、平家の方には宿々より傾城どもを迎て、帯ときひろげて、歌よみ酒盛して居たり。源氏の方には、明日廿四日に矢合有べしとて内談あり、終夜篝の火をぞ焼たりける。宿々浦々に充満て、沢辺の蛍の飛集たるに似たり。平家の方にも如形篝火を焼、夜も漸深ければ、各寝入て有けるに、夜半ばかりに、富士の沼に群居たりける水鳥の、いくら共なく有けるが、源氏の兵共の、物具
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のざゝめく音、馬の啼声などに驚て立ける羽音のおびたゞしかりけるに驚て、源氏の近付て時を造るぞと心得て、すはや敵の寄たるはと云程こそ有けれ、平家は大将軍を始として、取物も取敢ず、甲冑を忘れ弓箙をおとし、長持皮籠馬鞍共に至まで捨て迷上。親は子をも不知、従者は主をも顧ず、只我先我先にとぞ落たりける。此日比呼集て遊つる遊君ども、或は踏殺或手足踏折られて、跋々泣逃去けり。見逃と云事は昔より申伝たり。其だにも心憂かるべし。是は聞逃也。源氏は角とも不知して、二十四日暁にくつばみをそろへて瀬踏して、時を造て寄たれども、平家の陣には人もなし。其跡を廻て見に忘たる物ども多し。大に恠をなす。若京都にて、源氏の方人の悪事を始たるに依て、馳上たるやらんと云合程に、頭を踏わられて病臥る女一人あり。こはいかにと問へば、此日比是にて遊つるが、過ぬる宵(有朋上P765)まではさりげもなかりつ、寝入て後夜半計に、此殿原騒ぎ周章振迷て立つる時、馬に踏れてかく侍り、其時は水鳥の羽音のおびたゞしく有つると云。源氏の兵申けるは、げにも今夜の鳥の羽音は、常よりも夥しかりつる也、哀聞ならはで、其に驚て敵の時を造るかとて、京家の者共なれば、寝ほれて逃たるよなと笑けり。矢合の討手の使の矢一つだにも不射(いず)して逃上たるいまいましさよ、行末も正にはか/゛\しき事あらじと、京中の上下、安き口にはさゝやきけり。物しれる人の云けるは、勇士臥野帰鴈乱連と云本文あり。されば水鳥の雲に飛散は、敵沼近くあると心得べし、縦其を聞損じて時の音と思とも、矢合してこそ逃め、音は合するにも及ばずして落ぬる事心憂し、
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又小児共の読む百詠と云小文に、鴨集て動ずれば成雷と云事あり、去共其文を読たる人も有けんに、不思出ける口惜さよとて瓜弾をぞしける。又いかなる者か申出したりけん、鳩は八幡大菩薩の使者ぞかし、源氏守護の為に、彼水鳥の中には鳩のあまた交て有りけるとかや。天には口なし人を以ていはせよと云、此事さもやと覚えたり。
S2309 新院自厳島還御附新院恐御起請附落書事(有朋上P766)
十月六日、新院厳島より還御あり。遥々の海路を御舟にて、事故なく還上らせ給ぞ御目出し。源中将通親卿、御前に参て被申けるは、哀面影に立給ふ西海の浪路かな、和光の恵とり/゛\にこそ侍れ、或は深山岩窟に瑞籬をしめて、野獣を導く神明もあり、或は海岸水辺に社壇を並て、淵魚を助る霊応もあり。実に厳島の景気奉拝候ひし思出にこそ侍れ。去にても彼島にては、なに文をあそばし、大相国には給り候しにやと申せば、新院軈てはら/\と御涙を流して、去事有き、彼文かゝずは、朕を捨て上らんと云しかば、源氏に一つ心ならじと、入道が云の儘に、起請を書てたびたりし也。ながらへば見るらめずらん、我は入道にせため殺れんずるぞ、いさ/\為義、義朝が悪事とかやも、みねば不知召、其もやは苟も一天の主に、直に祭文かけとは申行ひけん、是を目ざましと思は、我身の起請にうてて世に有まじきゆゑ也と、泣々さゝやかせ給けり。通親卿も涙ぐみ畏て、其事御歎に及べからず、人の持る物を心の外にすかし取、人をおどして思様の文をかゝせんと仕るをば、乞素圧状と申て政道にも不用、神も仏も捨させ給ふ事にて候ぞ、さやうに申行ふこそ還て其身の咎にて侍れば、
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空恐しく候、何かは御苦み候べきと、忍やかに急度被慰申けり。十一日に、夢野と云所に新しき御所を造て御渡有べき由、入道相国(有朋上P767)被申ければ、法皇御輿に召て御幸あり。左京大夫脩範一人ぞ御伴には候ひける。名もいまいましき楼の御所を出させ給て、尋常の御所に移り入せ御座して御心安も、厳島の御幸の験にやとぞ被思召ける。彼明神と申は安芸国第一の鎮守也。国務の人はまづ此神拝を専にす。入道相国の世に聞え公に仕つりし時は当国守たりき。明神の加護にて加様の事を施す。されば入道の心をば明神ぞ宥給はんと思召取て、新院は二度まで御幸あり、世の末の物語也。知ず我御子孫を、末の世の百王迄も朝家の御主として、御父の法皇に世を政奉り給はば、我御命をめせなど、祈申させ給けるにやと、後には思合せけり。十一月十一日には、五条大納言邦綱卿、郷内裏造出て主上行幸あり。彼大納言は大福長者にて、世の人大事にしけり。懸ければ程なく造進せられたりけれ共、遷幸の儀式は世の常ならずと申けり。十五日東国下向の討手の使、空く帰上て古京に著、軍に向ては、命を失ふとこそ聞に、一人もかけず上られたるこそいみじけれ。逃るをば剛者と云事有とて人皆笑あへり。太政入道殿の門に落書あり、奈良法師の読たりけるとかや。
富士川のせゞの岩越水よりも早くも落るいせ平氏哉 K120
平家と書てはひらやとよむ、家のまろび倒れんずるには、助と云ひて柱の代に大なる木(有朋上P768)を以てさゝへ
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直事あり。平家の大将軍に下給へる権亮少将落ければ、右大将宗盛の騒歎給ふらんと云にそへて、
ひらやなる宗盛いかにさわぐらん柱とたのむ助を落して K121
又源氏推寄たれ共敵もなし。富士川のはたを見れば、物具多捨たる中に、忠清と銘書たる鎧唐櫃一合あり。武者の具をば既に捨ぬ、今は遁世して墨染の衣をきよとも読たり。
富士川に鎧は捨てつ墨染の衣たゞきよのちの世のため K122
と、又上総守といへば、其国の器によそへても読たり。
忠清はにげの馬にや乗つらん懸ぬに落るかづさしりがい K123
入道は是を見彼を聞くに付ても安からず思はれければ、権亮少将をば鬼界が島へ流し失へ、忠清をば首を刎よとぞ嗔り給ひける。
S2310 義経軍陣来事
平家はかく逃上けれ共、源氏は猶浮島原に陣を取て御座しける。爰齢二十余、色白く勢小男の、顔魂眼居指過て見えけるに、郎等廿余騎を相具して、陣前に出来て名乗ける(有朋上P769)は、是は故左馬頭殿の子息、九条曹子常盤が腹に牛若と申侍りしが、後には遮那王とて、京の北山鞍馬寺に有しか共、世中住侘て、奥州に落下て男になり、九郎冠者義経と申者にて侍るが、佐殿一院の御諚を蒙らせ給ひて、平家追討の披露あるに依て、一門の我執を存じ、御力をつけ奉らん為に夜を日に継て馳参つて候、申入
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させ給へと宣ければ、兵衛佐不聞敢涙を流し請じ入給て、いかにや/\去事候らん、頼朝勅勘を蒙りし身なれば、音信難叶候き。平家追討の院宣を下給て後は、他事なく其営の間、急と思ひよらざりつるに、聞敢ず御渡り、嬉しとは事も疎に侍り、昔八幡殿の後三年の合戦の時、弟に兵衛尉義綱は、折節帝王に事候けるが、兄の向後の覚束なさに、御暇を給て罷下べき由奏聞しけれ共、御免なかりければ、陣家に絃袋を懸て逃下て、金沢の館へ参向したりければ、八幡殿殊に悦給て、故頼義朝臣の御座たるとこそ覚ゆれとて、涙を流し給けり。唯今御辺の御渡、ためし少も違はず、故左馬頭殿とこそ奉見候へとて、互に袖を絞り給へば、大名も小名も皆鎧の袖をぬらしけり。兄弟内に鬩外に禦敵とは此言にや。
S2311 頼朝鎌倉入勧賞附平家方人罪科事(有朋上P770)
兵衛佐殿は、其より鎌倉へ帰入て様々事行し給けり。先勧賞有べしとて、遠江をば安田三郎に給ふ。駿河をば一条次郎に給。上総をば介八郎に給ふ。下総をば千葉介に給。其外奉公の忠により、人望の品に随て、国々庄々を分給けり。次に罪科の輩其沙汰あるべしとて、大場三郎景親をば、介八郎預つて誡置たりけるを、縄付引張り御前の大庭へ将参たり。舎兄に懐島平権頭、人手に懸んよりとて申給て切てけり。其子の太郎をば足利又太郎承て切、俣野五郎は難遁身也とて、忍て京へ逃上にけり。海老党に荻野五郎末重は、石橋軍の時源氏の名折に、何に敵に後をば見せ給ぞ、返給返給へと申たり
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し者也、裸になし引張て将参れり。佐殿は、いかに末重、石橋の合戦の時の詞は忘ずやとて、門外にて切られけり。舎弟二人子息一人同切られぬ。加様に首を被刎者六十余とぞ聞えし。
山内滝口三郎同四郎は、廻文の時富士の山とたけくらべ、猫の額の物を鼠の伺定やなんど悪口したりし者也。大庭に被召出たり。佐殿宣けるは、汝が父俊綱并に祖父俊通は、共に平治の乱の時、故殿の御伴に候て討死したりし者也。其子孫とて残留れり。我世を知らば、いかにも糸惜して世にあらせ、祖父親が後世をも弔はせんとこそ深く思ひしに、盛長に逢て種々の悪口を吐、剰景親に同意して頼朝を射し条は、い(有朋上P771)かに、富士の山と長並べと云しか共、世を取事も有けりとて、土肥次郎に仰て、速に首を刎よと下知し給ふ。実平仰に依て引張て出ぬ。暫屋形に置て還参て申けるは、滝口三郎兄弟が事、悪口と申合戦と申、忽に首をはねべけれ共、彼等が親祖父は、御諚の如故殿の御命に替し輩也、愚なる心に思慮なく申たる者にてこそ侍れ、只所帯を召て、命ばかりを生られて彼恩分に報はせ給はば、俊通俊綱が魂魄も悦、故殿の御菩提の御追善ともならせ給なん、追放ち候ばや、命生て侍るとも、謀叛など起べき仁にも候はずと、細々に申ければ、誠左様にも相計ふべしと宣ければ、実平宿所に帰て、事の仔細申含て両人が髻切、出家せさせて追放ちければ、手を合悦て出にけり。
長尾五郎は佐奈田与一が敵也、召出して、与一が父なれば岡崎四郎に給ふ。義実召誡て明日首を刎べきにて有けるが、最後の所作と思入て、終夜法華経を読けり。岡崎人を喚で、経の音するは何者が読ぞ
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と問。囚の長尾五郎也と云。転読功積りたりけるにや、今夜を限と思ひける哀さに、信心を致してよみければ、岡崎肝に銘じて貴く聴聞しける。後朝に佐殿に参て申けるは、長尾五郎今日切べきにて候が、終夜法華経を奉転読、世に貴く覚候き。在俗の身として空によみ覚、あれ程に功を入進せて候ける事、難有覚候、忽に頸をきらん(有朋上P772)事冥衆の照覧其恐あり、縦斬たり共与一再び生かへるべからず、いとゞ罪業の基と成て悪趣に沈候なん、然べくは与一が孝養に追放候侍ばやと相存候、其事難叶候はば、他人に仰て罪せらるべく候と申。佐殿やゝ案じて、与一が敵なれば汝にたびぬ、又其上は何様にも義実が計なるべし、左様に咎を法華経に免し奉らん事誠に神妙なり、汝が痛申さん事を、我亦罪すべからずと仰ければ、岡崎悦て、罷帰て長尾五郎を呼居、御辺は大方に付ても罪科軽からず、義実に於ては与一が敵也、時刻廻らすべからず、可被斬なれども、終夜法華経を読給つれば、佐殿に参て死罪をば申宥候ぬ、御辺に組し与一を殺され、御辺互に然べき善知識にこそ有つらめ、今は出家し給て片山里に閉籠、静に経よみ念仏して、与一が後世を弔てたべとて、即僧を請じ入道せさせて、袈裟衣裁ち著せ、僧の具足ども調たびて免出しけり、岡崎四郎情在とぞ申ける。滝口三郎は父祖の忠に酬て命をいき、長尾五郎は転読の功に依て死を免れたり。刀杖不加毒不能害、今こそ思知られけれ。凡有忠者をば賞し、有罪者をば誅し給ふ。八箇国の大名小名眼前に打随て、四角八方に並居つゝ、非番当番して被守護、其勢四十万余騎とぞ注しける。呉王の姑蘇台に
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在しが如く、始皇が咸陽宮を治しに似たり。靡かぬ草木もなかりけり。今は東国には其(有朋上P773)恐なしとて、十郎蔵人行家、木曾冠者義仲を始として、一性の源氏、一条、安田、逸見、武田、小笠原等を以て、平家追討の談義様々なり。
S2312 祝若宮八幡宮事
兵衛佐殿は、頼朝運を東海に開き、且々天下を手に把る事、所々の霊夢折々の瑞相、併八幡大菩薩の御利生也。都へ上る事は不輙、大菩薩を勧賞し奉べしとて、鎌倉の鶴岡と云所を打開きて、若宮を造営して霊神を祝奉る。社殿金を鏤て、馬場に砂を綺たり。緋の玉垣照光、翠の松風影冷し。祭礼四季に懈らず、神女日夜に再拝せり。其外堂塔僧坊繁昌し、供仏施僧不断なり。入道相国是を聞給ひては、いとゞ不安ぞ思はれける。(有朋上P774)