『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十六

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濃巻 第二十六 
S2601木曾謀叛事
信濃国安曇郡に、木曾と云山里あり。彼所の住人に、木曾冠者義仲と云は、故六条判官為義が孫、帯刀先生義賢には二男也。義仲爰に居住しける事は、父義賢は、武蔵国多胡郡の住人、秩父二郎大夫重澄が養子也。義賢武蔵国比企郡へ通りけるを、去久寿二年二月に、左馬頭義朝が嫡男悪源太義平、相模国大倉の口にて討てけり。義賢は義平には叔父なれば、木曾と悪源太とは従父兄弟也。父が討れける時は、木曾は二歳、名をば駒王丸と云。悪源太は義賢を討て京上しけるが、畠山庄司重能に云置けるは、駒王をも尋出して必害すべし、生残りては、後悪るべしと。重能慥に承ぬとは云たりけれ共、いかゞ二(有朋下P002)歳の子に刀をば振べき、不便也と思ひて、折節斎藤別当真盛が、武蔵へ下たりけるを悦て、駒王丸を母にいだかせて、是養給へと云やりたりければ、真盛請取て、七箇日おきて、案じけるは、東国と云は皆源氏の家人也、憖に養置て、討れたらんも無憑甲斐、討せじとせんも身の煩たるべし、兎も角も難叶と思て、木曾は山深き所也、中三権頭は世にある者也、隠し養て、人と成たらば、主とも憑めかしとて、母に懐かせて、信濃国へ送遣す。斎藤別当情あり。母懐に抱へて、泣々信濃へ逃越て、木曾中三権頭に見参して、懐出して云様は、我女の身也、甲斐甲斐敷養立とも覚えず、深く
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和殿を憑也、養立て神あらば子にもし、百に一も世にある事もあらば、かこちぐさにもし候へ、悪くば従者にも仕ひ候へと云。兼遠哀と思ひける上、此人は正く八幡殿には四代の御孫也、世中の淵は瀬となる喩あり、今こそ孤子にて御座とも、不知世の末には、日本国の武家の主とも成やし給はん、如何様にも養立て、北陸道の大将軍になし奉て、世にあらんと思ふ心有ければ、憑もしく請取て、木曾の山下と云所に隠し置て、二十余年が間育み養けり。然べき事にや、弓矢を取て人に勝れ、心甲に馬に乗て、能、保元平治に源氏悉く亡ぬと聞えしかば、木曾七八歳のをさな心に不安思て、哀平家を討失て、世を取ばやと思ふ心あり。(有朋下P003)馬を馳弓を射も、是は平家を責べき手習とぞ、あてがひける。長大の後、兼遠に云けるは、我は孤也けるを、和殿の育に依て、成人せり、懸るたよりなき身に、思立べき事ならね共、八幡殿の後胤として、一門の宿敵を、徐に見るべきに非ず、平家を誅して、世に立ばやと存ず、いかゞ有べきと問。兼遠ほくそ咲て、殿を今まで奉育本意、偏に其事にあり、憚候事なかれと云ければ、其後は木曾、種々の謀を思ひ廻して、京都へも度々忍上て伺けり。片山陰に隠れ居て、人にもはか/゛\しく不見知ければ、常は六波羅辺にたゝずみ伺けれ共、平家の運不尽ける程は、本意を不遂けるに、高倉宮の令旨を給りけるより、今は憚るに及ばず、色に顕て謀叛を発し、国中の兵を駈従へて、既に千余騎に及べりと聞ゆ。木曾と云所は、究竟の城郭也。長山遥に連て、禽獣猶希に、大河漲下て、人跡又幽也。谷深く梯危くしては、足を■て歩み、峰高く巌稠しては、
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眼を載て行く。尾を越え尾に向て心を摧、谷を出で谷に入て思ひを費。東は信濃、上野、武蔵、相模に通て奥広く、南は美濃国に境、道一にして口狭し。行程三日の深山也。縦数千万騎を以ても責落すべき様なし、況桟梯引落して、楯籠らば、馬も人も通ふべき所に非。義仲爰に居住して謀叛を起し、責上て、平家を亡すべしと聞えければ、木曾は信濃にとりても(有朋下P004)南の端、都も無下に近ければ、こはいかゞせんと上下騒けり。
S2602 兼遠起請事
平家大に驚き、中三権頭を召上て、如何に兼遠は木曾冠者義仲を扶持し置き、謀叛を起し、朝家を乱らんとは企つなるぞ、速に義仲を搦進すべし、命を背かば汝が首を刎らるべしと、被下知ければ、兼遠陳じ申て云、此条且被聞召候けん、義仲が父、帯刀先生義賢は、去久寿の比、相模国大倉の口にて、甥の悪源太義平に被討侍き、義仲其時は二歳になりけるを、恩愛の道の哀さは、母悪源太に恐て、懐に入ていかゞせんと歎申しかば、一旦哀に覚えて、請取て、今まで孚置て侍れ共、謀叛の事努々虚事也、人の讒言などに候か、但御諚の上は、身の暇を給て国に下、子息共に心を入て可搦進と申。右大将家重て仰には、身の暇を給はんと思はば、義仲を可搦進之由、起請文を書進べし、不然者、子息家人等に仰て、義仲を搦進せん時、本国に可返下也と有ければ、兼遠思ひけるは、起請をかゝでは難遁、書ては年来の本意空かるべし、いかゞすべきと案じけるが、縦命は亡とも、義仲が世を知んこそ大切なれ、其上心より起て書起請ならず、(有朋下P005)神明よも悪しとおぼしめさじ、加様の事をこそ乞索圧状とて、神も仏も免され候なれと思成て、熊野の午王の裏に、起請文を
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書進す。其状に云。
謹請再拝再拝
  早依有謀叛企、可搦進木曾冠者義仲由、起請文事
右上奉始梵天帝釈、四大天王、日月三光、七耀九星、二十八宿、下内海、外海、竜神八部、竪牢地祇、冥官冥衆、日本国中、七道諸国、大小諸神、鎮守王城、諸大明神、驚申而白、木曾冠者義仲者、為六孫王之苗裔、継八幡殿後胤弓馬之家也、武芸之器也、依之被引源家之執心、為謝宿祖之怨念、相語北陸諸国之凶党、擬滅平家一族之忠臣之由、有其聞、甚以濫吹也、早仰養父中三権頭兼遠而可搦進彼義仲云云、謹蒙厳命畢、任被仰下之旨、速可搦進義仲、若偽申者、上件之神祇冥衆之罰於、兼遠之八万四千之毛孔仁蒙天、現世当来、永神明仏陀之利益仁可奉漏之起請状如件。
     治承五年正月  日               中原兼遠
とぞ書たりける。依之平家憑もしく思はれければ、中三権頭を被返下。兼遠国に下て思ひ(有朋下P006)けるは、起請文は書つ、冥の照覧恐あり、又起請に恐れば日比の本意無代なるべし、いかゞせんと案じけるが、責も義仲を世に立んと思ふ心の深かりければ、本望をも遂、起請にも背かぬ様に、当国の住人に根井滋野行親と云者を招寄せて云ひけるは、此木曾殿をば、幼少二歳の時より懐育み奉て、世に立候はん事を
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のみ深く存侍き、成人の今に、高倉宮の令旨を給て、平家を亡さんとする処に、兼遠を召上て、乞索圧状の起請文を被召畢ぬ、此事黙止せん条本意に非ず、されば木曾殿を和殿に奉らん、子息共は定て参侍べし、心を一にして平家を討亡て、世におはせよとてとらせける志こそ恐しけれ。行親木曾を請取て、異計を当国隣国に回し、軍兵を木曾の山下に集けり。懸りければ、故帯刀先生義賢の好にて、上野国の勇士、足利の一族已下、皆木曾に相従、平家を亡さんとひしめきけり。平家此事を聞て沙汰有りけるは、越後国住人城太郎資永は、当家大恩の身として多勢の者也、縦木曾信濃国の兵を相語と云共、資永が勢に並べんに、十分之一に及べからず、只今討て進らせなん、あながちに驚騒べからずとは云けれ共、東国の背だにも浅増きに、北国さへ懸ければ、直事に非ずと申あへり。(有朋下P007)
S2603 尾張国目代早馬事
二十四日亥刻に、尾張国目代、早馬を立たりとて六波羅ひしめく。平家の一門馳集て是を聞に、熊野の新宮の十郎蔵人行家、東国の源氏等を催して、数千騎の軍兵を引率して、既に当国に打入間、国中の土民不安堵、是より美濃近江を相従て、都へ可責上由披露あり、急ぎ討手を被下べし、又御用心あるべしとぞ申たる。六波羅には此事聞て、こはいかゞせんと、只今敵の都へ打入たる様に、資財雑物東西に運隠し、鎧腹巻太刀刀馬よ鞍よとひしめきければ、京中の貴賎途を失て為方なし。去程に、武士の人の家々に走入て、目に見ゆる物を奪取ければ、易き人更になし。
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廿五日、前右大将宗盛卿、近江国の惣官に被補、天平三年の例とぞ聞えし。
S2604 平家東国発向附大臣家尊勝陀羅尼事
二月一日、征東大将軍左兵衛督知盛卿、中宮亮通盛朝臣、左少将清経、薩摩守忠度、侍には、尾張守実康、伊勢守景綱、以上三千余騎にて東国へ発向す。今日東塞、時日(有朋下P008)こそ多きに、いかゞ有べきと申者も有けれ共、今一日も源氏に勢の付増ぬさきにとて角急ぎ給けり。粟田口、山階、関山、関寺、粟津原、勢多長橋打渡、今日は野路にぞ著給ふ。二日は野州の河瀬を打渡し、篠原、堤鳴橋、鏡宿にぞ著にける。爰に両三日逗留して、近江国の源氏等、山本、柏木、錦織、佐々木の一族打従へて美濃国赤坂に著。当国の凶徒等打従て、五千余騎にて尾張国墨俣川に著と聞えけり。十郎蔵人行家は、美濃国板倉と云所に楯籠たりけるを、平家推寄て、後の山より火を懸て責ければ、行家爰を被落て、同国中原と云所に陣を取、其勢千余騎には不過けり。同七日大臣已下の家々にて、尊勝陀羅尼不動明王を可奉書供養之由被仰下、兵乱の御祈とぞ聞えし。此外諸寺の御読経、諸社の奉弊、大法秘法数を尽て被行けれ共、源氏は唯責に攻上ると聞えて、平家の祈祷其験有とも不見。理や万乗の聖主を奉悩、諸寺の仏法を亡しぬれば、冥の罰、天の責、争か遁べき、兎にも角にも、唯人苦きより外の事なしとぞ申ける。
S2605 義基法師首渡事
同九日、武蔵権頭源氏義基法師が首、同子息石川判官代義兼生捕、検非違使実俊判官、七条川原(有朋下P009)にて武士の手より請取て、東洞院の大路を渡して、頭をば獄門の左の樗木に懸、虜をば被禁獄。馬車街衢に
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充満て、見人幾千万と云事を知ず。此義基法師と云は、故陸奥守義家が孫、五郎兵衛尉義光子、河内国石川郡の住人也。兵衛佐頼朝に同意の聞え有て、骸を獄門に被掛けり。今高倉院崩御、諒闇の年に首を被渡事、如何が有べきと沙汰有けれ共、諒闇の年賊衆の首を被渡事、去嘉承二年七月十九日、堀川天皇隠れさせ給ひしに、同三年正月廿九日に、対馬守源義親〈 義家一男 〉頸を被渡例とぞ聞えし。
S2606 知盛所労上洛事
同十二日に、征東将軍左兵衛督知盛卿、所労重て墨俣より上洛す。是は近江国小野宿を立、醒井に著給ひける時、比良高根の残雪、余寒烈き折節に、伊吹岳の山おろし、身に入かと覚えけるより、心地例ならずとて、道すがら労て、是までは下給たれ共、如何にも難叶して被上ければ、副将軍の左少将清経朝臣も、同被入洛けり。其外の人々は猶美濃国に留る。討手の使は度々被下けれ共、はかばかしき事もなくて、角のみ帰上ければ、東国にも北国にも、日に随て大勢付増と披露しければ、浅猿き事也とて、右大将(有朋下P010)宗盛、今度は我下らんと宣ければ、君の御下向あらば、東国も北国も誰かは可違背、ゆゝしく候なんと上下色代して、我も/\と出立ける上、或は武官に備、或弓馬に携らん輩、宗盛の下知に随て、東夷北狄を追討すべきの由、被宣下ければ、面々其用意あり。
S2607 宇佐公通脚力附伊予国飛脚事
同十三日、宇佐大郡司公通が脚力とて六波羅に著状を披に云、九国住人菊地次郎高直、原田大夫種直、緒方三郎惟義、臼杵、部槻、松浦党を始として、併謀叛を発し、東国の頼朝に与力して、西府
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の下知に不随と申たり。平家の人々手を打て、こはいかなるべきぞ、東国の乱をこそ歎て、西国は手武者なれば、催上て官兵に差遣さんと思ひつるに、承平に将門天慶に純友、東西に鼻を並て乱逆せしに、少も不違事かなとて騒ぎ迷ひ給へば、肥後守貞能、是は僻事にてぞ候らん、加様の時は虚言多き事也、東国北国の輩は、誠に義仲頼朝に相従ふ事も侍るらん、西海の奴原は平家大御恩者共也、争か君をば背進すべき、貞能罷下て、誡鎮侍るべしと、憑もしげにぞ申ける。
同十六日に、近江(有朋下P011)美濃両国の凶賊等が首、七条川原にて武士の手より検非違使請取て大路を渡し、東西の獄門に被懸ければ、近国の勇士等、皆平家に随と聞えけり。
同十七日、伊予国より飛脚ありて六波羅に著。披状云、当国の住人河野介通清、去年の冬の比より謀叛を発て道前道後の境、高縄の城に引籠る、備後国住人額入道西寂、鞆の浦より数千艘の兵船を調て、高縄城に推寄、通清をば討取て侍しか共、四国猶不静、西寂又伊予、讃岐、阿波、土佐、四箇国を鎮が為に、正二月は猶伊予に逗留す。爰に通清が子息に四郎通信、高縄城を遁出て安芸国へ渡て、奴田郷より三十艘の兵船を調へ、猟船の体にもてなし、忍て伊予国へ押渡、偸に西寂を伺けるをも不知、今月一日、室高砂の遊君集て船遊する処に、推寄て西寂を虜りて、高縄城に将行て八付にして、父通清が亡魂に祭たり共申。又鋸にてなぶり切に頸を切たり共申。異説雖口多、死亡決定也、依之当国には、新井武智が一族、皆河野に相従。惣じて四国住人、悉く東国に与力して、平家を奉
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背と申たり。又聞えけるは、熊野別当、田部法印堪増已下、那智新宮の衆徒、吉野十津川の輩に至まで、併背花洛東夷に属する由披露あり。東国北国のみに非ず、南海西海も騒動せり、仏法忽に亡ぬ、王法なきが如し、四夷蜂の如くに起けり、逆乱の瑞相頻(有朋下P012)也、我朝只今失なんとす、こは心憂事かなと、平家一門ならぬ貴賎までも、各歎申けり。
同十七日、太政入道、子息前右大将宗盛を以て被奏ける、天下の御事、如本可被聞召之由、法住寺の御所に申入候けれ共、法皇は政務に口入すればこそ心憂事も辛目をも見聞すれ、よしなしとて聞召入させ給はざりければ、底いぶせくぞ思ひ給ひける。
同十九日、東国北国の賊衆、頼朝義仲与力同心の凶徒等可征伐之由、宣旨を以て、越後国住人余五将軍が末葉、城太郎平資永と、陸奥国住人藤原秀衡と、此両人が本へ被下遣けり。
S2608 入道得病附平家可亡夢事
同二十七日に、前右大将宗盛、数万騎の勢を引率して、頼朝以下の凶徒を追討の為に、関東へ下給ふべきにて出立給ひける程に、太政入道不例心地出来給へりとて留り給ひぬ。二十八日に、入道重病を受給たりとて、六波羅京中物騒し。馬車馳違、僧も俗も往還、種々の祈祷を被始、家々の医師薬を勧めけれ共、病付給ける日よりして、湯水をだにも喉へも入給はず、身の中の燃焦ける事は、火に入が如し。臥給へる二三間へは人近付(有朋下P013)よる事なし。余にあつく難堪かりければ也。叫び給ひける言とては、只あた/\と計也。此声門外まで響ておびたゞし。直事とも不覚、貴も賤も、あはしつるぞ
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や、さ見つる事よ/\とぞ申ける。今度もし存命あらば、如何に本意なかりなんと云者も、内々は有けるとかや。又人の私語けるは、哀同は今度存命して、東国北国の源氏に被責殺給はんを見ばやなんどと云ける也。よく人には悪まれ給たりけるにこそ、され共偕老の眤、骨肉の情なれば、二位殿を奉始て、公達兄弟に至るまで、大に歎給ひけれ共、如何にすべき様もなければ、唯あきれてぞ御座ける。牛馬の類金銀の宝、七珍六畜引出し取運び、神社仏寺に抛けれ共、重くは成て少も験なし、誠に難遁定業とぞ見えける。
養和元年〈 改元七月十四日也 〉、閏二月二日、熱く難堪おぼしけれ共、二位殿枕の本に居寄給て、泣々宣けるは、御労日々に随て、憑み少なく見え給ふ。神に祈仏に申事も不斜、立ぬ願もなけれ共、いかにも可叶とも覚えず。今は偏に万の事を思ひ捨給ひて、後の世の事を助からんと思召せ、又御心に懸る事あらば、被仰置候へと宣へば、入道よに苦気にて大息つき、我平治元年より以来、天下を手に把て万事心の儘也、諍者もなく、憚処もなし、適背輩あれば、時日を不回亡し失しかば、草木も我に靡かずと云事なし、(有朋下P014)挿絵(有朋下P015)挿絵(有朋下P016)角て既に二十三年、就中官位太政大臣に上りて、十善万乗の帝祖たり、子孫兄弟栄花を開て、同当今の御外戚也、官職福禄何事かは心に不叶事ありし、生ある者は必死する習なれば、入道一人始て驚べき事ならず、但遺恨の事とては、頼朝が首を不見して死る計こそ口惜けれ、冥途の旅も安く過ぬとも覚えず、我いかにも成なば、堂塔をも不可造、仏経をも供養せず、唯頼朝が頸を切て、
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墓の上に掛よ、其のみぞ孝養の報恩ともなり、草の陰にても嬉しとは思はんずる、されば我を我と思はん者共は、子孫も侍も聞伝て、心を一つにして努々懈る事なかれとぞ遺言し給ひける。二位殿も公達も、いとゞ罪深く聞給ふ。四日、入道弥病に責伏られ給へり。燃焦て難堪と宣ければ、百人の夫を立て、追続々々、比叡山の千手院より水を結び下して、石の船に湛て、入道其中に入て冷給けるに、水は涌返りて湯になれ共、更に苦痛は止ざりけり。後には板に水を任せて、伏まろびて冷給へ共、猶助かる心地し給はず、療治も術道も験を失、仏神の祈誓も空が如し。終に七箇日と申に、悶絶僻地して、周章死に失給き。馬車馳違貴賎■騒て、京中六波羅塵灰を立たり。一天の君の御事也共、隠しもや有べき。夥しなど云も不斜。
入道今年は六十四に成給ふ。老死と云べきには非ず、七八十までも生人有ぞかし。され共宿運(有朋下P017)忽に尽、天の責難遁して、立る願も空く祈る験もなし。身に代り命に代らんと契ける数万騎の兵も、冥途無常の責をば難防。閻王奪魂の使には戦者もなし。父母、兄弟、及妻子、朋友、僮僕、並珍宝死、去無二来、相親唯有黒業、常随逐と説れたり。冥々たる旅の道、峨々たる剣の山、妻子眷属振捨、只一人こそ迷らめ。金銅十六丈の盧遮那仏を奉始て、南北二京の大伽藍、顕密大小の諸聖教、焼失し其故に、角亡給ひけり。後の世の苦患も、思ひやられて無慙なり。
入道明日病つき給はんとての夜、其内の女房の夢に見けるは、立ふぢ打たる八葉の車に、炎夥く燃
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上中に、無と云字只一つ書たる鉄の札あり。青鬼と赤鬼と先に立て、彼車を福原の入道の宿所の東の門へ引入たり。女房の夢の心地に、あれはいくとこより、何事に来れる者ぞと問へば、鬼答て云、我等は閻魔大王の御使に獄卒と云者也。聖武皇帝御願、日本第一の大伽藍、金銅十六丈の盧遮那仏焼亡し給へる咎に、太政入道迎取べき火車也と申。女房恐し浅増と思ひながら、さてあの鉄の札に、無と云文字書たるは何事ぞと問へば、鬼答て云、入道仏像経巻を焼失て、既五逆罪を犯せり、永く阿鼻大地獄に墜て無間の重苦を受べき、無間の無の験の札也と申と見て覚にけり。さめて後も猶夢の心地せり。偏身に熱き汗流れてうつゝ(有朋下P018)心なし、恐しなどは疎也。かたへの女房一両人にぞ語ける。其後彼女房、心地例ならずとて、日比悩て二七日と云ふに死にけり。
又奈良坂に火懸たりし播磨国福井庄の下司俊方は、南都の軍果て都に上り、三箇日が中に、炎身を責と叫て死にけり。入道の病に少も不替けり。
正月には、高倉院隠れさせ給て、一天の愁九重の歎いまだ晴ず。悪事は去事なれ共、僅に中一月を阻て入道薨給へり。生者必滅の理り、打連き哀也。
同七日六波羅にて焼上奉る。骨をば円実法橋頸に掛て福原へ下て納けり。さしも執し思はれし所なれば、亡魂も悦給へかしとて、角計ひけるにこそ。
S2609 御所侍酒盛事
七日入道焼上奉りける夜、六波羅の南にありて舞躍る者あり。嬉しや水鳴滝の水と云拍子を出し
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て、二三十人が音して拍子をとり喚叫、はと笑、どと笑などしけり。高倉院隠させ給ひて天下諒闇也。御中陰も未はれさせ給はぬに、又太政入道失給ぬ。而も今夜已に六波羅にて火葬の最中に、懸る音のしければ、人倫の態とは覚えず、天狗などの所行にやと思ひける程に、法住寺殿の御所侍、東の釣殿に人を集めて酒飲けるが、酔狂て(有朋下P019)角舞踊りける也。主馬入道盛国が子に、越中前司盛俊行向て、御所預基宗に相尋ければ、御所侍が結構也と申間、盛俊御所侍二人を搦捕て、前右大将の許へ将て参て、子細を被召問。答けるは、相知て候者あまた出来て、世中の墓なき事、今に始めぬ事なれ共、天下の重しにて御座しつる入道殿の隠れさせ給ぬる哀さよと、互に歎き訪進せつる間、聊酒を儲て、忍やかにすゝめ侍つる程に、酒の習、後には物狂しき心出来てしか/゛\と申ければ、入道の弔、当座の会釈と覚えたり。如是輩中々兎角云に及ばずとて被追放けり。縦酔たり共、此折節には角やは有べき、天狗の所為にこそ不思議也。抑人の死する跡には、浅増き賤男賤女までも、程々に随香花燈明を備へ、例時懺法行て、亡魂の菩提を弔ふは尋常の事ぞかし。是は仏経供養の作法もなく、供仏施僧の営なし。さこそ遺言ならんからに、うたてかりし事也。
S2610 蓬壺焼失事
六日八条殿も焼ぬ。此所をば八条殿の蓬壺とぞ申ける。蓬壺とはよもぎがつぼと書けり。入道蓬を愛して、坪の内を一しつらひて蓬を植、朝夕是を見給へ共、猶不飽足ぞおぼし(有朋下P020)ける。されば不斜造り瑩れて、殊に執し思ひ給ければ、常は此蓬壺にぞ御座ける。人の家焼は習なれ共、折節こそあれ、如何なる者の付たりけるやらん、放火
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とぞ聞えける。八条の亭には、謀叛輩打入て火を懸たりと云ければ、京中地を返し、上下心を迷す事夥し。実ならばいかゞせん、何者が云出したりけるやらん、虚言にぞ在ける。よし天狗もあれ、悪霊も強して、平家の運の尽なんずるにこそと覚えたれ。
S2611 馬尾鼠巣例并福原怪異事
此入道の世の末に成て、家に様々のさとし有き。坪の内に秘蔵して立飼れける馬の尾に鼠の巣を食て、子を生たりけるぞ不思議なる。舎人数多付て、朝夕に撫仏ける馬の、一夜の中に巣を食、子を生けるも難有。入道相国大に驚給ふに、陰陽頭安部泰親被尋問ければ、占文のさす処、重き慎とばかり申て、其故をば不申けり。内々人に語けるは、平家滅亡の瑞相既に顕たり、近くは入道の薨去、遠は平家都に安堵すべからず、如何にと云に、子は北の方也、馬は南の方也、鼠上るまじき上に昇る、馬侵るまじき鼠に巣を作らせ、子を生せたり、既に下尅上せり、されば子の北の方より夷競上りて、馬の南の(有朋下P021)方におはする平家の卿上を、都の外に追落すべき瑞相とこそ申けれ。され共入道の威に恐て只重き御慎と計申たりければ、まづ陰陽師七人まで様々祓せられけり。又諸寺諸山にして御祈共始行あり。件馬は、相模国住人大場三郎景親が、東八箇国第一の馬とて進たり。黒き馬の太逞が、額月の大さ白かりければ、名をば望月とぞ申ける。秘蔵せられたりけれ共、重き慎と云恐しさに、此馬をば泰親にぞ給びける。
 < 昔天智天皇元年壬戌四月に、寮の御馬の尾に、鼠巣を造子を生けり。御占あり、重き慎と申けり。さればにや世の騒も不斜、御門も程なく隠させ給ひにけり。日本記に見えたり。
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異国には前漢の成帝の御宇、建始三年九月に、長安城の南に木あり、鼠彼木に登て巣をくひ子を生き。さればにや、成帝程なく亡給にけり。思寄ざる処に、鼠の巣くひ子生事は、其家の可亡怪異也。>
又入道福原に御座ける時、常の御所と名付たる坪の内を、まだ朝に見出して御座しければ、人の首の、いくらと云数もしらず充満、上になり下に成、ころび合ころびのきしけるを怪と思ひて見給ひければ、後にはあまたの首が唯一つに固て、坪にはゞかる程の大頸にて、長三尺計なる眼の四五十有て、而も逆なるを以て、入道をはたと睨たり。入道も亦面を振ず、二の眼を以て一時がほど、目たゝきもせず、睨給ひけれ(有朋下P022)ば、余に守られて、其首次第々々に少成て、霜雪の消失が如く成ぬれば、又一丈計の長に、少首に成て細目にて睨時も有けり。去共終には入道に睨失はれけり。推するに、保元平治の逆乱に討れし死霊の所為とぞ覚えたる。
又五葉の松を坪の内に植生立、朝夕愛し給けるが、片時の間に枯れにけるこそ不思議の中の不思議なれ。又入道の禿とて、髪を眉まはりより切たる童を、三百人まで召仕給ひける中に、天狗交りて常に大木を倒す音しければ、夜六人昼六人の兵士を居て、蟇目の番とて射させらるゝ。天狗のある方へ射遣たる時は音もせず、なき方を射たるには、時を造る様にとゞめき叫び笑ひけり。恐しと云も疎也。常には苔むして、ぬれ/\とある大なる飛礫を以て、若は庭上若は簾中などへ抛入けり。懸るさとし共も多して、入道最後の有様も尋常ならず、うたてくぞ終り給ひける。去共直人におはせざりけるや
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らん、神祇を敬ひ仏法を崇給し事も、人には勝れ給へり。
S2612 入道非直人附慈心坊得閻魔請事
一年日吉社へ被参けるにも、上達部殿上人、数多遣連などして、一の人の賀茂春日など(有朋下P023)へ御参詣あらんも、加程の事はあらじとぞ覚えし。社頭にして、千人の持経者を請じて供養あり。社々に神馬を引れ、色々の神宝を奉らる。七社権現納受して、緋玉墻色を添、一乗読誦の音澄て、和光の影も長閑也。ゆゝしく目出かりし事共也。
又福原の経島築れたりし事、直人のわざとは覚えず。彼島をば、阿波民部大輔成良が承て、承安二年〈 癸巳 〉歳築初たりしを、次年南風忽に起て白浪頻に扣かば、打破られたりけるを、入道倩此事を案じて、人力及難し、海竜王を可奉宥とて、白馬に白鞍を置、童を一人乗て、人柱をぞ被入ける。其上又法施を手向可奉とて、石面に一切経を書写して、其石を以て築たりけり。誠に竜神納受有けるにや、其後は恙なし。さてこそ此島をば経島とは名付たれ。上下往来の船の恐なく、国家の御宝、末代の規模也。唐国の帝王まで聞え給つゝ、日本輪田の平親王と呼て、諸の珍宝を被送。帝皇へだにも不参に、難有面目なりき。
又福原にて、千僧供養あり。京中辺土、畿内近国を云ず、聞及挙し申に随て、貴き持経者千人を請じて、一千部の法華経を転読して、大法会を行給けり。僧供の営み施物の煩、忠を尽し美を調へたり。其上聴聞集来の人、乞丐非人の族までも、大施行をぞ被引ける。信心の至りと申ながら、
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実の大功徳と覚えたり。殆権化の所為と云つべし。
 摂津(有朋下P024)国清澄寺に、慈心坊とて貴き法華の持経者有き。去承安二年十二月廿二日に、閻魔王宮より浄衣装束の雑色を使にて、請書を送らるゝ状に云、
   屈請 十万人持経者内
 摂津国清澄寺住僧尊恵慈心坊
 右来廿六日早旦、閻魔羅城大極殿、可被来集、依宣旨、屈請如件。
     承安二年〈 壬辰 〉十二月廿二日、〈 丙辰丑時 〉閻魔庁と被書たり。尊恵閻書披見の後、領状の返事して、偏に死去の思ひをなし、口に弥陀の名号を唱へ、心に引摂の悲願を念ず。既に廿六日に至て、睡眠に被催て住房に臥す。前の雑色出来て早参せよとすゝむ。時に二人の童子、二人の従僧、十人の下僧、七宝の大車化現して、尊恵自然の法衣身に纏へり。即車にのれば、従僧等西北方に向て、空を飛で閻魔羅城に至る。外廊眇々として其内広々也。其中央に七宝所成の大極殿あり。大極殿の四面、中門の廊に、各十人の冥官有て、十万人の持経者を配分して、各一面に著座せしむ。講師読師高座に上り、余僧法用して十万人大行道す。行道已後、開白説法して十万僧読経す。其声冥界に充満て、其益罪垢を洗ぬべし。大王玉座に坐し、冥衆階下に(有朋下P025)列して聴聞あり。獄囚は湯鑵を出て、罪人伽鎖をゆるされたり。転読既に終て十万僧供養をのぶ。供養又終て諸僧本国に帰る。
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慈心坊千部の法華を冥衆に勧進の為に、暫残留て閻魔王と問答の次に申しけるは、日本の将軍、太政入臣入道清盛、摂津国和田御崎にして、千僧の持経者を請じて丁寧の読経説法侍りき。殆今日の十万僧会の如くなりきと奏したりければ、閻魔王随喜感悦して言く、我彼千僧読経の時は、影向衆として聴聞しき。清盛入道は直人に非ず、慈恵僧正の化身也。故に我毎日に三度文を誦して礼を作云、
  敬礼慈恵大僧正 天台仏法擁護者 示現最勝将軍身 悪業衆生同利益 K135 
汝此文を以て、彼相国入道に可進とぞ宣ける。今案ずるに、慈恵僧正は観音の垂跡也。されば大権の化現方便を廻し、実業の衆生を利益せん為に、造罪招苦の旨を示し、盛者必衰の理を顕し給にやと覚えたり。
S2613 祇園女御事
古人の申けるは、清盛は忠盛が子には非、白川院【*白河院】の御子也。其故は、彼帝感神院を信じ御座て、常に御幸ぞ有ける。或時祇園の西大門の大路に、小家の女の怪が、水汲桶を戴(有朋下P026)て、麻の狭衣のつまを挙つゝ、幹に桶を居置て御幸を奉拝。帝御目に懸る御事有ければ、還御の後、彼女を宮中に被召て、常に玉体に近づき進せけり。祇園社の巽に当て、御所を造て被居たり。公卿殿上人、重き人に奉思て、祇園女御とぞ申ける。角て年比を経る程に、小夜深人定て御つれ/゛\に思召出させ給て、祇園の女御へ御幸あり。忍の御幸の習にて、供奉の人々も数少し。忠盛北面にて御供あり。比は五月
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廿日余の事なれば、大方の空もいぶせきに、五月雨時々かきくらし、暁懸たる月影も、未雲井に不出けり。最御心細き折節に、祇園林の南門、鳥居の芝草の西に当て、光物こそ見えたりけれ。或時はざとひかり、光ては消、消ては又ざと光、光に付て其姿を叡覧あれば、頭は、銀の針の如くにきらめきたる髪生下生上れり。右の手には鎚の様なる物を持、左の手には光物を持て、とばかり有てはざと光、暫く有ては、ばと光、院も御心を迷し、供奉の人々も魂を消て、是は疑もなき鬼にこそ、手に持たる物は聞ゆる打出の小鎚なめり、髪の生様穴恐し/\とて、御車を大路に止て忠盛を召る。忠盛御前に参たり。あの光物を取て進せよと勅定あり。忠盛は、弓矢取身の運の尽とは加様の事にや、よそに見るだに肝魂を消鬼を手取にせん事難叶、身近く寄て取はづしなば、只今鬼に嚼食ん事疑(有朋下P027)なし。遠矢にまれ射殺さんと思て、矢をはげ弓を引けるが、指はづして案じけるは、縦鬼神にもあれ、勅定限あり、王事無脆、宣旨の下に資くべきに非ず、況よも実の鬼にはあらじ、祇園林の古狐などが、夜更て人を誑にこそ在らめ、無念にいかゞ射殺べき、近づき寄て伺はんと思返して、青狩衣に上くゝり、下に萌黄の腹巻に、細身造の太刀帯て、葦毛の馬にぞ乗たりける。駒をはやめて歩より、太刀を脱て額に当て、次第々々に伺寄る処に、足本近く馬の前にぞざと光。忠盛馬より飛下、太刀をば捨て得たりやおうとぞ懐たる。手捕にとられて、御誤候なと云音を聞ば人也。己は何者ぞと問へば、是は当社の承仕法師にて侍が、御幸ならせ給の由承候間、社頭に御燈進せんとて
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参也と答。続松を出して見れば実に七十計の法師也。雨降ければ、頭には小麦の藁を戴、右の手に小瓶を持て、左の手〔に〕土器に■を入て持て、■をけさじと吹時はざと光、光時は小麦の藁が耀合て、銀の針の如くに見えける也。事の様一々に顕て、さしも懼恐れつる心に、いつの間にか替けん、今は皆咲つぼの会也けり。是を若切も殺射も殺たらば不便の事ならまし。弓矢取身は流石思慮ありとて、忠盛御感に預る。今蓮華院と申は、彼祇園女御の御所の跡也けり。(有朋下P028)
S2614 忠盛婦人事
又忠盛、殿上の御番勤けるに、小夜深て高燈台の火の夙暗程に、一人の女房忍て殿上口を通りけり。忠盛暫く袖を引へたり。女咎めずして一首をよむ。
  おぼつかな誰杣山の人ぞとよこのくれにひく主をしらずや K136
忠盛こは如何にと思ひて返事、
  雲間より忠盛きぬる月なればおぼろげにてはいはじとぞ思ふ K137
と申て、其後女の袖をはづす。此女房と申は、兵衛佐の局とて、美形厳く心の情深かりければ、白川院【*白河院】の類なく被思召ける上搶蘭[也。御前の召によりて参ける折節、忠盛争か知べきなれば袖を引へたりけり。女房御前に参て角と被申たり。さては忠盛にこそとて明旦被召たり。召に依て御前に参ず。勅定に、今夜朕が許へ参る女の袖を引へたりけるなん御尋あり。忠盛こは浅増と色を失て、面を地に傾けて、禁獄流罪にもやとて、汗水に成て御返事に及ばず、畏入て候。重ての
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仰に、女歌を読たりければ、汝歌を以て返事申たりけるとなん、一日なり共竜顔に近づき参らん女を引へん事、其罪浅から(有朋下P029)ず、況此女は朕しめ思召て御志深し、御計ひも有べき事なれ共、優に歌を以て返事申たれば、感じ思召とて、即兵衛佐局を御前に召出され、一樹の陰一河の流と云事もあり、被引ける局も、引ける忠盛も、然べき契にこそとて、女を汝に給ふ、但懐妊して五月に成と被聞召、男子ならば汝が子として弓馬の家を継せよ、女子ならば朕に返進せよとて被下けり。忠盛大に畏り、女の袖を引て罷出ぬ。歌をば人の読習べき事也けり。只当座の罪を遁るゝのみに非ず、剰希代の面目を施す、君の明徳、歌道の情、簾中階下感涙を流しけり。是も誠に二世の契にや、愛念類なくして月日を重し程に、其期も満にければ、産平にして男子を生、悦こと不斜。此子生より夜泣する事不懈。忠盛大に歎けり。我実子ならば里へも放度思ひけれども、勅定を蒙りし上は疎ならず、如何せんと案じて、熊野山に参て祈申けり。証誠殿の御殿の戸を推開き、御託宣とおぼしくて一首の歌あり。
  夜泣すと忠盛たてよみどり子は清くさかふる事もこそあれ K138
と、悦の道に成て、黒目に付たりければ、夜泣ははや止にけり。権現の御利生にや、末憑もしく覚えて生立はごくまんとす。此子三歳の時、保安元年の秋、白川院【*白河院】熊野御参詣あり、忠盛北面にて供奉せり。糸鹿山を越給ひけるに、道の傍に蕷薯絃枝に懸り、零余(有朋下P030)子玉を連て生下、いと面白く叡覧あり
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ければ、忠盛を召てあの枝折て進せよと仰す。忠盛零余子の枝を折進するとて、仰下し給ひし女房、平産して男子也、をのこごならば汝が子とせよと勅定を蒙りき。年を経ぬれば、若思召忘給ふ御事もや、次を以て驚奏せんと思ひて、一句の連歌を仕る。
  這程にいもがぬか子もなりにけり
是を捧たり。白川院【*白河院】打うなづかせ御座して、
  忠盛とりてやしなひにせよ K139
と付させ御座けり。思召忘させ給はぬにこそと悦思ひける処に、還御の後、三歳と申冬、冠給て、熊野権現の御託宣なればとて清盛と名く。忠盛顕ては云はざりけれ共、内々は重くもてなす。白川院【*白河院】も猿事と思召はなたせ給はず、十二の歳左衛門尉になされ、十八にて四位の兵衛佐にあがる。花族の人などこそ角はと、人々傾申けるを、鳥羽院聞召て、清盛も花族は人におとらずもやと仰けり。君も被知召たりけるにこそ。白川院【*白河院】御子と申せば、清盛は鳥羽院には恐らくは御叔父なるべし。忠盛備前守にて、国より都へ上たりけるに、院より御使ありて、摂津国や難波潟、明石の浦の月はいかにか(有朋下P031)有と御尋有ければ、御返事に、
  有明の月も明石の浦風に波計こそよると見えしか K140
と申たり。御感有て金葉集に被入けり。懸る人にて、歌をよみ懐妊の女房を給て、皇子を我子としける
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也。さてこそ太政入道も、少し去事と知給ひければ、弥悪行をばし給ひけり。誠にも然べき事にや、一天四海を掌に握り、君をもなみし奉り、臣をも誡つつ、始終こそなけれ共、都遷迄もし給けめ。
S2615 天智懐妊女賜大織冠事
昔天智天皇御宇、懐妊し給へる女院を、大織冠に給ひつゝ、此女御の生たらん子、女子ならば朕が子とせん、男子ならば臣が子とすべしと仰けるに、皇子にて御座ければ我子とす、即定恵是也。此ためしに不違と申けり。
 < 或説に云、忠盛若きより、祇園女御に候ける中搶蘭[に忍合けり。或時彼女房の局に、月出したる扇を忘て出たるを、かたへの女房達、是はいづくより指出たる月影ぞや、出所覚束なしと笑けるに、女房おもはゆげにもてなして、(有朋下P032)
  雲間より忠盛きぬる月なれば朧げにてはいはじとぞ思ふ K141
と読みたりければ、笑ける女房達興醒てこそ思ひけれ。似るを友の風情に、忠盛もすいたりば此女房も優なりと申しけり。>
閏二月六日、宗盛卿院の御所へ被奏けるは、入道相国既に薨去し候ぬ。御政務御計ひたるべきの由依被申、院殿上に兵乱の事議定あり。
八日院庁の御下文を以て、東海、南海、西海道へ被下遣。頼朝追討のためには、本三位中将重衡を大将軍に定仰らる。西国をしづめん為には、肥後守貞能を被差下ける上に、院の庁官を被副けり。河野四郎通信を追討の為には、召次を以て伊予国へ被下けり。
S2616 平家東国発向并邦綱卿薨去同思慮賢事
同十五日、頭中将重衡、権亮少将維盛、数万騎の軍兵を相催して、東国へ発向す。前後の追討使、
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美濃国に集会して、既に二万余騎に及べり。太政入道失給て今日は十二日、さこそ遺言ならんからに、孝養追善の報恩もなく、仏経供養の営を忘て、戦場に赴給ふ事不思議也。
同廿三日に重衡の舅、五条大納言邦綱卿失給ひにけり。太政入道と契深く(有朋下P033)志浅からざりし人也。彼大納言と申は、兼輔中納言より八代の末、式部大輔盛綱が孫前右馬助盛国が子也。二三代は蔵人にだにもならざりけるに、此邦綱進士の雑色の時、近衛院の御時、去久安四年正月七日、家を興して蔵人になり、次第に昇進して、中宮の宮司までは、法性寺殿の御推挙にて、太政入道に取入、大小事宮仕つゝ、毎日に何者か必一種を進せければ、現世の得意此人に過たる者あるまじとて、子息一人、入道の子にして元服せさせ、清邦と名付て侍従に被成けり。又三位中将重衡を聟に成てければ、後には中将、内の御乳人に成給にしかば、北方をば御乳母とて、大納言佐とぞ申ける。邦綱は蔵人頭宰相、中納言、春宮大夫、兼官兼職を経て、終に正二位大納言に至り給ひけり。此邦綱卿は心広き人にて、貴賎を云ず親疎をわかず、人の大事を訪ひ、歎申事を叶給ひければ、人望も勝てぞ御座ける。何事も一処の御家領の事、被計申ける、目出き事也ける。此人の母は、賀茂大明神に志ぞ運奉て、我子の邦綱に、一日成共蔵人を経させ給はんと祈申けるに、夢に賀茂社の神人、檳榔毛の車を将て来て、我家の車宿に立と見たりけるを、不得心思ひて、物知たりける人に語ければ、公卿の北方にこそ成給はんずらめと合せたり。母思ひけるは、我身年闌たり、今更夫すべきに非、さては妄想にやとて(有朋下P034)過し
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ける程に、子息の邦綱、蔵人は事も疎也、夕郎貫首を経て正二位大納言に至り給へり。是偏に母、賀茂大明神に志運給ひける故也。又入道の角去難く被思けるも、神明の御利生とぞ申ける。
近衛院御宇仁平元年六月七日、四条内裏に焼亡あり、関白の亭に行幸なるべきにて、主上南殿に出御在けれ共、折節近衛司一人も不参、御輿の沙汰仕人もなければ、いかなるべし共思召分ず、あきれて渡らせ御座けるに、此邦綱蔵人処の雑色にておはしけるが、急参て、加様の俄の事には腰輿にこそ被召候へと奏して、舁出して進たりければ、主上召れて出御なる。角申は何者ぞと御尋ね有ければ、蔵人処雑色藤原邦綱とぞ申ける。下揩ネれ共、賢々敷者哉と思召て、法性寺殿御参内の次でに、御感の御物語ありければ、法性寺殿もことさら不便に召仕て、御領数多給などして、家中たのしくてぞ御座ける。同帝御宇八月十七日、八幡行幸有て、臨時の御神楽有べかりけるに、人長付生が淀河に落入て、ぬれ鼠の如くにして、片方に隠居て御神楽に参らず。理也、只一具持たりつる装束は水に落してぬらしぬ。可取替具足はなし、既に神事の違乱に及けり。此邦綱は殿下の御伴に候はれけるが、人長の装束を取出して進せたり。人長是を著て被行にけり。時に取てゆゝしき高名也。心賢き人々也ければ、如何なる(有朋下P035)事もあらん時にはとて、御神事の具足を悉く調て随身有けりとぞ後には聞えし。さればこそ彼人長が装束をも被取出けめ。惣じて奉公には忠を存民を撫、憐深く御座れば、殿下も私に召仕ては位を盗む咎ありとて、後白川院【*後白河院】に被挙申て、中宮亮まで被成たりけるが、法性寺殿隠
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させ給ひて後は、入道相国を打憑み、其吹挙にて蔵人頭にも被成き。次第の昇進滞らず、官位福禄相兼給へり。治承四年十一月に、福原にて殿上の五節の宴酔の夜、雲客后宮の御方へ推参ありける公卿、竹斑湘浦と云朗詠を被出たりけり。邦綱卿聞給ひて取敢ず、穴浅猿、是は禁忌とこそ承れ、斯る事を聞とも聞かじとて抜足して被逃けり。此朗詠の心は、昔大国に堯王と申賢き帝御座き。二人御娘あり。姉をば娥皇と云、妹をば女英と名く。金屋に育て玉台に成人給へる、時に賎き盲目の子に舜と云者あり。孝養報恩の志深して、父が盲を開しかば、堯王叡感有て、舜を以て二人の姫宮に聟取し給ひて、即位を譲給へり、舜王と申は是也けり。舜王隠れ給ひて、湘浦と云南に、蒼梧と云野に奉納たりければ、二人の后歎悲み給ひけるあまり、自湘浦の岸に幸して泣給ひける血の涙竹に懸りて其色斑に染にけり。されば後に生出竹までも皆斑にぞ在ける。今の世に斑竹とて斑なる竹は、彼の湘浦の竹ひろまれる也。二人の后(有朋下P036)隠れ給ひにければ、爰にて舜帝を歎き悲み給しかばとて、湘浦の岸にぞ奉納ける。されば后の御前にてはすまじき朗詠也ければ、邦綱卿も聞咎めて立給ひけり。指る文芸に携事はおはせざりけれども、耳心口賢くして、高名も度々し給、事に於て忠ありければ、君も臣も憑もしき人に思召けるに、太政入道と後生までの契や深く御座けん、同日に病付、同月に失給ぬるこそ哀なれ。抑此大納言の、人長が装束を取出して高名し給たりしが如く、思懸ざる事は昔も有けり。
S2617 如無僧都烏帽子同母放亀附毛宝放亀事
寛平法皇の御時、昌泰元年十月二十日、大井河紅葉叡覧の為に御幸あり。和泉大納言定国卿被供奉
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〔た〕り。嵐山の山下風烈しかりけるに、定国、烏帽子を河へ吹入られてすべき様なかりければ、袖にて本どりをかゝへておはしける処に、如無僧都と申人、御幸に被召具たりけるが、香炉箱より烏帽子を取出して奉りたりけるこそ人々目を驚したる高名にては有けれ。彼如無僧都と申は、即此邦綱卿の先祖に山陰中納言と申人御座けり。太宰大弐にて下給けるが、二歳になる子息をも相具して下給ふ。河尻より船に乗て海に(有朋下P037)浮て漕下り給けるに、乳母いかゞはしたりけん、取弛て海中へ落し入る。中納言を始て周章騒給ひけれ共、茫々たる水底、如何にすべき様もなかりけるに、二歳の子遥の沖の波に浮て不流ければ、船を漕寄て是を見るに、大なる亀の甲にぞ乗たりける。船中に取上たれば、亀は船に向て涙を流す。中納言不思議におぼして亀に向て、汝も云べきにあらね共、此難有志言に余りありと宣ければ、亀は海に入にけり。其夜夢に亀来て申けるは、此若公の御母御前、当初御宿願ありて天王寺詣の時、渡辺の橋の辺にて鵜飼亀を取つゝ、既に殺さんとせし時、哀を発て御小袖を以て買取給ひ、己れ畜生なれ共此志を思知、遠き守となれとて河中に放入させ給ひにき。其亀と申は即我也。生々世々に忘難思ひ奉り、折々に守奉りしか共、生死の習の悲さは、此若公を儲御座して去年隠させ給ひしかば、今は此少人を守進せて、夜も昼も御身近侍りつる程に、筑紫へ御下向なれば、其までもと思ひて御船に添て下候つる程に、継母、乳人の女房に心を入て海に沈め奉る間、甲の上に負助奉て、昔の母御前の御恩を報じ奉也と申て、夢は覚にけり。彼二歳の少人と云は此如無僧都の
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事也。無きが如くして生たれば、如無僧都とぞ名づけたる。浄行持律にして智恵才覚身に余りたりければ、帝も重く敬て御身を放れず、大井河(有朋下P038)の逍遥迄も被召具たり。
昔斉国に毛宝と云者在き。江の辺を通けり。漁父亀を捕て殺さんとす。甲の長さ四尺。毛宝是を憐で、買取て江に放つ。後に石虎将軍と云者と戦けるが、江の耳まで被責付て、毛宝難遁敵にとられて恥を見んよりは、不如江の中に入水にしづんで死なんにはと思ひて即入にけり。水の底に是を戴て我を助る者あり。向の岸に至て江の中を顧れば、大なる亀也。亀水の上に浮て腹を顕にせり。是を見れば、毛宝が放せし亀也と云銘文ありて、其後水に入にけり。毛宝亀に被助て石虎将軍が難を免れたり。漢家本朝境異なれ共、放生の酬とり/゛\也。
S2618 行尊琴絃附静信箸事
又小一条院御孫に、宇治僧正行尊は鳥羽法皇の御持僧也。鳥羽殿にして御遊の有けるに、殿上人の弾ける琴の絃の切れたりければ、僧正畳紙の中より、琴の絃を取出し給たりけるも、有がたき事なり。
又京極源大納言雅俊卿、亭にて講行給けるに、導師は妙覚院の静信法印にぞおはしける。諸僧座に著して僧供行はんとしけれ共、導師あまりに遅かりければ、待侘て終に僧膳行ける。中間に法印来り給ふ。遅参を悪て僧中(有朋下P039)に導師の箸を取隠す。法印著座して高坏を見れば箸なし、暫く打案じて、法印懐より箸を取出して、物を拾ひ食けり。何の料に持給ける箸ぞと上下悪まぬ者なし。誠
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に優なる用意にはあらねども、遠慮賢くして角用意有けるか、又智慧深して時に臨で化現し給ふか。此人々の事はさも有なん。邦綱の人長が装束はためしなき用意なるべし。
S2619 法住寺殿御幸附新日吉新熊野事
二十五日には、法皇法住寺殿へ御幸なる。公卿殿上人多く供奉し、警蹕など事々敷してうるはしき儀式也。治承三年に鳥羽殿へ御幸の時は軍兵御車を囲、福原の都の時は、名も恐しき楼の御所、思召出て、只今の御形勢定て御珍しくこそと申合へり。三年の御旅に御所共少々破壊して候、修理して入進せんと、前右大将被申けれ共、只疾々とて御幸成ぬ。此御所は去応保元年四月十三日御移徙有て、山水木立かた/゛\思召様也ければ、新日吉、新熊野、近く祝奉らせ給へり。此二三年は、なにとなく世の乱に旅だたせ給ひて、御心も浮立たる様に被思召ければ、今一日もとくと急がせ御座けり。いつしか荒にける所々の有様、御覧じ廻るに哀を不催と云事なし。中にも、故建春門院の御あたり叡覧(有朋下P040)有けるに、峰の榊汀の松、事外に木高く成にけるに付ても、南宮より西月移り給けん昔の跡を思召出すに、唯御哀をのみぞ催て、御涙を流させ給ひける。
三月一日東大寺興福寺の僧綱、本宮に復し、両箇の寺領本の如く可知行之由、被宣下けり。