『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十七
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於巻 第二十七
S2701 墨俣川合戦附矢矯川軍事
養和元年三月十日、頼朝追討の為に東国へ下りし頭中将重衡、権亮少将維盛已下七千余騎は、尾張国墨俣の西の川原に陣を取て、東国源氏を禦がんとす。新宮の十郎蔵人行家は、千余騎の勢にて、東の河原に陣を取て、西国の平氏を下さじとす、両方を隔て引へたり。故下野守義朝の子息、常葉が腹の子に、卿公義円と云僧あり。是は九郎義経の一腹の兄也。十郎蔵人に力を合よとて、兵衛佐殿千余騎の勢を被付たりけるが、是も墨俣河原に馳付て、十郎蔵人の陣二町を隔て陣を取、平家は西の河原に七千余騎、源氏は東河原に二千余騎、明る十一日の卯刻には源平の矢合と聞ゆ。是に行家と義円と互に先を心に懸たり。卿公義円は、十郎蔵人に先を被懸ては、兵衛佐に面を合すべきかと思て、人一人も召具する事なし。唯一人馬に乗て、陣より上二町計歩せ上て、河を西へ渡す。敵の陣の前、岸の下に引へたり。行家夜の曙に、時を造て河をさと渡さん時、爰よ(有朋下P042)り義円、今日の大将軍と名乗て先陣を懸んと思て、東や白む夜や明ると待居たり。平家の方には、源氏世討にもこそよすれとて、夜廻を始て、十騎二十騎計、手々に続松捧て川の耳を見廻けるに、岸の下に馬を引立て、其傍に人一人立たり。夜めぐり是を見咎めて何者と問に、義円少も騒ず、是は御方の者にて候が、馬の足冷候と答。御方ならば甲を脱
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で名乗れと云ければ、馬にひたと乗て陸へ打上り、兵衛佐頼朝の弟に、卿公義円と云者也と名乗て、夜廻の中へ打入て、竪様横様に散々に戦。三騎討捕て二人に手負せて、義円是にて討れにけり。十郎蔵人是をば不知、卿公や先に進む覧と思て、使を遣して見せけるに、大将軍見え給はずと云ければ、去ばこそとて十郎蔵人打立けり。千騎の勢を、八百騎をば陣に留め、今二百騎を相具して、河をさと渡し、平家の陣へ懸入たり。夜の明方の事なりければ、未世間も暗かりけり。平家は、敵多勢にて夜討に寄ると心得て、火を出して見れば僅に二百余騎と見て、少勢にて有けりやと云ひて、七千余騎入替入替戦けり。行家も少も引ず、大勢の中に懸入て戦程に、主従二騎に打なされて、河を東へ引退く。行家は赤地の錦直垂に、小桜を黄に返したる冑著て、鹿毛なる馬に、黄覆輪の鞍置て乗たりけり。大将軍とは見えけれ共、平家は続ても不追けり。行家が子息(有朋下P043)に悪禅師と云者あり。尾張源氏泉太郎重光等同心して、七百余人筏にのり、夜半計に渡より上を潜に越て、夜討にせんとて向けるを、平氏の軍兵兼て此由さとりにければ、渡らんと志所をば引退て、思様に西の岸の上におびき出して、中に取籠戦ふ。宵の程は雨烈く降けるが、夜半計には雨降ざりけれ共、雲の膚天に覆て、闇き事目の前なる物をもつゆ見分べくもなかりけるに、只時の声をしるべにて、両軍乱合て相戦ふ。甲の鉢を打太刀の打ちかへる時、火の出る事いなびかりの如くなりければ、自明便と成て、敵を取輩あり。多は共討にぞ亡ける。弓を引箭を放つ事は、何を敵とも見分ざりければ、太刀をぬき刀を抜て、取組指違てのみぞ死ける。源氏の兵三百
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余人討れにければ、残る輩河のはたへ引退く。筏に乗らんとしけるを、平氏の軍兵追懸て、筏の上にて戦けり。はては筏を切破ければ、空く川に入て命を失者其数を不知。蔵人頭重衡朝臣の手に、二百十三人討捕てけり。虜には悪禅師、泉太郎重光、同弟高田四郎重久を始として、八人とぞ聞えける。維盛朝臣の手には七十四人、通盛の手には六十七人、忠度の手には二十一人、知度の手には八人、讃岐守維時の手に七人、已上三百九十人、首河のはたに切懸たり。即頸の交名を注して京へ奉たりければ、平家の一門寄合て悦事限なし。(有朋下P044)十郎蔵人行家は、墨俣川軍に打負ければ、引退て、墨俣川東、小熊と云所に陣を取。平家は七千余騎を五手にわけ、一番飛騨守景家、大将軍にて千余騎、川をさと渡して小熊の陣に推寄たり。一時戦て射白まされて引退く。二番に上総守忠清、千騎をめいて蒐。源氏矢衾を造て射ければ不堪して引退。三番に越中前司盛俊千余騎、轡を並て押寄たり。源氏鏃を揃へて射ければ、暫し戦て引退く。四番に高橋判官長綱千騎、しころを傾て音挙て推寄たり。源氏指詰引詰散々に射ければ、是も叶ずして引退く。五番に頭中将重衡、権亮少将維盛、二千余騎にて入替たり。進み退き追つ返つ、一味同心に揉に揉でぞ攻たりける。十郎蔵人行家も、命も不惜面も振ず、平家の大将ぞ、漏すな余すなとて、是を最後と戦たり。矢叫の音馬馳違ふ音隙有とも不聞、源平旗を差並て、勝負牛角に見えたりけり。一陣景家、二陣忠清、三陣盛俊、四陣長綱、四千余騎、重衡維盛二千余騎に押合て、七千余騎が一手に成て、入替々々責けるに、行家武く心は思へども、無勢にて防ぎかね、小熊の
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陣を落されて、尾張国折戸の宿に陣をとる。平家は隙なあらせそとて、勝に乗て責下ければ、折戸をも被追落て熱田宮へ引退き、在家を壊垣楯を掻、爰にて暫く禦けれ共、熱田をも被追落て、参河国矢作河の東の岸に、城構して陣を取。平家(有朋下P045)続て攻下、川より西に引へたり。当国額田郡の兵共も馳来て、源氏に力を合支たり。十郎蔵人謀を構るに、年老たる雑色三人召寄、次第行纏に蓑笠具し、粮料■負せて京上の夫に作り立て、心を入て平家の陣の前をぞ通したる。平家夫男を召留て問けるは、源氏軍に負て東国へ落下る、是何程延ぬらん、其勢いか程か有つると云。夫男申けるは、箭作川の東の陣の内の勢は争か知侍べき、落下給ひつる勢は僅に四五百騎、大将軍とこそ見え給ひつれ、爰より幾程延給はじと。平家又問けり。さて東国より上る勢は無やと。夫男、勢は雲霞の如く上り侍、先陣は菊河、後陣は橋本の宿、見付国府に著、程近き高志二村は、軍兵野にも山にも、隙あり共不見と云て過にけり。平家此事を聞て如何有るべき。東国の大勢に被取籠なばゆゝしき大事、一人も難遁とて、取物も取敢ず思々に逃上る。大将軍行家は、平家を謀叛して人を方々へ馳遣す。落上る平家を一矢も不射(いざる)者は、源氏の敵ぞと披露有ければ、美濃尾張の兵共、後勘を恐て追懸々々散々に射る。平家も返合返合戦けれ共、落武者の習なれば、只身を助んと計の防矢にて、西を差てぞ落行ける。(有朋下P046)
S2702 太神宮祭文東国討手帰洛附天下餓死事
十郎蔵人は所々の軍に負けて、参河の国府に息つぎ居て、是より伊勢太神宮へ祭文を進る。其状に云、
再拝々々
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伊勢乃渡会野、五十鈴能川上乃、下津磐根仁、大宮柱於広敷立天、高天原爾千木高知天、祝申定奉留、天照皇太神能、広前仁恐恐申給江登申須。
右正六位上、源朝臣行家、去治承四年之比、蒙最勝親王勅云、入道大相国清盛、自平治元年以降、誇無理之威勢、昇不当之高位、相従一天於一門之雅意、不任百官於百王之理政之間、去治承元年、終雖非勅定、正二位権大納言藤原成親、同子息成経等、称有謀叛之結構、宛行遠流之重科、其外院中近習上下諸人、或蒙死刑或趣配流、如之智臣前大相国已下四十余人、停止官職奪取庄園、或退今上国主之御位、譲謀臣不忠之孫、或■太上法皇之御座、止治天有道之政、然則早誅罰清盛入道、且奉休法皇之叡慮、而備孝徳之礼、且黙止万人之愁吟、而致撫育之恵所思召(有朋下P047)也云云、而行家、依親王之勅命、催勇士之合力刻、平家議云、一院第二皇子、是為我国万機之器、早可奉出花洛也、仍同五月十四日夜、俄可配流土佐国之由、依令風聞、為遁一旦之難、暫令退入園城寺之処、以左少弁行隆、恣構漏宣、或制与力於北嶺四明之一山、或滅法命於南都三井之両寺、速絶王法失仏法矣、謹尋天武天皇之旧議、討王位押取輩、倩訪上宮太子之古跡、亡仏法破滅之類、是以国政如元奉任一院、而諸寺之仏法令繁昌、諸社之神事無相違、以正法治国土、撫万民与天恩也、爰行家、先跡者、昔天国押開給天後、清和天皇王子、貞純親王七代孫、自六孫王下津方、
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併励武弓専護朝家、高祖父頼信朝臣者、搦忠常蒙不次之賞、曽祖父頼義朝臣者、康平六年鎮奥州之逆党、後代為規模、祖父義家朝臣者、寛平年中、雖不経上奏、為国家討不忠武士平家衡等、振威於東夷、上名於西洛、親父為義者、禦還南都大衆之発向、奉休北闕聖主之逆鱗、鎮護王法宝位無驚、照四海於掌内、懸百司於心中皇威、及夷域仁恩普一天、而自去平治元年、源家被止出仕之後、入道偏誇于威勢、黷於高位都城之内、蔑官事洛陽之外、放謀宣、然則行家加先祖於訪江波、天照野太神野、初天日本国能磐戸於押開天、(有朋下P048)新仁豊葦原野水穂爾濫觴志給那里、彼能天降給宇聖体波、忝那久行家加三十九代野祖宗那里、御垂跡与里以降、鎮護国家野誓厳重仁志天、冥威隙無幾処仁、入道神慮仁毛恐連須、叡情爾毛憚羅須、遥昇高位、是雖似朝恩、濫企逆乱、併所致愚意也、又行家親父朝臣者、如大相国誇私威、非起謀叛、依上皇之仰、参白川御所計也、而称謀叛之仇、依不仕朝廷相伝之所従、塞於耳目不随順、譜代之所領、被止知行無衣類、独身不屑之行家、彼入道万之一爾毛所不及、而入道忽依起謀叛、行家為防朝敵、東国爾下向志天、頼朝朝臣登相共爾、且源家能子孫於誘江、且相伝能所従於催志天、上洛於企留所呂也、案能如具意爾任勢天、東海東山能諸国、已爾同心志畢里奴、是朝威能貴幾加致須所呂也、又神明能守里然良令牟留也、風聞能如幾波、太神宮与里神鏑於放知給布、入道其身爾中天亡勢里登、彼〔遠〕見是遠聞爾、上下万人宮中民烟、何人加霊威於畏礼佐羅牟、誰人加源家於仰加佐羅牟哉、抑東海
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諸国之太神宮御領事、依先例分神役、可備進御年貢之由、雖加下知、或恐平家不下使者、或有済納、依路次之狼藉、不能運送歟、源家者縦雖為神領、僅宛催兵粮米計也、然而早可停止之、又始自院宮諸家臣下之領等、国々庄々年貢闕如事、全不■、或云源氏、(有朋下P049)或云大名、数多之軍兵参会之間不慮之外難済歟、就中国郡村閭住人百姓等之愁歎、誠以難抑、但行家雖切撫民之志、未遂退敵之節、而徒送日数、尤所哀歎也、然者早行家者、帰参王城近隣、奉護北闕之玉尊、頼朝者居留東州之辺境、奉耀西洛之朝威也、神明必垂哀愍、天下忽鎮叛逆矣、縦云平家之兄弟骨肉、於護国家之輩者、速絶神恩、又云源家之子孫累葉、於有二意之輩者、必加冥罰、羨天照皇太神此状於平計安良計聞召天無為無事爾上洛於遂計令女天、速仁鎮護国家能衛宮於成志給江、天皇朝廷乃宝位動具古登無具、源家能大小従類恙無志天、夜乃守里日乃守爾護里幸給江登、恐々礼申志給江登申須。
治承五年五月十九日 正六位上源朝臣行家
とぞ書たりける。此祭文に、神馬三匹銀剣一振、上矢二筋相具して、太神宮へ奉進す。
去三月十一日、源平尾張国墨俣川より始て、度々戦けるが、源氏負色に成て引退々々、参河国矢矯川にて戦ければ、平家も多く討れける上に、東国源氏雲霞と責上る由の謀に聞臆して、同廿五日に、重衡維盛以下の討手の使帰り上る。
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治承三年の秋八月に、小松内府被薨ぬ。今年閏二月に、又入道相国失給ひしかば、平家の運の尽事顕(有朋下P050)也。さればにや年来恩顧の輩の外に、随ひ付者更になし。兵衛佐には日に随て勢の付ければ、東国には諍者なし。自背者あれば、推寄々々誅戮し給ければ、関より東は草木も靡くとぞ京都には聞えける。去程に去年諸国七道の合戦、諸寺諸山の破滅も猿事にて、天神地祇恨を含給ひけるにや、春夏は炎旱夥、秋冬は大風洪水不斜、懇に東作の勤を致ながら、空西収の営絶にけり。三月雨風起、麦苗不秀、多黄死。九月霜降秋早寒。禾穂未熱、皆青乾と云本文あり。加様によからぬ事のみ在しかば、天下大に飢饉して、人民多餓死に及べり。僅に生者も、或は地をすて境を出、此彼に行、或は妻子を忘て山野に住、浪人巷に伶■、憂の音耳に満り。角て年も暮にき。明年はさりとも立直る事もやと思ひし程に、今年は又疫癘さへ打副て、飢ても死ぬ病ても死ぬ、ひたすら思ひ侘て、事宜き様したる人も、形を窄し様を隠して諂行く。去かとすれば軈て倒臥て死ぬ。路頭に死人のおほき事、算を乱せるが如し。されば馬車も死人の上を通る。臭香京中に充満て、道行人も輙らず。懸ければ、余に餓死に責られて、人の家を片はしより壊て市に持出つゝ、薪の料に売けり。其中に薄く朱などの付たるも有りけり。是は為方なき貧人が、古き仏像卒都婆などを破て、一旦の命を過んとて角売けるにこそ。誠に濁世乱漫(有朋下P051)の折と云ながら、心うかりける事共也。仏説に云、我法滅尽、水旱不調五穀不熟、疫気流行、死亡者多と、仏法王法亡つゝ、人民百姓うれへけり。
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一天の乱逆、五穀の不熟、金言さらに不違けり。
S2703 頼朝追討庁宣附秀衡系図事
四月廿八日、又頼朝を可追討由、院庁の御下文を成して、陸奥国住人藤原秀衡が許へ被下遣けり。其状に云、
左弁官下 奥州住人等、
応早令追討流人前右兵衛権佐源頼朝事
右奉仰、併件頼朝、去永暦元年坐■配流伊豆国、須悔身過、宜従朝憲、而猶懐梟悪之心、旁企狼戻之謀、或冤凌国宰之使或侵奪土民之財、東山東海道国々、除伊賀、伊勢、飛騨、出羽、陸奥之外、皆趣其勧誘之詞、忝随彼布略之語、因茲差遣官軍、殊可令防禦之処、近江、美濃、両国之反者、即敗続尾張、参河、以東之賊衆、尚固守、抑源氏等、皆忝可被誅戮之由、依有風聞、一姓之輩、共発悪心(有朋下P052)云云、此事尤虚誕也、於頼政法師者、依為顕然之罪科、忽所被加刑罰也、其外源氏無指過怠、何故被誅、各守帝猷、抽臣忠、自今以後莫信浮讒、兼存此子細、早可帰皇化者、奉仰下知如件、諸国宜承知、依宣行之、敢不可違失之故下。
治承五年四月二十八日 左大史小槻宿禰奉
とぞ被書たる。秀衡と云は、下野国住人俵藤太秀郷が末葉、日理権大夫経清が曾孫、権太郎御館
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清衡が孫也。彼秀衡此御下文を給りたれども、兵衛佐には草木も靡て、たやすく難傾かりければ、無由とてさて止ぬ。
S2704 信濃横田川原軍事
越後国住人に、城太郎平資職と云者あり、後には資永と改名す。是は与五将軍維茂が四代の後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が子也。国中の者共相従へて多勢也ければ、木曾冠者義仲を追討のために、同庁下文あり。同六月二十五日、資永御下文の旨に任せて、越後、出羽、両国の兵を招と披露しければ、信濃国住人なれ共、源氏を背く輩は、越後(有朋下P053)へ越て資永に付、其勢六万余騎也。同国住人、小沢左衛門尉景俊を先として信濃へ越けるが、六万余騎を三手に分つ。筑摩越には、浜小平太、橋田の太郎大将軍にて、一万余騎を差遣す。上田越には、津波田庄司大夫宗親大将軍にて、一万余騎を差遣す。資永は四万余騎を相具して、今日は越後国府に著、明日は当国と信濃との境なる関の山を越さんとす。先陣を諍者共、勝湛房が子息に、藤新大夫、奥山権守、其子の横新大夫伴藤、別当家子には、立川承賀将軍三郎、信濃武者には、笠原平五、其甥に平四郎、星名権八等を始として、五百余騎こそ進けれ。信濃国へ打越て、筑摩河の耳、横田川原に陣をとる。城太郎資永、前後の勢を見渡して奢心出来つゝ、急ぎ寄合せて聞ゆる木曾を目に見ばやとぞ■ける。木曾は、落合五郎兼行、塩田八郎高光、望月太郎、同次郎、八島四郎行忠、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、楯六郎親忠、高梨根井大室小室を先として、信濃、上野、両国の勢催集め、二千余騎を相具して、白鳥川原に陣をとる。楯六郎親忠馬より下り甲を脱弓脇挟み、木曾が前に畏て申けるは、親忠先づ
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横田川原に打向て、敵の勢を見て参らんと申。然るべきとて被免たり。親忠乗替ばかり打具して、白鳥川原を打出て塩尻さまへ歩せ行て見渡せば、横田篠野井石川さまに火を懸て焼払ひ、軍場の料に城四郎(有朋下P054)が結構と見えたり。親忠大法堂の前にして馬より下り、甲を脱で八幡社を伏拝み、南無八幡大菩薩、我君先祖崇霊神也、願は木曾殿、今度の軍に勝事をえせしめ給へ、御悦には、六十六箇国に六十六箇所の八幡社領を立て、大宮に御神楽、若宮に仁王講、蜂児の御前に左右に八人宛の神楽女、同神楽男退転なく、神事勤て進んとぞ祈念しける。乗替を使にて木曾殿へ申けるは、城太郎所々に火を放て、横田篠野井石川辺を焼払ふ。角あらば八幡の御宝殿も如何と危く覚候、急寄給へとぞ申たる。木曾取敢ず、通夜大法堂に馳付て、甲を脱ぎ腰を屈て八幡社を伏拝み、様々願を被立けり。明ぬれば朝日隈なく差出て、鎧の袖をぞ照ける。義仲遥に伏拝み、弥勒竜華の朝まで、義仲が日本国を知行せんずる軍の縁日と成給へ、今日は八幡大菩薩の、結て給たる吉日也とぞ勇みける。養和元年六月十四日の辰の一点也。源氏方より進む輩、上野国には、那和太郎、物井五郎、小角六郎、西七郎、信濃国には、根井小弥太、其子楯六郎親忠、八島四郎行忠、落合五郎兼行、根津泰平が子息、根津次郎貞行、同三郎信貞、海野弥平四郎行弘、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎石突次郎、平原次郎景能、諏訪上宮には、諏方次郎、千野太郎、下宮には、手塚別当、同太郎、木曾党には、中三権頭(有朋下P055)兼遠が子息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、与次与三、木曾中太、弥中太、検非違所
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八郎、東十郎進士禅師、金剛禅師を始として、郎等乗替しらず、棟人の兵百騎轡を並て、一騎も先に立ず一騎もさがらず、筑摩河をさと渡して、西の河原に北へ向てぞ懸たりける。城太郎が四万余騎、入替々々戦けれども、百騎の勢に被懸立て、二三度までこそ引退り。百騎の者共は、馬をも人をも休めんとて、河を渡して本陣に帰にけり。城太郎安からず思て、信濃国住人笠原平五頼直と云ふ者を招て云けるは、僅の勢に大勢が、三箇度まで被懸散たる事面目なし、当国には御辺をこそ深く憑み奉れ、河を渡し、敵の陣を蒐散して雪恥給へかし、平家の見参に入奉らんと申ければ、笠原鐙蹈張弓杖突て、越後信濃は境近国なれば伝にも聞給けん、頼直今年五十三、合戦する事二十六度、未不覚の名を取らず。但年闌盛過ぬれば、力と心と不相叶、今此仰を蒙る事面目也、今日の先蒐て見参に入んとて、我勢三百余騎が中に、事に合べき兵八十五騎すぐり出して、太く高く、曲進退の逸物共に撰び乗て、筑摩河をざと渡して名乗けり。当国の人々は、或は縁者或は親類、知らぬはよも御座せじ、上野国の殿原は見参するは少けれ共、さすが音にも聞給らん、昔は信濃国住人、今は牢人笠原平五頼直と云者也、信濃上野に我と思は(有朋下P056)ん人々は、押並て組や/\と云懸て、敵の陣をぞ睨たる。上野国住人高山党三百余騎にてをめきてかく。笠原は八十余騎にて三百余騎をかけ散さんと、中に破入て面を振らず散々に戦ふ。高山は大勢にて小勢を取籠、一人も不漏討留んと、辺に廻て透間もあらせず戦たり。蒐てはひき引てはかけ、寄ては返、返しては寄せ、入組入替戦ける
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有様は、胡人が虎狩、縛多王が鬼狩とぞ覚えたる。又飆の木葉を廻すに似たりけり。程なしと見程に、高山党が三百余騎、九十三騎に討なさる。笠原が八十五騎、四十二騎にぞ成にける。両方本陣に引退。源平互に不感者はなかりけり。中にも笠原、城太郎が前に進て、軍の先陣如何が見給ぬると云ければ、資永は兼ての自称、今の振舞、実に一人当千とぞ嘆たりける。
上野国住人西七郎広助は、火威の鎧に白星の甲著て、白葦毛の馬の太逞に、白伏輪の鞍置て乗たりけり。同国高山の者共が、笠原平五に多討れたる事を安からず思て、五十騎の勢にて河を渡して引へたり。敵の陣より十三騎にて進出づ。大将軍は赤地の錦の鎧直垂に、黒糸威の鎧に、鍬形打たる甲著て、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍置て乗たりけり。主は不知、よき敵と思ければ、西七郎二段計に歩せより、和君は誰そ、信濃国住人富部三郎家俊。問は誰そ。上野国住人七郎広助、音にも聞くらん目にも見よ、(有朋下P057)昔朱雀院御宇、承平に将門を討平て勧賞を蒙りたりし俵藤太秀郷が八代の末葉、高山党に西七郎広助とは我事也、家俊ならば引退け、合ぬ敵と嫌たり。富部三郎申けるは、和君は軍のあれかし、氏文読まんと思ひけるか、家俊が祖父下総左衛門大夫正弘は、鳥羽院の北面也、子息左衛門大夫家弘は、保元の乱に讃岐院に被召て仙洞を守護し奉き、但御方の軍破て、父正弘は陸奥国へ被流、子息家弘は奉被伐けれども、源平の兵の数に嫌れず、正弘が子に布施三郎惟俊、其子に富部三郎家俊也、合や合ずや組で見よとて、十三騎轡並てをめきて蒐。十三騎と五十騎と散々に
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乱合て戦ければ、富部が十三騎、四騎討れて九騎になる。西七郎が五十騎、引つ討れつ十五騎になる。大将軍は互に組ん組んと寄合けれ共、家の子郎等推隔々々て防ぐ程に、共に隙こそなかりけれ。去程に同僚共が敵の頸取て下人に持せ、手に捧たりけるを見て、我も/\分捕せんと、寄合々々戦けり。軍に隙はなし、両方の旗差は射殺切殺されぬ、主の行方を不知けり。其間に西七郎と富部三郎と寄合せて、引組んでどうど落て、上になり下になり、弓手へころび妻手へころびて、遥に勝負ぞなかりける。富部三郎は笠原が八十五騎の勢に具して、軍に疲たりければ、終には西七郎に被討けり。爰に富部が郎等に、杵淵小源太重光と云者あり。此(有朋下P058)間主に被勘当て召具する事も無れば、城太郎の催促に、主は越後へ越けれ共杵淵は信濃にあり。去ば今の十三騎にも不具けるが、主の富部、城四郎の手に成て軍し給ふと聞き、徐にても主の有様見奉り、又よき敵取て勘当許れんと思て、辺に廻て待見けれども、主の旗の見えざりければ、余りの覚束なさに陣を打廻て、知たる者に尋ければ、西七郎と戦ひ給つるが、旗差は討殺されぬ、富部殿も討れ給ぬとこそ聞つれ、冑も馬もしるし有らん、軍場を見給へと云。杵淵小源太穴心うやとて馳廻て見ければ、馬は放れて主もなし、頸は取れて敵の鞍の取付にあり。杵淵是を見て歩せ寄せ、あれに御座は、上野の西七郎殿と見奉は僻事か、是は富部殿の郎等に、杵淵小源太重光と申者にて候。軍以前に大事の御使に罷たりつるが、遅く帰参候て御返事を申さぬに、御頸に向奉て最後の御返事申さんとて進ければ、荒手の奴に叶はじと思て、鞭を打
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てぞ逃行ける。まなさし七郎殿、目に懸たる主の敵、遁すまじきぞ七郎殿とて追て行。七郎は我身も馬も弱りたり、杵淵は馬も我身も疲れねば、二段計先立て逃けれども、六七段にて馳詰て、引組でどうど落つ。重光大力の剛の者也、西七郎を取て押て首を掻。杵淵主の首を敵の鞍の取付より切落し、七郎が頸に並居ゑて泣々云けるは、身に■なしといへ共、人の讒言によりて(有朋下P059)御勘当聞も直させ給はず、又始て人に仕て今参といはれん事も口惜くて、さてこそ過候つるに、今度軍と承れば、よき敵取て見参に入、御不審をも晴さんとこそ存つるに、遅参仕て先立奉ぬる事心うく覚ゆ。さりとも此様を御覧ぜば、いかばかりかは悦給はんと、後悔すれ共今は力なし、乍去敵の首は取りぬ、冥途安く思召せ、軍場に披露申べき事あり、やがて御伴と云て馬に乗り、二の首を左の手に差上、右の手に太刀を抜持て高声に、敵も御方も是を見よ、西七郎の手に懸けて、主の富部殿討れ給ぬ、郎等に杵淵小源太重光、主の敵をば角こそとれやとぞ■たる。西七郎が家子郎等轡を返して、三十七騎をめきて蒐。重光存ずる処ぞ和殿原とて、只一騎にて敵の中に馳入て、人をば嫌はず直切にこそ切廻れ。敵十余騎切落し、我身も数多手負ければ、今は不叶と思て、主の共に、剛者自害するを見給へとて、七郎が頸をば抛て、なほ富部三郎が頸を抱、太刀を口に含て、馬より大地に飛落て、貫かれてぞ死にける。敵も御方も惜まぬ者こそなかりけれ。中にも木曾は、あはれ剛の奴哉、弓矢取身は加様の者をこそ召仕ふべけれと、返々ぞ惜まれける。両陣軍にし疲て、暫く互に休み居たり。
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木曾は謀をぞ構たる。信濃源氏に井上九郎光基と云者を招て、加様の馳合の軍は勢による事なれば、御方の勢は少なし、(有朋下P060)如何にも軍兵数尽ぬと覚ゆ、されば敵を謀落さん為に、御辺赤旗赤符付て、城太郎が陣に向ひ給へ、さあらば敵御方に勢付たりとて、荒手の武者を指向て軍せよとて休み居べし、其間に白旗白符取替て蒐給はん処に、義仲河を渡して、北南より指挟で蒐立ば、などか追落さゞるべきと云ければ、可然とて井上九郎光基は、星名党を相具して三百余騎、赤旗俄に作出し、赤符を白符の上に付隠して、木曾が陣を引下て、静々と筑摩河を打渡して、城太郎が陣に向ふ。案の如く城太郎は、御方に勢付たり、余勢は定て後馳にぞ来るらんとて、使を立て云けるは、只今被参人は誰人ぞ、返々神妙、御方の兵軍に疲たり、河を渡して敵の陣に向給へと云ければ、光基馬の鼻を引返す様にして赤符かなぐり捨て、白旗さと差挙て、又馬の鼻を引向て、信濃国住人井上九郎光基と名乗てをめきて蒐る処に、木曾討もらされたる勢一千五百余騎にて、河をさと渡して音を合て、北より南より、揉に揉てぞ攻たりける。城太郎が兵は、軍に疲て有けるに、只今の勢を憑て、物具くつろげて休まんとする処に、俄に上下より責ければ、甲冑を捨て逃もあり、親子を知らで落もあり、山に追籠られ水に責入られ、此にては打殺され、彼にては被切殺、落ぬ討れぬせし程に、城太郎資永は、僅に三百余騎にて、越後の国府に引退てぞ息突居(有朋下P061)たる。当国住人等も悉く木曾に従付ければ、資永国中に安堵せずして、出羽国に越て金沢と云所に有と聞えければ、木曾は関山を固て、暫く越後の国府にやすらひけり。
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S2705 周武王誅紂王事
昔大国に周武王と云し帝、殷紂王を誅せんとせしに、敵の軍は七十万人、御方の兵は四万五千人、雲泥水火の敵対也。武王勢の少き事を歎ければ、臣下太公望が云、軍は勢によらず、謀を先とすべし、千仭堤に尺水をさぐりて兵を傾、万丈の谷に円石を倒して敵を亡す、皆是謀の賢き也、君歎事なかれとて、周の兵を殷の勢に移して攻戦ける。時に殷の軍破ぬとて、周の兵引退ければ、誠にやとて七千万人皆落失て、紂王終に亡にけり。木曾もはかりごと賢くて城太郎を責落す。越前国には、平泉寺長吏斎明、威儀師稲津新介、越中国には、野尻、河上、石黒党、加賀国には、林、富樫が一族を始として、寄合々々評定して云、源平諍を発して国郡静ならず、東西に軍始て勇士鋭剣、就中木曾殿、平家追討の為に越中国府に座す、平家、木曾殿を誅戮の為に北国下向と聞ゆ、源氏に力をや合すべき、平家に忠をや尽すべきと様々議しけるに、東国は既に兵衛佐殿に(有朋下P062)随ふと聞ゆ、北国又木曾殿に靡けり、平家の方人等皆国中に安堵せず、されば定て被召ずらん、召に随はずんば平家に同意とて討手を向らるべし、不如被召て参らんより、同は志ある体にて、急ぎ木曾殿へ参らんと議しければ、此儀尤可然とて、三箇国の兵皆、我も/\と馳参ず。木曾は、各参上の条神妙神妙、但召さぬに参事大に不審、平家の方人して義仲を計らん為にも有らん、誠の志御座ば、義仲に腹黒あらじと起請文書べしと宣ひければ、命に随うて起請状を注し、判形添て奉る。木曾今は子細なしとて、御恩の始也、不取敢と宣ひて、信濃駒一匹づつこそ被引たれ。懸りしかば、北陸道の国国、
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悉木曾に相従けり。
< 七月十四日に改元有りて、養和元年と云。>
同七月十五日、左衛門権佐光長、奉仰、興福園城両寺僧侶、依謀叛之罪在繋囚之中、非常之断人主専之、須厚免之処、件輩浴恩蕩、帰本寺之後、若無悔過之思不変野心者、為世為寺、自在後悔歟、戦国之政可思慮之由、有義奏之人、然而彼寺等、不慮之外、空為灰燼、因茲蒼天不変、明神成崇歟、若依此儀者不免彼寺之僧侶者、非赦之本意歟、免否之間叡慮未決、可令計申、左大将実定卿に被問ければ、謀叛之者減死罪一等、可処遠流、而今件輩在繋囚之中免遠流之罪、(有朋下P063)今度会赦、殊驚司天之奏、為止降相之歎、厚免之条、叡慮之趣、相叶徳政歟とぞ被申ける。八月三日、肥後守貞能鎮西へ下向、是は菊地、原田、臼杵、部槻、松浦党等、花洛を背て属東夷由聞えければ、彼等を為鎮也。
九日官庁にて、大仁王会被行けり。是は承平将門謀叛の時の例とぞ聞えし。其時は朝綱の宰相依勅咒願を書て験ありといへり。今度は咒願の沙汰なし。同廿五日除目被行けり。陸奥国住人藤原秀衡、征将軍に被補ける上に当国守に任ず。越後国住人城太郎資永、越後守に任ず。秀衡は頼朝追討のため、資永は義仲追討のため也と、各聞書の注文に子細を被載たり。木曾追討の事、去四月に院庁以御下文、資永に仰付たりければ、四万余騎を引率して、信濃国横田川原にして軍
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に負たりける間、猶も勢を被付べき由其沙汰有て、同廿六日、中宮亮通盛、能登守教経已下北国へ進発す。九月九日、通盛教経等の官兵、越後国にして源氏と戦けるが、平家散々に被打落けり。
S2706 資永中風死事
九月廿日、城太郎資永が弟に城次郎資茂と云者あり。改名して永茂と云けるが、早馬を(有朋下P064)六波羅へ立、平家の一門馳集て永茂が状を披くに云、去八月廿五日除目の聞書、九月二日到来、謹で披覧之処に、舎兄資永当国守に任ず。朝恩の忝に依て、明三日義仲追討の為に、五千余騎の軍士を卒して、重て信州へ進発せんと出立ぬる夜の戌亥の刻に当て、地動き天響て雲上に音在て云、日本第一の大伽藍、金銅十六丈の大仏焼たる平家の方人する者ありやと叫始て、其声通夜絶ず、是をきく者身毛竪ずと云事なし。資永即大中風して病に臥し、うですくみて思ふ状をも書置かず、舌強して思ふ事をも云置かず、明る巳時に悶絶僻地して、周章死に失候畢ぬ。仍永茂、兄が余勢引卒して、信濃へ越んと欲して軍兵を催すといへども、資永任国の越後は木曾押領の間、不及国務、北陸の諸国、木曾に恐て一人も不相随とぞ申たる。此状に驚て、同二十八日、重て左馬頭行盛、薩摩守忠度大将軍として、数千騎の軍兵を相具して、北国へ発向す。
S2707 源氏追討祈事
兵革の御祈一品ならず、様々の御願を立、社々に神領を被寄、神祇官人諸社の宮司、本宮末社まで祈申べき由院より被召仰。諸寺の僧綱神社仏閣まで調伏の秘法被行。天台座主、(有朋下P065)明雲僧正をば、摂政近衛殿、承て、根本中堂にして七仏薬師法、園城寺、円恵法親王をば、新宰相泰通承て、
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金堂にして北斗尊星王の法、仁和寺、守覚法親王をば、九条大納言有遠承て、当寺にして孔雀経法、此外諸僧勅宣に依て、北斗尊星、延命大元、弁才陀天、内法外法、数を尽して被行。院御所には、五壇法、房覚前大僧正は降三世、昌雲前権僧正は軍荼利、覚誉権大僧都は大威徳、公顕前大僧正は金剛夜叉、澄憲新僧正は不動明王、各忠勤を抽で殊に丹精を致す。縦逆臣乱を成す共、争か仏神の助なからんと、上下憑もしくぞ申ける。
S2708 奉弊使定隆死去附覚算寝死事
去十一日に、神祇官にして、神饗あり、例弊二十二社に奉る。昔朱雀院御宇、天慶に純友追討の御祈に、太神宮へ甲冑を奉りし例とて、〈 彼の甲冑嘉応元年十二月二十一日の炎上に焼たり。 〉今度頼朝誅罰の御祈に、鉄鎧を太神官へ奉らる。さて奉弊使は、当社の祭主中臣親能、同子息神祇少副定隆朝臣勤けり。父子都を出て、近江国甲賀の駅屋に著。是にして定隆心地不例有けれども、相労りて十五日に伊勢の離宮に参著す。申刻計に、天井(有朋下P066)より長一尺四五寸計の小蛇落て、定隆が左袖の上に懸る。やがて懐の中へ匍入。怪と思て振捨けれ共不出、立上て帯を解て懐を探見に蛇なし。不思議と思けれ共、折節の酒宴に打紛て日も晩ぬ。其夜丑刻に、定隆寝ながら苦気なる息ざしにてうめきければ、父の祭主いかに/\と驚せ共、只息計にて起ざりければ、築垣より外へ舁出せば、定隆即死にけり。父の親能触穢に成て、奉弊使、中臣に事闕たりければ、大宮司祐成が沙汰として、散位従五位有信を差て次第に御祭を遂、又臨時の官幣を立て源氏可追討御祈あり。其宣命に云、竃宅神猶響三十六里、況源頼朝響
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日本国哉と書べかりけるを、朝と云文字を落して不書けり。宣命をば外記承て書習也。態とはよも書誤らじ。頼と云字は助と読ば、竃宅神猶響三十六里、況源頼響日本国哉とぞ読たりける。人内々は、一定兵衛佐世に立て日本国を奉行すべきにこそ、源氏追討の宣命に、源繁昌の口占有とぞ私語ける。
又日吉社にて、源家調伏のために三七日の五壇の法被行。初七日の第五日に当て、降三世の阿闍梨覚算法印、大行事の彼岸所にて死所に死けり。平家の方人する者は、僧俗共に死ければ、仏神御納受なしと云事顕然也。人々舌を振てぞ畏ける。(有朋下P067)
S2709 実源大元法事
又安祥寺の実源阿闍梨、朝敵追討の仰承て、大元法行て御巻数を進す。御披見ある処に、専平家滅亡の由注進あり、浅猿とも云計なし。子細を被召問ければ、実源申て云、朝敵調伏の旨被宣下、名字なき間、倩々当世の体を見に、南都園城仏法の破滅、東山北陸士卒の合戦、一天四海の大疫人民百姓の餓死、君王臣公の御歎、神事仏事の顛倒、併平家悪行の積と見ゆ。仍平家調伏の祈誓を致と申たり。他家の人々はげにもと思けれ共、平家は是を聞て大に憤り、獄定歟流罪歟と沙汰ありけれども、大小事の急劇に打紛れて止にけり。十一月廿五日に中宮院号あり、建礼門院と申。幼帝の御時母后の院号、先例なしとぞ申ける。
S2710 大嘗会延引事
今年も諒闇なりしかば大嘗会不被行。大嘗会と申は天武天皇御宇に始れり。七月以前に御即位
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あれば、必其の年の中に被行事なれ共、去年は都遷とて新都にて叶はず、様々 (有朋下P068)議定有しか共五節計にてさて止ぬ。今年は又諒闇なれば沙汰に及ばず。大嘗会の延引する事、平城天皇御宇、大同二年十月に御禊有て、十一月に有べかりしに、坂上田村丸を以夷賊を随へ給ける兵革の事に依て、同三年の十月に又御禊あて、同十一月に遂行けり。
嵯峨天皇御宇、同四年に平城宮を造られしに依て、次年弘仁元年十一月に被行。
朱雀院御宇、承平元年七月十九日に、宇多院隠れさせ給て、次年行はる。
三条院御宇、寛弘八年十月廿四日に、冷泉院の御事に依て延たりしか共、次年被行けり。二箇年延引の例いまだなし。去年は新都所狭して行はれず、今年は大極殿、豊楽院こそ未造畢なけれども、後三条院の例に任て、太政官庁にて有べかりつるに、天下諒闇の上は兎角子細に及ばず、二箇年まで延ぬる事、如何なるべきやらんと人皆怪を成す。
S2711 皇嘉門院蒙御附覚快入滅事
十二日三日、皇嘉門院隠れさせ給ぬ、御年六十一。是は崇徳院の后にて御座き。御善知識には大原の別所、来迎院の本願坊湛快ぞ参給ける。閑に最後目出くて終らせ給けるぞ貴き。昔御遺とて、是計こそ残らせ給たりけるに、世の習とて哀なり。
同六日戌刻に、鳥羽院(有朋下P069)の七宮前の天台座主覚快法親王、御年四十四、生者必滅の理、始て驚べきならね共、打つゞき哀なりける事共也。
S2712 法住寺殿移徙事
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同十三日には院御所の御移徙あり。公卿十人殿上人四十人、うるはしき儀式にて仕りけり。本御座ける法住寺殿の御所を壊て南に渡し、千体御堂の傍に被造て、片方に女院なんど居進せてぞ住せ御座ける。(有朋下P070)