『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十八
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倶巻 第二十八
S2801 天変附踏歌節会事
養和二年正月一日、改の年の始の御祝なれ共、諒闇に依て節会もなし。十六日には、踏歌節会も不被行、当代の御忌月なれば也。
抑踏歌節会と申は、人王三十九代の御門、天智天皇の御時より被始置たる事也。其時の都は、近江国志賀郡、大津宮とぞ承。此御時鎌足大臣、始て藤原姓を給て奥州守に任ず。常陸国より白雉一羽、一尺二寸の角生たる白馬一匹奉る。鎌足大臣是を捧て殿上に参る。彼送文云、雉色白者、表皇沢之潔、馬角長者、治上寿之世とぞ書たりける。彼雉を其角に居て、大臣乗て南庭に遊。聖代の奇物、何事か是に如かんや。天子御感有て鎌足を賞し、金銀色々の賞多かりけり。此事正月十六日の午時の始也ければ、其例として年々の正月十六日、雲の上人参て、馬に乗て引出物を給る事あり。溶々たる池を掘て水を湛へ、田々たる草を植て雉を飼給ひき。四季に花さく桜を植て駒を遊ばしめ給しより、是を志賀の花園とは申也。踏歌節会(有朋下P072)と名て、代々の御門いまだ怠り給はず。哀哉三十余代の節会なり、数百年の吉例也、何んぞ今年始て断絶するや。但平家の一門の過分なりつるしわざなり。所以に臣下勇者、天下不安云事あり。偏に此体の事なるべし。
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二月二十三日夜天変あり、太白昴星を犯と、是重き憤り也。天文要録云、太白犯昴星、四夷乱競て兵革不絶、大将軍去国堺といへり。世間如何が有べきと人皆歎思けり。
彼震旦国には、玄宗皇帝の御代に此天変現じて、七日の内に合戦ありて、楊貴妃失給しかば、玄宗鳳闕を出て蜀山に迷給き。我朝には宣化天皇の御時、鹿火金村、蘇我稲目なんど申臣下等、面々に立功、天下を乱して帝位を奪し事二十余年也。
皇極天皇御時元年七月に、客星入月中云天変ありき。逆臣五位に至と云事なるべし。其時役行者に仰て、七日七夜御祈ありければ、兵乱を転じて百日の旱魃となる。王位は恙御座さざりけれ共、五穀皆損じて上下飢に望けるとかや。今は役行者もなければ、誰か是を転ずべき。待池の魚の風情にて、災の起らん事を、今や/\と待居たるこそ悲けれ。(有朋下P073)
S2802 役行者事
役行者と申は小角仙人の事也、俗姓は賀茂氏也。大和国葛上郡、茅原の村の所生也。三歳の時より父に後れて、七歳までは母の恵にて成人す。至孝の志し浅からず、仏道修行の思ひねんごろなり。五色の兎に随て葛城山の頂に上る。藤の衣に身を隠し、松の緑に命を継で、孔雀明王の法を修行する事三十余年也。只一頭を尋えたりし烏帽子、皆破れ失にければ、大童に成て、一生不犯の男聖也。大峯葛城を通て行給けるに、道遠しとて、葛城の一言と云神に、二上の岳より神山まで石橋を渡せと宣ひける。顔の見悪くければとて、昼は指も出ずして、夜々渡し給けるを、行者遅
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と腹立、葛にて七遍縛り給てけり。一言主恨を成して、御門に偽り奏しけるは、役優婆塞と云者、帝位を傾け奉らんと云企ありと申ければ、御門驚き思召て行者を搦捕んとするに、孔雀明王法験にこたへて、虚空を飛事鳥の如し。依之行者の母を召禁られければ、我故に母の罪を蒙事こそ悲けれとて、自参給たり。則伊豆の大島に流し遣されけり。昼は大島に行、夜は鉢に乗て富士の山に上て行けり。一言主重て、行者を被害べき由奏し申ければ、則官兵を被下被誅とせしに、行者の云く、願は抜る刀を我に与よとて、刀をとり舌にて三度ねぶりければ、富士の明神の表文あり。天皇此事を聞召て、是凡人に非ず、定て聖人(有朋下P074)ならん、速に供養を演ぶべしとて都に被召返。爰に行者の母もろともに、茅の葉に乗て大唐に渡りし人也。懸る聖人も末代には有べくもなければ、此世の中いかゞ有べきと、心あるも心なきも各歎あへりけり。
同四月十一日、筑後守貞能、菊地高直が雲上の城を責る間、官兵二千人、高直がために被討捕ければ、貞能合戦をば止て、城を固く守て粮の尽を相待ければ、西海運上の米穀、国衙庄園を云はず、兵粮米のために貞能点定しけり。東国北国西海運上の土貢、悉く京都に不通ければ、老少上下を云ず、餓死する者道路に充満せり。群盗放火の事連夜に絶ざりければ、貴賎安堵の心ぞなかりける。月卿も雲客も、追百里之跡、欲二子之昔とぞ申あはれける。一天の逆乱、四方の合戦に、士卒塗肝脳於土地、民庶灑骨骸於原野事、不可勝計、村南村北に哭泣の声絶えず、開闢以来懸る乱はあらじ
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とぞ申ける。
S2803 顕真一万部法華経事
同四月十四日、前権少僧都顕真、貴賎上下を勧め、日吉の社にして如法真読の一万部の法華経あり。御結縁の為にとて、法皇日吉社へ御幸なる。何者か云たりけん、山門の(有朋下P075)大衆は院を取進らせて平家を討べき也と、披露ありければ、平家の一門周章騒で六波羅へ馳集る。京中の貴賎途を失て東西に迷へり。軍兵内裏に馳参て、四方の陣を警固す。牛馬人畜足いそがはしく、資財雑物遠近に運あへり。十五日に、本三位中将重衡、三千余騎を相具して、法皇の御迎にとて日吉社へ参向しけるを、又何者か云たりけん、山門の大衆源氏に与力して、頼朝義仲に心を通じて平家を背く間、衆徒をせめん為に、重衡卿大将軍として、既によすると■ければ、山上坂本騒動して、大衆下僧走迷へり。大講堂の大鐘ならし、生源寺の推鐘扣てをめき叫ければ、すはや提婆がよするなるは、南都三井の仏法亡し果てて、今又我山の仏法亡さんとや、如何がせんとて、甲冑兵仗太刀長刀、大衆も法師原も有に任て出立つゝ、坂本早尾に充満たり。法皇大に驚き思召、公卿殿上人色を失へり。北面の者の中には、黄水を吐者も有けるとかや。懸りしかば法皇還御、重衡卿穴穂の辺に参会て、迎進せて入洛す。大衆平家を亡さんと云も虚言也、平家の大衆を責んと云も実ならず、法皇の御結縁も打醒進せ、山上洛中の騒も不斜、よく天狗の荒たるにこそ不思議也。角のみあらんには、御物詣も今は御心に任すまじきやらんと、法皇は御心憂ぞ被思召ける。
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< 養和二年五月二十七日、改元有て寿永と云。>
五月(有朋下P076)十九日、蔵人左少弁光長宣旨を奉て、叡山の悪徒永雲、薩摩国に配流、顕真は土佐国へぞ被遣ける。是は高倉宮の御子、並に伊豆守仲綱が子息を、木曾義仲が許へ下し奉りける罪科とぞ聞えける。
同廿七日に改元の定あり、改養和二年為寿永元年。法皇の御気色に依て被行けり。是は或人、夢想の告ありける故とぞ聞えける。延喜に公忠の夢想に依て忽に改元ありき、例なきに非。今上去々年即位、其年大嘗会有べき処に、福原に臨幸の間、新都其礼難被備ありければ延引しけり。去年は又諒闇也ければ被行ず。今年被遂行べきに、大嘗会以前両度の改元、其例審ならずと沙汰有けるに、天智天皇十年に崩じ給しに、天武天皇固辞して即位し給はず、大伴皇子の乱ありて、次年の天武元年七月に彼皇子を被誅き。同八月に太宰府より三足の赤雀を献ず、仍て年号とす、朱雀是也と左大臣経宗被申けり。大外記頼業は、白雉を改て白鳳として、十一月に大嘗会を被行きと申ければ、忽に改元ありけるとかや。
S2804 宗盛補大臣并拝賀事
寿永元年九月四日、前右大将宗盛、大納言に成返給て、やがて十月三日内大臣に成給て、(有朋下P077)大納言の上搆ワ人を越給ひき。中にも徳大寺の左大臣実定は一の大納言にて、才学人に勝れ、花族の家に伝へ給へり。被越給けるこそ不便なれ。
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七日宗盛卿兵仗を給はる。十三日には御拝賀あり。当家他家の公卿十二人やりつゞけ、殿上人蔵人已下十六人前駆し給て、我劣らじと綺羅めき給しかば、目出見物也。東国北国の源氏等蜂の如に起て、只今都へ責入んとしけるに、波の立か風の吹かも不知る体にて、角閑に花やかなるも云甲斐なしとぞ傾申ける。凡て東国北国に限らず、南京北京の大衆、四国九国の住人、熊野金峯の僧徒、伊勢石清水の神官までも、悉く平家を背き源氏に心を通じければ、四方に宣旨を下し、諸国に勅使を遣せ共、更に不用之、宣旨も勅使も、平家の下知とのみ知て、公家の御計と不思ければ、不随も理也。同廿二日大嘗会の御禊あり、内大臣先著陣の事あり。頭右大弁親宗朝臣、吉書を下して次第の事を被宣下けり。内大臣被供奉たりけるに、馬沛艾して、春日大宮にて高くあがりて走廻ければ、路上に下立れたり。見物の貴賎異口同音に称美しけり。実に由々敷ぞ見え給ける。節下の大臣也ければ、礼服をぞ被著ける。冠際より始て、ねり出られたる臂(ひぢ)持、最故有てぞ見えられける。同廿七日に、内大臣直衣始にて被出仕けり。前駆は前安芸守資綱已下八人也。(有朋下P078)何も然るべき輩なりけれ共、多は権威に恐て扈従しけるとぞ聞えし。新中納言知盛、左馬頭行盛、束帯にて同被扈従けり。御所々々へ被参ければ、もてなされ給ける有様、花やかにぞ見え給ける。
同十一月廿五日、紫宸殿にて節会を被行。大極殿焼失の後、いまだ被造出ざりければ、治暦の例に任て、太政官庁にて行るべきにて有けるを、今度既に御即位の時、高き御座を紫宸殿に立られて被行ける
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上は、節会又かはるべきに非とて、紫宸殿にて被行けるとぞ承る。
寿永二年正月一日、節会例の如に被行けれ共、御忌月に依て主上出御なし。物の音も不吹鳴、国栖の奏もなし。内大臣宗盛内弁勧給けり。美貌事柄は生付なれば申に及ず、作法も優に振舞も勝給へり。左大臣に並給へるも目出しと人申けり。
三日八条殿の可有拝礼とて、今朝俄に其沙汰あり、鷹司殿の例とかや。内々摂政殿に被仰合ければ、可然由申させ給ければ也。建礼門院は六波羅の池殿に渡らせ給ふ。其御所にて此事あり。申次は左少将清経朝臣、此拝礼の事は、御妹の左衛門督ぞ被申行ける。皇后宮の母后に准へ給ければ拝礼はなし。二条の大宮も、上西門院の母儀に被准けれども、此事不被行。されば八条殿の拝礼さし過てぞ覚るとぞ申ける。宰相入道成頼は世を遁、高野の雲に跡を隠し給たれ共、折節には加様の事(有朋下P079)聞給ては、東国北国も乱たり、諸寺諸山静ならず、懸らず共あらばや、世既に至極せり、入舞にや。許由が頴川に耳を洗ければ、巣父が牛を陸に上けるも、加様の事に堪ざりけるにこそと、宣ひけるこそ恥しけれ。
二月廿日、当今始て朝覲の為に法住寺殿へ行幸、鳥羽院六歳にて始て朝覲の行幸有ける其例也。正月は御忌月也ければ此月に及べり。建礼門院夜部此御所へ御幸あり。法皇の御方の御拝の後、女院御方の御拝ありけり。
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S2805 頼朝義仲悪事
三月廿六日に、木曾追討の官軍門出あり。来月九日北国へ下向すべきにて有けるが、今日吉日とて也。同二十七日に宗盛内大臣を辞し申、重任を恐て也。去ども御許なし。八条高倉の亭にて此事あり。平大納言時忠、按察大納言頼盛、新中納言知盛、左三位中将重衡、右大弁親忠ぞ御座ける。宗盛は障子の中に居給へり。同年三月の比より兵衛佐と木曾冠者と中悪き事出来れり。甲斐源氏武田太郎信義が子に、五郎信光が讒言に依てなり。譬へば信光に最愛の女の有けるに、木曾が嫡子清水冠者を聟にとらんと云遣たりければ、木曾無愛に返事する様は、娘持給たらば被進よ、清水冠者に宮仕はせん、(有朋下P080)妻までの事は不思寄と云たりけるを、信光遺恨に思けり。抑当家は是清和帝の後胤、多田新発意満仲三代の孫、伊予守頼義に三人の子ありき。国家を守らんため、家門の繁昌を思ふ故に、三社の神に進る。所謂る太郎義家八幡大菩薩、二郎義綱賀茂大明神、三郎義光新羅権現、木曾は太郎の末、頼義より五代の孫、信光は三郎末、頼義より又五代也。信光は甲斐武田の住人、義仲は信濃木曾に居住せり。一門更に無勝劣、遺恨の木曾が詞也、世の乱なくば打越てこそ怨むべきに、惣事に付て亡さんと思て、兵衛佐殿に内々申けるは、木曾義仲、去々年越後の城太郎資永を打落てより以来、北陸道を打領じて、其勢雲霞の如し、今平家誅戮のために上洛の由披露あり、実には小松大臣の女子の十八に成給を、伯父宗盛養子にして木曾を聟にとらんと、忍々に文ども通ずと承る、角して平家と一に成て、当家を亡さんと云梟悪の企あり、不知召もやとぞ申たりける。兵衛佐大に驚き
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給けり。折節又十郎蔵人行家は兵衛佐には伯父也ければ、大場三郎景親が、平家の儲に造たる松田亭に御座けるが、兵衛佐に被申けるは、行家平家と八箇度合戦して、二度は勝ち六度は負、家子郎等多く被討ぬ、彼等が孝養をも営まん、何にても一箇国相計給へと。佐殿返事には、頼朝は十箇国をなびかす、木曾は信濃上野の勢を以て、北陸道(有朋下P081)五箇国を靡し侍り、御辺も何れの国にても打靡て、院内へ被申て、打取の国也とて知行し給へかし、当時頼朝が国奉行は不思寄と被申たり。行家本意なき事に思て、兵衛佐憑みては墓々しからじ、木曾を憑まんとて、千余騎の勢を引具して信濃国へ越にけり。佐殿是を聞給て、木曾と十郎蔵人と一に成て、義仲平家に親みて頼朝をそむかば、由々敷大事、人に上手せられぬ前に木曾を討んとて、十万余騎にて打立給ふ。今日は坎日也、如何ん有べきかと評定あり。佐殿宣ひけるは、昔頼義朝臣、奥州の貞任が小松館を責給ける時、今日往亡日也、明日可遂合戦かと被定けるを、武則先例を勘て云、周武王合戦に勝事往亡日を不避、勇士は以得敵為吉日申て、小松館へ押寄て、忽に貞任を誅して勝事をえたりき、況や坎日をや、先規を思ふに吉例也と宣ひければ、可然とて十万余騎、上野と信濃との境なる、臼井坂をぞ越給ふ。木曾角と聞て、今井樋口等を招集て、此事如何が有べきと問ふ。口々に申けるは、今は別の子細侍まじ、富部太井に城構して支戦はんに、なじかは軍に負べき、はや/\兵を汰へ給へと云。木曾暫く案じて、さらぬだに、源氏は父を殺し親類を亡して世にあらんずる者と人云なるに、平家追討の
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大事を閣て、兵衛佐と軍するならば、一門の滅亡他人の嘲哢最恥(有朋下P082)とて、木曾は越後へ引退。兵衛佐は、人の穏便を存ぜんに頼朝勝に乗に及ばずとて、鎌倉へ引返し給けるが、武蔵国月田川のはた、青鳥野に陣を取て、天野藤内民部遠景、岡崎四郎義真、二人を召て下知し給けるは、越後へ越て木曾にいはん様は、平家朝威を背き奉り、仏法を亡に依て、源家同姓の輩に仰て、速に追討すべきの由院宣を被下訖ぬ、尤夜を以て日に続で、逆臣を討て宸襟を休め奉るべき処に、十郎蔵人私の謀叛を起し、頼朝追討之企ありと聞ゆ、而るを彼人に同心して扶持し被置之条、且は一門の不合、且は平家の嘲也、但し御所存を不弁、もし異なる子細なくば、速に十郎蔵人を被出歟、それさもなくば、美妙水殿を是へ渡し給へ、父子之儀をなし奉るべし、両条之内一も承引なくんば、兵を指遣して誅し奉るべしと慥に云べしとて使にさゝれたり。若面に負て委いはぬ事もぞ有とて、副使に安達新三郎清経を指遣す。岡崎四郎藤内民部、越後に行向て兵衛佐の被申旨、憚処なく風情に過て申たり。木曾此事を聞て、郎等共を招集て評定あり。小室太郎が儀には、先度の穏便今更変改有べからず、若承引なくんば東国北国の大合戦、軍兵数尽て、朝敵追討に力あるまじ、本より御意趣なき上は、早く御曹司を渡し奉るべきかと申。今井四郎兼平が儀には、兵衛佐殿と終に御中よかるまじ、故(有朋下P083)帯刀先生殿をば悪源太殿討給ぬ、意趣定て御座らんと佐殿も思召らん、幼き御曹司を他所に奉置て、所々にて思召んも心苦し、平家を討んと云も御家門の為也、只一度に思召切て兎も角も成
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給へと申。此御曹司と申は、今井四郎兼平が妹の腹也けり。去ば木曾が為には、乳人子を思て儲たる子、生年十一にぞ成ける。義仲案じて、小室太郎は今参り、心も剛に計ひよし、多勢の者にて中違はじと申処も理也と思ければ、子息の清水を呼で、己をば兵衛佐の子にせんと宣へば遣す也、相構て悪れずして、一方の固め共なれといはれければ、清水冠者返事をばせず、畏て父の前を立、母や乳母の方にて、我をば鎌倉へ被遣候、帰参らん程の形見にとて、笠懸を七番射て見せ奉ければ、女房達是を最後とや思けん、涙ぐみてぞ見合れける。木曾は兵衛佐の使に出合、酒すゝめ馬引などして、種々に翫し饗応せられけり。返事には、十郎蔵人に意趣御座ましけん事は不存知、又呼越たる事もなし、打憑見え来給たれば、只自然の情を存る計に候、誠に平家追討の大事を閣て、何の遺恨ありてか謀叛の企あるべき、人の讒言に侍か、信用に及べからず、又清水冠者事は、未東西不覚の者候、仰を蒙て進せねば所存を籠たるに似たり、召に随て是を進す、不便にこそ思召れめ、義仲角て候へば、一方の固めには憑思召べ(有朋下P084)しとて、清水殿をば岡崎四郎藤内民部に渡しけり。両使畏て鎌倉へ相具し奉る。宇野太郎行氏とて、美妙水冠者と同年に成りけるをぞ伴には具して遣しける。木曾は宗徒の郎等三十余人が妻を召て、美妙水冠者をば、汝等が夫の身替に鎌倉へ遣しぬ、若冠者惜むならば、兵衛佐、東国の家人催集て可推寄、両陣矢さきを合せば共に可討死、世中を鎮んとの計ひにて冠者をば兵衛佐に渡ぬと宣へば、女房共皆涙を流しつゝ、穴目出の御計や、加程に思召主君の御恩を忘れ
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奉て、妻子悲しとて、何くの浦よりも落来夫共には面を合せじ、ちゝの社の前渡せし、照日月の下に住まじと、各起請を書て、木曾殿にぞ進する。
S2806 源氏追討使事
寿永二年四月十七日、木曾追討の為に官兵北国に発向。其より東国に責入て頼朝を誅すべしと聞ゆ。大将軍には権亮三位中将維盛卿、越前三位通盛卿、薩摩守忠度、左馬頭行盛、参河守知度、但馬守経正、淡路守清房、讃岐守維時、刑部大輔度盛、侍大将には、越中前司盛俊、子息太郎判官盛綱、同次郎兵衛尉盛嗣、上総守忠清、子息五郎兵衛(有朋下P085)尉忠光、七郎兵衛景清、飛騨判官景家、子息大夫判官景高、上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門有国以下、受領検非違使、靱負尉、兵衛尉、有官輩三百四十余人、武勇に携る者は、大略数を尽して下し遣す。此外畿内は、山城、大和、摂津国、河内、和泉、紀伊国の兵共、去年より被催上たり。東海道には遠江以東は不参。伊賀、伊勢、尾張、参河の輩は当参、近江、美濃、飛騨、三箇国の兵、少々参。北陸道には、若狭以北之者は不参。山陰道には、但馬、丹後、因幡、伯耆、出雲、石見、山陽、南海、西海、四国の者は不参。西国には、播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、豊前、豊後、筑前、筑後、大隈、薩摩、此国々の者共は、去年の冬より被召上、年明ば馬の草飼に付て、合戦有べきと被相議たりければ、加様に夏に成てぞ打立ける。著到披見之処に、其勢十万余騎、大将軍六人、宗徒の侍二十余人、先陣後陣を定め、我先々々と、思々に駒を早めて下けり。中にも武蔵国住人長井
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斎藤別当実盛は、本加賀国の者にて、今度は殊に勇て下けり。神功皇后より以来、天下に丞相の合戦廿三箇度也。十万余騎の軍兵の一方にすゝむ諍は、此度共に七箇度也。去共大将の六人まで打立事は一度もなし。而に六人将軍、十万余騎を率して洛中を被出ければ、異国は知らず、(有朋下P086)日本我朝には何者か手向すべき、源氏等憖に此度乱を起し、今度ぞ跡形なく滅び終なんずる、穴ゆゝしの事やとぞ京中の上下■ける。六人の大将軍、各一色に装束して打出給へり。蜀江の錦の鎧直垂に、金銀の金物色々に打くゝみたる冑著て、対面のためなれば甲をも著給ず、大中黒の矢に滋籐の弓持て、雪よりも白かりける葦毛の馬に、螺鈿の鞍置て乗給へり。各聞えける合戦の道の出立は、冥途の旅の出立也、再び帰参て見参に入らん事有難し、今朝面々の暇は申ぬ、大臣殿に最後の暇申さんとて、六人馬の轡を並て西八条の南庭に列参し給へり。女房男房、各或は御簾すだれを■げ、或は縁中門にたゝずみて見給ひけり。容顔美麗の気色、馬鞍錦繍の有様は、丹師が筆も及ばじとぞ上下男女褒美しける。盛俊已下の侍共は、馬より下て鎧の袖を合て庭上に気色せり。如此次第の礼儀良久敬屈して、暇申て打出給ふ処に、白浄衣に立烏帽子著たる老翁六人、梅の■に巻数付て、各捧て六人の大将軍に奉る。門出よしとて弓を脇に挟つゝ、各巻数を披て読給けるぞ面白き。
第一維盛卿 堯雨斜灑 平家平国 頓河餓流 源子失源 厳島明神より 権亮三位中将殿
と書れたり。(有朋下P087)
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第二通盛卿 平家庭上 立不老門 源氏蓬苑 放毒箭鏑 厳島明神 越前三位殿と書れたり。
第三行盛朝臣 東海栄花 開平家園 厳島神風 破源氏家 厳島明神 左馬頭殿
第四知度朝臣 平家繁昌 白駒■庭 源氏衰浪 漁翁失船 厳島明神 参河守殿
第五経正朝臣 日本放日 平家余風 太白犯星 源氏物怪 厳島明神 但馬守殿
第六清房朝臣 平家如王 源氏能敬 源氏似鼓 平家打之 厳島明神 淡路守殿とぞ侍りける。六人各馬より下て再拝し給ひけるぞ目出き。馬引給はんとしけるに、翁は化して失にけり。是は実の厳島明神の、厳重の御示現希代の不思議也。明神これ程御託宣の上は、平家繁昌源氏衰滅の条疑あらじとこそ悦あへりけれ。後に聞えけるは、彼厳島の神主、平家を奉祈志心中に深して、合戦の門出を奉祝作事にてぞ有ける。縦へば、正月元日元三に長生殿裏不老門前と祈れ共、齢は日にそへて衰へ命は忽に止る、嘉辰令月歓無極と祝へ共、福幸もさまでなし、思歎ことは日々に増るが如し。万事は皆春の夜の夢也、諸法は只先世の果報なるべし、祈れ共其れにもよらず、祝へ共叶はぬは此我等が有様也。抑第一維盛の巻数の詞に、頓河俄に流て源子失源と申心(有朋下P088)は、唐土の清涼山の北の麓に、大河俄に流たり、是を頓河と名く。釣を垂る翁ありき、其名を源子と云けり。件の河の俄に流出たるに驚て、尋入て見れば、変化の者の化したる河にて跡形なく失にけり。彼河の源の無が如くに、此源氏の世も絶ぬべしと咒咀の心を表して、源子失源と書たりけるとかや。平氏繁昌源家
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滅亡と祈しかども、先途通らずや有けん。
片路を給て、権門勢家の正税、年貢、神社仏寺の供料供米奪取ければ、路次の狼藉不斜、在々所々を追捕しければ、家々門々安堵の者なし。近江の湖を隔て東西より下る。粟津原、勢多の橋、野路の宿、野州の河原、鏡山に打向、駒を早むる人もあり。山田矢走の渡して、志那今浜を浦伝ひ、船に竿さす者もあり。西路には大津、三井寺、片田浦、比良、高島、木津の宿、今津、海津を打過て、荒乳の中山に懸つて、天熊国境、匹壇、三口行越て、敦賀津に著にけり。其より井河坂原、木辺山を打登、新道に懸て還山まで連たり。東路には、片山、春の浦、塩津宿を打過て、能美越、中河、虎杖崩より、還山へぞ打合たる。軍兵十万余騎北国に下向と聞えければ、木曾、我身は越後国府に在ながら、信濃国住人に、仁科太郎守弘、加賀国住人、林六郎光明、倉光三郎成澄、匹田二郎俊平、子息小太郎俊弘、近江国住人甲賀入道成覚等を大将として、燧城へ指遣。其勢追継々々追継(有朋下P089)に、越前国府、大塩、脇本、鯖波の宿、柚尾坂、今城までぞ連たる。陣をば柚尾の峠にとり、城をば燧に構たり。平泉寺の長史斉明は、木曾が下知に随て、門徒の大衆駈催し、一千余騎にて大野郡を打過て、池田越に燧城に楯籠。抑此城と云は、南は荒乳の中山を境て、虎杖崩能美山、近江の湖の北の端也。塩津朝妻の浜に連たり。北は柚尾坂、藤勝寺、淵谷、木辺峠と一也。東は還山の麓より、長山遥に重て越の白峯に連たり。西は海路新道水津浦、三国の湊を境たる所也。海山遠打廻、越路遥に見え渡る、磐石高聳挙て、四方
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の峯を連たれば、北陸道第一の城郭也。還山の麓、西は経尾と名け東は鼓岡と云、其間二町には不過。南より北へ流たる山河あり、日野河と名く。能美新道の二の谷河の落合也。左右の山近所なれば大木を倒しがらみをかき、大石を重て水を堰留たれば、彼方此方の岡を浸、今城柚尾の大道を、平押にこそ湛たれ。水南山の陰を浸して青くして滉瀁たり。波西日の光を沈て紅にして■淪たり。彼無熱池の渚には、金の砂を敷て八功徳水を湛へ、昆明池の間には、徳政の船を浮て八重の波に遊けり。燧城のしつらひは、大石を重て水をよどみ、大木を横て流を築籠たれば、遥に見渡して湖の如し。船なくしては難渡かりければ、平家の軍兵は、能美新道の境なる岩神山(有朋下P090)に陣をとる。源氏は柚尾坂、鼓岡、燧山に陣をとる。両陣海を阻て支へたり。相去事三町には過ざりけれ共、輙く落し難ければ、徒に日数を遂て評定様々也。
S2807 経正竹生島詣并仙童琵琶事
修理大夫経盛の子息に、但馬守経正は、詩歌管絃に長じ給へる上情深き人にて、懸る乱の中にも心を澄しつゝ、湖水遥に見渡し給ひ、南海遠く詠れば、沖の波間に小島あり。藤九郎有教を召て、彼はいづくぞと問給ふ。彼こそ竹生島とて貴き霊地にて御座候へと申。やゝ猿事あり、未拝所也、且は為結縁、且は祈誓のために参らんとて、郎等四五人相具し、海津浦より小船に乗、忍て参給ひけり。比は卯月の廿日余の事なれば、比良の高峰の山おろし、さゞ波わたる海上に、はる/゛\と船は漕行ども、跡は波にぞ消にける。青葉に見ゆる木本に、春より影や茂らん澗谷の鶯声老て、初音床敷
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杜鵑旅の心を慰めり。急ぎ船より下給ひ、此島を見給へば、軒を並べる禅坊に読誦の音幽に、老を伴高僧、薫修の衣も香し。或は秘密瑜伽の道場あり、或は止観円実の学窓あり。空に昇る香煙は、孤島の霞とあやまたる。海に流るゝ供花は、一葉の船と云つべし。海漫々と(有朋下P091)して直下と見下せば底もなし、雲の波煙の波に紛つゝ、深水最幽也。昔秦皇漢武の、不死の薬を採んとて、方士を使に遣はして蓬莱を求しに、蓬莱を見ずばいなや帰らじと云ける童男丱女は徒に舟の中にや老にけん。茫茫たる天水、角やと覚て面白や。或経云、南閻浮提の中に湖海あり、海の中に有水晶輪山、即天女の所住也と説るゝは此島の事也。金輪際より出生せる故に、劫火の焚焼にも壊乱せず、近くは慈尊の出世を待、遠くは三世に動転なしとかや。天女と申は即大弁才功徳天女是也。此往古の如来法身の大士也。紫磨の姿を隠して和光の道に出給。仮に端厳の女身を荘て、能美妙の音楽を調ぶ。左の掌を舒ては三昧の琵琶を懐き、右の手を動しては四絃の呂律を調ぶ。故に此天をば美音天女とも名、妙音楽天とも申す也。降魔の大将としては、居を西北に卜、弓箭の棟梁としては威を東南に振ひ給へり。衆生利益のためにとや、此島に跡を垂る。神徳殊に厳重也、眺望も又殊勝也。昔都良香と云し人此島に詣つゝ、湖水遥に見渡して、三千世界は眼の前に尽ぬと詠じ給たりければ、権現忽に、十二因縁は心中空と付給たりけるも、いちじるくぞ貴き。経正御前に参給ひ終夜祈誓して、南無帰命頂礼弁才天女、機感相交て再拝時至れり、我として深く神徳を仰ぐ、神として必我願を守り、
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怨敵を眼前に(有朋下P092)挿絵(有朋下P093)挿絵(有朋下P094)退て、皇威を海内に照さしめ給へ、本地の悲願を思へば四弁才大士也。垂跡の効験を訪へば、一陰陽の明神也、懇祈心に満冥覧掌に在と、心計に祈給ひ、初には法施を奉りけるが、暁懸て出る月湖水の波に漂、霜置夏の曙社壇の砌に耀きけり。岩越浪の音すごく、松吹風も身に冷じ。何事に付ても物哀に覚えつゝ、最心澄給ければ、賢くぞ此島に渡り、神に契を結び奉りけるとおぼして、傍の僧を招き給、神明法楽の御為に一曲を弾ぜん、仙童の琵琶取出なんと宣へば、いと安き事也とて、僧琵琶を懐て但馬守の前に閣く。経正掻寄給て、楽二つ三つ弾じて後に、上玄石上と云秘曲を弾じ給ふ。諸僧耳を欹て、感涙袖を絞りけり。天女納受し給て、社壇の上より白き狐出来、庭上に遊て但馬守の方を守けるこそ不思議なれ。経正は琵琶を閣て、神明の化現と忝く思給ければ、諸願成就疑なし、和光利物の夏衣、思立けるうれしさよ。
千早振神に祈のかなへばや白くも色のあらはれにけり K142
とぞ詠じ給へり。其後狐こう/\鳴て、社の後へ隠にけり。
< 抑仙童の琵琶と云は、昔興福寺の興静僧都の弟子に、松室の仲算とて学生ありき。竪浄戒を持て、広く諸宗に亘る。或時一人の児童来て同宿せんと望む。仲算問云、汝何人ぞ、何れの所より来れるぞと云。(有朋下P095)児答て云、我は北嶺叡山にありき。彼山常に物騒して、閑居の栖に非ず、願は禅房に居宿して、静に法華経を読誦せんと云ければ、許して是を置。容貌優美にして百の媚外に顕れ、心操落居して柔和を性に備たり。必学問を不好、専法華を読誦す。仲算愛念して他事を忘たり。殆学業に怠り
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あるが如し。諸僧来集して遊宴するに、人の心を破らざれども深く思へる色あり。三箇年をへて後、八月十五日の明月に、〔終〕夜意を澄して偏に経をよみ、坊中に経行して、暁に望で行方を不知。仲算心労して、東西山里馳求ども不得、正に寝食を忘て万事忙然たり。一寺の歎大衆の愁也。年月をへて後、仲算春日社に詣つ。途中に老人有て云、我は是南山の膺夫樵蘇の野人也。宿縁に被催て一の草堂を構たり、願は禅下、臨行して供養の蓄念を果し給へと。仲算領状して日時を契て、吉野奥に行て法会を遂畢ぬ。夜深人定て、檀越を呼て語て云、我に童児ありき、其性明敏にして情尋常に越たり、不計に坊中を出て、行方をしらず、恋慕時を遂て惣て忘るる思なし、彼児怱々を厭て閑居を欣、心を澄して法花を誦す、而るに当山を見るに、石巌高峙て、嶺松鬱茂也、彼児の意に相叶ふべき砌也、高峯深谷と云とも相尋んと思ふと云。檀越語て云、我去年弓木をきらんが為に此山に入き、音声和に聞えて、経をよむ音(有朋下P096)あり、怪て声を趁て行に、巌の上に松あり、此下に児あり、奇形妙なる粧、敢て人類にひとしからず、宴座して経を誦す、目を合て是を見るに、暫く有て跡を消す、若如此人歟と。仲算聞敢ず、悲歎鳴咽して涙を流して云、師檀の儀は多劫の契り、乃至成仏までに互に行化を助く、願は我共に彼所に行て其跡を見ん、生々の広恩偏に此事に有べしと。檀越憐を発して仲算と相共に山に入、千仭の谷より登、万丈の峯より下て、其所に至る事一日二夜、檀越をしへて此所也と云。奇き石峙て狐松一株あり、眺望四方に晴て雲霞腰を廻れり。誠に霊神遊興の砌、故仙経行の境と見えたり。仲算岩の上、松の本に伏倒て祈誓して云、我四十余年の修学、全名利の為に非ず、但恨くは妄執を児童に残して、忘んとすれば弥思を増、思ば又身心苦し、七堂の三宝四所明神、憐を垂て我念を知見証明し給へ、縦身命を此みぎりに捨て、永く骸を守る鬼とは成とも、今度此児に合ずんば本寺に帰らじ、大小乗の修学、一句偈の薫修、併我児
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に廻向す、一時一節の程也とも、必声を聞形を見せ給へ、永き妄念を起て、再び悪趣に入ん事如何せんとて、唯識の要文を誦し、法華の第八を読。祈念誠を顕し、三宝哀とおぼしけるにや、巌の上、松の間に児童の貌顕たり。髣髴たる事、明月の薄雲を隔たるが如く、飄■する事、紅花(有朋下P097)の旋風に翻に似たり。窈窕たる粧、柔和の詞を以仲算に語て云、
往縁有契、参入禅室、宿善相催、幸聞妙法、我常思念紅栄黄落夢中盛衰、草露風葉旦暮難期、終錯花仏教、得度在此時、行往座臥、欲出火宅、千部功績、羽化既生、仏法恩深、恒沙非譬師訓徳厚、塵劫何酬、須詣禅室、待和尚足下、丹竃道成人間隔境、故師資失礼、願垂宥容矣、重乞請云、御教訓経、時々不審、再聞御読誦、重明参差、仲算云、老衰音咽、読誦聞倦、唯卿誦経、頗糺参差、師弟互譲、再三往復、仙童随師命誦経、其為体、青嵐紅林を吹聴第五の絃曲を弾ずるが如く、琴松に頻伽囀、波七菩提の岸を打に似たり。読誦雲に聞えて随喜の涙を雨、経已に畢。仲算涙を抑て云、陀羅尼品に両の字差と。仙童云、諸山同疑へり、不審忽に散ぬと。今は互に別去なんとす。仲算今更歎の増りつゝ、思しよりも最哀。仙童其心を休んと思て云、我毎年暮春十八日に、五百の群仙と江州竹生島に集て、三箇日夜宴会あり、不肖の身、苟も員外に列れり、今年三月は琵琶の役に相当れり、冀禅下、琵琶を給て其の役を勤めんと云。仲算云、其事易にあり、但如何が送奉らんと云。仙即悦べる色ありて云く、十八日より前十五日の夜、禅房に参じて給べし、件の夜、房中の人を出して雑穢を掃除し、縁の前に香花を焼(有朋下P098)て、深更に至るまでに静に相待給へと懇に語て、仙童雲霞と化して失にけり。仲算泣々袖を絞て本寺に還、恋慕日に増して、懐旧肝を砕。暮春三の夜を相待処に、朧々として無片雲、香煙青天に通ずる時、奇雲一叢軒端に覆て、雲の中に紫蓋をさせり。仲算琵琶を懐て庭上に投たりければ、雲おりて琵琶を巻取て空に登畢ぬ。仲算其影を追て竹生島に
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詣つ。十八日の夜深更に及、船を沖の浪に浮べて、眼を戴て瑞雲を守る、彩雲色々にして青天に星馳、笙歌声々にして蒼海波静也。仲算琵琶の音を聞て、頗哀惜の思を成す。時に雲晴音止て、琵琶を船の中に投入たり。仲算虚き琵琶を懐て、声を挙て叫けり。終に其琵琶を持て、竹生島の大明神に奉て、泣々本寺に帰り給ぬ。
琵琶もいみじき名物也。楽も目出き秘曲也。主も究竟の上手也。明神納受し給へば、霊瑞更に新なり。未憑もしくおぼしけるに、夜も既に明なんとす。名残は旁た惜けれ共、経正は燧が城も覚束なしとて郎等共をば相具して、沖の波を漕分て、海津浦へぞ著にける。>
S2808 斉明射蟇目事
但馬守経正の祈誓の験しにや、源氏の大将に憑たる斉明倩案じけるは、平家は聞体十万(有朋下P099)余騎、木曾は僅に十分が一、されば軍に負て、平家に生捕られ奉て憂目を見んよりも、返忠して平家に力をそへんと思ふ心ぞ付にける。薄き切紙に細々と状を書て、蟇目の中に入て平家の陣へ射渡したり。平家は此蟇目の鳴ぬ事こそ恠しけれとて、取上見れば中に切紙の文あり。披て是を見るに云、源平の合戦に依て、意ならず木曾が為に駈催されて此城に籠て候。身は源氏に加て心は平家に通、此城難所に非ず、谷川を塞で下に堤を築、しがらみを掻水を関止たれば、東西の山の根に湛て海の如く見ゆれ共、夜に入て、水に心得たらん足軽共を東の山の根へ指遣して、しがらみを切下ならば、山川の習にて、水は程なく旱落候べし、其後案内者して後矢仕るべし、是は越前国平泉寺の長吏斉明が申状也とぞ書たりける。平家大に悦て、夜に入て足軽共を廻して、大石を崩し除けしがらみ
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を切流す。夥しく見えける海なれ共、山川なれば水は程なく落にけり。
S2809 源氏落燧城事
〔去程に〕二十七日に、平家十万余騎時を造て推寄たり。源氏時を合て戦ふ処に、斉明急に心替して、一千余騎を引分て平家に付、忠を尽して後箭を射る。源氏不堪して引退き、(有朋下P100)越前国河上城に立籠る。平家は斉明を先として河上城へ推よす。源氏暫し支て戦けれ共、兵糧なかりければ、爰を引て三条野に陣をとる。平家勝に乗て推よす。両陣時の音を不合、源氏は寄手の時の音を待兼ねて、加賀国住人林六郎光明が嫡子に、今城寺太郎光平と云者あり。褐の直垂に、袖をば紺地の錦を付たりけり。紫糸威の鎧に、大中黒の矢頭高に負、重藤の弓真中取、八寸に余たる大栗毛と云馬に、白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。此馬きはめて口強して、国中には乗随る者なし。林六郎光明が郎等に、六動太郎光景と云者計ぞ乗従へける。今度も光景をのすべかりけるを、打出んとての時、光平父に逢て、今度は大栗毛に乗て軍に出んと云。父光明此言を聞て、弓取は口の強き馬に乗ては必犬死する事あり、不可有事也、光景を乗せよと云けれ共、光平は、弓矢取身は軍場こそ晴にて候へ、此日比労り飼置て、此大事にのらではいつか乗べきとて、父が誡にも随はず、押て乗て打出つゝ、皆紅の扇に月出したるを披きつかひて、坂上の利仁公より六代の孫、加州住人林六郎光明が嫡子、今城寺太郎光平と名乗て、我と思はん平家の侍共、押並て組や/\と云。平家是を聞て時をつくる。源氏時の音を合たり。源平の馬共、時の音に驚て馳廻らんとする事夥し。中にも光平が大栗毛、国中第一の口(有朋下P101)つよき馬なれば、
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引共々々留らず、今は叶はじとて手綱をくれてぞ馳入たる。平家馬にあたらじとて、左右へさとぞ引たりける。馬も究竟の逸物、主もいみじく乗たれば、敵も御方も軍の事をば閣て、此馬をこそ誉たりけれ。獅子奮迅の振舞、竜馬酔象の有様、穆王八匹の天馬の駒、角やとぞ見えける。爰に平家の侍、武蔵国住人長井の斎藤別当真盛進出て思けるは、加賀国には誠に此者共こそあるらめ、彼も斎藤我も斉藤、共に利仁公の末葉也、恥ある者は名ある者に逢てこそ死ぬるとも死なめ、況一門也、押並て組ばやと思、手縄かいくりて進より、同流の斎藤に、別当真盛と名乗て、弓を捨て、太刀の鞘をはづして打組処に、馬の間無下に近て打物ちがふべき様なければ、押並てひ組で、馬の間へどうど落、上になり下になり、二ころび三ころびしたりけれ共、光平は若く真盛は老たり、既別当危見えけるに、郎等二人落合て光平が頸を切。光平が郎等は押隔られて、一人もつゞかざりければ、犬死して失にけり。馬は敵の中より走帰けれ共、留る者はなし。親が云ける言少も違はざりけり。父の命に相随ひたりせば、角はよも犬死にはせじと、人皆是を惜みけり。
源氏は、矢合に光平を討して三条野を引、平家又続て責懸ければ、源氏は引退て、加賀国篠原の宿に陣をとる。平家は越前国長畝城に籠て、暫く(有朋下P102)息を休めけり。越中国住人、石黒太郎光弘、高楯二郎光延、泉三郎、福満五郎、千国太郎真高、向田二郎村高、水巻四郎安高、同小太郎安経、中村太郎忠直、福田二郎範高、吉田四郎、賀茂島七郎、宮崎太郎、南保二郎、入前小太郎など、評定
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しけるは、抑此事如何が有べき、源氏は越前国燧城を落されて、既に加賀国へ入と聞、木曾殿は北国の大将として攻上り給なるが、越後国府に御座也、平家に懸向て一軍して引べき歟、只直に木曾殿へ参べきかと云。吉田四郎申けるは、我等は無勢也、平家は十万余騎と聞ゆ、中々小勢の分限見えても悪かりなん、急木曾殿へ馳参、大勢の前を蒐べきやらんと云。石黒太郎申けるは、弓箭とる身は猿事なし、大勢小勢をば云べからず、如何にも御方を後に当て、敵に向は武者の法也、軍せずして参たらば、定て尋給はんずらん、勢は幾等程ぞ、陣をば何に取たるぞ、御方には誰が手負討れたるなど問れん時は、如何が陣じ申べきなれば、大将軍の思ひ給はん事も云甲斐なし、又東国の聞えも然べからず、さらば先平家に打向て、敵をも一矢射、我等も一矢射られて、疵を蒙て参たらんこそ面目なれと云ければ、此儀可然、さらば平家に向へとて、石黒宮崎を先として、五百余騎こそ打立けれ。(有朋下P103)
S2810 北国所々合戦事
〔斯りしかば、〕五月二日平家は越前国を打随へ、長畝城を立、斉明を先として加賀国へ乱入。源氏は篠原に城郭を構て有けれ共、大勢打向ければ堪ずして、佐見、白江、成合の池打過て、安宅の渡、住吉浜に引退て陣を取。平家勝に乗り、隙をあらすな者共とて攻懸たり。其勢山野に充満せり。先陣は安宅につけば、後陣は黒崎、橋立、追塩、塩越、熊坂山、蓮浦、牛山が原まで列たり。権亮三位中将維盛已下、宗徒の人々一万余騎、篠原の宿に引へたり。越中、加賀、両国の兵共、安宅渡に馳集り、橋板三間引落し、城を構垣楯を掻平家を待処に、越中前司盛俊が一党五千余騎、安宅の渡に押寄見れば、橋板は引たり
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水は深し、南の岸に引へたり。源平川を隔て只遠矢に射る。日数をへる共落すべき様なし。盛俊子息の盛綱を招て、あの渚は波に碾れて浅かるらん者を、打下て見よと云。盛綱即打下て馬を打入て見れば、実も流るゝ砂磯打浪に碾れて、思ひしよりも浅かりけり。打返して、水は浅く侍けり、被渡候へと申せば、盛俊打浸々々渡す。源氏是を見て、あはや平家は渚を渡せば、陸へ上立ずして河中に射浸よ者共とて、一千余騎轡並て、(有朋下P104)引取、差詰、散々に射。平家の先陣三百余騎、河中に被射浸て、海の中へ被押流。水巻の四郎安高此様を見て、父子六騎勇をめきて、馬を水に打入て散々に戦ふ。飛騨守景家が一党の中に被取籠、三騎討れて、三騎は手負て引退。石黒太郎兄弟五騎、馬の鼻をならべて、太腹際打入て散々に射。越中前司盛俊、大の中差取て番て、能引て兵と射、其矢石黒太郎にしたゝかに中る。暫しもたまらず、水の上にざぶと落、舎弟福満五郎打寄て、水中より引上て肩に引懸、朴坂越に石黒に帰て、灸治よくして、又十日ばかり有て都波の軍に値たりけるこそ由々敷剛者とは覚たれ。林、富樫、下田、倉光も大勢に被蒐立て、安宅城をも引退。加賀国住人井家二郎範方、十七騎の勢にて根上の松の程まで返合々々、十一度まで散々に戦けるが、大勢に被取籠て、範方終に討れにけり。根上の松と云所は、東は沼西は海、道狭して分内なし。源氏数を尽して亡べかりけるに、井家二郎返合々々戦ける間に、希有にして落延ぬ。富樫次郎家経は、黒糸威の鎧に、鴾毛の馬にぞ乗たりける。三十余騎にて落けるが、郎等共に防ぎ矢射させて、引返々々戦ける程に、馬の太腹
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を射させて■落さる。富樫が外戚の甥に安江二郎盛高と云者あり。続て落けるを見て、如何に安江殿、家経馬を射させたり、乗つべき馬や侍と(有朋下P105)いへば、名をば誰ともさゝず、四五騎有ける郎等に向て、大様々々と其馬進せよとて落行けり。今参に新三郎家員と云者、我が乗たりける鹿毛なる馬の逸物なりけるより飛下て、後の奉公に立給べしとて、富樫介を掻のせたりければ、北をさして落行ぬ。家員が馬なくば、家経危ぞ見えける。源氏は安宅の湊よりおちて、今湊、藤塚、小河、浜倉部、双河打過て、大野庄に陣をとる。平家は林富樫が館に打入て、暫爰に休居たり。是より飛脚を都へ立。平家の一門馳集て状を披に云、四月廿七日に、越前国燧城にて、当国平泉寺長吏斉明降人に参す、即先陣を申請て案内者して当国の輩を打随ふ。五月二日、加賀国へ乱入処に、源氏の軍兵、安宅の渡に城郭を構といへ共、彼をも攻落畢、林富樫が二箇所の城を打落ぬれば、北国は今は手の内と可被思召と申上たりければ、平家の一門大に悦■けり。角て暫加賀国を靡て安堵したりけり。源氏は木曾殿へ早馬を立、燧城をば斉明が返忠にて被責落、所々にて討負て加賀国へ引、安宅の城にて御方の兵多討れて、林、富樫が党類も被打落ぬ、急勢を付らるべしとぞ申遣ける。斉明は黒糸威の腹巻に、長刀脇に挟て、三位中将の前に跪て申けるは、木曾は此間、越後国府にと承、御方軍に勝て、越前加賀を従へさせ給候ぬれば、早馬立て打上り侍らんと存候。越中(有朋下P106)越後の境に寒原と云難所あり、敵彼をこえて越中へ入なば、御方の為にゆゝしき御大事、彼を伐塞で候なば、木曾が為には大事にて侍るべし、されば
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急官兵を指遣て、寒原を切塞て越中国を随へばやと申。何事も北国の事は斉明が計也とて、越中前司に仰す。盛俊五千余騎を引卒して、加賀と越中との境なる倶梨伽羅山を打越えて、越中国小矢部河原を打過て、般若野にこそ陣をとれ。木曾早馬に驚て、今井四郎に仰て、六千余騎を相具して越中国に指遣す。兼平は鬼臥寒原打過て、四十八箇瀬を渡して、越中国婦負郡御服山に陣をとる也。