『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十二
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賦巻 第三十二
S3201 落行人々歌付忠度自淀帰謁俊成事
落行平家の人々、或式津の浪枕、八重塩路に日を経つゝ、船に竿さす人もあり、或遠を凌近を分つゝ、駒に鞭うつ人もあり。前途をいづこと不定、生涯闘戦を日に期して、思々心々にぞ下給ふ。権亮三位中将の外は、大臣殿を奉始て可然人々は皆妻子を引具し給たりけれ共、下様の者共は妻子を都に置しかば、おの/\別を悲つゝ、行も留も互に袖を絞けり。夜かれ日枯をだにも怨しに、後会其期を知ざりけるこそ悲けれ。相伝譜代の好み不浅、年来日比の重恩も争か忘べきなれば、人なみ/\に涙を押て出たれ共、心は都に通つゝ、行も行れぬ心也。淀の大渡にては、南無八幡三所大菩薩、再都へ返し入給へと各伏拝給へども、神慮誠にしり難し。薩摩守忠度、故郷の家々煙とのぼるを顧て、
古郷を焼野の原にかへりみて末も煙の波路をぞゆく K156 (有朋下P198)
修理大夫経盛、
墓なしや主は雲井に別るれば宿は煙と立のぼるかな K157
或旧女泣々口ずさみ給ける、
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住なれし都の方はよそながら袖に波こす磯の松かぜ K158
是を聞ける人々、いよ/\袂を絞りけり。中にもやさしき事と聞えしは、薩摩守忠度と申は入道の舎弟也。淀の河尻まで下たりけるが、郎等六騎相具して、忍て都へ帰上る。如法夜半の事なるに、五条三位俊成卿の宿所に行て門を扣く。内には是を聞けれ共、懸る乱の世なる上、いぶせき夜半の事なれば、敲共々々開ざりけり。余に強く敲ければ、良久有て青侍を出、戸をひらかせて是を問。忠度と申者、見参に申入度事ありて参たりと答ければ、三位大庭に下、世に恐て内へは入ざりけれ共、門をば細目に開て対面あり。忠度宣けるは、懸身として御ため憚あれ共、所詮一門栄花尽て都に不安堵、西海へ落下侍、亡ん事疑なし、世静て後、定て勅撰の沙汰候はんか、縦身は八重の塩路の底に沈とも、藻塩草書置末の言葉、後の世までも朽ぬ形見に伝はり侍れかしと思出て、河尻より忍上て侍、是ぞ年比読集たりし愚詠共にて侍る、身と共に波の下にみくづとなさん事遺恨(有朋下P199)に侍り、是を砌下に進置候、勅撰之時は必思召出よとて、巻物一巻、泣々鎧の引合より取出たり。三位感涙を流し、是を請取、御詠一巻預置候畢、是永代秀逸の御形見、未来歌仙の為指南歟、此怱劇之中に御音信に預事、恐悦不少候哉、縦浮生を万里の波に隔とも、御形見をば一戸の窓に納て、勅撰の時は思出侍べしと宣へば、忠度今は身を波の底に沈め、骨を山野に曝とも思事なしとて馬にのり、古詩を、
前途程遠馳思於雁山之暮雲 後会期無霑纓於鴻臚之暁涙
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と打上々々詠じつゝ、南を指てぞ落行ける。本文には、後会期遥也と書たるを、
忠度還見るべき旅ならず、今を限の別也と思ければ、後会期無と詠じけるこそ哀なれ。三位も遺の惜して、遥に是を見送ても、あはれ世に在しには、此人共にこそ諂追従せしに、替習とて、今は門を隔る事の悲さよと、哀なるにも涙、優なるにも涙、忍の袖をぞ絞られける。代静て後千載集を撰れけるに、忠度の此道を嗜、河尻より上たりし志を思出給て、故郷の花と云題に、読人しらずとて一首被入たり。
さゞ浪や志賀の都は荒にしを昔ながらの山桜かな K159
とよめる歌也。名字をも顕し、あまたも入まほしかりけれ共、朝敵となれる人の態なれ(有朋下P200)挿絵(有朋下P201)挿絵(有朋下P202)ば憚給て、只一首ぞ被入ける。亡魂いかに嬉く思けん、哀にやさしくぞ聞えし。此忠度、内裏の女房に心を移して、年来通ひ給ひ、情深き中也けるに、彼女房みめ形類なく、心の色世に有難しとほのめきければ、高倉院も思召入させ給て、忍て時々御幸あり。忠度は年来の知人也、院は日浅き御事也。天戸渡織女の、会夜希なる秋の夜の、月の光もさやけくて、虫の音絶々音信たり。をり知がほに道芝の、露置そむる夕暮に、高倉院此女房の許へ御幸あり。忠度争か知べきなれば、夜深人定て其夜同通はれたり。院は先よりの御幸なれば、女房は御前にて御物語あり。忠度は後におはしたれば、角とも知給はね共左右なく入給はず、人の出よかし、角と云入んとおぼしけれ共、御幸の折節なりければ、如何
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にと咎る者もなし。忠度かなたこなたを立廻り、御前近き御縁に良久立居給ひ、扇をぞ仕給ける。蚊の目のきり/\と御前へ聞えけり。院も怪く思召御気色也。女房は忠度の来れるにこそ、角と告まほしく思はれけれ共、院に憚進ける上は、人して云べき便りもなし。忠度の待らん事も痛しく、折節骨なき事をも知れかしとて、女房何となき口ずさみの様に、野もせと仰られければ、忠度扇をたゝみて窃に帰給にけり。後に此女房に逢たりけるに、さても一日はいかにと問給へば、忠度、骨なきぞかしかましと仰(有朋下P203)候しかば帰てこそ、とぞ答たる。女房又宣けるは、人して申たる事もなし、何をしるしにて角は思召けるぞといへば、野もせと仰候しかば帰りぬと。源氏夕顔の巻に、
かしかまし野狭にすだく虫音よ我だに物はいはでこそ思へ K160
と云歌の候ぞかしとぞ宣ける。思寄給ける女房も、心え給へる忠度も、互に由ありてぞ覚えける。懸る優に情深き人にて、河尻よりも帰上り給ける也。
左馬頭行盛と申は、太政入道の二男に、左衛門佐安芸判官基盛と云し人の子也。父は保元の乱の後、宇治河にて水神に取れて失にけり。孤子にておはしけるが、京極中納言定家卿に奉付、歌道を学給けり。都を落給とて、定家の遺を惜つゝ、巻物一つに消息具して被送たり。巻物とは日来読集給たりける歌共也。定家卿披き見給ふに、来方行末の事共こまやかに被書て、端書に、
流れなば名をのみ残せ行水のあはれ墓なき身は消ゆるとも K161
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定家是を見給て感涙を流し給つゝ、勅撰あらば必いれんと被思けり。薩摩守忠度の歌を、父俊成卿の、よみ人不知と千載集に被入たる事を、本意なき事に被思けり。忠度は朝家の重臣として、雲客の座に連れり。名を埋む事口惜く被思ければ、如何にも行盛を(有朋下P204)ば名を顕さんとて、朝敵なれば世に恐て、三代を過ざりける。後鳥羽、土御門、佐渡院御宇を経て、後堀河院御時、新勅撰の有しに、今は苦しかるまじとて、左馬頭平行盛と名を顕し、此歌を被入たり。亡魂如何に嬉しと思ふらんと哀なり。
S3202 刈田丸討恵美大臣事
< 昔称徳天皇御宇に、藤原仲麿と云ふ人おはしき。是は贈太政大臣武智丸の子也けり。高野女帝の寵臣にて、朝恩深して、政を我儘に執行間、奢心ありて世を世共思はず、只一族親類のみ朝恩に誇りけり。権勢日々に重くして、人の畏おそるゝ事、今の平家の如く目出かりき。我一人と世を押へ行て、是に勝つ者なかりければ、御門是を御覧じて、仲麿と云名を改て押勝と被付たり。大保大師に至れりしかば、すぞろに巧ましく思召とて、恵美大臣とぞ仰ける。去共盛なる者の衰る習あれば、河内国弓削と云所に道鏡禅師と云僧あり。貴き聞えありて、禁中に被召て如意輪の法を行ひければ、御寵愛甚くして、恵美大臣の権勢も物の数ならず、法師の身にて太政大臣の位を給へり。門弟の法師共を以て、上達部などに被成けり。後には御位をゆずらんと思召て、和気清麿を御使として、(有朋下P205)宇佐宮へ被申たりけれ共、御免れなし。力及ばせ給はで只法皇の尊号を奉、弓削道鏡法皇とは是なりけり。大臣大に本意なき事に思て、帝を怨み奉り、天平宝字八年九月十一日、軍を起し国家をあやぶめ奉らんと謀けるが、漏聞えにければ、罪八虐に当るとて、さしもきり者也しかども、官職を被止て、死罪に行れんとせしかば、恵美大臣も兵を集めて、禦戦はんと用意あり。帝坂上刈田丸を大将軍として、数万騎の官兵を以被攻ければ、大臣堪ずして一門
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引具し、都を出て東国へ趣て、凶徒を語ひ朝家を討奉んと支度しけり。官軍遮て勢多橋を引、大臣此より引帰、北陸道を下りに、海津の浦、敦賀の中山打越て、越前国に逃下、我身を帝王と名乗、親類一族を大臣公卿と詐て、正税官物を打留め、人の心をたぶらかし過ける程に、官兵又責ければ、船に取乗、新羅高麗へと志漕けれ共、王事靡塩ければ、波風荒て船より下戦けるが、同十八日に大臣終に討れけり。刈田丸其頸を以都へ上、一門の公卿五人被刎首、骨肉親類、同心合力の輩皆亡けるこそ無慙なれ。彼を以是を思ふに、平家栄花既尽ぬ、亡ん期時至れりとぞ申ける。昔の押勝は北国に越て討れ、今の平家は西海に下りて久しからじと哀也。>(有朋下P206)
S3203 円融房御幸事
〔去程に〕二十四日夜半に、法皇法住寺殿を御出有て、賀茂へ入らせ給たりけるが、爰は都も無下に近し、猶悪りなんとて、御輿にて鞍馬へ御幸あり。御伴には右馬頭資時一人ぞ候ける。下北面の衛府に、定康、俊兼、知康、纔に三人也。鞍馬寺も上下参詣の砌也。人目しげしとて、是より又横河へ上らせまし/\て、寂場坊に御座ありけるを、大衆僉議して、これ猶悪りなんとて東塔南谷円融坊へ渡し入進せけり。さてこそ衆徒も武士も力付て、円融坊の御所近候ければ、法皇も御安堵の御心也。是を角とも不知して、京都には、院は夜より失させ給ぬ、主上は悪徒に被引て西国へ行幸、摂政殿は吉野奥とかや聞ゆ。其外女院宮々も世の騒に恐れまし/\て、嵯峨、広隆、賀茂、八幡辺に付て逃隠させ給ぬ。平家は都を落たれ共、源氏もいまだ入替ず、主もなく人もなき所にて、自残留たる人々も、闇に迷へる心地にて、如何なるべし共不覚。天地開闢より以来、懸る事聞及ばずと歎く程に、廿六日に、法皇は天台山に渡らせ給と披露あり。上下我先にとぞ馳参給ふ。入道前関白松殿、当時摂政内大臣基通、左大臣経宗、
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右大臣兼実、内大臣(有朋下P207)実定以下、大中納言、宰相、三位、四位、五位、公卿殿上人、上下の北面までも、官に居し職を帯し、先途を期し後栄を望て、人とかずへらるゝは一人も漏給はず参集て、円融坊には、堂上堂下門内門外、隙迫もなくみち/\たり。山門の繁昌衆徒の面目とぞ見えける。
S3204 義仲行家京入事
二十六日の辰刻に、十郎蔵人行家は伊賀国より宇治路へ廻り、木幡、伏見をへて京へ入。木曾冠者義仲は近江国勢多を渡して、同日未刻に京へ入。是は天台山に登て惣持院に城郭を構へたりしかば、西坂本より入べきか、又東坂本に下つて、志賀唐崎より大関小関をへて京へ入べきにてあれ共、余勢数千騎、鏡、篠原、野州河原に陣を取たるをも打具せんが為に、又順道也。且は祝の京入なればとて、湖上を押渡て野路勢多をへて京へ入。其外甲斐、信濃、美濃、尾張の源氏等、此両人に相従、其勢六万騎に及べり。行家、義仲都へ入て後は、武士在々所々を追捕し、衣装を剥取、食物を奪取ければ、洛中狼藉不斜。(有朋下P208)
S3205 法皇自天台山還御事
〔同〕二十七日、法皇天台山より還御、錦織冠者義広、白旗さして先陣に候けり。公卿殿上人多く供奉して、蓮華王院の御所へ入せ給ふ。此二十余年、絶て久き白旗を今日始て御覧じけり。供奉の人々も珍しくぞ見給ける。
二十八日に、義仲行家両人を院の御所へ召されたり。検非違使の別当左衛門督実家、頭弁兼光、御前の簀子に候。御気色に依て、平家内大臣以下之党類、追討すべきの由被仰下けり。両人
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庭上に跪て是を承る。義仲は赤地錦直垂に塗籠の箭負て、蒔剣をはけり。折烏帽子に黒革威の冑を著し、笠符を左右の袖にぞ付たりける。甲冑を著たる郎従五人、童一人を相具せり。行家は縫物の紺の直垂に同毛鎧、引立烏帽子を著て、郎等三人を相具せり。両人相並て東庭の南に当て、御所の方に向て、跪て候けり。別当実家座を起て、北の簀子に蹲踞して、砌下に可進之由頻目しけれ共、心をえずして勧まず。内裏は、前内大臣の党類を追罰すべきの由召仰ければ、行家は砌に近進て是を奉る、義仲は深敬て進ず。両人の作法何も取々にゆゆしくぞ見えける。法皇は御簾の内より叡覧あり。院宣の御返事をば、義仲畏て申け(有朋下P209)り。又前右兵衛佐頼朝上洛すべきとて、庁官を御使として関東へ被下けり。同日院御所にて議定あり。左大臣経宗、内大臣実定、堀河大納言忠親、別当実家、大宮中納言実宗、梅小路中納言長方、右京大夫基家、源宰相中将通親、左大弁経房、新三位季経、新宰相中将泰通卿ぞ参られける。頭弁兼光朝臣仰を奉て、国主、爾剣鏡、西海に令趣給畢ぬ。母后主上還御有べきの由、院宣被進べきか、将又可被遣追討使か、定申べしと右大臣に仰ければ、国母定有帰御志歟、賊臣何無還向之思哉、若申行還御者、可被加殊賞之由、可被仰遣前内大臣之許歟、失国璽事、王莽盗之、趙王奪之、漢家之跡雖非一、本朝之例会未聞、被待返報可有左右歟とぞ一同に定め申されける。
同二十九日追討の庁下文を被下。〔云、〕五畿七道諸国、可追討前内大臣宗盛以下之党類事、件党類
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忽背皇化、已企叛逆、加之盗取累代之重宝、猥出九重之都城、論之朝章罪科旁重早可令追討件輩とぞ被載ける。昨日までは源氏を追討せよと、諸国七道に被下院宣、今日よりは可追討平家之由、五畿七道に被下院宣。世の転変、政の改定、哀なりける事共なり。
同晦日頭弁兼光朝臣、奉仰可被行行家義仲等勲功之賞否、国主未定之間、可被(有朋下P210)行除目否之由、人々に勅問有けり。梅小路中納言長方卿申されけるは、勲功之賞尤可被行か、等差事、頼朝者為本謀、義仲者称戦功歟、昔誅諸呂立文帝、陳平雖為本謀、周勃依有戦功、周勃之賞已越陳平、然者義仲之賞、可勝頼朝歟、但承平に討将門、秀郷者有興衆平定之忠、貞盛者積数度合戦之功、公卿論功、秀郷之賞超貞盛畢、今頼朝挙義兵振威勢、旁頼朝之賞可勝、義仲が除目事、円融院大井河御遊日、時中卿被任参議、其後於陣被行除目か、任件例被仰勧賞、後日可被行除目か、嘉承摂政事、太上天皇詔也、准彼例可被行とぞ被申ける。
十郎蔵人行家は、法住寺の南殿、萱の御所を捨て宿す。木曾冠者義仲は、大膳大夫信業が六条西洞院の家に宿す。
S3206 福原管絃講事
平家は、保元に春の花と栄えしか共、寿永に秋の紅葉と散はてて、八条の蓬戸、六波羅の蓮府、暴風塵を立、煙雲■を払つゝ、福原の旧里に下て、故相国禅門の墓に詣つゝ、各法施を進り。思々の口説言、よその袂もしをれけり。入道の造置給ひし花見の春の岡の御所、月見の秋浜の御所、雪見原の萱の御所、船見浜の浦御所、馬場殿二階の桟敷殿、常(有朋下P211)の住居の御所とかや。五条大納言邦綱卿の
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造進せられし里内裏、其外人々の家々、蔀も格子も破落、御簾も簾も絶はてて、いつしか歳の三年に痛荒にけるこそ哀なれ。旧苔路を塞て秋の草門を閉、瓦に松生て垣に葛かゝれり。台傾て苔むせり、松風計や通らん。簾絶ては閨顕也。月影のみぞ指入ける。さらぬだにもしをれはてぬる旅衣、是を見彼を見給にも、いとゞ涙ぞ袖ぬらす。母二位殿は内に御座、大臣殿は外に居給て、貞能景家以下の宗徒の侍共を、御前に召て仰けるは、積善之余慶家に尽て、積悪之余殃身に及、故神明にも放れ法皇にも被棄奉て、帝都を迷出て客路にさすらふ上は、何の憑か有べきなれ共、誠や一樹の陰に宿り一河の流を渡も、皆是先世の契とこそきけ、況汝等は一旦随付たる門客に非、累祖相伝の家人也、其上十善帝王、三種神器を御身に随へて御座、野末山の奥なりとも、落留らせ給はん所まで送つけ奉、火の中に入水の底に沈とも、今は限の御有様をも見はて進すべしと宣ければ、並居たりける三百余人の侍共、老も若も、皆涙を流して御返事申けるは、怪の鳥獣だにも、恩を不忘徳を報ずと承る、何況人倫の身として、争年比日比の重恩を忘れ、今更我君をすて進べき、此廿余年が間、妻子を孚み所従を顧も、一事として君の御恩に非と云事なし、全く二心有べからず、縦天竺(有朋下P212)震旦なり共、雲の終海の終までも御伴仕り侍るべし、御心安被思召候べしと、異口同音に申ければ、二位殿も大臣殿も、聊憑もしく被思召ける。
二位殿又人々に被仰けるは、此福原は故入道大相国のさしも愛し給し所也、魂魄も定て此にこそ住
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給ふらめ、今夜ばかりの遺也、西海に出なん後には再び爰を見ん事も有難し、亡魂も如何計かは哀に思召らん、且は最後の別也、且は最後の弔也、入道の為に管絃講行給て、後生を弔給へと被仰ければ、大臣殿尤可然とて、先故禅門の墓所被参、手自花香そなへて念仏申廻向して、涙を流し給ければ、一門の人々も皆袂をぞ絞ける。其中に薩摩守忠度、角ぞ思つゞけ給。
なき人に手向る花の下枝はたをれる袖のしをれける哉 K162
と。御所に帰、仏懸奉なんどして管絃講を被始けり。
右衛門督清宗、讃岐中将時実は蕭の役、薩摩守忠度、越前三位通盛は笛役、左中将清経、淡路守清房は笙の役、和琴は丹後侍従忠房、羯鼓は若狭守経俊、鉦鼓は平大納言時忠、方磬は平中納言教盛、太鼓は内大臣宗盛、琴二挺琵琶三面、簾中の役、弁局大納言佐殿は琴、普賢寺殿北政所、帥佐殿、内侍局は、琵琶の役、法勝寺執行能円、中納言律師忠快は伽陀の役、経誦坊阿闍梨(有朋下P213)祐円は式役、二位僧都仙尋は法華経たえ/゛\にこそよまれけれ。
< 昔釈尊説法の砌に、大樹緊那羅が香山より出つゝ、八万四千の伎楽を作り、浄妙無碍の歌を以て、如来大会を供養せしに、釈梵護世の諸天、天竜夜叉の非人までも、琴音にきゝとれて威儀を忘たりけるに、迦葉尊者の舞給けるに、阿難唱歌し給けんも、角やとぞ覚ける。>
夫蕭笛琴箜篌、悉中道の方便に帰し、琵琶鐃銅■併法性の深理に叶へり。妙音大士は十方楽普現色身
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の証是新に、馬鳴菩薩は苦空の曲、皆語得道の世を可知。是を以、極楽界会の月前には、聖衆倶会して楽を催し、■利天宮の雲上には、天人歌舞して袖を翻す。加之霊山浄土の苔庭には、菩薩証得の響をなし、安養世界の玉橋には、如来讃嘆の曲を奏し、常楽我浄の調べ麗くして猶麗く、苦空無我の音妙にして更妙なれば、不生不滅の曲は定て、虚空界の風に通じ、非有非空の響は、必ず法性海の波に和すらんとぞ覚えける。されば管絃も読経も円音教に帰し、伎楽も講唱も一実乗に混じて、同時一念の精誠を鑑、三種廻向の信力に依て、志す処の先人聖霊、九品往生を遂しめ給へと也。廻向の伽陀も終ければ、吹送笛の声、弾終る琴の音に、簾中も簾外も皆涙を流せば、僧衆も俗衆も共に袖をぞしぼりける。二位殿は今を限の仏事ぞと、貴き中にも悲く、嬉き中にも哀にて、為方(有朋下P214)なくぞおぼしける。
入道の弟修理大夫経盛は、詩歌管絃に長じ給へる中にも、横笛の秘曲を伝る事、上代にも類少く、当世にも並人なかりけり。一年法皇、故堀河院の御為に、法住寺殿にて報恩講経供養の時、階下の公卿殿上人、家をたゝして舞楽を奏し給ひしに、経盛其時は東宮の大夫にて、左のをも笛を仕しに、伶人舞曲を尽に及んで宮中澄渡、群集の諸人各袖を絞けり。上皇も故院の御追善なれば、今は都率天上の内院に納り給らんと思召、竜顔より御涙を流させ給けり。八条左判官忠房は、陵王の秘曲を舞尽す。大ひざまづき小膝突、入日を返す合掌の手、終には皇序の袖を翻す。其家ならぬ人には、各笛を
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とゞめしに、此経盛皇序の秘説を吹給しかば、法皇叡感に不堪や思召けん、御前の御簾を上させ御座、御衣を脱て押出させ給けるを、経盛給て階下に帰著給しかば、男女耳目を驚す。此道に不携人は面を壁に向へたるもあり。懸ける人なれば、心有も心なきも是を惜けり。八条中納言入道長方の弟に、左京大夫能方は、経盛の横笛の弟子にて秘曲を伝給けり。今二説を残て落給しかば、如何なる博雅三位は会坂の麓に夜を重ね、うちのき府生忠兼は父をいましめ五逆罪を犯すぞと思へば、妻子兄弟を振捨て、同都を落給けるが、福原の眺望の御所にて、甘州には只拍子、倍臚には五節の楽拍子、底(有朋下P215)を極給しかば、竜笛鳳曲は聖衆の座に連るやとあやまたれ、霓裳羽衣のよそほひを天人影向するかと、見人聞人諸共に、涙を流さぬは無りけり。能方はいづくまでもと慕給けるを、経盛あながちに制し被申ければ、名残は様々惜けれ共、福原の一夜の宿より、都へ帰上給けり。やさしかりけるためし也。角て平家は福原の旧里に一夜を明しき。秋の初風立しより、漸夜冷に成にけり。旅寝の床の草枕、露も涙も諍て、そゞろに物こそ悲けれ。明ぬれば今朝を限と思つゝ、内裏を始て人々の家々皆■とぞ焼上。余煙日の光を抑へつゝ、雲井の空にぞ消紛。形見に残る福原も、焼野の原と成しかば、さこそ哀に覚しけめ。昨日は東海の東に轡を並べ、今日は西海の西に纜を解、雲海沈々として蒼天既に晩なんとす。松風颯々として旅寝の夢も覚ぬべし。霞孤島に峙て月海上に浮べり。八重の塩路を漕分、浪に引れて行舟は、万天の雲に連を成、憑の雁に似たりけり。海士の焼藻の夕煙、尾上の
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鹿の暁の声、渚々の波音、遠近舟の曳や声、惣て目に見耳に聞事の、一として涙を催し心を傷しめずと云事なし。都に捨置し妻子も■、栖馴し故郷も恋しければ、老たるも若も只泣より外の事はなし。但馬守経正、行幸に供奉すとて思続給けり。
御幸する末も都と思へども猶なぐさまぬ浪のうへかな K163 (有朋下P216)
さても主上を始進せて、竜頭鷁首の船を海上に浮て出させ給へば、浪路の皇居静ならず、都を落し程こそなけれ共、是も遺は惜かりけり。棹のしづくに袖濡ては、古郷軒の忍を思出て、月を浸潮の深愁に沈、霜をおほへる芦の脆命を悲む。州崎に騒ぐ千鳥の声暁の恨を添、傍居にかゝる楫の音夜半に心を傷しむ。白鷺の遠樹に群居を見ては、東夷の旌を靡すかと肝を消し、夜雁の遼海に啼を聞ては、兵の船を漕かと魂を失ふ。青嵐膚を破て翠黛紅顔の粧やう/\衰へ、蒼波眼を穿て外土望郷の涙抑難し。さこそは悲かりけめと、推量れて哀也。指して行へは知ね共、露の命は松浦船、彼は須磨の関、是は明石浦など申を聞給ふに、藻塩たれつゝ歎けん、昔語の跡までも、思残す隙ぞなき。
寿永二年八月朔日、京中保々守護事、任義仲注進之交名、殊令警巡可加炳誡之由、右衛門権佐定長奉院宣、仰別当実家卿、出羽判官光長、右衛門尉有綱〈 頼政卿孫 〉十郎蔵人行家、高田四郎重家、泉次郎重忠、安田三郎義定、村上太郎信国、葦敷太郎重澄、山本左兵衛尉義恒、甲賀入道成覚、仁科
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次郎盛家とぞ聞えける。
S3207 四宮御位事(有朋下P217)
主上は外家の悪徒に引れて、花の都を出て西海の波の上に漂ひ御座らん事を、法皇御心苦く思召て、可奉還上由、平大納言時忠の許へ院宣を雖被下、平家是を奉惜、免進せざりければ、力及ばせ給はずして、さらば新帝を祝奉るべしとて、院の殿上にて公卿僉議あり。高倉院御子、先帝の外三所御座、二宮をば儲君にとて、平家西国へ取下進けり。今は三四宮間を可奉立歟、又故以仁の宮の御子おはします、十七にぞ成せ給ける。是は還俗の人にて御座せども、懸る乱世には成人の主、旁可宜還俗の事、天武之例外に求むべからず。又昭宣公、恒貞親王を奉迎られき。還俗の人憚あるべからずとぞ沙汰有ける。去共法皇は、高倉院三四御子之間に思召定ければ、同八月五日彼三四宮を奉迎取。先三宮の五歳に成せ給を是へと仰有ければ、大に面嫌まし/\てむつがらせ給ければ、疾々とて速に返出しおはします。次に四宮を是へと申させ給へば、左右なく歩み寄らせ給。御膝の上に渡らせおはしまし、御なつかしげに竜顔を守り上進せ給けり。御歳四歳にぞならせ給。法皇は御哀気に思召、御髪掻撫させ給御涙ぐみて、此宮ぞ誠に朕が御孫也ける、すぞろならん者ならば、などてか懸る老法師をば懐く思ふべき、故院の少くおはせし顔立に違ねば、只今の様に思出らるゝぞや、懸る忘形見を留置れたり(有朋下P218)けるを、今まで不奉見ける事よとて、御涙を流させ給けり。浄土寺の二位殿、其時は丹後殿の局とぞ申ける。御前に候給けるが、袖を絞て被申けるは、兎角
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の御沙汰に及ばず、御位は此宮にこそと聞えさせ給ければ、法皇子細にやと仰有て定まらせ給にけり。内々御占有けるにも、四宮は御子孫まで日本国の御主たるべしとぞ、神祇官并陰陽寮など占申けり。御母は七条修理大夫信隆卿の御娘にておはしけるが、建礼門院中宮の御時、忍つゝ内の御方へ被参ければ、皇子さしつゞき御座しけるを、父修理大夫、平家の鍾愛を憚、又中宮の御気色をも深く恐給けれ共、八条二位殿御乳人に付などせられけり。此宮をば法勝寺執行能円法印の奉養けるが、平家に付て西国へ落ける時、余に周章北方をも不被具、宮をも京に奉忘たりけるを、法印人を返して、急ぎ宮具し進せて西国へ下給へと、北方へ宣ひたりければ、既に下らんとて、西八条なる所まで忍具し進せて出給たりけるを、御乳人の妹に紀伊守範光と云者あり。心賢く思けるは、主上は西海に落下らせ給ぬ、法皇都に留らせ給たれば、御位をば定て四宮にぞ譲らせ給はんずらん、神祇官の御占も末憑もしき事也とて、二位殿の宿所に参て尋申ければ、西国より御文有とて、忍て此御所をば出させ給ぬと答ける間、こは浅増き事也と思、■き所此彼捜尋進せ(有朋下P219)て、唯今君の御運は開けさせ給べし、物に狂はせ給て角は出立給か、西国へ落下らせ給たらば、君も御位に立せ給ひ、御身も世におはせんずるにやとて、大に嗔腹立て取留め進せたりけるに、翌日法皇より御尋ありて、御車御迎に参て角定らせ給けり。そも帝運の可然事と申ながら、範光はゆゝしき奉公の者也とぞ人申ける。
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七条修理大夫信隆卿は、白鶏を千羽飼ぬれば、必其家に王孫出来御座と云事を聞て、白鶏を千羽と志して飼給ける程に、後には子を生孫を儲て四五千羽も有けり、夥などは云計なし。鳥羽、田井、西京田などに行て、稲を損じ■を失ふ。懸ければ信隆の鶏とて人もてあつかへり。此彼にして打殺けれ共生子は多し。七条八条に充満て、尽べき様も不見けり。誠に其験にや有けん、四宮位に即せ給ふ。
義仲は高倉宮の御子即位の事、内々泰経卿に申旨有ければ、同十四日に、俊暁僧正を以義仲に御尋あり。勅答には、国主の御事、為辺鄙之民不能申是非、但故高倉宮、為奉慰法皇之叡慮、被失御命、御至孝之趣、天下其隠なし、争不被思召哉、就中以彼親王宣、源氏等挙義兵、已成大事畢、而今受禅沙汰之時、此宮の御事、偏に被奉棄置、不及議中之条、尤不便の御事也、主上已に為賊徒被取籠給へり。彼御弟何んぞ強に可被奉尊崇哉、此等の子細更に非義仲(有朋下P220)之所存、以軍士等之申状、言上する計也と申ければ、人々義仲申状非無其謂とぞ申合れける。
S3208 維高維仁位論事
< 昔文徳天皇の御子に、維高親王、維仁親王とて、御兄弟二人御座けり。維仁は第二の王子、維高は第一の王子也。互に御位を御意に懸けさせ給へり。天皇も分る御方なく、難棄御事共にて、叡慮思し召煩はせ給へれ共、御嫡子なれば維高親王とぞ内々は被思召ける。第一王子維高親王と申は、御母は従四位下左兵衛佐名虎が女、従四位上紀静子と申。第二王子維仁親王と申は、御母
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は太政大臣良房、忠仁公御女藤原明子、後には染殿后と申是也。一の宮の御事をば、外祖紀名虎取り立て奉らんとて、帝運の可然にて、第一の王子に出来御座せり、御恙なし。されば御位は此公にこそと頻に内奏申しけり。二の宮の御事をば、外祖にて忠仁公奉取立とて、一の宮は落胤腹、名虎が御女也。次弟は是の執柄家の御女、后立王子也、子細にや及ばせ給べきと、平に被内奏けり。此の事誠に難題にて、公卿僉議あり。就勝負御位を可被進とて、初には八幡に臨時の祭を居て、(有朋下P221)十番の競馬あり。四番は一宮に付、〔六〕番は二宮に付く。此上は維仁親王御位につき給ふべかりけるを、天皇猶御心不飽思し召ければ、後には大内にして、相撲被行節会て、重て勝負を有叡覧、可有御譲と儀奏有ければ、維高御方には、即外祖左兵衛佐名虎参けり。恩愛の道こそ哀なれ。今年三十四、太く高く七尺計の男、六十人が力ありと聞ゆ。維仁の御方には、能雄少将とて細小の男、行年二十一、なべての力人と聞ゆれども、名虎には可敵対ものに非ず、去れ共果報冥加は二の宮の奉任御運とて、不敵に申請てぞ参ける。旁々有御祈師、一の宮の御方には、東寺の柿本の真済僧正也。徳行高く顕て修験誉広く、天皇御帰依の僧也ければ、名虎是を奉語付けり。二の宮の御方には、延暦寺恵亮和尚也。行葉年を重ねて薫修日新也。忠仁公と深く師檀の契を結給けるに依て被奉付けり。恵亮は西塔宝■院に壇を構て、大威徳の法を修せられけり。真済は東寺に壇を立て、降三世の法を行給けり。
昔金剛薩■[*土+垂]、南天の鉄塔を開て大日如来に奉値、秘密瑜伽の経法を伝受し給しより以来、仏法東漸して、真言上乗日或に弘通せり。弘法大師は竜樹菩薩の後身、鷲峯説法の聴衆也。昔威光菩薩としては、日宮に居して修羅の軍を禦ぎ、今遍照金剛としては、日本に住して金輪聖王の福を増、大日如来(有朋下P222)より第八代、恵果和尚の瀉瓶嫡弟也。慈覚大師は観音大士の垂迹、
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一乗弘通の薩■[*土+垂]也。清涼山に詣しては、親り生身の文殊を拝し、帰朝の海上にしては、弥陀如来波の上に化現して、引声を伝へ給へり。善無畏不空より五代、入室の孫弟也。而を恵亮は慈覚の弟子、真済は弘法の弟子也。東寺は長安城の南の端、山門は洛陽城の艮の峰、共に鎮護国家の道場也、同大権垂迹の法弟也。降三世は東方薬師の教令輪身、四面八臂の形也。悪魔を三世に降して永く三毒の根を断、帰敬者は官難を払利生あり。大威徳は西方弥陀の教令輪身、六面六臂の姿也。威勢を一天に振て必行者の望を成、仰信ずる輩は、天子に上る効験あり。共に五大明王の随一、又東西守護の忿怒也。利益区に施し、威験各新なる上、東寺天台秘密の上乗たり。入室瀉瓶牛角の験者なれば、恵亮精誠を尽し、真済肝胆を砕たり。懸りければ、此条とみに事行難くやあらんずらんと云者もあり。又、明王には勝劣なけれ共、行者の至心懇念にこそよらめと云者もあり。又恵亮真済、行徳に甲乙あらじ、さらば終には力の強弱にこそよるべけれと云者もあり。又天運は凡夫の測べき事に非、只帝徳の可然にこそと、上下の口には其説さま/゛\也。既に其日時に成ければ、名虎と能雄と出合たり、殆金剛力士の如し。堂上階下目を澄て是を見、門外門内足を爪立(有朋下P223)て是を望、源深しては不流尽、根全しては枝不枯習也。以祈誓効験、行徳の浅深を可知事なれば、東寺天台両門の貴僧高僧、恵亮真済帰依の若男若女、各手を把心を迷はせり。法に偏執はなけれ共、互に勝負の方人たり。能雄、名虎寄合て手合するを見る。名虎元来大力なれば、腕の力筋太、股の村肉籠たり。枝の成付骨の連様、肩の渡広足の跋扈、外見に可迷惑之処に、能雄がうでくび取て引寄、高く指上て、曳声を出して抛たりけるに、上下見物之男女老少、あはや二宮の御方打負、手に入ぬと思程に、一丈余被抛て、乍危つくとしてこそ立たりけれ。見人戯呼々々と感嘆せり。又寄合互に曳声出して、時移る迄からかうたり。名虎は松の立るが如して、跋扈て動ざりけるを、能雄は藤の纏が如くして、
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身に縷付つゝ、小頸小脇を掻詰て、内搦外搦、大渡懸小渡懸、弓手に廻妻手に廻して逆手に入、様々にこそ揉たりけれ。是や此品治北男、丹治是平、佐伯希雄、紀勝岡、近江薑、伊賀枯丸と聞えし貢御白丁も是には争か可勝とぞ見人興を増たりける。勝負は未なし、元来力勝り也。名虎勝ぬと見えければ、一宮の御方よりは東寺へ使を被立けり。忠仁公よりは二宮の御方既危く侍と、使者を山門へ被立事、追継々々に櫛の歯の如し。和尚こは心苦き事哉、此時不覚を我山に残さん事口惜かるべし。二宮(有朋下P224)に即給はずば、命生ても何かはせんとて、熾盛の念力を抽でつゝ、炉壇に立たる剣を抜、健把て自頭を突破、脳を摧き芥子に入、香の煙に燃具して、帰命頂礼大聖大威徳明王、願は能雄に力を付給ひ、勝事を即時に令得給へと、黒煙を立て汗を流して、揉に揉でぞ祈給ふ。生仏本より隔なし、信力本尊に通じ、本尊行者に加しければ、大威徳の乗給へる水牛、炉壇を廻る事三度、声を揚てぞ吠たりける。其声大内に響ければ、能雄に力ぞ付にける。名虎其声を聞けるより、身の力落て、心惘然として覚えける処を、能雄名虎を脇に引挟、南庭を三廻して、其後曳と云て抛たれば、名虎大地に被打付て、血を吐て不起上。蔵人等走寄、大内より舁出して家に返し遣たりければ、三日有て死にけり。恵亮脳を摧しかば、能雄に力は付にけり。名虎相撲に負しかば、維仁位に即給ふ。清和帝と申は彼親王の御事也。維高親王は御位叶はざりければ、小野里に引籠給けり。小野親王とは是也。又は持明院とも申けり。山陰中納言、昔の好を思出して時々事問給けり。天子の御位は人力の及所に非ず、天照太神の御計と申ながら、恵亮の効験三門の面目にて、御嫡子を越て次弟御位に即給へり。其よりして山門の訴状には、今の代までも恵亮砕脳、尊意振剣とは書とかや、懸ためしもあり。>(有朋下P225)
S3209 阿育王即位事
< 昔天竺摩訶陀国に、頻頭沙羅王と云国王御座けり。是は阿闍世王の孫也き。彼王にあまたの太子御座。其中に太郎を須子摩と
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云、二郎を阿須迦と云。二郎は形貌醜悪にして鮫膚也。心操不敵にして狼藉に御座ければ、父の大王大に悪んで、御位までの事思寄給はず。太郎は形貌は端厳にして、御心人間の類とも覚えざりければ、大王不斜寵愛し給て御位を譲給はんと覚しけり。爰に頻頭沙羅王、病の床に臥給たりける折節、徳刃尸羅国の凶賊王命に随はずと聞えければ、太郎太子須子摩を大将軍として、官兵を相副て彼国へ指遣す。大王病及獲麟給て、未嫡子須子摩帰上給はず。去共年比の任本意、位を譲らんとし給けるに、帝釈空より天降給て、十善の宝冠を次郎阿須迦太子に授著給けり。父の頻頭沙羅王、是を見て大悪心を起し、血を吐て失給にけり。城護大臣と云一の大臣と、阿須迦太子と同心して位に即給ふ。須子摩凶賊を平げ、国より還上給て此事を聞、兵を集て阿須迦王を誅せんとし給けり。城護大臣又官兵を集て、大内の門々を固て禦戦はんと構たり。須子摩先陣に進て、城護大臣の固めたる門前に押寄たり。大臣畏て申て云、(有朋下P226)臣は是国の輔佐、依王命故に守門計也、君又即位給はば、臣又可随其命、必しも臣が非結構、阿須迦王之固め給へる正門に向て雌雄を決し給ふべし、臣が門を破給はん事、まさに御本意にあらじと申ければ、いふ処尤道理也とて正門に向ひ給ふ。城護大臣又敵を亡さんと謀をぞ廻たる。木を以て阿須迦王の像を造り、大象にのせ奉て門前に進出て、前後に兵を集め、陣の前に広く深き火の坑を用意して、煙を徐へ立て坑の上に沙を蒔、平々たる庭上にしつらひて、官兵さと引退ば、須子摩勝に乗て馳競はん時、火坑に落し入て焼亡さんと支度したり。須子摩争か可知なれば、数万の軍を召具して正門に向ひ、時を造て阿須迦を責む。阿須迦象の口を引返し、官兵を相具して門の内へぞ引退く。須子摩乗勝て攻入処に、数万の軍と相共に火坑に馳入て、一時が程に焼死にけり。無慙と云も疎也。阿須迦王終に四海を治給ふ。阿育大王と申は彼太子の事とかや。されば王位は輙く不可及人臣之計、天地人の三門に通じ、
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可依神明仏陀之御恵事と覚えたり。天竺の阿育は帝釈冠を授給ひ、我朝の清和は恵亮砕脳給けり。彼は天神の助成、是は仏法の効験也。>(有朋下P227)
S3210 義仲行家受領事
同六日、平家の一類公卿殿上人衛府諸司百八十人、被止官職、平大納言時忠卿父子三人は、此中に漏たり。十善帝王三種宝物、可奉返入由、彼人の許へ仰遣されけるに依也。
八月十日、法皇蓮華王院の御所より南殿へ移らせ給ふ。其後三条大納言実房、左大弁宰相経房参給て被行除目けり。木曾冠者義仲、左馬頭になりて越後国を給る。十郎蔵人行家備後守になる。各国を嫌ひ申せば、十六日の除目に、義仲は伊予を給り、行家は備前守に移る。安田三郎義定近江守になる。其外源氏十人、軍功賞とて、靭負尉兵衛尉に成て、使の宣を蒙者も有けり。此十余日が先までは、源氏追討の宣旨を被下て、平家こそ加様に勧賞にも預しに、今は平家誅戮の為にとて、源氏誇朝恩けり。好生毛羽、悪成瘡、朝承恩、暮賜死と云本文あり。誠に定なき世の習とは云ながら、引替たる哀さに、心ある人々は、思連て袂をぞ絞ける。院の殿上にて除目行はるゝ事先例なし。今度始とぞ聞えし、珍しかりける事也。(有朋下P228)
S3211 平家著太宰府付北野天神飛梅事
八月十七日に、平家は筑前国御笠郡太宰府に著給へり。菊地次郎高直、宍戸諸卿種直、臼杵戸槻松浦党を始として、奉守護主上、如形被造皇居たり。彼大内は山中なりければ、木丸殿とも云つべし。人々の家々は野中田中なりければ、草深して露繁し。麻のさ衣うたね共、十市の里とも云つ
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べし。稲葉を渡る風の音、一人丸寝の床の上、片敷袖ぞしをれける。さてこそ平家の人々は、大臣殿を奉始、安楽寺に詣給ひ、詞を作歌を読などして手向給ける中に、皇后宮亮経正、角ぞ詠じ給ける。
住なれしふるの都の恋しさに神も昔をわすれ給はじ K164
北野天神は、依時平大臣之讒訴、延喜五年正月廿五日に安楽寺に遷され給ふ。住なれし故郷の恋しさに、常は都の空をぞ御覧じける。比は二月の事なるに、日影長閑に照しつつ、東風の吹けるに、思召出る御事、多かりける中に、
こち吹ばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘な K165
と詠じければ、天神の御所、高辻、東洞院、紅梅殿の梅の枝割折て、雲井遥に飛行て、安楽寺(有朋下P229)へぞ参ける。桜も御所に在けるが、御歌なかりければ、梅桜とて同く籬の内にそだち、同御所に枝をかはして有つるに、如何なれば梅は御言に懸り、我はよそに思召るらんと奉怨て、一夜が中に枯にけり。されば源順が、
梅はとび桜は枯れぬ菅原やふかくぞたのむ神の誓を K166
懸る現人神なれ共、帰京を赦れ給はず、終に其にて隠させ給ひける御歎、我身につまれて経正も思つゞけ給けり。誠に神も哀と覚しけん、中にも貴き事ありけり。人々詩作り歌よみなどして、社頭の
P0785
地形、庭上の古木、立寄々々し給けるに、さても昔、紅梅殿より飛参ける梅は、何れなるらんと、口々に云て見廻給けるに、何国より共なく、十二三計の童子化現して、或古木の梅の本にて、
是や此こち吹風に誘はれてあるじ尋し梅のたちえは K167
と打詠じて失にけり。北野天神の御影向と覚て、各渇仰の頭を傾け給けり。
S3212 還俗人即位例事
同十八日、左大臣経宗、堀河大納言忠親、民部卿成範、皇后宮権大夫実守、前源中納言(有朋下P230)雅頼、梅小路中納言長方、源宰相中将通親、右大弁親宗被参入て、即位并剣鏡璽宣命尊号事等議定あり。頭弁兼光朝臣諸道の勘文を下す。左大臣に次第に被伝下けり。神鏡事、偏に存如在之儀、還有其恐、暫定其所、可被待帰御歟、剣璽事、於本朝、更雖無例、漢家之跡非一、先有践祖、可被待帰来歟、御剣は可備儀式、尤可被用他剣者歟、即位事八月受禅九月即位、円融院也。而天下不静事卒爾也、十月例光仁寛和なり、可依二代者、十一二月に可被行、而今年即位以前、朔旦嘉承無出御、不吉事也、十月旁可宜歟、任治暦之例、可被用官庁紫宸殿歟、旧主尊号事、若無尊号者、天可似有二主、尤可有沙汰歟、宣命事、任外記勘状、可被用嘉承例之由、一同に被定申けり。
同日平家没官の所領等源氏等に分給ふ、惣五百余箇所也。義仲百四十余箇所、行家九十箇所也。行家申けるは、所相従之源氏等、更非通籍之郎従、只相従戦場計也。私に支配之条、彼等不存
P0786
恩賞之由歟、尤可被分下と申けるを、義仲は此事争悉被知召功之浅深、義仲相計可分与とぞ申ける。両人の申状何も非無謂ぞ聞えける。今日行家義仲等、聴院昇殿、本は候上北面しけり。此条驚べきに非と云へ共、官位俸禄己如所存か、奢心は人として皆存ぜる事なれ共、今(有朋下P231)称勲功日々重畳す、尤頼朝之所存を可思兼歟とぞ人々被申合ける。
同廿日法住寺の新御所にて、高倉院第四王子有践祚。春秋四歳、左大臣召大内記光輔、祚祖事太上法皇の詣旨を可載也。先帝不慮に脱■事、又摂政事同可載と仰す。次第の事は不違先例ども、剣璽なくして践祚事、漢家には雖有光武跡、本朝には更無先例、此時にぞ始ける。内侍所は如在の礼をぞ被用ける。旧主已被奉尊号、新帝践祚あれ共、西国には又被奉帯三種神器、受宝祚給て于今在位、国似有二主歟、叙位除目已下事、法皇宣にて被行之上者、強に急ぎ無践祚とも可有何苦、但帝位空例、本朝には神武天皇七十六年丙子崩。綏靖天皇元年庚辰即位、一年空。懿徳天皇二十四年甲子崩。孝照天皇元年丙寅即位、一年空。応神天皇二十一年庚午崩。仁徳天皇元年癸酉即位、二年空、継体天皇廿五年辛亥崩。安閑天皇元年甲寅即位、二年空。而今度の詔に、皇位一日不可曠被載事、旁不得其心とぞ有職の人々難じ被申ける。されば異国は不知、我朝には、神武天皇は、地神第五代の御譲を稟御座しより以来、故高倉院に至らせ給まで八十代、其間に帝王おはしまさで、或二年或三年など有けれ共、二人の帝の御座事未聞。世の末なればや、京
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田舎に二人の国王出来給へり、不思議也とぞ申ける。
平家は四宮(有朋下P232)既に御践祚と聞て、哀三四宮をも皆取下奉るべかりし者をと被申合ければ、或人の、さらましかば高倉宮の御子を、木曾冠者が北国より奉具上たるこそ位には即給はんずれ共と云ければ、平大納言時忠、兵衛佐尹明などの、如何出家還俗の人は位に即給べきと宣ければ、又或人申されけるは、異国には、則天皇后は唐太宗に奉後、尼となり感業寺に籠給たりけるが、再高宗の后と成、世を治給し程に、高宗崩御の後、位を譲得給て治天下給けり。中宗皇帝は入仏家、玄弉三蔵の弟子と成、仏光王と申けれ共、則天皇后の譲えて、崩御の後、還俗して即位給へりき。我朝には天武天皇、大友皇子の難を恐て、春宮の位を退まし/\て、大仏殿の南面にして御出家ありしか共、終に大友皇子を討て位につき給ひき。
孝謙天皇は、位をさりて出家し、御名を法基と申しか共、大炊天皇を奉流、又位につき給へり。今度は称徳天皇とぞ申ける。されば出家の人も即位給事なれば、木曾が宮も難かるべきにあらずと申て、咲などしけるとかや。