『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十五
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伝巻 第三十五
S3501 範頼義経京入事
大手搦手、尾張国熱田社より相分て、宇治勢多へ向けり。大手の大将軍は蒲冠者範頼、相従ふ輩には、武田太郎信義、加々見次郎遠光、一条次郎忠頼、小笠原次郎長清、伊沢五郎信光、板垣三郎兼信、逸見冠者義清、侍には稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、森五郎行重、千葉介経胤、子息小太郎胤正、相馬次郎成胤、国府五郎胤家、金子十郎家忠、同与一近範、源八広綱、渡柳弥五郎清忠、多々良五郎義春、同六郎光義、別府太郎義行、長井太郎義兼、筒井四郎義行、葦名太郎清高、野与、山口、山名、里見、大田、高山、仁科、広瀬、家子郎等打具して三万余騎、海道を上りに、宿々山河打過て、近江国勢多長橋に著にけり。搦手の大将軍は九郎冠者義経、相従輩には、安田三郎義定、大内太郎維義、田代冠者信綱、侍には佐々木四郎高綱、畠山次郎重忠、河越太郎重頼、子息小太郎重房、師岡兵衛重経、梶原平三景時、子息源太景季、同平次景高、同三郎景家、(有朋下P314)曽我太郎祐信、土屋三郎宗遠、土肥次郎実平、嫡子弥太郎遠平、佐原十郎義連、和田小太郎義盛、勅使河原権三郎有直、庄三郎忠家、勝大八郎行平、猪俣金平六範綱、岡部六弥太忠澄、後藤兵衛真基、新兵衛尉基清、鹿島六郎維明、片岡太郎経春、弟八郎為春、御曹司手郎等に、奥州佐藤三郎継信、弟四郎忠信、伊勢
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三郎義盛、江田源三、熊井太郎、大内太郎、長野三郎、
武蔵坊弁慶を始として、家子郎等相具して二万五千余騎、伊勢路を廻て攻上と聞けり。大手搦手都合して、六万余騎の兵也。
去程に木曾義仲は、折節勢こそなかりけれ。樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家を攻んとて河内国へ越ぬ。今井四郎兼平、方等三郎先生義弘、五百余騎にて勢多手に指遣す。根井大弥太行親、楯六郎親忠進六郎親直、仁科、高梨、三百余騎にて宇治手に指遣す。
木曾は力者二十人汰て、関東の兵強くば、院を取進せて西国へ御幸成進せんと支度して、上野国住人那和太郎弘澄を相具して、院御所を奉守護、其勢僅に百騎計には不過けり。
九郎義経は、伊勢国より伊賀路に懸て責上けるが、音に聞ゆる鈴鹿山の麓関を通るにも、去年の白雪村消て、谷の氷も猶残れり。
見る儘に跡絶ぬれば鈴鹿山雪こそ関のとざし成けれ K179 (有朋下P315)
と詠じけるを思つゞけて、八十瀬の白浪分過つゝ、加太山にぞ懸ける。此山の為体、峯高して峙て上り。巌嶮して身を側て伝ひ、谷深して漲落る水早ければ、足を危して渡る。河を渡ては山路に上り、山を越ては河瀬に浸る。興を催す所もあり、心を摧く砌もあり。角て山路を出ぬれば、殖柘里、くらぶ山、風の森をも打過て、当国の一宮、南宮大菩薩の御前をば、心計に再拝して、暫新居川原
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に磬たり。西に平岡あり、九郎義経里人を招きて、是より宇治へ向はんには、何地が道は能と問給へば、西に見え候平岡をば、あをた山と申、其より前に、頸落滝と云所を通るには近く候と申。其外又道はなきかと問給へば、是より長田里、花苑と云所を廻て、射手大明神の御前を、笠置に懸つても道能候と申。射手大明神とは何なる神にて御座ぞと問ひ給へば、其までの事は争知り候べき、いとゝは射手と書て候なれ共、申易に付ていとと申し候とぞ承ると云ければ、九郎義経は、戦場に向に、あらた山、首落の道禁忌也、射手明神可然とて、長田里花苑を廻り、射手大明神の御前にて下馬し給ひ、所願成就と祈請して、当来導師弥勒菩薩の笠置寺、今日甄原和泉河、河風寒く打過て、柞森を弓手になし、高倉宮討れさせ給し光明山の鳥居の前を妻手に見て、山城国宇治郡、平等院の北の辺、富家の渡りへ著給ふ。
元暦(有朋下P316)元年正月廿日、大手搦手宇治勢多に著。九郎義経河端に推寄見給へば、橋板を破取て向の岸に垣楯に掻、櫓に構たり。水は長さ増て底不見、其上乱杭逆茂木隙なく打て、大綱小綱引張て流し懸たれば、鴛鴨などの水鳥も、輙くゞり通るべし共見ざりけり。川の耳分内狭して、打臨たる者四五千騎には不過、二万余騎は寄付べき所なくして、只徒に後陣に引へたり。河の様をも見ず、橋を引たるも知ぬ者のみ多ければ、渡るべき評定にも不及けり。御曹子は雑色歩走の者共を集て、家家の資財雑具一々に取出させて、河端の在家を悉く焼払ひ、大勢を一所に集べしと下知し給。此由
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走散て■けれ共、兼て山林に逃隠たりければ家々には人もなし。此上は手手に続松を指上て、宇治の在家を焼払、行歩に叶はぬ老者少者共、さり共と忍居たりけれ共、猛火に焼死、適遁出たれども、馬人に踏殺さる。まして牛馬の類は助る者もなければ、其数を不知焼死けり。風吹ば木安からずとは加様の事なるべし。広々と焼払たりければ、二万五千余騎、貽る者もなく河耳に打臨たり。御曹子河の辺近く高櫓を造らせて、此上に登て四方を下知し給けり。矢立の硯を取寄て、宇治川先陣と剛者とを、次第明々に注して、鎌倉殿へ見参に入べしと被仰ければ、軍兵各勇を成て、抽忠とぞ色めきける。御曹子は櫓の上にて、様々の事(有朋下P317)下知し給けれ共、大勢思々にとゞめきければ、打紛れて聞えざりければ、平等院の御堂より太鼓を取寄、櫓の下にて打ければ大勢静りて、何事やらんと鳴をしづめて軍将に目を懸る時、大音揚て下知し給ひけるは、二万五千余騎の勢の中に、海の辺川端に栖て、水練の輩多かるらん、郎等家子舎人雑色までも、懸る時こそ群に抜たる高名をもすれ、我と思はん者どもは、物具ぬぎ置て瀬踏して、川の案内を試るべし、向の岸を見に、矢筈を取たる者四五百騎と見たり、瀬踏する者あらば、定て引取々々射んずらん、剛座に付んと思はん人々は、馬をも捨て橋桁を渡り、向の岸の軍兵を追払て、水練の輩を思様に振舞せよと被下知ければ、是を聞、平山馬より飛下、橋桁の上に走登、弓杖を衝扇はら/\と仕うて申けるは、二万五千余騎の其中に、橋桁の先陣渡は、武蔵国住人平山武者所季重と云小冠者也とぞ名乗ける。抑当河の有様、
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深淵潭々として巨海の波に浮めるが如、下流■々として滝水の漲落るに臨るに似たり。虹の橋桁危くして、雁歯の構奇しければ、渡えん事難けれ共、軍将の下知を背ば命を惜むに似たり。身をば宇治川底に沈むとも、名をば後代の末に流さんとて、平山是を渡処に、佐々木太郎定綱、渋谷右馬允重助、熊谷次郎直実、子息小次郎直家、已上五人ぞ続て渡しける。矢比も近成ければ、(有朋下P318)向の岸の軍兵、弓を強く引んが為に態と甲を脱で、思々に引取々々放ける矢、雨の足の如に飛来けれ共、甲冑をゆり合せ/\、矢間をたばひて振舞ば、鎧は重代の重宝也、裏かく矢こそ無りけれ。
熊谷橋桁を渡らんとて、子息の小次郎を招きて云けるは、汝は今年十六歳、心は猛く思ふ共、さねは未竪まらじ、直実だにも平に渡付事難かるべし、汝は大勢の川を渡ん時、惣を力にして渡るべしと聞えければ、小次郎打咲ひて、秋の菓にこそ核の固る固まらぬと申事は侍れ、十歳已後の者、実の固まらぬ事や有べき、若又竪まらざらんに付ても、父をば争か奉離べき、恐くは父こそ常は風気とて、目のまふ膝の振ふとは仰られ候へ、此大河に向て細桁を渡給はん事危く覚侍り、目舞足振給はば直家を憑給へ、渡申さんと云ければ、父是を聞て、さらばつゞけ小次郎とて、親子連てぞ渡しける。誠に瀬には子に過たる宝なし、死出山三途河の旅の道も、親子ぞ互に助ける。五人の兵流石目舞足振て、水は逆に流るゝかとぞ覚ける。各弓をば手に懸て、■々渡る有様、誠に余の命とぞ見えし。熊谷は我身の事は去事にて、子息の事の心苦さに、続くか小次郎誤すな/\と呼ければ、直家は、心ゆるし
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給て落入給ふな/\とぞ教ける。父子の情の哀さに、熊谷は是よりして、発心の思は有けるとかや。(有朋下P319)
S3502 高綱渡宇治河事
〔去程に〕直実大音揚て云けるは、抑此川固たる倫は、木曾殿の樹根の郎等にはよもあらじ、一旦付従ひたる人共にこそ有らめ、命は惜き習也、無詮合戦に与力して、大事の命失ふな、落ば助んと云儘に、引取引取放箭に、木曾殿の郎等に、藤太左衛門尉兼助と云者逆に被射落けり。是を始として、水練の者あらば防矢射んとて、五人進寄て散々に射ければ、多の郎等手負討れけり。其間に佐々木が郎等に、常陸国住人鹿島与一とて無双の水練あり。鎧脱置褌をかき、腰には鎌を指、手には熊手を以河の底に入、良久沈みくぐりて、乱杭逆母木引落し、大綱小綱切棄けり。実の器量と見えたりけり。去共未川を渡す者はなし、如何有べきと評定様々なりけるに、畠山庄司次郎重忠進出て申けるは、事新し、此河は近江の湖の末、今始て出来たる川にあらず、春立日影の習にて、細谷川の氷解、比良の高峰の雪消て、水のかさは増共、水の減事有べからず、足利又太郎忠綱も、高倉宮の御謀叛の御時は、渡せばこそ渡けめ、鎌倉殿の御前にて、さしも評定の有しは是ぞかし、始て驚べき事に非ず、兼ての馬用意其事也、重忠渡して見参に入れんと云処(有朋下P320)に、平等院の小島崎より武者二騎蒐出たり。梶原源太と佐々木四郎と也。景季が装束には、木蘭地直垂に、黒革威の鎧に、三枚甲の緒をしめて、滋籐の弓の中を取、二十四差たる小中黒の矢負、練鐔の太刀佩て、鎌倉殿より給り
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たる磨墨と云名馬に、黒塗の鞍置て騎たり。高綱は褐衣の直垂に、小桜を黄に返たる鎧に、鍬形打たる甲に、笛籐弓の真中取、二十四差たる石打の征矢頭高に負、嗔物造の太刀帯て、是も鎌倉殿より給たる生■に、黄覆輪の鞍置てぞ騎たりける。誰か先陣と見処に、源太颯と打入て遥に先立けり。高綱云けるは、如何に源太殿、御辺と高綱と外人になければ角申。殿の馬の腹帯は以外に窕て見物哉、此川は大事の渡也、河中にて鞍踏返して敵に笑はれ給なと云ければ、左も有らんと思て馬を留、鐙踏張立挙、弓の弦を口に■、腹帯を解て引詰々々しめける間に、高綱さと打渡して二段計先立たり。源太たばかられけりと不安思て、是も打浸して渡しけるが、馬の足綱に懸て思様にも不被渡。高綱は究竟の逸物に乗たれば、宇治河はやしといへ共、淵瀬を不云さゞめかして金に渡し、向の岸近く成て、高綱が馬綱に懸て足をさと歩除ければ、自元期する事なれば、太刀を抜、大綱小綱三筋さと切流し、向の岸へ打上り、鐙踏張弓杖突て、佐々木四郎高綱、宇治河の先陣渡たりやと名乗も果ぬ(有朋下P321)に、梶原源太も流渡に上りにけり。源太佐々木鎌倉へ早馬を立。何れも劣じ負じと馳て行。源太が早馬は先立たりけるが、如何したりけん、足柄の中山にて高綱が早馬先立ぬ。三日と申に馳付て、高綱宇治川の先陣と申たり。同時に梶原が使又来て景季先陣と申けり。右兵衛佐殿は、安立新三郎清恒を召て、佐々木梶原生たりやと問給へば、共に候と申。其後は尋給事なし。後日の注進に、宇治川の先陣は高綱と被注たりけるを見給てこそ言と心と相違なしとは宣けれ。
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佐々木梶原一陣二陣に渡を見て、秩父、足利、三浦、鎌倉、党も高家も、我も/\と打浸々々渡しけり。庄五郎広賢、糟谷藤太、榛谷、此等は馬より下弓杖を衝、橋桁を渡らんとしけり。武蔵国住人男衾郡、畠山庄司重能が子息重忠は、青地錦直垂に、赤威の鎧著て、鬼栗毛と云馬に、巴摺たる貝鞍置、糸総鞦懸て乗たりけるが、手勢五百余騎、さと河にぞ打入たる。此河余所に聞しには不員思しに、水面杳にして上は白浪流早、底は深うして水漲下れり。瀬臥の石も高して、馬の足立べき様なし。軍兵等皆危く思けるに、畠山は、渡せ殿原々々、佐々木梶原も鬼神にあらず、渡せばこそ一陣二陣に渡らめ、馬の足の立ん程は手綱すくへ、馬の足はづまば手綱をくれて游がせよ、水しとまばさうづに乗さがり、鞍坪を去て水をとほせ、強馬を(有朋下P322)ば上手に立て、■流を防せよ、弱き馬をば下手に立て、ぬるみに付て渡べし、河中にして弓引ざれ、射向の袖を真顔に当て、鐙を常にゆり合よ、弓に弓を取違へて、前なる馬の尻輪さうづに、後の馬の頭を持て息を継せよ、息はづめば馬の弱るに、透をあらせて押並々々て、馬にも人にも力を副へよ、金に渡て誤すな、水の尾に付て渡や/\と下知したり。是に続て、党も高家も力を得て、打浸し々々渡けり。爰に木曾が方より、信濃国住人根井大弥太行親と名乗て、褐直垂に、小桜威の腹巻に、洗革の大鎧重て、三尺六寸の大太刀に、二十四指たる黒羽の征矢負て、白星の五枚甲を猪頸に著、塗籠籐の弓真中取、黒糟毛の馬の太逞に、金覆輪の鞍置て乗たりけるが、垣楯面へ進出、弓杖つき敵の陣を見渡し、軍掟する事柄を見に、容儀
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人に勝たり。蒲御曹子歟、九郎御曹子歟、田代殿歟、此等の大将軍にてぞ御座らん、行親が今日の得分と思て、十四束を取番、引竪て兵と放つ。畠山が乗りたりける鬼栗毛が吹荒をぞ射通しける。行親一の矢射損じて、御方の運は早尽にけり、大将軍たる者が一の矢を放つは、弓箭の運の尽る所也、一の矢射損じて二の矢射事なし、敵に鎧の毛見知れぬ先にとて、掻楯の内へ引退く。畠山が鬼栗毛も、天馬の駒とはやりしか共、手負ぬれば疵を痛て弱ければ、重忠馬より下、前(有朋下P323)足二取て妻手の肩に引懸て、水の底をくゞりたりける。徐目には、はや畠山流れぬと見けるに、只一度弓杖衝浮上て、息をちと継、猶水の底をくゞりて向の岸へ渡けるに、草摺重く覚て、見れば黒革威の鎧著たる武者、然べくば助給へと云ければ、何者ぞ名乗れ、向の岸へ抛つべしと云ければ、其を好む者也、奉被投、名乗んと申。さらばとて冑総角■で提持て行。又赤威の鎧著て、黒馬と劣らじ負じと流行者あり、穴無慙何者ぞ、是に取付とて弓の筈を指出したり。塩冶小三郎維広と名乗て弓に取付、弓を引寄、其馬の鞦しほでの間に取付と教ければ、維広しりがいに取付つゝ浅き所に上にけり。其後河耳一段計に近付て、汝何者ぞ、好まば抛ぞ誤すなと、件の提持て行つる大の男をゆらりとなぐ。被投上て弓杖にすがりて立直て、只今歩にて宇治川渡たる先陣は、武蔵国住人大串次郎と名乗けり。敵も御方もとゝ笑ふ。悪く云ぬとや思けん、一陣畠山、二陣大串とぞ云直したる。畠山向の岸に打昇つて、何和君は重忠に被助て、重忠を蔑如にして一陣とは名乗と云ければ、大串申けるは、殿に奉被助、争其
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恩を忘べき、余に音もし侍らねば、をめて見候らんとて名乗たりと陳ずれば、弓取の法也神妙也とぞ感じける。さて塩冶に如何にと問へば、八箇国の倫、誰か殿の家人ならぬ人侍る、され共今命を助られ(有朋下P324)奉ぬれば、向後深奉憑候と申。神妙なりとて、馬は流れぬ、是に乗て京入し給へとて、小鴾毛とて秘蔵の馬を与たりけり。塩冶は今日流たるが高名にて、還馬まさりとぞ申ける。佐々木、梶原、一陣二陣と申せ共、畠山馬人三人、水の底にて助けるこそ由々しけれ。去ば重忠蒙御勘当たりけるに、大串陣の前へは寄たれ共、弓を平めて帰けり。宇治川の恩を報ずとぞ見えたりける。畠山は二人の武者を助て後、馬に打乗て向の岸につと揚る。敵は矢さきを汰へて散々に射けれ共、重忠■を傾て攻寄る処に、木曾が従弟に、信濃国住人長瀬判官代義員と名乗て蒐出たり。赤地錦直垂に、黒糸威の鎧の、鍬形の甲に白総馬に白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。金造の太刀を抜て向けるに、畠山は、是ぞ宇治路の大将なるらんと見て、秩父がかう平と云は、平四寸長さ三尺九寸の太刀也。抜儲て歩せ寄れば、義員如何思けん、引退いて垣楯の中に入にけり。返合/\戦はんとはしけれ共、畠山にや恐けん、かう平にや臆しけん、引退々々、都に向て落行けり。中にも根井大弥太行親は、七八度まで返し合て戦けるが、暫息を継んとて、思坂の辺に引たりけるに、武蔵国住人河口源三と云者と、駿河国住人船越小次郎と云者と、二人先陣に進たりけるが、落武者の身として、敵に後を見せじ/\と、返合々々戦けるこそ由々しけれ。(有朋下P325)今日の大将軍と見えたり。いざや組んとて二騎喚て懸る。行親は矢種は射尽つ、
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太刀打には一人にこそあひしらはめ。其間に一人無覚束、二人を一度に捕んと思て、左右の手をはたけて待懸たり。舟越、河口、弓手に廻り、妻手に廻、左右の脇よりつとより、えたりやとてむずといだく。行親は二人を脇に挟んで強くしめたれば、草葉の如してちとも働かず。先妻手の脇に取付たる舟越が、鎧の上帯を取てむずと引上、妻手の深田へ向て投たれば、冑は重し、田は深し、起ん/\としけれ共不叶して死にけり。其後弓手の脇なる河口を、前後の上帯取て曳々と引けれ共、船越が様にせられじとて、鐙を馬の腹に踏廻し、強く乗て上らざりければ、大弥太弓手の肘(ひぢ)を馬の下腹へ指やりて、馬と主とを中に上、弓手の深田へ曳と云て投たれば、河口泥の中にて馬に敷れて死にけり。馬も深田に打こまれて、主と共にぞ失にける。東国の兵是を見て、舌振して不進ければ、大弥太は、いかに殿原続給はぬぞ、去ば都に上、木曾殿と一所にて侍奉らんと■懸て、木幡庄へ入とは見えけれ共、自害やしけん落もやしつらん、其後は向後を不知けり。
九郎義経宣けるは、今度大将軍として、郎等に先陣を被渡て、二陣に続ん事不可然とて、橋より引下て橘小島に馬を引へ、爰は水は早けれ共遠浅也、渡せ/\と下知し給へば、我も/\と進けり。(有朋下P326)挿絵(有朋下P327)挿絵(有朋下P328)是は大事の川、加様の河を渡には馬筏を組、健馬をば上手に立、弱き馬をば下手に立よ、馬の足の届ん迄は、手綱をくれて游せよ、馬の足はづまば、弓手の手綱を指甘げて、妻手の手綱をちと縮めよ、四居にのりこぼれて游せよ、手綱強引て、馬に引れて誤すな、尾口沈まば前輪にすがれ、馬に石突
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せさすな、常に内鐙を合よ、我等渡ると見ならば、敵は定て矢衾を作つて射ずらん、敵は射る共射返すな、相引して■射らるな、痛く俛て手変射らるな、射向の袖を指かざせよ、物具に透間あらすな、水強してさがらん武者をば、弓の弭を指出て取付て游せよ、金に渡して誤ちすな、馬の頭を水面に引立て、童すがりに弓の本筈を打懸て、曳音を出して馬に力を副よ、渡せ者共、渡せ者共と下知しつつ、真前懸て渡けり。二万余騎の大勢、一度に颯と打入て渡しければ、漏水こそ無けれ。前後のはづれの水にこそ何れもたまらず流れけれ。大勢河を渡しぬれば、千騎二千騎五千六千、二百騎三百騎七百八百騎、思々心々に、或は木幡、大道、醍醐路に懸つて、阿弥陀が峰の東の麓より攻入もあり、或は小野庄、勧修寺を通つて、七条より入者もあり。或櫃川を打渡、木幡山、深草里より入もあり、或は伏見、尾山、月見岡を打越て、法性寺一二橋より入もあり。道は互に替れ共、同都へ乱入。行親、親忠等、宇治橋を引て防戦と(有朋下P329)いへ共、義経河を渡して合戦す。行親等が軍忽に敗て四方に馳散由、使を木曾が許へ立たれば、義仲大に驚て、先使者を院御所へ奉て申けるは、東国の凶徒已宇治川を渡して都へ攻入る、急醍醐寺の辺へ御幸有べきと申たりければ、更に此御所をば不可有御出と被仰遣けり。爰に義仲、赤地錦鎧直垂に紅の衣を重て、石打の胡■[*竹冠+録]に紫威の鎧を著て、随兵六十余騎を率して院御所に馳参じ、剣を抜懸目を嗔らかして砌下に立て、御輿を寄て可有臨幸由を申す。上下色を失ひ貴賎魂を消。公卿には花山院大納言兼雅、民部卿成範、修理大夫
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親信、宰相中将定能、殿上人には実教、成経、家俊、宗長祇候したりけるが、各皆藁沓を著して御伴に参ぜんとて、庭上に被下立たりければ、人々涙に咽て東西を失ひ給へり。叡慮只可奉推量。義仲が郎等一人馳来て、敵既に木幡伏見まで責来れりと申ければ、義仲は抛臨幸事、門下にして騎馬して罷出ぬ。法皇は内々諸寺諸社へ御祈を懸させ給ける上、御所中の女房男房、立ぬ願も無りける験にや、無事故罷出たれば、手を合て悦あへり。其後は門をさせとてさゝれにけり。
S3503 木曾惜貴女遣事(有朋下P330)
木曾は院御所をば出たれ共、軍場には不出けり。五条内裏に帰て、貴女の遺を惜つゝ、時移るまで籠居たり。彼貴女と申は松殿殿下基房公の御娘、十七にぞならせ給ける。無類美人にて御座ければ、女御后にもと労りかしづき進けるを、木曾聞及奉て、押て奉掠取。御心憂は思召けれ共、混ら荒夷にて、法皇をも押籠進せ、傍若無人に振舞ければ、不及御力事なりけり。賤が編戸の女にも、馴なば情は深して、別路は猶悲きに、まだ見も馴ぬ御有様、さこそ名残は惜かりけめ。斯る処に越後中太能景馳来つて、敵は既に都に乱入れり、如何に閑に打解給ひ角はと云けれ共、引物の中に籠り居て、尚も遺を惜けり。能景、弓矢取身の心を移まじきは女也、只今恥見給はん事の口惜さよとて、今年三十六に成けるが、縁より飛下腹掻切て失にけり。加賀国住人津波田三郎も此由云けれ共、出ざりければ、御運ははや尽給にけりとて、引物の前にて此も腹切つて臥にければ、津波田が自害は義仲を進むるにこそとて、百余騎の勢を率して、五条を東へ油小路を直違に、六条河原へ出たれば、根井行親、楯六郎親忠等、二百
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余騎にて木曾に行逢、主従勢三百余騎、轡を並て見渡せば、七条八条の河原、法性寺柳原に、白旗天にひらめきて、東国の武士隙を諍て馳来る。義仲申けるは、合戦今日を限とす、身をも顧命をも惜まん人々(有朋下P331)は此にて落べし、臨戦場逃走て東国の倫に笑はれん事、当時の欺くのみに非、永代に恥を貽さん事口惜かるべしと云ければ、行親、親忠等を始として申けるは、人生て誰かは死を遁ん、老て死るは兵の恨也、其恩を食で其死を去ざるは又兵の法也といへり、更に退者有べからずと云処に、畠山次郎重忠五百余騎にて進来。義仲馬頭を八文字に寄せて声を揚、鞭を打て懸入ば、重忠が郎等中を開て入組々々、妻手に違ひ弓手に合、又弓手に違ひ妻手に相闘て、義仲裏へ通れば、二河左衛門尉頼致を始として、三十六騎被討捕ぬ。川越小太郎茂房三百余騎にて進たり。義仲馬の頭を雁の行を乱さず立下し蒐入、茂房が兵、外を囲内を裹て折塞て戦。義仲うらへ懸通れば、楯六郎親忠を始として十六騎は討れにけり。佐々木四郎高綱二百余騎にて引へたり。義仲馬の足を一面に立直して、敵を弓手に懸背いて前輪に懸、甲をひらめて馬を馳並、裏へぬくれば、高梨兵衛忠直を始として十八騎討れにけり。梶原平三景時三百余騎にて引たり。義仲馬の足を一所に立重て、敵を先に蒐余て、うらへ蒐通れば、淡路冠者宗弘を始として十五騎被討捕けり。渋谷庄司重国二百余騎にて引へたり。義仲馬の足を立乱て、思々に蒐入ければ、重国が随兵共押囲て、隙を諍詰寄て、折懸々々責戦ふ。義仲裏へ通れば、根井行親を始として二十三(有朋下P332)騎は討れにけり。爰に源九郎義経是を見、三百
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余騎馬の足を詰並重入ければ、敵両方へ相分れけるを、四方へ蒐散し駆立て、矢前を調て討取ければ、義仲が軍忽に敗れて、六条より西を指て馳走る。義仲忽威三軍之士、雖敗方囲之陣、義経又廻必勝之術、退強大之兵けり。義仲左右の眉の上を、共に鉢付の板に被射付て、矢二筋折懸て院御所へ帰参しけるに、少将成経門を閉て鎖を指たりければ、再三扣押処に、源九郎義経、梶原平三景時、渋谷庄司重国、佐々木四郎高綱等十一騎、鞭を打、轡を並、矢前を汰て放射ければ、義仲不堪して落て行。義経の郎等共、北を追て攻行けり。
S3504 義経院参事
大膳大夫業忠、築地に登て世間の作法を見ければ、武士六騎門外に馳参ぜり。木曾が帰参にこそ、今度ぞ君も臣も、有無の境とわなゝき見る程に、義仲に非して東国の武士也。門外に馬に乗ながら、築地を見上て高声に、鎌倉兵衛佐頼朝の使、舎弟九郎冠者義経、宇治路を破て馳参ぜり、御奏聞あれやと申。業忠嬉しさの余に、手の舞足の踏所を忘て急下ける程に、悪く飛で腰を損じて、にがみ入たりける顔の気色、いと咲しくぞ見ける。■ (有朋下P333)々御前へ参て、義経が申状具に奏聞申ければ、法皇を始進せて、人々大に悦、門を開れたり。義経已下の兵六騎門外にして下馬す。御気色に依、中門の外、御車宿の前に立並たり。法皇は中門の羅門より有叡覧、出羽守貞長を以六人が年齢交名住国を被聞召。貞長は、狩衣の下に紺糸威の腹巻を著し、立烏帽子に嗔物作の太刀脇に挟て出けるが、太刀をば御所の簀に立て、御気色の次第を相尋ぬ。
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赤地錦直垂に、萌黄の唐綾を畳て、坐紅に威たる鎧著て、鍬形の甲下人に持せて後にあり、金作の太刀帯たるは、鎌倉兵衛佐頼朝舎弟九郎義経、生年二十五歳、今度の大将軍と名乗に合て、鎧の袖に南無宗廟八幡大菩薩と書付けり。寔に軍将の笠璽と見たり。薄紅の紙を切て、弓の鳥打の程に左巻にぞ巻たりける。青地の錦の直垂に、赤威鎧を著、備前作のかう平の太刀帯たるは、武蔵国住人秩父末流、畠山庄司重能が一男、次郎重忠生年二十一と名乗。菊閉直垂に緋威鎧は、相模国住人渋谷三郎重国が一男、右馬允重助生年四十一と名乗。蝶丸の直垂に、紫下濃の小冑は、同国住人河越太郎重頼と名乗、子息小太郎茂房、生年十六歳と云。大文を三宛書たる直垂に、黒糸威冑は、同国住人梶原平三景時、子息源太景季、生年二十三と名乗。三目結の直垂に、小桜を黄に返たる冑の裾金物の殊にきらめきて見ける(有朋下P334)は、近江国住人佐々木源三秀義が四男に、四郎高綱生年二十五、今度宇治川の先陣と名乗けり。大将軍義経は熊皮の頬貫を■、自余は牛皮を■。貞長一一に此由を奏す。法皇聞召御覧じては、誠頬魂事柄ゆゝしき荘士也とぞ仰ける。重て上洛の子細を被尋下。義経畏て申けるは、木曾義仲上洛の後、狼藉重畳之間、為追討頼朝大に驚き、範頼、義経両人を指上候、郎等六十人、其数六万余騎、二手に分て宇治勢多より上洛す、義経は宇治路を敗て罷上る、範頼は勢多より入洛未見来候、木曾は河原まで打出たりつるを、郎等共に留よと加下知候畢、今は定打捕ぬらん、義経は仙洞の御事■存て先参上之由、最事もなげに申たり。重て院宣に
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は、義仲が余党など、帰参して狼藉もや仕る、今夜は御所に候て守護仕べしと。義経随勅定候けり。懸りしかば諸衛官人諸国の宰史、兵杖を帯して其夜は法皇を守護し奉る。さてこそ君を始進せて、女房も男房も、安堵の思は出来けれ。
S3505 東使戦木曾事
木曾は六条河原軍に負て、院御所に参、法皇を取進せて西国へ御幸成進せんと思けれ共、(有朋下P335)門を閉られたりける上、義経が兵共に被責立て、又河原に出て三条を指て落行けり。其勢七八十騎には過ず。義経の軍兵は、党も高家も雲霞の如して、我先々々と隙を有せず進けり。義仲も今日を限と思ければ、命を不惜散々に戦。武蔵国住人塩谷太郎兄弟三騎、四条河原の東の端に引へたりけるが、兄の太郎弟の三郎に云様は、御辺は栗子山にて能敵に組で、物具剥取て高名せんと云しは忘たりやとはげませば、三郎争か忘るべきとて、馬を川に打入て、西へ向て渡る処に、木曾方より、信濃国住人長瀬判官代と云者、黒糸威鎧に、葦毛の馬に乗て、河の西の端より打入て東へ向て渡たり。長瀬。塩谷東西より河中に歩せ寄、馬と馬とを並て、組でだんぶと落にけり。手に手を取組、腹に腹を合て、上になり下になり、浮ぬ沈ぬ俵のころぶ様に、四五段計流たり。敵も御方も目を澄して是を見、深き所に流入て、水の底にて組合たり。良暫不見けるに、水紅に流ければ、誰討れぬらんと思処に、塩谷は左の手に敵の首を捧、右の手には敵の物具剥取て口に刀をくはへつゝ、東の陸へさと上り、武蔵国住人塩谷三郎某、長瀬判官代が首捕たりやと名乗。由々敷ぞ聞えし。
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義仲は、上野国住人那和太郎弘澄、多胡次郎家包、越後中次家光等を引具して落けるが、家光は遂遁まじき物故に、人手にかゝらんよりはとて馬(有朋下P336)より飛下、腹掻切て三条河原に伏にけり。軍兵追懸々々戦ければ、八十余騎とは見しかど、五十余騎に成にけり。
武蔵国住人勅使河原権三郎有直は、木蘭地の直垂に、黒糸威の冑に白星の甲、二十四指たる黒布露の矢、黒漆の弓に、黄駱馬に黒漆の鞍置てぞ乗たりける。同四郎有則は、ひらくゝりの直垂に、赤威の鎧、同色の甲に、十八指たる鴟の石打頭高に負、三所籐の弓の中取て、黒駮馬に金覆輪の鞍置て乗たりけり。兄弟二騎は三百余騎にて追懸申けるは、北陸道の大将軍、朝日将軍と呼れ給し人の、正なくも後をば見せ給もの哉、源氏の名折とは不思召や、無跡までも名こそ惜けれ、返合給や/\とて、二重三重に打並て、武蔵国住人、勅使河原権三郎有直生年三十一、同四郎有則二十八と名乗懸て、轡をならべて喚て蒐。木曾十余騎馬の鼻を引返し、杉のさきにさと立て宣けるは、有直慥に承れ、義仲にはあはぬ敵と思へ共、弓矢取身は、大将軍の詞は一も得こそ嬉けれ、現世の名聞後生の訴にもせよとて、弓をば脇にはさみ、太刀の切鋒打つるべて、勅使河原余すなとて、蛛手十文字竪様横様切廻ければ、三百余騎の大勢も五十余騎に被懸立て、馬の足立る隙こそ無りけれ。只小勢に付て五廻六廻が程廻けるが、有直弓手の肘(ひぢ)被打落て、神楽岡を指て引退。五十余騎の勢も被打取て、二十五(有朋下P337)騎にぞ成にける。木曾危見けるを、根井小弥太、左近五郎、岡津平六兵衛、城小弥太郎、兄弟二人、
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佐竹の者共防矢射てこそ遁れけれ。又秩父師岡打囲て散々に攻ければ、木曾方にも、根井次郎行直、進六郎親直等、思切て大勢の中へ打入て、命を不惜我一人と戦たり。小勢懸れば大勢さと引退、大勢懸れば小勢さと引退。寄つ返つせし有様は、辻風の塵を巻にぞ似たりける。其手をも打破て落行ば、横山党に奥次弥次と、三浦党に佐原十郎、三浦二郎、三百余騎にて、漏すなとてこそ戦けれ。二十五騎と見しか共、僅に十二騎に成。
S3506 巴関東下向事
畠山は、九郎義経と院御所に候けるが、木曾漏やしぬらん覚束なしとて、三条河原の西の端まで打出たり。義仲は三条白河を東へ向て引けるを、重忠は本田半沢左右に立歩出し、東へ向て落給は大将と見は僻事か、武蔵国住人秩父の流れ、畠山庄司、次郎重忠也、返合給へや/\と云ければ、木曾馬の鼻を引返し、誰人に合て軍せんより、一の矢をも畠山をこそ射め、恥しき敵ぞ思切と下知して河を阻て射合たり。さすが敵は大勢也、木曾(有朋下P338)は僅に十三騎、畠山が郎等の放矢は、雨の降が如に飛ければ、わづか小勢堪兼て、三条小河へ引退。重忠勝に乗て責懸ければ、木曾も引返々々、弓箭に成、打物に成、追つ返つ返つ追つ、半時計戦ける。其中に木曾方より、萌黄糸威の鎧に、射残したりける鷹羽征矢負て、滋籐の弓真中取、葦毛馬の太逞きに、少し巴摺たる鞍置て乗たりける武者、一陣に進て戦けるが、射も強切も強、馳合馳合責けるに、指も名たかき畠山、河原へさと引て出。畠山半沢六郎を招て、如何に成清、重忠十七の年、小坪の軍に会初て、度々の戦に合たれども、是程軍立のけはしき
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事に不合、木曾の内には、今井、樋口、楯、根井、此等こそ四天王と聞しに、是は今井、樋口にもなし、さて何なる者やらんと問ければ、成清、あれは木曾の御乳母に、中三権頭が娘巴と云女也、つよ弓の手だり荒馬乗の上手、乳母子ながら妾にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を不取、今井樋口と兄弟に〔し〕て怖しき者にて候と申。畠山さてはいかゞ有べき、女に追立られたるも云甲斐なし、又責寄て女と軍せん程に、不覚しては永代の疵、多者共の中に、巴女に合けるこそ不祥なれ、但木曾の妾といへば懐きぞ、重忠今日の得分に、巴に組んで虜にせん、返せ者共とて取て返し、木曾を中に取籠て散々に蒐、畠山は巴に目(有朋下P339)をぞ懸たりける。進退き廻合ん/\と廻ければ、木曾巴を組せじと蒐阻々々て、二廻三廻が程廻ける処に、畠山、巴強ちに近く廻合。是は得たる便宜と思、馬を早めて馳寄て、巴女が弓手の鎧の袖に取付たり。巴叶じとや思けん、乗たる馬は春風とて、信濃第一の強馬也。一鞭あててあふりたれば、冑の袖ふつと引切て、二段計ぞ延にける。畠山、是は女には非ず、鬼神の振舞にこそ、加様の者に矢一つをも射籠られて、永代の恥を不可残、引に過たる事なしとて、河原を西へ引退き、院御所へぞ帰参ける。
木曾は此彼を打破て、東を指て落行けり。竜華越に北国へ伝とも聞けり。長坂にかゝり、播磨へ共云けり。其口様々也けれども、大津へ向て被打けるが、四宮河原にて見給へば、僅に七騎に残たり。巴は七騎の内にあり。生年二十八、身の盛なる女也。去剛の者成ければ、北国度々の合戦にも手をも負
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ず、百余騎が中にも七騎に成まで付たりけり。四宮河原、神無社、関清水、関明神打過て、関寺の前を粟津に向てぞ進ける。巴は都を出ける時は、紺村紅に千鳥の鎧直垂を著たりけるが、関寺合戦には、紫隔子を織付たる直垂に、菊閉滋くして、萌黄糸威の腹巻に袖付て、五枚甲の緒をしめ、三尺五寸の太刀に、二十四指たる真羽の矢の射残したるを負、重籐の弓に、せき弦かけ、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍置てぞ乗たり(有朋下P340)ける。七騎が先陣に進て打けるが、何とか思けん甲を脱、長に余る黒髪を、後へさと打越て、額に天冠を当て、白打出の笠をきて、眉目も形も優なれけり。歳は二十八とかや。爰に遠江国住人、内田三郎家吉と名乗て、三十五騎の勢にて巴女に行逢たり。内田敵を見て、天晴武者の形気哉、但女か童か■なしとぞ問ける。郎等能々見て女也と答。内田聞敢ず、去事あるらん、木曾殿には、葵、巴とて二人の女将軍あり、葵は去年の春礪並山の合戦に討れぬ、巴は未在ときく、是は強弓精兵、あきまを数る上手、岩を畳金を延たる城也共、巴が向には不落と云事なし、去癖者と聞召て、鎌倉殿、彼女相構て虜にして進べき由仰を蒙たり。巴は荒馬乗の大力、尋常の者に非ずと聞、如何がすべきと思煩けるが、郎等共に云様は、女強といふとも百人が力によも過じ、家吉は六十人が力あり、殿原三十余人、既に百人にあまれり、殿原左右より寄て、左右の手を引張れ、家吉中より寄て、などか巴を取ざらんと云けるが、内田又思返す様、まて/\暫し、槿花の朝に咲て夕べに萎だにも、己が盛は有物を、八十九十にて死なん命も、二十三十にて亡ん命も同事、女程の者に
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組むとて、兎角計ごとを出しけるよと、殊に後陣に引へたる、甲斐の一条の思はん事こそ恥しけれ、殿原一人も綺べからず、家吉一人打向て巴女が頸とらんと云ければ、(有朋下P341)三十余騎の郎等は、日本第一に聞えたる怖しきものに組むまじき事を悦びて、尤々と云ければ、内田只一人、駒を早めて進む処に、巴是を見先敵を讃たりけり。天晴武者の貌哉。東国には、小山、宇都宮歟、千葉、足利歟、三浦、鎌倉か、■な誰人ぞ、角問は木曾殿の乳母子に、中三権頭兼遠が娘に巴と云女也、主の遺の惜ければ、向後を見んとて御伴に侍ると云。鎌倉殿の仰を蒙、勢多手の先陣に進るは、遠江国住人内田三郎家吉と名乗進けり。巴は、一陣に進むは剛者、大将軍に非ずとも、物具毛の面白きに、押並て組、しや首ねぢ切て軍神に祭らんと思けるこそ遅かりけれ。手綱かいくり歩せ出す。去共内田が弓を引ざれば、女も矢をば不射(いざり)けり。互に情を立たれば、内田太刀を抜ざれば、女も太刀に手を懸ず。主は急たり馬は早りたり。巴、内田、馬の頭を押並、鐙と/\蹴合するかとする程に、寄合互に音を揚、鎧の袖を引違たり。やをうとぞ組だりける。聞る沛艾の名馬なれ共、大力が組合たれば、二匹の馬は中に留て働かず。内田勝負を人に見せんと思けるにや、弓箭を後へ指廻し、女が黒髪三匝(さんさう)にからまへて、腰刀を抜出し、中にて首をかゝんとす。女是を見て、汝は内田三郎左衛門とこそ名乗つれ、正なき今の振舞哉、内田にはあらず、其手の郎等かと問ければ、内田我身こそ大将よ、郎等には非ず、行(有朋下P342)跡何にと申せば、女答て云、女に組程の男が、中にて刀を抜、目に見する様やは有べき、軍は敵に依て振舞べし、故実も知ぬ内田
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哉とて、拳を握り、刀を持たる臂(ひぢ)のかゝりをしたたかに打。余に強く被打て、把る刀を被打落、やをれ家吉よ、日本一と聞たる木曾の山里に住たる者也、我を軍の師と憑めとて、弓手の肘(ひぢ)を指出し、甲の真顔取詰て、鞍の前輪に攻付つゝ、内甲に手を入て、七寸五分の腰刀を抜出し、引あふのけて首を掻、刀も究竟の刀也、水を掻よりも尚安し。馬に乗直り、一障泥あふりたれば、身質(むくろ)は下へぞ落にける。首を持ち木曾殿に見せ奉れば、穴無慙や、是は八箇国に聞えし男、美男の剛者にて在つる者を、被討けるこそ無慙なれ、是も運尽ぬれば汝に討れぬ、義仲も運尽たれば、何者の手に懸、あへなく犬死せんずらん、日来は何共思はぬ薄金が、肩に引て思也、我討れて後に、木曾こそ幾程命を生んとて、最後に女に先陣懸させたりといはん事こそ恥しけれ、汝には暇を給ふ、疾々落下とぞ宣ひける。巴申けるは、我幼少の時より君の御内に召仕れ進せて、野の末山の奥までも、一の道にと思切侍り、今懸る仰を承こそ心うけれ、君の如何にも成給はん処にて、首を一所に並べんと掻詢(かきくどき)云ければ、木曾誠にさこそは思ふらめ共、我去年の春信濃国を出し時妻子を捨置、又再び不見して、永き別の(有朋下P343)道に入らん事こそ悲けれ、去ば無らん跡までも、此事を知せて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりも可然と存る也、疾々忍落て、信濃へ下り、此有様を人々に語れ、敵も手繁く見ゆ、早々と宣ければ、巴遺は様々惜けれ共、随主命、落涙を拭つゝ、上の山へぞ忍びける。粟津の軍終て後、物具脱捨、小袖装束して信濃へ下り、女房公達に角と語、互に袖をぞ絞ける。世静て右大将家より被召ければ、巴則
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鎌倉へ参る。主の敵なれば、心に遺恨ありけれ共、大将殿も女なれ共、無双の剛者、打解まじきとて森五郎に被預。和田小太郎是を見て、事の景気も尋常也、心の剛も無双也、あの様の種を継せばやとぞ思ける。明日頸切べしと沙汰有けるに、和田義盛申預らんと申けるを、女なればとて心ゆるし有まじ、正しき主親が敵也、去剛の者なれば、隙もあらば伺思心有らん、叶まじと被仰けるを、三浦大介義明が、君の為に命を捨、子孫眷属二心なく、君を守護し奉て、年来奉公し奉る、争思召忘給ふべき、義盛相具して候共、僻事更に在まじきと、様々申立預にけり。即妻と憑て男子を生。朝比奈三郎義秀とは是なりけり。母が力を継たりけるにや、剛も力も并なしとぞ聞えける。和田合戦の時朝比奈討れて後、巴は泣々越中に越、石黒は親かりければ、此にして出家して巴尼とて、仏に奉花香、主親朝比奈が後世弔ひけるが(有朋下P344)九十一まで持て、臨終目出して終りにけるとぞ。
< 或説には、赤瀬の地頭の許に仕るといへり。>
< 高望王より九代孫、三浦大介義明、杉本太郎義遠、和田小太郎義盛、朝比奈三郎義秀也。>
S3507 粟津合戦事
範頼は勢多の手に向給たりけれ共、橋は引れぬ底は深し、渡べき様なければ、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝を先として、田上の貢御瀬を渡しつゝ、石山通に攻上、今井四郎兼平、五百余騎にて国分寺の毘沙門堂に陣を取たりけるが、出合防戦けり。方等三郎先生義弘爰にして討れぬ。三万余騎の兵雲霞の如くに重なりければ、何にも難防ける上に、宇治の手已敗て、軍兵都へ乱入と聞けれ
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ば、兼平心弱覚て、木曾殿は北国へぞ趣き給らんと思ければ、湖の西の渚を、三百余騎にて北へ向て歩行。義仲は関山関寺打過て、南を指て行程に、粟津浜にて行会ぬ。木曾云けるは、都にていかにも成べかりつるに、今一度互に相見んとて、多の敵に後を見せ是まで来れりと語て涙ぐみけり。今井も勢多にて如何にも成べう候つれ共、御向後の■なく侍て、是まで遁参たりと申けり。義仲、兼平(有朋下P345)馬を打並て宣けるは、川原の合戦に、高梨、仁科、根井も討れぬ。身も已に疵を蒙て、心疲力尽て進退歩を失、為敵被得事名将の恥也、軍敗れ自害するは猛将之法也と申ければ、兼平申けるは、勇士は不食不飢、被疵被屈、軍将は遁難求勝、去死決辱、就中平氏西海に在す、軍将北州に入給ば、天下三に分ち海内発乱せん歟、先急で越前国府まで遁給へ、兼平此にて敵を可相禦と云て挙旗。義仲が随兵共、多は北国の輩なれば、北を指て落けるが、旌の足を見て、五十騎三十騎此彼より馳集る。勢多より落来者、二十騎三十騎集加ければ四五百騎に及。兼平力を得、左右を顧て云、各思を報じて命を棄ん事有此時、禦矢射て奉延んと申ければ、五百余騎の輩心を一にして、西の山を後に当て、東の浜を前に得て、馬の足を軽して、矢筈を取ける程に、武石三郎胤盛、猪俣金平六範綱等を始として、七百余騎攻来て時音を発す。兼平已下の軍士又声を合す。木曾宣けるは、此等は源氏郎等共、我と思はん若者共、蒐出て追散せと下知し給ければ、二河次郎頼重と云者、三十余騎にて鞭を打て敵の中へはり入て、両方互に乱合て相戦。範綱已下の輩小勢を押裹、
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中に取籠てければ、頼重を始として、不漏皆討捕れにけり。其後甲斐の源氏に、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、七千余騎にて先陣に進、粟津浜に打出た(有朋下P346)り。木曾は赤地錦の鎧直垂に、薄金と云冑著て、射残したる護田鳥尾の矢負て、歩ばせ出して名乗けるは、清和帝に十代後胤、六条判官為義には孫、帯刀先生義賢次男、木曾左馬頭兼伊予守、今は朝日将軍、源義仲生年三十七、甲斐の一条と見は僻事か、雑人の手にかけんより組や組とて、轡を並て踉■たり。一条次郎忠頼も、同流の源に、伊予守頼義の三男、新羅三郎義光が孫、武田太郎信義が嫡子、一条次郎忠頼、同三郎兼信、兄弟二人と名乗て進出つゝ、木曾と一条と、魚鱗、鶴翼の戦をぞ並たる。一条忠頼は鶴翼の戦とて、鶴の羽をひろげたるが如くに、勢をあばらに立成て、小勢を中に取籠んとぞ構たる。木曾義仲は魚鱗の戦とて、魚の鱗をならべたるが如、さきは細く、中ふくらにこそ立たりけれ。一条板垣は甲斐源氏、木曾義仲は信濃源氏也、共に清和苗裔同多田の後胤也。一門弓箭を合せ、同姓勝負を決せんとす。義仲魚鱗の構にて、五百余騎轡を並べてさと蒐入たれば、忠頼鶴翼の支度にて、大勢の中に小勢をくるりと巻、馳合馳却、戦たり。義仲は今を限の軍也、いつまで命を惜べき、一条次郎能敵ぞ、あますな者共とて、蒐破ては出喚ては入、五六度まで戦て、くと抜て出たれば、二百余騎は討れにけり。次に同甲斐源氏に武田太郎信義、加々見次郎遠光、兄弟二人大将軍にて二千余騎、木曾を(有朋下P347)中に取籠て散々に戦、かけ入かけ出て、四廻五廻戦て先へ抜て見れば、八十余騎は討れけり。次同国源氏に逸見四郎有義、伊沢
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五郎信光兄弟二人、従弟に小笠原小次郎長清、三人大将軍にて三千余騎、木曾を中に取籠て戦、追入追出し、一時戦て懸抜て見れば、五十余騎は討れにけり。次に武蔵国住人稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、兄弟二人大将として二千余騎、木曾を中に取籠てあますなとて散々に戦。蛛手十文字にかけ破て、くと抜て見たれば、五十余騎は討れにけり。
次に下総国住人千葉介経胤、大将軍にて三千余騎、木曾を中に取籠て遁すな者共とて、透間なくこそ戦たれ。思切たる木曾なれば、命も不惜振舞けり。散々にかけ破て後へ通て見たれば、七十余騎は被討て、僅に二十余騎にぞ成にける。
次に大将軍蒲冠者範頼、七千余騎にて木曾を中に取籠て、ましぐらにこそ戦たれ。木曾は此大勢にて追つ返つ/\、粟津原より打出浜まで、引退々々こそ堪たれ。二十余騎とは見えしかど、落ぬ討れぬする程に、主従五騎に成たりけるが、信濃国住人手塚太郎討れければ、手塚別当も落にけり。上野国住人多胡次郎家包と名乗て打出ければ、大勢の中を打廻、我と思はん人々は、家包討捕て勲功の賞に預れやと云て、散々に切廻けり。鎌倉殿兵共に相触れて、多胡次郎家包木曾に付て在也、相構て虜て進(有朋下P348)せよと被仰含たりければ、家包は大狂廻切廻けれ共、軍兵は疵を付じと射もせず切もせず、手をひろげて取ん取んとしけるこそ由々しき大事なりけれ。兵の中に、家包甲を脱太刀を納て降人に参れ、助ん、木曾殿も今は主従三騎也、和君一人命を棄たり共、木曾殿軍に勝給ふべしや、唯
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降人に参れ、無由々々と云ければ、家包申けるは、弓矢取身は主は二人不持、軍の習討死は期する処也、惜命降人に成て、角云人々に面を合すべしや、正なし/\教訓も事によるべし、其よりも只寄合、組で討取給へや殿原とて斬廻りけれども、大勢■を傾けて押寄、終に生捕にけり。去年六月に木曾北陸道を上しには、五万余騎と聞えしに、今四宮河原を落けるには、只七騎には不過けり。粟津の軍の終には、心は猛く思へ共、運の極めの悲さは、主従二騎に成にけり。増て中有の旅の空、独行なる道なれば、想像こそ哀なれ。木曾殿鐙踏張弓杖衝て今井に宣ひけるは、日来は何と思はぬ薄金が、などやらん重く覚る也と宣へば、兼平何条去事侍べき、日来に金もまさらず、別に重き物をも付ず、御年三十七御身盛也、御方に勢のなければ臆し給ふにや、兼平一人をば、余の者千騎万騎とも思召候べし、終に可死物故に、わるびれ見え給ふな。あの向の岡に見ゆる一村の松の下に立寄給て、心閑に念仏申て御自害候へ、其程(有朋下P349)は防矢仕て、軈て御伴申べし、あの松の下へは、廻らば三町直には一町にはよも過侍らじ、急給へと泣々涙を押へ詢ければ、木曾は遺を惜つゝ、都にて如何にも成べかりつれ共、此まで落きつるは汝と一所にて死なんと也、何迄も同枕に討死せんと思也と宣へば、今井いかに角は宣ふぞ、君自害し給はば兼平則討死也、是をこそ一所にて死ぬるとは申せ、兵の剛なると申は最後の死を申也、さすが大将軍の宣旨を蒙程の人、雑人の中に被打伏て首をとられん事、心憂かるべし、疾々落給て御自害あるべしと勧ければ、木曾誠にと思ひ、向の岡松を指て馳
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行けり。今井は木曾を先に立て、引返々々命も不惜戦けり。木曾は今井を振捨て、畷に任て歩せ行。比は元暦元年正月廿日の事なれば、峯の白雪深して、谷の氷も不解けり。向の岡へ直違にと志。つららむすべる田を横に打程に、深田に馬を馳入て、打共々々不行けり。馬も弱り主も疲たりければ、兎角すれ共甲斐ぞなき。木曾は今井やつゞくと思つゝ、後へ見返たりけるを、相模国住人石田小太郎為久が、能引て放つ矢に内甲を射させて、間額を馬の頭に当て、俛しに伏にけり。為久が郎等二人馬より飛下、深田に入て木曾を引落し、やがて首をぞ取てける。今井是を見て、今ぞ最後の命なる、急御伴に参らんとて進出て申けるは、日比は音にも聞けん、今は目に(有朋下P350)も見よ、信濃国住人中三権頭兼遠が四男、朝日将軍の御乳母子、今井四郎兼平也、鎌倉殿までも知召たる兼平ぞ、首取て見参に入よやとて、数百騎の中に蒐入て散々に戦けれ共、大力の剛の者成ければ、寄て組者はなし、唯開て遠矢にのみぞ射ける。去共冑よければ裏かゝず、あきまを射ねば手も不負。兼平は箙に胎る八筋の矢にて八騎射落しける。太刀を抜て申けるは、日本一の剛者、主の御伴に自害する、見習や、東八箇国の殿原とて、太刀の切鋒口にくはへ、馬より逆に落貫てぞ死にける。兼平自害して後は、粟津の軍も無りけり。
樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家を追討のために、五百余騎にて河内国へ下たりけるが、行家をば討漏して、兼光女共虜にして京へ上ける程に、淀の大渡にて、木曾殿已に討れ給ぬと聞て、虜をば
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追放て、兵共に云けるは、木曾殿早討れ給にけり、御内には今井樋口とて一二の者也、遂に遁べき身に非、我身は京に上て可討死也、命も惜く故郷も恋しからん人々は、是より落べしと云ければ、五百余騎の兵共、木曾殿左様に討れ給ける上は、誰が為に命をも捨べきとて、思々に落失て、僅に五十余騎にて上けるが、鳥羽殿の秋の山の程にて見ければ、三十騎には不過けり。造道、四塚、東寺の門へ歩せ行。樋口次郎京へ入と聞えければ、九郎義経の郎等共、七条を西へ朱雀大宮(有朋下P351)を下に、造道へ馳向。信濃国住人茅野太郎光弘と云者は、樋口次郎兼光が甥也。木曾殿為誅罰、東国より討手上と聞て、山道より只一騎上けるが、今日都に著て聞ば、木曾殿は已討れぬ、樋口今日京に入と聞て、急四塚辺へ馳向て、兼光が勢に打具して戦けり。何まで助るべきにはなけれ共、親き中こそ哀なれ。光弘矢さきに塞て散々に戦処に、筑前国住人原十郎高綱と名乗つて蒐出たり。光弘申けるは、何れの十郎にてもあれ、敵をば嫌まじとて、間近き程に攻寄て、太刀を抜て戦けるが、茅野太郎が手に懸り、原十郎討れにけり。同国上宮の茅野大夫光家、其弟に茅野七郎光重も、兄弟鼻を並て戦けるが、敵四人切殺して我身も討死してぞ失にける。児玉党団扇の旗指て、百余騎の勢にて出来れり。樋口を中に巻籠て、軍をばせず申けるは、やゝ樋口殿軍を止給へ、和殿計は助奉らん、広き中に入て聟に成は、加様の時の料也、無詮々々とて、心ならず取籠て具して京へ上り、軍将義経に角と申ければ、奏聞してこそ助めとて、院御所に将参、此旨申入ければ、今日は不被斬けり。
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S3508 木曾頸被渡事(有朋下P352)
二十二日に新摂政を奉止て、元の摂政に成返り給へり。摂録の詔書を被下て僅に六十日、そも春日大明神の御計なれば、可然事と云ながら、見果ぬ夢とぞ思召ける。去共人の申けるは、昔一条院御宇に右大臣道兼と申しは、太政大臣兼家公次男也。〈 号東三条殿也。 〉正暦六年四月廿七日に、関白の諂事を下給らせ給て、御拝賀の後只七日、前後十二日ぞ御座ける。是を粟田関白と申き。懸る様も有しぞかし、是は六十日が間に、除目も二箇度行給しかば、思出ましまさぬには非ず。一日とても摂録を黷し給こそ目出けれ。二十六日に、伊予守義仲が首大路を被渡。法皇は御車を六条東洞院に立て被御覧、九郎義経六条河原にて検非違使の手に渡す。検非違使是請取て、東洞院を北へ渡して、左の獄門の樗木に懸らる。其首四つ、伊予守義仲郎等に信濃国住人、高梨六郎忠直、根井四郎行親、今井四郎兼平也。是三人は、四天王に員へられて一二の者なりければ、義仲と同く懸られたり。何者が所為にか、獄門の木の下に、札を書き立たりけるは、
信濃なる木曾の御料に汁懸て只一口に九郎義経 K180
伊予守の頸、剣に貫て赤絹を切て、賊首源義仲と銘を書て髻に付、義仲左右の眉の上に、被疵たれば、粉米をぞ塗たりける。次に降人中原兼光、葛紺水干葛袴の練色衣に、引(有朋下P353)立烏帽子を著す、徒跣にて渡けり。法皇御車の前にして被召留て御覧あり。上下市を成て見物す。兼光死を遁れて降人と成、大路を被渡面を曝す、其心勇士にはあらざりけり。皆人恥しめあへりけり。度々の合戦に
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功有しかば、其名を得たる兵なりしに、今人の嘲を招けるも、可然運の極と覚たり。
S3509 兼光被誅並沛公入咸陽宮事
樋口次郎兼光は、児玉党が依嘆申、義経被奏聞ければ、宥死罪大路を渡し、被禁獄たりけるを、院御所法住寺殿の軍の時、然べき上搶蘭[達などを捕て衣裳を剥取、裸に成て五六日奉取籠、恥を奉見たりける故に、彼女房達口惜事に思召て、かたへの女房達を相語、兼光男を生置せ給はば、尼にならん御所を出ん。淀河、桂河に身を投んなど、様々に訴申させ給ければ、法皇も力及せ給はず、公卿有僉議、女房の訴訟も難黙止。兼光は木曾殿が四天王の随一、死罪を被宥事有虎養恐と、殊に有沙汰て、明二十七日に獄舎より取出て、五条西朱雀に引出て被斬けり。伝聞、虎狼の国衰て諸侯蜂の如く起り、沛公先咸陽宮に入といへ共、項羽が後に来らん事を恐て、金銀珠玉をも掠めず、軍兵美人(有朋下P354)をも不犯、徒に函谷関を守て漸々に敵を亡し、遂に天下を治る事を得たりといへり。漢高祖と申は彼沛公の事也き。義仲も先都に入と云とも其慎み有て、頼朝の下知を守らましかば、彼沛公が謀に同くして、世を取事も有なまし。義仲早晩奢つゝ、奉背天命、叛逆を起し、悪事身に積て、首を粟津に被刎て、恥を獄門に被曝けり。但帝王に向て弓を引者、大果報之人は六十日を持、小果報之人は四十日を不過といへり。木曾は五十余日除目二箇度、松殿の御聟になり、朝日将軍の宣旨を被下たり。大果報とも云べきか。