『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十七
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佐巻 第三十七
S3701 熊谷父子寄城戸口並平山同所来付成田来事
熊谷父子城戸口に攻寄て、大音揚て云けるは、武蔵国住人熊谷次郎直実、同小次郎直家生年十六歳、伝ても聞らん、今は目にも見よや、日本第一の剛者ぞ、我と思はん人々は、楯面へ蒐出よと云て、轡を並べて馳廻けれ共、只遠矢にのみ射て出合者はなし。熊谷城の中を睨へて申けるは、去年の冬、相模国鎌倉を出しより、命をば兵衛佐殿に奉り、骸をば平家の陣に曝し、名をば後代に留んと思き、其事一谷に相当れり、軍将も侍も、我と思はん人々は、城戸を開き打て出て、直実、直家に落合、組や/\と云へ共、出者もなく名乗者もなかりければ、此城戸口には恥ある者もなき歟、父子二人はよき敵ぞ、室山、水島二箇度軍に高名したりと云なる越中次郎兵衛、悪七兵衛等はなき歟、所々の戦に打勝たりと宣ふなる能登殿はおはせぬか、高名も敵によりてする者ぞ、流石直実父子には叶はじ者を、穴無慙の人共や、いつまで命を惜らん、出よ組ん出よくまんといへ共、高櫓(有朋下P392)の上より城戸を阻て、雨の降が如にぞ射ける。熊谷小次郎に教へけるは、汝は是れぞ初軍、敵寄すればとて騒ぐ事なかれ、射向の袖を間額にあてよ、あき間を惜て汰合よ、常に鎧つきせよ、立はたらかで裡をかゝすな、あふのき懸て内甲射さすな、指うつぶきて手返射らるな、賢かれとぞ申ける。直実は小次郎を矢前にあてじと、鎧の袖をかざし
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て立隠せば、家直は父を孚て、前に進て箭面に立、武心の中にも親子の情ぞ哀なる。かく寄て一軍したりけれ共、夜は猶深し、城戸口は不開、御方も未続ねば、死る命は何も同事なれ共、晩闇に証人もなく死にたらんは、正体なしと思ければ、明るを遅と侍居たり。
平山も熊谷が心に少も不違、先陣を心に懸て、三草の閑道にかゝりて浦の手に打出て、後陣を待て城戸口を破らんと思ひ、あれこそ浦へ出る道よと云ける計を聞、大勢をば弓手に見なし、三草の山を打過、尾一つ越て、須磨の浦を指てうつ程に、先立て武者一人歩せ行。あれは誰ぞと問ければ、景重と答。成田五郎にてぞ有ける。成田思ひけるは、平山が馬は聞ゆる逸物也、我馬は弱ければ、打つれて先陣蒐事叶ふまじ、たばかり返さんと思て、馬の鼻を引返て平山に云けるは、高名は大手搦手に依まじ、聞が如きは平家の大勢、なほ三草小野原越に向て、両方より指合せ、源氏を中に取籠て洩じと支度する也、(有朋下P393)誠に被取籠なばゆゝしき大事也、其上大勢の中を忍出て先を蒐たりとても、誰かは証人に立べき、後陣の勢を相待て、先陣をこそ蒐べけれと云ければ、げにもさるべしとて、暫く休居たれば、成田白地なるやうにもてなして、甲の緒をしめて進行。平山は、我をたばかるにこそと思て、馬に打乗、鞭に鐙を合て行ければ、成田今は叶はじと思ひて、へらぬ体にもてなし、誠は家正馬弱て、如何にも御辺に先せられぬと思つれば、たばからんとて申たり、強からん乗替一匹たべ、命生たらば後の証人にもし給へかしと云けれども、平山耳にも不聞入、成田を弓手に見成て打ち通りける
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が、遥に延て思けるは、成田が馬を乞つれ共、余の悪さに返事いはざりつる事情なし、見合たらば取て乗かしとて、宿鴾毛なる馬の五臓太なるが、七寸に余たるに鞍置たるを、道の耳なる木に繋付てぞ通りける。成田此馬を見て、同じくれば早くれて、共に打つれて行なましと、一人言して打乗つつ、鞭を打てぞ馳行ける。
熊谷暫休みて小次郎に云けるは、実や平山も打こみの軍をば不好、小手向に音のしつるは、一定爰へぞ来らんずる、城戸口開事あらば、相構て先蒐らるなと云教ゆ。平山は成田をば打捨て、山の細道分行ば、暗さは闇し、さしうつぶき/\見ければ、薄氷を踏破て馬の通る跡あり。既に熊谷に先懸られぬよと本意なく(有朋下P394)て、いとゞ馬をぞ早めける。其日の装束には、重目結の直垂に、赤威の鎧著て、二引量の母衣を懸て、目油馬にこそ乗たりけれ。熊谷は西の城戸口浜の際に扣へて、誰かは先をば蒐べき、はや城戸口を開けかしとぞ相待ける。後の方に馬の足おと、人影のする様に覚えければ、雲透に是を見るに、武者二騎馳来れり。近付を見れば平山也。案に不違と思て、いかに平山殿歟。季重、問は誰ぞ、熊谷殿歟。直実と名乗合、共に一所に寄合たり。平山熊谷に語けるは、打籠の軍は剛臆見えず、如何にも追手にて鍔金顕さんと思て、子時に山の手を忍出たりつれば、寅時には爰へ来付べかりつるを、小手向にて成田来て申様、御辺は追手へ向給ふ歟、誰もまかるぞ打列給へ、只一人敵の中へ打入たり共、証人なき所にて死たらば、なにともなき徒事、犬死とは左様の事也、御方のつゞきたらん時に、先
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を懸命を捨てこそ我も人も高名にて子孫に勲功もあらんずれ、闇討に射殺されては、且は嗚呼の事、卯の始の矢合といへ共、辰の始にぞあらんずる、是非軍は夜の凌晨、暫此にて馬労り後陣を待給へ、家正も休と云つれば、げにもさりと思て、暫峠に下居て、腹帯くつろげ甲脱で、人宿に休程に共に休、暫ためらひて、成田甲打著、馬に乗坂を上、先にすゝむ時に、我をたばかるにや、悪き事也、其義ならば劣まじと言を(有朋下P395)懸て、馬に乗一鞭あてて追並、鐙の鼻にて成田が馬を一摺すらせて先立つれば、馬を所望しつる間、悪くけれ共道に馬を繋せて先立たり。彼は谷河を下に、西の尾を北へ廻つれば、今十二十町はさがりぬらん、されば如何にも弓箭取身はよき馬を可持也、季重は馬は武蔵国姉埣立の名馬也。左の目にちと篠突のあれば目油毛と申。熊谷殿の御馬と勝劣あらじと語りつゝ、共に夜の明るをぞ待居たる。去程に成田五郎も主従三騎にて追来れり。各浜際に打並て、渚に寄来白波に、馬の足洗はせて、城内をきけば、櫓の上に伎楽を調べ管絃し、心を澄して被遊けり。夜深更に及で山路に風やみ、海上に水静なれば、寄手の者共も弓杖にすがりて是を聞。熊谷感じて云けるは、実や大国にこそ、軍の庭にして管絃し、歌を詠じ調子を糺し、勝負を知ると云事は有なれ、我朝には未其例を聞ず、哀げに上搏s人は情深く、心もやさしき事哉、斯る乱の世の中に、竜吟鳳鳴の曲を調べ、詩歌管絃の興を催す事の面白さよ、我等いかなれば邪見の夷と生れ、いつまで命を生んとて、身には甲冑をはなたず、手には弓矢を携て、加様の人に向奉り、闘諍の剣を研事の悲さよとて、涙ぐみけるこそ
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哀なれ。去程に夜もほの/゛\と明にけり。(有朋下P396)
S3702 平家開城戸口並源平侍合戦事
平山、熊谷に云けるは、城の構様を見に、二重の櫓には平家の侍、国々の兵共並居たり、高岸に副て屋形を並て大将軍御座、海には石を畳重て、大船共を片寄置り、上には櫓を掻り、城戸口には逆茂木重重に引廻してひらかねば、輙く蒐入事叶難し、如何すべきと云程に、城内の兵共の評定しけるは、熊谷父子と名乗て、組ん組んと■るを、此陣固ながら漏さん事云甲斐なし、さりとて大勢にも非ず、只三騎也、さて又後陣の大勢の連にもあらず、東国にはげに是等こそ名ある者にて有らめ、日本第一の剛者と名乗をば、如何空は返すべき、いざ殿原、熊谷父子虜にして、大臣殿の見参に入れんと云。然べしとて、越中次郎兵衛尉盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門景経、後藤内定綱已下、早り雄の若者共二十三騎、城戸口の逆母木を引却させて、轡並て喚て蒐出ける処に、平山は波打際より馬を出して、主従二騎懸出つゝ、武蔵国住人平山武者所季重、角こそ先をば懸れとて、城戸口へぞ馳入たる。城内の者共は、熊谷鬼神成共、廿余騎の勢にては手取にせんと見る所に、指違て平山と名乗て懸入ければ、廿三騎も平山(有朋下P397)に付て内に入。城中には、源氏の大勢に城戸口を破られぬと心得て引退。櫓の上より是を見て、敵は二騎ぞ痛な騒そとて、矢をはげ射んとすれ共、御方は多し敵は二騎、一所にたまらず、電なんどの様なれば、弓を引てはゆるし、引ては免しけれ共、矢のあて所はなかりけり。櫓にて下知しけるは、平山と名乗は、本所経たる名ある侍、よき敵ぞ、其男取て引落せ、中
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に坂東者は馬の上にてこそ口は聞共、組で後には物ならじ、落合へ/\殿原と、両方の櫓の上より進けれ共、平家の侍の乗たる馬は、船にゆられ飼事は希也、乗事は隙なし。日数は遥に経たり。平山が目油馬は、勇嘶たる大馬の、狂象のたける様に、弓手妻手を嫌ず、一所にとまらず馳ければ、相構てあてられじとぞためらひける。まして落合までは思よらず、熊谷父子は、二十三騎が後を守て喚て蒐。二十三騎は平山をば内はに成して、取て返て熊谷に向ば、平山又喚て蒐。二十三騎は熊谷を外様に成して、取て返して平山に向ば、熊谷又をめきて蒐く。三廻四廻くるり/\と廻たれ共、何にも不組して、終には敵五騎をば、外様に成てぞ禦たる。熊谷は平山を休めんとて、暫和殿は気を継給へとて、父子二人面に立て散々に戦。左右櫓より射ける箭は、雨の足の如くなれども、冑に立ば裏かゝず、あきまを射ねば手を負はず。越中次郎兵衛尉盛嗣、好装束(有朋下P398)なれば、紺村紺の直垂に、赤糸威の鎧著て、白星の甲に、葦毛の馬に乗、先に進て、熊谷に打並て組まんずる様にはしけれ共、熊谷父子は上食しつゝ、間もすかさず待懸て、父に組ば直家落合、子に組ば直実落重なるべき気色にして、少も退かざりける頬魂、叶じとや思けん、盛嗣一段計を阻て申けるは、大将軍に遇てこそ命をも捨め、和君に不可有組事と云。熊谷勝に乗て、きたなし盛嗣よ、直実をだにも恐てくまぬ者が、大将軍にくまんと云はへらぬ体の詞か、先直実にくんで、源氏の郎等の手の程見よやと云けれ共、盛嗣終に組ずして、廓ぬ体にて引へたり。悪七兵衛景清は、盛嗣が不組けるを悪しとや思けん、次郎兵衛をば妻手になし、
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渚の方より熊谷に組んと喚て懸ければ、直実父子景清に目を懸て進ける有様は、鬼をすに指て食んずる景気也。既に組んとしけるを、次郎兵衛、やゝ七郎兵衛殿、君の御大事是に限まじ、あれ程のふて癩に会て、命を捨ん事無益也、止まり給へ無詮無詮と制しければ、悪七兵衛も事がらには出たりけれ共、何がして留らんと思処に、角制しければ立止て不組けり。其外二十三騎の者共、口々には■けれ共、熊谷平山に近付よる者はなし。共に武蔵国住人、直実季重日本第一の剛の者、一人当千の兵と名乗て、逸物の馬共に乗たれば、爰かとすれば彼にあり、彼かとすれば此(有朋下P399)にあり、二三疋が走廻ける有様は、四五十疋が馳違ふに似たり。平家侍組事は不叶して馬を射る。熊谷馬の腹を射させて頻に駻ければ、足を越て下立、落合へ/\といへ共終に人落合。小次郎は、父が馬に矢立ぬとみてければ、今は最後と思切て、二の垣楯の際まで押寄て、熊谷小次郎直家生年十六歳、軍は今日ぞ始、くめや者共落合へ人共と云ければ、平家の侍共、狐の子は頬白と、親に似たる不敵者哉、聞ば十六と云、誠にさ程にぞ成らん、あますなとて散々に射ける矢に、小肱を射させて引退。熊谷は小次郎手負ぬと思、打寄て見ければ、直家父に向て此矢抜て給へと云。熊谷是は非痛手、暫ししこらへよ隙のなきぞと云捨て、又喚て攻入戦けり。
平家追討の軍兵今度上洛の時、鎌倉殿の侍所にて評定あり。十五六は少、十七以上は可上洛と被定たりけるに、小次郎は十六也、有の儘に申ては御免あらじ、十七と名乗て父が伴せんと思ければ、鎌倉
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にて其定に申。父も我身の伽にもせん、軍をもし習へかしと思ければ、同十七と申て、西国まで具したりけれ共、一谷にては、実正に任せて十六歳とぞ名乗ける。
平山は暫し休みて馬をも気を継せけるに、熊谷は馬を射させて歩立に成。小次郎も手負ぬと見ければ、又入替て戦けり。旌指は黒糸威の鎧に三枚甲を著たり。馬より真倒に被射落たりければ、不安思て、余(有朋下P400)の者には目を不懸、旗指が敵に押並べ、引組で馬の上にて頸を切、手に捧、一人当千の兵平山武者所季重、一陣懸て敵の首取て出づ、剛者の挙動見よや殿原、我と思ん者組や者共とて、城の外へこそ出にけれ。誠に由々敷ぞ見えたりける。平山が二度の蒐とは是也けり。平家の侍共、平山一人をば安く討べかりけるを、後に熊谷ありけるをいぶせく思て、終に漏して出しにけり。後日に関東にて、一陣二陣の諍ありけるに、熊谷は城戸口へ寄事は一陣、平山は城の内に蒐入事一陣、而も敵の頸を取、甲は何れも取々なれ共、平山先陣に定りけり。
其後成田五郎三騎にて押寄て、一戦して出にけり。次に白旗一流上て、五十余騎にて馳来る。熊谷誰人ぞと問へば、信濃国住人村上二郎判官代基国と名乗て、一時戦て出づ。此等を始として、高家には秩父、足利、三浦、鎌倉、武田、吉田、党には小沢、横山、児玉党、猪俣、野与、山口の者共、我も我も白旗さゝせて、十騎二十騎百騎二百騎、入替入替劣じ負じと戦けれ共、西国第一の城なれば、可落様こそなかりけれ。赤旗白旗相交り、風に靡ける面白さは、竜田の山の秋の暮、白雲懸る紅葉ばや、
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梅と桜と挑交て、花の都に似たりけり。喚叫音山を響し、馬の馳違ふ音如雷、太刀長刀のひらめく影如電。組で落る者もあり、矢に当て死者もあり。指違へて臥者もあり、蒙(有朋下P401)疵て退者もあり、源氏も平氏も隙ありと見えず。源平此にて多討れにけり。
S3703 景高景時入城並景時秀句事
〔去程に〕大手の大将軍蒲御曹司後陣に引へて、武蔵相模の若者共、敵に息な継せそ、責よ蒐よと下知し給へば、三百騎五百騎、入替々々喚叫て戦けり。天帝修羅の合戦も、角やと覚て恐しや。敵の頸を取る者は、気色して城戸に出。主親を討せたる者は、涙を流して引退。馬を射させたる者は歩立にて出るもあり、蒙疵者は、人に被助て出るもあり。寄る時には旗指あげ、名対面して入けれ共、引時は又旗かき巻て出るとかや。梶原平三景時が二男に平次景高、一陣に進んで責入る。大将軍宣けるは、是は大事の城戸の口、上には高櫓に四国九国の精兵共を集置たるなるぞ、■すな、楯を重馬に冑を可著、無勢にしては悪かりなん、後陣の大勢を待そろへて寄べしと下知し給へば、人々承り継て、大将軍の仰也、勢を待儲て寄給へといへば、梶原はきと見かへりて、
武士のとりつたへたる梓弓引ては人の帰る物かは K186
と詠じて、城戸口近く押寄て散々に戦。是を見て、党も高家も面々に、轡を並て三千余(有朋下P402)騎、我先々々にと攻付たり。白旌其数を不知指上たれば、白鷺の蒼天に羽を並るが如し。平家は高櫓より矢衾を造て散々に射。城は究竟の城也。生田杜を一の城戸と定て、三方には堀をほり、東の方に引橋渡して、重々に
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逆木を曳、北の山本より南の海の際まで垣楯掻、矢間をあけて、一口こそ開たれ。城の内へ入るべき様もなかりけるに、武蔵国住人篠党に、河原太郎高直、同二郎盛直、兄弟二人馳来て馬より飛下、藁下々をはき、木戸口に責寄て、今日の先陣と名乗て逆木を登越々々、城の内へ入けるを、讃岐国住人真鍋五郎助光、弓の上手精兵の手足成ければ、木戸口に被撰置たりけるが、さし顕れて能引、暫竪て放つ矢に、河原太郎が弓手の草摺の余を射させて、弓杖にすがりて立すくみたりけるを、弟の次郎つと寄、肩に引懸て帰けるを、助光二の矢を以て、腰の骨懸て冑かけず射こみたりければ、兄弟逆木のもとに、太刀の柄を把て並居たり。真鍋が下人是を見て、櫓の下よりつと出て落合けれ共、二人ながら痛手なれば、左も右も戦に及ずして、二人が頸はとられにけり。心の甲は熊谷、平山に劣らずこそ思ひけれ共、運の極に成ぬれば、敵一人も不取して討れけるこそ無慙なれ。同国猪俣党に、藤田三郎大夫行安、つゞきて逆木を登越んとしけるを、真鍋引固て放矢に、同此にて討れにけり。藤田(有朋下P403)が妹の子に江戸四郎と云者あり。今年十七に成けるが連て蒐入、散々に戦程に鎧の胸板を射られて弱る処を、阿波民部大輔成良が甥に、桜間外記大夫良連が手に討れぬ、人見四郎も此にして討れにけり。勲功の時、河原太郎と藤田行安が子共に、生田庄を給、其墓所の為也。今の世までも彼社の鳥居の前に、堂塔を造立して菩提を弔ふとかや。真鍋五郎は櫓より下、河原兄弟二人が首を手鋒に貫、木戸の上に昇、高く捧て、源氏の殿原是を見よ、進敵をば角こそ取、つゞけ/\と招たり。梶原是を聞、口惜
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人共也、つゞく者がなければこそ兄弟二人は討れたれとて、五百余騎にて押寄せつゝ、足軽四五十人に腹巻きせ、手楯つかせて、曳声出して逆茂木を引除。爰に討れたる鎧武者一人あり、見れば藤田小三郎大夫行安也。穴無慙、敵に首とらすな隠せとて、沙の中に堀埋て、後に角と云ければ、子息郎等共堀起て、生田庄に納てけり。櫓よりは逆木を引せじと、矢衾を造て是を射る。寄手は是を引せんと、指詰指詰矢倉を射る。是や此天帝須弥より刃を雨し、修羅大海より箭を飛すらん戦なるらんと夥し。両方の箭の行違事は、群鳥の飛集れるが如し。懸けれ共、足軽共一つ二つと引程に、逆木をば遂皆引除にけり。梶原は、今は軍庭平也、寄せよ者共とて、子息の源太相具して五百余騎、喚て中へぞ入にけ(有朋下P404)る。此手には中納言父子、本三位中将、大将として御座けるが、敵内に乱入と見給て、二千余騎を指向て、梶原が五百余騎を中に取籠て、あますな漏すなとて、一時計ぞ戦ける。何れも互に引ざりけるが、流石無勢なれば、梶原下手に廻て、さと引てぞ出たりける。源太は如何にと問へば、御方を離て敵の中に取籠られ給ぬと云。穴心憂、さては討れぬるにや、景時生て何かせん、景季が敵に組で死なんとて、二百余騎を相具して、平家の大勢蒐散して内に入、声を揚て、相模国住人鎌倉権五郎平景政が末葉、梶原平三景時ぞ。彼景政は八幡殿の一の郎等、奥州の合戦の時、右の目乍被射、其矢を抜ずして、当の矢を射返して敵を討、名を後代に留し末葉なれば、一人当千の兵ぞ、子息景季が向後■くて返入れり、我と思はん大将も侍も、組や/\と名乗懸て、轡を並べて責入ければ、名にや実に恐けん、左右
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へさとぞ引退く。源太尋よとて責入見れば景季未討、初は菊地の者共と射合けるが、後には太刀を抜合せて名乗けり。和君は誰そ。菊地三郎高望和君は誰そ。梶原源太景季と、名対面して切合たり。源太は甲を被打落、大童にて三十余騎に被取籠て切合けるが、菊池三郎に押並て引組で、馬の際に落重て菊地が頸を取、太刀の切鋒に指貫て馬に乗出けるが、父の梶原に行合たり。平三景時源太を後に成て、矢面(有朋下P405)にすゝみ禦戦つゝ、其間に源太に鎧きせ、暫し休めて寄つ返つ戦けり。城戸口に真鍋四郎五郎と名乗て出合たりけるが、四郎は梶原に討れぬ、五郎は手負て引退く。平家の兵共も、入替入替戦けれ共、景時は源太が死なぬ嬉さに、猛く勇て竪さま横さま戦けり。暫し息をも継ければ、父子相具して、引て木戸へぞ出にける。さてこそ梶原が、生田杜の二度の蒐とはいはれけれ。
詩歌管絃は公家仙洞の翫物、東夷争磯城島難波津の言葉を可存なれ共、梶原は心の剛も人に勝れ、数寄たる道も優也けり。咲乱たる梅が枝を、蚕簿に副てぞ指たりける。蒐れば花は散けれども、匂は袖にぞ残りける。
吹風を何いとひけん梅の花散くる時ぞ香はまさりける K187
と云ふ古き言までも思出ければ、平家の公達は花箙とて、優也やさししと口々にぞ感じ給ける。此梶原、右大将家の奥入し給けるとき、名取川にて、
我独けふの軍に名とり川
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と、くり返し/\詠じ給ひければ、大名小名うめきすめきけれ共、付る者なかりけるに、梶原
君もろともにかちわたりせん K188(有朋下P406)
と付たりけり。又京上の御伴に、相模国円子川を渡給へりけるに、梶原少用ありて片方に下居たりけるが、御伴にさがりぬと、一鞭あてて打程に、此川の川中にて馳付奉たりけるに、沛艾の馬にて、鎌倉殿に水をさゝと蹴懸奉、御気色悪くてきと睨返し給たりけるに、梶原
円子川ければぞ波はあがりける
と仕りて、手綱をゆりすゑければ、御気色なほり給て打うそぶき、ければそ波はあがりけると、二三返詠じ給て、向の岸に打上り、馬の頭を梶原に引向て、
かゝりあしくも人や見るらん K189
と付給ひ、いかに発句脇句いづれ増りとぞ仰ける。懸るやさしき男成ければ、さしもの戦場思寄べきにあらね共、折知貌の梅が枝を、箙にさして寄たれば、源氏の手折れる花なれ共、平家の陣にぞ香ける。
東国の兵共百騎二百騎、入替入替我も/\と戦けり。此にて源平の兵多く討れけり。東西の城戸口、人種は尽共可落様とは見えざりけり。
S3704 義経落鵯越並畠山荷馬付馬因縁事(有朋下P407)
〔同〕七日の暁、九郎義経は鷲尾を先陣として、一谷の後鵯越へぞ向ける。比は二月の始也、霞の衣立
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阻て、緑を副る山の端に、白雲絶々聳つゝ、先咲花かとあやまたる。未歩なれぬ山路也、行末はそこと知ね共、征馬の足に任せつゝ、各先にと進けり。まだ夙暗程也。道には泥けれ共、矢合時を定たれば、明るを待に及ばずして、谷に下峯に登、引懸引懸打けるに、一谷の後に、篠が谷と云所に人の音しければ、押寄て何者ぞと問。名乗事はなくて散々に射ければ、此奴原は平家の雑兵にこそ有らめ、一々に搦捕頸を切、軍神に祭れとて、源氏も散々に射ければ、此にて平家多討れにけり。其後鷲尾尋承にて下上打程に、辰半に鵯越一谷の上、鉢伏礒の途と云所に打登。兵共遥に指のぞきて谷を見れば、軍陣には楯を並突、士卒は矢束をくつろげたり。前は海後は山、波も嵐も音合せ、左は須磨右は明石、月の光も優ならん。追手の軍は半と見えたり。喚叫声射違鏑の音、山を穿谷を響し、赤旗赤符立並て春風に靡く有様は、劫火の地を焼らんも角やと覚たり。時既に能成たり。大手に力を合せんとて見下せば、実に上七八段は小石交の白砂也。馬の足とゞまるべき様なし。歩にても馬にても落すべき所に非ず。さればとてさて有べき事ならねば、只今まで乗たりける大鹿毛には、佐藤三郎兵衛を乗せ、我身(有朋下P408)は大夫と云馬に乗替て、谷へ打向け給、鹿の通路は馬の馬場ぞ、各落せ落せと勧給ふ。兵共、我も我もと馬をば谷へ引向けて、心は先陣とはやれ共、流石いぶせき■なれば、手綱を引へて踉■ば、馬も恐て退けり。互に顔と顔とを見合て、いづくを落すべし共見ず。軍将宣けるは、一は馬の落様をも見、一は源平の占形なるべしとて、葦毛馬に白覆輪白ければ、白旗に准へて
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源氏とし、鹿毛馬に黄覆輪赤ければ、赤旗になぞらへて平氏とて追下す。各木間にて是を見上るに、七八段は小石交の白砂なれば、宛転ともなく落るともなく下つゝ、巌の上にぞ落著たる。良暫有、岩の上より宛転下り、越中前司盛俊が、仮屋の後に落付て、源氏の馬は這起つゝ、身振して峯の方を守、二声嘶、篠草はみて立たり。平家馬は身を打損じ臥て再起ざりけり。城中には是を見て、敵のよすればこそ鞍置馬は下らめとて騒ぎ迷ひける処に、御曹司は源氏の占形こそ目出けれ、平家の軍様あるべし、人だに心得て落すならば、■ち更にあるまじ、落せ/\と宣へども、我だに恐て落ねば、人も恐てえおとさず。白旗五十流計、梢に打立て宣ひけるは、守て時を移べきに非、■を落すには手綱あまたあり、馬に乗には、一つ心、二つ手綱、三に鞭、四に鐙と云て四の義あれ共、所詮心を持て乗物ぞ、若き殿原は見も習乗も習へ、義経が(有朋下P409)馬の立様を本にせよとて、真逆に引向、つゞけ/\と下知しつゝ、馬の尻足引敷せて、流落に下たり。三千余騎の兵共、大将軍につゞけとて、白旌三十流城の内へ指覆、轡並て手綱かいくり、同様に尻足しかせて、さと落して壇の上にぞ落留る。夫より底を差のぞいて見れば、石巌峙て苔むせり。刀のはに草覆へる様なれば、いといぶせき上、十二十丈もや有らんと見え渡る。下へ落すべき様もなし、上へ上るべき便もなし、互に竪唾を呑て思煩へる処に、三浦党に佐原十郎義連進出て、我等甲斐信濃へ越て狩し鷹仕時は、兎一つ起いても鳥一つ立ても、傍輩に見落されじと思には、是に劣る所やある、義連先陣仕らんとて、手綱掻くり鐙
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踏張、只一騎真先蒐て落す。御曹司是を見給て、義連討すなつゞけ者共/\と下知して、我身もつゞきて落されけり。畠山は赤威の冑に、護田鳥毛の矢負、三日月と云栗毛馬の、太逞に乗たりけり。此馬鞭打に、三日の月程なる月影の有ければ名を得たり。壇の上にて馬より下り、差のぞいて申けるは、爰は大事の悪所、馬転して悪かるべし、親にかゝる時子に懸折と云事あり、今日は馬を労らんとて、手綱腹帯より合せて、七寸に余て大に太き馬を十文字に引からげて、鎧の上に掻負て、椎の木のすたち一本ねぢ切杖につき、岩の迫をしづ/\とこそ下けれ。東八箇国に大力と(有朋下P410)は云けれ共、只今かゝる振舞、人倫には非ず、誠に鬼神の所為とぞ上下舌を振ける。
< 倩竜樹論の■を考るに、馬は是十二神将の封体の中也とも云、又は南方旃檀香仏の変化身共云。馬郁経には、観自在菩薩、為成大功徳力、重事成馬来償人役、人の以六歩為馬一歩、広天上には馬為竜、人中には竜為馬。又或経には、父は成吉馬為子被乗、母は為吉魚為子被食、旁以不疎、此心を得たりけるにや。 >
畠山は、此岩石に馬損じては不便也、日比は汝にかゝりき、今日は汝を孚まんと云ける。情深しと覚たり。其後三千余騎、手綱かいくり鐙踏張、手をにぎり目を塞ぎ、馬に任せ人に随て、劣らじ/\と落しけるに、然べき八幡大菩薩の御計にやと申ながら、馬も人も損せざりけるこそ不思議なれ。落しもはてず、白旗三十流さと捧、三千余騎同時に時を造、山彦答て夥し。平家の城郭に乱入て、竪さま横さま蜘蛛手十文字に馳廻り、喚叫て戦ければ、城中には東西の城戸口ばかりこそ防けれ。さしも恐しき
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巌石より、敵よすべし共思はざりければ、打延て、左右の城戸口の弱からん時軍せんとて、鎧物具脱置て、小具足ばかりにて居たる所へ、はと寄せ咄と時を造りたれば、弓矢を取馬にのる隙を失ひ、周章迷、御方の兵も皆敵に見えければ、適馬にのり弓矢を番ける者も、御方討に討殺れ切殺されて、上に成(有朋下P411)下に成て、肝も心も身にそはず、失度騒ふためきける有様は、少魚のたまり水に集り、宿鳥の枝を諍に異ならず、御曹司下知し給けるは、城郭広博也、賊徒数を不知、多く官軍を亡さん事最不便也、火を放てと宣へば、武蔵房弁慶、屋形に打入仮屋に火をさす。折節西の風烈くして、猛火城の上へ吹覆、平家の軍兵煙に咽び火に被責て、今は敵を防に及ず、取物も取敢ず、浜の汀に逃出つゝ、海の藻塩に馳入、船にのらんとぞ迷ける。助舟も多有けれ共、そも然べき人々をこそ乗けれ、次々の者共をば乗ざりければ、乗んのせじとする程に、多く海にぞ沈ける。猛火の煙蹴立の灰、逃去道も見えざりければ、皆敵にぞ討れける。されば助かるは希に亡るは多し。無慙と云も疎なり。
S3705 則綱討盛俊事
能登守教経は、室山、水島、淡路島、高綱、苑部、今木城、所々の合戦に高名し給へりと聞えしか共、大勢傾立ぬれば力及ざる事にて、薄墨と云馬にのり、須磨関屋を指て落、夫より船に乗移、淡路の岩屋に渡給ふ。越中前司盛俊は、迚可遁身に非、角傾ぬる上はとて思切、只一人残留て、馳合馳合戦けるが、猪俣近平六則綱に馳並て、引組でど(有朋下P412)うと落、盛俊は聞えたる大力の大の男、徐には二十人が力と云けれ共、内々は六十人にして上下す大船を、一人してあつかひける者也ければ、七八十人
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が力もや有けん、近平六も普通には力勝たる人と云けれ共、盛俊に遇ぬれば数ならず、取て押付られて不働。既に甲の手変を■上、刀を頸にさしあてて掻落さんとしけるに、近平六は刀を抜にも及ず、刎落すにも力なし。去共はかり事賢き甲者にて、少も不騒申けるは、抑御辺は誰人ぞ、敵をば慥に名を聞て後、首を取てこそ勲功の賞にも預れ、誰とも知ぬ頸取ては何にかはすべき、我身は東国には恥ある侍、誰か不知、されども平家の公達にも、侍の殿原にも被見知たる事なければ、是は誰が頸とも見る人有まじ、唯犬鳥の頸の定や、名乗せて切て実検に合せ給へと云。盛俊さもと思て、おさへながらさて和君は誰と問。是は武蔵国住人、猪俣近平六則綱とて、東国には名誉の者也、兵衛佐殿御内には、一二の者に数へられたり、抑又御辺はたれぞと返て問。是は平家の侍に、京童部までも数へらるゝ越中前司盛俊と云者ぞと答へたり。近平六、あゝさては聞え給ふ人にこそ、弓矢取ても並者なく、情も類少しと伝承、則綱只今御辺に切れんずれ共、よき敵に組てけり、同は死ぬとも雑人の為に切れんよりは然るべき事にや、但殿原は今は落人ぞかし、されば則綱一人(有朋下P413)を討たりとても、平家世におはせん事有まじ、主世におはせずば、縦則綱が首を捕たり共、神妙とて勧賞勲功に預給はん事いさ不知、只則綱が命を生られよかし、鎌倉殿に申て、和殿並親き人々をも宥申さんと云ければ、盛俊嬉敷思て、猶抑ながら、実に助給べきか猪俣殿と問。子細にや及べき、我を助給たらん人をば、争か我も助奉らで有べき、怪の鳥獣だにも恩をば不忘とこそ申せ、況人として非可忘、ためし
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外になし、池の尼御前の兵衛佐殿をたすけさせ給たれば、同平家の御一門ながら、池殿の公達をばたすけ進すべしとぞ承はり候へと云ければ、盛俊実にと思ひて、おめ/\と引起して、前は畠後は水田なる所の中に畔のあるに、二人尻打懸て、心静に物語を始む。越中前司申けるは、やゝ猪俣殿、盛俊は男女の子供二十余人持て候ぞよ、我一人に侍ならばいかでも候べし、彼等が行末の悲さに、御辺の命を助奉也、同御恩あるべくば、何れをも相構て申宥給へと云。近平六は、宗徒の御辺を助奉んに、末々の事はさこそ候はんずれ、中々仰にや及べきと云処に、塩谷五郎惟広と云者、五騎にて浜の方より馳来る。哀よき敵に行合て分捕せばやと思たる景気也。盛俊是を見て、よに恠げに思て、源平軍兵近付候、降人也と会釈ひ給へ猪俣殿と云。近平六立上り是を見て、イヤ/\事かくまじ、塩谷五郎惟広(有朋下P414)也、■く思給ふべからずといへ共、猶惟広に目を懸たり。則綱思けるは、惟広を待付て盛俊を討たらば、二人して討たりと人のいはんも本意なし、和与して命は生たれ共、とても遁まじき盛俊也、塩谷に取れて云甲斐なし、後の世をこそ弔はめと思ひ、則綱角て候へば、心苦く思ひ給ふべからずとて、本所に居直る様にて、左右の手に力を加て、真逆に後の深田に突倒す。盛俊頭は水の底に足は岸の耳に、起ん/\としけるを、則綱上にのらへて頸を掻、太刀の鋒に貫て、高く捧て馬に乗、大音揚て、敵も御方も是を見よ、平家の侍、今日近来鬼神と聞えつる越中前司盛俊が頸、猪俣近平六則綱分捕にしたりと叫けり。誠に由々敷ぞ聞えける。彼刀は薩摩国住、浪平造の一物なりけり。
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S3706 一谷落城並重衡卿虜事
〔斯りける処に〕一谷を中に挟、大手五万余騎は東の城戸口より攻寄ける上に、熊谷平山一陣二陣に蒐入ぬ。今は防ぐ者なし。搦手は一万余騎の内、七千余騎は三草山の山口、西の城戸口へ廻て責む。三千余騎は鵯越より落し合せて攻む。東生田杜をば三千余騎にて固たれ共、屋形屋形は猛火燃ひろがりて夥し。東西より火に責られ人に被責て、皆舟に(有朋下P415)のらんと渚に向て落行けるも、海へのみこそ馳入けれ。助船有けれ共、余に多くこみ乗ければ、大船三艘は目の前に乗沈めける。然るべき人々をば乗すれども、次様の者をば不可乗と■けれ共、暫しの命も惜ければ、若や/\とて、舟にのらんと取付けるを、太刀長刀にて薙ければ、手打落され足切折れて、皆海にぞ沈ける。角はせられて死けれども、敵に組で死する者はなし。多は御方打にぞ亡にける。
先帝を始進せて、女院、北政所、二位殿三位殿已下の女房達、大臣殿父子已下の人々は、兼てより御船に召て、海上に出浮てこれを被御覧、いかばかりの事をか思召けんと哀なり。
本三位中将重衡は、国々の駈武者取集て、三千余騎にて生田杜を固給たりけるが、城中乱つゝ、火焔屋形屋形に充満て黒煙空に覆、軍兵散々に蒐阻られて東西に落失ぬ。恥をも知たる者は敵に組で討れぬ。走付の奴原は、海に入山に籠けれ共、生るは少なく死るは多く、敵は雲霞の如し、御方の勢なかりければ、重衡卿今は叶じとて、浜路に懸り渚に打副て、西を指て落給ふ。其日の装束は、褐衣に白糸を以て群千鳥を縫たる直垂に、紫すそごの鎧をぞ著給へる。馬は童子鹿毛とて究竟の逸物
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早走也。大臣殿の御馬を預給てぞ乗り給へる。庄三郎家長が、よき大将軍と見て、父子乗替の童三騎にて追て懸。三位中将は蓮の池をも(有朋下P416)打過、小馬の林を南に見なし、板宿須磨にぞ懸給ふ。庄三郎に目に懸て、鞭に鐙を合せて追けれ共、逸物には乗給へり。只延にのび給ける間、今は叶はじと思、十四束取て番て、追様に馬を志て遠矢に射、其矢馬の草頭に射籠たり。其後は障泥ども打共、疵を痛て働かず。三位中将の侍に、後藤兵衛尉守長とて、少くより召仕給て、如何なる事有とも一所にて死なんと深く契給ひて被召具たり。三位中将の秘蔵せられたりける夜目なし鴾毛と云馬にぞのせられたる。是は童子鹿毛若の事あらば、乗かへんとの約束也。馬も秘蔵の馬也、主は深く憑給へる侍也けれ共、童子鹿毛に矢立ぬと見て、守長は我馬召れなば我如何せんと思て、主を打捨奉り、射向の袖の赤注かなぐり棄て、西を指て落行けり。三位中将は、如何に守長其馬進せよ/\と仰けれ共、空聞ずして馳行けり。穴心憂や、年来は角やは契し、重衡を見棄ていかに守長何の国へ行ぞ、留れ守長、其馬進せよと宣へども、耳にも不聞入見もかへらず、渚に添て馳行けり。三位中将今は不及力して、相構て馬を海へぞ打入れんとし給ふ。そこしも遠浅なりける上、馬も弱て進ざりければ、汀に下立、刀を抜冑の引合を切、自害し給はんずるにや、又海へ入給はんずるかと見えければ、家長手しげく責より、馬より飛下、乗替に持せたる小長刀を取、十文字(有朋下P417)に持て開き、する/\と歩より、君の御渡と見進せて家長参て候、如何に正なく御自害有べからず、いづくまでも御伴仕べきとて、畏て有ければ、三位中将
P0930
自害をもし給はず、遠浅なれば海にも入給はず、立煩給たりけるを、家長つと寄、我馬に奉掻乗指縄にて鞍のしづわにしめ付て、我身は乗替に乗てぞ帰にける。其勲功の賞には、陸奥国しつしと云所を給けり。多くの人の中に、重衡卿一人被虜給へる事、大仏焼失の報にや、重衡は只悋七歩之命、纔に遁一旦之死、曝顔於都鄙、辱名於遠近けり。去頃東大寺大仏上人の夢に、我右の手急ぎ鋳成べし、敵を討せんが為也と示給と見てければ、急ぎ奉鋳てけり。去七日右の御手成給けるに、彼卿虜れける事、測知ぬ大仏の御方便也と云事を、末代也といへ共、霊験まことにいちじるくぞ覚ける。さても後藤兵衛尉守長は、逸物に乗たりける甲斐ありて、命計は生にけり。後には熊野法師に尾張法橋と云ける者の、後家の尼に後見してぞ在ける。彼尼訴訟有、後白川【*後白河】法皇の御時、伝奏し給ふ人の許へ参じたりけるに、人是を見て、三位中将のさばかり糸惜し給しに、一所にて如何にも成べき者がさもなくて、指もの名人の不思懸、尼公の尻舞して、晴の振舞こそ人ならねと、悪まぬ者こそなかりけれ。又人の云けるは、剛臆も賢愚も、世を治るはかりごと、命を助る(有朋下P418)有様、とり/゛\の心ばせ、争是非を弁べし、弓矢を取身が前には、不覚とも云べけれ共、命を惜時は、臂(ひぢ)を折し様も有ぞかし、され共此守長は、歌の道にはやさしき者にて、帝までも知召たる事也。一年一院〈 後白河院 〉鳥羽御所に有御幸有御遊き。比は五月の廿日余の事也。卿相雲客列参あり、重衡卿も出仕せんとて出立給ひけるが、卯花に郭公書たる扇紙を取出て、きと張て進よとて守長にたぶ、守長仰奉て、急張ける
P0931
程に、分廻をあし様に充て、郭公の中を切、僅に尾と羽さき計を残したり。■しぬと思へ共、可取替扇もなければ、さながら是を進する。重衡卿角共知ず出仕し給て、御前にて披て仕給けるを、一院叡覧ありて、重衡の扇を被召けり。三位中将始て是を見給つゝ、畏てぞ候はれける。御定再三に成ければ、御前に是を閣れたり。一院ひらき御覧じて、無念にも名鳥に疵をば被付たる者哉、何者が所為にて有ぞとて打咲はせ給ければ、当座の公卿達も、誠にをかしき事に思合れたり。三位中将も、苦々しく恥恐れ給る体也。退出の後守長を召て、深く勘当し給へり。守長大に歎恐て一首を書進す。
五月やみくらはし山の郭公姿を人にみするものかは K190
と、三位中将此歌を捧て御前に参、しか/゛\と奏聞し給たりければ、君、さては守長が(有朋下P419)此歌よまんとて、態との所為にやと有叡感。ためしなきに非ず、能因入道が、
みやこをば霞と共に出でしかど秋風ぞ吹く白川のせき K191
と読たりけるを、我身は都に有ながら、いかゞ無念に此歌を出さんとて、吾妻の修行に出ぬと披露して、人に知られず籠居て、照日に身を任せつゝ、色を黒くあぶりなして後に、陸奥国の方の修行の次でに、白川関にて読たりとぞ云ひろめける。又待賢門院の女房に、加賀と云歌よみ有けり。是も、
兼てより思し事をふし柴のこるばかりなる歎せんとは K192
と云歌を読て年比持たりけるを、同は去べき人に云眤て、忘られたらん時によみたらば、勅選なんど
P0932
に入たらん面も優なるべしと思けり。さて如何したりけん、花園大臣に申そめて、程経つゝかれ/゛\に成にけり。加賀思の如くにや有けん、此歌を進せたりければ、大臣いみじく哀におぼしけり。世の人、附子柴の加賀とぞ云ける。さて思の如く千載集に入にけり。守長も角しもや有らんと覚束なし。秀歌なりければ、鳥羽御所の御念珠堂の杉障子に彫付られて今にあり。されば賢も賤も讃も毀も、とり/゛\なるべしとぞ申ける。(有朋下P420)
S3707 忠度通盛等最後事
薩摩守忠度は生年四十一、色白くして鬚黒く生給へり。赤地錦直垂に、黒糸威の冑に、甲をば著給はず、立烏帽子計にて、白鴾毛の馬に、遠雁の文を打たる鞍置てぞ乗たりける。かるも河、須磨、板宿を打過つゝ、渚に付てぞ落給ふ。武蔵国住人岡部六弥太忠澄、十余騎の勢にて鞭を打て追懸て、爰に西を差て過給は、敵か御方か名乗れと云。是は源氏の軍兵ぞと答て、いとゞ駒を早めて落給ふ。御方には立烏帽子に、金付たる人はなき者を、是は一定平家の大将軍にこそと思て、追て懸処に、源次源三百兵衛と云侍共、中を塞て防けり。彼等三人をば郎等に打預てなほ進けり。熊王と云童、主を延さんと命を棄て戦けり。熊王は敵一人切殺して、我身も爰にて討れにけり。源次源三百兵衛も、太刀の切鋒打そろへて散々に振舞けるが、敵二人討取て、余多に手負せ、三人一所に亡にけり。今は忠度一人に成給たりけるを、忠澄馳並て引組で落、六弥太上に成。忠度は赤木の管に、銀の筒金巻たる刀を抜儲て座しければ、六弥太を三刀までぞ突給ふ。馬の上にて一刀、落ざまに一刀、落付て一刀、隙あり
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共見えず。一二の刀は鎧の上を突給へば手も負ず、三(有朋下P421)の刀に胸板を突はしらかし、頷の下片頬加へにつと突貫、忠澄既にと見えければ、郎等落合て、薩摩守をみしと切、射鞴を以て合せ給たりければ、妻手の腕射鞴加に打落さる。忠度今は叶はじと思召ければ、上なる六弥太を持興て片手に提、こゝのけ、念仏申て死なんとて抛給へば、弓長二長ばかり抛られて、忠澄とゝ走て安堵せず。其間に忠度は鎧の上帯切、物具脱捨て端座して西に向、念仏高声に唱へ給ふ。其後忠澄太刀を抜寄ければ、今は汝が手に懸て討れん事子細なし、暫相待て最後念仏申さんと宣へば、忠澄畏て、抑君は誰にて渡らせ給候ぞと問ければ、薩摩守、己は不覚仁や、何者ぞ。名乗といはば名乗べきか、景気を以て見も知れかし、己に会て名乗まじ、去ながら最後の暇えさせたるに、己はよき敵取つる者ぞ、同じ勲功と云ながら、必よき勧賞に預りなんとて、最後の十念高声に唱つゝ、はやとくと宣ければ、六弥太進寄て頸を取、脱捨給へる物具とらせけるに、一巻の巻物あり。取具して頸をば太刀の切鋒に貫て指上つゝ、陣に帰て是は誰人の頸ならん、名乗と云つれ共しか/゛\とて名乗ざりつれば、何なる人共見しらざりけるに、巻物を披見れば、歌共多く有ける中に、旅宿花と云題にて一首あり。
行暮て木下陰を宿とせば花や今夜のあるじならまし K193 (有朋下P422)
忠度と書れたりけるにこそ薩摩守とは知りたりけれ。此人は入道の弟公達の中には、心も剛に身も健に御座けれども、運の極に成ぬれば、六弥太にも討れにけり。勧賞の時は、六弥太神妙なりとて、
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薩摩守の知行の庄園五箇所を給て、勲功に誇けり。
越前三位通盛は、紫地錦直垂に、萌黄に沢潟威たる鎧に、連銭葦毛の馬に乗て、湊河の耳を下に落給ふ。団扇の旗指て、児玉党七騎にて追懸奉る。三位幾程命を生んとて、鞭をあててぞ落給ふ。然べき運の極にや、馬を逆さまに倒て頸へ抜てぞ落給ふ。児玉党いまだ不追付けるに、近江国佐々木庄住人木村源三成綱と云者、落合ひて組でけり。両鼠木の根を嚼、其木たふれば、毒竜底に在て害を成んとする喩あり。児玉党追懸たり、佐々木待得たり、実遁がたくぞ見え給ふ。三位上に成給ふ。源三駻返々々としけれ共、三位力増也ければ、抑て更に働さず。刀をぬき、源三が頸を掻共掻共落ず、持上是を見給へば、鞘ながら脱たれば不切けり。源三成綱は、紀中将成高の四代の孫、木村権頭が子息なり。佐々木庄に居住したりけるが、本は小松大臣に奉公せし程に、おくれ奉て後は新中納言殿に奉付ければ、平家の人々には見馴奉たりけり。源平の合戦に、佐々木源三秀能が子息等、皆関東へ下ける間、源三成綱も近く鎌倉へ下たりけり。軍兵に被催て上たれば、越前(有朋下P423)三位とも奉組。成綱叶はじと思ければ、下に臥ながら、誰やらんと奉思候へば、君にて渡らせ給けり。知進せて候はんには、争か近く可参寄、年比平家に奉公の身なれば、御方へこそ参べきにて侍つるに、心ならず親者共に詐し下されて、今戦場に被駈向たり、何の御方も疎の御事は候はね共、殊に見なれ進て奉御眤思、只今角組れ進せぬる事よ、同は人手に懸なんより嬉しくこそと申。三位は誰もさこそ
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は思へ、年比日比見馴し者なれば、不便にも思へ共、軍の道は力なし。今加様に申を聞ば、実にさこそ思らめとて踉■給ける程に、佐々木五郎義清、主従五騎にて波打際を歩せ来る。成綱是を見て、五郎はよも見放たじ者をと思て、三位案じ煩たる処に、太刀の管と■とにかせいて、甲の透間の有けるより、源三刀をぬき三位を二刀さす。指れて弱り給けるを、力を入て駻返、起しも立ず軈三位の首を取。此世に源三が郎等二人、三位侍三騎、互に主を育て、爰にて五人亡にけり。源三三位首を取、郎等に項の重はいかにと問。疵を負給へりと云。三位刀を取て見れば、鞘ながら掻たれば、鞘尻二寸ばかり砕て、刀の鋒二寸入て、其疵にてぞ在ける。源三成綱は左手にて頷さゝへ、右の手に首を捧て陣に帰、ゆゝしくぞ見えたりける。蔵人大夫業盛は今年十七に成給ふ。長絹の直垂に、所々菊閉して、緋威冑(有朋下P424)に、連銭葦毛馬に乗給へり。御方には離ぬ、いづちへ如何に行べき共知給はざりければ、渚に立て御座けるを、常陸国住人泥屋四郎吉安と組で落、上に成下に成ころびける程に、古井の中へころび入て、泥屋は下になる。兄を討せじとて、泥屋五郎落重つて、大夫の甲のしころに取付て、ひかん/\としければ、大夫頭を強く振給ふに、甲の緒を振切。五郎甲を持ながら、二尋計ぞ被抛たる。去共不手負ければ、起上て業盛の頭を取。兄をば井より引立たり。十七歳の心に、よく力の強く座しけるにやと、人皆是を惜けり。