『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十九

P0962(有朋下P461)
遊巻 第三十九
S3901 友時参重衡許付重衡迎内裏女房事
本三位中将の侍に木工馬允友時と云者は、八条院に兼参しける者也。平家都を落と聞えしかば、友時も定て重衡に具して下らんずらんとて、八条院より、友時を召て人に預置れたりければ、力及で西国へも不下して有けるが、三位中将虜れて都に上り給たりと聞て、預の武士の許に行向て、是は八条院に木工馬允友時と申者にて侍が、是に御渡候ける三位中将殿は、年来の主君にて御座しかば、御一門に相具して西国下向の時御伴申べかりしを、折節身に相労事あて、心ならず罷留たりしかば、如何成給ぬらんと、月頃日頃御向後の奉■思つるに、御上と承れば、今一度余りに見進せ度て推参仕れり、可然ば蒙御免なんやと申けれども、武士不免之。友時腰の刀を抜て武士の中へ抛入て、腕頸を取腰をかゞめ、僻事更に候まじ、只年来の御情奉難忘思、一目見えもし奉り見も進ばやの志ばかりの事也と泣々歎申せば、土肥次郎世にも哀に思ひければ、何かは苦かる(有朋下P462)らんとて免入けり。三位中将は友時を見付給、傍近く呼び寄て、あれは如何にして参たるぞ、珍くこそと宣も敢ず、袖を顔に押当て、御涙関敢給はざりければ、友時も共に袂を絞りけり。良久有て、互に昔今の物語し給ける中に、中将宣けるは、さても内裏に、年頃不疎申馴たる女房
P0963
あり、都を落し時も敢あへぬ事也しかば、云たき事も有しか共空く止ぬ、年月の重りぬるに付てもいぶせさのみ積れば、文をやりて返事をも見ならば、懸憂身の慰にもとは思へ共、誰してやるべし共なかりつるに、友時持て行なんやと宣へば、安き程の御事にこそと申。三位中将悦て、土肥次郎に被仰けるは、年頃相知たる女房の許へ、文をやらばやと思ふは叶はじやと問給ければ、猛き夷なれ共流石岩木ならねば、哀とや思けん、何か苦しく候べきとて奉免。乍去御文をば見進せんと申ければ、被見けり。土肥次郎是を披見れば、誠に女房の許へも御文也。歌もあり。実平哀にぞ思ける。友時御文を給て内裏へ参けるが、未明ければ、其辺近き小家に立入て、晩程に彼女房の局近くたゝずみて思様、そも三位中将殿は角思召共、女房は御心替もや有らん、左様ならんにはいみじからぬ御身に、中々如何有べからるらんと思つゝ、良久立聞ば、彼女房の音して、かたへの女房に語とおぼしくて、人にも勝て世の覚も有き、又心様も類なかり(有朋下P463)しかば、情を懸ぬ者も無りき、我身も馴初て年頃にも成しかば、何事に付ても阻なく、憑しき事にこそ云しか、都を落なんとせしにも、不取敢事也しかば、墓々しく心静なる事もなかりしに、云し事は、我は西国へ落行なんず、別て後の恋さを兼て思こそ悲けれ、人は同心ならずもや有らん、我心よりおこらぬ事なれ共、日本第一の大伽藍を焼亡したれば、末の露本の雫に帰つゝ、人に勝て罪深くこそあらんずれ、終に如何聞なし給はんずらんと物語せしか共、そもさるべきかはと思しに、人しもこそ多きに、生ながら捕れて、京田舎恥
P0964
を曝す事の心憂さよ、三位都を出にし後には、堪忍ぶべし共思ざりしかば、雲の上のまじはりも倦けれども、独隙なく歎かんも罪深ければ、時の間も慰忘るゝ事もやとこそ思しに、露命と云ながら、消もうせなで又憂事を聞悲さよとて、忍もあへず泣悲み給音しけり。友時、さては此女房も忘れず歎給けりと、哀に覚て立寄、戸を打扣、もの申さんといへば、内より童指出て、いづこ[* 「いとこ」と有るのを他本により訂正]よりと問。忍音に三位中将殿よりと申せば、さき/゛\は人にも見え給はぬ女房の、余りの有難さにや、人目も恥も忘つつ、端近く出給ひ、いかにや/\と問給へば、御文候とてさし上たり。披見給へば、いかならん野の末山の奥にも、甲斐なき命あらば、申事も有なんとこそ思しに、そも叶で生な(有朋下P464)がら捕れて、恥をさらす事の心うさ、是も可然先の世の報にこそと思へば、我身の咎と覚て人を怨事なし、偖も此世に候はん事今明にこそ、争今一度可奉相見なんど、哀に心細き事共細々書続て、奥に一首ぞ有ける。
  涙河浮名を流す身なれども今一しほの逢せともがな K200 
女房此文を見給ふに、いとゞ為方なくて倒臥し、引かづきてぞ泣給ふ。友時も奉見之、よしなかりける御使哉とぞ悶ける。良久ありて起あがり、使の待らんも心つきなしとて、細に返事書給ひつゝ被帰けり。三位中将返事を待得て限なく悦、披見給へば、何国の浦にもましまさば、自申事こそ難くとも、露の命のあらん限は、風の便にはとこそ思侍つるに、偖は近く限に座すらん事こそ
P0965
悲けれ、誠に人のさもおはせんには、我が身とても日来の歎に打副て、ながらへん事も有難し、誠にいかにもしてか今一度見奉るべきと書給て、
  君故に我も浮名を流しなば底のみくづと共に成ばや K201 
中将は此文を見給ては、物も覚ず只泣給ふ計也。此女房と申は、故少納言入道信西の孫、桜町中納言成範卿の娘、中納言局とぞ申ける。今年二十一にぞ成給。琴琵琶の上手にて、(有朋下P465)絵書、花結、歌読、手厳書給ける上、貌細やかに情深き人にて座しければ、三位中将殊にわりなき事に思入給て、替る心なく申通じ給ける御中也。御子一人御座けれ共、北方、大納言佐殿に憚給て、世には角とも披露なし。西海の旅までも、引つれ奉度思しけるが、大納言佐殿、先帝の御乳母とて下らせ給へば、そも叶はで都に残し置給ける也。三位中将返事披見給、悲しき中にも不斜悦、又土肥次郎に宣けるは、此文の主の女房を呼て、最後の見参して申度事の侍るは免し給てんや、懸身に成ぬる上は、何事をかとおぼすらめ共、尽ぬ思の晴難ければ、今一度逢みばやと思ふ也、如何有べきと問給へば、実の女房にて御座侍らんには、などか苦しかるべきとて奉免。中将悦て、友時して乗物尋出て内裏へ遣す。女房世もつゝましく思召けれ共、責ての志の余に御車に召出給けるが、涙にくれて行さきも見え給はず。彼宿所におはし付て、車差寄せて下んとし給ければ、中将急立出て、武士のみんも見苦く侍るにとて、我身は縁に乍立、車の簾うち纏、手に手を取組、互の涙せき兼給へり。中将やゝ有て宣けるは、都を
P0966
落下し時、友時が他行して侍し程に、何事も不申置、文をも奉ずして下たりしかば、年頃日頃申しゝ事は皆偽言にて有けるよと、思召なん恥しさよと思しかば、軍に出る日は、今日は矢に中て死な(有朋下P466)ば、又申さでもや果なんと思はれ、船に乗時は、今日や水に沈みて、晴る事なくて止んと悲かりしに、今度生ながら捕れて、故郷の大路を渡されたるは、人を可奉再見契の朽ざりけるにやとて泣給へば、女房は詞も出されず、只泣より外の事なし。深行儘に終夜御物語し給ける。中にも女房は、三位中将の事は、今は猿事にて如何がはせん、御子の事をぞ歎れける。西海に落下り給て後は、東国の武士家々に充満て、うつゝなき世中なれば、如何なる憂事をか見聞んずらんと、明けても暮ても肝心を迷し、爰に隠れ彼に忍なんとするも、墻壁もいぶせければ、便に伝て下し奉らばやと、責の事には思しか共、人にこそ生ながら奉別らめ、行末遠き少人をさへ、旅の空に打棄ん事よと悲ければ、さてこそ過し侍しか。西海の波の上に、偖も御座し程は、再昔に還事もやと愚に被思つるに、今は角成給ぬれば憑む甲斐なし。さては何と成べき世中ぞや、御身の果如何聞なし奉るべきと忍音にて泣給けり。三位中将は、我罪深き者とて懸身に成ぬる上は申置しあらましも夢の中の物語也、罪深き者の子なれば、枝葉までも末憑しくはなけれ共、如何にもして助隠して、片山寺に下置、僧になして我苦を弔はせ給へと被仰て、袖のしがらみ関兼給へり。昔今の物語、夜を重日を重ぬ共難尽おぼしけるに、暁かけて打響く(有朋下P467)野寺の鐘の声、孀烏の一声、今夜も明ぬと告渡る。尾上
P0967
に廻白雲、西山に傾く暁の月、互に遺りは惜けれども、さて有べき事ならねば、疾々とて返されける。女房別を悲て、車の内に倒伏、物も覚ず泣給ふ。既に車を遣り出さんとし給へば、三位中将、飽ぬ遺の悲さに、女房の袂を引へつゝ、命あらば又も奉見嬉こそ、世になき者と聞給はば、必後世弔給へと宣て、
  あふ事も露の命ももろともに今宵ばかりや限なるらん K202 
女房泣々、
  限りとて立別なば露の身の君よりさきに消ぬべきかな K203 
とて出給けるが、此に御座さん程は常によと計にて、又物も宣はず、車を遣出し給けり。後にこそ是を最後とはおぼしけん、永き別の心中、帰るも止るも被推量哀也。女房内裏に帰給たりけれ共、打臥給て衣引纏て、只泣より外の事ぞなき。傍の女房達も、共に袖をのみぞ絞りける。其後は中将仰られけれ共、武士奉免事なかりければ、時々消息計こそ友時して通けれ。女房は内裏にも角ておはせん事つゝましくおぼしければ、里にのみこそ住給へ、責ての事と哀也。(有朋下P468)
S3902 重衡請法然房事
三位中将は九郎義経の許へ、出家をせばやと思ふは、免し給てんやと宣ければ、義経が計には難叶、御所へ申入て可依其御左右とて奏聞あり。頼朝に不仰合して出家暇を免ん事、難治之由被仰下ければ、御気色角とて不及力給。中将重て、出家は御免なければ今は申すに及ばず、さあら
P0968
ば年来相知て侍る上人を請じて、後世の事をも尋聞ばやと有ければ、上人は誰にて御座ぞと問奉。黒谷法然房と被申たり。兼て貴き上人と聞給ければ、後世の情にと思つゝ是を奉免。三位中将不斜悦て、軈友時を使にて、黒谷の庵室へ申されたりければ、法然上人来給へり。中将泣々宣。重衡が身の身にて侍し時は、誇栄花驕楽■慢の心は在しか共、当来の昇沈かへり見る事侍らず、運尽世乱て後は、此にて軍彼にて戦と申て、人を失ひ身を助んと励悪念は無間に遮て、一分の善心会て起らず、就中南都炎上の事、公に仕り世に随ふ習にて、王命と申父命と申、衆徒之悪行を鎮ん為に罷向処に、不側に伽藍の滅亡に及し事、不及力次第也といへ共、大将軍を勤めし上は、重衡が罪業と罷成候ぬらん、其報にや、多き一門の中に我身一人(有朋下P469)虜れて、京田舎恥を曝すに付ても、一生の所行墓なく拙き事今思合するに、罪業は須弥よりも高く、善業は微塵計もたくはへ侍らず、さても空く終なば、火穴刀の苦果且て疑なし、出家の暇を申侍れ共、責ての罪の深さに御免なければ、頂に髪剃を宛て、出家に准へ奉受戒候ばや、又懸罪人の一業をも、まぬかるべき事侍らば一句示し給へ、年来の見参其詮今にありと宣ければ、上人哀に聞給て、誠に御一門の御栄花は、云官職俸禄と申、傍若無人にこそ見え御座しか、今角成給へば、盛者必衰の理夢幻の如也。されば善に付悪に付、怨を起し悦をなす事有べからず、電光朝露の無益の所、兎ても角ても有ぬべし、永世の苦みこそ恐れても恐あるべき事にて侍れ。難受人界の生也、難値如来の教也。而今悪逆
P0969
を犯して悪心を翻し、善根無して善心に住して御座さば、三世の諸仏争随喜し給はざらん、先非を悔て後世を恐るゝ、是を懺悔滅罪功徳と名。抑浄土十方に構、諸仏三世に出給へ共、罪悪不善の凡夫入事実に難し、弥陀の本願念仏の一行ばかりこそ貴く侍れ、土を九品に分て、破戒闡提嫌之事なく、行を六字につゞめて、愚痴暗鈍も唱るゝに便あり。一念十念も正業となる、十悪五逆も廻心すれば往生と見えたり。念々称名常懺悔と宣て、念々ごとに御名称ずれば、無始の罪障悉く懺悔せられ、一声(有朋下P470)称念罪皆除と釈して、一声も弥陀を唱れば、過現の罪皆のぞかる。故に南無阿弥陀仏と申一念の間に、よく八十億劫之生死の罪を滅す、憑ても憑むべきは五劫思惟の本願、念じても念ずべきは此弥陀の名号也。行住坐臥を嫌ねば、四儀の称念に煩なく、時所諸縁を論ぜねば、散乱の衆生に拠あり。下品下生の五逆の人と称して已に遂往生、末代末世の重罪の輩も、唱へば必可預来迎、是を他力の本願と名。又は頓教一乗の教と云。浄土の法門、弥陀願巧、肝要如此とぞ善知識せられたりける。其後上人剃刀をとり、三位中将の頂に三度宛給。初には三帰戒を授、後には十重禁をぞ説給。御布施と覚しくて、口金蒔たる双紙箱一合差おき給へり。此箱は中将の秘蔵しおはしけるを、侍のもとに預置給ひたりけるが、都落の時取忘給たりけるを思出給ひて、友時を以て召寄給ひたりける也。偖も三位中将は、今の知識受戒の縁を以、必来世の得脱を助給へと宣も敢ず泣給へば、上人は衣の袖に双紙箱を裹、何と云言をば出し給はず、涙に咽て出給へば、武士も皆袂を絞けり。
P0970
此法然上人と申は、本美作国久米、南条、稲岡庄の人也。父は押領使染氏、母は秦氏、一子なき事を歎て仏神に祈る。母髪剃を呑と夢に見姙たりければ、父汝が産なん子、必男子として一朝の戒師たるべしと合たりけり。生れて有異相、抜粋に(有朋下P471)して聡敏也。童形より比叡山に登、出家得度して、博八宗の奥■を極て、専円頓の大戒を相承せり。世挙て知慧第一の法然房と云。依之王后卿相も戒香の誉を貴、道俗緇素智徳の秀たる事を仰ければ、重衡卿も最後の知識とおぼし、戒をも持ち給けり。
S3903 重衡関東下向付長光寺事
三月二日、三位中将重衡卿をば、土肥次郎実平が手より、梶原平三景時奉請取、宿所に置奉る。五日主馬入道盛国父子五人、九郎義経召捕て誡置、七日板垣三郎兼信、土肥次郎両人、平家追討の為に西国へ発向す。
十日本三位中将重衡卿は、兵衛佐依被申請、梶原平三景時に相具して関東へ下向。昨日は西海の船の中にして、浮ぬ沈ぬ漕れしに、今日は初めて東路に、駒を早めて明し暮さん事、されば是は如何なりける宿報の拙さぞとおぼすぞ悲き。御子の一人もおはしまさぬ事を恨給しかば、母二位殿も本意なき事におぼし、北方大納言佐殿も不斜歎給て、神に祈り仏に申給しに、賢くぞ子のなかりける、子あらましかば、いかばかり心苦しからましと宣ふぞ責の事と覚えて哀なる。既に都を出給、三条を東へ賀茂川、白川打越て、粟田口、松坂、四宮河原を通には、延喜第(有朋下P472)四の皇子蝉丸の、藁屋の床に捨られて、琵琶の秘曲を弾じ給しに、博雅三位三年まで、よな/\ごとに通つゝ、秘曲を伝たりけん
P0971
も、思ぞ出給ける。東路や袖くらべ、行も帰も別てや、知も知ぬも会坂の、今日は関をぞ通られける。大津浦、打出宿、粟津原を通るに、心すごくぞおぼされける。左は湖水、波浄くして一葉の船を浮べ、右は長山遥に連りて影緑の色を含めり。三月十日余の事なれば、春も既に晩なんとす。遠山の花色、残雪かと疑れ、越路に帰る雁金、雲井に名のる音すごし。さらぬだに習に霞春の空、落涙に掻暮て、行さきも不見けり。駒に任て鞭を打、道すがら思ひ残さる事ぞなき。帰雁歌霞、遊魚戯浪、雲雀沖野、林鶯囀籬、禽獣猶春楽に遇共、我身独は秋の愁に沈めりと、目に見耳にふるゝ事、哀も催思を傷しめずと云事なし。さこそは歎きも深かりけめ。勢多唐橋野路宿、篠原堤、鳴橋、霞に陰る鏡山、麓の宿に著給ふ。明ぬれば馬淵の里を打過て、長光寺に参て、本尊の御前に暫念誦し給へり。此寺は武川綱が草創、上宮王の建立也。千手大悲者の常住の精舎、二十八部衆擁護の寺院として、法華転読の声幽に、瑜伽振鈴の音澄り。中将寺僧に硯を召寄て、柱に名籍を書給。正三位行左近衛権中将平朝臣重衡とぞ被注たる。今の世までも其銘幽残れり。後世を祈給けるやらん覚束なし。(有朋下P473)
抑長光寺と云は武作寺の事也。昔聖徳太子、近江国蒲生郡、老蘇杜に御座けるに、太子の后高橋の妃、御産の気ありて十余日まで難産し給ければ、太子妃に語て曰、汝偏に新道をのみ信じて未仏法を不仰、胎内の小児は必聖人なるべし、汝が身は不浄也、早く精進潔斎し、清浄の衣
P0972
を著して仏力を憑まば、自平産せんとのべ給。妃曰、妾君を仰事日月星宿に相同じ、不可違正命、我産賀して如在ならば、君と仏法に合力して、伽藍を興隆し群生を可済度、但仏法真あらば、威力を示給へと誓給ふ時、老蘇宮の西南の方より、金色の光照し来て、后の口中に入ければ、王子平産あり。異香殿中に匂て栴檀沈水の如くなり。妃瑞相に驚、武川綱に仰て光の源をみせらる。命を承つて尋行て是を見れば、西南に去事三十余町を阻て、一山の麓に方三尺の石あり、青黄赤白紫の五色にて、眼を合するに目まぎれせり。傍に八尺余の香薫の木あり、匂人間に類なし。此由妃に奏すれば、妃又太子に奏せらる。太子宣て曰、石は補陀洛山にしては宝石と名、或は金剛石と云。大唐には瑪瑙と名たり。木は是白檀なり、天竺には栴檀と云。海中に入ては沈香共号せり。何れも人物に不可用、早く以白檀仏を造、彼石の上に安置せよ、彼所は転妙法輪の跡、仏法長久の砌也と。妃大に随喜して、武に仰て彼木石の上に(有朋下P474)して、仮初に三間の堂を造覆給けり。武が作れる寺なれば、武作寺と云けるを、法興元世二十一年、〈 壬子 〉二月十八日、太子と妃と相共に、彼寺に御幸して、手自地を引柱を列ね、金堂法堂鐘楼僧堂を建闊、太子自彼以白檀后高橋妃の等身に千手の像を造て宝石の上に安置し、法華、維摩、勝鬘等の三部の大乗を籠られつゝ、武作寺を改て長光寺と定らる。異光遠より照来て、妃口中に入しかば是を寺号とし給へり。来詣参入之類、花散し合掌之輩、普現には千幸万福に楽て、当には補陀洛山に生んと誓ひ給へる寺也けり。
P0973
上宮建立の聖跡、千手大悲の霊像に御座せば、重衡も武士に暇を乞ひ給、暫念珠せられけり。其後寺を出給、平の小森を見給ふにも、杉の木立の翠の色、羨くぞおぼしける。鶉啼なる真野の入江を左になし、まだ消やらぬ残の雪、比良の高峯を北にして、伊吹がすそを打過つゝ、心を留めんとには無れ共、荒て中々やさしきは、不破の関屋の板庇、如何に鳴海の塩干潟、涙に袖ぞ絞ける。在原業平が、きつゝ馴つゝと詠ける三川国八橋にも著しかば、蛛手に物をや思らん。浜名の橋を過行ば、又越べしと思はねど、小夜中山も打過、宇津山辺の蔦の道、清見が関を過ぬれば、富士のすそ野にも著にけり。左には松山峨々と聳て松吹風蕭々たり。右には海上漫々と遥にして岸打浪瀝々たり。浮島原(有朋下P475)を過給へば、是や此、恋せば痩ぬべしと歌給ひし足柄関をば余所に見て、同二十三日には、伊豆国府にぞ著給ふ。
S3904 頼朝重衡対面事
兵衛佐殿、折節伊豆奥野の焼狩とて、狩場に御座けり。此由角と申たりければ、北条へ奉入と也。翌の日は北条へ奉具、其日は浄衣をきせ奉て、以白帯左右手をしたゝかに奉誡。中将うち涙ぐみ、罪深き罪人の冥途へ趣くにこそ白き物著て閻魔庁へは望むと聞、それに少も違はぬ重衡が有様哉と、心細くぞ思はれける。北条へ入給たりければ、一法房を使にて、是まで御下向、返々難有覚え侍り、此間焼山狩仕て、狩場の灰など懸りて見苦く候へば、静に可入見参と宣棄て、鎌倉へ入給けり。二十五日に梶原平三、三位中将奉相具、同二十六日に鎌倉へぞ入にける。二十七日に兵衛佐と、三位中将と対面有べきの由披露あり。大名小名門前成市。其日に成ければ、三位中将
P0974
相具し奉て、兵衛佐の宿所へ参。佐殿の屋形新く造て、未門をば不被立、四方に築地つき、三方は覆したりけれ共、今一方せざりけり。寝殿に引つゞきて、内侍に九間、外侍七間、十六間にしつ(有朋下P476)らはれたり。内侍の上十二間を拵へ、中に障子を立切、六間づつにしつらひ、上の六間に高麗縁の畳を敷、三位中将を奉居、内には国々の長大名並居たり。外侍には若侍其数来集れり。内外の侍を見給へば、古平家に仕て重恩深き者も多くあり。瀝々としたる所に只一人ぞ座しける。良久有て白き直垂著たる法師来、三位中将の向ておはする御簾を半ばに揚、錦の縁刺たる畳押直して返にけり。法昌寛是也。良ありて兵衛佐、渋塗の立烏帽子に白直垂著して、寝殿に出て著座。空色の扇披仕て、梶原平三景時を使にて、三位中将殿に被申けるは、頼朝、故入道殿の御恩山よりも高く海よりも深く罷蒙て候へば、御一門の事露疎ならね共、朝敵とて追討の院宣を下さるゝ上は、私ならねば力及ず、加様に思よらぬ世の習にて候へば、何様にも屋島の大臣殿の見参にも入ぬとこそ覚て、加様に申ばとて御意趣有べきに非ず候へ、なほ/\是までの御下向、不思寄難有悦入て候と申べきと宣ふ。梶原、三位中将の前に跪て申さんとしければ、何条申継とや思はれけん、一門運尽て都を落し上は、西国にて如何にも成べき身の、是まで下向思よらざりき、実に故入道の芳恩思忘給はずば、今一両日の内に兵に仰て、被刎頭事いと安事に侍り、但事の心を案ずるに、殷紂は夏台に囚れ、文王は■里に囚ると云文あり、上古(有朋下P477)猶如此、況末代をや、王者又難遁、況凡夫をや。
P0975
就中我朝には、源平両家昔より午角の将軍として、奉守護帝位互に狼藉を誡き、而重衡一谷にして、討にも非遁るにも非、誤つて虜れて再故郷に還て憂名流し、今此恥を蒙る、昨日は人の上、今日は我に懸れり、雖似身恥、弓矢取の敵に虜るゝ事非無先例、これ先世の宿業也、又怨憎の果ぬ処也、只御芳恩には急頸を可召と宣ければ、大名小名皆涙をぞ流ける。景時又佐殿に申さんとしければ、佐殿よしや皆聞つるぞ、昌寛参れと被召たり。一法来り畏る。宗茂召て参れと宣ければ、狩野介召れて参。四十計なる男の小鬚なるが、浅黄の直垂著て前に進む。やゝ宗茂、三位中将殿奉入、よく/\■進せよ、疎にあたり奉て頼朝恨な、南都の衆徒も申旨有とて入給ぬ。宗茂武具したる者五十人ばかり具し来て、中将を中に取籠我屋形へ入奉て守護しけり。重衡卿、一谷にては庄四郎に虜れ、都へ上るには九郎義経に被具、京中にては土肥次郎に被守護、関東下向の時は梶原に被渡、今は狩野介預らる。譬へば娑婆世界の罪人の冥途中有の旅にして、七日々々に十王の手に渡さるらんも角やと思知れたり。(有朋下P478)
S3905 重衡酒宴付千寿伊王事
〔同〕晦日比に成て、狩野介湯殿尋常にこしらへて、御湯ひき給へと申す。中将嬉事かな、道の程疲て見苦かりつるに、身浄めん事の嬉しさよ、但今日は身を清め、明日はきらんずるにやと心細くぞ思はれける。一日湯ひき給ふ程に、昼程に及て、二十計かと見ゆる女の、目結の帷に白き裳著たりけるが、湯殿の戸少し開て、無左右内へも不入。中将如何なる人ぞと問給ふ。兵衛佐殿より御垢に参れと仰つる也と聞しは、有べくも侍らず
P0976
と被仰けるに、狩野介湯の奉行して候けるが、兎角の事な申されそ、はや参給へと聞ければ、女湯殿の内に入、湯とり水取などしてひかせ奉。晩程に十四五計なる美女の、地白の帷に染付の裳著たりけるが、金物打たる楾に、新き櫛取具して、髪に水懸洗梳なんどして上奉る。休所に入奉て、暫有て此女、何事も思召ん事をば無御憚承べしといへば、中将宣けるは、指て可申事なし、只此髪のそり度計也と。彼女佐殿に角と申ければ、私の宿意計ならば安事なれ共、朝敵とて下向し給たる人を、私に出家を赦す事難叶、南都の大衆も申旨のある者をと宣へば、女此由角と申せば、中将打頷許て又も物宣はず、其(有朋下P479)夜に入て、佐殿狩野介を召て、三位中将は無双の能者にて座します也、和君が私なる様にて琵琶弾せ奉れ、頼朝も汝が後園にたゝずみて聞べしと宣けり。宗茂宿所に帰て、時の景物尋て、奉酒勧と支度したり。酌取には昼の女を出して、狩野介瓶子懐き、家子侍肴盃面々に持て参たり。中将酒三度うけて、最無興に思はれたり。狩野介女に向て、兎ても角ても御前御徒然を慰進せん料也、一声挙て今一度申させ給へと云ければ、女兼て心得たる事なれば、酌さしおきて、
  羅綺之為重衣妬無情於機婦 管絃之在長曲怒不■於伶人
と云朗詠を二三返したりけるが、節も音も調て、大方優にぞ聞えける。中将宣けるは、折節の朗詠こそ思合て痛はしけれ。此句は北野天神の、春嫩無気力と云ふ事を、内宴序にあそばせり。譬へば
P0977
春嫩とはみめよき女也、無気力とは力の弱き也、上句に羅綺とて、薄く厳き衣を著して、美女の舞時には軽き衣も重く覚、これは機婦に妬とて、機織けん女もうらめしく覚え、下句に管絃をさしも面白けれ共、舞姫の舞弱りて力なければ、速に入ばやと思へ共、長曲を弾ずる時、伶人に怒るとて、管絃する人も悪覚ゆと云心也。されば永日ながら湯ひかせ、夜さへ又長々と酒勧る事よとおぼして、此朗詠をばし給ふ(有朋下P480)か、誠に心元なくこそ覚れ、湯も酒も我心よりおこらね共、折から優に聞ゆる者哉、但天神此句をあそばして、我ながらいみじくも作りたり。此句を詠ぜん所には、必我魂行望て、其人を守らんと御誓ありけり。重衡は逆罪の身にて、神明にも仏陀にも奉被放たれば、其助音仕るに憚あり、仏道成べき事あらば、さも有なんと宣ければ、女承りて、
  十方仏土中以西方為望、九品蓮台間雖下品応足、雖十悪兮猶引接、
  甚於疾風之披雲霧、雖一念兮必感、応喩之巨海之納涓路。
とて朗詠して、
  極楽欣はん人は、皆弥陀の名号唱ふべし、阿弥陀仏々々々々、南無阿弥陀仏、阿弥陀仏阿弥陀仏、大悲阿弥陀仏 K204 と云ふ今様四五返うたひけるにぞ、中将助音し給ける。其後三度うけて女に賜ふ。女給て宗茂に譲る。親き者共五六人取渡て止ぬ。纐纈の袋に入たる琵琶一面、錦の袋に入たる琴一挺、女の前に置たり。中将琵琶を取寄見給ふ。女柱立て弾たりけり。中将宣ひけるは、只今あそばす楽をば五章楽とこそ申習はして侍れども、重衡が耳には後生楽とこそ聞侍れ、往生の急つげんとて、てんじゆねぢ
P0978
つつ、妙音院殿の口伝の御弟子にて御座せば、皇障の急、撥音気高く弾らる。楽二三反弾じ給て、同は一声と勧め給へば、女承はつて、一樹の陰に宿り一河の流を汲人も、先世(有朋下P481)の宿縁也と云。契の白拍子を、一時かすへ澄したりけるが、夜は深更になりぬ、人は鳴を静たりければ、徐までも耳目を驚し、袂を絞計也。懸りければ、人々是を見奉らんとて、障子を細目にあけたる間より、風吹入て前の燈消にけり。狩野介、星燈参せよと申けるに、中将爪調べして、
  燈暗数行虞氏涙 夜深四面楚歌声 K205 
と云朗詠を二三反し給けり。夜明にければ女暇給て帰ぬ。中将人を召て、夜部の女は如何なる者ぞと尋給ければ、白川宿長者の娘、千手前とて今年二十に罷成、当時は鎌倉殿のきり人にて、御気色よき女房也とぞ申ける。さて召具したりつる美女はいかにと問給へば、猶子にて侍とぞ答ける。兵衛佐殿は、斎院次官親義を招て、中将の朗詠に、燈闇うしては数行虞氏涙と云つるは、如何成心ぞと問給。親義申けるは、此は史記項羽本紀文也、項羽と云し人は天下に並なき兵、身の長八尺鼎を挙けり。漢高祖と天下を諍事九箇年、相戦事七十一度、毎度項羽勝けるに、漢大将軍に韓信と云者の謀を以、項羽を囲て既に難遁かりければ、楚国の軍敗て落去ければ、漢の兵楚の陣に入て、漢旗を立て楚国の歌をうたひければ、我兵も皆敵に随にけりと悲みて、騅と云第一の馬に乗て出(有朋下P482)んとするに、馬身を振て出ず、駅と云第二の馬に乗て出けるに、項羽が妻の虞氏、夫の別を惜て泣ければ、
P0979
項羽歌つて云、力抜山威は覆天、天不福騅何、天不福虞氏何んと歌て、終に別て失にけり。燈の闇き下にして、虞氏別を惜て数行の涙を流しかば、燈暗数行虞氏涙とは申也。大国法には、軍に勝ぬれば必悦の歌をうたふ。譬ば我朝に、軍に勝て悦の時を造る是也。項羽軍に負て、夜深耳を側てて聞ば、敵打入て四方に楚の歌をうたひて心細かりければ、夜深四面楚歌声とは申て侍る、其様に暁かけて燈消、千手の前も帰らんずれば、さすが遺の惜くおぼすにこそ、虞氏は夫の別れを悲み、中将は女の好を慕ふかと覚たり、偖も朗詠し歌を謡ふも、敵の中より慰る音なれば、心細思はれつゝ、燈の消たる折節に、此朗詠を思出給ふにこそとぞ釈しける。さて楽はいかにと問給へば、親義申けるは、廻骨と云楽にて候、文字には骨を廻すと書り、大国には死人を野外へ葬送するには、必斯楽を弾と承る、朗詠の様、楽の弾様、遂に我死せん事を思兼て、此楽をひき給ふにと哀に候とて、涙を流しければ、佐殿も中将の琵琶をひき朗詠し、千手が琴を弾歌をうたひたりしよりも、親義一々に釈し申たりければ、哀に思給て同袖を絞給。やゝ有て兵衛佐は千手に向ひて、さても頼朝が媒こそしすまして覚ゆれと(有朋下P483)被仰ければ、女顔打赤めて、全く情を懸給事侍らずと申。年来只千手をば正直者ぞと思たれば、真ならぬ時も有けるや、争か御前にて可偽申、さて汝誓言してんやと宣へば、御赦し候はば安く候と申。其時佐殿顔けしき悪ざまに成つて、是までは仰らるまじけれ共、汝をやるは中将を慰ん為也、中将争か汝に情を懸ざらん、争か悪きに、さらば誓言仕と仰す。女涙を流つゝ、若中将に召ながら、御前にて
P0980
偽り言申侍らば、近くは江柄足柄伊豆箱根より奉始、日の下に住し給諸の神のにくまれを蒙らんとぞ申たる。佐殿手をはたと打て、頼朝が心には、並は有とも勝はあらじと思たる千手を、中将に嫌れたるこそ無念なれ、吾内に女のなきに似たりとて、平六兵衛が姪女に伊王前とて歳二十に成りけるが、みめ形たらひ、遊者ならねば、今様朗詠こそせざれ共、琵琶琴の上手にて、歌連歌よろづ情ありける女也。はなやかに出立て、結四手と云美女相具して中将へ被進、敵ながらも頼朝は、都なれてやさしき女を余多持たりけり、又情深くも振舞たりとおぼしければ、終夜優におかしき御物語は有けれ共、是にも心は移されず。夜も明にければ女暇申て帰けり。兵衛佐殿待得て、よにも心元なく覚て、いかに伊王と尋給ふ。是も奉被嫌たりと申せば、偽かと被仰。誠にと申ければ、佐殿、是きけ人共、中将は院内の御気色(有朋下P484)も人に勝れ、父母にも覚えの子、上下万人に重く思はれけるは理也、三十の内外の人の千手と伊王とを見て、争か打解る心なかるべき、去共只今敵の前に思入たる気色なく、其道あらじと思ける、武くもやさしくもおはしけり、去ばとて寂しめ奉べからず、二人毎夜に参べけれ共、出立も煩あり、是におはせん程は、夜まぜに参りて宮仕せよ、努々疎に仕べからずと仰られければ、千手は榊葉と云美女を具し、伊王は結四手と云美女を共にて、今年の卯月の一日より、明る年の六月上旬迄、打替打替参つゝ、御宮仕ぞ申し〔け〕る。偖も中将南都に被渡て斬れ給にしかば、二人の者共さしつどひて臥沈てぞ歎ける。由なき人に奉馴、憂目を見聞悲さよ、中将岩木を結ばぬ身なれば、などか我等
P0981
に靡心もなかるべきなれ共、加様に成給べき身にて、人にも思をつけじ、我も物を思はじと、心強御座ける事の糸惜さよとて、共に袖をぞ絞りける。何事も先の世の事と聞ば、思残すべき事はなけれども、後世弔ふべき一人の子のなき事こそ悲けれと被仰し者をとて、二人相共に佐殿に参て、故三位中将殿に去年より奉相馴、其面影忘奉らず、後世を助べき者なしと歎き仰候き、見参に入侍けるも可然事にこそ候なれば、暇を給り様を替て、菩提を助奉らんと申けれども、其赦しなければ、尼にはならざりけれ共、戒を持ち念仏唱へ(有朋下P485)て、常は奉弔けり。中将第三年の遠忌に当けるには、強て暇を申つゝ、千手二十三、伊王二十二、緑の髪を落し、墨の衣に裁替て、一所に庵室を結び、九品に往生を祈けり。中将は狩野介に被具て、且く伊豆におはしけり。
S3906 維盛出屋島参詣高野付粉川寺謁法然房事
権亮三位中将維盛は、故郷は雲井の余所に成果て、思を妻子に残しつゝ、人なみ/\に西国へ落下給たりけれども、晴ぬ歎きにむすぼほれ、其身は屋島に在ながら、心は都へ通ひけり。三月十五日に、与三兵衛尉重景、石童丸と云童、船に心得たる者とて武里と申舎人、此三人を具し給、忍つゝ屋島館を出て、阿波国由木浦にぞ著給ふ。心憂き浪路の旅と云ながら、今までも一門の人々に相具して明し晩しつるに、今日を最後と思召ければ、御余波惜くて、■の篷屋の柱に、
  折々はしらぬ浦路のもしほ草書置跡を形見共見よ K206 
重景御返事申けり。
P0982
  我恋は空ふく風にさも似たりかたぶく月に移ると思へば K207 (有朋下P486)
石童丸、大臣殿御事を思出し給らんと思奉りて、
  玉鉾や旅行道のゆかれぬはうしろにかみの留ると思へば K208 
さても御舟に乗移り給、音に聞阿波の鳴戸沖を漕渡り、紀伊の路をさして楫を取。比は三月十日余の事なれば、尾上に懸る白雲は、残の雪かと疑れ、礒吹風に立波は、旅の袖をぞ濡しける。きやうけいのうかれ声おしあけ方に成しかば、八重立霞のひまより、御船汀に押寄たり。爰はいとこなるらんと尋給へば、名にしおふ紀伊国和歌浦とぞ聞給。夫より吹上の浦を過給けるに、一門を離兄弟にも知れねば、一は恨に似たれ共、かゝらざらましかば、係名所をば争か可見と聊慰給けり。彼和歌浦と申は、衣通姫卜居、山の岩松礒打波、沖の釣船月の影、しらゝの浜の真砂に、吹上の浦の浜千鳥、日前国懸の古木の森、面白かりける名所哉。されば衣通姫、玉津島姫明神と彰て此所に住給へり、理也とぞ思召、由良の湊と云所に舟をつけ、是より下り給へり。山伝に都へ上て、恋き人共をも今一度見ばやと思けるが、御様を窄給へ共、猶尋常の人にはまがふべくもなし。本三位中将の虜られて、京田舎恥を曝すだに心憂に、我さへ憂名を流さんも口惜く思はれければ、千度心は進けれ共、心に心をからかひて、泣々高野へ参給ふ。思召出事ありけ(有朋下P487)れば、此次に粉川寺へぞ被参ける。此寺は大伴小手と云し人、我朝の補陀落是也とて、甍を結べる所也。去治承の比、小松殿熊野参詣の次に、彼寺に
P0983
参給たりけるに、書置給へる打札あり。今一度父の手跡を見給はんと思出給けり。彼札を御覧ずれば、落涙に墨消て、文字の貌は見えね共、重盛と云字計は彫りて墨を入たれば、有しながらに替らねば、泣々之をぞ見給ける。手跡は千代の形見也と云置けることのはも、げに哀にぞ思召。御堂に入、観音の御前に念誦して御座けるに、僧一人来て共に念誦して有けるが、あやしげに見奉て、是はいとこより御参ぞと問。京の方よりと答給へば、法然上人の入給へるを聞召て御参りかと云。三位中将は其事兼て不知、何事に入寺し給へるぞと返し問給へば、此間念仏法門の談議也と申て、細かに問答して立ぬ。中将は与三兵衛を招て、態も都に上、法然房に奉逢、後世の事をも尋聞べきにこそあれ共、道狭き身なれば力なし、上人たま/\此寺におはす也、憚あれ共、見参し奉ん事いかゞ有べきと宣へば、重景畏つて、何の御慎みか候べき、上人をば生身の仏と承、然べき善知識にこそ、後世菩提の御為に御聴聞あらん折節、たとひ災害にあはせ給ふとても、痛み思召べからず、闘諍合戦の場にして、身を失て修羅の悪所にも生候なるぞかし、況聞法随喜の窓にして、命を(有朋下P488)亡す事あらば、弥陀の浄刹に往生せんと可被思召など小賢申ければ、可然とて、夜に入て重景を御使にて、法然上人へ申されけるは、維盛高野参詣之志有て、屋島を忍出て是まで罷伝て侍るが、折節可然事と存候、出離の法門一句承らばやと仰られけり。上人哀におぼして、軈三位中将を奉請入、見参し給て、いかにや/\難有こそ思奉れ、都を出給て後、人々此彼にて亡給ふと承るに付ては、御身如何成給ぬらんと心苦く思奉るに、
P0984
奉入再見参御事、哀に悦入侍り、偖もさしもの世の乱の中に、遥々と高野参詣の御志目出くも思召立ける御事哉とて泣給ふ。中将宣けるは、家門の栄花既身に極て、先帝を始進せて、一族悉く西海に落下りし上は、人なみ/\にあくがれ出て候ぬ、憂き事も多かりし中に、難波潟一谷にて卿相雲客数亡ぬ、適被討残たる者もある空も侍らず、夜は終夜今や水底に沈むと歎、昼は終日に今や敵に失るゝと悲む、兎にも角にも閑心なし、されば遂に遁まじきもの故に、貴き結戒の地と承はれば、高野に参て出家をもして、其後如何にもならばやと思事侍て、屋島を出て是まで伝つゝ、奉見こそ嬉しけれとて、其夜は庵室に留給、泣口説物語し給けるが、暁方に、維盛少より身を放たず、日所作に奉読御経御座す、水の底にも沈まん時は、同沈め奉らん事罪深く覚え候、若世に(有朋下P489)なき身と聞給はん時は、思出して後世弔給へと宣て是を奉渡。上人請取給て、縦是なし共争か可奉忘なれ共、角思召入て承れば、披見ん折々は可奉必弔とて拝奉ば、四半の小双紙に、金泥に書たる小字の法華経也、最哀にぞ思ける。三位中将は、今日は留て遺をも惜度侍れ共、維盛をば平家の嫡々とて、頼朝ことに可相尋と披露あり。人口も恐ろし、戒を持暇申ばやと宣へば、上人は此間説戒の程、御聴聞もあれかしと存れ共、御急と承れば可奉授戒とて、円頓無作の大戒、梵網の十重禁をぞ説給ふ。上人結して曰、塔中の釈迦は此法を説て、仏位を十界の衆生に授、台上の舎那は此戒を受て、正覚を花蔵世界に唱ふ。法華一実の妙戒は、能持の一言に戒珠を■の間に研、合掌の十指に十界を実際に
P0985
安じ、衆生正覚の直道、即身成仏の要路也、是則薄地底下の凡夫の、一毫の善なき者の罪悪、生死の衆生の出離の期なき輩、修行覚道に不入ども、速に仏果を成ずる計と此戒に如くはなし、依之梵網経に曰、一切有心者、皆応摂仏戒、衆生受仏戒、即入諸仏位、位同大覚已、真是諸仏子、一度受此戒者、入諸仏位同大覚位と説給へば、誠難有功徳也。戒師戒を授るは、授戒灌頂とて、仏前智水を後仏に授る意なれば、此戒を受るは即身に正覚を唱ふる也。故に此戒をば、一得永不失の戒とて、一度受て後、永失(有朋下P490)事なしとぞ宣ける。中将も聴衆も、皆随喜の涙を流けり。其後念仏の法門、弥陀の本願こま/゛\と説給、様々被教化ければ、維盛然べき善知識と嬉くて、泣々庵室を出給けるが、契あらば後生には必参会と宣て、夫より高野へ参給ふ。上人も哀に思給、遥に見送奉り、衣の袖を濡し給へば、見る人袂を絞りけり。三位中将は高野山に参つゝ、人々をぞ尋給ける。
S3907 時頼横笛事
三条斎藤左衛門大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼入道と云者也。彼時頼は小松大臣殿に候けるが、高倉院御位の時、建礼門院后宮にて渡らせ給けるに、二人の半物有、横笛、刈萱とぞ云ける。共にみめ形類なく、心の色も情あり。刈萱をば越中前司盛俊相具しけり。横笛と云は、本は神崎の遊君、長者の娘也。大方も無双の能者、今様朗詠は、所の風俗なれば云に及ず、琴琵琶の上手、歌道の方にも勝たり。太政入道、福原下向之時召具たりけるを、女院未中宮にて渡らせ給けるとき被進たり。小松内府如何覚けん、横笛と名を付られたり。時頼人しれぬ見参して、白地と思けれ共、松蘿の契色深、蘭菊の情匂細やか(有朋下P491)にして、
P0986
志切にして思ける。父此事を聞て滝口を呼つゝ、横笛は当時殿上の官女也、それに汝が契を結通ふと云事、世に普く披露あり、此事若達上聞珍事出来りなん、加様に尾籠ならんを、其親として不教訓之条奇怪也と被仰下ば、身に取て一期の大事、可失面目、其上憑しき人の聟に成て世に立べき振舞も有べし、加様の独人を相憑ては、遂にいかなるべきぞ、由なき事也と様々云けれども、可然先世の契にや、つゆ難忘かりければ、父母の諌にもかゝはらず、いとゞ志浅からず通ければ、父茂頼重て時頼を呼向へて様々教訓して、所詮不随親命者不孝也と云ければ、仰畏て、承候ぬと申て父が前を立、常に住ける所に立入て、安然として思けるは、穴あぢきなの事共や、程なき此世に住ひつゝ、心に任ぬ悲さよ、縦長命を保とも、七八十にはよも過じ、若又栄花に誇とも、二十年をば不可出、夢幻の世中に、楽ければとて悪からん女に相具せん事心憂し、同僚傍官が欲にふけると笑はん事も最恥し、但是程の父の教訓し給事を不用ば逆罪也、不孝父母当堕悪道と云故に、さても終りなば地獄に入べし、親の命に随、女の心を違へば永き世の恨あり、懸念無量劫と云故に、兎にも角にも世にあらば、悪縁也不孝也、不如奇恩入無為は、真実報恩の者といへり。然べき善知識にこそと思きり、生年十八(有朋下P492)の歳菩提心を発しつゝ、嵯峨奥の法輪寺にして出家し、法名阿浄と名を付て行澄て居たりけり。深く契し中なれ共、時頼角共云ざれば、横笛つゆも知ざりけり。日比月比経けれ共、夫も見えず音信もなし。只仮初の契かや、移れば替る心かと、独思に焦れけり。縦我許へこそ不通とも、本所
P0987
の衆にて侍に、出仕の止るべき事はなしと、昼は終日に思くらし、夜は八声の鳥と鳴明す。心は日々に駿河なる、不尽の高峯と焦るれども、煙たたねば人とはず。さりとて人に知れねば、語りて慰方もなし。呉竹の夜ごとに物が思はれて、音のみ泣れて琴の音の、伊勢の国鈴鹿の山の心して、何と成べき我身やらんと、朝夕歎けるこそ哀なれ。適ありと聞えつゝ、我故様を替けん事の無慙さよ、背世深き山に籠共、などかは角と知せざる、夜かれ日枯をだにも歎しに、絶ぬる中こそ悲けれ。人こそ心強く共、尋て恨んと思ければ、忍て内裏を紛れ出て、法輪寺へぞ尋行。暮行秋の習とて、道芝の露深ければ、夜寒に成ぬ旅衣、重し妻こそ恋しけれ。十市の里の砧の音、よわり終ぬる虫の声、一方ならぬ哀さも、誰ゆゑにとぞ悲みける。都をば月と共に出たれども、まだ踏なれぬ道なれば、涙に曇る夜の空、此彼にぞ迷ける。つゞきの里もおともせず、人を咎むる里の犬、声澄程に成てこそ、法輪寺には入にけれ。此寺とは聞たれども、(有朋下P493)住らん坊は不知けり。女其夜は御堂に詣、仏の御前に通夜しつゝ、南無帰命頂礼大聖虚空蔵菩薩、あかで別し滝口に、今一度と心中に祈念して、礼拝をぞ奉ける。人の心を尽しつゝ、我も思にこがるとぞ、思合て悲みける。五更の鐘も鳴ければ、さすが人目もいぶせくて、空く帰ける程に、責ては其庵室共知ばやとて、此彼やすらひけり。住荒したる僧坊の、流石よしある門の中に、法華経の提婆品をよむ声しけり。いと奇く立聞ば、若有善男子善女人、聞妙法華経提婆達多品、浄心信敬不生疑、或者不堕地獄、餓鬼畜生、生十方仏前、所生之処、常聞此経若生人天中、受勝妙楽、
P0988
若在仏前、蓮華化生と読止て声を揚て、戯呼三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別と云華巌経の文をくり返/\二三返をぞ唱へたる。聞ば尋る滝口入道が声也けり。思か呼声はきこゆ〔る〕なるためしも誠なる心地して、暫是を立聞ば、滝口入道申けるは、我親世に有しかば、何不足とも思はざりしか共、横笛がことに心に叶はぬ憂世の中も思知れて、様をかへ角行て候へば、悲き女は還て菩提の善知識と覚えたり、人は心弱ては仏道は遂まじきにて有けるぞ、後生はさり共助りなんものをなんとぞ口説たる。横笛慥に是を聞得つゝ、軒近く立寄て、竹の編戸を扣けり。内より誰と問ければ横笛とぞ答ける。滝口入道是を聞、誠な(有朋下P494)挿絵(有朋下P495)挿絵(有朋下P496)らぬ事哉と■打騒、障子の間より是を見れば、実に横笛にぞ有ける。色々の小袖に薄衣引纏ひ、そやうの耳踏きりて、袖は涙、すそは露にぞしをれたる。通夜尋侘たるけしきは、竪固の道心者も心弱くぞ覚えける。無慙やな誰これにとは教へけん、何とて是まで来りけん、出て物語をもせばや、見えて心をも慰ばやと思ひけれ共、主の見るも恥しく、云つる言も験なく、さては仏道成なんやと思切。人を出して、是には去事候はず、人違へにておはするか、滝口とは誰人ぞと、事外に云ければ、横笛しひて申様、げに入道の声のし給ひつる者をや、様をこそ替給はんからに、心さへ強面なり給けるうらめしさよ、させる妨に成まじ、我故に貌をやつし給へると承れば、今一度墨染の姿をも奉見、又便あらば自も苔の袂に裁替て、花を求め香を焼、共に後生を助らんと思てこそ遥遥尋参たれ、其まで誠に不叶ば、只出給て今一度見え給へと云ければ、入道千度百度出ばやと思へ
P0989
共、云つる事も恥しく、出て由なき事もやと思つゝ、遂に隠て不逢けり。比は十月中の六日の事なれば、嵐に伴ふ暁の鐘、今夜も明ぬと打響、月に耀紅葉葉も、幾重軒端に積るらん、落る涙に時雨つつ、横笛袖をぞ絞ける。適有と聞得つゝ、声をたよりに尋れば、主の僧ははしたなく、なしと答て出さねば、憂身の程もあらはれて、今は人を恨(有朋下P497)に及ず、さすが明行空なれば、人のためつゝましと思ひつゝ、
  山ふかみ思ひ入ぬる柴の戸の真の道に我をみちびけ K209 
と読棄て、此世の見参は不叶共、朽せぬ契にて、後世には必と、さらば暇申て入道殿とて、女そこより帰にけり。時頼入道も、心強は出ねども、悪からぬ中なれば、庵室の隙より後姿を見送りて、忍の袖をぞ絞りける。横笛は泣々都へ帰けるが、つく/゛\物を案じつゝ、如何なる滝口は悲き中を思切、かく心づよく世を背ぞ、如何なる吾なれば、蚫の貝の風情して、難面くながらへて、由なき物を思べきぞと思ければ、桂川の水上、大井川の早瀬、御幸の橋の本に行、潜たりける朽葉色の衣をば柳の朶にぬき懸、思ふ事共書付て同じ枝に結置、歳十七と申に河のみくづと成にけり。法輪近き所にて、入道此事を聞河端に趣、水練を語て淵に入、女の死骸を潜上、火葬して骨をば拾ひ頸に懸、山々寺々修行して、此彼にぞ納ける。いかにも都近ければこそ懸る憂事をも見聞とて、高野山に登つゝ、奥の院に卒都婆を立て、女の骨を埋つゝ、我身は宝幢院の梨坊にぞ住しける。
 < 異本には、蓮華谷、小松大臣の建立と云云。 >(有朋下P498)