『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四
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爾巻 第四
S0401 鹿谷酒宴静憲止(二)御幸(一)事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)は、日比内々相語輩偸に催集て、鹿谷に衆会し、一日酒宴して軍の評定あり。法皇も忍て御幸有べかりけるが、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の子息、静憲法印を召て、此事を被(二)仰含(一)けり。法印は、努々不(レ)可(二)思食(おぼしめし)寄(一)御事也、伏羲神農の聖人たる、猶瓊樹根を別にし、軒轅虞舜の明王たる、又玉体種を分つ、夏殷周晋春の花、芬馥気種々に含、梁陳隋唐の秋の月、清光区に朗也。夫天下を治事如(レ)此。況や君は忝も地神五代の御苗裔を受させ御座して、人皇億歳の宝祚を踏給へり。逆臣背き奉らば、忽に天罰を蒙て、兵略を廻らかさずと云共、自滅亡せん事疑あらじ、日月為(二)一物(一)不(レ)暗(二)其明(一)、明王為(二)一人(一)不(レ)曲(二)其法(一)と云事侍り、成親卿(なりちかのきやう)一人が勤によつて、万人悩乱の災を致さん事、豈(あに)天地の心に叶はんや、全政道有徳の基に非ず、こは浅増き御企也と、大に諌申ければ、法皇の御幸は無りけり。鹿谷には軍の評定の為に、人々多集て一日(有朋上P102)挿絵(有朋上P103)挿絵(有朋上P104)酒盛しけり。多田蔵人が前に杯の有けるに、新(しん)大納言(だいなごん)青侍を招て私語給へり。青侍まかり立て、程なく長櫃一合、縁の上に舁居たり。尋常なる臼布五十端取出して、蔵人が前に積置せて大納言日けるは、日比談義申侍つる事、大将軍には一向に奉(レ)憑、其弓袋の料に進ずる也、今一度候ばやとぞ強たりける。蔵人居直り
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畏て、三度呑て、布に手打係て押除たれば、郎等よつて取(レ)之。其後押まはし/\、得たり指たりする程に、既晩に及ぶ。庭には用意に持たりける傘をあまた張立たり。山下の風に笠共吹れて倒ければ、引立々々置たる馬共驚て、散々(さんざん)に駻踊、食合踏合しければ、舎人雑色馬をしづめんと、庭上々を下へ返て狼藉也。酒宴の人々も少々座を立けるに、瓶子を直垂の袖に懸て頸をぞ打折てける。大納言見(レ)之、戯呼事の始に平氏倒侍りぬと被(レ)申たり。面々咲壺会也。康頼突立て、大方近代あまりに平氏多して持酔たるに既に倒亡ぬ、倒たる平氏頸をば取に不(レ)如とて、是を差上て一時舞たり。さて取たる首をば可(レ)懸也とて、大路を渡すと云て、広縁を三度廻し、獄門の樗木に係と名て、大床の柱に烏帽子(えぼし)懸につらぬきて結付けたり。土の穴を堀て云事だに漏と云、まして左程の座席にて加様にや有べきと後おそろし。石に口すゝぎ流に枕すと云事有と思者は、偸に座を起つ人もあ(有朋上P105)りけるとかや。北面は白川院御宇より被(二)始置(一)、衛府共あまた在けり。為俊守重童部より、千寿丸今犬丸とて切者にて侍けり。鳥羽院御時は、季範季頼父子共に、近奉(レ)被(二)召仕(一)伝奏する折も有けり。去ども皆身の程を計てこそ振舞けるに、此御時の北面の下臈腹共(げらふども)は、事の外に過分にて、公卿殿上人をも物共せず、無(二)礼義(一)。理や下北面より上北面に移り、上北面より殿上をゆるさるゝ者も有ければ、驕れる心も有ける也。其内故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)のもとに、師光成景と云者あり。成景は京の者小舎人童太郎丸と云けり。師光は阿波国の者、種根田舎人也けり。童部より常に召具しけるが、院(ゐんの)御所(ごしよ)にて信西御前に候
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けるに、天台の不思議共御尋有けるに、折節廃亡して演得ざりければ、如何して御前を立べきと、身体苦く思煩たる心地色に、顕て在ければ、童是を遥見危て、沓脱、近居寄て高かに、御内より御召有て、御使三箇度参り如何と云たり。信西得たる折節とて罷出ぬ。如何にと尋ぬれば、童答て云、御座を起ばやと思召(おぼしめす)御気色の見させ給へば、自が虚誕也と申。信西打頷許て、神妙々々と感ず。喩へば紅山に入て道を失へりしに、牛童に教へられて都に入、所望を遂と、銀心大臣が書る筆も、今被(二)思合(一)と感じて、烏帽子(えぼし)をたび、恪勧者なんどに仕けるが、両人勒負尉になさる。事にふれて賢々しかり(有朋上P106)ければ、院の御目にも懸進せて被(二)召仕(一)けり。師光は左衛門尉、成景は右衛門尉とぞ申ける。信西平治の乱に討れし時、二人共に出家して、左衛門入道は西光、右衛門入道は西景とぞ申ける。二人ながら御蔵の預にて、猶被(二)召仕(一)けり。其西光が子息に、近藤左衛門尉師高(もろたか)きり者也ければ、検非違使(けんびゐし)五位丞まで成て、安元元年十一月廿九日に、追儺の除目に加賀守になる。国務を取行間、様々の非法非礼張行之余、神社仏寺の御領、権門勢家の庄園を倒し、散々(さんざん)の事共にてぞ有ける。縦召公が跡を伝と云とも、穏便の政を行べきに、心の儘に振舞し程に、
S0402 涌泉寺(やうせんじ)喧嘩事
目代(もくだい)師経(もろつね)在国の間、白山中宮の末寺に、涌泉寺(やうせんじ)と云寺あり。国司の庁より程近き所也。彼山寺の湯屋にて、目代(もくだい)が舎人、馬の湯洗しけり。僧徒等制止して、当山創草より以来、いまだ此所にて牛馬の湯洗無(二)先例(一)と云けれども、国は国司の御進止なり、誰人か可(レ)奉(レ)背(二)御目代(おんもくだい)(一)とて、在俗不当の輩、散々(さんざん)の悪口に及んで更に承引せざりければ、
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狼藉也とて涌泉寺(やうせんじ)の衆徒蜂起して、目代(もくだい)が馬の尾を切、足打折、舎人がそくびを突、寺内(有朋上P107)の外へ追出す。此由角と馳告ければ、目代(もくだい)師経(もろつね)大に憤て、在庁国人等を駈催して、数百人の勢を引率して、彼寺に押寄て不日に坊舎を焼払。懸ければ北の四箇寺に、隆明寺、涌泉寺(やうせんじ)、長寛寺、善興寺、南四箇寺に昌隆寺、護国寺、松谷寺、連花寺、八院の衆徒等会合して、使者を中宮へ立たりけり。別宮佐羅中宮、三社の衆徒、急下て一になる。岩本、金剣、下白山三宮、奈谷寺、栄谷寺、宇谷寺三寺四社の大衆も馳集りて同意しけり。時刻を廻すべからず、目代(もくだい)師経(もろつね)を誅罰すべしとて、七月一日数百人の大衆喚て庁へぞ押寄ける。師経(もろつね)は涌泉寺(やうせんじ)焼失の後、僻事しつと思つゝ、忍て京へ逃上たりければ、庁には人こそなかりけれ。八院三社の衆徒の張本に、智積、覚明、法台、金台、学円、仏光寺の宗人の大衆三十余人、三寺四社の衆徒等相具して、其勢二千余騎、国分寺に衆会して、評定あり。目代(もくだい)逃上ぬる上には、国にして左右すべきに非ず、本山に訴へて、師高(もろたか)師経(もろつね)を可(二)断罪(一)也とて、子細を録して寺宮六人を差上て、山門に訴詔(そしよう)しけり。大衆此事を聞、本社白山の事ならば左も有なん、彼社の末寺也、許容に及ずとて其沙汰なし。寺官等力なくして、十一月の比国に下る。衆徒会合して云、理訴を極ずして下向の条謂なし。山門にてこそ、火にも水にも成べけれとて、重て又追上す。寺官山上に越年して、(有朋上P108)谷々坊々に訴れども不(二)事行(一)、此由かくと申下たりければ、又八院三社の大衆、三寺四社の衆徒、不日に衆会して僉議(せんぎ)して云、謹で白山妙理権現の垂跡(すいしやく)を尋奉れば、日本根子高瑞浄足姫御宇、
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養老年中に鎮護国家の大徳神、融禅師行出し給て、星霜既に五百歳に及で、効験于(レ)今新なり。日本無双の霊峯として、朝家唯一の神明也。而を目代(もくだい)師経(もろつね)程の者に、末寺一院を被(二)焼亡(一)て、非(レ)可(二)黙止(一)、此条もし無沙汰ならば、向後の嘲不(レ)可(二)断絶(一)、
S0403 白山神輿登山事
糾断遅々の上は、神輿を本山延暦寺に奉(二)振上(一)、訴申さんに、大衆定贔負せられば、訴訟(そしよう)争か不(レ)達、若目代(もくだい)師経(もろつね)に被(レ)狂て、理訴非に被(レ)処者、我寺々に跡をとゞむべからずと議定して、各白山権現の御前にして、一味の起請を書灰に焼て、神水に浮て呑(レ)之、身の毛竪てぞ覚ける。さらば何をか期すべき、奉(レ)出とて、白山七所の其中に、佐羅の早松の御輿を奉(レ)飾、本地は不動明王(ふどうみやうわう)、悪魔降伏忿怒形、賞罰厳重の大明神(だいみやうじん)也。安元三年正月三十日辛未日、吉日也とて、御門出あり。同二月五日丙子を吉日として、早松の社より願成寺へつかせ給ふ。御共の大衆一千余人、皆甲冑を帯して是を晴とぞ出立たる。六日は仏(有朋上P109)が原、金剣宮へ奉(レ)入。此明神と申は、嵯峨天皇御宇、弘仁十四年に、此所に奉(レ)祝て三百五十余年也。本地は倶梨伽羅不動明王(ふどうみやうわう)也、魔王と威勢を諍て、邪見の剣を呑給ふ。当社に両三日の逗留あり。衆徒も神人も念珠を揉、手を叩て、帰命頂礼(きみやうちやうらい)、早松金剣両所権現、本地垂跡(すいしやく)力合せ、思を一にして、速に師高(もろたか)、師経(もろつね)を召捕給へと、口々に咒咀しけるこそ恐しけれ。同九日留守所より牒状あり。使には橘次大夫則次、田次大夫忠俊也。彼状云、留守所牒、白山中宮衆徒之衙まらうとい
欲(三)早被(レ)停(二)止衆徒之参洛(一)事
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牒衆徒載(二)神輿(一)、企(二)参洛(一)、擬(レ)致(二)訴訟(そしよう)(一)之条、非(レ)無(二)不審(一)、依(レ)之差(二)遣在庁忠俊(一)、尋(二)申子細(一)之処、就(二)石井法橋之訴詔(そしよう)(一)、令(二)参洛(一)之由返答之趣、理豈可(レ)然、争依(二)小事(一)可(レ)奉(レ)動(二)大神(一)哉、若為(二)国司之御沙汰(一)、可(レ)被(二)裁許(一)者、速賜(二)解状(一)、可(二)申上(一)也、仍察(レ)状以牒。
安元三年二月九日 散位財朝臣
散位大江朝臣
散位源朝臣各在判
とぞ書たりける。衆徒の返牒状云、(有朋上P110)
白山中宮大衆政所返牒 留守所衙
来牒一紙被(二)載送(一)、神輿御上洛事
牒、今月九日牒状同日到来、依(レ)状案(二)事情(一)、人成(レ)恨神起(レ)嗔、神明与(二)衆徒(一)鬱憤和合、而既点(二)定吉日(一)、早進(二)発旅宿(一)、人力不(レ)可(二)成敗(一)、冥慮輙不(レ)可(レ)測矣、仍返牒之状如(レ)件。
安元三年二月九日 中宮大衆等と
書すてて、同十日金剣宮を出し奉てあはづへ著せ給ふ。十一日には須河社、十二日には越前国細呂宜山の麓、福龍寺森の御堂へ入せ給ふ。今日神人宮仕此彼より参集て、御伴の人数九千余人、在々所々に充満たり。是に留主所(るすしよ)より神輿を留め奉らんために、在庁の中に糾の二郎大夫為俊、安二郎大夫
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忠俊二人、所従眷属五十余人相具して追ける程に、野代山にて馳附たりけるが、坂中にて馬を倒て、足を折、目くれ腰直などしければ、これ直事ならずとて、八丈二尺御幣衣に進て、跋行留主所(るすしよ)へ帰にけり。見(レ)之大衆も神人も、冥慮憑く思ければ、各勇て進上、十三日には木田河の耳、十四日には小林の宮、十五日にはかへるの堂、十六日には水津の浦、十七日には敦賀の津、北の端、金が崎の観音堂へ奉(レ)入。路次の煩衆徒の憤、山上洛中不(レ)斜。当時の貫首明雲僧正と申すは、(有朋上P111)久我太政(だいじやう)大臣(だいじん)雅実の御嫡子、六条源大納言顕通の御子也。白山の神輿登山の事、可(レ)奉(二)禦留(一)之由、院宣を被(レ)下之間、貫首の御沙汰として、門跡の大衆二十人に被(二)下知(一)之間、衆徒、院宣並寺牒を帯して、本寺の専当千仁金力等を先として、同十九日敦賀津に下て、寺牒を披露し、奉(レ)留(二)神輿(一)。其状云、
延暦寺政所下、 加賀馬場先達神人等
可(下)早止(二)上洛儀(一)待(中)御裁下(上)事
右近日住僧神官等、捧(二)神輿(一)企(二)上道(一)之旨、在(二)其聞(一)、甚以不(レ)可(レ)然、相(二)当仙洞熊野参詣之折節(一)、訴訟(そしよう)奏聞無(レ)便、就(レ)中(なかんづく)件訴、貫首度々雖(レ)有(二)沙汰(一)、其後成敗自然遅引、重可(レ)有(二)御沙汰(一)也、而此間無(二)左右(一)企(二)上洛(一)者、雖(レ)有(二)狼戻勘発(一)、更無(二)訴訟(そしよう)裁判(一)歟、忽任(二)自由(一)者、定及(二)後悔(一)歟、云先達云、神人閑廻(二)随分之思案(一)、可(レ)存(二)向後之安堵(一)宜(二)承知(一)、止(二)参洛(一)之状以下。
安元三年二月日 小寺主法師琳海
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都維那大法師
寺主大法師(有朋上P112)
上座大法師
修理別当法眼和尚位
とぞ書たりける。中宮の衆徒僉議(せんぎ)して云、且は本山の大衆、上下三百余人下向あり、且は制止の寺牒到来せり、先捧(二)返牒(一)、且く可(レ)待(二)裁許(一)とて注状云、
請謹延暦寺御寺牒まらうといやまと
被(二)載下(一)可(レ)止(二)白山神輿上洛(一)事
右当山権現者、掛忝天神元初之、国常立尊之、為(レ)守(二)実祚(一)、垂(二)迹于我朝(一)、為(レ)弘(二)仏法(一)、濫(二)觴于此砌(一)也、依(レ)之代々聖主、帰(二)妙理大菩薩之効験(一)、世々臣公仰(二)神融小禅師之徳行(一)、爰為(二)目代(もくだい)師経(もろつね)(一)、焼(二)払涌泉一寺(一)、没(二)倒寺社料所(一)之間、以去年十月之比、欲(レ)企(二)推参(一)蒙(二)裁許(一)之処、被(レ)下(二)宣命並御下文(一)云、冥侍(二)聖断(一)仰(二)上載於鬱訴(一)、相賂者可(レ)言(二)上子細(一)云々、仍以同十一月、雖(三)差専使(レ)致(二)訴詔(一)、于(レ)今無(二)御裁報(一)、而空送(二)年月(一)畢、倩案(二)事情(一)、白山妙理権現者、雖(レ)有(二)敷地(一)、併山門三千之聖供也、雖(レ)有(二)兎田(一)、又当(レ)任(二)没倒(一)、非(二)神物(一)、故只有(レ)名更無(レ)実、是以恒例之神事仏事、此時既断絶、以往之八講、三十講、今正及(二)闕退(一)、随而近来無(レ)有(二)参詣(一)、再拝之輩、不(レ)見(二)帰敬奉幣之頴(一)、大悲
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和光(わくわう)之素意難(有朋上P113)(レ)測、三所垂迹之玄応失(レ)憲歟、云(二)寺僧(一)云(二)氏人(一)、歎(二)冥威之陵怠(一)、非(二)権迹之衰微(一)、而奉(レ)戴(二)神輿(一)、所(レ)企(二)推参(一)也、痛哉神明閉(レ)扉、不(レ)見(二)星宿之光(一)、哀哉往侶迷(レ)道、永忘(二)後栄之思(一)、五尺之洪鐘、徒侍(二)響於松栢之風(一)、六時之行法、空任(二)声於紫蘭之嵐(一)矣、但慮(二)神明之冥覧(一)、定不(レ)可(レ)失(レ)徳、人倫之迷情争可(レ)知(二)霊応(れいおう)(一)、早示(二)現将来之吉凶(一)、託(二)宣当時之眉目(一)給江登社僧、一心合(レ)掌、神女三業、低(レ)頭而致(二)祈誓(一)之処、人恨融(二)于神(一)、神嗔通(二)于人(一)、依(レ)有(二)夢想之告託宣之聞(一)、憑(二)神託(一)驚(二)示現(一)、暫不(レ)顧(二)本寺之厳制(一)、既奉(レ)動(二)末社之神輿(一)畢、雖(レ)然任(二)御寺牒之趣(一)、奉(レ)相(二)待裁報之左右(一)所、抑留(二)神明之上洛(一)也、仍返牒言上如(レ)件、
安元三年二月廿日 中宮衆徒等請文
とぞ書上たる。此上は山門の衆徒登山しぬ、其後神明の旅宿、訴詔(そしよう)の遅怠、心元なしとて、中宮の大衆の中に、智積、覚明、仏光等の骨張の輩六人、同二十八日に坂本につき、同二十九日に登山して、西塔院谷、千光院の助公貞寛がもとを宿房として、子細を訴申間、貞寛満山三塔に披露しければ、大衆度々蜂起して衆議する処に、三月九日被(レ)下(二)院宣(一)云。(有朋上P114)
加賀国温河焼失事
右非(二)白山々門之末寺(一)之由、在庁雖(レ)令(レ)申、大衆強訴申由、依(二)令(レ)申給(一)、目代(もくだい)師経(もろつね)可(レ)被(レ)行(二)罪科(一)。抑依(二)大衆之語(一)号(二)末寺(一)、致(二)無道濫訴(一)、恣動(二)神輿(一)、欲(レ)企(二)参洛(一)、悪僧張本二人、南陽房明恵聖道房坐蓮 慥令(レ)召
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進(一)、可(レ)被(レ)尋(二)問子細(一)者也、依(二)御気色(一)上啓如(レ)件。
三月九日 右京大夫泰経
謹上、山座主僧正御房とぞ有ける。寺官依(二)貫首の御下知(一)、一山三院に披露しけれ共、是を用ず、則其夜大講堂の庭に三塔会合して僉議(せんぎ)して云、上之為(レ)上依(二)下之崇敬、下之為(レ)下守(二)上之威応(一)、千里駒非(二)毎不(一)(レ)行、揚(二)宝雀(一)離(レ)母不(レ)飛云事あり。然者(しかれば)末寺の訴詔(そしよう)不(レ)可(レ)疎、末寺の僧侶不(レ)可(レ)苟、末寺として既に本山を憑、本山争末寺を棄ん。就(レ)中(なかんづく)神輿旅宿に御座、空本社に還御あらば、白山面目を失、神慮尤難(レ)測、早本末力を一にして、神輿を迎え奉り、仏神威を垂給はば、豈無(二)裁許(一)哉と云ければ、尤々(もつとももつとも)と同じけり。仏光以下の輩悦て、十一日に山を立て、十二日に敦賀津に著。僉議(せんぎ)の趣披露しければ、白山の衆徒等勇悦で、十三日に神輿を奉(レ)出、荒智の中山立越て、海津の浦に著給ふ。是より御舟に召て海上に浮給へり。或は浜路を歩大衆もあり、或は波路を分る神人もあり。比
(有朋上P115)叡辻の神主が夢に見たりけるは、戸津比叡辻の浦に、いみじく飾尋常なる船七艘有、日中なるに篝を燃す。舟ごとに狩衣に玉襷あげたる者の、北へ向て舟を漕。いかなる人の御物詣ぞと問ば、白山権現の神輿の御上洛之間、御迎にとて山王の出させ給御舟也と申。角云者の姿をみれば、身は人、面は猿にてぞ有ける。打驚たれば汗身にあまれり。不思議やと思立出て、四方を見渡せば、此山より黒雲一叢引渡、雷電ひゞきて氷の雨ふり、能美の山の峰つゞき、塩津、海津、伊吹の山、比良の裾野、和爾、片田、比叡山、
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唐崎、志賀、三井寺に至(いたる)まで、皆白平に雪ぞ降。十四日の子時には、客人の宮の拝殿へ奉(レ)入。客人の神明は、金の扉を押開、早松の明神は、錦の帳を巻揚て、御訴詔(ごそしよう)の有様(ありさま)御物語(おんものがたり)もや有らんと身の毛竪てぞ覚ける。三千の衆徒踵を継、礼拝袖をぞ列ける。係ければ、山門大衆奏状を捧て、国司師高(もろたか)を被(二)流罪(一)。目代(もくだい)師経(もろつね)を可(レ)被(二)禁獄(一)之由度々奏聞に及けれ共、更に御裁許なかりけり、太政(だいじやう)大臣(だいじん)已下さも可(レ)然公卿殿上人、哀とく御裁許有べき物を、山門の訴詔(そしよう)は昔より也に異也、大蔵卿為房、太宰師李仲卿は、朝家の重臣也しか共、大衆の訴詔(そしよう)に依、被(二)流罪(一)き。況師高(もろたか)、師経等(もろつねら)が事は、物の数にや有べき。子細に及ぬ事也と、内々は私語申けれ共、言に顕て奏聞の人なし。理や大臣重(レ)禄不(レ)諌、小臣(有朋上P116)畏(レ)罪不(レ)言、下の情不(レ)通(レ)上、此患之大也と云事あり。去ば各口をぞ閉たりける。後朱雀院御宇、長暦年中に、宇治関白(くわんばく)頼通公の吹挙に依、三井の明尊僧正、天台座主に被(レ)補之時、山門の衆徒関白殿(くわんばくどの)に訴申刻、衆徒と軍兵と忽に動乱及けり。此事の張本と号して、頼寿、良円両僧都(そうづ)罪名を被(レ)勘ける程に、主上御悩の事あり。様々御祈有けるに、山王託宣して云、吾は是悪霊に非、死霊に非、根本(こんぼん)叡山の主也、内一乗の教法を味て寿とし、外に三千の僧侶を養て子とする神也。去し春、山僧等不慮の殃にあへり、此事訴申さん為に、玉体に奉(二)近付(一)也とありければ、即頼寿良円が罪名を被(レ)宥つゝ、様々の御をこたり申させ給けり。白川院は賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕心に随ぬ者と、常は仰の有けるとぞ申伝たる。
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鳥羽院御時、平泉寺を以、園城寺へ被(レ)付由、其聞え有しに、山門の衆徒騒動して、奏状を捧て訴申、非拠之乱訴也けれ共、院宣には帰依不(レ)浅、遂に以(レ)非為(レ)理所(レ)被(二)裁許(一)也とぞ被(二)仰下(一)ける。堀川院御宇、寛治四年に大蔵卿為房を哀みさゝへさせ給けるに、江中納言匡房被(レ)申けるは、三千の衆徒、七社の神輿を陣頭に奉(レ)振訴申さん時、君はいかゞ可(レ)有(二)御計(一)と奏申ければ、実に難(二)黙止(一)事也とぞ仰ける。同帝御宇、嘉保二年に伊予入道源頼義が子に、美濃守義綱朝臣、当国の新立の庄(有朋上P117)を倒しける故に、事出来て山門の久往者円応被(二)殺害(一)けり。此事訴申さん為に、同十月廿四日、山門衆徒社司寺官等を以捧(二)解状(一)、卅余人下洛之由風聞あり。武士を川原へ被(二)差向(一)て禦けれ共、押破て陣頭へ参。中宮大夫師忠が申状に依、時の関白(くわんばく)師道後二条殿、中務丞頼治と云侍を召て、只法に任て可(レ)禦也と仰含られければ、頼治承て興有事に思散々(さんざん)に禦。疵を蒙る神民六人、死する者二人、禰宜友実が背に矢立ける上は、社司も寺官も四方に逃失にけり。神慮誠難(レ)測ぞ覚ける。猶子細を為(二)奏聞(一)とて、一山僧綱等(そうがうら)下洛しけれ共、武士を西坂本へ差遣被(レ)禦しかば、空く帰登。同廿五日に大衆大講堂の庭に会合僉議(せんぎ)して云、我山は是日本無双の霊地、国家守護の道場也、而子細奏聞の使をば被(レ)追返(一)、寺官社司は被(二)射殺(一)ぬ、此上は当山に跡を止て何にかせん、中堂(ちゆうだう)講堂已下諸堂、大宮二宮以下の諸社灰燼と成て、各有縁の方へ赴べしとて、三千の枢を閉修学の窓を塞離山しけるが、最後の名残(なごり)を
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惜み、三山の参詣を遂、伽藍の御前に跪きては、叡慮の恨しき事を申、横川の御■(ごべう)に参ては、離山袖をぞ絞ける。角て三千の衆徒東坂本に下七社の宝前にして、真読の大般若あり。社々にて申上有ける内、八王子(はちわうじ)の御前にて、仲胤法印いまだ供奉にて御座けるが、啓白の導師として高座に上り説法して、教化の詞に云、菜種(有朋上P118)の竹馬の昔より、生立たる友実と知ながら、蒸物に合て腰絡し給殿に鏑矢一放給へ、大八王子権現(だいはちわうじごんげん)とぞ申ける。其上禰宜友実を八王子(はちわうじ)の拝殿に舁入て、社官神女等手を拍声を挙て、関白殿(くわんばくどの)を呪咀しけるこそ、聞も身の毛竪けれ。山王慥聞食入させ給けるにや八王子(はちわうじ)の御神殿より、鏑箭鳴出て、王城を指て鳴行とぞ、諸人の耳に聞えける。係りければ大衆は神明も力を合給にこそとて、離山を止て七社の神輿を荘奉て、根本中堂(こんぼんちゆうだう)振上奉り、関白殿(くわんばくどの)を咒咀しけるこそ恐ろしけれ。神輿の御動座是ぞ始也ける。権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)匡房は、和漢の才幹世にゆるされ、廉直の政理に私なき人也。此事大に歎申給へり。師忠悪様執申さずは、関白(くわんばく)御憤(おんいきどほり)あらんや、関白(くわんばく)頼治に下知し給はずば、神明御恥に及給ふべしや、讒臣(ざんしん)乱(レ)国といへり。為(レ)世為(レ)人に哀亡国の基かなとぞ宣ける。去程に関白殿(くわんばくどの)御夢御覧じけるこそ恐ろしけれ。比叡大岳頽割て、御身に係ると覚え、打驚給て浅増と思召(おぼしめす)処に、又うつゝに東坂本の方より鏑矢の鳴り来つて、御殿の上に慥に立とぞ被(二)聞召(一)ける。即青侍を以て、被(レ)見ければ、寝殿の狐戸に、しでの付たる青榊一本、立たりけるこそ不思議なれ。関白殿(くわんばくどの)は夢も現も山王の御祟、恐ろしく被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける程に、御髪際に悪瘡出来させ給へりと披露あり。牛馬巷に馳違、輿車門前に多し。(有朋上P119)
S0404 殿下御母立願事
父の大殿、御母儀(おぼぎ)、北政所(きたのまんどころ)の御歎不(レ)斜、かた/゛\御祈始らる。一■(いつちやく)手半(しゆはん)の薬師(やくし)
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如来(によらいの)像、延命菩薩像各一体、又等身薬師(やくし)一体、造立供養あり。日吉社にして、千僧供養あり。又同社壇にて、十箇日の千座千僧の仁王講被(レ)行、又一切経並金泥の法華経書写供養あり。澄禅法印を以て被(二)啓白(一)。又根本中堂(こんぼんちゆうだう)にして、薬師経(やくしきやう)転読あり。其外諸寺諸社にして、貴僧高僧に仰て様々御祈有ける上に、■(くわう)■(りう)■(りよく)■(し)の類、金銀幣帛の賁り、神社仏寺に被(二)送進(一)けれ共、御心地いよ/\重くならせ給ければ、又丈六の薬師(やくし)七■(く)、阿弥陀如来(あみだによらい)一体造立あり。除病延命の御祈は、御志を尽し御座けれ共、更に御験なし。父京極の大殿、憑なき御有様(おんありさま)を御覧じて、二紙の願書をあそばして、日吉社にて可(レ)被(二)啓白(一)之由仰て、天台座主へ被(二)送進(一)。其願書に云、日吉社にて臨時の祭を居、百番の御子の渡物、百番の一物、百番の流鏑馬、百番の競馬、百番の相撲、廊の御神楽、三千人の衆徒に、毎年の冬衣食の二事十箇年連いて可(レ)送と也。され共いよ/\重らせ給ければ、御母儀(おぼぎ)北政所(きたのまんどころ)忍て御参社有て、七箇日御参篭あり、三の御願(ごぐわん)を立給へり。是をば人知ざり(有朋上P120)けり。出羽の羽黒より上たる身吉と云童御子の篭たりけるが、十禅師(じふぜんじ)の御前にて、俄に狂出て舞乙でけるが、暫有て死入けり。何者ぞ門外へ舁出せと云けるに、事の様を見よとて、大庭に舁居て守(レ)之。やゝ在て走出で舞乙、人奇特の思を成処に、汗押拭申けるは、衆生等慥にきけ、我には十禅師権現(じふぜんじごんげん)乗居させ給へり。我御前には摂禄の御母儀(おぼぎ)、大殿の北政所(きたのまんどころ)、七箇日御参篭有て、心中に三の御願(ごぐわん)あり、摂禄山王の御とがめとて、親に先立て世を早し給はんとす。今度の命を助させ給候はば、一には八王子(はちわうじ)の御前より二宮楼門まで、渡廊
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造連て可(レ)進。大衆参社之時、雨露之難を除かんため也。二には五人の姫君に御前にて、芝田楽躍せて、可(レ)奉(レ)見と也。此事こそ哀に思食(おぼしめ)せ、女御后にもといつきかしつき、玉簾錦茵に労奉て、あたにも出入給はぬ姫君達を、一人の子の悲さは、角思召(おぼしめす)こそ糸惜けれ。三には自都の住居を捨て、御輿の下殿に候ふ。宮篭に相交て、唐崎より白砂を千日運て進せんと也。太政(だいじやう)大臣(だいじん)家の北政所(きたのまんどころ)として、此態已に命を捨給程の御事也。此三の御願(ごぐわん)は、七社権現の外に人不(レ)知(レ)之、真に争知べき。親子の眤恩愛の情こそ神慮も悲思食とて、左右の袖を顔に当て、はら/\とこそ泣たりけれ。暫有て、母の子を思ふ志、助ばやと思召(おぼしめせ)ども、世に安かりし訴詔(そしよう)を大事に成、所司(有朋上P121)社司射殺され、山上山下叫声、我身の上の歎也。禰宜友実が頼治に被(レ)射たりし疵は、我身に立たる也、血出して見せんとて、肩を脱たりければ、背の中に疵あり。疵の中より血の出事夥し。此上はいかに祈申させ給共、助奉らんとはえ申さじとて、如(レ)元舞乙づ。参詣の道俗男女御子宮司、身の毛竪てぞ覚ける。北政所(きたのまんどころ)も忍て御身をやつし、宮篭の中に御坐けるが、つく/゛\聞(二)食之(一)悶絶して、地に倒もだえ■(こがれ)給けり。何習はせ給たる御事にあらね共、責の御子の悲さに、徒跣にて御足の欠損ずるをも顧させ給はず、御参有けるに、角聞召けん御心中、被(二)推量(一)哀也。心地観経に、悲母恩深如大海と説給へるも、今こそ被(二)思知(一)けれ。北政所(きたのまんどころ)は泣々又御心中に、一の願を立させ給けり。良久有て彼童神子申けるは、既に上らせ給はんとしつるに、北政所(きたのまんどころ)重て御心の底に、一の願を発給へり。長命までこそ叶はず共、半年一年也共、今度
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の命を助給へ、八王子(はちわうじ)の御前にて毎日法花講行て、法楽に備へんと也。此間様々の御願(ごぐわん)有といへ共、一乗の法味は飽思召(おぼしめす)事なし、聞ども/\弥めづら也。何の願よりも目出ければ、三年の命を奉る、其後は我を恨と思召(おぼしめす)な、必死決定とて権現上せ給にけり。北政所(きたのまんどころ)御所に帰入せ給て、此御物語(おんものがたり)有ければ、上下万人身の毛立てぞ覚ける。御託宣聊もたがはせ給はず、御腫物(有朋上P122)いへさせ給て、御心地本復せさせ給ければ、紀伊国田中庄は、殿下渡庄也けれ共、八王子(はちわうじ)に御寄附あり。依(レ)之問答講とて今に退転なし。其後中二年有て、承徳二年六月廿一日に、関白殿(くわんばくどの)本の御髪際に又悪瘡出きさせ給へり。兼て御託宣有しかば、今は一筋に後世の御営有けるが、同廿八日に、大殿に先立給て薨じ給ふ、御年三十八、未盛の御事也。京極の前大相国師実公の長男、御母は右大臣師房御娘也。才幹抜粋にして、容貌端正に御座し上、時の関白(くわんばく)に御座しかば、百官袂を絞り、万庶悲を含り。まして父の大殿、北政所(きたのまんどころ)の御心中、たゞ推量べし。此御病は御髪際に出て、悪瘡にて大に腫させ給へり。御看病に伺候したる輩、立烏帽子(たてえぼし)を著て前後に侍けるが、互に見ぬ程に大に高腫させ給たれば、入棺可(レ)奉(二)葬送(一)御有様(おんありさま)にも非。父の大殿是を守御覧じて、御涙に咽ばせ給ながら、御行水召れて、春日大明神(かすがだいみやうじん)を伏拝せ給て、子息師通山王の御咎とて世を早し候ぬ。いかに春日明神(かすがみやうじん)は、思食(おぼしめし)捨させ給けるやらん。但定業限あらん命、今は力及侍らず、かゝる浅間敷有様(ありさま)にて、恥隠べき様なし、此後の氏人々々たるべきならば、此姿を本の形に成給へ、最後の孝養仕んと、泣々(なくなく)口説給けるこそ哀なれ。御納受有けるにや、忽に御腫の
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しへさせ給て、入棺事畢にけり。関白殿(くわんばくどの)のさこそ御心も猛、理つ(有朋上P123)よくゆゝしき人にて御座しか共、事の急に成けるには、御命を惜給けり、誠に惜べき御齢也。未四十にだにも成せ給はず、何事も先世の事と申ながら、親に先立せ給ふ御怨も哀也し御事也。されば昔も今も山門の訴詔(そしよう)は恐しき事也、大衆憤をなし、山王の衆徒を育御坐事難(レ)黙止と申伝たり。中宮大夫師忠、奸邪の詞を出さずは、かゝる大事にや及べき。江中納言匡房卿の大に被(二)歎申(一)けるも、思知るゝとぞ申あへりける。
関白殿(くわんばくどの)薨去の後、八王子(はちわうじ)と三宮との神殿の間、磐石あり。彼石の下に、雨の降夜は、常に人の愁吟する声聞えけり。参詣の貴賎あやしみ思けり。余多人の夢に見けるは、束帯したる気高上臈の仰には、我はこれ前関白(くわんばく)従一位(じゆいちゐ)内大臣(ないだいじん)師通也。八王子権現(はちわうじごんげん)我魂を此岩の下に籠置せ給へり。さらぬだに悲、雨の降夜は石をとりて責押に依て、其苦み難(レ)堪也とて、石の中に御座とぞ示給たりける。星霜やう/\経程に、今は愁吟の音絶にけり。人の夢に、我久磐石の下に被(二)籠置(一)たりつれ共、長日の法華講経の功力に依、相助り、都卒天宮に生たりと告られけり。さてこそ磐石の重き苦の御音もなかりけれ。悪様に申勧まいらせたりける中宮大夫師忠も、幾程なくして失にけり。禰宜友実を射たりける中務丞頼治自害して、一類も皆亡けり。神明罰(二)愚人(一)とは此事にや、申すも中々疎也。(有朋上P124)
今年改元有て治承元年といふ。
S0405 山門御輿振事
治承元年四月十三日辰刻に、山門大衆日吉七社の神輿を奉(レ)荘、根本中堂(こんぼんちゆうだう)へ振上奉、先八王子(はちわうじ)、客人権現、
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十禅師(じふぜんじ)、三社の神輿下洛有。白山、早松の神輿、同振下奉、大岳水呑不動堂、西坂本、下松、伐堤、梅忠、法城寺に成ければ、祗園三社、北野京極寺末社なれば、賀茂川原待受て、力合て振たりけり。東北院の辺より神人宮仕多来副て、手を扣音調て、をめき叫、貴賎上下走集て之拝し奉る。法施の声々響(レ)天、財施の散米地を埋たり。一条を西へぞ入せ給ける。まだ朝の事なれば、神宝日に輝て、日月地に落給へるかと覚たり。源平の軍兵依(二)勅命(一)四方の陣を警固す。神輿堀川猪熊を過させ給て、北の陣より達智門を志てぞふり寄たてまつる。
源兵庫頭頼政は、赤地錦直垂に、品皮威の鎧著て、五枚甲に滋藤の弓、廿四指たる大中黒の箭負て、宿赭白毛馬に白伏輪の鞍置て乗、三十余騎にて固たり。神輿既に門前近入せ給ければ、頼政急下馬す。甲を脱弓を平め、左右の臂(ひぢ)を地に突。頭を傾け奉(レ)拝。大将軍(有朋上P125)角しける上は、家子も郎等も各下馬して拝けり。大衆見(レ)之子細有らんとして、暫神輿をゆらへたり。頼政は丁七唱と云者を招で、子細を含て大衆の中へ使者に立。唱は小桜を黄に返たる鎧に、甲を脇に挟み弓を平め、神輿近参寄、敬屈して云、是は渡部党、箕田源氏綱が末葉に、丁七唱と申者にて侍。大衆の御中へ可(レ)申とて、源兵庫頭殿の御使に参て侍。加賀守師高(もろたか)狼藉の事に依、聖断遅々之間、山王神輿陣頭に入せ給べき由、其聞有て公家殊に騒驚き思召(おぼしめし)、門々を可(二)守護(一)之旨、勅定を蒙て、源平の官兵四方の陣を固る内、達智門を警固仕、昔は源平勝劣なかりき。今は源氏においては無(レ)力如し。頼政纔に其末に残て、
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たま/\綸言を蒙、勅命背き難ければ此門を固むる計也。然共年来医王山に首を傾奉て、子孫の神恩を奉(レ)仰、今更神輿に向奉て、弓を引可(レ)放(レ)矢ならねば、門を開て下馬仕引退て神輿を可(レ)奉(レ)入、其上纔の小勢也、衆徒を禦奉るに及ず、此上は大衆の御計たるべし。但三千の衆徒神輿を先立奉り、頼政■弱(わうじやく)の勢にて固て候門を、推破奉(レ)入ては、衆徒御高名候まじ、京童部が弱目の水とか笑申さん事をば、争か可(レ)無(二)御憚(一)。東面の北脇陽明門をば、小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)重盛公(しげもりこう)、三万余騎にて固らる。其より入せ御座べくや候らん。さらば神威の程も顕れ、御訴詔(ごそしよう)も成就し、衆徒後代の御高名(有朋上P126)にても候はんずれ。角申を押て入せ給はば、頼政今日より弓箭を捨て、命をば君に奉、骸を山王の御前にて曝べしと申せと候とて、太刀のつか砕よと握らへて立たり。大衆聞(レ)之、若衆徒は何条是非にや及べき、唯押破て陣頭へ奉(レ)入と云けるを、物に心得たる大衆老僧は、さればこそ子細有らんと思つるにとて、奉(レ)抑(二)神輿(一)暫僉議(せんぎ)しけり。
S0406 豪雲僉議(せんぎの)事
其中に西塔の法師に、摂津竪者豪雲と云者あり、悪僧にして学匠也。詩歌に達して口利也けるが、大音挙て僉議(せんぎ)しけるは、大内の四方門々端多し、強に北陣より非(レ)可(レ)奉(レ)入。就(レ)中(なかんづく)彼頼政は、六孫王より以来、弓箭の芸に携て、代々不覚の名をとらず、是は其家なれば、いかゞせん、和漢の才人風月の達者、かた/゛\優の仁にて有なる者を、
S0407 頼雅歌事
実や一とせ近衛院御位の時、当座の御会に、深山見(レ)花と云ふ題給りて、
深山木の其梢共みえざりし桜は花にあらはれにけり K026(有朋上P127)
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と秀歌仕たりけるやさ男、さる情深き名仁ぞや。首を山王に傾て、年久掌を衆徒に合て降を乞、嗷々無(レ)情門々端多し、頼政が申状に随はるべき歟哉と■(ののしり)ければ、大衆尤々(もつとももつとも)と同じて三社の神輿を舁返し、東面の北の端、陽明門をぞ破ける。此門をば重盛(しげもり)の軍兵ぞ固たりける。警固の武士は神輿入たてまつらじと支たり。大衆神人は陣頭を押破らんとしける程に、以外に狼藉出来て、官兵矢を放。其矢十禅師(じふぜんじ)の御輿に立。神人一人宮仕一人射殺さる。蒙(レ)疵者も多かりけり。神輿に矢立神民殺害の上は、衆徒音を揚てをめき叫事夥し。見聞の貴賎も身毛立ばかり也。大衆は神輿を陣頭に奉(二)振捨(一)、なくなく本山に帰のぼりぬ。
抑豪雲と云は、二品中務親王具平七代の孫、民部大輔憲政が子也けり。訴詔(そしよう)の事有て、後白川法皇の御所に参す。折節法皇南殿に出御有て、御座いかなる僧ぞと御尋あり。山僧摂津竪者豪雲と申者にて侍と奏したり。法皇被(二)仰下(一)けるは、実や和僧は山門僉議者(せんぎしや)と聞召、己が山門の講堂の庭にて僉議(せんぎ)するならん様に只今申せ、訴詔(そしよう)あらば直に可(レ)被(二)裁許(一)と、豪雲蒙(二)勅定(一)、頭を地に傾畏て奏しけるは、山門の僉議(せんぎ)と申事は、異なる様に侍、歌詠ずる音にもあらず、経論を説音にも非、又指向言談する体をもはなれたり、(有朋上P128)先王の舞を舞なるには、面摸の下にて鼻をにかむる事に侍る也。三塔の僉議(せんぎ)と申事は、大講堂の庭に三千人の衆徒会合して、破たる袈裟にて頭を裹、入堂杖とて三尺許なる杖を面々に突、道芝の露打払、小石一づつ持、其石に尻懸居並るに、弟子にも同宿にも、聞しられぬ様にもてなし、鼻を押へ声を替て、満山の大衆立廻られよやと申て、訴詔(そしよう)の趣を僉議(せんぎ)仕に、可(レ)然をば尤々(もつとももつとも)と同ず、不(レ)可(レ)然をば此条無(レ)謂と申、仮令勅定なればとて、ひた頭直面にては争か僉議(せんぎ)仕べきと申上れば、法皇先与に入せ給、早々罷帰て山門
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にて僉議(せんぎ)するらん様に出立て、急参て僉議(せんぎ)仕れと被(二)仰下(一)。豪雲宿坊に帰て、同宿共には袈裟にて裹(レ)頭、童部には直垂の袖にて頭裹せて、三十余人引具して、御前の雨打の石に尻係て並居たり。豪雲己が鼻を押へて、大衆立廻られよやと云て、我訴訟(そしよう)の趣を、事の始より終まで一時が程こそ申たれ。同宿共兼て存知の事なれば、尤々(もつとももつとも)と訴詔(そしよう)其謂あり、道理顕然也、早可(レ)被(レ)経(二)奏聞(一)、聖代明時之政化、争か無(二)御裁許(一)哉と申たりければ、法皇御興有て、則被(二)仰付(一)たりけるとかや。係者也ければ、さしもの乱の折節に、僉議(せんぎ)して頼政難を遁たり。
蔵人左少弁(させうべん)兼光仰を承て、先例を大外記師尚に被(レ)尋ける上、院の殿上にて、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。保安の例とて、神輿を祗園社へ可(レ)奉(レ)渡之由、諸(有朋上P129)卿各被(レ)申ければ、未刻に及で、彼社の別当権大僧都(ごんのだいそうづ)澄憲を召て、神輿を可(レ)奉(二)迎入(一)由仰含けり。澄憲畏つて奏申、我山は是日本無双之霊地、鎮護国家之道場也、我神は又和光垂跡(わくわうすいしやく)之根元、効験掲焉之明神也、日吉の神威、異(二)于他(一)、山門の効験勝(二)于世(一)、恵亮脳を摧て、清和位に即給、尊意剣を振て、将門終に亡にき、神は又あくまで一乗の法味をなめて、感応風雲よりも速に、独百神の化導に秀、賞罰日月よりも明なり。
住吉明神託宣云、天慶年中に凶賊を誅する陣には、我大将軍にして、山王副将軍たり。康平年中の官軍には、山王大将軍として、我副将軍たりきと、依(レ)之代々の聖主、一山験徳を憑、世々の臣公七社の冥鑒を仰。神の神たるは、人の礼に依て也。人の人たるは神の加護に任たり。而を今度朝儀遅々の間、神輿入洛に及、尤恐思召(おぼしめす)べき事也、伝聞延喜帝の御宇に、飢饉疫癘起て、天下に餓死する者
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多し。帝民の亡るを歎思食(おぼしめし)て、我山に仰付て可(二)祈止(一)之由勅定あり、三塔会合して、僉議(せんぎ)区也。雨を祈雨を降し、日を祈て日を輝す事、非(レ)無(二)先例(一)。而に普天の飢饉四海の疫癘、いかゞ有べきと云大衆あり。或云辞申せば勅命を背に似たり、領掌すれば先蹤なしといへ共、皇王を守護し、夷狄を降伏し、天災を除地夭を転ずる事、我山万山に勝たり。況閻浮提人病之良薬、若人有病得聞是経、(有朋上P130)病即消滅不老不死と説り。一乗法花を転読して、七社権現に祈誓せば、何どか勝利なからんやと云大衆あり。或云、七難を滅して七福を生じ、不祥を退、夭蘖を払はんが為に、仏護国の法を説給へり。然者(しかれば)仁王経を転読講尺此時に当れりと云ければ、此義最然べしとて、三千衆徒一七箇日、山上三塔の諸堂にして、一万部の仁王般若を転読して、供養を山王の宝前にて遂けり、飢饉に責られ疫癘に浸れて、親に後る子、恩徳の高き涙を流し、子を先立る親、哀愍(あいみん)の深き袖を絞る。兄弟夫婦互に別亡ければ、京中も田舎も、皆触穢にて社参の者なし。折節四月上旬にて、導師説法の終に、卯月は神の月なれども、再拝と云人もなく、八日は薬師(やくし)の日なれども、南無と唱る声もせず、緋の玉垣地に倒、青葉の榊も不(レ)差けりとしたりければ、三千の衆徒一同に墨染の袖をぞ絞ける。神明御納受有ければ、則夜に帝の御夢想に、比叡山より天童二人下て、左手に瑠璃の壺を持、右の手に榊の枝を持て、榊を壺の水に指入て、京中辺土の病者に灑ければ、家々より青鬼赤鬼いくらと云数を知ず出て、さると叡覧あり。打驚御座て、朕が歎衆徒の祈、仏神に感応して、無為の代に成ぬるにこそと御感有て、説法の草案を被(レ)召、
P0095
御衣の袖をぞ絞らせ給ける。いつしか民の煙もにぎはひ、烟絶せぬ御代に改たりければ、古歌を思食(おぼしめし)(有朋上P131)出て、
高きやに上てみれば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり K027
と、かゝる目出き我山也。係目出き垂跡(すいしやく)也。下洛実不(レ)輙、衆徒の憤冥慮に通する時、神輿必入洛あり、急可(レ)有(二)裁許(一)哉。
S0408 山王垂跡(すいしやくの)事
凡山王権現と申は、磯城島金■宮、即位元年、大和国城上郡大三輪神と天降給しが、大津宮即位元年に、俗形老翁の体にて、大比叡大明神(だいみやうじん)と顕給へり。大乗院の座主慶命、山王の本地を被(二)祈申(一)けるに、御託宣に云、此にして無量歳仏果を期し、是にして無量歳群生を利すと仰ければ、座主提婆品の我見釈迦如来(しやかによらい)於無量劫、難行苦行積功累徳、求菩薩道未曾止息、観三千大千世界、乃至無有如芥子許非是菩提捨身命処と云文に思合て、大宮権現ははや釈尊の示現也けり。されば我滅度後於末法中、現大明神(だいみやうじん)広度衆生とも仰られ、汝勿帝泣於閻浮提、或復還生現大明神(だいみやうじん)とも慰給けるは、日本叡岳の麓に、日吉の大明神(だいみやうじん)と垂跡(すいしやく)し給べき事を説給けるにこそと、感涙をぞ流されける。地主権現と(有朋上P132)申は、豹留尊仏の時、天竺の南海に、一切衆生、悉有仏性と唱る波立て、東北方へ引けるに、彼波に乗て留らん所に落付んと思食(おぼしめし)けるに、遥(はるか)に百千万里の波路を凌て、小比叡の杉下に留らせ給けり、其後天照大神(てんせうだいじん)天の岩戸を開、天御鋒を以て海中を捜せ給しに、鋒に当人あり。誰人ぞと尋給ければ、我は是日本国の地主也とぞ答給ける、昔天地開闢の初の、国常立の尊の天降給へる也。此神日吉に顕給けるには、三津川の水五色の浪を流しけり。されば我朝は、大比叡小比叡とて大宮二宮の御国也。迹を叡山の麓に垂て、威を一朝の間に振、円宗守護之霊神、王城鎮護之霊社也。依(レ)之代々の
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帰敬是深、世々の崇信不(レ)浅、四海之甲乙掌を合、諸国之男女歩を運べり。
係目出き神輿を塵灰に蹴立て、白昼に雑人共に交奉り入奉らん事、其恐侍るべしと奏申たりければ、上一人より奉(レ)始、当参の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、随喜の涙を流して、偈仰の袖を絞けり。仍及(二)晩陰(一)祇園社へ奉(レ)入、神輿に立所の矢をば、神人を以て抜せられけり。
山門の大衆訴詔(そしよう)を致す時、聖断遅々の間、神輿を下し奉事、度々に及べり。
鳥羽院御宇嘉承三年三月三十日、尊勝寺灌頂(くわんぢやう)の事に依、二社八王子(はちわうじ)客人神輿、下松まで下給へり。可(レ)有(二)(レ)裁許(一)之由、即時に被(二)仰下(一)ければ、其夜御帰座、四月一日彼寺灌頂(くわんぢやう)(有朋上P133)被(レ)付(二)天台(一)両門之旨、被(二)仰下(一)畢。
崇徳院御宇、保安四年七月十八日、忠盛朝臣、神人殺害事に依、三聖並、三宮奉(レ)下(二)神輿(一)。官軍川原に馳向禦間、神人等神輿を奉(レ)捨分散す。大衆数百人感神院に引篭て官軍と合戦に及。
同御宇保延四年四月廿九日、賀茂社領住人、日吉馬上対捍の事に依、八王子(はちわうじ)、客人、十禅師(じふぜんじ)三社の神輿を仙洞へ、鳥羽院奉(レ)振。即時に裁許有ければ、大衆帰山の次で、鴨禰宜住宅を破却しけり。
近衛院御宇、久安三年六月廿八日、清盛朝臣郎従依(二)神人殺害事(一)、三社の御輿を陣頭に奉(レ)振。同日に忠盛可(レ)被(二)配流(一)之由、被(二)仰下(一)畢。
二条院御宇、永暦元年十一月十二日、菅貞衡朝臣息男資成、依(二)有智山僧坊焼失事(一)、三社の御輿を仙洞へ
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後白川院 奉(レ)振当日貞衡解官資成流罪、安楽寺住僧六人禁獄之由、右大弁雅頼を以て、大衆の中被(二)仰下(一)。大衆不日の勅裁を悦予して、倶舎頌を誦して帰山畢、やさしかりける事也。
高倉院御宇、嘉応元年十二月廿二日、尾張国目代(もくだい)政友、依(二)平野の神人陵礫の事(一)、三社の神輿を奉(レ)振(二)大内(一)、裁報遅々の間、御輿を南殿に向奉(二)振居(一)。同廿四日成親卿(なりちかのきやう)解官配流、備中国政友、禁獄之由被(二)宣下(一)畢。
神輿下洛の御事、代々及(二)六箇度(一)、毎度に武士を召て被(レ)禦けれ共、御輿に矢を進る事はなかりき。今度の御輿に矢の立事、乱国基歟、浅間しと云も疎也。(有朋上P134)人恨神怒れば災害必成といへり、天下の大事に及なんと、心ある者は上下皆歎恐けり。
四月十四日に、大衆なを可(二)下洛(一)之由聞えければ、夜中に主上腰与に召て、院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ行幸、内大臣(ないだいじん)重盛(しげもり)以下の人々、直衣に矢負て供奉せらる。軍兵御輿の前後に打囲て雲霞の如く也。中宮は御車にて行啓、禁中何と無く周章騒、男女東西に走迷へり。関白(くわんばく)以下大臣公卿殿上の侍臣皆馳参りけり。聖断遅々の間、衆徒多矢にあたり、神人殺害に及上は、神輿の残四社を奉(二)振下(一)、七社の神殿、三塔の仏閣一宇も不(レ)残焼払、山野に交るべし、悲哉西光一人が姦邪に依て、忽に園融十乗の教法を亡さん事をと、三千の衆徒僉議(せんぎ)すと聞えければ、当山の上綱を召て、可(レ)有(二)御成敗(一)之旨依(レ)被(二)仰下(一)、十五日勅定を披露の為に、僧綱等(そうがうら)登山しけるを、衆徒嗔を成て、水飲に下向て追臨す。僧綱(そうがう)色を失て逃下。
S0409 師高(もろたか)流罪宣事
廿日
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加賀守師高(もろたか)解官、尾張国流罪由被(二)宣下(一)。上卿は権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)忠親卿(ただちかのきやう)也。此宣旨を以、急登山して、山門騒動を可(レ)鎮之由仰けれ共、衆徒の蜂起に恐、登山せんと云人なし。平(へい)大納言(だいなごん)(有朋上P135)時忠卿(ときただのきやう)、其時は中納言にて御座けるが、本より心猛勇る人にて、乱の中の面目とや被(レ)思けん、侍十人花を折て装束し、雑色共人に至(いたる)まで当色きせて出立給へり。山上には、時忠登山あらば、速にもとゞりを切、湖水にはめよなんど僉議(せんぎ)すと聞り。時忠卿(ときただのきやう)既に有(二)登山(一)。実に衆徒の嗔れる気色面を向べき様に非、只今可(レ)会(レ)事体也ければ、供に有つる侍も雑色も、大床の下御堂の陰に忍居たり。時忠卿(ときただのきやう)は少も騒給はず、大講堂の庭に進出て、懐中より矢立墨筆取出して、所司を招硯に水入、畳紙に一筆書てぞ給たりける。所司状を捧て大衆の前ことに披露す。其詞に云、衆徒致(二)濫悪(一)者、魔縁之所行、明王加(二)制止(一)者、善逝之加護也とぞ書たりける。大衆各見(レ)之、理なれば不(レ)及(二)引張(一)、還優に書れたる一筆かなと、称美賛嘆に及落涙する衆徒も多かりけり。其後師高(もろたか)解官配流の宣旨を取出て披露あり。
今月十三日叡山衆徒、舁(二)日吉社、感神院等之神輿(一)、不(レ)憚(二)勅制(一)乱(二)入陣中(一)。爰警固之輩、相(二)禦凶党之間(一)、其矢誤中(二)神輿(一)事、雖(レ)不(レ)図、何不(レ)行(二)其科(一)、宣(下)仰(二)検非違使(けんびゐし)(一)、召(二)平利家、同家兼、藤原通久、同成直、同光景、田使俊行等(一)、給(中)獄所(上)者也。従五位上加賀守藤原朝臣師高(もろたか)解官流罪尾張国、目代(もくだい)師経(もろつね)流罪備後国、奉(レ)射(二)神輿(一)官兵七人、禁獄事者、(有朋上P136)今日宣下訖。以(二)此旨(一)、可(下)令(レ)披(二)露山上(一)給(上)之由所(レ)候也、恐々謹言。
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四月二十日 権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)藤原光能
執当法眼御房へとぞ有ける。
追書に云、禁獄官兵等之交名、山上定令(二)不審(一)候歟、仍内々委相尋尻付交名一通、所(レ)被(二)相副(一)候也、平利家字平次、是は薩摩入道家季孫、中務丞家資子、同家兼字平五、故筑後入道家貞孫、平田太郎家継子、藤原通久字加藤太、同成直字十郎、是は右馬允成高子、同光景字新次郎、是は前左衛門尉忠清子、成田兵衛尉為成、田使俊行、難波吾郎と注したり。
衆徒取廻々々見(レ)之事柄よかりければ、逃隠たりつる侍も雑色も、此彼より出たりけり。時忠卿(ときただのきやう)則下洛して、参内事の次第一々に被(二)奏聞(一)けり、ゆゝしくぞ聞えける。後に大衆口々に申けるは、哀能はいみじき者かな、此時忠が五言四句の筆のすさみを以て、三千一山の憤を平げつゝ、難(レ)逃虎口を遁て、見るべき身の恥を逃ぬるこそ有難けれと感じけり。
昔大国に魏文帝と云御門御座けり。其弟に陳思王と云ふ人あり。同母の兄弟にて、蘭菊の契深かるべかりけるに、何事の隔有けるやらん、兄の文帝、陳思王を悪で(有朋上P137)殺さんと思つゝ、弟を前に呼居て云けるは、汝七歩が間に詩を造、不(レ)然者(しかれば)速に汝を可(レ)殺と聞えければ、陳思死を逃んが為に、文帝の前を立ちて七歩しける間に、煮(レ)豆燃(二)豆■()(一)豆在(二)釜中(一)泣、本是同根生、相煎何太急と云たりけれ。文帝感(レ)之弟を許し、厚断金兄弟の昵を成けり。是を七歩の才といへり。陳思王は七歩の詩を造て一生の命を助け、時忠卿(ときただのきやう)は両句の筆に依、三千の恥を遁たり。誠に時の災をまぬかるゝ事、芸能に過たるはなかりけり。
S0410 京中焼失事
四月廿八日亥刻に、樋口、富小路より焼亡あり。是は神輿を奉(レ)禦とて狼藉に及武士七人、禁獄之
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内、十禅師(じふぜんじ)の御輿に、矢を射立進らせける。成田兵衛為成と云者は、小松殿(こまつどの)の乳人子也。ことに重科の者也。衆徒の手に給て、唐崎に八付にせん罧にせんなど訴申ければ、小松殿(こまつどの)よりとかく山門を被(レ)宥て、禁獄をも乞免し、伊賀国へ流せとて所領へ下遺けるが、今日の晩程に、遺惜まんとて、同僚共が樋口富小路なる所に寄合て酒盛しけり。酒は飲ば酔習なれ共、各物狂しき心地出来て、成田が前に杯の有ける時、或(有朋上P138)者が申けるは、兵衛殿田舎へ御下向に、御肴に進べき物なし、便宜能是こそ候へとて、もとゞり切て抛出たり。又或者が、穴面白や、あれに劣べきかとて、耳を切て抛出す。又或仁思中には、大事の財惜からず、大事の財には命に過ぎたる者有まじ、是を希にして、腹掻切て臥ぬ。成田兵衛が、穴ゆゝしの肴共や、帰上て又酒飲事も難(レ)有、為成も肴出さんとて、自害して臥。家主の男思けるは、此者共かゝらんには、我身残たり共、六波羅へ被(二)召出(一)安穏なるまじとて、家に火さして炎の中に飛入て焼にけり。折節巽の風はげしく吹て、乾を指て燃ひろごる。融大臣塩釜や川原院より焼そめて、名所卅余箇所公卿家十七箇所焼にけり。染殿と申すは忠仁公の家也。正親町京極 小一条殿と申は、貞仁公の家とかや。近衛東洞院 染殿の南には、C和院、小二条、款冬殿と申は、二条東洞院也 三条宮の御子、左の小蔵宮とぞ申ける。照宣公の堀河殿、大炊御門、冷泉院、中御門の高陽院、寛平法皇の亭子院、永頼三位の山井殿、鷹司殿、大炊殿、押小路町の鴨井殿、六条院、小松殿(こまつどの)、公任大納言の四条殿、良相公の西三条、高明御子の西宮、三条朱雀に、朱雀院、神泉苑、勧学院、奨学院、穀倉院、東三条
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近衛院、滋野井本院、小野宮、冬嗣大臣の閑院殿、北野天神紅梅殿、梅苑、桃苑、高松殿、中務の宮の千種殿、(有朋上P139)枇杷殿、一院京極殿、天の橋立に至(いたる)まで、一字も残らず焼にけり。まして其外家々は数を知ず、はては大内に吹付たりければ、朱雀門、応天門、会昌門、陽明、待賢、郁芳門、清涼、紫宸、大極殿、豊楽院、天透垣、竜の小路、殿上の小庭、延喜の荒海、見参の立板、動の橋、諸司八省までも、皆焼亡ぬ。浅揩ニ云も疎也。
S0411 盲ト事
大炊御門堀川に、盲の占する入道あり。占云言時日を違ず、人皆さすのみこと思へり。焼亡と■(ののし)りければ、此の盲目何く候ぞと問。火本は樋口富小路とこそ聞と云。盲しばし打案じて、戯呼一定此火は是様へ可(レ)来焼亡也、ゆゝしき大焼亡かな、在地の人々も、家々壊儲物共したゝめ置べきぞと云。聞者皆をかしう思て、樋口は遥の下、富の小路は東の端、さしもやは有べき、いかにと意得てかくは云ぞと問ければ、占は推条口占とて、火口といへば、燃広がらん、富小路といへば、鳶は天狗の乗物也、少路は歩道也、天狗は愛宕山に住ば、天狗のしわざにて、巽の樋口より乾の愛宕を指て、筋違さまに焼ぬと覚ゆとて、妻子引具し資財取運て逃にけり。人嗚呼がましく思けれ共、焼て(有朋上P140)後にぞ思合ける。
S0412 大極殿焼失事
樋口富少路よりすぢかへに乾を差て、車の輪程也ける炎、内裡の方へぞ飛行ける。これ直事非、比叡山より猿共が、松に火を付持下つゝ、京中を焼払ふとぞ、人の夢には見たりける。神輿に矢立、神人宮司、被(二)射殺(一)たりければ、山王嗔を成給、角亡し給けるにこそ。人恨神嗔、必災害成といへり。誠哉此事、大極殿〔は〕清和帝の御時、貞観十八年四月九日焼たりけるを、同十九年正月三日、陽成院の御即位
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は豊楽院にてぞ有ける。元慶元年四月九日事始有て、同三年十月八日ぞ被(二)造出(一)たりける。後冷泉院御宇、天喜五年二月廿一日に又焼にけり。治暦四年八月二日事始有て、同年十月十日棟上有けれ共不(レ)被(二)造出(一)、後冷泉院は隠れさせ給にけり。後三条院の御時、延久四年十月五日、被(二)造出(一)行幸有て宴会被(レ)行、文人詩を奉、伶人楽をぞ奏しける。今は世末に成、国の力衰て、又造出さるゝ事難もやあらんと、皆人嘆合給けり。嵯峨帝の御時、空海僧都(そうづ)勅を奉て、大極殿の額を被(レ)書たり。小野道風見(レ)之大極殿には非、火極殿とぞ見えたる、(有朋上P141)火極とは火極と読り、未来いかゞ有べかるらん、筆勢過たりとぞ笑ける。去ばにや、今かく亡ぬるこそ浅増けれ。