『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十二

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資巻 第四十二
S4201 義経解纜四国渡附資盛清経頸可上京都由事
十六日午刻に、判巻既纜を解て船を出す。南風俄に吹来て、兵船渚々に吹上て、七八十艘打破。其を繕とて今日は逗留。今や/\と待けれ共、風弥烈して、二日二夜ぞふきたりける。十七日の夜の寅時に、空かき陰急雨して、南の風は静て、北風烈く吹出したり。木折砂を揚。判官は、風既に直れり、急舟共出せと宣ふ。水手楫取等申けるは、是程の大風には争出し候べき、風少弱候てこそと申。判官大に嗔て、向たる風に出せといはばこそ僻事ならめ、加様の順風は願処なり、日並もよく海上も静ならば、今日こそ源氏は渡らめとて、平家用心稠くして、浦々島々に大勢指向々々待ん所へ、僅の勢が寄たらば、物の用にや可叶、斯る大風なれば、よも渡らじ、船も通はじなんど思て、打解あはけたらん所へ、するりと渡てこそ敵をば誅すれ、疾々此船共出せ、不出者ならば己等こそ朝敵なれ、射殺せ斬殺せと下知しければ、伊勢三郎、大の中指打くはせて射殺さんと(有朋下P564)馳廻ければ、水手楫取共如何はせん、是程の風に船出したる事いまだなし、船を出しぬる者ならば、一定水の底に沈まんず、不出箭に中て死なんず、死は何れも同事、さらば出して馳死にせよとて、寅卯間に判官の船を出す。兵船は数千艘有けれ共、如法夥しき大風なれば、船を出す者なかりけるに、只五艘を出す。一番判官
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船、二番畠山が船、三番土肥次郎船、四番和田小太郎船、五番佐々木四郎船也。五艘の船に馬のせ兵粮米積。夫に随下部歩走なんど乗ければ、一百余騎には過ず。此等は上下皆一人当千の兵也。判官は、義経が船ばかりに篝を■べし、其を本船として各馳よ、自余の舟に篝ともすべからず、敵の船の数を見せじ為也と下知して、渡辺島より船を出す。吹風木の枝を折、立波蓬莱を上。水手楫取吹倒されて、足を踏立るに不及けれ共、究竟の者共にて、舟を乗直し/\、帆柱を立て帆を引事不高、手打懸計也。風弥強当りければ、帆のすそを切て結分風を通す。纜三筋十丈ばかりに■さげて、沈石綱あまた下して、脇梶面梶を以船をちやうと挟立て、傍風来れば風面に乗懸、眦になれば中に乗、隙なく湯を取らす。舳へ打波摧けて艫を洗、艫を済波いかにも難叶けれ共、究竟の梶取也、浪の手風の手を作て、大なる波をばついくゞり、小浪をば飛越飛越、馳よ者共漕や者とて、曳声を出して馳け(有朋下P565)れば、押て三日に漕所を、只三時に阿波国はちまあまこの浦にぞ馳著たる。五艘の船一艘も誤なく、皆一所に漕並たり。汀より五六町計上て岡の上に、赤旗余多立並て敵籠れりと見ゆ。判官宣けるは、平家此浦を固たり、各物具し給へ、船に揺風に吹れて立すくみたる馬共也。左右なく下して誤ちすな、沖より追下して、船に付て游せよ、馬の足とづかば、船より鞍を置べし、其間に鎧物具取付て、船より馬には乗移れ、敵寄と見るならば、平家は汀に下立て、水より上じと射ずらん、浪の上にて相引して、脇壺内甲射さすな、射向の袖を末額にあてて、急汀へ馳寄よ、敵近付ばとて騒ぐ事なかれ、
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今日の矢一は敵百人禦べし、透間をかずへて弓を引、あだ矢射なとぞ下知し給ふ。軍兵随軍将之下知、礒五六町より沖にて馬を追下し、船に引付引付游せたり。馬の足とゞきければ、鎧物具取付て、船より馬にひたと乗、一百五十余騎の兵共、射向の袖を甲の末額にあて、轡を並て汀へさと馳上たり。判官先陣に進、此浦固たる大将軍は誰人ぞや、名乗名乗と攻けれ共答る者なし。此浦をば、阿波民部大輔成良が伯父、桜間外記大夫良連軍将として、三百余騎にて固たりけれ共、何とか思けん不名乗ければ、判官は、此奴原は近国の歩兵にこそ有めれ、若者共責入て、一々に首切懸て軍将に奉れと下知しければ、河越小太郎(有朋下P566)茂房、堀弥太郎親弘、熊井太郎忠元、江田源三弘基、源八広綱、五騎轡を並鞭を打て蒐入けり。城中よりは簇をそろへて散々に射る。源氏は一百余騎後陣に支へて、責よ蒐よ隙なあらせそととゞめきければ、五騎の者共郎等乗替相具して、三十余騎■を傾て攻入ければ、三百余騎も不堪して、さと開て通しけり。取て返て竪さま横さま、おもの射に射ければ、木葉を風の吹が如く、四方へさと逃走けるを駈立つゝ、強る者をば頸を切、弱者をば虜にす。大将軍外記大夫も禦兼、鞭を揚て逃けれ共、不延遣して虜れけり。首共四五十切掛て奉軍神、悦の時二度造、西国の軍の手合也、物能物能とぞ勇にける。備前児島城は、去し冬土肥次郎実平、塩干に渡瀬を求て、暗夜五十余騎を卒して、責寄て関を発ければ、平氏の軍兵不計ける程なれば、防戦に不及して、船に諍乗て逃けるを、或虜或頸を切ければ、其後は備中備前之輩、悉官軍に相従ひける処に、此春又平氏
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二百余艘の兵船を調へて、夜半に彼城へ寄せて合戦しける程に、実平軍敗て、息男遠平疵を蒙り、家人多く被討捕けり。船軍の事西国の賊徒は自在を得たり、東国の官兵は寸歩を失て、実平毎度に被敗けり。懸りし程に豊後国住人等、舟を艤て官兵を迎ければ、参川守範頼已下彼国へ入にけり。又三位中将資盛入道、并左中将清経朝臣を、当(有朋下P567)国輩討捕て、首を範頼の許へ送けり。清経朝臣は不劣心不顧死、敵を討自害し給たりけるを、資盛入道の頸と取具して、京都へ可献由其沙汰有けり。平家は源氏の討手下ると聞えしより、讃岐国屋島の浦に城郭を構へ、軍兵を儲て相待けり。前内大臣宗盛、前平中納言教盛、前権中納言知盛、前修理大夫経盛、前右兵衛督清宗、小松少将有盛、能登守教経、小松新侍従忠房已下、五十余騎とぞ聞えし。浦々島々指塞てぞ守護しける。
S4202 勝浦合戦附勝磨並親家屋島尋承事
判官虜の者に問給けるは、平家軍兵は、屋島よりこなたには何の所にか在と宣ふ。此より三十余町罷候て、阿波民部大夫の弟に、桜間介良遠と申す者こそ五十余騎計にて陣を取りて候へと申。さては小勢や打や/\とて押寄、時を造る。城内にも時も合たり。良遠は大堀を掘て水を湛、岸に■植櫓掻て待受たり。輙く難責落かりけるを、源氏の兵其辺の小家を壊堀に入浸して、■を傾一味同心に責入ければ、城内乱て我先にと落行けり。良遠を延さんとて、家子郎等三十余騎残留つて禦矢射けるが、一々搦捕れて、忽に首被刎、被祭軍神。両陣を追落して後、又浦人を召て、此所をば何と云ぞと問。勝浦(有朋下P568)と申と答。軍に勝たればとて、色代して■飾を申にこそ、加様の奴原が不思議の事をばし
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出すぞ、返忠せさすな、義盛は無き歟、しや頸斬れと宣へば、伊勢三郎太刀をぬき進出たり。浦人大に恐戦て、其儀は候はず、此浦は御室の御領五箇庄にて、文字には勝浦と書て候なるを、下揩ヘ申安きに付てかつらと呼侍き。上揩フ御前にて侍れば、文字の儘に申上候と云。判官是を聞て、さては神妙神妙、去ためしあり。昔天武天皇の未東宮位に御座ける時、大友皇子に、〈 天智子 〉襲て、近江国湖水に船を浮て東の浦に著給。葦の下葉を漕分て船を岸に寄給ふ。田作る男一人あり。春宮問曰、汝何者ぞ、此をば何所と云ぞと。田夫答て申さく、是をば勝浦と云、我身をば月下勝磨と申也とて、賤が藁屋に請入奉り、様々貢御進め進せたりければ、春宮大に御悦ありて、朕勝浦に著て勝磨にあへり、軍に勝て帝位につかん事疑なし、御即位の後に御願寺を可被立と御誓ありけるに、果して帝位に即て、彼所に寺を被立けり。月上寺とて今にありと伝へ聞。義経軍の門出に、はちまあまこの浦にて軍に勝て、又勝浦に著て敵を亡す、末憑しとぞ悦ける。
判官又浦の人に問給ふ。此勝浦より屋島へは、行程いくら程ぞと。二日路候と申。さらば敵の聞ぬ先に打や/\とて、鞭障泥を合て打処に、大将軍と覚しくて、黒革威の鎧に、■(有朋下P569)馬に乗て一百余騎にて歩せ来る。笠符も不付旗も不指。判官宣けるは、見来軍兵源平いづれ共不見分、敵の謀やらん、不可有心許、義盛罷向て子細を尋て将参と下知しければ、伊勢三郎仰承て、十五騎にて行向て、何とか云たりけん安々と具して参。判官汝は何者ぞ、源平何れ共不見と問給へば、是は阿波国
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住人臼井近藤六親家と申者にて侍が、近年源平の乱逆に不安堵、浪にも磯にも著ぬ風情也、何れにても日本の主と成給はん方を主君と憑奉らんと相待処に、平家都を落、源氏軍将の蒙院宣給ふと承る間、白旗を守て馳参ずと申す。判官宣けるは、神妙也、源氏の大将軍鎌倉の兵衛佐殿の弟に、九郎大夫判官と云は我也、平家追討の蒙院宣西国に発向せり、親家を西国の案内者に憑、屋島の尋承せよ、但所存を知ん程は物具をば不可免とて、甲冑をぬがせて召具しけり。やをれ親家、屋島には勢幾程とか聞と。よも千騎には過候はじ。凡は五千余騎とこそ承しか共、臼杵、戸槻、松浦党、尾形三郎等が依背、平家彼輩を被誅とて、此間は軍兵等多所々へ被分遣。其外阿波讃岐の浦々島々に、五十騎三十騎百騎二百騎被指遣間に、勢は少と承と。偖屋島より此方に敵ありやと問へば、近藤六申けるは、今三十町計罷て勝宮と云社あり、彼に阿波民部大輔成能が子息、伝内左衛門尉成直、三千余騎に(有朋下P570)て陣を取たりつるが、此間河野四郎通信を攻んとて、伊予国へ越たりと聞ゆ、余勢などは少々も候らんと云ければ、判官急々とて、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、佐々木四郎高綱、平山武者所季重、熊谷次郎直実、奥州佐藤三郎兵衛継信、同弟四郎兵衛忠信、鎌田藤次光政等、一人当千の者共を先として、打や/\とて勝社に押寄せて見れば、伝内左衛門尉が兵士に置たりける歩兵等少々在けれ共、散々に蹴散して、逃るはたま/\遁けり。向奴原一々に頸切懸て打程に、新八幡の宝前をば、判官下馬して再拝すれば、郎等も又如此。判官は勝浦の勝もかつと読、勝宮の勝もかつ
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とよむ、傍の軍に打勝て、今大菩薩の御前に参、源氏の吉瑞顕然也、平家の滅亡無疑、八幡三所遠き守と守り幸給へとて、馬に打乗馳つ■つ/\、讃岐屋島へ打程に、
S4203 金仙寺観音講附六条北政所使逢義経事
〔斯る処に〕中山と云所の道のはたより、二町計右に引入て竹の林あり、中に古き寺あり、栗守后の御願金仙寺と云伽藍なり。本尊は観音、所の名主百姓が集りて、月次の講営とて、大饗盛並盃居て、既に行はんとしけるが、長百姓は善と嘆、若者共は悪ときらふ。善(有朋下P571)悪しと讃毀程に、百余人の講衆とゞめきけり。軍兵是を聞て、敵の籠たるぞと心得て、弓取直し片手矢はげて、時をどと造て押寄たれば、講衆は始て、汁御菜持運たる尼公女童、下取んとて集たる子孫童部に至まで、取物も取敢ず、蜘蛛子を散したるが様にぞ逃迷ける。幼少の子孫が尻随たるをも打捨、老耄の親祖父が杖に懸をも不助、我先我先と此彼に隠忍て是を見。軍兵縁の際まで打寄て、御堂の内に下居て、我物がほに講の座に著す。五種御菜に三升盛を、百二三十前計組調たり。座上に坏居、大桶に汁入、樽二に濁酒入て座中に舁居たり。仏前には花香供じ、仏供燈明備へたり。机上に巻物一巻あり、講式と覚ゆ。判官は座上に著す、兵共思々に列座せり。武蔵房弁慶座より起て、判官の前に五本立に取並て、戯呼今月の講は、随分尋常に営出して覚候、来頭は誰人ぞ、此定候ぞよと云。判官実に此講目出し、来頭は義経営侍るべしと宣へば、兵皆咲壺会也。飯酒共に行て、仏壇の中より老翁を尋出して、是は何講ぞと問へば、翁ふるひ/\、是は月並の観音講にて候が、只今は御景気共の恐しさにわなゝくとぞ云ける。講食てたゞ有べきに
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非ず、誰か可式読と云ければ、弁慶、黒皮威の鎧に矢負太刀帯ながら、礼盤に昇て高声に、観音講式をたゝめかしてよむ。判官は式は観音講、貌は毘沙門講、穴貴おそ(有朋下P572)ろしと云ければ、兵共皆笑けり。さても勇士等西国の軍の門出に、勝浦勝社に著、今また講座に著す、事に於勇あり。昔八幡殿の奥州を被責けるにこそ剛臆の座をば被分けれ、今の軍兵一人も洩ず講座に著、平家を亡さん事子細なしとぞ■りける。其より屋島へ打程に、中山路の道の末に、貲の直垂に立烏帽子、立文持て足ばやに行下種男あり、京家の者と見ゆ。判官馬を早めて追付問けるは、汝は何者ぞ、何所へ行人ぞと。此男判官とは夢にも不知、国人ぞと思て、是は京より屋島の方へ下者也と答。京よりは誰人の御許より、屋島の何れの御方へぞと問ば、いや只と云て最不分明。判官、はや殿是は阿波国の者にてあるが、屋島の大臣殿の依御催参る者ぞ、誠や九郎判官と云者が、源氏の大将にて下なるが、淀河尻にて舟汰へして、今日明日の程に屋島の内裏へ寄べしと聞ば、御辺は京より下給へば定めて見給ぬらん、勢幾ら程とか申など問て、昼の破子食せ、能々心を取て後、さても御辺は誰れ人の御使ぞと問。是は六条摂政殿の北政所より、大臣の御方へ申させ給御文なりと申。御文には何事をか被仰下らんと問へば、下揩ヘ争か御文の中を奉知べき、御詞には源氏九郎大夫判官、既に西国へとて都を立ぬ。浪風静りなば一定渡るべし、さしも鬼神の如くに畏恐し木曾も、九郎上ぬれば時日を廻さず亡し(有朋下P573)ぬる怖しき者に侍り、城をもよく構へ兵をも催集て、可有御用心とこそ申させ給つれば、御文も定其御心に
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こそ候らめ、誠に淀河尻には軍兵充満て雲霞の如し、六万余騎が二手に分て、参川守、九郎判官兄弟して、四国長門より指挟みて下るべしと披露しき。波風やみなば今日明日の程には軍は一定あるべし、急々屋島へ可有御参とて、抜々と判官に相連て行。さて御辺は始て下る人歟、先々も下給へる人歟と問ば、六条摂政殿の北政所と大臣殿とは、御兄弟の御中にてましませば、西国の御住居御心苦く思召、源氏上洛の後は、都の形勢人の披露、聞召に随て仰らるれば、常に下向する也と云。さては屋島城の有様はよく知給ひたるらん、誠や究竟の城にて、敵も左右なく難寄所と聞は実か、哀さやうの城にて高名をして、勲功に預ばやといへば、男が云けるは、是は敵に聞すべき事には非ず、御方へ参らるれば申、源氏が知でこそよき城とは申せ、事も無所也、あれに見ゆる松原は武例高松と申、彼松原の在家に火を懸て、塩干潟に付て山のそばに打そうて渡らば、鐙鞍つめの浸る程也、百騎も二百騎も塩花蹴立て押寄ば、あは大勢の寄はとて、平家は汀に儲置たる船に乗て沖へ押出さば、内裏を城にして戦は無念の所也と、細々と語けり。判官是を聞、実に無念の所や、可然八幡大菩薩の御計也とて、(有朋下P574)都の方を拝つゝ、やをれ男め、我こそ九郎大夫判官よ、其文進よとて奪取、海の中に抛入て、男をば中山の大木に縛上てぞ通ける。其日は阿波国坂東西打過ぎて、阿波と讃岐の境なる中山山口の南に陣を取。翌日は引田浦、入野、高松郷をも打過て、屋島城へ押寄けり。
S4204 屋島合戦付玉虫立扇与一射扇事
屋島には、伝内左衛門尉成直が伊予国へ越、河野四郎通信を攻けるが、通信をば討遁して、其伯父
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福良新三郎以下の輩、百六十人が頸を切つて、姓名注して進せたりけるを、内裏にて首実験かわゆしとて、大臣殿の御所にて実験あり。
大臣殿は、小博士に清基と云者を御使にて、能登殿へ被仰けるは、源九郎義経、既に阿波国あまこの浦に著たりと聞ゆ、定て終夜中山をば越候らん、御用意あるべしと被申。去程に夜も明ぬ。屋島より塩干潟一隔、武例高松と云所に焼亡あり。平家の人々、あれや焼亡焼亡と云ければ、成良申けるは、今の焼亡誤にあらじ、源氏所々に火を懸て焼払と覚えたり、敵は六万余騎の大勢と聞、御方は折節無勢也、急御船に召、敵の勢に随て、船を指寄指寄御軍あるべし、(有朋下P575)侍共は汀に船を用意して、内裏を守護して戦べしと計申ければ、可然とて、先帝を奉始、女院二位殿以下女房達、公卿殿上人、屋島惣門の渚より御船にめさる。去年一谷にて被討漏たる人々也。
前内大臣宗盛、前平中納言教盛、前権中納言知盛、修理大夫経盛、前右衛門督清宗也。小松少将有盛、能登守教経、小松新侍従忠房已下、侍共は城中に籠れり。大臣殿父子は一船に乗給たりけるが、右衛門督も鎧著て打立んとし給けるを、大臣殿大に制して、手を引いて例の女房達の中へ座しけるこそいつまでと無慙なれ。
同廿日卯時に、源氏五十余騎にて、屋島の館の後より責寄て鬨を発す。平家も声を合て戦。判官は紺地の錦の直垂に、紫坐滋鎧に、鍬模打たる白星甲に、滋紅幌懸て、二十四指たる小中黒
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征矢に、金作の太刀を帯、滋籐の弓真中取、黒馬の太逞に白覆輪の鞍を置、先陣に進で、馬に白沫かませ軍の下知しけり。武蔵三郎左衛門尉有国、城の木戸の櫓にて大音声を揚て、今日の大将軍は誰人ぞと問。伊勢三郎義盛歩出して、穴事も疎や、我君は是清和帝の九代後胤、八幡太郎義家に四代の孫、鎌倉右兵衛権佐殿御弟、九郎大夫判官殿ぞかしと云。有国是を聞て大に嘲、故左馬頭義朝が妾、九条院雑司常葉が腹の子と名乗て、京都に安堵し難かりしかば、金商人が従者して、蓑笠笈背負つゝ、陸奥へ下し者(有朋下P576)の事にやといへば、伊勢三郎腹を立て、角申は北国砥波山の軍に負て山に逃入、辛命生て、乞食して這々京へ上ける者也。掛忝く舌の和なる儘に角な申しそ、さらぬだに冥加は尽ぬる者ぞ、甲斐なき命も惜ければ、助させ給へとこそ申さんずらめと云。有国は我君の御恩にて、若より衣食に不乏、何とて可乞食、東国の者共は、党も高家も跋跪こそ有しか、金商人と云をだに舌の和なる儘と云、況や年来の重恩を忘、十善帝王に向進て悪口吐舌は如何有べき、就中汝が罵立耳はゆし、伊勢国鈴鹿関にて朝夕山立して、年貢正税追落、在々所々に打入、殺賊強盗して妻子を養とこそ聞、其は有し事なれば諍所なしと云。金子十郎家忠進出て申けるは、雑言無益也、合戦の法は利口に依ず、勇心を先とす、一谷の戦に、武蔵相模の兵の勢は見給けん、それよりは只打出て組や/\と云処に、家忠が弟に金子与一引儲て、有国が頸骨を志て射たりけるに、有国甲を合立たりければ、胸板にしたゝかに中る。矢風負て後は言戦は止にけり。東国之輩九郎判官を先
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として、土屋小次郎義清、後藤兵衛尉実基、同息男基清、小河小次郎資能、諸身兵衛能行、椎名次郎胤平等、我も/\と諍蒐。平家方より越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、矢野右馬允家村、同七郎高村已下の輩、櫓より下合て防戦けれ(有朋下P577)ば、時を移し日を重けり。能登守教経は、打物取ても鬼神の如し、弓矢を取ても精兵の手聞也ければ、源氏の兵多此人にぞ討れける。判官下知しけるは、平家は大勢也、御方の勢はいまだ続ず、敵内裏に引籠て、出合出合戦はんには優々敷大事、其上兵船海上に数を不知、屋島の在家を焼払て、一方に付て責べしと云ければ、条里を立て造並たる在家、一千五百余家ありけるに、軍兵家々に火を放。折節西風烈く吹、猛火内裏に覆、一時が間に焼亡ぬ。余煙海上に浮て、雲の波煙波と紛けり。城内の軍兵は儲舟に諍乗。船の中の男女は、遥に是を見給けり。遂に安堵すまじき旅の宿、是も哀を催す。軍陣忽に陸の辺に乱て、兵船頻に波の上に騒。平家は兼て海上に舟を浮べ、舳屋形に垣楯掻たりければ、彼に乗移て、或一艘或二艘、漕寄漕寄散々に射。源氏の方より判官を先として、畠山庄司次郎重忠、熊谷次郎直実、平山武者所季重、土肥次郎実平、和田小太郎義盛、佐々木四郎高綱と名乗て、一人当千の兵也。東国にも誰かは肩を並ぶべきなれ共、我と思はん人々は、推並て組めや/\と■懸て、追物射にいる。源平何れも勝負なし。源氏七騎兵は、馬足を休め身の息をも継んとて、渚に寄居たる船の陰に休居たり。平家も船を奥に漕除て、暫猶予する処に、勝浦にて軍しける輩、屋島浦の煙を見て、軍既に始れり、(有朋下P578)判官殿は無勢
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におはしつるぞ、急々とて追継追継に馳加る。此外武者七騎出来れり。判官何者ぞと問給へば、故八幡殿御乳母子に、雲上後藤内範明が三代の孫、藤次兵衛尉範忠也、年来は、平家世を取て天下を執行せしかば山林に隠居て、此二十余年明し暮し侍りき。今兵衛佐殿院宣を承給て、平家誅戮と披露之間、余嬉さに馳参ずと申。判官昔の好を思出て、最哀に思けり。即荒手の兵を指向て、入替入替戦けり。源平互に甲乙なし。両方引退き、又強健処に、沖より荘たる船一艘、渚に向て漕寄。二月廿日の事なるに、柳の五重に紅の袴著て、袖笠かづける女房あり。皆紅の扇に日出たるを枕に挟て、船の舳頭に立て、是を射よとて源氏の方をぞ招たる。此女房と云は、建礼門院の后立の御時、千人の中より撰出せる雑司に、玉虫前共云又は舞前共申。今年十九にぞ成ける。雲の鬢霞の眉、花のかほばせ雪の膚、絵に書とも筆も及がたし。折節夕日に耀て、いとゞ色こそ増りけれ。懸りければ、西国までも被召具たりけるを、被出て此扇を立たり。此扇と云は、故高倉院厳島へ御幸の時、三十本切立てて明神に進奉あり。皆紅に日出したる扇也。平家都を落給し時厳島へ参社あり、神主佐伯景広此扇を取出して、是は一人の御施入、明神の御秘蔵也、且は故院の御情、帝業の御守たるべし、されば此扇を持せ給(有朋下P579)たらば、敵の矢も還て其身にあたり候べし、と祝言して進せたりけるを、此を源氏射弛したらば当家軍に勝べし、射負せたらば源氏が得利なるべしとて、軍の占形にぞ被立たる。角して女房は入にけり。源氏は遥に是を見て、当座の景気の面白さに、目を驚し
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心を迷す者もあり、此扇誰射よと仰られんと肝膾を作り堅唾を飲る者もあり。判官畠山を召。重忠は木蘭地直垂に、■縄目の鎧著て、大中黒の矢負、所籐の弓の真中取、■の馬の太逞に金覆輪の鞍置、判官の弓手の脇に進出て畏つて候。義経は女にめづる者と平家に云なるが、角構へたらば、定て進み出て興に入ん処を、よき射手を用意して、真中さし当て射落さんと、たばかり事と心得たり、あの扇被射なんやと宣へば、畠山畏つて、君の仰、家の面目と存ずる上は子細を申に及ず、但是はゆゆしき晴態也、重忠打物取ては鬼神と云共更に辞退申まじ、地体脚気の者なる上に、此間馬にふられて、気分をさし手あはらに覚え侍り、射損じては私の恥はさる事にて、源氏一族の御瑕瑾と存ず、他人に仰よと申。畠山角辞しける間諸人色を失へり。判官は偖誰か在べきと尋ね給へば、畠山、当時御方には、下野国住人那須太郎助宗が子に十郎兄弟こそ加様の小者は賢しく仕り候へ、彼等を召るべし、人は免し候はず共、強弓遠矢打者などの時は、可蒙仰と(有朋下P580)深申切たり。さらば十郎とて召れたり。褐の直垂に、洗革の鎧に片白の甲、二十四指たる白羽の矢に、笛籐の弓の塗籠たる真中取て、渚を下にさしくつろげてぞ参たる。判官あの扇仕れと仰す。御諚の上は子細を申に及ね共、一谷の巌石を落し時、馬弱して弓手の臂(ひぢ)を沙につかせて侍しが、灸治も未愈、小振して定の矢仕ぬ共不存、弟にて候与一冠者は、小兵にて侍れ共、懸鳥的などはづるゝは希也、定の矢仕ぬべしと存、可被仰下と弟に譲て引へたり。さらば与一とて召れたり。其日の装束は、紺村紺の直垂に緋威の鎧、鷹角反甲居頸に著なし、
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二十四指たる中黒の箭負、滋籐の弓に赤銅造の太刀を帯、宿赫白馬の太逞に、州崎に千鳥の飛散たる貝鞍置て乗たりけるが、進出て、判官の前に、弓取直して畏れり。あの扇仕れ、晴り所作ぞ不覚すなと宣ふ。与一仰承、子細申さんとする処に、伊勢三郎義盛、後藤兵衛尉実基等、与一を判官の前に引居て、面々の故障に日既に暮なんとす。兄の十郎指申上は子細や有べき、疾々急給へ/\、海上暗く成なばゆゝしき御方の大事也、早々と云ければ、与一誠にと思ひ、甲をば脱童に持せ、揉烏帽子引立て、薄紅梅の鉢巻して、手綱掻繰、扇の方へぞ打向ける。生年十七歳、色白小鬚生、弓の取様馬の乗貌、優なる男にぞ見えたりける。波打際に打寄て、弓手の(有朋下P581)沖を見渡せば、主上を奉始、国母建礼門院、北政所、方々の女房達、御船其数漕並、屋形屋形の前後には、御簾も几帳もさゝめけり。袴温巻の坐までも、楊梅桃李とかざられたり。塩風にさそふ虚焼は、東袖にぞ通ふらし。妻手の沖を見渡せば、平家の軍将屋島大臣を始奉、子息右衛門督清宗、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、新三位中将資盛、左中将清経、新少将有盛、能登守教経、侍従忠房、侍には、越中次郎兵衛盛嗣、悪七兵衛景清、江比田五郎、民部大輔等、皆甲冑を帯して、数百艘の兵船を漕並て是を見。水手梶取に至まで、今日を晴とぞ振舞たる。後の陸を顧れば、源氏の大将軍、大夫判官を始て、畠山庄司次郎重忠、土肥次郎実平、平山武者所季重、佐原介能澄、子息平六能村、同十郎能連、和田小太郎義盛、同三郎宗実、大田和四郎能範、佐々木四郎高綱、平左近太郎為重、伊勢三郎義盛、横山太郎時兼、城太郎
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家永等、源氏大勢にて轡を並て是を見る。定の当を知ざれば、源氏の兵各手をぞ握りける。されば沖も渚も推なべて、何所も晴と思けり。そこしも遠浅也、鞍爪鎧の菱縫の板の浸るまで打入たれ共、沛艾の馬なれば、海の中にてはやりけり。手綱をゆりすゑ/\鎮れ共、寄る小波に物怖して、足もとゞめず狂けり。扇の方を急見れば、折節西風吹来て、船は艫舳も動つゝ、扇(有朋下P582)枕にもたまらねば、くるり/\と廻けり。何所を射べし共覚ず。与一運の極と悲くて、眼をふさぎ心を静て、帰命頂礼八幡大菩薩、日本国中大小神祇、別しては下野国日光宇都宮、氏御神那須大明神、弓矢の冥加有べくは、扇を座席に定めて給へ、源氏の運も極、家の果報も尽べくは、矢を放ぬ前に、深く海中に沈め給へと祈念して、目を開て見たりければ、扇は座にぞ静れる。さすがに物の射にくきは、夏山の滋緑の木間より、僅に見ゆる小鳥を、不殺射こそ大事なれ、挟みて立たる扇也、神力既に指副たり、手の下なりと思つゝ、十二束二つ伏の鏑矢を抜出し、爪やりつゝ、滋籐の弓握太なるに打食、能引暫固たり。源氏の方より今少打入給へ/\と云。七段計を阻たり。扇の紙には日を出したれば恐あり、蚊目の程をと志て兵と放。浦響くまでに鳴渡、蚊目より上一寸置て、ふつと射切たりければ、蚊目は船に留て、扇は空に上りつゝ、暫中にひらめきて、海へ颯とぞ入にける。折節夕日に耀て、波に漂ふ有様は、竜田山の秋の暮、河瀬の紅葉に似たりけり。鳴箭は抜て潮にあり、澪浮州と覚えたり。平家は舷を扣て、女房も男房も、あ射たり/\と感じけり。源氏は鞍の前輪箙を扣て、あ射たり/\と誉ければ、舟にも陸
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にも、どよみにてぞ在ける。紅の扇の水に漂ふ面白さに、玉虫は、(有朋下P583)
  時ならぬ花や紅葉をみつる哉芳野初瀬の麓ならねど K221 
平家侍に、伊賀平内左衛門尉が弟に、十郎兵衛尉家員と云者あり。余りの面白さにや、不感堪して、黒糸威の冑に甲をば著ず、引立烏帽子に長刀を以、扇の散たる所にて水車を廻し、一時舞てぞ立たりける。源氏是を見て種々の評定あり。是をば射べきか射まじきかと。射よと云人もあり。ないそと云者もあり。是程に感ずる者をば、如何無情可射、扇をだにも射る程の弓の上手なれば、増て人をば可弛とはよも思はじなれば、な射そと云人も多し。扇をば射たれ共武者をばえいず、されば狐矢にこそあれといはんも本意なければ、只射よと云者も多し。思々の心なれば、口々にとゞめきけるを、情は一旦の事ぞ、今一人も敵を取たらんは大切也とて、終に射べきにぞ定めにける。与一は扇射すまして、気色して陸へ上けるを、射べきに定めければ、又手綱引返て海に打入、今度は征矢を抜出し、九段計を隔つゝ、能引固て兵と放。十郎兵衛家員が頸の骨をいさせて、真逆に海中へぞ入にける。船の中には音もせず、射よと云ける者は、あ射たり/\と云、ないそと云ける人は、情なしと云けれ共、一時が内に二度の高名ゆゝしかりければ、判官大に感じて、白■馬に、〈 尾花毛馬也 〉黒鞍置て与一に賜。弓矢取身の面目を、屋島の浦(有朋下P584)に極たり。近き代の人、
  扇をば海のみくづとなすの殿弓の上手は与一とぞきく K222 
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平家不安思、楯突一人、弓取一人、打物一人、已上三人小舟に乗、陸に押付浜に飛下、楯突向て寄よ/\と源氏を招。判官は、若者共蒐出て蹴散と下知し給へば、武蔵国住人丹生屋十郎、同四郎等喚て蒐。十五束の塗箆に、鷲の羽、鷹羽、鶴の本白、矯合たる箭を以て、先陣に進む十郎が馬の草別を、筈際射込たれば、馬は屏風をかへすが如く倒けり。十郎足を越て、妻手の方に落立処に、武者一人長刀を額に当て飛で懸る。十郎不叶と思て、貝吹て逃。逃も追も雷の如し。十郎希有にして逃延て、馬の陰に息突居たり。敵長刀をつかへて扇ひらき仕。今日此頃、童部までも沙汰すなる上総悪七兵衛景清、我と思はん人々は落合や、大将軍と名乗給ふ判官は如何に、三浦、佐々木はなきか、熊谷、平山は無歟、打物取ては鬼神にも不負と云なる畠山はなきか、組や/\といへ共、名にや恐れけん打て出る者はなし。平家方に、備後国住人鞆六郎と云者あり。六十人が力持たりける力士なりければ、大臣殿、判官近付たらば組で海にも入、程隔たらば遠矢にも射殺せとて、船に被乗たり。松浦太郎艫取にて、屋島浦を漕廻し/\、判官を伺けれ共便(有朋下P585)宜を得ず、責ては日の高名を極たる那須与一を成共射殺さばや、組ばやと伺廻けれ共叶ず。爰に伊勢三郎義盛が郎等に、大胡小橋太と云者有。駿河国田子浦にて生立、富士川に習、究竟の水練の上手にて、水底には半日も一日も潜ありきけるが、兵の乗ながら而も軍もせずして漕廻々々するは、大将軍伺やらん、直者にはあらじと危思て、人にも不知、焼内裏の芝築地の陰より、裸になりて犢鼻褌を掻、刀二持て海へ入、敵も御方も是を不知。鞆
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六郎がせがいに立て、己は軍もせず、人の船を下知して、軍はとこそすれ角こそすれと云ける処に、つと浮上て、足を懐いて曳声を出し、海へだぶと引入たり。陸にてこそ六十人が力と云けれ共、水には不心得ければ、深き所へ引て行、六郎が頸を取、髻を口にくはへて水の底を■、源氏の陣の前にぞ上たる。判官見給て尋聞給へば、上件の子細を申。下揩ネれ共思慮賢とて、鷲造の太刀を給り、世静て後、兵衛佐殿も、武芸の道神妙神妙とて、千余石の勧賞あり、誠にゆゝしかりける面目也。平家二百余人船十艘に乗、楯二十枚つかせて漕向へて、簇を汰へて散々に射る。源氏三百余騎、轡を並て波打際に歩せ出て是を射。矢の飛違事は降雨の如し。源平の叫音は百千の雷の響くに似。平氏は浪に浮みたり、源氏は陸に引へたり。天帝空より降、修羅海より出て、互に(有朋下P586)挿絵(有朋下P587)挿絵(有朋下P588)火焔剣戟を飛せつゝ、三世不休戦も、角やと覚えて無慙なり。平家射調れて、船共少々漕返す。判官勝に乗て、馬の太腹まで打入て戦けり。越中次郎兵衛盛嗣、折を得たりと悦て、大将軍に目を懸て熊手を下し、判官を懸ん/\と打懸けり。判官■を傾て、懸られじ/\と太刀を抜、熊手を打除打除する程に、脇に挟たる弓を海にぞ落しける。判官は弓を取て上らんとす。盛嗣は判官を懸て引んとす。如法危く見えければ、源氏の軍兵あれはいかに/\、其弓捨給へ/\と声々に申けれ共、太刀を以て熊手を会釈ひ、左の手に鞭を取て、掻寄てこそ取て上。軍兵等が、縦金銀をのべたる弓也共、如何寿に替させ給ふべき、浅猿浅猿と申ければ、判官は、軍将の弓とて、三人張五人張ならば面目なるべし、去共平家に被責付て弓を落し
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たりとて、あち取こち取、強ぞ弱ぞと披露せん事口惜かるべし、又兵衛佐の漏きかんも云甲斐なければ、相構て取たりと宣へば、実の大将也と兵舌を振けり。
小林神五宗行と云者あり、越中次郎兵衛盛嗣が、熊手を似て判官を懸て取んとしけるを、大将軍を懸させじとて、続いて游せたりける程に、事由なく上り給たりければ、盛嗣判官を懸弛て不安思ひ、游艇に乗移り、指寄て宗行が甲の吹返し、熊手をからと打懸て、曳音を出して引。宗行鞍の前輪に強く取付て鞭を打。主も(有朋下P589)究竟の乗尻也、馬も実にすくやか也。水に浮る小船なれば、汀へ向舳浪つかせて、ささめかいてぞ引上たる。宗行熊手に被懸ながら馬より飛下、貫帯たりけるが、沙に足を踏入つゝ、頸を延て曳々とぞ引たりける。盛嗣も大力、宗行も健者、勝劣何れも不見けり、金剛力士の頸引とぞ覚えたる。両方強く引程に、鉢付の板ふつと引切、鉢は残て頭にあり、■は熊手に留りぬ。盛嗣船を漕返せば、宗行陣に帰入。源平共に目を澄し、敵も御方も感嘆せり。判官宗行を召て、只今の振舞凡夫とは見えず、鬼神のわざと覚えたりとて、銀にて鍬形打たる竜頭の甲を賜はる。此甲と云は、源氏重代の重宝也。銀にて竜を前に三、後に三、左右に一宛打たれば、八竜と名付たり。保元軍に、鎮西八郎為朝の著たりける重代の宝なれ共、命に替んとの志を感じ、強力の挙動神妙也とて是を給ふ。宗行家門の面目と思ひて、畏てぞ立にける。
S4205 源平侍共軍附継信盛政孝養事
大臣殿船中にて是を見給て、能登殿へ被仰けるは、源氏の軍将九郎冠者を、度々目に懸て討外しぬる
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事、返々遺恨也。最前七騎にて寄たりしには、残党に恐て不討留海上に(有朋下P590)馳入るゝ時は、盛嗣熊手に懸弛ぬ、鍬形の甲に金作の太刀、掲焉装束也、船より上て軍し給へ、相構て九郎冠者を目にかけ給へと宣ふ。能登守は返事に、其条は存ずる処に候とて、飛騨三郎左衛門尉景経、同四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同七郎兵衛景清、矢野馬允家村、同七郎高村已下、究竟の輩三十余人、船を漕寄陸に上り、芝築地を前にあて後にあて、進退招たり。判官日既に及晩、夜陰の軍は有憚、只今の敵は名ある者共と覚たり、列者共一揉揉んとて打立給へば、土肥次郎実平、大将軍度々の合戦軽々敷候、若者共に預給へとて、判官をば本陣に留置、実平先陣に進ければ、子息弥太郎遠平、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、佐々木四郎高綱、金子十郎家忠、渋谷庄司重国、子息馬允重助、渡辺源五馬允眤、伊勢三郎義盛、鎌田藤次光政、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信、片岡八郎為春等を始として、一人当千の者共五十余騎、轡を並て蒐出づ。平家は歩立にて、芝築地より打出て、引詰引詰馬の上を射る。源氏は馬上より指当指当落し矢に射る。寄つ返つ追つ追れつ、入替入替々々射合たり。流るゝ血は砂を染、揚塵は煙の如し。源氏手負は陣に舁入、平家討れば舟に運びのす。此にして、常陸国住人鹿島六郎宗綱、行方六郎、鎌田藤次光政(有朋下P591)を始として、十余人は討れにけり。能登守は心も剛に力も強、精兵の手聞なり。源氏が懸廻し懸廻して、ちと踉■所を見負せて、指詰々々射ける矢に、武蔵国住人河越三郎宗頼、目の前に被射て引退。
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次に片岡兵衛経俊、胸板被射て引退く。次に河村三郎能高、内甲被射落にけり。次大田四郎重綱、小かひな射られ引退。次に判官乳母子、奥州佐藤三郎兵衛継信は、黒革威鎧を著たりけるが、首の骨を被射貫、真逆さまに落たりけるを、能登守童に菊王丸と云者あり、本は通盛の下人成けるが、越前三位討れて後、其弟なればとて此人に付たりけるが、萌黄糸威腹巻に、左右射■さして、三枚甲居頸に著なし、太刀を抜て飛で懸り、継信が首を取らんとする。四郎兵衛忠信立留り、引固て放矢に、菊王丸が腹巻の引合つと被射貫て、一足もひかず覆倒。忠信が郎等に八郎為定、小長刀を以開て、童が首を取んと懸る。能登守童が頸取れじと、太刀を打振つとより、童が手を取引立て、曳声を出して船に抛入。暫しは生べくや有けんに、余り強被投て、後言もせず死にけり。忠信は此間に、兄の継信を肩に引懸、泣々陣の中へ負て入たり。判官近く居寄給、いかに継信よ/\、義経爰に有、一所にとてこそ契しに、先立る事の悲さよ、如何にも後生をば可弔、冥途の旅心安思ふべし、さても何事をか思ふ、云置かし(有朋下P592)と宣へ共、只涙を流す計にて、是非の返事はなし。判官重て、汝心があればこそ涙をば流すらめ、猛兵の矢一に中て、生ながら不言事やはある、左程の後れたる者とは不存者を、今一度最後の言聞せよと宣へば、継信息吹出し、よに苦しげにて息の下に、弓矢取身の習也、敵の矢に中て主君の命に替は、兼て存る処なれば更に恨に非ず、只思事とては、老たる母をも捨置、親き者共にも別れて、遥に奥州より付奉し志は、平家を討亡して、日本国を奉行し給はんを見奉ら
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んとこそ存しに、先立奉計こそ心に懸侍れ、老母が歎も労しと申ければ、さしも猛武士なれ共、判官涙をはら/\とぞ流し給ける。実に思ふも理也、敵を亡さん事は不可経年月、義経世にあらば、汝兄弟をこそ左右に立んと思ひつるにとて、手に手を取合て泣給へば、継信穴嬉しと、其を最後の詞にて、息絶けるこそ無慙なれ。此を聞ける兵共も、鎧の袖を絞けり。日も西山に傾ける上、判官には多くの郎等の中に四天王とて、殊に身近く憑み給へる者は四人あり。鎌田兵衛政清が子に、鎌田藤太盛政、同藤次光政と、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信也。藤太盛政は、一谷にて討れぬ、一人闕たる事をこそ日比歎しに、今日二人を失て、今は軍も無為とて、継信、光政が死骸を舁て、当国の武例高松と云柴山に帰給ひて、其辺を相尋て(有朋下P593)僧を請じ、薄墨と云馬に、金覆輪の鞍置て申けるは、心静ならば懇にこそ申べけれ共、斯る折節なれば無力、此馬鞍を以て、御房庵室にて卒都婆経書、佐藤三郎兵衛尉継信、鎌田藤次光政と廻向して、後世を弔給へとて、舎人に引せて僧の庵室に被送けり。此馬と云は、貞任がをき黒の末とて、黒き馬の少ちひさかりけるが、早走の逸物也。多の馬の中に、秀衡殊に秘蔵也けれ共、軍には能馬こそ武士の宝なれば、山をも河をもこれに乗て敵を攻給へとて、判官奥州を立ける時、進たる馬也。宇治川をも渡し、一谷をも落せし事此馬也。一度も不覚なかりければ、吉例と申けるを、判官五位尉に成りけるに、此馬に乗たりければ、私には大夫とも呼けり。片時も身を放じと思給けれども、責ても継信光政が悲さに、中有の路にも乗かしとて被引たり。
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兵共是を見て、此君の為に命を失はん事不惜とぞ勇ける。
源氏は武例高松に陣を取、平家は屋島焼内裏に陣を取、源平の両陣三十余町を隔たり。源氏は軍にし疲て、箙を解て枕とし、鎧を脱で寄臥たり。伊勢三郎義盛ぞ終夜ら夜打もぞある。打とけ寝給ふなよ/\と、立渡立渡触れ明しける。平家は夜討の評定あり。敵は三百余騎にはよも過じ、今夜は軍に疲し、柴山にこそ臥たるらめ、御方の軍兵一千余騎、足軽に出立て、高松山を引廻し、一人も不漏などか夜討に(有朋下P594)せざるべきと、此儀可然とて、思々に出立ける程に、美作国住人江見太郎守方と、越中次郎兵衛盛嗣と、先陣後陣を諍程に、其夜も空く明にけり。夜討は実に可然かりけれ共、是も平家の運の尽るゆゑなり。
廿日夜も既に暁に成ぬ。野寺の鐘も打響、孀烏のうかれ声、旅寝の眠を驚す。判官急起直り、軍にはよく疲にけり、暫と思ひたれば早明にけり、いざや殿原よせんとて、七十余騎にて、焼内裏の前、平家の陣へ押寄て時の声を発す。平家も期したりければ声を合せ、楯つき向て支たり。平家には次郎兵衛、悪七兵衛、五郎兵衛、三郎左衛門等、三十人ばかり歩立に成て、熊手、薙鎌、手鋒、長刀を以て、馬をも人をもきらふ事なし。刺たり、突たり、切たり、薙たり、飆の吹が如くに狂廻る、面を向べき様もなし。源氏には熊谷、平山、畠山と、佐々木、三浦と、土肥、金子、椎名、横山と、片岡等三十余騎、薙鎌長刀に恐て、馬足一所にとめず、弓手に廻し妻手に馳、指詰指詰、追物射にこそ射
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たりけれ。兵五六人被射伏て、平家こらへず舟に乗て漕出す。能登守又二十騎計船より下、芝築地を木陰として、引取指詰散々に射ければ、昨日矢風は負ぬ、進者もなし。武蔵房、常陸房、旧山法師にて、究竟の長刀の上手にて、七八人歩立になり、長刀十文字に採、掃木を以て庭を払が如く薙入ければ、平氏(有朋下P595)の軍兵十余人なぎ伏たり。能登守無下に目近く見えければ、打懸る処に、いぶせくや思はれけん、又船に乗て指出す。去程に、大風に恐て留たりける軍兵、跡目に付て屋島の浦に馳来る也。(有朋下P596)