『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十四

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緋巻 第四十四
S4401 神鏡神璽都入並三種宝剣事
同二十五日、神鏡神璽入御あり。上卿は権中納言経房、参議は宰相中将泰通、弁左少弁兼忠、近衛には、左中将公時朝臣、右中将範能朝臣也。両将共に壺胡■[*竹冠+録]を帯せり。職事蔵人左衛門権佐親雅ぞ供奉しける。四塚より下馬して各歩行す。先頭中将通資朝臣参向して行事す。内侍所、内蔵寮新造唐櫃に奉納、大夫尉義経、郎等三百騎を相具して前行す。御後又百騎候。朱雀北行、六条東行、大宮北行、入御待賢門、在著御朝所けり。蔵人左衛門尉橘清季、兼て此所に候けり。神鏡神璽は入御あれ共、宝剣は失にけり。神璽は海上に浮けるを、常陸国住人片岡太郎経春が奉取上けるとぞ聞えし。神璽をば注の御箱と申、国手璽也、王者の印なり、有習云々。
抑神代より三柄の霊剣あり。天十握剣、天叢雲剣、布流剣是也。十握剣をば羽々斬剣と名。羽々とは大蛇の名也。此剣大蛇を斬ば也。又は蝿斬剣と云、此剣利剣也。其刃の上に居る蝿の、不(有朋下P628)自斬と云事なければ也。素盞烏尊の天より降り給けるに帯給たる剣也。今石上宮に被籠たり。天叢雲剣をば草薙剣と云。日本武尊草を薙で、野火を免給へる故也。又は宝剣と云、内裏に留て、代々帝の御宝なれば也。布留剣は、即大和国添上郡、礒上布留明神是也。此剣を布留
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と云事は、布留河の水上より一の剣流下。此剣に触者は、石木共に伐砕流けり。下女布を洗て此河にあり。剣下女が布に留て不流遣、即神と奉祀。故に布流大明神と云。宝剣は、昔素盞烏尊、天より出雲国へ降給けるに、其国の簸河上山に入給ける時啼哭する音あり、声を尋て行て見れば、一の老公と老婆と、小女を中間に置て、髪掻撫哭し居たり。尊問曰、汝等誰人ぞ、哭する故いかにと。老公答曰、我は是国津神也、名をば脚摩乳と云、女をば手摩乳と申、此河上の山に有大蛇、年年に呑人、親を食るゝ子を呑、親子互に相歎て、村南村北に愁の音無絶事、就中我に八人の有小女、年々八岐の大蛇の為に呑る、今一人を残せり、貌勝人、心世に無類、名をば棄稲田姫と云、又曽波姫とも申、今又大蛇の為に呑れんとす、恩愛の慈悲無為方、別を悲て泣也と申せば、尊憐之給て、汝が娘命を助けば我にえさせてんやと宣へば、老公老婆手を合て悦。縦怪の賤男なりとも、娘の命を助は不可惜、況尊をやと(有朋下P629)て即棄稲田姫を進、即奉后祝。小女湯津、湯津とは祝浄詞也、女を后に祝へば也。浄櫛を御髪にさし給ふ。浄櫛とは潔斎の義也。さて山頂に奉昇、父老公に八■の酒を被召。老公出雲国飯石郡長者なれば、取出して奉之。尊彼酒を八の槽に湛て、后を大蛇の居たる東の山の頂に立て、朝日の光に后の御影を槽の底に移し給たりけるに、大蛇匍匐来れり。尾頭共に八あり。背には諸の木生苔むせり。眼は日月の如して、年々呑人幾千万と云事を不知。大蛇の八尾八頭、八岡八谷にはびこれり。大蛇此酒を見るに、八の槽中に
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八人美人あり。実の人と思ひ、頭を八の槽に浸して、人を呑んと思て其酒を飲干。大蛇頭を低て酔臥。尊帯給へる十握剣を抜て、大蛇を寸々に斬給ふ。故に十握を羽々斬と名く。蛇の尾不切、十握剣の刃少欠たり。恠て割破て見之、一の剣あり。明なること瑩る鏡の如し。素盞烏尊是を取て、定て是神剣ならん、我私に安かんやとて、即天照太神に奉る。太神大に悦まし/\て、吾天岩戸に閉籠し時、近江国胆吹嶺に落たりし剣なりとぞ仰ける。彼大蛇と云は、胆吹大明神の法体也。此剣大蛇の尾に有ける時、常に黒雲聳て覆ける故に、天雲叢剣とは名たり。天照太神の御孫、天津彦尊を葦原瑞穂国の主とせんとて、奉天降時、八咫鏡、叢雲剣、神璽、三種の神器(有朋下P630)を奉授、其一也。代々帝の御宝なれば宝剣と云。素盞烏尊と申は、今出雲国杵築大社是也。
 < 彼老公女を尊に奉る時、潔斎の義にて浄櫛をさす。奉祝后湯津しけり。湯は祝の義也、津は詞の助也、天津社、国津社と云が如し。されば今の世までも、斎宮群行の時、帝自斎宮の御額に櫛をさして宣はく、一度斎宮に祝給なば、再都に不可帰給と仰なるは此故也。又櫛に取なし給けるは、蛇の難を遁んと也。爪櫛には悪者の怖事あるにこそ。
或人醜女に追れて逃けるに、如何にも難遁して捕れなんとしけるに、懐より爪櫛を取出して打蒔たれば、鬼神其より還ぬ。さてこそ命は延にけれ。今の世までも、抛櫛を取ぬと云は是より始れり。老公女を浄櫛に取成して奉尊たれば、遁大蛇の難命は延給にけり。娘に櫛をさす事を、今の世の人歌にも、
  かつみれど猶ぞ恋敷わきもこがゆづの爪櫛いかゞさゝまし K229 >
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崇神天皇御宇恐神威御座、同殿不輙とて、更に剣を改鏡を鋳移、古をば太神宮に奉返送、新鏡新剣を御守とす。霊験全く減らせ給はず。
景行天皇四十年夏六月に、東夷背朝家、関より東不静。天皇日本武尊に命じて、数万の官兵差副て東国へ発向す。冬十月朔〈 癸丑 〉日本武尊道に出給ふ。〈 戊午 〉先伊勢太神宮を拝し給ふ。厳宮倭姫命を(有朋下P631)以、今蒙天皇之命、赴東征誅諸叛者。こゝに倭姫命、天叢雲剣を取て日本武尊に奉授云、慎で無懈事、汝東征せんに、危からん時以此剣防て可得助事。又錦袋を披て異賊を平げよとて、叢雲剣に錦袋を被付たり。日本武尊是を給て東向。駿河国浮島原著給。其所凶徒等、尊欺んが為に、此野には麋多し、狩して遊給へと申。尊野に出て、枯野荻掻分々々狩し給へば、凶徒枯野に火を放て尊を焼殺さんとす。野火四方より燃来て、尊難遁かりければ、佩給へる叢雲剣を抜て打振給へば、刃向草一里までこそ切れたりけれ。爰にて野火は止ぬ。又其後剣に付たる錦袋を披見るに燧あり。尊自石のかどを取て火を打出、是より野に付たれば、風忽に起て、猛火夷賊に吹覆、凶徒悉に焼亡ぬ。偖こそ其所をば焼詰の里とは申なれば、此よりして、天叢雲剣をば草薙剣と名たり。彼燧と申は、天照太神百王の末帝まで、我御貌を見奉らんとて、自御鏡に移させ給けるに、初の鋳損の鏡は、紀伊国日前宮に御座、第二度御鏡を取上御覧じけるに、取弛して打落し、三に破たるを燧になし給へり。彼燧を錦袋に入剣に被付たりける也。今の
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世までに、人腰刀に錦の赤皮を下て、燧袋と云事は此故也。日本武尊猶夷を鎮んが為に、これより奥へ入、武蔵国より御船に召、上総へ渡給けるが、浪風(有朋下P632)荒して、御船危かりけるに、旅の御徒然の料に、御志深き下女を相具し給たりけるが、風波は竜神の所為也、君は国を治んが為に、遥に東夷を平げ給、我争か君を助奉らざらん、童竜神を宥んとて、舷に立出て、千尋の海に入にけり。実に竜神納受ありけるにや、風波即静りぬ。尊其後上総に渡り、夷を随へ給ける。折々には海に入し下女恋しく思召出ては、常に我妻よ/\と被召ける。御片言あつま/\とぞ聞させ給ける。東をあつまと云事は、其よりして始れり。尊東夷の凶賊討平、所々の悪神を鎮給て、同四十三年〈 癸丑 〉に帰上給けるが、異賊の為に被呪咀給て、日本武尊、尾張国よりぬるみほとほり給けるが、いとゞ燃焦るゝ御心地し給ければ、御身を冷さんとて、弓の弭にて地を掘り給たりけるに、冷水忽に湧出て河を流す。これに下浸給て御身を冷給へり。近江国醒井の水と云は是也。去共御悩いとゞ重く成給ければ、是より伊勢へ移給。虜の夷并草薙剣を天神に返進て、御弟の武彦尊を御使にて、天皇に奏し申させ給けり。日本武尊終に崩じ給ふ、御年三十。白鶴と変じて西を指て飛去。讃岐国白鳥明神と顕れ給ふ。草薙剣を、天神より尾張国熱田社に預置。天智天皇七年に、沙門道行と云僧あり。本新羅国者也。草薙剣の霊験を聞て、熱田社に三七日籠て、剣の秘法を行て社壇に入、(有朋下P633)盗出して五帖の袈裟に裹て出。即社頭にして、黒雲聳来て剣を巻取て社壇に送入。道行身
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毛竪て弥霊験を貴、重て百日行て、九帖袈裟に裹て近江国まで帰処に、又黒雲空より下、剣を取て東を指て行。道行取返とて追て行。近江国蒲生郡に大磯森と云所あり、追初森也。道行剣を取返さんとて、此より追初ければ也。行業の功日浅ければこそ角はあれとて、道行又千日行して上、二十五帖の袈裟に裹て出。筑紫に下船に乗て海上に浮み、望既足。又新羅国の重宝と悦程に、俄に波風荒して不渡得ければ、如何にも難叶とて海中に抛入。竜王これを潜上て、熱田社へ送進す。末代には又懸者も有なんとて、少も不替剣を四造具して、社頭の中に被立たり。一の社官が一人に教授る時、五の指を差上てこれを伝る様あり。其外の人、本剣新剣を不知といへり。天武天皇朱鳥元年六月〈 己巳 〉天皇病崇。草薙剣を尾張国熱田社に被送置。
 < 此事沙門道行は、天智天皇七年に盗之。たとひ三年行ひたらば、天智天皇九年歟十年歟の事也。天武天皇朱鳥元年は、十四年を隔たり。此時熱田へ送遣すと。両説不実、可決。 >
S4402 老松若松尋剣事(有朋下P634)
〔去程に〕平氏取て都の外に出。准后持て海中に入給たり共、上古ならば失ざらまし、末代こそ悲けれ。潜する蜑に仰て探り、水練する者入れて被求けれ共、終に不見。天神地祇に祈誓し、大法秘法を被行けれ共無験。法皇大に御歎あり、仏神の加護に非ずば難尋得とて、賀茂大明神に七日有御参籠、宝剣の向後を有御祈誓。第七箇日に有御夢想、宝剣の事、長門国壇浦の老松若松と云海士に仰て尋聞召と、霊夢新なりければ、法皇有還御、九郎判官を被召て、御夢旨に任て被仰含。義経百騎の
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勢にて西国へ下向、壇浦にて両蜑を被召。老松は母也、若松は女也。勅定の趣を仰含。母子共に海に入て、一日ありて二人共に浮上る。若松は子細なしと申す。我力にては不叶、怪き子細ある所あり、凡夫の可入所にはあらず、如法経を書写して身に纏て、以仏神力可入由申ければ、貴僧を集て、如法経を書写して老松に給ふ。海人身に経を巻て海に入て、一日一夜不上。人皆思はく、老松は失たるよと歎ける処に、老松翌日午刻計に上。判官待得て子細を問。非可私申、帝の御前にて可申と云ければ、さらばとて相具し上洛。判官奏し申ければ、老松を法住寺御所に被召、庭上に参じて云、宝剣を尋侍らんが為に、竜宮城と覚しき所へ入、金銀の砂を敷、玉の刻階を渡し、二階楼門(有朋下P635)を構、種々の殿を並たり。其有様不似凡夫栖心言難及。暫惣門にたゝずみて、大日本国の帝王の御使と申入侍しかば、紅の袴著たる女房二人出て、何事ぞと尋、宝剣の行へ知召たりやと申入侍しかば、此女房内に入、やゝ在て暫らく相待べしとて又内へ入ぬ、遥在て大地動、氷雨ふり大風吹て天則晴ぬ。暫ありて先の女来て是へと云。老松庭上にすゝむ。御簾を半にあげたり。庭上より見入侍れば、長さは不知、臥長二丈もや有らんと覚る大蛇、剣を口にくはへ、七八歳の小児を懐、眼は日月の如く、口は朱をさせるが如く、舌は紅袴を打振に似たり。詞を出して云、良日本の御使、帝に可申、宝剣は必しも日本帝の宝に非ず、竜宮城の重宝也。我次郎王子、我蒙不審海中に不安堵、出雲国簸川上に尾頭共に八ある成大蛇、人をのむ事年々なりしに、
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素盞烏尊、憐王者孚民、彼大蛇を被失。其後此剣を尊取給て、奉天照太神、景行天皇御宇に、日本武尊東夷降伏の時、天照太神より厳宮御使にて、此剣を賜ひて下し給し、胆吹山のすそに、臥長一丈の大蛇と成て此剣をとらんとす。去共尊心猛おはせし上、依勅命下給間、我を恐思事なく、飛越通給しかば力及ず、其後廻謀とらんとせしか共不叶して、簸川上の大蛇安徳天皇となり、源平の乱を起し竜宮に返取、口に含(有朋下P636)挿絵(有朋下P637)挿絵(有朋下P638)るは即宝剣なり、懐ける小児は先帝安徳天皇也、平家の入道太政大臣より始て、一門人皆此にあり。見よとて傍なる御簾を巻上たれば、法師を上座にすゑて、気高上搗エ数並居給へり、汝に非可見、然而身に巻たる如法一乗の法の貴さに、結縁の為に本の質を不改して見ゆる也、尽未来際まで、此剣日本に返事は有べからずとて、大蛇内に■入給ぬと奏し申ければ、法皇を奉始、月卿雲客皆同成奇特思給にけり。偖こそ三種神器の中、宝剣は失侍りと治定しけれ。
 < 疑崇神天皇御宇、恐霊威新鏡新剣を移して、本をば太神宮に被送といへり。然者壇浦の海に入は新剣なるべし。何んぞ竜神我宝と云べきや。次素盞烏命蛇の尾より取出たる時、奉太神宮には、天神の仰に、我天岩戸に有し時、落たりし剣也と仰す。今又竜神竜宮の宝と云。然者竜神と天照太神とは一体異名歟、不審可決云々。 >
同日夜に入て、故高倉院の第二宮、都へ帰入せ給。法皇より御迎御車被進、七条侍従信清御伴に候けり。七条坊城の御母儀の宿所へ入せ給ふ。此宮は当時の帝の同御腹の御兄、もしの事あらば儲君まで
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と、二位殿賢々敷被具進たり。都に御座ば、此宮こそ御位にも即せ給べきに、其可然事なれ共、四宮御運は目出かりけりと人申あへり。今年七歳にならせ給ふ。御心ならぬ旅の空に出て、三年を過け(有朋下P639)れば、御母儀も御乳人持明院の宰相も、■く恋しく思奉けるに、事故なく入給ひたれば、奉見ては誰々も悦泣してぞ御座ける。
S4403 平家虜都入附癩人法師口説言並戒賢論師事
同四月二十六日申時に、前内大臣、前平大納言時忠、前右衛門督清宗已下、虜入洛。内府並清宗卿は同車、八葉の車に前後の簾を巻、左右物見をあぐ。各浄衣を被著たり。時忠卿同車を遣つづけ給へり。子息の讃岐中将時実は、現所労にて不渡、内蔵頭信基、蒙疵閑道より入。武士百余騎車の左右にあり、兵三騎又車の前にあり。内大臣は四方を見廻して、痛思入たる無気色、さしも声花に麗しかりし人の、あらぬ貌に疲衰へ給へり。右衛門督は、うつぶして目も見挙給はず、深思入たる有様也。貴賤上下都の内にも不限、近国遠国、山々寺々より、老たるも若も来集て、鳥羽の南の門、造道、四塚、東寺、洛中に充満たり。人は顧事を得ず、車は轅を廻らすに不及、治承養和の飢饉、東国西国の合戦に、人は皆死亡ぬと思へるに、残は猶多かりけりとぞ見えし。都を出給て、僅に三年まぢかき事なれば、其有様一として不忘、今日の(有朋下P640)事がら夢現分兼たり。心なき賤男賤女までも、涙を流し袖を不絞者なかりけり。増て馴近付言葉にも懸ん人、さこそは哀と思けめ。年来重恩をも蒙、親祖父が時より伝はりたりける輩も、身の棄がたさに、多く源氏に付たりけれ共、
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昔の好み争か可忘なれば、袖を覆て面をもたげぬ者も多かりけり。其中に鳥羽里の北、造道の南の末に、溝を隔て白帯にて頭をからげ、柿のきものに中ゆひて、■杖など突て十余人別に並居たり。乞者の癩人の法師共也。年闌たる癩人の鼻声にて語を聞ば、人の情を不知、法を乱るをば悪き者とて、不敵癩と申たり。去共此病人達の中にも、不敵たるもあり不敵ならざるもあり、又直人の中にも、善者も不善者もこも/゛\也。世の習人の癖也。此法師加様の病を受たる事此七八年也。当初事の縁有て、文章博士殿に候し時、田舎侍に小文を教られしを聞ば、世は人の持にあらず、道理の持也と云事をよまれき。又清水寺に詣て通夜したりし時、参堂の僧の中に、法華経を訓に綴読あり。近付寄て聴聞せしかば、不信の故に三悪道に落と読れき。此内外典に教たる二の事、耳の底に留て明暮忘ず、心の中にたもたれて候ぞ、前世の不信の故、道理を不知ける罪の報にて、此世まで懸る病を受て候へ共、程々に随は、道理をば背かじと不信ならじと、深く思執て候へば、心中(有朋下P641)をば神も仏もかゞみ給て、本地垂跡の御誓誠ならば、来世は去共と憑思て候ぞ。就其も不及事なれ共思合せらる。此平家の殿原の、世にはやらせ給し有様と、今日の事様と、申ても/\浅増く候。故太政入道殿は、申も恐ある事なれ共、道理を不知人にて、只我思儘に振舞れし事は、世一の事にあらず、前世の果報也とは思ながら、身の程も顧ず、我身より始て、一家の子孫に至るまで、高官位に推なるのみに非ず、掛も忝帝王院宮を奉煩、多の上搨Bを殺し流し、余に狂して不信故に、三井寺
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興福寺を亡し、金銅の大仏をさへ奉焼。本尊聖教の咎は何か有し、家人眷属に至までも、彼心に叶はんとて、欲をかき恥を忘たりき。皆道理を忘たる振舞と承たりしが、答ぬ事にて、入道殿世盛にて失られぬ、取つゞきいつしか数の公達郎等までも都を打出でて、今日はよろづの人の口にのり目をさます、皆道理ゆゑと覚ゆ、文虚言せずとは是也。嫡子にて最愛し給し小松内大臣殿は、みめも心も能人にて、父の入道の余に僻事せられしを制し兼て平家の世はこたゆまじ、答ざる父の後まで生て何にかはせん。命をめせと熊野に参て被祈ければ、程もなく腫物をやまれけれ共、様ありとて療治もし給はで死給き。其公達あまた御座けれ共、一人も刀のさきにかゝらず、心と海に入給けり、今の内大臣殿の有様(有朋下P642)こそはかなく無慙なれ、其に取ても禁忌敷事を承ぞとよ、入道殿の世におはせし時より、妹の建礼門院に親しくよりて被儲ける子を、高倉院の御子と云なして、王位に即申たりけるとかや、不及心にも、さも有りけるやらんと覚え候ぞ、去ばこそ受禅の君とて、内侍所なんど申す様々の御守共を取加られて御座ながら、不持して、かゝるひしめきは出来て候にこそ、此事の起たゞ不信よりなる事也、されば入道殿も、臨終浅増くして悪道に堕給けり、今わたさるゝ人々も、生ながら三悪道に堕られたりと覚ゆと云。又並居たる長しき乞者が云様は、御房の宣ふ様に、人と生て仁義を不顧、恥を不知者をば人癩と云、聞え給大臣殿に近づきよりて見参をせばやな、恥を不知人に御座けるにこそ御座けれ。一門の殿原は皆海に入給けると聞ゆるに、何とて命の惜かるべき
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ぞ、哀人癩の上昵嘯ゥな、子細なき我等が同僚にや、但此間の御心は、恐らくは我等には劣給へり、いざ/\御房達、大臣殿の此前をとほり給はん時車を抑て、辱号かくに爪つひず、勘当かぶるに歯かけずと、拍子で舞踊らんと云。是を聞ける徐人々云けるは、哀也、みめさまこそ禁忌しけれ共、心の至は恥しくも語りたりといへば、又傍に有ける僧の云様は、病は四大の不調よりも発る、又先業の報ふ事もあり、心は失ぬ事なれば形(有朋下P643)にや依べき、天竺に戒賢論師と云けるは法相唯識の法門を護法へ受伝へて、大小乗の奥義をきはめ、有空中の三時教をぞ立たりける。知慧の光は一天空を耀し、徳行の水は卒土の塵を潤しけれ共、身に癩病を受て、療治に力を失へり、如無仏天加護、三宝冥助し給ざるか、内外の治術不及して、即に自殺せんとし給けるに、天人来下して告云、汝深く如来の教籍を達すといへ共、業病難助、釈尊頭痛背痛し給へり、況凡身をや、空く身命を不捨して、宜仏法を流布すべし、聖僧震旦より来て、必汝が法を伝受すべしと、戒賢諸天の告に驚、捨身をとゞめて相待処に、玄弉三蔵天竺に渡て謁戒賢論師、五相宗の教を伝たり、然して後に論師浮生の重病を厭て、終に自殺し給けり。覚り深き人なれ共、身あれば必病あり、心あらん者は心を浄く持べき事なれば、加様の乱僧なればとて、心さへ拙かるべきに非ずとぞ語ける。去程に内大臣殿の車近なるとて、見物の上下色めきければ、武士共雲霞の様に打囲て雑人を払ければ、口立る乞者法師原も、蜘蛛子を散して失にけり。法皇は六条朱雀に御車を立て御覧あり。人々多御伴に候
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けり。近く召仕れ奉しかば、御心弱く哀に思召れて、御衣の袖を竜顔にあてさせ給。供奉の人々も只夢の心地にて、現とは不覚けり。貴も賤も目をも懸てし、詞ばにも懸らばやと(有朋下P644)こそと思あへりしに、今角可見成とは不測也。真竜失勢同蚯蚓といへり、此ことわざ誠也けり。一年大臣に成給て拝賀の時、公卿には花山院大納言を始奉て十二人、中納言四人、三位中将三人、殿上人には、蔵人頭右大弁親宗以下十六人伴をして、公卿も殿上人も、今日を晴と花を折て■き遣列てこそ有しか。即此平大納言、其時は左衛門督にて御座き。院御所より始て参給処ごとに、御前へ召れて御引出物給り、もてなされ給へりし気色、目出かりし事ぞかし。今懸るべしとは不思寄、是やこの楽尽て悲み来なる天人五衰なるらんと、只涙を流しけり。
S4404 大臣殿舎人附女院移吉田並頼朝叙二位事
今日車を遣ける牛飼は、木曾が院参の時車遣て、出家したりし弥次郎丸が弟に、小三郎丸と云童也。西国までは仮男に成て、今度上りたりけるが、今一度大臣殿の車をやらんと思ふ志深かりければ、鳥羽にて九郎判官の前に進出て申けるは、舎人牛飼とて下揩フはてなれば、心あるべき身にて候はね共、最後の御車を仕ばやと深く存候、御免有なんやと泣々申ければ、何かは苦かるべきとて免てけり。手を合額を突て悦つゝ、心(有朋下P645)計はとり装束てぞ車をば仕りける。道すがら涙に咽て面をももたげず、此に留つては泣彼に留つては泣ければ、見人いとゞ袖をぞ絞ける。大路を渡して後は、判官の宿所六条堀川へぞ被遣ける。物まかなひたりけれ共、露見も入給はず、互に目を見合て、たゞ涙をのみ
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ぞ流し給ける。夜に入けれ共装束もくつろげず、袖片敷て臥給へり。暁方に板敷のきしり/\と鳴ければ、預の兵奇て、幕の隙より是を見れば、内大臣子息の右衛門督を掻寄て、浄衣の袖を打きせ給けり。右衛門督は今年十七歳也。寒さを労給はんとて也。熊井太郎、江田源三など云者共是を見て、穴糸惜や、あれ見給へ殿原、恩愛の慈悲ばかり無慙の事はあらじ。あの身として単なる袖を打きせ給たらば、いか計の寒を禦べきぞや、責ての志かなとて、猛きもののふなれ共皆袖を絞けり。建
礼門院は、東山の麓吉田の辺に、中納言法橋慶恵と申ける奈良法師の坊へぞ入らせ給ひける。住荒して年久成にければ、庭には草高く、軒には垣衣繁、簾絶て宿顕なれば、雨風たまるべくもなし。昔は玉の台を瑩、錦の帳に纏れて、明し暮し給しに、今は悲人々には皆別果ぬ。浅増気なる朽坊に、只一人落著給ける御心中、被推量て哀也。道の程伴なひ進せける女房達も、一所に候べき様もなければ、是より散々に成ぬ。御心細さにいとゞ消入様に被思召け(有朋下P646)り。誰憐誰孚むべし共思召ねば、魚の陸に上りたるが如、鳥の子の栖を離たるよりも尚悲し。憂かりし波の上船の中、今は恋しくぞ思召出ける。同底のみくづと成べき身の責ての罪の報にや、被取上残留てぞ思召も哀也。天上の五衰の悲みは、人間にも有けりとぞ見させ給ける。
同二十七日、主上閑院より内裏に行幸有けり。大納言実房卿以下ぞ被供奉ける。内侍所、神璽、官庁より温明殿へ被奉渡。上卿、参議、弁次将、皆もとの供奉人なりけり。三箇日被行臨時御神楽
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けり。三条大納言実房卿参、件座著て、大外記頼業を召て、源頼朝、追捕前内大臣賞に叙従二位由、可仰内記とぞ仰給ける。頼朝本位正下四位也。勲功の越階常例也。
S4405 宮人曲内侍所効験事
二十九日、国忌なりければ御神楽被止、五月一日に又被行ける。宮人曲多好方仕ければ、勧賞には、子息右近将曹好節を被任将監けり。宮人の曲と云は、好方祖父八条判官資忠と云々。舞人の外は知者なし。堀川院ばかりにぞ奉授たりける。資忠は山村政連が為に被殺ければ、此曲永世に絶なんとしけるを、内侍所の御神楽被行と(有朋下P647)て、堀川院、資忠が子息近方を砌下に召置れて、主上御簾の中にして拍子をとらせ給ひ、近方に被授下けり。父に習ひたらんは尋常の事也。苟孤子として父にだにも不習者が、懸る面目を施す、道をただしと思召、絶たるを継廃れたるを興給へれば、其より以来今に伝彼家。内侍所は、昔天照太神天岩戸に御座ける時、我御形を移留給へる御鏡也。捧天神手於宝鏡天忍穂耳尊に授給て云、我子孫此宝鏡を視しては、必我を見と思へ、同殿に床を一にして奉祝とて奉授より次第に相伝へて、一御殿に有御座けるを、第十代帝崇神天皇御宇に及で、恐霊威給て被奉遷別殿、後には温明殿にぞ御座す。遷都の後百六十六年を経て、村上天皇御宇天徳四年九月二十三日子刻に、内裏焼亡。火は左衛門陣より出来たりければ、内侍所の御座温明殿も程近かりける上、如法夜半の事なれば、内侍も女官も不参会、内侍所をも不奉出。小野宮急参給て見給へば、温明殿ははや焼けり。内侍所も焼させ給ぬるにや、代は角にこそと思召、涙を流し給ける程に、
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灰燼上にして奉見出たりけるに、木印一面其文に、天下太平の四字ありけり。又南殿の桜の梢に飛かゝらせ給たりけるが、光明赫奕として朝日の山端を出づるが如し。代は猶不失けりと悦の涙関敢給はず、右の膝を突左袖を披て、昔天照太神為奉(有朋下P648)守百皇移し留給へる御鏡也。御誓未改給者、神鏡実頼が袖に宿入らせ給へと被仰ける。御言の未終に、高梢より飛下らせ給て、御袖に入せ給へり。即つゝみ奉て御前を進で主上の御在所、太政官の朝所へぞ被渡進ける。猛火の中にして無損失けるこそ霊験掲焉と覚ゆれ。今の代には、誰人か請じ奉らんと可思寄、神鏡も飛入せ給はん事そも不知、上代は目出かりけりと、身毛竪て貴かりけり。
S4406 時忠卿罪科附時忠聟義経事
同五月三日、頭弁光雅朝臣仰承て、内大臣実定に被問けるは、依時忠卿申状、奉扶持先帝、同意謀叛臣畢、令被行所当罪之条、更無所遁申、但於内侍所者、前内大臣、入海時可奉投海中之由、再三雖示之、奉捧頭上帰降畢、此雖為扶命、又非微忠哉、今度被免罪科、剃髪染衣と望申之間、内侍所事、被尋義経之処に、有其実之由所言上也。何様に可被行哉、可計申之由被仰下ければ、実定返事被申けるは、虜の人々の罪科の所致如臣下、非可計申、可被決叡慮之由、先日申入畢。但於時忠卿者、非武勇人、任申請被優怒之条、尤可為善政(有朋下P649)歟とぞ被申たりけれ共、院宣の御使花方が鼻をそぎ、本鳥切などして、己にするに非と狼藉申振舞たりけるに依て、遂に流罪に定にけり。此時忠卿、子息讃岐中将時実も、判官の宿所近く
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おはしけり。心猛人也。かほどに成ぬる上は思切べきに、尚も命の惜く思けるにや、中将に語て、如何がはすべき、散すまじき状共を入たる皮籠を一合判官に取れたり、彼状共鎌倉に見えなば、損する者も多、我身も難遁死と歎給。中将計申、判官は大方も情ある上、女などの打堪歎事をばもちはなれずと承侍、懸る身々と成ぬれば非可苦、親成給へかし、さらばなどか情をもかけざらんと云。時忠卿涙をはら/\と流して、我世に在し時は女御后にもと思て、なみ/\の人に見せんとは不思とて袖を顔に当給へば、中将も同涙を流して、今は云に甲斐なし、只疾計ひ給べしと宣ひければ、当時の北方帥典侍の腹に、今年十八になる姫君の不斜厳をぞ中将は申けれ共、其をば猶労く覚して、先腹に二十八に成給へるを、内々人して風めかしければ、判官も可然とて迎取ぬ、年こそ少し長しく侍けれ共、清たわやかに、手跡うつくしく、色情ありて声花なる人也。判官志深く思ければ、本妻河越太郎重頼が女も有けれ共、是をば別の方をしつらひて居たり。中将の計少しも不違、やゝ相馴て後、彼文箱の事申た(有朋下P650)りければ、判官封を不披返送けり。大納言大に悦て、坪中にして焼之。何事にか有けん、悪事共の日記とぞ聞えし。
S4407 頼朝義経中悪附屋島内府子副将亡事
〔去程に〕平家は北国西国度々の合戦に亡ぬ。前内大臣以下被虜ぬ。今は国々も鎮て、人の行通も無煩。都の上下安堵したりければ、九郎判官神妙也と法皇被思召。洛中の男女、哀此人の世にて侍れかしと云と鎌倉に披露有ければ、源二位宣ひけるは、九郎が高名何事ぞ、以頼朝謀軍兵を指上せて平家を亡し
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天下を穏にす、九郎一人して争か世をば可鎮、其に法皇の叡慮も不心得、人の云に誇て、世をば我儘に計たるにこそ、早晩しか人こそ多けれ、時忠の聟に成て、彼大納言をもてあつかふなるも無謂、又世に恐をなさず、時忠九郎を聟に取も不思議也、此定ならば、九郎鎌倉へ下ても、過分の事共計ん歟、存外々々と宣ければ、始終中よからじ、世の乱とは成なんと私語けり。
同七日前内大臣以下虜共、九郎判官義経相具して、関東下向すべしとてひしめきあへり。六日晩に大臣判官に宣けるは、虜の中に八歳になる小童は、宗盛が末子に侍、誠や明日 (有朋下P651)関東下向と聞侍り、彼小童今一度見たく侍り、免し給なんやと被仰ければ、判官最安事なりとて、奉免之。此児をば判官の兄公に、河越小太郎茂房預て宿所に奉置。介錯に少納言殿、乳母に冷泉殿とて、二人の女房つき奉、はては如何にと見なさんと、若君を中にすゑ奉て旦暮泣歎けり。理也。血の中より手を離たず、八歳まで生立たれば、親をも捨都をも隔て、倦旅の空波の上までも付奉て、今虜れて見馴し父にも引別、恐しき夷中に御座ければ、歎思も哀也。六日晩程に判官の使とて、少人急度奉具と申たれば、二人の女房は、穴心憂や、朝鎌倉へと聞に、今夜可奉失にこそとて、足手を摺てをめき叫。いづくにあらば可遁ならね共、左右の袂に取付て、悶焦も哀也。既に出ければ、二人の女房も相連て出たるが、涙にくれて行空も見ず。大臣殿は此間恋しく覚しけるに、若君父を奉見、急冷泉殿が手を下て、膝上に居給へり。大臣はいかに副将々々とて、髪掻撫はら/\と泣給へば、右衛門督二人の女房、共に涙を
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流けり。内大臣やゝ有て、涙の隙に仰られけるは、あの右衛門督、三歳と申侍る時母には後候ぬ、其後是が母を相具して侍しか共、右衛門督七に成まで子もなかりしかば、人の孤子は無慙なる者をと思て、厳島社に参て祈申侍りし程に、明神の御利生に懐妊したりしかば、母(有朋下P652)も不斜悦て、同は男子にて侍れかしと申し程に、難産せし間、数の宝を抛て仏神に祈申しかば、此子を生たりしか共、母は命生べき様もなし、よわ/\しく成て、七日と申ししに、既に限と見え侍しに、母が申し事思出て無慙に候。我身まかりなば、人は齢若ければ、定て人を語、子をも儲給べし、其は尋常の事なれば恨に非ず、此子出来て、幾程もなく無墓ならん事の悲さよ、人は不来子をば申まじかりけり。身まかりて後は、相構て我孝養には、別に仏事功徳をば営給はず共、此子不便にせよ、なさぬ中は愛する事と聞見侍れば、七歳の少人をも情を懸て過しき。此事を思に、後世の障と成ぬべしと口説侍しかば、人一人が子ならばこそ角は仰られめ、何も宗盛が子也。な歎給そ、三にならば袴著せ、五にて元服せさせ、能宗となのらせて兄弟左右におきて、人々の忘形見にみんずれば、心苦しく思給な、夫妻に縁なき身也、今は男聖して二人の者を育んずれば、更に疎の事有まじと申しかば、偖は嬉き事哉、哀さらんを見て死ばや、能宗よ/\、いとゞ命の惜ぞと、是を最後の言にて消入侍き。母が云置し事、よに無慙に侍りしかば、つかの間も突て、朝夕前にて生立侍りき。おとなしく成儘に、よに宗盛に似たりと申せば、いとゞ不便に覚えて、哀これを母に見せばや、さしもこそ歎しにと思侍。(有朋下P653)是を副将と申
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事は、小松内府薨じて、入道世を我に譲りしかば、右衛門督は嫡子なれば、大将軍して東国を知せん、是は弟なれば、副将軍とて西国を知せんと存じて、副将々々と申侍ける兼言こそはかなけれとて、浄衣の袖にかゝへ給、髪掻撫てさめ/゛\と泣給ふ。右衛門督も二人の女房も、声を不惜をめき給へば、上下品こそ替共、子は悲事なれば、さこそ覚すらめとて、武士も袂を絞けり。若公此有様を見給て、浅増げにぞ覚して、みろ/\とかいを造給ふぞ糸惜き。夜も漸く深ければ、内大臣今はとくとく帰れ、嬉しく見つと宣へば、ひし/\と浄衣の袖に取付て泣給ふ。大臣は穴無慙、終につれはつまじき者をとて御涙に咽、無為方ぞおはしける。右衛門督泣々、今夜は是に見苦き事あるべし、帰て明日とく/\よと宣へ共、父の膝の上を離給はざりければ、兎角すかして押のけ奉る。乳母冷泉殿懐取、少納言局と泣々出ければ、内大臣は日比の恋しさは事の数にも侍ず、今を限の別こそとて、袖を顔に押あて給ふぞ糸惜き。判官は河越小太郎茂房を召て、此少者をば夜中に可失と宣へば、茂房仰承て、駿河次郎と云中間を相具し、二人の女房に懐せて、六条を東川原までこそ出にけれ。今は奉失べきにこそ、本の宿には帰ぬ方へ行事よと、肝胸騒て現心なし。六条川原に敷皮しき、乳母の女房の手よ(有朋下P654)り武士懐きとらんとしければ、二人の女房可惜遂あらね共、永別を悲て、共にかゝへて不放之、唯悶焦てをめき叫。さすが岩木をむすばぬ身成ければ、武士も涙を流て、無左右不取之、夜も既深ければ、さのみは如何がとて若公を奪取、鎧の上に懐つゝ、二人女房を押
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隔れば、若公あまり恐ろしさに声を挙て、冷泉殿はなきか少納言殿はなきか、我をば畏しき者に預ていづくへ行ぬるぞ、恐々と叫ければ、二人女房も遥に是を聞、石上に臥倒てをめきけり。駿河次郎布革のそばに寄、腰刀を抜出して既指殺んとしければ、穴畏し、冷泉殿是いかにせん、少納言殿とて、敵の鎧の袖下に■入て、ひし/\とこそ懐付けり。余に悲思ければ、刀の立所も不知けり。主命力及ねば、目を塞歯をくひ固て、心先三刀指て押退つゝ穴を堀、川原に埋て武士は帰にけり。二人女房は猶留て、指爪のかけ損ずるをも不顧、空き骸を堀起し、引上中に置、手取足取いかに/\と叫けり。責ての思の余に身を懐き、河の耳を下に行、八条が末に深き所の有けるに、冷泉殿若公の身我身に結びつけ、少納言局と手を取組て、水に沈て死にけり。
S4408 女院出家附忠清入道被切事(有朋下P655)
同八日建礼門院、吉田辺にて御餝下させ給、御戒師は長楽寺の阿証坊印西上人とぞ聞えし。御布施は先帝の御直衣なりけり。上人給之、申出せる詞はなくして涙を流す。墨染の袖も絞計也。其期まで召れたりければ、御移香も未残。西国より御形見とて、いかならん世までも御身をはなたじと思召されて、朝夕取出して御覧じけれ共、可成御布施物のなき上、殊に御菩提の御為にとて、泣々御自これを取出させ給けるぞ悲き。上人庵室に帰、十六流の幡に縫、長楽寺常行堂に被懸たり。阿証坊の印西と申は、柔和を性に受、慈悲の心深し。釈尊平等の思に住し、菩薩抜苦の恵あり。世の人のことわざに、知慧第一法然坊、持律第一葉上房、支度第一春乗房、慈悲第一阿証坊といはれけり。されば
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同追善と云ながら、先帝の御事、奉深思入、道場荘厳の旗に被懸けり。縦沈蒼海之底、雖受修羅之苦患、豈生白蓮之上、不誇菩提之快楽やと、憑しくぞ覚えける。女院は御年十五にて入内ありしかば、十六にて后妃の位にそなはり給き。二十二にて皇子誕生、いつしか立皇太子給て、程なく位に即せ給しかば、二十五にて院号ありき。入道大相国の御女の上、天下国母にて御座しかば、世の重く奉仰事理にも過たり。今年は二十九にぞ成給へる。桃李粧濃、芙蓉形衰給はね共、高倉院(有朋下P656)にも後させ給ぬ。先帝も海に入給て、御歎打続き晴る御事なければ、翡翠の簪、今は付ても何かはせさせ給べきなれば、御様を替させ給へり。憂世を厭ひ真の道にいらせ給へ共、御歎は休まらず。人々の今はかうとて海に入し有様、先帝の御面影、いかならん世にかは可思召忘。はかなき露の命と云ながら、何に懸て消やらざるらんと思召つゞけては、御涙にのみぞ咽給ふ。五月短夜なれ共明し兼させ給へり。露まどろませ給ふ御事なければ、昔の御有様を夢にだにも御覧ぜず、壁に背たる残燈影幽に、暗き雨の窓を打音も閑なり。上陽人が上陽宮に被閉たりけん悲しみも有限、寂さは争か是には過じとぞ思召。昔を忍妻となれとや、本の主の移し植たりける軒近き盧橘に、風なつかしくかをりける。折しも郭公の鳴渡ければ、角ぞ思召つゞけける。
  郭公花たちばなの香をとめて啼けば昔の人や恋ひしき K230 
大納言典侍聞給て、
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  猶も又昔をかけて忍べやとやふりしに軒に薫るたちばな K231 
女房達多くおはしけれ共、二位殿の外は水の底にも沈人なし。武士の手に捕れて故郷に帰上たれ共、住馴し宿も煙と昇し後は、空き跡のみ残て滋野辺と成、そこはかとも(有朋下P657)不見けり。適見馴し人の問来もなし。謬て仙家に入りし樵夫が、里に出て七世の孫に逢たれ共、誰と咎めざりけんも角やと覚ていと悲し。されば若も老たるも様を替形を窄て、在にもあらぬ有様にて、不思懸谷の底にも柴の庵を結。岩の迫に赤土の小屋を修て、露の命を宿しつゝ、明し暮すぞ哀なる。昔は雲台花閣の上にして、詩歌管絃に興ぜしに、今は人跡絶たる朽房に、友なき宿を守御座せば、会坂の蝉丸が、藁屋の床に独居て、宮も藁屋もはてしなければと読けるも、今こそ被思召けれ。此大納言佐と申は、本三位中将の北方、邦綱卿の御女、先帝の御乳母にておはしけり。重衡一谷にて虜られて京へ上給しかば、旅の空に憑もしき人もなくて、歎悲み給にしか共、先帝につき進せて西国におはせしが、水に入せ給にしかば、故郷に還上て、建礼門院につき進せて、暫は吉田に候はれけれ共、其も幽なる御有様にて可叶もなければ、姉にておはする人、大夫三位に同宿して、日野と云所におはするを憑て移居給へり。重衡卿も露命未消と聞給へば、いかゞして今一度見もし見えもすべきと思召けれ共、風の便の言伝をだに聞給はねば、唯泣より外の事なくして、明し暮し給ふぞ糸惜き。同十日、上総入道忠清をば、姉小路川原にして、河越小太郎茂房斬首。遂に遁ざりけるに、命を惜みて降人になりて、斬られに(有朋下P658)けるこそ無慙なれ。