『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十五
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裳巻 第四十五
S4501 内大臣関東下向附池田宿游君事
去七日は、九郎判官、前内大臣以下の虜共相具して、都を立て、六条堀川の宿所を打出けるに、大臣武士を召て、此に在し少者は母もなし、我も下りなば憑もしき者もなくて、いか計かは歎侘侍らん、残し留るこそ心苦く侍れ、相構て不便にし給へと宣も敢ず、御涙を被流けるぞ哀なる。夜部六条川原にて失たるをば知給はず、角宣けり。猛き夷なれ共、恩愛の道は哀也と、皆袖をぞ絞りける。角て内大臣父子、美濃守則清以下、都を出給て会坂関にかゝり、都の方を顧給て、いつしか大内山も隔ぬと、流す涙を袖に裹、東路や今日ぞ始て踏見給て、昔蝉丸と云し世捨人、山科や音羽里に居をしめ、此関の辺に藁屋の床を結びて、常に琵琶を弾つゝ、和歌を詠じて思をのぶ。
これや此ゆくも帰るも別れてはしるもしらぬも逢坂の関 K232
世中はとても角ても有ぬべし宮も藁やもはてしなければ K233 (有朋下P660)
流泉啄木の二曲を伝んとて、博雅三位三年まで、夜々通し所也と思出給にけり。蝉丸は延喜第四宮なれば、此関のあたりをば、四宮河原と名けたり。東三条院石山寺に詣給て、還御に関の清水を過させ給ふとて、
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あまた度ゆきあふ坂の関水をけふを限のかげぞ恋しき K234
と詠じさせ給ひしも、我身の上とぞ思召。関山関寺打過て、大津の打出浦に出ぬれば、粟津原とぞ聞給ふ。天智天皇六年に、大和国明香岡本の宮より、近江国志賀郡に被遷て、大津宮を被造ける所にやと思召つゞけつゝ、湖水遥に見渡せば、跡定めなき蜑小舟、世に憂我身にたぐひつゝ、勢多長橋轟々と打渡、野路野原を分行て、野州の河原に出にけり。三上嵩を見給へば、緑冷山陰の、麓の森に神住、三上明神と名付たり。此神と申は、第四十四代御門、元正天皇御宇、養老年中に天降、日本第二の忌火にて、此所にぞ住給ふ。能宣と云れし者こそ社に詣つゝ
ちはやぶる三上の山の榊葉は昌ぞまさる末の代までも K235
と詠じける、思出して羨しくこそおぼしけめ。篠原堤、鳴橋、駒を早めて打程に、今日は鏡に著給。昔七翁の老を厭ひて、(有朋下P661)
鏡山いざ立寄てみてゆかん年経ぬる身は老やしぬると K236
詠じけるをも思出して武佐寺を打過ぎて、老曽杜をば心計に拝しつゝ、小野細道露払ひ、醒井宿を見給へば、木陰涼しき岩根より、流るゝ清水冷や。何事に付ても心細くぞ被思ける。美濃国関山に懸れば、細谷川水音すごく、松吹風に時雨つゝ、日影も見えぬ木の下路に、関の萱屋の板庇、年経にけりと覚えたり。杭瀬川をも打渡、萱津の宿をも過ぬれば、尾張国熱田社に著給。此明神と申は、景行天皇
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御宇に、此砌に跡を留、和光の恵を垂れ給ふ。一条院御時、大江雅衡と云博士、長保末の比当国守にて、大般若を書写して此社にて供養をとぐ。其願文に云、
我願既満、任限亦満たり。故郷に帰登、其期不幾。と書たりけん事こそ浦山敷は覚しけれ。鳴海潟、塩路遥眺れば、磯打波に袖を濡し、友なし千鳥音信れり。二村山を過ぬれば、参川国八橋を渡給ふ。昔業平が劇草の歌読たりけるに、皆人袖の上に涙を流しける所と覚しけるも、御涙関敢給はず。矢矯宿をも打過、宮路山をも越ぬれば、赤坂宿と聞えけり。参河川入道大江定基が、此宿の遊君力寿と云に後れて、真の道に入事も、あらまほしくや思召けん。高師山をも過ぬれば、遠江橋本(有朋下P662)宿に著給。眺望殊に勝たり。南は巨海漫々として蜑船波に浮。北は湖水茫々として人屋岸に列れり。磯打浪繁ければ、群居る鳥も声■し。松吹風高ければ、旅客睡覚易し。浜名の橋のあさぼらけ、駒に任て打渡り、池田宿の長庚に、今夜は是に宿を取。侍従と云遊君あり、情深き女にて、終夜旅をぞ奉慰。内大臣は憂身の旅の空なれば、目にも懸給はね共、女は前なる畳に副臥て明しけり。侍従暇申て帰るとて、
東路のはにふのこやのいぶせさに故郷いかに恋しかるらん K237
内大臣優しく思召て、
故郷も恋しくもなし旅の空都もつひの栖ならねば K238
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侍従と云遊君は、此宿の長者湯谷が女也。内に入て今夜の御有様、歌の返事まで細やかに語ければ、母湯谷哀に思て、紅梅檀紙を引重て、文を書て奉右衛門督。取次奉父たれば、是を披見給ふに一首あり。
もろ共に思召てしぼるらし東路にたつころもばかりぞ K239
大臣是にや慰み給けん返事あり。
東路に思ひ立ぬるたび衣涙に袖はかわくまぞなき K240 (有朋下P663)
右衛門督聞給て、
三年へし心尽の旅寝にも東路ばかり袖はぬらさじ K241
明ぬれば天竜河を渡り給に、水増ぬれば船を覆すと聞給にも、西海の波上被思出けり。彼巫峡の流れ、我命の危き事も思列て、小夜中山に懸ぬ。南は野山谷より峯に移る路、雲を分て入心地して、尾上の嵐も最冷じ。菊川宿打過て、大井河を渡つゝ、宇津山にも成ぬ。昔業平が都鳥に言伝けん、何所なるらん、彼鳥もあらば言伝しまほしく思召、清見関に懸りては、昔朱雀院の御時、将門追討の為にとて、平将軍貞盛が奥州へ下りしに、民部卿忠文が、漁舟火影寒焼波、駅路鈴声夜過山と云へりし唐歌を詠じける昔の跡ぞ床敷。田子浦を過行ば、富士高峯を見給に、時わかぬ雪なれど、皆白平に見渡、浮島原に著ぬ。北は富士たかね也、東西は長沼あり、山の緑陰を浸して、雲水も一也。葦分小舟竿刺て、水鳥心を迷せり。南は海上漫々として蒼海渺々たり。孤島に眼遮て、遠帆幽に列れり。原には藻塩
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の煙片々として、浦吹風に消上る。昔は海上に浮て、蓬莱の三島の如なりければ、浮島とも名付たり。駿河国、千本松原打過て、伊豆国三島社に著給ふ。此宮は伊予三島を奉祝、天下旱魃して禾穂青ながら枯けるに、伊予守実綱が命に(有朋下P664)挿絵(有朋下P665)挿絵(有朋下P666)より、能因入道が、
天くだるあら人神の神ならば雨下り給へ天くだる神 K242
と読たりけるに、炎旱の天より俄に雨下つゝ、枯たる稲葉忽に緑に成し現人神。木綿だすき懸て、末憑もしく成給へと祈念して、箱根山をも歎越、湯本の宿に著給。谷川漲落て、岩瀬の波に咽けり。源氏物語に、涙催す滝の音哉といへるも思出し給けり。判官は事に触て情ある人にて、道すがら奉労慰ければ、大臣殿宣ひけるは、相構て父子が命を申請給へ、出家して心閑に後世を助らんと被申ければ、御命計は去共とこそ思ひ給し。さらば奥の方へぞ遷奉らんずらん、義経が勲功の賞には、両所の御命を可奉申請と憑し気に申ければ、内大臣俘囚千島也とも、甲斐なき命だにあらば、嬉き事にこそとて、いとゞ涙を流し給ひけり。日数経れば、大磯、小磯、唐河原、相模河、腰越、稲村、打過て、既に鎌倉に著給。屠所の羊の歩々の悲み、小水の魚の泡の命、角やと覚て哀也。
S4502 女院御徒然附大臣頼朝問答事(有朋下P667)
建礼門院は、吉田辺に歎明し泣暮させ給ひけるに、内大臣父子判官に相具して、鎌倉へ下向の道にて可奉失と申者ありければ、今更なる様に思召れて、御心迷して、げにもさこそはと思召、哀人々の失し所にて兎も角も成たらば、憂事をば見聞事あらじと被思召けり。世の聞えを恐て言問者もなし。
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判官は情有し人にて、女院の御事不斜心苦き事に思進せて、様々の御衣を調へ、女房達の装束までも被進けり。是を御覧ずるにも只夢とのみ思召ける。壇浦にて夷共が取たりける物の中にも、御具足と覚しきをば、尋出して進せけり。其中に、先帝の御手馴させ給ける御具足共あり。御手習の反古の御手箱の底にあり。御覧じ出て御顔に押当、忍あへ給はず、さめ/゛\と泣給けるぞ悲き。恩愛の道は何も疎ならね共、内裏に御座て、時々雲井の徐に奉見御事ならば、加程はなからまし、此三年が程一御船の中に、朝夕奉手馴給ければ、無類思召、御年の程よりも長しく、御形御心ばへ勝てまし/\し者をと語出しては、御袖を被絞けり。
同十七日、九郎判官義経、平氏の虜共相具して関東に下著したりければ、源二位対面有けれども、最言すくなにて打解たる無気色。義経も思の外に事違ひて、合戦の事不申出及けり。前内大臣は、庭隔たる屋に座を儲たりければ、被著たりけるに、源二位は簾中に座して、比企(有朋下P668)藤四郎能貞を使として被申けるは、於平家人々、不奉存私意趣、其故は専依禅閣之恩言、被宥頼朝之死罪、争忘違恩忽に有反心哉、然而可奉追討之由、今被下宣旨之間、難背叡慮之故、只随勅定之計也。是源平両氏の、互に昔より今存ぜる事也。不図に奉見参こそ本意に侍れと宣ければ、能貞大臣殿の前に進たりけるに、居直り深敬節せられけり。右衛門督は不居直、国々の武士多並居たり。右衛門の督ぞ返事しける、当家代々、為朝家之守護、度々鎮賊陣之狼藉、依勲功之労、昇太政
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大臣、賜洪恩之賞黷左右大将、雖無身誤、蒙朝敵咎、是非私恥、世皆所知也、芳恩には、急被刎首よと。聞之武士、彼に返答の体神妙々々とて、落涙する者多かりけり。父内大臣をば宥毀者口々也。毀者は、敬節し給たらば命の助り給べきかは、西海に沈給はずして、東国に恥をさらすこそ理也けれと嘲けり。宥申人は、人心無定主、人身無定法、尊之則為将、卑之又為虜、抗之則翔青雲之上、抑之又沈深淵之底、用為虎、不用為鼠、是又深理也。必しも大臣殿に限に非、猛虎在深山百獣震恐、及其在檻穽之中、揺尾而求食云本文あり。心は、いかに猛虎も深山に在時は、百獣恐わなゝきて、あたりに近付事なけれ共、檻穽とて、をりの中被籠ぬれば、人に向て尾をふりて食(有朋下P669)を求。されば如何に猛軍将なれども、加様に成りぬれば替心にて有ものをとぞ申ける。大臣の刎首事不容易とて、俎上に大なる魚を置、利刀を相具して内大臣父子前に被置たり。自害し給へとの謀也。大臣は思寄給はずもや有けん、そも不知、右衛門督は、さもと思はれけれ共、壇浦にて水底に沈みはてぬは、父の向後の■なき故也。今更非可先立とおぼしければ、自害なし。待ども/\自害し給ざりければ、内大臣をば讃岐権守と改名して、九郎判官に被返預けり。
S4503 虜人々流罪附伊勢勅使改元有否事
同廿一日、平家の虜の輩国々へ可流遣之由、被下官府けり。上卿源中納言通親也。前平大納言時忠卿は能登国、追立使は信盛、此時忠卿は、筆執平氏なり。後に謀叛など起すべき非人とて、流罪に定られ給けり。子息前左中将時実は周防国、追立使は公朝也。内蔵頭信基は備後国、使
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は章貞也。兵部少輔尹明出雲国、使同章貞也。熊野別当法眼行明常陸国、使は職景也。二位僧都全真は安芸国、使は経広也。法勝寺執行能円は備中国、使は同経広也。中納言律師良弘阿波国、使は久世也。中納言律師忠快は飛騨国、使(有朋下P670)は同久世也。六月十六日に、伊勢公卿勅使可被発遣否、又可有改元否事、人々に被尋下けるに、左大弁兼光卿云、
天照太神、手持宝鏡、奉授天忍穂耳尊時、詔天児屋根命、同侍殿内、善為防護者歟、然則云鏡璽来格之報賽、云宝剣可帰之請祈、思其元始已在彼社、尤公卿勅使可被発遣とぞ被申ける。内大臣実定は、我君践祚之後、改寿永為元暦以来、逆徒伏誅、都鄙平定、何強に急有改元哉、彼東漢建武之明時、本朝天慶之佳例、尤可資准帰歟とぞ被申たりける。彼両条、人々申状異趣同旨なり。前内大臣父子、並三位中将重衡、去九日義経に相具て被上洛けり。鎌倉にて可被刎首とこそ思あはれけるに、又都へ被帰上ければ、いとゞ心を迷給けり。国々宿宿も過ぬ。尾張国野間内海と云所あり。こゝは故義朝が首を切たりける所也。此にて斬て彼霊に祭らんずるにやと思ひあひ給ける程に、其をも過にければ、大臣殿今は去共と憑し気に宣けるこそ思ひあまり給へるにやと悲くは覚ゆる。右衛門督はよく心得給へり。平氏の正統也、頼朝に見せて後、京にて刎頸渡さんずるにこそと思召けれ共、余に父の歎給ければ角とは不宣、只道すがら内大臣にも念仏をすゝめ、我身も唱給けり。日数ふれば、同廿日は近江国篠原宿に著ぬ。廿二日
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に勢多にて、大臣殿も(有朋下P671)右衛門督も、格別の処に奉置ければ、今日を限と思給て、右衛門督は何れの所にぞ、一所にてこそ如何にも成果んと思つる、生ながら別ぬるこそ悲けれとて、涙を流し給ぞ哀なる。内大臣判官に被仰けるは、出家は免なければ力及ばず、僧を請じて受戒、最後の知識に用ばやと宣へば、其辺相尋て、金性房湛豪と云僧奉請、僧知識僧参て最後の事勧申けるに、内大臣涙せき敢給はず、向僧宣けるは、右衛門督はいかに成ぬるやらん、被刎首共、一筵に手を取組てこそ死なんと思つるに、さもなき事の悲さよ、副将には明日関東へ下らんとせし夜別ぬ、其もいかゞ成ぬらん■なし、右衛門督には今日別れぬ、此十七年間、一日も無立離事。西海の水底に沈べかりし身の、角憂名を流すと云も、右衛門督が故也とて泣給へば、知識僧申けるは、今に於は其事不可思召、最後の御有様を見奉らんも見え給はんも、互の御心中悲かるべし。倩事の心を思ふに、君は為外戚之臣、至丞相之位、為征夷之将統天下之政、上輔導於一人、下照臨於万民、世之奉仰如日月、人之奉恐如雷霆、令失勢於衆人之上、被奪命於匹夫之手、楽尽悲来之謂、物盛必衰之理、更非当時之災殃、皆是前世之業報任たり。是以色界の天衆猶遇退没之愁、得道羅漢不免必滅之理、秦始皇侈を極ども驪山墓に埋、漢武帝惜命ども(有朋下P672)杜陵苔朽、普賢観経云、我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法と、我心自空なれば、罪福全主なし、静に心を観ずるに、定れる心なし。諸法の相を達するに、一法として法の中にあるを不見、さけば善悪共に空なり。
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世出同無と観ずる、仏の知見に相叶事なれば、何物も始終不可有と思召べき也。法華経には、三界無安猶如火宅、衆苦充満、甚可怖畏とて、栄花名聞も火宅の楽み、重職官位も炎中の勇也。それがために還て招苦、これが為に必ず懐憂。妻子眷属は恩愛苦海の波を起し、我執怨僧は邪見放逸の剣を鋭。順縁逆縁共に生死の妄染なれば、自身他身皆火宅の炎に咽ぶ。一切有為の法は、悉如夢如幻、水月鏡像の喩にさとりぬべし。未得真覚、恒処夢中、故仏説為、生死長夜と説給へり。誠に真覚のひらけずは、無明の長夜あけ難く、妄想の憂悲み晴事なかるべし。而を弥陀如来は大悲願を発して、一念十念共に導んと誓給へり。此願億々万劫にも聞がたく、世々生々にも値がたし。たとひ天上勝妙の楽に誇とも、仏法にあはざれば悲む也。譬ひ卑賤孤独の報を得とも、三宝に帰依するを幸とす。君先世の怨僧に答て、今生の誅害にあひ給へり。一筋に余念を止て、一心に念仏申て、衆苦永く隔り、十楽身に荘、浄土へ生んと思召べき也と奉教訓、先授三帰五戒、後に奉勧念仏。内大臣可然(有朋下P673)知識成と思召、西に向合掌、余言を止て念仏三百返計ぞ唱へ給。橘内右馬允公長、剣引側て後へ廻ければ、大臣殿念仏を止て、右衛門督も既にかと宣ける。詞の未終けるに、首は前に落にけるこそ悲けれ。彼公長は平家重代の家人也。新中納言の許に、朝夕伺候の者也けり。身を顧世を渡らんと思ふこそ悲けれとて、涙をぞ流しける。其後上人右衛門督の許に行向ひて奉授戒、様々教訓し念仏すゝめければ、大臣殿の最後如何御座つると問給。上人、何事も思召
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切、目出こそ御渡候つれと申せば、さては嬉く候とて、念仏高く唱つゝ、今は疾々と被仰ければ、今度は堀弥太郎切てけり。さしも罪深く難離し給ければ、身をば公長が沙汰にて、一つ穴にぞ埋てける。
S4504 内大臣京上被斬附重衡向南都被切並大地震事
同廿二日、九郎判官義経、大蔵卿泰経卿許へ申送けるは、前内大臣父子、近江辺にして可斬其首、洛中へ持参して、可渡検非違使歟、将亦勢多辺にして可棄歟、両箇趣兼て言上、事由可随勅定之由、頼朝卿所令申之也。又重衡卿は、可遣東大寺之由、同令申之間、相具して可入洛と申たりければ、泰経彼状を有奏聞。内大臣(有朋下P674)許に被遣て可計申由被仰ければ、後徳大寺実定被申けるは、彼両人被行斬罪上は、被渡首事可有議定歟、凡渡頸事は、於京師人為令見実也、而先日乍生已に被渡洛中、今度義経相具して上洛、行斬罪之相、依何不審、重又可被渡大路哉と有けれ共、翌日二十三日に、検非違使、知康、範貞、信盛、公朝、明基、経弘等、六条河原にして彼両人首を請取、大路を渡して懸獄門左樗木けり。京中白川辺土近国輩、競集て見之、法皇は三条東洞院に御車を立て有御覧。謹考故実、三位已上の首、懸獄門事無先例、称徳天皇御宇に、大師藤原恵美朝臣押勝謀叛時、軍士石村々主、近江国にして斬押勝首伝于京師之由雖載国史、渡其頸梟獄門之由、無所見。近平治に、右衛門督信頼、さしも罪深して被刎首たりしか共、獄門には不被懸、如此例、依時儀被始行事なれども、両度被渡大路之条刑法甚とぞ人傾申ける。哀哉西国より入ては、生て七条を東へ被渡、東国
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より帰ては、死て洞院を北へ渡され、死の恥生の辱、とり/゛\にこそ無慙なれ。
本三位中将重衡卿は、前内大臣父子と相共に、九郎判官に相具して上けるが、内大臣父子は勢多にて切れぬ。重衡をば南都大衆へ出して切首、可懸奈良坂とて、故源三位入道頼政が息、蔵人大夫頼兼相具して、(有朋下P675)山階や神無森より醍醐路に懸て、南を指てぞ通ける。住馴し故郷、今一度みまほしく思召けれ共、雲井のよそに想像、涙ぐみ給も哀也。小野里、醍醐寺を過て、中将泣々宣けるは、日比各情をかけ憐つる事、嬉し共云難尽、同は最後の恩を蒙べき事あり、年来相具したりし者、こゝ近き日野と云所に在と聞、鎌倉に在し時も、風の便には文をも遣して、返事をも聞ばやと思ひしか共、免しなければ不叶、南都の衆徒に被渡なば、再び可還来身に非、されば彼人を今一度、見もし見えもせばやと思はいかゞ有べき、我に一人の子なければ、此世に思置事なし、此事の心に懸て、よみぢも安く行べし共不覚と宣ひければ、武士共も、遉岩木ならねば涙を流つゝ、何かは苦しかるべきとて免しければ、手を合悦給て、日野大夫三位の許へ尋入て案内せられけり。彼大夫三位北方と申は、大納言典侍の姉也。大納言典侍とは、故五条大納言邦綱卿の御娘、先帝の御乳母也。平家都を落し時、同西国に下給たりけるが、壇浦軍敗れて後、再都へ帰上たれ共、家々は都落の時焼ぬ、可立入所もなければ、女院に付進せて、暫吉田に座しけれ共、さても可叶様なければ、姉の三位局を憑て、彼宿所の片方に忍てぞおはしける。三位中将の使は石童丸と云舎人也。童内に
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入て、重衡こそ東国にて如何にも成べしと思しに、南都(有朋下P676)亡したる者也とて、衆徒の手に渡され侍りし、兎角武士に暇を乞て立寄侍り、今一度奉見ばやと云入たりければ、北方物をだにも打纏給はず、迷出て見給ければ、藍摺の直垂、小袴著たる男の、疲れ黒みたるが、縁により居たりけるぞそなりける。如何にや夢か現か、これへ入給へかしと宣ひける声を聞給に、目も眩心も消て、袖を顔に覆て泣給ければ、大納言典侍も只涙に咽て、宣出る言なし。三位中将半縁に寄懸り、御簾打纏て、北方に目を見合て、互にいとゞ涙を流し、うつぶし給へり。北方起直りて、是へ入給へとて重衡の手を取り、御簾の内へ奉引入、先物進めたりけれ共、胸塞喉塞て聊も不叶けれ共、責ての志を見えんとて、水計をぞ勧め入給ける。したるけに見え給へば、著替是給へとて、袷の小袖に白帷取具して奉れば、練貫小袖の垢付たるに脱替給ふ。北方取之、胸に当顔に当てぞ泣給ける。三位中将も、いつまで著べき小袖ならね共、最後の著替と思召けるに、いとゞ袖をぞ絞りける。涙の隙に、
脱替る衣も今は何かせん今日をかぎりのかたみと思へば K243
北方も泣々、
憑みおく契はくちぬ物といへば後の世までも忘るべきかは K244 (有朋下P677)
三位中将宣けるは、去年の春如何にも成べかりし身の、一門の人こそ多き中に、責ての罪の報に、重衡一人虜れて、京鎌倉に曝れて、終には奈良の大衆中に出され切べしとて罷なり。斯る有様なれば、
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中々由なしと思つるが、命存へて二度非可奉見、年来の情、尽ぬ思に任て角と申つる也、奉嬉見ぬる者哉、命のあらん事も只今日に限れり。今一度見奉らんと思より外は、此世に思置事なし。程遠き所ならば如何がはせん、爰にしもおはして、最後に見みえぬる事、前世の契と云ながら、心中可推量給、子のなかりしをこそ本意なき事に思申しに、賢くぞ子の無りける。在ばいかばかりか心苦からん、今は此世に執心留る事なければ、冥途安く罷なんと思こそいと嬉けれ。人に勝て罪深くこそ侍らんずらめ、哀不便と思し母の二位、深く憑し一門兄弟悉に亡ぬる上は、残留て後の世を弔ふべき者も侍らず、人は若くおはすれば、便にも付給はんずらん、さもして世をも渡給べし、非其恨、日本第一の大伽藍を亡したりしかに、阿鼻の炎兼て想像こそ苦しけれ、いかならん有様にて御座す共、忘給はで弔給へ、多き人の中に、斯身に相馴給ふも、可然先の世の深き契にこそ侍らめなれば、後の世とても忘給べきかは。出家をもして、髪をも奉剃見せばやと思へ共、其も免しなしとて涙を流し給へば、北方、日比の(有朋下P678)思歎は事の数ならず、可堪忍心地もし給はず。軍は常の事なれば、必しも去年二月六日を限とも不思しか共、別れ奉しかば、越前三位上の様に、水の底にも沈むべかりしに、先帝の御事の、御心苦思奉し上に、正しく世におはせず共不聞しかば、今一度見奉事もやと思て、強面昔の貌にてすぐし侍つるに、今日を限にて御座すらんこそ悲けれ。今までも延給つれば、若やと思ひつる憑も有つる者をとて、又うつぶし臥給。昔今の事宣通ふに付ても、悲さのみ深く成行ば、日を重ね
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夜を重ぬ共尽べきに非ず。程ふれば武士共の待思はん事も心なければ、奉見嬉つとて泣々立給へば、北方、如何にや、さるにてもしばしとて袖を引へ、今日計は留給へ、武士もなどか一日の暇を得させざらん、年を経ても待得べき事に非、又もと思見参も、今日を限の別なればと宣へば、中将、一日の暇を乞たり共、明日の別も同事、心の中たゞ推量給へ、去共遁べきにあらず、契あらば来世にても可見とて出給へば、北方は人の見るにも不憚、縁の際まで出給ひ、臥まろびて喚叫給。中将は馬に乗たりけれ共、進もやり給はず、涙にくれて行前も見ず、其身は南都へ向へども、心は日野にぞ留りける。大納言典侍は、走付てもおはしぬるべく覚え給けれども、それもさすがなれば、引纏てぞ臥給ふ。永別の道、さこそは悲く思ふら(有朋下P679)めと、武士も袂を絞りけり。中将は石金丸と云舎人を具し給へる。是は八条院より、最後の有様を見よとて鎌倉まで付られたりけるが、南都迄も付たりける也。大納言典侍は、木工允友時と云者を召て、三位中将は、小津河奈良坂の辺にてぞ切れんずらん、首は定て大衆の手に渡らんずらん、身は曠野に棄べし、跡を隠すべき者なし、汝行て身を舁返せ、孝養せん、さしもに後生弔と云つる者をとて、地蔵冠者と云ふ中間と、十力法師と云力者を、友時に相具して進けり。三人の者共泣々走ければ、木幡、岡野屋行過て、宇治辺にて奉追付けり。平等院をば心ばかりに伏拝、屠所の羊の歩近付ば、新野池をも打過て、光明山の鳥居の前にも著給ふ。治承の合戦に、高倉宮流矢に中て亡給し所也と見給にも、今は身の上とぞ思召ける。丈六堂の辺を過給には、源三位入道が一門、為
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当家亡されし所也、亡魂いかゞ思らん、今は昔に替行、憂世の習こそ悲けれと、思残す事なし。大納言典侍は引纏ひて臥給たりけるが、暮る程に起上り、法戒寺より上人を請じて様を替給にけり。中将和州小津に著給へば、土肥次郎使者を南都へ立て云、三位中将重衡をば、関東にして雖可被刎首、南都両寺を亡す依咎、可渡遣衆徒之手由、源二位家の下知に任て寺辺に発向す。可具足入寺内歟、於境外可被請取歟と申(有朋下P680)たりければ、東大興福両寺の大衆、宿老若輩貝鐘鳴して、大仏殿の大庭に有会合僉議。若大衆の僉議云、天竺震旦の法滅は暫閣、我大日本国は神国也、其神慮は為守護仏法、而欽明天皇御宇、仏法初て渡従百済国、守屋大臣、為崇国神欲滅仏教、然而救世の垂跡上宮太子、従討守屋以来、君主専帰正法、臣公同崇三宝、爰故浄海入道悪逆之所催、以重衡為軍将尽園城三井之法水、消南京二寺之恵燈、悲哉最初成道一十六丈の聖容、必滅之煙聳蒼天之空、痛哉法相三論八不唯識の金言、垂没之露消春日之野、啻匪亡仏陀之教法、専廃失浄侶之弘通、過守屋之違逆、超調達之謗法五刑之類比之猶軽五逆伴党、不可求外、衆徒多別亡。君臣大に愁嘆す、常住諸尊仏陀含恨、護法之善神成怒、故一門悉沈西海、重衡独為生虜、修因感果究竟、彼卿寺辺廻来、然者早衆徒の手に請取、両寺の大垣三度廻し、其後七箇日間に堀頭歟、鋸歟、嬲切に可殺とぞ申ける。若大衆は、尤可然と同じけるを、老僧の僉議に云、重衡卿重犯事、衆徒の僉議に同ず、因果道理実必然也。但彼卿治承に南都
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を亡し時、以衆徒力打も留搦も取たらば、刑罪可任僉議之旨。而今年月を送て勇士に取れ、武家の手より請取て罪を行事、全非大衆高名。就中修学利生之窓中にして、行邪見不(有朋下P681)善科、背菩薩大悲、僧徒の威儀いあらじ、誠に自業自得の所催、彼卿死罪難遁歟。然者寺院の内に不入して、いづくにても武士が切たらん頭をば請取て、伽藍の敵なれば、可懸奈良坂なりとぞ僉議しける。此条可然とて、別の使を相副て、重衡卿間事被申送、源二位家仰奉畢。但衆徒の手に請取て行刑罪事其憚あり、般若野より南へ不入して可被相計。首をば衆徒中に給て可加一見と返事しけり。南都の返事聞て後、土肥次郎は、其日も早暮ければ、河より南の在家の中に、大道よりは東南に向て、一間四面に造たる旧堂あり。是へぞ入奉りける。ゆかけをせばやと宣ひければ、近所より新き桶杓を尋出し、水を上て奉る。御堂の傍にて行水し、髪洗たぶさを取、最後御装束と覚えて、武士共兼て用意し持せたりければ、小袖、帷、直衣、褌、扇、笏、沓に至まで取出して奉。日比著給ひたる物をば、武士給てのきにけり。武士の申儘に御装束をめし、新き沓には子細ある者をとて、紙を畳て敷さしはきて、縁を歩て、正面よりは東西向にして座しける。此間東の旅に下り上り、風に窄れ日に黒みて、あらぬ貌にして衰給たれ共、遉に余の人には替てぞ見え給ける。暫有ければ、御食賂出して進せたり。是や此下揩フ云なる死粮とは、只今死する者の、魚鳥不可有とて取除さす。散飯多かに取て仏前(有朋下P682)に備て、其後はまゐらず、又酒を奉進。只今頸切れ
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んずる者の、極熱に酒は悪かる者をとて、三度請るまねをして、舌の先ばかりに宛て是も進ず。其後手洗嗽て宣けるは、抑汝等は、頼朝が政をば善とや思悪しとや思、所謂善と思へばこそ平家をば角は虐らめ。昔は如此人を虐、今は又人の為に虐げらる、因果の理世をも恨べからず、但敵を敵へ渡事は、昔よりして未聞、頼朝も弥勒の代をばよも持じ、今日は人の上と思共、明日は必身の上と思ふべし、重衡を罪深き者と云なれ共、全く罪深からず、心より発て南都を亡たらば、西海の波の底にも沈、東路の頭に骸をも曝すべけれ共、法相三論の学地の辺、華厳法華修行の砌、仏法流布の境、奈良都に廻来て、切れて其後首を東大興福の両寺に被渡事、大乗値遇の過去の縁浅からずと思へば、可罪深共不覚と宣へば、実平申けるは、二位家の計ばかりにてはよも候はじ、法皇の御計にてこそ候らめ。就其鎌倉にて善便宜は候し者を、など御自害は候はざりけるやらんと申せば、中将は打咲ひ給て、人の■には、三身の如来とて仏御座、怖悲しと思て、身より血をあえさん事は仏を害するに似たり、されば自害をばせざりき、只今も首を刎んとせば、流石妄念も起りぬべし、何となき振にもてなし、我に不知首を打と宣へば、武士共目を合て畏る。其後(有朋下P683)中将突立て、正面の東の妻を立廻、後戸の方を見給へば、歳六十余の僧、左手には花を持、右手には念珠に打鳴し、取具して参たり。哀僧かな、一人と思召つるに神妙にも参給へり、はや入給へとて、中将は本の道より帰りて、正面の東の間、本の座に西向におはしければ、彼僧は西の妻を廻て、正面の西の間、東向にぞ候ける。実平
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は縁にあり、家子郎等は坪中大庭に並居たり。中将僧に向て宣けるは、善知識の人かなと思つるに、折しも神妙にも候、抑重衡世に在し程は、出仕にまぎれ世務にほだされて、■慢の心のみ起て後世のたくはへ微塵ばかりもなし、況世乱軍起つて後、此三四年間は、禦彼助我との営の外は又他事なし、就中南都炎上の事、王命と云武命と云、君に仕世に随習、力及ばす罷向ひ侍りぬ、其に思はずに火出来て、風烈くして伽藍の及滅亡、其を重衡が所為と皆人の申し事の、今思合すれば実に侍けり、さればにや人もこそ多けれ、一門の中に我一人虜れて、京鎌倉に恥を曝し、此迄骸をさらさん事只今に極れり、されば斯る罪人の如何なる善を修しいかなる仏を奉憑てか、一劫助る事候べき、示給へと泣々掻詢(かきくどき)て宣へば、僧急と土肥に目を見合すれば、実平とも/゛\随仰被参候へと申。上人念珠おしすり金打鳴して、阿弥陀経一巻懺法一巻読て後、法華経一部と志、早らかに転読す。(有朋下P684)八の巻に及で、実平今は夜も明方に成候ぬ、とくと申せば、八の巻をば巻置奉授戒、若浄土に生んと思召ば、西方極楽を歓ひ御座せ、極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽と説れたり、弥陀名号を、口に唱へ心に念じ給べし、若悪道に赴御座べくば、地蔵の悲願仰給へ、抜苦与楽慈悲深く、大悲抜苦の誓約あり、依之■利雲上にしては、正しく釈尊殷懃の付属をうけ、奈落炎中にしては、必衆生難忍の受苦を助給、彼と云此と云、深く憑み奉らば争か利勝なからんと、細々に讃嘆し奉教化ければ、中将も実平も、眼に余る涙の色、家子も郎等も、絞兼たる袂也。土肥申けるは、加様に候べしと
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だにも兼て知進せたりせば、御布施なども用意仕るべく候ける者を、是は日比君の召て候者なればとて、取納たりける御装束裹より取出し、仏前にぞ備へたる。其後又弥陀経一巻、懺法早らかに一巻読けるが、六根段に懸けるに、暁の野寺の鐘の声、五更空にぞ響ける。中将涙を流し突立て、東の妻を後戸の方へおはす。兵二人影の様にて不奉離御身。後戸の縁を彼方此方へ行道し御座けるに、紫の雲一筋出来りたり。折しも郭公の啼て、西をさして行けるを聞給て、かく、
思事かたりあはせん郭公げに嬉しくも西へ行かな K245 (有朋下P685)
とすさみ給ける御音計ぞ幽に聞えける。坪の中大庭に並居たりける武士も、はら/\と立にけり。上人は、こゝは何と成給ぬるやらんと思て、立給たる跡を見れば、涙を拭給へる畳紙もぬれながら未あり。庭を見れば、沓の鼻をかゝへてかぶり居たる犬あり。立廻後戸を見れば、頸もなき死人うつぶしに臥たり。犬二三匹そばにて諍之居たり。穴無慙や、此中将既に切れ給ひけるにこそと思、前後なりける犬共を追除て、松葉柴葉を折かざし、経よみ念仏申て奉弔。大道方には馬の足音稠かりければ、上人急立出て見れば、歳五十計なる男の、貲布直垂に長刀杖に突たる男、北へ向て行けるを袖を引へ、是に御座つる上揩ヘ、何と成給ぬるやらんと問申ければ、御首をば南都へ奉渡ぬとて、高念仏申て北をさして過行けり。其後友時泣々来りて、中将の空き身を輿に舁のせて日野へ帰、地蔵冠者、十力法師、共に涙にくれて行先も見えず。
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< 已上は南都より出たり。次の説は、世に流布の本也。
異説に云、中将日野を出て小津に著給へば、頼兼使者を南都へ立、衆徒僉議如上。さては此にて可切とて、小津川のはたに奉下居、布革の上に奉居。重衡今を限と思召ければ、木工馬允友時を召て、此辺に仏御座なんやと宣ければ、友時泣々其辺の在家を馳廻けれ共、世間に恐けるにや不出ければ、古堂より阿弥陀の三尊(有朋下P686)を尋出、河原の砂に東に向て、三位中将の前に奉掘立、重衡は浄衣の袖の左右のくゝりを解、仏の御手に奉結付。五色の糸を引へ給へる心地にて、法然房の教訓し給ひし言を信じ、如来大悲の誓願を深く憑て宣けるは、提婆達多は三逆罪人也。無間の炎の底にして、成仏の記別に預る。下品下生は五逆の業人也。苦痛の床上にして、往生の素懐を遂たり。皆是弥陀平等の大悲に答、法華一実の効験に寄る。重衡逆縁重く萌と云ども、致深懺悔仏法不思議の力、忽に罪を滅して浄土に導給へ、況弥陀如来に、一念十念も来迎せんと云願御座、極楽世界に上品下品に往生すと云文あり、重衡彼下品器に当れり、本願に無誤、大悲に実有らば、最後の十念を以て、浄刹の下品に迎取給へと詢つゝ、西に向合掌、念仏百返ばかり高声に唱へ給ければ、頸は前にぞ落にける。友時首を地に付て喚叫。見る人も皆涙を流す。良久有て友時は、三位中将の空き身を輿にのせて日野へ帰、地蔵冠者も十力法師も、涙にくれて行先も見えざりけり。 >
既に車寄に奉舁入。北方は兼て思儲たりつる事なれ共、今更なる様に覚て、物をだにもはき給はず、車寄に走出て、頸もなき人に取付て、無為方泣給。今一度見る事もなくてさてやみなんと、日比思けるは物の数ならず、中々一谷にて何にも成給たらば、今は思忘るゝ事も有なましと(有朋下P11687)おぼすぞ責ての事と哀なる。今朝は声花なる貌にて見給つるに、今夕は紅を染て首もなければ、さこそは悲かり
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けめと、被推量無慙也。無常は世の習、相別るゝは人の癖なれ共、懸べしとは兼て不知、生て思ふも悲きに、同道にと泣■給へ共其甲斐なし。偖もあられぬ事なれば、上の山にて薪に積籠焼あげ奉り、灰を埋て墓を築卒都婆を立て、骨をば拾ひて高野山へ送給ふ。
< 一説には、重衡をば奈良坂にて首斬といへり。 >
重衡卿の首をば、頼兼大衆の中へ渡したりければ、衆徒請取之、東大寺興福寺の大垣三度廻らし、法華寺の鳥居の前に、竿に貫高捧て是をさらす。治承の合戦の時爰に打立、南都を亡したればとて也。其後般若野の道のはたに大卒都婆を立て、張付にして是をさらす。見る人、大仏を焼給はずば今懸る恥にあひ給べしやとて謗る者もあり、涙を流す人も多かりけり。七箇日の間奈良坂に有けるを、北方大納言典侍、内々俊乗坊上人に付て、さしも罪深人なれば、後の世を弔はばやと思侍。衆徒をも宥仰られて、首を返賜ひて孝養せんと被乞請ければ、上人哀に思召て、様々に大衆を誘申されて日野へ送進す。北方大に悦て、即高野山に送りて塔婆を立て、追善を営給けり。彼俊乗上人と申は、左馬大夫季重が孫、右衛門大夫季能が息男、黒谷の法然房の弟子也。慈悲深してものを憐。上醍醐(有朋下P688)に蟄居して、専憂世を厭ひける程に、東大寺造営の大勧進に被補、一寺に重き人也ければ、大納言典侍も、此上人に付て乞れければ、衆徒も難背して免遣しける也。倩事の心を案ずるに、因果の道理は如影随形、為善生天、為悪入淵といへり。重衡卿滅亡、月支東漸之仏教、焼
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失日或南北之霊場、故に冥衆不祐其人、神祇成崇其身、生は奮恥於東国、死は曝骸於南城、まして奈落の薪底、想像こそ無慙なれ。前内大臣父子、本三位中将重衡被斬、平家無残亡、山陽、山陰、四国、九国、静也ければ、国は国司に随、庄は領家の儘也ければ、都鄙の上下安堵せり。同七月九日午刻大地震なり。良久振て夥しなど云も愚也。同十二日に又地震あり。九日にはなほ超過せり。赤県中、白川の側、六勝寺、九重塔より始て、破傾き倒崩、大内中堂廻廊、園城寺廻廊、法勝寺阿弥陀堂も顛倒しけり。神社仏閣も如此なりければ、増て人屋の全きは一宇もなし。根本中堂の常燈も、三燈は消にけり。大師手自石火を敲出して、炬し給へる一燈は不消けり。法滅の期には非ずして、臨時の災と覚えたり。同十四日に弥益々々震けり。堂舎の崩るゝ音雷の鳴が如し。塵灰の揚る事は煙を立たるに似たり。天闇光失、地裂山崩れければ、老少男女肝を消し、禽獣鳥類度を迷す。こは如何に成ぬる世中ぞやとて喚叫、(有朋下P689)被圧殺者もあり、被打損人も多し。近国も遠国も如此なりければ、山崩て河を埋、海傾浸浜、石巌破谷にころび、樹木倒て道を塞げり。洪水漲来ば岡に登ても助り、猛火燃近付ば河を阻ても生なん、只悲かりけるは大地震也。鳥にあらざれば空をも不翔、竜にあらざれば雲にも難入、心憂しとぞ叫ける。主上鳳輦に召て、池の汀に御座あり。法皇は新熊野に有御参籠、御花進給けるが、人屋の倒けるに、人多く被打殺、触穢出来にければ、御参籠の日数不満けれ共、六条殿へ有還御。天文博士参集て、占文不軽と騒申。今夜は南庭に仮屋を立
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て御座あり。諸宮諸院卿上雲客の亭共も倒れ傾ける上、隙なく震ければ、車に召船に乗てぞ御座ける。有公卿僉議、可有祈祷之由、諸寺諸山に仰す。今夜の亥子丑寅時は、大地可打返と占申たりと云て、家中に居たる者は上下一人もなし。蔀遣戸を放ちて大庭に敷、竹の中、木の本にぞ居ける。天の鳴地の動度には、すはや只今こそ地を打返せと云て、女は夫に取付、少者は親祖父に懐付、貴賎上下高に阿弥陀仏を申ければ、所々の声々夥し。八十九十の者共、未懸事は不覚とぞ申ける。余に少者年闌たる老人は、目眩心地損ずなど云て、被振殺者多し。謹で釈尊出世の時分を考るに、正像各一千年、末法一万年の其後こそ世は滅すべしなどいへば、後冷泉院の永承年(有朋下P690)中に末法に入て、僅に百三十余年也。遉今日明日とは不思つる者をとて、長きが泣をめきければ、若き者も音を立て叫。叫喚大叫喚の罪人も、角やと覚て夥し。文徳天皇斉衡三年三月、朱雀院天慶元年四月に、大地震ありと注せり。天慶には主上御殿を避給て、常寧殿の前に五丈の幄を立て渡らせ給けり。四月十五日より八月に至迄、打列震ければ、上下家中に不安堵と伝たれ共、其は見ぬ事なればいかゞはせん、今度の地震は上古末代類あらじと貴賎騒歎けり。平家の死霊にて世の可滅由申合り。昔も今も怨霊は怖き事也。蚤の息天に上と云事も有ぞかし。況万乗の聖主、玉体を西海の波底に沈、三公の忠臣、屍骸を北闕の獄門に懸たり。其外卿上雲客、衛府諸司、有官無官、軍兵士卒、男女老少、生霊死霊、怖し/\。就中異国の例はそも不知、本朝には昔より為卿相人、生ても死て
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も、大路を渡曝頸於獄門事なし。世中いかゞ成立んと申けり。
S4505 源氏等受領附義経任伊予守事
同八月十四日に、被行除目。源氏六人受領す。平氏追討賞とぞ聞えし。志田三郎先生義憲、任伊豆守。大内冠者維義越中守、上総太郎義兼上総介、加々美次郎遠光信濃守、遠江守(有朋下P691)義宗が男、兵衛尉義助越後守、九郎大夫判官伊予守に任じけり。鎌倉源二位挙申に依也。大夫判官は伊予守を賜はる上、院御厩の別当に成て、京の守護に候へとて、侍十人付られたり。判官思ひけるは、義経度々合戦に命を捨て、既に世の乱を鎮父の敵を亡す、私の宿意と云ながら国家の固也、これ莫大軍功に非や、而に関より東は云に及ず、京より西をばたばんずらんと思ひつるに、僅に伊予一国没官の地、二十箇所知行せよとの源二位の所存、無本意と思けれ共、但重て思計ふ様ありなんと過ける程に、僅付たりける十人の侍も、兼て心を合たりければ、親の所労子の病悩など云て、皆東国へ逃下にけり。判官いとゞ不意得思ける程に、源二位判官を討んとて、関東に様々の計ありと、はと京都に披露ありぬ。何事のあらんずるやらんと、貴賎此彼にさゝめき合へり。建礼門院は西国より上り、吉田にも仮に立入せ給と思召けれ共、五月も立六月も半過ぬ。今日迄もながらへさせ給べしと不思召けれ共、御命は限あれば、明ぬ暮ぬとしけるに、大臣殿父子の首、被渡大路被掛獄門、本三位中将は奈良坂にて被切て、卒都婆に付てさらさる。彼人々の今は限に成給へる有様、人参てこま/゛\と申ければ、女院は御■せきて、御涙せきあへさせ給はず、しばしつや/\物をだにも不被仰けり。
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良(有朋下P692)在て、此人々帰上と聞召しかば、甲斐なき命計は助りぬるにやと思召けるこそ愚に思ひ侍れ、露の命消やらで、斯憂事を聞こそ責ての罪の報なれ、都近かりけるばかり心憂かりける事はあらじ、折に触時に随て、驚耳心を迷はすも、さすが生る身は口惜き事も多かりけり。露の命風を待らん程も、深山の奥の奥に思入ばやと思召けれ共、去べき便なくて過させ給けるに、さらぬだに住荒したる朽坊の、度々の地震に築地崩門も倒れぬ、いとゞ住せ給ふべき御有様にも見えさせ給はず、憑もしき人一人も侍らず、地打返すべしなど聞召は、可惜御命にはなけれ共、只尋常の御事にて、消入ばやとぞ思召されける。緑衣の監使宮門を守るもなく、伴の御奴朝浄するもなし。心の儘に荒たる籬は、滋き野辺よりも猶露繁く、折知がほにいつしか虫の声々怨むも、我身の上とぞ思召。秋も既に半に欲す、夜もやう/\長くなる儘に、いとゞ御寝覚がちなれば、明し兼させ給けるぞ哀なる。
< 八月十七日に改元有りて文治と云。 >