『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十六

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勢巻 第四十六
S4601 南都御幸大仏開眼附時忠流罪忠快免事
文治元年八月二十七日、法皇南都へ有御幸。公卿には花山院大納言兼雅、堤中納言朝方、中山中納言頼実、衣笠中納言定能、吉田中納言経房、民部卿成範、藤宰相親信、平宰相親宗、大蔵卿泰経、殿上人には雅方朝臣以下、皆著浄衣被供奉けり。伊予守義経、同著浄衣候す。御後随兵六十騎を相具せり。同二十八日、大仏開眼あり。亥刻に法皇有臨幸けり。左大臣経宗、権大納言宗家卿以下被参入けり。開眼師は僧正定遍、呪願は僧正信円、導師は大僧都覚憲也。同晦日弁暁権少僧都に被仰けり。開眼師定遍僧正賞譲とぞ聞えし。
同九月二十三日、前平大納言時忠卿は、追立使信盛承て、能登国鈴御崎へ遣す。子息讃岐中将時実は、公朝が沙汰として周防国へ下す。平家僧俗の虜共、去五月に、配所を国々に被定ける内なり。父子後を合せ、西北境を隔つゝ、波路に流、雪中に赴けるこそ哀なれ。時忠卿建礼門院へ被申けるは、今は有甲斐無身に侍れ(有朋下P694)共、近く候て御鍾事をも承度侍るに、責ての罪重くして、今日都を罷出て、越路の旅に趣侍り、身の有様心中、只推量せ給べし、又いかなる御有様にてか御座さんずらんと奉思置こそ行空も覚え侍らね、参りて今一度奉見度侍れども、心に任ぬ身不及力など、細か
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に被申たり。女院聞召て、此人ばかりこそ昔の遺とて御座つるに、さては遠国へ赴き給らんこそ悲けれ、逢見る事はなく共、都の中にありと聞召ば、憑敷こそ思召つるに、死ても別生ても別なん事こそと、いとゞ掻くらす御心地成ければ、坐に御涙ぞすゝみける。彼時忠と申は、出羽前司知信が孫、兵部権大輔時信息男也。故建春門院の御■にて御座しかば、高倉上皇には御外戚也。唐楊貴妃、玄宗皇帝に幸し時、■楊国忠が栄しが如し。八条二位殿も妹にて御座しかば、太政入道には兄公也、建礼門院には伯父也。世覚時の■目出かりき。されば兼官兼職心に任、富貴栄花思の如。位正二位、官大納言に至り、子息時実時家中少将に成にき。太政入道万事申合つゝ、天下を我儘に執行ければ、時の人平関白とぞ申ける。検非違使別当にも三箇度まで成りけり、無先例事也。今暫も平家世にあらば、大臣は疑なからまし。此人心猛理つよに御座ければ、庁務の時も様々の事張行て、強盗二十八人が右の手を切給けり。昔悪別当恒成(有朋下P695)と云ける人こそ強盗の頸をば切りたりとも伝たれ。西国に御座時も、院より召次を被下。帝王并三種神器、都へ奉返入と仰遣たりしに、院使花方が頬に浪方と云火印を指、是は汝をするには非ずと申けり。法皇を申けるにや。故女院御ゆかりなれば、平家の一門悉官職を止られしか共、此卿父子をば不被停止、帰上給へば可被宥なれ共、懸る悪事を思召忘させ給はず、伊予守と親く成て其好深ければ、流罪をも申宥んと思けれ共、法皇の御気色も悪、源二位も免しなければ力及ず。軍の先をば不蒐ども、謀を惟幄の中に廻らし、兵を敵陣の前に勇る事、偏
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に此人の結構なれば理なり。年闌齢傾きて妻子にも別れ、見送る人もなくて遠境に被遷けん心の中こそ無慙なれ。遥に西海の波の底を免て、遂に北国の雪中に埋れけるこそ宿習とは云ながら哀には覚ゆれ。北方帥佐殿は、何事も思入たる人にて、心づよく翫給へ共、遉遺の惜ければ、忍音にて泣給へば、其腹に今年十四になる息男あり。尾張侍従時宗と云。不斜糸惜がり給けり。是を見置給て、還様知ず遠国赴事よと泣歎給へば、侍従も同道にと宣へ共、免しなければ其甲斐なし。既に都を出給、関山関寺打過て、志賀の故郷唐崎や、浦路に駒をぞ進めける。日吉社を顧ては、南無帰命頂礼七社権現、願再故郷に返(有朋下P696)入給へと心計に祈念して、菜岡社を過ぎ給へば、比良の高峯に風寒て、湖水に波繁かりけり。蜑の釣舟波の上に漕つれて、網に懸れる魚難遁を見給にも、我身の上と哀也。浦人にこゝをば何所と云ぞと問給ふ。是こそ名にしおふ比良のすそ野の、竪田浦と申ければ、時忠卿涙ぐみて、
  帰りこん事も竪田に引網のめにあまりたる我涙かな K246 
と最哀にぞ聞えける。其より湖水漫々と見渡して、浦々宿々打過つゝ、敦賀の中山遥々と、木間を分、岩根を伝て下けり。いつしか打時雨つゝ、嵐烈しては膚を徹し、木葉狼藉しては道を埋、荒乳山、木辺峠を越行ば、越の初雪踏分て、燧山、柚尾坂、越前国分、金津宿、蓮池、細呂宜山を越過て、加賀国須川社を拝しつゝ、篠原、安宅打過ぎて、日数ふれば能登国鈴の御崎に著き給。立渡見給へば、岩間に
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生たる浜松の、岸打波に顕れて、其根あらはに有けるを見給て、浮名を流す旅の空、打解寝入給はねば、我身の思になぞらへて、
  白波の打驚す岩の上にねいらで松の幾世へぬらん K247 
いとあはれにぞ聞えし。
門脇中納言教盛卿の子息、中納言律師忠快も、配所を飛騨国(有朋下P697)に定められて、検非違使久世が許に被預置たりけるに、自鎌倉源二位家関東へ下給ふべしとて、袖かさたる四方輿に、力者十二人、并道の用心にとて、兵士あまた被上たり。こは何事ぞ、流人に定められたる者の、迎の体こそ難意得けれと、上下おもはずに思へり。律師も最不思議に思て、余の事なれば、若人違にやと宣へ共、二位家の消息に、急可有下向、可入見参子細侍と判形し給へる分明の状成りければ、関東へ下給けり。近江国鏡宿より始て、宿々の設共丁寧也。既に鎌倉に下著して、角と申入たりければ、二位殿急見参して宣けるは、先御下向悦存し侍、抑御本尊に、地蔵菩薩や安置し給へると被問けり。律師さる事候と答。其本尊片手や折給へると宣へば、御手の折させ給へるとは不覚、奉久納、遥に不奉拝、則これに持て奉れりとて、錦の御舎利袋より、紫檀を以造て、金銀を以かざりたる厨子を取出して、御戸を開て拝せ奉給へば、仏の荘厳心も言も及ばず。瑪瑙の地盤に、紺瑠璃を以て伽羅陀山をたたみ、水晶の花実に、琥珀の蓮華を葺けり。其上二三寸の地蔵菩薩を安置
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せり。右に黄金の錫杖を突、左に如意宝珠を持給へるが、うでくび折懸りてぞ御座ける。二位殿奉拝之、はら/\と涙を流し、五体を地に抛入礼し給ふ。因幡守弘基を召て、厳重殊勝の御仏、拝(有朋下P698)給へと被仰ければ、弘基同拝をなす処に、二位殿物語に宣はく、去比有蒙霊夢、錫杖つきたる貴僧の容貌うつくしきが、我枕上に立給て、平家門脇中納言の子息、律師忠快と申をば、此僧に免し給へかし、年来深く我を相憑める僧に侍り、不便に覚ゆと被仰しを、夢の心地に、此御房は地蔵よなど意得たりしかば、承候ぬと申聞給ひ、返々本意也とて御飾つくろはせ給ふが、左の御手の折れ給へるをよに痛気にせさせ給と奉見間に、あの御手はいかにと問申せば、西海の船にて、忠快を助け乗せんとせし時に、左の手を■りてと仰すと示現を蒙る、末代なれ共加様に威験の御座しける御信心の程こそ目出貴けれと宣へば、弘基も感涙を流して、難有御事にこそと申けり。律師宣けるは、都を出て三年、宿定らぬ旅なれば、心閑に奉拝相好隙も候はず、されば御手の折給へるも争か存知候べき、御尋につきて候はずば、何としてか左様に御渡り候べきと、よに不審に候つるに、御夢に思合する事候。先帝太宰府に御座しし時、尾形三郎維義が三万余騎にて責来しに、奉始主上、周章騒船に乗候しに、悪様に乗て、已水に入ぬべく侍しを、下僧の一人来て助乗せて後に、忠快は船にあり、下僧は陸に立て、右手を以て左の腕を拘たりしを、あれは如何にと問ば、悪様に参て手を損じて候へども、事闕候は(有朋下P699)じと申しを、汝は誰人の共ぞと尋しかども、船は急漕出。人は多く阻し程に、返事を聞
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事もなかりき。今の御夢相を承るに、はや是ぞ地蔵の御助にてと、語りも終ず衣の袖を絞りけり。二位殿もいとゞ帰依の涙を流し給ふ。二位家の北方も、簾中にして聞之拝給、信心骨髄に徹し、衣小袖を取出して、殊更供養有ければ、女房達も取渡々々奉拝。小袖、染物、鏡、手箱等しな/゛\奉。二位殿も、砂金百両、巻絹百端、馬三匹を被引ける也。十二間の内侍外侍に候ける大名も小名も、馬鞍、鷲羽、鷹羽、衣、染物、取寄々々供養しければ、誠に一の法事とぞ見えたりける。則仏師を被召御手をつぎ奉る。鎌倉中の貴賎男女競来りて、礼拝供養する事市をなせるが如し。偖二位殿宣けるは、都へ帰上給べきか、鎌倉に被坐よかし、縦何所に御座候とも、頼朝が生たらん程は、如何にも不可有粗略と聞えければ、律師は、懸浮者に成ぬれば、いづくにも侍べけれ共、花洛の東山なる所に、一人の老母候が自が外は憑む方なく候へば、罷上度存候。其上静ならん処に隠居して、練行の功をも積度侍り、此事本望に候へばとて、鎌倉を出給けり。本知行の領、一所も違ず有ける上に、地蔵菩薩供養の布施物の外、種々の引出物たびけり。只非遁流罪、依信力恩徳、大徳付てぞ上給。既に上洛有ける(有朋下P700)に、二位殿より角書送り給けり。
  みちのくの里は遥に遠くとも書尽してぞつぼの石ぶみ K248 
地蔵菩薩の大悲代苦の悲願憑敷哉忠快は、西海の波上にしては沈べき命を済れ、東路の旅の空にしては、難遁身を被助たり。
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S4602 女院入寂光院事
同二十八日、建礼門院、大原の奥に寂光院と云ふ所へ入せ給けり。都近しては心憂事のみ聞召ば、片山陰の柴庵なりとも、御心閑にと日比思召けるに、ある女房のゆかりにて角と申ければ、嬉き事にこそとて思立せ給けり。冷泉大納言隆房の北方は御妹にておはしければ、御輿などは被進けり。大方も西海より御上の後は、様々に被訪申けり。此人の憐にて、角有べしとは兼ても不思者をとて、難有さも嬉さも、人わるきまでにおぼし知られけるに付ても、御涙をぞ流させ給ける。いと人も不通谷道を、遥々と分入せ給へば、山陰なればにや日も既に暮なんとす。道芝深く茂りつゝ、分入御袖も露滋して、思召残す事一もなし。西山の麓北谷奥に寂光院と云堂あり。其傍に怪げなる(有朋下P701)庵室有、年へにけりと覚て痛荒たり。彼へぞ移せ給ける。古にける石の色、落来水の音、緑蘿窓を閉紅葉道を埋り。絵に書共筆も及難ければ、由ある体にぞ御覧じける。いつしか空掻陰り打■つゝ、木葉乱飛鹿の音軒に聞ゆ。嵐に伝ふ鐘の音、風に消行香煙、板間を漏る月光、窓に怨虫の声、何も無常の理を示、偏に有為の有様を顕せり。かゝらざらましかば、唯朝露の快楽に被覊、暮日の終焉を不知ましと思召つゞけて、仏前に詣給て、出離生死頓証菩提と、突額奉拝給けるにも、先帝御面影、夢にも非現にもあらで御身に添ければ、御心迷ひて消入せ給ぬ。女房達拘奉り泣悲み給けるに、やゝ程経て後ぞ御心地も出来にける。
S4603 頼朝義経中違事
伊予守義経、源二位頼朝を背由、此彼にさゝやき合り。兄弟なる上に父子の契にて、殊に其好み深し。
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依之去年正月に、木曾義仲を追討せしより、重命捨身、度々平家を攻落して、今年終に亡果ぬ。一天鎮て四海澄ぬ。勲功無類、可恩賞深処に、如何なる子細にて懸るらんと上下怪をなす。此事は、去年八月に蒙使宣、同九月に五位大夫(有朋下P702)に成けるを、源二位に申合事なし、何事も頼朝が計にこそ依べきに、仰なればとて不申合条自由也。又壇浦の軍敗て後、女院の御船に参会条狼藉也、又平大納言の娘に相親む事無謂、旁不得心宣て、打解まじき者也と被思けるに、梶原平三景時が、渡辺の船汰の時、逆櫓の口論を深遺恨と思ければ、折々に讒す。平家は皆亡ぬ、天下は君の御進退なるべし、但九郎大夫判官殿ばかりや世に立んと思召候らん、御心剛に謀勝給へり、被一谷落事鬼神の所為と覚えき、川尻の大風に船出給し事人の所行と覚えず、敵には向ふとは知て一足も不退、誠に大将軍哉と怖しき人にまします、尤の心え有べし、一定御敵とも成給ぬと存と申ければ、頼朝も後いぶせく思なりとて、追討の心を挟給へり。三浦、佐々木、千葉、畠山等多く参集たりける中に、鎌倉殿仰けるは、九郎が心金は怖き者也、西国討手の大将軍に誰をか可立と思しかば、両三人を呼心根見んとて、提絃を焼て、手水かけて進せよと云しかば、始は蒲冠者参て手を焼、あと云て退ぬ。二番に小野冠者来て、是も手あつしとて除ぬ。三番に九郎冠者、白直垂に袖露結肩に懸て、彼焼たる提絃を取て、顔も損せず声も出さず、始より終まで、手水を懸通したる者也。あはれ是を今度の大将と思て、都へ上せ西国へ指下たれば、木曾(有朋下P703)と云平家と云、三年三月の戦に、九郎
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冠者先をのみ蒐けれ共、終にうす手一つも負ず、平家を誅罰して、天下を鎮たるは神妙なれ共、頼朝にかさみて見ゆ。頼朝〔が〕父下野殿は平家討給ぬ、依当腹、十三歳の時六条川原にて可被切と有しを、池尼御前の垂伏依被申死罪を被宥、始は伊勢国御座島にうつされ、是は都近とて、其より東路の末、伊豆国北条蛭小島に移されて、廿一年さて過ぬ、軍功をいたして花洛へ責上たれ共、未昇殿をだにも免されざりき、何弟の身として、仙洞の御気色よければとて、頼朝に不申合、推て五位尉になる事奇怪也、又立ふぢ打たる車に乗、禁中花色の振舞、以外に過分也、頼朝にかさみて見ゆ、我を我と思はん人々、九郎冠者を打てたべと宣ひけれ共、閉口是非の返事申人なし。鎌倉殿良相待給へ共、無音の間腹立して、いや/\此中には誰々と云とも、梶原計ぞ侍らん、景時都に上て打て進せよと仰す。梶原心中に思けん、人の上に被仰事かなと存じたれば、身の上に懸れり、今度は景時遁ばやと思て御前に参、袂掻合て、仰の旨なれば、東は駒の爪の通、西は艫棹の至らんまでも可攻に侍れ共、判官殿の討手に景時上洛、然べし共不覚、梶原罷上らば、今明の上洛不得其意、義経に中悪き者也、追討使を所望して上にこそと被推量なば、還て逆打に討れぬと覚候、人(有朋下P704)を不損して敵を亡こそよき謀にて候へば、只思懸なからん人に被仰付たばかりて安々と討給へと申して、辞退申して出ぬ。秩父、河越、三浦、鎌倉、高家も党も、不悪者こそ無けれ。
鎌倉殿良案じて、土佐房昌俊を召て事の心を被仰含、九郎を討て進よ、大名などを指上ば、さる者にて
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心得ぬと覚ゆ、和僧は本奈良法師なれば、七大寺詣と可事寄と仰す。仰承て即御前を立ぬ。此昌俊と云は、本大和国住人なるうへ奈良法師也。当国に針庄とて西金堂の御油料所あり。不慮の沙汰出来て、当庄代官小河四郎遠忠と云者が、西金堂衆に敵して、興福寺の上綱に侍従律師快尊を相語て、年貢所当を打止間、堂衆又昌俊を語ひて大勢を引率し、針庄に推寄て遠忠を夜討にす。快尊又大衆を語ひて、土佐房を追籠て、春日神木をかざり洛中へ奉振入、昌俊を可被禁獄之由、為奏聞。大衆発向之処に、昌俊数多凶徒等を卒して、衆徒会合を追払、春日神木を奉伐捨。大衆憤深して、就経天奏昌俊を召けれども、敢て不従勅、依之衆徒之訴訟雖鬱深、両方の理非未聞召開、急企参洛被申道理者、可有聖断之由。被宥仰下ければ、昌俊即上洛す。可召誡之旨仰別当兼忠。昌俊を召捕て、大番衆土肥次郎実平に被預けり。月日を送りける程に、心様甲斐甲斐敷者なりければ、(有朋下P705)実平に親くなりぬ。随又公家にも御無沙汰なりけれ共、南都は敵人強ければ、還住せん事難治にて、実平に相具して関東に下、兵衛佐殿に奉公す。心際不覚なしとて、身を不放召仕給けり。兵衛佐治承の謀反の時、昌俊二文字に結び雁の旗を賜たりけるとかや、去ば本南都の者なり。七大寺詣と号して指上す。
S4604 土佐房上洛事
同二十九日に、土佐房鎌倉を立て、十月十一日に京著、佐女牛町に宿を取。義経が宿所中四町を隔たり。昌俊上洛と聞ども源二位の状なし、昌俊不見来、伊予守子細を存ぜり。同十月十七日に、伊予守
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義経、大蔵卿泰経を以申入けるは、命糸綸趣千里之路、交矢石忘万死之命、討平氏雪父恥、偏に義経功也、我君争不被抽賞哉、頼朝又可加殊恩之処に、悉奪取所領之上、忽に欲令誅殺之間、進退失歩、前後迷度。枉下賜官府、暫欲全身命、若無勅許者、早可自害と申ける。詞中に奥旨ありければ、法皇殊驚思召て人々に被仰合けり。義経上洛の後、北国の凶徒を誅して洛中安堵し、西海の逆賊を亡して天下静謐せり、随所望頼朝が憤憚あり、背彼命義経(有朋下P706)可懐恨、いかゞ有べきと。左大臣経宗被申けるは、為免其難、云平将云義仲、皆任申謂、被成下畢、限今度被惜無益歟、後日に頼朝に被謝仰、何胎腹心哉と被計申ければ、従二位源朝臣頼朝卿を可追討之由、被下官府ける上、九国四国之勇士、可従義経行家下知、兼又不論国衙庄園、可備調庸之由、被成下庁下文けり。同日に伊予守土佐房を召す。随召昌俊参。いかに何事に上洛ぞ、など又音信は無ぞと問。昌俊畏て、且被知召たる様に、本奈良の者にて候が、宿願事侍れ共、近年源平の合戦に打紛て不遂其願、彼を果さん為に、七大寺詣の志候て罷上て候、明日罷立候間、取乱候へば、奈良より罷上て、心静にと相存ずるに候と申。伊予守嘲咲て、和僧が上洛全非七大寺詣、義経夜討料也、大名などを上せば、九郎用心して天下煩にも成なん、又逃隠事も有べし、和僧奈良法師也、事を七大寺詣と披露して義経討との謀ぞや、和僧、源平糸を乱せるが如く、士卒似蜂起、然共義経上洛後、両年間に亡凶徒
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鎮海内、夜討にせんと思寄条頑也、即雖可召誡、和僧が勝に乗ざる前に、義経手を出ならば、兼て臆病也と後の世までも及口遊事似恥、且又舎兄源二位の使也、争可無芳心、随召参上神妙と云。土佐房陳申て云、全其義侍らず、(有朋下P707)為散不審起請文を書進せんと云。伊予守は、起請を書たればとて不可実、其上事和僧が心任よといへば、昌俊其辺より、熊野牛王尋出して、其裏に上天下界神祇奉勧請、起請文書灰に焼て呑、宿所に帰て思けるは、起請は書たれ共、今夜不計ば悪かりなんと思て、夜討支度しけり。伊予守は、其比磯禅師が娘、禅と云白拍子を思けり。女に語て云、此晩程よりいと心騒頻也。一定昼の起請法師が夜討に寄んと思ふなりといへば、禅、大路は塵灰立て、何となく人足いそがし、不可打解給と申。太政入道禿童を二人召仕ければ、土佐房が宿所見て帰れとて、彼を遣侍共々々不見。亥時終程に半物を召て、日比の寝夫を尋る由にて遣之。十七日の夜半の事なれば、月は隈なく照たり。女程なく帰て大息突申けるは、御使禿童と覚しきは、二人ながら土佐房が宿所の小門に死臥たり、暁大仏詣とて、大庭に大幕引、其中に鞍置馬四五十匹ばかり引立たり、鎧物具身に取付て手綱を把、鞍に手打懸て、只今乗んずる様に候と云ぞ遅き、土佐房昌俊并児玉党等六十余騎、十七日子刻に、伊予守義経の六条堀川宿所に押寄て、時の声を発す。館内には不処事なれば、義経を始として纔七騎ぞ有ける。伊予守時声を聞、さればこそ起請法師が所為也、但其僧は尤からず、何事か有べきとてちとも不騒。禅、者(有朋下P708)をばあなどるまじき事也とて、
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冑を取て打懸、灸治し乱て労の折節成けれ共、鎧小具足取付て、縁の際に立出て、門を開と下知す。舎人馬を待儲たり。義経馬に乗て蒐出。今日近来、日本国に誰かは義経を思懸べき、況昌俊法師をや、あますな者共とて、竪横散々に蒐ければ、木葉を嵐の吹様に、さと左右へぞ散たりける。伊予守、引退て指詰々々射ければあだ矢なし、寄手も矢前を汰へて射けり。源八兵衛尉広綱は、内甲を鉢付の板に射付られて、馬より落て死にけり。熊井太郎は、膝節いさせて死生不定也。義経敵の中に懸入て、あますな射取れと下知しける上、郎等共此彼より馳集ければ、昌俊が軍敗て、河原を指て逃走る。行家此事を聞馳来ければ、夜討の党類弥四方に敗散。昌俊は川原を上に落けるを、其僧あますな若党とて、義経は暁天に院御所へ馳参ず。甲の上に矢多く折懸たり。胡■[*竹冠+録]に矢纔に三筋ぞ残たりける。猛将の条は人の所知、世の所免なれ共、其気色実にゆゝしかりければ、人称美しあへり。昌俊は大原路にかゝり、竜華厳を志、北山を指て落けるが、軍兵二手三手にさし廻し、先を切て延やらず、昌俊大原より薬王坂を越、鞍馬山に逃籠。伊予守児童の時、当時居住の好ありて、大衆法師原、山踏して尋ける程に、鞍馬奥僧正が谷と云所にて搦捕、伊予守に奉。大庭に引居て、(有朋下P709)いかに和僧は、腹黒なしと起請書ながら、加様の結構をば巧けるぞ、冥覧在頂、神罰不廻踵、奇怪々々と云ければ、土佐房今は助るべき身に非と思て及悪口。夜討は二位家の結構、起請は昌俊が私の所作也、必しも非冥罰、只自然の運の尽にこそ、互に其期あるべきと云。伊予守腹を立て、しや頬打とて、つら
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を打せたりければ、昌俊不振面不損顔、只飽まで打給へ/\、昌俊が顔我つらにあらず、是は源二位家の御頬也、此代には又鎌倉殿、伊予守殿の顔を打給はんずれば、思合給はんずらんと申す。伊予守から/\と打笑つて、和僧が志誠に神妙也、主を憑むと云は角こそ有べけれ、召人なれ共、土肥が親く成けるは宣く理なりと感じて、命惜くば助ん、二位殿へ参れと云ければ、昌俊取替もなき命を奉て、鎌倉を立し日より、生て可帰と不存、夜討し損じ虜れぬる上は、非可申請命、芳恩には急頭をめせと申。伊予守以下侍共感じ申けり。さらば切れとて、六条川原に引出して、京者の中務丞友国と云者切てけり。伊予守二位家よりあまた人を付たりける内、安達新三郎清経と云雑色あり、下揩ネれ共能者也。旗指にせよとて付られたりけれ共、実には、九郎冠者謀叛をも発頼朝を背ば、急告よとの検見の使也ければ、土佐房が被討を見て、清経其暁鎌倉へ逃下て、二位殿に角と申け(有朋下P710)れば、あゝ九郎は頼朝が敵にはよく成にけり。今は憚るべからずとて、弟に三河守範頼を大将軍にて、六万騎の兵を相副て、可上洛之由被申ければ、範頼既に出立て、小具足計にて、熊王丸に甲持せて二位殿に見参し給ふ。和殿とても非可打解、九郎が様に二の舞もやと存ずれば、上洛事暫可相計と宣ふ。三河守小具足解置、努々不存其義、可起請仕とて、不可奉背之由、梵天帝釈下奉て、百日に百枚之起請文を書上たれ共不用して、範頼暫被宥けり。為義経誅戮、北条四郎時政、土肥次郎実平、可上洛之由有評定。
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S4605 高直被斬並義経申庁下文附義経惜女遣事
同十一月一日肥後国住人原田大夫高直被切けり。是は此三箇年の間平家に付て、度々合戦に勲功ありしかども、平家滅亡之後は安堵し難うして、命ばかりもやと思て、頸を延て降人に下たりけれども、源家敵対の罪科難遁とて、かく被行けり。
同二日伊予守義経、法皇の御所六条殿に参ず。何となく見人上下恐を成してひそまる気色なりけるに、思よりも閑にして、忍やかに大蔵卿泰経朝臣に案内したりければ、出合有対面け(有朋下P711)るに、義経畏て申様、源二位頼朝が度々の奉公をば忘れて、無由悪思事更に不得其意、無其誤由聞や直すと思候へども、弥にこそ承侍也、今は思切て京都にて如何にも可成候に、君の御為にも人為にも煩あるべし、西国の方へ可罷下由思立侍り、可然は豊後国住人惟妙、惟義等が許へ、始終見放さず可合力由、院庁御下文申給候なんや、宸襟を奉休、度々の軍功争可被思召捨、最後所望唯此事に侍と掻詢(かきくどき)申ければ、泰経奏聞す。法皇聞召、御進退の間思召煩て、即以泰経殿下に申る。左大臣に被仰、又蔵人左少弁定長を御使にて右大臣に仰す。各計申されけるは、洛中にて合戦に及ば、朝家の御大事も出来すべし、軍士を外土へ被出事穏事にこそと被奏申ければ、任申請庁御下文を被成にけり。義経畏つて賜之出ぬ。
同日の夕べ夜に入て、義経最後の別を惜つゝ、女の許へ行けり。前平大納言時忠卿の娘也。月比は志深通けれ共、源二位に中悪くなる由披露の後は、此女房にも不打解、平家を亡時忠を虜りたりしに、
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文箱を乞はん料に、不意情を籠しばかりなり。女成とも義経をばよき敵とこそ思らめなればとて、かれ/゛\に成たりけるが、都を落なん後は、再云通はさん事も有まじ、行て事の様をも見聞んと思て、忍て彼宿所の垣根にたゝずみ聞けれ(有朋下P712)ば、かたへの女房に物語すとて、伊予守は源二位に中悪く成て、都を出べしと聞ゆ、世をつゝみて云事も無やらん、一夜の契疎ならず、遉積ぬる月日なれば難忍侍る、などや音信ざるらん、うらめしくも人の心強面かりけりとて、
  つらからば我もろ共にさもあらでなど浮人の恋しかるらん K249 
と打詠じてさめ/゛\と泣けり。伊予守聞之、心替りはなかりけりと哀に思ければ、今夜は爰に留て、以来向後の物語、互に袖を絞ける。女房云けるは、母には死て別ぬ、父には生て別ぬ、無便身也、誰哀を懸べし共不思侍、可然先世契にこそ近付侍らめ、如何なる有様に御座とも相具し給へと歎給けり。伊予守は、実にさるべきにこそ侍れ共、義経源二位に中違ぬる上は、日本国誰か敵にあらざるべき、今は身一の置所なければ、何方へも可落忍、如何ならん末代までもとこそ思侍しに、心に任ぬ身の憂さよ、奉留置後、いかならんと兼て思こそ心苦しけれとて、衣々になる暁の空、出るも留るも、さこそ遺は惜かりけめ。
S4606 義経行家出都並義経始終有様事(有朋下P713)
同三日卯時に、義経院御所六条殿に参て大庭に跪き、事の由を奏す。赤地錦の直垂に、萌黄の糸威の鎧を著たり。よろづを慎て、都鄙の逆党を平て一天の安全をなす、義経有勲功無邪返、爰に頼朝
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軍兵を指上て追討の企を起す、速に時政、実平を待得て雖可決雌雄、都煩人歎たるべし、依之只今洛中を罷出処也、今一度可奉拝竜顔由雖相存、其体異形也、非無其恐、命存へん程は、当時と云向後と云、更不可奉背勅定と申たりければ、聞之人々、或憐或惜けり。即罷出けれ共、少も人の煩をなさず。備前守行家、同打具して都を出。彼此が軍兵、見人数へければ三百騎ぞ有ける。凡義経京中守護間、有威不猛、有忠無私、深不背叡慮、遍相叶人望ければ、貴賎上下惜み合りけるに、懸事出来たれば、男女大小歎けり。今度の奏聞次第の所行、荘士の法を不乱ければ、生ては被嘆死ては被忍けり。八幡の伏拝の所にて、義経馬より下、■をぬぎ、弓脇に挟て跪き申けるは、忝八幡大菩薩は源氏氏神とならせ給ふ、本意を申せば、高祖父頼義蒙夢告、怪傀儡腹に男子をなす、則八幡の宮に奉て、八幡太郎と世に申伝たり、一天の固として鎮四海、而を近年平家の逆乱さかりになりし間、源氏跡を失事二十一年也。今又平家の宿運尽て源家世を取、中に木曾冠者義仲、朝威を(有朋下P714)挿絵(有朋下P715)挿絵(有朋下P716)軽しめ過分の故に、義経手を下して義仲を誅す、是義経が奉公の始なり。加之四国九州に赴て、若干の平氏を誅戮し畢。此に雖無誤無犯、舎兄頼朝が讒訴について、今義経行家都を罷出。譬ば岸の額に離根草、江頭に不繋舟の如し。一門一味にして世をとりし平家も、運尽る日は一人もなし。賢しといへ共、頼朝心狭くして、一人世を知んと思事、神慮実に難測、大菩薩はいかゞ守らせ給らん、今は今生の望候はず、本地弥陀にておはすなれば、後生をば助給へとて、
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指を折て南無阿弥陀仏と百返計申て、立様に口ずさみけるは、
  思より友をうしなふ源の家にはあるじ有べくもなし K250 
と云、合掌伏拝て立程に、伊予守義経備前守行家、源二位に中悪くて、時政実平討手の使として上洛の間、両人西国へ落下と披露有ければ、関東の聞えを恐れ、源二位に志ある在京の武士、馳重馳重是を射けれ共、散々に蹴破て西を指て落行。摂津国源氏多田蔵人行綱、大田太郎、豊島冠者等千余騎の勢を引具し、当国中小溝と云所にて陣を取、矢筈を揃て射けれども事共せず、追散して通にけり。大物が浜より船に乗て九国に下、尾形三郎惟義を憑て支へて見ん、其猶不叶ば、鬼界、高麗、新羅、百済までも落行んと(有朋下P717)思けれ共、折節十一月の事なる上、平家の怨霊や強けん、度々船を出けれども、波風荒うして、大物が浦、住吉浜などに被打上て、今は不及於出船、敵の兵は追続々々に馳来。可遁様なかりければ、三百余騎の者共も、思々に落にけり。義経、行家其行方を不知。都より相具したりける女房達も、此彼に被捨て、浜砂に袴を踏漉、松木の本に袖を片敷て泣臥たりけるを、其あたりの人憐みて、都の方へ送けり。白拍子二人、礒の禅師ばかりぞ義経に付て見ざりける。何者か読たりけん、義経が宿所六条堀川門柱にかく、
  義経はさてもとみつる世中にいづくへつれて行家をさは K251 
同十二日、太宰権師経房卿奉仰て、美作国司に仰けるは、源義経同行家、巧反逆赴西海、
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去六日に於大物浜、忽逢逆風漂没之由、雖有風聞、亡命之条非無独疑、早く仰有勢武勇之輩、尋捜山林河沢之間、不日に可令召進其身とぞ院宣を被下ける。昨日は依義経競望、可追討頼朝卿之由被下宣旨、今日は恐頼朝威勢、可捕進義経、之由被下院宣、朝に成て夕に敗、誰人か信綸言、何輩か帰勅命。さればにや、成頼卿は好文章其性廉なり、親範卿は伝文書熟公事、各遁世為臥雲侶(有朋下P718)不出大原幽澗。隆季卿は雖生素■家、頗為膚文臣、早く以没す。長方卿は大才無双、文章相兼たり、殆不恥上古名臣、寄事於素意、剃落鬢髪。悲哉君子道消て小人諍進ことを。最哀。彼義経と云は、母は九条院雑司常葉ぞかし。故下野守左馬頭義朝に相具して、三人の男子をなす。義朝平治の兵乱に、云に甲斐なく成し後、大弐清盛の許より使を立て常葉を尋ければ、さ思つる事也、中々に逃隠ても悪かりなんとて、十歳に未満子共三人掻持て、泣々清盛に逢たりけり。容貌事様より始て、振舞心立に付て思増様なりければ、情ある女なりとて、清盛通ける程に、女一人儲たり。廊の御方とて、花山院内大臣の北方にて御座ける。姉公の体に候はれけるは是也。清盛心に情ありて、彼継子三人を憐、中々に披露あるまじ、我子といはんとて、各法師になれとて、教訓しければ、常葉悦て、太郎をも法師になして、後には鎌倉の悪禅師といはれき。次郎をも僧に成て公暁と云き。三郎は義経ぞかし。稚より鞍馬寺に師仕せさせて、遮那王殿とぞ云ける。学文などせんと云事なし。只武勇を好て、弓箭、太刀、刀、飛越、力態などし
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て谷峯を走、児共若輩招集て、碁双六隙なかりければ、師匠も持あつかひて過ける程に、十六に成ける時の正月に、師の僧の云けるやう、今は僧に成て父の後生をも(有朋下P719)弔給へかし、男にならんと思志なんどおはするか、さらば此世中に非可御座、世になからんに取ては、男の義有べくもなしなんど、懇に語ける時、此児打笑て答様、僧は聖教を読学し、書籍を伝習たるぞさる様にてよけれ、加様の文盲の身にては、法師に成たり共非人にてこそあらめとて、いと心入なかりける気色を見て、此僧の申ける様は、人の果報は凡夫不知事也、如何にも覚さん儘に、■方へ■給へとて、笑て止にけり。さて七八日、此児物思ふ様にて有ければ、彼師怪と思て慰けりとする程に、少くより持習たりし弓矢をとり、夜の間に児失にけり。東西尋けれ共、児みえず、母の常葉も同尋けり。其年の二月に、此師の弟子なりける僧の、尾張より上たりけるが、諸の物語申ける次にや、実に不思議の事侍ふ、此に御座せし遮那王殿こそ男になりて、金商人に具して奥の方へ下給しか、僻目かとて能々見しかば、いまだ金も落ずしておはしき、角みる事は夜の間なりき、去にても忍やかに物申さんと思て、忍に如何にやと申て候しかば、少し物はゆげに覚して、其事に侍、師御房の僧になすべき由懇に候し旨其謂候き、去共人間に生る間は難有と申ぞかし、如何にして父の恥をすゝがんと、年比鞍馬寺の毘沙門に祈申き、身の果報を天道に任進せて、東の方へ罷也、坂東に名ある者、一人として(有朋下P720)父祖父の家人ならぬはなしと承れば、去共様有なんと思て罷也、事の次でのあらん時、此由師の御房に語給へ、文なんどにては落
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散事もあり、必人伝ならでと語て、はら/\と涙を流し候しぞと語ければ、彼師も袖を絞つゝ、さらばさこそ宣ふべけれ、如何して其迄もかゝぐり付れけんとて、忍て母の許に行此由を云ければ、常葉手をあかひて、いや/\努々此事又人に語給ふな、空怖しとて止みにけり。其比伊勢国住人江三郎義盛とて心猛者ありき。あたゝけ山にして、伯母聟に与権守と云けるを打殺したりし咎に被禁獄、赦免の後東国に落行て、上野国荒蒔郷に住ける時、旅人一人来て遊。義盛、我も本は旅人なりき、慰んと思て、何となく■て日比遊けるに、いかにも直人共見えざりければ、不寂労りけり。又此旅人も、義盛をよき者と見てけり。互に馴遊て年月をふる程に、義盛が申様、我をば義盛と知給へるにや、殿をば誰共不奉知、今更可奉問、よも義盛が敵にては御座せじと云ければ、旅人答様、人は家をば憑ず心をぞ憑む、見馴進せて久く成ぬ、是は父母もなし親類もなし、天より天降たる者成とて、上下なくて過しける程に、鎌倉にて、流人源兵衛佐の謀叛を起して■る由、まめやかに聞えける時、旅人義盛に云様、下人一人やとはかし給へ、四五日が程に帰すべし、年比の本意(有朋下P721)に侍りと有ければ、義盛是非の言なし、藤太冠者と云ける奴を召て、此殿に己をば奉る也、いかにも随仰へと云てけり。偖彼下人と此旅人と、懇に私語物語して、通夜消息を書て、明る朝に出し立、旅の殿の教の儘に、藤太冠者は鎌倉に行付て、兵衛佐の御座ける館を徐に見て、輙く人の行至るべき様もなかりければ、身の毛竪て門にたゝずむ。暫しこそあれ、いつとなくたゝずむ程に、人々怪て、あれは何者ぞやと尋ありける時、懐
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より文を取出たり。暫ある程に返事を持て出て、いづら九郎御曹司の御使と呼けれ共、藤太冠者不意得して居たり。文を取次たる人出来て、あれこそはそよとて、藤太冠者を呼て返事をつらせつ。詞には疾々御渡り候へと申せとぞ云ける。藤太冠者胸はしりつつ、急帰て旅の殿に返事わたして、後に此有様を義盛に語に、志不浅つる上に弥■て、九郎御曹司と申てかしづき、主従の礼をなす。さて取物も不取敢様に出立て、義経鎌倉へ上る。義盛一の郎等たり、理なり。夜に入て鎌倉に著、明朝以義盛角と申入らる。兵衛佐の返答に、只今急に侍り、夕方心閑に可申とあり。其程は義経義盛忍て宿にあり。戌の半計の時、兵衛佐使を義経の許へ立て被呼寄。見参して鳥の鳴程に被出ぬ。又朝に指出られたりしより、いつしか又上もなき家の子也。義経木曾殿并に(有朋下P722)平家追討の為討手、京上の時は、伊勢三郎義盛とて先陣を打、西国屋島壇浦までも不相離、義経都を落ける時、義盛君の落著給へらば急ぎ可馳参と様々契申て、思様ありとて暇を乞て、故郷伊勢国に下、其時の守護人、首藤四郎を伺討つ。国中の武士追かゝりければ、義盛鈴鹿山に逃籠て戦けるが、敵は大勢也、矢種射尽して自害して失にけり。武蔵国住人河越太郎并一男小太郎被誅けり。是は故秩父権頭が次男の子ぞかし。然程に、義経都を落て金峰に登て、金王法橋が坊にて、具したりし白拍子二人舞せて、世を世ともせず二三日遊戯て、あゝさてのみ非可有とて、白拍子を此より京へ返送とて、金王法橋に誂付て、年来の妻の局、河越太郎が女計を相具して下にけり。義経が舅子舅なるに依て角亡にけり。陸奥国
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権館、秀衡入道が許に尋付たりければ、造作して居侍つて過る程に、秀衡老死しぬ。其男安衡を憑て有けるが、鎌倉に心を通して義経を誅す。其時妻女申けるは、一人の子なれば思置事なし、残居て憂目を見んも心うし、我を先立て死出山を共に越給へと云ければ、義経南無阿弥陀仏と唱へて、女房を左脇に挟かとすれば頸を掻落して、右に持たる刀にて、我腹掻割て打臥にけり。昔将門が合戦の時、御方したりし俵藤太秀郷が末葉に、陸奥出羽両国の地頭にて権大夫常清、其一男に(有朋下P723)権太郎御館清衡、其男に御館元衡、其男に御館秀衡、其男に安衡是也。背父遺言安衡義経を討たりけれ共、無其詮、源二位頼朝奥入して、安衡をば被誅けり。源二位或望或欝申事ありて、時政実平を指進せて、可潜近臣輩由聞えければ、人皆恐怖しけり。
S4607 時政実平上洛附吉田経房卿御廉直事
同二十八日、両使数百騎の兵を率して入洛す。義経行家は都を落ぬ。時政実平上洛したれ共、合戦なければ洛中静也。時政源二位の依下知、諸国に守護を置、庄園に地頭を可成由、吉田藤中納言経房卿を以奏し申す。又二十六箇国を相分て、庄領国領をいはず、段別兵粮米を充、義経行家追討のためとぞ聞えし。無量義経云、王敵を亡す者には賞するに半国を賜はると見えたれ共、我朝いまだ無先例、頼朝申状頗過分也と、君も臣も思召ければ、御返事有御猶予ければ、時政奏すらく、吾朝日本国に、昔よりして謀叛人多く日記に留れ共、平相国に過たる犯人を不見。天竺には、提婆達多、仏の御身より血をば出したりけれ共、国を悩す事はなし。唐会昌天子僧尼を亡しけれ共、臣公は(有朋下P724)穏しかりき。
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平家太政入道は、南都園城仏法僧を滅し、仙洞梁園を蔑ろにし、三公侍臣を流し失、昔も類を不聞、向後も実に難有、朝庭これを歎、仏家専悲、是を平ぐるは源氏の高名也、是を鎮るは関東の忠勤也、国を守人をめぐまんが為に被奏申処也、などか御免なからんと申上たりければ、道理はさも有けれども、当時の威応に恐て任申請旨、諸国の守護人、段別の兵粮米、平家知行の跡に地頭識を被許けり。
吉田中納言経房卿をば、其比は勧解由小路中納言と云き。廉直の姓世に顕れし、忠貞の誉無隠ければ、源二位今度院奏しけるは、大小事、向後以経房卿可奏聞之由被申たり。平家時も大事をば此卿に被申合き。故太政入道の法皇を鳥羽殿に籠奉りし後、院伝奏おかれし時は、八条中納言長方と此大納言と二人をぞ別当には被成ける。今度源氏の世に成りても、角憑まれるこそ難有けれ。三公以下、参議、非参議、前官当職等四十三人中に被択けるぞ優々敷。平家にむすぼほれたりし人々も、今は源氏に追従して、源二位の許へ状を遣し、使を下して種々にこそ眤けれ共、此卿は露諂事なし、只有に任たる心也。されば後白川院【*後白河院】建久二年の冬比より御不予事ありて、同三年正月の末よりは、憑少き御事と思召て、種々の御事共仰置給しに、御後の事奉行すべき由、彼経房卿(有朋下P725)承き。執事にて花山院左府、近臣にて左大弁宰相候る。此人々被申沙汰、可有何不足なれども、思召入加様に被仰含事の忝さよとて、感涙を流し給けるとぞ聞えし。よく実ある人にて、君も角思召けるにこそ。
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此卿は、権右中弁光房朝臣息男、十二歳時父光房に後れ、孤子にておはしけれ共、次第の昇進不滞三事顕要を兼帯し、夕郎貫首を経、参議右大弁、中納言、太宰師をへて、終に正二位大納言に至けり。人をば越けれども人には越られず、君も重く思召、臣も憚思ふべき、人の善悪は針を袋に入たるが如しといへり。誠に隠れなかりければ、源二位までも被憑給けり。
S4608 尋害平家小児附闕官恩賞人々事
同年十二月十七日侍従忠房、前左兵衛尉実元が預たりけるを、野路辺にて斬首。又小児五人内、二人は前内大臣の息、一人は通盛卿男、二人は維盛卿子也。同彼所にして誅殺す。何もとり/゛\に貌有様よし有て見えければ、武士共剣刀の宛所も不覚ければ、とみに不斬して程へけるに、此少き人共、或殺さるべしと知て泣悲むもあり、又思分ずして母をよばひ、乳母を慕て泣悶るもあり。彼を見此を見るに、無慙にもかはゆ(有朋下P726)くも覚えければ、兵ども涙をぞ流ける。
同日、任源二位申状、大蔵卿泰経、右馬権頭経仲、越後守隆経、侍従能成、少内記信康被解官けり。上卿左大臣経宗、職事頭弁光雅朝臣也けり。大蔵卿父子三人被解官ける事は、義経以彼卿、毎時奏聞しける故とぞ聞えし。能成は義経が同じ母弟、信康は義経が執筆也。又左馬権頭業忠、兵庫頭範綱、大夫尉知康、同尉信盛、左衛門尉時定、同尉信定等、為加其刑、関東より召下とぞ聞えし。同晦日解官並流人被下宣旨けり。参議親宗、右大弁光雅、刑部卿頼経、左馬権頭業忠、大夫史隆職、兵庫頭範綱、左衛門尉知康、同尉信盛、同尉信貞、同尉時盛被解官けり。光雅朝臣隆職は、官府を成下しける
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故とぞ聞えし。泰経卿は伊豆、頼経朝臣は安房へ配流の由被宣下けり。威君潜臣こと不異平将。時政既天下の権を執ければ、諸公卿士列左右集門下。去二十七日可預議奏人々とて、関東より交名を注進す。右大臣兼実、右大臣実定、三条大納言実房、中御門大納言宗家、堀川大納言忠親、権中納言実家、源中納言通親、藤中納言経房、藤宰相雅長、左大弁宰相兼光也。今度源二位注進の状に、入人は其威を振ひ、不入人は失其勢、世の重じ人の帰する事平将に万倍せり。是人之非成、天之所与也。右大臣可被下内覧宣旨之由(有朋下P727)同被申たりければ、法皇も頼朝卿任申入之旨、於今者世事偏可被計行と被仰ければ、右府頻に被謙譲申けり。(有朋下P728)