『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第五
P0103(有朋上P143)
保巻 第五
S0501 座主流罪事
安元(あんげん)三年五月五日、明雲(めいうん)僧正(そうじやう)被(レ)止(二)公請(一)之上、蔵人を遣て、被(レ)召(二)返御本尊(一)。其上使庁の使を以て、今度奉(レ)振(二)下神輿(一)、大衆の張本を被(レ)召けり。加賀国には座主の御房領あり。師高(もろたか)国務之刻、是を停廃の間、其宿意に依て、門徒の大衆を語らひ訴訟(そしよう)を致。既(すで)に朝家の及(二)御大事(一)之由、西光(さいくわう)法師(ほふし)父子讒奏之間、法皇大に逆鱗有て、殊に重科を行べき由被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。
同六日検非違使(けんびゐし)師房、使庁の下部二十余人(よにん)を相具して、白河高畠の座主の御坊内に乱入て、狼藉古今に絶たり。軈当日に印鎰を御経蔵へ奉(レ)渡。山門京都耳目を驚せり。衆徒谷々坊々に寄合々々私語けり。十一日七条の七宮覚快 天台座主(てんだいざす)に成せ給。是は鳥羽院(とばのゐん)の第七の皇子、故青蓮院大僧正(だいそうじやう)行玄の御弟子なり。同日に明法へ被(二)尋下(一)、宣旨状云、
延暦寺前座主僧正(そうじやう)明雲(めいうん)条々所犯事(有朋上P144)
一故大僧正(だいそうじやう)快秀、為(二)当山座主(一)間、相(二)語悪僧等(一)、令(レ)追(二)払山門(一)事。
一去嘉応元年、就(二)美濃国比良野庄民等(一)、結(二)構訴訟(そしよう)(一)、発(二)当山之悪徒(一)、令(レ)乱(二)入宮城(一)狼藉事。
一近日大衆蜂起事、次第超過、彼嘉応狼藉、先一旦意趣、催(二)三塔凶徒(一)、外構(二)制止之詞(一)、内成(二)騒動企(一)、
P0104
蔑(二)爾朝章(一)、欲(レ)滅(二)仏法(一)、或以(二)凶徒(一)、乱(二)入陣中(一)、数箇所放火、或対(二)警固之輩(一)合戦、或帯(二)兵具(一)、可(レ)下(レ)洛之由、令(二)執奏(一)、誠是朝家之怨敵、偏叡山(えいさん)之魔滅者歟、仰(二)下明法博士(一)、就(二)彼条々所(一)(レ)犯、可(レ)勘(二)申明雲(めいうん)所(レ)当罪名(一)。
安元(あんげん)三年五月十一日 蔵人頭右近衛中将藤原朝臣光能奉とぞ有ける。十二日に前座主所職を被(レ)止之上、大衆の張本を出すべき由、検非違使(けんびゐし)二人を被(二)差遣(一)、水火の責に及けり。此事に依て衆徒憤申て、猶参洛すべしと聞ければ、内裏並に法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に軍兵を被(二)召置(一)、大臣以下殿上の侍臣皆馳集りければ、京中の上下騒あへり。
S0502 山門奏状事(有朋上P145)
同十五日に前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)減(二)死罪一等(一)、可(レ)被(二)遠流(一)之由法家勘申之旨風聞有ければ、衆徒捧(二)奏状(一)云、
延暦寺三千大衆法師等誠惶誠恐謹言。
請特蒙(二)天恩(一)、早被(レ)停(二)止前座主明雲(めいうん)配流並私領没官子細(一)事
右座主、是挑(二)法燈(一)之職、和尚又伝(二)戒光(一)之仁也、若処(二)重科(一)、被(二)配流(一)者、豈非(二)天台円宗(一)、忽滅(二)菩薩大戒(一)、永矢哉、因(レ)茲我山開闢之後、貫首草創以来、百王理乱、雖(二)是異(一)、一山安危、雖(レ)随(レ)時、只有(二)帰敬之礼(一)、都無(二)流罪之例(一)、就(レ)中(なかんづく)明雲(めいうん)是顕密之棟梁、智行之賢徳也、一山九院之陵遅、此時復(二)旧跡(一)、四教三密之紹隆其儀不(レ)恥、上代、今忽赴(二)遠方(一)、永別(二)我山(一)、衆徒悲歎何事如(レ)之、何況前座主、於(二)天朝(一)者、是一乗経之師範也、須(レ)尽(二)千歳之供給於仙院(一)者、又菩薩戒之和尚也、盍(レ)運(二)三時
P0105
之礼敬(一)、今没官所(レ)知、更被(レ)蒙(二)重科(一)、寧非(二)大逆罪(一)哉、謹尋(三)異域訪(二)旧例(一)、未(レ)聞(二)一朝国師無(一)(レ)故、蒙(二)逆害(一)矣、抑配流科怠何事乎、如(二)閭巷説(一)者、或人讒言度々、山門訴訟(そしよう)、或追(二)却快秀僧正(そうじやう)(一)、或訴(二)申成親卿(なりちかのきやう)(一)、又当時師高(もろたか)之事等、偏是明雲(めいうん)之結構者也、因(レ)此讒達忽蒙(二)勅勘(一)、云々、若如(二)風聞(一)者、何用(二)浮言(一)、須(下)対(二)決彼此(一)被(レ)糾(中)真偽(上)也、至(二)件等事(一)者、大衆鬱憤致(二)訴訟(そしよう)(一)之刻、於(二)前座主(一)(有朋上P146)者、毎度禁(二)制之(一)、蓋山門動揺、為(二)貫主痛(一)故也、対決処無(二)其隠(一)歟、設有(二)不慮越度(一)、何及(二)重科(一)耶、衆徒等、謹驚(二)天聴(一)欲(レ)救(二)末寺愚僧(一)之処、被(レ)召(二)其張本(一)、為(レ)歎之間、終失(二)本山之高僧(一)之条、不慮愁無(二)物取(一)(レ)喩、夫不(レ)蒙(二)聖勅(一)、勿(レ)散(二)怨望(一)、是常例也、今雖(レ)仰(二)天裁(一)、還蒙(二)厳罰(一)、未(レ)得(レ)意矣、抑我君太上法皇、偏仰(二)医王山王之冥徳(一)、久帰(二)台岳三宝(一)、専愍(二)山修山学之襌侶(一)、忝抽(二)興隆之叡慮(一)、而今仁恩忽変、誅戮俄来、数百歳之仏日云、迷(二)心神之所行(一)、三千人(さんぜんにん)之胸火熾燃、不(レ)知(二)愚身之所(一)(レ)措、若明雲(めいうん)被(二)配流(一)者、衆徒誰留(レ)跡、鎮護国家道場、眼前欲(二)魔滅(一)、早宥(二)明雲(めいうん)配流(一)、被(レ)停(二)止私領没官(一)者、十二願王新護(二)持玉体(一)、三千衆徒弥奉(レ)祈(二)宝算(一)矣、誠惶誠恐謹言。
安元(あんげん)三年五月日
とぞ書たりける。但此奏状、誰人を以つてか伝奏すべきと僉議(せんぎ)ありけるに、禅門平相国は、既(すで)に一朝之固、万人之眼也。天下の乱山上の愁、争か其成敗なかるべき。就(レ)中(なかんづく)前座主は是れ大相国(たいしやうこく)の為に菩薩戒の和尚也。此事に於ては尤可(レ)被(レ)鳴(二)諫鼓(一)。若此憤を散ぜずして、大戒の和尚を令(二)還俗(一)、なほ被(二)流罪(一)
P0106
者、則吾山の仏法破滅時至るなるべし、一字を習伝、一戒を受持たらん者は、師資の門葉也、誰人か背(レ)之、相国禅門受戒の弟子(有朋上P147)たり、仙洞を宥申されんに、なびき給はずば、三千の学侶、誰か身命を惜べきとて、各大講堂の前にして、満山の仏神伽藍の護法を驚奉て、泣々(なくなく)起請して云、衆徒の鬱憤不(レ)散して、固被(二)流罪(一)者、大衆皆従(レ)彼同蒙(二)配流之罪(一)、満山学侶一人も不(レ)可(レ)留。我山存亡只在(二)此成敗(一)、宣(下)察(二)此趣(一)被(中)執申(上)とて、同十七日に、所司等を以、福原の禅門大相国(たいしやうこく)へぞ送遣ける。二十日前座主の罪科の事、可(レ)有(二)僉議(せんぎ)(一)とて、太政(だいじやう)大臣(だいじん)以下の公卿十三人参内あり。陣の座に著て其定有けれ共、冥には七社権現の照覧も難(レ)測、顕には三千衆徒の鬱憤も恐しくやおぼしけん、諸卿各口を閉て申す旨もなかりけり。其中に八条中納言長方卿、其時は左大弁宰相にて御座けるが被(レ)申けるは、法華の勘文に任て、死罪一等を減じて、雖(レ)可(レ)被(二)遠流(一)、前座主僧正(そうじやう)は、顕密兼学、浄行持律の上、公家には一乗園宗御師範也。法皇には円頓受戒の和尚たり、御経の師、御戒の師にや、被(レ)行(二)重科(一)事、冥の照覧難(レ)測、還俗遠流を可(レ)被(レ)宥かと、無(レ)所(レ)憚被(レ)申ければ、当座の公卿、各長方卿の被(二)定申(一)之義に同ずと被(レ)申けれ共、法皇の御憤(おんいきどほり)深かりければ、終に流罪に定りけり。太政(だいじやう)入道(にふだう)も此事角と承ければ、申止進らせんとて被(レ)参たれ共、御風の気とて御前へも召れず、御憤(おんいきどほ)りの深きよと心得て出給にけり。二十一日に前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)をば、大納言大夫(有朋上P148)藤原松枝と名を改て、伊豆国へ流罪と定る。係りければ、山門なほ騒動して、又神輿を振奉べしと聞えければ、御輿を下奉らんとて、西坂本の坂口、此彼
P0107
松木を切持て行て、逆木にこそ引たりけれ。最をかしく見えし。いかなる者の読たるやらん、門の柱に御改名を添て、
松枝は皆さかもぎに切はてて山にはざすにする者もなし K028
寺法師の所行とぞ申ける。座主の流罪の事、人々諌申けれ共、西光(さいくわう)法師(ほふし)が無実の讒奏に依て、かく被(レ)行けり。今夜都を出奉らんとて、宣旨■(きび)しかりければ、追立の検非違使(けんびゐし)、白河高畠の御坊に参て責申しけり。座主は白河の御所を出給(たまひ)て、粟田口の辺、一切経の別所へ出させ給けり。大衆聞(レ)之、西光(さいくわう)法師(ほふし)父子が名を書て、根本中堂(こんぼんちゆうだう)に御座す。金毘羅大将の御足の下に蹈奉て、十二神将、七千夜叉、東西満山護法聖衆、山王七社、両所三聖、時刻を廻さず召捕り給へと呪咀しけるこそ懼しけれ。又大講堂の庭に、三塔会合して僉議(せんぎ)しけり。伝教、慈覚、智証大師の御事は不(レ)及(レ)申、義真和尚より以来五十五代、いまだ天台座主(てんだいざす)流罪の例を聞かず、末代と云とも、争か吾山に疵をば可(レ)付、心憂事也、天下を闇に成べしなんど喚叫ぶと聞えけり。同二十三日に、座主一切経の別所を出て配所へ(有朋上P149)赴給ふ。慈覚大師の自造り給へる如意輪の御像ばかりを、泣々(なくなく)御頸に被(レ)懸ける。朝夕に見馴給へる御弟子一人も不(レ)奉(レ)付、門徒の大衆も不(レ)参、御覧じも知ぬ武士に伴て出給ける御有様(おんありさま)、よその袂も絞けり。被(レ)召たる馬は浅猿き野馬に、けしかる鞍具足也。彼粟田口、両葉山、四宮河原を打過て、影も涼しき会坂の、関の清水を過越て、粟津の浦にぞ出給。漫々たる海上に、山田、矢橋の渡舟、漕わかれける形勢も、渺々たる浦路の、志賀
P0108
坂本に立煙、空に消ゆく景気まで、我身の上とぞ思召(おぼしめす)。無動寺の御本坊、根本中堂(こんぼんちゆうだう)の杉の本、遥(はるか)に顧給(たまひ)て、御名残(おんなごり)こそ惜かりけめ。汀に遊鴎鳥、群居て思やなかるらん、唐崎の一松、友なき事をや歎らん。此れを見彼れを見給(たまひ)ても、唯香染の御衣をぞ被(レ)絞ける。角て暫く粟津の国分寺の毘沙門洞に立入給へり。
S0503 澄憲賜(二)血脈(一)事
故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の子息に、安居院の法印澄憲、いまだ権大僧都(ごんのだいそうづ)にて御座けるが、座主の遺を慕ひつゝ、国分寺まで奉(レ)送。座主は君に捨られ奉て、配所の道に出ぬるを、是までの芳志こそ憂身の旅の思出なれ、かゝる勅勘の者なれば、再び花洛に帰上らんまで、命なが(有朋上P150)らふべし共覚えず、弘通を遐代に及し、利益を有縁に施給へ、諸仏己心の所証也、天台秘密の法門也とて、一心三観の相承血脈を授らる。抑此法不(レ)輙、如来(によらい)四十余年懐に在て説給はず、此法難(レ)聞ければ、衆生無量億劫耳の外にして未(レ)聞、適釈尊出世の昔一乗弘宣の時、本迹二門に権智実智の一心三観を被(レ)演。灰沙の二乗は無生の悟を開、塵数の菩薩は増進の益に預き。竜女が速成を現じ、達多が授記を蒙し此法力也。天台大師は、大蘇山法花三昧の道場にして、行道誦経せし時に、霊山の一会現じつゝ、多宝塔中の釈迦より此法を伝給き。伝教大師は渡唐の時、台州臨海県の竜興寺極楽浄土院にして、道邃和尚に奉(レ)値、此法を伝受し給しより以来、相承聊爾ならず、血脈法機を守る、就(レ)中(なかんづく)国は粟散辺土也、時は濁世末代也、誠に非(レ)可(レ)輙、今日の情けに堪へずして、澄憲付属を得たりけり。僧都(そうづ)は血脈を給ひて、法衣の袖に裹みつゝ、泣々(なくなく)御前を立ちたまふ。
P0109
去る程(ほど)に満山の大衆残留もなく、東坂本に下つゝ、十禅師(じふぜんじ)御前にて、各涙を流し僉議(せんぎ)しけるは、当山五十五代、いまだ天台座主(てんだいざす)流罪の例を聞ず、此時始て顕密の主を失ひ、修学の窓を閉事、唯当時の失(二)面目(一)のみに非、末代までも口惜かるべし、然者(しかれば)三千の衆徒等、違勅の咎を顧ず、貫首に代奉て粟津へ向、座主を可(レ)奉(二)取留(一)、但追立の官人両送使等有(有朋上P151)なれば、取得奉らん事難(レ)有からんか、此事冥慮に相叶、我山可(レ)為(二)我山(一)者、山王権現力を合せ給へ、衆徒の愁歎神明哀と思召(おぼしめさ)ば、只今験を見せ給へと、肝胆を砕て祈申ける程(ほど)に、十禅師(じふぜんじ)の宮の造合より、白髪たる老女一人現じて、心身を苦ましめ、五体に汗を流て、我に十禅師権現(じふぜんじごんげん)乗居させ給へり、誠に衆徒の歎難(二)黙止(一)、我此所に跡を垂事、円宗の仏法を守、三千の学侶を為(レ)育也。而今様なき例を我山に留、三千の貫首を被(二)流罪(一)事、我一人が歎なれば、冥慮誠に難(レ)休、速に可(レ)奉(レ)迎、深力を合べし、あな心うやとて左右の袖を顔に当、さめ/゛\とぞ泣ける。大衆恠(レ)之、誠に十禅師権現(じふぜんじごんげん)の御託宣ならば、我等験を奉らん、本の主々に返給とて、各念珠を大庭へ抛たりけり。物付是を取集て、左の手にくり懸て、立廻々々若干の念珠少も違へず、本の主々へ賦渡す。不思議なりし事共也。山王権現の霊験の新なる忝さに、衆徒涙を流つゝ、さらば迎へ奉れやとて、袈裟衣をば甲冑に脱替て、或は渺々たる志賀唐崎の浦路に、歩引唱衆徒もあり、或は漫々たる山田矢橋の湖上に、舟に竿さす大衆もあり。角て国分寺の毘沙門堂へ参りければ、稠げなりつる追立の官人も見えず、両送使も失にけり。座主は此有様(ありさま)を御覧じて、大に恐給被(レ)仰けるは、勅勘の者は月日の
P0110
光にだにも不(レ)当とこそ申せ、況や不(レ)廻(二)時刻(一)、可(レ)被(二)(有朋上P152)追下(一)之由、被(二)宣下(一)上は、暫もやすらふべきに非、衆徒はとく/\帰上給へとて、端近出給宣(のたまひ)けるは、三台槐門の家を出て、四明幽渓の窓に入しより以来、広円宗の教法を学して、只我山の興隆をのみ思ひ、奉(レ)祈(二)国家(一)事も不(レ)疎、衆徒を育志も深りき。然而身に誤なうして、無実の讒奏により、遠流の重科を蒙る事、両所三聖定めて知見照覧し給らん、倩事の情を案ずるに、大唐には慈恩大師達磨和尚、配所の草に名を埋み、我朝には役優婆塞遠流の露に袖を絞給へりき。我身一人に非ず、是皆先世の宿業にこそと思へば、代をも人をも神をも仏をも奉(レ)恨心なし、是まで訪来り給へる衆徒の芳志こそ難(二)申尽(一)とて、香染の袖をぞ絞らせ給ける。奉(レ)見(レ)之衆徒、争か袖を絞ざるべき、皆鎧の袖をぞぬらしける。軈て御輿を舁寄て被(レ)召候へと勧申けれ共、昔こそ三千人(さんぜんにん)の貫首たりしか、今は係身に成て、再我山に還登事だに難(レ)有、いかゞ無(二)止事(一)修学者、智慧深大徳達に被(二)舁捧(一)上べき。■(わらんづ)なんど云物をはきて、同じ様に歩連てこそと宣へば、西塔法師に戒浄坊相模阿闇梨(あじやり)祐慶は、三塔無双の悪僧也。此僧は本園城寺の衆徒にて、よき学匠也けり。倶舎、成実の性相より、法相、天台の深義を極め、顕密両宗に亘つて三院三井の法燈也けるが、大慢偏執の者にて我執強僧也。我寺山徒の為にあざむかるゝ事、生々(有朋上P153)世々の遺恨に思けるが、妄念晴れ難く覚て、よしよし此寺にあればこそ此の思もあれ、不(レ)如山門に移住せんにはと変改して、住馴し三井の流を打捨て、西塔院へぞ渡にける。本より心立たる者なれば、三枚甲を居頸に著なし、黒皮威(くろかはをどし)の大荒目の冑に、
P0111
三尺の大長刀の茅の葉の如なる杖に突て、衆徒の中に進入て申けるは、倩事の心を案ずるに、当山建立以後数百歳の星霜を送、貫首代々相続て、忝顕密の教法を弘通し給へり。四明の法燈一天之戒珠に御座す、而も姦臣の讒訴に依て実否糾されず、重科に被(レ)行給はん事、末代と云ながら心憂次第に非や。且は朝家の師範、且は山門の官長に御座、誰人か歎訪ひ奉らざらん、今度流罪に沈給はんに於ては、衆徒何の面目有りてか当山に可(レ)止(レ)跡、いづくまでも御供をこそ被(レ)申めとて、衆徒の中を指越々々座主の御前に参て、大長刀杖に突て、座主をはたと奉(レ)睨申けるは、加様に御心弱渡らせ給へばこそ、係る憂目をも御覧じ、山門に様なき疵をも付させ給へ、急御登山あらましかば、衆徒これ程の骨をばよも折侍らじ、其に貫首は三千衆徒に代て、流罪の宣旨を蒙らせ給ふ上は、衆徒貫首に代り奉て、命を失はん事、全くうれへに非ず、唯とく/\御輿に召されよやとて、御手をむずと取奉、引立御輿に奉(二)舁乗(一)。座主は戦々乗給けり。祐慶やがて先輿を仕る、東塔南谷、妙光坊の大和(有朋上P154)阿闍梨(あじやり)仙性と云ふ者、後陣を舁、国分の毘沙門堂より、鳥の飛が如風の吹様に、粟津原打出の浜、大津三井寺志賀の里、先陣後陣劣らずこそ見えけれ共、仙性が後陣には、時々大衆代りけり。祐慶が先陣は初より物具脱事もなく、高紐に甲を懸、輿を轅に長刀の柄折よ摧よと把具し、坂本早尾舁越して、さしも嶮しき東坂、一度も代らず、講堂の庭に舁付たり。爰に行歩に不(レ)叶老僧、若は花族の修学者、此事いかゞ有べき、日来は一山の貫首たりといへ共、今は流罪の宣旨を蒙給へり。横に取のぼせ奉事、違勅の咎難(レ)遁かと、様々僉議(せんぎ)あり。
P0112
実と云衆徒も多かりけり。去ども祐慶は少もへらず、鎧の胸板きらめかし、扇披遣て申けるは、我山は是日本無双之霊地、鎮護国家之道場也。一乗之教風扇(二)四海七社之威光(一)耀(二)卒土(一)、仏法王法午角にして、山上山下安泰なり。当山超(二)万山之威験(一)、此宗勝(二)諸宗之教法(一)、依(レ)之聖代明時合(二)掌於一実之円宗(一)、皇門后宮傾(二)頭於一山之効験(一)。然ば大衆の意趣も人にまさり、賎き法師原までも世以て軽しめず、何況や前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)は、智慧高貴にして一山の為(二)和尚(一)。徳行無双にして三千の貫長たり。当代に無(レ)罪被(二)遠流(一)給はん事、是山上洛中の歎のみに非ず、併興福園城の嘲也。悲哉止観上乗之窓前に、廃(二)蛍雪之勤(一)、怨哉瑜伽(ゆが)三密之壇上に、絶(二)護摩之煙(一)。就(レ)中(なかんづく)於(二)大唐震旦(一)、天台山(有朋上P155)長安城之艮也。於(二)我朝日本(一)、延暦寺平安城之鬼門也。伝教大師の御記文には、此山滅亡せば、国家も必ず滅亡せんといへり。而に末寺末社の訴訟(そしよう)に依て、衆徒子細を奏するは先例也。聖断遅々する時神輿の下洛ある事は是冥慮也。大衆争か可(レ)不(レ)被(二)合力(一)哉、異見の僉議(せんぎ)に付て例を此時に残されば、生々世々可(二)口惜(一)事なれば、所詮祐慶今度三塔の張本に召れて、被(レ)行(二)禁獄流罪(一)、たとひ雖(レ)被(レ)刎(レ)首、今生の面目、冥途の思出なるべし、全く怨に非ず、衆徒争か我山の疵を可(レ)不(レ)思と高声に■(ののし)り、双眼より涙をはら/\と流しければ、満山の大衆を聞、皆袖絞りつゝ尤々(もつとももつとも)と同じければ、軈座主を奉(レ)舁東塔南谷妙光坊へ奉(レ)入。其よりしてぞ祐慶をば、いかめ房とは申しける。
S0504 一行流罪事
時の横災は、権化の人も、猶遁れ給はざりけるにや、大唐の一行阿闍梨(あじやり)は、無実の讒訴に依つて火羅国へ流され給(たま)ひけり。たとへば
P0113
一行は玄宗皇帝の御加持の僧にて御座しが、而も天下第一の相人に御座ける。皇帝と楊貴妃と、連理の御情深くして、万機の政務も廃給程也けり。一行帝后二人の御中を相するに、后には御臍の下に黒子あり、野辺にし(有朋上P156)て死し給相也。帝には御うしろに紫の黒子あり、思に死する御相也と申けり。皇帝此の事を聞し召て、大方の相は正しく見る共、争か膚をば知るべき、通道のあればこそ臍の下の黒子をば知らめとて、可(二)流罪(一)之由被(二)仰下(一)ける程(ほど)に、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有つて、一行は朝家の国師、仏法の先達也、就(レ)中(なかんづく)相に於ては天下第一也、音を聞て五体を知り、面を見て心中を相するに敢て違ふ事なし、いかゞ可(レ)被(二)流罪(一)と申ければ、且くさし置給たりけるに、一行の弟子に賢鑁阿闍梨(あじやり)と云者あり、仏教博学にして智徳高く長ぜり。忽に師資の儀を忘て、独天下に秀でん事を思ければ、偸に一行の亡失ん事を思ける折節、流罪の沙汰の有ければ、次をえて后の御事種々に讒申ければ、帝逆鱗有りて火羅国へぞ被(レ)流ける。彼の国へ行には、三の道あるとかや、一には林池道とて古き都也ければ、御幸の外にはおぼろげにては人通はず。一には幽池道とて、雑人の通路也。一には闇穴道とて、罪ある者を流す道也。されば一行も此道よりぞ遣しける。件の道は、七日七夜が間空を見ずして行なれば、闇穴道とぞ名けたる。七十里の大河あり、碧潭深流れて、白浪高揚也、冥々として独行、閑々として人もなし。前途の末も知ざれば、さこそは悲く覚しけめ。天道無実の咎を哀て、九曜形を現つゝ闇穴道をぞ照されける。一行右の指を食切(有朋上P157)て、其の血を以て右の袖に写し留め給(たま)ひけり。九曜曼陀羅は其よりして弘まれり。彼一行阿闍梨(あじやり)と申は、本は天台の一行三昧の禅師也けるが、後に真言に移て悪行高顕て国家の重宝たり、慈悲普覆て、人臣の所(レ)帰也。被(二)讒申(一)けるこそ懼しけれ。一行無実之由、皇帝披聞召、則被(二)召返(一)、賢鑁造逆也、不善之咎難(レ)遁とて、被(二)流罪(一)ける程(ほど)に、竪牢地神の罰蒙て、大地忽に裂て、乍(レ)生大地獄にぞ落にける。在家を出て仏家に入、師恩を受て法恩を聞、たとひ報謝の心こそなから
P0114
め、争か阿党を成べき。在世の調達滅後の賢鑁とりどりにこそ無慙なれ。さても一行の相し申さるゝ如く、楊貴妃は案禄山が為にすかし出されて、馬嵬の野辺に露と伴て消給ふ。皇帝は后の遺を悲て方士を以て蓬莱宮を尋らる、玉の簪し金鋏刀を被(二)返送(一)、いとゞ歎に臥給(たま)ひ、思死にぞ失給ふ。去ば顕密兼学、浄行持律の天台の座主讒し申す西光も、いかゞと覚ておぼつかなし。
S0505 山門落書事
山門大衆等流罪の座主を奉(二)取留(一)之由法皇聞食て、不(レ)安思召(おぼしめ)しける上に、西光(さいくわう)法師(ほふし)内々申けるは、山法師の昔より猥き沙汰仕る事は、今に始ぬ事なれ共、今度の狼藉は先代(有朋上P158)未聞の事に侍り、下として猥きを、上として緩に御沙汰あらば、世は世にても侍るまじ、能々可(レ)有(二)御誡(一)とぞ奏しける。只今我身の亡をも不(レ)知、山王権現の神慮にも不(レ)憚、加様に申ていとゞ宸襟を悩し奉る。讒臣(ざんしん)乱(レ)国、妬婦破(レ)家とも云、叢蘭欲(レ)茂秋風破(レ)之、王者欲(レ)明讒臣(ざんしん)隠(レ)之ともいへり、誠哉此事、抑今度大衆之狼藉仍可(レ)被(レ)責(二)山門(一)之由、被(レ)仰(二)武家(一)けれ共、進ざりければ、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)已下近習の輩武士を集て、大衆を可(レ)傾之由其沙汰あり、物にも覚えぬ若者共、北面の下臈等(げらふら)は、興ある事に思て勇みけり。少も物の心弁たる人々は、こはいかゞせん、只今天下の大事出来なんとぞ歎ける。内々又大衆をも誘、仰の有けるは、院宣の下も忝し、王土にはさまれて、さのみ詔命を対捍せんも恐有とて、思返靡き奉る衆徒もあり。大衆二心出来ぬと聞食ければ、座主は責の御事有し時、兎(と)も角(かく)も成たりせば、今は思切なまし、中々衆徒に被(二)取登(一)又いかに成べき身やらんと、御心細く思召(おぼしめし)けるに、大講堂の庭に会合僉議(せんぎ)しけるは、前座主を中途にして奉(二)取留(一)事、依(レ)軽(二)朝威(一)公家殊に御
P0115
憤(おんいきどほり)深由、其の聞えあり、此事いかゞ有るべき、今は唯可(レ)奉(レ)宥(二)逆鱗(一)歟と云ける。砌に、落書あり、其状に云、
告(二)申大衆御中(一)可(レ)被(レ)遣(二)入道大相国(たいしやうこく)許(一)事(有朋上P159)
夫前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)者、挑(二)法燈於三院之学■(がくようにかかげ)(一)、灑(二)戒水於四海之受者(一)顕密之大将、大戒之和尚也、三観之隙必専(二)金輪之九転(一)、六時之次先祈(二)玉体之長生(一)、誠是仏法之命也、王法之守也、爰興隆思深而悛(二)九院之朽梁(一)、護国志厚而却(二)六蛮之凶徒(一)、依(レ)之法侶励(二)修学之労(一)、悪党隠(二)弓箭之具(一)、制(二)修羅之巧(一)、而飾(二)護国之道場(一)、豈非(レ)為(二)山門之奇異(一)哉、亦停(二)兵俗之器(一)、而残(二)法僧之道具(一)、寧非(レ)専(二)朝家之祈願(一)哉、為(二)天朝(一)為(二)国家(一)治者也、明人也、而有(三)一類謗家所(レ)悪成(二)瘡瘠(一)矣、其不(レ)被(レ)糺(二)是非(一)、不(レ)被(レ)尋(二)真偽(一)、預(二)重科(一)蒙(二)流罪(一)之条、是非(二)君有(一)(レ)偏、亦非(レ)臣無(一)(レ)忠、讒奏之酷、偽言之巧故也、讒口、煖(二)於黄金(一)、毀言銷(二)白骨(一)此謂歟、夫末寺末社之訴者、非(レ)始(二)于当代(一)、皆是往代例也、或断(二)根本(こんぼん)之仏事(一)、或闕(二)恒規之祭礼(一)之時、受(二)末所之愁訴(一)、而及(二)本山之悲歎(一)、列(二)大師門徒之族習(一)、皆成(二)教綱(一)之者、何可(レ)悦(二)三聖之威光消(一)、誰不(レ)悲(二)一山之仏法滅(一)乎、然者(しかれば)衆徒三千之蜂起、豈被(レ)引(二)座主一人之結構(一)哉、何況於(二)先座主(一)者、大畏(二)勅制(一)、而頻雖(レ)制(二)大衆蜂起(一)、依(二)残愁訴(一)尚(二)以烏合(一)者也、抑考(二)山門之故実(一)、懐(二)理訴(一)無(二)裁許(一)之時、衆徒等戴(二)三社之宝輿(一)、而、参(二)九重之金闕(一)、曩時之例中古之法也、厥皇化者、専(二)天下之太平(一)、貫首者慕(二)山上之安穏(一)、
P0116
臣家可(レ)思(レ)奏者可(レ)案、豈勧(二)騒動於衆徒(一)、招(二)朝勘於一身(一)乎、凡大衆不(レ)叶(二)貫首之進止(一)、欲(有朋上P160)(レ)遂(二)訴訟之本意(一)、先皇之代在(レ)之、明哲之時非(レ)無(レ)依(レ)之、驚(二)先座主之罪名(一)、雖(レ)捧(二)衆徒之愁訴(一)、近臣依(二)怨家之語(一)、而全不(レ)達(二)上聞(一)、弁官随(一)姦人之謀(一)、更不(二)奏聞(一)、然間不(レ)被(レ)決(二)理非(一)、忽蒙(二)使庁之責(一)、不(レ)被(レ)糺(二)実否(一)、俄定(二)配流之国(一)、以(二)好言(一)而全(レ)人、以(二)悪口(一)損(レ)人者也、政忘(二)先例(一)、讒達(レ)巧故也、亦君非(レ)奇(二)叡山(えいさん)之仏法(一)、怨人之不(レ)知(二)食所疵(一)乎、誠魔界競(二)我山(一)、而法滅之期、得(二)此時(一)歟、波旬怯(二)洛城(一)、而無実之咎達(二)叡庁(一)歟、爰衆徒等、悲(二)仏法之命根断(一)、歎(二)大戒之血脈失(一)之処、如(二)風聞(一)者、師高(もろたか)往向(二)二村之辺(一)、可(レ)夭害先座主、云々、弥失(二)前後正亡思慮(一)、且芳(二)先賢之明徳(一)、且為(二)最後之面拝(一)、欲(レ)陣(二)申子細(一)、尚(二)配流路頭(一)之計也、夫根朽枝葉必枯矣、一宗長者衰、三千倶可(レ)衰、非(レ)痛(二)貫首之流罪(一)、只痛(二)師資相承之断(一)、非(レ)惜(二)一人嘉名(一)、偏惜(二)顕密両教之廃(一)、況先座主、鎮祠(二)候於鳳城(一)、而竪護(二)持於龍顔(一)、縦雖(レ)有(二)重罪之甚(一)、何不(レ)被(レ)免(二)於積労(一)、縦雖(レ)有(二)過去之業(一)、何不(レ)被(レ)置(二)礼儀於戒師(一)、若夫有(二)証拠(一)者、尤可(レ)賜(二)正文(一)也、非(レ)返(二)勅定(一)、陣(二)子細(一)計也、以(二)此旨(一)可(レ)被(二)執啓(一)、夫国土理乱任(二)臣忠否(一)、若不(レ)被(レ)糺(二)邪正之道(一)者、寧天子之守在(二)海外(一)乎。
安元(あんげん)三年五月 日 とぞ書たりける。
此落書に依て、山門の大衆の座主を奉(二)取留(一)事は、公家御沙汰に不(レ)及(有朋上P161)けり。是偏医王山王の御利生也とぞ、人貴み申ける。
P0117
S0506 行綱中言事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)は、山門の騒動に依て、私の宿意をば暫被(レ)押けり。其内議支度は様々也けれ共、儀勢計にて其事可(レ)叶共見えざりければ、さしも契深く憑れたりける多田蔵人行綱は、弓袋の料の白布を、直垂小袴に裁縫せて、家子郎等に著つゝ、目打しばだたきてつく/゛\案じつゝ、此事無益也と思ふ二心付にけり。倩平家の繁昌を見に、当時輒く難(レ)傾、大納言の語ひ給軍兵は、僅(わづか)にこそあれ、可(レ)立(レ)用之輩希也、無(レ)由事に与して、若聞えぬる者ならば、被(レ)誅事疑なし、無(二)甲斐(一)身にも命こそ大切なれ、他人の口より洩ぬ先にとて、五月廿日西八条へ推参して見ば、馬車数も知ず集たり、蔵人何事やらんと思て尋問ければ、案内者とおぼしくて答けるは、是は入道殿(にふだうどの)福原御下向の御留守に、君達会合して貝覆の御勝負也と云ければ、同廿七日に蔵人鞭を上て福原へ下向す。入道の宿所に行向て、可(二)申入(一)事侍りて行綱下向と申ければ、常にも不(レ)参者也、何事ぞ其聞とて、主馬(しゆめの)判官(はんぐわん)盛国(もりくに)を被(レ)出たり。人伝に非(二)可(レ)申事(一)、直に見参に可(二)申入(一)と云たりければ、入道(有朋上P162)宣(のたまひ)けるは、行綱は源氏の最中也、隙もあらば平家を亡して、世を知らんと思心も有らんなれば、非(レ)可(二)打解(一)とて、子息重衡を相具し、銀にて蛭巻したる小長刀、盛国(もりくに)に持せて中門の廊に出合れたり。行綱申ければ、院中の人々兵具を調へ軍兵を集らるゝ事は、知召れ候やらんと申す。入道、其事にや、西光(さいくわう)法師(ほふし)が依(二)讒奏(一)、山門の大衆を可(レ)被(レ)責と聞ゆ。さまでの御企有べし共覚ずと、いと事もなげに宣ふ。行綱居寄て私語けるは、其義には侍らずとよ、御一門の事に候、仮令ば新(しん)大納言殿(だいなごんどの)、使を以て可(レ)申事あり、可(二)立寄(一)と承し間、
P0118
如(二)御諚(一)山門の事と存候て、中御門の宿所へ罷向之処に、行綱見え来らば鹿の谷へ可(レ)参とぞ仰也と申間、則打越て見廻し侍れば、馬車其数立並たり、分入みれば酒宴の座席也、人々目に懸て其へ其へと申に付て著座す、やがて酒をすゝむ、当座には新(しん)大納言(だいなごん)家(け)父子、近江中将入道殿(にふだうどの)、法勝寺執行法印、平判官康頼、西光(さいくわう)法師(ほふし)ぞ候き、行綱酒三度たべて後、大納言宣しは、平家は悪行法に過て、動すれば奉(レ)嘲(二)朝家(一)之間、可(二)追討(一)之由、被(レ)下(二)院宣(一)たり。但源平両氏は、昔より朝家前後之将軍として、逆臣を誅戮して所(レ)蒙(二)異賞(一)也、されば今度の合戦には御辺を憑、可(レ)有(二)其意(一)と被(レ)仰間、こは浅間敷(あさましき)事かな、いかゞ返答申べきと存ぜしかども、左程の座席にて而も院宣と仰られんに、争か(有朋上P163)叶じとは可(レ)申なれば、左も右も勅定にこそと申侍し程(ほど)に、折節一村雨して、山下風の風烈く吹侍しに、庭に張立置たる傘共のふかるゝに、馬共驚駻躍、蹈合食合なんどするを見て、末座の人共の立騒、直垂の袖に瓶子を係て引倒し、其頸を打折て侍しを、座席静つて後、大納言殿(だいなごんどの)、あゝ事の始に平氏倒たりと宣しかば、満座咲壺の会にて侍き、是こそ浅間敷(あさましき)事云たりと存ぜしに、申も口恐しく侍れども、西光(さいくわう)法師(ほふし)倒れたる瓶子の頸をば取て、大路を可(レ)渡と申を、康頼つと立て、当職の検非違使(けんびゐし)に侍とて、烏帽子(えぼし)懸を以て、瓶子の頸を貫捧て、一時舞て広縁を三度持廻して、獄門の木に懸と申て、縁の柱に結付て侍し事、身の毛竪て浅間敷(あさましく)こそ侍しか、何の弓矢取と云事なく、当時一旦の君の御糸惜みに誇て、西光が我一人と事行して申振舞し事、下刻上之至也と不思議に存じ、侍き、法皇の御幸
P0119
も成べきにて候けるを、静憲法印の、様々こは浅間敷(あさましき)御事也、天下の大事只今出来なん、いかに人勧申とても、国土の主として争でか一天の煩を引出し御座べきなんど、諌申けるに依て、御幸は止らせ給ぬとぞ私語申候し、やがて鹿谷究竟の城郭也とて、其にて兵具を可(レ)調と承き、加様の事人伝に被(二)聞召(一)なば、誤なき行綱までも、御勘当後恐しく候へば、内々告知せ進する也とて、人の能言云たりしをば、我申たるになし、我(有朋上P164)悪口吐たりしをば、人の云たるになし、殆有し事よりも過ては云たりけれ共、五十端の白布をば一端も語らざりけり。入道大に驚騒手を打、君の御為に命を捨る事度々也、いかに人申とも、争入道をば子々孫々(ししそんぞん)までも捨させ給べきとて、座を起ち障子をはたと立て入給ぬ。行綱はある事なき事散々(さんざん)に中言して出でけるが、入道の気色を見つるより心騒がし、慥の証人にや立られんずらんと恐しく覚えければ、取袴して足早にこそ還にけれ。
S0507 成親已下被(二)召捕(一)事
同廿九日、入道上洛して西八条の宿所に著きて、肥後守(ひごのかみ)、飛騨守を召て、貞能(さだよし)、景家、慥に承れ、謀叛之輩多し。与力同心の上下の北面等、一人も漏さず可(二)搦進(一)之由、行綱が口状に付て下知し給。又一門の人々侍共に可(二)相触(一)とて、使を方々へ遣ければ、右大将宗盛、三位中将知盛、左馬頭(さまのかみ)重衡已下の一門の人々甲冑を著し、弓箭を帯して馳せ集る。其外軍兵聞伝て馳参ければ、其夜の中に、四五千騎こそ集つたれ。又貞能(さだよし)景家は、二百騎、三百騎の勢にて、此彼に押寄押寄搦捕、京中の騒ぎ不(レ)斜(なのめならず)。
P0120
六月一日未明、太政(だいじやう)入道(にふだう)、(有朋上P165)検非違使(けんびゐし)安部資成と云者を召して、院(ゐんの)御所(ごしよ)に参て、信業をして申さん様は、近く被(二)召仕(一)之輩、恣に朝恩に誇、剰謀叛を巧世を乱べきよし承間、尋沙汰仕るべきと申せとて進す。資成法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に参、大膳大夫信業を尋ね出し此由を申す。信業色を失て御前に参て奏聞しけれども、分明の御返事なし。只此事こそ御意得なけれ、こは何事ぞと計仰ければ、資成帰参じて此様を申す。入道去社よも御返事あらじ、行綱は実を云けり、法皇も知召たるにこそとて、此輩を召誡けり。其内に西光(さいくわう)法師(ほふし)を召取て、大庭に引居たり。相国は素絹の衣を著、尻切はき、長念珠後手に取て、聖柄の刀さし、中門の縁に立ちて、西光(さいくわう)法師(ほふし)を一時睨で嗔声にて、無(二)云甲斐(一)下臈(げらふ)の過分に成上、朝恩に誇る余、無(レ)誤天台座主(てんだいざす)奉(二)流罪(一)、剰入道を亡さんと申行ける条はいかに、あら希怪や希怪や、凶也凶也、すははや山王之冥罰は蒙ぬるはと宣(のたまひ)けり。西光は天性死生不(レ)知の不当仁にて、入道をはたと睨返して、西光全く謀叛の企を不(レ)存、此恥にあふ事運の窮にあり。但耳に留事あり、侍程の者が、靫負尉にもなり、受領検非違使(けんびゐし)に至らん事、何か過分なるべき、始たる事に非ず、去てかく宣和入道は、いかに王孫とこそ名乗給へども、昔の事は見ねば知ず、御辺の父忠盛は、正しく殿上の交を嫌れし人ぞかし、其嫡子におはせしかば、十四五ま(有朋上P166)では叙爵をだにも不(レ)賜、しかも継母には値たり、難(レ)過かりければこそ、中御門藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)家成卿の播磨守にておはせし時、受領の鞭を取り、朝夕に■(かき)の直垂に縄絃の足駄はきて通給しかば、京童部は高平太と云ひて咲しぞかし、其を恥しとや
P0121
思給けん、扇にて顔を隠し骨の中より鼻を出して、閑道を通給しかば、又童部が先を切て、高平太殿が扇にて鼻を挟みたるぞやとて、後には鼻平太々々々とこそいはれ給しか、去ども故(こ)刑部卿殿(ぎやうぶきやうどの)近江国水海船木の奥にて、海賊廿人を被(二)搦進(一)たりし勲功の賞に依つて、保延の比かとよ、御辺十八歟九歟にて、四位の兵衛佐に成給(たま)ひたりしをこそ人々としと申しが、其が今太政(だいじやう)大臣(だいじん)に成たるをこそ下臈(げらふ)の過分とは申すべき。此条は争か諍給ふべきと、高声に門外まで聞えよと云たりければ、入道余に腹を立て、為方なかりければ、縁の上にて三踊四躍々給ふ。猶腹を居兼て、大庭に飛下り、西光が頬を蹴たり蹈たりし給けれ共、西光は口は少も減ず、去て其は左は無りし事か、彼は有し事ぞかし、哀足手だにも安穏ならば、報答申してんと云ければ、入道如何様にも謀叛の次第委く相尋て後、しや口割て誡よと宣(のたま)ひければ、松浦太郎高俊、拷木に懸て打せため、事の興を尋けり。始は大に不(レ)知と云けれ共、悪口は吐ぬ、不(レ)落とても非(レ)可(レ)宥、人が云ひたればこそ入道殿(にふだうどの)も是程は知給た(有朋上P167)るらめ、去ばいはんと思つゝ、休よ語らんと云ければ、拷木より下して、硯紙取寄て聞(レ)之、西光有の儘にぞ云ける。執事別当新(しん)大納言(だいなごん)殿(どの)、院宣とて催れしかば、院中に被(二)召使(一)身として不(レ)叶と申すべきにあらねば、平家一門打失て、西光も世にあらんと思て与して侍き。院宣の趣き誰か可(レ)奉(レ)背とて、始より終まで白状四五枚に記して、判形せさせて後、高俊、西光(さいくわう)法師(ほふし)が頭を蹈て口を割、重て誡置てげり。新(しん)大納言(だいなごん)の許へは、大切に可(レ)奉(二)申合(一)事侍、時の程立より給へとて使者を遣れたり。大納言は我身の上
P0122
とは露知給はず、例の山の大衆の事を、院へ被(レ)申ずるにこそ、此事はゆゝしく御憤(おんいきどほり)深き御事也、可(レ)叶とは覚ねども、何様にも参りてこそ申さめとて急ぎ被(レ)出けり。安元(あんげん)二年七月に、建春門女院隠させ給(たまひ)て、其御一周を果ざれば、諒闇(りやうあん)の直衣ことに内浄たわやかにして、諸大夫一人、侍二三人花やかに装束せさせて、入道の宿所、西八条へおはしけり。近く成儘に其辺を見給へば、軍兵四五町に充満たり。穴恐し、こは何事ぞやと、■(むね)打騒給へり。門の前近く遣寄、車より下て門の内へ入給ければ、内にも兵所もなく並居たり。只今事の出来たる体也。中門の外に恐しげなる者二人立向て、大納言の左右の手を取、天にも揚ず、地にもつけず、引持てゆき、もとゞりを取て打臥ける儘に、是は可(レ)奉(レ)誡や(有朋上P168)らんと申ければ、入道は大床に立れたりけるが、さすが[* 「すさが」と有るのを他本により訂正]昨日迄も面を向へ肩を並し卿相(けいしやう)也、眼前に縄付事は、かはゆくや被(レ)思けん、去ず共有なんといはれければ、中門の廊へ入られて、縄をば不(レ)奉(レ)付けり。只一間なる所に、大なる木を以て、蜘蛛手を結、其中にぞ奉(二)押篭(一)ける、糸惜なんどは云計なし。蕭樊囚(二)執、韓彭(一)■(そ)醢、晁錯受(レ)戮、周魏見(レ)辜、其余佐(レ)命立(レ)功之士、賈誼亜夫之徒、皆信命世之才、抱(二)将相之具(一)、而受(二)小人之讒、並受(二)禍敗之辱(一)と云事あり、蕭何、樊会、韓信、彭越と云ひしは、皆漢の高祖の功臣たりしか共、かくのみこそ有けれ、異国にも不(レ)限、我朝にも保元平治の比より打続き浅間敷(あさましき)事のみ有しに、又此大納言の係る目に合給ふ事、いかゞはせんとぞ悲み合給ける。大納言の共に有りける、諸大夫も侍も被(二)起隔(一)、雑色牛飼までも忙騒、身々の恐さに牛車を捨
P0123
て、散々(さんざん)に逃失ぬ。大納言はかばかりなく熱く難(レ)堪比、一間なる所に被(二)禁籠(一)、汗も涙も諍つゝ、肝心も消はてて、こはいかにしつる事ぞや、日比のあらまし事の聞えけるにこそ、何者の漏しぬるやらん、北面の者の中にぞ有らんとぞ被(レ)思ける。小松の内府は見え給はぬやらん、去とも思捨給ふ事はあらじ者をと被(レ)思けれ共、誰して云べき便も無れば、唯悲の涙にのみぞ咽給ける。小松殿(こまつどの)へは人参て、謀叛の者とて人々被(二)召禁(一)侍、大納言殿(だいなごんどの)も(有朋上P169)被(二)召籠(一)おはしつるが、此晩に可(レ)奉(レ)失なんど聞え候と申ければ、内大臣(ないだいじん)は良久有て、子息の中将車の尻に乗せて、衛府四五人、随身二三人被(二)食具(一)たり。各布衣にて、物具したる者は一人も不(二)具給(一)、最のどやかにて西八条へ被(レ)入けり。入道を奉(レ)始、一門の人々思はず思ひ給へり。弟の殿原何に係る大事の出来て侍にと口々に宣へば、内府は只今何条事か有べき、物騒き者かなと被(レ)静ければ、兵杖を帯給へる人々も、そゞろきてぞ見えける。入道は帽子甲に、萌黄の腹巻の袖付たるを著て、小長刀計にて立給たりけるが、大臣の挙動を遥(はるか)に見て、急ぎ内に入、素絹の衣に脱替て、さらぬ体にて御座けり。内府は、さても大納言はいかに成給ぬるやらん、唯今の程(ほど)には失ふまでの事はよもあらじとて見廻り給ふに、一間の障子を大なる木を打違て、蜘蛛手を結たる所あり。爰にこそと哀に悲くおぼして、立寄急ぎ音なひ給へば、大納言蜘蛛手の間より、幽に大臣を見付給、地獄にて罪人の地蔵菩薩を奉(レ)見らんも、是には争か可(レ)過と嬉さ不(レ)斜(なのめならず)、泣々(なくなく)宣(のたまひ)けるは、成親身に誤ありと不(レ)存、今かゝる憂目に逢て侍り、さて御渡あれば、去ともと憑思奉とて、
P0124
はら/\と涙を流し給ふも無慙也。大臣の返事には、人の讒言にぞ侍らん、御命計はいかにも申請ばやとこそ存ずれ共、入道腹悪き人にておはすれば、そもいかゞ(有朋上P170)侍らんずらんと憑気なく宣へば、いとゞ心細くおぼして、成親平治の乱に切らるべかりしを、御恩にて命を生られ奉りて、正二位の大納言に至り、歳四十に余りぬ、生々世々に難(二)報謝(一)、同は今度の命を助給へ、出家入道して高野粉河にも籠り、一筋に後世の勤仕らんと宣へば、重盛(しげもり)かくて侍れば、去共と思召(おぼしめさ)るべし、御命にも替奉らんとこそ存ずれとて被(レ)起ければ、又奉(レ)見事もやと、遥(はるか)に見送給(たまひ)ては、かひなき袖をぞ絞給ふ。少将も被(二)召捕(一)ぬるやらん、少者共の跡に残留るもいかゞ成ぬらんと■(おぼつか)なし。身の悲さ、跡のいぶせさ思つゞけ給へば、熱さに難(レ)堪うへ胸塞て、晩を待ずして可(二)消入(一)こそおぼしけれ。内大臣(ないだいじん)の訪れつる程は、聊慰みて取延る心地也けるが、立帰給(たまひ)て後は今少心細く、悲被(レ)思ける。理と覚て哀也。
S0508 小松殿(こまつどの)教訓事
小松内府、入道の許に参じ申給けるは、大納言を被(レ)失事は、能々可(レ)有(二)御思案(一)事也、六条修理大府顕季卿、白川院に召仕てより以来家久く成りて、位正二位、官大納言まで経上、君の御糸惜も不(レ)浅仁を、忽に被(レ)刎(レ)首事、いかゞ侍るべき、唯都の外へ出さ(有朋上P171)れん事足ぬべし。角は聞食ども、若僻事ならば弥不便の事に侍べし。北野天神は、時平大臣の依(二)讒奏(一)、西海の浪に流され、西の宮の大臣は、多田新発が依(二)姦訴(一)、山陽の霧に埋る、各無実なれ共被(二)流罪(一)給けり。皆是延喜の聖主安和の御門の御僻事とこそ申伝侍れ、上古猶如(レ)此、況末代をや。賢王猶御誤あり、況凡夫をや。委御尋もあり、能々御
P0125
案も侍べし、物騒き事は必後悔あり、既かく被(二)召置(一)ぬる上は、急不(レ)被(レ)失とも、何の苦か有べき。罪之重をば軽し、功之浅をば重くせよと云本文あり。何様にも今夜卒爾の死罪不(レ)可(レ)然と被(レ)申けれ共、入道いかにも心不(レ)行気に宣(のたまひ)ければ、申請旨御承引なくば、侍一人に仰付て、先重盛(しげもり)が可(レ)被(レ)刎(レ)首、かかる乱たる世にながらへて、命生ても何の詮かは有べき。又重盛(しげもり)彼大納言の妹に相具し、維盛又聟也、傍親く成て候へば、角申とや思召(おぼしめさ)るらん、一切其儀は侍ず、為(レ)世為(レ)家の事を思て歎申計也。我朝には嵯峨帝の御宇、左衛門尉仲成を被(レ)誅後、死罪を被(レ)止より以来廿五代に及しを、少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)が執権の時に相当て、絶て久き例を背き、保元の乱の時、多の源氏平氏の頸を切、宇治の左府の墓を掘、死骸を実検(じつけん)せし其酬にや、中二年こそ有しが、平治に事出来て、田原の奥に被(レ)埋たりし、信西が被(二)堀起(一)、頸を渡獄門の木に被(レ)懸き。是はさせる朝敵にあらね共、併(有朋上P172)挿絵(有朋上P173)挿絵(有朋上P174)保元の罪の報と覚て、恐しくこそ侍しか。是又させる朝敵に非ず、旁以可(レ)有(レ)恐、御身は御栄花残所なければ、思食(おぼしめし)置事なくとも、子々孫々(ししそんぞん)までも繁昌こそあらまほしく侍れ。積善之家必有(二)余慶(一)、不善之家必有(二)余殃(一)とこそ承れ、去ば文王は太公望に命じて、四知己を恐れ、唐太祖は張蘊古を切つて後、五奏を被(レ)用、又行(レ)善則休徴報(レ)之、行(レ)悪則咎徴随(レ)之とも申す、父祖の善悪は必及(二)子孫(一)ともいへりなど、様々に被(二)誘申(一)ければ、入道余に口解立られて、実とや思給けん、今夜切事は止給にけり。内大臣(ないだいじん)は中門に出給、さも可(レ)然侍共を召集被(二)仰含(一)けるは、入道殿(にふだうどの)の仰なればとて、大納言を不(レ)可(レ)有(二)失
P0126
事(一)、腹の立給ふ儘に物劇事あらば、後に必悔み給べし、不(レ)拘(二)制止(一)ひが事して重盛(しげもり)恨な、経遠(つねとほ)兼康(かねやす)が大納言に情なく当たりける事、返々も希恠也。重盛(しげもり)が還聞所をば、争か可(レ)不(レ)憚、哀景家忠清なんどならば、いかに仰を承りたりとも角はよもあらじ、かた田舎の者は懸るぞとよ、と仰られければ、大納言引張たりける備前国住人難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)、備中国住人、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)、恐入りてぞ候ひける。其外の侍共は、舌を振てぞ、威合ける。大納言の供に有ける者、中御門高倉の宿所に走帰、上には西八条殿に召籠られさせ給ぬ。今夕可(レ)奉(レ)失とて、晩を待つとこそ承つれとて、有つる事共泣々(なくなく)細々と申ければ、(有朋上P175)北方より始て、男女上下声を揚てぞ叫びける。是は何故ぞや■(おぼつかな)し、夢かや夢かともだえ焦給けれ共、眠の中の歎ならねば猶うつゝ也、さこそ悲かりけめと被(二)推量(一)無慙也、何に角ては御座しますぞや、少将殿をも君達をも、一々に召とり進せんとこそ承りつれ、去ば叶はぬまでも、暫く立忍ばせ給へかしと申ければ、か程の事に成て隠れ忍びたらば、いかばかりの事ぞ、雉のかくれとかやの風情か、大納言殿(だいなごんどの)の左様に成給ふ程(ほど)にては、此身々ばかり安穏也共、甲斐あるまじ。只同じ草葉の露と消ん事こそ本意なれ。今朝を限の別ぞと思はざりける悲さよとて、北方臥倒て泣給ふ。げにもと覚て哀なり。兵既(すで)に来なんと人申ければ、遉角て憂目を見る事も、恥がましければ、一間戸も立忍ばんとて、尻頭どもなき小き人共、車に取のせ奉り、いづくを指て行ともなく遣出して、大宮を上りに、北山雲林院の辺まではおはしにけり。其辺なる僧坊に
P0127
下居奉て、送の者共も身々の難(レ)捨おそろしさに、皆散々(ちりぢり)に帰りぬ。今は無(二)云甲斐(一)小き人々ばかり留居て、又事問ふ人も無くて御座けん、北方の御心中推測べし。日影の暮行を見給に付ても、大納言の露の命今日を限と聞つれば、はや空き事にもやと思やり給(たま)ひては、絶入絶入し給ふも、いと悲し。取敢ぬ事也ければ、女房侍共もかちはだしにて恥をもしらず迷出ければ、見苦き物共を(有朋上P176)不(レ)及(二)取認(一)、門をだに押立る人もなし。只我先にと周章(あわて)出けるも理也。馬屋には馬共鼻を並て立たりけれども、草飼舎人もなし。夜明れば馬車門に立并賓客座に列居て、遊戯れ舞踊、世は世とも思はれず、近き渡りの人々、物をだにも高もいはず、門前を過る者もおぢ恐れてこそ昨日迄も有つるに、夜のまに替る形勢、天上之五衰は人間にも有けりと哀也。此北方と申は、山城守敏賢の女也、建春門院(けんしゆんもんゐん)の御乳母師人とて、御身近人、取り立て進られたりけるを、法皇浅からず思召(おぼしめし)て、十四歳より十六迄御糸惜みふかゝりしを、二条院御位の時御覧じて、忍々に御書を被(レ)遣、常には唯是へ参と云仰繁かりければ、師人も女院の思召(おぼしめす)所も憚覚れば、旁々内へ参られんは、然べしなどゆるされければ、法皇の御所をばまぎれ出て、十六の歳内裏へ参給(たまひ)て、互の御志深かりしが、中二年有て十九の歳、二条の先帝崩御の後は、雲井の月の昔語を忘かね、大炊御門高倉の雨織戸の内に、掻き籠て、渡らせ給しを、大納言の宿所、中御門の移徙の夜、師人に語寄押て取られ給しより、鸞鳳の鏡に影を并、鴛鴦の衾に枕を寄てこそ御座ましけるに、大納言被(二)召捕(一)給しより、楽み尽て悲み来り、北山雲林院の菩提講おこなふ処に、忍びておはしけり。
P0128
此大納言は余に誇て、戯れ事にも無(レ)由言すごす事も有けり。後白川院の近習者に、坊門中納言親信と(有朋上P177)云人、御座けり、右京大夫信輔朝臣の子也。彼信輔武蔵守たりし時、当国に下りて儲たりけるが、元服して叙爵し給たりければ、異名に坂東大夫と申けるが、兵衛佐に成たりけるにも、猶坂東兵衛など申けるを、新(しん)大納言(だいなごん)、法皇の御前にて、戯て、やゝいかに親信、坂東には何事共かあると被(レ)申たりけるに、兵衛佐取敢ず、縄目の色革こそ多候へと答たりければ、大納言顔のけしき少替て、又物も宣ざりけり。此大納言は平治の乱逆の時、信頼卿に同心とて、六波羅へ被(レ)召しに、島摺の直垂著て、高手小手に縛られて、恥をさらしたりける事を思出て、縄目にそへて申たりけるにこそ。御前に人々あまた候はれける中に、按察使大納言資賢の後に常に宣(のたま)ひけるは、兵衛佐はゆゝしく返答したりしものかな、成親卿(なりちかのきやう)は事の外に苦りたりし事様也とぞ被(レ)申ける。されば人は聊の戯言にも、人の疵をば云まじき事也けり。(有朋上P178)