『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第七
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登巻 第七
S0701 成親卿(なりちかのきやう)流罪事
六月二日、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)をば、公卿の座に出し奉りて、物進らせたれ共、胸(むね)せき喉ふさがりて、聊もめされず。追立の官人来て、車さしよせてとく/\と申せども、すゝまぬ旅の道なれば、座を立ちて急乗給はざりけるを、御手を取あらゝかに引立奉、うしろざまに投のせて、車の簾を逆に懸て、門前に遣り出す。大路にて先火丁よりて車より引き落し奉て、誡めの■(しもと)とて三杖あてたれば、次に看督長殺害の刀とて、二刀突まねをして、其後山城判官秀助宣命を含させて、又車に押乗奉りて、前後には障子をぞ立たりける。人の上をだにも見給はぬ事なれば、増て我身の上の悲さは、推量れて哀なり。軍兵前後に打囲て、我方ざまの者は一人もみえず、なにと成りいづくへ行やらんも知らする人もなし。内大臣(ないだいじん)に今一度会申さばやと宣へども、それも叶はず、憂身に添る者とては、尽せぬ涙ばかりなり。唐の呂房と云人、旅の空に行しかども、故宮の月に慰みけり。此大納言(有朋上P214)は車の物見を打塞、前後に障子を立たれば、月日の光も見給はず、西も東も不(レ)知けり。加様の歎の深さには、晩を待べしとも覚えざりければ、難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)を以て、成親縦いかなる浦島にはなたるとも、責ては月日の光をだにも免れて侍らば、いさゝかなぐさむ方も候なん、さしも罪深き者と思食(おぼしめす)とも、かばかりの御誡までや候べきなんど、
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内府へ被(レ)申たりければ、大臣聞給(たまひ)て、こは不便の事也とて、月日の光はゆり給ふ。八条を西へ朱雀を南へ遣行けば、大内山を遥(はるか)に顧給ふにも、思出事のみ多かりけり。造路四塚をも過給へば、今を限の御名残(おんなごり)、心は都に留れども、車に任せて遣り行。鳥羽殿を過給へば、年来召仕給ける舎人牛飼共並居つゝ、涙を流し袖を絞ること理也とぞ哀なる。よそほかの者までも、悲を含み哀を催して、涙にむせばぬ者はなし。まして都に残留る者共の歎悲らんこと思ひつゞけ給ふにも、只袖をぞ被(レ)絞ける。我世にありし時付て仕し者の、一二千人(いちにせんにん)はありけれども、人一人も身にそはで、今日を限に都を出る悲しさよ、重き罪を蒙て遠き国へ行者も、人の一人身にそはぬ事やあるなんど種々独言をの給(たまひ)て、声もをしまず泣給へば、車の前後に候ける武士共も、さすが岩木をむすばねば、各袖をぞぬらしける。此御所へ御幸のありしには、一度も御供に闕る事なかりきと、せめて昔のゆ(有朋上P215)かしさに、今日の憂身を悲しめり。我宿所の前を見入て過給ふに付ても、いとゞ涙を流されけり。南門を過河の耳に御舟の装束とく/\とひそめけば、こはいづくへやらん、終に可(レ)被(レ)失ならば、同くは只都近此辺にても失へかしと、おぼしけるぞせめての事と哀なる。近候ける武士を召て、是は誰人ぞと問給へば、難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)と名乗る。此辺に若我ゆかりの者や在と尋ねてえさせよ、舟にのらぬさきに云ひ置べき事ありと宣(のたまひ)ければ、経遠(つねとほ)其辺近あたりを打廻て相尋けれ共、有と答る者なし。可(レ)然(しかるべき)者候はずと申せば、大納言は、などか我ゆかりの者なかるべき、世に恐てぞ出ざるらん、命に替身に替らんと云契し者共は、この程(ほど)にも一二百人
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はありけん者を、よそにて此形勢(ありさま)を見んと思はざるらん口惜さよ、鳥羽の御所に被(レ)候し時には、非番当番して、目にかゝらん詞にかゝらんとこそ振舞しか、世あらたまり勢(いきほ)ひかはればにや、うらめしくも云ひ置べき事を、きかじとまで思ふ覧よと、口説給へば、武き夷なれ共、流石(さすが)心の有ければ、すぞろに涙をすゝめけり。大納言は既(すで)に船に乗波に流れて漕行けども、心は妻子につながれて、思ひは都にとゞまりけり。鳥羽殿を顧給(たまひ)て、泣々(なくなく)武士に宣(のたまひ)けるは、去じ永万(えいまん)元年の春、鳥羽の御所に御幸ありて、終日御遊(ぎよいう)ありしに、四条太政(だいじやう)大臣(だいじん)師長は琵琶の役、花山院中納言忠雅、按察大納言(有朋上P216)資賢は笛の役、葉室中納言俊賢は篳篥の役、楊梅の三位顕親は笙笛の役、盛定行家は打物を仕き。調子盤渉調、万寿楽の秘曲を奏せられしに、五六調に成て宮中澄渡り、諸人感涙を流しに、天井に琵琶の音しき。著座の公卿は怪を成して色変ぜしかども、君は少も御騒なし。何人ぞと尋可(レ)申之由、勅定を蒙りし間、成親畏て、左右の袖を掻合天井に仰向つゝ、何なる人に御座すぞ、御名乗し給へ、勅定也と申ししに、我は是摂津国(つのくに)住吉(すみよし)の辺に、居住せる小樵なり。君子の御遊(ぎよいう)、群臣管絃の目出さに、望み参れりと答て、其後は琵琶の音もせざりき。住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)の、御影向にやと、諸人身の毛竪ちし程(ほど)に、又池汀に赤き鬼の青き褓をかきて、扇を三本結立たり。誠に御遊(ぎよいう)の妓楽に目出給(たま)ひ、明神のかけらせ給けるにこそとて、其よりして州浜殿をば、住吉殿とは申けれ。、係し時も、多くの人の中に、成親こそ宣旨の御使を勤て、奉(レ)向(二)霊神(一)て、問答をば申て侍しが、非(二)朝敵(一)、今赴(二)配所(一)事、先世の宿報とは思へ
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共、憂かりける身の果かなとて、音も惜まず泣き給ふ。盛者必衰の理、実也とぞ哀なる。大納言の世におはせし昔、熊野詣などには、二瓦の三棟に造りたる舟に、次の船二三十艘漕列けてこそ下りしに、今はけしかる舁居屋形の舟の浅猿(あさまし)かりけるに大幕引廻して、見も馴ぬ武士に乗具して、いづくを指て行とも知らず、下給(有朋上P217)けん心の中、さこそ悲く覚しけんと、押計られて無慙也。淀の泊の黎明に白雲係八幡山、木津殿、■殿(うどの)、渚院、江口、神崎漕過て、今夜大物が浦に著給ふ。
大納言は死罪を宥られて、流罪に定りぬと聞えければ、相見事は竪かりけれ共、是れは小松内府のよく/\入道に申給たるにこそ。国有(二)諌臣(一)其国必安、家有(二)諌子(一)其家必直といへり。誠なるかな此言とぞ、人々悦び給ける。此大納言の中納言にて御座し時、尾張国守にて、去嘉応元年冬の比、目代(もくだい)にて、衛門尉政友を当国へ被(レ)下けるが、美濃国杭瀬河にて宿を取、山門領平野庄の神人、■(くす)を売て出来れり。政友是を買はんとて、直の高下を論じて、様々になぶる程(ほど)に、■(くす)に墨をぞ付たりける。懸ければ神人等憤起て、山門に攀登つて、致(二)訴訟(一)間、衆徒及(二)奏聞(一)、聖断遅々に依て、同年十二月廿四日に、大衆等日吉の神輿を頂戴して下洛す。武士に仰て被(レ)防しか共、神輿を建礼門の前に奉(二)振居(一)、国司成親卿(なりちかのきやう)を流罪なり、目代(もくだい)政友を可(レ)被(二)禁獄(一)之由訴申ければ、成親卿(なりちかのきやう)は備中国へ流罪、政友をば禁獄之由被(二)仰下(一)。即西の朱雀まで被(レ)出たりしか共、同廿八日に被(二)召返(一)、同丗日本位に復し、中納言に成返て、嘉応二年正月五日右衛門督を兼して、検非違使(けんびゐし)の別当に成給ふ。其後目出くときめき栄給(たまひ)て、去承安二年
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七月廿一日に従二位(じゆにゐ)し給し時も、資賢兼雅を越給き。資賢は古人(有朋上P218)の宿老にて御座き。兼雅は清花英才の人にや、越られ給も不便也とぞ人々申ける。是は三条殿造進の賞とぞ聞えし。御徙移の日也。同三年四月十三日に、又正二位し給けるには、中御門中納言宗家卿越られ給けり。去々年安元(あんげん)元年十一月二十八日に、第二の中納言左衛門督、検非違使(けんびゐし)の別当権大納言に成上給ふ。加様に栄給ければ、越られ給ふ方様の人々は、目醒しく思嘲て、山門の大衆に咒咀せらるべかりける者をと云けるぞ恐しき。神明の罰も人の咒咀も、疾もあり遅もあり、遂には必報けりとぞ申ける。林に闌たる木は必ず風に摧、衆に秀たる者は正に怨に沈。たとひ高位に昇るとも、身を約しくもてなし、縦ひ栄花に誇るとも、心に驕事なかれ。此大納言は、官職先祖に越、朝恩傍輩に過たれば、奢る思も多かりけん、人の恨も積つゝ、角成給(たま)ひけるこそ不便なれ。
同三日のまだ暁、京より御使有とてひしめきけり。既(すで)に失へとにやと聞ば、備前国へと云て、船を出すべき由■(ののし)る。内大臣(ないだいじん)より御文あり、大納言泣々(なくなく)披見給へば、都近片山里にも置奉んと様々誘申しつれ共、死罪を宥申だにあるに、其事努々叶まじと、入道竪宣へば力及ばず、世に有甲斐なく覚侍り、但御命計は申請ぬ、いづくの浦に御座共、御心安可(二)思召(おぼしめす)(一)、さても替行憂世の有様(ありさま)、よく/\思ひつゞけて念仏申永悟を開かんと思召(おぼしめす)べし、うきも(有朋上P219)つらきも夢の世の中、兎にも角にも現ならず、由なき妻子に心を留て、晴ぬ闇路に迷給ふな、我世にあらん程は、人々の事をば可(二)育申(一)なんど遊して、旅の粧様々に
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調へてぞ奉つれる。難波(なんばの)次郎(じらう)が許へも、よく/\仕へ申べし、愚にあたり奉るなとぞ被(二)仰下(一)ける。さばかり忝く思食(おぼしめし)ける君にも別れ進せ、尻頭ともなき小君達の、糸惜く悲しきをも振捨て、知らぬ国、習はぬ旅にさすらひつゝ、都をば雲井の外に立隔、かへるさ知らぬ配所なれば、二度妻子を見事も有難しと、思残す事もなし。一年山門の大衆の訴により、日吉の神輿下洛して、朝家の御大事に及しも、西三条に五箇日こそ在しか、其なほ御免し有き。是はさせる君の御誡にも非ず、又山門の訴にもなし、こは何なる事ぞやと我身の悪事をば忘つゝ、天に仰地に臥て、喚叫び給けり。夜も既(すで)に明ければ、大納言は大物が浦より舟に乗、塩路遥(はるか)に漕出し、浪にぞ浮み給ける。難波の里に飛蛍、蘆屋の沖の舟呼ひ、武庫山下風、福原の京、渚河、和田の御崎、逆手河行来の人のしげければ、小馬の林に隙ぞなき。彼は須磨関屋にや、行平中納言藻塩たれつと侘にけん、此浦の事ならん。昔源氏の大将の流されて、月日を送り給つゝ
秋の夜の月げのこまよわがこふる雲井にかけれときのまもみん K029 (有朋上P220)と詠じけんも我身の上と哀也。淡路の絵島を見給ふにも、昔廃太子の遷れて、波に朽せぬ絵島をば、誰筆染て写けんと、昔語もいと悲し。月名にしおふ明石の浦えい崎林崎、小松原高砂や尾上の松も過ければ、室の泊に就給ふ。藻懸の瀬戸蓬が崎やよりの浜を漕渡、備前国阿江の浦より、内海を通て皃島と云所に著き給ふ。都を出給にし後、日数ふれば、遠成行古里のみ恋くて、道すがら只涙のみにぞ
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咽び給ふ。はか/゛\しく湯水をだにも聞入給はざりければ、ながらふべしとも覚さゞりけれ共、さすが露の命の消やらで、此まで下り著給にけり。民の家の恠げなるに奉(二)居置(一)。彼所は後は山、前は磯、岸うつ浪は瀝々として音幽に、松吹風は蕭々として物さびし。去ぬだに旅のうきねは悲きに、汗に諍涙の色、耳おどろかす波の音、いとゞ哀ぞ増りける。しばしは皃島にまし/\けるを、こゝは猶津宿近して人繁し、悪かりなんとて、後には難波と云所へ奉(二)移居(一)けり。
S0702 丹波(たんばの)少将(せうしやう)召下事
廿日太政(だいじやう)入道(にふだう)福原より平宰相(へいざいしやう)の許へ被(レ)申けるは、丹波(たんばの)少将(せうしやう)をば是へ渡し給へ、都におきてはいかにも悪かりぬと覚侍り、相計て何所へも遣すべしとぞ宣たる。宰相聞給(たまひ)てあ(有朋上P221)きれつゝ、こはいかなる事ぞ、日数へぬれば今は異なる事あらじとこそ思つるに、又加様に宣ふ事こそ悲けれ。中々在し時に、左も右も成たりせば、忘るゝ事も有なましと、責の事には覚されけり。今は惜とても甲斐あるまじ、終にすまじき別に非、疾々出立給へと宣へば、少将は、今日までもかく延たる事こそ有難けれとて急給ふ。少将も北方も乳母の六条も、今更絶焦給ければ、猶も入道殿(にふだうどの)へ仰候へかしと人々申しけれ共、宰相は存ずる処は前に委く申き。其上に角宣はん事力及ばず。世を捨より外は何と申べき。乍(レ)去御命のなき程の事はよもとこそ存侍れ。何の浦島に御座とも、教盛が命のあらん限は何にも可(レ)奉(二)音信訪(一)憑しく思召(おぼしめす)べしとぞ宣(のたまひ)ける。少将は少き人呼出し、髪掻撫て、七歳にならば元服せさせて、御所へ進せんとこそ思しに、今は日比の有増事も云に甲斐なし、成人たらば相搆て法師になり、我後の世弔へよ
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と涙もかき敢ず、成人に物を云様に打口説給ければ、四歳に成給御心なれば、何とは弁給はざりけめども、父の顔を見上給(たまひ)て、うなづき給けるにも、いとゞ為方なくぞ被(レ)思ける。北方も六条も、此形勢(ありさま)を見聞きては、臥倒、音を調てをめき給ふ、理なれば哀也。少将は今夕鳥羽までとて急出けれども、宰相は世のうらめしければとて、今度は相具し給はず、行くも留も互に心ぼそくぞ被(レ)思け(有朋上P222)る。
廿二日に少将は福原に下著給へり。妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)預て、宿所に奉(レ)居、是も我方様の者は一人も付ざりけり。妹尾は宰相の返り聞給はん事を恐けるにや、様々志ある体に労り振舞けれ共、少将は慰む方もおはせず、都の人の恋おぼされければ、責の事には哀声にて唯仏の御名を唱て、夜も昼も泣より外の事なかりけり。少将は備中国へ配流の由聞給ければ、相見奉事は有まじけれども、責ての恋しさの余に、大納言の御座国は幾ら程近やらん、いづくとだにも聞まほしく思て、妹尾を召被(レ)仰けるは、いかに兼康(かねやす)、汝が候妹尾より、大納言殿(だいなごんどの)のおはすらん所へは、いか程かあると問ひ給へば、大納言の御座する有木の別所高麗寺と申は、備前に取ても備中の境、妹尾と云は備中に取りても備前の境也。両国の間に御部川とて、川を一つ阻たり。其間は纔に三十余町有けるを、しらせ奉りては悪かりなんとや思けん、大納言殿(だいなごんどの)の御渡候所へは、行程十三日とぞ申ける。
S0703 日本国広狭事
少将被(レ)思けり、日本は是本三十三箇国也けるを、六十六に被(レ)分たり。越前、加賀、能登、越中、越後五箇国は、本一国也。中比三箇国に分たりしを、越前加賀両国の間に、(有朋上P223)四の大河あり。庁参の時、洪水
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の為に人多く損じければ、是は庁の遠き故也とて、嵯峨天皇御宇、弘仁十四年に上奏を経て、加賀郡を四郡に分ちて、加賀国と定め、能登郡広しとして、四郡に分て能登国と定む。さてこそ五箇国をば、越路とて道は一なれ。又陸奥、出羽両国、是も一也けるを二箇国に被(レ)分たり。一条院御宇、大納言行成の末殿上人(てんじやうびと)にて御座ける時、参内の折節、実方中将も参会して、小台盤所に著座したりけるが、日比の意趣をば知ず、実方笏を取直て、云事もなく、行成の冠を打落、小庭に抛捨たりければ、もとゞりあらはになしてけり。殿上階下目を驚して、なにと云報あらんと思けるに、行成騒がず閑々と主殿司を召て、冠を取寄せかうがい抽出して、髪掻なほし冠打きて、殊に袖掻合、実方を敬して云けるは、いかなる事にか侍らん、忽にかほどの乱罰に預るべき意趣覚えず、且は大内の出仕也、且は傍若無人也。その故を承て報答後の事にや侍るべからんと、事うるさくいはれたりければ、実方しらけて立にけり。主上折節櫺子の隙より叡覧有つて、行成は勇々しき穏便の者也とて、即蔵人頭になされ、次第の昇進とどこほりなし。実方は中将を召て、歌枕注して進よとて、東の奥へぞ流されける。実方三年の間名所名所を注しけるに、阿古野の松ぞなかりける。正く陸奥国にこそ有と聞し(有朋上P224)かとて、此彼男女に尋問けれ共、教る人もなく知たる者もなかりけり。尋侘てやすらひ行ける程(ほど)に、道に一人の老翁あへり。実方を見て云けるは、御辺は思する人にこそ御座れ、何事をか歎給と問。あこやの松を尋兼たりと答ければ、老翁聞て最情ぞ侍る、是やこの
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みちのくのあこやの松の木高に出べき月の出やらぬ哉 K030
と云事侍り。此事を思出つゝ都より遥々(はるばる)〔と〕尋下り給へるにやといへば、実方さにこそと云。翁日、陸奥出羽一国にて候し時こそ、陸奥国とは申たれ共、両国に分れて後は出羽に侍也、彼国に御座して尋給へと申ければ、即出羽に越て阿古野の松をも見たりけり。彼老翁と云けるは、塩■(しほがまの)大明神(だいみやうじん)とぞ聞えし。加様に名所をば注して進せたれ共、勅免はなかりける。
S0704 笠島道祖神事
終に奥州名取郡、笠島の道祖神に被(二)蹴殺(一)にけり。実方馬に乗ながら、彼道祖神の前を通らんとしけるに、人諌て云けるは、此神は効験無双の霊神、賞罰分明也。下馬して再拝(有朋上P225)して過給へと云。実方問て云、何なる神ぞと。答けるは、これは都の賀茂の河原の西、一条の北の辺におはする、出雲路の道祖神の女也けるを、いつきかしづきて、よき夫に合せんとしけるを、商人に嫁て、親に勘当せられて、此国へ被(二)追下(一)給へりけるを、国人是を崇敬ひて、神事再拝す、上下男女所願ある時は、隠相を造て神前に懸荘り奉りて、是を祈申すに叶はずと云事なし。我が御身も都の人なれば、さこそ上り度ましますらめ、敬神再拝し祈申て、故郷に還上給へかしと云ければ、実方、さては此神下品の女神にや、我下馬に及ばずとて、馬を打て通けるに、神明怒を成て、馬をも主をも罰し殺し給けり。其墓彼社の傍に今に是有といへり。人臣に列て人に礼を不(レ)致ば被(二)流罪(一)、神道を欺て神に拝を不(レ)成れば横死にあへり。実に奢る人也けり。去共都を恋と思ひければ、雀と云小鳥になりて、常に殿上の台盤に居、台飯を食けるこそ最哀なれ。
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又備前、備中、備後、本は一国也けり。豊前、豊後も如(レ)此、筑前、筑後も同事、肥前、肥後もしかの如し。日本国は東西へ去事二千七百五十里、南北は五百三十七里也。筑紫より■(はらか)の使の上るこそ行程十五日とは聞えしか。是より奥鎮西なんどへ下らんこそ、仮令十二三日にも行んずれ。備前備中さしもの大国とは聞ざりしものを、父の御座所をしらせじとて、角は(有朋上P226)云よと被(レ)思ければ、其後は又問事もなかりけり。
S0705 大納言出家事
二十三日に大納言は、少しくつろぐ事もやと覚しける程(ほど)に、少将も福原へ召下など聞えければ、いとゞ重のみ成ゆけば、姿を不(レ)替してつれなく月日を過さんも憚あり、何事を待つにか、猶も世にあらんと思ふやらんと、人の云思はんも恥しければとて、出家の志有よし、小松殿(こまつどの)へ被(レ)申たりければ、終には其こそ本意なれば、左在べきにこそと免されて、備中国安養寺に、調御房と云僧を請じて、備中国朝原寺にて出家受戒し給けり。御布施には、六帖抄と云歌双紙をぞ被(レ)渡ける。彼抄と申は、村上帝の第八御子、具平親王家の御集なり。此親王をば六条宮とも申、後中書王共申、中務親王とも申けり。内に道念御座して、外に仁義をたゞしくし、管絃の妙曲を極、詩歌賦の才芸に長じ給へり。歌道殊に巧に御座けるが、後の世の御形見とて集させ給(たま)ひたりける草子也。此大納言も彼抄をば無(レ)類おぼされければ、配流の時身に付る物はなけれ共、此抄計をば是迄も被(二)随身(一)たりけり。旅の空布施になるべき物なかりければ、泣々(なくなく)被(レ)出けるにこそ、最哀也。(有朋上P227)
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S0706 信俊下向事
大納言の北方、北山の栖ひ只推量るべし。住馴ぬ山里は、さらぬだにも物うかるべきに、柴引結庵の内、まだしも馴ぬ草枕、過行月日も暮しかね、明し煩有様(ありさま)也。女房侍共の其数多かりしも、流石(さすが)身々の捨難ければ、世に恐れ人目をつゝむ程(ほど)に、最後を訪ひ奉る者もなかりけり。其中に大納言の年比身近く召仕給ける源左衛門尉信俊と云侍あり。情ある男にて、時々奉(二)事問(一)けるが、或暮つかたとぶらひに参たりける次に、北方御簾近く召よせて宣(のたまひ)けるは、やゝ信俊承れ、大納言殿(だいなごんどの)は備前国児島とかや云所へ流され給ぬとは聞しか共、此渡より尋参人一人もなし、未生て御座するやらん、又堪ぬ思に忍煩て、昔語にもや成給ぬらん、其行末をも不(レ)奉(レ)知、未生ても御座さば、流石(さすが)此渡の事いかばかりか聞まほしく覚すらん、又少き人どもの住馴ぬ山里の栖ひ、中々申も愚也、只推量給べし。懸憂身の有様(ありさま)思出て、無昔も猶忍がたかるべきに、朝夕の事叶はねば、少き者共がうき事をも不(レ)知、おそし/\と進るを聞に付ても、先立物とては只涙ばかりなり。今は甲斐なき身なれ共、露の命の消も失なで、明し暮すなり、聞給(たま)ひなばいとゞ心苦こ(有朋上P228)そ覚さんずれども、責の事には、加様のうき事をも恋き事をも、申ばやと思に、汝いかなる有様(ありさま)をもして尋参なんや、御文をも進返事をも待見ならば、限なき心の中をも慰事もやと思はいかゞすべきと宣(のたまひ)ければ、信俊涙を流して申けるは、誠年比近く召仕れ進せし身にて候へば、今は限の御共をも申べくこそ候しか共、御下の御有様(おんありさま)、人一人も付進する事有まじと承しかば、思ながら罷留候き。明暮は君の御事より外は思出事侍ず、召れ進せし御声も耳に留、御諌の御詞
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も肝に銘じて忘まゐらせず、年比日比身を助、妻子を育し事、君の御恵に非と云事候はず、上下品替といへども、まのあたりの御有様(おんありさま)共と申、西国御下向の御恋さと申、袖に余たる涙絞煩たる折節、かく承候へば、身は何様に成候共、いかゞは仕候べき、御文を給、急尋参んと申ば、北方無(レ)限悦て、細に文遊して賜にけり。信俊給(レ)之、泣々(なくなく)小島へ下けり。既(すで)に彼に行著て、預の武士に申けるは、是は大納言殿(だいなごんどの)の年比の侍に、源左衛門尉信俊と云者に侍り、君当国へ御下向の時も、御伴申度候しを、御方様の者をば一人も付られずと承しかば、思ながら今は限の御伴をも申さず、差も御糸惜深く食仕れまゐらせしかば、奉(レ)別後は、明暮唯此御事のみ悲く恋く思出まゐらすれば、若今一度奉(レ)見事もやと存るうへ、さこそ都の事をも君達北方の御事(有朋上P229)どもをも、聞まほしく被(二)思召(一)(おぼしめされ)候らめ、音信便も絶ぬ、伝申人もなくて、空御事にも成給なば、如何計の御妄念にかと罪深思進すれば、其御渡の事をも語申て、聊御妄念もはるゝ御心もやと存じて、遥々(はるばる)と罷下れり。然べくは蒙(二)御免(一)て、今一度最後の見参にいり進ばやと申けるを、始は緊く恠嗔て叶まじと云けれ共、泣々(なくなく)掻口説云ければ、武士共涙を流し、最哀に思つゝ、何かは苦かるべきとて、終には是を免けり。信俊不(レ)斜(なのめならず)悦て、大納言の御座する所へ参て奉(レ)見に、浅猿(あさまし)く悲かりける事がら也。奇気なる小屋に、垣には土を壁に塗廻、戸には藁のこもを懸垂たり。内に差入て見廻せば、藁の束と云物を敷て、痩衰たる法師あり。よく/\見れば大納言入道殿(にふだうどの)にてぞおはしける。下には垢付たる布の服、上には袖やつれたる墨染の衣也。傍には竹の杖を立て、前
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には縄緒の足駄を置り。是やこの賤が伏戸の赤土の小屋、民の住居の草の戸ざしなるらんと、心憂こそ思けれ。中御門高倉の御宿所より始て、所々の御山庄屋敷を尽棟を並べ、■(とぼそ)を研柱を彩、屏風障子を立交、雲繝高麗を敷満つゝ、殿には風月の双紙を取乱、琴瑟の具足を立並、庭には四季の草木枝を通合、浦の沙玉を蒔て、或は仙院仙洞の御幸も有、或は卿上(けいしやう)雲客(うんかく)の遊宴も有しかば、絃歌の妙なる声絶る事なく、海陸の珍味尽ざりき。車を馳る(有朋上P230)賓客は、門前事騒しく踵を継。男女は庭上狼藉也。角こそ栄給たりしに、今成給へる有様(ありさま)の悲さに、目もくれ心も消て、前に臥倒て喚叫外は何事も申されず。大納言入道も信俊を見給(たまひ)ては、墨染の袖を顔に当給(たまひ)て、唯さめ/゛\とぞ泣給ふ。入道良在て宣(のたまひ)けるは、多の者共の中に、いかにとして是迄尋下けるぞや、余に都の恋さに、夢なんどに見るやらん、更に現とは覚えずとて、こぼるゝ涙せき敢ず、悲の色ぞ深かりける。信俊泣々(なくなく)申けるは、去し六月一日より、北御方君達相具し進せて、北山の雲林院の僧坊、菩提講行ひ候所に忍つゝ、幽なる御住居、若君姫君の恋かなしみ奉る御事、今度罷下べき由、懇に仰を蒙候し事共細に申て、懐より文を取出して進たり。入道は世にも有難なつかしげにおぼして、披見給はんとし給へども、落涙は降雨の如くにして、文の上にかゝりければ、筆の跡も見分給はず見えければ、信俊もいとゞ袂を絞けり。兎角して涙の隙よりほの是を御覧ずるに、若君姫君の限なく恋悲み奉痛しさに、我身も又月日を過べき心地もなけれ共、如何にと結べる露の命やらん、強面消も失なで、焦て物を思ふ事、朝夕の煙たえて、心細く幽なる住居、思出る昔の
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恋しき事、若君姫君行末いかにと心苦き事、心に任する旅の御住居ならば、共に下て見、見え奉たき事、愚なる心にも、今一度上り給はぬ事(有朋上P231)やは有べきと奉(二)待思(一)事、丹波(たんばの)少将(せうしやう)さへ福原へ被(二)召下(一)給へり。悲き事共、細々と書つゞけ給へるを見給(たまひ)ては、日比覚束なかりしよりも、今少し悲しく思給(たまひ)て、暫し絶入てぞ御座ける。信俊やゝ労り奉ければ、人心地出来給(たまひ)て、生て物を思も悲ければ、よき次に消果べかりける物をと宣(のたまひ)けるこそ、責の事と哀なれ。信俊二三日候て、泣々(なくなく)申けるは、角ても付添進て、限の御有様(おんありさま)をも見進せて、後の御孝養をも仕べく候へども、都にも見継進る便もなし、立隔ぬる御旅の空、又もと思召(おぼしめす)御眤言も絶や果なんなれば、今一度御返事をなり共御覧ぜばやと、罪深思召(おぼしめさ)れて被(二)下遣(一)たるに、日数積らば跡もなく験もなきやらんと、いか計かは御心苦く思召(おぼしめさ)れんなれば、今度は御返事を賜て、急罷上て見参に入進て、又こそ罷下候て奉公をも申、終の御事をもと申せば、入道よに名残(なごり)惜は被(レ)思けれ共、誠にさるべし、疾々還上、都にて待らん事も痛しし、北方少者共に能々宮仕申べし、係憂身と成ぬる上は、左にも右にも云計なし、人々の事こそ心苦く覚ゆれ、但汝が又こんたびを待付べき心地もせず、いかにも成ぬと聞ば、後世をこそ弔めとて返事細に遊ばして、剃髪の有けるを引裹て、是を形見と御覧ぜよ、ながらへて世に聞はてられ奉べしとも、今生にこそ相見事の空とも、後の世には必など、心細げに書連てたびて(有朋上P232)けり。信俊給(レ)之て出けるが、行もやらず、又大納言入道も、差て宣べき事は皆尽にけれ共、慕さの余には、度々是を呼び返す。還行べき旅だにも、程ふれば、故郷は恋きに、今
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を別の心の中、被(二)推量(一)て哀也。さても有べきならねば、信俊都へ上にけり。北山へ参て北方に御返事進たりければ、穴珍々々や、御命の今まで存へておはしけるなとて、文を披て見給ふに、髪の黒々として有けるを一目見て、此人は様替られにけるよとばかり宣て、又物も不(レ)宣、やがて引潛てぞ伏給ふ。其後良起居給(たまひ)ても、此髪を懐に入て、胸に当ては取出、顔に当てはもだえ給へり。移香も未昔に替ざりければ、差向たる様に被(レ)思けれ共、主は遠国を隔たれば、只面影ばかりなり。若君姫君もいづら父の御ぐしとて、面々に取渡泣あひ給へり。形見こそ今は還て悔しけれ、是なかりせばかくばかり覚えざらましと歎かれけるぞ糸惜き。
新(しん)大納言(だいなごん)と俊寛僧都(そうづ)とは宗人の事、丹波(たんばの)少将(せうしやう)は成親卿(なりちかのきやう)の嫡子なれば、罪科実に難(レ)遁、首を切れ給はぬ事は、小松大臣の御助也。康頼が無類になる事は、何の罪なるらんと無慙也。北面の輩あまたこそは被(二)召誡(一)けるに、他人は指もやは有し、此事は同意の輩、鹿谷の評定の時、瓶子の倒て頸を打折たりけるを、平氏既(すで)に倒たり、頸を取には過ずとて、様々振舞たりければ、満座の人此秀句を感じける(有朋上P233)に、西光(さいくわう)法師(ほふし)折たる瓶子を取合て、猶平氏の首取たり/\と云けるを、入道聞給(たまひ)て、かく深き罪には被(レ)行けり。契浅からぬ輩こそ、其座には有りけめ。何として漏けるやらん、後にこそ行綱が讒言とも聞えしか、天可(レ)度地可(レ)度、只不(レ)可(レ)度人心と云り。よく/\其を知ずして、左右なく人には人の打とけまじき者と覚えたり。
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丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)をば、福原へ召下し、妹尾(せのをの)太郎(たらう)に預置、備中国へ遣したりけるを、俊覚僧都(そうづ)、平判官康頼に相具して、薩摩方鬼界が島へぞ被(レ)放ける。康頼は都を出て配所へ赴けるが、小馬林を通るとて、
津国やこまの林をきてみれば古はいまだ変らざりけり K031
と思連、やがて爰にて僧を請じ、出家入道して、法名性照とぞ云ひける。髪をおろし袈裟を戴とて、
終にかく背はてける世中をとく捨ざりし事ぞくやしき K032
剃たる髪を紙に裹、此歌に取添へて、故郷に遣したりければ、其妻一目見つゝ、何とだにも云ずして、絶入けるこそ無慙なれ。(有朋上P234)
S0707 俊寛成経等移(二)鬼界島(一)事
薩摩方とは惣名也、鬼界は十二の島なれや、五島七島と名付たり。端五島は、日本に従へり。康頼法師をば五島の内ちとの島に捨て、俊寛をば白石の島に捨けり。彼島には白鷺多して石白し、故に白石の島と云。丹波(たんばの)少将(せうしやう)をば、奥七島が内、三の迫の北、硫黄島にぞ捨たりける。尋常の流罪だに悲かるべきに、道すがら習はぬ旅にさすらひて、そぞろに哀を催けり。前途に眼を先立れば、早行事を歎、旧里に心を通はせば、終に還らん事難し。或は雲路遠山の遥なる粧を見ては、哀涙袖を絞り、或は海岸孤島の幽なる砌に臨では、愁烟肝を焦しけり。さらぬだに、旅の憂寝は悲しきに、深夜の月朗に木綿付鳥も音信り。遊子残月に行けん、函谷の有様(ありさま)思ひこそ出でけれ。日数ふれば、薩摩国に著にけり。遥々(はるばる)と海上を漕渡て、島々にこそ被(レ)捨けれ。此島々へは、おぼろげならでは、人の通事もなし。島にも人
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稀也。自有者も此土の人には不(レ)似、身には毛長生、色黒して如(レ)牛、云事の言も聞知ず、男は烏帽子(えぼし)もきず、女は髪もけづらず、木の皮を剥てさねかづらにしたり。ひとへに鬼の如し。眼に遮る物は、燃上火の色、耳に満る物は、鳴下(有朋上P235)雷の音、肝心も消計なれば、一日片時堪て有べき心地せず。賤が山田も打ざれば、米穀の類も更になく、園の桑葉も取ざれば、絹布服も稀也。昔は鬼の住ければ、鬼界の島とも名付たり。今も硫黄の多ければ、硫黄の島とぞ申ける。少将は中々被(レ)刎(レ)首たらんはいかゞせん、生ながら係悲き島に放れて、憂目をみん事の罪深さよと思はれける中にも故郷に残留て、此島の有様(ありさま)伝聞て歎らんこそ無慙なれと、覚しけるこそ哀なれ。此人々始には三の島に被(レ)捨、所々に歎けり。彼海漫々として風皓々たり。雲の浪煙の波に咽らん。蓬莱、方丈、瀛州の、三の神仙の島ならば、不死の薬も取なまし。此島々の中には、慰事こそなかりけれ。責ては三人一所にだにあらば、悲事も憂事も互に語て心をもやりなん、島をかへ海を隔て、所々に歎けるこそ無慙なれ。少将には門脇殿(かどわきの)宰相(さいしやう)より訪給けれ共、二人をば助る者もなし。僧都(そうづ)も入道も、身も悲しく人も恋しかりければ、後には網舟釣舟に手をすり腰をかゞめつゝ、俊寛も康頼も、硫黄が島へぞ寄会ける。少将と判官入道とは、痛く思沈たる事はなし。浦々島々見巡て、都の方をも詠けり。僧都(そうづ)は強歎痩て、岩の迫に苔の下に倒伏て、浦吹風に身を冷る事もなく、岸打浪に思をも消ざりけり。判官入道は、泣悲ても由なし、只仏の御名をも唱神にも祈申てこそ、二度都(有朋上P236)へ帰上らん事をも願、後世菩提をも助めとて、己が能也ければ、歌を
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うたひ舞をまうて、島の明神に手向けり。端島の者共、時々来て見けるが、興に入て舞などしけるぞ、歎の中にもをかしかりける。
S0708 康頼造(二)卒都婆(一)事
判官入道は都の恋さも猿事にて、殊に七十有余の母の、紫野と云所に在けるを思出侍けるに、いとゞ為方なくぞ思ける。流されし時かくと知せまほかしけれ共、聞給なば悶焦給はん事の痛はしくかなしさに、角とも云ずして下たれば、ながらへて今迄もおはせば、此形勢(ありさま)を伝聞ていかばかりかは歎給はんと、云つゞけては、唯泣より外の事なし。悲さのあまりには、角ぞ思つづけゝる。
薩摩潟沖の小島に我ありと親には告よ八重の塩風 K033
思やれ暫しと思ふ旅だにもなほ故郷は恋しき物を K034
千本の卒都婆を造り、頭には阿字の梵字を書、面には二首の歌をかき、下に康頼法師と書て、文字をば彫つゝ誓ける事は、帰命頂礼(きみやうちやうらい)熊野三所権現、若一王子、分ては、日吉山王(有朋上P237)々子眷属、惣而は上梵天帝釈、下竪牢地神、殊には内海外海竜神(りゆうじん)八部憐を垂給、我書流す言葉、必風の便波に伝に、日本の地につけ給、故郷におはする我母に見せしめ給へと祈つゝ、西の風の吹時は、八重の波にぞ浮べける。行に百行あり、国土を治謀、善に万善あり、生死を出る勤なり。卒都婆は万然の随一、諸仏是を勧喜し、孝養は百行の最長、竜天必ず哀愍す。漫々たる海上、塩路遥の波の末、必左とは思はねど、責ても母の悲さに、角してこそは祈けれ。思ふ思も風と成、願ふ願もこたへつゝ、竜神(りゆうじん)納受を垂給(たま)ひ、新宮の湊
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に卒都婆一本寄たりけるを、浦人是を見咎て、熊野別当に奉りたれ共、世を恐たりけるにや、披露はなし。安芸の厳島にも一本付たりけり。折節判官入道のゆかり也ける僧、康頼西海の浪に被(レ)流ぬと聞ければ、何となく都をあくがれ出て、西国の方へ修行し行けるが、便風あらば彼島へも、渡らばやと思ひけれ共、おぼろけにては船も人も通はず、自商人などの渡るも、僅(わづか)に日よりを待得てこそ行など申ければ、いかにも尋行べき心地もせずは有けれども、安芸国までは下にけり。厳島明神に参詣して、両三日ぞ有ける。当社の景気を拝すれば、後は翠嶺山高して、吹風効験の高事を示し、前には巨海水深して、立浪弘誓の深事を表す。さす塩社壇を浸す時は、紺瑠璃を瑞籬に敷かと疑は(有朋上P238)挿絵(有朋上P239)挿絵(有朋上P240)る。引塩神前を去時は、合浦の玉を庭上に蒔歟とうたがはる。和光(わくわう)同塵(どうぢん)の利益は、何もとり/゛\なりといへ共、海畔の鱗に、契を結給らん、因縁誠に知難し。参詣合掌の我までも、八相成道の結縁は、憑しくこそ思けれ。此神明をば、平家の大相国(たいしやうこく)深く崇敬し給事ぞかしと思出るも恐し。繖取敢ぬ事なれば、只法施をぞ手向奉ける。心中に祈念申けるは、帰命頂礼(きみやうちやうらい)、和光(わくわう)垂迹当社権現、硫黄島流人康頼が生死知せしめ給へ、猶も存命あらば、夜の守昼の守と成給(たまひ)て、浪の便の言伝をも聞しめ、再故郷の雲に返し入しめ給へと、祈けるこそ哀なれ。終日念誦したりける晩程(ほど)に、社司神女御前の渚に遊覧す。月の出塩満けるに、そこはかともなく浪に流るゝもづくの中に、卒都婆一本見え来る。あやしや何なる事にかとて取上見(レ)之ば、二首の歌を書、下に康頼法師と書付たり。各手々に是を取渡し、歌を詠じて哀なる事也。作者何者やらん
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と云ける中に、社僧の有けるが云けるは、糸惜事かな、是は一年都より薩摩方硫黄島へ、三人の流人有りき。法勝寺の執行俊寛、丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)、平判官康頼也。此康頼法師が故郷も恋く、恩愛の親も悲くて、角書流せるにこそ、懸様昔も有とこそ聞、是をば如何情なく捨ては置べき、都の妻子もさこそ恋し悲しと思て、ゆくへ聞まほしかるらめ、如何して是を故郷の親き者の許へ、(有朋上P241)急ぎ慥に付べきとぞ申ける。ゆかりの僧も見聞けり、心も消涙もこぼれて嬉く悲かりける、中にも是は明神の御計にやと、忝貴ぞ思ける。社僧此僧を語ひ申けるは、やゝ修行者の御坊、もし都へ上給はば、此卒都婆を事伝申さん、慥に平判官康頼が妻子の許へ伝給なんやといへば、僧答て曰、此事承るに、よにも有難く哀なる事にこそ、修行者の習、宿定らぬ事なれども、本都の者にて侍りしが、折節都へ還上侍、康頼がゆかりほの知て候へば、たしかに伝送べし、且は明神も御照覧候べしとて、件の卒都婆を請取て、笈の肩に挟み、泣々(なくなく)都へ上にけり。母の尼公妻子親類招集て見せたりければ、もだえこがれ泣悲みける心の中たゞ推量るべし。康頼は卒都婆に歌を書、名を注し、文字をば彫刻、其に墨を入たれば、塩にも浪にも消ずして、鮮にこそ見えたりけれ。此事京中に披露有ければ、既(すで)に及(二)叡聞(一)、彼卒都婆を被(レ)召つゝ、叡覧有りて竜眼より御涙を流させ給(たま)ひ、康頼法師未ながらへて、彼島に有らん事こそ不便なれ、水茎の跡なかりせば知らざらましとて、御むつかり有ければ、御前に候ひける人々も各袖を絞けり。小松内府の被(レ)参たりけるに、康頼法師が歌哀にこそとて賜下されたりければ、大臣も打見給つゝ涙ぐみて御前
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を立て、父の入道に奉たれば、相国禅門もさすが哀にこれ覚しけめ。係ければ判官(有朋上P242)入道未都へ帰上らざりけれ共、此歌は上下哀に翫けるとかや。
S0709 和歌徳事
凡和歌は、国を治人を化する源、心を和思を遣基也。故に古の明王、月の夜雪の朝、良辰美景ごとに、侍臣を召集めて、夢の歌を奉らしめて、人の賢愚を知召といへり。奈良御門の往躅より始て、延喜天暦の以来、夜の雨塊を穿たず、秋の風枝を鳴さぬ御代には、必ず勅撰ある事今に絶ず、只住吉(すみよし)玉津島の此道の崇神たるのみに非ず、伊勢、石清水、賀茂、春日より始奉て、託宣の詞は夢想の告、何も歌に非ざるは少し。霊神の御歌に名を連、明王の御製に肩を並事、此道の外は又何事かは有るべき。能因が歌には三島の明神納受し、小式武が歌には冥途の使を退くと見えたり。唯治世の基、神道の妙に叶のみに非、又仏法の正理にも通ずる故にや、清水の観音は、しめぢが原のさしも草と詠給、善光寺の如来(によらい)は、厩戸の王子に贈答し給へり。凡三十一字は、無間頂を除いて三十二相にかたどり、五句六義の趣は、五輪六丈の瑜伽(ゆが)を顕す。此故にや行基菩薩、婆羅門僧正(そうじやう)、伝教大師、慈覚より以来、或は釈門の棟梁、法家の竜象、或は名を玄地に遁れ、跡を白雲(有朋上P243)に暗くする人、此道に携ざるは稀なり。玄賓僧都(そうづ)は、山田を守りて、秋果ぬればと恨み、空也上人は、市の中にも墨染の袖と詠じ給ふ。されば西行法師が夢にも、時澆季に及、世末代に臨て、万事零落すれども、歌道計は猶古におとらずといへり。判官入道も、難波津の言の葉、卒都婆の面に書集、海へぞ入たりける。薩摩方より、新羅、高麗、震旦、
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天竺、島々国々にも寄つらん。異国なればよもしらじ、縦一丈二丈の木也共、漫々たる海上茫々たる繁浪に、争か当国に来べき。況や一尺二尺にはよも過じ。祈る祷も叶つゝ、竜神(りゆうじん)恵を顕して、当社の砌に付寄けり。
S0710 近江石塔寺事
大江定基三河守に任じて、赤坂の遊君力寿に別て、道心出家して其後、大唐国に渡、清涼山に参たりければ、寺僧毎朝に池を廻る事あり。寂照故を尋れば、僧答て曰、昔仏生国の阿育王、八万四千基の塔を造、十方へ抛給たりしが、日本国江州石塔寺に一基留り給へり、朝日扶桑国に出れば、石塔はるかに影を此池に移し給ふ。故に彼塔を拝せんが為に此池を廻る也とぞ申ける。寂照上人聞給(たまひ)て、信心骨に入、随喜肝に銘じて、墨を研(有朋上P244)筆を染、其子細を注しつゝ、震旦にして大海に入たりけるが、播磨国僧位寺へ流寄たりけるも、角やと思ひ知られたり。