『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十
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奴巻 第十
S1001 中宮御産事
治承二年十一月十二日寅時より、中宮御産の気御座と■(ののしり)けり。去月廿七日より、時々其御気御座(おはしまし)けれ共、取立たる御事はなかりつるに、今は隙なく取頻らせ給へども、御産ならず。二位殿(にゐどの)心苦く思給(たまひ)て、一条堀川(ほりかは)戻橋にて、橋より東の爪に車を立させ給(たまひ)て、橋占をぞ問給ふ。十四五計の禿なる童部(わらんべ)の十二人、西より東へ向て走けるが、手を扣同音に、榻は何榻国王榻、八重の塩路の波の寄榻と、四五返うたひて橋を渡、東を差て飛が如して失にけり。二位殿(にゐどの)帰給(たまひ)て、せうと平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)に角と被(レ)仰ければ、波のよせ榻こそ心に候はねども、国王榻と侍れば、王子にて御座(おはしまし)候べし。目出(めでた)き御占にこそ候へとぞ合たる。八歳にて壇浦の海に沈み給(たまひ)てこそ、八重の塩路の波の寄榻も思ひしられ給(たま)ひけれ。
< 一条戻橋と云は、昔安部晴明が天文の淵源を極て、十二神将(じふにじんじやう)を仕にけるが、其妻職神の貌に畏ければ、彼十二神を橋の下に咒し置て、用事の時は召仕けり。是にて吉凶の橋占を尋問ば、必ず職神(有朋上P312)人の口に移りて善悪を示すと申す。されば十二人の童部(わらんべ)とは、十二神将(じふにじんじやう)の化現なるべし。>
御産未(レ)成とて、平家の一門は不(レ)及(レ)申、関白(くわんばく)以下公卿殿上人(てんじやうびと)馳参給けり。法皇も西面の北の門より御幸あり。御験者には、房覚昌雲、両僧正(そうじやう)、俊堯法印、豪禅、実全両僧都(そうづ)なり。其上法皇も内々は御祈(おんいのり)有けり。
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内大臣(ないだいじん)は例の吉事にも悪事にも強に騒給事御座ざりければ、少し日闌て公達引具し参給へり。最のどろかにぞ見え給ける。権亮少将維盛、左中将清経、越前侍従資盛など、遣列給へり。御馬十二匹に四手付て被(二)引立(一)たり。神馬の料と見えたり。砂金千両、南鐐百、御剣七振、広蓋に入て、御衣二十領、相具せられたり。誠にきら/\しくぞ見えける。大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、重科の者、五十三人被(二)寛宥(一)、其例とて、今度七十三人宥されけり。内裏より御使隙なし。右中将通親、左中将泰通、右少将隆房、通資等の朝臣、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)経仲、蔵人所々衆、滝口等、各二三返づつ馳違馳違参けり。承暦三年に皇子御誕生(ごたんじやう)の時には、殿上人(てんじやうびと)寮の御馬に召けり。今度は車にてぞ被(レ)参ける。八幡、平野、日吉社へ可(レ)有(二)行啓(一)之由、御願(ごぐわん)あり。全玄法印是を啓白す。凡神社に被(レ)立(二)御願(ごぐわん)(一)事は、石清水、賀茂社より始て、新西宮(にしのみや)、東光寺に至るまで四十一箇所、仏寺には、東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうぶくじ)より、常光院、円明院まで、七十四箇処の御誦経(有朋上P313)あり。御神馬を引るゝ事、大神宮、石清水より、厳島までに八社と聞ゆ。小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)御馬を進せらる。父子の儀なれば、可(レ)然、寛弘に上東門院御産の時、御堂関白(みだうくわんばく)の御馬を進られし、其例に相叶へり。五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)の馬二匹進られたりし、志の至りとは云ながら、徳の余りか、不(レ)可(レ)然とぞ人々傾申ける。又仁和寺(にんわじ)守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)、孔雀経の御修法、天台座主(てんだいざす)寛快法親王(ほふしんわう)、七仏薬師(しちぶつやくし)の法、寺長吏円恵(ゑんけい)法親王(ほふしんわう)、金剛童子法、此外諸寺諸山の、名徳知法の仁に仰て、大法秘法数を尽されけり。五大虚空蔵、六観音、一字金輪、五壇法、六字訶梨帝、八字文殊普賢
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延命大熾盛光等に至るまで残所なし。仏師法印召れて、等身の七仏薬師(しちぶつやくし)、并(ならびに)五大尊の像造立せらる。御誦経物には御剣御衣、諸寺諸社へ被(レ)進。御使は宮の侍の中に有官の輩勤(レ)之。平文の狩衣に帯剣したる者共の、御剣御衣を始として、色々の御誦経物を捧て、東の対より南庭を渡て、中門を持つれたる有様(ありさま)は、ゆゝしき見物にてぞ有ける。二位殿(にゐどの)と入道殿(にふだうどの)とは、つや/\物も覚ずげにて、人の物申しけれ共、あきれ給(たまひ)て、只兎(と)も角(かく)も能様にとのみ宣。さり共鎧打著て馬にのり、敵の陣に押寄て、軍のおきてし給はんには、角はよも臆し給はじとぞ、上下思申ける。新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)、法性寺執行俊寛、西光(さいくわう)法師(ほふし)等(ら)が霊共、御物付に移て、様々に申事ども有て、御産も不(レ)成と申(有朋上P314)ければ、入道二位殿(にゐどの)共に弥魂を消、心を砕給へり。係ければ、様々御願(ごぐわん)を立られけれ共、其験なくして、遥(はるか)に時刻押移ければ、御験者面々に増伽の句共あげて、我(わが)寺々の三宝年来所持の本尊責伏奉ければ、振鈴(しんれい)の声大内に満、護摩の煙虚空にあがる。いかなる悪霊邪神も、争か障碍を成べきとぞ見えし。諸僧の心中推量られて貴かりけるに、猶其効見えざりけり。法皇御几帳近く居寄らせ御座(おはしま)して、千手経をぞあそばしける。余(あまり)の忝(かたじけな)さに、身毛竪涙を流す人も有けり。躍り狂ふ御よりましの縛共も、少し打しめりたり。勅定には、何なる御物気也とも、老法師かくて侍らんには争か可(レ)奉(二)近付(一)、我聞阿遮一睨の窓の前には、鬼神手を束て降を乞、多齢三啜の床上には、魔軍頭を振て恐を成と、況観音無畏の利益をや、千手神咒の効験をや。而今顕るゝ処の怨霊と云は、成親俊寛西光等也、皆朕が依(二)朝恩(一)官位俸禄に預し
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輩に非や。縦報謝の心こそ存ぜざらめ、豈障碍を成に及ばんや。其事不(レ)可(レ)然、速に罷退き侍れと被(レ)仰、女人臨難生産時邪魔遮障苦難忍至心称誦大悲咒鬼神退散安楽生と貴くあそばして、御念珠さらさらと押揉せ御座(おはしまし)ければ、御産安々と成せ給にけり。頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡朝臣、其時は中宮亮にて御座(おはしまし)けるが、簾中より出給(たまひ)て、御産平安皇子御誕生(ごたんじやう)と高らかに申されたりければ、入道殿(にふだうどの)二位殿(にゐどの)は、余(あまり)の(有朋上P315)嬉さに声を上てぞ泣れける。忌々しくぞ聞えし。関白殿(くわんばくどの)以下、太政大臣(だいじやうだいじん)已下堂上堂下の人々、一同にあと宣合れける声のどよみにて有ければ、門外まで聞えてけしからずぞ覚えし。小松大臣は蒔絵の細太刀鴎尻に佩給、金銭九十九文御枕の上に置て、天を以て父とし地を以て母とすと奉(レ)祈けり。即御臍の緒を奉(レ)切て囲碁手に銭被(レ)出たり。弁靱負佐是をうつ、是又例ある事にや。故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御妹、あの御方懐あげ奉る。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の、北方師典侍殿、御乳付に参給へり。此女房は中山中納言顕房卿の女なり。法皇は新熊野へ御参詣有べきにて、兼て御車を門外に立させ給(たま)ひ、急ぎ御出有けり。即新熊野にて移花進せさせ給けり。入道殿(にふだうどの)より御文有とて捧(レ)之、披て叡覧あり、沙金千両、富士の綿千両の送文なり。御布施と覚たり。最便なくぞ有ける。法皇は彼送文を後さまへ投捨て、鳴呼験者しても、身一はすぐべかりけりと仰有けり。何者(なにもの)か立たりけん、新熊野にて法皇の御庵室の前に、札に書て、御験者の請用振は何日にて侍べきぞ、化行せしとぞ立たりける。最をかしかりけり。
代々の女御后の御産有しかども、太政法皇の御験者昔より未無(二)其例(一)、末代にも有難。当代の后宮に御座(おはしま)せ
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ば、父子の御心も浅からざりける上、太政(だいじやう)入道(にふだう)を重思召(おぼしめし)ける故也。故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の女院渡せ御座(おはしま)さんには、角はよもあらじと人々(有朋上P316)申合れけり。御軽々敷御事をば免し進せられざりけるにや、陰陽頭助以下多参会して思々に占申けり。亥子の時と申者もあり、丑寅と占者もあり、又姫宮と勘申者も有けるに、陰陽頭安部泰親ばかりぞ御産唯今の時、皇子にて渡せ給ふべしと申ける。其詞の未(レ)終けるに、皇子御誕生(ごたんじやう)、指神子と申も理也。御悦申に被(レ)参ける人々には、
当時関白(くわんばく)松殿基房 太政大臣(だいじやうだいじん)師長 大炊御門左大臣経宗 九条右大臣兼実 小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)重盛(しげもり) 徳大寺(とくだいじの)左大将実定 同弟左宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実家 源大納言(だいなごん)定房 三条大納言(だいなごん)実房 五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱(くにつな) 藤大納言(だいなごん)実国 中御門中納言宗家 按察使資賢 花山院中納言兼雅 左衛門督時忠 藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)資長 別当春宮(とうぐうの)大夫忠親(ただちか) 左兵衛督成範 右兵衛督(うひやうゑのかみ)頼盛(よりもり) 源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼 権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)実綱 皇太后宮(くわうたいごうぐうの)大夫朝方 門脇(かどわきの)平宰相(へいざいしやう)教盛 六角宰相家通 左宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実宗 堀河宰相頼定 新(しん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)定範 左京大夫脩範 太宰大弐親信 左三位中将知盛 新三位中将実清 左大弁(さだいべん)俊綱(としつな) 右大弁長方
已上三十三人也。右大弁の外は直衣にて参給へり。不参の人々は、花山院前太政大臣(だいじやうだいじん)忠雅、前大納言(だいなごん)実長、両人は近年出仕なかりければ、唯布衣を著して太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所へ向はる。大宮大納言(だいなごん)隆季の第一の娘は、法性寺殿御子左三位中将兼房の室にて御座(おはしま)しけるが、去(有朋上P317)七日難産せられたりければ、隆季出仕し給はず、三位中将も出仕なし、不吉と存ぜられけるにや。又前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛は、去七月に室家
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逝去に依て無(二)出仕(一)。彼所労の時、大納言(だいなごん)并(ならびに)大将両官をば辞申されたりけり。前治部卿光隆、近衛殿(このゑどの)御子息(ごしそく)右二位中将基通、宮内卿永範、七条修理(しゆりの)大夫(だいぶ)信隆、所労、藤三位基家、大宮権大納言(ごんだいなごん)経盛所労、新三位隆輔、松殿御子息(ごしそく)、三位中将隆忠不参とぞ聞えし。
御修法結願して勧賞被(レ)行。仁和寺(にんわじ)の宮には、東寺を可(レ)被(二)修造(一)。法印覚成を以て権大僧都(ごんのだいそうづ)に被(レ)任。後七日の御修法、大元の法灌頂(くわんぢやう)等(ら)、可(レ)被(二)興行(一)と、座主宮には、以(二)法眼円良(一)、被(レ)叙(二)法印(一)。此両事、蔵人頭(くらんどのとう)皇太后宮(くわうたいごうぐう)権大夫光明朝臣奉て、被(二)仰下(一)けり。座主宮は、二品并(ならびに)牛車を申させ給けれ共無(二)御免(一)。仁和寺(にんわじ)宮聞召(きこしめし)て、御憤(おんいきどほり)深勧賞蒙しと申させ給けるとかや。
右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)の北方御帯進せ給たりしかば、御乳人と成給ふべかりしか共、七月に失給にければ、左衛門督時忠卿(ときただのきやう)の北方、御乳人に成給にけり。本は建春門院(けんしゆんもんゐん)に候はれけるが、皇子受禅の後、内侍典侍に成給(たまひ)て、師典侍殿とぞ申ける。抑此御産の時、様々の事共有けり。目出かりし事は、太上法皇の御加持、浅猿(あさまし)かりし事は太政(だいじやう)入道(にふだう)のあきれ様、忌々しかりし事は、入道と二位殿(にゐどの)と泣給へる事、優也し事は、小松大臣の有様(ありさま)、本意なかりし事は、右大将(うだいしやう)の篭居、あやしかり(有朋上P318)し事は、甑を北の御壺に落て、取上て、又南へ落直たりし事、皇子御誕生(ごたんじやう)には、南へこそ落すに、聞誤たりけるにや、希代の勝事とぞ私語(ささやき)ける。をかしかりし事は、陰陽頭安部時晴が、千度の御祓勤て大繖持て参けるが、左の履を蹈ぬかれて、其をとらん/\とする程(ほど)に、冠をさへ突落されたりけれ共、余(あまり)の怱々に周章(あわて)つゝ其をも知ら
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ず、花やかに装束したる者が、もとゞりはなちて、さばかりの御前へ、圧口に気色して出たりける事、さしもの御大事(おんだいじ)の中に、堂上堂下女方男方、腸を断けり。不(レ)堪者は閑処に逃入人もあり。建礼門院内へ参せ給(たまひ)て后に立せ給にければ、あはれ皇子御誕生(ごたんじやう)あれかし、位に即進せて、外祖父とて、弥世を手に杷らんと思心御座(おはしまし)ければ、二位殿(にゐどの)日吉社に立願を百日祈申されけれ共、其験なかりければ、入道は浄海が祈申さんに、などか不(レ)賜とて、本より奉(レ)憑事なれば、厳島へ月詣を始て、詣給けるに、いつしか二箇月に御懐妊の気御座(おはしまし)て、皇子御誕生(ごたんじやう)あり、掲焉也し効験也。
S1002 頼豪(らいがう)祈(二)出王子(一)事
白川院【*白河院】(しらかはのゐん)御位の時、后腹皇子渡せ給はざりければ、主上御心元なく思召(おぼしめし)、貴僧と聞召けれ(有朋上P319)ば、三井寺(みゐでら)の実相房の頼豪(らいがう)阿闍梨(あじやり)を召れて、汝皇子祈出してんや、効験あらば勧賞は乞に依べしと被(二)仰含(一)。頼豪(らいがう)畏て申す、年来深望侍、勅定無(二)相違(一)は、皇子の御誕生(ごたんじやう)勿論の御事也と奏す。主上大に悦思召(おぼしめし)て、勧賞乞に依べしと、重て勅約あり。頼豪(らいがう)悦で本寺に帰、年来所持の本尊の御前にして、肝胆を砕て祈申ける程(ほど)に、中宮たゞならぬ御事と承て、弥皇子御誕生(ごたんじやう)と、黒煙を立て祈申。月満御座(おはしま)して、承保元年十二月十六日(じふろくにち)、最安らかに皇子御誕生(ごたんじやう)あり。主上斜(なのめ)ならず御感有て、頼豪(らいがう)を召て、効験神妙(しんべう)神妙(しんべう)、勧賞何事をか可(二)申請(一)と御気色(おんきしよく)あり。頼豪(らいがう)は園城寺(をんじやうじ)に戒壇を立、寺門年来の遂(二)本意(一)とぞ奏しける。其時主上、こは思食(おぼしめし)よらぬ御事也、只一度に僧都(そうづ)僧正(そうじやう)にも成、寺領坊領をも申さんずるにやとこそおぼし召れつれ、戒壇の事は、努々御存知なかりきと、勅定有ければ、頼豪(らいがう)重て凡卑の愚僧、名聞
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の高位も所望なく、此事を申うけん為に、微力を励、肝胆を砕て祈出進せり。綸言をば汗に喩、出て再帰事なし、勧賞は乞に依べきよし、勅約今更改べからず候也。寺門の宿訴と云、頼豪(らいがう)が本意と云、所望たゞ此事に有と奏申。主上の仰には、凡皇子誕生(たんじやう)有て、祚を令(レ)継事も、海内無為の御志也。今汝が所望を達せば、山門憤を成て、世上静ならじ。両門の合戦出来せば、天台の仏法(ぶつぽふ)忽(たちまち)に亡ぬべし、何ぞ戒壇の一事を(有朋上P320)以て、三院の牢籠を顧ざらん。其上三井の戒壇においては、上代既達せず、後代争か成せんと仰下されければ、頼豪(らいがう)は、百千万却の古より、欣求(ごんぐ)浄土(じやうど)の望を達せずとて、二千(にせん)余年の今、厭離穢土の思を可(レ)断、争前仏の教化に依(レ)不(レ)預、即可(レ)漏は、後仏の引導に、現在未来の、一切衆生出離生死の期を失ふべし。此条専背(二)聖教(一)、其理豈叶(二)仏意(一)哉。就(レ)中(なかんづく)我門徒(もんと)の為(レ)体、乍(レ)耀(二)能依之戒光於胸中(一)、不(レ)被(レ)許(二)所依之戒壇砌下(一)、悲哉毎(レ)迎(二)登壇受戒之期(一)、必臨(二)異門他宗之境(一)、恨哉乍(レ)為(二)大乗円頓之器(一)、受(二)小乗偏漸之戒(一)、愁吟之至切也。門人而誰不(二)傷嗟(一)、悠々たる生死之長夜に、挑(二)戒光(一)而照(二)闇冥(一)、茫々たる苦海之嶮浪に、乗(二)木刃(一)而至(二)彼岸(一)。只為(レ)遁(二)三界濁穢苦域所住(一)、欲(レ)生(二)九品浄土(じやうど)常楽の安養(一)也。此条若存(二)矯飾(一)者、吾国は神国也、神明神道宣(レ)糾(レ)非、吾法は仏法(ぶつぽふ)也、仏界仏陀須(レ)与(レ)罰、現世には即不(レ)過(二)三七日(一)、速に災難災殃を招、当来には必可(下)限(二)万却千却(一)永沈(中)八寒(はちかん)八熱(はちねつ)(上)、是仏法(ぶつぽふ)興隆の為なり、是衆生利益の故也など、種々に申し上けれ共、遂に御許なかりければ、頼豪(らいがう)大悪心を起し、眼の色替、今は思死とて、双眼より涙をはら/\とこぼし、御前を立様に、頼豪(らいがう)
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思死に死失なば、皇子は我進たる物なれば、即可(レ)奉(二)取返(一)とて、三井寺(みゐでら)へ罷帰る。即飲食を止めて、道場に入、行死に死て、皇子を取死し奉らんとぞ聞えける。此事(有朋上P321)主上聞召(きこしめし)て、宸襟不(レ)安、朝政も御倦までの御歎也ければ、江中納言匡房卿の、其時は美作(みまさかの)守(かみ)にて御座(おはしまし)けるを召て、皇子誕生(たんじやう)の勧賞、頼豪(らいがう)三井寺(みゐでら)に戒壇建立(こんりふ)の所望有つるを、御免なしとて、悪心を起し、我身干死にして、皇子をも可(レ)奉(二)取返(一)由聞召、汝は、師壇の契深し、罷向て誘宥よと仰ければ、匡房卿装束を改ず、束帯を正して、内裏よりやがて三井寺(みゐでら)へ馳行て、彼坊に罷向て見ば、蔀遣戸も立下、纔(わづか)に持仏堂計に人ありがほ也。明障子も護摩の煙に薫て、何となく貴く身毛竪てぞ覚えける。美作(みまさかの)守(かみ)持仏堂の大床にたゝずみて、匡房参侍る由申けれ共、暫は音もせず。頼豪(らいがう)良久有て、荒らかに障子をあけて出給へり。目はくぼくぼと落入、白髪は永々と生延て、銀の針を琢立たる如し。手足の爪も切らず、身の垢も積りて、顔の正体もなし。天狗とかやも角やと覚て、物おそろし。頼豪(らいがう)申けるは、やゝ御辺(ごへん)は、宣旨の御使にこれへは入給へるな、奉(二)出合(一)事は不(二)思寄(一)存つれ共、年来師壇の契不(レ)浅、最後の見参と存て、只今(ただいま)奉(レ)見也。有難志と思給べし。さて天子は不(二)虚言(一)、綸言如(レ)汗、出再不(レ)帰とこそ承、皇子祈出して進よ、勧賞は可(レ)依(レ)乞と、度度蒙(二)勅定(一)し間、過去今生の所修の功徳を回向して、肝胆を砕て精誠を尽祈生進ぬ。其に戒壇建立(こんりふ)を不(レ)被(レ)免条、生々世々(しやうじやうせせ)の遺恨、単に此事にあり。所詮皇子に於ては奉(二)(有朋上P322)取返(一)侍べし。今生の見参これ最後也とて、持仏堂に帰入て、障子を丁と立て、其後は音もせず、匡房卿
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不(レ)及(レ)力、帰参してしか/゛\と奏聞す。主上ゆゝしく歎思召(おぼしめ)しければ、当時の関白(くわんばく)太政大臣(だいじやうだいじん)師実卿、御痛敷思ひ進て、暫く頼豪(らいがう)が怨を被(レ)宥程、戒壇を可(レ)被(レ)許歟と被(レ)申ければ、叡慮も思食(おぼしめし)煩せ給けるに、御夢想(ごむさう)あり。賢聖の障子のあなたに、赤衣の装束したる老翁あり。左の脇に弓を挟て、大なる鏑矢をさらり/\と爪よると聞召ければ、驚思召(おぼしめし)て誰人ぞと御尋(おんたづね)有けるに、我は是比叡山(ひえいさん)の西の麓に侍る老翁也。世には赤山とぞ申侍る。三井寺(みゐでら)に戒壇を可(レ)立由、執奏の臣あり。蒙(二)御免(一)て年来もてる鏑矢を放んと存て、矢を爪よる也と答と思召(おぼしめし)て、御夢覚させ給たりけれ共、猶爪よる声は聞えさせ給ければ、無(二)御免(一)けり。
S1003 赤山大明神(だいみやうじん)事
< 赤山大明神(だいみやうじん)と申は、慈覚大師渡唐時、清涼山の引声の念仏を伝給しに、此念仏を為(二)守護(一)とて、大師に成(二)芳契(一)給(たま)ひ、忽異朝の雲を出て、正に叡山(えいさん)の月に住給ふ。されば大師帰朝の時、悪風に逢て其舟あやふかりければ、本山の三宝を念給けるに、不動毘沙門は(有朋上P323)艫舳に現給へり。此明神は又赤衣に白羽の矢負つゝ、舟の上に現じ給つゝ、大師を被(二)守護(一)けり。山王は東の麓を守給へ、我は西の麓に侍らん、閑なる所を好む也とぞ被(レ)仰ける。赤山とは、震旦の山の名也、彼の山に住神なれば、赤山明神(みやうじん)と申にや、本地地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)なり、太山府君とぞ申す。>
頼豪(らいがう)は戒壇勅許なければ、終に持仏堂にして干死に失にけり。さしもはやと思召(おぼしめし)けるに、王子常にわづらはせ給ければ、頼豪(らいがう)が怨霊を宥んとて、近江国、野州、栗太、両郡に、六十町の田代を実相坊領に寄附せらる。智証の門徒(もんと)一乗寺(いちじようじ)、三室戸など云ふ貴僧に仰て、御祈(おんいのり)隙なかりけれ共、遂に承暦元年八月
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六日御歳四歳にて隠れさせ給にけり。敦文親王とは此皇子の御事也。皇子隠れ給ぬれば、主上の御歎不(レ)斜(なのめならず)。
S1004 良真祈(二)出王子(一)事
さて可(二)黙止(一)にあらざれば、西京座主大僧正(だいそうじやう)良真、其時は円融坊の大僧都(だいそうづ)にて、山門には無(二)止事(一)貴人にて御座(おはしまし)けるを被(レ)召、山門の叡信不(レ)浅、衆徒の憤兼て依(二)思召(おぼしめすに)(一)而、寺門の戒壇を免されぬ故、頼豪(らいがう)成(レ)怨、奉(レ)失(二)皇子(一)、早山門に継体の君を祈出し奉なんやと被(二)仰下(一)けり。僧都(そうづ)被(レ)申けるは、九条右丞相慈恵僧正(そうじやう)に依(レ)被(二)契申(一)こそ、冷泉院の御(有朋上P324)誕生(ごたんじやう)は有しか。代の末に臨と云とも、山門効験凌遅すべからず、なじかは御願(ごぐわん)成就(じやうじゆ)し御座ざるべきとて、本山に還上て、山王三聖王子眷属、満山三宝護法聖衆に被(二)祈申(一)しかば、中宮賢子、承暦二年の冬の比より、たゞならぬ御事也けるが、同三年七月九日、皇子御誕生(ごたんじやう)あり。応徳三年十一月二十六日(にじふろくにち)に御年八歳にて東宮(とうぐう)立の御事有て、同(おなじき)十二月十九日御即位、寛治三年正月五日御年十一歳にて御元服(ごげんぶく)、御在位二十二年と申、嘉承二年七月十九日に、御年二十九にて隠れさせ給ぬ、堀河院と申は是也。御母は京極の大殿の御女(おんむすめ)と申、誠には六条右大臣源顕房の御女(おんむすめ)とかや。山門の霊験も掲焉也し事也。
S1005 頼豪(らいがう)成(レ)鼠事
頼豪(らいがう)はからき骨を砕て、皇子をば祈出し進せたれども、戒壇は御免なし、大悪心を起して、旱死しけるぞ無慙なる。去(さる)程(ほど)に山門又皇子を奉(二)祈出(一)、御位に即せ給たりければ、頼豪(らいがう)が死霊もいとゞ成(二)怨霊(一)、山門と云ふ処があればこそ、我(わが)寺(てら)に戒壇をば免されね、されば山門の仏法(ぶつぽふ)を亡さんと思て、大鼠と成、谷々坊々充満て、聖教をぞかぶり食ける。是は頼豪(らいがう)が怨霊也とて、上下是彼にて打殺踏殺けれ共、弥鼠
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多出来て、夥なんどは云計なし。此(有朋上P325)事只事に非ず、可(レ)宥(二)怨霊(一)とて、鼠の宝倉を造て神と奉(レ)祝、さてこそ鼠も鎮けれ。円宗の教を学して、可(二)成仏(じやうぶつ)(一)頼豪(らいがう)が、由なき戒壇だてゆゑに、鼠となるこそをかしけれ。
S1006 守屋成(二)啄木鳥(一)事
< 昔聖徳太子(しやうとくたいし)の御時、守屋は仏法(ぶつぽふ)を背、太子は興(レ)之給。互に軍を起しかども、守屋遂被(レ)討けり。太子仏法(ぶつぽふ)最初の天王寺を建立(こんりふ)し給たりけるに、守屋が怨霊彼伽藍(がらん)を滅さんが為に、数千万羽の啄木鳥と成て、堂舎をつゝき亡さんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給けり。されば今の世までも、天王寺には啄木鳥の来る事なしといへり。昔も今も怨霊はおそろしき事也。頼豪(らいがう)鼠とならば、猫と成て降伏する人もなかりけるやらん、神と祝も覚束(おぼつか)なし。>
S1007 三井寺(みゐでら)戒壇不(レ)許事
抑伝教智証は、師弟の契、延暦(えんりやく)園城(をんじやう)は一味の仏法(ぶつぽふ)也。両寺(りやうじ)戒壇何の妨か有るべきなれ共、冥慮より起に依て、三井の訴訟雖(レ)及(二)度々(一)、代々聖主更に無(二)勅許(一)。御朱雀院御宇(ぎよう)、長暦三年(有朋上P326)に、園城寺(をんじやうじ)の衆徒等(しゆとら)、頻(しきり)に訴申ければ、主上もかた/゛\思召(おぼしめし)煩せ給(たま)ひて、御宸筆(ごしんぴつ)の祭文を遊して、当時の貫首教円座主に登山を進め、七箇日有(二)御祈誓(一)云、敬白、叡山(えいさん)三宝根本中堂(こんぼんちゆうだう)護法山王四所八王子(はちわうじ)、昔延暦(えんりやく)聖代、始祖大師、建(二)立我山(一)以来、年記遥矣、霊験炳然、智証門徒(もんと)累(二)月白(一)、別建(二)戒壇於三井之道場(一)、請(二)得度於一門之師跡(一)、便是郡国之重事、法宇之要害也、窃見(二)旧典(一)、前聖猶難(レ)遂(レ)思、新義末代豈易乎、仍以座主大僧都(だいそうづ)法眼和尚(くわしやう)位教円、自(二)今日(一)七箇日、令(レ)啓(二)白満山三宝護法山王(一)、戒壇分而可(レ)無(二)国家之危(一)者、悟(二)其指帰(一)、戒壇立而可(レ)有(二)王者之懼(一)者、施(二)其示現(一)、詫(二)自身(一)詫(二)他人(一)、不(レ)過(二)一七祈祷之日限(一)、必彰(二)
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遠近掲焉之証験(一)、敬白、〈 取(レ)要 〉書(レ)之。
長暦三年八月日 皇帝 諱卜
教円座主祈誓七箇日の間、太上天皇(てんわう)御霊夢三箇度(さんがど)御覧有りけるに依て、御免なかりけり。
後冷泉院御宇(ぎよう)、天喜元年冬、又三井の衆徒、戒壇建立(こんりふ)を可(レ)被(レ)免由、雖(レ)捧(二)奏状(一)、御免なし。
白川院【*白河院】(しらかはのゐんの)御宇(ぎよう)、承保元年に、皇子御誕生(ごたんじやう)の勧賞、頼豪(らいがう)加様に奏申けれ共、赤山の御詫宣に恐て無(二)御免(一)。冥の照覧実に子細あるらんと覚たり。
同(おなじき)十五日、法皇中宮の御産所、六波羅の池殿へ御幸なる。十二月二日は、宗盛卿(むねもりのきやう)、大納言(だいなごん)并(ならびに)大将辞状を返し給はる。去十月両官(有朋上P327)を辞申されたりしか共、君も御憚有て臣下にも授給はず、臣も成(レ)恐望申事なし。三条大納言(だいなごん)実房、花山院中納言兼雅などは、哀とは思食(おぼしめし)けれ共、色にも詞にも出し給はず、宗盛両官に成返給たりければ、人々さればこそとぞ思はれける。
十二月八日、皇子親王の宣旨を被(レ)下、十五日皇太子に立せ給ふ。
S1008 丹波(たんばの)少将(せうしやう)上洛事
治承三年正月十日比(とをかごろ)に、丹波(たんばの)少将(せうしやう)は、鹿瀬庄を出て上洛、都に待つらん人も心元なかるらんとて、急給けれども、余寒猶烈くて海上も痛荒ければ、浦伝、島伝して日数を経つゝ、二月十日比に、備前児島と云処に漕著給ふ。其辺の者に、故大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの)の御座(おはしまし)けん所は何所ぞと尋給へば、始は是に御渡候しが、是は猶悪とて、当国の中ひだの、如意尻と申所に、難波太郎俊定と申者が、古屋に移らせ給(たまひ)て侍し
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を、早昔語に成せ給にきと申す。少将は始御座(おはしまし)ける父の御跡と聞て、児島の宿所を見給へば、柴の庵の奇に、草の編戸を引立たり。浅猿気なる山辺なれば、細谷川の水、岩間をくゞる音幽に、尾上を吹嵐の梢を伝ふも身にしみて、いかばかり悲く御座(おはしまし)けんと、袖もしぼりあへ給はず、其より又如意尻へ尋入(有朋上P328)て見給へば、是又うたてげなる賤が屋なり。係処にしばしも御座(おはしまし)けんよと、後までも労しくぞ思はれける。内に入て見巡給ければ、古障子に手習し給へる跡あり。父の書給へるよと涙浮て目も見え給はざりければ、少将袖を顔にあてて立除、やゝ判官入道殿(にふだうどの)、何と書給へるぞ、其御覧ぜよと宣(のたまひ)ければ、入道指寄て見れば、前海水■々(じようじようとして)月浮(二)真如之光(一)、後巌松禁々風奏(二)常楽之響(一)、聖衆来迎之義有(レ)便、九品往生之望可(レ)足と、又荊鞭(けいべん)蒲朽蛍空去、諫鼓苔深鳥不(レ)驚 K063 とも書れたり。又常に居給たりける、後の障子と思しきに、六月二十七日に、源左衛門尉(げんざゑもんのじよう)信俊下向共書れたり。其昔都にて殊に不便に思召(おぼしめし)て、御身近く召仕はるゝ者が下向したりけるを、余に嬉く思召(おぼしめし)て其(その)日(ひ)並を書き付られたりけるにこそ、故(こ)入道の御手跡と奉(レ)見、寄て御覧ぜよと、判官入道勧め申ければ、少将寄て涙の隙より是を見に、実に父の在生の筆の跡也ければ、其子としてこれを見給けん、御心の中、さこそ悲く思けめ、水茎の跡は千世も有なんとは是やらんと思給(たま)ひけるにもいとゞ涙のこぼれける。御墓は何所やらんと問給へば、有木別所と云山寺也と申。是やこの備中と備前との境なる、吉備の中山打過ぎて、細谷川を分登給へば、秋の空にはあらねども、草葉に袖もぬれしをれ、落る涙に諍けり。彼別所にて何所の程ぞと尋れば、あれ
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に侍一村松の程(有朋上P329)と申ければ、少将は萌出若草を分入て見給へども、其験もなければ、卒都婆一本も見えず、実に誰かは立べきなれば、只一村の松本に、八重の葎引塞、苔深く繁て、土の少高かりける所をぞ其験とも思はれける。少将は其前に居給(たまひ)て、目にあまる涙をのみぞ流給ふ。康頼入道も、諸共に、墨染の袖を絞けり。少将良有て宣(のたまひ)けるは、備中国へ可(レ)被(レ)流と聞えしかば、可(レ)奉(二)相見(一)とは思はざりしか共、御渡の国近しと承、よにも嬉しく侍りしに引替、鬼界島へ流されて後、幾程もなくて空く成せ給(たま)ひぬと、夙承りしかば、世にも悲く覚て、生てかひなきとまで思つゞけ侍き。彼島の有様(ありさま)一日片時堪て有べしとも覚ざりき。されども遠き守とやならせ給たりけん、露の命三年の秋を送迎て、都に還上、二度妻子を見ん事うれしく存ずれども、ながらへて御質を見進らせたらばこそ、不(レ)消命の験にても候はめ。是までは急がれつる道の、今より後は行空も覚え難しと、生たる人に物を云様に、墓の前にて通夜細々と口説宣(のたまひ)けれ共、春風にそよぐ松の響、岩間に落る水音ばかりにて、答る声もせざりけり。年去年来ども難(レ)忘ものは撫育の昔の恩、如(レ)夢如(レ)幻、易(レ)漏者恋慕の今の涙也。悲かな形を苔の底に埋て再其貌を見ず、怨哉名を松の下に残ども、終に其音を聞ざる事を。成経が参たると聞召さんには、何なる処に御座とも、な(有朋上P330)どかは一言の御返事(おんへんじ)なかるべき。冥途の境異に、生死の道の隔る習こそ心うけれとて、泣々(なくなく)旧苔を打払つゝ墓を築、釘貫し廻て、道すがら造られたりけり。卒都婆墓の中に立給。又参らん事も有難とて、墓の前に蓬葺の道場しつらひて、僧を請じて少将と判官入道と相共に、七日七夜(なぬかななよ)の不断念仏
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申、卒都婆経一部書き、過去聖霊成等正覚とぞ祈給ふ。草葉の陰にても亡魂いかに嬉と思すらん哀也。名残(なごり)はさこそ惜かりけれども、さても有べきならねば、泣々(なくなく)其を出けるに、判官入道哀に思入て、成親を有木の別所に送りたりけるにそへて、釘貫の柱に、
朽果ぬ其名計は有木にて身は墓なくも成親の卿 K064
角て備前国をも漕出給ければ、都近くなるに付ても、様々哀ぞ多かりける。
治承三年二月二十二日、宗盛卿(むねもりのきやう)、大納言(だいなごん)并(ならびに)大将を上表あり、今年三十三(さんじふさん)に成給ければ、重厄の慎とぞ聞えし。
同三月十六日(じふろくにち)の暮は、丹波(たんばの)少将(せうしやう)鳥羽の州浜殿に著給へり。軈も六波羅の宿所へ落つかばやと被(レ)思けれ共、此三年の間疲たる身の有様(ありさま)を、人々に見えん事も、さすが愧くや覚しけん、迎に下たりける者に、是までこそたどり著て侍れ。ふくる程(ほど)に牛車給り候へと宰相の許へ被(レ)申けり。宰相は又少将も今は上給らんに、今まで遅は何と御座(おはしま)す(有朋上P331)るやらん、無(二)心元(一)とて、中間雑色数多(あまた)、江口、神崎(かんざき)、室、兵庫(ひやうご)辺まで下遣たりけれども、遊君遊女に戯つゝ疎略にや侍たりけん、違て少将は登給へり。使六波羅の宿所に来て角と云ければ、奉(レ)始(二)宰相(一)、貴きも賤きも悦相り。北方も乳母(めのと)の六条も、御文見給(たまひ)て、穴珍穴珍、昼はいかなるぞや、必しも更て入せ給べきかや、人は御心のつよきぞやとて泣給けり。少将の父故大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの)は、京中にも限ず、所々に山庄多持給へり。其中に鳥羽の田中殿の山庄をば、殊に
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執思給(たまひ)て、私に州浜殿とぞ申ける。少将は日をも暮さんため、父の遺跡もなつかしくて見巡給ければ、屋敷は昔に替らねども、蔀格子もなかりけり。築地崩て覆朽、門傾て、扉倒、庭には千種生茂、人跡絶て道塞、蘿門乱て地に交り、唐垣破て絡石はへり。檐には垣衣苅萱生かはし、月漏とて葺ねども、板間まばらに成にけり。少将〔の〕あの屋この屋に伝つゝ、大納言(だいなごん)はこゝにこそ御座(おはしまし)しか、彼にこそ立給しかなど、思つゞけ給(たまひ)ても、哀のみこそ増けれ。何事に付ても皆昔に替たれども、比は三月の中の六日の事なれば、秋山の梢の花、所々に散残、楊梅桃李の匂も、折知顔に色衰、百囀の鶯も、時しあれば声已に老たり。少将悲のあまりに、木の本に立より、古き詞を詠じ給(たま)ひけり。(有朋上P332)
桃李不(レ)言春幾暮、煙霞無(レ)跡昔誰栖、 K065
と又思ひつゞけ給ふ。
人はいさ心もしらず故郷は花ぞむかしの香ににほひける K066
いつしか田舎には引替て、入相の野寺の鐘の音、今日も暮ぬと打響く。彼遺愛寺の辺の草庵に似たりけり。王昭君が胡国の夷に囚れて後、其跡角や有けんと、思ひやられて哀也。姑射山仙洞の池の汀(みぎは)を望ば、春風波に諍て、紫鴛白鴎逍遥せり。興ぜし人の恋さに、いとゞ涙ぞこぼれける。南楼の木本には、嵐のみ音信(おとづれ)て、夢を覚す友となり、木間を漏る月影の、涙の袖に宿れるも、名残(なごり)を慕かと覚ゆるに、夜差更て宰相の本より迎に人来たり。少将と判官入道と同車(どうしや)して遣出す。造路四塚東寺の門をも打過けり。
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うれしさの心中、只推量べし。二人は道すがら、硫黄島の心うかりし事共語り連ても、俊寛僧都(そうづ)をぞ悲みける。只一人島の巣守と成果てて、思に堪ずはかなくや成ぬらん、又猶も生て有ならば、いかばかり〔か〕歎き悲むらん、糸惜や三人有しにだにも、僧都(そうづ)は殊に思入たりしに、増て友なき身と成ては、さこそ有らめと、互に袖を絞けり。さても三人同罪とて被(レ)流、一人は留二人帰上事、是偏(ひとへ)に熊野権現の御利生にこそと、貴にも又涙也。判官入道は三年の(有朋上P333)名残(なごり)を惜つゝ云けるは、昔召仕し者、東山双林寺の辺にありき、相尋べし。今は係る身に成ぬる上は、世を諂に及ばず、他事を忘て後世の営をはげむべきに侍り。若真如堂雲居寺詣など思召(おぼしめし)立事あらば、御尋(おんたづね)も有べし。又性照も道広成なば、六波羅の貴殿へも参ずべし。三年の依(二)御恩(一)、消やすき命のながらへて、再都に帰上ぬる事、生々世々(しやうじやうせせ)に難(レ)忘こそ奉(レ)思とて、或は悦或は契て、墨染の袖を顔にあてて、六波羅にて車より下り、暇申て分れにけり。少将は宿所に落著給たりければ、宰相を奉(レ)始、皆悦の涙に咽て、急度もの云人もなかりけり、理には過たり。少将は昔住馴給し方へ御座(おはしまし)て、見廻給(たまひ)て、内に入給へり。懸連たりし■廉(せいれん)も、さながら有、立並たりし屏風も障子も動らかず、只昔に替たる物とては、乳母(めのと)の六条が、三年のもの思に、黒かりし髪の皆白妙に成たると、少人のおとなしく生立給へると計也。北方も疲衰給へり。是も三年のもの思と覚たり。昔足柄明神の異国へ渡り給しに、さり難妻の御神を留置て、恋悲給んずらんと覚しけれ共、振捨て三年をへて後に還給たりけるに、殊に白くうつくしく肥ふとり給たりければ、明神の仰には、滝
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の水も冷恋せば疲もしぬべし。我を恋悲み給はざりけるにこそとて、終に別れ給にけり。是は疲衰給(たま)ひたりければ、誠に恋しと思給けりとて、いとゞ情ぞ増ける。少将被(レ)流(有朋上P334)給し時、四になり給ける若者は、髪生のびて結程なり。見忘給はざりけるにや、父の御膝近くなつかしげにて寄給へり。又北方の御傍に、三ばかりなる稚人の御座(おはしまし)けるを、あれはたそと問給ければ、北方是こそはと計にて、又物も宣はず泣給けるにこそ、流されし時、近産すべきにと心苦く見置しが、生にけるよとは心え給たりける。是を見彼を見に付ても、尽せぬ物は只涙也。少将は急御所に参て、君をも見進せばやと被(レ)思けれ共、そも召もなかりければ、憚進て不(レ)参。法皇も御覧ぜまほしく思食(おぼしめし)けれ共、人の口を御憚有て、急召事もなし。同(おなじき)十八日(じふはちにち)に入道より宰相の許へ使者あり。少将相具して来給へと也。又いかなる事の有べきにやとて、各歎思はれけり。さて黙止べきにあらねば、宰相と少将と同車(どうしや)して、西八条(にしはつでう)へ参られたり。入道中門の廊に出合給(たまひ)て、鬼界島の事あら/\問給へば、少将は細々とぞ答へける。戯呼哀なる所にこそ、実にさこそ思給(たま)ひけめ、早々出仕し給(たまひ)て、田舎忘あるべしと宣(のたまひ)ければ、さてこそ御所に参て君をも見進せけれ。其後本位に復し、夕郎の貫首を経て、父の跡を遂、大納言(だいなごん)にも至りけれ。
S1009 康頼入道著(二)双林寺(一)事(有朋上P335)
判官入道は、東山双林寺に、昔の山庄の有けるに、落著て見けれ共、留主(るす)に置たりし下人もなし、庭には千草生かはし、軒にはしのぶも茂たり。荒たる宿の習にて、事問人もなく、板間の苔むして、月の光も漏ざりければ、いとゞ心のすみつゝ思ひつゞけけり。
P0245
故郷の軒の板間に苔むして思ひしよりももらぬ月哉 K067
と。我世に有し時は、宿所もあまた有き。山庄も所々に有しか共、鬼界へ越し後は、其行末を不(レ)知、僅(わづか)に残る栖とては、此屋ばかりと哀也。さても入道は紫野に有ける、七十有余(いうよ)の母の許へ、急ぎ角と申たかりけれ共、身にそへる下人もなし、昨日は夜ふけて都へ入りぬ。程は遠、明を遅しと待けるが、同(おなじき)十七日(じふしちにち)に、人を語ひて、母がもとへぞ遣ける。下侍し時角と申度侍しかども、老衰て後歎おぼさんを、まのあたり見聞奉らんも、中々痛しく思給しかば、心づよく告申事もなくて罷下侍しに、かひなき命の不(レ)消して、再都に帰上、見見え奉ん事こそ嬉く侍れ、急参らん程先人を進する也とぞ云遣たりける。入道の又母は、七十に余て、悲き子を流れて、係る憂目を見事よと歎けるが、可(レ)被(二)召返(一)と聞ければ、流されし時は、由なき命の長生哉と思しに、今は我子を再見ん事の嬉さよ、去年の冬島をば出たりと聞に、何に見えぬやらん、海路遥(はるか)に日を経たり、風の烈き折節(をりふし)なれば、(有朋上P336)波の底にも沈たるやらんとぞ歎けるが、其思や積けん、はかなく聞えて、今日は五日に成にけり。使帰て角と申ければ、入道は墨染の袖を顔にあてて、
薩摩方沖の小島に我ありと親には告げよ八重の塩風 K068
とは、誰がために云ける言葉ぞとて、絶入絶入咽けり。其後は双林寺の庵室に閉籠、なからん跡の形見とて、涙の隙々に宝物集を造て、世にこそ披露したりけれ。
P0246
S1010 有王渡(二)硫黄島(一)事
法勝寺(ほつしようじ)執行俊寛は、此人々に捨られつゝ、島の栖守と成はてて、事問人もなかりけるに、僧都(そうづ)の当初世に有し時、幼少より召仕ける童の、三人粟田口辺に有けるが、兄は法師に成て、法勝寺(ほつしようじ)の一の預也。二郎は亀王、三郎は有王とて、二人は大童子也。彼亀王は僧都(そうづ)の被(レ)流て、淀に御座処へ尋行て、最後の御供是こそ限なれば、何所までも参侍るべしと、泣々(なくなく)申けるを、僧都(そうづ)は誠に主従の好み、昔も今も不(レ)浅と云ながら、多の者共有つれ共、世中に恐て問来者もなし、其恨にあらず、あまたの中に尋来て、角申こそ返々も志の程うれしけれ。但我に限らず、少将も判官も人一人も不(レ)随とこそ聞け、御免あらば幾人(有朋上P337)も具したうこそあれ、され共其義なければ不(レ)及(レ)力、誠や薩摩国硫黄島とかやへ可(レ)被(レ)流ときけば、命ながらふべしとも覚ず、路の程(ほど)にてはかなくもやならんずらん、我身の事は今はさて置、都の残留女房少者共の心苦きに、彼人々に付て朝夕の事をも見継べし、我に随はんに露劣るまじ、とく帰上れなど泣々(なくなく)宣通はす処に、宣旨御使又六波羅の使、何事申童ぞと怪み尋ける恐しさに、亀王名残(なごり)は惜けれども、泣々(なくなく)都へ帰上けり。其弟に有王と云けるは、僧都(そうづ)に別て後、仕はんと云人在けれ共、宮仕もせず、大原(おほはら)、閑原、嵯峨(さが)、法輪貴所々に迷行て、峯の花をつみ、谷の水を結て、山々寺々手向奉、我主に今一度合せ給へと、夜昼心をいたして祈けるこそ不便なれ。角て三年を経て、少将と判官入道と、都へ還上ぬと披露有ければ、有王我主の事何に成給ぬるやらんと覚束(おぼつか)なく思て、此人々の迎に行たりける人に合て尋聞ば、上りしまでは御座(おはしまし)き。二人に捨られて、歎悲み給し事、二人舟に乗給しに、舷
P0247
に取付て、遥(はるか)に出給たりし事、陸に帰上て、浜の沙に倒ふし給事、委く語答ければ、有王涙を流て、さては未此世に御座るにこそ、誰育誰憐奉らんと悲くて、有王は只一人都をあくがれ出、未(レ)知薩摩方、硫黄島へ、遥々(はるばる)とこそ思立て、先奈良に行、僧都(そうづ)の姫の御座(おはしまし)けるに、角と申て御文を賜りけり。姫宣(のたまひ)けるは、我身果報な(有朋上P338)き者と生て、父には生て別れぬ、母と妹には死して後れぬ、多の人の中に角思立ける志の嬉さよ、余りに父の恋く思侍れば、男子の身ならば走連ても、行まほしく侍れ共、女とて叶はぬ事の悲さよ、御文慥に進せて、相構て疾して御上あれと申べしとて、やがて倒れ臥、声も不(レ)惜泣ければ、童も倶に袖を絞る。唐船の纜は、四月五日に解習にて、有王は夏衣たつを遅しと待兼て、卯月の末に便船を得、海人が浮木に倒つゝ、波の上に浮時は、波風心に任せねば、心細事多かりけり。歩を陸地にはこびて、山川を凌ぐ折は、身疲足泥、絶入事も度々也。去共主を志にて行程(ほど)に、日数も漸積ければ、鬼界島にも渡にけり。此島の挙動、都にて伝聞しよりも、まのあたり見は堪て有べき様なし。峯には燃上ほむら行客の魂を消、谷には鳴下る雷、旅人の夢を破る。山路に日暮ぬれども、樵歌牧笛の音もなく、海上に夜を明せば、松風白浪心をいたましむ。童何事に付ても、慰思なければ、いかにすべし共不(レ)覚けれ共、主の行末の悲さに、谷に下て尋れば、岩もる水に袖しをれ、峯に上て求ば、松吹く嵐ぞ身にしみける。兎にも角にも叶はねば、只涙を流して立たりけり。去(さる)程(ほど)に島の住人と覚しくて、木の皮をはねかづらとして額に巻、赤裸にてむつきをかき、身には毛太く長く生て、長は六七尺(しちしやく)計なる
P0248
者ぞ遇たりける。有王嬉て云(有朋上P339)けるは、此島に法勝寺(ほつしようじ)の執行僧都(そうづ)の御房御座(おはしま)し候なるは、何所にて候やらんと問ければ、打見たる計にて物も云はざりけり。法勝寺(ほつしようじ)共執行共、争か可(レ)知なれば、不(レ)答も理也。自言事も有けれ共、つや/\不(二)聞知(一)ければ、いとゞ力なく覚けり。責ては死給たりとも、其骸骨は御座らん、彼をなりとも尋得て、形見ともするならば、いか計限なく、志のかひも有べきに、御行へをだにも知ずして、空く都へ帰上らん事の悲さよと思て、猶深く山辺に尋入たれども、我主に似たる人もなし。立帰遥々(はるばる)浦路に迷出たれば、磯の方より働来者あり。只一所に動立様也。其形を見に、童かとすれば年老て、其貌に非、法師かと思へば又髪は空様に生あがりて、白髪多し、銀の針を立たるが如し。万の塵や藻くづの付たれ共不(二)打払(一)、頸細して腹大脹、色黒して足手細し、人にして人に似ず、左右の手には、小き生魚を二三づつ把り、腰のまはりには荒和布の取纏付けて、さけびきて、凡力もなげ也。童思けるは、哀我主の角成給たるにもや在らん、いかにといへば、若干の法勝寺(ほつしようじ)領を知行し給ながら、修理造営をばし給はず、恣に三宝の信施を受、あくまで伽藍(がらん)の寺用を貪給し罪の報に、生ながら餓鬼道に落給たるやらん、餓鬼城の果報こそ、頸は細く腹は大に、色黒して首蓬の如く有とは聞など、様々に思に、いとゞ悲て、近付き能々みれば、手も足(有朋上P340)もさすが人には違ず、都にも老衰たる者あり、片輪なる人もあり、去ば此島にも係者も有にこそと思て問ければ、やゝ一年此島へ三人流され給たりし人の二人は免て上給ぬ、今僧の一人御座なる、いづくにぞと云ければ、僧都(そうづ)は貌こそ衰たりけれども、
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目と心とは昔に替ず、童をば慥我召仕し、有王とぞ被(レ)思ける。童は主の余に衰損じたれば、僧都(そうづ)とは知ざりけれ共、さすが又何とやらん覚てつく/゛\と守立たり。僧都(そうづ)は顔の色をとかく変じて様々にぞ思ける。我こそ俊寛よと名乗んとすれば、果報こそ拙て、かゝる身とならんからに、心さへ替けるよと思はん事も愧し、恥を見んよりは死をせよとこそ云に、さこそあらんからに、僧形として生魚を手に把たる心うさよ、只知ざる様にて過さばやと、千度百度案じけるが、又思けるは、此島にては、疎く不(レ)知者也とも、都がかりの人に遇たらんはうれしく珍らしかるべし、況年比の主を悲て遥々(はるばる)と尋来たらん者を、其志を失、空く返し上せん事、最不便也、我も又問聞たき事も多しと、思返して、手に把たる魚をば後へ廻し、去げなき様に抛て、あれは有王か、何にして是までは尋来れるぞや、我こそ俊寛よ、穴珍や/\、己一人を見たれば、捨別し妻子も住なれし古郷も、皆見つる心地のするぞや、いかに/\とて、手すり足すり喚叫けり。其時こそ有王も、慥の主とは思(有朋上P341)けれ。係様も有けるにや、昔軽大臣の遣唐使に渡されて、形を他州にやつされ、燈台鬼となされつゝ、帰事を不(レ)得けり。子息弼宰相、其向後の覚束(おぼつか)なさに、大唐国に渡て尋れ共/\、目の前に有ながら、明す者こそなかりけれ。父は子を見知つゝ、角と云まほしけれ共、物いはぬ薬をのませ、唖になされたりければ、そも叶はず、額に燈械を打れつゝ、宰相に向て、只泣より外の事なし。宰相はやつれたる父なれば、面を並て不(レ)知けり。燈台鬼涙を流つゝ、指端を食切て、其血を以て宰相が前に角ぞ書連ける。
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我是日本花京客、汝則同姓一宅人、為(レ)父為(レ)子前世契、隔(レ)山隔(レ)海恋情苦、経(レ)年流涙宿蓬蒿、逐(レ)日馳(レ)思親蘭菊、形破(二)他州(一)成(二)燭鬼(一)、争帰(二)旧里(一)寄(二)斯身(一) K069、
と書きあらはしたりけるにこそ、宰相は我父の軽大臣共知けれ。執行も三年の思に衰痩、あらぬ形に成たれば、知ざりけるも理也。我こそ俊寛よと名乗けるより、有王は流す涙せきあへず、僧都(そうづ)の前に倒伏、良久物も云ず、さても老たる母をみすて、親者にも知れずして、都を出て、遥(はるか)の海路を漕下、危浪間を分凌ぎ参しには、縦疲損じ給たり共、斜(なのめ)なる御事にこそと存ぜしに、三年を過し程はさすが幾ならぬ日数にこそ侍るに、見忘るゝ程(ほど)に窄させ給ける口惜さよ、日比(ひごろ)都にて思やり進けるは、事の数にても侍らざりけり、ま(有朋上P342)のあたり見進する御有様(おんありさま)、うつゝ共覚候はず、されば何なる罪の報にて、角渡らせ給覧とて、僧都(そうづ)の顔をつく/゛\と守つゝ、雨々とぞ泣臥たる。童良在て起あがりければ、僧都(そうづ)も又起なほりて、泣々(なくなく)宣(のたまひ)けるは、此島は遥なる海中、遠き雲の徐なれば、おぼろげにても人の通事なし。己が兄の亀王が、淀まで訪下たりしをこそ、有難く嬉き事と思ひしに、有王が是まで思立見来事、実に現とも覚ねば、もし夢にてや有らん、やをれ有王、さらば中々如何に悲しからん、そも恋しき者を見つれば、嬉などは云も疎也、さても少将と判官入道との有し程は、憂事悲事云連ては泣つ、思出有し昔物語(ものがたり)をしては笑つ、互に慰しに、被(二)打捨(一)し後は、一日片時堪て有べし共覚ざりしに、甲斐なき命のながらへて、互に相見つる事の嬉さよ、加程の有様(ありさま)なれば、何事を思べきにあらね共、都の残留し者共の、
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忘るゝ間なく恋く聞まほしけれども、心に任せぬ旅なれば其も叶ず、是ほどの志の有けるに、などや此三年までは問ざりけるぞ、少将の迎の時は、何に文一は伝ざりけるぞと宣。童申けるは、事も愚におぼしめしけるか、君西八条殿(にしはつでうどの)へ被(二)召籠(一)させ給し後は、御あたりの人をば、上下を云ず搦捕て、獄舎に入られ家財を壊取しかば、成(レ)恐近習の人々も、思々に落失ぬ。北方も鞍馬の奥、大悲山に忍ばせ給しが、明ても暮ても御歎浅から(有朋上P343)ず、見えさせ給し程(ほど)に、其積にや日比(ひごろ)悩せ給しが、去年の冬遂に隠れ御座ぬと申も果ぬに、僧都(そうづ)は穴哀や、さては女房は早はかなく成給けるにこそ、慰む便もなく知れる人もなき、我だにも、係る島の有様(ありさま)に、三年の今までも在るぞかし。さすが人は少き者共もあまた有き、我を見とも、思成てこそ有べきに、若や姫をば誰孚めとて隠れ給(たま)ひけるぞや、其に就ても、難面かりける我命かなとて、又臥倒給けるに、有王泣々(なくなく)重て申けるは、若君は父の渡らせ給なる所は何所やらん、尋参れと仰候しかども、故北方の、穴賢そなたの方と知すな、少き心に走出て、行へも知ず失る事もこそと承しかば、知せ進する人も候はざりし程(ほど)に、人の煩ひ合て侍し、疱瘡と申御労に、去五月に又失させ給にきと云ければ、僧都(そうづ)又臥倒て、やをれ有王、今は係る憂事をば、な語りそとよ、三人が中に法師一人捨置れぬれば、都に還上り、再妻子を相見る事はよもあらじなれども、さても有らんと思やれば、慰事も有にや、いつを限に惜べき身ならねども、此を聞彼を聞に、絶入ぬべき心地なり、よし/\今はな語そと云けるこそ、責ての事と哀れなれ。(有朋上P344)