『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十一

P0252 (有朋上P345)
留巻 第十一
S1101 有王俊寛問答事
有王申けるは、姫御前は、奈良の姨御前の御許に御渡と承て、参て、此島へ思立候、御言伝やと申入て候しかば、端近出させ給(たま)ひ、不(レ)斜(なのめならず)御悦有て、哀女の身程無(二)甲斐(一)事はあらじ、我身も父の恋しさは、己にや劣るべき、可(レ)類方なし、可(二)思立(一)道ならねば力なし、さても多人の中に一人思立らん嬉さよ、平らかに参著たらば進せよとて御文あり。御詞には、替ぬる世の恨に筆の立所も覚侍らず、泣々(なくなく)申候へば、文字もさだかならず、御覧じ悪こそ渡らせ給はんずらめ、御返事(おんへんじ)をも待見進せば、いか計かはと申せとこそ仰候しか。昔ならば角直に承べしやと、哀に思進て、落涙を押つゝ、奈良を出て罷下し程(ほど)に、門司赤間の関より始て、硫黄島へ渡ると申者をば怪、文などや持たると求捜と承しかば、御文をば本結の中に結び籠て、難(レ)有して持て参たりとて、取出して奉(レ)之。僧都(そうづ)は悲さの中にも、嬉く珍く思て、涙を押拭押拭披見給へば、其後便なき孤子と成果て、御向後を(有朋上P346)も承便もなし、身の有様(ありさま)をも知られ進せず、いぶせさのみ積れども、世中かきくらして晴心地なく侍り。さても三人同咎とて、一つ島に移されけるに、二人は被(レ)免に、などや御身一人残留給らんと、人しれぬ歎唯思召(おぼしめし)やらせ給へ。人々島へ被(レ)流給(たまひ)て後、其ゆかりの者をば尋求て、手足を損じて責問べしなど聞え侍しかば、召仕し者共
P0253
も、遠国々へ落失て、旧里に一人も留らざれば、都には草のゆかりも枯はてて、立紛べき方もなく、哀糸惜と事問人もなし。君達も可(レ)被(二)召捕(一)など聞えしかば、母御前弟我身三人引具して、幽なる便に付て、鞍馬の奥とかやへ迷入、日影も見えぬ山里に、住も習はぬ柴の庵に、忍居て候し程に、朝夕は御事をのみ歎給しに、打副稚身々の向後いかにせんと、隙なき御物思の積にや、病と成せ給たりしかば、弟と二人、とかく労り慰進せしか共、不(レ)叶して空見成進せぬ。生ての別死の別れ為方なければ、二人歎暮し泣明し侍し程に、又弟も疱瘡とかや申労をして、今年の五月に身罷侍り。同道にと歎しか共、はかなき露の命と云ながら、消もやらで、強面今までは草の庵に残留て侍れば、憂事も悲事も可(二)思召(おぼしめし)知(一)、拙果報の程こそ、宿世の身のつとめ辱く思侍れ。故母御前御労の時、我死なば誰をか便と憑御座(おはします)べき、奈良の里に姨母と云人御座(おはしま)す、尋行き打歎かば、去共憐給はんずらん(有朋上P347)と仰候しを承置て、当時は奈良の姨母御前の御許に侍り。疎なるべき事にはあらねど〔も〕、幽なる住居推量給へ。さても此三年迄、いかに御心強く有とも無とも承ざるらん。母御前にも弟にも後れて憑方なし、誰に預何にせよと思召(おぼしめす)にか、疾して御上候へ。恋し共恋し床し共床し。三年の思歎水茎に難(レ)尽侍れば留候ぬ。穴賢穴賢と裏書端書滋く薄く、みだし書にぞしたりける。僧都(そうづ)は此文を見て、巻つ披つ泣悲て云けるは、俊寛が此の島へ流されし年は、姫は十に成しかば、今年は十二と覚ゆ。文は詞もおとなしく、筆の立所も尋常也。去共切継たるやうに、とくして上れ自ら申さんと書たるこそ流石(さすが)稚けれ。心に任たる道ならば、なじかは暫もやすらふべき、
P0254
墓なき物の書様やとて、声も惜まずをめき給ふ。やをれ有王、此島の形勢(ありさま)にて、今まで俊寛が命の有けるは、姫が文をも待見、又汝が志の切也けるに、今一度見せんとて、神明の御助にて有けるにこそ、己一人を見たれば、都の人々を皆見たる心地こそすれ、係る貌なれ共、見えぬれば三年の思ひも晴ぬ、今は疾々帰上、僧都(そうづ)には人も不(レ)付しに、京より下て訪など聞えん事も恐ありと宣へば、有王申けるは、穴うたての御心や、是程の御有様(おんありさま)にて世も恐しく命も惜思召(おぼしめし)候か、御身のゆるき、御詞のいづれは人とや思召(おぼしめし)、唯なましき骸骨の動かせ給(たま)ひ候とこそ見進候へ(有朋上P348)と申ければ、僧都(そうづ)我身は云に及ず、志深き己さへ、我故に此島にて、朽ん事の悲にこそと宣へば、有王涙を流し、老たる母をも捨て、兄弟にも角とも不(レ)申、はる/゛\と参侍し事は、命を君に奉り、身を海底に沈めんと思定て候き。一度都にて捨て侍命を、二度此島にて可(レ)惜かと申ければ、僧都(そうづ)打うなづきて、嬉しげにて、いざさらば我夜の臥所へとて具して行く。住給ふ所を見れば、巌二が迫に、竹そ木の枝を取渡し、寄来藻くづを取係たり。雨露のたまるべき様もなし。僧都(そうづ)一人入給ぬれば、腰より下は外にありて、内には又所もなし。有王はあらはにぞ居たりける。穴心憂の御住居(おんすまひ)や、今は申て甲斐なき事なれども、京極の御宿所、白川の御坊中、鹿谷御山庄まで、塵もつけじとこそ瑩立させ給しに、何と習はせる人の身なれば、懸る住居にも御座(おはしまし)ける事よ、京童部(きやうわらんべ)が築地の腹などに造りたる、犬の家には猶劣れる物ぞやとて口説泣。京より菓子少々用意して持たりけるを、取出て奉(レ)勧。僧都(そうづ)被(レ)思けるは、此等を食たり共、ながらふべきに命に非ず、
P0255
中々由なけれ共、都より我為にとて、遥々(はるばる)持下たる志を失て、打捨ん事も無念也と覚して、食やうにして宣(のたまひ)けるは、此等は指も味もよかりし上、世に珍けれども、余に疲衰たる故にや、喉乾口損じて、気味も皆忘にけりとて、指置給けるぞ糸惜き。有王申しけるは、(有朋上P349)是程の御有様(おんありさま)にては、日比(ひごろ)は何として、今迄もながらへさせ給けるぞと問ければ、僧都(そうづ)は其事也、三人被(レ)流たりしに、丹波(たんばの)少将(せうしやう)の相節とて、舅門脇(かどわきの)宰相(さいしやう)の許より、一年に二度舟を渡しし也。春は秋冬の料を渡し、秋は春夏の料にとて渡しを、少将心様よき人にて、同島に流され、同所に有ながら、我一人生て、まのあたり各を無人と見ん事も口惜かるべし。三人あればこそ互に便ともなり、又なぐさめとて、一人が食物を三人に省、一人の衣裳の新きをば我身に著、古をば二人に著せつゝ、兎角育し程は、人の体にて有しか共、去年此人々還り上て其後は事問者もなく、情を懸る人もなければ、遉が甲斐なき命の惜ければ、此人々の都にて申くつろげんなんど云しを憑みて、力の有し程は島の者のするを見習て、此山の峯に登て、硫黄を取て、商人の舟の著たるにとらせて、如(レ)形代を得て日を送り、命を継しか共、力弱り身衰て後は、山に登事も不(レ)足(レ)叶、硫黄を取事も力尽ぬ。さてもあられで、沢辺の根芹をつみ、野辺の蕨を折て、さびしさを慰しも、叶はぬ様に成果て、今はする方もなければ、浪たゝぬ日は磯に出て、岩の苔をむしりて、潮に洗て食物とし、汀(みぎは)に寄たる海松和布を取、和なる所をかみて、明し暮す、何を期する事はなけれ共、責ての命のをしさに、網引者に向ては、手を合て魚を乞ひ、釣する海人に歎ては膝を(有朋上P350)
P0256
折て肉を貪る、得たる時は慰む、くれざる日は空く臥ぬ。角しつゝ一日二日とする程に、早四箇年にも成にれり。さて生たる甲斐有て、己を見つる嬉さよ、若此事夢ならば、覚て後はいかゞせんと、■噎(しやくり)もし敢ず泣語給けり。有王つら/\と聞(レ)之、涙の乾間ぞなかりける。僧都(そうづ)又宣(のたまひ)けるは、俊寛は懸罪深者なれば、業にせめられて、今幾ほどか存ぜんずらん、己さへ此島にて、歎事も不便也、疾々帰上と云れければ、有王尋参侍程にては、十年五年と申とも、其期を見終進侍るべし、努々御痛有べからず、但御有様(おんありさま)久かるべし共不(レ)覚、最後を見終奉らん程は、是にして兎(と)も角(かく)も労進すべしとて、僧都(そうづ)に被(レ)教、峯に登ては硫黄を堀て商人に売り、浦に出ては魚を乞て執行を養ふ。係けれども、日来の疲も等閑ならず、月日の重るに随て、いとゞ憑なく見えけるが、明年の正月十日比(とをかごろ)より打臥給(たま)ひぬ。有王は今は最後と思て立離ず看病して、兼て賢くも善知識して申けるは、再都へ帰上給はざる事、努々御妄念に思召(おぼしめす)べからず、北方も若君も、空き露と消させ給ぬ、姫君は奈良に御座(おはしま)せば、御心安(おんこころやす)かるべし、唯娑婆の定なき有様(ありさま)を思知給ふべし。仮令妻子を跡枕に居置奉、古き都にして終給とも、住馴し境界は御名残(おんなごり)惜思召(おぼしめす)べし、依(レ)之(これによつて)衆生無始より生死にめぐりて三界を不(レ)出とこそ承り候へ、富貴(ふつき)栄花も終には衰、御身に宛て(有朋上P351)可(レ)知、長命と云共必死す、昔より形を残す者なし、されば今は一筋に、今生を穢土の終と思召(おぼしめし)切て、当来には必浄土(じやうど)へ参らんと、心強願御座(おはします)べし、無益の妄念を残して、心憂き境に廻給べからず、四五箇年の流罪猶以難(レ)忍、無量億却の悪趣、出期を不(レ)知といへり。今度厭給はずは、いつをか
P0257
期給べきなど、種々教訓申ければ、僧都(そうづ)息の下に、二人は被(二)召還(一)、俊寛一人留し上は、思切てこそ有しか共、凡夫の習なれば、折々には去共と憑む心も在き、其云甲斐なし。己角理を以て云教れば思切ぬ。昔は召仕し所従、今は可(レ)然善知識也。権化の善巧歟大聖の方便歟、誠に此世の中の習、強に都へ帰ても何にかはせん、玉の簾、錦の帳も、万歳の粧にあらず、尤可(レ)厭、金台銀階、千秋の粧にあらざれば無(レ)由、其上不(レ)待(二)入息出息(一)、身なれば、朝露の日に向ふよりも危し。生死不定の命なれば、蜉蝣の夕べを待よりも短し。殊に此二三年は、歎を以て月日を運、齢傾勢衰て、悲を以て星霜を送つ、危寿に病付ぬ、浮雲の仮宿とは知ながら、墓無く我身を起て、帰洛を待き、草露の英なる命と思ながら、愚に常見を成て怨念を含、終には是山川の土なれども、捨難は血肉の身也、思へば又野外の土なれども、欲(レ)惜分段の膚也、碧緑の紺青の髪筋も、遂には塚際の芝に纏、荘厳端直柔和の姿も、亦路辺の骸骨也、尤可(レ)厭、争(有朋上P352)か悲ざらん。蘭香の家も未無常の悲を免れず、桜梅の宿も猶生死の別には迷へり、況や俊寛が有様(ありさま)、今日とも明日とも不(レ)知身なれば、過去の修因今生の現果、拙かりける我かなと、所従なれ共恥し。されば肝心を砕ても骨肉を捨ても、求べきは菩提薩■[*土+垂](さつた)の行、血髄を屠身体を抛ても、望べきは安養浄土(じやうど)の境也。徒に身を野外に捨んよりは、同は覚悟の仏道に捨べし。空く心を苦海に沈めんよりは、須迷津の船筏を儲べし。而を身命を雪山に投じ、半偈の文眼に宛たれども如(レ)不(レ)見、給仕を千歳に運し一乗(いちじよう)の説、掌に把とも似(レ)不(レ)取、悲哉無上の仏種をはらみながら、無始無終の凡夫
P0258
たる事を、痛哉、二空の満月を備ながら、生死長夜の迷情たる事を、凡此島に放るゝ初には、思に沈て岩の迫に倒臥て、今生の祈も後生の勤もなかりしか共、丹波(たんばの)少将(せうしやう)も、康頼入道も、帰洛の後は、毎日に法華経(ほけきやう)一部を暗誦し、よもすがら弥陀念仏を唱て、一筋に後世の為と廻向して今に不(レ)怠、夫来迎の金蓮には、貴も賤きも倶に乗(二)弘誓の船筏(一)には、富るも貧をも渡し給と聞ば憑あり。又妙法の二字には、諸法実相の理を兼、蓮華の両字には、権実本迹の義を含り、誠に貴御法也。昼誦夜唱る功徳、去ども後世は覚ゆれば、唯汝も念仏を勧よ、我も名号を唱んとて、明れば仏の来迎を待て、暮れば最後の近を悦で、日数をふる程に、次第(有朋上P353)に弱て云事も聞えず、息止眼閉にけり。寂々たる臥戸に、泪泉に咽べども、巴峡秋深ければ、嶺猿のみ叫けり。閑々(しづしづ)たる渓谷に思歎に沈ども、青嵐峯にそよいで、皓月のみぞ冷じき。白雲山を帯て、人煙を隔たれば、訪来人もなし。蒼苔露深して、洞門に滋れども、憐思者もなし。童只一人営つゝ、燃藻の煙たぐへてけり。荼毘事終てければ、骨を拾て頸に掛、涙に咽て遥々(はるばる)と都へ帰上にけり。奈良の姫君に奉(レ)見ければ、悶焦て泣悲事不(レ)斜(なのめならず)、さこそ有けめと想像れて無慙也。童申けるは、御文を御覧じてこそ御歎の色もまさる様に見えさせ給(たま)ひしか、硯も紙もなかりしかば御返事(おんへんじ)は候はず、思召(おぼしめさ)れし御心中、さながら空く止にきとて、恨事の次第細々と申ければ、姫君涙に咽て物も不(レ)被(レ)仰。出家の志有と仰ければ、有王丸兎角して、高野の麓天野の別所と云山寺へ奉(レ)具、其にて出家し給にけり。真言の行者と成て、父母の菩提を弔給(たま)ひけるこそ糸惜けれ。
P0259
有王も其より高野山に登、奥院に主の骨を納卒都婆を立、即出家入道して、同後世を弔ひけり。方士は貴妃を蓬莱宮に尋、金言は厳父を狄が城に尋けり。彼は恩愛の情に催され、王命の背難によて也。主を硫黄島に尋ねける、有王が志こそ哀なれ。(有朋上P354)
S1102 小松殿(こまつどの)夢同熊野詣事
治承三年三月の比、小松内府夢見給けるは、伊豆国(いづのくに)三島大明神(だいみやうじん)へ詣給たりけるに、橋を渡て門の内へ入給ふに、門よりは外右の脇に、法師の頭を切かけて、金の鎖を以て大なる木を掘立て、三つ〔の〕鼻綱につなぎ付たり。大臣思給けるは、都にて聞しには、二所三島と申て、さしも物忌し給(たまひ)て、死人に近付たる者をだにも、日数を隔て参るとこそ聞しに、不思議也と覚て、御宝殿の御前に参て見給へば、人多居並たり。其中に宿老(しゆくらう)と覚しき人に問給やうは、門前に係りたるは、いかなる者の首にて侍ぞ、又此明神は死人をば忌給はずやと宣へば、僧答て云、あれは当時の将軍、平家太政(だいじやう)入道(にふだう)と云者の頸也。当国の流人、源兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、此社に参て、千夜通夜して祈申旨ありき。其御納受(ごなふじゆ)に依て、備前国吉備津宮に仰て、入道を討してかけたる首也と見て夢さめ給ぬ。恐し浅猿(あさまし)と思召(おぼしめし)、胸騒心迷して、身体に汗流て、此一門の滅びんずるにやと、心細く思給ける処に、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)、折節(をりふし)六波羅に臥たりけるが、夜半計に小松殿(こまつどの)に参て案内を申入、大臣奇と覚しけり。夜中の参上不審也、若我見つる夢などを見て、驚語らんとて来たるにやと、御前に被(レ)召(有朋上P355)何事ぞと尋給へば、兼康(かねやす)畏て夢物語(ゆめものがたり)申、大臣の見給へる夢に少しも不(レ)違、さればこそと涙ぐみ給(たまひ)て、よし/\妄想にこそ、加様の事披露に不(レ)及誡宣(のたまひ)けり。
P0260
懸ければ一門の後栄憑なし、今生の諸事思ひ捨て、偏(ひとへ)に後生の事を祈申さんとぞ思立給ける。
同年五月に、小松大臣宿願也とて、公達引具し奉り熊野参詣あり。精進日数を重つゝ、本宮に著給(たま)ひて、証誠殿の御前に再拝し啓白せられけるは、帰命頂礼(きみやうちやうらい)大慈大悲証誠権現、白衣(はくえ)弟子平重盛(しげもり)驚奉、申入心中の旨趣を聞召入(きこしめしいれ)しめ給へ、父相国禅門(しやうこくぜんもん)の体、悪逆無道(あくぎやくぶだう)にして動すれば君を悩し奉る、重盛(しげもり)其長子として頻(しきり)に諌を致と云共、身不肖にして不(二)敢服膺(一)、其振舞を見に、一期の栄花猶危、枝葉連続して親を顕し名を揚ん事難し、此時に当て重盛(しげもり)苟も思へり、憖に諂て世に浮沈せん事、敢良臣孝子の法に非ず、不(レ)如名を遁れ身を退て、今生の名望を抛て、来世の菩提を求んにはと、但凡夫の薄地、是非に迷が故に、猶未志を不(レ)恣、願は権現金剛童子、子孫の繁栄絶ずして、仕て朝庭に交るべくは、入道の悪心を和て、天下安全を得せしめ給へ、若栄耀一期を限、後毘恥に及べくは、重盛(しげもり)が運命を縮て、来世の苦輪を助給へ、両箇の愚願偏(ひとへ)に冥助を仰ぐと、肝胆を砕て祈念再拝し給ふにも、西行法師が道心を発しつゝ、諸国修行に出るとて、賀茂明神(かものみやうじん)に参つゝ、通夜(有朋上P356)して後世の事を申けるにも、流石(さすが)名残(なごり)惜くて、
  かしこまる四手に涙ぞ係りける又いつかもと思ふみなれば K070 
と読て、涙ぐみたりけん事、急度思出給(たま)ひつゝ、袖をぞ湿し給ける。彼は諸国流浪の上人也、命あらば廻り会世も有ぬべし。是は最後の暇を申給へば、今を限の参詣也、さこそ哀れに覚しめしけめ。筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)
P0261
御供に候ひけるが、奉(レ)見けるこそ奇けれ。大臣の御後より、燈炉の火の如くに、赤光たる物の俄(にはか)に立耀ては、ばつと消え、ばと燃上りなどしけり。悪き事やらん吉事やらんと胸打騒思けれども、人にも語らず、左右なく大臣にも不(レ)申、御悦の道になり給。音無の王子に詣給たりけるに、清浄寂寞の御身の上に、盤石空より崩係るとぞ、大臣うつゝに見給ける。岩田川に著給(たまひ)て、夏の事也ければ、河の端に涼み給ふ。権亮少将已下、公達二三人河の水に浴戯れて上給へり。薄あほの帷を下に著給へるが、浄衣に透通て、諒闇(りやうあん)の色の如くに見えければ、貞能(さだよし)是を見咎て、公達の召れたる御帷浄衣に移て、などや忌敷覚候、可(レ)被(二)召替(一)と申ける。次を以て証誠殿の御前にて、念珠の時、御後に照光し事、有の儘に申ければ、大臣打涙ぐみ給(たまひ)て、重盛(しげもり)権現に申入旨有き。御納受(ごなふじゆ)あるにこそ其浄衣不(レ)可(二)脱改(一)とて、是より又悦の奉幣あり。人々奇とは思ひ(有朋上P357)けれども、其御心をば知ず、下向の後幾程なくて、後に悪き瘡の出給たれども、つや/\療治(りやうぢ)も祈誓もなかりけり。
S1103 旋風事
六月十四日、旋風夥吹て、人屋多く顛倒す。風は中御門、京極の辺より起て、坤の方へ吹以て行。平門棟門などを吹払て、四五町十町持ち行て抛などしける。上は桁梁垂木こまひなどは、虚空に散在して、此彼に落けるに、人馬六畜多く被(二)打殺(一)けり。屋舎の破損はいかゞせん、命を失ふ人是多し。其外資財雑具、七珍万宝の散失すること数を知ず、これ徒事に非とて御占あり。百日の中の大葬白衣(はくえ)の怪異、又天子の御慎(おんつつしみ)、殊に重禄大臣の慎、別しては天下大に乱逆し、仏法(ぶつぽふ)王法共に傾、兵革打続、飢饉
P0262
疫癘の兆也と、神祇官(じんぎくわん)、並陰陽寮共に占申けり。係ければ、去にては我国今はかうにこそと上下歎あへり。
S1104 大臣所労事(有朋上P358)
小松殿(こまつどの)の労、日に随て憑なき由聞ければ、入道殿(にふだうどの)より盛次を使にて、被(レ)仰けるは、御所労日にそへて大事になる由承る、心苦こそ存侍れ、何事にても御意得ある人の、いかに今まで療治(りやうぢ)はなきやらん、親に先立は不孝とこそ申侍、今日明日とも知ず老たる父母を残留めて、歎思はん事罪深かるべし、此間唐より目出(めでた)き医師の渡て、今津に著て候ふなる、折節(をりふし)然べき御運と覚え、即彼使者に具足し進すべけれども、先案内を申也と云はれたり。内府は病の床に臥て、世に侘しげに御座(おはしまし)けるが、入道殿(にふだうどの)に最後の対面の由思はれけるにや、人に扶起されて、烏帽子(えぼし)直垂にて、盛次に出合、返事被(レ)申たり。療治(りやうぢ)の事畏承候畢ぬ。尤御命に可(レ)随、但今度の労旁存ずる旨あるに依て、殊に不(レ)加(二)医療(一)、其故は重盛(しげもり)去五月に、熊野参詣して、権現に申請る旨侍き、厳重の瑞相等ありし上、今此労を受、御納受(ごなふじゆ)の故と存ず、神慮の御計凡夫の是非に不(レ)及歟、老少不定の世の習、老たる残置奉る、実に痛敷存といへ共、親に先立ためし重盛(しげもり)一人に不(レ)限、前後相違の国、本より存処なれば、強に歎思召(おぼしめす)べきに非、其上命は天の与る事なれば、必しも治術に依べからざるか。重盛(しげもり)保元平治の合戦には、命を捨て矢前(やさき)に立て振舞しかども、矢にも中らず、剣にも伐れずして、今に命を持てり。然而今年が一期の限、生涯の終りにこそ侍らめなれば、惜とも(有朋上P359)すまふとも難(レ)叶事に侍。昔漢高祖は三尺の剣を以て、諸侯を制し天下を治め
P0263
けれども、淮南黥布を討し時、中(二)流矢(一)蒙(レ)疵、命を亡さんとせし時、高祖后呂太后、医師を迎て是を見す。医の云、五百斤の金を賜て御疵を癒さんと申しに、高祖宣く、我項羽と合戦する事八箇年の間、七十五度、去ども命を全して諍勝天下を治き。而に今天の命に背に依て被(二)此疵(一)、命は即天の与にあり、天の心を知ずして、療治(りやうぢ)を加と云とも、扁鵲何の益かあらん。但かくいへば、金を惜に似たりとて、五百斤の金をば医師に給りけれども、療治(りやうぢ)をばせずして終に失にけり。先言耳にあり、今以て甘心す。重盛(しげもり)苟も九卿に列し、三台に昇る、其運命を計るに、以て天の心にあり、争か天の心を不(レ)察して、愚に医療を致ん、況又所労若定業たらば、加(二)療治(りやうぢ)(一)とも可(レ)無(レ)益、もし又非業たらば自然に癒る事をうべし。彼耆婆が医術及ずして、釈尊涅槃に入給き。是則定業の病、癒ざる事を示さんがためなり。治するは仏体也、療するは耆婆也。定業猶医術にかゝはるべくは、豈釈尊入滅あらんや、定業治するに不(レ)足旨明けし。然れば重盛(しげもり)が身非(二)仏体(一)、名医亦不(レ)可(レ)及(二)耆婆(一)、仮令四部の書を鑑て、百療に長ずと云とも、争か有待の依身を救療せん、仮令五経の説を詳して、衆病を癒すと云とも、豈先世の業病を治せんや。若又彼治術に依て存命候はば、本朝の医道(有朋上P360)なきに似たり、若又彼医術効験なくは、面謁其詮なし。就(レ)中(なかんづく)重盛(しげもり)不肖の身ながら、天恩忝に依て、三公の一分をけがし、丞相の位に昇、本朝鼎臣の外相を以、異国浮遊の来客に見えん事、且は国の恥也、且は家の疵也、縦ひ我命を亡すと云とも、争か此国の恥を顧ざらん、彼につけ是につけ、其事有べからざる由を申べしとて、年来の侍に向給(たまひ)て、
P0264
殊に礼儀し給ければ、盛次泣々(なくなく)罷出ぬ。入道殿(にふだうどの)に此由こま/゛\と申ければ、力及給はず。其後大臣は出家し給(たまひ)て、後世菩提の御勤より、外他事なかりける程に、終に八月一日に薨給にけり。生年四十三。五十にだにも満給はず、惜かるべき御命也。入道の老の歎申も愚也。実にさこそは思給けめ、人の親の子を思習、愚なるだにも悲し。況や当家の棟梁、朝廷の賢臣にて御座(おはしまし)しかば、恩愛の別と云家の衰微と云、争か歎悲給はざるべき。されば入道は内府が失ぬるは、併運命の末に成にこそと、万あぢきなし、いかでも有なんとぞ宣(のたまひ)ける。凡此大臣文章うるはしくして、心に忠を存、才芸正しくて詞に徳を兼ねたりければ、世には良臣を失へる事を憂ふる、家には武略の廃する事を歎く。心あらん人誰か実に嗟歎せざらん。(有朋上P361)
S1105 燈炉大臣事
此大臣、二世の悉地をなさん為に、霊神霊社に志を運、仏法僧(ぶつぽふそう)宝に首を傾け給けり。さればにや先祖に拝任の例なかりける、大臣の大将を極て、丞相の位に登給へり。親に先立御歎ばかりや御心に懸給けん、今生の栄花一として闕給はず、又後生の苦を悲みて、来世の営み他事なかりける。其中に難(レ)有事と世に聞えけるは、大臣の常に住給ける所をば、東へ十二間、南へ十二間、西へ十二間、北に十二間の屋を立て、四方に四十八の間を点じ、一方の十二間に、十二光仏を一体づつ奉(レ)立たれければ、四方に四十八体の、十二光仏御座(おはしまし)けり。其御前ごとに常燈を燃されければ、四十八の燈炉あり。晴夜の星の隈もなく、沢辺の蛍に似たりけり。上は二十歳下は十六歳、色深く身〔に〕盛に、姿人に勝形類なき美女を四十八人(しじふはちにん)選て、常燈に一人づつ付給、油を添燈を挑てぞ置れける。齢二十にも余ければ、取
P0265
替取替居られけり。日没の時に成ければ、四十八人(しじふはちにん)の女房達(にようばうたち)、衣装花を折、蘭麝の芳を新にして、日没静に礼讃し、念仏貴く唱つゝ、四十八間をぞ廻られける。念仏礼讃終りぬれば、彼女房達(にようばうたち)六人づつ、番を結て、鼓銅■子(くどうばつし)をはやしつゝ、今様謡て、又彼四十八(有朋上P362)間をぞ廻りける。
  心の闇の深きをば、燈篭の火こそ照なれ、弥陀の誓を憑身は、照さぬ所はなかりけり  K071 
と、別の詞を交へず、是ばかりを折返々々謡はせて、我身は中台に座し給(たま)ひ、是をぞ被(二)聴聞(一)ける。是や此極楽世界の菩薩聖衆の、弥陀覚王に奉仕して、或は説法化行し、或妓楽歌詠して、仏の化儀を助らんも、角やと思知れたり。余所迄も哀に貴く覚つゝ、身の毛も竪ばかりなり。係し故に此大臣をば、異名に燈篭の大臣とぞ申しける。
S1106 育王山送(レ)金事
我朝の三宝に、財宝を抛ち給のみに非、異国の仏陀にも志をぞ運給ける。奥州(あうしう)知行の時、気仙郡より金〔千〕三百両の金を進たりけるを、妙典と云唐人の、筑紫に有けるを召て、百両の金を賜て仰けるは、千二百両の金を大唐へ渡べし、其内二百両をば育王山の衆徒に与へ、千両をば帝に献て、当山に小堂を建立(こんりふ)して、供米所を寄進せられ、重盛(しげもり)が菩提を吊て給るべしと可(レ)申とて、檜木材木一艘漕渡べき由を下知し給ければ、妙典承て、材木砂金取具して、事故なく渡唐して、二百両を僧衆に施て、千両を帝に献じて事の子細を奏けれ(有朋上P363)ば、御門其深き志を随喜して、一塵(いちぢん)の送物猶以て黙止がたし、況千金の重宝をやとて、即檜木の材木を以て宝形作の御堂を立て、五百町の供米田を彼育王山へぞ寄られける。依(レ)之(これによつて)
P0266
当山の禅侶、其志の真実なる事を感じて、始には息災の祈誓しけるが、薨給ぬと聞て後は、大日本国武州太守、平重盛(しげもり)神座と過去帳に被(レ)入て、読上奉吊なるこそ哀なれ。此大臣の失給ぬるは、平家の運尽ぬるのみに非ず、為(レ)世為(レ)人にも悪かるべし、入道の横紙を破給をも、直し被(レ)宥しかばこそ穏くても有つるに、こは浅増(あさまし)き事かなとぞ、上下歎ける。加様に事に触て、思慮深く、君父に仕るに私なし、賢き計をのみし給けるに、小松殿(こまつどの)常に被(レ)仰けるは、重盛(しげもり)一期の間、さしたる不覚なし、但経俊を失たりし事こそ、思慮の短至り永不覚と覚しか。
S1107 経俊入(二)布引滝(一)事
譬へば小松殿(こまつどの)、布引滝為(二)遊覧(一)御参あり、景気実に面白し。山より落岩波は、糸を乱せるかと疑れ、岸にたゝへたる淵水は、藍を染かとあやまたる。泉の妙美井揚ざれど、影涼くぞ思召(おぼしめし)ける。小松殿(こまつどの)被(レ)仰けるは、滝壺覚束(おぼつか)なし、底の深さを知ばや、此中に誰か剛者(有朋上P364)挿絵(有朋上P365)挿絵(有朋上P366)のしかも水練あると尋給ければ、備前国住人難波六郎経俊進出て、甲臆はしらず候、滝壺に入て見て参らんと申。然るべしとて免されたり。経俊は紺の■(したおび)かき、備前造の二尺八寸の太刀随分秘蔵したりけるを脇に挟で、髪を乱してつと入、四五丈もや入ぬらんと思程に、底にいみじき御殿の棟木の上に落立たりけるが、腰より上は水にあり、下には水もなし、穴不思議と思ながら、さら/\と軒へ走下たれば、水は遥(はるか)に上にあり、こは何とある事やらんと、胸打騒ぎけれ共、心をしづめてよく見んと思て、軒より庭に飛下、東西南北見廻ば、四季の景気ぞ面白き。東は春の心地也、四方の山辺も長閑にて、霞の衣立渡り、谷より出る鶯も、軒端の梅に囀、池のつらゝも打解て、岸の青柳糸乱、松に懸れる藤花、春の名残(なごり)も惜顔なり。南
P0267
は夏の心地也、立石遣水底浄、汀(みぎは)に生る杜若、階の本の薔薇も、折知がほに開けたり。垣根に咲る卯花、雲井に名乗杜鵑、沼の石垣水籠て、菖蒲(あやめ)みだるゝ五月雨に、昔の跡を忍べとや、花橘の香ぞ匂、潭辺に乱飛蛍、何とて身をば焦すらん、梢に高く鳴蝉も、熱さに堪ぬ思かは。西は秋の心地也、萩女郎花花薄、枝指かはす籬の内、朝は露に乱つゝ、夕は風にやそよぐらん、梢につたふ■(むささび)、庭の白菊色そへて、窓の紅葉々濃薄し、妻喚鹿の声すごく、虫の怨も絶々也。北は冬の心地(有朋上P367)なり、木々の梢も禿にて、焼野の薄霜枯ぬ、降積雪の深ければ、言問道も埋れぬ、池の汀(みぎは)に住し鳥、去てはいづくに行ぬらん、峯吹嵐烈しくて、檐の筧もつらゝせり。庭には金銀の沙を蒔、池には瑠璃のそり橋、溝には琥珀の一橋を渡し、馬脳の石立、珊瑚の礎、真珠の立砂、四面を荘れり。経俊立廻て、穴目出、是やこの費長房が入ける、壺公が壺の内、浦島が子が遊けん、名越の仙室なるらんと、最面白思つゝ、暫たちたりけれ共、如何にととがむる者もなし。良立聞ば、ほのかに機織音のしければ、太刀取直して、声を知るべに内へ入見れば、年三十計なるが、長八尺も有らんと覚ゆる女也。経俊には目も懸ず、機を操て居たりけり。難波六郎問けるは、是はいづくにて侍るぞ、いかなる人の栖ぞと云ば、女答云、是は布引の滝壺の底、竜宮城也、あやしくも来者哉と云て、又も云はざりけり。経俊浅間しと思て御所の上に飛上り、棟木の上に立たれば、腰より上は水也けり。力を入て躍たれば、水の中に入、暫有て滝壺へ浮出たり。小松殿(こまつどの)待得給(たまひ)て、いかにや/\と問給へば、経俊有の儘にぞ語りける。詞未
P0268
をはらざりけるに、滝の面に黒雲引覆、雷鳴あがりて大雨降、いなびかりして目も開きがたし。経俊は腹巻に太刀をぬき、小松殿(こまつどの)に申けるは、我は必ず雷の為に失なはれぬと覚侍り、程近く御渡あらば御あやまちもこそあらん(有朋上P368)か、少し立さらせ給(たま)ひて、事の様を御覧候へと申せば、実にさるべしとて、二町計を隔て見給へば、黒雲経俊を引廻し、雷はたと鳴かとすれば、又雷の音にはあらで、はたと鳴おとしけり。やがて空は晴にけり。其後小松殿(こまつどの)人々相具し給(たまひ)て、近く寄て見給ければ、経俊は散々(さんざん)にさけきれて、うつぶしに臥て死にけり。太刀には血付て、前の猫の足の如なる物を切落したり。係ければ、小松殿(こまつどの)常に物語(ものがたり)し給けるは、是程の大剛の者にて有けるを、思慮なく其身を亡したる事、我一期の不覚也とぞ仰ける。智者の千慮有(二)一失(一)と云は、加様の事にや。小松殿(こまつどの)薨じ給(たまひ)て後は、前(さきの)右大将(うだいしやう)の方様の者は、世は此御所へ進りなんとて悦けり。穏かなるまじき事とも知らず、加様にのゝしりけるこそおろかなれ。
S1108 将軍塚(しやうぐんづか)鳴動事
七月七日申刻に、南風俄(にはか)に吹て、碧天忽(たちまち)に曇り、道を行者夜歩に似たりければ、人皆くやみをなす処に、将軍塚(しやうぐんづか)鳴動する事一時が内に三度也。五畿七道(ごきしちだう)悉(ことごと)く肝をつぶし、耳を驚す。後に聞えけるは、初度の鳴動には洛中九万余家(よか)に皆聞え、第二度の鳴動には、大和、山城、近江、丹波、和泉(いづみ)、河内、摂津難波浦まで聞えけり。第三度の鳴動は、六十六箇国(有朋上P369)に漏なく聞えけり。昔よりたびたびの鳴動有しかども、一度に三度是ぞ始也ける。東は奥州(あうしう)の末、西は九箇国のはてまでも、聞えけるこそ不思議
P0269
なれ。
同日の戌刻に、たつみの方より地震して、乾を指てふり持行。是も始には事なのめ也けるが、次第につよく振ければ、山傾て谷を埋、岸くづれては水をたゝへ、堂塔坊舎も顛倒し、築地たて板も破れ落て、山野の獣上下の男女、皆大地を打返さんずるにやと心うし。谷より落る滝津瀬に、棹さし渡し煩ふ筏師の、乗定めぬ心地して、良久しくぞゆられける。
S1109 大地震事
同年十一月七日戌刻に又大地震あり、夥しとも云計なし。時移る迄振ければ、唯今地を打返すべしなど申て、貴賤肝心を迷す。明る八日、陰陽寮安部泰親院参(ゐんざん)して奏聞しけるは、其夜の大地震、占文の指所不(レ)斜(なのめならず)重く見え侍り、世は唯今失なんず、こはいかゞ仕るべき、以外に火急に侍とて、軈はら/\と泣けり。伝奏の人も法皇も大に驚て思召(おぼしめし)けれ共、さすが君も臣も差もやはと覚しける。若殿上人(てんじやうびと)などは、穴けしからずの泰親が泣様や、何事の有べきぞとて笑人も多かりけり。法皇の仰には、天変地夭は常の事也、今度(有朋上P370)の地震強に騒申事、異なる勘文ありやと御気色(おんきしよく)あり。泰親勅問の御返事(おんへんじ)には、三貴経の其一、金貴経の説に云、去夜戌時の地震年を得ては年を不(レ)出、月をえては月を不(レ)出、日を得ては日を不(レ)出、不(レ)得ば時ばかりと見えたり。其中に此は日をえては、日を不(レ)出と候へば、遠は七日、近は五月三日に、御大事(おんだいじ)に及べし、法皇も遠旅に立せ御座(おはしま)し、臣下も都の外に出給べし、此事もし一言違ふ事候はば、御前に於て相伝の書籍を焼失ひ、泰親禁獄流罪、勅定に随べしと、憚処もなく、
P0270
泣々(なくなく)奏聞しければ、旁御祈(おんいのり)始られけり。去共七日の地震、十三日までは、七箇日にあたる、其間異なる事なし。斯りければ、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有て、泰親御前にして、荒言を吐き、叡慮を奉(二)申驚(一)条奇怪也、遠は七箇日の御大事(おんだいじ)たる由、占文其効なき上は、速に土佐の畑へ可(レ)被(二)流罪(一)と定られて、既(すで)に追立の官人に仰付らるべしとぞ定りける。去(さる)程(ほど)に同(おなじき)十四日、太政(だいじやう)入道(にふだう)福原より数千騎(すせんぎ)の軍兵を相具して上洛、何と聞分たる事はなかり侍けれ共、京中貴賤上下東西に走り迷て物騒し。或は朝家を可(レ)奉(レ)怨とも聞えけり。或は公卿殿上人(てんじやうびと)を流し失べしとも私語(ささやき)けり。其口さま/゛\也。当時の関白(くわんばく)松殿ひそかに院参(ゐんざん)して奏申されけるは、清盛(きよもり)入道が上洛は、基房事に逢べき由、内々告知する事侍り、其故は、去嘉応に、小松の資盛が乗会の事に、入道憤て無なる(有朋上P371)べきにて侍りけるを、父を内府が様々に教訓し申けるに依て、事故なく罷過候けり、悪き事を制し諌侍りし内府は薨じ侍りぬ、今は憚る処なく其遺恨をむくはんとにて候也、いかが仕り侍るべき、朝夕に拝し進する君にも奉(レ)別、住馴し都を出されて、知ざる旅にさすらはん事こそ、心うく思侍れ、御前に参ぜん事も是を最後と存ずればとて、はら/\と泣給(たま)ひ、袖を顔にあて給へば、法皇も叡慮ものうげにて、臣下何の咎有てか、さほどの罪に行なはるべき、去ば朕とても安穏なるべしとも不(レ)覚とて、又竜眼より御涙(おんなみだ)を落させ給ふ。関白殿(くわんばくどの)此御有様(おんありさま)を見進らせ、不(レ)堪思召(おぼしめし)ければ出給ぬ
S1110 静憲法印勅使事
去(さる)程(ほど)に十五日朝、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)が子静憲法印を御使にて西八条(にしはつでう)へ遣さる。勅定には入道(にふだう)相国(しやうこく)に
P0271
云べき様は、凡近年朝廷も不(レ)静、人の心も不調にして、世間も落居せぬ様に成行事、総別に付て歎思召(おぼしめ)せども、入道さて御座(おはしま)すれば、万事は憑思召(おぼしめし)てこそ有に、天下を鎮迄こそなからめ、事に触て嗷々の体御意を得ざる処に、剰朕を恨むなど聞召はいかゞ、こは何事ぞ人の中言歟、入道上洛の後、武士家々に充満て、京中の貴賤安堵せざ(有朋上P372)るの由、其聞あり、軍兵を引率の条、其故を知召す、異なる子細なくば、家人の騒動を可(レ)被(レ)鎮歟、若又存知の旨あらば、何事も可(レ)及(二)奏聞(一)、如(二)風聞(一)、太不(レ)可(レ)然と仰遣す。法印西八条(にしはつでう)に行向て、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)季貞を以て此由披露したりけれ共、敢以て御返事(おんへんじ)なし。更闌日傾て、已に晩頭に及ぶ間、季貞を尋出して、御使今は罷出なんと云はせたれ共、猶以て出給はず、良久有て、子息左衛門督知盛を以て、院宣畏承候畢。抑浄海老衰て、諸事不覚なれば、院中の出仕無(レ)益、さては別に子細候はずと申たり。
S1111 浄憲与(二)入道(一)問答事
法印は、さればこそ人の云に合て、穴おそろしやと思て、震々出給けるが、立様に取敢(とりあへ)ず、高らかに、賢相明徳跼(レ)天と申、本文はいかにとて出給(たま)ひぬ。入道此句にや驚給けん、急ぎ中門に出て、遥(はるか)に帰たりける法印を呼返す。法印は我も四十二人の罪過の内に入たるよし、内々聞に、新(しん)大納言(だいなごん)の様に引張などせんずるにやと心迷しければ、足振て縁の上へ昇り煩給へり。震々中門の廊に御座(おはしまし)けれ共、うつゝ心なし。入道大に嗔れる体にて、爰(ここ)にて対面せられたり。宣(のたまひ)けるは、やゝ法印御房、御辺(ごへん)は物に心得(こころえ)給(たまひ)て、成親卿(なりちかのきやう)が謀叛の時、(有朋上P373)鹿谷の御幸をも申止られたりしと承れば、呼返奉て申候ぞ、臣下の身として争か背(二)明王(みやうわう)勅(一)侍るべき、而を自今以後は院中の奉公思止る由を申候事は、浄海
P0272
君を恨進事一方ならず、入道君の御為に何事か御後めたなき事候、保元平治の合戦に、身を捨て、先をかけ、御命に替り進せて、逆臣をふせぎ、君の御世に成参せたる事、人の皆知たる事なれども、度々の奉公を思召(おぼしめし)忘て、入道が事とだに申せば、何事も六借事と思召(おぼしめさ)れたり。依(レ)之(これによつて)又云甲斐なき近習の者共の、勧申事に著せ給(たまひ)て、成親已下の輩に仰付て、入道を傾けんとの御気色(おんきしよく)あり。然而家門の運尽ざるによりて、今に御本意をとげさせ給はず、入道希有にして世に立廻るといへども、有てなきが如し。第一の遺恨と存ずる間、君を恨進する事僻事にて侍か、漢家本朝明王(みやうわう)の臣下を憐給事ためしおほし。吾朝には、冷泉院御宇(ぎよう)に、東夷朝家を背しかば、伊予守源(みなもとの)頼義(らいぎ)勅を奉て、貞任を攻しに、頼義(らいぎ)が末子に頼俊と云ける者、よき敵其数余多(あまた)討て、毎日に退かず進戦ける程に、流矢に中て亡にけり。頼義(らいぎの)朝臣(あつそん)いさめる心を惜み、永き別を悲て、天に仰で歎由聞召ければ、帝御自筆に金泥を以て、屍骸成仏(じやうぶつ)の真言をあそばして、此を亡骨に具して墓に埋ば、其亡骨必成仏(じやうぶつ)すべし、天子の御志幽霊が成仏(じやうぶつ)、頼義(らいぎ)争か悦ざらんと、勅書を遊して奥州(あうしう)へ送下させ給たりけれ(有朋上P374)ば、父頼義(らいぎ)忽(たちまち)に別離の歎を止て、勅命の忝に、歓喜の涙を流しけり。
後三条院(ごさんでうのゐんの)御宇(ぎよう)に、江中納言親信卿の母儀、長病に臥て三年、死たるにも非、生たるにも非、子孫眷属日夜に愁歎し、朝暮に涙を流すよし聞食(きこしめし)ければ、帝大に悲みまし/\て、彼母儀病悩の間は、雲の上に物の音を鳴らすべからずと御諚有ければ、一千日に及まで、管絃を奏する人なかりき。
P0273
白川院【*白河院】(しらかはのゐんの)御宇(ぎよう)には、承暦元年の春、藍婆鬼と云鬼、京中に充満て、十歳以前の小者、十が八九は取失はれければ、上下男女家々の歎親々の悲、帝聞食(きこしめし)、其春は子日の御会なかりけり。
堀川院(ほりかはのゐんの)御宇(ぎよう)には、御随身清房が、三黒と云小馬を賜て、庭乗仕りける程に、沛艾の馬に悪様に乗つゝ、落て則死ければ、帝耄したる老父が盛年の子を先立て、左こそ歎思らめ、且は清房が没後をも弔ひ、且は老父が心をも慰とて、河内国に所領一所を給りたる事も候けり。
鳥羽院(とばのゐんの)御宇(ぎよう)には、顕頼民部卿、指たる忠臣迄は御座ざりけれ共、昇霞の煙哀也とて、御立願の八幡詣、御代官を以てはたさせ御座(おはしまし)けり。
同御宇(ぎよう)に、忠貞宰相闕国有しかば、宰相大に歎つゝ、都を出て片辺に引籠たりければ、帝遠山の篭居、最不便也とて、御衣を脱で送給たりければ、忠貞卿老眼に紅の涙を流して、持仏堂に有ながら、発願持経より先に、先王宮に向て、三度まで君を拝しけるとなり。又唐太宗文(有朋上375)皇帝は、剪(レ)鬚焼(レ)薬、功臣李勣賜、含(レ)血吮(レ)瘡、戦士思摩で助けり。又魏徴大臣と云臣下に後れ給(たまひ)て、御歎の余りに、
  昔殷宗夢中得(二)良弼(一)、今朕夢〔の〕後失(二)賢臣(一) 
と云碑文を、自書て、魏徴が廟に立て悲給けり。凡明王(みやうわう)の臣下の歎を慰訪給例、不(レ)知(二)其数(一)。以(レ)是父よりも眤、子よりもなつかしきは、君と臣との道とこそ承候へ、口惜こそ候しか、重盛(しげもり)が中陰未四十九日も過ざるに、八幡の御幸有て御遊(ぎよいう)候けり、法住寺(ほふぢゆうじ)の御会も候けり、哀不便の仰こそなから
P0274
め、人目の恥かしさ、入道が伝承らん事、などか御かへりみもなかるべき。御房も御存知候らん、小松内府は其器こそ愚に候しかども、勅定には忠を抽で、志を運き。されば保元平治の合戦にも、命をば為(レ)君軽じ、屍をば戦場に捨んとこそ挙動侍しか、及(二)天聴(一)人口にもほめられき。其後大小度々の騒動も、毎度に選れ進せて、院宣と申勅命と申、旁御感に不(レ)預と云事なし。されば越前国を重盛(しげもり)が給し時は、子々孫々(ししそんぞん)までとこそ被(二)仰下(一)しか、それに重盛(しげもり)逝去の後、即被(二)召上(一)之条、死骸何の過怠か候。其外中納言の闕の侍し時、二位中将殿(ちゆうじやうどのの)御望候の間、入道再三執申しに空くして、関白殿(くわんばくどの)の御子息(ごしそく)、三位中将殿(ちゆうじやうどの)、非分になられたりし事、縦入道何なる非拠を執申と(有朋上P376)も、一度はなどか御許容なかるべき。況家の嫡々と云位階の次第と云、旁御理運にて御座を、被(二)引違(一)し事、老後の所望面目を失侍き。二位中将殿(ちゆうじやうどの)も申かなへんずらんと思給へばこそ、入道をば被(二)憑仰(一)けめ、入道も又さり共(とも)とこそ存じて奏申しに、不(レ)叶しかば、口惜こそ存しか。但し是は君の御計のみに非、執申人余多(あまた)侍りけると承及き。次に近習の人々、此一門を亡さんと相はからはれける、是又私の計にあらず、叡慮の趣を守る故也。いまめかしき申事には侍れども、縦入道何たる過誤り有共、七代迄は争か思召(おぼしめし)捨らるべき。其に入道既(すで)に七旬に及で余命幾ならず、一期の間にも、動すれば可(レ)被(レ)失御計に及申さんや。子孫相続して、一日片時召仕るべき事難し。凡は老て子を失は、朽木の枝なきに喩たり。内府におくるゝを似て、運命の末に望める事を且知れ候ぬ。去ばこそ天気の趣も、現申事も軽く、人望にも背き侍らめ。何なる奉公
P0275
を致とも、叡慮に応ぜん事よもあらじ。此上は幾ならぬ身心をつひやしても、何にせんなれば、兎ても角ても侍なん。悪事不孝の子すら別は悲事ぞかし。何に況重盛(しげもり)は奉公と申才芸と申、至孝と云心操と云、礼儀よく治て、人是を軽ぜず、永き別の習なれば、再相見べきにあらず、恩愛の慈悲骨髄に徹て悲こそ存ぜしに、老父が歎き思召(おぼしめし)よりて、などか一度の御憐なかるべき。(有朋上P377)されば院中の奉公無(レ)益に侍と、憚処なく被(レ)申ても、入道はら/\とぞ泣給ける。静憲法印も流石(さすが)哀にも覚え、又恐しくも有ければ、汗水になられにけり。此時には一言の返事にも及難かりける事ぞかし。其上我身も僧ながら近習の者也。成親卿(なりちかのきやう)已下の事も正く見し事なれば、我も其人数に思けがされて、唯今もいかなる目にかあはんずらんと、兎角案じ思けるに、竜の鬚を撫、虎の尾を蹈心地せられけれ共、法印もさる人にて、騒ぬ体にもてなして、答られけるは、誠に度々の御奉公不(レ)浅、一旦恨み申させ給ふ旨、御理と覚え侍り。其中に殊に親子恩愛の道は、老牛舐(レ)犢、牝虎含(レ)子志、水畜(二)淵魚(一)野獣山禽に至まで、情深しと申す。況朝家の寵臣、明徳賢才の御子を先立御座(おはしま)する、老相の御歎、余所の袂(たもと)も皆絞り煩てこそ候しかとて、法印も良久泣給へり。去て法印涙を押のごひ、袖かき合て申されけるは、不肖の身を以て、御返報に及条、其恐不(レ)少といへども、且は仙洞に御過なきを、人の悪様に申入ける事を、陳開て、御鬱念をも謝し申べし。貞観政要の裏書に、思合る事あり。仙源雖(レ)澄、烏浴(二)濁流(一)とて、仙宮より流出る河は、仙人集て仙薬を洗すゝぐ故に、下流を汲者までも必長命也。而を其河
P0276
の中間に、陰山の烏其流をあぶる時、水還て毒と変ずといへり。其様に法皇の政徳は、仙宮の水の如く、万庶を哀で其源を澄し御座(有朋上P378)せども、執申人下流を濁して、入道殿(にふだうどの)に悪様に申入たりと覚侍り。努々御恨あるまじき御事なり。但何様にも院中の御奉公を、思召(おぼしめし)止らん事、能々御思慮有べき也。世の為御為に、つら/\愚案を廻すに、明王(みやうわう)為(二)一人(一)不(レ)枉(二)其法(一)、日月為(二)一物(一)不(レ)暗(二)其明(一)と云文あり。通三の主明一の君、争御徳政に私を存御座(おはします)べきなれども、智者千慮有(二)一失(一)、愚者千慮有(二)一徳(一)と申事も侍ば、たとひ叡慮御あやまり有て、千万に一つ人望に背、法に相違する事侍ば、臣下の御身としては、何度も我御あやまりなき旨を陳じ可(レ)被(レ)申、是忠臣の法也。君雖(レ)不(レ)為(レ)君、臣以不(レ)可(レ)為(レ)臣といへり。其に小賢き申状恐なる事にては候へども、法皇は君なり、入道殿(にふだうどの)は臣也。下として上を奉(レ)恨、臣下として悩(レ)君給はん事、只仁義を忘れ給のみにあらず、恐くは天地の御とがめ不(レ)可(二)遁給(一)。世を不(レ)遁家を不(レ)捨して、居(レ)位貪(レ)禄ながら、御出仕を停止し給はん事、天地の御意計難。尚も能々御計ひあらば、且神明も納受(なふじゆ)をたれ、御家門繁昌の基にて侍るべし。抑承処の条々の御恨の事、先八幡宮の御幸は、哀なる御事にてこそ侍りしか。其故は、あへなくも、重盛(しげもり)に後れぬる事、朕一人が歎のみに非ず、臣下卿相(けいしやう)普天卒土、誰か愁へざらんや、金烏西に転じて一天暗く、邪風頻(しきり)に戦四海不(レ)静と、御定有て、日々夜々(よなよな)の御歎、今に未不(レ)浅、勅定に臨終いかゞ(有朋上P379)有けんと、御尋(おんたづね)候しかば、或雲客(うんかく)、其病患は悪瘡にて候ける間、瘡の習臨終乱れず、正念に住して、二羽合掌の花鮮に、十念称名の声絶
P0277
ず、三尊(さんぞん)来迎の雲聳て、九品蓮台の往生とこそ見えて候しかと申せば、竜顔に御涙(おんなみだ)を流させ給のみに非ず、宮中皆袖を絞られて、当時までも折に随事に触ては、御歎の色ところせくこそ見えさせ給候へ。さて法皇の仰には、生死は定れる習、惜とも力なし、何事よりも心肝に銘じて浦山しき事は、往生極楽の一事也。入道も歎の中に嬉くこそ存らめ。熊野参詣の時申請る旨有とて、療治(りやうぢ)をもせざりけるも、はや此一大事に有けり。朕も熊野山に参て祈申たけれ共、道の程も遥也、人の煩とも成べし。つら/\案ずるに、同じ西方の弥陀にて御座(おはしま)せば、八幡宮へ参詣して、往生を祈申さばやと思召(おぼしめす)也。且は内府の為に、毎日に祈念する、念仏読経して、廻向も清浄の霊地にしてこそ、金をも鳴さめとて、七日の御参篭候ひき。是則内府幽儀の得脱、又大相国(たいしやうこく)の御面目、何事か過(レ)之侍べき。されば御中陰(ごちゆういん)終給なば、急ぎ御院参(ごゐんざん)有て、畏をこそ申させ給はざらめ、還て御恨にや及べき。仙源の水清けれども、山烏流を穢すと云たとへ、少も違はずと被(レ)申ければ、立腹なる人の習、心浅くして、入道袖かき合て、声を上てさめ/゛\とこそ泣給(たま)ひけれ。
次八幡宮の御遊(ぎよいう)とは、臨時の祭の事を悪様に申たるに(有朋上P380)こそ、是又竜楼鳳闕の御祈祷(ごきたう)に侍りき。其故は、去此八幡宮に怪異頻(しきり)に示しけるを、別当恐て護法を下し進せたりけるに、御託宣(ごたくせん)の御歌に、
  春風に花の都は散ぬべし榊の枝のかざしならでは K072 
と詠じて、畿内近国闇と成て、九民百黎山野に迷ぬべしと仰候けるを、法皇大に驚き思召(おぼしめし)て、臣下卿相(けいしやう)
P0278
息災延命、洛中上中五畿七道(ごきしちだう)、安穏泰平の為に、三日三夜の御神楽の候し事、明王(みやうわう)明君の御徳政にこそ。洛中上下の為なれば、御家門の御祈(おんいのり)にも非や、故内府は大国までも聞え御座(おはしまし)し賢臣にて、常に国土安穏人民快楽と祈らせ給し事なれば、彼御神楽をば、小松殿(こまつどの)は草の陰にても、さこそ悦御座(おはしまし)けめと覚候。此上、なほ御不審相残らば、八幡の別当に御尋(おんたづね)あるべく候哉。次に越前国を被(二)召返(一)けん事は未(二)承及(一)、君思召(おぼしめし)忘させたるにや、便宜を以て急ぎ奏聞仕て、若子細あらば遂て可(二)申入(一)候。
次に二位中将殿(ちゆうじやうどの)御所望の事は、必しも入道殿(にふだうどの)の御子孫にても渡らせ給はず、強御憤(おんいきどほり)深かるべき御事ならず。去ば故小松殿(こまつどの)、並前(さきの)右大将殿(うだいしやうどの)などの御昇進の時は、理運数輩の人々を超越せられしか共、臣下も恐をなして申旨もなく、君も子細に不(レ)及御事とこそ承しか。其上叙位除目、関白殿(くわんばくどの)の御計なれば、誰か難(レ)申侍べき。縦又一度は君の御あやまりに渡らせ給とも、臣(有朋上P381)以不(レ)可(レ)不(レ)為(レ)臣と申、本文も候ぞかし。所詮御家門に於て、君のとかくなんと被(二)聞召(一)(きこしめさるる)事は、偏(ひとへ)に謀臣の凶害と覚候。信(レ)耳疑(レ)目俗弊なり。少人の浮言を信じて、まのあたり朝恩の他に異なるを蒙て、君を背奉らん事、冥顕に付て其憚不(レ)少。凡天心蒼々として、叡慮量り難し、定て其故ぞ候らん、下として上に逆る事、豈人臣の礼たらんや、能々可(レ)有(二)御思慮(一)、又仰の趣伺(二)便宜(一)て可(二)奏申(一)、さらば暇申てとて、法印座を立給ければ、入道高らかに、院宣の御使也、各礼儀申べしと宣ければ、侍諸大夫等、八十余人(よにん)有けるが、一同に皆庭上に下て門送す。法印最騒ぬ体にて、弓杖三杖ばかり歩出て、立帰て深く敬屈して立帰られて
P0279
御座(おはしま)しければ、さのみは恐候とて、八十余人(よにん)皆縁の際に立帰る時、法印も歩給にけり。美々敷ぞ見えたりける。法印は穴いちじるしき人の心や、今朝の対面の遅さ無興さの有様(ありさま)に、唯今の泣様送礼の体、説法しすましたりと咲くぞ思はれける。法印出給ければ、入道も内に入給ぬ。さて人々申けるは、聞つるに合て、あはれ、さか/\しき人かな、是程に入道の泣口説給はんには、我等(われら)ならば院中の有事無事吐ちらして、追従してこそ出べきに、還て様々奉(二)教訓(一)、一々の返答文々句々、面白申されつる者かな、入道殿(にふだうどの)の日比(ひごろ)の御憤(おんいきどほり)事の外に蕩てこそ見え給(たま)ひつれ、三分が二は今の案にてこそ御座らめど(有朋上P382)も、時に臨で然べくも申つゞけ給たれば、邪雲も少晴給ぬらんと覚るにぞ目出けれと、悦人多かりけり。肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)が、道理也、去ば社中に僧俗多き中に選れて、御使にも立られめとて褒たりける。
或本文云、君王治(レ)国、忠臣扶(レ)君、船能載(レ)棹、棹能遣(レ)船と也。此言思合られて哀也。静憲法印忠臣として、よく君を奉(レ)扶事こそ神妙(しんべう)なれと、口々にこそ感じけれ。時は十一月十五日夜の事也。法印は西八条(にしはつでう)の南門より出給へば、明月は東山緑の松の木の間よりこそ出たりけれ。法印の胸に籠れる心月は、三寸の舌の端に顕て、入道の心の闇を照し、中冬十五日の夜半の月は、蒼天の空に円にして、法印の帰る車を耀せり。牛飼既(すで)に車を遣んとしければ、法印宣様、車暫押へよ、夜陰の行は路次狼藉也、迎の者共を待べしとて、下簾を■(かかげ)て、今夜の月の隈なきに、旧詩を思出て、
  誰人(たれのひとか)隴外久征戎、何処庭前新別離、
P0280
  不(レ)酔(二)黔中(一)争去得、磨囲山月正蒼々、 K073 
と詠じ終給はざる処に、迎の者ども出来れり。誰々参たるぞと尋給へば、金剛左衛門俊行、力士兵衛俊宗と、侍二人、烏黒なる馬に、白覆輪の鞍置て、漁綾の直垂の下に、火威の腹巻月の光に耀て、合浦の玉を瑩けるが如なり。市夜叉、滝夜叉とて、大の童のみめよきを二人、(有朋上P383)滋目結の直垂に、菊閉して、下腹巻に矢負たり。上下の弭に角入たる、滋藤の弓をぞ持たりける。下僧には、金力、上一、上万、金幢地、円覚、一夜叉、門能印、已上七人、此等も皆黒革威の腹巻に、手鋒長刀持ちたりけり。此静憲法印は、父信西入道の跡を遂、内典外典の学匠(がくしやう)、僧家俗家の才人にて、院内御気色(おんきしよく)も目出、上下万人誉を成、綺羅誠に神妙(しんべう)にして、言語殊に鮮也。召仕給ける従類は、能も賢く力も人に勝れたりけり。
S1112 金剛力士兄弟事
 < 金剛左衛門、力士兵衛と云侍は、兄弟也。熊野生立の者、十八歳にして五十人が力持たりける、剛の者也。熊野に有りける時、或人南庭に池を堀けるに、大石を堀出せり。五十人して此石を引すてんとしけれ共、さらに動く事なし。大勢にて明日引べしとて人皆帰ぬ。其傍に僧坊あり。皆石とて十八〔歳〕になる児の有けるが思けるは、五十人して引ども動かぬは、人の弱か石の重歟覚束(おぼつか)なしとて、うらなしと云物をはきて庭に下、夜中に人にしられぬ様にて此石を引見れば、安々と動けり。去ばこそ石は軽かりけり。人の弱と思ければ、件の石を二段計引て行、或僧坊の門に引塞て置。明朝に坊主起て門を見れ(有朋上P384)ば、大石道を塞て可(二)出入(一)様なし。天狗の所為にやと身毛竪てこれを披露すれば、上下集て不思議の思をなす。金剛力士の所為歟、四天大王の態歟、又鬼神の集て引たるかとて見程に、庭のうらなしの跡あり。跡をとめて行て見れば、皆石と云児の坊へ尋ね至れり。縁の上にうらなしあり。妻戸を開て児を見れば、
P0281
兄弟二人の児あり。兄は皆石十八、弟は皆鶴十五になる。皆鶴は未臥たり、皆石は唯今起たる体にて、寝乱髪ゆり懸て琴を調て居たり。文机には、史記、文選、歌双紙など並置たり。美目貌厳して、西施が顔色にも過てあてやかなり。帰鴈のつらをなせる柱の上に、白く細やかなる手付、衣通姫の容貌潔し。去ば彼やさしき姿にも、五十人が力に勝て、一人して二段計大石を引ける事よと不思議也。千字文と云文に、器欲(レ)難(レ)量といへり。実に稚けれども力つよき者も有けり。鉄は小〔に〕して強き万物に勝、竜子は小なれ共雲を起す事も大竜に同じ。伽那久羅虫はすはう螺の下にかくれて大木を砕く風を起す。栴檀は二葉なれども四十里の伊蘭を消し、天の甘露は少しきなれ共諸病を愈す。火は芥子計なれども一切の物を亡し、仏は■蒭の勢に御座共、一切衆生の導師たり。皆石十八歳の齢にて五十(ごじふ)余人(よにん)が力を持たりけり。器欲(レ)難(レ)量と云も理也など云沙汰しける折節(をりふし)、静憲法印熊野参詣の次に、此児の(有朋上P385)事を聞給(たまひ)て、皆石皆鶴、兄弟二人を請出て見参し給たり。此児の師匠に、祐蓮坊阿闍梨(あじやり)祐金に対面して、此児童兄弟はいかなる人ぞと尋ね給へば、祐金答申て云、母にて侍し者は、夕霧の板とて山上無双の御子、一生不犯の女にて候し程に、不(レ)知者夜々(よなよな)通事有て儲たる子どもとぞ申侍し。其御子離山して、今は行方を不(レ)知と申す。法皇宣(のたま)ひけるは、美目よき同宿を尋る身にて侍、兄弟両人ながら静憲に賜候へかし。院内の見参にも入、所領官爵をも申て、人目よき様に扶持せんと所望し給へば、祐金阿闍梨(あじやり)老眼より涙をはら/\と流して、赤子の時より養育して、成人の今まで立離るゝ事候はず、十余年の芳契名残(なごり)実に惜く侍れども、彼等世にあらん事をこそ、神にも仏にも祈り申事なれば、然べき事にこそと悦て、二人の児を奉る。阿闍梨(あじやり)も又もと思ふ、見参も難(レ)叶ければとて、京まで二人を送けり。祐金暇申て帰り下るとて、児を左右の袂(たもと)にかゝへて申けるは、定めなき浮世の習は、風にちる花のためし、雲にかくるゝ月の理り、老少互に前後を知ざれ共、若きはさすが憑あり、祐金齢已に八旬に及、残月幾なし、是最後の別なり。後生菩提は助弔給へ
P0282
とて衣の袖を濡しけり。二人の児は、住馴れしふる里も、山川遥(はるか)に立隔ぬ。父とも母とも深く憑て、十余年芳恩を蒙りし、師範の名残(なごり)も惜ければ、袖をし(有朋上P386)ぼりけり。さて祐金は熊野へ帰下、又児童は京都に留て、法印をぞ憑ける。後には元服(げんぶく)して、皆石は金剛左衛門、皆鶴は力士兵衛とぞ改名したる。兄弟共に大力也ければなり。金剛左衛門は、下針をも射る上手也ければ、異名には、養由左衛門共云。力士兵衛は射的の上手にて、百手の矢を以、的を州浜形に射成ければ、異名には州浜兵衛とも云けり。法印は弟子ながらも、子の如くに最惜して、一日も身を離たれず、殊に出仕交衆の時は、影の如くに身に随へて、此等二人を具せられぬれば、数十人の郎従を引率したる心地して、最憑しくぞ思れける。市夜叉、滝夜叉と云童も、二人ながら二十人が力あり。小法師原(ほふしばら)も一人当千(いちにんたうぜん)の奴原也ければ、法印何事か御座らんとて、迎に参たりけるなり。余所の人目までも、きら/\しくぞ見え給ふ。牛飼車を遣出して、御所へ仕候べきか、清水の御坊へかと申せば、法印は夜已に深更也、御所は定て御寝ぞ御座(ござ)あるらん、早旦に可(レ)参と仰ければ、小路きりに東山へぞ遣て行。雲井に照す月影は、寒行霜に隈もなく、鴨の河原に鳴千鳥、瀬々の波にぞまがひける。五更(ごかう)の空も黎明に、清水の坊に入給ふ。>