『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十二

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遠巻 第十二
S1201 大臣以下流罪事
治承三年十一月十五日、入道奉(レ)恨(二)朝家(一)由聞えしか共、静憲法印院宣の御使にて、様々会釈申ければ、事の外にくつろぎ給たり。上下大に悦で、今はさしもやはと人々思被(レ)申けるに、四十二人の官職を止て、被(二)追籠(一)。その内参議皇太后宮(くわうたいごうぐう)権大夫兼右兵衛督(うひやうゑのかみ)藤原光能卿(みつよしのきやう)、大蔵卿(おほくらのきやう)右京大夫兼伊予守高階泰経朝臣、蔵人右少弁(うせうべん)兼中宮権大進藤原基親朝臣、以上三官被(レ)止。按察使大納言(だいなごん)資賢卿、中納言師家卿、右近衛権少将兼讃岐権守資時朝臣、大皇太后宮権少進兼備中守藤原光憲朝臣、已上被(レ)止(二)二官(一)。上卿は藤大納言(だいなごん)実国、職事左少弁(させうべん)行隆、別当平(へい)大納言(だいなごん)時忠とぞ聞えし。
当時関白(くわんばく)太政大臣(だいじやうだいじん)基房公〈 松殿と申 〉をば、太宰権師に奉(レ)移、筑紫へ奉(レ)流。住馴し都を別れ、悲き妻子を振捨、遠旅に出させ給ければ、係る浮世にながらへて何にかはせんと覚召、つや/\物も進ず、御命も危く聞えさせ給けるが、思召(おぼしめし)切せ給(たま)ひ、大原(おほはら)の本覚坊の上人を召して、淀に古川と云所にて、御出家(ごしゆつけ)(有朋上P388)受戒あり、御年三十五。世中御昌りにて礼儀よくしろしめし、曇なき鏡にて御座(おはしまし)つる御事をと、上下奉(レ)惜。入道は、出家の人をば、本の約束の国へは遣ぬ事にてある也とて、筑紫へはさもなくて、備前国湯迫と云所へぞ奉(レ)流ける。大臣流罪の事、左大臣蘇我赤兄、右大臣豊成公、左大臣魚名公、右大臣菅原、
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右大臣高明公、内大臣(ないだいじん)藤原伊周公等に至るまで六人也。されども清和(せいわの)帝御宇(ぎよう)、摂政(せつしやう)にて太政大臣(だいじやうだいじん)良房〈 忠仁公 〉白川殿〈 又染殿 〉小松帝御宇(ぎよう)、関白(くわんばく)にて太政大臣(だいじやうだいじん)基経、〈 昭宣公 〉堀川(ほりかは)殿と申より以来、帝皇廿四代、摂録十八代、摂政(せつしやう)関白(くわんばく)流罪の事是を始とぞ申ける。按察使大納言(だいなごん)資賢子息左少将通家孫、右少将雅賢三人京中を可(二)追出(一)由、博士判官中原章貞に被(二)下知(一)ければ、追立検非違使(けんびゐし)来て、遅々と責追けるこそいと悲けれ。恐しさの余に北の方に物をだにもはか/゛\しく不(二)宣置(一)、子孫引具して出給ふ。仮初のありきにだにも、馬よ牛よ輿ぞ車ぞとて、あたりを払、綺羅を研てこそ出入給しに、浅間敷(あさましき)賤がはきものわらぐつなど云物をはき給(たまひ)て出給へば、北方より始て女房侍に至る迄、無人を送出す様に喚叫事不(レ)斜(なのめならず)。三人夜中に出給ける上に、落る涙にかきくれて、行先も見え給はず。心うや配所を何所とだに定ぬ事よと悲くて、九重の内を紛れ出て、八重立雲の外へ、足に任て這々、彼大江山、生野の道を越過て、丹波(有朋上P389)国村雲と云所にぞ暫さすらひ給ける。後には召返されて信濃国(しなののくに)奥郡へ流され給けり。此資賢卿は今様朗詠の上手にて、院の近習者当時の寵臣にて御座(おはしま)しければ、法皇諸事内外なく被(二)仰合(一)けるに依て、入道殊にあたまれけるとかや。
同七日に妙音院太政大臣(だいじやうだいじん)師長は、参河国へとは披露有けれども、実には尾張国井戸田へ流罪とて、都を出され給けり。此大臣は去保元元年に、中納言中将と申て、御歳二十にて御座(おはしまし)ける時、父宇治悪左府(あくさふ)の世を乱り給し事に依て、兄弟四人土佐国へ流され給たりけるが、御兄の右大将(うだいしやう)兼長卿も、御弟の左中将
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隆長朝臣も、範長禅師も、配所にて失給にき。此は九年をへて、長寛二年六月廿七日に被(二)召返(一)、其年の閏十月十三日に本位にかへし、次年八月十七日(じふしちにち)に正二位(しやうにゐ)し給(たまひ)て、仁安元年十一月五日、前中納言より権大納言(ごんだいなごん)に移り給ふ。大納言(だいなごん)のあかざりければ、員の外に加給けり。大納言(だいなごん)六人になる事、是より始れり。又前中納言より、大納言(だいなごん)に移る事も、先蹤希也とぞ承る。阿波守藤原真作の子後山階大臣三守公、源大納言(だいなごん)俊賢の子、宇治大納言(だいなごん)隆国卿の外、其例希也。此大臣は管絃の道に達し、才芸人に勝れ給(たまひ)て、君も臣も奉(レ)重しかば、次第の昇進不(レ)滞、程なく太政大臣(だいじやうだいじん)に上らせ給へりしに、いかなる事にて又係御目に合せ給らんと、人々歎申けり。十六日(じふろくにち)の晩に、山階まで出奉りて、同(おなじき)十七日(じふしちにち)の(有朋上P390)暁深く出給へば、会坂山に積る雪、四方の梢も白して、遊子残月に行ける、函谷の関を思出て、是や此延喜第四の御子、会坂の蝉丸、琵琶を弾じ和歌を詠じて嵐の風を凌つつ、住給けん藁屋の跡と心ぼそく打過て、打出浜、粟津原、未夜なれば見分ず。抑昔天智天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、大和国(やまとのくに)飛鳥の岡本の宮より、当国志賀郡に移て、大津宮を造たりと聞にも、此程は皇居の跡ぞかしと思出て、あけぼのの空にも成行ば、勢多唐橋渡る程、湖海遥(はるか)に顕て、彼満誓沙弥が比良山に居て、漕行舟の跡の白波と詠じけんも哀也。野路宿にも懸ぬれば、枯野の草に置る露、日影に解て旅衣、乾間もなく絞りつゝ、篠原の東西を見渡せば、遥(はるか)に長堤あり。北には郷人棲をしめ、南には池水遠く清めり。遥(はるか)の向の岸の汀(みぎは)には、翠り深き十八公、白波の色に移りつゝ、南山の影を浸ねども、青して滉瀁たり。州崎にさわぐ鴛鴦鴎
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の、葦手を書ける心地して、鏡宿にも著ぬれば、むかし扇の絵合に、老やしぬらんと詠じけんも、此山の事也。去(さる)程(ほど)に師長は武佐寺に著給ふ。峰の嵐夜ふくる程に身に入て、都には引替て、枕に近き鐘の声、暁の空に音信(おとづれ)て、彼遺愛寺の草庵の、ねざめも角やと思知れつゝ、蒲生原をも過給へば、老曽森の杉村に、梢に白く懸る雪、朝立袖に払ひ敢ず、音に聞えし醒井の、暗き岩根に出水、柏原をも過ぬれば、美濃国関山(有朋上P391)にも懸りつゝ、谷川雪の底に声咽嵐、松の梢に時雨つゝ、日影も見えぬ木の下路、心ぼそくぞ越え給ふ。不破の関屋の板廂、年へにけりと見置つゝ、妹瀬川にも留給ふ。此は霜月廿日に及ぶ事なれば、皆白妙の晴の空、清き河瀬にうつりつゝ、照月波もすみわたり、二千里外古人心、想像旅の哀さ最深し。去(さる)程(ほど)に尾張の井戸田の里に著給。保元の昔は西海土佐の畑に被(レ)遷て、愛別離苦の怨を含、治承の今は、東関尾張国へ被(レ)流、怨僧会苦の悲を含給。但し心ある人は皆罪なくして、配所の月を見んと願事なれば、大臣彼唐太子賓客白楽天の、元和十五年の秋、九江郡の司馬に被(二)左遷(一)、潯陽江側に遊覧し給ける古きことに思慰て、鳴海潟塩路遥(はるか)に遠見して、常は朗月を望、浦吹風にうそぶきつゝ、琵琶を弾じ和歌を詠じて、等閑に日を送り給けり。或夜当国第三宮、熱田の社に詣し給へり。年へたる森の木間より、漏り来月のさし入て、緋玉垣色をそへ、和光(わくわう)利物の榊葉に、引立標縄の兎に角に、風に乱るゝ有様(ありさま)、何事に付ても神さびたる気色也。此宮と申は、素盞烏尊(そさのをのみこと)是也。始は出雲国の宮造りして、八重立雲と云三十一字の言葉は此御時より始れり。景行天皇(けいかうてんわうの)御宇(ぎよう)に此
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砌(みぎり)に跡をたれ給へり。(有朋上P392)
S1202 師長熱田社琵琶事
師長公終夜(よもすがら)為(二)神明納受(なふじゆ)(一)、初には法施を手向奉り、後には琵琶をぞ弾じ給ける。調弾数曲を尽し、夜漏及(二)深更(一)で、流泉、啄木、揚真藻の三曲を弾給処に、本より無智の俗なれば、情を知人希也。邑老村女魚人野叟参り集り、頭を低欹(レ)耳といへども、更に清濁を分ち、呂律を知事はなけれ共、瓠巴琴を弾ぜしかば魚鱗踊躍き。虞公謌を発せしかば、梁塵動揺けり。物の妙を極る時は、自然の感を催す理にて、満座涙を押へ、諸人袂(たもと)を絞けり。増て神慮の御納受(ごなふじゆ)さこそは嬉く覚すらめ。暁係て吹風は、岸打波にや通らん、五更(ごかう)の空の鳥の音も、旅寝の夢を驚す。夜もやう/\あけぼのに成行ば、月も西山に傾く。大臣御心をすまして、初には、
  普合(二)調中(一)花含(二)粉馥気(一)、流泉曲間月挙(二)清明光(一)、 
と云朗詠して、重て、
  願以(二)今生世俗文字業狂言綺語之誤(一)、翻為(二)当来世々讃仏乗之因転法輪之縁(一)、
〔と〕被(レ)詠て、御祈念と覚しくて、暫物も仰られず。良ありて御琵琶を掻寄て、上玄石像と云(有朋上P393)秘曲を弾澄給へり。其声凄々切々として又浄々たり。■々(さうさう)窃々(せつせつ)として錯雑弾、大絃小絃の金柱の操、大珠小珠の玉盤に落るに相似たり。御祈誓の験にや、御納受(ごなふじゆ)の至か、神明の感応と覚くて、宝殿大に動揺し、■振(ちはやふる)玉の簾のさゞめきけり。霊験に恐て大臣暫琵琶を閣給けり。神明白貍に乗給示して云、我天上にしては文曲星と顕て、一切衆生の本命元辰として是を化益し、此国に天降ては、赤青童子と示し
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て、一切衆生に珍宝を与、今此社壇に垂跡(すいしやく)して年久。而を汝が秘曲に不(レ)堪、我今影向せり。君配所に下り給はずは、争此秘曲を聞べき、帰京の所願(しよぐわん)疑なし、必復本位給べしと御託宣(ごたくせん)有て、明神上らせ給たりしかば、諸人身毛竪て奇異の信心を発す。大臣も平家係る悪業を致さずは、今此瑞相を可(レ)奉(レ)拝や、災は幸と云事は、加様の事にやと感涙を流し給(たまひ)ても、又末憑しくぞ覚しける。抑此曲と申は、仁明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、承和二年に、掃部頭貞敏、遣唐使として牒状を賜り、観密府に参じ、上覧に達して、琵琶の博士を望申れしに、開成二年の秋の比、廉承武を被(レ)送て、秘曲を被(レ)授、我朝に伝しは、流泉、啄木、楊真操の三曲也。其後村上帝御宇(ぎよう)、朗月明々として澄渡り、秋風さつ/\として物哀なる夜、御心をすまし、昼御座の上にして、玄象と云琵琶を、水牛の角の撥にて弾じすまさせ給(たま)ひ、小夜深人定るまで(有朋上P394)唯一人御座(ござ)有けるに、一叢の雲南殿の廂に引覆、影の如なる者空より飛参て、琵琶の音に合て舞侍ければ、何者(なにもの)ぞと問せ給ふ。我は是大唐の琵琶の博士、劉次郎廉承武也。琵琶を極て仙を得たり。御琵琶の撥音のいみじさに参たり。去承和の比、遣唐使貞敏に三曲を授て今二曲を残せり。君の玄象の御調べの目出(めでた)きに、貞敏に惜て秘蔵したりし曲也、授奉んと申せば、聖主叡感の気まし/\て、御琵琶を差遣たりければ、掻直して、此は廉承武が琵琶也、貞敏に二賜ひたりし内也と申て、終夜(よもすがら)御談話有て、上玄、石象の二曲を奉(レ)授、仙人即飛去ぬ。帝御名残(おんなごり)惜く思召(おぼしめし)、雲井遥(はるか)に叡覧ありて、感涙を流させ給し曲也。三曲と云時は、流泉、啄木、楊真操是也。五曲と云時は、上玄、石象を具すとか
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や。係る目出(めでた)き曲なれば、廉承武も貞敏には惜て伝ざりし曲也。玄象と云も、又彼仙人の琵琶也。希代の重宝なりければ、清暑堂の御厨子に、ふかく被(レ)納たり。
 < 異本に云、此曲と申は、かたじけなく、霊仙玉廂軒にして操学、神楽につたへし妙調、堯採館の月の下に、承武が攘■に立翔り、天子にさづけし秘曲也。>
此師長公、保元の昔西国(さいこく)へ流され給しに、年十二三計と見えて、優なる童一人御舟に参て、朝夕に仕へけり。彼国近く成て、童暇を申て罷さらんとしければ、大臣怪(レ)之、汝は何の国のいかなる者ぞと問給へば、京都に侍る者也、(有朋上P395)君の流罪の由を承て、路の程の御徒然に参りたりと申す。都にても御覧たりとも覚えず、京は何所ぞと尋給ければ、大内裏に常に出入侍也と申。我内裏に奉公して年久し、去共懸る童在とも不(レ)覚者をやとて、能々尋給ければ、清涼殿の御節の箱に、玄上と申琵琶也とて、掻消様に失にけり。されば師長流罪の後は、玄上の甲はなれ絃切て、天下の騒にぞ有ける。理や西国(さいこく)までまし/\たりければ也。此大臣配所の徒然を慰まんとて、宮路山へ分入給つゝ、木々の紅葉を遊覧あり。此は十月二十日余(あまり)の事なれば、梢まばらにして、落葉道を埋、白霧山を阻て、鳥声幽也。山又山の奥なれば、旅寝の里も見えざりけり。後は松山峨々として、白石滝水流れ出、苔石面に生て、嵐尾上の冷、誠に石上珍泉の便を得たる勝地あり。御心の澄ければ、上玄の曲を調つべくぞ覚しける。岩の上に虎皮の御敷皮を打しき、紫藤の甲の御琵琶一面を掻すゑて、撥をとり絃を打鳴し給へり。四絃弾
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の中には、宮商弾を宗(むね)とし、五絃弾の中には、玉しやう弾を先とす、軽■(おし)慢撚て撥復挑、初為(二)霓裳(一)、後には六幺す。大絃は■々(さうさうとして)如(二)急雨(一)、小絃窃々(せつせつとして)如(二)私語(ささやく)(一)、第一第二絃の声は索々たり。春の鶯関々として、花本に滑也。第三第四絃の声は窃々(せつせつ)たり。閑泉幽咽して氷の下眤、鳳凰鴛鴦の和鳴の声を添へずといへ共、事の体山祇感をたれ給らんと(有朋上P396)覚えたり。さびしき梢なれ共、萩花啄木は空に玲瓏の響を送る。其時水の底より青黒色の鬼神出現して、膝拍子を打て、和に厳き音を以て、御琵琶に付て唱歌せり。何者(なにもの)の仕業なる覧と覚束(おぼつか)なし。曲終り撥を納給時、我は是此水の底に多の年月を経しかども、未是ほどの面白く、目出(めでた)き御事をば承及ばず、此御悦には今十日の内に帰洛せさせ奉らんと、申も終らず掻消様にぞ失にける、水神の所行といちじるし。此等の事を思召(おぼしめし)合するにも、悪縁は即善縁の始なりけりと、今さら思ひ知給ふ。されば明神の御託宣(ごたくせん)水神の悦申の験にや、第五箇日と申に、帰洛の奉書を被(レ)下たり。管絃の音曲を極て、当代までも妙音院の大相国(たいしやうこく)と申は、此大臣の御事なり。
 < 治承三年に流され給(たまひ)て、同四年に召返ありと。>
此大臣帰洛の後有(二)御参内(ごさんだい)(一)。御前にて琵琶を調べ給ければ、月卿(げつけい)雲客(うんかく)頭をうなだれ、廉中堂上目をあやにして、何なる秘曲をか弾じ給はんずらんと被(レ)思けるに、珍しからぬ還城楽(げんじやうらく)をぞ弾じ給ふ、皆人思はずに思へりけり。去共大臣御心には深き所存御座(おはしまし)けり。還城楽(げんじやうらく)とは、都に帰て楽と云読のあれ
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ば、昨日は東関の外に被(レ)遷、草庵に懶住居也しか共、今日は北闕の内に仕て、槐門に楽み栄えて御座(おはしまし)ければ、此曲を奏し給ふも理也と、後にぞ思合られける。(有朋上P397)
S1203 高博稲荷社琵琶事
高博と云し人の母、重病を受て存命不定なりしが、逝て不(レ)還ば、盛年、別て会がたきは悲の親也。いかゞせんとて、様々労けれ共、終に療治(りやうぢ)の効なかりければ、稲荷社に七箇日参篭して、母の病を祈申けり。第七日の夜及(二)深更(一)、心を澄て琵琶を抱て、上玄石象の曲を弾ぜしに、折節(をりふし)御前の燈炉の火消なんとしけるを、御宝殿の内より金の扉を押開き、玉簾を巻上て、丱童一人出現し、燈をぞ挑ける。高博奉(レ)拝(レ)之、神慮の御納受(ごなふじゆ)憑しく覚て、即下向したりければ、母の重病たちどころに平愈して、更に恙ぞなかりける。懸る目出(めでた)き秘曲也、争か輙聞給べきに、適大臣の依(二)配流(一)此曲を弾ぜしかば、熱田大明神(だいみやうじん)も御納受(ごなふじゆ)ありけり。左衛門佐業房は伊豆国(いづのくに)へ流し遣さる。備中守光憲は罪科せられぬ前に、無(レ)由とて本どり切て引籠りぬ。源判官遠業は、四十二人の罪科之内と聞て、さては難(レ)遁身にこそ、伊豆国(いづのくに)の流人、前兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)こそ、思へば末たのもしき人なれ、打憑み下りたらば、自然に遁るゝ事も有なんとて、子息相具して、瓦坂の家を打出、稲荷山に籠て醍醐の山を伝ひ、田上通に野路の原より関東へ下んと思立たりけるが、抑兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)と云も、世に有人(有朋上P398)にてもおはせず、左右なく請取給事も不定也、又平家の人々在々所々に充満たり、中々路頭にて云甲斐なく被(二)討捕(一)、恥を見ん事心うしと思返、瓦坂の家に打帰て、屋に火を懸て父子二人手を取組て、炎中に飛入て焼死にけり。鳴呼がましき
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様には云けれども、時に取てもゆゝしき剛者、哀也と云者も多かりけり。此外の人々も、只今(ただいま)いかなる事をかきかんずると周章(あわて)騒ぎて、安堵の思なかりけり。
近衛入道(にふだう)殿下(てんが)をば、其時は中殿とぞ申ける。其御子に、二位の中将とて御座(おはしまし)けるを、太政(だいじやう)入道(にふだう)聟に奉(レ)取て、一度に内大臣(ないだいじん)より関白(くわんばく)になし奉る。大納言(だいなごん)をへずして、二位中将より大臣関白(くわんばく)になる事其例なし、是ぞ始なる。節会も行はれ、大臣召の有事もあり、先例ある事にや。上卿も宰相も、大外記大夫の史までも、皆あきれ迷て肝心も身に副ぬ体也けり。去ば是何故ぞと■(おぼつか)なし。昔堀川(ほりかはの)関白(くわんばく)忠義公 兼通、従三位権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)にておはしけるが、一条摂政殿(せつしやうどの)失給たりしに、天禄三年十一月廿七日に、俄(にはか)に大納言(だいなごん)をへ給はず、中納言より内大臣(ないだいじん)に成給(たまひ)て、内覧の宣旨を被(レ)下たりしこそ、珍しき事と人思へりしに、是は非(二)参議(一)して、大臣摂禄、ためしなき事也。
去々年の夏、成親卿(なりちかのきやう)父子、法勝寺(ほつしようじ)執行俊寛、北面の下搴、が、事にあひしをこそ、君も臣も浅猿(あさまし)と被(二)思召(一)(おぼしめされ)しに、是は今一きはの事也、今関白(くわんばく)に成給へる、二位中将殿(ちゆうじやうどの)の、中納言に成(有朋上399)給べきにて有を、太政(だいじやう)入道(にふだう)三度まで執申されしを、御免なくして、前関白殿(くわんばくどの)の御子、三位中将師家の、八歳になり給へるが、傍より押違へて成給へる故也。されば静憲法印にも被(二)怨申(一)ける其一也と人申ければ、さらば関白殿(くわんばくどの)計こそ事にもあひ給ふべきに、四十余人(よにん)まで罪なるべしや、何様にも直事には非ず、是は偏(ひとへ)に入道に、天魔の入替たるにやとぞ申ける。
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S1204 教盛夢忠正為義(ためよし)事
去保元年中に、新院讃岐に遷され御座(おはしま)し、左府(さふ)流矢にあたり給(たま)ひ、般若野に奉(レ)送たりけるを、信西が計ひとして左府(さふ)の御首(おんくび)を掘起して被(二)実検(一)(じつけんせられ)、首を山野に奉(レ)捨、新院讃岐国にて、五部大乗経を御書写ありて、是を都近き所に納奉らせんと仰けるを、是も信西が計ひとして、入れ進せざりければ、新院口惜事也、我身にこそ角憂目を御覧ずとも、大乗経何の咎御座(おはしまし)てか都の内に入せ給はざるべき、今生の怨のみに非ず、後生まで敵にこそとて、思死に隠させ給しかば、旁の怨霊の故にや、打続世の中静ならず。依(レ)之(これによつて)去年七月に讃岐院を神と奉(レ)祝、崇徳院と御追号あり。宇治左府(さふ)には贈位とて、正一位を宣下あり(有朋上P400)けれ共、怨霊猶しづまり給はざりけるにや、平中納言教盛の夢に見給(たま)ひたりけるは、保元に討れし、平馬助忠正、六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)入道為義(ためよし)、大将軍と覚しくて、数百騎(すひやくき)の勢共有ける中に、或柿衣に不動袈裟係たり、或鴟甲に鎧著たり、或首丁頭巾に腹巻きたりなんどして、讃岐院を張輿にのせ奉て、木幡山の峠に舁すゑ奉て、可(レ)奉(レ)入(レ)都由評定しけり。新院の御貌を奉(レ)見ば、足手の御爪長々と生、御髪は空様に生て、銀の針を立たるが如し。御眼は鵄の目に似させ給へり。是も柿の衣をぞ召たりける。為義(ためよし)申けるは、西国(さいこく)より遥々(はるばる)と是まで上著ぬ。抑君をば何所へ可(二)入進(一)やらんと申せば、忠正子細にや及べき、法皇の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へと云。為義(ためよし)其は叶候はじ、院(ゐんの)御所(ごしよ)は当時天台座主(てんだいざす)御修法にて、不動大威徳門々を守護し給へり、輙入れ奉り難しと申せば、さてはいかゞ有べきと、種々に評定しけるに、新院仰の有けるは、御所に成べき便宜の所なくば、只太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所へ入進せよと仰けれ
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ば、さらば舁進せよやとて、忠正は前輿為義(ためよし)は後輿を仕て、数百騎(すひやくき)の者共手々に奉(レ)捧て、入道の宿所西八条(にしはつでう)へ入進するとぞ見えたりける。教盛卿(のりもりのきやう)は夢覚給たりけれ共、猶現とは思はれず、此由角と内々申給けれ共、入道はさる片顔なしの人にて、更に用給はざりける上、げにも怨霊のよく入替給たりけるにや、現心もなく物狂しくして、天下(有朋上P401)を乱り臣下を悩す。入道猶腹をすゑ兼たりと聞えければ、残る人々も今いかなる事を聞んずらんと、肝魂を消す。馬も車も騒しく通れば、あは何事やらんと浅増(あさまし)く、大路門に人の物を云ば、我身の上かと心噪くして、貴も賤も安堵の思ひぞなかりける。
S1205 行隆被(二)召出(一)事
前左少弁(させうべん)行隆と申人御座(おはしまし)けり。故中納言顕時卿の長男にて御座(おはしまし)しが、二条院の御代に近召仕れ奉て、弁に成給へりし時も、右少弁(うせうべん)長方を越て、左に加り給へり。五位正上し給へりし中にも、顕要の人八人(はちにん)を越などして、優々しかりしが、二条院に奉(レ)後て時を失へり。仁安元年四月六日より、官を止られて篭居し給しより、永く前途を失て、十五年の春秋を送つゝ、夏冬の更衣も力なく、朝暮の食事も心に叶はで、悲の涙を流し、明し暮させ給けり。十六日(じふろくにち)の狭夜更程に、太政(だいじやう)入道(にふだう)より使とて、急ぎ立寄給へ、可(二)申合(一)事ありと、事々敷云ければ、行隆何事やらんと、うつゝ心なく騒給へり。此十五年の間何事も相綺事なし、身に取て覚る事はなけれ共、上下事にあふ折節(をりふし)なれば、若謀叛などに与する由、人の讒言に依て、成親卿(なりちかのきやう)の被(二)引張(一)し様にやと振わなゝき、思はぬ事もなく思はれけれ(有朋上P402)共、何様にも行向てこそ、兎にも角にも機嫌に随はめと思ひて、憖に参ずべき由、返事はし給たりけれ共、装束
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牛車もなかりければ、弟の前左衛門権佐時光の本へ、係る事と歎遣したりければ、牛車雑色装束ども、急ぎ遣したり。軈(やが)て取乗て出給ふ。北方より子息家人に至るまで、何事にかと肝心を迷て泣悲、左右なく出給べからず、よく/\世間をもきき、太政(だいじやう)入道(にふだう)の気色をも伺ひ給(たまひ)てこそと、口々に申けり。理也、上揄コ搓゚科せられて、東国西国(さいこく)へ被(二)流遣(一)折節(をりふし)なれば、留め申さるも道理也。行隆は不参は中々様がまししとて、西八条(にしはつでう)へ御座(おはしま)しつゝ、車より下、わなゝく/\、中門の廊に居給へり。入道やがて出合て見参して宣(のたまひ)けるは、故中納言殿(ちゆうなごんどの)も親く御座上、殊に奉(レ)憑大小事申合せ進候き。其御名残(おんなごり)とてましましせば、疎にも不(レ)奉(レ)思、御篭居久く成をも歎存侍しかども、法皇の御計なれば力及ばず過ぬ。今は疾々御出仕有べしと宣(のたまひ)ければ、左も右も御計に随ひ奉べしとて、ほくそ咲て出られぬ。宿所は還て入道のかくいはれつると語給へば、北方より始て、出給(たま)ひつる心苦さに、今は皆泣笑して喜合給へり。後朝に源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)季貞を使として、小八葉の車に、入道殿(にふだうどの)の秘蔵の牛係て、牛飼の装束相具し、百石の米、百匹の絹、被(二)送遣(一)ける上に、今日軈弁に奉(二)成返(一)と有ければ、大形嬉などは云計なし。手の舞足の踏所を(有朋上P403)忘たり。被(レ)免(二)出仕(一)だにも有難に、さしも貧しかりつる家中に、百石百匹牛車を見廻し給(たま)ひけん心中、唯推量るべし。一門の人々も馳集、家中の者ども寄合て酒宴歓楽しても、抑是は夢かや/\とぞ云ける。十七日(じふしちにち)に右中弁(うちゆうべん)親宗朝臣の被(二)追籠(一)たりける、其所に行隆成かへり、同(おなじき)十八日(じふはちにち)に五位蔵人に成り給けり。今年五十一、今更若やぎ給ふも哀也。
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S1206 一院鳥羽篭居事
同(おなじき)二十〔一〕日、院(ゐんの)御所(ごしよ)七条殿に軍兵如(二)雲霞(一)馳集て四面を打囲、二三万騎もや有らんとぞ見えける。御所中(ごしよぢゆう)に候合たる公卿殿上人(てんじやうびと)、上下の北面女房達(にようばうたち)、こは何事ぞとあきれ迷けり。昔悪右衛門督(あくうゑもんのかみ)信頼卿(のぶよりのきやう)、三条殿を仕たりし様に、御所に火を懸て、人をも皆可(二)焼殺(一)なんど云者も有ければ、局々の女房女童部(をんなわらんべ)までをめき叫、かちはだしにて、物をだにも打かづかず迷ひ出て、倒れふためきて騒合り。理也。法皇は日比(ひごろ)の有様(ありさま)、事の体御心得(おんこころえ)ぬ事なれ共、流石(さすが)忽(たちまち)に懸べしとは思召(おぼしめし)よらざりけるに、まのあたり心憂事を叡覧ありければ、只あきれてぞ渡らせ給ける。御車寄には前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)参給へり。法皇の仰には、こは何事(有朋上P404)ぞ、遠国へも遷し人なき島にも放つべきにや、左程の罪有とこそ思めさね、主上さて御座(おはしま)せば世務に口入する事計にてこそあれ、其事不(レ)可(レ)然、向後は天下の事にいろはでこそあらめ、汝さてあれば、思放つ事はよもあらじとこそ思召(おぼしめ)せ、其にいかにかく心憂目をば見するぞと仰られもあへず、竜眼より御涙(おんなみだ)をはら/\と流させ給けり。大将も見進せては涙を流被(レ)申けるは、指もの御事は争有べき、世間鎮らんまで、暫く鳥羽殿(とばどの)へ移し進せんとぞ、入道は申侍つると被(レ)申ければ、左も右も計にこそと仰もはてさせ給はぬに、御車を指よせて大将軈(やが)て御車寄に候はれけり。御経箱計ぞ御車には入させ給ける。御供をも仕れかしと御気色(おんきしよく)の見えければ、宗盛卿(むねもりのきやう)心苦く思進て、御供候て見置進たくは思給(たま)ひけれども、入道いかゞ宣はんずらんと恐さに、涙を押へて留り給ふ。公卿殿上人(てんじやうびと)の供奉する一人もなし、北面の下搏三人ぞ候ける。御力者(おんりきしや)に金行法師は、君はいづくへ御幸有て、何と
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ならせ給やらんとて、御車の後に、下揩ネればかきまぎれて泣々(なくなく)ぞ参ける。其外の人々は、七条殿よりちり/゛\に皆帰にけり。御車の前後左右には、軍兵いくらと云数を不(レ)知、打囲て、七条殿を西へ朱雀を下に渡らせ給ければ、上下貴賤の男女迄も、法皇の流され御座と■(ののし)り見進ければ、御供の兵までも涙をぞ流しける。鳥羽の北殿(有朋上P405)へ入進せけり。平家の侍に肥前守泰綱奉て奉(二)守護(一)。御所には然べき者一人も候はず、右衛門佐と申ける女房の、尼に成て、尼御前をば略して、尼ぜと申ける計ぞ免されて候ける。唯夢の心地してぞ御座(おはしまし)ける。供御進たりけれ共、御覧じ入るゝ御事なし、不(レ)尽けるは、唯御涙(おんなみだ)計也。門の内外には武士充満して所もなし、国々より駈上せたる夷共なれば、争か御覧じ知せ給べき。つへたましげなる顔気色、うとましげなる事様也。大膳大大業忠、其時は兵衛尉とて十六に成けるを召れて、朕は今夜失はれぬと覚る也、最後の御所作の料に、御湯召されたきは叶はじや、水などは冷じく思召(おぼしめす)にと仰ければ、業忠今朝よりは肝魂も身に添はず、只音魂計にて有けるに、此仰を奉て、いとゞ絶入心地して、物も覚えず悲かりけれ共、狩衣の玉襷上て、水を汲たれども薪もなし。縁の束柱を放集てたき物として、御湯構出して進たりければ、御湯懸召て泣々(なくなく)御行始りて後は、終夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)をぞ遊しける。最後の御勤と思召(おぼしめし)ければにや、例よりも殊に物悲くて、鈴の響も耳に透り、読経の御音も肝に銘ず。二聖二天、十羅刹女も、十三大会(たいゑ)、菩薩聖衆も、いかに哀と覚しけん、今夜別の御事なくて明にけり。去七日の大地震、係る浅増(あさまし)き事の有べくて、十六洛叉の底迄も答つゝ、竪牢地祇、竜神(りゆうじん)
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八部も驚騒給けるにこそと覚たれ。陰陽頭泰親(有朋上P406)が馳参て泣々(なくなく)奏聞しけるも、今こそ被(二)思知(一)けれ。彼泰親は、清明六代の跡を伝て、天文の淵源を尽し、占文の秘枢を極めたり。推条は掌をさすが如く、卜巫は眼に見に似たり。一事も違事なければ、異名には指神子とぞ云ける。されば雷落懸たりけれども、少も恙なかりけり。十二神将(じふにじんじやう)をも進退し、三十六禽をも相従けり。いか様にも、正身の神歟仏歟、非(二)直人(一)とぞ申ける。
S1207 静憲鳥羽殿(とばどの)参事
静憲法印入道の許へ行向て被(レ)申けるは、法皇を鳥羽の御所に移し入おはすなるは、如何なる御咎の御座(おはしまし)候やらん、一日承し御憤(おんいきどほり)の未はれさせ給はぬにや、人一人も不(二)付進(一)と承ば、想像進て心苦く覚侍るに、蒙(二)御免(一)参て、御徒然をも慰め進ばやと被(レ)申たり。此法印はうるはしき人、濁れる世をも澄し、事あやまるまじき者なれば、何か苦からんと被(レ)免けり。法印悦で宿坊へも帰らず、軈(やが)て鳥羽殿(とばどの)へ参給へり。法皇は御経高らかに遊して、御前には人も候はず、法印急ぎ音なひて参たりけるを叡覧有て、強にうれしげに覚しつゝ、あれはいかにと仰もはてず、はら/\とこぼるゝ御涙(おんなみだ)は御経の上にぞ懸ける。(有朋上P407)法印も御有様(おんありさま)を見進て、御心中さこそはと忝(かたじけな)く覚ければ、やがて裘の袖を顔にあてて、音も惜ず泣給。尼ぜも臥沈たりけるが、法印被(レ)参たりけるに、力付て起あがり、泣々(なくなく)申けるは、昨日の朝七条殿にて貢御進たりし外は、夕も今朝も御熟米をだにも御覧じ入させ給はず、永き夜すがら御寝もならず、御歎のみ御心苦げに渡らせ御座(おはしま)せば、ながらへさせ給はん事もいかゞと覚るとて、又さめ/゛\となかりけり。法印心を定めて申されける、此事更に歎思召(おぼしめす)べから
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ず。平家は凡人と申ながら、家を興し世を取て、天下を我儘にして、二十余年の栄耀にほこるといへ共、何事も限あり、彼等は臣下也、君は国主に御座、忝(かたじけなく)も御裳濯川の御末、百王億載の御ゆづりを受させ給へり。草木風に靡きて、枝全く、万物地に依て生長す、非情の心なき猶以如(レ)此、況人臣として、朝家を嘲、在(レ)下上を蔑にせん事、いざ/\例多といへども、素懐をとげたる者なし、遠は三年を過ず、只今(ただいま)天の責を蒙なんず、是は偏(ひとへ)に天魔入道に入替て、其家の正に亡んずる也、御歎に及ばず、只今(ただいま)こそ角渡らせ給とも、伊勢太神宮、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、殊には君の憑み思召(おぼしめ)さるゝ、山王七社(しちしや)、両所三聖、よも捨果進せ給はじ、災妖不(レ)勝(二)善政(一)、夢怪不(レ)勝(二)善行(一)と申事侍ば、只先非を悔させ給(たま)ひ、人民に恵を施し、政務に私あらじと思召(おぼしめさ)ば、天下は忽(たちまち)に君の御代に立返、(有朋上P408)悪徒(あくと)は必水の泡と消失ん事疑なし、御心づよく思召(おぼしめす)べしとて、貢御勧め被(レ)申ければ、いさゝか慰む御心地(おんここち)とて、御湯づけ少聞召入(きこしめしいれ)られけり。尼ぜも力付て覚えけり。此尼ぜと申は、法皇の御母儀(おぼぎ)侍賢門院の御妹、上西門院にも候はれけるが、品いみじき人にては無りけれども、心様さか/\しき上、一生不犯の女房にておはしければ、清き者也とて、法皇も幼稚の御時より近く召仕はせまし/\ければ、臣下も君の御気色(おんきしよく)に依て、尼御前とはかしづきよばはれけるを、法皇はたゞ尼ぜとぞ仰ける。鳥羽殿(とばどの)の唯一人付進せて候けり。君舟臣水、々治(レ)浪舟能浮(レ)水、湛(レ)波舟又覆と云ふ事あり。太政(だいじやう)入道(にふだう)保元平治両度の合戦には、御方にて凶徒(きようと)を退て君を助奉りき。水波を治めよく舟を浮たり。治承の今は勲功の威に誇て君を褊し奉る、水
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波を湛て舟を覆す憂あり。貞観政要の文、実也とぞ覚たる。
S1208 主上鳥羽御篭居御歎事
主上は臣下のかく成るをだにも、不便の事に歎き思食(おぼしめし)けるに、法皇の御事聞召(きこしめし)ては、不(レ)斜(なのめならず)御歎き有て、何事もおぼし召入ぬ御有様(おんありさま)にて日を経つゝ、はか/゛\しく貢御も進ず、打(有朋上P409)解御寝もならず、御心地(おんここち)悩しとて、常は夜のおとゞに入せ御座(おはしまし)ければ、后宮を始進せて、近く候はれける女房達(にようばうたち)も、心苦く見進ける。内より鳥羽殿(とばどの)へ御書あり。世もかくなり君も左様に御座ん上は、位に候ても何にかは仕べき、花山法皇の御座(おはしまし)けん様に、国を捨家を出て、山々寺々をも修行せんと思食(おぼしめす)とまで、申させ給たりければ、法皇、我御身は君のさて御座をこそ憑にて候へ、さやうに思召(おぼしめし)立なん後は、何の憑かは侍べき、左も右も此身のならん様を御覧じ終させ給へと、様々の御返事(おんへんじ)有ければ、いとゞ御歎の色深して、御書を竜顔にあてさせ御座(おはしま)して、御涙(おんなみだ)に咽せ給けるぞ悲き。太政(だいじやう)入道(にふだう)は天下の大小事一筋に、内の御計に有べしとて、福原へ下向あり。宗盛此由を被(二)奏聞(一)。思召(おぼしめさ)れけるは、主上聟也、天下を我儘にせんとや、法皇の御譲をえたる御世にも非ず、縦さりとても、法皇鳥羽殿(とばどの)に御心憂御形勢(おんありさま)に御座(おはしま)す、何のいさみ有てか、世事を可(二)聞召入(きこしめしいる)(一)、我御心に任する世ならば、法皇をぞ打籠進せざらんと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるにや、いかにも宗盛可(二)相計(一)、又関白(くわんばく)に申せとぞ仰は有ける。只明ても暮ても法皇の御事をのみ歎思食(なげきおぼしめし)て、世事はつゆ御計ひなかりけり。去二十日法皇鳥羽殿(とばどの)へ移らせ給と聞食(きこしめ)し後は、御神事とて、夜のおとゞへ入せ給(たま)ひ、毎(レ)夜に石灰の壇にて、太神宮をぞ拝し奉らせ給ける。法皇の御事を祈申させ給ける(有朋上P410)にこそ、
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同父子の御間なれども、殊に御志深かりけるこそ哀なれ。見進せける余所の袂(たもと)も乾く間ぞなかりける。百行の中には孝行を先とし、万行の間には、孝養勝たり、如来(によらい)万徳の尊孝を以て正覚を成、明王(みやうわう)一天の主、孝を以て国土を治といへり。去ば唐堯は衰老の母を貴、虞舜は頑なる父を敬へり。延喜の聖主は我朝の賢帝に御座(おはしまし)けれども、北野天神の御事に依て、寛平法皇の背(レ)仰給(たまひ)て、悪道に入せ給けり。二条院も賢王(けんわう)にて御座(おはしまし)けれ共、天子に父母なしとて、常に法皇の背(レ)仰申させ給ける故にや、継体の君までも御座(おはしま)さず、先立せ給、御ゆづりを受させ給たりし六条院も、御在位僅(わづか)に三箇年、五歳にて御位を退せ給(たま)ひ、太上天皇(てんわう)の尊号ありしか共、未御元服(ごげんぶく)もなかりしに、御年十三にて、安元(あんげん)二年七月二十七日(にじふしちにち)に隠させ給にき、哀也し御事也。
鳥羽殿(とばどの)には月日の重に付ても、御歎は浅からず、折々の御遊(ぎよいう)、所々の御幸、御賀の儀式の目出かりし、今様朗詠の興ありし事、扇合絵合までも、忘るゝ御隙なく、只今(ただいま)の様にぞ被(二)思召出(一)(おぼしめしいだされ)ける。自参よる人もなし。理也、法皇も恐思食(おぼしめし)て召れず、大相国(たいしやうこく)も免し給はざりければなり。唯秋山の嵐烈く、軒ばをつたふ友となり、古宮の月さやけくして、涙の露に影を宿す、夜深しては枕に通砧の声、御寝の夢を覚し、暁かけては氷を碾車の音、老牛心を傷しむ。御眼に遮る物(有朋上P411)とては、昇せ煩ふ策(いさり)の火、叡慮にかゝる事とては、いつまで旅の襟ひ、白雪(はくせつ)庭を埋ども、道を払人もなく、結氷も池を閉て、群居鳥だに見えざりけり。大宮大相国(たいしやうこく)伊通、三条内大臣(ないだいじん)公教、葉室大納言(だいなごん)光頼、中山中納言顕時など申し人々
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も被(レ)失にき。古人とては民部卿親範、宰相成頼、左大弁(さだいべん)宰相俊経なんどの御座(おはしま)せしも、此代の成行有様(ありさま)を見給(たまひ)て、左も右も有なん、大中納言(だいちゆうなごん)に成たりとも、只夢なるべしとて、未四十にだにも成給はざりける人々の、忽(たちまち)に世を遁れ家を出て、親範は大原(おほはら)の霞に跡を隠し、成頼は高野の雲に身を交へ、俊経は仁和寺(にんわじ)の閑居をしつらひて、偏(ひとへ)に後世菩提をこそ被(レ)祈けれ。漢四皓は商山の洞に住、晉七賢は竹林の庵に隠、首陽山に蕨を採、頴川の水に耳を洗し人も有ける也。まして此世には、心あらん者、一日も跡を留むべきにあらざりけり。中にも宰相入道成頼、此事共を伝へ聞給(たまひ)ては、哀うれしくも心とく世を遁たるもの哉、角て聞も同事なれども、世に立交てまのあたり見ましかば、いかばかりか心憂からまし、保元平治の乱をこそ浅猿(あさまし)と思ひしに、世の末になればにや、弥増々々に成行たり。此後又如何あらんずらん。雲を分ても上、地を堀ても入ぬべくこそ覚ゆれとぞ宣(のたまひ)ける。賢も思切給へる人々也と、叶ぬ身にも申けり。
治承四年正月元三の間も、鳥羽殿(とばどの)には参寄人もなし。藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)成範、(有朋上P412)左京大夫修範是二人ぞ被(レ)免候ける。年去年来れ共、くつろがせ給御事もなし。筧のつらゝの心地して、閉籠られさせ給たるぞ哀しき。二十日春宮(とうぐう)の御袴著、御まな始可(二)聞召(一)とて、花やかなる御事共(おんことども)世間には■(ののし)りひそめきけれ共、法皇は御耳のよそにぞ被(二)聞召(一)(きこしめされ)ける。
S1209 安徳(あんとく)天皇(てんわう)御位事
二月十九日、春宮(とうぐう)位に即せ給。安徳(あんとく)天皇(てんわう)と申、僅(わづか)に三歳にぞ成せ給、いつしかなり。先帝も異なる御事
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もましまさね共、我御孫子を付奉んためにおろし奉る。是も太政(だいじやう)入道(にふだう)の、万事思様なる故也と、人々私語(ささやき)傾申けり。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)聞(レ)之被(レ)申けるは、なじかはいつしか也と申べき、異国には周の成王(せいわう)三歳、晋穆帝二歳、皆襁褓の中に裹れて、衣帯を正くせざりしか共、或は摂政(せつしやう)負て位につき、或は母后懐て朝に望といへり。後漢孝殤皇帝は、生て百余日にて践祚ありき、我朝には近衛院三歳、六条院二歳、これ皆天子の位を践給ふ、非(レ)無(二)前蹤(一)、なじかは人の傾申べきと嗔り宣(のたまひ)ければ、是の才人達、穴おそろし/\物云はじ、去ば其は吉例にやは有とぞつぶやきける。春宮(とうぐう)位に即せ給けれ(有朋上P413)ば、外祖父、外祖母とて、太政(だいじやう)入道(にふだう)夫婦ともに、三后に准る宣旨を蒙て、年官年爵を賜て、上日の者を被(二)召仕(一)ければ、絵書花付たる侍ども出入て、院宮の如にてぞ有ける。出家入道の後も、なほ栄輝名聞は尽ざりけりとぞ見えし。出家の人の准三后の宣旨を蒙事は、法興院の大入道殿(にふだうどの)の御例とぞ承る。大入道殿(にふだうどの)とは、九条右丞相師輔の第三男、東三条(とうさんでう)太政大臣(だいじやうだいじん)兼家の御事也。かくはなやかに目出(めでた)き事は有けれども、世中は不(レ)穏。
S1210 新院厳島鳥羽御幸事
三月十七日(じふしちにち)には、新院安芸国一宮厳島の社へ可(レ)成(二)御幸(一)由披露有ける程に、諸寺諸山騒動して、京中の貴賤何となく騒合ける上、山門の衆徒僉議(せんぎ)しけるは、帝王位を退せ給(たまひ)ては、必ず先八幡賀茂両社の御幸有て、其後何れの社へも思召(おぼしめし)立御事也。但白川院【*白河院】(しらかはのゐん)は、先熊野御参詣、後白川院【*後白河院】(ごしらかはのゐん)は先日吉の御幸有き。去ば任(二)先例(一)、此神々へこそ先可(レ)有(二)御幸(一)に、不(二)思寄(一)厳島御参詣也、速に可(レ)被(二)停止(一)。此上猶御幸
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あらば、京中に打入て、可(レ)及(二)狼藉(一)之由蜂起すと聞召ければ、俄(にはか)に又思食(おぼしめし)止らせ給ぬと聞えけり。新院猶御宿願(ごしゆくぐわん)を果さんと思召(おぼしめし)けるに依て、内々は其御用意にて、供奉の人々も忍て被(二)仰合(一)けれども、山門(有朋上P414)の訴訟も煩はしとて、よそ聞には鳥羽殿(とばどの)へ御幸と御披露有て、十八日(じふはちにち)の夜、太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所、西八条(にしはつでう)へ入せ給(たまひ)て、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛を召て、明日鳥羽殿(とばどの)へ参ばやと思召(おぼしめす)御事あり、入道に不(二)相触(一)しては叶はじやと、仰も終ぬに、竜眼に御涙(おんなみだ)を浮めさせ給ければ、大将も哀に覚て、宗盛角て候へば、何かは苦かるべきと被(レ)申けり。不(レ)斜(なのめならず)御悦有て、去ば鳥羽殿(とばどの)へ御気色(おんきしよく)申せと仰ければ、大将急其夜の中に被(レ)申たり。法皇は覚御心もなく悦び御座(おはしま)して、余に恋しく思召(おぼしめす)御事とて、夢に見つるやらんとまで仰けるこそ哀なれ。
十九日には鳥羽殿(とばどの)へ御幸とて、西八条(にしはつでう)を夜中に出させ給けり。比は三月半余(あまり)の事なれば、雲井の月は朧にて四方の山辺も霞こめ、越路を差て帰鴈、音絶々にぞ聞召。御供の公卿には藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)家成卿の子息に、師(そつの)大納言(だいなごん)隆季、前(さきの)右馬助(うまのすけ)盛国(もりくに)の子息に、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱(くにつな)、三条内大臣(ないだいじん)公教の子息に、藤大納言(だいなごん)実国、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、久我内大臣(ないだいじん)雅通の子息に土御門宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、殿上人(てんじやうびと)には、隆季の子息に、右中将隆房朝臣、中納言資長子息に、右中弁(うちゆうべん)兼光朝臣、三位範家子息に、宮内少輔棟範、公卿五人、殿上人(てんじやうびと)三人、北面四人、十二人ぞ候ける。新院、鳥羽殿(とばどの)にては門前にして御車より下させ給(たま)ひて入せ給けり。暮行春の景なれば、梢の花色衰、宮の鶯音老たり。庭上草深して、宮中に人希也。指入せ給より、
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御涙(おんなみだ)ぞすゝませ給け(有朋上P415)る。去年正月六日朝観の御為に、七条殿の行幸思召(おぼしめし)出させ給(たまひ)ても、只夢の御心地(おんここち)にぞまし/\ける。彼行幸には、諸衛陣を引、諸卿列に立、楽屋に乱声を奏し、院司公卿参向て、幔門を開き、掃部寮の筵道をしき、正しかりし御事也しかども、是は儀式一事もなし。成範中納言参給(たまひ)て、御気色(おんきしよく)被(レ)申ければ、入せ御座(おはしまし)けり。法皇も新院も、御目を御覧じ合せまし/\て、互に一言の仰はなくして、唯御涙(おんなみだ)に咽ばせ給けり。少し指退きて尼ぜの候けるが、御二所の御有様(おんありさま)を見進て、うつぶしに臥て泣けり。良久有て、法皇御涙(おんなみだ)を推のごはせ給(たまひ)て、何なる御宿願(ごしゆくぐわん)にて、遥々(はるばる)と厳島まで思召(おぼしめし)立せ給にやと、申させ給(たま)ひければ、新院は深く祈申旨候と計にて、又御涙(おんなみだ)を流させ給。法皇は此身の角打籠られたる事を、痛く歎かせ給ふなるに合て、祈誓せさせ給はん為にこそと、御心得(おんこころえ)有けるに、いとゞ哀に思召(おぼしめさ)れて、共に御涙(おんなみだ)に咽ばせ給ふ。御浄衣の袖も御衣の袂(たもと)も、絞る計にぞ見えける。昔今の御物語(おんものがたり)ども仰かはさせ御座(おはしま)すに、日暮夜を明させ給ふ共、尽しがたき御事なれば、御名残(おんなごり)は惜く思召(おぼしめし)けれども、泣々(なくなく)出させ給(たま)ひけり。法皇は今日の御見参をぞ返々悦申させ給ける。新院今年二十に満せ給けるが、御冠際、御鬢茎より始て、気高く愛々しくて、此世の人とも見えさせ給はず。御母儀(おぼぎ)故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)に似させおはしければ、いとゞ哀にぞ思召(おぼしめし)御覧じ(有朋上P416)ける。月比日比(ひごろ)の御歎にや、事外に面痩て見えさせ給に付ても、らふたくうつくしくぞ渡らせ給ける。新院は出させ給とて、今一度見進せずして、何事もやと御心憂侍つるにとて、立せ給ふ。法皇は御名残(おんなごり)惜くて、今暫くとも被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるが、
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日影も高く成上、いつも名残(なごり)はと思召(おぼしめし)けるに、去気なくもてなさせ給けれ共、なほ御涙(おんなみだ)はつきざりけり。叡慮推はかり進ては、供奉の人々も袂(たもと)を返して涙をぞのごひける。南門より御舟には移らせ給けり。御おくりの人々は、是より帰上る。厳島までの供奉の公卿殿上人(てんじやうびと)は、内々用意ありければ、浄衣にて被(二)参詣(一)たり。前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、数百騎(すひやくき)の随兵を召具し給へり。けしからず見えけり。二十六日(にじふろくにち)に厳島に御参著、神主佐伯景弘、当国国司有経、当社座主尊叡勧賞を蒙。