『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十六
P0378(有朋上P517)
陀巻 第十六
S1601 帝位非(二)人力(一)事
抑昔延喜帝の第十六の御子兼明親王と、村上帝の第八(だいはち)の御子具平親王とは叔父甥にて、前中書王、後中書王と申奉る。賢王(けんわう)聖主の御子、才智才学目出く御座(おはしま)しき。されば前中書王は、後兄の第四の御子、無実に依て城の外に移され給(たま)ひたりけるが、宮も藁屋もとながめ給(たま)ひけるを、理りに思食(おぼしめして)、王位も詮なしとて、只一筋に仏道をのみ求給(たまひ)て、小椋山の麓に庵を結給(たま)ひ、詩を造り琵琶を弾、御心をなぐさめ給しに、或(ある)時(とき)晴たる空に雲上り、良暫く有りて雲のたゝずまひ物恐しき中より、青き鬼来て、庇に畏り居たりけり。親王御心をしづめ、能々御覧ありけるに、彼鬼恐れたる気色にて、申す言も無りければ、親王何人の何事にかと問給へば、鬼答て申様、吾は是宋朝の作文の博士、好色の遊客也、名を長文成元真と申き、色に耽ては詩を作り、女を恋ては歌を成せり。彼好念の積りつゝ、かく青鬼と成侍、而に病の床に臥、最後に及し時、九月尽の露菊を見て、一句(有朋上P518)の詩を造れり。
不(二)是花中偏愛(一)(レ)菊(これははなのなかにひとへにきくをあいするにあらず) 此花開後更無(レ)花 K084
此花ひらけつきてとこそ作たりしを、当世の人開て後と読侍り、我が所存には非ず、君作文詩歌に長じ御座(おはしま)せば、本意を申入んとて参上する所也とて、雲井遥(はるか)に去にけり。村上の帝、上玄石上の琵琶
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の秘曲を、廉承武に伝へ給しには、猶まさりてぞ覚ゆる。加様に目出(めでた)き御事に御座(おはしまし)しかども、帝位につかせ給ふ御運は、可(レ)然御宿報なれば、さてこそやませ給(たま)ひしか、謀叛をば起させ給はず。後三条院(ごさんでうのゐん)の第三王子輔仁(すけひとの)親王(しんわう)は、白河院(しらかはのゐん)には御弟也。目出(めでた)き人にて御座を、春宮(とうぐう)御位の後には、必此御子を太子に可(レ)奉(レ)立と後三条院(ごさんでうのゐん)返々白河院(しらかはのゐん)に御遺言(ごゆゐごん)ありければ、院も慥に御言請あり。親王の宮も必御譲を受させ給ふべき由思食(おぼしめし)けるに、東宮(とうぐう)実仁、永保元年八月十五日に、御年十一にて御元服(ごげんぶく)ありしが、応徳二年二月八日、十五にて隠れさせ給しかば、後三条院(ごさんでうのゐん)の任(二)御遺言(ごゆゐごん)(一)、三宮輔仁(すけひと)太子に立せ給べかりしを、無(二)其御沙汰(ごさた)(一)。承保元年十二月十六日(じふろくにち)に、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の一宮敦文親王御誕生(ごたんじやう)、今上后腹の、一御子にて御座(おはしまし)しかば、太子に立せ給べかりしか共、承暦元年八月六日、御とし四歳にて失給けり。同三年七月七日、堀川院(ほりかはのゐん)御誕生(ごたんじやう)あり。同年十一月(有朋上P519)三日、親王の宣旨を下されにければ左に右に三宮被(二)引違(一)給へり。堀川院(ほりかはのゐん)も八歳まで太子にも立せ給はず、親王にて、応徳三年十一月二十六日(にじふろくにち)に、受(二)御譲(一)させ給(たまひ)て、軈其(その)日(ひ)春宮(とうぐう)に立せ給。寛治三年正月五日、御年十一にて御元服(ごげんぶく)有けり。三宮は御位こそ不(レ)叶共、太子にもと思召(おぼしめし)けるに、寛治元年六月二日、三宮陽明門院にて御元服(ごげんぶく)有しに、太子の御沙汰(ごさた)にも及ばざりしかば、輔仁(すけひとの)親王(しんわう)御位空して、仁和寺(にんわじ)の花園と云所に住せ給けり。白川【*白河】(しらかはの)法皇(ほふわう)より、何にいつとなく、さ程に引籠らせ給にか、時々は御出仕なんども候べしとて、国庄あまた被(レ)進ける御返事(おんへんじ)に、
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有(レ)花(はなあり)有(レ)獣山中友、無(レ)愁無(レ)歎世上情 K085
と申させ給たり。すべて詩歌管絃に長じ御座(おはしまし)しかば、世にもなく官もなき人々は、院内の御事よりも、中々珍しく奉(レ)思て、参通人多かりければ、時人三宮の百大夫とぞ申ける。御位相違有しか共、世の乱はなかりし者を、三宮の御子花園左大臣有仁を、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の御前にて元服(げんぶく)せさせ進せ、源氏の姓を奉らせ給(たまひ)て、無位(むゐ)より一度に三位して、やがて中将になし奉けり。是は三宮輔仁(すけひとの)親王(しんわう)の御怨を休奉り、又後三条院(ごさんでうのゐん)の御遺言(ごゆゐごん)をも恐させ給けるにこそ。一世の源氏無位(むゐ)より三位し給事は、嵯峨(さがの)天皇(てんわう)の御子陽成院大納言(だいなごん)定卿(有朋上P520)の外無(二)其例(一)。
S1602 満仲(まんぢゆう)讒(二)西宮殿(にしのみやどの)(一)事
冷泉院御位の時、覚御心もなく、御物狂はしくのみ御座(おはしまし)ければ、ながらへて天下を知召さん事もいかゞと思食(おぼしめし)けるに、御弟の染殿式部卿宮(しきぶきやうのみや)は、西宮(にしのみや)の左大臣の御聟にておはしけるを、能人にて渡らせ給と申ければ、中務丞橘敏延、僧連茂、多田(ただ)の満仲(まんぢゆう)、千晴など寄合て、式部卿宮(しきぶきやうのみや)を取奉て東国へ赴、軍兵を起即(レ)位進せんと、右近の馬場にて夜々(よなよな)談議しける程に、満仲(まんぢゆう)心替して此由を奏聞しけるに依て、西宮殿(にしのみやどの)は被(二)流罪(一)給にけり。敏延は播磨国を賜らん、連茂は一度に僧正(そうじやう)にならんとて、係る事を思立けり。満仲(まんぢゆう)返り忠しける事は、西宮殿(にしのみやどの)にて敏延と満仲(まんぢゆう)と、相撲を取りけるに、満仲(まんぢゆう)力劣にて、格子に被(二)抛付(一)顔を打欠たり。満仲(まんぢゆう)不(レ)安思て腰刀を抜て敏延を突んとしける。敏延高欄の■木(ほうだて)を引放て、近付ばしや頭を打破らんとて、立袴て有ければ、満仲(まんぢゆう)不(レ)及(レ)力さて止ぬ。時の人あゝ源氏の名折たりと云ければ、敏延を失はんとて返忠したりといへり。西の宮殿(みやどの)は聊も不(二)知召(一)けるを、敏延
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失ん為に、讒訴の次に式部卿宮(しきぶきやうのみや)の御舅なればとて讒申けるを、(有朋上P521)一条左大臣師尹、殊に申沙汰して、西宮(にしのみやの)左大臣を流して、其所に成替給たりけるが、幾程もなく声の失る病をし、一月余り悩て失給にけり。僧連茂をば検非違使(けんびゐし)召捕て、拷器に寄て謀叛の意趣を責問けり。余(あまり)の難(レ)堪さに、連茂音を上て、南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)、金剛(こんがう)瑜伽(ゆが)秘密教主、胎金両部、諸会聖衆、伝燈阿闍梨(あじやり)耶、竜猛竜智助給へ/\と唱へければ、上乗密宗の力にて、拷器も笞杖も折砕てこそ失にけれ。
S1603 仁寛流罪事
白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の御子、全子内親王(ないしんわう)をば、二条皇太后宮(くわうたいごうぐう)とぞ申しける。鳥羽院(とばのゐん)は康和五年正月十六日(じふろくにち)に御誕生(ごたんじやう)、同八月十七日(じふしちにち)に東宮(とうぐう)に立せ給(たまひ)て、嘉承二年七月十九日、御年五歳にて位に即せ給ければ、御母代とて内裏に渡らせ給けるに、其御方に、永久元年十月の比、落書あり。折節(をりふし)怪童の有けるを、搦て問ければ、醍醐の勝覚僧都(そうづ)の童、千手丸也。人の語に依て、侵(レ)君進せんとて、常に内裏にたゝずむなりとぞ申ける。法皇大に驚思食(おぼしめし)、検非違使(けんびゐし)盛重(もりしげ)に仰て千手丸を被(二)推問(一)。醍醐寺の仁寛阿闍梨(あじやり)が語也と申す。彼仁寛は三宮の御持僧也。御位の恩宿願を遂させ給はんが為に、或青童の貌、或内侍の形にて、日夜に奉(有朋上P522)(レ)伺(二)便宜(一)き。不(レ)叶して今かく成侍ぬとぞ落たりける。やがて仰(二)盛重(もりしげ)(一)仁寛を召捕て、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あり。罪斬刑に当るといへ共、死罪一等を減じて、遠流に定、仁寛をば伊豆国(いづのくに)、千手丸をば佐渡国へぞ被(レ)流ける。さしも重科の者なれ共、かく被(レ)寛ける事、皇化と覚て止事なし。其上縁者の沙汰ありけるを、大蔵卿(おほくらのきやう)為房(ためふさ)参議にて僉議(せんぎ)の座におはしけるが、加程の悪逆(あくぎやく)必しも父母兄弟の結構(けつこう)にあらじ、然者(しかれば)不(レ)可(レ)及(二)罪科(一)歟と
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被(レ)申たりければ、当座の諸卿皆為房卿(ためふさのきやう)の議に同ずとて、縁者の沙汰はなかりけり。為(レ)君に忠あり、為(レ)人に仁あり、為房卿(ためふさのきやう)子孫繁昌し給ふも、理也とぞ人申ける。昔も浅増(あさまし)き様ありけれ共、及(二)子孫(一)事はなかりき。高倉宮(たかくらのみや)討れさせ給ぬれば、今は何条事かは有べきなれども、小宮々も角成せ給けるこそ糸惜けれ。六条殿と申す女房の御腹に、法皇の御子おはしけり。故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御子にし進て、七歳にて、安元(あんげん)元年七月五日天台座主(てんだいざす)快修僧正(そうじやう)の御房へ入進て、釈子に定まし/\けれ共、未御出家(ごしゆつけ)はなかりけり。高倉宮(たかくらのみや)も角成給ぬ。其御子達(みこたち)も捜取れさせ給と聞えければ、穴恐とて日次の御沙汰(ごさた)にも不(レ)及、周章(あわて)騒て剃落し進けり。今年は十二歳にぞ成せ給。係る乱の世也ければ、無(二)御受戒(一)、只沙弥にてぞ御座(おはしま)しける。(有朋上P523)
S1604 円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)登山事
円満院(ゑんまんゐん)の大輔は、宇治の軍を脱出て、本寺に帰て息つぎ居たりけるが、三位(さんみ)入道(にふだう)父子眷属を始て、衆徒も多く討れ、又宮も中(二)流矢(一)うせ御座(おはしま)し、其宮々も一々に被(二)尋出(一)給ぬと聞て、つく/゛\物を案ずれば、山僧(さんそう)の心替より角成ぬと不(レ)安思へり。如何となれば、伝教師資の流を汲み、円頓実教の法を学しながら、勅使といひ戒壇と云、御灌頂(ごくわんぢやう)と云、赤袈裟と云、事に於て山僧等(さんそうら)が為に被(レ)妨て無(二)安心(一)処に、今又同心の由承伏して忽(たちまち)に変改、御運の尽ると云ひながら、口惜事也。本より異儀を存ぜば、急南都へ奉(レ)遷、などか遂(二)本意(一)ざるべき。今寺門の失(二)面目(一)事、生々世々(しやうじやうせせ)の怨敵也、速に登山して、堂舎仏閣悉(ことごと)く磨滅の煙となさばやと大悪心を発、燧付茸硫黄など用意して、燧袋にしつらひ入、形を修行者
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法師に造成して、山門へこそ忍登れ。先根本中堂(こんぼんちゆうだう)に参て、内外東西見廻つゝ、此にや火をさすべき、彼にや炬火を投べきと思廻し、暫く正面に虚念誦して居たりけるが、不断の燈明光を並べ、三部の長講音澄めり。最貴覚て案じけるは、抑此伽藍(がらん)と申は、我等(われら)が祖師伝教(でんげう)大師(だいし)建立(こんりふ)の寺院、生身の医王常住の精舎也、智証大師の御作、(有朋上P524)七仏薬師(しちぶつやくし)の霊像も此堂に安置せり、忠仁公の梵釈四天、准三公の十二神将(じふにじんじやう)も御座、縦末学雖(レ)存(二)意趣(一)、争か祖師の本尊を奉(レ)失べきなれば、此伽藍(がらん)は叶はじと思返して、中堂(ちゆうだう)を出て大講堂(だいかうだう)に臨で伺見ば、大厦の棟梁天に挟、四面の采椽雲に懸たり。何に火を差べし共覚ざる上、本尊を拝すれば、胎蔵の大毘廬遮那坐し給へば、左右に弥勒観音の脇士立給へり。紫金膚を研て、白豪光円也。仏法(ぶつぽふ)擁護の四天あり。大聖文殊の聖僧あり。嗚呼(ああ)此伽藍(がらん)を忽(たちまち)に灰となさん事の悲さよと思ければ、又此を出て惣持院に入るに、塔もあり堂もあり。堂は是秘密真言の霊場、胎金両部熾盛光等の大曼陀羅(まんだら)を安置せり。塔は又多宝全身の霊廟(れいべう)、胎蔵の五仏座を並べ、法華の千部を奉納せり。遠くは大唐の青竜寺に准へ、近くは本朝鎮国の道場を開けり。人こそ悪からめ、争か国家守護の霊室を失べきと思て、此を出でて彼に渡、彼を去て此に来見廻ば、法華常行は両堂軒を並べ、戒壇四王は両院甍を交たり。文殊楼、延命院、五仏院、実相院、或は大師大徳の御作、一人三公の建立(こんりふ)、或は三密瑜伽(ゆが)の道場、一乗(いちじよう)読誦(どくじゆ)の精舎也。功能何もとりどりに、御願(ごぐわん)誠に品々也。杉吹渡る風の音、実相の理をや調ぶらん、草葉に置る露の色、無■(むげ)価の玉をぞ研たる。谷に並る松坊は、稽古
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修学の窓なれや、尾を隔たる草庵は、円頓観解の砌(みぎり)也。大輔(有朋上P525)は是を見彼を拝つゝ、穴貴の所やと信心忽(たちまち)に発て、帰敬の思萌ければ、大講堂(だいかうだう)の軒の下に立帰、我にはよく天魔の付にけるなり、何ぞ一旦の以(二)我執(一)、十乗の峰を亡、永劫の苦因を殖て、無間の底に入らん、縦興隆の心こそなからめ、豈及(二)破滅企(一)と、心に心を恥しめて、懺悔の涙を流けり。既本寺に帰けるが、余執又起て、是迄思立ぬる事を、空く人にも知られざらんは無念也、三塔に披露せんと思て、大講堂(だいかうだう)の柱に続松を結付て、札を制してぞ立たりける。其詞に曰、日比(ひごろ)山門園城(をんじやう)の我執を存し、当時牒送変改の遺恨に依て、三塔を焼払(やきはら)はんが為に数日登山の処に、倩案らく、一乗(いちじよう)一味の法門は、三塔三井の所学也、山門寺門の伽藍(がらん)は、祖師大師の建立(こんりふ)也、何ぞ磨滅の煙を立て、空く荒廃の塵を遺んと、仍無益偏執を閣て、速に有心に放火を止ぬ、円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)源海と書て、大講堂(だいかうだう)の大鐘鳴して下にけり。満山の大衆鐘に驚、谷々坊々騒動して講堂(かうだう)の庭に会合し、大輔が所為を見て、志の之ところ所存誠に不敵也、邪を翻て正に帰る情ありとぞ感じける。
S1605 三位(さんみ)入道(にふだう)歌等附昇殿事
源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)は、ゆゝしく計ひ申たりけれ共、遠国の者までは不(レ)及(レ)云、近国の源氏だにも(有朋上P526)急ぎ打上る者一人もなし、山門の大衆は心替しつ、不(レ)遂(二)其先途(一)、風吹ば木不(レ)安と、世の煩人の歎、為(レ)身為(レ)家、無(レ)由事申勧まゐらせて亡ぬる者かなと、貴賤口々に申けり。彼入道と申は、清和(せいわの)帝の第六皇子貞純親王の二代の苗裔、多田(ただの)新発意(しんぼち)満仲(まんぢゆう)が子、摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)が三代の後胤、参河守頼綱が孫、兵庫頭(ひやうごのかみ)仲正
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が子也、保元の合戦の時、御方にて一方の先陣を賜り、凶徒(きようと)を退たりけれども、指る勲功の賞にも不(レ)預、怨を含ながら、大内の守護して年久く成、地下にのみして殿上をゆりされざりければ、
人しれぬ大内山の山もりは木がくれてのみ月を見るかな K086
と読て進たりければ、不便なりとて、四位(しゐ)して昇殿を免る。始て殿上を通りけるに、ある女房の、
つき/゛\しくもあゆぶものかな
と云たりければ、頼政(よりまさ)とりあへず、
いつしかに雲の上をば蹈なれて K087
と申たりければ、優に甲斐々々しと感じけり。又四位(しゐ)の殿上人(てんじやうびと)にて、久く世に仕へ奉けるに、述懐仕て、(有朋上P527)
上るべきたよりなければ木の本に椎を拾ひて世を渡るかな K088
と申たりけるに依て、七十五にて三位を被(レ)免て後、先途既(すで)に遂ぬとて、出家して源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)ともいはれけり。大方此頼政(よりまさ)は、歌に於ては手広者にぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。鳥羽院(とばのゐんの)御時に、宇治河(うぢがは)、藤鞭、桐火桶、頼政(よりまさ)と、四題を下させ給。一首に隠して進よと勅定ありけるに、
宇治川(うぢがは)のせゞの淵々落たぎりひをけさいかに寄まさるらんK089
と申たりければ、時の人、我々は一題をだにも、一首に隠はゆゝしき大事なるに、あまたの題を程なく
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仕たる事、実に難(レ)有と感じ申けり。君もいみじく仕りたりと、叡感有けり。
S1606 菖蒲前(あやめのまへの)事
殊に名をあげ施(二)面目(一)ける事は、鳥羽院(とばのゐんの)御中に、菖蒲前(あやめのまへ)とて世に勝たる美人あり。心の色深して、形人に越たりければ、君の御糸惜も類なかりけり。雲客(うんかく)卿相(けいしやう)、始は艶書は遣し情を係事隙なかりけれ共、心に任せぬ我身なれば、一筆の返事、何方へもせで過しけ(有朋上P528)る程に、或(ある)時(とき)頼政(よりまさ)菖蒲(あやめ)を一目見て後は、いつも其時の心地して忘るる事なかりければ常に文を遣しけれども、一筆一詞の返事もせず。頼政(よりまさ)こりずまゝに、又遣し/\なんどする程に、年も三年に成にけり。何にして漏たりけん、此由を聞食(きこしめし)に依て、君菖蒲(あやめ)を御前に召、実や頼政(よりまさ)が申言の積なると綸言ありければ、菖蒲(あやめ)顔打あかめて御返事(おんへんじ)詳ならず、頼政(よりまさ)を召て御尋(おんたづね)あらばやとて、御使有て召れけり。比は五月の五日の片夕暮許也。頼政(よりまさ)は木賊色の狩衣に、声華に引繕て参上、縫殿の正見の板に畏て候ず。院は良遥許して御出ありけるが、じつはふの者には物仰にくければとて、殊に咲を含ませ御座(おはします)。何事を被(二)仰出(一)ずるやらんと思ふ処に、誠か頼政(よりまさ)菖蒲(あやめ)を忍申なるはと御諚あり。頼政(よりまさ)は大に失(レ)色恐畏て候けり。院は憚思ふにこそ、勅諚の御返事(おんへんじ)は遅かるらめ、但菖蒲(あやめ)をば誰彼時の盧目歟、又立舞袖の追風を、徐ながらこそ慕ふらめ、何かは近付き其験をも弁べき。一目見たりし頼政(よりまさ)が、眼精を見ばやとぞ思食(おぼしめし)ける。菖蒲(あやめ)が歳長色貌少も替ぬ女二人に、菖蒲(あやめ)を具して、三人同じ装束同重になり、見すまさせて被(レ)出たり。三人頼政(よりまさ)が前に列居たり。梁の鸞の並べるが如く、窓の梅の綻たるに似たり。頼政(よりまさ)よ其中に忍申す菖蒲(あやめ)侍る也、朕占思召(おぼしめす)女也、有(二)御免(一)ぞ、相具して罷出よ
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と有(二)綸言(一)ければ、頼政(よりまさ)いとゞ(有朋上P529)失(レ)色、額を大地に付て実に畏入たり。思けるは、十善の君はかりなく被(二)思食(一)(おぼしめさるる)女を、凡人争か申よりべかりける。其上縦雲の上に時々なると云とも、愚なる眼精及なんや、増てよそながらほの見たりし貌也、何を験何ぞなるらん共不(レ)覚、蒙(二)綸言(一)不(レ)賜も尾籠也、見紛つゝよその袂(たもと)を引きたらんもをかしかるべし、当座の恥のみに非、累代の名を下し果ん事、心憂かるべきにこそと、歎入たる景色顕也ければ、重て勅諚に、菖蒲(あやめ)は実に侍るなり、疾給(たまひ)て出よとぞ被(二)仰下(一)ける。御諚終らざりける前に、掻繕ひて頼政(よりまさ)かく仕る。
五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引ぞわづらふ K090
と申たりけるにこそ、御感の余に竜眼より御涙(おんなみだ)を流させ給ながら、御座を立たせ給(たまひ)て、女の手を御手に取て、引立おはしまし、是こそ菖蒲(あやめ)よ、疾く汝に給也とて、頼政(よりまさ)に授させ給けり。是を賜て相具して、仙洞を罷出ければ、上下男女歌の道を嗜ん者、尤かくこそ徳をば顕すべけれと、各感涙を流けり。実に頼政(よりまさ)と菖蒲(あやめ)とが志、水魚の如にして無二の心中也けり。三年の程心ながく思し情の積にやと、やさしかりし事共也ければ、京童部(きやうわらんべ)申けるは、二人の志わりなかりけるこそ理なれ、媒が痛見苦もなければとぞ咲ひける。伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)は、即彼菖蒲(あやめ)が腹の子也。(有朋上P530)
S1607 三位(さんみ)入道(にふだう)芸等事
又打物に取て名を揚る事ありき。悪右衛門督(あくうゑもんのかみ)信頼(のぶより)が天下に秀たりし時、殿上の刻み階に、夫男一人立たり。信頼(のぶより)彼は何に狼藉也と申ければ、掻消様に失ぬ。某に一の剣あり。信頼(のぶより)くせ事也と思て、宝物
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の御剣にも候らん、焼鐔の剣ならば、山をも岩をも可(二)破崩(一)とて、此剣を抜御坪の石を切るに、剣七重八重にゆがむ。曲なき者也とて、温明殿(うんめいでん)の縁に棄置れぬ。折節(をりふし)頼政(よりまさ)参会たり。信頼(のぶより)欺(レ)之、いかに剣は見知給へるかと申。頼政(よりまさ)弓矢取身にて侍る、如(レ)形知たる候と云。其時少輔内侍と云ふ以(二)女房(一)、大床に棄置所の剣を被(二)召寄(一)けるに、曲たる剣忽(たちまち)に直て、鞘に納る。不思議也とて頼政(よりまさ)にみせらる。頼政(よりまさ)打見て仰て、まめやかの御剣也、朝家の御守たるべし、其故は太神宮に五の剣あり、当時内裏に御座(おはしま)す、宝剣は第二の剣、是は第三の剣也、但頼政(よりまさ)いかゞして神剣を知侍るべきなれ共、作人に依て剣体を知、其上今夜の夜半におよびて、天の告示給事あり、国を守らん為に皇居に一の剣を奉る、即宝剣是也、亡国の時は、此剣又宝剣たるべし、為(二)用意(一)奉(二)権剣(一)と見て候。折節(をりふし)今日御剣出現之条、併国の御守と覚ゆと申。其時信頼卿(のぶよりのきやう)ふしぎ也と思ひ、さらば(有朋上P531)剣の徳を施給へと云。頼政(よりまさ)霊剣自由の恐ありといへ共、仰にて侍ば、何事をか仕べきと申。御前の坪の石をと聞ゆ。畏てとて頼政(よりまさ)彼石を切かけず散々(さんざん)に切破て、見参に入奉る。禁中さゝめき上下驚(レ)目。信頼(のぶより)始は欺て云たりけれ共、今は恐くぞ思ける。さて剣の咒返を満て、鞘にさして温明殿(うんめいでん)に移し置る。加様に勘申けれども、不肖に被(二)思召(一)(おぼしめされ)ければ、頼政(よりまさ)が言を不(レ)被(レ)信。元暦二年三月廿四日に、宝剣浪の底に沈ませ給(たまひ)て後、彼剣宝剣と成し時こそ頼政(よりまさ)実に非(二)直者(一)と被(二)思召(一)(おぼしめされ)けれ。世下つて後も頼政(よりまさ)程の者なかりけり。諸道を不(レ)疎、立る能ごとに不(レ)顕(レ)威と云事なし。花鳥風月弓箭兵仗、都てこのみと好む事、名を揚げ人に勝れたり。就(レ)中(なかんづく)
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弓矢に験を顕はしき。
後白河院(ごしらかはのゐん)第一御子をば二条院とぞ申ける。去久寿二年九月廿三日、御歳十三にて、春宮(とうぐう)に立せ御座(おはしま)し、保元三年八月十一日、御年十六にて御即位ありけるが、平治二年の夏の始より御不予(ごふよ)の御事まし/\けり。五月上旬の比は、御悩(ごなう)殊外に取頻らせ給(たまひ)て、夜深人定る程には、俄(にはか)に必おびえたまぎらせ給けり。
< 異説云、仁安元年の春の比、可(レ)有(二)春宮(とうぐう)御即位(一)由有(二)其沙汰(一)、此東宮(とうぐう)と申は高倉院(たかくらのゐん)の御事也。五条(ごでう)高倉に栖せ給ければ、高倉宮(たかくらのみや)とぞ申ける、同年四月中旬より、宮御悩(ごなう)ありと云云。>(有朋上P532)
一院不(レ)斜(なのめならず)歎思食(なげきおぼしめし)て、諸寺諸山にして、御祈(おんいのり)を始め、医師に仰て、御薬を勧め参せけれ共、更に其験ましまさず見えければ、東三条(とうさんでう)の森より、黒雲一叢立来、南殿の上に引覆、■(ぬえ)と云鳥の音を鳴時に、必振ひたまぎらせ給(たま)ひけり。天下の大なる歎也ければ、日夜に諸卿参内ありて、各僉議(せんぎ)あり。有験の験者にて可(レ)奉(レ)祈歟、以(二)博士(一)可(レ)送歟なんど取々に被(レ)申けるに、徳大寺(とくだいじの)左大臣公能の被(レ)申けるは、目に不(レ)見物ならば可(二)祈祭(一)、是は目の当也、弓の上手を以て射さすべき歟。其故は去寛治年中に、堀川院(ほりかはのゐん)御悩(ごなう)の事御座(おはしまし)き、療治(りやうぢ)も祈祷も叶はざりけるに、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)ありて、此御悩(ごなう)非(二)直事(一)、以(二)武士(一)大内を可(二)警固(一)とて、八幡太郎(はちまんたらう)義家(よしいへ)に仰す、義家(よしいへ)蒙(レ)勅て、甲冑を著し弓箭を帯して、南庭に立跨殿上を睨で高声に、清和(せいわ)の帝には四代の孫、多田(ただの)新発意(しんぼち)満仲(まんぢゆう)が三代の後胤、伊予守頼義(らいぎ)入道が嫡男、前陸奥守
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源(みなもとの)義家(よしいへ)、大内を守護し奉、いかなる悪霊鬼神なり共、争望をなすべき、罷退けと名乗懸て、弓の絃を三度鳴したりければ、殿人も階下も身毛竪て覚けるに、御悩(ごなう)忽(たちまち)に癒させ給けり。去ば是は怪鳥か変化か、目に顕たる者也、以(二)武士(一)射さすべき也とぞ被(二)勘申(一)ける。大臣公卿此義最可(レ)然とて、弓の上手を勝られけり。源平の中に何なるべきぞと義定有けるに、石廉将軍が末葉に、大和国(やまとのくにの)住人(ぢゆうにん)石川次郎秀廉を召されけ(有朋上P533)り。秀廉庭上に参て蒙(二)綸言(一)云、天下に媚物あり、殊なる朝敵也、深夜に及で明見仕れと被(二)仰下(一)。秀廉畏て勅諚謹承候畢。此身旧宅に住して、名字既(すで)に故人に通、蒙(二)勅命(一)事、生前の面目に侍、但弓箭年旧て、其手未練也、先祖を尋送らるといへ共、末代尤難(レ)叶。勅命を承て、不(レ)鎮(二)朝敵(一)ば、弓矢の名絶なん事、当時一身の歎のみに非、先祖の将軍が威を失はん事、大なる恥也。然ば蒙(二)御免(一)侍ばやと嘆申ければ、関白殿(くわんばくどの)汝が痛申処、実に不便也。但綸言と号して、鬼神を鎮め夷賊を平る例是多し。当今の御代に至て、仏法(ぶつぽふ)王法互に相対せり、などか以(二)朝威(一)不(レ)仕、自由の辞状尤罪科也。天下の勝事に身を惜は、在(二)王土(一)無(二)其詮(一)、速に配所へとぞ被(二)仰下(一)ける。石河次郎秀廉、失(二)面目(一)罷出ぬ。其後誰をかと有(二)僉議(せんぎ)(一)。関白殿(くわんばくどの)の仰に、頼光(らいくわう)が末葉、頼政(よりまさ)器量の仁に当れりとて、源兵庫頭(ひやうごのかみ)を召れけり。頼政(よりまさ)は例の歌道の御会にやとて、木賊色の狩衣になり、見澄して参たり。深夜に臨で媚物あり、玉体を奉(レ)侵、及(二)其期(一)明見仕と仰ければ、頼政(よりまさ)畏承候ぬとて、御前を罷立て、近衛川原(このゑかはら)の宿所に帰る。本の装束脱替て、朝敵を鎮る形にぞ出立ける。生衣の捻重に黄なる大口、
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葉早黄色の直垂をぞ著たりける。彼直垂には、左の肩には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と縫、右の肩には山鳩をぞ縫たりける。産衣と云鎧を著て、男山三度奉(二)伏拝(一)、其後(有朋上P534)鎧をば脱置て、直垂小袴計也。郎等に丁七唱、遠江国住人(ぢゆうにん)早太と云者二人を相具したり。唱は小桜を黄にかへしたる腹巻を著せ、十六指たる大中黒の矢の、おもてに水破兵破といふ鏑矢二つ差、雷上動といふ弓を持せたり。水破といふ矢は、黒鷲の羽を以てはぎ、兵破といふ矢をば、山鳥の羽にてはぎたりけり。早太には骨食といふ太刀を、ふところにささせたり。
< 水破兵破雷上動と云弓箭は、是大国の養由(やういう)が所持也。彼の養由(やういう)とは、楚国の者、秦王の時の人也。大聖文殊の化身也。或(ある)時(とき)文殊養由(やういう)に有(二)対面(一)いはく、汝は我化身也、吾汝に一徳ををしへんとて、文殊双眼の精を取て二の鏑に作れり。五台山の麓に、両頭の蛇一つあり。信敬慙愧の衣の糸を、八尺五寸の絃により係て、一張の弓をなし、多羅葉をとりあつめて、直垂と云物に作りきる。今の葉早黄色と云ふは是也。柳葉を的として、射術を教給故に、天下無双の弓の上手にて、養由(やういう)弓をとれば雁列を乱り、飛鳥たちまちに地に落つるいきほひありき。而養由(やういう)七百歳を経て、天下を見案ずるに、雲州に我弓矢をつたふべき仁なし、娘の桝花女と云ふ女に、是を伝置て、其身むなしく去りにき。桝花女命尽なんとする時に、弓の弟子を尋ぬるに、本朝にあり。今の摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)是也。或(ある)時(とき)頼光(らいくわう)昼寝したりけるに、天より影の如なる者下て、我が養由(やういう)より所(レ)伝の弓箭を帯せり、汝にさづけんとて巨細を語りて(有朋上P535)去りぬ。夢醒て傍を見れば、件の弓矢直垂あり。頼光(らいくわう)是を傅得て弓の徳を施すに、更に我が養由(やういう)が芸に劣らず、頼光(らいくわう)より頼国〈 美濃守 〉頼綱〈 参河守蔵人 〉仲政〈 兵庫頭(ひやうごのかみ)下総守 〉頼政(よりまさ)〈 三位 〉まで、子孫相傅して五代也、先祖の重宝也。身に取
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て一朝の大事不(レ)如(レ)之とて、加様に用意して参る。>
目にも見えぬ媚物を、而も五月の暗夜に射よとの勅命、弓取の運の極と覚たり。天の下に住乍蒙(二)朝恩(一)、器量の仁と被(レ)撰、非(レ)可(二)辞申(一)とて、主従三人出けるが、頼政(よりまさ)向(二)早太(一)、我所存汝得たりやと問ければ、先立存知仕て侍、今度殿下より蒙(レ)仰給(たま)ひ、媚物を殿上にて一矢に射損じたらば、二の矢に可(レ)奉(レ)射、殿下、去ば軈(やが)て似(二)骨食(一)、我御頸を給(たまひ)て出よとこそ被(二)思召(一)(おぼしめされ)候らめ、振舞侍べしと申ければ、汝が言は是大菩薩(だいぼさつ)の御託宣(ごたくせん)とこそ覚ゆれ。憑むぞよとて宿所を出て、陣頭に参じ、河竹呉竹の北南にて、明見仕る景気、誠に優にして頬魂ひ武勇の大将と見たり。頼政(よりまさ)宣旨を蒙て、媚物射んずる見よとて、公卿殿上人(てんじやうびと)参集、堂上堂下内外男女、市をなせり。今や/\と通夜是を待、子の刻も過ぬ、丑の刻の半に及で、如(レ)例東三条(とうさんでう)の森より、黒雲一叢立渡、御殿の上に引覆としければ、主上はほと/\と振ひ出させ給(たま)ひけり。頼政(よりまさ)は黒雲とは見たれ共、天は実に暗し、いづくを射るべしと矢所さだかならず、心中に帰命頂礼(きみやうちやうらい)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、国家鎮守(ちんじゆ)の明神、祖族帰敬(有朋上P536)の冥応に御座(おはします)〔と〕、頼政(よりまさ)頭を傾けて年久、今蒙(二)勅命(一)怪異を鎮めんとす、射はづしなば、速に命を捨べし、氏人々々たるべくは、深守となり御座(おはしま)せと、男山三度伏拝み心を静めて能見れば、黒雲大に聳て、御殿の上にうづまきたり。頼政(よりまさ)水破と云ふ矢を取て番て、雲の真中を志て、能引て兵と放つ、ひいと鳴て、かゝる処に、黒雲頻(しきり)に騒いで、御殿の上を立、■(ぬえ)の声してひゝなきて立所を見負て、二の矢に兵破と云鏑を取て番ひ、兵と射る。ひいふつと手答し
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て覚ゆるに、御殿の上をころ/\ところびて、庭上に動と落。其時に兵庫頭(ひやうごのかみ)源(みなもとの)頼政(よりまさ)変化の者仕たりや/\と叫ければ、唱つと寄て得たりや/\とて懐たり。貴賤上下女房男房、上を下に返し、堂上も堂下も紙燭を出し炬火をとぼして見(レ)之。早太寄て縄を付、庭上に引すゑたり。有(二)叡覧(一)に癖物也。頭は猿背は虎尾は狐足は狸、音は■(ぬえ)也。実に希代の癖物也。苟禽獣も加様の徳を以て奉(レ)悩(レ)君事の有ける事よ、不思議也とぞ仰ける。見聞の男女は口々に、頼政(よりまさ)あ射たり/\とぞ嘆たりける。彼変化の者をば、清水寺の岡に被(レ)埋にけり。主上の御悩(ごなう)忽(たちまち)に宜成らせ給にければ、鳥羽院(とばのゐん)より有(二)御伝(一)ける、師子王と申御剣に御衣一重脱そへて、関白(くわんばく)太政大臣(だいじやうだいじん)基実公(もとざねこう)を御使にて頼政(よりまさ)に被(レ)下けり。頼政(よりまさ)は階の三階に右の膝を突、左の袂(たもと)を擁て、畏て是を拝領す。五月廿日余(あまり)の事なるに、折知がほ(有朋上P537)に敦公(ほととぎす)の一声二声(ふたこゑ)、雲井に名乗て通けるを、関白殿(くわんばくどの)聞召(きこしめし)て、
敦公(ほととぎす)名をば雲井にあぐるかな と、仰せければ、
弓はり月のいるにまかせて K091 と、頼政(よりまさ)申たり。
< 五月やみ雲井に名をもあぐるかなたそがれ時も過ぬと思ふに K092 と、異本也。>
実に弓矢を取ても並なし、歌の道にも類有じと覚たり。大国の養由(やういう)は、雲上の雁を落し、我朝の頼政(よりまさ)は深夜の■(ぬえ)を射る、弓矢の全事取々にぞ覚たる。加様に上下万人に被(レ)嘆、七十に余三位して、今年七十七、何なる楽に栄ありとても、今幾程か有べき。子息仲綱(なかつな)受領して、伊豆国(いづのくに)知行し、丹波には五箇庄
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給(たまひ)て、家中も楽く人目も羨れてこそ有つるに、無(レ)由事勧申て子孫までも亡ぬるこそ不便なれ。馬ゆゑとは申ながら、非(二)直事(一)、偏(ひとへ)に怨霊の致す処也とぞ歎ける。
S1608 三井僧綱(そうがう)被(レ)召附三井寺(みゐでら)焼失事
三井寺(みゐでら)にも、南都にも、猶尻引あて、悪徒(あくと)の張本召るべき由其沙汰あり。昔より山門の大衆こそ、横紙をやり、非分の訴を致に、今度は不(レ)違(二)宣旨(一)随(二)平家(一)、南都園城(をんじやう)には或は宮を入進、(有朋上P538)或は御迎に参つゝ、狼藉斜(なのめ)ならざりければ、太政(だいじやう)入道(にふだう)大に安からぬ事に思ひ宣(のたまひ)けり。殊に南都にも深く鬱て、殿下の御使を散々(さんざん)に陵礫せり、是又たゞ事にあらずと覚たり。廿一日園城寺(をんじやうじ)円恵(ゑんけい)法親王(ほふしんわう)〈 後白河院(ごしらかはのゐんの)御子 〉天王寺の別当被(レ)止。其上彼寺の僧綱(そうがう)、公請を被(二)停止(一)、以(二)使庁使(一)、張本を被(レ)召けり。被(レ)下(二)院宣(一)云、園城寺(をんじやうじ)悪僧等、違(二)背朝家(一)、忽企(二)謀叛(一)、依(レ)之(これによつて)門徒(もんと)僧綱(そうがう)已下、皆悉停(二)止公請(一)、解(二)却見任并(ならびに)綱徳兼亦末寺庄園及彼寺僧等私領(一)、仰(二)諸国之宰史(一)、早可(レ)令(二)収公(一)、但於(二)有(レ)限寺用(一)者、為(二)国司之沙汰(一)付(二)彼寺(一)、所司任(二)其用途(一)、莫(レ)令(レ)退(二)転恒例仏事(一)、無品円恵(ゑんけい)法親王(ほふしんわう)、宜(レ)令(レ)停(二)止所帯天王寺検校職(けんげうしき)(一)とぞ有ける。僧綱(そうがう)には、一乗院僧正(そうじやう)房覚をば、飛騨判官景高承て召(レ)之。常陸法印実慶をば、上総判官忠綱(ただつな)承、中納言法印行乗をば、博士判官章貞承る。真如院法印能慶をば、和泉(いづみの)判官仲頼承。亮法印真円をば、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)季貞承。美濃僧正(そうじやう)覚智をば、摂津判官盛澄承。蔵人法橋勝慶をば、祇園博士大夫判官(たいふはんぐわん)基康承。宰相僧正(そうじやう)公顕をば、出羽判官光長承、僧正(そうじやう)覚讃をば、斎藤判官友実承、明王院僧都(そうづ)乗智をば、新志明基承、右大臣法眼実印をば、仁府生経広承、中納言法眼勘忠、大蔵卿(おほくらのきやう)法印
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行暁両人をば紀府生兼康(かねやす)承、各水火(有朋上P539)の責にぞ及ける。二会講師には、円全、性猷、澄兼、公胤〈 已上四人 〉被(レ)停(二)止公請(一)、学生十八人(じふはちにん)、被(レ)載(二)罪名(一)。高倉宮(たかくらのみや)三井寺(みゐでら)に籠らせ給に依て、衆徒も多く被(レ)誅、宮も亡びさせ給(たま)ひぬ。僧綱(そうがう)さへ公請を止られければ、哀入道の失滅よかし、耳にも聞じ目にも見じなど、園城(をんじやう)も南都も大衆蜂起騒動すと聞えければ、東国の乱逆を前に抱て、園城寺(をんじやうじ)を攻べしと聞ゆ。頼朝(よりとも)の謀叛には、尤南都北嶺に仰て、天下安穏の祈をこそ可(二)仰付(一)、入道の憤深ければ、其事既(すで)に治定すと有(二)披露(一)。三院の大衆会合僉議(せんぎ)して、大関小関堀塞で、垣楯をかき逆茂木引て、構(二)城郭(じやうくわく)(一)たり。
十一月十二日、頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡大将軍として、一千(いつせん)余騎(よき)の軍兵を率して、三井寺(みゐでら)へ発向す。大衆も思儲たる事なれば、大関小関二手に造て防戦けれ共、大勢に打落されて、大衆法師原(ほふしばら)に至るまで、死ぬる者八百(はつぴやく)余人(よにん)、重衡勝に乗て、寺中に乱入、坊舎に火を係たれば、南中北の三院、金堂、講堂(かうだう)、神社、仏閣、一宇も不(レ)残焼にけり。本覚院、鶏足院、常喜院、真如院、桂園院、尊星王堂、普賢堂、青竜院、大宝院、新熊野、同拝殿護法善神の社壇、教待(けうだい)和尚(くわしやう)の本坊、同御身像七宇の鐘楼、二階(にかい)大門八間四面の大講堂(だいかうだう)、三重一基宝塔、阿弥陀堂、唐院宝蔵山王宝殿、四足一宇四面廻廊、五輪院、十二間大坊、三院各別灌頂院(くわんぢやうゐん)、惣〔じて〕坊舎塔廟六百三十七宇(ろつぴやくさんじふしちう)、大津の在家(有朋上P540)二千八百五十三宇(にせんはつぴやくごじふさんう)、速に■煙(たいえん)となるこそ悲けれ。仏像二千(にせん)余体、経巻幾千万ぞ数を不(レ)知。文徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)仁寿三年に、智証大師自入唐して、渡し給へる唐本の一切経、七千(しちせん)余巻(よくわん)も焼にけり。顕密須臾に亡て、大小の書籍も失にけり。三密瑜伽(ゆが)
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の道場もなければ、振鈴(しんれい)声を断て、一夏安居の仏前もなければ、供花の薫も絶にけり。宿老(しゆくらう)碩徳の明師は怠(二)行学(一)、受法相承の弟子は、経巻に別れぬ。或は漫々たる浮(レ)海、船と共にこがるゝ大衆もあり、或は峨々たる峯に上て、嵐と同咽僧侶もあり、仏宝僧宝忽(たちまち)に亡つゝ、在家出家歎悲けり。抑三井寺(みゐでら)者是、近江国志賀郡、擬大領大友夜須良麿が私の寺たりしを、天武天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)に奉(二)寄附(一)、本仏も彼時の御本尊、生身の弥勒と申しを、教待(けうだい)和尚(くわしやう)百六十年行ひ給(たまひ)て、其後智証大師の草創也。係目出三井の法水も忽(たちまち)に亡ぬるこそ悲けれ。天智天武持統三代の帝の御産湯の水をくみたりける故に三井寺(みゐでら)と名たり。大師此所を伝法灌頂(くわんぢやう)の霊地として、井花の水を汲事、慈尊の朝、三会の暁を待ゆゑに、三井寺(みゐでら)とも申とかや。角止事なき聖跡に、兵俗乱入つゝ、塵灰となす事、有(レ)心人皆歎けり。況寺門老少の心の中、推量りても哀なり。(有朋上P541)
S1609 遷都附将軍塚(しやうぐんづか)附司天台事
治承四年五月廿九日には、都遷あるべき由有(二)其沙汰(一)。来月三日福原へ行幸と被(二)定仰下(一)けり。日頃(ひごろ)も猿荒増事ありと私語(ささやき)けれ共、指もはやと思ける程に、既(すで)に被(二)仰下(一)ければ、京中貴賤迷(二)是非(一)ひ、周章(あわて)騒つゝ、更にうつゝとは覚えず。兼ては六月三日と有(二)披露(一)しに、俄(にはか)に二日に被(二)引上(一)ける間、供奉の人々上下周章(あわて)騒て、取物も不(二)取敢(一)(とりあへず)、東関の雲の夕、西海の波の暁、仮寝の床の草枕、一夜の名残(なごり)も惜ければ、跡に心は留りて、思を残す事ぞかし。久此京に住馴て、始て旅だたん事倦ければ、外人には世に恐ていはざりけれ共、親き族は寄合て、額を合て泣悲、何なるべし共覚ねば、各袖を
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ぞ絞ける。二日既行幸あり、入道の年来執通給(たま)ひける所なるに依て也。中宮、一院、新院、摂政殿(せつしやうどの)を奉(レ)始、公卿殿上人(てんじやうびと)被(二)供奉(一)、三日と有(二)披露(一)だにも、忙かりしに、今一日引上られける間、御伴の上下いとゞ周章(あわて)騒、取物も不(二)取敢(一)(とりあへず)、帝王の稚御座には、后こそ同輿には召に、是は御乳母(おんめのと)の平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の北方、師の内侍と申ぞ被(レ)参ける。先例なき事也と、人欺申けり。係儘には法皇道すがら御心細、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず、ゆゝしく木影の繁き森を御覧じ(有朋上P542)て、此は何所ぞと御尋(おんたづね)あり。近く候ける人、広田大明神(だいみやうじん)の社也と奏ければ、こは猿事にこそと思召(おぼしめし)て、今度無(二)別御事(一)、都へ有(二)還御(一)、政務如(レ)元ならば、御所近奉(レ)祝と有(二)御祈念(一)けるこそ哀なれ。御心中計の御事なれば人は此事をば不(レ)知けり。三月池(いけの)大納言(だいなごん)頼盛(よりもり)の家を皇居と定て、主上渡らせ給ふ。同四日頼盛(よりもり)家の賞を蒙て、正二位(しやうにゐ)し給へり。九条左大臣兼実の御子、右大将(うだいしやう)良通越られ給へり。法皇をば福原に三間なる板屋を造て、四面に波多板し廻して、南に向て口一つ開たるにぞ居進ける。筑紫武士、石戸の諸卿種直が子に、佐原の大夫種益奉(二)守護(一)けり。一日に二度如(レ)形供御を進せけり。懸ければ此御所をば、童部(わらんべ)は楼御所とぞ申ける守護の武士厳かりければ、輙人も不(レ)参、鳥羽殿(とばどの)を出させ給しかば、くつろぐやらんと思召(おぼしめし)けるに、高倉宮(たかくらのみや)の御謀叛(ごむほん)の事出来て、又角のみ渡らせ給へば、こは如何しつるぞや、心憂とぞ思召(おぼしめし)ける。今は世の事もしろしめし度もなし、花山法皇の御座(おはしまし)けん様に、山々寺々をも修行して、任(二)御心(一)御座(おはしまさ)ばやとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。鳥羽殿(とばどの)にてはさすが広かりしかば、慰む御事も有し物
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を、由なく出にける者哉と思食(おぼしめし)けるも、責の御事と哀なり。
抑神武天皇(じんむてんわう)は天神七代を過、地神五代御末、葺不(レ)合尊の御譲を受させ給つゝ、人代百王の始の帝にまし/\しが、辛酉歳日向国宮崎郡にて、皇王(有朋上P543)の宝祚を継給へり。五十九年と申し、己未年十月に東征して、豊葦原中津国に留り御座、近来大和国(やまとのくに)と云は是也。高市郡、畝傍山を点じて、帝都を立、橿原の地を伐払て、宮室を作り給き。即橿原の宮といへり。自(レ)爾以降、代々の帝王、都を移さるゝ事、三十度に余り、四十度に及べり。
神武天皇(じんむてんわう)より景行天皇(けいかうてんわう)まで十二代は、大和国(やまとのくに)所々に宮造して遷御座(おはしまし)き。景行天皇(けいかうてんわうの)御宇(ぎよう)に、大和国(やまとのくに)纏向日代宮より、近江国志賀郡に被(レ)遷、穴穂宮を造り給。仲哀天皇(てんわう)二年の九月に、穴穂宮より長門国に移されて、豊浦宮に御座(おはしま)す。神功皇后(じんぐうくわうごうの)御宇(ぎよう)に、大和国(やまとのくに)十市郡に被(レ)移て、稚桜宮に御座(おはします)。仁徳天皇(てんわう)元年に、同国軽島豊明宮より、摂津国(つのくに)難波に移されて、高津宮に住給。履中天皇(てんわう)二年に、大和国(やまとのくに)十市郡へ帰御座(おはします)。反正天皇(てんわう)元年に河内国へうつされて、柴垣の宮に御座(おはしま)す。允恭天皇(てんわう)四十二年に、又大和国(やまとのくに)へ帰て遠明日香宮に御座(おはします)。安康天皇(てんわう)三年、同国泊瀬朝倉宮に御座(おはします)。其後六代は同国所々に住給ふ。
継体天皇(てんわう)五年に、山城国、筒城に移されて十二年、其後乙訓住給ふ。宣化天皇(てんわう)元年に猶大和国(やまとのくに)へ帰て、檜隈廬入野宮に御座(おはします)。欽明天皇(てんわう)より皇極天皇(てんわう)まで七代は、大和国(やまとのくに)郡々に宮居して、他国へは
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不(二)還給(一)。孝徳天皇(てんわう)大化元年に、摂津国(つのくに)長柄にうつされて、豊崎宮に御座(おはします)。斉明天皇(てんわう)二年に又大和国(やまとのくに)へ帰つて、飛鳥岡本の宮に御座(おはします)。天智天皇(てんわう)(有朋上P544)六年、近江国に被(レ)移て、志賀郡大津宮に住給ふ。天武天皇(てんわう)元年に、大和国(やまとのくに)に帰て、岡本宮に御座、是を飛鳥の浄見原(きよみはらの)宮と申。持統天皇(てんわう)より光仁天皇(てんわう)まで、九代は猶大和国(やまとのくに)奈良の都に住給ふ。桓武天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、延暦(えんりやく)三年十月に、山城国に遷されて、長岡宮に十年御座(おはしま)しけるが、此京狭とて、同(おなじき)十二年正月に、大納言(だいなごん)藤原小黒丸、参議左大弁(さだいべん)紀古作美、大僧都(だいそうづ)賢■等(けんけいら)を遣して、当国の中、葛野郡宇太村を見せらる。三人共に奏して申、此地は左青竜、右百虎、前朱雀、後玄武、一も闕ず、四神(ししん)相応の霊地也と、依(レ)之(これによつて)愛宕郡に御座、賀茂大明神(かものだいみやうじん)に被(二)告申(一)、同(おなじき)十三年に、長岡京より此平安城へ遷給(たまひ)て以来、都を他所へ不(レ)被(レ)遷、帝王三十二代、星霜四百(しひやく)余歳(よさい)也。昔より多の都ありけれ共、此京程に地景目出く、王業久かるべき所なしとて被(レ)遷たり。末代までも此京を他所へ遷されぬ事や在るべきとて、大臣公卿、賢者才人、諸道の博士等を被(二)召集(一)て、有(二)僉議(せんぎ)(一)。長久なるべき様とて、土にて八尺の人形を造、鉄の甲冑を著せ弓矢を持せて、帝自土の向(二)人形(一)祝申させ給けるは、必此京の守護神となり給へ、若未来に此都を他所へ移す事あらば、竪く王城を守其人を罰せよと被(レ)含(二)宣命(一)て後、東山の峯に深一丈余(あまり)の穴を堀て、西向に立て被(レ)埋けり。将軍塚(しやうぐんづか)とて今にあり。去ば天下に事出来、兵革興んとては、兼て告知しむる習あり。(有朋上P545)嵯峨(さがの)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、大同五年に他国へ遷されんとし給しかば、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有て、奉(レ)諌し上、貴賤騒歎しかば、さてこそ止給けれ。一天
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の君万乗の主、猶御心に任給はず、凡人の身として輙も思企給けるこそ浅猿(あさまし)けれ。柏原天皇(てんわう)と申は、平家の先祖に御座(おはします)。先祖〔の〕帝のさしも執し思召(おぼしめし)〔給〕ける都を、他国へ移給しも■(おぼつか)なし。此京をば平安城とて、文字には平ら安き城と書り。旁以難(レ)捨。就(レ)中(なかんづく)主上上皇共に平家の外孫にて御座、君も争か捨させ給べき。是は国々の夷共責上て、平家都に跡をとゞめず、山野に交べき瑞相にやとぞ私語(ささやき)ける。将軍塚(しやうぐんづか)の守護神、争か可(レ)不(レ)成(レ)怒、只今(ただいま)世は失なんず、心憂事也。平家専もてはやすべき都をや。入道天下を手に把り、心の儘に振舞給ける余り、当帝を奉(レ)下、我孫を位に付進、法皇の第二の王子高倉宮(たかくらのみや)を奉(レ)誅御首(おんくび)を切、太政大臣(だいじやうだいじん)の官を止て奉(レ)流(二)関白殿(くわんばくどの)(一)、我聟近衛殿(このゑどの)を奉(レ)成(二)摂政(せつしやう)(一)、惣て卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、北面の下揩ノ至まで、或は流し或は死し、自由の悪行数を尽して、今又及(二)遷都(一)けるこそ不思議なれ。守護の仏神豈禀(二)非礼(一)給はんや、四海の黎民其歎幾許ぞ。犯人者有(二)乱亡之患(一)、犯(レ)神者有(二)疾夭之禍(一)と云本文あり、恐々といへり。就(レ)中(なかんづく)福原と云は平安城の西也、今年大将軍在(レ)酉、方角既に塞れり、いかゞ有べきと申人ありければ、陰陽博士安倍季弘に仰て、勘文を被(レ)召ける。勘状に云、(有朋上P546)
本条云、大将軍王相不(レ)論(二)遠近(一)、同可(レ)忌(二)避諸事(一)、然而至(二)于遷都(一)者、先例不(レ)避(レ)之歟、桓武天皇(てんわう)、延暦(えんりやく)十三年十月廿一日に、自(二)長岡京(一)、遷(二)都於葛野京(一)、今年大将軍為(二)北之分(一)、当(二)王相方(一)、然者(しかれば)就(二)延暦(えんりやく)之佳例(一)案(レ)之、雖(レ)為(二)大将軍之方(一)、何可(レ)有(二)其憚(一)哉とぞ申たる。聞(レ)之人々舌を振て申
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けるは、延暦(えんりやく)の遷都に御方違ありき。但永此城を捨られんには、強に方角の禁忌の不(レ)可(レ)及(二)沙汰(一)。勘文を召るゝならば、何様にも可(レ)有(二)御方違(一)者ぞ。季弘が勘状矯飾の申状歟。倩案(二)事情(一)、昔唐に司天台とて高二十丈の台を造、天文博士を置れたり。太史天変を見て、吉凶を奏する官也。漢元帝、成帝、父子二代之間、政無道(ぶだう)にして天変頻也。北辰光少く、五星煌々として、赤事如(レ)火、芒を耀し、角を動して、三台を射る上、台半ば滅て、中台折たり。是必世乱国亡べき天変也。司天の大史是を見るといへ共、無道(ぶだう)の君に恐て、毎(レ)望(二)明光殿(一)、只慶雲寿星とて、御悦来、御寿永かるべき天変とのみ奏せしかば、政を正事なくして、終に国乱帝亡給にけり。去ば季弘も入道の無道(ぶだう)の政に恐つゝ、方角の禁忌をも不(レ)申けるにやとぞ、人唇を返ける。新都行幸の供奉に参ける人の、旧都の柱に書つけたりけるは、
百年をよかへり迄に過こしに愛宕の里は荒や果なん K093 (有朋上P547)
行幸既(すで)にならせ給ければ、諸卿已下衛府諸司(しよし)供奉せり。何者(なにもの)の態なりけるにや、東寺の門の道ばたに、札を立たり。
咲出づる花の都をふり捨て風ふく原の末ぞあやふき K094
行幸の御門出に、いま/\しくぞ見えし。(有朋上P548)