『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十
P0482(有朋上P659)
禰巻 第二十
S2001 八牧夜討事
治承四年八月九日、佐々木源三秀義と、大場三郎景親と見参しける次に、景親佐々木に語て云けるは、駿河国長田入道、上総守忠清(ただきよ)について、太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)に訴申けるは、北条四郎時政は、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)を取立て、謀叛を発すべきの由承及、結構(けつこう)の所存、急御沙汰(ごさた)有べきかと申ければ、入道殿(にふだうどの)の仰には、近日源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)三条宮を奉(レ)勧て、南都に発向して国家を乱し、当家を亡さんと云企あるに依て、宇治にして被(レ)討畢。今又此事を聞上は、惣じて源氏の種を諸国に置べからずと云御気色(おんきしよく)也。されば佐殿の御事も、定て御沙汰(ごさた)有べし、其意を得らるべきなり此間の在京に委承たりと語る。秀義浅猿(あさまし)と思て急ぎ帰て、定綱を以て、密に此事を佐殿に語申たれば、返事には、年来契申しし本意既(すで)に顕れぬ、悦で被(二)告仰(一)たり、相計て左右を可(レ)被(レ)仰也と。
同八月十五日国々八幡の放生会も過ぬ。十六日(じふろくにち)に北条を招て、和泉(いづみの)判官兼隆と云は、平家の傍親和泉守信兼が嫡男也。(有朋上P660)八牧の館にあれば、八牧判官と云。院宣を給る上は、先兼隆を夜討にすべし、急ぎ相計と宣(のたまひ)けり。北条尤然べく候、但今夜は三島社御神事にて、国中(こくぢゆう)には弓矢をとる事候はず、明日十七日(じふしちにち)の夜討也、内々人々可(レ)被(二)仰含(一)とて出にけり。十七日(じふしちにち)の午刻に佐々木太郎定綱を召て、額
P0483
を合て被(レ)仰けるは、頼朝(よりとも)謀叛を起すべきよしを、京都既(すで)に披露有なれば、定て兼隆景親等に仰て、其沙汰有ぬと覚ゆ。されば先試に兼隆を可(レ)誅、我天下を取べくは可(二)討得(一)、運命限あらば、討得事難かるべし、吉凶唯此の事にあらん、今夜則夜討を入べし、舎弟等(しやていら)を相催給へ、事成就(じやうじゆ)あらば、旁の世なるべし、深憑思ふ也と有ければ、定綱は忝被(二)仰合(一)之条、身の面目を極る上は、更に命を惜べからずと申て、舎弟(しやてい)経高、盛綱、高綱等を召集て、日の暮るをぞ相待ける、ゆゝしく見えたり。十七日(じふしちにち)の夜は、忍々に兵共(つはものども)集けり。時政は夜討の大将給(たまひ)て、嫡子宗時に先係させ、弟の小四郎義時、佐々木太郎兄弟四人、土肥、土屋、岡崎、佐奈田与一、懐島平権頭等を始として、家子も郎等も濯汰たる者の手に立べき兵、八十五騎にて、八牧が館へぞ寄ける。佐殿時政を呼返して宣(のたまひ)けるは、抑軍の勝負をば争か知べしと問給へば、時政申て曰、御方勝軍ならば城に火を放つべし、負軍に成て人々討るゝならば、急使者を可(レ)進、静に(有朋上P661)御自害(ごじがい)と申捨てぞ出にける。八十五騎を二手に造る。佐々木兄弟四人は搦手に廻る、北条、土肥、岡崎等、追手也。両方より時を造て、寄たれば、城の内にも時を合す。八牧には折節(をりふし)勢こそ無りけれ。よき者共の有りけるは、伊豆国(いづのくに)、島田宿にて遊ばんとて、十余人(よにん)出ぬ。残者共十人計には過ざりけり。そも俄事にて物具(もののぐ)著にも及ばず、大肩脱にて櫓より落し矢に散々(さんざん)に射る、其中に河内国住人(ぢゆうにん)関屋八郎と名乗て、射ける矢ぞ物にも強くあたり、あだ矢も無りける。寄手も多く被(二)射殺(一)、手負ければ、五六度迄引返引返踉■(やすらひ)居たり。佐々木搦手に廻たりけるが、次郎経高
P0484
後の木戸口(きどぐち)まで攻入て、散々(さんざん)に戦ひける程に、痛手負たりけれ共、尚独城の内に打入て、兼隆が後見に権頭と云ける者が首を取てぞ出たりける。定綱兄弟命を捨て責詰責詰戦けれ共、館は究竟の城(じやう)也、追入追出し戦ければ、午角の軍にて勝負なし。此に当国住人(ぢゆうにん)に加藤太光胤、加藤次景廉とて、兄弟二人あり。是は、
  都をば霞と共に出でしかど秋風ぞ吹く白川のせき K112 
と云秀歌読たりし、能因入道には、四代の孫子也。彼能因が子息に、月並の蔵人と云ける者、伊勢国(いせのくに)に下て、柳の馬入道が聟に成て、儲たりし子を、加藤五景貞と云き。後には使宣を蒙て、加藤判官とぞ云ける。其子共也ければ、加藤太、加藤次と云。本伊勢国(いせのくに)に住ける(有朋上P662)が、父景貞に敵あり、平家の侍に伊藤と云者也。彼敵を殺して、本国には不(二)安堵(一)、東国に落下て、武蔵国秩父を憑けれども、平家に恐て辞(二)退之(一)、千葉を憑といへども同恐て不(レ)置けり。伊豆国(いづのくに)の公藤介を憑ければ、甲斐甲斐敷請(二)取之(一)、妹に合て為(二)用心(一)憑置。其故は公藤介三戸次郎と云者と中悪して、常に軍しければ、剛の者は一人も大切也、加藤兄弟心際不敵也と見て、軍の方人にせんと思ければ、平家にも不(レ)憚、親く成たりけるが、常に佐殿へ参てたのみ申ければ、阻なく被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。兄弟共に兵也けれども、景廉は殊さらきりもなき剛の者、そばひらみずの猪武者也。折節(をりふし)佐殿には御不審之事有ければ、催には漏たりけれ共、世間も怱々なる心地しける上、頻(しきり)に胸騒のしければ、何事の有やらんと■(おぼつかなく)て、宿直申さ
P0485
んと思ひて、紫威の腹巻に、太刀計を帯、乳母子(めのとご)の州前三郎を相具して、鞭を揚て馳参る。門外にして馬より下、佐殿館の内へつと入。佐殿は小具足付て縁の上に小長刀突立給へり。子細は有けりと覚る処に、佐殿仰には、此間不審の事有て催事なけれ共、見来給ふ条神妙(しんべう)也、高倉宮(たかくらのみや)より平家追討の令旨を給りしかども、宮既(すで)に亡ぬれば、さて過る処に、一院院宣を給(たまひ)て、平家を可(レ)誅也、先兼隆を討とて、北条と佐々木等を遣しぬ、打勝たらば館に火をかくべしと云つるが、いまだ煙も見えず、討(有朋上P663)損じぬるやらん■(おぼつかな)し。折節(をりふし)人のなきに、景廉は是に候へと宣へば、加藤次不(二)聞敢(一)穴心憂、不(レ)参は知せ給まじかりける歟、世間も何となく怱々也つれば、馳参れり、加藤の御大事(おんだいじ)を思召(おぼしめし)立けるに、など景廉には被(二)仰含(一)ざりけるやらん、殿中に人多候へば、我も我もとこそ存ずらめ共、加様の夜討にはさすが、景廉こそ侍べらめ、君に命を奉る、兼隆をば速に討て可(レ)進とて、傍若無人に申散して出る処に、佐殿景廉を呼返して、火威の鎧に白星の甲取具して、其上に夜討には太刀より柄長物よかるべし、是にて敵の首を取て進よとて、小長刀を給ふ。是は故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の秘蔵の物也けるを、流罪の時父が形見にも見んとて、池尼御前に申請て下給(たま)ひたりける也。銀の小蛭巻に目貫には法螺を透して、義朝(よしとも)身を不(レ)放持れたりし宝物なれ共、且は軍を進んが為、且は事の始を祝はんとおぼして給にけり。景廉是を給(たまひ)て、佐殿の雑色一人州前三郎下人二人、已上五騎(ごき)にて八牧城に推寄す。見れば時政南表に引退て扣へたり。景廉を見て、いかに御辺(ごへん)は、当時御勘当にて御座(おは)するにと問へば、俄(にはか)に召て八牧が首貫て
P0486
進よとて、御長刀を給れり、是を見給へとて指出。抑北条殿宵より寄給たれば、城の案内知給たるらん、有の儘に語給へ、私の軍に非ず、君の御大事(おんだいじ)也と云。時政城の内の構様をば知ず、門より外に櫓あり、(有朋上P664)兵共(つはものども)櫓より下し矢に射る、櫓の前は大堀也、橋を引たれば入事叶はず、互に堀を隔て遠矢に射れば、宵より今まで勝負なし、佐々木の人々は搦手に廻ぬ、時政は家子郎等散々(さんざん)に射られて、五六度まで引退て控へたりと云。加藤次申けるは、殿原は宵より軍に疲たるらん、休給へ、景廉荒手也、一当当て見べし、健ならん楯突を一人たび候へ、其外楯二三枚橋に渡さんとて取聚て、弓の替弦を以て筏に組堀に打入て、北条が雑色に源藤次と云男に楯つかせて歩立に成り、州崎相具し、長刀をば下人に持せ、寄手の弓征矢乞取て、堀を渡り城内に進入、櫓の下にたゝずみたり。櫓に有ける者共も、宵より軍に疲ぬ、矢種も尽にければ、或落或内に入てなかりけり。門の戸を押開て攻入けるに、箭面に立たりける者三人大庭に射倒し、加藤次佐殿の雑色に下知しけるは、心苦思召(おぼしめし)つるに、先櫓と門とに火をさせと云ければ、雑色下知に依て火を差てげり。爰(ここ)に武者一人進出て名乗けるは、河内国住人(ぢゆうにん)、石川郡の、関屋八郎とは我事也、櫓の上にて射残せる、中差一筋こゝにあり、今夜夜討の大将軍は、北条、佐々木歟、土肥、土屋歟、加藤が党か、名乗て我矢請取て名聞にせよと呼て、内に入ぬ。加藤次、門外に引退て、乳子を招て云けるは、関屋が詞聞つらん、彼が箭にあたらん者、命生る者有まじ、我其矢にあたらん(有朋上P665)事安事也、但我討れなば此軍鈍かるべし、佐殿を世に立奉らん
P0487
と思に、汝景廉と名乗て敵の矢に中て、えさせんや、さもあらば思事を云置け、更に違事有まじと云。州崎是を聞て、我少きより殿に育れ奉て、難(レ)忘(二)其恩(一)、軍に出るよりして、命生べしと存ぜず、奉(レ)代べし、思事とては老たる母が事計、其は迚も乳の恩忘給はじなれば、よく育給へとて門の内に進入、伊勢(いせの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)に、加藤判官の次男景廉是に在、関屋八郎と聞つるは、云つる言には似ず、落ぬるかと云ひて、楯を前にさしかざして居たりけり。関屋然べきと悦て、三人張に大の中差取て番ひ、十五束よく引竪て、放たれば、楯を通し、冑の胸板(むないた)後のあげ巻へ射出たり。州崎西枕に倒伏。死人を舁出して、様々口説言して、今一度もの云へきかんと云けれ共、事切ぬれば、藤次も涙を流して、汝が母をば疎にすべからず、草の陰にてもかがみよ、敵をば討てとらすべし、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)とて州崎を閑所に抛置て、進入て云けるは、昔は、加藤次は一人、今は源氏繁昌の御代と成て、加藤次と云者二人あり、関屋が音のしつるは落ぬるか、返合て組や/\とぞ呼びける。関屋是を聞て、敵のたばかるを不(レ)知して、矢を放ける本意なさよ、人に詞を懸られて、さて有るべきに非ずとて、甲の緒を強くしめ、三尺五寸の太刀を抜、いづくへか落べき、関屋爰(ここ)に在とて、にこと笑て出合たり。(有朋上P666)互に打物の上手にて、切たり請たり大庭を二度三度ぞ廻たる。加藤次は、角ては勝負急度あらじと思ひて、態と請け、其隙を伺て吾太刀をば投捨てつと寄り、鎧草摺引寄て、得たりやおうとぞ組だりける。上に成下になりころびける程に、雨打際のくぼかりける所にて、関屋下に成、加藤次上に乗係て、押へて首を掻てけり。首を太刀のさきに貫て、
P0488
鬼神の様に云つる関屋が頸、景廉分捕にしたりやと云て、抛出す。下部是を取て持たりけるを、北条乞取つて、鞍のしほでにぞ付たりける。去(さる)程(ほど)に景廉は太刀をば投捨て、下人に持せたる長刀を取、甲をしめしころを傾て、縁の上へつと上り侍を見入たれば、高燈台に火白掻立たり。さしも人有とも見えず。景廉進入処に、狩衣の上に腹巻著たる男の、大の長刀の鞘はづして立向たりけるを、景廉走違様にして、弓手の脇より妻手脇へ差貫て投臥たり。京家の者と覚えたり。軈(やが)て内へ攻入りて、寝殿をさしのぞいて見れば額突あり。燈白く掻立て、障子を細目に開て、太刀の帯取五寸計引残せり。見れば兼隆紺の小袖に上腹巻著て、太刀を額に当て、膝付居て、敵つと入らば、はたと切らんと覚しくて待懸たり。加藤次過せじとて、左右なくは不(レ)入、甲を脱いで長刀のさきに懸て、内へつと指入たり。待儲たる兼隆なれば、敵の入るぞと心得(こころえ)て、太刀を入て、はたと切る。余に強打程(有朋上P667)に、甲の星二並三並切削、鴨居に鋒打立て、ぬかん/\とする処に、傍の障子を蹈倒し、長刀の柄を取直して、腹巻かけに胸より背へ差貫、軈(やが)てとらへて頸を掻く。こゝに八牧を憑て筆執して有ける、古山法師に某の注記と云けるが、萌黄糸威の腹巻に、三尺二寸(にすん)の太刀を抜て飛で係ければ、景廉走違て長刀をしたゝかに打懸たり。左の肩より右の乳の間へ打さかれて、其儘軈(やが)て死にける。即兼隆が頸片手に提、障子に火吹付て、暫、待て躍出。北条に向て仕たりとて、敵の首を捧たり。佐殿は遥(はるか)に焼亡を見給(たま)ひて、景廉はや兼隆をば打てけり、門出能と独言して悦び給ける処に、北条使を立て、八牧の判官は景廉に討れ候ひ
P0489
ぬ、高名ゆゝしくこそと申たれば、神妙(しんべう)神妙(しんべう)と感じ給へり。北条兼隆が頸を見て、
  法華経(ほけきやう)の序品をだにもしらぬみに八牧が末を見るぞ嬉しき K113 
と、景廉は宵よりの仰也ければ、頸をば給たりける長刀に指貫、高らかに指上て参たり。ゆゝしくこそ見えけれ。佐殿大に悦びて、八牧が首を谷川の水にすゝがせて、長櫃のふたに置れて、一時是をぞ見給ける。謀叛の門出に、さこそ嬉しく御座(おはしまし)けめ。(有朋上P668)
S2002 小児読(二)諷誦(一)事
兼隆被(レ)討後日に追善あり。修行者を招請して唱導を勤けるに、色々の捧物に、思々に志を載たり。其中に一紙の諷誦あり。法華経(ほけきやう)開八巻心成仏身と計書たる諷誦あり。導師是を読煩たりけるに、聴衆の中に五歳の小児あり。此諷誦をよまんと云けるを、乳母(めのと)いかにとしてかと制しけれ共、膝の上より頽下、高座の下に歩寄て、
  法の花終にひらくる八牧には心仏の身とぞ成ぬる K114
と、不思議なりける事也。
S2003 佐殿大場勢汰事
兵衛佐(ひやうゑのすけ)謀叛起し、兼隆判官討れぬと聞えければ、伊豆国(いづのくに)には、公藤介茂光、子息狩野五郎親光、宇佐美平太、弟の平六、平三資茂、藤九郎盛長、藤内遠景、弟の六郎、新田四郎忠経、義藤房成尋、堀藤次親家、七郎武者宣親、中四郎惟重、中八惟平、橘次頼時、鮫島四郎宗房、近藤七国平、大江平次家秀、新藤次俊長、小中太光家、沢六郎宗家、城平太等馳(有朋上P669)参、相模国(さがみのくに)には土肥次郎真平、子息太郎遠平、岡崎四郎義真、
P0490
子息与一義貞、土屋三郎宗遠、同(おなじく)二郎義清、中林太郎、同次郎、築井次郎義行、同八郎義安、新開荒太郎実重、平左近太郎為重、多毛三郎義国、安田三郎明益等馳集る。
廿日は兵衛佐(ひやうゑのすけ)彼輩を相具して、相模の土肥へ越え給(たま)ひ、此にて軍の談義あり。真平申けるは、軍は謀と申ながら、いかにも勢により侍べし、先廻文の御教書を以て、御家人を召るべしと奉(レ)進ければ、然るべきとて、藤九郎盛長を使にて、院宣の案に佐殿の施行書を副へて、方々へ触遣はす。盛長是を給(たまひ)て、先相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)波多野馬允に触るるに、良案じて是非の御返事(おんへんじ)不(レ)申、源平共に兼て勝負を知ざれば、後悔を存ずる故也。同国懐島の平権頭景義に相触たり。此景義と申は、保元の合戦に、八郎為朝に膝の節射られたる大場平太が事也。弟の三郎景親が許へ行て、かゝる院宣の案と御教書を給たり。和殿はいかゞ思と問ふに、景親申けるは、源氏は重代の主にて御座(おはしませ)ば、尤可(レ)参なれ共、一年囚に成て既(すで)にきらるべかりしを、平家に奉(レ)被(レ)宥、其恩如(レ)山、又東国の御後見し、妻子を養事も争か可(レ)奉(レ)忘なれば、平家へこそと云。和殿は誠に平家の恩にて世にある人なれば、さもし給へ、景義は源氏へ参らんと存ず、但軍の勝負兼て難(レ)知、平家猶も栄え給はば和殿を憑べし、若又源氏世(有朋上P670)に出給はば我をも憑給へとて、弟の豊田次郎景俊を相具して、佐殿へ参じ加りける也。大場は俣野五郎と二人平家に付ぬ。同国山内須藤刑部丞俊通が孫滝口俊綱(としつな)が子に、滝口三郎利氏、同四郎利宗兄弟二人に相触たり。折節(をりふし)一所に双六打て居たり。烏帽子子(えぼしご)に手綱うたせて筒手に把、御使にも不(レ)憚、弟の四郎
P0491
に向て云けるは、是聞給へ、人の至て貧に成ぬれば、あらぬ心もつき給けり、佐殿の当時の寸法を以て、平家の世をとらんとし給はん事は、いざ/\富士の峯と長け並べ、猫の額の物を鼠の伺ふ喩へにや、身もなき人に同意せんと得申さじ、恐し/\、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)/\とぞ嘲ける。利宗不(レ)知(二)逆順之分(一)、不(レ)弁(二)利害之用(一)、只恐(二)強大之敵(一)、忽背(二)真旧之主(一)、口吐(二)妄言(一)、心無(二)誠信(一)、頗非(二)勇士之法(一)、偏似(二)狂人之体(一)けり。三浦介義明が許へ相触たり。折節(をりふし)風気ありて平臥したりけるが、佐殿の御使と聞て、悦起て、白き浄衣に立烏帽子(たてえぼし)著て、出合たり。廻文の御教書とて被(レ)出たりければ、手洗嗽なんどして、御文披、老眼より涙をはら/\と流して申けるは、故(こ)左馬頭殿(さまのかみどの)の御末は、果て給(たま)ひぬるやらんと心憂く思ひつるに、此殿ばかり生残御座(おはしまし)て、七十有余(いうよ)の義明が世に、源氏の家を起し給はん事の嬉しさよ、唯是一身の悦也、子孫催し聚て、御教書拝み奉るべしとて、三浦別当義澄、太田三郎義成、佐原(有朋上P671)十郎義連、和田太郎義盛、同次郎義茂、同三郎宗真、多々良三郎義春、同四郎明季、佐野平太等を始として、郎等雑色に至まで催集て、是を拝しむ。各聞給へ、義明今年七十九、老病身を侵して、余命旦暮を待、今此仰を蒙事、老後の悦也、我家の繁昌也、倩事の心を案ずるに、廿一年を一昔とす、それ過ぬれば、淵は瀬と成、瀬は淵となる、而を平家日本(につぽん)一州を押領して既(すで)に廿余年、非分の官位任(レ)心、過分の俸禄思の如なり、梟悪年を積、狼藉日を重たり、其運末に臨で、滅亡期極れり、源氏繁昌の折節(をりふし)、何疑か有べし、一味同心して兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)へ参べし、御冥加なくして、
P0492
討死し給はば、各首を並べ奉りて、冥途の御伴仕れ、山賊海賊して死にたらば瑕瑾恥辱なるべし、相伝の主の逆臣追討の院宣を給(たまひ)て、軍し給はん御伴申て、身を亡さん事、為(レ)家為(レ)君、永代の面目也、佐殿又御冥加ありて世に立給ならば、子も孫も被(二)打残(一)たらん輩は誇(二)恩賞(一)、などか繁昌せざるべきと申ければ、口々に子細にや/\とて皆憑もしげにぞ申ける。いか様にも悦の御使なれば、可(レ)奉(レ)祝とて、酒肴尋常にして、馬一匹に太刀一振相副て引き、可(二)参上仕(一)とて、内々其用意あり。義明教訓之趣、有(レ)義無(レ)私、有(レ)勇無(レ)戻ければ、聞者感(レ)之けり。昔晏嬰発(二)勇於崔杼(一)、程嬰顕(二)義於趙武(一)、今義明為(二)頼朝(よりとも)(一)忽報(二)旧恩(一)、遂立(二)新(有朋上P672)功(一)、彰(二)誉於四方(一)、奮(二)名於百代(一)けり。藤九郎盛長其より下総に越て、千葉介に相触たり。院宣の案御教書披見て、此事上総介に申合て、是より御返事(おんへんじ)申べしとて盛長を返す。千葉介が嫡子小太郎は生年十七に成けるが、折節(をりふし)鷹狩に出て帰けるが、道にて盛長に行合たり。互に馬を引へて対面して、如何にと問。盛長しか/゛\と答たり。小太郎不(二)心得(こころえ)(一)思て、盛長を相具して館に帰り、向(レ)父云けるは、恐ある事に候へ共、院宣の上御教書成侍ぬ。先度の御催促に参上の由御返事(おんへんじ)申されぬ、其上上総介に随たる非(二)御身(一)、彼が参らばまゐらん、不(レ)参は参らじと仰候べき歟、全不(レ)可(レ)依(二)其下知(一)、只急度可(レ)参由御返事(おんへんじ)申させ給ふべしと云ければ、賢々しく計者哉と思て、実に可(レ)然とて、可(レ)参と御返事(おんへんじ)申けり。其より上総介に相触ければ、生て此事を奉る身の幸にあらずや、忠を表し名を留ん事、此時にありとぞ申ける。昔魯連弁言以退
P0493
(レ)燕色■(しう)単辞以存(レ)楚。盛長已全(二)使節於戦術(一)動(二)三寸之舌(一)、深蕩(二)二人之心(一)、経胤等振(レ)威勢於興(二)衆窟(一)、八箇国之兵遂治(二)四夷之乱(一)けり。夫弁士は国之良薬、智者は朝之明鏡也といへり。此事誠哉、各馳向はんとしけれ共、廻れば渡あまたあり、直には海を隔たり、八月下旬の比なれば、浪荒風烈して、心の外にぞ遅参しける。(有朋上P673)
S2004 石橋合戦事
八月廿二日には、兵衛佐(ひやうゑのすけ)北条佐々木を先として、伊豆相模二箇国の住人(ぢゆうにん)同意の輩、三百(さんびやく)余騎(よき)を引具して、早川尻に陣を取。早川党進出て、爰(ここ)は軍場には悪く侍り、湯本の方より敵山を越て、後を打囲、中に取籠られなば、ゆゝしき大事なり。更に一人も難(レ)遁と申ければ、其より米噛石橋と云所に移て陣を取、上の山の腰に垣楯をかき、下の大道を切塞で引籠る。此事角と聞えければ、大場三郎景親は、武蔵相模の勢を招相従輩、舎弟(しやてい)俣野五郎景尚、長尾新五、同新六、八木下五郎、漢揚五郎以下、鎌倉党は一人も不(レ)漏、海老名源八権頭季定、子息の荻野五郎季重、同彦太郎、同小太郎、河村三郎能秀、曽我太郎祐信、佐々木五郎義清、渋谷庄司重国、山内、滝口三郎経俊、同四郎、稲毛三郎重成、久下の権頭直光、子息次郎実光、熊谷次郎直実、岡部六弥太忠澄、浅間三郎、広瀬太郎、笠間三郎等を始として、宗徒の者共三百(さんびやく)余騎(よき)、家子郎等相具して三千(さんぜん)余騎(よき)也。同廿三日の辰時には、大場三郎景親大将軍として、三千(さんぜん)余騎(よき)を相具して、石橋の城(じやう)に押寄、谷を前に隔て、海を後に当て陣を取、落日西山に傾て、其(その)日(ひ)も既(すで)に暮なんとす。稲毛三郎(有朋上P674)重成進出て、日既(すで)に晩ぬ、夜軍は敵御方不(二)見分(一)、去ば明日を期す
P0494
べきやらんと申ければ、大場申けるは、明日を相待ならば、敵に大勢付重て、輙く難(二)攻落(一)、後には三浦の者共馳来也、両方を禦ん事、ゆゝしき大事也、道狭して足立悪き城なれば、小勢におはする時、佐殿を追落して、明日は一向三浦に向て勝負すべきと申す。此儀然べきとて、三千(さんぜん)余騎(よき)声を調て、時を造る。佐殿も同時を合て鳴矢を射通しければ、山神答て、敵も味方も大勢とこそ聞えけれ。大場進出て、弓杖を突、鐙蹈張立上て、抑平家は桓武帝の御苗裔、葛原親王御後胤として、代々蒙(二)将軍宣(一)、遥(はるか)に朝家の御守たり。天下の逆乱を和げ、海内の賊徒を随へ、武勇の名勝(二)他家(一)、弓矢の誉伝(二)当家(一)、就(レ)中(なかんづく)太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)、保元平治の凶賊を鎮治しより以来、公家の重臣として、其身太政大臣(だいじやうだいじん)に昇、子孫兼官兼職に御座(おはしま)す、一天重(レ)之、万民誰か軽しめん、依(レ)之(これによつて)南海西海の鱗に至まで、随(二)其威応(一)、東国北国の民何ぞ可(レ)奉(二)忽緒(一)。爰(ここ)に今たやすくも奉(レ)傾(二)平家御代(一)との合戦の企誰人ぞ、恐くは蟷螂(たうらう)の手を挙て向(二)竜車(一)喩かは、名乗名乗とぞ攻たりける。北条四郎歩せ出して、汝不(レ)知哉、我君は是清和(せいわ)天皇(てんわう)第六皇子、貞純親王の御子、六孫王より七代の後胤、八幡殿の四代の御孫、前(さきの)右兵衛権佐殿(うひやうゑのごんのすけどの)ぞかし、傍若無人の景親が申状頗尾籠也、平家は悪行身に余て、朝威を(有朋上P675)蔑にす、依(レ)之(これによつて)早彼一門を追討して、可(レ)奉(レ)休(二)逆鱗(一)由、太政法皇の院宣を被(レ)下たり。錦の袋に納て御旗の頭に挟み給へり。且は可(レ)奉(レ)拝、されば佐殿こそ日本(につぽん)の大将軍よ、平家こそ今は朝家の賊徒よ、綸言之上は、戮誅不(レ)可(レ)廻(二)時刻(一)処に、彼家人と号する輩依(レ)有(レ)之、先其党類を追討して後、花洛に上り、逆臣を可(レ)被(レ)誅也。景親
P0495
慥に承れ、故八幡殿奥州(あうしう)の貞任宗任を被(レ)攻より以来、東国之輩代々相続て、誰人か君の御家人にあらざる、随て景親も父祖相伝の者也、馬に乗ながら子細を申条奇怪也、後勘兼て可(レ)不(レ)顧歟、下て可(レ)申也、御伴には時政父子一人も不(レ)漏、佐々木太郎定綱兄弟四人、加藤太光胤兄弟と、沢六郎、近藤七、新田七郎父子、城平太、小中太、公藤介父子、土肥次郎父子、新開荒太郎、土屋三郎、岡崎四郎と其子与一、懐島豊田次郎等、侍らふ也。其外の人々、国々より任(二)院宣(一)御教書に付て、夜を日に継で馳参。王事無(レ)脆、八虎の凶徒に諂て後悔すな、速に甲を脱手を合て可(レ)参也といへば、大場重て申けるは、昔八幡殿後三年の軍の御伴して、出羽国仙北の金沢城被(レ)責時、十六歳にて先陣を蒐け、右の目を射させて、答の矢を射、其敵を討捕て、甲を其場に施し、名を後代に留し鎌倉権五郎景政が末葉、大場三郎景親大将軍として、兄弟親類已下三千(さんぜん)余騎(よき)也。是程の大事を思立給ながら、勢の(有朋上P676)かさこそ少なけれ、実に誰かは随ひ奉るべき、只(ただ)心にくき体にて落給へかし、命ばかり生け申さんと云。北条又申しけるは、景親は先祖は具に知たりけり、いかに口は口、心は心と、三代相伝の君に敵し申ぞ、忠臣は二君に不(レ)仕と云事あり、其上奉(レ)向(二)十善帝王(一)、院宣を係(レ)蹄、弓矢を放たん事、冥加の程■(おぼつかな)し、背(二)勅命(一)者は、剣を歩が如と云にや、旁以無益の事也、唯急参れと云。大場重て申、先祖は誠に主君、但昔は昔今は今、恩こそ主よ、源氏は朝敵と成給(たまひ)て後は、我身一人の置所(おきどころ)なし、家人の恩までは沙汰の外也、景親は平家の御恩を蒙事如(二)海山(一)高深、不(レ)知(レ)恩は木石也、何ぞ世になき主を顧み
P0496
て今の可(レ)忘(レ)恩、勇士は如(レ)諂と云事あり、只今(ただいま)追落たてまつるべき也とて、三千(さんぜん)余騎(よき)我も/\と勇けり。北条又申けるは、欲は身を失といへり、まさなき大場が詞哉、一旦の恩に耽て、重代の主を捨んとや、弓矢取身は言ば一も不(レ)輙、生ても死ても名こそ惜けれ、景親よ、権五郎景政が末葉と名乗ながら、先祖の首に血をあやす、欲心の程こそ不当なれと云ければ、敵も味方も道理なれば、一度にどつとぞ笑ける。
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)仰に、武蔵相模に聞ゆる者共は皆在と覚ゆ、中にも大場俣野兄弟先陣と見えたり。此等に誰をか与すべきと宣へば、岡崎四郎義真申けるは、弓箭を取て戦場に出る程の者、敵一人にく(有朋上P677)まぬ者やは侍るべき、親の身にて申事、人の嘲を顧ざるに似たれ共、存る処を申さざらんも、還つて又私あるに似たるべし、義貞は此間大事の所労仕て、未力つかずや侍らめ共、心しぶとき奴にて、弓箭取ては等倫に劣るべからず、其器に侍り、被(二)仰含(一)べきかと申ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)宣(のたまひ)けるは、趙武挙以(二)私讐(一)、所奚薦以(二)己子(一)せり、忠有て私無には、或は敵を挙し、或は子を薦事、皆合(レ)義合(レ)法、義貞を召てけり。与一其(その)日(ひ)の装束には、青地錦直垂に、赤威肩白冑のすそ金物打たるを著て、妻黒の箭負、長覆輪の剣を帯けり。折烏帽子(をりえぼし)を引立て、弓を平め跪きて、将軍の前に平伏せり。白葦毛なる馬をぞ引せたる、其体あたりを払てぞ見えける。今日の撰にあへる、誠にゆゝしく見えし。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、佐奈田に宣(のたまひ)けるは、大場俣野は名ある奴原也、今日の軍の先陣仕て、彼等二人が間にくめ、源氏の軍の
P0497
手合也、高名せよとぞ宣(のたま)ひける。与一蒙(レ)仰畏て御前を立、郎等に文三家安と云者を招寄て、義貞が母又子共が母にも語べしとて云けるは、一昨日打出しを最後と思給ふべし。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)今度の軍の先陣勤よと直に仰たびたれば、多の人の中に択ばれたる事、弓矢取身の面目也。されば命を限に戦んずれば、生て再び帰る事よもあらじ。兼て角と知侍らば、何事も申置べかりけり。其事今は力なし。我討れ(有朋上P678)ぬと聞給(たま)ひなば、母御前女房の御歎こそ思残奉れ、縦我死たり共、世のしづまらん程は、二人の稚者をば、いかならん野の末山の奥にも隠置て、佐殿世に立給たらん時、先祖なれば岡崎と佐奈田とをば申給(たま)ひて、兄弟に知せてたび候へ、さては女房も子供が後見して御座(おはしま)せ、仏に花香進て、後の世弔給へ。父岡崎殿も佐殿の御伴なれば、軍の習ひ生死を知らず、女姓は何事か有べきなれば、角申置也と慥に云伝べし、又汝も少き者共不便に生立て、世にあらば憑め、世になくば憐て、義貞が形見とも思へなど云ければ、文三申けるは、殿の二歳の時より、家安親代と成て、夜は胸にかゝへ奉りて夜通労、昼は肩にのせ終日に奉(レ)育、早く成人し給(たまひ)て、人に勝れ給はん事を願き、五六歳に成給しかば、竹の小弓に小竹矯の矢、的、草鹿、兎こそ射れ角こそ射れ、馬に乗てはとこそ馳れ角こそ馳れと教へ奉生立。殿は今年は廿五、家安五十七に罷成る。若き人だに主命とて先陣を蒐て死なんと宣ふ、殿を見捨て家安が生残りては何にかせん、又人のいはん事こそ恥しけれ、佐奈田与一の最後には、恥ある郎等身にそはず、文三家安が幾程命を生んとてか、最後の軍に主を捨てて逃たりけりと申さん事
P0498
も口惜し、死なば一所の討死也、左様の事をば誰にも仰られよかしとて、三郎丸と云童を招寄て、申含て遣けり。与一既(すで)に(有朋上P679)打出ければ、佐殿は義貞が装束毛早に見ゆ、著替よかしと宣へば、与一は弓矢取身の晴振舞、軍場に過たる事候まじ、尤欣処に侍とて、十五騎の勢を相具して進出て申けるは、源氏世を取給ふべき軍の先陣給(たまひ)て、蒐出たるを誰とか思ふ、音にも聞らん目にも見よ、三浦介義明の弟に、本は三浦悪四郎、今は岡崎四郎義真、其嫡子に佐奈田与一義貞、生年廿五、我と思はん人々は、組や/\とて叫でかく。弓手は海、妻手は山、暗さはくらし、雨はいにいで降、道は狭し、馬に任てぞかけ行ける。平家方より、与一は能敵ぞ、あますなとて進者共には、大場三郎景親、俣野五郎景尚、長尾新五、新六、八木下五郎、漢揚五郎、萩野五郎、曽我太郎、原宗四郎、渋谷庄司、滝口三郎、稲毛三郎、久下権頭、浅間三郎、広瀬太郎、岡部六弥太、同弥次郎、熊谷次郎等を先として、究竟の兵七十三騎、佐奈田一人に組んとて、我先我先にとはやれ共、闇さはくらし道は狭し、馬次第にぞ打つたりける。
廿三日の誰彼時の事なれば、敵も味方も見え分ず、与一は文三を呼て、家安慥に聞、我は相構て大場俣野が間に組んと思也、くむ程ならば急落合て敵の頸をとれ、此間の労に無(レ)力覚れば、兼て云ぞと云。文三誰もさこそ存候へ、殿の大場にくみ給はば、家安は俣野、我大場に組候はば、殿は俣野にくみ給へとて進処に、岡部(有朋上P680)弥次郎、与一に組んと志て、鹿毛なる馬に乗て馳来る。与一は岡部とは思よらず、大場
P0499
歟、俣野かと思馳よりて、甲のてへんに手を打入て、鞍の前つ輪に引付て、頸を掻取上、雲透に見れば、思敵にはあらずして岡部弥次郎也。穴無慙や鹿待処の狸とは此事にや、なにしに来て義貞に討るらんとて、首をば谷へぞ抛入ける。与一が乗たる馬は、白葦毛太逞が、七寸(しちすん)に余て鼻のさき瓠の花の如く白かりければ、名をば夕貌と云ひ、東国一の強馬也。もと三浦介が許に有けるが、余に強て輙乗者もなかりけるを、岡崎所望して乗けるが、それも進退し煩たりけるに、与一計ぞ乗随たりける。去共岡崎持和て、三浦へ返たれば、本の栖へ帰たりとて都返りと名付たり。佐奈田折節(をりふし)馬なくて又乞返たれば、古巣へ帰たりとて鶯共呼けり。元来つよき馬也けれ共、己が力を憑つゝ、出雲轡の大なるに、手綱二筋より合てぞ乗たりける。岡部弥次郎が頸切ける時、鎧武者の身の落るに驚て、つと出て走行。猿物ぞと心得(こころえ)て、引留ん引留んとしけれ共。此馬の癖として、口をば主に打くれて、胸にて走馬也けり。猶留んと引程に、手綱三に切れければ、左右の水付とらへたり。左右の水付引もぎて、心の儘に引て行。大場三郎は弟の俣野五郎に、構て与一に組給へ、景親も目に懸らばくまんずるぞと云。俣野は余に暗て敵も味方(有朋上P681)も見えわかず、与一も何哉らんといへば、与一が鎧はすそ金物の、殊にきらめきて馬の毛も白かりき。白き幌を懸たりつれば、験かりつる也と教。俣野歩せ出す、与一馬に引れて近付たり。俣野敵のよすると思ければ、佐奈田与一義貞と名乗つるは落ぬるかと叫けり。無下に近かりければ、義貞こゝにあり問は誰。俣野五郎景尚と名乗や遅、押並て馬の間へ落重なる。上に成下になり、駻返持返、山のそはを
P0500
下りに、大道まで四段計ぞころびたる。今一返もころびなば、互に海へは入なまし。俣野は大力と聞に、いかゞしたりけん下に被(二)推付(一)てうつぶしに臥、頭は下に足は上に、起ん/\としけれ共、俣野力なかりける。与一は上にひたと乗得て、義貞敵に組たり、落重れ/\と叫けれ共、家安を始として郎等共(らうどうども)、押隔てられてつゞく者なし。俣野今は叶はじと思て、景尚佐奈田に組たり、つゞけや/\と叫びけるに、長尾新五声に付て落合て、上や敵下や敵と問。与一は上に乗ながら、角宣ふは長尾殿歟、上ぞ景尚、下ぞ与一、謬し給なと云。俣野下にて、上ぞ与一下ぞ景尚、過すなと云。頭は一所にあり、くらさはくらし、音は息突て分明に不(二)聞分(一)上よ下よと論じければ、思侘てぞ立たりける。俣野穴不覚の殿や、音にても聞知なん、鎧の毛をも捜給へかしと云。長尾誠にと思て、鎧の毛をぞ捜りける。与一あ(有朋上P682)らはれぬと思て、右の足を揚げて長尾をむずと蹈、ふまれて下りに弓長三杖ばかり、とゞ走て倒にけり。其間に与一刀を抜て、俣野が首をかく。掻共掻共不(レ)切、指共指共透らず。与一刀を持揚げて雲透に見れば、さや巻のくりかたかけて、鞘ながら抜たりけり。鞘尻くはへてぬかん/\としけれ共、運の極の悲さは、岡部弥次郎が首切りたりける刀を不(レ)拭さやに差たれば、血詰して抜ざりけり。長尾新五が弟に新六落合て、与一が胡■[*竹冠+録](やなぐひ)の間にひたと乗得て、甲のてへんを引仰て頸をかく、無慙と云も疎也。俣野を引起して、いかに手や負たると問へば、くびこそ重覚ゆると云。頸をさぐればぬれぬれとあり。手負たるにこそとて、与一が刀を見れば、鞘尻一寸ばかり砕たり。つよく指たりと覚たり。
P0501
其後俣野は軍はせず、佐奈田与一は、俣野五郎止めたりと叫ければ、源氏方には惜みけり。平家方には是を悦けり。文三家安は、大勢に被(二)推隔(一)、主の与一が討れたるをば不(レ)知けり。一所にていかにも成んと主を尋て走廻けれども、敵は山に満々たり、尾は一隔たり、死生のゆくへ不(レ)知。高声に云けるは、東八箇国の殿原は、誰か源氏重代の非(二)御家人(一)、平家追討の院宣を下さるゝ上は、今は兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の御代ぞかし、源氏の御繁昌今にあり、明日は殿原悔給べし、矢をも一筋放ぬさきに、参候へかしとぞ■(ののしり)ける。相模国(さがみのくに)(有朋上P683)の住人(ぢゆうにん)渋谷庄司重国、角云は誰そと問。佐奈田殿の郎等に、文三家安と答。重国申けるは、あゝあたら詞を主にいはせで、人がましきと云。家安は悪き殿の詞哉、げに人の郎等は人ならず、去共家安主は二人とらず、他人の門へ足蹈入ず、うでくび取て不(レ)追従(一)、殿こそ実の人よ、桓武帝苗裔、高望王の後胤、秩父の末葉と名乗ながら、一方の大将軍をだにもし給はで、不(二)思寄(一)大場三郎が尻舞して、迷行給ふをぞ人とはいはぬ、家安人ならず共、押並て組給へかし、手の程みせ奉らんと云たりければ、敵も味方もどつと笑ふ。重国由なき詞つかひて、苦返てぞ聞えける。家安は秩父の一門に、稲毛三郎が手に合て戦けり。重成申けるは、やをれ文三よ、己が主の与一は討れぬ、今は誰をか可(レ)育、にげよ助けんと云。文三申けるは、やゝ稲毛殿、家安は幼少より軍には蒐組と云事は習たれ共、逃隠と云事は未(レ)知、主の死ればとて逃んは、御辺(ごへん)の郎等をば何にかはし給べき、まさなき殿の詞哉、与一殿討れ給ぬと聞て後は、誰ゆゑ身をばたばふべき、逃よと宣はんよりは、押並て組給へかしと進
P0502
ければ、稲毛三郎が郎等、押阻押阻戦けり。家安分捕八人(はちにん)して、討死してこそ失にけれ、誉ぬ者こそなかりけれ。岡崎四郎、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に、与一冠者こそ討れ候けれと申せば、佐殿は、穴無慙や、よき若者を、頼朝(よりとも)もし世に(有朋上P684)あらば、与一が後世をば弔べしと被(レ)仰ければ、岡崎は縦五人十人の子をば失侍るとも、君だに御世に立給はば、其こそ本意に候へと心強くは云けれ共、流石(さすが)恩愛の道なれば、鎧の袖をぞぬらしける。与一家安討れて後は、源平互に入替入替終夜(よもすがら)戦けるが、軍兵もはや疲ぬ、敵は大勢也、今はいかにも難(レ)叶とて、暁方に佐殿の勢は土肥を差てぞ落行ける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)も縦引共、矢一射て落んとて後陣にさがり、返合せよ/\と下知し給。是を聞て三浦の太田次郎義久、加藤次景廉、三崎の堀口と云所に下り塞、散々(さんざん)に戦ふ。敵は数千ありけれども、道狭ければ二騎三騎づつ寄けるを、引つめ/\射、是にぞ多く被(レ)射ける。矢種尽ければ、義久景廉引退。
S2005 公藤介自害事
八月廿四日辰刻には、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、上の杉山へ引給ふ。荻野五郎季重兄弟子息五騎(ごき)にて奉(二)追係(一)申けるは、此先に落給は、大将軍とこそ見え給へ、まさなくも後をば見せ給者哉、無益の謀叛発して、源氏の名折給ぬ、返し給へ/\とて馳来。佐殿不(レ)安思給ければ、唯一人留て、一の矢番て射給へば、荻野が弓手の草摺縫様に射こまれたり。二の矢に鞍の(有朋上P685)前輪を馬の背係て射渡し給へり。馬頻(しきり)に駻ければ、荻野馬より落。三の矢に彦太郎が馬の胸帯尽射させて、是も馬はねければ、足を越てぞ立たりける。伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)宇佐比三郎助茂馳参て、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の前に指塞りて、昔より大将軍の戦なき事に侍り、疾疾
P0503
引給へと申。防箭射者の無ればこそと宣ふ時、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)飯田三郎家能馳来て、よき箭三射ける程に杉山へこそ懸給へ、軍兵皆山峨々として登がたかりければ、鎧に太刀ばかり帯て、此彼より落上けり。伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)沢六郎宗家是にして討れぬ。同国住人(ぢゆうにん)公藤介茂光は、如(レ)法肥太たる男也。悪所に懸て身苦く、気絶て登りやらず、伴したりける子息の狩野五郎親光に云けるは、此山は烈くして落延がたし、一定敵に討れぬと覚ゆ、人手に懸ずして我が頸を切れ、佐殿は末憑しき人ぞ、構て二心なく奉公して奉(レ)助と云。親光恩愛の名残(なごり)を憐て、肩に引懸上けれ共、我身だにも行き兼たるに、父をさへ角しければ更に延びえず、公藤介は、やをれ親光よ、我育んとて父子共に人手に懸て、兎角いはれん事、無き跡までも心憂かるべし、敵は既(すで)に近付きたり、只急ぎ我頸を切て孝養せよ、全く逆罪に成まじ、急げ/\と云けれ共、さこそ父が命也とも、争か逆罪を造るべきとや思ひけん、左右なく太刀をば不(レ)抜けり。父が頸を害するは孝子也、母が橋をわたすは不孝也(有朋上P686)と云本文あり。
S2006 楚効荊保事
昔大国に楚効と云ふ者あり、若して父に後て母と共に在けるが、園内に庵を造て、寡なる母を居置て養ふ程に、母つれ/゛\を慰まんとて、忍て男に通ひつゝ年月を送り、園内に深き塹あり、往還の通路也。楚効母が志を知ゆゑに、心安(こころやすく)往来せん事を思て、彼塹に橋を亘す。母が為には孝子とこそ云べきに、子が知事を恥、窃に家を出て自死したりけるをば、子不孝といへり。又荊保と云者ありき。家貧して父を養ひけるが、飢饉の歳にあひて、父が命を難(レ)助かりければ、父と共に隣国(りんごく)に行て、他の財を却して盗て帰ける
P0504
を、家主人を集て是を追。父子二人逃走る事、鼠の猫に合が如し。子は盛にして先立て逃る、父は衰て走事遅。父垣の中をくゞり逃るに、首をば出して足をば捕られたり。荊保立かへりて、父が恥みん事を悲て、剣を抜て其頸を切て、持て家に帰たりけるをば、時の人称して孝養の子と云ひける也。公藤介も、甲斐なき敵に首を取られて恥をみんよりは、疾く切れ疾く切れと云ひけれ共、父が命を蒙上は、孝養の子にこそ有べけれ共、恩愛(有朋上P687)の命を絶ん事悲さに、暫く案じける間に、茂光は腹掻切て臥にけり。田代冠者信綱は、茂光には孫子也けるが、心剛に身健也けり。祖父が自害を見て、つと寄頸掻落して、其孝養し給へとて、伯父狩野五郎に与へけり。親光冑の袖に引隠して、泣々(なくなく)山に登けり。北条次郎宗時、新田次郎忠俊、馬の鼻を返して戦ける程に、甲斐国住人(ぢゆうにん)平井冠者義直と、伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)新田次郎忠俊と馳並て、組で落差違て死にけり。北条次郎宗時は、波打ぎはを歩せ落けるを、伊豆(いづの)五郎助久、係並て取組んで落にけり。両虎相戦て、互に亡(レ)命、留(レ)名けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は尚も延やり給はざりけるを、大場三郎景親、佐々木五郎義清等、大勢にて先陣に進て追懸たり。佐々木五郎義清は、大場三郎が妹聟に也ければ、景親が勢にぞ打具したる。赭白馬に赤皮威の鎧著て、いちじるくこそ見え渡れ。兄の四郎高綱申ける、義清慥に承れ、父の秀義は、故(こ)六条(ろくでうの)判官殿(はんぐわんどの)に父子の儀をなされ奉りて、御子孫の今までも憑みたのまれ奉る、依(レ)之(これによつて)兄弟四人御方にあり、汝一人一門を引分て、思係ぬ大場が尻舞いと珍し、勲功の賞には他人の手に懸べからずと云けれ共、存ずる旨の有けるにや、是非の返事
P0505
はせざりけり。大場三郎も佐々木五郎も鞭を打てぞ責懸ける。大場が童〈 某 〉葦毛馬に乗る間、近程に責付たり。(有朋上P688)
S2007 高綱賜(二)姓名(一)附紀信仮(二)高祖名(一)事
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、又射残し給たりける箭を取て番ひ、既(すで)に引かんとし給けるに、佐々木四郎高綱矢面に塞りて、大将軍たる人の、左右なく弓を引矢を放事侍らず、御伴の者共一人もあらん程は、軽々敷事有べからず、郎等乗替其詮也、とく/\延給へ、定綱高綱兄弟御身近侍り、可(二)禦矢仕(一)、但姓名給らんと云ければ、佐殿子細にや、暫高綱に預給ふと宣へば、佐々木姓名を給(たまひ)て、弓矢取て番ひ、坂を下に向て、大音揚て名乗。清和(せいわの)帝(みかど)の第六皇子貞純親王の苗裔、多田(ただの)新発意(しんぼち)満仲(まんぢゆう)の後胤、八幡太郎(はちまんたらう)義家(よしいへ)に三代の孫子、左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の三男、前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)爰(ここ)にあり、東国の奴原は、先祖重代の家人等(けにんら)也、馬に乗ながら御前近参条狼藉也、奇怪也、罷退と云かけて、暫し竪て態と馬をぞ射たりける。先陣に進ける大場が童、馬の太腹を射通たれば、如(レ)返(二)屏風(一)馬は山の細道に横ざまに倒臥、童は馬に敷れたり。道狭ければ乗越進て上者なし。馬を取除童を起んとする程に、佐殿遥(はるか)に延給ぬ。其後大場遁すな者共とて打て上けるを、定綱高綱兄弟返合て散々(さんざん)に防戦。矢種も尽ければ、四郎高綱兄弟、太刀を抜坂を下に返合返合、七箇度ま(有朋上P689)で切下ければ、大場が大勢坂を下り被(二)追返(一)、此間に深杉山にこそ籠給へ、高綱跡目に付て奉(二)尋逢(一)たりければ、佐殿の仰には、汝が依(二)忠節(一)難(レ)遁命を全せり。世を打取んに於ては、必半分を分給べしとぞ仰ける。古人いへる事あり。疲たる兵の再び戦ふをば一人当千(いちにんたうぜん)といへり、何況乎佐々木疲れて七箇度の戦をや。されば世静て後、七箇度の
P0506
忠を感じて、備前、安芸、周防、因幡、伯耆、日向、出雲七箇国を給たりけれ共、高綱は杉山に入給(たま)ひし時は、日本(につぽん)半国とこそ約束は有しに、七箇国数ならずとて、代を恨て髻切て、高野山にぞ籠にける。善にも悪にも、猛かりける心なり。
 < 昔楚国の項羽と、漢朝の高祖と諍(レ)位戦ひけるに、項羽は多勢也、高祖は小勢なり。去共合戦牛角にして無(二)勝負(一)。項羽を討せんが為に、高祖楚国へ入と聞えければ、楚国の大勢悦て高祖を待。高祖は革車に乗て官兵を従たり。項羽が兵の被(レ)囲(二)多勢(一)、高祖難(レ)遁かりけるに、紀信と云者、高祖の車に乗替つて帝を奉(レ)逃、我は是高祖也と名乗ければ、敵誠と思ひつゝ、革車を囲て是を搦見れば、高祖には非ず、紀信と云者なり。項羽是を捕て、随(レ)我降人にならば赦さんと云ければ、忠臣は不(レ)仕(二)二主(一)、男士不(レ)得(二)諂言(一)云て従はざりければ、兵革車に火を付て、紀信をぞ焼殺しける。佐々木四郎高綱も、此事を思ひけるにや、姓名を給(たまひ)て敵(有朋上P690)を返し、佐殿を奉(レ)延。彼は死して名を遺、是は生て預(レ)恩、異国本朝かはれ共、ためしは実に一なりけり。>