『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十一

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那巻 第二十一
S2101 兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)隠(二)臥木(一)附梶原助(二)佐殿(一)事
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、土肥杉山を守て、掻分々々落給ふ。伴には、土肥次郎実平、北条四郎時政、岡崎四郎義真、土肥弥太郎遠平、懐島平権守景能、藤九郎盛長已下の輩、相随て落給(たま)ひけるを、大場、曽我案内者として、三千(さんぜん)余騎(よき)にて追懸たり。杉山は分内狭き所にて、忍び隠るべき様なし。田代冠者信綱は大将を延さんとて、高木の上に昇て、引取々々散々(さんざん)に射る。敵三千(さんぜん)余騎(よき)、田代に被(レ)防て左右なく山にも入らざりけり。其隙に佐殿は、鵐の岩屋と云谷におり下り見廻せば、七八人(しちはちにん)が程入ぬべき大なる伏木あり。暫く此に休て息をぞ続給(たま)ひける。去(さる)程(ほど)に御方の者共多く跡目に付いて来り集る。爰(ここ)に佐殿仰けるは、敵は大勢也、而も大場、曽我案内者にて、山蹈して相尋ぬべし、されば大勢悪かりなん、散々(ちりぢり)に忍び給へ、世にあらば互に尋ねたづぬべしと宣へば、兵者我等(われら)既(すで)に日本国(につぽんごく)を敵に受たり、遁べき身に非ず、兎にも角にも一所にこそと各返事申しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)重て宣(のたま)ひけ(有朋上P692)るは、軍の習、或は敵を落し或は敵に落さるゝ是定れる事也。一度軍を敵に被(レ)敗、永く命を失ふ道やはあるべき、爰(ここ)に集り居て、敵にあなづられて命を失はん事、愚なるに非や。昔范蠡不(レ)q(二)会稽之恥(一)、畢復(二)勾践(こうせん)之讎(あだ)(一)、曹沫不(レ)死(二)三敗之辱(一)、已報(二)魯国之羞(一)、此を遁れ出て、大事を成立てたらんこそ兵法には叶ふべけれ。いかにも多勢
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にては不(レ)可(二)遁得(一)、各心に任て落べし、頼朝(よりとも)山を出て、安房上総へ越ぬと聞えば、其時急尋来給ふべしと、言を尽て宣へば、道理遁れ難して、各思々にぞ落行ける。北条四郎は、甲斐国へぞ越にける。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に相従て山に籠ける者は、土肥次郎実平、同男遠平、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長也。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は、軍兵ちり/゛\に成て、臥木の天河に隠れ入にけり。其(その)日(ひ)の装束には、赤地の錦の直垂に、赤威の鎧著て、伏木の端近く居給へり。すそ金物には、銀の蝶の丸をきびしく打たりければ、殊にかゞやきてぞ見えける。其中に藤九郎盛長申けるは、盛長承り伝へ侍り。昔後朱雀院御宇(ぎよう)天喜年中に、御先祖伊予守殿、貞任宗任を被(レ)責けるに、官兵多く討れて落給(たま)ひけるに、僅(わづか)に七騎にて山に籠給(たま)ひけり、王事靡(レ)塩終に逆賊を亡して四海を靡し給(たま)ひけりと、今日の御有様(おんありさま)、昔に相違なし、吉例也と申ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)憑もしく覚して、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)をぞ心の内には念じ(有朋上P693)給(たま)ひけり。田代冠者は、矢種既(すで)につきぬ。佐殿今は遥(はるか)に落延給(たま)ひぬらんと思ひければ、木より飛下て、跡目に付て落給(たま)ひ、同臥木の天河にぞ入りにける。田代佐殿に頬を合せて、いかゞすべきと歎処に、大場曽我俣野梶原三千(さんぜん)余騎(よき)山蹈して、木の本萱の中に乱散て尋けれ共不(レ)見けり。大場伏木の上に登て、弓杖をつき蹈またがりて、正く佐殿は此までおはしつる物を、伏木不審なり、空に入りて捜せ者共と下知しけるに、大場がいとこに平三景時進出て、弓脇にはさみ、太刀に手かけて、伏木の中につと入、佐殿と景時と真向に居向て、互に眼を見合たり。佐殿は今は限り、景時が手に懸ぬと覚しければ、急ぎ
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案じて降をや乞、自害をやすると覚しけるが、いかゞ景時程の者に降をば乞べき、自害と思ひ定めて腰の刀に手をかけ給ふ。景時哀に見奉りて、暫く相待給へ、助け奉るべし、軍に勝給(たま)ひたらば公忘れ給な、若又敵の手に懸給(たま)ひたらば、草の陰までも景時が弓矢の冥加と守給へと申も果ねば、蜘蛛の糸さと天河に引たりけり。景時不思議と思ひければ、彼蜘蛛の糸を、弓の筈甲の鉢に引懸て、暇申て伏木の口へ出にけり。佐殿然るべき事と覚しながら、掌をあはせ、景時が後貌を三度拝して、我世にあらば其恩を忘れじ、縦ひ亡たり共、七代までは守らんとぞ心中に誓はれける。後に思へば、景時が為には忝とぞ覚えたる。平三伏木(有朋上P694)挿絵(有朋上P695)挿絵(有朋上P696)の口に立塞りて、弓杖を突申しけるは、此内には蟻螻蛄もなし、蝙蝠は多く騒飛侍り、土肥の真鶴を見遣ば、武者七八騎見えたり、一定佐殿にこそと覚ゆ、あれを追へとぞ下知しける。大場見遣て、彼も佐殿にてはおはせず、いかにも伏木の底不審也、斧鉞を取寄て、切破て見べしと云ひけるが、其も時刻を移すべし、よし/\景親入て捜てみんとて、伏木より飛下て、弓脇ばさみ太刀に手かけて、天河の中に入んとしけるを、平三立塞り、太刀に手懸て云けるは、やゝ大場殿、当時平家の御代也、源氏軍に負て落ちぬ、誰人か源氏の大将軍の頸取て、平家の見参に入て、世にあらんと思はぬ者有べきか、御辺(ごへん)に劣て此伏木を捜すべきか、景時に不審をなしてさがさんと宣はば、我々二心ある者とや、兼て人の隠たらんに、かく甲の鉢弓のはずに、蜘蛛の糸懸べしや、此を猶も不審して思けがされんには、生ても面目なし、誰人にもさがさすまじ、此上に推てさがす人あらば、思切なん景時は
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と云ければ、大場もさすが不(レ)入けるが、猶も心にかゝりて、弓を差入て打振つゝ、からり/\と二三度さぐり廻ければ、佐殿の鎧の袖にぞ当ける。深く八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を祈念し給ける験にや、伏木の中より山鳩二羽飛出て、はた/\と羽打して出たりけるにこそ、佐殿内におはせんには、鳩有まじとは思けれ共、いかにも不審也ければ、(有朋上P697)斧鉞を取寄て切て見んと云けるに、さしも晴たる大空、俄(にはか)に黒雲引覆雷おびたゞしく鳴廻て、大雨頻(しきり)に降ければ、雨やみて後破て見べしとて、杉山を引返けるが、大なる石の有けるを、七八人(しちはちにん)して倒寄、伏木の口に立塞てぞ帰にける。
S2102 聖徳太子(しやうとくたいし)椋木附天武天皇(てんわう)榎木事
 < 昔聖徳太子(しやうとくたいし)の仏法(ぶつぽふ)を興さんとて、守屋と合戦し給しに、逆軍は大勢也、太子は無勢也ければ、いかにも難(レ)叶、大返と云所にて、只一人引へ給けるに、守屋の臣と勝溝連と行会て難(レ)遁御座(おはしまし)けるに、道に大なる椋木あり、二つにわれて太子と馬とを木の空に隠し奉り、其木すなはち愈合ひて太子を助け奉、終に守屋を亡して仏法(ぶつぽふ)を興し給(たま)ひけり。
天武天皇(てんわう)は大伴王子に被(レ)襲て、吉野の奥より山伝して、伊賀伊勢を通り、美濃国に御座(おはしま)しけるに、王子西戎を引率して、不破関まで責給けり。天武危くて見え給けるに、傍に大なる榎木あり、二にわれて、天武を天河に奉(レ)隠て、後に王子を亡して天武位につき給へり。>
是も然るべき兵衛佐(ひやうゑのすけ)の世に立べき瑞相にて、懸る伏木の空にも隠れけるにやと末憑もし。佐殿は三千(さんぜん)余騎(よき)が引退たる其隙に、内より石をころばしのけ、伏木を出て小道(有朋上P698)越と云岩石を上り、土肥の真鶴へ向て落行けり。雨やみければ、大場馬を引へて、いかにも伏木おぼつかなし、捜て見んとて
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押寄見れば、口を塞げる大石をころばしのけて落たる跡あり。さればこそ空の中におはしけり、是は梶原平三が計にて落しけり。さり共時の間に遠くはよも延給はじ、つゞきて攻よとて、跡目に付て追懸たり。
S2103 小道地蔵堂附韋提希夫人事
〔去(さる)程(ほど)に〕主従八人(はちにん)の殿は小道の峠向に登て、後を顧れば、敵まぢかく追上る、いかがはすべき、此上は自害すべきかと宣へば、土肥申けるは、物さわがし、事の様見んとて、高所に上て見廻せば、傍に御堂あり、小道の地蔵堂と云寺也。八人(はちにん)堂に入て見れば、上人法師一人あり、仏前に念珠して居たり。土肥上人に云様は、是は源氏大将軍に、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)と申人ぞ、石橋の軍破て、敵の為に被(二)追懸(一)、忍べき所やある、可(二)助申(一)、仏壇の中にも隠しおけと申ければ、上人思様、ありがたき事哉、げに聞奉る源氏の大将軍なり、軍に負給はずば、今争かかやうの法師に助けよと手を合せ給ふべき、忝事也、助奉て世に御座(おはせ)ば、奉公にこそと思て申けるは、此堂は人里遠して山深ければ、身の用心の為に、仏壇の(有朋上P699)下に穴を構て、人七八人(しちはちにん)入ぬべき程に用意せり、暫く忍入て御覧ぜよとて、八人(はちにん)の殿原を押入つゝ、上に蓋して其上に雑具取ひろげて、我身は仏前に座禅の由にて眠居たり。大場大勢引具して、御堂の前まで追懸て、此寺に人やある、只今(ただいま)落人の通つるは不(レ)知や否と、再三問へども答る者なし。大場打寄仏前を見れば法師あり。いかに人の物を問にいらへはなきぞ、不思議也と責ければ、僧の云、是は三箇年の間四時に坐禅する者也、入定の折節(をりふし)にて不(レ)承と申す。重て問ふ、落人の此軒を通つるをば聞ずや、不(レ)知やといへば、加様に座禅して侍れば、外声耳に入ず、内心思慮なければ不
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(レ)聞不(レ)知と云。景親大に嗔て、争かしらざるべき、拷問せよとて軍兵堂内に打入つて、上人を捕て大庭に引出し、拷木にかけて、巳午の時より申の時ばかりまで、上つ下つ推問すれば、絶入ぬる事度度也。只云事とては、全く不(二)知聞(一)、落人とは何者(なにもの)ぞ、骨肉の親類にも非ず、又一室(いつしつ)の同朋にも非ず、其分にもあらぬ人を隠さんとて、仏法(ぶつぽふ)修行の身をや可(レ)痛、只御■迹(ぎやうじやく)と云けれ共、死れば水をふき、生かへれば拷木に上て責る程に、四五度の時は、終に上人を責殺す。猶も面に水をそゝぎ、喉に漿を入ければ、又蘇たりけり。思ひけるは、人を助んとて、かく憂目を見るこそ悲けれ、何事も我身にまさる事なし、さらばおち(有朋上P700)んと心弱く思けるが、良案じて、生ある者は必死す、我身一つをいきんとて、争か七八人(しちはちにん)を亡すべき、昔釈尊の菩薩の行を立て給けるには、薩■[*土+垂](さつた)王子としては、飢たる虎に身を任せ、尸毘大王としては、鳩に代て命をも捨給けり。縦ひ身は徒に亡とも、此人々を助たらば、此堂をも建立(こんりふ)し、我後生をも訪なんと思返て、問へ共落ざりければ、申の時には、上人終に攻殺さる。大場は、不便々々上人は誠に不(レ)知けり、非業の死にこそ無慙なれ、此間に敵は遥(はるか)に延ぬらん、急々とて上人をば打捨てて、まな鶴へむけてぞ責行ける。其(その)日(ひ)も既(すで)に晩ければ、遠近の入逢の、野寺の螺鐘打ひゞけ共、小道の堂には音もなし。佐殿は、実平が袖をひかへて宣(のたま)ひけるは、寺々の螺鐘は聞ゆれ共、此寺の鐘音もせず、上人法師何なる目に相たるやらん、覚束(おぼつか)なし、出て見よと有ければ、壇の下より■(はひ)出て、堂の内外を見廻れば、被(二)責殺(一)て庭に有。角と申ければ、佐殿も人々も壇より出て庭に下給(たまひ)て、是を見
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て、頼朝(よりとも)が命に替たるこそ不便なれ、如何せんと歎給(たま)ひ、膝の上に掻載つゝ、涙ぐみ給ふも哀れなり。七人の者共も、面々に袖を絞けり。佐殿理過て泣給(たま)ひける涙の上人の口に入りければ、喉潤て又よみがへる。御堂の内に舁入て夜のふくるまで労り、物語(ものがたり)し給へり。上人申けるは、今までは御命に替り奉りぬ、大場心深き人也、(有朋上P701)又帰来て御堂の内外捜尋侍らば、御心憂目をも御覧じぬと覚ゆ、夜中なれば何事か侍べき、忍給へと申。佐殿は上人が志云に余あり、頼朝(よりとも)世を取ならば、此堂の修理と云ひ、今の恩の報答と云ひ、心にかけて不(レ)可(レ)忘、さらば暇申さんとて佐殿立給へば、七人の人々も足をはやめて落行けり。大場は三千(さんぜん)余騎(よき)にて杉山を打囲、数日の間さがしける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)も此程は、此山にぞ隠れ居給へるが、嵐みねの松を吹声をきいては、敵の責下かと太刀の柄を把り、水谷川に流るゝ音に驚きては、軍の競上るかと腰の刀を抜儲て、網代の氷魚の亡安き命、籠の内の鳥の出難き身、今こそ思知れけれ。土肥次郎が女房は、心さか/\しき者にて、僧を一人相語ひ、杉山に御座(おはしまし)ける程は、■■(あじか)に御料をかまへ入、上に樒を覆、閼伽の桶に水を入て、上人法師の花摘由にもてなして、忍々に送りけり。地蔵堂の上人も、夜々(よなよな)にさま/゛\訪申けり。さてこそ深山(しんざん)寂寞の中にして、五六日をば経たりけれ。
 < 昔天竺に、摩訶陀国の大王、頻婆娑羅王の太子、阿闍世に禁ぜられ給しに、国大夫人韋提希の、夫婦の情を忘れずして、身に砂蜜を塗付、御衣の下に隠しつゝ、楼珞の中に漿をもり入給(たまひ)て、密に王に奉り、三七日まで有けるも、角やと思ひしられたり。彼は
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一人を操り、是は七人を養けり。異説に云、兵衛佐(ひやうゑのすけ)伏木に隠んとし給ける時は、土肥(有朋上P702)次郎実平子息遠平、新開荒太郎実重、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、土肥が小舎人に七郎丸と云冠者、佐殿共に七人也。跡目に付て尋来たりけれ共、大勢にては難(レ)忍、何方へも各隠れ籠て後にはと宣(のたまひ)ければ、北条時政と子息義時とは、山伝して甲斐国へ落ぬ。田代冠者信綱と加藤次景廉二人は、三島の社に隠れたりけるが、隙を伺ひ社を出でて落行く程に、加藤太に行合て、是も甲斐へぞ越にけるとあり。>
S2104 大沼遇(二)三浦(一)事
八月二十三日には、石橋の合戦と兼て被(レ)触たれば、三浦は可(レ)参よし申たれば、其(その)日(ひ)衣笠が城より門出し、船に乗て三百騎沖懸りに漕せけるに、浪風荒くして叶はず。二十四日に陸より可(レ)参にて出立けるが、丸子川の洪水に、馬も人も難(レ)叶と聞て、其(その)日(ひ)も延引す。二十五日に和田小太郎義盛三百(さんびやく)余騎(よき)にて、軍は日定あり、さのみ延引心元なし、打や/\とて鎌倉通に、腰越、稲村、八松原、大磯、小磯打過て、二日路を一日に、酒勾の宿に著。丸子河の洪水いまだへらざれば、渡す事不(レ)叶して、宿の西のはづれ、八木下と云所に陣を取。洪水のへるを待、暁渡さんとて引へたり。和田小太郎は、源遠して流深し、(有朋上P703)いつを限と待べきぞ、日数遥(はるか)に延ぬ、事の様見て渡さんとて、高所に打上り、雲透に水の面を見渡ば、河の西の耳に馬を引へて武者一人在て、東を守てたゝずみたり。漲り下る洪水の習にて、流はげしくして水音高し。小太郎大音揚て、西の川の耳におはするは誰人ぞと問ふ。音に付て、三浦党に、大沼三郎也、佐殿の御方に参たりき、軍は既(すで)に散じぬ、参りて申さん、河の淵瀬を不(レ)知、健ならん馬を給はらん、三浦の人々と奉(レ)見は僻事歟と喚。三浦はあな心苦し、急ぎ馬をやれとて、高く強き
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馬を渡たり。大沼是に乗て河を渡り、陣に下りて云ひけるは、軍は二十三日の酉の時より始めてゆゝしき合戦なりき、され共敵は大勢三千(さんぜん)余騎(よき)、御方は僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)、終に御方の軍敗れて、遁べき様なし、三浦与一は、俣野五郎に組で討れぬ、佐殿も遁方なく、手をおろして戦給しか共討れ給ぬ、大将軍亡給ぬる上は、ちり/゛\に落失ぬ、我身も希有にして遁たりしかば、此様人々に披露せんとて落たりしか共、敵山々に充満、余党の人を尋捜間、兎角隠忍て紛来れりと、一つは実一つは虚言を語けり。此大沼は与一が討るゝまでこそ軍場には有りけれ、大勢に恐て急ぎ落たりしかば、争か兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の実否をば知べきに、角語たれば、三浦の輩是を聞、さてはいかゞすべき、大将軍の慥に御座(おはしまさ)ばこそ百騎が一騎(いつき)(有朋上P704)に成るまでも軍はせめ、今は日本国(につぽんごく)を敵にうけたり、是より帰ても叶まじ、前には伊藤梶原大場俣野等引へたりと聞ゆ、後には畠山五百(ごひやく)余騎(よき)にて金江河の耳に陣を取て待つときく、前後の勢に取籠られなば由々しき大事、縦ひ一方を打破て通りたり共、敵朝と成なん後は、安穏なるべきに非ず、されば人手に懸りて犬死にせんよりは、爰(ここ)にて自害せんとぞ申ける。三浦別当義澄大沼に問けるは、佐殿の討れ給たりけるをば、正く目とみ給たりやといへば、自奉(レ)見たる事はなし、伝に聞つる計也。さては推量なり、只人が角と云ひたればとて実と思べきに非ず、平家の方人共が敵をたばからん為めに、討れ給ぬと云にもや有らん、又御方の者也共、負軍に成ぬれば、敵に心を通して、角もや云けん不審也、天をも地をもはかれ共、人の心は難(レ)測、其上佐殿は、御身すくやかに心賢き人
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なれば、左右なく討れ給はじ、縦自害なんどし給共、敵に物をば思はすべし。就(レ)中(なかんづく)石橋と云所は、浦近して海漫々たり、船に乗て安房上総へもや伝給けん、峯つゞきて山深ければ、岩の迫谷の底にもや隠れ忍び給らん、そも知難し、慥に目と不(レ)奉(レ)見ほどは、自害もの騒し、如何様(いかさま)にも御身近き田代殿を始めて、佐々木北条土肥土屋此者共に尋逢て、慥の説を聞べき也、一定討れ給たらば、主の敵なれば、大場にも畠山にも打向て、(有朋上P705)命を限に軍すべし、佐殿の死生聞定ざらん間は、相構て身をたばへとて、其夜の中に三浦へとて帰けり。抑畠山五百(ごひやく)余騎(よき)にて、金江川に陣を取て待と聞、いかゞ有べきと云ければ、和田小太郎は、佐殿の左右をきかん程は、命を全して君の御大事(おんだいじ)に叶ふべし、去ば小磯が原を過て、波打際を忍とほらんと云けるを、佐原十郎は、何条さる事か有べき、畠山は若武者也、而も五百(ごひやく)余騎(よき)、思へば安平也、我等(われら)が三百(さんびやく)余騎(よき)にて蒐散して、馬共とりて乗てゆかんと云けるを、三浦別当は詮なき殿原のはかり様や、畠山は今日一日馬飼足休めて身をしたゝめたり、我等(われら)は此両三日、あなたこなた馳つる程に、馬もよわり主も疲たり、人の強き馬とらんとて、我弱き馬とられて其詮なし、馬の足音は波に紛れてよも聞えじ、轡鳴すなとてみづつき結ひ、鎧腹巻の草摺巻上なんどして打けるに、和田小太郎は本よりつよき魂の男にて、いつの習の閑道ぞ、畠山は平家の方人也、我等(われら)は源氏の方人なり、源氏勝給はば、畠山旗を上て参べし、平家勝給はば、三浦旗を上て参べし、爰を問はずは後に被(レ)笑事疑なし、人は浪打際をも打給へ、義盛は名乗て通らん、同心し給へ佐原殿とて、鎧の表帯
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しづ/゛\と結かため、甲の緒をしめ弓取直して、鐙に幕付けさせて、大音あげて、是は畠山の先陣歟、角云は三浦党に和田小太郎義盛と云者(有朋上P706)也、石橋の軍に、佐殿の御方へ参つるが、軍既(すで)に散じぬと聞けば、酒勾宿より帰也、平家の方人して留んと思はば留よと、高く呼てぞ打過る。敵追来らば返合て戦はん、さらずは三浦へ通らんとて、馬を早めて行程に、八松が原、稲村崎、腰越が浦、由井の浜をも打過て、小坪坂を上らんとし〔たり〕ける時に、
S2105 小坪合戦事
〔斯かる処に〕畠山は本田、半沢に云けるは、三浦の輩にさせる意趣なし、去共加様に詞を懸らるゝ上に、父の庄司伯父の別当平家に奉公して在京なり、矢一射ずは平家の聞えも恐あり、和田が言も咎めたし、打立者共と下知しければ、成清は仰の旨透間なし、急げ殿原とて、五百(ごひやく)余騎(よき)、物の具かため馬にのり、打や早めとて追ければ、同小坪の坂口にて追付たり。畠山進出て、重忠爰(ここ)に馳来れり、いかに三浦の殿原は口には似ず、敵に後をばみせ給ぞ、返合せよと■(ののし)り懸て歩せ出づ。三浦三百(さんびやく)余騎(よき)、畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡を並て引へたり。小太郎伯父の別当に云けるは、其には東地に懸りて、あふすりに垣楯かきて待給へ、かしこは究竟の小城なり、敵左右なく寄がたし、義盛は平に下て(有朋上P707)戦はんに、敵よわらば両方より差はさみ中に取籠て、畠山をうたんにいと安し、若又御方弱らば、義盛もあふすりに引籠て、一所にて軍せんと云。別当然べきとて百騎を引分て、後のあふすりに陣を取て左右を見る。畠山次郎は五百(ごひやく)余騎(よき)にて、由井浜、稲瀬河の耳に陣を取て、赤旗天に耀けり。和田小太郎は、白旗さゝせて二百(にひやく)余騎(よき)、小坪の峠より打下り、
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進め者共とて渚(なぎさ)へ向て歩せ出づ。爰(ここ)に畠山、横山党に弥太郎と云者を使にて、和田小太郎が許へ云けるは、日比(ひごろ)三浦の人々に意趣なき上は、是まで馳来べきにあらず、但父の庄司伯父の別当、平家に当参して六波羅に伺候す、而を各源氏の謀叛に与して軍を興し、陣に音信(おとづれ)て通給ふ、重忠無音ならば、後勘其恐あり、又伯父親が返りきかんも憚あれば、馳向ひ奉るばかり也、御渡を可(レ)奉(レ)待歟、又可(二)参申(一)かと、牒使を立たりけり。和田小太郎は、藤平実国を使に副て返事しけるは、御使の申条委く承りぬ、畠山殿は三浦大介には正き聟、和田殿は大介には孫にて御座(おはしま)す、但不(レ)成中と申さんからに、母方の祖父に向て、弓引給はん事如何か侍るべき、又謀叛人に与する由事、いまだ存知給はずや、平家の一門を追討して、天下の乱逆を鎮べき由、院宣を兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に被(レ)下間、三浦の一門勅定の趣と云ひ、主君の催と云ひ、命に随ふ処なり、若敵対し給はば、後悔(有朋上P708)如何が有べき、能々思慮を廻さるべきをやと云たりければ、畠山が乳母子(めのとご)に半沢六郎成清、和田小太郎が前に下塞て云ひけるは、三浦と秩父と申せば、一体の事也、両方源平の奉公は世に随ふ一旦の法也、佐殿いまだ討れ給はずと承、世に立ち給はば、畠山殿も本田半沢召具して、定て源氏へ被(レ)参べき、平氏世に立給はば、三浦殿も必御参あるべし、是非の落居を知ずして、私軍其詮なし、両陣引退かせ給はば、公平たるべき歟と云ければ、半沢が角云は、畠山が云にこそ、人の穏便を存ぜんに、勝に乗に及ばずとて、和田小太郎は小坪の峠に引返す。軍既(すで)に和平して各帰りちらんとする処に、和田小太郎義茂が許へ、兄の小太郎人を馳
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て、小坪に軍始れり、急ぎ馳よと和平以前に云遣たりければ、小次郎(こじらう)はいさゝか少用ありて、鎌倉に立寄たりけるが、是を聞驚騒ぎて馬に打乗り、犬懸坂を馳越て、名越にて浦を見れば、四五百騎(しごひやくき)が程打囲て見えけり。小次郎(こじらう)片手矢はげて鞭をうつ。小太郎は小坪坂の上にて軍和平したれば、畠山に不(レ)可(レ)向と云ふ心にて、手々に招けれ共、角とは争か知べきなれば、急と云ぞと心得(こころえ)て、をめきてかく。畠山は軍和平しぬる上はとて馬より下、稲瀬川に馬の足涼して休居たりけるに、小次郎(こじらう)が馳を見て、和平は搦手の廻るを待けるを知ずして、たばかられにけり、安からずとて馬(有朋上P709)に打乗、小次郎(こじらう)に向て散々(さんざん)に蒐。小次郎(こじらう)は主従八騎にて、寄つ返つ/\火出程こそ戦けれ。敵六騎切落し、五騎(ごき)に手負せて暫休けるを、小太郎は、小次郎(こじらう)うたすな、始に手をひらきて招けば知ざるにこそ、大なる物にて招けとて、四五十人手々に唐笠にて招けるを、弥深入して戦へと云にこそと心得(こころえ)て、暫気をやすめ、又馳入てぞ戦ける。今は叶はじ、小次郎(こじらう)うたすなつゞけ者共とて、和田小太郎二百(にひやく)余騎(よき)にて小坪坂を打下り、河を隔て引へたり。小太郎藤平に問けるは、義盛は楯突の軍には度々あひたれ共、馬の上は未(レ)知、いかゞ有べきといへば、実光今年五十八、軍に逢事十九度也、軍は尤故実に依べし、馬も人も弓手に合事なり、打とけ弓を不(レ)可(レ)引、開間を守てためらふべし、我内甲をば惜べし、矢をはげたり共、あだやを射じと資べし、敵一の矢を放て、二の矢いんとて打上たらん、まつかふ内甲頸のまはり、鎧の引合、すきまを守て射給ふべし、矢一放ては、急ぎ二の矢を番て、人のあきまを守給へ、
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敵も角こそ思ふらめなれば、透間を資て常に冑突し給ふべし。昔は馬を射事候はず、近年は敵の透間なければ、まづ馬の太腹を射て主を駻落して、立あがらんとする処を、御物射にもする候、敵一人をあまたして射事有べからず、箭だうなに相引して誤すな、敵手繁くよするならば、様あるまじ、(有朋上P710)押並て組で落、腰刀にて勝負をし給へとぞ教たる。去ければ、敵は引詰々々散々(さんざん)に射けれ共、或は上り或は下る、自あたる矢も、透間をいねば大事なし。三浦は実光が云ふに任て、敵の二の箭いんとて打上るすきまを守りて、差つめ/\射ければ、あだや一も無りけり。去(さる)程(ほど)にあふすりの城(じやう)固めたる三浦の別当義澄、爰(ここ)にて待つも心苦し、小坪の戦きびしげなり、つゞけ者共とて、道は狭し、二騎三騎づつ打下けるが、遥(はるか)に続て見えければ、畠山是を見て、三浦の勢計にはなかりけり、一定安房上総下総の勢が、一に成と覚えたり、大勢に被(二)取籠(一)なば、ゆゝしき大事、いざや落ちなんとて五騎(ごき)十騎(じつき)引つれ/\落行けり。三浦勝に乗て散々(さんざん)に是を射。爰(ここ)に武蔵国の住人(ぢゆうにん)綴党の大将に、太郎、五郎とて兄弟二人あり。共に大力也けるが、太郎は八十人が力あり、東国無双の相撲の上手、四十八の取手に暗からずと聞ゆ。大将軍畠山に向ひて云けるは、和田に蒐られて御方負色に見ゆ、思切郎等のなければこそ軍は緩なれ、和田小次郎(こじらう)討捕つて見参に入れんと云捨て、肌には白き帷に脇楯、白き合の小袖一重、木蘭地の直垂に、赤皮威の鎧に、白星の甲を著、二十四差たる黒つ羽の箙、四尺六寸の太刀に熊の皮の尻鞘入てぞ帯たりける。滋籐の弓の真中とり、烏黒なる大馬に、金覆輪の鞍にぞ乗たりける。
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和田小次郎(こじらう)(有朋上P711)は、陣に打勝つて弓杖つき、浪打際に引へたり。綴太郎近く歩せよす。小次郎(こじらう)是を見て、和君は誰そと問。武蔵国住人(ぢゆうにん)綴太郎と云者也、畠山殿の一の郎等と名乗る。小次郎(こじらう)は、和君が主人畠山とこそくまんずれ、思ひもよらず義茂にはあはぬ敵ぞ、引退と云へば、綴云ひけるは、まさなき殿の詞かな、源平世にはじまりて、公私に付て勢を合する時、郎等大将に組む事なくば何事にか軍あるべき、さらば受て見給へとて、大の中差取て番ひ、近づき寄ければ、射られぬべく覚て、綴をたばかりて云やう、詞の程こそ尋常なれ、恥ある敵を遠矢に射る事なし、寄て組み、腰の刀にて勝負せよとぞ云ひける。綴然るべきとて、弓箭をば抛棄て、歩せよせ、推並て引組で、馬より下へどうど落。綴は大力なれば、落たれ共ゆらりと立、小次郎(こじらう)も藤のまとへるが如く、寄り付てこそ立直れ。綴の太郎は大力なる上、太く高き男にて、和田小次郎(こじらう)が勢の小き、かさに係りて押付てうたんとしけり。和田は細く早かりければ、下をくゞりて綴を打倒して討たんと思へり。勢の大小は有けれ共、力はいづれも劣らず、相撲は共に上手也。綴は和田が冑の表帯引寄て、内搦に懸つめて、甲のしころを傾て、十四五計ぞはねたりける。和田綴に骨ををらせて、其後勝負と思ければ、腰に付てぞ廻ける。綴内搦をさしはづし、大渡に渡して駻(有朋上P712)けれ共、小次郎(こじらう)はたらかず、大渡を曳直、外搦に懸、渚(なぎさ)にむけて十四五度、曳々と推ども/\、まろばざりけり。今は敵骨は折ぬらんと思ければ、和田は綴が表帯取て引よせ、内搦にかけ詰て、甲のしころを地に付て、渚(なぎさ)へむけて曳音出してはねたりけり。綴骨は折
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ぬ、強はかけてはねたれば、岩の高にはね懸られて、かはと倒る。刎返さん/\としけれ共、弓手のかひなを踏付て、甲のてへんに手を入、乱髪を引仰て頸を掻落す。首をば岩上に置、綴が身に尻打懸て、沖より寄来る波に足をひやし、息を休めて居たりけるが、敵定て落逢んずらんと思ければ、綴が首をしほでの根に結付て、馬に打乗弓杖つき、敵落合とぞ呼ける。綴五郎兄を討れて、をめきて蒐。小次郎(こじらう)云けるは、和君は綴が弟の五郎にや、兄が敵とて義茂にくまんと思て懸るが、汝が兄の太郎は東国第一の力人、それに組て被(二)取損(一)たれば今は力なし、疾々寄て義茂が頸をとれとぞ云ひける。五郎まのあたり見つる事なれば、実と思ひ押並べてひたと組、馬より下へ落。如何がはしたりけん、五郎下になり、是も頸をぞ捕にける。角て岩に尻懸浪に足うたせて休処に、綴小太郎父と伯父を被(レ)討て、三段計に歩せ寄せ、大の中差取て番ひ、さしあて兵と射、冑の胸板(むないた)に中て躍り返る。小次郎(こじらう)は射向の袖を振合せ、しころを傾、苦しげなる音して云ける(有朋上P713)は、やゝ綴小太郎よ、親の敵をば手取にこそすれ、而に親の敵也、人手にかくな落合かし、近くよらぬは恐しきか、和君が弓勢として、而も遠矢にては、義茂が冑をばよもとほさじ物を、但義茂は、昨日一昨日より隙なく馳せあるき、兵粮もつかはず、大事の敵にはあまた合ひぬ、既(すで)に疲に臨んで覚ゆれば力なし、父が敵なればさこそ汝も思らめ、人にとられんよりは、寄て首を切、延て斬せんと云ければ、小太郎まこと貌に悦びつつ馬より飛下、太刀を抜て走懸り、小次郎(こじらう)が甲の鉢を丁と打、一打うたせてつと立あがり、取て引よせ
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懐きふせ、てへんに手を入れて頸を切る。三の首を二をば取付につけ、一をば太刀のさきに貫いて馬に乗、指挙つゝ名乗けるは、只今(ただいま)畠山が陣の前にて、敵三騎討捕て帰る剛の者をば誰とか思ふ、音にも聞らん目にも見よ、桓武天皇(てんわう)の苗裔高望王より十一代、王氏を出て遠からず、三浦大介義明が孫和田小次郎(こじらう)義茂、生年十七歳、我と思はん者は、大将も郎等も寄て組とぞ呼ける。畠山は小坪の軍に、綴太郎五郎、同小太郎、河口次郎太夫、秋岡四郎等を始として、三十(さんじふ)余人(よにん)討れぬ、手負は五十(ごじふ)余人(よにん)也。三浦には多々良太郎、同次郎、郎等二人、纔(わづか)に四人ぞ討れける。畠山は郎等多く討れて、敵にくまんと招かれて安からず思ければ、畠山は重忠くまんとて打出けり。紺地の錦の直垂(有朋上P714)に火威の冑に、蝶のすそ金物をぞ打たりける。白星の甲に、二十四差たる鵠羽のやなぐひ筈上に取てつけ、紅の母衣懸、薄緑と云太刀の三尺五寸なるに、虎皮の尻鞘入てぞ帯たりける。泥葦毛の馬に、中は金覆輪、耳は白覆輪の鞍を置、燃立つばかりの厚総の鞦かけ、武蔵鐙に重籘の真中取て歩せ出づ。本田半沢左右にすゝむ。名乗けるは、同流の高望王の後胤、秩父十郎重弘が三代の孫、畠山庄司次郎重忠、童名氏王、同年十七歳、軍は今日ぞ始、高名したりと■(ののし)る和田小次郎(こじらう)に、見参せんとて進出。本田次郎中に隔りてくつばみ押へ云けるは、命を捨るも由による、宿世親子の敵に非ず、只平家に聞えん計、一問にこそ侍れ、就(レ)中(なかんづく)三浦は上下皆一門也、秀を大将としなし、後を郎等乗替に仕ふ、されば一人当千(いちにんたうぜん)の兵にて、親死子死とも是を顧ず、乗越々々面を振ず、後を見せじと名を惜む、御方の勢と申は、党の駈武者
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一人死すれば、其親しき者共よき事に付とて、引つれ/\落れば、如何なる大事あり共、君の御命に替る者候はじ、成清近恒ぞ矢さきにも塞るべけれ共、是は公軍なり、只引返し給へと云けれ共、小次郎(こじらう)に組で死なんとて打寄ければ、和田は度々の軍に身をためしたる武者にて、畠山矢ごろにならば、唯一矢にと志、中差取て番ひ相待。ほど近くなりければ、能引て放つ。畠山が乗たる馬の、(有朋上P715) 当胸尽より鞦の組違へ、矢さき白く射出す。馬は屏風を返すが如臥ければ、主は則下立けり。成清馬より飛下て、主を懐き上て我馬に乗す。弓取はよき郎等を持べかりけり。半沢無りせば、あぶなかりける畠山なり。成清歩武者に成て間に隔たる。小次郎(こじらう)太刀を額にあてて進寄。畠山同太刀を額に当てて小次郎(こじらう)を待処に、三浦介の手より、小次郎(こじらう)は骨を折ぬと覚ゆ、討すな者共とて、兄の小太郎義盛、佐原十郎義連、大党三郎、舞岡兵衛を始として、十三騎太刀をぬき打て向ければ、畠山も討るべかりけるを、本田、半沢中に阻り、以前に如(レ)申、大形も御一門、近は三浦大介殿は祖父、畠山殿は孫に御座(おはしま)す、離れぬ御中なり、指たる意趣なし我執なし、私の合戦其詮なく覚ゆ。本田、半沢に芳心ありて、御馬を返し給へと云ければ、和田是を聞、郎等の降を乞は、主人の云にこそ、今は引けとて、和田は三浦へ帰ければ、畠山は武蔵へ返りけり。さてこそ右大将家(うだいしやうけ)の侍に座を定られけるには、左座の一揩ヘ畠山、右座の一揩ヘ三浦、中座の一揩ヘ梶原と定りける時は、畠山は、三浦の和田に向て降乞たりし者也、左座無(レ)謂と云けるを、重忠全く不(二)存知(一)、弓矢取る身の命を惜み、敵に降乞事や有べき、若郎等共(らうどうども)が中に云ふ事の有けるか、返々奇怪也とぞ陳じける。(有朋上P716)