『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十二
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羅巻 第二十二
S2201 衣笠合戦事
義澄義盛小坪軍に打勝て三浦に帰、軍の次第こま/゛\と語ければ、大介義明よく/\きき、莞爾と笑ひ頷許入て、無(二)左右左右(一)若殿原、弓矢の運は弥増々々に繁昌せり、中にも小次郎(こじらう)が振舞神妙(しんべう)々々(しんべう)とて感涙を流し、孫引出物とて太刀一振をぞ給(たま)ひたりける。さても大介云けるは、敵は一定明日寄べし、佐殿よも討れ給はじ、急ぎ衣笠に引籠て軍せよ、敵こはくとも散々(さんざん)に蒐破て、今一度佐殿尋奉べし、難(レ)遁は討死をせよといへば、義盛申けるは、衣笠は馬の足立よき所なれば、寄手の為には便あり、忽(たちまち)に追落されなん、奴田の城(じやう)は、三方は石山高して馬も人も通ひ難き悪所也、一方は海口に道を一つ開たれば、よき者一二百人(いちにひやくにん)あらば、縦敵何万騎寄たり共輙く責落すべからずと申。大介重て申、奴田と云は僅(わづか)の小所、人是を不(レ)知、衣笠こそ聞えたる城よ、三浦の者共は小坪の軍に打勝て、軈衣笠に引籠て、散々(さんざん)に戦て討死しけりといはば、嗚呼(ああ)さる名誉の城(じやう)あり、其は(有朋上P718)よき所也など人も沙汰すべし、奴田城にて討死といはば、奴田とはどこぞ、未(レ)知といはれん事面目なし、只衣笠に籠れ、急げ/\と云。義盛が云けるは、奴田も三浦も皆御領内也、就(レ)中(なかんづく)軍と申は身を全して敵に物を思はせ、日数をへて戦ふこそ面白けれ、衣笠に籠たり共、やがて追落されなば無下に云甲斐なし、能々
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御計候べしといへば、大介腹を立て、やをれ義盛よ、今は日本国(につぽんごく)を敵に受たり、身を全せんと思とも何日何月か有べき、縦命生べく共、人のいはんずる事は、三浦こそ一旦命を延んとて、さしもの名所を閣て、奴田城に籠たりけれと沙汰せん事も口惜し、若又百人(ひやくにん)が中に一人なりとも生残て、佐殿世に立給(たま)ひたらん時、父や祖父が骸所とて知行せんにも、衣笠こそ知たけれ、軍と云は所にはよらず、手がら謀に依べし、荒野の中にて戦とも、能くあひしらはば不(レ)可(レ)負、石の櫃に籠たり共、悪く戦ならば難(レ)叶、命惜くば軍なせそ、などや己は物には覚ぬ、且は父の命也、老者の云言は験あり、義明は只一人也とも衣笠にて討死せん、敵よせずば干死にも彼にてこそ死なめと、大に嗔り云ければ力及ばず、孫引連て衣笠城に籠にけり。上総介弘経が弟に金田大夫と云者は、義明が聟なりければ、七十余騎(よき)を引率して同城に籠にけり。都合勢僅(わづか)に四百五十三騎ぞ有ける、大介は敵寄るならば暇ある(有朋上P719)まじ、先静なる時よく/\兵糧つかふべしとて、酒肴椀飯舁居て是を勧む。さて下知しけることは、弓したゝかに射者は、家の子も侍も舎人草刈に至まで汰置、弓は一人して二張三張、矢は四腰五腰も用意せよ、弓え射ざらん者は、七八人(しちはちにん)も十人も又四五人も徒党して、好々の杖共を支度せよ、木戸を三重にこしらふべし、敵は軍の法なれば、定て追手搦手二手にわけて寄べし。追手の方には道を造れ、広さ七八尺に不(レ)可(レ)過、道広ければ大勢くつばみを並て押寄れば、城の中に隙なくして防えず、馬二匹ばかり通る程に造れ、道の片方は沼なれば兎角するに及ばず、片方には
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大堀をほれ、道をば三重に掘切て、一の堀には橋を広くわたせ、中堀には細橋を渡せ、二の堀には逆茂木を引、堀ごとに掻楯を構へ櫓をかけ、弓よく射者共は甲を著ざれ、腹巻腹当筒丸などを著て、矢倉に上て敵の冑の胸板(むないた)を差詰て射よ、又歩走の者共は角きはりをこしらへ置、杖打の奴原は、西の方の小竹の中に籠り居よ、小竹の中より造道へ向て細道を造れ、敵一の橋を打渡て二の橋まで寄るならば、角きはりを以て馬の太腹を射よ、射られて駻るならば、冑武者左右の堀と沼とへはね落されて、おきん/\とせん処を、小竹の中より杖打の奴原つと出て、杖の前そろへておこしも立ず能者をば打殺せ、駈武者共をば死ぬる程に打成して、(有朋上P720)生殺にして■(はひ)行せよ、其こそ軍の目醒なれ、各不覚すなとぞ下知したる。廿七日の小坪軍の後、中一日ありて廿九日の早朝、河越又太郎(またたらう)、江戸太郎、畠山庄司次郎等大将軍として、金子、村山、山口党、児玉、横山、丹党、をし、綴党を始として三千(さんぜん)余騎(よき)、衣笠の城(じやう)へ発向す。追手は河越、搦手は畠山、二手に分て推寄つゝ、時の音三箇度(さんがど)合てためらふ処に、綴の一党、当家の軍将三人まで小坪の軍に討れて不(レ)安思ければ、二百(にひやく)余騎(よき)先陣に進て、木戸口(きどぐち)近く攻寄たり。城の内には本より支度の事也、掻楯の上精兵共、一騎(いつき)々々(いつき)を主付て差詰々々射ける矢に、馬共いさせてはね落されて深田に落入、あがらん/\としける処を、小竹の中より杖打の冠者原、鼻を並て細道よりつと出て、打殺差殺て、乗替郎等多く討れて、生る者は少く死る者は多かりければ、綴党も不(レ)叶して引退く。金子十郎家忠と名乗て、一門引具し
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三百(さんびやく)余騎(よき)、入替々々戦ける中に、人は退ども家忠は不(レ)退、敵は替ども十郎は替らず、一の木戸口(きどぐち)打破り、二の木戸口(きどぐち)打破て、死生不(レ)知にして攻たりける。城中(じやうちゆう)よりも散々(さんざん)に是を射る。甲冑に矢の立事廿一、折懸々々責入つゝ更に退事なかりけり。城の中より提子に酒を入て、杯もたせて出しけり。城の中より大介、家忠が許へ申送けるは、今日の合戦に、武蔵相模の人々多く見え給へ共、貴辺(有朋上P721)の振舞ことに目を驚し侍り、老後の見物今日にあり、今は定てつかれ給ぬらん、此酒飲給(たまひ)て、今ひときは興ある様に軍し給へ、と云遣したりければ、家忠甲振仰弓杖つき、杯取三度飲て、此酒のみ侍て力付ぬ、城をば只今(ただいま)責落奉べし、其意を得給へとて使をば返してけり。軍陣に酒を送は法也、戦場に酒を請は礼也、義明之所為と云、家忠之作法と云、興あり感ありとぞ皆人申ける。家忠唯非(二)勇心之甚(一)、専存(二)兵法之礼(一)けり。金子十郎、わざと人をば具せざりけり、命をすてんとの心也。ふし縄目鎧に三枚甲の緒をしめ、甲の上に萌黄の腹巻打かづき、櫓の本まで責付たり。大介云けるは、哀金子は大剛者かな、一人当千(いちにんたうぜん)の兵とは是なるべし、軍は角こそ有べけれ、あれ射つべき者はなきか、惜き者なれ共日比(ひごろ)の敵也、あれを射留よとぞ下知しける。三浦の別当申けるは、和田小太郎は、弓勢も矢管もはしたなく尻全く候、彼を召て仰たべとぞ申。大介小太郎を招て、あの家忠射留よと云。仰承ぬとて立にけり。三人張に十三束三伏をぞ射ける。荒木の弓のいまだ削治ざるを押張て、すびきしたりければ、ちと強きやらんと思けるに、かね能
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征矢二つ把具し、櫓に上て見れば、十郎二段ばかり隔て水車を廻し、次第々々に責寄て櫓の内へはね入らんとする処を、和田小太郎義盛、十三束三伏しばし固て落矢に(有朋上P722)兵と放つ。金子が甲に懸たりける腹巻の一の板、甲の鉢かけてがらと射貫き、額の方により頷の下をつと通り、冑の胸板(むないた)のはた覆輪にぞ射付たる。痛手なれば少しもたまらずどうど倒る。三浦の藤平落合て頸をとらんとする処に、金子与一つとより肩に引懸、木戸口(きどぐち)の外へ出けるを、三浦与一追て懸る。あますまじきぞ/\とて、余に手しげく追ければ、金子与一、十郎をば打棄て太刀を抜て返合て打懸る。与一と与一と立合て、太刀打にこそ戦けれ。三浦与一受太刀に成ければ、不(レ)叶と思てかいふつて逃けるを、金子与一追付て三浦与一を懐き留、虜にして首を切。敵の頸を手に提げ、十郎を肩に係て陣の内にぞ入にける。家忠が疵は痛手なれ共、ふえ切ざれば不(レ)死けり。今日の高名、金子党にぞ極たる。武蔵国の者共、入替々々戦けり。三浦の別当下知しけるは、城の内を不(レ)離して、よせん敵を引詰々々射よ、与一も長追して、城を離てこそ討れぬれ、身をたばひて敵に物を思はせよと云ければ、大介是を聞て、若者共が軍の様こそをかしけれ、何の料とて命をたばふべきぞ、京童部(きやうわらんべ)の向つぶて、河原印地の様也。坂東武者の習として、父死れ共子顧ず、子討れども、親退ず、乗越々々敵に組で、勝負するこそ軍の法よ。されば二十騎(にじつき)も三十騎(さんじつき)も馬の鼻を並べて蒐出つゝ、案内もしらぬ者共を悪所へ追詰々々笑(有朋上P723)たるこそ目覚して面白けれと云けれ共、別当は、幾程もなき勢を以て
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かけ出ん事あしかりなんとて不(レ)出けり。大介云けるは、我老々として所労の折節(をりふし)再発せり、義明十三已来(このかた)弓矢を取て今年七十九、今此軍に会事老後の面目也、殿原こそ出給はずとも、いで/\義明かけ出て、最後の軍して見せ奉らんとて、白き直垂の袖せばきに、萎烏帽子(もみえぼし)を引立て、雑色二人に馬の口引せ、中間六人に左右の膝をさせ、太刀計を腰に付けて、右の手に鞭を貫入、左の手に手綱かいくり、既(すで)に打出んとしけり。子息の別当是を見て、馬の口に取付て、如何に角はおはするぞ、其御歳にて打出給たらば、何の詮にか立給ふべき、老衰て物に狂給ふかと云ければ、大介は、やをれ義澄よ、武者の家に生て軍するは法也。敵の陣に向て命を惜むは人ならず、義明をば老て物に狂と笑へども、己等は若き物狂ぞと覚たり、軍と云は、かけ出/\追つ返つ進み退き、組んづ組れつ討つ討れつ、敵も御方も隙のなきこそ面白けれ。いつを限りと云事なく、草鹿的を射様に、一所にて敵を射事やは有べき、そこのけ奴原とて鞭を以て打けれ共、甲を打はいたからず、別当馬の鼻を取て城の内へぞ引もて行。是は大介が、実に軍場に出べきにはなけれ共、兵をすゝめん計事と覚たり、ゆゝしき大将とぞ見えたりける。日も漸く暮ければ、各軍に疲つゝ、(有朋上P724)事外に弱々しく見えければ、大介子孫郎等呼居ゑて、老眼より涙を流し云けるは、軍はすべき程は仕つ、人の笑れぐさにはよもならじ。又義明も可(レ)見程は見つ、各疲給へり、殿原左右なく自害し給ふべからず、佐殿御心賢き人にて御座(おはしませ)ばよも討れ給はじ、いかにも安房上総の方にぞ御座らん、相構て尋参りて、義明が有様(ありさま)
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をも語申べし。君に力を付奉て、一味同心に平家を亡し、佐殿を日本(につぽん)の大将軍になし進せて、親祖父が墓所也とて、骸所をも知行して我孝養に得させよ。東国の人共、誰か君の重代の御家人にあらざる。去共今一旦の恩を蒙るに依て、平家の方人に似たれども、争か昔の好みを忘奉べきなれば、終には皆参べし、老たる馬は道を忘れず、古人は言誤りなし、必思合すべし、穴賢自害すべからず、穴賢二心なかれ、但義明をば爰(ここ)に捨よ、只身々を助て急ぎ落よ、我既(すで)に老耄せり、行歩にも不(レ)叶、馬にも乗得がたし、汝等(なんぢら)は今は落人也、道狭き者ぞ、我労り具せんとせば倶に悪かるべし、延得ずして打捨なば無益の恥を見るべし、明日は人の笑べし、大介は幾程命をいきんとて終に死ける物ゆゑに、衣笠にては死せずして、骸を径にさらす無慙さよと、又三浦の者共が父を具して落けるが、責ての命の惜さに、老たる親を道に捨て、人手に懸し甲斐なさよと、彼と云ひ此と云ひ、我ため人のため、糸口惜事(有朋上P725)なるべし、さればとく/\落てゆけ、我をば此に留置、老は悲しき物也けり、哀糸惜き子孫と相共に、佐殿の世に立給(たまひ)て日本国(につぽんごく)を知行し給はんを見て死たらば、いかに嬉しからん、只今(ただいま)死なんずる義明が、是程君を思進するとは不(二)知召(一)もや有らんとて、直垂の袖を絞りければ、家子も郎等も、最後の教訓を憐て、音を挙てぞ叫ける。さても大介は、捨よ/\と云けれ共、子孫名残(なごり)を惜みつゝ、輿を寄て具し申さんと云けれ共、大介終に不(レ)乗。義澄以下の子孫は父をば捨て、泣々(なくなく)主君を尋奉て、夜中に栗浜の御崎に出て、船に乗て安房の方へ漕行けり。其外は三騎五騎(ごき)ぬけ/\に
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落失ける中に、年比の郎等共(らうどうども)の有けるが、主の名残(なごり)ををしみ、手輿にのせて舁て出づ。大介云けるは、我は子孫に暇乞て此にて死する者也、如何に角はするぞ、只捨て行とて、扇を以輿舁共を打けれ共、一里計ぞ舁もて行く。敵既近付ければ輿を捨て逃けるを、いかにや/\、下搨口惜ものは無りけり。さしも城中(じやうちゆう)にすてよと云つる物を、此輿舁助よ、さらずば己等が手に懸て恥を隠せと云けれ共、敵は無下に近付ければ、皆散々(さんざん)にぞ失にける。敵の下部共来て輿の中より引出して、衣裳を剥取ければ、己等に逢て名乗べきに非ず、知らぬばかく振舞か、恥ある者に恥を見すべからず、我は三浦大介と云者ぞ、角なせそ/\と云け(有朋上P726)れ共、赤裸にぞはぎなしける。大介は、哀同は畠山に見合てきらればや、継子孫也、其ゆかりむつましと思ひけれども、願の畠山には非ずして、■(すずろ)なる江戸太郎に被(レ)斬にけり、如何にも老者の云言末のあふ事也。大介が兼て云ける様に城中(じやうちゆう)に棄てたりせば、さまでの恥はあらじものとぞ申ける。
S2202 土肥焼亡舞同女房消息(せうそく)附大太郎烏帽子(えぼし)事
去(さる)程(ほど)に大場伊藤は、此間山を廻して捜尋けれ共、佐殿見え給はねば、今は力なしとて我が館々へ帰にけり。敵散ずと聞えければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)杉山を出て土肥の真鶴へ落んとし給ふ。真平は、残党も猶不審し、我館も如何が有らんと思て、高峯に上り、眼影をさして見渡せば、山内には人ありとも覚えず、我が所領へは、伊藤入道三百(さんびやく)余騎(よき)にて押寄て、土肥の在家一一に追捕し、此彼に火を放て一宇も残さず焼払(やきはらふ)。七人同く是を見る。真平佐殿の御前にて、一時乱舞ぞしたりける。土肥に三の光あり、第一は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)我君を守給ふ和光(わくわう)の光と覚え
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たり。第二は我君平家を打亡し、一天四海を照し給ふ光なり。第三は真平より始て、君に志ある人々の、御恩によりて子孫繁昌の光也。嬉しや水々鳴は(有朋上P727)滝の水、悦開て照したる土肥の光の貴さよ、我屋は何度も焼ばやけ、君だに世に立たまはば、土肥の杉山広ければ、緑の梢よも尽じ、伐替々々造らんに、更に歎にあらじかし、君を始て万歳楽、我等(われら)も共に万歳楽とぞ舞たりける。人々あらまほしき祝事にゑみまげて勇けるに、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、土肥が舞は今に始ぬ事なれ共、只今(ただいま)は殊に目出く面白と感じ給ふ処に、土肥女房が許より消息(せうそく)あり。真平披(レ)之見れば、三浦の人々は、廿三日に船にて石橋へ参らんと支度したれば、浪風荒くして不(レ)叶、廿五日に酒勾宿まで参たれ共、軍敗ぬと聞て帰る程に、廿七日に小坪にて畠山に行合て、さま/゛\戦けるが、畠山軍に負て、三浦衣笠に籠て相待侍けるに、江戸河越畠山等、三十(さんじふ)余騎(よき)にて衣笠城を責落し、大介討れ候けり。其外の人々は君を尋進せて、安房国へ漕給けると聞え侍り。無勢にて御山隠の御すまひ、心苦くこそ侍れ。急三浦の人々を尋て安房上総へ越給べしと云文也。土肥此状を以て佐殿に角と申ければ、神妙(しんべう)々々(しんべう)と大に悦給ふ。さらばとく/\とて、夜の凌晨(しののめ)に真鶴へこそ落給へ。軍将宣(のたま)ひけるは、敵に攻られて甲をば捨つ、大童にては落人といはれなん、如何がして烏帽子(えぼし)を著べきと被(レ)仰ければ、折節(をりふし)甲斐国住人(ぢゆうにん)大太郎と云烏帽子(えぼし)商人、箱を肩に懸て道にて逢。然るべき事也とおぼして、何国の者ぞ(有朋上P728)と問ひ給へば、甲斐国住人(ぢゆうにん)大太郎と申す烏帽子(えぼし)商人也と答。土肥申けるは、あの男
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は、真平が家人商人の為に、所領に家造して通ひ侍り、やゝ太郎、人は七八人(しちはちにん)あり、皆大童なれば、民百姓までも落人とや見らん、其憚あり、烏帽子(えぼし)折て進せなんやといへば、安き程の事也とて、宿所に請じ入奉て白瓶子に口裹、さま/゛\の肴にてもてなし奉る。酒宴半に烏帽子(えぼし)箱を取出し、中座に候ひて折(レ)之て人々に奉(レ)賦、不(二)取敢(一)折節(をりふし)なれば、急あわてて折程に、七頭は右に、一頭は左折なるを、而も佐殿に奉る。佐殿あやしとおぼして、七人が烏帽子(えぼし)を見廻し給へば、皆右に折てよの常なり、我身一人左也ければ、不思議也、源氏の先祖八幡殿は、左烏帽子(えぼし)を著給(たま)ひしより、当家代々の大将軍左折の烏帽子(えぼし)なるに、今流人落人の身ながら、是を著るこそ難(レ)有けれ。
< 昔天竺に摩訶陀国とて大国あり。阿闍世王より三代の孫に、頻頭沙羅王、国を治め給(たま)ひけり。王にあまた太子御座。嫡子をば須子摩と云。心操柔和にして形容端厳也しかば、位を此太子に譲らんと覚しき。次郎をば阿育と云、貌醜悪にして心根不調に御座(おはしまし)ければ、位の事は思ひ寄給はざりけるに、天の帝釈降(レ)天給(たまひ)て、十善の宝冠を阿育に著せ給ければ、終に天下の国王たりき。されば八頭の烏帽子(えぼし)の中、左折一つ、其れも頼朝(よりとも)に当けるも不思議也。然べき八幡(有朋上P729)大菩薩(だいぼさつ)の商人太郎に入替り給(たま)ひて、著せ給けるにこそ、末憑しく覚しければ、心の中に再拝して、土肥次郎に当座とらせて著給ければ、七人も面々に烏帽子(えぼし)著て出立給けり。藤九郎盛長を使者にて、家主が内へ悦宣(のたまひ)けるは、頼朝(よりとも)世に立つならば、此悦には名田百町在家三宇計給べしと、此旨盛長申含畢。商人太郎畏承り候ぬと返事申て、妻に私語(ささやき)けるは、今日此比身一つ安堵し給はずして、■弱(わうじやく)の商人に、烏帽子(えぼし)乞程の人の、荒量にも給つる百町かなとつぶやきければ、妻是を聞て、人は一生さても過ぬ事なれば、上揩フ果報、我等(われら)が運にて去事もや有べかる
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らん、さらば哀此殿の世に立給へかしとぞ云ける。去ば平家亡て後、甲斐国石和と云所に、百町三家給りて、今の世までも知行せり。>
S2203 宗遠値(二)小次郎(こじらう)(一)事
土屋三郎宗遠は甲斐国へぞ越られける。足柄の山に関居りたりと聞て、宗遠夜に紛れて通りけるが、見れば峠に仮屋打て、前に篝を焼者共四五十人が程ぞ臥したりける。如法夜半の事なれば、関守睡て不(レ)驚、よき隙と思ひ、ぬき足して下ける。関をば角て過たれ共、行末にも人や有らんといぶせくて、木の下萱の中、さしのぞき/\下る程に、雲透(有朋上P730)に見れば、者こそ一人出来れ、搦手の廻りけるにやと思て、太刀抜懸けて立煩てためらひたり。間二段計を隔てて峠へ上る男も、太刀に手懸て立たりけり。互に物をば云はずして良久有ける。さて有べき事ならねば、宗遠詞をかく、源氏謀叛を興に依て、関守すゑて是を守る、只今(ただいま)爰を通り給ふは誰人ぞといへば、名乗はいはで、還て問は誰そと云。互に聞知たる声也けり。小次郎殿(こじらうどの)か、義清、土屋殿歟、宗遠と共に答て名乗けり。宗遠は子のなかりければ、兄が子を養て小次郎(こじらう)と云けるが、平家に奉公して都にあり。佐殿の謀叛に与して、父も同心の由聞えければ、偸に京を出て下る。是も足柄山に関守ありと聞て、夜に紛れて通る程に、時日こそ多きに、只今(ただいま)爰(ここ)にて行逢たり、契のほども哀也。土屋いかに/\小次郎(こじらう)といへば、佐殿謀叛と披露の間、平家は一旦の主、源氏は重代の君、其上土屋殿も御伴と承る、旁急ぎ下らんと存じ、京をば三騎にて出たりしか共、路にて聞え侍りしは、佐殿も岡崎殿も与一殿も、石橋の軍に討れ給ぬと申し間、よろづ
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あぢきなくて、二騎の者には暇をたび、我身一人国に下り、百姓共に慥の事をも承らんと、夜に紛れて通りつるに、参り会ふ事の嬉さよとて、涙をはら/\と流けり。土屋三郎思けるは、云言実に哀也、但当世は親も子もなき作法也、而も実子には非ず、弱々しく語る(有朋上P731)ならば、指殺して平家の覚え、まさらんともや思ふらん、そも不(レ)知強々と語らんと思うて、聞あへず下向の条、悦入候。但佐殿討れ給たりとは誰人か申けるぞ、あらいま/\し、石橋の軍は、千葉三浦が遅参に依て無勢にて始たりし程に、御方負色に成し間、佐殿は甲斐国へ越給ぬ、岡崎殿御供にあり、御辺(ごへん)の兄の与一殿は被(レ)討たり。さては北条佐々木を始て、誰かは死たる者ある。甲斐国より御催のあれば、宗遠も参也。但し関守が居たれば、夜中に忍て、一人はまかるなり。いざ和殿も佐殿の見参に入給へとて、其れより打つれて甲斐国へぞ越て行く。宗遠は道にても心ゆるしせず、太刀抜き懸て、近代は親も子もなき代也、誤り給ふな小次郎殿(こじらうどの)、存する旨あり小次郎殿(こじらうどの)とて、当国の源氏、逸見、武田、小笠原、河西、板垣、告めぐり、一条殿の侍にてこそ、打解け有の儘には語りけれ。
S2204 佐殿漕(二)会三浦(一)事
土肥次郎は、出富の小検校(こけんげう)と云海人が小船を借て、真鶴岩が崎と云所より、急ぎ船を出さんとしけるに、子息の弥太郎申けるは、万寿冠者参るべき由承る、相待て召具せば(有朋上P732)やと云。此弥太郎と云は、伊藤入道には聟也。万寿冠者とは、弥太郎に子なくして、妹が子を養子にしたれば、土肥にも伊藤にも孫也けるを、母方の祖父なれば、伊藤の入道に預置き、娘にも聟にも養子なれば、入道不便にして育みけり。
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弥太郎が、万寿冠者をまたんと云ひけるを、父土肥次郎が聞とがめて大に不審なり。此間杉山に隠れ忍て、七騎の外は人是を不(レ)知、万寿と云は真平にも孫なれ共、敵仁伊藤が許にあり、争か存知すべき、御伴仕らんと申ける条存外也。哀弥太郎は事を万寿冠者に寄せて、一定舅の入道待付て、重代の主君を失ひ奉り、大恩の親を亡さんとたばかるにこそ、奇怪の奴也、其頸打切給へ、岡崎殿と云ひければ、岡崎はいかなる舅なり共、主や父に思替る事有まじ、知べき様こそ有つらめ、但加様の身々として、片時も逗留其詮なし、はや/\急ぎ舟を出せとて、四五町ばかり漕出して浦の方を顧れば、万寿冠者を始として、伊藤入道五十(ごじふ)余騎(よき)の勢にて馳来、あれ/\とぞ呼りける。後には大場三郎千余騎(よき)計にて連たり。今すこし遅かりせば、あやふかりける人々也。漕や急げとて、安房国州の崎を志して落行ける程に、沖中にして俄(にはか)に風起り浪立て、いづこ共不(レ)知くらき闇に、渚(なぎさ)に船をぞ吹付たる。人々船にゆられて酔けり。佐殿爰(ここ)はいづくやらんと問給へば、土肥見侍らんとて、舷に(有朋上P733)立弓杖つき見廻せば、相模国(さがみのくに)早川尻に侍り、而も大場、杉山の帰り足に、三千(さんぜん)余騎(よき)汀(みぎは)に幕引て七箇所に篝たき、酒盛しける敵の陣に吹付らる、敵は見もしぬらん、如何あるべきと思申、佐殿は杉山にて亡べき者が、大菩薩(だいぼさつ)の御加護によりて遁れぬ、而を今又敵陣に臨めり、終に見捨給ふべきにやと祈念被(レ)申けり。真平は此辺は家人ならぬ者なし、酒肴尋進せんとて船より飛下、片手矢はげて走廻、我君此浦に著給へり、真平に志あらん者は酒肴進すべしと■(ののし)り云ひければ、或は瓶子口裹み、或は
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桶に入て、我も/\と船に酒肴を運たり。船の中暗といへ共、敵の大場が篝の火の光にて、佐殿酒をのみ給へり。実に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御計ひと覚たり。飢を休めて其後、風やみ波静にて、船を出して安房国州の崎へこそ漕渡り給(たま)ひけれ。三浦の輩は軍将を奉(レ)尋とて、船を海上に浮べて安房上総あやしき浦々漕廻りけるに、佐殿の船も三浦が船も、互にあやしく思て、沖中にて間近く漕合ける。若又敵にもやと思ひければ、彼も此も矢たばね解、弓の弦しめして用心せり。佐殿をば船底に隠し、上に柴を積て、岡崎ばかり差あらはれて乗たり。三浦船を漕近付て岡崎と見てければ、いかにやいかに、いづら佐殿はと問へば、誰も君を奉(レ)尋、三浦にもやと思ひ奉りつるに、さては何国に御座らんといへば、三浦涙を流しつゝ、穴(有朋上P734)心うや、君の御向後の覚束(おぼつか)なくてこそ、老たる父をも振捨て、敵に後を見せて尋進するに、甲斐なき事悲さよ、兼て角とだに知たらば、衣笠の城(じやう)に引籠り、大介と一所にて打死すべかりける者をとて、各袖をぞ絞けり。佐殿は船底にて此事を聞給(たま)ひ、糸惜や世になき我をあれ程に思ふらん事の嬉しさよ、心づくしに遅く出でて恨られじと思召(おぼしめし)ければ、船底より這出て、頼朝(よりとも)爰(ここ)にありと仰ければ、大将軍是に御渡有けりや、大介宣(のたま)ひつる事露違ずとて、三浦手を合て悦けり。さても岡崎は、石橋の合戦に与一が討れし事を語て泣。三浦は小坪衣笠の軍の事、大介が申し事、老たる父を捨置事ども語て泣。一人は若きを先立て袖をぬらし、一人は老たるを見捨て袂(たもと)を絞る、恩愛慈悲の情とりどりなり。和田小太郎申けるは、殿原今は泣歎て其詮なし、親も子も死る
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道は限あり、就(レ)中(なかんづく)軍にあはん者は、必死すべしと兼て存る処也、始て歎に及ばず、語ればいよ/\哀を増す、君かくて御座(おはしま)せば、今は真に一入に思ひ入て、平家を亡し本意を遂て、君の御代になし参せ、庄園を給り国を知行せん事を評定し給ふべし、食を願はば器と云下説の喩あり、君もとく/\国々庄々を分け給り候べし、中にも義盛には、日本国(につぽんごく)の侍の別当を給り候へ、上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)が、平家より八箇国の侍の奉行を給(たまひ)て、翫しかしづかれて気色せし(有朋上P735)が、余に羨しかりしかば兼て申入也、他人の競望あるべからずとぞ申ける。佐殿は、世にあらば左右にや及ぶべき、去共早とて笑給けり。其より当国すの明神に参り給(たまひ)て、千返の礼拝奉、終夜(よもすがら)念誦し給(たまひ)て、一首の歌をぞ読給ふ。
源はおなじ流れぞ石清水せきあげてたべ雲の上まで K115
と、彼明神と申は、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を祝奉たりければ、角思ひつゞけ給(たま)ひけり。暁かけて御宝殿より御返事(おんへんじ)あり。
千尋まで深く憑て石清水たゞせきあげよ雲の上まで K116
其外様々の夢想(むさう)ありければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)本意とげぬと悦給けり。
S2205 大場早馬立事
九月一日、大場三郎景親使者を六波羅へ立たり。平家一門馳集て注進の状を披に云、伊豆国(いづのくにの)流人、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、称(レ)有(二)院宣(一)、忽興(二)謀叛(一)、去八月十七日(じふしちにち)之夜、卒三十(さんじふ)余騎(よき)之勢押(二)寄八牧之館(一)、誅(二)戮和泉(いづみの)判官兼隆(一)、放火焼失畢、此旨定自(二)国衙(こくが)(一)被(二)注進(一)歟、同(おなじき)二十二日、構(二)城郭(じやうくわく)於当国石橋山(一)引(二)率三百(さんびやく)余騎(よき)之凶賊(一)、楯(二)籠于彼城(一)之間、景親
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相(二)催三千(さんぜん)余騎(よき)(有朋上P736)之軍兵(一)、同(おなじき)二十三日、自(二)午時(一)及(レ)入(レ)夜、責戦之処、頼朝(よりとも)不(レ)堪而、二十四日焼天落(二)退彼城(一)、不(レ)知(二)行方(一)、但或説云、堀(レ)穴被(レ)埋たりと。或説云、懐(レ)石入(レ)水、巷説多(レ)端、慥雖(レ)不(レ)見(二)其頸(一)、滅亡之条勿論歟と申たり。太政(だいじやう)入道(にふだう)より始て、一門の人々大に悦て、景親等に懸賞の沙汰あり。
S2206 千葉足利催促事
兵衛佐(ひやうゑのすけ)は石橋山を出て後、三百(さんびやく)余騎(よき)にて上総国府に著給ふ。千葉介、上総介等が許へ使者を遣すに云、平家追討事、依(レ)蒙(二)院宣(一)可(レ)有(二)同心(一)之旨、先度被(二)相触(一)畢、可(二)参加(一)之由、承伏之間、遂(二)合戦於石橋之城郭(じやうくわく)(一)畢、遅参之条、頗不(レ)得(二)其意(一)、縦雖(レ)為(二)私之宿意(一)、可(レ)被(レ)存(二)合力之儀(一)、況一院御定綸言明白也、旁以難(レ)被(二)黙止(一)歟、所詮以(二)弘経(一)為(レ)父、以(二)胤経(一)憑(レ)母、頼朝(よりとも)知(二)行天下(一)否、併在(二)両人之計(一)と被(レ)仰たり。本より領掌の上也。千葉介胤経、三千(さんぜん)余騎(よき)にて急ぎ杉浦と云所に行向て、やがて兵衛佐(ひやうゑのすけ)を相具し、下総国府に入奉て由々敷翫し奉る。胤経申けるは、爰(ここ)に大幕百帖ばかり引散し、白旗六七十流(ながれ)打立候べし、是を見聞ん輩は、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に大勢参けりとて、江戸葛西の者共皆参るべしと(有朋上P737)計ひ申ければ、然べきとて、則胤経に仰て其定に構へたり。案にも違はず我も/\と馳参る。上総介弘経は此事を聞、遅参に恐て、当国に井の北、井の南、庁の北、庁の南、まう西、まう東より始て国中(こくぢゆう)の輩、背をば打、随ふをば相具して、一万(いちまん)余騎(よき)にて下総国府に来り申入たりければ、佐殿は土肥次郎を以、度々被(二)催促(一)の処、領掌乍(レ)申、遅参御不審あり、然而沙汰の次第、
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最も神妙(しんべう)也、暫後陣にありて、可(レ)随(二)催促(一)の由、被(二)仰下(一)、此勢共を相具して一万六千(いちまんろくせん)余騎(よき)也。弘経屋形に帰て云ひけるは、此佐殿は一定日本(につぽん)の大将に成り給ふべし。当時無勢の人におはしぬれば、此大勢にて参たらば、悦出て、耳に口を差合て、追従言など宣はんずらんと存じたれば、思ひの外に真平を以大気なく、遅参其意を得ず、後陣に在て可(レ)随(レ)召と問答の条、恐し恐し、誰人にもよも荒量には討れ給はじ、必本意遂給(たま)ひなん、末憑もしき人也。さるためしあり。
S2207 俵藤太将門(まさかど)中違事
昔将門(まさかど)が東八箇国を打塞て凶賊を集め、王城へ攻入るべしと聞ゆ。平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)勅宣(ちよくせん)を蒙て下向す。下野国住人(ぢゆうにん)俵藤太秀郷は、名高き兵にて多勢の者也けるが、将門(まさかど)と同意(有朋上P738)して、朝家を奉(レ)傾、日本国(につぽんごく)を同心にしらんと思て、行向て角と云、将門(まさかど)折節(をりふし)髪を乱てけづりけるが、余りに悦て取も不(レ)敢大童にて、而も白衣(はくえ)にて周章(あわて)出合て、種々の饗応事云ひければ、秀郷目かしこく見咎て、此人の体軽骨也、墓々敷日本(につぽん)の主とならじとて、初対面に心替しける上に、俵藤太をもてなさんが為に、酒肴椀飯舁居て、是をすゝむ。将門(まさかど)が食ける御料、袴の上に落散けるを、自是を払ひのごひたりけり。是は民の振舞にや、云甲斐なしと心の底にうとみつゝ、後には貞盛(さだもり)に同意して、秀郷が謀を以て、将門(まさかど)既(すで)に亡けり。其れまでこそなからめ、御前までは被(レ)召べき者を、遅参不審と宣(のたま)ひ出し給(たま)ひつる心の中、恐し/\、憑べき人なりと、舌を振てぞほめたりける。平家重恩の者、もしは縁者境界、さすが東国にも多かりければ、飛脚櫛の歯を継て六波羅へ申上けるは、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、石橋にして被(レ)討
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之由、雖(レ)有(二)披露(一)、其条無実也、遁(二)出杉山(一)渡(二)安房国(一)、相(二)具北条、佐々木、三浦党類(一)、越(二)于上総下総(一)、召(二)従弘経胤経已下之大名小名(一)、既及(二)三万八千(さんまんはつせん)余騎(よき)(一)、其外伊豆、駿河、甲斐、信濃、同心之間、其(その)勢(せい)如(二)雲霞(一)、適有(二)背輩(一)、忽(たちまち)に依(レ)加(二)誅罰(一)、上下甲乙皆以帰伏、但源平未(レ)定之前、勇士猶予之刻、急差(二)下討手(一)、可(レ)被(レ)鎮(二)凶徒(一)歟と申たり。依(レ)之(これによつて)京中六波羅の騒動斜(なのめ)ならず、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)は、平治以来本望也ける上(有朋上P739)に、文覚がすゝめに、依(二)一院(一)院宣を蒙し後は、此営の外は他事なし。平家は加様に日比(ひごろ)源氏の内議支度のあるをも不(レ)知、如何様(いかさま)にも頼朝(よりとも)に勢の付ぬさきに、追討使を下すべしと評定あり。
S2208 入道申(二)官符(一)事
九月四日戌時に、太政(だいじやう)入道(にふだう)手輿に乗、新院の御所に参て申けるは、源(みなもとの)為義(ためよし)、義朝(よしとも)父子は、法皇の御敵にて候しを、入道が謀にて、彼等二人を始て数の伴類皆手に懸て亡し候き。保元平治の日記と申物に見えて侍り。彼義朝(よしとも)が三男に右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)と申奴は、近江国伊吹が麓より尋出して、将てまうできて侍しを、入道が継母に池尼と申候しが、頼朝(よりとも)を見て一旦の慈悲を発し、彼冠者あづけ給へ、敵をば生て見よと云たとへありと、低伏申侍しかば、誠にも、源氏の種をさのみ断つべきにも非ず、入道が私の敵にてもなし、只君の仰を重ずる故にこそあれと思ひ存じて、流罪に申宥て伊豆国(いづのくに)へ下し候ぬ、其時十三と承き。かね付たる小男の、生絹の直垂に小袴著て侍しを、入道が前に呼居て、事様を尋問候ひしかば、如何ありけん、事の起りしらずと申候き。げにも幼稚なればよも
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しらじ(有朋上P740)なんど、青道心をなして候へば、今は哀は胸をやくと申たとへに合て侍り、定て聞し召れ候らん。彼頼朝(よりとも)伊豆国(いづのくに)にて、計なき悪事共を此八月に仕ける由承る、されば追討の宣旨を下さるべき由相存と奏す。新院の仰には、左様の事申人もなし、始てこそ聞し召せ、但何事かは有べき、法皇にこそは申されめと。其時入道重て申様は、主上をさなく御座(おはしま)す、君はたゞしき御親にて御座(おはしま)す、差越奉りて何とか法皇に申進せ候べき。源氏を引思召(おぼしめし)て、平家をにくませ給ふと覚候とくねり申。新院すこしわらはせ給(たま)ひて、事新く誰を憑みたるにか、宣下の条やすし、速に大将軍を注し申べし、誰に仰付べきぞと仰けり。入道の計ひ申に依て、即官符を下さる。其状に云く、
左弁官下 東海東山道諸国
可(三)早追(二)討伊豆国(いづのくにの)流人右兵衛佐(うひやうゑのすけ)源朝臣頼朝(よりとも)并与力輩(一)事
右大納言(だいなごん)藤原実定、宣奉(レ)勅、伊豆国(いづのくにの)流人前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)(一)、忽相(二)語凶悪徒党(一)、欲(レ)虜(二)掠当国隣国(りんごく)叛逆之甚(一)、既絶(二)常篇(一)、宣(レ)令(下)(二)右近衛権少将平維盛朝臣、薩摩守同忠度朝臣、参河守同知盛朝臣等(一)追(中)討彼頼朝(よりとも)及与力輩(上)、兼又東海東山道堪(二)武勇(一)者、同可(レ)令(レ)備(二)追討(一)、其中有(下)抜(二)殊功(一)輩(上)、可(レ)加(二)不次賞(一)、依宣行(レ)之。(有朋上P741)
治承四年九月六日 蔵人左中弁藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)経房奉とぞ被(二)書下(一)たる。入道給(レ)之大に悦、同九月は吉日なりとて、頼朝(よりとも)征伐の官兵等、門出あり。(有朋上P742)