『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十三

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牟巻 第二十三
S2301 新院厳島御幸附入道奉(レ)勧(二)起請(一)事
治承四年九月廿一日、新院又厳島の御幸あり。御伴には、入道大相国(たいしやうこく)、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、大納言(だいなごん)邦綱(くにつな)、藤大納言(だいなごん)実国、源宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、頭左中将重衡、宮内少輔棟範、安芸守在経已下八人(はちにん)也。此御幸と申は、当院御位の時、太政(だいじやう)入道(にふだう)物狂はしくて、事に於て邪になりけるを、いかゞして宥め直さんと思召(おぼしめし)ける程に、入道(にふだう)相国(しやうこく)、此明神の事を強に、忝申ければ、然べき事にこそあるらめ、彼社に参て祈申ばやと思召(おぼしめし)つゞける処に、去二月の比静なりける夜、入道御前に参て世上の事教訓申ける次に、帝王下居の後は、御幸始とて御物詣ある事に侍り、神社仏寺の間に、いづくへも思召(おぼしめし)立御座(おはしま)し候へかしと奏する時、よき次と思召(おぼしめし)て然べく被(レ)申たり。厳島へと思召(おぼしめす)由仰ければ、入道不(レ)斜(なのめならず)悦て出立進て、三月には御参詣ありき。御祈誓は法皇の鳥羽殿(とばどの)に被(二)打籠(一)させ給へる御事にぞ有らんと人人思(おもひ)申けるに合て、鳥羽殿(とばどの)より事故なく都へ還御ありき。随て入道も被(二)思(有朋上P744)直(一)と聞えしかば、彼明神の験にやとぞ覚ける。去ば其御賽の為なるべし。さしも深き御志也。明神も争か御納受(ごなふじゆ)なかるべき。御願文(ごぐわんもん)御自あそばして、摂政(せつしやう)清書せられけり。熊野御参詣の事に思召(おぼしめし)けれ共、仰出す御事もなかりけるに、頼朝(よりとも)追討の宣下の後、入道又夜に入て参たりけるに、新院の仰には、東国の兵乱の事、頼朝(よりとも)
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は一人也、討手の使は三人也、別の事あらじ、心安(こころやすく)こそ思召(おぼしめせ)、早く其祈可(レ)被(レ)申、先厳島へ被(レ)参よかし、さらば是も思たゝんと仰下さる。入道余(あまり)の嬉さに手を合悦泣して、関東へは若者共を差下て候へば、実に何事かは侍べき、鳥風ならばこそ此等を差越ては頼朝(よりとも)に勢付べき、皆々禦留なん憑しく候、勅定のごとく厳島へ御伴仕て、天下安穏の事を祈申べしとて俄(にはか)に出し立進て御幸あり。彼島に著せ給(たまひ)て、御参社以前に、入道と宗盛と父子二人、院の御前に参よりて、自余(じよ)の人々をば被(レ)除て、入道被(レ)申けるは、東国の乱逆に依て頼朝(よりとも)を可(二)追討(一)之由、御宣下の上は、不審候はねども、源氏に一つ御心あらじと御起請あそばして、入道に給御座(おはしまし)候へ、心安(こころやすく)存じいよ/\御宮仕申候べし、此言聞召入(きこしめしいれ)られずば、君をば此島に捨置進て帰上候なんと申ければ、新院少しもさわがせ給はず、良御計有て、今めかし、年来何事をか入道のそれ申事背たる、今明始て二心ある身と思ふらん(有朋上P745)こそ本意なければ、彼起請いとやすし、いかにもいはんに随ふべしと仰有ければ、前(さきの)右大将(うだいしやう)硯紙執進せり。入道近参て耳語申ければ、其儘にあそばしてたびぬ。入道披(レ)之拝て、今こそ憑しく候へとてほくそ笑て、大将に見せらる。宗盛此上は左右の事有べからずと申。相国取て懐に入て立給けるが、よにも心地よげにて、各御前へ参らせ給へと申ける時、邦綱卿(くにつなのきやう)被(レ)参たり。あやしと思はれけれ共、人々口を閉て申事もなかりけるに、重衡朝臣いかにぞやと阿翁にさゝやきければ、打うなづきて心得(こころえ)たる体也けれ共、御伴の人々は其心を得ず、国庄を給り給へる歟、いかばかりの悦
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し給へるぞと、いと■(おぼつかな)く思はれたり。其後御社参ありて、神馬神宝進て御啓白あり。
新院御宸筆(ごしんぴつ)御願文(ごぐわんもん)云、〈 高倉院(たかくらのゐんの)御事也 〉
蓋聞法性山静、十四十五之月高晴、権化地深、一陰一陽之風旁扇、方便力用不(レ)可(二)測量(一)者歟、夫厳島者、名称普聞之場、効験無双之砌(みぎり)也、遥嶺之廻(二)社壇(一)也、自顕(二)大悲之高峙(一)、巨海之及(二)祠宇(一)也、暗表(二)弘誓之深湛(一)、仰(レ)之明徳在(レ)頂、現当之望必満帰(レ)之、答■(たふきやう)(二)随心鏡谷之応惟新(一)也、凡卒土之浜靡然向(レ)風、伏惟、初以(二)庸昧之身(一)、忝蹈(二)皇王之位(一)、握(二)乾符(一)兮、顧(二)微分(一)鎮迷(二)南面之理(一)、政望(二)四海(一)兮、恥(三)薄徳更無(二)万民之威(一)、仁仍守(二)(有朋上P746)謙遜於■郷(れいきやう)之訓(一)、楽(二)閑放於射山之属(一)、而後偸抽(二)一心之精誠(一)、先詣(二)孤島之幽(一)、遂(二)機感純熟(一)、欽仰弥切者也、是宿善之所(レ)致也、豈非(二)深信令(一)(レ)然乎、況瑞籬之下、仰(二)冥恩(一)凝(二)懇念(一)而、流(二)汗宝宮之裏(一)、垂(二)霊詫(一)有(二)其告(レ)之銘(一)(レ)肝、就(レ)中(なかんづく)殊指(二)怖畏謹慎之期(一)、専当(二)季夏初秋之候(一)、而間病痾忽侵、弥思(二)神威之不(一)(レ)空、萍桂頻転、猶(レ)無(二)医術施(一)(レ)験、雖(レ)求(二)祈祷(一)、難(レ)散(二)霧霞(一)、不(レ)如(下)抽(二)心府之志(一)、重欲(レ)企(中)斗籔之行(上)、因(レ)茲白蔵已闌之律、玄英漸近(レ)之、天殊専(二)斉蕭(一)遂以予参、漠々寒嵐之底、臥(二)旅泊(一)而破(レ)夢、凄々微陽之前、望(二)遠路(一)而極(レ)眼、遂就(二)枌楡之砌(みぎり)(一)、敬展(二)清浄之筵(一)、奉(レ)書(二)写色紙墨字妙法蓮華経一部八巻(一)、開結般若心阿弥陀(あみだ)等経各一巻、手自奉(レ)書(二)写金泥提婆品一巻(一)、文々之尽(二)懇精(一)、正施(二)紫摩於瑠璃之上(一)字々之隔(二)妙跡(一)未(レ)畳(二)漂波於張池之中(一)、沖襟之至、世垂(二)哀愍(一)、于(レ)時蒼松蒼栢之陰、共添(二)善利之種(一)、潮去潮来之
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響、暗和(二)梵唄之声(一)、法会得処、随喜双催、抑弟子辞(二)北闕之雲(一)、八箇日矣、雖(レ)無(二)涼燠之多(一)、廻(二)凌西海之浪(一)二箇度焉、誠知(二)機縁之不(レ)浅帰依之思(一)此故増(二)進渇仰之志因(レ)茲竪固、加(レ)之、今度忝至(二)苔庭(一)奉(レ)添(二)松府神(一)、而有(レ)知(レ)莫(レ)棄(二)我願(一)、殊以(二)白業(一)奉(レ)祈(二)紫宮(一)、一日万機之化、広被(二)竜図鳳展之運(一)、惟久、弟子病患忽散、伝(二)淮南道士之方、寿算無疆論、山中射若之命(一)、抑当社者、混(二)俗塵(一)而済(二)生、利人界(一)、(有朋上P747)而振(レ)徳、或三公九卿之臣、或芻蕘台齢之輩、朝祈之客匪(レ)一、暮賽之者且千、但尊貴之帰敬雖(レ)多、院宮之往来未(レ)有(レ)之、禅定法皇初貽(二)其儀(一)、弟子■身(べうしん)徐運(二)其志(一)、彼崇高山之月前、漢武未(レ)拝(二)和光(わくわう)之影(一)、蓬莱洞之雲底、天仙空隔(二)垂跡(すいしやく)之塵(一)、如(二)当社(一)者、曾無(二)此類(一)、仰願大明神(だいみやうじん)、伏乞一乗経、新照(二)丹祈(一)、忽彰(二)玄応(一)、敬白。
     治承四年九月二十一日        太上天皇(てんわう)〈 御諱 〉敬白
とぞ有ける。御伴人々参社の神女までも随喜の思を成て、いよ/\明神の効験をぞ貴みける。
S2302 朝敵追討例附駅路鈴事
同廿二日に追討使官符を帯して福原の新都を立。大将軍三人の内、権亮少将維盛朝臣は、平将軍(へいしやうぐん)より九代、正盛より五代、大相国(たいしやうこく)の嫡孫重盛(しげもり)の一男なれば、平家嫡々の正統也。今凶徒の逆乱を成に依て、大将軍に被(レ)撰たり。薩摩守忠度は入道の舎弟(しやてい)也、熊野より生立て心猛者と聞ゆ。古郡より可(二)相具(一)と沙汰あり。参河守知度は入道の乙子也。侍には上総介忠清(ただきよ)を始として、伊藤有官無官(むくわん)、惣而五万余騎(よき)とぞ聞えける。長井(ながゐの)斎藤別当(有朋上P748)真盛は、東国の案内者とて先陣をたぶ。抑朝敵追討のため
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に、外土へ向ふ先例を尋に、大将軍先参代して節刀を給るに、宸儀は南殿に出御し、近衛司は階下に陣を引、内弁外弁の公卿参列して中儀の節会を被(レ)行。大将軍副将軍、各礼儀を正しくして是を給る。されども承平天慶之前蹤、年久して難(レ)准とて、今度は堀川院(ほりかはのゐんの)御宇(ぎよう)嘉承二年十二月に、因幡守平正盛が、前対馬守源(みなもとの)義親を追討の為に出雲国へ発向せし例とぞ聞えし。鈴ばかりを給(たまひ)て、革袋に入て、人の頸に懸たりけるとかや。朱雀院の御宇(ぎよう)承平年中に、武蔵権守平将門(まさかど)が、下総国相馬郡に居住して八箇国を押領し、自平親王と称して都へ責上、帝位を傾奉らんと云謀叛を思立聞有ければ、花洛の騒不(レ)斜(なのめならず)。依(レ)之(これによつて)天台山当時の貫首、法性坊大僧都(だいそうづ)尊意蒙(二)勅命(一)、延暦寺(えんりやくじ)の講堂(かうだう)にして、承平二年二月に、将門(まさかど)調伏の為に不動安鎮の法を修す。加(レ)之諸寺の諸僧に仰て、降伏の祈誓怠らず、又追討使を被(レ)下けり。今の維盛先祖平貞盛(さだもり)無官(むくわん)にして上平太と云けるが、兵の聞え有けるに依て被(二)仰下(一)けり。貞盛(さだもり)宣旨を蒙て、例ある事なれば節刀を給り鈴を給り、大将軍の礼義振舞て、弓場殿の南の小戸より罷出、ゆゝしくぞ見えし。大将軍は貞盛(さだもり)、副将軍は宇治民部卿忠文、刑部大輔藤原忠舒、右京亮藤原国■(くにもと)、大監物平清基、散位源就国、散位源経(有朋上P749)基等相従て東国へ発向す。貞盛(さだもり)已下の勇士東路に打向ひはる/゛\と下けり。道すがら様々やさしき事も猛事も哀なる事も有ける中に、駿河国富士の麓野、浮島原を前に当て、清見関に宿けり。此関の有様(ありさま)、右を望ば海水広く湛て、眼雲の浪に迷、左を顧れば長山聳連て、耳松風に冷じ。身をそばめて行、足を峙て
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歩む、釣する海人の、通夜浪に消ざる篝火、世渡人の習とて、浮ぬ沈ぬ漕けるを、軍監清原の滋藤と云者、副将軍民部卿忠文に伴て下けるが、此形勢(ありさま)を見て、
  漁舟火影冷焼(レ)波、駅路鈴声夜過(レ)山 K117 
と云唐歌を詠じければ、折から優に聞えつゝ、皆人涙を流けり。
 < 漁舟とは、すなどりする船なり。火の影は、彼舟には篝の火をたけば、諸の魚の集りてとらるゝ也。冷焼(レ)波とは、水にうつろふ篝の火の、波をやく様に見ゆる也。駅路とは旅の宿なり。鈴の声とは、大国には馬に鈴を付て仕へば、よもすがら旅の馬山を過けるを、かく云ける也。貞盛(さだもり)朝敵追討の蒙(二)宣旨(一)、凶徒降伏の鈴を給り、此関に宿たる折節(をりふし)、釣する海人が篝を焼て魚をとる有様(ありさま)思知られければ、かく詠じけるにこそ。>(有朋上P750)
S2303 貞盛(さだもり)将門(まさかど)合戦附勧賞事
下野国住人(ぢゆうにん)俵藤太秀郷は、将門(まさかど)追討の使、下べき由聞えければ、平親王にくみせんとて行向たりけるに、大将軍の相なしと見うとみて、憑み憑まんと偽て、本国に帰、貞盛(さだもり)を待受て相従てぞ下ける。
承平三年二月十三日、貞盛(さだもり)已下の官兵将門(まさかど)が館へ発向す。将門(まさかど)は下総国辛島郡北山と云所に陣を取、其(その)勢(せい)纔(わづか)に四千(しせん)余騎(よき)。同(おなじき)十四日未時に矢合して散々(さんざん)に戦。官兵凶徒に撃変されて、死する者八十余人(よにん)、疵を蒙る者数をしらず。貞盛(さだもり)秀郷等引退刻に、二千九百人の官軍落失ぬ。将門(まさかど)勝に乗て責戦時、貞盛(さだもり)秀郷等精兵二百(にひやく)余人(よにん)をそろへて、身命を棄て返合て戦けり。爰(ここ)に将門(まさかど)自甲冑を
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著、駿馬を疾て先陣に進みて戦処に、王事靡(レ)塩、天罰正顕て、馬は風飛歩を忘、人は李老之術を失へり。其上法性坊調伏の祈誓にこたへつゝ、神鏑頂に中て将門(まさかど)終に亡けり。同四月二十五日、将門(まさかど)が首都へ上る。大路を渡て左の獄門の木に懸らる。哀哉昨日は東夷の親王とかしづかれて威を振、今日は北闕に逆賊と成て恥をさらす事を。貪(レ)徳背(レ)公、宛如(二)憑(レ)威践(レ)鉾之虎(一)と云本文あり、最慎べき事也けり。貞盛(さだもり)又希有にして遁上れり。譬へば馬前の(有朋上P751)秣は野原に遺り、爼上の魚の江海に帰が如し。帝運の然らしむると云ながら、武芸のよく秀たる事を感じけり。将門(まさかど)が舎弟(しやてい)将頼、并(ならびに)常陸介藤原玄茂は、相模国(さがみのくに)にて討れけり。武蔵権守興世は上総国にして被(レ)誅。坂上近高、藤原玄明、常陸国にて切れたり。伴ふ類与党多かりけれ共、妻子を捨て入道出家して山林に迷けり。将門(まさかど)追討の勧賞被(レ)行けり。左大臣実頼〈 小野宮殿 〉、右大臣師輔〈 九条殿 〉已下、公卿殿上人(てんじやうびと)陣の座に列し給へり。大将軍貞盛(さだもり)は上平太なりけるが、正五位に叙して平将軍(へいしやうぐん)の宣旨を蒙る。藤原秀郷は従四位下(じゆしゐのげ)に叙して、武蔵下野両国の押領使を給り、右馬助(うまのすけ)源経基は従五位下に叙して、太宰の少弐に任けり。次副将軍忠文卿の勧賞の事沙汰有けるに、小野宮殿の御義に云、今度の合戦偏へに大将軍の忠にあり、副将軍は功なきが如し、恩賞不(レ)可(レ)輙と申させ給けるに、重て九条殿の仰に、兵を選て賊徒を誅する事、大将軍も副将軍も、共に詔命に依りて敵陣に向ふ。大将軍の先陣に勇事は、後陣の副将軍の勢を憑むゆゑ也。副将軍の後陣に踉■(やすらふ)ことは、大将軍の進退を守、共に以て午角也、争か朝恩なからん。但大将軍
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の賞ほどこそなく共、■様(おほやう)なる勲功候べきをやと度々被(レ)奏けるに、小野宮殿さのみ勧賞無念に候、忠による禄なるべしと、固く諌申させ給(たま)ひければ、民部卿終に漏にけり。(有朋上P752)
S2304 忠文祝(レ)神附追(二)使門出(一)事
爰(ここ)に忠文大悪心を起して、面目なく内裏を罷出けるが、天も響き地も崩るゝ計の大音声を放云けるは、口惜事也、同勅命を蒙て同朝敵を平ぐ、一人は賞に預り一人は恩に漏る、小野宮殿の御計、生々世々(しやうじやうせせ)不(レ)可(レ)忘、されば家門衰弊し給(たまひ)て、其末葉たらん人は、ながく九条殿の御子孫の奴婢と成給ふべしとて、高く■(ののし)り手をはたと打て拳を把りたりければ、左右の八の爪、手の甲に通り、血流れ出ければ紅を絞りたるが如し。やがて宿所に帰り飲食を断、思死に失にけり。悪霊と成て様々おそろしき事共有ければ、怨霊を宥申べしとて、忠文を神と祝奉、宇治に離宮明神と申は是也。誠に其恨の通りけるにや、小野宮殿の御子孫は絶給へるが如し。たま/\まします人も、必皆九条殿の奴婢とぞ成給へる。九条殿は一言の情に依て、摂政(せつしやう)関白(くわんばく)今に絶させ給はず、朝敵を平げたる形勢(ありさま)、上代はかくこそ有けるに、新都の大裏、討手の大将、礼儀忘れたるが如く、儀式前蹤を守らず、いさ/\維盛の追討使、事行がたし、只物の為歟とぞ内々は傾申ける。二十二日に福原の京を立たりけるが、其(その)日(ひ)は昆陽野に宿す。二十三日に故京に著、二十四五六日は逗留(有朋上P753)す。各鎧甲(よろひかぶと)より始て、弓箭馬鞍、かゞやくばかり出立たりければ、見人目を驚す。維盛は赤地錦直垂に、大頸端袖は紺地の錦にてぞたゝれたる。萌黄匂の糸威の鎧に金覆輪を懸たり。連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬の太逞きに、鋳懸地の黄覆輪の鞍置たり。年二十二、
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美め形勝たり。絵にかく共、筆も難(レ)及とぞ見えたりける。薩摩守忠度の許へ、志深き女房の小袖を一重贈りたりけるに、いひおこせたりけるは、
  東路の草葉を分る袖よりもたゝぬ袂(たもと)は露ぞこぼるゝ K118 
忠度の返事には、
  別路を何歎くらん越て行く関をむかしの跡と思へば K119 
と、此返事は先祖の貞盛(さだもり)、将門(まさかど)追討の為に大将軍に選れて、東国へ下りし事を思出してよめるにや。女房の歌は、大方の余波にてさる事なれ共、忠度の歌は、軍の門出にいま/\しき事哉とぞ申ける。各既(すで)に出立ぬ。二十七日(にじふしちにち)には近江の国野路の宿につく。二十八日(にじふはちにち)同国蒲生野に著。廿九日に同国小野宿に著。晦日美濃国府に著。十月一日同国墨俣につく。二日尾張国萱津宿に著、三日同国鳴海に著。四日三川国矢矧につく。五日同国豊川に著。六日遠江国橋本につき、七日同国池田宿につく。八日同国懸川の宿に著。九日(有朋上P754)同国波津蔵につき、十日駿河国府につく。其より清見関まで攻下たれども、国々の兵随付勢なし。適ある者も山野にぞ逃隠ける。道すがら人のたくはへ持るもの共、打入打入奪取ければ、世の乱人の歎不(レ)斜(なのめならず)。
S2305 源氏隅田河原取(レ)陣事
兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)は、平家の軍兵東国へ下向の由聞給(たまひ)て、武蔵と下総との境なる隅田川原に陣を取て、国々の兵を被(レ)召けり。爰(ここ)に武蔵国住人(ぢゆうにん)、江戸太郎、葛西三郎、一類眷属引率して参たり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)宣(のたまひ)けるは、
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彼輩は衣笠にして御方を討者共也、参上の体尤不審あり、大場畠山に同意して後矢射べき謀にやと宣(のたまひ)ければ、様々陣申に依て被(レ)宥けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)上総介八郎を召て、今一両日此に逗留して、上野下野の勢を催立て、渡瀬を廻て打上らん事如何あるべきと宣へば、弘経畏て、其事悪く候なん、其故は、小松少将維盛大将軍として、侍には上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)等、数万騎の勢を引率して下向と聞え候。斎藤別当真盛、東国の案内者にて一陣と承。日数を経るならば、武蔵相模の勇士等、大場畠山が下知に随て平家の方へ参べし。されば急ぎ此川を渡して足柄を後にあて、富士川を前に請(有朋上P755)て陣を取ならば、武蔵相模の者共は必御方へ参候べし。此両国の兵共(つはものども)随参なば、日本国(につぽんごく)は我御儘と被(二)思召(一)(おぼしめさる)べし。上野下野の輩は、とても追継追継に馳参べしと計申ければ、然べしとて、江戸葛西に仰て浮橋渡すべしと下知せらる。江戸葛西は、石橋にして佐殿を奉(レ)射し事恐思けるに、此仰を蒙て悦をなして、在家をこぼちて浮橋尋常に渡たり。軍兵是より打渡して、武蔵国豊島の上、滝野河松橋と云所に陣を取。其(その)勢(せい)既十万余騎(よき)、懸りければ八箇国の大名、小名、別当、庄司、検校(けんげう)、允、介なんど云までも、二十騎(にじつき)三十騎(さんじつき)五十騎(ごじつき)百騎、白旗白じるし付つゝ、此彼より参集。佐殿はいとゞ力付給(たまひ)て、先当国六所大明神(だいみやうじん)に御参詣ありて、神馬を引上矢を奉られたり。
S2306 畠山推参附大場降人事
〔斯る処に〕畠山庄司次郎は、半沢六郎を呼て云けるは、此世の中いかゞ有べき、倩兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の繁昌し給ふを見るに直事に非ず、八箇国の大名小名皆帰伏の上は、参るべきにこそあるか、指たる意趣はなけれ共、父の庄司、伯父の別当、平家に当参の間、
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憖(なまじひ)に小坪坂にて三浦と合戦す、されば参らんも恐あり、参らでもいかゞ有べき、相計と云けれ(有朋上P756)ば、成清申けるは、たゞ平に御参候へ、小坪の軍は三浦の殿原存知あるらん、弓矢取身は父子両方に別れ、兄弟左右にあつて合戦する事尋常也、保元の先蹤近例也、且は又平家は当時一旦の恩、佐殿は相伝四代の君也、御参候はんに其恐有べからず、若御遅参あらば一定討手を被(二)差遣(一)候べし、其条ゆゝしき御大事(おんだいじ)也、急御参ありて、何事も陳じ申させ給ふべしと云ければ、五百(ごひやく)余騎(よき)を相具して、白旗白弓袋を指上て参たり。生年十七歳、容儀事様実に一方の大将軍と見えたり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)宣(のたま)ひけるは、父重能伯父有重、平家に奉公して当時在京也、不(レ)知東国の案内者して、今度の討手にもや下るらん、されば一門を引別て、父子敵対せんと思ふべきに非ず、就(レ)中(なかんづく)小坪坂にして御方を射き、其上所(レ)差(二)白旗(一)、全く頼朝(よりとも)が旗に相違なし、兵衛佐(ひやうゑのすけ)だにもさす旗也、重忠不(レ)可(レ)劣と思にや、参上之条旁以不審也と仰ければ、重忠畏て陳じ申けるは、小坪の合戦の事、三浦に於て私の宿意なく、君の御為に不忠候はぬ由、再三問答の処に、不慮の合戦に及候き、三浦の人々に御尋(おんたづね)あらば其隠候まじ、旗の事是私の結構(けつこう)にあらず、君の御先祖八幡殿、宣旨を蒙らせ給(たまひ)て武平、家平を追討の時、重忠が、四代祖父秩父の十郎武綱、初参して侍りければ、此白旗を給(たまはつ)て先陣を勤め、武平以下の凶徒を誅し候畢ぬ。近は御舎兄悪源太殿、上野国(有朋上P757)大蔵の館にて、多古の先生殿を攻られける時、父の庄司重能、又此旗を差て即攻落し奉り候ぬ。されば源氏の御為には御祝の旗也とて、吉例と名を付て、代々相伝
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仕る。されば君御代を知召べき御軍なれば、先祖代々の吉例を指て参たりと申せば、佐殿は土肥、千葉を召て、此事いかゞ有べきと仰合す。御返事(おんへんじ)には、当時畠山を御勘当努々有べからず、就(レ)中(なかんづく)陳じ申処一々に其請候、極実法の者に候へば、向後も御憑あらんに、一方の大将軍をば承るべき者にて侍り、其に御勘当あらば、武蔵相模の者共、此は人の上にあらず、畠山だにもかく罪せられ、増て我等(われら)はとて更に参候まじ、誰々も此等をぞ守り候らんと計申ければ、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、所(二)陳申(一)被(二)聞召(一)(きこしめされ)ぬ、頼朝(よりとも)日本国(につぽんごく)を鎮むほどは、汝先陣を勤べし、但汝が旗の、余にとりかへもなく似たるに、是を押とて藍皮一文を賜下し給へり。其より畠山が旗の注には、小紋の藍皮を押ける也。畠山既(すで)に参て先陣を給と披露有ければ、武蔵相模の住人(ぢゆうにん)等我も/\と参けり。大場三郎景親は、今は叶はじと思て、三千(さんぜん)余騎(よき)にて平家の御迎として上洛しけるが、足柄山を起てあひ沢宿に著、前には甲斐源氏、二万(にまん)余騎(よき)にて駿河国に越て東国の勢を待。後には兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、雲霞の如く責上と聞えければ、中間に被(二)取籠(一)ていかゞせんと色を失ひて仰天しければ、家人郎等憑(有朋上P758)なくて思々落失ぬ。景親心弱成て、鎧の一の草摺切落して二所権現に奉り、足柄より北星山と云所に逃籠て息つき居たり。其外石橋の軍に佐殿を射し輩、皆頸を延て参集る。重科の者は忽(たちまち)に切らるべきにて有けれ共、宗徒の大場をすかし出さん為に宣(のたまひ)けるは、罪科雖(レ)難(レ)遁、降人として参る上は咎を行ふに及ばず、但各軍に忠を尽すべし、忠により還て賞あるべしなど御沙汰(ごさた)在て、馬鞍などたびて宥め具し給(たま)ひければ、命ばかりは生べきにこそとて、各先陣
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に進みて忠を抽でんと思ひけり。斯しかば大場も終に首を延て参けり。源氏は加様に大勢招集て、足柄山を打越て、伊豆(いづの)国府に著て三島大明神(だいみやうじん)を伏拝み、木瀬川宿、車返、富士の麓野原中宿、多胡宿、富士川のはた、木の下草の中にみち/\たり。其(その)勢(せい)二十万六千(にじふまんろくせん)余騎(よき)とぞ注したる。
S2307 平氏清見関下事
平家は東路に日数を経つゝ、路次の兵召具して、五万余騎(よき)にて駿河国清見が関まで責下れり。旅の空の習は、哀を催事多けれ共、此関ことに面白し、実に伝聞しよりも猶興を催す。南と西とを見渡せば、天と海と一にて、高低眼を迷はせり。東と北とに行向(有朋上P759)ば、磯と山と境て、嶮難足をつまだてたり。岩根に寄る白浪は、時さだめなき花なれや、尾上に渡る青嵐も、折しりがほにいと冷。汀(みぎは)に遊鴎鳥、群居て水に戯れ、叢に住虫の音、とり/゛\心を痛しむ。其より沖津、国崎、湯井、蒲原、富士川の西のはた迄責寄たり。此河の有様(ありさま)、水上は信濃より流とかや、此より南へ落たり。渚(なぎさ)は大海へ二里ばかり有と云。河の広さ、或一町ばかり或は二町ばかり、水濁て浪高し。流の早事立板に水を懸に似たり。まして雨降水出たらん時は向べきに非ず。東西の河原も遠広に、西の耳には平家赤旗を捧て固め、東の河原には源氏白旗を捧たり。源氏の方よりは、安田冠者義貞先陣に有けるが、時々使者を立て、其へ参べきか、是へ御渡有べき歟、見参何時ぞや、名対面共して、何方よりも忽(たちまち)に寄べき様もなし。かく空く日数をふる、大なる鬱なりとする間に、屋形共を指上て、閑に幔幕引て居たりなどする程に、東国広ければにや、源氏の勢いや/\に付て、勢もの恐しく見ゆ。白旗の風に吹るゝ事は、さゞ浪なんどの
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様にぞ有ける。権亮少将維盛は斎藤別当を召て、抑頼朝(よりとも)が勢の中に、己程の弓勢の者いくら程かある、東国の者なれば案内は知たるらんと問給へば、真盛などをよき者と思召(おぼしめし)候か、弓は三人張五人張、矢束は弓に似たる事なれば、十四束十五束、あきまを(有朋上P760)挿絵(有朋上P761)挿絵(有朋上P762)かぞへて矢継早し、一矢にて二三人をも射落されば、鎧は二領(にりやう)三領をも射貫候、惣じて英矢射者なし、加様の者、大名一人が中に廿人卅人は候らん、無下の荒郷一所が主にも二人三人は侍るらん、馬は牧の内より心に任て撰取り立飼たれば、早走の曲進退の逸物を、一人して五匹十匹ひかせたり、彼馬乗負せて、朝夕鹿狩狐狩して、山林を家と思て馳習たれば、乗とは知れども落事なし、坂東武者の習にて、父が死ばとて子も引ず、子が討ればとて親も退ず、死ぬるが上を乗越乗越、死生不(レ)知に戦ふ、真盛なんどを其に並候へば、物の数にも非ず、御方の兵と申は畿内近国の駈武者なれば、親手負ば、其に事付て一門引つれて子は退、主討れば、郎等はよき次とて兄弟相具して落失ぬ、馬と云は博労馬の、兎角つくろひ飼たれば、京出ばかりこそ首をも少持挙侍りしか、はや乗損じて物の用に難(レ)叶、東国の荒手の馬に一当あてられなば、更に立あがるべからず、されば馬と云人と云、西国(さいこく)の者共二十騎(にじつき)三十騎(さんじつき)ぞ東国の一騎(いつき)に当り候はんずる。其に御方の勢は五万余騎(よき)、源氏は聞体廿万騎、縦同勢也共、敵対に及ばじ、況四分が一也、大勢に蒐立られなば、彼等は国々の案内者、野山を跼て知らぬ所なし、御方は西国(さいこく)さまの者也、始て来旅なれば、道ばかりこそ覚え候らめ、されば東国の者共が前をきり後に塞りて、中(有朋上P763)に取籠戦候は
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んには、やは一人も遁出べき、ゆゝしき大事に侍り、是に付ても哀とく御下向在て、武蔵相模の勢を靡かして攻下らせ給へと、再三申候し物を、後悔先に立ぬ事なれ共、口惜候者哉、今度の軍、いかにも叶べきとも存ぜず。
S2308 真盛京上附平家逃上事
真盛は大臣殿の御恩山よりも高く、海よりも深く蒙て候、今度いかなる事もあらんには見奉らん事かたし、御暇を給(たまひ)て罷上り、大臣殿見進せ、又こそ帰り参らめとて、一千(いつせん)余騎(よき)を引分て京へ上にけり。権亮少将維盛は、むねと東国の案内者に憑み給ける真盛は叶じとて上りぬ。心弱は思はれけれ共、軍兵に力をそへんとて、よし/\真盛がなき所には軍はせぬかとて留り給へり。上総介忠清(ただきよ)を先陣に差向給へ共、ためらひて進み戦ふ事なし。維盛は忠清(ただきよ)が計に随て進給はず。斯ければ猛思ふ者も少々有けれども、一人かけ出べきならねば、支て待ほどに、南海道西海道の勢は、下るらんなんど申合けるに、月の比も過て闇に成ぬ、互に人のかよふ事なければ、目にのみ見に、御方には付副勢なし。源氏は日にそへ時を遂て雲霞の如くに集る。さはあれ共、此川を何方よりも渡すべき(有朋上P764)様なければ、平家の方には宿々より傾城どもを迎て、帯ときひろげて、歌よみ酒盛して居たり。源氏の方には、明日廿四日に矢合有べしとて内談あり、終(レ)夜(よもすがら)篝の火をぞ焼たりける。宿々浦々に充満て、沢辺の蛍の飛集たるに似たり。平家の方にも如(レ)形篝火を焼、夜も漸深ければ、各寝入て有けるに、夜半ばかりに、富士の沼に群居たりける水鳥の、いくら共なく有けるが、源氏の兵共(つはものども)の、物具(もののぐ)
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のざゝめく音、馬の啼声などに驚て立ける羽音のおびたゞしかりけるに驚て、源氏の近付て時を造るぞと心得(こころえ)て、すはや敵の寄たるはと云程こそ有けれ、平家は大将軍を始として、取物も取敢(とりあへ)ず、甲冑を忘れ弓箙をおとし、長持皮籠馬鞍共に至まで捨て迷上。親は子をも不(レ)知、従者は主をも顧ず、只我先我先にとぞ落たりける。此日比(ひごろ)呼集て遊つる遊君ども、或は踏殺或手足踏折られて、跋々泣逃去けり。見逃と云事は昔より申伝たり。其だにも心憂かるべし。是は聞逃也。源氏は角とも不(レ)知して、二十四日暁にくつばみをそろへて瀬踏して、時を造て寄たれども、平家の陣には人もなし。其跡を廻て見に忘たる物ども多し。大に恠をなす。若京都にて、源氏の方人の悪事を始たるに依て、馳上たるやらんと云合程に、頭を踏わられて病臥る女一人あり。こはいかにと問へば、此日比(ひごろ)是にて遊つるが、過ぬる宵(有朋上P765)まではさりげもなかりつ、寝入て後夜半計に、此殿原騒ぎ周章(あわて)振迷て立つる時、馬に踏れてかく侍り、其時は水鳥の羽音のおびたゞしく有つると云。源氏の兵申けるは、げにも今夜の鳥の羽音は、常よりも夥(おびたた)しかりつる也、哀聞ならはで、其に驚て敵の時を造るかとて、京家の者共なれば、寝ほれて逃たるよなと笑けり。矢合の討手の使の矢一つだにも不(レ)射(いず)して逃上たるいまいましさよ、行末も正にはか/゛\しき事あらじと、京中の上下、安き口にはさゝやきけり。物しれる人の云けるは、勇士臥(レ)野帰鴈乱(レ)連と云本文あり。されば水鳥の雲に飛散は、敵沼近くあると心得(こころう)べし、縦其を聞損じて時の音と思とも、矢合してこそ逃め、音は合するにも及ばずして落ぬる事心憂し、
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又小児共の読む百詠と云小文に、鴨集て動ずれば成(レ)雷と云事あり、去共其文を読たる人も有けんに、不(二)思出(一)ける口惜さよとて瓜弾をぞしける。又いかなる者か申出したりけん、鳩は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の使者ぞかし、源氏守護の為に、彼水鳥の中には鳩のあまた交て有りけるとかや。天には口なし人を以ていはせよと云、此事さもやと覚えたり。
S2309 新院自(二)厳島(一)還御附新院恐(二)御起請(一)附落書事(有朋上P766)
十月六日、新院厳島より還御あり。遥々(はるばる)の海路を御舟にて、事故なく還上らせ給ぞ御目出し。源中将通親卿、御前に参て被(レ)申けるは、哀面影に立給ふ西海の浪路かな、和光(わくわう)の恵とり/゛\にこそ侍れ、或は深山(しんざん)岩窟に瑞籬をしめて、野獣を導く神明もあり、或は海岸水辺に社壇を並て、淵魚を助る霊応もあり。実に厳島の景気奉(レ)拝候ひし思出にこそ侍れ。去にても彼島にては、なに文をあそばし、大相国(たいしやうこく)には給り候しにやと申せば、新院軈(やが)てはら/\と御涙(おんなみだ)を流して、去事有き、彼文かゝずは、朕を捨て上らんと云しかば、源氏に一つ心ならじと、入道が云の儘に、起請を書てたびたりし也。ながらへば見るらめずらん、我は入道にせため殺れんずるぞ、いさ/\為義(ためよし)、義朝(よしとも)が悪事とかやも、みねば不(二)知召(一)、其もやは苟も一天の主に、直に祭文かけとは申行ひけん、是を目ざましと思は、我身の起請にうてて世に有まじきゆゑ也と、泣々(なくなく)さゝやかせ給けり。通親卿も涙ぐみ畏て、其事御歎に及べからず、人の持る物を心の外にすかし取、人をおどして思様の文をかゝせんと仕るをば、乞素圧状と申て政道にも不(レ)用、神も仏も捨させ給ふ事にて候ぞ、さやうに申行ふこそ還て其身の咎にて侍れば、
P0561
空恐しく候、何かは御苦み候べきと、忍やかに急度被(二)慰申(一)けり。十一日に、夢野と云所に新しき御所を造て御渡有べき由、入道(にふだう)相国(しやうこく)(有朋上P767)被(レ)申ければ、法皇御輿に召て御幸あり。左京大夫脩範一人ぞ御伴には候ひける。名もいまいましき楼の御所を出させ給(たまひ)て、尋常の御所に移り入せ御座(おはしま)して御心安(おんこころやすく)も、厳島の御幸の験にやとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。彼明神と申は安芸国第一の鎮守(ちんじゆ)也。国務の人はまづ此神拝を専にす。入道(にふだう)相国(しやうこく)の世に聞え公に仕つりし時は当国守たりき。明神の加護にて加様の事を施す。されば入道の心をば明神ぞ宥給はんと思召(おぼしめし)取て、新院は二度まで御幸あり、世の末の物語(ものがたり)也。知ず我御子孫を、末の世の百王迄も朝家の御主として、御父の法皇に世を政奉り給はば、我御命をめせなど、祈申させ給けるにやと、後には思合せけり。十一月十一日には、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)、郷内裏造出て主上行幸あり。彼大納言(だいなごん)は大福長者にて、世の人大事にしけり。懸ければ程なく造進せられたりけれ共、遷幸の儀式は世の常ならずと申けり。十五日東国下向の討手の使、空く帰上て古京に著、軍に向ては、命を失ふとこそ聞に、一人もかけず上られたるこそいみじけれ。逃るをば剛者と云事有とて人皆笑あへり。太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)の門に落書あり、奈良法師の読たりけるとかや。
  富士川のせゞの岩越水よりも早くも落るいせ平氏哉 K120 
平家と書てはひらやとよむ、家のまろび倒れんずるには、助と云ひて柱の代に大なる木(有朋上P768)を以てさゝへ
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直事あり。平家の大将軍に下給へる権亮少将落ければ、右大将(うだいしやう)宗盛の騒歎給ふらんと云にそへて、
  ひらやなる宗盛いかにさわぐらん柱とたのむ助を落して K121 
又源氏推寄たれ共敵もなし。富士川のはたを見れば、物具(もののぐ)多捨たる中に、忠清(ただきよ)と銘書たる鎧唐櫃一合あり。武者の具をば既(すで)に捨ぬ、今は遁世(とんせい)して墨染の衣をきよとも読たり。
  富士川に鎧は捨てつ墨染の衣たゞきよのちの世のため K122 
と、又上総守(かづさのかみ)といへば、其国の器によそへても読たり。
  忠清(ただきよ)はにげの馬にや乗つらん懸ぬに落るかづさしりがい K123 
入道は是を見彼を聞くに付ても安からず思はれければ、権亮少将をば鬼界が島へ流し失へ、忠清(ただきよ)をば首を刎よとぞ嗔り給(たま)ひける。
S2310 義経軍陣来事
平家はかく逃上けれ共、源氏は猶浮島原に陣を取て御座(おはしま)しける。爰齢二十余、色白く勢小男の、顔魂眼居指過て見えけるに、郎等廿余騎(よき)を相具して、陣前に出来て名乗ける(有朋上P769)は、是は故(こ)左馬頭殿(さまのかみどの)の子息、九条曹子常盤が腹に牛若と申侍りしが、後には遮那王とて、京の北山鞍馬寺に有しか共、世中住侘て、奥州(あうしう)に落下て男になり、九郎冠者義経と申者にて侍るが、佐殿一院の御諚を蒙らせ給(たま)ひて、平家追討の披露あるに依て、一門の我執を存じ、御力をつけ奉らん為に夜を日に継て馳参つて候、申入
P0563
させ給へと宣(のたまひ)ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)不(二)聞敢(一)涙を流し請じ入給(たまひ)て、いかにや/\去事候らん、頼朝(よりとも)勅勘を蒙りし身なれば、音信(いんしん)難(レ)叶候き。平家追討の院宣を下給(たまひ)て後は、他事なく其営の間、急と思ひよらざりつるに、聞敢ず御渡り、嬉しとは事も疎に侍り、昔八幡殿の後三年の合戦の時、弟に兵衛尉義綱は、折節(をりふし)帝王に事候けるが、兄の向後の覚束(おぼつか)なさに、御暇を給(たまひ)て罷下べき由奏聞しけれ共、御免なかりければ、陣家に絃袋を懸て逃下て、金沢の館へ参向したりければ、八幡殿殊に悦給(たまひ)て、故頼義(らいぎの)朝臣(あつそん)の御座(おはしまし)たるとこそ覚ゆれとて、涙を流し給けり。唯今御辺(ごへん)の御渡、ためし少も違はず、故(こ)左馬頭殿(さまのかみどの)とこそ奉(レ)見候へとて、互に袖を絞り給へば、大名も小名も皆鎧の袖をぬらしけり。兄弟内に鬩外に禦敵とは此言にや。
S2311 頼朝(よりとも)鎌倉入勧賞附平家方人罪科事(有朋上P770)
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、其より鎌倉へ帰入て様々事行し給けり。先勧賞有べしとて、遠江をば安田三郎に給ふ。駿河をば一条次郎に給。上総をば介八郎に給ふ。下総をば千葉介に給。其外奉公の忠により、人望の品に随て、国々庄々を分給けり。次に罪科の輩其沙汰あるべしとて、大場三郎景親をば、介八郎預つて誡置たりけるを、縄付引張り御前の大庭へ将参たり。舎兄に懐島平権頭、人手に懸んよりとて申給(たまひ)て切てけり。其子の太郎をば足利(あしかがの)又太郎(またたらう)承て切、俣野五郎は難(レ)遁身也とて、忍て京へ逃上にけり。海老党に荻野五郎末重は、石橋軍の時源氏の名折に、何に敵に後をば見せ給ぞ、返給返給へと申たり
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し者也、裸になし引張て将参れり。佐殿は、いかに末重、石橋の合戦の時の詞は忘ずやとて、門外にて切られけり。舎弟(しやてい)二人子息一人同切られぬ。加様に首を被(レ)刎者六十余とぞ聞えし。
山内滝口三郎同四郎は、廻文の時富士の山とたけくらべ、猫の額の物を鼠の伺定やなんど悪口したりし者也。大庭に被(二)召出(一)たり。佐殿宣(のたまひ)けるは、汝が父俊綱(としつな)并に祖父俊通は、共に平治の乱の時、故殿の御伴に候て討死したりし者也。其子孫とて残留れり。我世を知らば、いかにも糸惜して世にあらせ、祖父親が後世をも弔はせんとこそ深く思ひしに、盛長に逢て種々の悪口を吐、剰景親に同意して頼朝(よりとも)を射し条は、い(有朋上P771)かに、富士の山と長並べと云しか共、世を取事も有けりとて、土肥次郎に仰て、速に首を刎よと下知し給ふ。実平仰に依て引張て出ぬ。暫屋形に置て還参て申けるは、滝口三郎兄弟が事、悪口と申合戦と申、忽(たちまち)に首をはねべけれ共、彼等が親祖父は、御諚の如故殿の御命に替し輩也、愚なる心に思慮なく申たる者にてこそ侍れ、只所帯を召て、命ばかりを生られて彼恩分に報はせ給はば、俊通俊綱(としつな)が魂魄も悦、故殿の御菩提の御追善ともならせ給なん、追放ち候ばや、命生て侍るとも、謀叛など起べき仁にも候はずと、細々に申ければ、誠左様にも相計ふべしと宣(のたまひ)ければ、実平宿所に帰て、事の仔細申含て両人が髻切、出家せさせて追放ちければ、手を合悦て出にけり。
長尾五郎は佐奈田与一が敵也、召出して、与一が父なれば岡崎四郎に給ふ。義実召誡て明日首を刎べきにて有けるが、最後の所作と思入て、終(レ)夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)を読けり。岡崎人を喚で、経の音するは何者(なにもの)が読ぞ
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と問。囚の長尾五郎也と云。転読功積りたりけるにや、今夜を限と思ひける哀さに、信心を致してよみければ、岡崎肝に銘じて貴く聴聞しける。後朝に佐殿に参て申けるは、長尾五郎今日切べきにて候が、終夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)を奉(二)転読(一)、世に貴く覚候き。在俗の身として空によみ覚、あれ程に功を入進せて候ける事、難(レ)有覚候、忽(たちまち)に頸をきらん(有朋上P772)事冥衆の照覧其恐あり、縦斬たり共与一再び生かへるべからず、いとゞ罪業の基と成て悪趣に沈候なん、然べくは与一が孝養に追放候侍ばやと相存候、其事難(レ)叶候はば、他人に仰て罪せらるべく候と申。佐殿やゝ案じて、与一が敵なれば汝にたびぬ、又其上は何様にも義実が計なるべし、左様に咎を法華経(ほけきやう)に免し奉らん事誠に神妙(しんべう)なり、汝が痛申さん事を、我亦罪すべからずと仰ければ、岡崎悦て、罷帰て長尾五郎を呼居、御辺(ごへん)は大方に付ても罪科軽からず、義実に於ては与一が敵也、時刻廻らすべからず、可(レ)被(レ)斬なれども、終夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)を読給つれば、佐殿に参て死罪をば申宥候ぬ、御辺(ごへん)に組し与一を殺され、御辺(ごへん)互に然べき善知識にこそ有つらめ、今は出家し給(たまひ)て片山里に閉籠、静に経よみ念仏して、与一が後世を弔てたべとて、即僧を請じ入道せさせて、袈裟衣裁ち著せ、僧の具足ども調たびて免出しけり、岡崎四郎情在とぞ申ける。滝口三郎は父祖の忠に酬て命をいき、長尾五郎は転読の功に依て死を免れたり。刀杖不加毒不能害、今こそ思知られけれ。凡有(レ)忠者をば賞し、有(レ)罪者をば誅し給ふ。八箇国の大名小名眼前に打随て、四角八方に並居つゝ、非番当番して被(二)守護(一)、其(その)勢(せい)四十万余騎(よき)とぞ注しける。呉王の姑蘇台に
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在しが如く、始皇(しくわう)が咸陽宮を治しに似たり。靡かぬ草木もなかりけり。今は東国には其(有朋上P773)恐なしとて、十郎蔵人行家、木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)を始として、一性の源氏、一条、安田、逸見、武田、小笠原等を以て、平家追討の談義様々なり。
S2312 祝(二)若宮八幡宮(一)事
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、頼朝(よりとも)運を東海に開き、且々天下を手に把る事、所々の霊夢折々の瑞相、併八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御利生也。都へ上る事は不(レ)輙、大菩薩(だいぼさつ)を勧賞し奉べしとて、鎌倉の鶴岡と云所を打開きて、若宮を造営して霊神を祝奉る。社殿金を鏤て、馬場に砂を綺たり。緋の玉垣照光、翠の松風影冷し。祭礼四季に懈らず、神女日夜に再拝せり。其外堂塔僧坊繁昌し、供仏施僧不断なり。入道(にふだう)相国(しやうこく)是を聞給(たま)ひては、いとゞ不(レ)安ぞ思はれける。(有朋上P774)