『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十五
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井巻 第二十五
S2501 大仏造営奉行勧進事
東大寺(とうだいじ)炎上(えんしやう)の後、大仏殿造営の御沙汰(ごさた)あり、左少弁(させうべん)行隆朝臣、可(二)奉行(一)由えらばれけり。彼行隆先年八幡宮に参て通夜し給たりけるに、示現を蒙りけるは、東大寺(とうだいじ)造営の奉行の時は是を持べしとて、笏を給と霊夢を感ず。打驚て傍を見に、誠にうつゝにも是あり、不思議に覚て、其笏を取て下向し給(たま)ひたりけれ共、何事にか当世東大寺(とうだいじ)造替あるべき、何なる夢想(むさう)やらんと心計に思ひ煩ひて、件の笏を深納て、年月を送り給ける程に、此焼失の後、弁官の中に被(レ)撰て、行隆可(二)奉行(一)由仰せ下されけるにこそ思ひ合せて感涙をば流しけれ。されば宣(のたま)ひけるに、我勅勘を蒙ぶらずして昇進あらましかば、今は弁官を過なまし、勅勘に依て多年を送り、老後に再び弁官に成帰つて、奉行の仁に相当れり。前世の宿縁、今生の面目、来世の値遇までも、悦ぶに猶余りありとて、大菩薩(だいぼさつ)の示現に給りし笏を取出して、造営の事始めの日より持給(たま)ひたりけるとかや。
又東大寺(とうだいじ)の大(有朋上P808)勧進の仁、誰にか仰せ付べきと議定あり。当世には黒谷の源空は、戒徳天に覆ひ慈悲普して、人挙て仏の思ひをなす。彼法然房に被(二)仰含(一)べきかと、諸卿推挙し申ければ、法皇即行隆朝臣を以て、大勧進を可(レ)謹之由仰下さる。法然房院宣の御返事(おんへんじ)被(レ)申けるは、源空山門の交衆を止て、林泉
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の幽居を占る事、偏(ひとへ)に念仏修行の為也。若大勧進の職に候はば、定て劇務万端にして自行不(二)成就(じやうじゆ)(一)と、竪く辞申されけり。重たる院宣には、門徒(もんと)の僧中に器量の仁ありや、挙し申べしと仰下す。法然房暫く案じて、上の醍醐におはしける俊乗房重源を招寄せて、院宣の趣申含給ければ、左右なく領状し給へり。則是を挙し申されければ、俊乗房院宣を給(たまはつ)て大勧進の上人に定にけり。俊乗房院宣を帯して、法然房へ参して角と申たりければ、宣(のたまひ)けるは、相構て御房大銅に食て、一大事の往生忘るべからず、若勧進成就(じやうじゆ)あらば、御房は一定の権者也と被(レ)申けるが、事故なく遂給にけり。されば勧進俊乗房、奉行行隆、共に直人にはあらじと人首を傾けり。
笠置の解脱上人貞慶、大仏の俊乗和尚(くわしやう)重源両人は、道念内に催し慈悲外に普し、人皆仏の思ひを成しけるに、重源和尚(くわしやう)は深く観音を信じ給へり。菩薩の慈悲とり/゛\也といへ共、普門示現の利生悲願は観音大士に過たるはあらじ。されば生身の観音を奉(レ)拝らん(有朋上P809)と年来祈念し給けり。解脱上人は釈迦を信じ給けり。三世の如来(によらい)まち/\也といへ共、濁世成仏(じやうぶつ)の導師也、聞法得脱偏(ひとへ)に如来(によらい)の恩徳に非ずと云事なし。然れば生身の釈迦を奉(レ)拝ばやと祈誓し給(たま)ひける程に、同夜に夢を見給けるは、俊乗房は、解脱上人は則観音也と見、解脱房は、俊乗和尚(くわしやう)は即釈迦也と見給(たま)ひけり。懸りければ解脱上人は、笠置寺を出て東大寺(とうだいじ)へ行給ふ。俊乗和尚(くわしやう)は東大寺(とうだいじ)を出で笠置寺へ渡り給ふ。両上人平野の三間、卒都婆と云所にて行合て、共に夢の告をかたり、互に涙を流しつゝ、貞慶は俊乗和尚(くわしやう)を三礼し、重源は解脱上人
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を三礼して、契て云、先立て臨終せん者は自他生所を示すべしと。而を建久元年六月五日の夜、解脱上人の夢に、重源こそ娑婆の化縁既(すで)に尽て、只今(ただいま)霊山へ帰り侍と示給へり。夢に驚て急ぎ人を遣て尋問ひ給へば、此暁既(すで)に和尚(くわしやう)東大寺(とうだいじ)の浄土堂にて入滅の由答けり。誠に法界唯心の、花厳の教主を再造鋳のために、大聖釈迦如来(しやかによらい)の化現し給(たま)ひけるこそ貴けれ。
S2502 ■(はらかの)奏吉野国栖事
治承五年正月一日、改の年立返たれ共、内裏には東国の兵革南都の火炎に依て朝拝なし、(有朋上P810)節会ばかり被(レ)行けれ共、主上出御もなし。関白(くわんばく)已下藤氏の公卿一人も参らず、氏寺焼失に依て也。只平家の人々少々参て被(二)執行(一)けれ共、そも物の音も不(二)吹鳴(一)、舞楽も奏せず、吉野の国栖も不(レ)参、■(はらか)の奏もなかりけり。たま/\被(レ)行ける事も、皆々如(レ)形にぞ在ける。
< ■(はらかの)奏とは魚也。天智天皇(てんわう)のいまだ位に即給はざりける時、君は乞食の相御座(おはしま)すと申ければ、我帝位につきて乞食すべきにあらず、備へる相又難(レ)遁歟、御位以前に其相を果さんとて、西国(さいこく)の御修行あり。筑後国、江崎、小佐島と云所を通らせ給けるに、疲に臨み給(たま)ひたれ共、貢御進する者もなかりけり。網を引海人に魚をめされて、御疲を休めさせ給(たま)ひ、我位につきなば、必貢御にめされんと被(二)思召(一)(おぼしめされ)、其名を御尋(おんたづね)ありければ、■(はらか)と奏し申けり。帝位につかせ給(たまひ)て思召(おぼしめし)出つゝ、被(レ)召て貢御に備けり。其よりして此魚は、祝のためしに備ふと申。
吉野国栖とは舞人也。国栖は人の姓也。浄見原(きよみはら)の天皇(てんわう)、大伴王子に恐れて吉野の奥に籠り、岩屋の中に忍び御座(おはしまし)けるに、国栖の翁、粟の御料にうぐひと云魚を具して、貢御に備へ奉る。朕帝位に上らば、翁と貢御とを召んと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるによりて、大伴の
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王子を誅し、位に即て召れしより以来、元日の御祝には国栖の翁参て、梧竹に鳳凰の装束を給(たまひ)て舞ふとかや。豊の明の五節にも此翁参て、粟の御料にうぐ(有朋上P811)ひの魚を持参して、御祝に進る。殿上より国栖と召るゝの時は、声にて御答を申さず、笛を吹て参るなり。此翁の参らぬには五節始る事なし。斯る目出(めでた)き様ども、兵革火災に奉らず。>
S2503 春日垂迹事
二日天慶の例とて殿上の宴酔なし。男女打偸て、禁中の有様(ありさま)物さびしくぞ見えける。礼儀もことごとに廃ぬ。仏法(ぶつぽふ)皇法共に尽ぬる事こそ悲しけれ。四日南都の僧綱(そうがう)解官して公請をとゞめ所領を没収せらる。東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)、堂舎仏閣も塵灰となり、若も老も衆徒多滅して、たま/\残る輩は山林に身を隠し、便を求て跡を消して止住の人もなかりけるに、上綱さへ角なれば、南都は併亡畢ぬるにこそ、法相擁護の春日大明神(かすがだいみやうじん)、いかなる事思召(おぼしめす)らんと、神慮誠に知がたし。
< 此明神と申は、昔称徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、神護慶雲二年戊申に、白き鹿に鞍を置き、鞍の上に榊をのせ、榊の上に五色の雲聳き、雲の上に五所の神鏡と顕て、常陸国鹿島郡より、此大和国(やまとのくに)三笠山の本宮に垂迹し給し時は、御手に法相唯識卅誦を捧給(たまひ)て、跡をしめ御座(おはします)。今かく人法共に亡ぬれば、冥慮争か安からん(有朋上P812)と、覚たり。>
S2504 行(二)御斉会(一)并(ならびに)新院崩御(ほうぎよ)附教円入滅事
但し形様にても御斉会は被(レ)行べきとて、僧侶の沙汰有けるに、南都の僧は公請を止る由宣下せられぬ。されば一向天台の学侶ばかり請定歟、又御斉会を被(レ)止べきか、又延引有べきかの由、官外記の注文を召。彼申状に付て諸卿に被(レ)尋処に、南都北嶺は国家鎮護の道場、天台法相は天下泰平の秘要也、速に南都を棄置れん事いかゞ有べき、外記注進先例なきに似たりと各被(レ)申けるに依て、三論宗
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の僧に成実已講と云ふ者の、勧修寺に有けるを只一人召て、如(レ)形被(レ)行けり。法皇は世の角成行に付ても思召(おぼしめし)連けるは、我十善の余薫に依て万乗の宝位を忝(かたじけなう)す、四代の帝を思へば子也孫也、いかなれば清盛(きよもり)法師に万機の朝政を被(レ)止て年月を送るらんと、御心憂思召(おぼしめす)処に、剰へ東大興福の両寺(りやうじ)、仏法(ぶつぽふ)人法もろともに亡ぬれば、只竜顔より御涙(おんなみだ)をのみぞ流させ給(たま)ひける。懸る程に打副へ、新院(しんゐん)御所(ごしよ)には日比(ひごろ)世の乱を歎思召(おぼしめし)ける上、南都園城(をんじやう)の回禄に、いとゞ御悩(ごなう)重くならせ御座(おはしまし)ければ、何事の沙汰にも及ばずあやふき御事など聞えしかば、法皇不(レ)斜(なのめならず)御歎あり(有朋上P813)し程に、同(おなじき)十四日に、六波羅の池殿にて終に墓なく成せ給ふ、御歳僅(わづか)に二十一。内には十戒(じつかい)を持て慈悲を先とし、外には五常を守て礼儀を正くせさせ給(たま)ひければ、末代の賢王(けんわう)にて、万人是を惜み奉る事、一子を失へるが如し。まして法皇の御歎、理にも過たり。恩愛の道いづれも不(レ)疎ども、此御事は、故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御腹にて、一つ御所に朝夕なじみ奉らせ給(たま)ひき。御位に即給しまでは、副進らせ給しかば、其御志殊に深き御事也。去々年の冬、法皇鳥羽殿(とばどの)に籠らせ給(たま)ひし御事、不(レ)斜(なのめならず)歎思召(おぼしめす)より御病(おんやまひ)付せ給たりしが、南都の両寺(りやうじ)焼ぬと聞召(きこしめし)て其歎に不(レ)堪、つひに隠させ給けり。今夜やがて東山の麓、清閑寺と云山寺へ送り奉て、春の霞に類ひ、夕の煙と立のぼらせ給(たま)ひにけり。安居院法印澄憲、墨染の袖を絞りつゝ角思ひつゞけけり。
常に見し君がみゆきをけふとへば帰らぬ旅ときくぞ悲しき K130
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天下諒闇(りやうあん)に成て、雲の上人花の袂(たもと)を引替て、藤の衣に窄けり、哀也し御事也。興福寺(こうぶくじ)の別当権僧正(ごんのそうじやう)教円も、南都炎上(えんしやう)の煙の末を見て病付たりけるが、新院隠れさせ給ぬと聞て、病増りて失給(たま)ひにけり。心あらん人、誠に堪て住べき世とも見えざりけり。(有朋上P814)
S2505 此君賢聖并(ならびに)紅葉山葵宿禰附鄭仁基女事
凡此君幼稚の御時より賢聖の名を揚、仁徳の行を施す。御情(おんなさけ)深き御事共(おんことども)多かりける中に、去嘉応承安の比、御在位の始なりしかば、御年十歳ばかりにや、紅葉を愛せさせ給けるが、紅葉は秋の物也、秋は西より来るとて、西門の南脇に小山を築かせ、紅葉を立植て愛せさせ給(たま)ひけるに、仁和寺(にんわじ)の守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)より、櫨と鶏冠のもみぢの色うつくしきを二本進覧あり。新院何とか思召(おぼしめさ)れけん、是をば紅葉の山にはうゑられず、大膳大夫信成を召、この紅葉汝に預る也、明ては持参せよ、叡覧あらんとぞ仰ける。信成仰を蒙て宿所に帰り、乾泉水を造て紅葉を植、明ては御所へ持参し、晩れば宿所に持帰る、不(レ)損不(レ)折と心苦し給けるは、ゆゝしき大事にぞ有ける。或(ある)時(とき)信成物詣でとて出たりける跡に、田舎より仕丁の二三人上たりけるが、寒を禦ん為に酒を尋出し、あたためて飲んとしけるに、焼物のなかりければ、御所の内を走廻て尋る程に、坪の内の乾泉水の紅葉を尋得て、散々(さんざん)に折焼て酒をあたゝめて飲てけり。実に片田舎の者なれば、争か紅葉のやさしき事をも可(レ)知なれば、角振舞たりける也。信成下向し給(たまひ)て、先さし入紅葉を見給ふ(有朋上P815)に跡形もなし。よくよく尋問給(たま)ひければしか/゛\と申。信成手をはたと打て、こはいかにしつる事ぞ、如何なる御勘気にかあらんとて、彼仕丁を尋出し、縫殿の陣に誡置。御所より信成は下向歟、此両三日紅葉を御覧ぜ
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ねば御恋に思召(おぼしめし)、急ぎ持参せよ叡覧せんと御使あり。信成周章(あわて)参りて此由を奏聞せらる。新院やゝ御返事(おんへんじ)なし。去ばこそ大なる御不審蒙なんず、如何様(いかさま)にも廷尉に被(レ)下、馬部吉祥に仰て、禁獄流罪にもやと、恐れをののき居給たりけり。良有て御返事(おんへんじ)あり。信成よ歎思ふべきにあらず、唐の大原(たいげん)に白楽天と云人は、琴詩酒の三を友として、中にもことに酒を愛して諸を慰みけるに、秋紅葉の比仙遊寺に遊ぶとて、紅葉を焼て酒をあたゝめ、緑苔を払て詩を作けり。即其心を、
林間煖(レ)酒焼(二)紅葉(一)石上題(レ)詩払(二)緑苔(一) K131
と書遺し給へり。かほどの事をば浅増(あさまし)き下揩ノ誰教へけん、最やさしくこそ仕たりけれと、叡感に預りける上は子細に及ばず。あやしの賤男賤女までも、角御情(おんなさけ)を懸させ給(たま)ひければ、此君千秋万歳とぞ祈申ける。去共憂世(うきよ)の習こそ悲しけれ。又建礼門院(けんれいもんゐん)御入内の比、安元(あんげん)の始の年、中宮の御方に候ける女房の、召仕ける女童二人あり。一人をば葵、一人をば宿禰とて、葵は美形世に勝れたりけれ共、心の色少し劣れり。宿禰はみめ形は(有朋上816)挿絵(有朋上P817)挿絵(有朋上P818)ちと劣りたりけれ共、心の色は深かりけり。主上不慮に、始は葵を召れけるが、後には心の色に御耽ありて、宿禰に思召(おぼしめし)つかせ給つゝ、類ひなき御事也ければ、彼女房竜顔に近付進らせて立さる事もなし。白地の御事にもあらで、夜々(よなよな)是を被(レ)召て御志深く見えさせ給ければ、主の女房も召仕ことなく、還て主の如くにいつきかしづき給(たま)ひけり。此事天下に漏聞えければ、時の人古き謡詠に云事有とて、
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文を引て云、生(レ)女勿(二)悲酸(一)、生(レ)男勿(二)喜歓(一)、男不(レ)封(レ)候、女は作(レ)妃と、只今(ただいま)此女房、女御后にも立、国母仙院とも祝れ給なん、ゆゝしかりける幸哉と披露すと聞召(きこしめし)て後は、敢て召るゝ事なし。御志の尽させ給ふには非ず、世の謗を思召(おぼしめし)ける故也。されば常は御ながめがちにて、夜のおとゞにぞ入らせ給ける。此事大殿聞召(きこしめし)て、心苦き御事にこそとて参内あり。奏し申させ給けるは、叡慮に懸らせ御座(おはしま)さん御事、歎思召(おぼしめ)さん事いと忝(かたじけな)く侍り、何条御事か候べき、只件の女房を召るべきにこそ、俗姓尋るに及ぶべからず、忠通猶子にし奉べしと仰ければ、いざとよ、位すべらせ給(たまひ)て後はさることあり共聞召、正く在位の時袙など云ず、そもなき怪振舞する程の者の、身に近付く事を不(二)聞召(一)、朕が世に始伝へん事、後代の誹なるべしと勅定ありければ、大殿御涙(おんなみだ)を押拭はせ給(たまひ)て、ゆゝしき賢皇哉と思召(おぼしめし)御退出あり。其後主上(有朋上819)なにとなき御手習の次に、古き歌を書すさませ給(たま)ひける中に、緑の薄様のことに匂深きに、
忍れど色に出にけり御恋はものや思ふと人の問ふまで K132
と遊ばしたりけるを、御心知の四位(しゐの)侍従守貞と云者、此歌を取て宿禰にたびたりければ、是を給(たまひ)て懐に引入て、心地例ならず覚て、里に出て引被臥にけり。煩事三十(さんじふ)余日ありて、彼歌を■(むね)にあてて、終に墓なく身まかりにけり。主上被(二)聞召(一)(きこしめされ)て御涙(おんなみだ)にむせばせ給けり。為(二)君一日之思(一)、誤(二)妾百年之身(一)、寄(二)言痴(一)少人家女、慎勿(二)将(レ)身軽許(一)(レ)人と誡たり。女の為も不便也、朕が為も世の誹也とて、深く歎思召(おぼしめし)ても、御恋しさにや御涙(おんなみだ)を流させ給ぞ忝(かたじけな)き。
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< 唐大宗は、鄭仁基と云人の娘、美人の聞えありければ、召て元花殿に入らんとし給(たま)ひしを、魏徴大臣の、彼女既(すで)に他夫に約せりと諌申ければ、殿にいるゝ事を留められけるには、猶まさらせ給たる御心なりとぞ申ける。>
S2506 時光茂光御方違盗人事
又殊に哀なる御事ありき。去し安元(あんげん)二年の七月に、御母儀(おぼぎ)建春門院(けんしゆんもんゐん)隠させ給(たま)ひけり。(有朋上P820)主上今年は十五にぞならせ給(たま)ひける。不(レ)斜(なのめならず)御歎ありて、御寝膳も御倦き程なりけり。帝王御暇の間は定れる習にて、廃朝とて、十二月の程万機の政を留めらるゝ事あり。但孝行の礼はさる事なれ共、朝政を止る事、天下の歎なる故に、一日を以て一月に宛て、十二日を以て十二月に准て御色の服をめす。十二日過ぬれば御除服とて、御色を召替る事なれば、此君も御母儀(おぼぎ)隠れさせ給(たまひ)て後、十二日を過させ給(たま)ひければ、公卿殿上人(てんじやうびと)参会して御除服ありけるに、不(レ)斜(なのめならず)御歎なれば、参給へる人々も、問ふにつらさの風情もやとて、御母儀(おぼぎ)の御事申出す人もなし。君も何となき様にもてなさせ給けるが、猶も御気色(おんきしよく)処せきの御ためし也。高倉中将泰通朝臣参りて御衣を進せ替、御帯を当進らせけれ共、結びもやらせ給はざりければ、御後より結び進らせけるに、母后の御名残(おんなごり)の色の御衣、今を限と召替ると思召(おぼしめし)けるにや、御涙(おんなみだ)の温々と落けるが、泰通の手に懸ければ、不(レ)堪して同く涙を流しけり。是を見進らせける卿上(けいしやう)雲客(うんかく)、皆直垂の袖を絞る。君も竜顔に御衣の袂(たもと)を当させ給(たまひ)て、やがて夜の御宿殿へ入せ給(たま)ひ、御涙(おんなみだ)にむせばせ給けるぞ悲しき。
又金田府生時光と云笙吹と、市允茂光と云篳篥吹あり。常に寄合て囲碁を打て、果頭楽の唱歌をし
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て心を澄しぬれば、世間の事公私につけて、何事も心に入ざる折節(をりふし)、内裏(有朋上P821)よりとみの御事ありて、時光を被(レ)召けり。いつもの癖なれば、時光耳にも聞入ず。勅使こは如何にといへども不(レ)驚。家中の妻子所従までも大騒て、如何にいかにと勧めけれ共、終聞ざりければ、御使力及ばず、内裏に参て此由を奏聞す。何計の勅勘にてかあらんと思ける処に、主上仰の有けるは、勅命を不(レ)顧、万事を忘て心を澄し、面白かるらんやさしさよ、王位は口惜き者哉、さやうの者共に行て伴はざるらん事よとて、御涙(おんなみだ)を流し御感有ければ、事なる子細なし。
又去安元(あんげん)元年十二月に、御方違の行幸の夜、鶏人暁唱ふ声明王(みやうわう)の眼を驚す程に成りにけり。主上はいつも御ねざめがちにて、王業の艱難を思召(おぼしめし)つゞけ御座(おはしま)しけり。折しもさゆる霜夜なり。天気殊に烈しかりければ、いとゞ打解御寝もならず、彼延喜聖主、四海の民いかに寒かるらんとて、御衣をぬぎ給けん事思召(おぼしめし)出て、帝徳の不(レ)至事を歎思召(おぼしめし)、御心を澄して渡らせ給(たま)ひけるに、遥なる程とおぼしくて女の泣音しけり。供奉の人々は聞とがむる事もなし。主上聞召咎めさせ給(たまひ)て、上伏したる殿上人(てんじやうびと)を召て、上日の者や候、只今(ただいま)遠所に叫音のするは何者(なにもの)ぞ、急ぎ見て参れと御気色(おんきしよく)あり。殿上人(てんじやうびと)承て、本所の衆に仰す。所の衆、急ぎ行て見れば、怪げなる女童の、長持の蓋を提てさめ/゛\と泣。事の次第を尋るに、女答て云く、童が主の朔日の出仕に奉ら(有朋上P822)んとて、只一つ持せ給へる御里を沽て、仕立させ給へる御装束を持て御局へ参つるを、男の二三人詣できて奪取りてまかりぬるぞや、取替の御装束があら
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ばこそ御所にも渡らせ給ふべき、御里があらばこそ立も入せ給はめ、責ては日数も候はばや、又も仕立させ給はめ、親き人渡らせ給はねば、如何にと訪進らする事も侍るまじ、此事思連るに、余に悲く候へば、只今(ただいま)消も失なましきとまで思侍れ共、そも叶はずと申して又足摺して喚叫。所の衆帰参て此由角と奏し申ければ、君聞召(きこしめし)て、如何なる者のしわざにか有らん、誠に悲かるべき事にこそ。昔夏の禹王犯せる者を罪すとて、涙を流し給ければ、臣下諌て云、罪犯者不(レ)足(レ)憐と申ければ、禹王答て云、堯代之民、以(二)堯心(一)為(レ)心、故人皆直、今代之民、以(二)朕心(一)為(レ)心、故姦犯(レ)罪、何不(レ)悲哉と歎給(たま)ひけり。されば朕が意の直しからぬ故に、朝に姦者のあて法を犯す、これ偏(ひとへ)に朕が恥なりとて、御涙(おんなみだ)を流させ給(たま)ひつゝ、彼女童を被(レ)召て、とられにける装束は何色ぞと問はせ御座(おはしまし)ければ、しか/゛\と申けり。中宮の御方に、左様の御衣や候と召されければ、とられつる衣よりも猶清らかに厳を被(レ)参たりければ、件の女童にたびてけり。はや明方の事也けれ共、又もぞさるめにも値とて、上日の者の送りつゝ、主の女房の許へぞ被(レ)遣ける。有難き御情(おんなさけ)(有朋上P823)なり。
S2507 西京座主祈祷事
< 堀川院(ほりかはのゐんの)御宇(ぎよう)、きはめて貧き所衆あり。衆のまじらひすべきにて有けれ共、いかにも思立べき事なし。此事いとなまでは、衆にまじはらん事叶ふまじ。縦世に立廻る共人ならず、懸る身は、あるに甲斐なき事なれば、出家入道して行方知ず失なんとぞ思成りにける。されば日来の前途後栄も空くなり、年比の妻子所従も遺惜く、朝夕に参つる御垣の内を振捨て、山林に流浪せん事も悲く、前世の戒徳の薄さも被(二)思知(一)て、唯泣より外の事なし。主上は兼て近習の女房侍臣などに、内々仰の有けるは、卒土の浜皆王民、
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遠民何踈、近民何親、普恵を施ばやと思召(おぼしめせ)共、一人の耳四海の事を聞ず、是大なる歎き也。帝徳全く偏頗を存るに非ず。されば黄帝は四聴四目の臣に任せ、舜帝は八元(はちげん)八ト臣に委すともいへり。然共遠事は奏する者もなければ、本意ならぬ事も多くあるらん、聞及事あらば、必奏し知しめよと仰置せ給たりければ、或女房、此所衆が泣歎きける有様(ありさま)をこま/゛\に申上たりければ、無慙の事にこそと計にて、又何と云仰もなし。申入たる女房も、思は(有朋上P824)ずに覚えて候ける程に、西京の座主良真僧正(そうじやう)を召て、被(二)宣下(一)けるは、臨時の御祈祷(ごきたう)あるべし、日時并何の法と云事は、思召(おぼしめし)定て逐て被(二)仰下(一)べし。先兵衛尉の功を一人召仕て、今度の除目に申成べしと仰含らる。僧正(そうじやう)勅命に依て、成功の人を召付けて貫首に申ければ、除目に会て即成にけり。其比の兵衛尉の功は、五万匹なりければ、是を座主の坊に納置て、日時の宣下を相待進らせけれども、日数を経ける間に、僧正(そうじやう)参内して、成功五万匹納置て候、臨時の御修法日時の宣下、思召(おぼしめし)忘たるにやと驚し奏せられたり。主上の仰には、遠近親踈をいはず、民の愁人の歎を休ばやと思召(おぼしめせ)ども、下の情上に不(レ)通ば、叡慮に及ばざる事のみ多かるらん。御耳に触る事あらば、其恵を施さんと思召(おぼしめす)処に、某と云本所の衆あり。家貧に依つて衆の交り叶ひ難くして、既(すで)に逐電すべしと聞召、さこそ都も捨がたく、妻子の遺も悲く思ふらめなれば、件の兵衛尉の成功を彼に給(たまひ)て、其身を相助ばやと思召(おぼしめし)、一人が為に其法を枉るにもやあるらん、聖主は以(レ)賢為(レ)実、不(レ)以(二)珠玉(一)と云事あれば、憚り思召(おぼしめせ)ども、明王(みやうわう)は有(レ)私、人以(二)金石珠玉(一)、無(二)私人(一)以(二)官職(一)事(レ)業と云事も又あれば、何かは苦しかるべき、世に披露は御憚あり、良真が私に賜体にもてなすべし、御祈(おんいのり)は長日の御修法に過べからずと仰ければ、僧正(そうじやう)衣の袖を顔にあて(有朋上P825)て泣給へり。さすが御年もいまだ老すごさせ給はぬ御心に、かばかり民をはぐくむ御恵、忝(かたじけなく)ぞ思ひ進らせ給ふ。やゝ暫くありて御返事(おんへんじ)被(レ)申けるは、何の大法秘法と申候とも、是に過たる御祈祷(ごきたう)侍まじ、縦良真微力を励して勧め奉らん御祈(おんいのり)、なほ
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百分が一つに及べからずと申て、泣々(なくなく)御前を退出して、やがて彼所の衆を西京の御坊に召て、勅命を仰含て五万匹を給たりければ、只泣より外の事ぞなかりける。彼ためしに露たがはせ給はずとぞ申ける。>
S2508 小督局事
小松殿(こまつどの)薨給(たまひ)て後は、人の心さま/゛\に替り、不思議の事のみ多し。今又此君の隠させ給ぬるも、国の衰弊也、人の歎也。御病(おんやまひ)の付せ給ふ事も入道の悪行の至り、恋の御病(おんやまひ)とこそ聞えし。桜町中納言重範卿の女に、小督殿とて世に類なき美人、琴の上手にて御座(おはしまし)けるが、令泉大納言(だいなごん)隆房卿の未少将にて、見初給し女房也。少将彼形勢(ありさま)を伝聞て、忍の玉章を被(レ)遣けれ共、女房なびく心もおはせざりけるを、度々文を送られける程に、年月も隔り三年にも成ぬ。玉章の数も積りければ、小督殿さすが情に弱る心にや、終には靡き(有朋上P826)給けり。少将見初給(たまひ)て幾程もなかりしに、美人の聞えありて内へぞ被(レ)召進らする。少将はつきぬ志しなれ共、勅命力及ばず、飽ぬ別の涙には、袖しほたれてほしあへず、責ては小督殿をよそながらも一目見奉る事もやとて、其事となけれ共日毎(ひごと)に参内せられけり。此女房のおはしける御簾のあたりを、彼方此方へたゝずみありき給へ共、小督殿自君に被(レ)召進らせなん上は、いかに思ふ共、言をもかはし文をも見べきに非ずとて、伝の情をだに懸られず。少将もしやとて一首の歌を読けり。
思ひかね心のおくは陸奥のちかの塩がまちかきかひなし K133
と書て、引結、御簾の内へぞ入給ける。小督殿さしも志深かりし中なれば、取上返事をもせばやと
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は思召(おぼしめせ)共、君の御為御後めたしとて、手にだに取て見給はず、急ぎ上童にたびて、坪の内へぞ被(レ)出ける。少将情なく恨しく思はれけれ共、人もこそ見れとて、取て懐に入て出られけるが、又立帰給ふ。
玉章を今は手にだにとらじとやさこそ心に思ひ捨つとも K134
とくちすさみ宿所に帰り、今は憂世(うきよ)にながらへて、互の姿をあひみん事も有難し、生て物を思はんより、只死ばやとぞ泣給(たま)ひける。中宮と申は御女(おんむすめ)、少将は聟也。二人の聟を小督(有朋上P827)殿にとられ給(たま)ひ、太政(だいじやう)入道(にふだう)安からず腹を立給(たま)ひ、いや/\此事、小督があらん限は此世中よかるべし共覚えず、急ぎ召出して可(レ)失とて■(ののし)り給(たま)ひける。小督殿此由伝聞給(たま)ひ、我つれなくながらへて、君の御為御心苦し、いづくの所にても、身独りこそ如何にもならめとて、ある夕暮に内裏を潜に忍出て、かき消すやうに失給(たま)ひぬ。君は聞召、御悩(ごなう)とて夜のおとゞに入せ給(たま)ひ、夜は南殿に出御ありて、月の光を叡覧ありてぞ慰ませ給ける。太政(だいじやう)入道(にふだう)此事聞給(たま)ひ、君は小督殿故に思召(おぼしめし)入せ給けり、其義ならば御介錯の女房達(にようばうたち)、一人も付進らすなとて、中宮をば六波羅へ行啓なし進らせ、参内せられける臣下達をも妬申されければ、入道の権威に恐て参り寄人もなし。禁中さびしくならせ給(たま)ひ、いとゞ御思深かりけり。比は八月十日余(あまり)の事なれば、さしも陰なき月なれども、御涙(おんなみだ)にくもりつゝ、朧に照す空なれや、小夜更人静りて、主上、人やある参れ、人やあると被(レ)召けれども、御いらへ申者もなし。折節(をりふし)弾正少弼仲国参たりけるが、隔たる所にて是を承り、仲国と御いらへ申。近く参れ可(二)仰下(一)御事ありと勅定
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ありければ御前に参る。目近く召して、如何に汝は小督がゆくへ知たりやと仰ければ、争か知進らせ候べきと奏す。重ての仰に、誠とやらん、小督は嵯峨(さが)の辺に片折戸したる所にありとばかりは聞召ししか共、其あるじ(有朋上P828)の名をば不(レ)知、かゝらましかば兼て委く聞召べかりけるぞとよ。汝主が名をば不(レ)知とも、尋て進らせてんやと仰けるに、嵯峨(さが)広き所にて、名を不(レ)知しては争か尋進らせ候べきと申せば、君誠にもとてやがて御涙(おんなみだ)に咽せ給けり。仲国見進らせて忝(かたじけな)く悲く思ひ、実や小督殿の琴弾給しには、仲国被(レ)召て必御笛の役に参き。其琴の音はいづくにても慥に聞知らんずる者を、今夜は名にしおふ八月十五日の月の夜也、折節(をりふし)空も陰なし、君の御事思召(おぼしめし)出て、琴引給はぬ事よもあらじ、嵯峨(さが)の在家広しといへ共、思ふに幾程か有べき、王事無(二)脆事(一)、打過て琴の爪音を指南として、などか尋逢進らせざるべき、縦今夜叶はずば、五日も十日も伺聞なん、博雅の三位は三年まで、会坂の藁屋の軒に通つゝ、流泉、啄木の二曲を聞てもこそ有けれと思ひければ、不(レ)叶までも尋進らせん、若尋会進らせて候とも、御書なくてうはの空にや思召(おぼしめさ)れ候はんずらんと申ければ、君実にもとて、よにも御嬉しげに思召(おぼしめし)、御書遊ばして仲国に給ふ。程も遥也、寮の馬に乗てと仰す。仲国明月に鞭をあげて、西を指て浮岩行。八月半ばの事なれば、路芝におく露の色、月に玉をや瑩くらん。我ならぬ在原業平が、男鹿啼その山里と詠じけん嵯峨(さが)のあたりの秋の比、さこそは哀に覚えけめ。片折戸したる所を見付(みつけ)ては、此内にもや御座らんと、ひかへ(有朋上P829)/\聞けれ共、琴弾所もなかりけり。打廻
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打廻、二三返まで聞けれ共、我のみ疲て甲斐ぞなき。内裏をばよにも憑しげに申て出ぬ、さて空く帰り参りたらば、中々不(レ)参よりも悪かるべし、是より何方へも落行ばやと思へ共、いづくか王土にあらざる、身を隠べき宿もなし、さて又君の御歎き、誰人か慰め進らせんと思ひければ、只狩衣の袖を絞て良久ぞたちやすらふ。是より法輪は程近ければ、そも参給へる事もやとて、そなたへ向てあゆませ行。亀山(かめやま)のあたり近、松の一叢ある方に、幽に琴こそ聞えけれ。峯の嵐か松風か、尋ぬる君の琴の音かと覚束(おぼつか)なく思ひ、駒をはやめて行程に、片折戸の内に琴をぞ引澄したる。手綱をゆらへて聞ければ、少しも可(レ)違もなき小督殿の爪音なり。楽はなにぞと聞ければ、夫を想て恋と読、想夫恋と云楽也。仲国急ぎ馬より飛び下り、やうぢようぬき出し、ちと合て立寄り、門をほと/\と扣けば、琴をば弾やみ給(たま)ひけり、内裏より仲国御使に参り侍り、開かさせ給へ、御気色(おんきしよく)申さんといへ共、答る人もなし。良ありて鎖をはづし門をほそめにあけて、いたいけしたる小女房顔ばかり指出だし、人違歟所違歟、あやしき賤が庵也、さやうに内裡より御使給べき所に侍らずと云ければ、仲国中々とかく返事せば門たてて鎖さして、悪かりなんと思ひければ、押開てぞ入にける。妻戸(有朋上P830)の縁により居て申けるは、いかに加様の御住居(おんすまひ)にて御座(おはしまし)候やらん、君は御故に思召(おぼしめし)入せ給(たま)ひ、つや/\貢御も聞召さず、打解御寝もならせ給はねば、御命も危く見えさせ給ふ者をや、加様に申侍ば、うはの空にや思召(おぼしめさ)るらん、御書の候とて取出て是を奉る。有つる女房取次て小督殿に進らする。急ぎ披き見給へ
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ば、げにも君の御書也けり。哀に忝(かたじけな)くおぼしければ、御書を顔にあて給(たま)ひ、いかにせんとぞ泣給ふ。さらぬだに馴にしよはの眤言は、思出つゝ悲きに、雲井の空の月影に、涙の露ぞ置まさる。仲国が待らんも心苦く思ふらんと思召(おぼしめし)、御返事(おんへんじ)あそばし引結、女房の装束一重取副、簾のそとへ推出さる。御形見かと覚えて哀なり。仲国給(たまひ)て左の肩に打懸て申けるは、余(よ)の御使にて候はば、角御返事(おんへんじ)の上は、兎角可(二)申入(一)身に候はね共、内裏にて御琴あそばされし御笛の役には仲国こそ被(レ)召しか、其奉公をばよも御忘あらじ、いまだ御忘候はずば、御返事(おんへんじ)を直に承て奏聞申さばやと聞えければ、女房誠にもやと思召(おぼしめし)けん、近居出て宣(のたま)ひけるは、さればこそ其にも聞給へる様に、入道の世にも怖き事共申すと聞侍りしかば、難面存へて我も憂目を見ば、君の御為も御心苦し、いづくのいかならん所にても、我身一人こそ消も失なんと思ひ、内裏をば潜に忍出ぬ。いかならん淵河にも入、如何にも成べかりしか共、(有朋上P831)住馴し人々の行へをも聞、今一度君の御言伝をもや承と思ひ、所縁ありて是に此程侍りつれ共、伝を承事もなし。思へば中々身も苦し、明日よりして大原(おほはら)の別所に思立事候て、今夜を限の名残(なごり)を惜み、主の女房に勧められ、手馴し琴が忘られで、今夜しも引てこそ安は聞知れぬれやとて泣かれければ、仲国も表衣の袖絞るばかりに成にけり。良有て申けるは、大原(おほはら)の別所と承は、御様(おんさま)をかへんとにや、君の御免されなくては、争か御姿をも替させ給ふべき、如何様(いかさま)にも重て御使は参候はんずらん、縦出んと仰すとも、左右なく出し進らさせ給ふなと、彼家の主の女房に申置、召具したる
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馬部吉祥を二三人留置、彼家を守護せさせ、我身は内裏へ馳参る。内裡をば亥刻計に出たれ共、通(レ)夜(よもすがら)嵯峨野の原に迷つゝ、秋夜長といへ共、内裏へ帰り参りたれば、夜はほの/゛\と明にけり。君は定て御寝こそ成たるらめ、誰してか可(二)奏入(一)と思、装束をば駻馬の障子に打懸、寮の御馬をつながせて南殿の方にさし廻て見進らすれば、未入御もならざりけり。夜部の御座にまし/\、待兼させ給へりと覚たり。仲国が参を御覧じて、詩一つ詠させ給(たま)ひけり。
南翔北 嚮 難(レ)附(二)寒温於秋雁(一) 東出西流 只寄(二)瞻望於暁月(一)
と御詠ありけるに、仲国尋会進らせて候とて、御返事(おんへんじ)をぞ指上たる。急ぎ披て叡覧あれ(有朋上P832)ば、げにも小督局が手也けり。穴無慙や未憂世に有けるや、何としてか尋会たりけるぞと御気色(おんきしよく)ありければ、御琴の音にと申。如何なる楽をか弾つると有ければ、想夫恋をこそあそばされ候つれと奏すれば、朕が事忘れず思出けるにやとて、又御涙(おんなみだ)をはら/\と流させ給ぞ哀なる。誰してか被(レ)召べきなれば、汝帰りて具して参れとぞ仰ける。仲国承り御前を立けるが、恐し太政(だいじやう)入道(にふだう)に聞付られ、如何なる目にかあはんずらんと思けれ共、綸言なれば争か奉(レ)背べき、縦被(二)召出(一)被(レ)刎(レ)首とも、いかゞはせんと思ひ、宿所に帰牛車支度して嵯峨(さが)に参り、御気色(おんきしよく)のよし申ければ、小督殿、我再憂目にあはんより、此次にこそいかにもならめと宣(のたま)ひけるに、主の女房共に様々誘申ければ、泣々(なくなく)内裏へ帰給ふ。君不(レ)斜(なのめならず)御悦ありて、或局に召置せ給(たま)ひけり。其御腹に姫宮一人出来させ給(たま)ひけり。後に坊門に女院と申し
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は、彼姫宮の御事也。平家の方様をば深くつゝしませ給(たま)ひけるに、入道何としてか聞付給(たま)ひたりけん、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)を召て、やゝ季定、小督失たりとは君の御虚言にて有けるぞ、未内裏に候なり、急ぎ召出して可(レ)失とぞ宣(のたまひ)ける。季定承、所縁を以て小督殿をすかし出し奉り、入道に角と申しければ、流石(さすが)女などを失なはん事は世の聞えも不(二)穏便(一)、たゞ姿を替て追放て、さてぞ君は思召(おぼしめし)捨させ給はんずると宣(のたま)ひければ、(有朋上P833)季定承り、目もあてられず思ひけれ共、東山の麓、清閑寺と云所に具足し奉り、姿を替させ奉る。ひすゐのたをやかなるを剃下し、花色衣の御袖を、うき世を徐の墨染に替けるこそ悲しけれ。此を見奉りける人、上下袂(たもと)を絞りけり。今は疾々御心に任せとて、在所も不(レ)定追放つ。此女房と申は、大織冠の御孫、淡海公には一男、武智麿より十二代、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の孫也。かく竜顔に近付進らする上は、国母后に祝れ給はん事も難かるべきにあらず。平家は下国の守をだにもきらはれて、只今(ただいま)家を起したる人ぞかし、さまでの振舞情なしとぞ人唇を返しける。桜町中納言は最愛の女子を加様にせられ給ふ、如何にすべし共思ひ給はねば、しば/\篭居とぞ聞えける。冷泉少将此由聞給(たま)ひ、あな無慙や、さては終にさまたげられにけり、尋行訪ばやと思はれけれ共、入道のかへりきかん事を恐て、思ひながらさてやみ給ふ。新尼御前は、出家は本より思ひ儲し事なれ共、敢無く人に姿をかへられて、如何なる事をか被(レ)思けん、さして行べき方も覚えねば、泣々嵯峨(さが)へ帰給ふ。暫く爰(ここ)に御座(おはしまし)けるが、後には大原(おほはら)の別所に閉篭り、行澄し給けり。御歳廿三歳、しかるべき形なり。主上は聞召、朕天子の
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位にて、これ程の事を叡慮に任せぬ事こそ安からねと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けれ共、世に披露はなかりけり。深く思召(おぼしめし)出たる時は、只(有朋上P834)御悩(ごなう)とて夜のおとゞへ入せ給けり。小督の局の心ならず尼になされたる所なれば、御なつかしく思召(おぼしめし)けるにや、朕をば必清閑寺へ送り納めよと御遺言(ごゆいごん)の有けるこそ御愛執の罪と云ながら哀なれ。入道は斯る悪行し給(たまひ)て、流石(さすが)おもはゆくや被(レ)思けん、福原へ下給(たま)ひにけり。
S2509 前後相違無常事
小督局かく事にあひぬと聞召し後は、御恋も御うらめしくも思召(おぼしめ)して、つや/\供御も参らず、只夜のおとゞに入せ給(たま)ひて、長き冬の終夜(よもすがら)、御ながめがちにて明し暮させ給(たま)ひけるに、打続き南都炎上(えんしやう)の事聞召(きこしめし)て、いとゞ御悩(ごなう)重らせ給(たまひ)て、終に隠させ給(たま)ひにけり。凡此君仁風卒土に覆ひ、高徳配天に顕る。有道の政無偏の恵、誠に堯、舜、禹、湯、周文、武、漢文帝と聞えしも角やとぞ覚えし。されば後白河法皇の仰には、代を此君につがせ奉りたらましかば、恐くは延喜天暦の昔にも立帰なんとこそ思召(おぼしめし)つるに、先立せ給(たま)ひぬれば、我身の御運の尽るのみにあらず、国の衰弊なり、民の果報の拙が故也とぞ嘆かせ給(たま)ひける。近衛院隠れさせ給たりしに、故院の御歎ありし事、挙賢、義孝兄弟二人、(有朋上P835)先少将後少将とてはなやかにうつくしきが、二十計にて一日の中に失給(たま)ひたりしを、父一条の摂政(せつしやう)〈 伊尹 〉謙徳公同北方の被(レ)歎事、後江相公朝綱の子息澄明に後て仏事修しける願文に、悲之亦悲、莫(レ)悲(二)於老後(一)(レ)子、恨而更恨、莫(レ)恨(二)於少先(一)(レ)親、雖(レ)知(二)老少之不定(一)、猶迷(二)前後之相違(一)と自書て泣けんも、御身に被(レ)知御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず。永万(えいまん)
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元年七月廿八日に、二条院も御歳廿三にて失させ給ぬ。安元(あんげん)二年七月十九日に、六条院も御歳十三にて隠れさせ給(たま)ひぬ。治承四年五月廿四日に、高倉宮(たかくらのみや)も討れさせ給ぬ。安元(あんげん)二年七月七日、比翼の鳥、連理の枝と、天に仰ぎ星を指て御契深かりし建春門女院も、秋の霧におかされて、朝の露と消させ給にき。会事稀なる織女も、七月七日を限として、天河逢瀬を渡る習あり。偕老同穴の玉の台を並しに、今日しもいかなれば永別に咽らんと、年月は隔れ共、昨日今日の御憐の様に被(二)思召(一)(おぼしめされ)て、御涙(おんなみだ)も未かわかせ給はぬに、現世後生深く憑み思召(おぼしめし)つる新院も、先立せ御座ぬれば、何事に付ても、今は御心弱くならせ御座(おはしま)して、いかゞなるべし共思召(おぼしめし)わかず。老少不定は人間の定れる習なれ共、前後の相違は生前の御恨なほ深し、人の親の子を思ふ道、おろかに頑なるすら猶悲し、況万乗の聖主、末代賢王(けんわう)に於てをや。近く召仕給(たま)ひし輩眤思召(おぼしめす)人々、或は流され(有朋上P836)或は討れにしかば、御心やすまらせ給ふ御事もなかりつるに、打副又此御歎あり。是につけても一乗(いちじよう)読誦(どくじゆ)の御勤も怠らず、三密行法の御薫修も積れり。今生の御事は露思召(おぼしめし)捨させ給(たまひ)て、只来世得脱の御祈(おんいのり)のみありける。中にも我十善の余薫に酬て、万乗宝位を忝(かたじけな)くす、四代の帝王を思へば子也孫也。いかなれば万機の政務を被(レ)止て年月を送らんと、日来の御歎も浅からず思食(おぼしめし)ける上、新院の御事に、雲の上人花の袂(たもと)を引替て、皆藤の衣に改るに付ても、御心憂しと思召(おぼしめし)連けり。
S2510 入道進(二)乙女(一)事
太政(だいじやう)入道(にふだう)は、此程痛く情なく振舞し事、悪かりけりと思ひ給(たま)ひけるにや、正月廿七日に、安芸の国厳島の内侍が腹に儲けたりける第七
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の乙娘の今年十八に成り給(たまひ)けるを、法皇の御所に進せられけり。上搶蘭[数多選ばれ給(たま)ひける中に、鳥飼中納言伊実卿の御娘も御座(おはしまし)けり、大宮殿(おほみやどの)とぞ申ける。高倉院(たかくらのゐん)隠れさせ給(たま)ひて、今日は二七日にこそ成けれ、御歎の最中也。いつしか懸べし共覚えず、公卿殿上人(てんじやうびと)供奉して、偏(ひとへ)に女御入内の様也。是に付ても法皇は、こは何事ぞと御冷く思召(おぼしめさ)れければ、後には中々伊実卿の御娘、大宮殿(おほみやどの)(有朋上P837)ぞ御気色(おんきしよく)はよかりける。又一条大納言(だいなごん)の御娘に近衛殿(このゑどの)と申女房も御座(おはしまし)けるが、是も御気色(おんきしよく)よかりければ、御■[*女+夫]の実保伊輔二人、一度に少将に成れなどして、ゆゝしく聞えける程に、相模守業房が後家、忍て被(レ)召けるに、姫宮出来させ給(たま)ひにけり。大宮殿(おほみやどの)、近衛殿(このゑどの)、二人の上搶蘭[、本意なき事に思ひけれ共力なく、後には大宮殿(おほみやどの)は、平中納言親宗卿、時々通ひ給(たま)ひけり。近衛殿(このゑどの)には、九郎判官義経一腹の弟に、侍従義成と云人、通ひ給(たま)ひけり。義成は判官の世に在し程は、武芸立ゆゝしく見えしか共、判官兵衛佐(ひやうゑのすけ)に中違て、西国(さいこく)へ落し時は、義成は紫の取染の唐綾の直垂に、萌黄匂の鎧著て、白葦毛の馬に乗けるに、判官の後にうちたりけるが、大物が浜にてちり/゛\に成りけるに、義成和泉国へ落隠れたりけれ共、虜れて鎌倉へ被(二)召下(一)、上総国へ被(レ)流て、三年ありけるとかや。(有朋上P838)