『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十七
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於巻 第二十七
S2701 墨俣川合戦附矢矯川軍(やはぎがはいくさの)事
養和元年三月十日、頼朝(よりとも)追討の為に東国へ下りし頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡、権亮少将維盛已下七千(しちせん)余騎(よき)は、尾張国墨俣の西の川原に陣を取て、東国源氏を禦がんとす。新宮の十郎蔵人行家は、千余騎(よき)の勢にて、東の河原に陣を取て、西国(さいこく)の平氏を下さじとす、両方を隔て引へたり。故下野守義朝(よしとも)の子息、常葉が腹の子に、卿公義円と云僧あり。是は九郎義経の一腹の兄也。十郎蔵人に力を合よとて、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)千余騎(よき)の勢を被(レ)付たりけるが、是も墨俣河原に馳付て、十郎蔵人の陣二町を隔て陣を取、平家は西の河原に七千(しちせん)余騎(よき)、源氏は東河原に二千(にせん)余騎(よき)、明る十一日の卯刻には源平の矢合と聞ゆ。是に行家と義円と互に先を心に懸たり。卿公義円は、十郎蔵人に先を被(レ)懸ては、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に面を合すべきかと思て、人一人も召具する事なし。唯一人馬に乗て、陣より上二町計歩せ上て、河を西へ渡す。敵の陣の前、岸の下に引へたり。行家夜の曙に、時を造て河をさと渡さん時、爰よ(有朋下P042)り義円、今日の大将軍と名乗て先陣を懸んと思て、東や白む夜や明ると待居たり。平家の方には、源氏世討にもこそよすれとて、夜廻を始て、十騎(じつき)二十騎(にじつき)計、手々に続松捧て川の耳を見廻けるに、岸の下に馬を引立て、其傍に人一人立たり。夜めぐり是を見咎めて何者(なにもの)と問に、義円少も騒ず、是は御方の者にて候が、馬の足冷候と答。御方ならば甲を脱
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で名乗れと云ければ、馬にひたと乗て陸へ打上り、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)の弟に、卿公義円と云者也と名乗て、夜廻の中へ打入て、竪様横様に散々(さんざん)に戦。三騎討捕て二人に手負せて、義円是にて討れにけり。十郎蔵人是をば不(レ)知、卿公や先に進む覧と思て、使を遣して見せけるに、大将軍見え給はずと云ければ、去ばこそとて十郎蔵人打立けり。千騎(せんぎ)の勢を、八百騎をば陣に留め、今二百騎を相具して、河をさと渡し、平家の陣へ懸入たり。夜の明方の事なりければ、未世間も暗かりけり。平家は、敵多勢にて夜討に寄ると心得(こころえ)て、火を出して見れば僅(わづか)に二百(にひやく)余騎(よき)と見て、少勢にて有けりやと云ひて、七千(しちせん)余騎(よき)入替入替戦けり。行家も少も引ず、大勢の中に懸入て戦程(ほど)に、主従二騎に打なされて、河を東へ引退く。行家は赤地の錦直垂に、小桜を黄に返したる冑著て、鹿毛なる馬に、黄覆輪の鞍置て乗たりけり。大将軍とは見えけれ共、平家は続ても不(レ)追けり。行家が子息(有朋下P043)に悪禅師と云者あり。尾張源氏泉太郎重光等同心して、七百(しちひやく)余人(よにん)筏にのり、夜半計に渡より上を潜に越て、夜討にせんとて向けるを、平氏の軍兵兼て此由さとりにければ、渡らんと志所をば引退て、思様に西の岸の上におびき出して、中に取籠戦ふ。宵の程は雨烈く降けるが、夜半計には雨降ざりけれ共、雲の膚天に覆て、闇き事目の前なる物をもつゆ見分べくもなかりけるに、只時の声をしるべにて、両軍乱合て相戦ふ。甲の鉢を打太刀の打ちかへる時、火の出る事いなびかりの如くなりければ、自明便と成て、敵を取輩あり。多は共討にぞ亡ける。弓を引箭を放つ事は、何を敵とも見分ざりければ、太刀をぬき刀を抜て、取組指違てのみぞ死ける。源氏の兵三百(さんびやく)
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余人(よにん)討れにければ、残る輩河のはたへ引退く。筏に乗らんとしけるを、平氏の軍兵追懸て、筏の上にて戦けり。はては筏を切破ければ、空く川に入て命を失者其数を不(レ)知。蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣の手に、二百十三人討捕てけり。虜には悪禅師、泉太郎重光、同弟高田四郎重久を始として、八人(はちにん)とぞ聞えける。維盛朝臣の手には七十四人、通盛の手には六十七人、忠度の手には二十一人(にじふいちにん)、知度の手には八人(はちにん)、讃岐守維時の手に七人、已上三百九十人、首河のはたに切懸たり。即頸の交名を注して京へ奉たりければ、平家の一門寄合て悦事限なし。(有朋下P044)十郎蔵人行家は、墨俣川軍に打負ければ、引退て、墨俣川東、小熊と云所に陣を取。平家は七千(しちせん)余騎(よき)を五手にわけ、一番飛騨守景家(かげいへ)、大将軍にて千余騎(よき)、川をさと渡して小熊の陣に推寄たり。一時戦て射白まされて引退く。二番に上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)、千騎(せんぎ)をめいて蒐。源氏矢衾を造て射ければ不(レ)堪して引退。三番に越中前司盛俊千余騎(よき)、轡を並て押寄たり。源氏鏃を揃へて射ければ、暫し戦て引退く。四番に高橋判官長綱千騎(せんぎ)、しころを傾て音挙て推寄たり。源氏指詰引詰散々(さんざん)に射ければ、是も叶ずして引退く。五番に頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡、権亮少将維盛、二千(にせん)余騎(よき)にて入替たり。進み退き追つ返つ、一味同心に揉に揉でぞ攻たりける。十郎蔵人行家も、命も不(レ)惜面も振ず、平家の大将ぞ、漏すな余すなとて、是を最後と戦たり。矢叫の音馬馳違ふ音隙有とも不(レ)聞、源平旗を差並て、勝負牛角に見えたりけり。一陣景家(かげいへ)、二陣忠清(ただきよ)、三陣盛俊、四陣長綱、四千(しせん)余騎(よき)、重衡維盛二千(にせん)余騎(よき)に押合て、七千(しちせん)余騎(よき)が一手に成て、入替々々責けるに、行家武く心は思へども、無勢にて防ぎかね、小熊の
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陣を落されて、尾張国折戸の宿に陣をとる。平家は隙なあらせそとて、勝に乗て責下ければ、折戸をも被(二)追落(一)て熱田宮へ引退き、在家を壊垣楯を掻、爰(ここ)にて暫く禦けれ共、熱田をも被(二)追落(一)て、参河国矢作河(やはぎがは)の東の岸に、城構して陣を取。平家(有朋下P045)続て攻下、川より西に引へたり。当国額田郡の兵共(つはものども)も馳来て、源氏に力を合支たり。十郎蔵人謀を構るに、年老たる雑色三人召寄、次第行纏に蓑笠具し、粮料■(うまぶね)負せて京上の夫に作り立て、心を入て平家の陣の前をぞ通したる。平家夫男を召留て問けるは、源氏軍に負て東国へ落下る、是何程延ぬらん、其(その)勢(せい)いか程か有つると云。夫男申けるは、箭作川(やはぎがは)の東の陣の内の勢は争か知侍べき、落下給(たま)ひつる勢は僅(わづか)に四五百騎(しごひやくき)、大将軍とこそ見え給(たま)ひつれ、爰より幾程延給はじと。平家又問けり。さて東国より上る勢は無やと。夫男、勢は雲霞の如く上り侍、先陣は菊河、後陣は橋本の宿、見付(みつけ)国府に著、程近き高志二村は、軍兵野にも山にも、隙あり共不(レ)見と云て過にけり。平家此事を聞て如何有るべき。東国の大勢に被(二)取籠(一)なばゆゝしき大事、一人も難(レ)遁とて、取物も取敢(とりあへ)ず思々に逃上る。大将軍行家は、平家を謀叛して人を方々へ馳遣す。落上る平家を一矢も不(レ)射(いざる)者は、源氏の敵ぞと披露有ければ、美濃尾張の兵共(つはものども)、後勘を恐て追懸々々散々(さんざん)に射る。平家も返合返合戦けれ共、落武者の習なれば、只身を助んと計の防矢にて、西を差てぞ落行ける。(有朋下P046)
S2702 太神宮祭文東国討手帰洛附天下餓死事
十郎蔵人は所々の軍に負けて、参河の国府に息つぎ居て、是より伊勢太神宮へ祭文を進る。其状に云、
再拝々々
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伊勢乃渡会野、五十鈴能川上乃、下津磐根仁、大宮柱於広敷立天、高天原爾千木高知天、祝申定奉留、天照皇太神能、広前仁恐恐申給江登申須。
右正六位上、源朝臣行家、去治承四年之比、蒙(二)最勝親王勅(一)云、入道大相国(たいしやうこく)清盛(きよもり)、自(二)平治元年(一)以降、誇(二)無理之威勢(一)、昇(二)不当之高位(一)、相(二)従一天於一門之雅意(一)、不(レ)任(二)百官於百王之理政之間(一)、去治承元年、終雖(レ)非(二)勅定(一)、正二位(しやうにゐの)権大納言(ごんだいなごん)藤原成親、同子息成経等、称(レ)有(二)謀叛之結構(けつこう)(一)、宛(二)行遠流之重科(一)、其外院中近習上下諸人、或蒙(二)死刑(一)或趣(二)配流(一)、如(レ)之智臣前大相国(たいしやうこく)已下四十余人(よにん)、停(二)止官職(一)奪(二)取庄園(一)、或退(二)今上国主之御位(一)、譲(二)謀臣不忠之孫(一)、或■(うかがひ)(二)太上法皇之御座(一)、止(二)治天有道之政(一)、然則早誅(二)罰清盛(きよもり)入道(一)、且奉(レ)休(二)法皇之叡慮(一)、而備(二)孝徳之礼(一)、且黙(二)止万人之愁吟(一)、而致(二)撫育之恵(一)所(二)思召(おぼしめす)(一)(有朋下P047)也云云、而行家、依(二)親王之勅命(一)、催(二)勇士之合力(一)刻、平家議云、一院第二皇子、是為(二)我国万機之器(一)、早可(レ)奉(レ)出(二)花洛(一)也、仍同五月十四日夜、俄可(レ)配(二)流土佐国(一)之由、依(レ)令(二)風聞(一)、為(レ)遁(二)一旦之難(一)、暫令(レ)退(二)入園城寺(をんじやうじ)(一)之処、以(二)左少弁(させうべん)行隆(一)、恣構(二)漏宣(一)、或制(二)与力於北嶺四明之一山(一)、或滅(二)法命於南都三井之両寺(りやうじ)(一)、速絶(二)王法(一)失(二)仏法(ぶつぽふ)(一)矣、謹尋(二)天武天皇(てんわう)之旧議(一)、討(二)王位押取輩(一)、倩訪(二)上宮太子之古跡(一)、亡(二)仏法(ぶつぽふ)破滅之類(一)、是以国政如(レ)元奉(レ)任(二)一院(一)、而諸寺之仏法(ぶつぽふ)令(二)繁昌(一)、諸社之神事無(二)相違(一)、以(二)正法(一)治(二)国土(一)、撫(二)万民(一)与(二)天恩(一)也、爰行家、先跡者、昔天国押開給天後、清和(せいわ)天皇(てんわうの)王子、貞純親王七代孫、自(二)六孫王(一)下津方、
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併励(二)武弓(一)専護(二)朝家(一)、高祖父頼信朝臣者、搦(二)忠常(一)蒙(二)不次之賞(一)、曽祖父頼義(らいぎの)朝臣(あつそん)者、康平六年鎮(二)奥州(あうしう)之逆党(一)、後代為(二)規模(一)、祖父義家(よしいへの)朝臣(あそん)者、寛平年中、雖(レ)不(レ)経(二)上奏(一)、為(二)国家(一)討(二)不忠武士平家衡等(一)、振(二)威於東夷(一)、上(二)名於西洛(一)、親父為義(ためよし)者、禦(二)還南都大衆之発向(一)、奉(レ)休(二)北闕聖主之逆鱗(一)、鎮(二)護王法宝位(一)無(レ)驚、照(二)四海於掌内(一)、懸(二)百司於心中皇威(一)、及(二)夷域(一)仁恩普(二)一天(一)、而自(二)去平治元年(一)、源家被(レ)止(二)出仕(一)之後、入道偏誇(二)于威勢(一)、黷(二)於高位都城之内(一)、蔑(二)官事洛陽之外(一)、放(二)謀宣(一)、然則行家加先祖於訪江波、天照野太神野、初天日本国(につぽんごく)能磐戸於押開天、(有朋下P048)新仁豊葦原野水穂爾濫觴志給那里、彼能天降給宇聖体波、忝那久行家加三十九代野祖宗那里、御垂跡与里以降、鎮護国家野誓厳重仁志天、冥威隙無幾処仁、入道神慮仁毛恐連須、叡情爾毛憚羅須、遥昇(二)高位(一)、是雖(レ)似(二)朝恩(一)、濫企(二)逆乱(一)、併所(レ)致(二)愚意(一)也、又行家親父朝臣者、如(三)大相国(たいしやうこく)誇(二)私威(一)、非(レ)起(二)謀叛(一)、依(二)上皇之仰(一)、参(二)白川御所(一)計也、而称(二)謀叛之仇(一)、依(レ)不(レ)仕(二)朝廷(一)相伝之所従、塞(二)於耳目(一)不(レ)随(二)順、譜代之所領(一)、被(レ)止(二)知行(一)無(二)衣類(一)、独身不屑之行家、彼入道万之一爾毛所(レ)不(レ)及、而入道忽依(レ)起(二)謀叛(一)、行家為(レ)防(二)朝敵(一)、東国爾下向志天、頼朝(よりともの)朝臣(あそん)登相共爾、且源家能子孫於誘江、且相伝能所従於催志天、上洛於企留所呂也、案能如具意爾任勢天、東海東山能諸国、已爾同心志畢里奴、是朝威能貴幾加致須所呂也、又神明能守里然良令牟留也、風聞能如幾波、太神宮与里神鏑於放知給布、入道其身爾中天亡勢里登、彼〔遠〕見是遠聞爾、上下万人宮中民烟、何人加霊威於畏礼佐羅牟、誰人加源家於仰加佐羅牟哉、抑東海
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諸国之太神宮御領事、依(二)先例(一)分(二)神役(一)、可(レ)備(二)進御年貢(一)之由、雖(レ)加(二)下知(一)、或恐(二)平家(一)不(レ)下(二)使者(一)、或有(二)済納(一)、依(二)路次之狼藉(一)、不(レ)能(二)運送(一)歟、源家者縦雖(レ)為(二)神領(一)、僅宛(二)催兵粮米(一)計也、然而早可(レ)停(二)止之(一)、又始自(二)院宮諸家(しよけ)臣下之領等(一)、国々庄々年貢闕如事、全不(レ)■(あやまらず)、或云(二)源氏(一)、(有朋下P049)或云(二)大名(一)、数多之軍兵参会之間不慮之外難(レ)済歟、就(レ)中(なかんづく)国郡村閭住人(ぢゆうにん)百姓等之愁歎、誠以難(レ)抑、但行家雖(レ)切(二)撫(レ)民之志(一)、未(レ)遂(二)退(レ)敵之節(一)、而徒送(二)日数(一)、尤所(二)哀歎(一)也、然者(しかれば)早行家者、帰(二)参王城近隣(一)、奉(レ)護(二)北闕之玉尊(一)、頼朝(よりとも)者居(二)留東州之辺境(一)、奉(レ)耀(二)西洛之朝威(一)也、神明必垂(二)哀愍(一)、天下忽鎮(二)叛逆(一)矣、縦云(二)平家之兄弟骨肉(一)、於(下)護(二)国家(一)之輩(上)者、速絶(二)神恩(一)、又云(二)源家之子孫累葉(一)、於(下)有(二)二意(一)之輩(上)者、必加(二)冥罰(一)、羨天照皇太神此状於平計安良計聞召天無為無事爾上洛於遂計令女天、速仁鎮護国家能衛宮於成志給江、天皇(てんわう)朝廷乃宝位動具古登無具、源家能大小従類恙無志天、夜乃守里日乃守爾護里幸給江登、恐々礼申志給江登申須。
治承五年五月十九日 正六位上源朝臣行家
とぞ書たりける。此祭文に、神馬三匹銀剣一振、上矢二筋相具して、太神宮へ奉進す。
去三月十一日、源平尾張国墨俣川より始て、度々戦けるが、源氏負色に成て引退々々、参河国矢矯川(やはぎがは)にて戦ければ、平家も多く討れける上に、東国源氏雲霞と責上る由の謀に聞臆して、同廿五日に、重衡維盛以下の討手の使帰り上る。
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治承三年の秋八月に、小松内府被(レ)薨ぬ。今年閏二月に、又入道(にふだう)相国(しやうこく)失給(たま)ひしかば、平家の運の尽事顕(有朋下P050)也。さればにや年来恩顧の輩の外に、随ひ付者更になし。兵衛佐(ひやうゑのすけ)には日に随て勢の付ければ、東国には諍者なし。自背者あれば、推寄々々誅戮し給ければ、関より東は草木も靡くとぞ京都には聞えける。去(さる)程(ほど)に去年諸国七道の合戦、諸寺諸山の破滅も猿事にて、天神地祇恨を含給(たま)ひけるにや、春夏は炎旱夥(おほし)、秋冬は大風洪水不(レ)斜(なのめならず)、懇に東作の勤を致ながら、空西収の営絶にけり。三月雨風起、麦苗不(レ)秀、多黄死。九月霜降秋早寒。禾穂未(レ)熱、皆青乾と云本文あり。加様によからぬ事のみ在しかば、天下大に飢饉して、人民多餓死に及べり。僅(わづか)に生者も、或は地をすて境を出、此彼に行、或は妻子を忘て山野に住、浪人巷に伶■(れいへいし)、憂の音耳に満り。角て年も暮にき。明年はさりとも立直る事もやと思ひし程(ほど)に、今年は又疫癘さへ打副て、飢ても死ぬ病ても死ぬ、ひたすら思ひ侘て、事宜き様したる人も、形を窄し様を隠して諂行く。去かとすれば軈(やが)て倒臥て死ぬ。路頭に死人のおほき事、算を乱せるが如し。されば馬車も死人の上を通る。臭香京中に充満て、道行人も輙らず。懸ければ、余に餓死に責られて、人の家を片はしより壊て市に持出つゝ、薪の料に売けり。其中に薄く朱などの付たるも有りけり。是は為方なき貧人が、古き仏像卒都婆などを破て、一旦の命を過んとて角売けるにこそ。誠に濁世乱漫(有朋下P051)の折と云ながら、心うかりける事共也。仏説に云、我法滅尽、水旱不(レ)調五穀不(レ)熟、疫気流行、死亡者多と、仏法(ぶつぽふ)王法亡つゝ、人民百姓うれへけり。
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一天の乱逆、五穀の不(レ)熟、金言さらに不(レ)違けり。
S2703 頼朝(よりとも)追討庁宣附秀衡系図事
四月廿八日、又頼朝(よりとも)を可(二)追討(一)由、院庁の御下文を成して、陸奥国住人(ぢゆうにん)藤原秀衡が許へ被(二)下遣(一)けり。其状に云、
左弁官下 奥州(あうしうの)住人(ぢゆうにん)等、
応(三)早令(レ)追(二)討流人前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)(一)事
右奉(レ)仰、併件頼朝(よりとも)、去永暦元年坐■(ざざい)配(二)流伊豆国(いづのくに)(一)、須(レ)悔(二)身過(一)、宜(レ)従(二)朝憲(一)、而猶懐(二)梟悪之心(一)、旁企(二)狼戻之謀(一)、或冤(二)凌国宰之使(一)或侵(二)奪土民之財(一)、東山東海道国々、除(二)伊賀、伊勢、飛騨、出羽、陸奥之外(一)、皆趣(二)其勧誘之詞(一)、忝随(二)彼布略之語(一)、因(レ)茲差(二)遣官軍(一)、殊可(レ)令(二)防禦(一)之処、近江、美濃、両国之反者、即敗(二)続尾張、参河(一)、以(二)東之賊衆(一)、尚固守、抑源氏等(げんじら)、皆忝可(レ)被(二)誅戮(一)之由、依(レ)有(二)風聞(一)、一姓之輩、共発(二)悪心(一)(有朋下P052)云云、此事尤虚誕也、於(二)頼政(よりまさ)法師(一)者、依(レ)為(二)顕然之罪科(一)、忽所(レ)被(レ)加(二)刑罰(一)也、其外源氏無(二)指過怠(一)、何故被(レ)誅、各守(二)帝猷(一)、抽(二)臣忠(一)、自今以後莫(レ)信(二)浮讒、兼存(一)此子細、早可(レ)帰(二)皇化(一)者、奉(レ)仰下知如(レ)件、諸国宜(二)承知(一)、依宣(二)行之(一)、敢不(レ)可(二)違失(一)之故下。
治承五年四月二十八日 左大史小槻宿禰奉
とぞ被(レ)書たる。秀衡と云は、下野国住人(ぢゆうにん)俵藤太秀郷が末葉、日理権大夫経清が曾孫、権太郎御館
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清衡が孫也。彼秀衡此御下文を給りたれども、兵衛佐(ひやうゑのすけ)には草木も靡て、たやすく難(レ)傾かりければ、無(レ)由とてさて止ぬ。
S2704 信濃横田川原軍事
越後国住人(ぢゆうにん)に、城太郎平資職と云者あり、後には資永と改名す。是は与五将軍維茂が四代の後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が子也。国中(こくぢゆう)の者共相従へて多勢也ければ、木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)を追討のために、同庁下文あり。同六月二十五日、資永御下文の旨に任せて、越後、出羽、両国の兵を招と披露しければ、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)なれ共、源氏を背く輩は、越後(有朋下P053)へ越て資永に付、其(その)勢(せい)六万余騎(よき)也。同国住人(ぢゆうにん)、小沢左衛門尉(さゑもんのじよう)景俊を先として信濃へ越けるが、六万余騎(よき)を三手(みて)に分つ。筑摩越には、浜小平太、橋田の太郎大将軍にて、一万(いちまん)余騎(よき)を差遣す。上田越には、津波田庄司大夫宗親大将軍にて、一万(いちまん)余騎(よき)を差遣す。資永は四万(しまん)余騎(よき)を相具して、今日は越後国府に著、明日は当国と信濃との境なる関の山を越さんとす。先陣を諍者共、勝湛房が子息に、藤新大夫、奥山権守、其子の横新大夫伴藤、別当家子には、立川承賀将軍三郎、信濃武者には、笠原平五、其甥に平四郎、星名権八等を始として、五百(ごひやく)余騎(よき)こそ進けれ。信濃国(しなののくに)へ打越て、筑摩河の耳、横田川原に陣をとる。城太郎資永、前後の勢を見渡して奢心出来つゝ、急ぎ寄合せて聞ゆる木曾を目に見ばやとぞ■(ののしり)ける。木曾は、落合五郎兼行、塩田八郎高光、望月太郎、同次郎、八島四郎行忠、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、楯六郎親忠、高梨根井大室小室を先として、信濃、上野、両国の勢催集め、二千(にせん)余騎(よき)を相具して、白鳥川原に陣をとる。楯六郎親忠馬より下り甲を脱弓脇挟み、木曾が前に畏て申けるは、親忠先づ
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横田川原に打向て、敵の勢を見て参らんと申。然るべきとて被(レ)免たり。親忠乗替ばかり打具して、白鳥川原を打出て塩尻さまへ歩せ行て見渡せば、横田篠野井石川さまに火を懸て焼払(やきはら)ひ、軍場の料に城四郎(有朋下P054)が結構(けつこう)と見えたり。親忠大法堂の前にして馬より下り、甲を脱で八幡社を伏拝み、南無(なむ)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、我君先祖崇霊神也、願は木曾殿(きそどの)、今度の軍に勝事をえせしめ給へ、御悦には、六十六箇国(ろくじふろくかこく)に六十六箇所(ろくじふろくかしよ)の八幡社領を立て、大宮(おほみや)に御神楽、若宮に仁王講、蜂児の御前に左右に八人(はちにん)宛の神楽女、同神楽男退転なく、神事勤て進んとぞ祈念しける。乗替を使にて木曾殿(きそどの)へ申けるは、城太郎所々に火を放て、横田篠野井石川辺を焼払(やきはら)ふ。角あらば八幡の御宝殿も如何と危く覚候、急寄給へとぞ申たる。木曾取敢(とりあへ)ず、通夜大法堂に馳付て、甲を脱ぎ腰を屈て八幡社を伏拝み、様々願を被(レ)立けり。明ぬれば朝日隈なく差出て、鎧の袖をぞ照ける。義仲(よしなか)遥(はるか)に伏拝み、弥勒竜華の朝まで、義仲(よしなか)が日本国(につぽんごく)を知行せんずる軍の縁日と成給へ、今日は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の、結て給たる吉日也とぞ勇みける。養和元年六月十四日の辰の一点也。源氏方より進む輩、上野国には、那和太郎、物井五郎、小角六郎、西七郎、信濃国(しなののくに)には、根井小弥太、其子楯六郎親忠、八島四郎行忠、落合五郎兼行、根津泰平が子息、根津次郎貞行、同三郎信貞、海野弥平四郎行弘、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎石突次郎、平原次郎景能、諏訪上宮には、諏方次郎、千野太郎、下宮には、手塚別当、同太郎、木曾党には、中三権頭(有朋下P055)兼遠が子息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、与次与三、木曾中太、弥中太、検非違所(けんびゐしよ)
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八郎、東十郎進士禅師、金剛禅師を始として、郎等乗替しらず、棟人の兵百騎轡を並て、一騎(いつき)も先に立ず一騎(いつき)もさがらず、筑摩河をさと渡して、西の河原に北へ向てぞ懸たりける。城太郎が四万(しまん)余騎(よき)、入替々々戦けれども、百騎の勢に被(二)懸立(一)て、二三度までこそ引退り。百騎の者共は、馬をも人をも休めんとて、河を渡して本陣に帰にけり。城太郎安からず思て、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)笠原平五頼直と云ふ者を招て云けるは、僅(わづか)の勢に大勢が、三箇度(さんがど)まで被(二)懸散(一)たる事面目なし、当国には御辺(ごへん)をこそ深く憑み奉れ、河を渡し、敵の陣を蒐散して雪(レ)恥給へかし、平家の見参に入奉らんと申ければ、笠原鐙蹈張弓杖突て、越後信濃は境近国なれば伝にも聞給けん、頼直今年五十三、合戦する事二十六度、未不覚の名を取らず。但年闌盛過ぬれば、力と心と不(二)相叶(一)、今此仰を蒙る事面目也、今日の先蒐て見参に入んとて、我勢三百(さんびやく)余騎(よき)が中に、事に合べき兵八十五騎すぐり出して、太く高く、曲進退の逸物共に撰び乗て、筑摩河をざと渡して名乗けり。当国の人々は、或は縁者或は親類、知らぬはよも御座(おはしま)せじ、上野国の殿原は見参するは少けれ共、さすが音にも聞給らん、昔は信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)、今は牢人笠原平五頼直と云者也、信濃上野に我と思は(有朋下P056)ん人々は、押並て組や/\と云懸て、敵の陣をぞ睨たる。上野国住人(ぢゆうにん)高山党三百(さんびやく)余騎(よき)にてをめきてかく。笠原は八十余騎(よき)にて三百(さんびやく)余騎(よき)をかけ散さんと、中に破入て面を振らず散々(さんざん)に戦ふ。高山は大勢にて小勢を取籠、一人も不(レ)漏討留んと、辺に廻て透間もあらせず戦たり。蒐てはひき引てはかけ、寄ては返、返しては寄せ、入組入替戦ける
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有様(ありさま)は、胡人が虎狩、縛多王が鬼狩とぞ覚えたる。又飆の木葉を廻すに似たりけり。程なしと見程(ほど)に、高山党が三百(さんびやく)余騎(よき)、九十三騎に討なさる。笠原が八十五騎、四十二騎にぞ成にける。両方本陣に引退。源平互に不(レ)感者はなかりけり。中にも笠原、城太郎が前に進て、軍の先陣如何が見給ぬると云ければ、資永は兼ての自称、今の振舞、実に一人当千(いちにんたうぜん)とぞ嘆たりける。
上野国住人(ぢゆうにん)西七郎広助は、火威の鎧に白星の甲著て、白葦毛の馬の太逞に、白伏輪の鞍置て乗たりけり。同国高山の者共が、笠原平五に多討れたる事を安からず思て、五十騎(ごじつき)の勢にて河を渡して引へたり。敵の陣より十三騎にて進出づ。大将軍は赤地の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧に、鍬形打たる甲著て、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に金覆輪の鞍置て乗たりけり。主は不(レ)知、よき敵と思ければ、西七郎二段計に歩せより、和君は誰そ、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)富部三郎家俊。問は誰そ。上野国住人(ぢゆうにん)七郎広助、音にも聞くらん目にも見よ、(有朋下P057)昔朱雀院御宇(ぎよう)、承平に将門(まさかど)を討平て勧賞を蒙りたりし俵藤太秀郷が八代の末葉、高山党に西七郎広助とは我事也、家俊ならば引退け、合ぬ敵と嫌たり。富部三郎申けるは、和君は軍のあれかし、氏文読まんと思ひけるか、家俊が祖父下総左衛門大夫正弘は、鳥羽院(とばのゐん)の北面也、子息左衛門大夫家弘は、保元の乱に讃岐院に被(レ)召て仙洞を守護し奉き、但御方の軍破て、父正弘は陸奥国へ被(レ)流、子息家弘は奉(レ)被(レ)伐けれども、源平の兵の数に嫌れず、正弘が子に布施三郎惟俊、其子に富部三郎家俊也、合や合ずや組で見よとて、十三騎轡並てをめきて蒐。十三騎と五十騎(ごじつき)と散々(さんざん)に
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乱合て戦ければ、富部が十三騎、四騎討れて九騎になる。西七郎が五十騎(ごじつき)、引つ討れつ十五騎になる。大将軍は互に組ん組んと寄合けれ共、家の子郎等推隔々々て防ぐ程(ほど)に、共に隙こそなかりけれ。去(さる)程(ほど)に同僚共が敵の頸取て下人に持せ、手に捧たりけるを見て、我も/\分捕せんと、寄合々々戦けり。軍に隙はなし、両方の旗差は射殺切殺されぬ、主の行方を不(レ)知けり。其間に西七郎と富部三郎と寄合せて、引組んでどうど落て、上になり下になり、弓手へころび妻手へころびて、遥(はるか)に勝負ぞなかりける。富部三郎は笠原が八十五騎の勢に具して、軍に疲たりければ、終には西七郎に被(レ)討けり。爰(ここ)に富部が郎等に、杵淵小源太重光と云者あり。此(有朋下P058)間主に被(二)勘当(一)て召具する事も無れば、城太郎の催促に、主は越後へ越けれ共杵淵は信濃にあり。去ば今の十三騎にも不(レ)具けるが、主の富部、城四郎の手に成て軍し給ふと聞き、徐にても主の有様(ありさま)見奉り、又よき敵取て勘当許れんと思て、辺に廻て待見けれども、主の旗の見えざりければ、余りの覚束(おぼつか)なさに陣を打廻て、知たる者に尋ければ、西七郎と戦ひ給つるが、旗差は討殺されぬ、富部殿も討れ給ぬとこそ聞つれ、冑も馬もしるし有らん、軍場を見給へと云。杵淵小源太穴心うやとて馳廻て見ければ、馬は放れて主もなし、頸は取れて敵の鞍の取付にあり。杵淵是を見て歩せ寄せ、あれに御座は、上野の西七郎殿と見奉は僻事か、是は富部殿の郎等に、杵淵小源太重光と申者にて候。軍以前に大事の御使に罷たりつるが、遅く帰参候て御返事(おんへんじ)を申さぬに、御頸に向奉て最後の御返事(おんへんじ)申さんとて進ければ、荒手の奴に叶はじと思て、鞭を打
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てぞ逃行ける。まなさし七郎殿、目に懸たる主の敵、遁すまじきぞ七郎殿とて追て行。七郎は我身も馬も弱りたり、杵淵は馬も我身も疲れねば、二段計先立て逃けれども、六七段にて馳詰て、引組でどうど落つ。重光大力の剛の者也、西七郎を取て押て首を掻。杵淵主の首を敵の鞍の取付より切落し、七郎が頸に並居ゑて泣々(なくなく)云けるは、身に■(あやまり)なしといへ共、人の讒言によりて(有朋下P059)御勘当聞も直させ給はず、又始て人に仕て今参といはれん事も口惜くて、さてこそ過候つるに、今度軍と承れば、よき敵取て見参に入、御不審をも晴さんとこそ存つるに、遅参仕て先立奉ぬる事心うく覚ゆ。さりとも此様を御覧ぜば、いかばかりかは悦給はんと、後悔すれ共今は力なし、乍(レ)去敵の首は取りぬ、冥途安く思召(おぼしめ)せ、軍場に披露申べき事あり、やがて御伴と云て馬に乗り、二の首を左の手に差上、右の手に太刀を抜持て高声に、敵も御方も是を見よ、西七郎の手に懸けて、主の富部殿討れ給ぬ、郎等に杵淵小源太重光、主の敵をば角こそとれやとぞ■(ののしり)たる。西七郎が家子郎等轡を返して、三十七騎をめきて蒐。重光存ずる処ぞ和殿原とて、只一騎(いつき)にて敵の中に馳入て、人をば嫌はず直切にこそ切廻れ。敵十余騎(よき)切落し、我身も数多手負ければ、今は不(レ)叶と思て、主の共に、剛者自害するを見給へとて、七郎が頸をば抛て、なほ富部三郎が頸を抱、太刀を口に含て、馬より大地に飛落て、貫かれてぞ死にける。敵も御方も惜まぬ者こそなかりけれ。中にも木曾は、あはれ剛の奴哉、弓矢取身は加様の者をこそ召仕ふべけれと、返々ぞ惜まれける。両陣軍にし疲て、暫く互に休み居たり。
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木曾は謀をぞ構たる。信濃源氏に井上九郎光基と云者を招て、加様の馳合の軍は勢による事なれば、御方の勢は少なし、(有朋下P060)如何にも軍兵数尽ぬと覚ゆ、されば敵を謀落さん為に、御辺(ごへん)赤旗赤符付て、城太郎が陣に向ひ給へ、さあらば敵御方に勢付たりとて、荒手の武者を指向て軍せよとて休み居べし、其間に白旗白符取替て蒐給はん処に、義仲(よしなか)河を渡して、北南より指挟で蒐立ば、などか追落さゞるべきと云ければ、可(レ)然とて井上九郎光基は、星名党を相具して三百(さんびやく)余騎(よき)、赤旗俄(にはか)に作出し、赤符を白符の上に付隠して、木曾が陣を引下て、静々(しづしづ)と筑摩河を打渡して、城太郎が陣に向ふ。案の如く城太郎は、御方に勢付たり、余勢は定て後馳にぞ来るらんとて、使を立て云けるは、只今(ただいま)被(レ)参人は誰人ぞ、返々神妙(しんべう)、御方の兵軍に疲たり、河を渡して敵の陣に向給へと云ければ、光基馬の鼻を引返す様にして赤符かなぐり捨て、白旗さと差挙て、又馬の鼻を引向て、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)井上九郎光基と名乗てをめきて蒐る処に、木曾討もらされたる勢一千五百(いつせんごひやく)余騎(よき)にて、河をさと渡して音を合て、北より南より、揉に揉てぞ攻たりける。城太郎が兵は、軍に疲て有けるに、只今(ただいま)の勢を憑て、物具(もののぐ)くつろげて休まんとする処に、俄(にはか)に上下より責ければ、甲冑を捨て逃もあり、親子を知らで落もあり、山に追籠られ水に責入られ、此にては打殺され、彼にては被(二)切殺(一)、落ぬ討れぬせし程(ほど)に、城太郎資永は、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)にて、越後の国府に引退てぞ息突居(有朋下P061)たる。当国住人(ぢゆうにん)等も悉(ことごと)く木曾に従付ければ、資永国中(こくぢゆう)に安堵せずして、出羽国に越て金沢と云所に有と聞えければ、木曾は関山を固て、暫く越後の国府にやすらひけり。
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S2705 周武王誅(二)紂王(ちうわう)(一)事
昔大国に周武王と云し帝、殷紂王(ちうわう)を誅せんとせしに、敵の軍は七十万人、御方の兵は四万五千人(しまんごせんにん)、雲泥水火の敵対也。武王勢の少き事を歎ければ、臣下太公望が云、軍は勢によらず、謀を先とすべし、千仭堤に尺水をさぐりて兵を傾、万丈の谷に円石を倒して敵を亡す、皆是謀の賢き也、君歎事なかれとて、周の兵を殷の勢に移して攻戦ける。時に殷の軍破ぬとて、周の兵引退ければ、誠にやとて七千万人皆落失て、紂王(ちうわう)終に亡にけり。木曾もはかりごと賢くて城太郎を責落す。越前国には、平泉寺長吏斎明、威儀師(ゐぎし)稲津新介、越中国(ゑつちゆうのくに)には、野尻、河上、石黒党、加賀国には、林、富樫が一族を始として、寄合々々評定して云、源平諍を発して国郡静ならず、東西に軍始て勇士鋭(レ)剣、就(レ)中(なかんづく)木曾殿(きそどの)、平家追討の為に越中国府に座す、平家、木曾殿(きそどの)を誅戮の為に北国下向と聞ゆ、源氏に力をや合すべき、平家に忠をや尽すべきと様々議しけるに、東国は既(すで)に兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に(有朋下P062)随ふと聞ゆ、北国又木曾殿(きそどの)に靡けり、平家の方人等皆国中(こくぢゆう)に安堵せず、されば定て被(レ)召ずらん、召に随はずんば平家に同意とて討手を向らるべし、不(レ)如被(レ)召て参らんより、同は志ある体にて、急ぎ木曾殿(きそどの)へ参らんと議しければ、此儀尤可(レ)然とて、三箇国の兵皆、我も/\と馳参ず。木曾は、各参上の条神妙(しんべう)神妙(しんべう)、但召さぬに参事大に不審、平家の方人して義仲(よしなか)を計らん為にも有らん、誠の志御座(おはしませ)ば、義仲(よしなか)に腹黒あらじと起請文書べしと宣(のたま)ひければ、命に随うて起請状を注し、判形添て奉る。木曾今は子細なしとて、御恩の始也、不(二)取敢(一)(とりあへず)と宣(のたま)ひて、信濃駒(しなのこま)一匹づつこそ被(レ)引たれ。懸りしかば、北陸道の国国、
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悉木曾に相従けり。
< 七月十四日に改元有りて、養和元年と云。>
同七月十五日、左衛門権佐光長、奉(レ)仰、興福園城(をんじやう)両寺(りやうじの)僧侶、依(二)謀叛之罪(一)在(二)繋囚之中(一)、非常之断(二)人主(一)専(レ)之、須(二)厚免(一)(レ)之処、件輩浴(二)恩蕩(一)、帰(二)本寺(一)之後、若無(二)悔過之思不変野心(一)者、為(レ)世為(レ)寺、自在(二)後悔(一)歟、戦国之政可(二)思慮(一)之由、有(二)義奏之人(一)、然而彼寺等、不慮之外、空為(二)灰燼(一)、因(レ)茲蒼天不(レ)変、明神(みやうじん)成(レ)崇歟、若依(二)此儀(一)者不(レ)免(二)彼寺之僧侶(一)者、非(二)赦(レ)之本意(一)歟、免否之間叡慮未(レ)決、可(レ)令(二)計申(一)、左大将実定卿に被(レ)問ければ、謀叛之者減(二)死罪一等(一)、可(レ)処(二)遠流(一)、而今件輩在(二)繋囚之中(一)免(二)遠流之罪(一)、(有朋下P063)今度会(レ)赦、殊驚(二)司天之奏(一)、為(レ)止(二)降相之歎(一)、厚免(レ)之条、叡慮之趣、相(二)叶徳政(一)歟とぞ被(レ)申ける。八月三日、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)鎮西へ下向、是は菊地、原田、臼杵、部槻、松浦党等、花洛を背て属(二)東夷(一)由聞えければ、彼等を為(レ)鎮也。
九日官庁にて、大仁王会被(レ)行けり。是は承平将門(まさかど)謀叛の時の例とぞ聞えし。其時は朝綱の宰相依(レ)勅咒願を書て験ありといへり。今度は咒願の沙汰なし。同廿五日除目被(レ)行けり。陸奥国住人(ぢゆうにん)藤原秀衡、征将軍に被(レ)補ける上に当国守に任ず。越後国住人(ぢゆうにん)城太郎資永、越後守に任ず。秀衡は頼朝(よりとも)追討のため、資永は義仲(よしなか)追討のため也と、各聞書の注文に子細を被(レ)載たり。木曾追討の事、去四月に院庁以(二)御下文(一)、資永に仰付たりければ、四万(しまん)余騎(よき)を引率して、信濃国(しなののくに)横田川原にして軍
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に負たりける間、猶も勢を被(レ)付べき由其沙汰有て、同廿六日(にじふろくにち)、中宮亮通盛、能登守教経已下北国へ進発す。九月九日、通盛教経等の官兵、越後国にして源氏と戦けるが、平家散々(さんざん)に被(二)打落(一)けり。
S2706 資永中風死事
九月廿日、城太郎資永が弟に城次郎資茂と云者あり。改名して永茂と云けるが、早馬を(有朋下P064)六波羅へ立、平家の一門馳集て永茂が状を披くに云、去八月廿五日除目の聞書、九月二日到来、謹で披覧之処に、舎兄資永当国守に任ず。朝恩の忝に依て、明三日義仲(よしなか)追討の為に、五千(ごせん)余騎(よき)の軍士を卒して、重て信州へ進発せんと出立ぬる夜の戌亥の刻に当て、地動き天響て雲上に音在て云、日本(につぽん)第一の大伽藍、金銅十六丈の大仏焼たる平家の方人する者ありやと叫始て、其声通夜絶ず、是をきく者身毛竪ずと云事なし。資永即大中風して病に臥し、うですくみて思ふ状をも書置かず、舌強して思ふ事をも云置かず、明る巳時に悶絶僻地して、周章(あわて)死に失候畢ぬ。仍永茂、兄が余勢引卒して、信濃へ越んと欲して軍兵を催すといへども、資永任国の越後は木曾押領の間、不(レ)及(二)国務(一)、北陸の諸国、木曾に恐て一人も不(二)相随(一)とぞ申たる。此状に驚て、同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)、重て左馬頭(さまのかみ)行盛、薩摩守忠度大将軍として、数千騎(すせんぎ)の軍兵を相具して、北国へ発向す。
S2707 源氏追討祈事
兵革の御祈(おんいのり)一品ならず、様々の御願(ごぐわん)を立、社々に神領を被(レ)寄、神祇官(じんぎくわん)人諸社の宮司、本宮末社まで祈申べき由院より被(二)召仰(一)。諸寺の僧綱(そうがう)神社仏閣まで調伏の秘法被(レ)行。天台座主(てんだいざす)、(有朋下P065)明雲(めいうん)僧正(そうじやう)をば、摂政(せつしやう)近衛殿(このゑどの)、承て、根本中堂(こんぼんちゆうだう)にして七仏薬師(しちぶつやくしの)法(ほふ)、園城寺(をんじやうじ)、円恵(ゑんけい)法親王(ほふしんわう)をば、新(しん)宰相泰通承て、
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金堂にして北斗尊星王の法、仁和寺(にんわじ)、守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)をば、九条大納言(だいなごん)有遠承て、当寺にして孔雀経法、此外諸僧勅宣(ちよくせん)に依て、北斗尊星、延命大元、弁才陀天、内法外法、数を尽して被(レ)行。院(ゐんの)御所(ごしよ)には、五壇法、房覚前大僧正(だいそうじやう)は降三世、昌雲前権僧正(ごんのそうじやう)は軍荼利、覚誉権大僧都(ごんのだいそうづ)は大威徳、公顕前大僧正(だいそうじやう)は金剛夜叉、澄憲新僧正(しんそうじやう)は不動明王(ふどうみやうわう)、各忠勤を抽で殊に丹精を致す。縦逆臣乱を成す共、争か仏神の助なからんと、上下憑もしくぞ申ける。
S2708 奉弊使定隆死去附覚算寝死事
去十一日に、神祇官(じんぎくわん)にして、神饗あり、例弊二十二社に奉る。昔朱雀院御宇(ぎよう)、天慶に純友追討の御祈(おんいのり)に、太神宮へ甲冑を奉りし例とて、〈 彼の甲冑嘉応元年十二月二十一日の炎上(えんしやう)に焼たり。 〉今度頼朝(よりとも)誅罰の御祈(おんいのり)に、鉄鎧を太神官へ奉らる。さて奉弊使は、当社の祭主中臣親能、同子息神祇少副定隆朝臣勤けり。父子都を出て、近江国甲賀の駅屋に著。是にして定隆心地不(レ)例有けれども、相労りて十五日に伊勢の離宮に参著す。申刻計に、天井(有朋下P066)より長一尺四五寸計の小蛇落て、定隆が左袖の上に懸る。やがて懐の中へ匍入。怪と思て振捨けれ共不(レ)出、立上て帯を解て懐を探見に蛇なし。不思議と思けれ共、折節(をりふし)の酒宴に打紛て日も晩ぬ。其夜丑刻に、定隆寝ながら苦気なる息ざしにてうめきければ、父の祭主いかに/\と驚せ共、只息計にて起ざりければ、築垣より外へ舁出せば、定隆即死にけり。父の親能触穢に成て、奉弊使、中臣に事闕たりければ、大宮司祐成が沙汰として、散位従五位有信を差て次第に御祭を遂、又臨時の官幣を立て源氏可(二)追討(一)御祈(おんいのり)あり。其宣命に云、竃宅神猶響(二)三十六里(一)、況源(みなもとの)頼朝(よりとも)響(二)
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日本国(につぽんごく)(一)哉と書べかりけるを、朝と云文字を落して不(レ)書けり。宣命をば外記承て書習也。態とはよも書誤らじ。頼と云字は助と読ば、竃宅神猶響(二)三十六里(一)、況源頼響(二)日本国(につぽんごく)(一)哉とぞ読たりける。人内々は、一定兵衛佐(ひやうゑのすけ)世に立て日本国(につぽんごく)を奉行すべきにこそ、源氏追討の宣命に、源繁昌の口占有とぞ私語(ささやき)ける。
又日吉社にて、源家調伏のために三七日の五壇の法被(レ)行。初七日の第五日に当て、降三世の阿闍梨(あじやり)覚算法印、大行事の彼岸所にて死所に死けり。平家の方人する者は、僧俗共に死ければ、仏神御納受(ごなふじゆ)なしと云事顕然也。人々舌を振てぞ畏ける。(有朋下P067)
S2709 実源大元法事
又安祥寺の実源阿闍梨(あじやり)、朝敵追討の仰承て、大元法行て御巻数を進す。御披見ある処に、専平家滅亡の由注進あり、浅猿(あさまし)とも云計なし。子細を被(二)召問(一)ければ、実源申て云、朝敵調伏の旨被(二)宣下(一)、名字なき間、倩々当世の体を見に、南都園城(をんじやう)仏法(ぶつぽふ)の破滅、東山北陸士卒の合戦、一天四海の大疫人民百姓の餓死、君王臣公の御歎、神事仏事の顛倒、併平家悪行の積と見ゆ。仍平家調伏の祈誓を致と申たり。他家の人々はげにもと思けれ共、平家は是を聞て大に憤り、獄定歟流罪歟と沙汰ありけれども、大小事の急劇に打紛れて止にけり。十一月廿五日に中宮院号あり、建礼門院(けんれいもんゐん)と申。幼帝の御時母后の院号、先例なしとぞ申ける。
S2710 大嘗会(だいじやうゑ)延引事
今年も諒闇(りやうあん)なりしかば大嘗会(だいじやうゑ)不(レ)被(レ)行。大嘗会(だいじやうゑ)と申は天武天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に始れり。七月以前に御即位
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あれば、必其の年の中に被(レ)行事なれ共、去年は都遷とて新都にて叶はず、様々 (有朋下P068)議定有しか共五節計にてさて止ぬ。今年は又諒闇(りやうあん)なれば沙汰に及ばず。大嘗会(だいじやうゑ)の延引する事、平城(へいじやう)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、大同二年十月に御禊(ごけい)有て、十一月に有べかりしに、坂上田村丸を以夷賊を随へ給ける兵革の事に依て、同三年の十月に又御禊(ごけい)あて、同(おなじき)十一月に遂行けり。
嵯峨(さがの)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、同四年に平城宮(へいじやうきゆう)を造られしに依て、次年弘仁元年十一月に被(レ)行。
朱雀院御宇(ぎよう)、承平元年七月十九日に、宇多院隠れさせ給(たまひ)て、次年行はる。
三条院(さんでうのゐんの)御宇(ぎよう)、寛弘八年十月廿四日に、冷泉院の御事に依て延たりしか共、次年被(レ)行けり。二箇年延引の例いまだなし。去年は新都所狭して行はれず、今年は大極殿(だいこくでん)、豊楽院こそ未(二)造畢(一)なけれども、後三条院(ごさんでうのゐん)の例に任て、太政官庁にて有べかりつるに、天下諒闇(りやうあん)の上は兎角子細に及ばず、二箇年まで延ぬる事、如何なるべきやらんと人皆怪を成す。
S2711 皇嘉門院蒙御附覚快入滅事
十二日三日、皇嘉門院隠れさせ給ぬ、御年六十一。是は崇徳院の后にて御座(おはしまし)き。御善知識には大原(おほはら)の別所、来迎院の本願坊湛快ぞ参給ける。閑に最後目出くて終らせ給けるぞ貴き。昔御遺(おんなごり)とて、是計こそ残らせ給たりけるに、世の習とて哀なり。
同六日戌刻に、鳥羽院(とばのゐん)(有朋下P069)の七宮前の天台座主(てんだいざす)覚快法親王(ほふしんわう)、御年四十四、生者必滅の理、始て驚べきならね共、打つゞき哀なりける事共也。
S2712 法住寺殿(ほふぢゆうじどの)移徙事
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同(おなじき)十三日には院(ゐんの)御所(ごしよ)の御移徙あり。公卿十人殿上人(てんじやうびと)四十人、うるはしき儀式にて仕りけり。本御座(おはしまし)ける法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の御所を壊て南に渡し、千体御堂の傍に被(レ)造て、片方に女院なんど居進せてぞ住せ御座(おはしまし)ける。(有朋下P070)