『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十一

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希巻 第三十一
S3101 木曾登山付勢多軍事
木曾は山門の返状を見て、加賀国住人(ぢゆうにん)林、富樫が一党已下、北陸道の勇士等五百(ごひやく)余騎(よき)を引率し、大夫房覚明を先達にて、近江国湖の浦々より漕渡て、天台山に打登、惣持院を城郭(じやうくわく)とす。悪僧には白井法橋幸明、慈雲坊法橋寛覚、三上阿闍梨(あじやり)珍慶等を始として、事の行しければ、三塔九院の大衆老若も、甲冑を著し弓箭を帯して木曾に同意す。其(その)勢(せい)谷々に充満たり。既都へ責入べきと聞えければ、新三位中将資盛は、宇治より京へ帰入らる。勢多の大将軍知盛重衡両人の内、重衡卿(しげひらのきやう)は山階より引返給けり。新中納言知盛卿は五百(ごひやく)余騎(よき)にて、今夜は粟津浦に宿給たりけるが、此より京へ帰上らんとする処に、加賀国住人(ぢゆうにん)に大田倉光等、源氏に志ありて上洛しけるが、越前国より両人打連て、北陸道より海道に出て、五百(ごひやく)余騎(よき)にて勢多を廻て上る程に、加州の輩林六郎光明已下、天台山にと聞て、三井寺(みゐでら)より志賀唐崎を経て、東坂本に著て、林富樫と一手に成て軍せんと(有朋下P168)思、勢多の長橋打渡、粟津浜を打程に、新中納言五百(ごひやく)余騎(よき)にて返合せ宣(のたま)ひけるは、爰(ここ)は平家の公達の陣の前也、敵か御方か、何者(なにもの)ぞ、名乗て通れと問はれければ、大田倉光、名乗て中々悪しかりなんとて、馬の鼻を引返し、勢多の橋二三間を引落して、当国の一宮建部社に陣を取。中納言宣(のたま)ひけるは、敵なればこそ名乗
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はせで引退らめ、思ふに北国撫案内の奴原にぞ有らん、追懸て討とれとて追程に、平家は橋を引れて渡すべき様なかりければ、馬をば西の橋爪に繋置、粟津浦のつり船共にこみ乗、東の浜に押渡し、勢多の在家に火を懸て攻ければ、源氏も森より出合つゝ、矢尻をそろへて射合たり。二十二日の夜半計の事なれば、暁懸て照す月、まだ山の端を出ね共、猛火地を耀して昼の如し。源平互に乱合て、二時計ぞ戦たる。新中納言の侍に進藤滝口俊方と云者あり。中納言深く憑給たりけるが、一陣に進んで戦ける程に、敵二三騎討取て、我身も敵に討れにけり。其外死する者十余人(よにん)、手負者は数を不(レ)知。源氏方にも、大田次郎兼定が嫡子に、入江冠者親定と云者を始として七八人(しちはちにん)討れぬ。疵を被る者も多かりけり。入替々々戦ふ程に、平家の軍兵打しらまされて引退く。知盛卿今は力及ばずとて、通夜都へ入給にけり。大田次郎倉光冠者両人は、勢多の軍に打勝て、是も其夜の中に、林、富樫を相尋て、東坂本へ(有朋下P169)入にけり。宇治勢多の討手都に帰上たりければ、平家の一門、今は度を失て為方なし。京中の貴賎周章(あわて)ふためきて、肝魂も身にそはざりけり。
S3102 鞍馬御幸事
〔同(おなじき)〕二十四日未刻に、北面の者一人窃に院(ゐんの)御所(ごしよ)に参じて、承旨こそ候へと申せば、法皇何事ぞと御尋(おんたづね)あり。奏し申けるは、明日巳午の時に、源氏等(げんじら)四方より数万騎にて、都へ責入由聞え候間、平家都の内に安堵し難しとて、三種の神器、院内取進せて、明旦卯刻に西国(さいこく)へ下向とて、内々出立候と申ければ、法皇、神妙(しんべう)に申せり、此事努々人に披露有べからず、思召(おぼしめす)旨ありとて、其(その)日(ひ)の夜に入て、殿上人(てんじやうびと)に右馬頭
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資時計御伴にて、北面の下搏三人被(レ)召て、忍て鞍馬へ御幸なる。人是を不(レ)知けり。同日の小夜深る程に、大臣殿は忍つゝ建礼門院(けんれいもんゐん)に参らせ給(たまひ)て、逆徒入洛の事、日比(ひごろ)は去共と思ひ侍りつれ共、今は憑すくなく承候、都にて如何にも成はてんと申方も多候へ共、人々の御為心苦しかるべし、筑紫の方へ趣て試ばやとこそ思立て候へと、申させ給ければ、女院御涙(おんなみだ)をはら/\と流させ御座(おはしまし)て、兎(と)も角(かく)も能様にこそ計はせ給はめ、さては住なれし花の都を振捨て、始た(有朋下P170)る旅に浮び立べきにこそ。吉野の花を詠め、明石の月を見人、暫しと思ふ旅だにも、故郷は恋しとこそ聞侍るに、帰さしらぬ波の上に浮身をやどし、こがれて物を歎かん事、兼て思ふこそとて、御衣の袖を御顔に宛させ給ぞ痛しき。大臣殿は終夜(よもすがら)御前に候はせ給(たまひ)て、去方行末の御物語(おんものがたり)申させ給ける程に、比は六月の二十日余(あまり)の事なれば、深行夜半は程もなく、暁懸て出る月、雲井の空に幽也。五更(ごかう)の鐘の音ごとに、今夜も明ぬとて打ひびく。何事に付ても御心細ぞ覚しける。
橘内左衛門尉(きつないざゑもんのじよう)季康と云者あり。是は平家の侍也けれ共、院にも近く被(二)召仕(一)進せければ、二十五日に院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に上臥して候けるに、暁程に常の御所の方騒がしく私語(ささやき)あへり。又女房の声にて、忍びやかに泣音などしけり。こは何事なるらんと胸打騒奇しく思ければ、忍びつゝ指足して立聞ければ、御所に渡らせ給はぬ、何地へ御幸成けるやらん、誰知進せたるらんと、人は我に問、我は人に尋進すれ共、只泣より外の事なくて、知進せたる人もなし。季康浅間敷(あさましく)思て、不(二)聞敢(一)急六波羅へ参
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たれば、大臣殿夜部より女院(によゐん)御所(ごしよ)へ入せ給たりしが、未出させ給はずと申。軈(やが)て女院(によゐん)御所(ごしよ)に参て角と申入ければ、大臣殿は周章(あわて)騒給(たまひ)て、よもさあらじ、僻事にぞ有らんとは仰けれ共、やがて法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ馳参せ給(たまひ)て、如何にと尋申給けれ共、我知進たりと申人な(有朋下P171)し。浄土寺(じやうどじ)二位殿(にゐどの)と申女房、其時は丹後殿とて、夜も昼も御身近候はせ給けるより始て、人々一人も働かずまし/\けるが、只涙を流しあきれてぞ御座(おはしまし)ける。夜も既(すで)に明ぬ。法皇失させ給ぬと披露あり。公卿殿上人(てんじやうびと)、上下の北面馳参る。御所中(ごしよぢゆう)の騒不(レ)斜(なのめならず)、馬車馳違、塵灰を踏立て京中地を返せり。増て平家の人々の家々(いへいへ)には、敵の打入たらんも、限あらば此には過じとぞ見えける。懸りければ官兵洛中に充満て、幾千万と云事を不(レ)知けり。
S3103 平家都落事
〔去(さる)程(ほど)に〕平家は日比(ひごろ)法皇をも西国(さいこく)へ御幸なし進せんと支度し給たりけれ共、角渡らせ給ねば、憑む木本に雨のたまらぬ心地して、去とては行幸計成とも有べしとて、卯時の終りに出御あり。御輿を指寄ければ、主上はいまだ幼き御齢なれば、何心もなく召奉る。神爾宝剣取具して、建礼門院(けんれいもんゐん)御同輿に召る。内侍所も同く渡入奉る。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)庭上に立廻て、印鎰、時の簡、玄上、鈴鹿、大床子、河霧御剣以下、九重の御具足、一も取落すべからずと下知せられけれ共、人皆あわてつゝ、我先に/\と出立ければ、取落す物多かり(有朋下P172)けり。昼の御座の御剣も残留たりけるとかや。御輿出させ給ければ、内大臣(ないだいじん)宗盛公父子。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)父子、蔵人頭(くらんどのとう)信基計ぞ衣冠にて被(二)供奉(一)けり。其外は公卿殿上人(てんじやうびと)、近衛宮、御縄介の末に至るまで、老たるも若も皆甲冑を著し、弓箭を帯して打立けり。七条を西へ
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朱雀を南へ行幸なる。唯夢の様なりし事共也。一年都遷とて、俄(にはか)に淡立敷福原へ行幸なりしは、懸るべき事の験也けりと今こそ思合せければ、八条、西八条(にしはつでう)、池殿、小松殿(こまつどの)、泉殿以下の人々の家々(いへいへ)十六所、皆火を懸て焼亡す。余煙数十町に及で日の光だに不(レ)見けり。或は陛下誕生(たんじやう)の霊跡、或は竜楼幼稚の青宮、或は博陸補佐居所、或相府丞相旧台、三台槐門、九棘鴛鸞栖、門前繁昌堂上栄花の砌(みぎり)也き。如(レ)夢如(レ)幻、強呉滅兮有(二)荊棘(一)、姑蘇台之露■々(じやうじやうたり)、暴秦衰兮無(二)虎狼(一)、咸陽宮之煙片々たりけん、漢家三十六宮、楚項羽がために被(レ)滅けんも、争か是には過べきとぞ覚えし。無常は春の花、風に随て散ず、有涯は暮の月、雲に伴て隠る、誰か栄花の春の夢の如なるを見て驚ざらん。憶べし、命葉の朝の露に似て易(レ)零、蜉蝣の風に戯るゝ、懇逝の楽み幾許、螻蛄の露に囂して、合乳の声詣を伝、崑■(こんらう)の十二楼上、仙の陬か終に空し、雖(二)蝶一万里中(一)洛の城(じやう)不(レ)固、多年の経営一時に摩滅しぬ。盛者必衰の理、眼の前に遮れり。年来日来の振舞は目醒しく(有朋下P173)こそ思しか共、さすが角落下給ふを見ては、貴賎悉哀の涙をぞ拭ける。況や住なれし城を迷出て、いづこ[* 「いとこ」と有るのを他本により訂正]を指共なく旅立給けん人々の心の中、推量られて無慙也。
当時の摂政(せつしやう)近衛殿(このゑどの)と申は、普賢寺内大臣(ないだいじん)基通公の御事也。太政(だいじやう)入道(にふだう)の御聟にて平家に親み給ける上に、法皇も西国(さいこく)へ御幸なるべしと日頃(ひごろ)聞召(きこしめし)ければ、御伴申させ給べきにて有けるに、前内大臣(ないだいじん)より行幸既と告被(レ)申たりければ、御出有て、御車を七条造道まで遣らせ給たれ共、法皇の御幸はなかりけり。
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如何が有べきと思召(おぼしめし)煩はせ給けるに、御伴に候ける進藤左衛門尉(さゑもんのじよう)高範と云侍、御車の前に進出て、供奉し給べき平家の一門、池殿の公達小松殿(こまつどの)君達皆留給へり、法皇の御幸もならず、去ばいづくへとて御出は候やらん、急還御有べきにこそと申。近衛殿(このゑどの)の仰には、彼一門にむすぼほれて、年頃の恩も忘れ難く、主上行幸もあり、平家のかへり思はん処如何が有べきと御気色(おんきしよく)あり。高範牛飼に向て、縦主上行幸ありとても、御代は法皇の御代、御運尽給(たまひ)て外家の悪徒(あくと)に引れ、花洛を落させ給はん行幸に供奉せさせ給たらば、末憑もしからん御事歟とつぶやきて、きと目を引合せたれば、牛飼も進ぬ道なれば、牛の鼻を引返し、一■(ずはえ)あてたりければ、牛も究竟の牛なれば、造道を上に東寺まで、其より大宮(おほみや)を上にと、飛に飛でぞ還御なる。越中二郎兵衛(有朋下P174)盛嗣が、殿下も落させ給ふにこそ、口惜御事哉、止め奉らんとて、片手矢はげて追懸奉る。御車を延さんとて、高範返合て散々(さんざん)に防戦。大臣殿是を見給(たまひ)て、やあ盛嗣よ、年来の情を忘給(たまひ)て、落る程の人をばいかでも有なん、急ぎ御供申べき一門の人人だにも見え給はず、況摂政(せつしやう)の御事は、申にや及と制し給ければ、盛嗣其より引返す。其間に近衛殿(このゑどの)は遥(はるか)に延させ給けるが、御目に御覧じけるは、丱童二人車の左右の轅に取付て、遣る共なく舁共なし、御伴に候けり。牛の前には赤衣の官人、春の日と書たる札を、榊の枝に取具して走とぞ御覧じける。誠に春日大明神(かすがだいみやうじん)高範に入替らせ給つゝ、角計ひ申けるにこそと感涙を流させ給つゝ、西林寺と云寺へ入せ給たりけるが、其より忍て知足院へ移らせ給ふ。人是を不(レ)知して、摂政殿(せつしやうどの)は吉野の奥
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とぞ申ける。
S3104 維盛惜(二)妻子遺(一)事
権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)の許へ人参て、源氏既天台山に打登、三千の衆徒同心して都へ攻入候也、其上此夜半より法皇も渡らせ給はずとて、大臣殿には騒がせ給ふ、西国(さいこく)へ行幸とて、内裏には、武士雲霞の如に集り、御一門皆御伴とて御出立あり、如何に此御所へは御使は候(有朋下P175)ざりけるやらんと申けり。三位中将は懸るべしと兼て知給、日来思儲給(たま)ひたる事なれ共、指当ては穴心うやと計宣(のたま)ひて、行幸は成けれ共、妻子の遺を惜みつゝ、只泣より外の事ぞなき。つかの間も離がたき人共を、憑もしき者もなきに誰育み誰憐とて、振捨出なん事の悲さよと宣ふも又理也。此北方と申は、故中御門大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)の御女(おんむすめ)也。芙蓉の貌も厳く、桃李の粧も細やかに、容顔人に勝れ給(たま)ひたりける上、心の優に情深き事も世に類なかりければ、なべての人に見せん事を、父母労く思て、女御后にもとぞかしづき給ける。天下の美人と聞えける上、父新(しん)大納言(だいなごん)世に覚えいみじく時めき栄え給ければ、哀と思はぬ人はなし。法皇聞召入(きこしめしいれ)させ御座(おはしまし)て、御色に染る御心ありて、忍て度々御書ありけれ共、女房思入給ふ事の有けるにや、是も由なしとて引かづきて臥給(たまひ)て、
  雲井より吹くる風のはげしくて涙の露の置まさる哉 K145 
と口ずさみ給けるも、思ある人とぞ聞えし。父大納言(だいなごん)、法皇の御書の事聞給(たまひ)て周章(あわて)悦給へり。御所へ可(レ)進にて内々其用意有けれ共、更に聞入給事なし。大納言(だいなごん)は大に本意なき事に思はれて、親の
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為に不孝の人にておはしけるを、今まで父子の儀を思けるこそ口惜けれ、今日より後は永く親子の好みをはなれ奉る。人参り寄まじと戒めければ通ふ人も(有朋下P176)なし。乳母子(めのとご)に兵衛佐(ひやうゑのすけ)と云女房一人ぞ免れて候ける。是に付ても世の憂き事を思つゞけ給けるにや、いつも引かづき泣より外の事ぞなき。さても或(ある)時(とき)■(もとゆひ)をひろげて、何とやらん書付て、又如(レ)元に引結捨給へり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)是を取てひらき見に一首の歌也。
  結てし心の深きもとゆひに契しすゑのほどけもやせん K146
書すさみ給へり。是を見てこそ兵衛佐(ひやうゑのすけ)始めて思ある人とは知にけれ。色に出ぬる御心の内争か知べきと思て、様々諌め申けるは、如何に法皇の御書の候けるには御返事(おんへんじ)は申させ給はざりけるにや、女房の御身には、加様の御幸をこそ神にも祈仏にも誓て、あらまほしき御事にて候へ、さらでは又何事を思召(おぼしめし)、いかならんとて父御前の御悪を蒙らせ給べき、猶も随ひおはしまさば、などか御赦れもなくて候べき、さらば御幸にもなり、御目出(めでた)き御事にて候べしなんど、細々と口説申ければ、女房涙を流し給(たま)ひ、物の心を弁る程の者、争か父の仰を背べきなれ共、人しれず思ふ事あり、何程ならぬ夢の世中、尽せぬ思の罪深からんずればとて、又引かづきて臥給へり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は、如何なる人の御事を思召(おぼしめし)入て角は仰候ぞと問奉けれ共、いなせの返事もなかりければ、童をさなくより御身近く付まゐらせて、立去方も侍らで、何事も二心なく深く憑進せてこそ侍に、かほどに(有朋下P177)御心を置せ給ける事
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の悲さよ、承たらば憂もつらきも、共の歎にてこそ候はめと終夜(よもすがら)口説奉ければ、理を折て仰られけるは、有し殿上の淵酔に、小松左衛門佐の云し言の有しを聞入ざりしかば、ひたすら穂に顕て、此世一の事に非ず、可(レ)然先世の契も有けるにやとまで、心の中を知せたりしかば、見そめたりしに、後の世までも同心にと云し者を、角と聞ば如何計歎かんずらんと思に、心苦きぞとよと宣へば、兵衛佐(ひやうゑのすけ)労く御糸惜思つゝ、さる御契の有けるにや、小松殿(こまつどの)よりも申させ給と聞えしぞかしと思出て、急ぎ小松殿(こまつどの)へ参て、北御方に、然々の仰事なん申たりければ、糸惜事にこそとて三位中将に尋給へば、さる事有とて急ぎ車を遣て迎取奉給へり。彼小松殿(こまつどの)の北方と申は、新(しん)大納言(だいなごん)の妹、姫君には御姨母なれば、三位中将には御いとこ也。年比にも成ければ、男女の子息儲給たる御中也。男子は十歳六代御前、女子は八つ夜叉御前とぞ申ける。共にわりなく厳き御有様(おんありさま)也。時の間も離れ難き人々を憑もしき人もなきに、打捨出なん事こそ悲けれとおぼすに、御涙(おんなみだ)関敢ず。北方も後れじと出立給へば、中将は、兼て申侍しぞかし、具し奉ては御身の為糸惜ければ、只留給へ、維盛西海に下て、水の底にも沈み敵にも討れんを親り御覧ぜん事、いか計かは悲かるべき、露愚の事はなき物を、角な歎給そと宣へば、北方、(有朋下P178)いかに角は聞ゆるぞ、後の世までもとこそ契しに、今更打捨給ふ事心うさよとて、涙もせきあへず御座(おはしまし)けるを見るに付ても、為方なく思召(おぼしめし)けれ共、様々に誘給ける程に、ほど経時移ければ、維盛をば二心ある者と大臣殿宣なるに、今迄打出参らねば、いとゞさこそ思給ふらめとて、泣々(なくなく)打出んとし給へ
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ば、北方、父もなく母もなし、甲斐なき女に幼少き者共を打預、只一人都に残し留、いかにせよとて情なく振捨て出給ぞ、野末山の奥までも相具してこそ兎(と)も角(かく)も見なし給はめ、縦習はぬ旅なり共、此に捨られ奉て、明暮恋し悲しと晴ぬ思にやまさるべき、稚者共の便なく歎かん事、父の御身として、などか顧給はざるべきと宣(のたま)ひて、袖を引へつゝ、人の聞にも不(レ)憚音を立てをめき給へば、いと見捨難く思給へ共、さて有べき事ならねば、重て宣(のたま)ひけるは、留置奉るは、誠に情なくこそ思召(おぼしめす)らめ共、維盛は遠き情をこめ奉て角は相計へる也、後には賢くも計て捨置けりと、思召(おぼしめし)合する御事も有べし、若又いづくにも落留り、心安(こころやす)き所あらば、必急ぎ迎とらんと、すかし誘へて出給はんとしける程に、新三位中将資盛、左中将清経、左少将有盛、侍従忠房、兼盛、備中守師盛、五六人の弟達、各門に打入つつ、行幸は遥(はるか)に延させ給(たま)ひぬらん、いかに今までかくては御座(おはしまし)候ぞと宣(のたま)ひければ、三位中将は、少き者(有朋下P179)共の痛慕侍を誘侍程にとて、涙に咽て立給へり。北方は冑の袖に取付て、さて打捨て出給ふにやとて叫給ふ。若君姫君もろ共に、左右の袂(たもと)にかなぐり付て、我捨られじとぞ慕ひ給ふ。三位中将は余りに無(二)為方(一)被(レ)思ければ、重藤の弓のはずにて、御簾をざと掻揚て、弟の殿原に、是御覧ぜよや、如何にも軍の先をこそ蒐候はめ、稚者共が遺を、思はじとすれ共思はれて、争か情なく引切べしと、心弱に誘侍る程に、出兼て侍ぞやとて涙を流し給へり。冑の左右の草摺には、若君姫君取付給へり。鎧の袖には北方と覚しくて取付給へり。日来はさしもこそつゝみ忍給しに、悲さには恥をも忘れけるにや、
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人々の見あはれけるにも不(レ)憚悶焦給ふ。弟の殿原是を見給て、各涙を流しつゝ、馬の鼻を引返し、門に出てぞ泣給ふ。やゝ有て新三位中将、又縁のきはまで打寄せて、御遺(おんなごり)はいつも尽ぬ御情(おんなさけ)、誠に打具し奉歟、思召(おぼしめし)切歟、御心弱も折に依べき事に候、兎(と)も角(かく)も疾々と聞えければ、三位中将心強く思切、振捨てこそ打出けれ。北方稚人々、後れじと慕ひ給へば、中将も心強は出たれ共、跡に心は残けり。行も留も推量られて哀也。
 < 昔悉達太子の、檀特山に入らんとて王宮を出しに、耶須多羅女を悲て出もやらざりけんも、角やと思しられたり。彼は報恩の道に入、終に覚を開給、是は闘戦の旅に出づ、後いかな(有朋下P180)らんと無慙也。>
侍共も面々に打出ける其中に、北国にて討れし斎藤別当真盛が子に、斎藤五、斎藤六とて兄弟あり。斎藤五は十九、斎藤六は十七にぞ成ける。三位中将此二人を招寄て、年来身近召仕つれば、眤さにいづくまでも召具し度思へ共、己等は無官(むくわん)にて、出仕の伴なんどもせねば、墓々敷人に見しられざれば、幼者共を留置事の■(おぼつか)なきに、二人は是に留て、少き者共の杖柱ともなれと宣へば、兄弟二人、馬の左右の承■(みづつき)に取付て、何れも御宮仕は同御事なれば、仰に随ひ進すべきにて侍ども、公達北御方の御歎承り、忍べしとも覚えず、其上女房の御身幼御事、何の御事かは侍べき、たゞ御向後こそ覚束(おぼつか)なく思ひ進すれば、落著せ給はん処までは御伴にこそとて、後れ奉らじと叫けり。中将宣(のたま)ひけるは、誠に年来の好みはさる事なれ共、多者共の中に、思ふ様有てこそ加様には云に、などか口惜我云事を
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用ぬぞ、維盛に随はんに露劣まじと恨給へば、遥(はるか)に見送奉り、猶も走付参度は思たれども、誠に思召(おぼしめす)様ありてこそ宣らめと思なり、遺は旁た惜けれ共、兄弟泣々(なくなく)帰にけり。三位中将心づよくは出給たれども、跡に心は留て、前へは更にすゝまれず、隙なき涙に掻くれて、行前も又見えざりけり。弟達の見合れけるもさすがつゝましく覚て、さりげなくもてなし給へども、抑る袖の下よりも、余て涙ぞこぼれけ(有朋下P181)る。北方は、是程に情なかるべしとは年比は思はじものをとて、引かづき臥給へば、少き人々もろともに、倒伏もだえ焦給けり。日数ふれば、北方二人の公達を拘て、世も怖しく道も狭く覚しける上、かく打捨られ給(たまひ)ては、一日片時堪て御座(おはします)べしとは覚さゞりけれ共、つれなく消ぬ露の身の、日数もさすが積つゝ、年月をこそ被(レ)送けれ。歎に死なぬ理も、今こそ被(二)思知(一)けれ。
越中次郎兵衛盛嗣、大臣殿御前に進出て申けるは、池殿は御留にこそ侍共、一人も見え候はず、口惜侍者哉、上こそ恐れ有ども安からず存候に、侍共に一矢射懸て帰参んと申。大臣殿打領許給(たまひ)て、さなくとも有なん、年来の重恩を忘て、いづくにも落著ん所を見置かぬ程の者をば、兎角云に及ばずと制し給けるぞ糸ほしき。さても権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)は如何にと問給へば、盛嗣、小松殿(こまつどの)の公達一所も見えさせ給はずと申けるに、大臣殿は、池(いけの)大納言(だいなごん)の様に、頼朝(よりとも)に心を通すやらんと覚ゆれば、さこそは有らめとて、世に心細げに宣(のたま)ひて、涙のこぼれけるを押拭給ければ、人々も冑の袖をぬらしけり。新中納言知盛、此有様(ありさま)を見給(たまひ)て、皆是日比(ひごろ)思儲し事也、今更驚べきに非ず、さはあれ共、都を出て、未一日をだにも経ぬ
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に、人の心も替畢ぬ。増て行先さこそはと推量らるれば、只都にて如何にも成べかりつる者をとて、大臣殿の方をつらげに見(有朋下P182)給けるぞ実にと覚て無慙なる。
S3105 畠山兄弟賜(レ)暇事
畠山庄司重能、小山田別当有重、兄弟二人は、年来平家に奉公して、都落にも御伴申て、泣々(なくなく)淀まで下たりけるを、大臣殿御覧じて、近く両人を召て、御供神妙(しんべう)々々(しんべう)、但いづくまでも相具すべけれ共、子息家人等(けにんら)皆東国に有て頼朝(よりとも)に相従へり、身は御供に候て心は鎌倉に通ふ覧、親子の儀それ悪からず、技■(ぎかん)計下たらば何にかはせん、疾々罷帰れ、もし世にありと聞ば思ひ忘れず参べき也と宣へば、重能、有重畏て、身は恩の為に仕はれ、命は儀に依て軽しと云事あり、年来恩を蒙て身を助妻子を養ひ候き、今さら子が悲く妻が恋しければとて争か見捨奉べし、落著御座(おはしま)さん所までは御供也と申せば、人の親の子を思ふ志、尊も卑も替る事なし、されば子は東国にありて源氏に随ひ、親は西海に落て身を亡さん事、不便也、只とく/\頸を延て、頼朝(よりとも)に随て再妻子を相見るべし、つゆ恨と思ふべからずと宣(のたま)ひけるこそやさしけれ。二人の者共廿余年の好なれば、遺は実に惜けれ共、流石(さすが)に身のすて難さに、泣々(なくなく)都へ上にけり。
権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛、資盛、清経(有朋下P183)已下、兄弟の人々三百(さんびやく)余騎(よき)にて、行幸ははや成ぬ。急やいそげ打やうてとて、大宮(おほみや)を下に、東寺、四塚、造路、御吉野、志賀、柳原、淀津、羽束、六田河原を打過て、関戸院辺にてぞ行幸には追付給ける。大臣殿は、此人々を見給(たまひ)てぞ少力付て、今まで見えさせ給は
P0752
ざりつれば、■(おぼつかな)く思奉りつるに、角て又見えさせ給へば嬉くこそと宣へば、三位中将は、稚者共の強に慕ひ侍りつるを誘へ侍つれば、今まで行幸には後れ進せ候へと宣へば、何とて具し奉給はぬぞ、留置奉ては、如何にしてか御座合する、御心苦き事にてこそと宣へば、行前とても憑もしくも候はずと計にて、問につらさの勝りつゝ、いとゞ涙を被(レ)流けり。是を聞ける人々は、実にと思つゝ、我身の上とぞ悲みける。池(いけの)大納言(だいなごん)の一類は、今や/\と待れけれ共、落留て見え給はず。
S3106 経正参(二)仁和寺宮(にんわじのみや)(一)事
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛の子に、但馬守経正と申は入道の甥也。童形の程は、幼少より仁和寺宮(にんわじのみや)守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)に候て、御愛弟にておはしけるが、是も都を落けるに、昔の好み難(レ)忘覚えければ、最後の見参に入進せんとて、有教朝重と云侍二人召具して、只三騎にて仁和寺宮(にんわじのみや)(有朋下P184)へぞ参給。経正は練貫に鶴を縫たる鎧直垂(よろひひたたれ)に、萌黄糸威の鎧をぞ著たりける。人して申入けるは、一門の栄花既(すで)に尽て、今日都を罷出候。再花洛に還登らん事有難し、身を西海の底に沈め、骸を山野の塵にまじへん事疑なし。何事も皆先世に報う事と思ふ中にも、今一度君を見奉らずして空ならん事、憂世(うきよ)の妄念とも成侍りぬと悲く覚え候へば、乍(レ)憚推参と申入る。宮大に憚思召(おぼしめし)けれ共、さしも糸惜不便と思召(おぼしめし)し者なる上に、誠に都を落下る程なれば、又御覧ぜん事有まじとて御前近く召れけり。経正悦で、冑著ながら中門の廊に畏り、跪て申けるは、十一歳の時より此御所に参、不便の者に被(二)思召(一)(おぼしめされ)しかば、慈悲の御衣の下より生立られ進せし上は、剃髪染衣の形にこそ罷成べきに、心ならず在俗不善の身と成、叙爵し侍しか
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共、出仕の隙にはいつも此御所にこそ伺候申しに、近年源平の諍に打紛れて後は、つと参る事こそなかりつれ共、五月三日に不(レ)参事はなかりき。而一族運傾て、今日既(すで)に都を罷出づ、遥(はるか)の西海に落下り、八重の塩路を漕隔なば、帰らん期を不(レ)知、骨を道の側にさらし、名を浪の末に流さん事疑なし。哀不便の昔の御好み、生々世々に争忘奉べきなれば、今一度君をも見進せばやと存じて、人々ははや落罷ぬれども、経正は先是まで参上仕に、御前近被(二)召進(一)せぬる事、申に猶も余あり、抑(有朋下P185)又下預し青山をば、如何ならん世までも御形見にとこそ思侍つれども、争か斯る名物を、空く旅の空に引失ひ、波の底に沈め侍べき、されば返上仕らんとて持参、それ進らせよとて、郎等有教を召て、錦袋に入たる青山と云琵琶を取出して、輪台、青海波、蘇香、万寿楽の五六帖をぞ暫く弾じ給(たま)ひける。是を最後と引給へば、聞人涙を流しけり。さて琵琶を懐て御前に指置給つゝ、鎧の袖を顔に当て、やゝさめ/゛\と泣給ふ。宮は此有様(ありさま)を御覧じ聞召(きこしめし)て、聊も御返事(おんへんじ)をば仰せず、香染の御衣の袖絞りあへさせ給はず、哀に堪ぬ御有様(おんありさま)、徐の袂(たもと)ぞ濡増る。
S3107 青山琵琶流泉啄木事
抑此琵琶は、承和二年に掃部頭貞敏が勅宣(ちよくせん)を蒙、大唐国に渡つゝ、簾承武に謁して秘曲を伝へ習しに、二の琵琶を得たりき。玄象、青山是也。博士此琵琶を弾じつゝ、曲を貞敏にをしへしに、青山の緑の梢に、天人天降つゝ廻雪の袖をひるがへす。博士瑞相に驚て、青山と名をつけき。
 < 又此琵琶の造様、紫藤の槽に枝の腹、花梨木の頭に同天首、黄楊のはん首に同撥、白心のふくしゆに、虎の皮の撥面落帯なり。
P0754
撥面の絵には、夏山の(有朋下P186)碧の空に、有明の月出たる様を書たれば、青山共名付たり。譬ば撥面に、牧の馬と書たれば、彼の琵琶を牧馬と如云也。>
昔村上天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、月明々として陰なく、風颯々として最冷、秋夜深更に臨で御寂き折節(をりふし)、御心を澄しつゝ、此青山を取出御座(おはしま)して、御自万秋楽の秘曲を弾じ給けるに、撥の音にやめでたりけん、月もさやけき軒端頭に天人天降給(たま)ひて、五六帖の秘曲の時、廻雪の袖を翻し、雲井に登給にけり。懸る目出琵琶なれば、其後凡人引事なし。仁和寺宮(にんわじのみや)に伝り、代々此御所の重宝なりけるを、皇后宮亮経正、十七にて初冠して軈(やが)て五位に成。すき額の冠を給(たまひ)て、宇佐宮の御使に立られける時、申預て下つゝ、当社権現の神前にて、磐渉調にて青海波を弾じ給ける。御神殿やゝ動つつ、内より二羽の千鳥飛出て、社壇の上にぞ舞遊。神明御納受(ごなふじゆ)有て化現し給と覚えて忝(かたじけな)し。経正楽をば留て、三曲の其一流泉の曲を調べたり。宮人、巫女、賤女、賤男に至まで、呂律緩急をば不(レ)知ども、感涙袖を絞けり。凡人此琵琶を弾ずる事は、経正計ぞ有ける。斯る希代の重宝なれば、身を放たず家に伝とこそ思はれけめ共、都を落別るゝ程なれば、縦波の底に消失ぬ共、是を御覧ぜん折々は思召(おぼしめし)出し御座(おはしま)して、後の世をも御弔あれかしと思ければ、進報しけるにこそ。
 < 抑流泉曲とは、都率内院の秘曲也。菩提楽とは(有朋下P187)此楽也。弥勒菩薩常に此曲を調て、聖衆の菩提心をすゝめ給ふ故也。其声歌に云、
  三界無安 猶如火宅 発菩提心 永証無為 K147 
P0755
とぞひゞくなる。漢武帝の仙を求め給し時、内院の聖衆天降つて、武帝の前にて此曲を調べ給し時、竜王(りゆうわう)窃に来つて、南庭の泉底に隠居て此を聴聞せしかば、庭上に泉流れて満たりしより、此曲をば流泉と名たり。
我朝には延喜第四王子会坂の蝉丸の琵琶の上手にて、天人よりつたへられたりしを秘蔵せられて、更に人にさづけたまはず、博雅三位三年の程、夜々(よなよな)関屋にかよひつゝつたへたりしを、三位も是を秘蔵して、たやすく人にはつたへざりけり。
啄木と云曲も天人の楽也。本名解脱楽と云。此曲を聞者は生死解脱の心あり。其声歌に云、
  我心無碍(むげ)法界同 我心虚空其本一 我心遍用無差別 我心本来常住仏 K148 
とぞひびくなる。震旦の商山に、仙人多くあつまつて偸に此曲を弾じけるに、山神虫に変じつゝ、木を啄む様にもてなしてこれを聞けるより、啄木とは申也。此楽を弾ずる時は、天より必妙華ふり、甘露定りて、海老尾に結びけり。>
さても経正は既(すで)に罷出んとしけるが、今を限の別の道、立もやらず、琵琶を御前に閣きつゝ、角ぞ思つゞけける。(有朋下P188)
  呉竹のもとの筧はかはらねどなほ住あかぬ宮の内かな K149 
宮も御涙(おんなみだ)を押へ御座(おはしまし)て、
  呉竹の本の筧は絶はててながるゝ水のすゑをしらばや K150 
御前に候ける人々、昔の好み争可(レ)忘なれば、各遺を惜つゝ、墨染の袖をぞ絞ける。大蔵卿(おほくらのきやう)法印は、余りに悲く思ひつゝ、是や最後の別なるらんと思ひ入て、
P0756
  夏山の出入月の姿をばいつか雲井に又も見るべき K151 
経正の返事、
  夏山の緑の色はかはるとも出入月を思ひわするな K152 
侍従律師行経は、殊に不(レ)浅契たりける人也。
  哀なり老木若木も山ざくらおくれ先立花も残らじ K153 
経正返事、
  旅衣夜な/\袖をかた敷て思へば遠く我は行なん K154
と宣(のたま)ひて、御遺(おんなごり)は旁推量御座(おはしま)すべし。今は心づくしのはてまでも、是を最後の思出とて、御前を立給けり。年来見なれし人々も、鎧の袖に取付て、衣の袂(たもと)を絞けり。夜を重(有朋下P189)日を重ぬ共、別はいつも同事、行幸は遥(はるか)に延させ給ぬらんとて、心づよく振放、甲の緒をしめ馬に打乗出給ふ。参る時は世を忍たる体なれ共、帰る時は赤旗赤符付させつゝ、南を指て歩はせけり。行幸に追付進せんとて、心づよくは出たれ共、住なれし故郷はさすがに悲く覚えつゝ、鎧の袖に涙落て行前も不(レ)見けり。梅津里は夏なれど、匂を残して芳しや、桂里の月影も、思出てぞ通られける。大井河、岩越瀬々の水の泡、旅の憂身の悲さに、消入心地し給へり。
飛騨守景家(かげいへ)も、御伴にとて出立けるが、三歳になる孫に遺を惜つゝ、如何がせんとぞ悲ける。其孫と云
P0757
は、北国の軍に討れし飛騨太郎判官景高が子也。其妻は夫に後れて深思に沈、此少者をかゝへてのち如何がせんと歎し程に、積思に堪ずして、此世空く成にけり。父にも後れ母にも別て、孤なりけるを、祖父飛騨守景家(かげいへ)が、我懐に拘抱て、常は口説言して、哀果報なき身となれる悲さよ、懸る忘がたみを残置、我さへ物思ふ事の無慙さよとて、鳥の雛を■(あたたむる)が如孚ける程に、平家都を落ければ、景家(かげいへ)も出立けり。東西もしらぬ稚者を、宿定めなき旅の道に具せん事も叶ふまじ、跡に憑もしき者もなければ、誰に預べし共覚えず、思侘てつく/゛\是を案じ出して、冑の袖に懐きつゝ、母の八十有余(いうよ)に成けるに具し行て、此子預け奉る。御為には曾孫也、(有朋下P190)景家(かげいへ)西海の浪に沈み候(さうらふ)共(とも)、生し立て御形見共御覧候へとて、打預けつゝ落行けり。景家(かげいへ)が母老々として、庭に杖つき走出て泣々(なくなく)申けるは、我身縦若く盛なりとも、懸る乱の世中に如何にしてか育べき、況や八十に余て今日明日とも知ぬ命也。行末遥々(はるばる)の少き者を、何とせよとて捨預てはおはするぞ、縦情なく、老たる母をこそ振捨て出給ふ共、恩愛の別の悲さに打副て、歎を重給ふ事こそ心うけれ、如何ならん野末山の奥へも具し行給へとて、嬰児の手を引、鎧の袖に取付て、門を遥(はるか)に出たりけり。弓矢とる身の哀さは、人に弱気を見せじとて、かなぐり棄て出けれども、涙は先にすゝみけり。
落行平家は誰々ぞ。公卿には前内大臣(ないだいじん)宗盛、平(へい)大納言(だいなごん)時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛、右衛門督(うゑもんのかみ)清宗、本三位中将重衡、権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛、越前三位通盛、新三位中将資盛、殿上人(てんじやうびと)
P0758
には内蔵頭(くらのかみ)信基、但馬守経正、左中将清経、薩摩守忠度、小松新少将有盛、左馬守行盛、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、小松侍従忠房、若狭守経俊、淡路守清房、僧綱(そうがう)には、二位僧都(そうづ)全真、法勝寺(ほつしようじ)執行能円、中納言律師忠快、経誦坊阿闍梨(あじやり)祐円、侍には受領検非違使(けんびゐし)、衛府諸司(しよし)百六十人、無官(むくわん)の者は数を不(レ)知、此二三箇年の間、東国北国度々の合戦に被(二)討漏(一)たる人々也。(有朋下P191)
S3108 頼盛(よりもり)落留事
池(いけの)大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)も、池殿の亭に火を懸て、鳥羽の南、赤江河原まで落給たりけるが、赤旗赤符ちぎり捨て、此より都へ帰上る。八条女院の御所、仁和寺(にんわじ)常葉殿に参篭し給へり。落残る勢僅(わづか)に百余騎(よき)也。兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許より度々被(二)申送(一)けるは、平家追討の院宣を下給る上は私を存ずべからず、御一門の人人恨申べきにて候、但御あたりの事は驚思召(おぼしめす)べからず、故池尼御前に遁れ難き命を被(レ)助進せて、今に甲斐なき世に立廻れり、其御恩争か奉(レ)忘べきなれば、如何にも報い申さんとこそ存ずれ共、後れ進ぬれば力及ばず、今は故尼御前の御座と深思進すれば、頼朝(よりとも)角て世に立廻り候はば、朝恩にも申替て御宮仕申べし、ゆめ/\■(いつはり)飾の所存にあらずと被(レ)申たりける上、法皇仰之旨も有けるを憑て留給ふ。又同き侍に、弥平兵衛尉宗清と云者あり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)平治の逆乱にきらるべかりけるを、此宗清、池尼御前の使として、兎角詞を加て死罪を申宥たりけるに依て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)思忘給はず、国国の兵を差上せ給ける時も、穴賢池殿の殿原に向て弓矢を引事有べからず、又宗清兵衛に手かくなとぞ被(二)誡仰(一)ける。平治に頼朝(よりとも)助りて、寿永に頼朝(よりとも)遁給ふ。周易に、(有朋下P192)積善之家有(二)余慶(一)、不善之家有(二)
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余殃(一)と云本文あり。誠なる哉此言、人に情を与るは、我幸にぞかへりける。
S3109 貞能(さだよし)参(二)小松殿(こまつどの)墓(一)付小松大臣如法経事
源氏多田(ただの)蔵人行綱、摂津国(つのくに)を押領して河尻を打塞と聞えし間、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)馳向たりけれ共、僻事にて帰上る程に、相模が辻子と云所にて[* 「まて」と有るのを他本により訂正]行幸に参合ふ。貞能(さだよし)馬より下、大臣殿已下の人々に向ひ奉て、穴心う、是は何地へとて御座やらん、都にてこそ如何にも成給はめ、又西国(さいこく)へ落させ給たらば助り給ふべき歟、落人とて此彼にて打殺され射殺され、骸を道の側にさらし、名を後の世にくだし給はん事口惜かるべし、とく/\是より還上らせ給へとて爪弾に及ぶ。大臣殿宣(のたま)ひけるは、貞能(さだよし)よ汝はいまだ不(レ)知、思ふも理なれ共、源氏昨日より天台山に登て、谷々坊々に充満たり、又此夜半より、法皇も御所を出させおはしまして渡らせ給はず、男子の身ならば如何がせん、主上いまだ幼き御事也、女院二位殿(にゐどの)を始進せて女房達(にようばうたち)旁御座(おはしま)す、まのあたり心憂目を見るも悲ければ、一間戸もやと思、又禅門名将の御墓所に参て、今一度奉(レ)拝、思ふ事をも口説申、其後塵灰ともならんと思召(おぼしめす)(有朋下P193)也と仰ければ、貞能(さだよし)は、昔より源平世を諍て合戦いまに絶ず、縦敵天台山に有とも、争か住なれし都をばあくがれ出させ給べき、貞能(さだよし)は余に京の恋しく候へば、帰上て敵あらば討死して、同ば骸を都にさらし侍べし、敵なくば又こそ帰参らめとて、只一人都へ帰上つゝ、法住寺(ほふぢゆうじ)の辺に一宿したりけれ共、人々も引返し給はず、家々(いへいへ)は今朝皆焼払(やきはらひ)給ぬ、なにに付、いづくに有べし共覚ざりければ、貞能(さだよし)小松殿(こまつどの)の御墓に参て、夜深るまでは忍音に念仏申、頓証菩提と回向して後申けるは、君は加様の事を兼て被(二)知召(一)て、熊野権現に御祈誓
P0760
候て、とく失させ給けるにや、此世中いかに成立候べき、賢人の大臣とこそ君も臣も思奉し事に侍しか、草の陰までも遠き守とならせ給(たまひ)て、御一門今一度都へ返入給へとて、生たる人に物を云様に、涙を流して申けり。暁に及て夢を結ぶ。大臣衣冠正して、八葉の連座のいと目出(めでた)きに、左の足を指上て登らん/\とし給けるに、鬼神来て引落し奉る。貞能(さだよし)、あれは如何にと問奉りければ、大臣涙を流し、八葉の連座と云は都率天宮也、我君臣の儀を不(レ)乱、親子の礼を篤す、国を思ひ人を恵に全く私を以せず、其上莫大の善根異国に及に依て、都率天に生ぜんとする処に、一門の悪行に答て今為(二)鬼神(一)被(二)引落(一)たり。鬼神と云は即一族の悪霊也、されば汝、如法経を書写して必我後世を助(有朋下P194)よと宣ふと見て夢覚ぬ。其後墓堀起し、水に流すべきをば賀茂河に入、持すべきをば持せて、甲斐々々しくは云たりけれ共、泣々(なくなく)福原へこそ下けれ。
 < 王褒と申者、昔唐土に有けり。其母生たりける時、余に雷に恐けり。母死て後、雷のきびしく鳴時ごとに、必母の墓に行て、王褒是まで参て侍、雷電の音恐れ思給ふなと、声を挙て泣しかば、雷鳴を止けり。其の母夢に来て、悦ぶ色たび/\有けるとかや。至孝の志深き時には、古今上下、懸るためしも有けり。>
貞能(さだよし)後に聞えけるは、西国(さいこく)の軍破て下野国宇都宮へ下向す。彼宇都宮は外戚に付て親しかりければ、尋下て、出家して肥後入道と云て、如法経を書写して、大臣殿の後生を弔奉けり。貞能(さだよし)都へ返り入ぬと聞ける上、越中次郎兵衛盛嗣、上総七郎兵衛景清、二人大将軍として京へ上り、落留給へ
P0761
る平家の一門並侍共、人手に懸んより、一人も漏さず討捕べきと聞えければ、池殿は色を失ひ騒給(たま)ひ、こは如何にすべき、源氏は未(二)打入(一)、平家には引別ぬ、浪にも付ず磯にもつかぬ心地かなとて、只八条殿に参て、若の事候はば助させおはしまし候へ、と申されけるも云甲斐なし。女院は斯る乱の世なれば、我いかにと計ふべきにも非、そも如何がせさせ給ふべきとぞ仰ける。
平家の方の者やしたりけん、池殿の門前に、札に書てぞ立たりける。(有朋下P195)
  年比の平やを捨て鳩のはにうきみを蔵いけるかひなし K155 
大納言(だいなごん)此歌に恥て出仕もし給はず、常に篭居してぞおはしける。有為無常の境と云ひながら、命を惜身をかばふ事、定て可(レ)有(二)後悔(一)をや。年来芳志ある一門を捨て、他門に帰伏し給ぬる事、げにもいける甲斐なしとぞ人申しける。(有朋下P196)