『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十二

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賦巻 第三十二
S3201 落行人々歌付忠度自(レ)淀帰謁(二)俊成(一)事
落行平家の人々、或式津の浪枕、八重塩路に日を経つゝ、船に竿さす人もあり、或遠を凌近を分つゝ、駒に鞭うつ人もあり。前途をいづこと不(レ)定、生涯闘戦を日に期して、思々心々にぞ下給ふ。権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)の外は、大臣殿を奉(レ)始て可(レ)然人々は皆妻子を引具し給たりけれ共、下様の者共は妻子を都に置しかば、おの/\別を悲つゝ、行も留も互に袖を絞けり。夜かれ日枯をだにも怨しに、後会其期を知ざりけるこそ悲けれ。相伝譜代の好み不(レ)浅、年来日比(ひごろ)の重恩も争か忘べきなれば、人なみ/\に涙を押て出たれ共、心は都に通つゝ、行も行れぬ心也。淀の大渡にては、南無(なむ)八幡三所大菩薩(だいぼさつ)、再都へ返し入給へと各伏拝給へども、神慮誠にしり難し。薩摩守忠度、故郷の家々(いへいへ)煙とのぼるを顧て、
  古郷を焼野の原にかへりみて末も煙の波路をぞゆく K156 (有朋下P198)
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛、
  墓なしや主は雲井に別るれば宿は煙と立のぼるかな K157 
或旧女泣々(なくなく)口ずさみ給ける、
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  住なれし都の方はよそながら袖に波こす磯の松かぜ K158 
是を聞ける人々、いよ/\袂(たもと)を絞りけり。中にもやさしき事と聞えしは、薩摩守忠度と申は入道の舎弟(しやてい)也。淀の河尻まで下たりけるが、郎等六騎相具して、忍て都へ帰上る。如法夜半の事なるに、五条(ごでうの)三位俊成卿の宿所に行て門を扣く。内には是を聞けれ共、懸る乱の世なる上、いぶせき夜半の事なれば、敲共々々開ざりけり。余に強く敲ければ、良久有て青侍を出、戸をひらかせて是を問。忠度と申者、見参に申入度事ありて参たりと答ければ、三位大庭に下、世に恐て内へは入ざりけれ共、門をば細目に開て対面あり。忠度宣(のたまひ)けるは、懸身として御ため憚あれ共、所詮一門栄花尽て都に不(二)安堵(一)、西海へ落下侍、亡ん事疑なし、世静て後、定て勅撰の沙汰候はんか、縦身は八重の塩路の底に沈とも、藻塩草書置末の言葉、後の世までも朽ぬ形見に伝はり侍れかしと思出て、河尻より忍上て侍、是ぞ年比読集たりし愚詠共にて侍る、身と共に波の下にみくづとなさん事遺恨(有朋下P199)に侍り、是を砌下に進置候、勅撰之時は必思召(おぼしめし)出よとて、巻物一巻、泣々(なくなく)鎧の引合より取出たり。三位感涙を流し、是を請取、御詠一巻預置候畢、是永代秀逸の御形見、未来歌仙の為(二)指南(一)歟、此怱劇之中に御音信(おとづれ)に預事、恐悦不(レ)少候哉、縦浮生を万里の波に隔とも、御形見をば一戸の窓に納て、勅撰の時は思出侍べしと宣へば、忠度今は身を波の底に沈め、骨を山野に曝とも思事なしとて馬にのり、古詩を、
  前途程遠馳(二)思於雁山之暮雲(一) 後会期無霑(二)纓於鴻臚之暁涙(一)
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と打上々々詠じつゝ、南を指てぞ落行ける。本文には、後会期遥也と書たるを、
忠度還見るべき旅ならず、今を限の別也と思ければ、後会期無と詠じけるこそ哀なれ。三位も遺の惜して、遥(はるか)に是を見送ても、あはれ世に在しには、此人共にこそ諂追従せしに、替習とて、今は門を隔る事の悲さよと、哀なるにも涙、優なるにも涙、忍の袖をぞ絞られける。代静て後千載集を撰れけるに、忠度の此道を嗜、河尻より上たりし志を思出給(たまひ)て、故郷の花と云題に、読人しらずとて一首被(レ)入たり。
  さゞ浪や志賀の都は荒にしを昔ながらの山桜かな K159 
とよめる歌也。名字をも顕し、あまたも入まほしかりけれ共、朝敵となれる人の態なれ(有朋下P200)挿絵(有朋下P201)挿絵(有朋下P202)ば憚給(たまひ)て、只一首ぞ被(レ)入ける。亡魂いかに嬉く思けん、哀にやさしくぞ聞えし。此忠度、内裏の女房に心を移して、年来通ひ給(たま)ひ、情深き中也けるに、彼女房みめ形類なく、心の色世に有難しとほのめきければ、高倉院(たかくらのゐん)も思召(おぼしめし)入させ給(たまひ)て、忍て時々御幸あり。忠度は年来の知人也、院は日浅き御事也。天戸渡織女の、会夜希なる秋の夜の、月の光もさやけくて、虫の音絶々音信(おとづれ)たり。をり知がほに道芝の、露置そむる夕暮に、高倉院(たかくらのゐん)此女房の許へ御幸あり。忠度争か知べきなれば、夜深人定て其夜同通はれたり。院は先よりの御幸なれば、女房は御前にて御物語(おんものがたり)あり。忠度は後におはしたれば、角とも知給はね共左右なく入給はず、人の出よかし、角と云入んとおぼしけれ共、御幸の折節(をりふし)なりければ、如何
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にと咎る者もなし。忠度かなたこなたを立廻り、御前近き御縁に良久立居給(たま)ひ、扇をぞ仕給ける。蚊の目のきり/\と御前へ聞えけり。院も怪く思召(おぼしめす)御気色(おんきしよく)也。女房は忠度の来れるにこそ、角と告まほしく思はれけれ共、院に憚進ける上は、人して云べき便りもなし。忠度の待らん事も痛しく、折節(をりふし)骨なき事をも知れかしとて、女房何となき口ずさみの様に、野もせと仰られければ、忠度扇をたゝみて窃に帰給にけり。後に此女房に逢たりけるに、さても一日はいかにと問給へば、忠度、骨なきぞかしかましと仰(有朋下P203)候しかば帰てこそ、とぞ答たる。女房又宣(のたまひ)けるは、人して申たる事もなし、何をしるしにて角は思召(おぼしめし)けるぞといへば、野もせと仰候しかば帰りぬと。源氏夕顔の巻に、
  かしかまし野狭にすだく虫音よ我だに物はいはでこそ思へ K160 
と云歌の候ぞかしとぞ宣(のたまひ)ける。思寄給ける女房も、心え給へる忠度も、互に由ありてぞ覚えける。懸る優に情深き人にて、河尻よりも帰上り給ける也。
左馬頭(さまのかみ)行盛と申は、太政(だいじやう)入道(にふだう)の二男に、左衛門佐安芸判官基盛と云し人の子也。父は保元の乱の後、宇治河(うぢがは)にて水神に取れて失にけり。孤子にておはしけるが、京極中納言定家卿に奉(レ)付、歌道を学給けり。都を落給とて、定家の遺を惜つゝ、巻物一つに消息(せうそく)具して被(レ)送たり。巻物とは日来読集給たりける歌共也。定家卿披き見給ふに、来方行末の事共こまやかに被(レ)書て、端書に、
  流れなば名をのみ残せ行水のあはれ墓なき身は消ゆるとも K161
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定家是を見給(たまひ)て感涙を流し給つゝ、勅撰あらば必いれんと被(レ)思けり。薩摩守忠度の歌を、父俊成卿の、よみ人不(レ)知と千載集に被(レ)入たる事を、本意なき事に被(レ)思けり。忠度は朝家の重臣として、雲客(うんかく)の座に連れり。名を埋む事口惜く被(レ)思ければ、如何にも行盛を(有朋下P204)ば名を顕さんとて、朝敵なれば世に恐て、三代を過ざりける。後鳥羽、土御門、佐渡院御宇(ぎよう)を経て、後堀河院御時、新勅撰の有しに、今は苦しかるまじとて、左馬頭(さまのかみ)平行盛と名を顕し、此歌を被(レ)入たり。亡魂如何に嬉しと思ふらんと哀なり。
S3202 刈田丸討(二)恵美大臣(一)事
 < 昔称徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、藤原仲麿と云ふ人おはしき。是は贈太政大臣(だいじやうだいじん)武智丸の子也けり。高野女帝の寵臣にて、朝恩深して、政を我儘に執行間、奢心ありて世を世共思はず、只一族親類のみ朝恩に誇りけり。権勢日々に重くして、人の畏おそるゝ事、今の平家の如く目出かりき。我一人と世を押へ行て、是に勝つ者なかりければ、御門是を御覧じて、仲麿と云名を改て押勝と被(レ)付たり。大保大師に至れりしかば、すぞろに巧ましく思召(おぼしめす)とて、恵美大臣とぞ仰ける。去共盛なる者の衰る習あれば、河内国弓削と云所に道鏡禅師と云僧あり。貴き聞えありて、禁中に被(レ)召て如意輪の法を行ひければ、御寵愛甚くして、恵美大臣の権勢も物の数ならず、法師の身にて太政大臣(だいじやうだいじん)の位を給へり。門弟の法師共を以て、上達部などに被(レ)成けり。後には御位をゆずらんと思召(おぼしめし)て、和気清麿を御使として、(有朋下P205)宇佐宮へ被(レ)申たりけれ共、御免れなし。力及ばせ給はで只法皇の尊号を奉、弓削道鏡法皇とは是なりけり。大臣大に本意なき事に思て、帝を怨み奉り、天平宝字八年九月十一日、軍を起し国家をあやぶめ奉らんと謀けるが、漏聞えにければ、罪八虐に当るとて、さしもきり者也しかども、官職を被(レ)止て、死罪に行れんとせしかば、恵美大臣も兵を集めて、禦戦はんと用意あり。帝坂上刈田丸を大将軍として、数万騎の官兵を以被(レ)攻ければ、大臣堪ずして一門
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引具し、都を出て東国へ趣て、凶徒を語ひ朝家を討奉んと支度しけり。官軍遮て勢多橋を引、大臣此より引帰、北陸道を下りに、海津の浦、敦賀の中山打越て、越前国に逃下、我身を帝王と名乗、親類一族を大臣公卿と詐て、正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)を打留め、人の心をたぶらかし過ける程に、官兵又責ければ、船に取乗、新羅高麗へと志漕けれ共、王事靡(レ)塩ければ、波風荒て船より下戦けるが、同(おなじき)十八日(じふはちにち)に大臣終に討れけり。刈田丸其頸を以都へ上、一門の公卿五人被(レ)刎(レ)首、骨肉親類、同心合力の輩皆亡けるこそ無慙なれ。彼を以是を思ふに、平家栄花既尽ぬ、亡ん期時至れりとぞ申ける。昔の押勝は北国に越て討れ、今の平家は西海に下りて久しからじと哀也。>(有朋下P206)
S3203 円融房御幸事
〔去(さる)程(ほど)に〕二十四日夜半に、法皇法住寺殿(ほふぢゆうじどの)を御出有て、賀茂へ入らせ給たりけるが、爰(ここ)は都も無下に近し、猶悪りなんとて、御輿にて鞍馬へ御幸あり。御伴には右馬頭資時一人ぞ候ける。下北面の衛府に、定康、俊兼、知康、纔(わづか)に三人也。鞍馬寺も上下参詣の砌(みぎり)也。人目しげしとて、是より又横河へ上らせまし/\て、寂場坊に御座(ござ)ありけるを、大衆僉議(せんぎ)して、これ猶悪りなんとて東塔南谷円融坊へ渡し入進せけり。さてこそ衆徒も武士も力付て、円融坊の御所近候ければ、法皇も御安堵の御心也。是を角とも不(レ)知して、京都には、院は夜より失させ給ぬ、主上は悪徒(あくと)に被(レ)引て西国(さいこく)へ行幸、摂政殿(せつしやうどの)は吉野奥とかや聞ゆ。其外女院宮々も世の騒に恐れまし/\て、嵯峨(さが)、広隆、賀茂、八幡辺に付て逃隠させ給ぬ。平家は都を落たれ共、源氏もいまだ入替ず、主もなく人もなき所にて、自残留たる人々も、闇に迷へる心地にて、如何なるべし共不(レ)覚。天地開闢より以来、懸る事聞及ばずと歎く程に、廿六日(にじふろくにち)に、法皇は天台山に渡らせ給と披露あり。上下我先にとぞ馳参給ふ。入道前関白(くわんばく)松殿、当時摂政(せつしやう)内大臣(ないだいじん)基通、左大臣経宗、
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右大臣兼実、内大臣(ないだいじん)(有朋下P207)実定以下、大中納言(だいちゆうなごん)、宰相、三位、四位(しゐ)、五位、公卿殿上人(てんじやうびと)、上下の北面までも、官に居し職を帯し、先途を期し後栄を望て、人とかずへらるゝは一人も漏給はず参集て、円融坊には、堂上堂下門内門外、隙迫もなくみち/\たり。山門の繁昌衆徒の面目とぞ見えける。
S3204 義仲(よしなか)行家京入事
二十六日(にじふろくにち)の辰刻に、十郎蔵人行家は伊賀国より宇治路(うぢぢ)へ廻り、木幡、伏見をへて京へ入。木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)は近江国勢多を渡して、同日未刻に京へ入。是は天台山に登て惣持院に城郭(じやうくわく)を構へたりしかば、西坂本より入べきか、又東坂本に下つて、志賀唐崎より大関小関をへて京へ入べきにてあれ共、余勢数千騎(すせんぎ)、鏡、篠原、野州河原に陣を取たるをも打具せんが為に、又順道也。且は祝の京入なればとて、湖上を押渡て野路勢多をへて京へ入。其外甲斐、信濃、美濃、尾張の源氏等(げんじら)、此両人に相従、其(その)勢(せい)六万騎に及べり。行家、義仲(よしなか)都へ入て後は、武士在々所々を追捕し、衣装を剥取、食物を奪取ければ、洛中狼藉不(レ)斜(なのめならず)。(有朋下P208)
S3205 法皇自(二)天台山(一)還御事
〔同(おなじき)〕二十七日(にじふしちにち)、法皇天台山より還御、錦織冠者義広、白旗さして先陣に候けり。公卿殿上人(てんじやうびと)多く供奉して、蓮華王院の御所へ入せ給ふ。此二十余年、絶て久き白旗を今日始て御覧じけり。供奉の人々も珍しくぞ見給ける。
二十八日(にじふはちにち)に、義仲(よしなか)行家両人を院の御所へ召されたり。検非違使(けんびゐし)の別当左衛門督実家、頭弁兼光、御前の簀子に候。御気色(おんきしよく)に依て、平家内大臣(ないだいじん)以下之党類、追討すべきの由被(二)仰下(一)けり。両人
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庭上に跪て是を承る。義仲(よしなか)は赤地錦直垂に塗籠の箭負て、蒔剣をはけり。折烏帽子(をりえぼし)に黒革威の冑を著し、笠符を左右の袖にぞ付たりける。甲冑を著たる郎従五人、童一人を相具せり。行家は縫物の紺の直垂に同毛鎧、引立烏帽子(たてえぼし)を著て、郎等三人を相具せり。両人相並て東庭の南に当て、御所の方に向て、跪て候けり。別当実家座を起て、北の簀子に蹲踞して、砌下に可(レ)進之由頻目しけれ共、心をえずして勧まず。内裏は、前内大臣(ないだいじん)の党類を追罰すべきの由召仰ければ、行家は砌(みぎり)に近進て是を奉る、義仲(よしなか)は深敬て進ず。両人の作法何も取々にゆゆしくぞ見えける。法皇は御簾の内より叡覧あり。院宣の御返事(おんへんじ)をば、義仲(よしなか)畏て申け(有朋下P209)り。又前(さきの)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)上洛すべきとて、庁官を御使として関東へ被(レ)下けり。同日院(ゐんの)御所(ごしよ)にて議定あり。左大臣経宗、内大臣(ないだいじん)実定、堀河大納言(だいなごん)忠親(ただちか)、別当実家、大宮中納言実宗、梅小路中納言長方、右京大夫基家、源宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、左大弁(さだいべん)経房、新三位季経、新(しん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)泰通卿ぞ参られける。頭弁兼光朝臣仰を奉て、国主、爾剣鏡、西海に令(レ)趣給畢ぬ。母后主上還御有べきの由、院宣被(レ)進べきか、将又可(レ)被(レ)遣(二)追討使(一)か、定申べしと右大臣に仰ければ、国母定有(二)帰御志(一)歟、賊臣何無(二)還向之思(一)哉、若申(二)行還御(一)者、可(レ)被(レ)加(二)殊賞(一)之由、可(レ)被(三)仰(二)遣前内大臣(ないだいじん)之許(一)歟、失(二)国璽(一)事、王莽(わうまう)盗(レ)之、趙王奪(レ)之、漢家之跡雖(レ)非(レ)一、本朝之例会未(レ)聞、被(レ)待(二)返報(一)可(レ)有(二)左右(一)歟とぞ一同に定め申されける。
同(おなじき)二十九日追討の庁下文を被(レ)下。〔云、〕五畿七道(ごきしちだう)諸国、可(レ)追(二)討前内大臣(ないだいじん)宗盛以下之党類(一)事、件党類
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忽背(二)皇化(一)、已企(二)叛逆(一)、加(レ)之盗(二)取累代之重宝(一)、猥出(二)九重之都城(一)、論(レ)之朝章罪科旁重早可(レ)令(レ)追(二)討件輩(一)とぞ被(レ)載ける。昨日までは源氏を追討せよと、諸国七道に被(レ)下(二)院宣(一)、今日よりは可(レ)追(二)討平家(一)之由、五畿七道(ごきしちだう)に被(レ)下(二)院宣(一)。世の転変、政の改定、哀なりける事共なり。
同晦日頭弁兼光朝臣、奉(レ)仰可(レ)被(レ)行(二)行家義仲(よしなか)等勲功之賞(一)否、国主未(レ)定之間、可(レ)被(有朋下P210)(レ)行(二)除目(一)否之由、人々に勅問有けり。梅小路中納言長方卿申されけるは、勲功之賞尤可(レ)被(レ)行か、等差事、頼朝(よりとも)者為(二)本謀(一)、義仲(よしなか)者称(二)戦功(一)歟、昔誅(二)諸呂(一)立(二)文帝(一)、陳平雖(レ)為(二)本謀(一)、周勃依(レ)有(二)戦功(一)、周勃之賞已越(二)陳平(一)、然者(しかれば)義仲(よしなか)之賞、可(レ)勝(二)頼朝(よりとも)(一)歟、但承平に討(二)将門(まさかど)(一)、秀郷者有(二)興衆平定之忠(一)、貞盛(さだもり)者積(二)数度合戦之功(一)、公卿論(レ)功、秀郷之賞超(二)貞盛(さだもり)(一)畢、今頼朝(よりとも)挙(二)義兵(一)振(二)威勢(一)、旁頼朝(よりとも)之賞可(レ)勝、義仲(よしなか)が除目事、円融院大井河御遊(ぎよいうの)日、時中卿被(レ)任(二)参議(一)、其後於(レ)陣被(レ)行(二)除目(一)か、任件例被(レ)仰(二)勧賞(一)、後日可(レ)被(レ)行(二)除目(一)か、嘉承摂政(せつしやうの)事、太上天皇(てんわう)詔也、准(二)彼例(一)可(レ)被(レ)行とぞ被(レ)申ける。
十郎蔵人行家は、法住寺(ほふぢゆうじ)の南殿、萱の御所を捨て宿す。木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)は、大膳大夫信業が六条西洞院(にしのとうゐん)の家に宿す。
S3206 福原管絃講事
平家は、保元に春の花と栄えしか共、寿永に秋の紅葉と散はてて、八条の蓬戸、六波羅の蓮府、暴風塵を立、煙雲■(ほのほ)を払つゝ、福原の旧里に下て、故相国禅門(しやうこくぜんもん)の墓に詣つゝ、各法施を進り。思々の口説言、よその袂(たもと)もしをれけり。入道の造置給(たま)ひし花見の春の岡の御所、月見の秋浜の御所、雪見原の萱の御所、船見浜の浦御所、馬場殿二階(にかい)の桟敷殿、常(有朋下P211)の住居の御所とかや。五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)の
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造進せられし里内裏、其外人々の家々(いへいへ)、蔀も格子も破落、御簾も簾も絶はてて、いつしか歳の三年に痛荒にけるこそ哀なれ。旧苔路を塞て秋の草門を閉、瓦に松生て垣に葛かゝれり。台傾て苔むせり、松風計や通らん。簾絶ては閨顕也。月影のみぞ指入ける。さらぬだにもしをれはてぬる旅衣、是を見彼を見給にも、いとゞ涙ぞ袖ぬらす。母二位殿(にゐどの)は内に御座、大臣殿は外に居給(たまひ)て、貞能(さだよし)景家(かげいへ)以下の宗徒の侍共を、御前に召て仰けるは、積善之余慶家に尽て、積悪之余殃身に及、故神明にも放れ法皇にも被(レ)棄奉て、帝都を迷出て客路にさすらふ上は、何の憑か有べきなれ共、誠や一樹の陰に宿り一河の流を渡も、皆是先世の契とこそきけ、況汝等(なんぢら)は一旦随付たる門客に非、累祖相伝の家人也、其上十善帝王、三種神器を御身に随へて御座、野末山の奥なりとも、落留らせ給はん所まで送つけ奉、火の中に入水の底に沈とも、今は限の御有様(おんありさま)をも見はて進すべしと宣(のたまひ)ければ、並居たりける三百(さんびやく)余人(よにん)の侍共、老も若も、皆涙を流して御返事(おんへんじ)申けるは、怪の鳥獣だにも、恩を不(レ)忘徳を報ずと承る、何況人倫の身として、争年比日比(ひごろ)の重恩を忘れ、今更我君をすて進べき、此廿余年が間、妻子を孚み所従を顧も、一事として君の御恩に非と云事なし、全く二心有べからず、縦天竺(有朋下P212)震旦なり共、雲の終海の終までも御伴仕り侍るべし、御心安(おんこころやすく)被(二)思召(一)(おぼしめされ)候べしと、異口同音に申ければ、二位殿(にゐどの)も大臣殿も、聊憑もしく被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。
二位殿(にゐどの)又人々に被(レ)仰けるは、此福原は故(こ)入道大相国(たいしやうこく)のさしも愛し給し所也、魂魄も定て此にこそ住
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給ふらめ、今夜ばかりの遺也、西海に出なん後には再び爰を見ん事も有難し、亡魂も如何計かは哀に思召(おぼしめす)らん、且は最後の別也、且は最後の弔也、入道の為に管絃講行給(たまひ)て、後生を弔給へと被(レ)仰ければ、大臣殿尤可(レ)然とて、先故禅門の墓所被(レ)参、手自花香そなへて念仏申廻向して、涙を流し給ければ、一門の人々も皆袂(たもと)をぞ絞ける。其中に薩摩守忠度、角ぞ思つゞけ給。
  なき人に手向る花の下枝はたをれる袖のしをれける哉 K162 
と。御所に帰、仏懸奉なんどして管絃講を被(レ)始けり。
右衛門督(うゑもんのかみ)清宗、讃岐中将時実は蕭の役、薩摩守忠度、越前三位通盛は笛役、左中将清経、淡路守清房は笙の役、和琴は丹後侍従忠房、羯鼓は若狭守経俊、鉦鼓は平(へい)大納言(だいなごん)時忠、方磬は平中納言教盛、太鼓は内大臣(ないだいじん)宗盛、琴二挺琵琶三面、簾中の役、弁局大納言佐殿(だいなごんのすけどの)は琴、普賢寺殿北政所(きたのまんどころ)、帥佐殿、内侍局は、琵琶の役、法勝寺(ほつしようじ)執行能円、中納言律師忠快は伽陀の役、経誦坊阿闍梨(あじやり)(有朋下P213)祐円は式役、二位僧都(そうづ)仙尋は法華経(ほけきやう)たえ/゛\にこそよまれけれ。
 < 昔釈尊説法の砌(みぎり)に、大樹緊那羅が香山より出つゝ、八万四千(はちまんしせん)の伎楽を作り、浄妙無碍(むげ)の歌を以て、如来(によらい)大会(たいゑ)を供養せしに、釈梵護世の諸天、天竜夜叉の非人までも、琴音にきゝとれて威儀を忘たりけるに、迦葉尊者の舞給けるに、阿難唱歌し給けんも、角やとぞ覚ける。>
夫蕭笛琴箜篌、悉中道の方便に帰し、琵琶鐃銅■(はつ)併法性の深理に叶へり。妙音大士は十方楽普現色身
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の証是新に、馬鳴菩薩は苦空の曲、皆語得道の世を可(レ)知。是を以、極楽界会の月前には、聖衆倶会して楽を催し、■利(たうり)天宮の雲上には、天人歌舞して袖を翻す。加(レ)之霊山浄土(じやうど)の苔庭には、菩薩証得の響をなし、安養世界の玉橋には、如来(によらい)讃嘆の曲を奏し、常楽我浄の調べ麗くして猶麗く、苦空無我の音妙にして更妙なれば、不生不滅の曲は定て、虚空界の風に通じ、非有非空の響は、必ず法性海の波に和すらんとぞ覚えける。されば管絃も読経も円音教に帰し、伎楽も講唱も一実乗に混じて、同時一念の精誠を鑑、三種廻向の信力に依て、志す処の先人聖霊、九品往生を遂しめ給へと也。廻向の伽陀も終ければ、吹送笛の声、弾終る琴の音に、簾中も簾外も皆涙を流せば、僧衆も俗衆も共に袖をぞしぼりける。二位殿(にゐどの)は今を限の仏事ぞと、貴き中にも悲く、嬉き中にも哀にて、為方(有朋下P214)なくぞおぼしける。
入道の弟修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛は、詩歌管絃に長じ給へる中にも、横笛の秘曲を伝る事、上代にも類少く、当世にも並人なかりけり。一年法皇、故堀河院の御為に、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にて報恩講経供養の時、階下の公卿殿上人(てんじやうびと)、家をたゝして舞楽を奏し給(たま)ひしに、経盛其時は東宮(とうぐう)の大夫にて、左のをも笛を仕しに、伶人舞曲を尽に及んで宮中澄渡、群集の諸人各袖を絞けり。上皇も故院の御追善なれば、今は都率天上の内院に納り給らんと思召(おぼしめし)、竜顔より御涙(おんなみだ)を流させ給けり。八条左判官忠房は、陵王の秘曲を舞尽す。大ひざまづき小膝突、入日を返す合掌の手、終には皇序の袖を翻す。其家ならぬ人には、各笛を
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とゞめしに、此経盛皇序の秘説を吹給しかば、法皇叡感に不(レ)堪や思召(おぼしめし)けん、御前の御簾を上させ御座、御衣を脱て押出させ給けるを、経盛給(たまひ)て階下に帰著給しかば、男女耳目を驚す。此道に不(レ)携人は面を壁に向へたるもあり。懸ける人なれば、心有も心なきも是を惜けり。八条中納言入道長方の弟に、左京大夫能方は、経盛の横笛の弟子にて秘曲を伝給けり。今二説を残て落給しかば、如何なる博雅三位は会坂の麓に夜を重ね、うちのき府生忠兼は父をいましめ五逆罪を犯すぞと思へば、妻子兄弟を振捨て、同都を落給けるが、福原の眺望の御所にて、甘州には只拍子、倍臚には五節の楽拍子、底(有朋下P215)を極給しかば、竜笛鳳曲は聖衆の座に連るやとあやまたれ、霓裳羽衣のよそほひを天人影向するかと、見人聞人諸共に、涙を流さぬは無りけり。能方はいづくまでもと慕給けるを、経盛あながちに制し被(レ)申ければ、名残(なごり)は様々惜けれ共、福原の一夜の宿より、都へ帰上給けり。やさしかりけるためし也。角て平家は福原の旧里に一夜を明しき。秋の初風立しより、漸夜冷に成にけり。旅寝の床の草枕、露も涙も諍て、そゞろに物こそ悲けれ。明ぬれば今朝を限と思つゝ、内裏を始て人々の家々(いへいへ)皆■(ほのほ)とぞ焼上。余煙日の光を抑へつゝ、雲井の空にぞ消紛。形見に残る福原も、焼野の原と成しかば、さこそ哀に覚しけめ。昨日は東海の東に轡を並べ、今日は西海の西に纜を解、雲海沈々として蒼天既(すで)に晩なんとす。松風颯々として旅寝の夢も覚ぬべし。霞孤島に峙て月海上に浮べり。八重の塩路を漕分、浪に引れて行舟は、万天の雲に連を成、憑の雁に似たりけり。海士の焼藻の夕煙、尾上の
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鹿の暁の声、渚々の波音、遠近舟の曳や声、惣て目に見耳に聞事の、一として涙を催し心を傷しめずと云事なし。都に捨置し妻子も■(おぼつかなし)、栖馴し故郷も恋しければ、老たるも若も只泣より外の事はなし。但馬守経正、行幸に供奉すとて思続給けり。
  御幸する末も都と思へども猶なぐさまぬ浪のうへかな K163 (有朋下P216)
さても主上を始進せて、竜頭鷁首の船を海上に浮て出させ給へば、浪路の皇居静ならず、都を落し程こそなけれ共、是も遺は惜かりけり。棹のしづくに袖濡ては、古郷軒の忍を思出て、月を浸潮の深愁に沈、霜をおほへる芦の脆命を悲む。州崎に騒ぐ千鳥の声暁の恨を添、傍居にかゝる楫の音夜半に心を傷しむ。白鷺の遠樹に群居を見ては、東夷の旌を靡すかと肝を消し、夜雁の遼海に啼を聞ては、兵の船を漕かと魂を失ふ。青嵐膚を破て翠黛紅顔の粧やう/\衰へ、蒼波眼を穿て外土望郷の涙抑難し。さこそは悲かりけめと、推量れて哀也。指して行へは知ね共、露の命は松浦船、彼は須磨の関、是は明石浦など申を聞給ふに、藻塩たれつゝ歎けん、昔語の跡までも、思残す隙ぞなき。
寿永二年八月朔日、京中保々守護事、任(二)義仲(よしなか)注進之交名(一)、殊令(二)警巡(一)可(レ)加(二)炳誡(一)之由、右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)奉(二)院宣(一)、仰(二)別当実家卿(一)、出羽判官光長、右衛門尉有綱〈 頼政卿(よりまさのきやう)孫 〉十郎蔵人行家、高田四郎重家、泉次郎重忠、安田三郎義定、村上太郎信国、葦敷太郎重澄、山本左兵衛尉義恒、甲賀入道成覚、仁科
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次郎盛家とぞ聞えける。
S3207 四宮御位事(有朋下P217)
主上は外家の悪徒(あくと)に引れて、花の都を出て西海の波の上に漂ひ御座らん事を、法皇御心苦く思召(おぼしめし)て、可(レ)奉(二)還上(一)由、平(へい)大納言(だいなごん)時忠の許へ院宣を雖(レ)被(レ)下、平家是を奉(レ)惜、免進せざりければ、力及ばせ給はずして、さらば新帝を祝奉るべしとて、院の殿上にて公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あり。高倉院(たかくらのゐんの)御子、先帝の外三所御座、二宮をば儲君にとて、平家西国(さいこく)へ取下進けり。今は三四宮間を可(レ)奉(レ)立歟、又故以仁の宮の御子おはします、十七にぞ成せ給ける。是は還俗の人にて御座(おはしま)せども、懸る乱世には成人の主、旁可(レ)宜(二)還俗(一)の事、天武之例外に求むべからず。又昭宣公、恒貞親王を奉(レ)迎られき。還俗の人憚あるべからずとぞ沙汰有ける。去共法皇は、高倉院(たかくらのゐん)三四御子之間に思召(おぼしめし)定ければ、同八月五日彼三四宮を奉(二)迎取(一)。先三宮の五歳に成せ給を是へと仰有ければ、大に面嫌まし/\てむつがらせ給ければ、疾々とて速に返出しおはします。次に四宮を是へと申させ給へば、左右なく歩み寄らせ給。御膝の上に渡らせおはしまし、御なつかしげに竜顔を守り上進せ給けり。御歳四歳にぞならせ給。法皇は御哀気に思召(おぼしめし)、御髪掻撫させ給御涙(おんなみだ)ぐみて、此宮ぞ誠に朕が御孫也ける、すぞろならん者ならば、などてか懸る老法師をば懐く思ふべき、故院の少くおはせし顔立に違ねば、只今(ただいま)の様に思出らるゝぞや、懸る忘形見を留置れたり(有朋下P218)けるを、今まで不(レ)奉(レ)見ける事よとて、御涙(おんなみだ)を流させ給けり。浄土寺(じやうどじ)の二位殿(にゐどの)、其時は丹後殿の局とぞ申ける。御前に候給けるが、袖を絞て被(レ)申けるは、兎角
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の御沙汰(ごさた)に及ばず、御位は此宮にこそと聞えさせ給ければ、法皇子細にやと仰有て定まらせ給にけり。内々御占有けるにも、四宮は御子孫まで日本国(につぽんごく)の御主たるべしとぞ、神祇官(じんぎくわん)并陰陽寮など占申けり。御母は七条修理(しゆりの)大夫(だいぶ)信隆卿の御娘にておはしけるが、建礼門院(けんれいもんゐん)中宮の御時、忍つゝ内の御方へ被(レ)参ければ、皇子さしつゞき御座(おはしま)しけるを、父修理(しゆりの)大夫(だいぶ)、平家の鍾愛を憚、又中宮の御気色(おんきしよく)をも深く恐給けれ共、八条二位殿(にゐどの)御乳人(おんめのと)に付などせられけり。此宮をば法勝寺(ほつしようじ)執行能円法印の奉(レ)養けるが、平家に付て西国(さいこく)へ落ける時、余に周章(あわて)北方をも不(レ)被(レ)具、宮をも京に奉(レ)忘たりけるを、法印人を返して、急ぎ宮具し進せて西国(さいこく)へ下給へと、北方へ宣(のたま)ひたりければ、既(すで)に下らんとて、西八条(にしはつでう)なる所まで忍具し進せて出給たりけるを、御乳人(おんめのと)の妹に紀伊守範光と云者あり。心賢く思けるは、主上は西海に落下らせ給ぬ、法皇都に留らせ給たれば、御位をば定て四宮にぞ譲らせ給はんずらん、神祇官(じんぎくわん)の御占も末憑もしき事也とて、二位殿(にゐどの)の宿所に参て尋申ければ、西国(さいこく)より御文有とて、忍て此御所をば出させ給ぬと答ける間、こは浅増(あさまし)き事也と思、■(おぼつかな)き所此彼捜尋進せ(有朋下P219)て、唯今君の御運は開けさせ給べし、物に狂はせ給(たまひ)て角は出立給か、西国(さいこく)へ落下らせ給たらば、君も御位に立せ給(たま)ひ、御身も世におはせんずるにやとて、大に嗔腹立て取留め進せたりけるに、翌日法皇より御尋(おんたづね)ありて、御車御迎に参て角定らせ給けり。そも帝運の可(レ)然事と申ながら、範光はゆゝしき奉公の者也とぞ人申ける。
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七条修理(しゆりの)大夫(だいぶ)信隆卿は、白鶏を千羽飼ぬれば、必其家に王孫出来御座と云事を聞て、白鶏を千羽と志して飼給ける程に、後には子を生孫を儲て四五千羽も有けり、夥(おびたたし)などは云計なし。鳥羽、田井、西京田などに行て、稲を損じ■(ばく)を失ふ。懸ければ信隆の鶏とて人もてあつかへり。此彼にして打殺けれ共生子は多し。七条八条に充満て、尽べき様も不(レ)見けり。誠に其験にや有けん、四宮位に即せ給ふ。
義仲(よしなか)は高倉宮(たかくらのみや)の御子即位の事、内々泰経卿に申旨有ければ、同(おなじき)十四日に、俊暁僧正(そうじやう)を以義仲(よしなか)に御尋(おんたづね)あり。勅答には、国主の御事、為(二)辺鄙之民(一)不(レ)能(レ)申(二)是非(一)、但故高倉宮(たかくらのみや)、為(レ)奉(レ)慰(二)法皇之叡慮(一)、被(レ)失(二)御命(一)、御至孝之趣、天下其隠なし、争不(レ)被(二)思召(一)(おぼしめされざらん)哉、就(レ)中(なかんづく)以(二)彼親王宣(一)、源氏等(げんじら)挙(二)義兵(一)、已成(二)大事(一)畢、而今受(レ)禅沙汰之時、此宮の御事、偏(ひとへ)に被(レ)奉(二)棄置(一)、不(レ)及(二)議中(一)之条、尤不便の御事也、主上已(すで)に為(二)賊徒(一)被(二)取籠(一)給へり。彼御弟何んぞ強に可(レ)被(レ)奉(二)尊崇(一)哉、此等の子細更に非(二)義仲(よしなか)(有朋下P220)之所存(一)、以(二)軍士等之申状(一)、言上する計也と申ければ、人々義仲(よしなか)申状非(レ)無(二)其謂(一)とぞ申合れける。
S3208 維高維仁位論事
 < 昔文徳天皇(てんわう)の御子に、維高親王、維仁親王とて、御兄弟(ごきやうだい)二人御座(おはしまし)けり。維仁は第二の王子、維高は第一の王子也。互に御位を御意に懸けさせ給へり。天皇(てんわう)も分る御方なく、難(レ)棄御事共(おんことども)にて、叡慮思し召煩はせ給へれ共、御嫡子なれば維高親王とぞ内々は被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。第一王子維高親王と申は、御母は従四位下(じゆしゐのげ)左兵衛佐(ひやうゑのすけ)名虎が女、従四位(じゆしゐの)上紀静子と申。第二王子維仁親王と申は、御母
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は太政大臣(だいじやうだいじん)良房、忠仁公御女(おんむすめ)藤原明子、後には染殿后と申是也。一の宮の御事をば、外祖紀名虎取り立て奉らんとて、帝運の可(レ)然にて、第一の王子に出来御座(おはしま)せり、御恙なし。されば御位は此公にこそと頻(しきり)に内奏申しけり。二の宮の御事をば、外祖にて忠仁公奉(二)取立(一)とて、一の宮は落胤腹、名虎が御女(おんむすめ)也。次弟は是の執柄家の御女(おんむすめ)、后立王子也、子細にや及ばせ給べきと、平に被(二)内奏(一)けり。此の事誠に難題にて、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あり。就(二)勝負(一)御位を可(レ)被(レ)進とて、初には八幡に臨時の祭を居て、(有朋下P221)十番の競馬あり。四番は一宮に付、〔六〕番は二宮に付く。此上は維仁親王御位につき給ふべかりけるを、天皇(てんわう)猶御心不(レ)飽思し召ければ、後には大内にして、相撲被(レ)行(二)節会(一)て、重て勝負を有(二)叡覧(一)、可(レ)有(二)御譲(一)と儀奏有ければ、維高御方には、即外祖左兵衛佐(ひやうゑのすけ)名虎参けり。恩愛の道こそ哀なれ。今年三十四、太く高く七尺(しちしやく)計の男、六十人が力ありと聞ゆ。維仁の御方には、能雄少将とて細小の男、行年二十一、なべての力人と聞ゆれども、名虎には可(二)敵対(一)ものに非ず、去れ共果報冥加は二の宮の奉(レ)任(二)御運(一)とて、不敵に申請てぞ参ける。旁々有(二)御祈師(一)、一の宮の御方には、東寺の柿本の真済僧正(そうじやう)也。徳行高く顕て修験誉広く、天皇(てんわう)御帰依の僧也ければ、名虎是を奉(二)語付(一)けり。二の宮の御方には、延暦寺(えんりやくじ)恵亮和尚(くわしやう)也。行葉年を重ねて薫修日新也。忠仁公と深く師檀の契を結給けるに依て被(レ)奉(レ)付けり。恵亮は西塔宝■院(ほうどうゐん)に壇を構て、大威徳の法を修せられけり。真済は東寺に壇を立て、降三世の法を行給けり。
昔金剛(こんがう)薩■[*土+垂](さつた)、南天の鉄塔を開て大日如来(によらい)に奉(レ)値、秘密瑜伽(ゆが)の経法を伝受し給しより以来、仏法(ぶつぽふ)東漸して、真言上乗日或に弘通せり。弘法大師は竜樹菩薩の後身、鷲峯説法の聴衆也。昔威光菩薩としては、日宮に居して修羅の軍を禦ぎ、今遍照金剛(こんがう)としては、日本(につぽん)に住して金輪聖王の福を増、大日如来(によらい)(有朋下P222)より第八代、恵果和尚(くわしやう)の瀉瓶嫡弟也。慈覚大師は観音大士の垂迹、
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一乗(いちじよう)弘通の薩■[*土+垂](さつた)也。清涼山に詣しては、親り生身の文殊を拝し、帰朝の海上にしては、弥陀如来(みだによらい)波の上に化現して、引声を伝へ給へり。善無畏不空より五代、入室の孫弟也。而を恵亮は慈覚の弟子、真済は弘法の弟子也。東寺は長安城の南の端、山門は洛陽城の艮の峰、共に鎮護国家の道場也、同大権垂迹の法弟也。降三世は東方(とうばう)薬師(やくし)の教令輪身、四面八臂の形也。悪魔を三世に降して永く三毒の根を断、帰敬者は官難を払利生あり。大威徳は西方弥陀の教令輪身、六面六臂の姿也。威勢を一天に振て必行者の望を成、仰信ずる輩は、天子に上る効験あり。共に五大明王(みやうわう)の随一(ずゐいち)、又東西守護の忿怒也。利益区に施し、威験各新なる上、東寺天台秘密の上乗たり。入室瀉瓶牛角の験者なれば、恵亮精誠を尽し、真済肝胆を砕たり。懸りければ、此条とみに事行難くやあらんずらんと云者もあり。又、明王(みやうわう)には勝劣なけれ共、行者の至心懇念にこそよらめと云者もあり。又恵亮真済、行徳に甲乙あらじ、さらば終には力の強弱にこそよるべけれと云者もあり。又天運は凡夫の測べき事に非、只帝徳の可(レ)然にこそと、上下の口には其説さま/゛\也。既(すで)に其日時に成ければ、名虎と能雄と出合たり、殆金剛力士の如し。堂上階下目を澄て是を見、門外門内足を爪立(有朋下P223)て是を望、源深しては不(二)流尽(一)、根全しては枝不(レ)枯習也。以(二)祈誓効験(一)、行徳の浅深を可(レ)知事なれば、東寺天台両門の貴僧高僧、恵亮真済帰依の若男若女、各手を把心を迷はせり。法に偏執はなけれ共、互に勝負の方人たり。能雄、名虎寄合て手合するを見る。名虎元来大力なれば、腕の力筋太、股の村肉籠たり。枝の成付骨の連様、肩の渡広足の跋扈、外見に可(二)迷惑(一)之処に、能雄がうでくび取て引寄、高く指上て、曳声を出して抛(なげ)たりけるに、上下見物之男女老少、あはや二宮の御方打負、手に入ぬと思程に、一丈余被(レ)抛て、乍(レ)危つくとしてこそ立たりけれ。見人戯呼々々と感嘆せり。又寄合互に曳声出して、時移る迄からかうたり。名虎は松の立るが如して、跋扈て動ざりけるを、能雄は藤の纏が如くして、
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身に縷付つゝ、小頸小脇を掻詰て、内搦外搦、大渡懸小渡懸、弓手に廻妻手に廻して逆手に入、様々にこそ揉たりけれ。是や此品治北男、丹治是平、佐伯希雄、紀勝岡、近江薑、伊賀枯丸と聞えし貢御白丁も是には争か可(レ)勝とぞ見人興を増たりける。勝負は未なし、元来力勝り也。名虎勝ぬと見えければ、一宮の御方よりは東寺へ使を被(レ)立けり。忠仁公よりは二宮の御方既危く侍と、使者を山門へ被(レ)立事、追継々々に櫛の歯の如し。和尚(くわしやう)こは心苦き事哉、此時不覚を我山に残さん事口惜かるべし。二宮(有朋下P224)に即給はずば、命生ても何かはせんとて、熾盛の念力を抽でつゝ、炉壇に立たる剣を抜、健把て自頭を突破、脳を摧き芥子に入、香の煙に燃具して、帰命頂礼(きみやうちやうらい)大聖大威徳明王(みやうわう)、願は能雄に力を付給(たま)ひ、勝事を即時に令(レ)得給へと、黒煙を立て汗を流して、揉に揉でぞ祈給ふ。生仏本より隔なし、信力本尊に通じ、本尊行者に加しければ、大威徳の乗給へる水牛、炉壇を廻る事三度、声を揚てぞ吠たりける。其声大内に響ければ、能雄に力ぞ付にける。名虎其声を聞けるより、身の力落て、心惘然として覚えける処を、能雄名虎を脇に引挟、南庭を三廻して、其後曳と云て抛(なげ)たれば、名虎大地に被(二)打付(一)て、血を吐て不(二)起上(一)。蔵人等走寄、大内より舁出して家に返し遣たりければ、三日有て死にけり。恵亮脳を摧しかば、能雄に力は付にけり。名虎相撲に負しかば、維仁位に即給ふ。清和(せいわの)帝(みかど)と申は彼親王の御事也。維高親王は御位叶はざりければ、小野里に引籠給けり。小野親王とは是也。又は持明院とも申けり。山陰中納言、昔の好を思出して時々事問給けり。天子の御位は人力の及所に非ず、天照太神(てんせうだいじん)の御計と申ながら、恵亮の効験三門の面目にて、御嫡子を越て次弟御位に即給へり。其よりして山門の訴状には、今の代までも恵亮砕(レ)脳、尊意振(レ)剣とは書とかや、懸ためしもあり。>(有朋下P225)
S3209 阿育王即位事
 < 昔天竺摩訶陀国に、頻頭沙羅王と云国王御座(おはしまし)けり。是は阿闍世王の孫也き。彼王にあまたの太子御座。其中に太郎を須子摩と
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云、二郎を阿須迦と云。二郎は形貌醜悪にして鮫膚也。心操不敵にして狼藉に御座(おはしまし)ければ、父の大王大に悪んで、御位までの事思寄給はず。太郎は形貌は端厳にして、御心人間の類とも覚えざりければ、大王不(レ)斜(なのめならず)寵愛し給(たまひ)て御位を譲給はんと覚しけり。爰(ここ)に頻頭沙羅王、病の床に臥給たりける折節(をりふし)、徳刃尸羅国の凶賊王命に随はずと聞えければ、太郎太子須子摩を大将軍として、官兵を相副て彼国へ指遣す。大王病及(二)獲麟(一)給(たまひ)て、未嫡子須子摩帰上給はず。去共年比の任(二)本意(一)、位を譲らんとし給けるに、帝釈空より天降給(たまひ)て、十善の宝冠を次郎阿須迦太子に授著給けり。父の頻頭沙羅王、是を見て大悪心を起し、血を吐て失給にけり。城護大臣と云一の大臣と、阿須迦太子と同心して位に即給ふ。須子摩凶賊を平げ、国より還上給(たまひ)て此事を聞、兵を集て阿須迦王を誅せんとし給けり。城護大臣又官兵を集て、大内の門々を固て禦戦はんと構たり。須子摩先陣に進て、城護大臣の固めたる門前に押寄たり。大臣畏て申て云、(有朋下P226)臣は是国の輔佐、依(二)王命(一)故に守(レ)門計也、君又即位給はば、臣又可(レ)随(二)其命(一)、必しも臣が非(二)結構(けつこう)(一)、阿須迦王之固め給へる正門に向て雌雄を決し給ふべし、臣が門を破給はん事、まさに御本意にあらじと申ければ、いふ処尤道理也とて正門に向ひ給ふ。城護大臣又敵を亡さんと謀をぞ廻たる。木を以て阿須迦王の像を造り、大象にのせ奉て門前に進出て、前後に兵を集め、陣の前に広く深き火の坑を用意して、煙を徐へ立て坑の上に沙を蒔、平々たる庭上にしつらひて、官兵さと引退ば、須子摩勝に乗て馳競はん時、火坑に落し入て焼亡さんと支度したり。須子摩争か可(レ)知なれば、数万の軍を召具して正門に向ひ、時を造て阿須迦を責む。阿須迦象の口を引返し、官兵を相具して門の内へぞ引退く。須子摩乗(レ)勝て攻入処に、数万の軍と相共に火坑に馳入て、一時が程に焼死にけり。無慙と云も疎也。阿須迦王終に四海を治給ふ。阿育大王と申は彼太子の事とかや。されば王位は輙く不(レ)可(レ)及(二)人臣之計(一)、天地人の三門に通じ、
P0783
可(レ)依(二)神明仏陀之御恵(一)事と覚えたり。天竺の阿育は帝釈冠を授給(たま)ひ、我朝の清和(せいわ)は恵亮砕(レ)脳給けり。彼は天神の助成、是は仏法(ぶつぽふ)の効験也。>(有朋下P227)
S3210 義仲(よしなか)行家受領事
同六日、平家の一類公卿殿上人(てんじやうびと)衛府諸司(しよし)百八十人、被(レ)止(二)官職(一)、平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)父子三人は、此中に漏たり。十善帝王三種宝物、可(レ)奉(二)返入(一)由、彼人の許へ仰遣されけるに依也。
八月十日、法皇蓮華王院の御所より南殿へ移らせ給ふ。其後三条大納言(だいなごん)実房、左大弁(さだいべん)宰相経房参給(たまひ)て被(レ)行(二)除目(一)けり。木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)、左馬頭(さまのかみ)になりて越後国を給る。十郎蔵人行家備後守になる。各国を嫌ひ申せば、十六日(じふろくにち)の除目に、義仲(よしなか)は伊予を給り、行家は備前守に移る。安田三郎義定近江守になる。其外源氏十人、軍功賞とて、靭負尉(ゆぎへのじよう)兵衛尉に成て、使の宣を蒙者も有けり。此十余日が先までは、源氏追討の宣旨を被(レ)下て、平家こそ加様に勧賞にも預しに、今は平家誅戮の為にとて、源氏誇(二)朝恩(一)けり。好生(二)毛羽、悪成(レ)瘡、朝承(レ)恩、暮賜(レ)死と云本文あり。誠に定なき世の習とは云ながら、引替たる哀さに、心ある人々は、思連て袂(たもと)をぞ絞ける。院の殿上にて除目行はるゝ事先例なし。今度始とぞ聞えし、珍しかりける事也。(有朋下P228)
S3211 平家著(二)太宰府(一)付北野天神飛梅事
八月十七日(じふしちにち)に、平家は筑前国御笠郡太宰府に著給へり。菊地次郎高直、宍戸諸卿種直、臼杵戸槻松浦党を始として、奉(レ)守(二)護主上(一)、如(レ)形被(レ)造(二)皇居(一)たり。彼大内は山中なりければ、木丸殿とも云つべし。人々の家々(いへいへ)は野中田中なりければ、草深して露繁し。麻のさ衣うたね共、十市の里とも云つ
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べし。稲葉を渡る風の音、一人丸寝の床の上、片敷袖ぞしをれける。さてこそ平家の人々は、大臣殿を奉(レ)始、安楽寺に詣給(たま)ひ、詞を作歌を読などして手向給ける中に、皇后宮亮経正、角ぞ詠じ給ける。
  住なれしふるの都の恋しさに神も昔をわすれ給はじ K164 
北野天神は、依(二)時平大臣之讒訴(一)、延喜五年正月廿五日に安楽寺に遷され給ふ。住なれし故郷の恋しさに、常は都の空をぞ御覧じける。比は二月の事なるに、日影長閑に照しつつ、東風の吹けるに、思召(おぼしめし)出る御事、多かりける中に、
  こち吹ばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘な K165 
と詠じければ、天神の御所、高辻、東洞院(ひがしのとうゐん)、紅梅殿の梅の枝割折て、雲井遥(はるか)に飛行て、安楽寺(有朋下P229)へぞ参ける。桜も御所に在けるが、御歌なかりければ、梅桜とて同く籬の内にそだち、同御所に枝をかはして有つるに、如何なれば梅は御言に懸り、我はよそに思召(おぼしめさ)るらんと奉(レ)怨て、一夜が中に枯にけり。されば源順が、
  梅はとび桜は枯れぬ菅原やふかくぞたのむ神の誓を K166 
懸る現人神なれ共、帰京を赦れ給はず、終に其にて隠させ給(たま)ひける御歎、我身につまれて経正も思つゞけ給けり。誠に神も哀と覚しけん、中にも貴き事ありけり。人々詩作り歌よみなどして、社頭の
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地形、庭上の古木、立寄々々し給けるに、さても昔、紅梅殿より飛参ける梅は、何れなるらんと、口々に云て見廻給けるに、何国より共なく、十二三計の童子化現して、或古木の梅の本にて、
  是や此こち吹風に誘はれてあるじ尋し梅のたちえは K167 
と打詠じて失にけり。北野天神の御影向と覚て、各渇仰の頭を傾け給けり。
S3212 還俗人即位例事
同(おなじき)十八日(じふはちにち)、左大臣経宗、堀河大納言(だいなごん)忠親(ただちか)、民部卿成範、皇后宮権大夫実守、前源(げん)中納言(ぢゆうなごん)(有朋下P230)雅頼、梅小路中納言長方、源宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、右大弁親宗被(二)参入(一)て、即位并剣鏡璽宣命尊号事等議定あり。頭弁兼光朝臣諸道の勘文を下す。左大臣に次第に被(二)伝下(一)けり。神鏡事、偏(ひとへ)に存(二)如在(一)之儀、還有(二)其恐(一)、暫定(二)其所(一)、可(レ)被(レ)待(二)帰御(一)歟、剣璽事、於(二)本朝(一)、更雖(レ)無(レ)例、漢家之跡非(レ)一、先有(レ)践(レ)祖、可(レ)被(レ)待(二)帰来(一)歟、御剣は可(レ)備(二)儀式(一)、尤可(レ)被(レ)用(二)他剣(一)者歟、即位事八月受禅九月即位、円融院也。而天下不(レ)静事卒爾也、十月例光仁寛和なり、可(レ)依(二)二代(一)者、十一二月に可(レ)被(レ)行、而今年即位以前、朔旦嘉承無(二)出御(一)、不吉事也、十月旁可(レ)宜歟、任(二)治暦之例(一)、可(レ)被(レ)用(二)官庁紫宸殿(一)歟、旧主尊号事、若無(二)尊号(一)者、天可(レ)似(レ)有(二)二主(一)、尤可(レ)有(二)沙汰(一)歟、宣命事、任(二)外記勘状(一)、可(レ)被(レ)用(二)嘉承例(一)之由、一同に被(二)定申(一)けり。
同日平家没官の所領等源氏等(げんじら)に分給ふ、惣五百(ごひやく)余箇所也。義仲(よしなか)百四十余箇所、行家九十箇所也。行家申けるは、所(二)相従(一)之源氏等(げんじら)、更非(二)通籍之郎従(一)、只相(二)従戦場(一)計也。私に支配之条、彼等不(レ)存(二)
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恩賞(一)之由歟、尤可(レ)被(二)分下(一)と申けるを、義仲(よしなか)は此事争悉被(レ)知(二)召功之浅深(一)、義仲(よしなか)相計可(二)分与(一)とぞ申ける。両人の申状何も非(レ)無(レ)謂ぞ聞えける。今日行家義仲(よしなか)等、聴院昇殿、本は候上北面しけり。此条驚べきに非と云へ共、官位俸禄己如(二)所存(一)か、奢心は人として皆存ぜる事なれ共、今(有朋下P231)称(二)勲功(一)日々重畳す、尤頼朝(よりとも)之所存を可(二)思兼(一)歟とぞ人々被(二)申合(一)ける。
同廿日法住寺(ほふぢゆうじ)の新御所にて、高倉院(たかくらのゐん)第四王子有(レ)践(レ)祚。春秋四歳、左大臣召(二)大内記光輔(一)、祚(レ)祖事太上法皇の詣旨を可(レ)載也。先帝不慮に脱■(たつしの)事、又摂政(せつしやうの)事同可(レ)載と仰す。次第の事は不(レ)違(二)先例(一)ども、剣璽なくして践(レ)祚事、漢家には雖(レ)有(二)光武跡(一)、本朝には更無(二)先例(一)、此時にぞ始ける。内侍所は如在の礼をぞ被(レ)用ける。旧主已被(レ)奉(二)尊号(一)、新帝践祚あれ共、西国(さいこく)には又被(レ)奉(レ)帯(二)三種神器(一)、受(二)宝祚(一)給(たまひ)て于(レ)今在位、国似(レ)有(二)二主(一)歟、叙位除目已下事、法皇宣にて被(レ)行之上者、強に急ぎ無(二)践祚(一)とも可(レ)有(二)何苦(一)、但帝位空(レ)例、本朝には神武天皇(じんむてんわう)七十六年丙子崩。綏靖天皇(てんわう)元年庚辰即位、一年空。懿徳天皇(てんわう)二十四年甲子崩。孝照天皇(てんわう)元年丙寅即位、一年空。応神天皇(てんわう)二十一年庚午崩。仁徳天皇(てんわう)元年癸酉即位、二年空、継体天皇(てんわう)廿五年辛亥崩。安閑天皇(てんわう)元年甲寅即位、二年空。而今度の詔に、皇位一日不(レ)可(レ)曠被(レ)載事、旁不(レ)得(二)其心(一)とぞ有職の人々難じ被(レ)申ける。されば異国は不(レ)知、我朝には、神武天皇(じんむてんわう)は、地神第五代の御譲を稟御座(おはしまし)しより以来、故高倉院(たかくらのゐん)に至らせ給まで八十代、其間に帝王おはしまさで、或二年或三年など有けれ共、二人の帝の御座事未(レ)聞。世の末なればや、京
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田舎に二人の国王出来給へり、不思議也とぞ申ける。
平家は四宮(有朋下P232)既(すで)に御践祚と聞て、哀三四宮をも皆取下奉るべかりし者をと被(二)申合(一)ければ、或人の、さらましかば高倉宮(たかくらのみや)の御子を、木曾冠者(きそのくわんじや)が北国より奉(レ)具上たるこそ位には即給はんずれ共と云ければ、平(へい)大納言(だいなごん)時忠、兵衛佐(ひやうゑのすけ)尹明などの、如何出家還俗の人は位に即給べきと宣(のたまひ)ければ、又或人申されけるは、異国には、則天皇后(そくてんくわうごう)は唐太宗に奉(レ)後、尼となり感業寺に籠給たりけるが、再高宗の后と成、世を治給し程に、高宗崩御(ほうぎよ)の後、位を譲得給(たまひ)て治(二)天下(一)給けり。中宗皇帝は入(二)仏家(一)、玄弉三蔵の弟子と成、仏光王と申けれ共、則天皇后(そくてんくわうごう)の譲えて、崩御(ほうぎよ)の後、還俗して即位給へりき。我朝には天武天皇(てんわう)、大友皇子の難を恐て、春宮(とうぐう)の位を退まし/\て、大仏殿の南面にして御出家(ごしゆつけ)ありしか共、終に大友皇子を討て位につき給(たま)ひき。
孝謙天皇(てんわう)は、位をさりて出家し、御名を法基と申しか共、大炊天皇(てんわう)を奉(レ)流、又位につき給へり。今度は称徳天皇(てんわう)とぞ申ける。されば出家の人も即位給事なれば、木曾が宮も難かるべきにあらずと申て、咲などしけるとかや。