『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十三
P0788(有朋下P233)
古巻 第三十三
S3301 太神宮勅使付緒方三郎責(二)平家(一)事
寿永二年九月二日、平家追討の御祈(おんいのり)の為に、院より公卿の勅使を伊勢太神宮へ立らる。参議修範卿と聞き。太上天皇(てんわう)の、太神宮へ公卿の勅使を被(レ)立事者、朱雀、白川、鳥羽三代の践跡ありといへ共、是皆出家以前の事也き。太上法皇の勅使の例、今度始とぞ承。平家は筑紫に皇居如(レ)形被(レ)造たりければ、大臣殿より始て人々安堵し給たりけるに、豊後の国は刑部卿(ぎやうぶきやう)三位頼輔の知行にて、其子頼経、国司代にて在国の間、三位追て云下給けるは、平家悪行年積て宿運忽(たちまち)に尽ぬ。仏神にも放れ君にも捨れぬ。故に花洛を出て西海に漂ふ。夫に九国の輩請取依(レ)翫、国には正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)抑留し、庄には年貢所当を不(レ)弁、其条已奉(レ)背(二)朝家(一)伴(二)逆悪(一)咎あり、返々不思議所行也。自余は不(レ)知、於(二)当国(一)は穴賢不(レ)可(レ)入、平家、これ非(二)私之計(一)、一院御定也。但不(レ)限(二)当国(一)、九国人民可(レ)随(二)院宣(一)者、一味同心に可(レ)追(二)討平家(一)、若忠あらん者は勧賞は追て可(レ)有(二)聖断(一)由、子息頼経の許へ云(有朋下P234)下給たりければ、頼経以(二)此趣(一)、当国住人(ぢゆうにん)緒方三郎惟義を召て被(二)下知(一)たり。惟義蒙(レ)仰、即当国は云に及ばず、九国二島の弓矢取輩に相触。懸ければ臼杵、戸槻、松浦党以下、背(二)平家(一)随(二)惟義下知(一)、原田四郎大夫種直、菊地次郎高直が一類計ぞ猶平家に付給ける。
P0789
抑彼惟義と云は大蛇の末なりければ、身健に心も剛にして、九国をも打随へ、西国(さいこく)の大将軍せんと思程のおほけなき者なりけるに、一院の御定とて、国司より懸る蒙(レ)仰ける上は、身の面目と思て出立けり。大蛇の末と云事は、昔日向国塩田と云所に、大大夫と云徳人あり。一人の娘あり。其名を花御本と云、みめこつがら尋常也。国中(こくぢゆう)に同程なる者聟にならんと云をば誇(レ)徳不(レ)用、我より上様なる人は云事なし。秘蔵しけりと覚て、後園に屋を造て此娘を住しめける程に、男と云者をば尊き卑も通さず、歳去歳来れ共、無(二)慰方(一)、春過夏闌ても友なき宿を守る。秋の夜長し、夜長して終夜(よもすがら)を明し兼たる暁に、尾上の鹿の妻呼音痛敷、壁にすだく蟋蟀、何歎くらんと最心細き折節(をりふし)に、いづくより来る共覚ず、立烏帽子(たてえぼし)に水色の狩衣著たる男の二十四五なるが、田舎の者とも覚ず、たをやかなる貌にて、花御本が傍に指寄て様々物語(ものがたり)して、慰語ひけれ共女靡事なし。男夜々通つゝ細々と恨口説ければ、花御本、流石(さすが)岩木ならねば終には靡けり。其後は雨降風(有朋下P235)冷けれ共、夜かれもせず通けり。父母につゝみて深く是を隠しけれ共、月比日比(ひごろ)夜々(よなよな)の事なれば、付仕ける女童是を見咎めて、父母に角とぞ語ける。急娘を呼、委是を問けれ共、恥しき道なれば、顔打赤めて兎角紛らかしけり。母さま/゛\におどしすかして問ければ、親の命も難(レ)背して有の儘にぞ語ける。母此事を聞、水色の狩衣に立烏帽子(たてえぼし)は■(おぼつか)なし、太宰府の近くは京家の人とも思べきに、此辺には有べき事に非、よし/\縦上揩ネりとも、契は人に不(レ)可(レ)依、たとひ下揩ネり共、娘が見する面道也。況狩衣に立烏帽子(たてえぼし)、定て只人に
P0790
はあらじ、今は聟とも用べし、如何して彼人の行末を知べきと様々計けるに、母が云、其人夕に来て暁還なるに、注しをさして其行末を尋べしとて、苧玉巻と針とを与て、懇に娘に教て後園の家に帰す。其夜又彼男来れり。暁方に帰りけるに、教への如く、女針を小手巻の端に貫て、男の狩衣の頸かみに指てけり。夜明て後に角と告たれば、親の塩田大夫、子息家人四五十人引具して、糸の注しを尋行。誠に賤が苧玉巻、百尋千尋に引はへて、尾越谷越行程に、日向と豊後との境なる嫗岳と云山に、大なる穴の中へぞ引入たる。彼穴の口にて立聞ければ、大に痛吟音あり、是を聞人身の毛竪て怖し。父が教へに依、娘穴の口にて糸を引へて云けるは、抑此穴の底には如何な(有朋下P236)る者の侍ぞ、又何事を痛て吟ぞと問ば、穴の中に答けるは、我は汝花御本が許へ夜々(よなよな)通つる者なり、可(レ)然契も縁も尽果、此暁おとがひの下に針を立られたり、大事の疵にて痛み吟、我本身は大蛇なり、有し形ならば出て見もし奉(レ)見度こそあれ共、日比(ひごろ)の変化既(すで)に尽ぬ、本の貌は畏恐給ふべきなれば、這出ても不(レ)奉(レ)見、よに遺も惜恋しくこそ覚ゆれ、是まで尋来り給へる事こそ難(レ)忘と云ければ、女の云、縦いかなる貌にて座ますとも、日比(ひごろ)の情争か忘べきなれば、只出給へ、最後の有様(ありさま)をも見、又見えもし奉らん、つゆ畏しと思はずと云ければ、大蛇は穴の中より這出たり。長は不(レ)知臥長は五尺計也。眼は銅の鈴を張るが如く、口は紅を含るに似たり。頭に角を戴耳を低たり。頭は髪生などして獅子の頭に異ならず。され共形ちには不(レ)似、おめ/\として涙を浮て、頭ばかりを指出したり。女衣を脱て、蛇の頭に打懸て自■(おとがひ)
P0791
の下のはりをぬく。大蛇悦で申けるは、汝が腹の内に一人の男子宿せり、已(すで)に五月に成、もし十月にして顕れたらば、日本国(につぽんごく)の大将とも成べかりつれ共、五月にして顕れぬ、九国には並者あるまじ、弓矢を取て人に勝、計賢くして心剛なるべし、斯る怖しき者の種なればとて、穴賢捨給ふな、我子孫の末までも可(二)守護(一)、必可(二)繁昌(一)。是を最後の言ばにて、大蛇穴に引入て死にけり。彼大蛇と云は(有朋下P237)即嫗岳明神の垂跡(すいしやく)也。塩田大夫々妻眷属おぢ恐て帰にけり。日数積つて月満ぬ。花御本男子を生。随(レ)為(二)成長(一)、容顔もゆゝしく心様も猛かりけり。母方の祖父が片名を取て是を大太童と呼。はだしにて野山を走行ければ、足にはあかゞり常に分ければ、異名には皸童とも云けり。此童は烏帽子(えぼし)著て、皸大弥太と云。大弥太が子に大弥次、其子に大六、其子に大七、其子に尾形三郎惟義なれば、大太より五代の孫なり。心も猛く畏しき者にてぞ在ける。此惟義には兄弟三人有けるが、次郎は死にぬ。太郎名生三郎、尾形と云二人が中に、此三郎は蛇の子の末を継べき験にやありけん、後に身に蛇の尾の形と鱗の有ければ、尾形三郎と云。さる者の末にて、被(二)仰含(一)院宣の間に、奥に入て数万騎の兵を引率し、太宰府へ発向す。九国輩多相従ひけり。平家は此一両月安堵の思有て、今は如何して都へ可(二)帰入(一)などはかり事を廻し、寄合寄合評定しける処に、緒方三郎が嫡子に小太郎維久、次男に野尻次郎惟村とて兄弟あり。次郎惟村を使者として平家の方へ申けるは、年来御恩をも蒙て、深相伝の君と憑進て候。其上十善帝王にて渡らせ給へば、二心なく奉公仕れ共、平家都を出て西海に落下御座、朝敵
P0792
と成て人民を悩す、速に九国の中を可(レ)奉(レ)出之由、一院の院宣とて、国司より被(二)仰下(一)の間、王土に身を入て(有朋下P238)難(レ)背(二)詔命(一)候、疾々九国境を出させ給ふべきにて候と申たり。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)は、ひほくくりの直垂に糸蘭の袴著て野尻次郎に宣(のたまひ)けるは、やをれ維村よ、我君は天孫四十九世の正統、人王八十一代の御門、太上法皇の御孫、高倉院(たかくらのゐんの)后の腹、第一皇子にて渡らせ給へば、伊勢太神宮入替らせ給(たま)ひて、御裳濯河流忝上に、神代より伝たる神璽、宝剣、内侍所も帯して御座、正八幡宮(しやうはちまんぐう)も定て守奉らん、九国の人民争輙く可(レ)奉(レ)傾、又当家は是平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)が、相馬(さうまの)小次郎(こじらう)将門(まさかど)を追討して東八箇国を平げしより以来、故(こ)入道大将大臣の、右衛門督(うゑもんのかみ)信頼(のぶより)を誅戮して奉(レ)鎮(二)朝家(一)しに至るまで、代々国家の固也。而に頼朝(よりとも)、義仲(よしなか)等、東国北国の凶徒を相語ひて、我打勝たらば国をとらせん庄を知せんと云にすかされて、打籠の嗚呼の者共が、誠顔に与力同心して、向(二)官兵(一)軍するを見学て、九国輩奉(レ)背(レ)君条返々不思議也奇恠也、就(レ)中(なかんづく)鎮西の者共は内種に被(二)召仕(一)、殊非(レ)蒙(二)重恩(一)乎、夫に其好を忘、忽(たちまち)に鼻豊後めが随(二)下知(一)、当家を傾けんとの企甚以不(レ)可(レ)然、後漢光武皇帝は被(レ)襲(二)王莽(わうまう)(一)、漁陽に落給(たま)ひたりしか共帝位につき、我朝の天武天皇(てんわう)は大友(おほともの)王子(わうじ)に襲れて、吉野奥に入給(たま)ひたりしか共治(二)天下(一)給き、況三種の神器を御身に随給へり、我君終に都へ帰入らせ給はぬ事よも渡らせ給はじ、されば能々相計ひて御力を付進すべし、(有朋下P239)後悔争か兼て可(レ)不(レ)顧哉と宣ふ。野尻次郎立帰て此由具に云ければ、父惟義、今は今、昔は昔、速に平家を可(レ)奉(二)追出(一)、院宣国宣を被(レ)下之上は、子細にや及べき
P0793
なれ共、流石(さすが)日来の好を奉(レ)思こそ先使をば進せたるに、左様に宣ふならば、不(レ)廻(二)時刻(一)可(レ)奉(二)追出(一)とて、惟義は三万(さんまん)余騎(よき)の大勢を率して、博多津より押寄て、時をどと造りたりければ、平家の方には肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)を大将軍にて、菊地、原田が一党を被(二)指向(一)て防戦けれ共、大勢攻懸りければ、取物も取敢(とりあへ)ず太宰府をこそ落給(たま)へ、
S3302 平家太宰府落並平氏宇佐宮歌付清経入(レ)海事
〔去(さる)程(ほど)に〕主上は駕与丁なければ、玉の御輿をも不(レ)奉、御伴の公卿殿上人(てんじやうびと)は、奴袴の傍を取、女房北方は、裳唐衣を泥に引、いつ習たるにはあらね共、畏しさの余に悲き事も覚えず、かちはだしにて我先に/\と、箱崎の津に逃給けるぞ無慙なる。折節(をりふし)降雨は車軸を下、吹風は砂を上。落る涙雨に諍て何とも不(二)見分(一)、鳥に不(レ)有ば天をも難(レ)翔、竜に不(レ)有雲へも難(レ)上。新羅百済へも渡らばやとは被(レ)思けれ共、波風荒うして夫も心に任せねば、各袂(たもと)を絞けり。箱崎津も難(二)始終叶(一)ければ、是より又兵藤次秀遠に具せられて、筑前(有朋下P240)国山鹿の城(じやう)へぞ入らせ給ふ。菊地次郎高直をば、大津山の関あけて進せよとて先立て通したりけれ共、此事終にはか/゛\しからじと思て、高直心替してけり。原田大夫種直も、山鹿城へ入らせ給(たま)ひにければ、秀遠が下知に相従はん事、子孫に伝て心憂しと思、則それも心替してけり。山鹿城にも未御安堵なかりける処に、惟義十万余騎(よき)にて押寄ると聞えければ、又取物も取敢(とりあへ)ず山鹿城をも落させ給(たま)ひて、たかせ舟に乗移、豊前国柳と云所へ渡入らせ給(たま)ひけり。沢辺の虫は声弱り、礒打浪に袖を濡す。柳と云所に著せ給(たま)ひたりけるに、楊梅桃李を引植て、九重の都に少似たりければ、薩摩守忠度のかく、
P0794
都なる九重のうち恋しくば柳の御所を立よりて見よ K168
主上女院を始進て、内府以下の人々、豊前国宇佐の宮へ有(二)参詣(一)。社頭は皇居となり、廊は月卿(げつけい)雲客(うんかく)の居所となる。五位六位の官人等大鳥居に候ひ、庭上には九国の輩、弓箭甲冑を帯して並居たり。ふりにし緋玉垣、歳経にけりと苔むして、いつも緑の柳葉に、木綿四手懸て隙ぞなき。御祈誓の趣は、主上旧都還幸也。都は既(すで)に山河遥隔て雲の徐に成ぬ。何事に付ても、心尽しの旅の空、身を浮船の住居して、こがれて物をぞ覚しける。昔在原業平が、隅田河原の辺にて、都鳥に事問涙を流しけんも、又角やと覚て哀也。七箇(有朋下P241)日の御参篭とて、大臣殿財施法施を手向、奉り、神宝神馬、角て七箇日を送給へども、是非夢想(むさう)なんどもなかりければ、第七日の夜半計に思ひつゞけ給けり。
思かね心つくしに祈れどもうさには物もいはれざりけり K169
神殿大に鳴動して、良久してゆゝしき御声にて、
世中のうさには神もなき物を心つくしになにいのるらん K170
大臣殿是を聞召(きこしめし)て、都を出し上、栄花身に極り運命憑なしとは思しか共、主上角て渡らせ給ふ上、三種の神器随(二)御身(一)御座(おはしま)せば、さり共今一度旧都の還御なからんやと思召(おぼしめし)けるに、此御託宣(ごたくせん)聞召(きこしめし)ては、御心細く思ひ給(たま)ひ、涙ぐみ給(たま)ひてかく、
さりともと思ふ心も虫の音もよわりはてぬる秋の暮かな K171
P0795
是を聞る人々、誠にと覚て皆袖をぞ絞りける。小松殿(こまつどの)の三男に左中将清経は、都を落給(たま)ひける時、女房をも西国(さいこく)奉(二)相具(一)と宣(のたまひ)ければ、年来深き契を結、二心なく憑憑まれたる御中にて、女房はさもと出立給(たま)ひけるを、父母大に嗔りつゝ免給はざりければ力不(レ)及、悲みの中を別て独都を落給けるが、道より鬢の髪を切て形見に返遣はして、常は音信(おとづれ)申さん、便の時は又承る事も候へよなど云送ながら、三年が程有か無か言伝もなかりけれ(有朋下P242)ば、女房恨給(たまひ)て、何国までも相具せんと云しかば、我もさこそ思ひしに、今は心替のあればこそ三年を経共云事はなかるらめ、さては形見も由なしとて返し下給(たま)ひけるが、左中将の柳浦に御座(おはしまし)ける所へ著たり。一首の歌を副られたり。
見るからに心つくしのかみなればうさにぞ返本の社に K172
左中将是を見給(たま)ひては、そこさ悲く覚しけめ。柳御所には、さてもと思召(おぼしめし)て七箇日渡らせ給(たま)ひける程に、又惟義寄るなど聞えければ、此を出給ふに、海士の小舟に取乗、風に任浪に随て漂し程に、左中将清経は、船の屋形の上に上りつゝ、東西南北見渡して、哀はかなき世の中よ、いつまで有べき所とて角憂目を見るらん、都をば源氏に落されぬ、鎮西をば惟義に被(二)追出(一)ぬ、何国へ行ば遁べき身にあらず、囲中の鹿の如く、網に懸れる魚の様に、心苦く物思こそ悲けれとて、月陰なく晴たる夜、閑に念仏申つゝ、波の底にこそ沈みけれ。是ぞ平家の憂事の始なる。
S3303 平氏九月十三夜歌読事
九月十三夜に成ぬ。今夜は名を得たる月也。秋も末に成行ば、稲葉を照す雷の、有か無(有朋下P243)かも定なく、
P0796
荻の上風身にしみて、萩の下露袖濡す。海士の篷屋に立煙、雲井に昇面影、葦間を分て漕船の、波路遥(はるか)に幽也。十市の里に搗砧、旅寝の夢を覚しけり。よわり行虫音、吹しをる風の音、何事に付ても藻にすむ虫の風情して、我から音をぞなかれける。更行秋の哀さは、何国もと云ながら、旅の空こそ悲けれ。冷行月にあくがれて、各心を澄しつゝ、歌をよみ連歌せられけるにも、都の恋しさあながち也。会紙を勧めけるに、寄(レ)月恋と云題にて、薩摩守忠度、
月を見しこぞのこよひの友のみや都に我を思ひ出らん K173
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛
恋しとよ去年のこよひの終夜(よもすがら)月みる友の思ひでられて K174
平(へい)大納言(だいなごん)時忠
君すめば爰も雲井の月なれどなほ恋しきは都なりけり K175
左馬頭(さまのかみ)行盛
名にしおふ秋の半も過ぬべしいつより露の霜に替らん K176
大臣殿(有朋下P244)
打解けて寝られざりけり楫枕今宵の月の行へ清まで K177
各加様に思つゞけ給(たま)ひても、互に御目を見合て、直垂の袖をぞ絞られける。
P0797
S3304 平氏著(二)屋島(一)事
長門は新中納言の国、目代(もくだい)は紀民部大輔光季也けり。当国の檜物舟とて、まさの木積たる船百三十(さんじふ)余艘(よさう)点定して奉。此に乗移りて四国の地へ著給ふ。爰(ここ)はよき城郭(じやうくわく)也と申ければ、讃岐の屋島に下居給、城構して御座(おはしまし)けり。哀哉昔は九重の内にして、金谷の春の花を翫給しに、今は屋島の礒にして、寿永の秋の月を詠給ことを、奇の賎のふしどを皇居と定むべきならねば、蜑の篷屋に日を晩し、船をぞ御所と定め給ふ。荻の葉向の夕嵐、独丸寝の床の上、片敷袖は塩にぬれ、明し暮させ給けり。波枕楫枕、想像れて哀也。礒辺のつゝじは、紅の露よりをるかと疑れ、五月の篷のしづくは、古里の軒の玉水かと奇給。藻塩に浸す旅衣、深き思に沈けり。蘆の葉に置露の身の、脆命も消ぬべし。州崎に騒ぐ千鳥の声、暁恨を添るかな。傍井にかゝる梶の音、夜半に心を摧けり。斯る住居は上下いつかは習ふべきならねば、男も女も只涙にのみ咽びて、乾ぬ袖をぞ絞ける。(有朋下P245)
菊地大夫胤益、阿波国より材木とらせ、屋島浦に漕渡して、如(レ)形内裏を立て奉(レ)入(二)主上(一)。其外大臣公卿の家々(いへいへ)も少少被(レ)造けり。
阿波民部成能一千(いつせん)余騎(よき)にて馳参。夜昼君を奉(二)守護(一)。其上使者を四国に分散して相触けるは、一人西海に臨幸あり、三種の神器上下官人不(レ)奉(レ)離(二)玉体(一)、今は此こそ都なれ、各急参賀して勅命を承べし。若忠あらん輩は豈賞なからんやと披露すれば、四国の兵皆成能が下知に靡きければ、物憑しげに振舞翫び奉る。大臣殿、神妙(しんべう)也、何事も成能が計とて、阿波守に被(レ)成て御気色(おんきしよく)ゆゝしく見えけり。肥後守(ひごのかみ)
P0798
貞能(さだよし)は、九国を従へんとて下たりけれ共、被(二)追出(一)て面目なし。菊地次郎高直任(二)肥前守(一)、原田四郎種直筑前守に成たりけれ共、惟義に被(二)追出(一)国務にも不(レ)及ける上、心替したりければ、平家心弱思はれけるに、成能加様に甲斐甲斐しく申行ひけるに依て、暫安堵せられけり。
S3305 時光辞(二)神器御使(一)事
法皇は、三種の神器都を出させ給(たまひ)て、外都に御座(おはしまし)て月日の重る事を不(レ)斜(なのめならず)御歎きあり。追討使を下さんとすれば異国宝とも成、又海底にもや沈給はんずらんと兼て歎思召(おぼしめし)、世末(有朋下P246)に成と云ながら、まのあたり斯る不思議の有こそ御心憂けれ。御禊(ごけい)大嘗会(だいじやうゑ)も已(すで)に近付、如何して都へ返入奉らんと種々の御祈(おんいのり)あり。又公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)して、先御使を被(レ)下て時忠卿(ときただのきやう)に可(レ)被(二)仰含(一)と各計申けり。誰か可(レ)勤(二)御使(一)と評定有けるに、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)時光と云人は、平(へい)大納言(だいなごん)の北方、先帝の御乳人(おんめのと)帥佐の妹にて座しければ、時忠には子舅なり。されば此人を被(レ)下て平(へい)大納言(だいなごん)に可(二)歎仰(一)也と、諸卿被(レ)申けるに依て、時光を御前に被(レ)召て、三種の神器外土の境に御座(おはしまし)て徒に月日を経給事、御歎不(レ)浅、我朝の御大事(おんだいじ)、専此事にあり、汝は時忠に相親みたれば、西海に罷下て都へ可(レ)奉(二)返入(一)之由、彼卿に仰含よと勅定あり。時光畏て院宣の御返事(おんへんじ)申て云、誠に朝家の御大事(おんだいじ)、何事か過(レ)之侍べき、勅定の上は子細を申に及、但今度西海へ下向仕なば、再帰上りて君を見進ん事かたし、其故は、時忠都を落下し時、西国(さいこく)へ可(二)相伴(一)由懇に語申侍しを、時光、御幸ならせ給はば子細にや及べき、さらずば不(二)思寄(一)と心中に存ぜしに、君の御幸も候はざりしかば留候ぬ、其後も度々怨口説て、可(二)罷下(一)の由申
P0799
上せ候しか共、縦万人の肩を越て三公の位に至とても、争君を離進て外土の旅にさすらふべき、不(二)思寄(一)事哉と存て、返答にも不(レ)及罷過候。抑時光下向仕て、三種の神器事故なく帰上らせ給ふべくば、縦身は(有朋下P247)徒に成とも、勅定に随て、風雲に鞭を打、夜を日に継て可(二)馳下(一)こそ候に、神器の返入せ給はん事も有難く、時光安穏に上洛せん事も又難しと被(レ)申たりければ、申処も誠に不便也とて下されず。
S3306 頼朝(よりとも)征夷将軍宣付康定関東下向事
〔去(さる)程(ほど)に〕兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)上洛不(レ)輙とて、鎌倉に居ながら征夷大将軍の宣旨を被(レ)下。其状に云、
左弁官下、〈 五畿内 東海 東山 北陸 山陰(せんいん) 山陽 南海 西海 已上 諸国 〉
早頼朝(よりともの)朝臣(あそん)可(レ)令(レ)為(二)征夷大将軍(一)事
使〈 左史生中原康定 右史生中原景家(かげいへ) 〉
右左大臣藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)兼実宣奉(レ)勅、従四位下(じゆしゐのげ)行、前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりともの)朝臣(あそん)、可(レ)令(レ)為(二)征夷大将軍(一)者、宜(下)令(二)承知(一)依(レ)宣行(上)(レ)之。
寿永二年八月日 左大史小槻宿禰奉
左大弁(さだいべん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん) 在判とぞ被(二)書下(一)ける。(有朋下P248)
左史生康定、此院宣を賜て九月四日関東に下著。兵衛佐(ひやうゑのすけ)に奉(二)院宣(一)、対面して勅定之趣を申含。頼朝(よりとも)の返事承て、同廿五日に康定上洛す。院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に参ず。御坪に被(二)召居(一)て、鎌倉の形勢(ありさま)
P0800
兵衛佐(ひやうゑのすけ)の問答を委く被(二)聞召(一)(きこしめさる)。公卿殿上人(てんじやうびと)参集り、簾中御簾をついはり、庭上鳴を止て是を聞。康定畏て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)被(レ)申しは、頼朝(よりとも)勅勘を蒙といへ共、既(すで)に朝敵を退け、武勇の名誉依(レ)継(二)先祖(一)忝征夷将軍の宣旨を下賜る、都に不(二)罷上(一)、私宅に乍(レ)居宣旨を奉(二)請取(一)事、天命有(二)其恐(一)、若宮社にて可(レ)奉(二)請取(一)と被(レ)申之間、康定八幡若宮に参向す。彼若宮は、鶴岡と申所に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を奉(二)移祝(一)、地形如(二)石清水(一)也。四面の廻廊あり、造道十余町(よちやう)を見下て内外に鳥居を立たり、南は海上漫々と見渡して眺望ことに勝たり。さて宣旨をば誰してか可(レ)奉(二)請取(一)と評定あり。三浦介義澄と被(レ)定。彼義澄は東八箇国第一弓取に、三浦平太郎高継が末葉なる上、父三浦大介義明が、君の御為に兵衛佐(ひやうゑのすけ)謀叛を発初ける時、衣笠城にて敵を禦命を捨たるに依て、父が黄泉の闇を照さんが為と承き。義澄宣旨請取奉らんとて八幡宮へ参向す、郎等十人家子二人を相具す、郎等十人をば大名一人づつ承て出立たり。家子二人が内、一人は比企藤四郎能定、一人は和田三郎宗真、家子郎等都合十二人、彼も此も共に直申にて、今日を晴と上下心も及ばず出(有朋下P249)立たり。義澄は赤威鎧に甲をば不(レ)著、右の膝を突、左の膝を立て、累葛箱に奉(レ)入処の宣旨、袋を請取奉らんと、左右の手さゝぐる時、康定兼て三浦介とは承て侍ども、抑御使は誰人にて御座るぞと尋候しかば、三浦介とは不(二)名乗(一)して、三浦荒次郎義澄と名乗儘に、宣旨奉(二)請取(一)、良久有て、覧箱の蓋に沙金十両入て返。拝殿に紫縁の畳二畳敷て康定を居、高盃に肴二種して酒を勧む。斉院次官親義、陪膳仕て肴に馬を引、大宮侍の一掾A工藤左衛門尉(さゑもんのじよう)
P0801
祐経一人して是を引、其(その)日(ひ)は兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館へは向はず、五間の萱屋を理て、椀飯ゆたかに、厚絹二両、小袖十重、長櫃に入て傍に置。其外宿所へ十三疋の馬を送る。其中に二疋は鞍を置、十一疋(じふいつぴき)は裸馬也。彼馬共は、八箇国の大名に選宛られたりと内々承しに合て、実に有難逸物共也き。又上品の絹百疋、白布百端、紺藍摺各百端積めり。明る日兵衛佐(ひやうゑのすけ)より康定を請ず。請に随て行向。兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館を見候しかば、外侍内侍共に十六間、外侍には諸国の大名膝を組て並居たり。内侍には一姓の源氏共並居て、末座に古老郎等共(らうどうども)を居たり。少引却て、紫縁の畳を敷康定を居、良久して兵衛佐(ひやうゑのすけ)の命に随つて罷向。簾を揚て、寝殿に高麗縁のたゝみ一帖敷て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)被(レ)座たり。軒に紫縁の畳一帖敷て康定を居、兵衛佐(ひやうゑのすけ)は布衣に南袴を著せり、指出たるを見候しかば(有朋下P250)少く御座(おはしま)せし時には似給はず、顔大にして長ひきく、容貌花美にして景体優美也。言語分明にして、子細を一時宣たり。平家は頼朝(よりとも)が威に恐て京都に不(二)安堵(一)、西海へ落下ぬる其跡には、何なる尼公也共などか打入ざるべき、其に義仲(よしなか)行家等が、己が高名顔に預(二)恩賞(一)剰両人共に国を簡申ける条、返々奇恠也。但義仲(よしなか)僻事仕らば、仰(二)行家(一)被(レ)討べし、行家僻事仕らば、仰(二)義仲(よしなか)(一)可(レ)被(レ)討、当時も頼朝(よりとも)が書状、表書には木曾冠者(きそのくわんじや)十郎蔵人と書たるにも、返事はしてこそ侍れ、折節(をりふし)聞書到来、能々不(二)心得(こころえ)(一)気に申て、又秀衡を陸奥守になされ、資職を越後守になされ、忠義を常陸守になさるゝ間、頼朝(よりとも)が命に不(レ)随本意なき事に侍り、早彼輩を可(レ)誅由、院宣を被(レ)下とこそ被(レ)申侍しかば、其後色代仕て、康定こと更に名簿をして可(レ)進なれども、
P0802
今度は宣旨の御使として、私ならず候へば追て申べし、舎弟(しやてい)にて、侍史大夫重良も同心に申しかば、定左様にぞ侍らんずらんと色代仕しかば、当時頼朝(よりとも)が身として、争か名簿をば給るべき、さなしとても、怒々疎の儀あるべからずと、ゆゝしげにこそ被(二)返答(一)候しが、軈(やが)て可(二)罷上(一)由相存知候しに、今日計は可(レ)有(二)逗留(一)と被(レ)留候し間、其(その)日(ひ)は宿所へ罷帰、軈(やが)て追様は、荷懸駄三十疋送賜て候き。翌日又兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館へ向て、酒を勧て金鐔太刀に、目九指たる征矢一腰取副(有朋下P251)て引、其上京上の雑事とて、鎌倉より宿々に五石々々、糠藁に至まで、鏡の宿まで送積で侍つる間、さのみは如何せんと存て、人にたび宿にとらせ施行に引なんどして、上洛仕て候と奏し申。聞人ごとに、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の作法如(レ)見にぞ被(レ)思ける。法皇委く被(二)聞召(一)(きこしめされ)、今度儲たる物、よし/\康定が徳にせよとぞ仰ける。
院宣請文には、去八月七日院宣、今月二日到来、被(二)仰下(一)之旨、跪以所(レ)請如(レ)件、抑就(二)院宣(一)之旨趣、倩思(二)姦臣之滅亡(一)、是偏明神之冥罰也、更に非(二)頼朝(よりとも)之功力(一)、勧賞之間の事、只叡念之趣可(レ)足とぞ載たりける。礼紙には、神社仏寺近年以来、仏餉燈油如(レ)闕(二)寺社領等(一)、如(レ)本可(レ)被(レ)返(二)付本所(一)歟、王侯卿相(けいしやう)以下領、平氏輩多く押領と云云、早く被(レ)下(二)聖日之恩詔(一)、可(レ)被(レ)払(二)愁霧之鬱念(一)歟、平家之党類等、縦雖(レ)有(二)科怠(一)、若悔(レ)過帰(レ)徳、忽不(レ)可(レ)被(レ)行(二)斬刑(一)とぞ申ける。
S3307 光隆卿向(二)木曾許(一)付木曾院参(ゐんざん)頑事
同(おなじき)十五日、備前守行家申けるは、経盛卿并成良等、以(二)軍船五百艘(一)浮(二)海上(一)、国々の船を討取。其威勢甚強して、舎弟(しやてい)の男為(二)賊徒(一)軍敗られて、備前国を被(二)打取(一)畢、急罷(有朋下P252)向て可(二)討伐(一)と申けれ共、
P0803
義仲(よしなか)不(レ)免ければ、院より可(レ)被(二)下遣(一)の由義仲(よしなか)に仰ければ、勅答には、行家は雖(レ)為(二)勇士(一)無(二)冥加(一)、毎度被(レ)敗(レ)軍、今度の追討使尤可(レ)有(レ)儀かと申ければ、義仲(よしなか)可(二)罷向(一)の由、被(二)仰下(一)けり。木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)は、貌形は清気にて美男なりけれ共、堅固の田舎人にて、浅猿(あさまし)く頑何をかしかりけり。信濃国(しなののくに)木曾と云ふ山里に、二歳よりして二十余年が間隠居たりければ、人に馴る事はなし。始て都の人に馴そめんに、なじかは誠によかるべき、かたくななるこそ理なれ。
猫間中納言光隆卿宣ふべき事あて木曾が許へおはして、先雑色して角と云入られたり。木曾が郎等に根井と云者、聞継て主に語ければ、木曾不(二)意得(一)とて、なまり音にて、何猫のきた、猫とは何ぞ、鼠とる猫歟、旅なればとらすべき鼠もなし、猫は何の料に義仲(よしなか)が許へは来るべき、但し人を猫と云事もや有と云ければ、根井もげに不(二)心得(こころえ)(一)と思て、立帰て雑色に問様は、抑猫殿とは鼠取猫か、人を猫殿と申かと、御料に不(二)意得(一)と嗔給也といへば、雑色あな頑やをしへんと思て、七条坊城壬生辺をば、北猫間、南猫間と申。是は北猫間に御座(おはしま)す程に、在所に付て猫間殿と申也。譬へば信濃国(しなののくに)木曾と云所におはすれば木曾殿(きそどの)と申様に、是も猫間に御座(おはしませ)ば猫間殿と申也と細々に教ければ、根井意得て此様を申。木曾も其時意得て奉(レ)入(二)(有朋下P253)見参(一)しけり。暫く物語(ものがたり)し給(たまひ)て、木曾根井を招て、や給へなんてまれ饗申せと云。中納言浅猿(あさまし)と思ひて、只今(ただいま)不(レ)可(レ)有(レ)宣(のたまふことあるべからざり)けれ共、いかが食時におはしたるに物めさでは有べき、食べき折に不(レ)食は、粮なき者と成也、とく急げ/\と云。何も生しき物をば無塩と云ぞ
P0804
と心得(こころえ)て、無塩の平茸もありつな、帰給はぬさきに早めよ/\と云ければ、中納言は懸由なき所へ来て恥がましや、今更帰らんも流石(さすが)也と思て、宣べき事もはか/゛\しく不(レ)被(レ)仰、興醒て竪唾を呑て御座(おはしまし)けるに、いつしか田舎合子の、大に尻高く底深に生塗なるが所々剥たるに、毛立したる飯の、黒く籾交なりけるを堆盛上て、御菜三種に平茸の汁一つ、折敷に居て根井持来て中納言の前にさし居たり。大方とかく云計なし。木曾が前にも同く備たり。木曾は箸とり食けれ共、中納言は青興醒てめさず。木曾是を見て、如何に猫殿は不(レ)饗ぞ、合子を簡給歟、あれは義仲(よしなか)が随分の精進合子、あだにも人にたばず、無塩の平茸は京都にはきと無物也、猫殿只掻給へ/\と勧めたり。いとゞ穢く思ひ給けれ共、物も覚えぬ田舎人、不(レ)食してあしき事もぞ在と被(レ)思ければ、めす体に翫て中底に突散し給へり。木曾は散飯の外には何も残さず食畢。戯呼猫殿は少食にておはしけり、去にても適座したるに、今少掻給へかし/\と申。其後根井、猫間殿の下を取て中納言の雑色(有朋下P254)に給。雑色因幡志腹を立て、我君昔より懸る浅猿(あさまし)き物進ずとて、厩の角へ合子ながら抛捨たり。木曾が舎人是を見て、穴浅増(あさまし)や、京の者は、などや上揩煢コ揩熾ィは覚えぬ、あれは殿の大事の合子精進をやとて取てけり。是のみならず、をかしき事共多かりける中に、木曾我官を成たり、さのみ非(レ)可(レ)有(二)引籠(一)出仕せんとて、直垂を脱置て、狩衣に立烏帽子(たてえぼし)著て初て車に乗、院(ゐんの)御所(ごしよ)へ参る。不(二)乗習(一)車、不(二)著知(一)装束なれば、立烏帽子(たてえぼし)のさきより指貫のすそまで、頑事云計なし。牛飼は平家内大臣(ないだいじん)の童を取て仕ければ、高名
P0805
の遣手也、主の敵ぞかしと目ざましく心憂思ける。木曾車にゆがみ乗たる有様(ありさま)、をかしなどは云計なし。左右の物見を開、前後の簾を揚たり。牛小童が角はせぬ事にて候と云ければ、やをれ牛童よ、たまたま車に乗たる時、人をも見たり人にも見ゆるぞかし、如何が無念に、車の内なればとて引籠て有べき、且は是程窄所に詰居事も忌々しなど云てをかしかりけり。馬に打乗冑著たるには少も似ず、ゆゆしく危げにぞ見えける。牛童車を門外に遣出て、後て一■(ずわえ)あてたれば、飼立たる強牛の逸物也、何の滞か有べきなれば、如(レ)飛走る。木曾車の内に却様にまろぶ。牛を留ん為に、やをら童々と叫ければ、留よと云とは心得(こころえ)たりけれ共、いとゞ鞭を当つ、牛はまりあかて躍る。起あがらん/\と(有朋下P255)すれ共なじかは起らるべき、不(二)著習(一)装束也、起る暇はなし。蝶の羽をひろげたるが如くに、左右の袖をひろげ足を捧て、やをれ/\とをめきけれ共、不(二)虚聞(一)して六七町こそあがかせたれ。郎等共(らうどうども)が馳付て、如何に暫し留よと仰の有るに角は仕るぞと云ければ、牛童陳じ申けるは、やれ小てい/\と候へば、初て御車に召て面白と思召(おぼしめし)て、車を遣々と仰あると心得(こころえ)て仕て侍り、其上此牛は鼻つよく候と申て、車を留て後、木曾起居たりけれ共、六七町はあがかせぬ。きならはぬ狩衣の頸にて喉をばつよく詰たり。遍身(へんしん)に汗たり、赤面してぬけ/\とあり。牛飼今は中直せんと思て、それに候御手形に取付せ給へと教ければ、いづくを手形とも不(レ)知げに見えける時に、其に候方立の穴に取付せ給へと云時、初て取付て、あはれ支度や、是は和牛小ていが支度か、又主の殿の構かとぞ問たりける。院(ゐんの)御所(ごしよ)にて車懸はづし
P0806
ておりんとしけるが、後より下けるを、雑色、車には後より乗て前よりおるゝ事にて候と申せば、いかが車ならんからに、忌々敷すとおりおはすべき、京の人は物におぼえずと覚るとて、終に後より下てけり。院(ゐんの)御所(ごしよ)へ指入ければ、折節(をりふし)候相たりける公卿殿上人(てんじやうびと)、女房女童部(をんなわらんべ)に至迄、すはや木曾が参なるは、死生不(レ)知の怖し者にて有なるぞとて、局々に逃入忍隠て戸を細目に開、御簾の間よりのぞ(有朋下P256)きけり。木曾庭上をねり廻、彼方此方を立渡て、穴面白の大戸やせとや、中戸にも絵書たり、下内にも唐紙押たりとぞ嘆たりける。殿上階下、男女畏しさにえ咲はで、忍音に咲壺に入てぞ咲ける。大方振舞とふるまふ事、云と云事は、京中上下の物咲なり。
S3308 源平水島軍事
〔去(さる)程(ほど)に、〕平家は讃岐国屋島に在ながら、山陽道を打靡して都へ責上るべしと聞えければ、木曾左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)是を聞て、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)矢田判官代(はんぐわんだい)義清、宇野平四郎行広を差遣す。山陽道の者共多く源氏に相従けり。平家は三百(さんびやく)余艘(よさう)の兵船を調て、屋島の磯に漕出たり。源氏は備中国水島が途に陣を取て、千余艘(よさう)の兵船を構たり。源平互に海を隔て支たり。
寿永二年閏十月一日、水島にて源氏と平家と合戦を企つ。源氏等(げんじら)計けるは、此島の南の地より、島の北の際まで三町(さんちやう)には過べからず、島の東の海上より寄て、島の北に船を陸まで組合て、軍兵隙を諍て攻寄ば、先陣に進まん者敵の為に打とらると云共、幾ならじ。後より次第に続て、島の上へ責入て城に火を懸ば、敵は舟へのみこそ競のらんずらめ、打物に堪たらん輩続て乗移て打とれ、島を責落し
P0807
なば、船の寄る所なくしては争か海上(有朋下P257)に日を重ぬべき、浪に引れ風に随つて漂はんを、浦々渚々に追詰々々討とらんと定てけり。平氏は又船をば島の西南に付て、城の東北の木戸口(きどぐち)を開て、名を得たらん人々進出て敵を指招かば、舟を並て責寄べし、偽て引退ば島の上へ襲来らん歟、其時舟を島東北へ指廻して、三方より矢前(やさき)揃て可(二)射取(一)、敵不(レ)堪して引退かば、舟を指並べて乗移、分捕せんとぞ謀りける。源氏の追手の大将軍は宇野弥平四郎行広、搦手の大将軍は足利矢田判官代(はんぐわんだい)義清也。五千(ごせん)余人(よにん)の兵共(つはものども)、百余艘(よさう)の兵船、纜解て押出し、夜の曙に漕寄て時の声を発す。平家待儲たる事なれば、声を合て戦ふ。両方の軍兵一万(いちまん)余人(よにん)なれば、時の声海上に響渡て、よせたる波の音も声を合する歟とぞ覚ける。平家は本三位中将重衡、越前三位通盛卿を大将軍として七千(しちせん)余人(よにん)、二百艘の兵船に乗て、島の西南より東北へ二手に指廻す。源氏の兵船、兼てはかりたる事なれば、南の地より島の北まで指並て、当国の住人(ぢゆうにん)を前に立て二千(にせん)余人(よにん)、甲を傾け冑の袖を振合て、一面に立並て責寄。平家は見(レ)是て、城の東北の木戸口(きどぐち)を開く。能登守教経は、紺の白き糸にて群千鳥を縫たる直垂に、紅威の鎧に、長覆輪太刀をはけり。越中次郎兵衛盛嗣は、滋目結の直垂に耳坐滋の冑を著たり。上総五郎兵衛忠清(ただきよ)は、縫摺の直垂に赤威肩白の鎧を著たり。飛騨三郎兵衛(有朋下P258)景家(かげいへ)は、褐直垂に大衿耳袖を赤地の錦をたち入たるに、黒糸威(くろいとをどしの)鎧を著せり。鎧の毛直垂の色、いづれも取々にはなやかに見えたり。此外村田兵衛盛房、源八馬允、米田を始として、名を得たる勇士三十(さんじふ)余人(よにん)打出て、
P0808
敵を招けば、矢田判官代(はんぐわんだい)義清、仁科次郎盛宗、高梨六郎高直、海野平四郎幸広を始として三百(さんびやく)余人(よにん)、木戸口(きどぐち)へ攻寄て戦。平氏偽て引退、源氏勝に乗て攻蒐。爰(ここ)に島の両方の船、南の沖西の島さきより指寄て、敵の舟を打鎰にて掻寄せ、組合て乗移る。精兵をそろへて、城中(じやうちゆう)并に両方の船より散々(さんざん)に射、源氏の船不(レ)堪引退。西風烈く吹て、船共ゆられて打合ければ、東国北国の輩、舟軍は習はぬ事なれば、船に不(二)立得(一)して船底へのみ重り入。平家の輩は、舟軍自在を得たりければ、乱入て散々(さんざん)に切。面を向る者はすくなし。舟耳に近付者をば取て海に入、底にある者をば冑の袖をふまへて頸を掻、城の中よりは勝鼓を打て■(ののし)り懸る程に、天俄(にはか)に曇て日の光も見えず、闇の夜の如くに成たれば、源氏の軍兵共日蝕とは不(レ)知、いとゞ東西を失て舟を退て、いづち共なく風に随つて遁行。平氏の兵共(つはものども)は兼て知にければ、いよ/\時を造り重て攻戦。矢田判官代(はんぐわんだい)義清は、船にゆられて立得ざりければ、船耳に尻を懸て、甲を脱捨太刀を抜て戦ふ。越中次郎兵衛盛嗣は是を見て、甲を傾て打て懸を、義清立上(有朋下P259)て甲の鉢をうつ。強く被(レ)打て甲を脱て落にけり。盛嗣目くれて、太刀の打所は覚ざりけれ共打違へたりけるに、義清が右の顔をすぢかへに、押付の板に切付たりければ、うつぶしに伏けるを引仰のけて頸を掻てけり。海野四郎幸広は、村田兵衛盛房と船耳にて取組て海へ入けるを、飛騨三郎兵衛景家(かげいへ)は勇士の者也ければ、盛房が総角を取て引返して懐合たりけるを、両人ながら船へ抛入てけり。幸広刀を抜て、盛房が起あがらんとするを踏へて、冑の草摺を引上てさす。景家(かげいへ)是を見て、幸広
P0809
が甲を引仰て首を掻てけり。能登守教経、精兵の手きゝなりければ一として空矢なし。高梨次郎高信を始として十三人被(二)射取(一)けり。源氏の軍敗にければ、討残されたる者共、はしふねに乗移て、飛下々々落行きけるを、平家は舟の中に兼て鞍置馬を用意して、船共の纜切放、渚(なぎさ)に漕寄、舟腹を乗傾て馬共おろし、ひたとのり、能登守一陣に進で攻蒐ければ、討るゝ者は多く助かる者は少なし。或備前国へ落もあり、或は都へ上もあり。海へ入て死する者は其数を不(レ)知。船にて被(二)討捕(一)源氏には、矢田、高梨、海野を始として、千二百人(せんにひやくにん)が頸切懸たり。
S3309 木曾備中下向斉明被(レ)討並兼康(かねやす)討(二)倉光(一)事(有朋下P260)
懸ければ当国住人(ぢゆうにん)等、皆平氏に帰伏してけり。都へ落上たりける者共、木曾に角と云ければ、義仲(よしなか)不(レ)安とて、夜を日に継て備中国へ馳下。去六月北陸道の合戦に虜たりし平泉寺長吏斉明をば、六条河原にて頸を切る。妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)は、木を樵草を刈までこそなけれ共、二心なく木曾に被(レ)仕けり。是はいかにもして再故郷に帰、今一度旧主を奉(レ)見、平家の御方に成て合戦を遂んとの謀なり。咲中偸銃(二)刺人(一)刀といへり。木曾は是をも不(レ)知して、斉明と同時に切べかりけれ共、西国(さいこく)の道しるべとて宥具し給けり。蘇子卿如(レ)因(二)胡国(一)李少卿似(下)帰(二)漢朝(一)、遠著(中)異国(上)、昔人の所(レ)悲といへり。如何有べかるらん、■(おぼつか)なしと覚たり。寿永二年閏十月四日、木曾都を出て、播磨路に懸て今宿に著。今宿より妹尾を先達にて備中国へ下る。当国の船坂山にて、兼康(かねやす)木曾に云けるは、暇を給(たまひ)て先立て罷下、相親む者共に、御馬草をも用意せさせ候ばや、懸乱の世なれば、俄の事は難(レ)治にも侍
P0810
べしと申間、さも有べしとて許し遣はす。木曾は爰(ここ)に三箇日の逗留と云。兼康(かねやす)すかし仰たりと思て、子息小太郎兼通、郎等宗俊を相具して下けるが、加賀国住人(ぢゆうにん)倉光三郎兼光を招て云けるは、やゝ倉光殿、兼康(かねやす)、御辺(ごへん)に奉(レ)被(レ)虜、難(レ)遁命を生、剰西国(さいこく)の尋承を給、故郷に帰て再妻子を相見ん事も、御恩とのみ奉(レ)思、もし人手に懸たらば、争(有朋下P261)か命も生故郷へも帰べき、さても兼康(かねやす)虜給たる勧賞に、備中の妹尾は吉所にて侍り、勲功の賞に申賜て下給へかし、同は打つれ奉んと云。倉光三郎誠にと思て木曾に所望しければ、則下文賜。倉光悦で妹尾に打具して下る。兼康(かねやす)道すがら思けるは、妹尾まで行ぬるものならば、新司とて庄内一はな心にてもてなし、思著者有て勢付なば如何にも難(レ)叶と思て、備前国和気の渡より東に、藤野寺と云古き御堂に下居て、兼康(かねやす)申けるは、やや倉光殿、妹尾は今は程近し、やがて打具し奉べけれ共、世間の■々(そうそう)に所も合期せん事難し、兼康(かねやす)先立て所の様をも見廻、又親しき者共にも相触て、かゝる人こそ下向し給へとて、御饗をも用意せさせんと云ければ、倉光は何様にもよき様に相計給へとて爰(ここ)に留る。兼康(かねやす)はすかして負て、先立て草壁と云所に馳付て、使を方々へ遣して、親者四五人招寄て夜討せんとぞ出立ける。倉光争か角と知べきなれば、今や今やと待所に、夜半計に、兼康(かねやす)は十余騎(よき)の勢にて、藤野寺に押寄て、倉光三郎を夜討にしてこそ帰にける。此倉光と云は、随分健に立て、度々の軍にも不覚せず、北国合戦に妹尾をも虜たりし者が、兼康(かねやす)にすかされて討れぬるこそ無慙なれ。人の申けるは、何事も運の尽るは力なき事なれ共、倉光
P0811
は北国の住人(ぢゆうにん)ながら、案内者立て此彼あなぐり行、昔より馬の鼻もむかぬ、白山(有朋下P262)権現の御領、末寺末社の庄園を没倒し、神事仏事の供米を押領し、剰又平泉寺の長吏斉明威儀師(ゐぎし)が被(レ)宥しをも、種々に讒訴して六条河原にて刎(レ)首などしたりしかば、神の咎人の怨の報にこそ、角おめ/\とは討れたるらめとぞ申ける。妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)は、倉光を夜討にして後に人を四方に走らかし、兼康(かねやす)こそ北国の軍に被(レ)虜たりつるが、平家の御行末の恋さに、兎角操て再故郷にまぬかれ帰たれ、木曾は既(すで)に船坂山に著給へり。平家へ参らんと思はん者の、我に志あらん人は、兼康(かねやす)に付て木曾を一矢射よやと触たりけり。妹尾にも不(レ)限、其辺近者共、墓々しきは兼て屋島へ参ぬ。馬鞍も持ず、具足もたらはぬ輩が是を聞て、柿の袴に責紐結、布の小袖に東折したり。剥たる弓矢に精たる太刀刀持などして、馬に乗者は少く、多は歩跣にて、此彼より二人三人と走集たり。其(その)勢(せい)三百人(さんびやくにん)計在けれども、そも物に叶べきは僅(わづか)に十二十人には過ざりけり。此勢を相具して、兼康(かねやす)は西河裳佐の渡を打渡り、福輪寺阡を堀切て、管植逆母木引などして、馬も人も通難く構たり。彼阡と云は遠さ二十余町(よちやう)、北は峨々たる山、人跡絶たるが如し。南は渺々たる沼田、遥(はるか)に南海に連なりたり。西には岩井と云所あり。是をば打過て当国の一宮をも過、佐々迫に懸。此佐々迫と云所は、東西は高き山、谷に一の細道あり。左右の山(有朋下P263)の上に弩多く張り立たり。後には津高郷とて、谷口は沼也ければ、究竟の城(じやう)也。敵何万騎向たり共輙く攻落し難所也。此には兵共(つはものども)を指置て、我身は唐河の宿、板蔵城
P0812
に引籠て、今や/\と木曾を待。
S3310 兼康(かねやす)板蔵城戦事
〔去(さる)程(ほど)に〕倉光三郎の下人夜討に討漏れたりけるが、舟坂山に走帰て木曾に角と告ければ、木曾驚騒て、夜討の勢は何程か有つると問。闇は闇し夜目にて一定の数は不(レ)知、二三十人にもやと見え侍き。妹尾が所為と覚ゆる事は、我身は先立て馬の草藁用意して、使を進せん程は、暫く此に相待給へとて、古御堂におろし奉(レ)置、夜に入まで使もなし、待ども/\人も見えず、結句はかくなり給ぬ、この定ならば、一定君をも伺進せんと覚候、其上妹尾は国人也、勢も付増ゆゝしき大事也、急ぎ兼康(かねやす)を討せ給べくや候覧と申。兼康(かねやす)が所為勿論也、去ば急とて、木曾三百(さんびやく)余騎(よき)にて今宿を立、夜を日に継で馳下給ける程に、其暁に三石に著。明日藤野寺に著。倉光爰(ここ)にして討れにけりと哀に思ひ、爰をも打過、和気の渡を打渡し、可真郷へ打入て福輪寺阡を見れば、堀掘切て逆母木引、たやすく爰を(有朋下P264)難(レ)通、如何して閑道を知らんとて、其辺を打廻て里人を尋けるに、可真郷の住人(ぢゆうにん)に、惣官頼隆と云者を尋出して云けるは、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)を、西国(さいこく)の為尋承、死罪を宥て古里に返遣す処に、還て義仲(よしなか)に存腹黒、彼を責んとするに、きと道を得ず、通り道ありなんやと宣へば、候なんとて即頼隆山しるべして先陣に進み、北路に懸り鳥岳と云所を廻て、佐々の井より時を咄と造懸て、佐々が迫を責たりけり。妹尾は兼て、木曾は今宿に三日の逗留なれば、縦此事漏聞て寄とも、福輪寺畔きと寄がたし、されば只今(ただいま)の事にてはよもあらじと打延て思けるに、時を造懸て寄たれば、駈武者共は一矢射る
P0813
に及ず、皆散々(ちりぢり)に落行けり。自先立者は助りけれども、返合する者のたすかるはなし。深田に追入追入切殺し射殺す。佐々迫を攻落して、唐皮宿、板蔵城に押寄て時を造る。妹尾思儲たる事なれば、矢たばね解て散々(さんざん)に射る。木曾は妹尾逃すな兼康(かねやす)あますな、攻よ/\と下知しければ、郎等共(らうどうども)入替入替射合たり。妹尾矢種尽ければ、主従三人山に籠る。それより相構て屋島へ参らんと赴ける程に、子息小太郎兼通は、肥太たる男にて、歩に不(二)合期(一)ければ、足を痛て山中に留る。兼康(かねやす)は思切、小太郎を捨て落行けれ共、恩愛の道の悲さは、行ども/\不(レ)歩。小太郎又父の兼康(かねやす)を呼ければ、兼康(かねやす)帰て如何にと問。させる要事(有朋下P265)は侍らず、爰を最後と存ずれば、今一度見奉んとてと答、涙を流しければ、兼康(かねやす)も袖を絞けり。一年新(しん)大納言(だいなごん)成親、丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)に情なくあたり奉りたりしに、親子の中の悲しさは、今こそ思ひ知れけれ。敵近く攻寄ければ、兼康(かねやす)又思切深く山へ落入けるが、眼に霧雨て進まれず。郎等宗俊を呼て、兼康(かねやす)は数千人(すせんにん)の敵に向て戦にも、四方晴て見ゆれ共、小太郎を捨て落行ば、涙にくれて道見えず、兼ては相構て屋島に参て、今一度君をも見奉り、木曾に仕し事をも申ばやと思つれ共、今は恩愛の中の悲ければ、小太郎と一所にて討死せんと思は如何有べきと云。宗俊尤さこそ侍べけれ、弓矢の家に生ぬれば、人ごとに無跡までも名を惜む習也、明日は人の申さん様は、兼康殿(かねやすどの)こそいつまで命をいきんとて、山中に子を捨落行きぬれといはれん事も口惜き御事なるべし、主を見奉らんと覚ずも子の末の代を思召(おぼしめす)故也、小太郎殿亡給なんには、何事も何かはし給
P0814
べき、只返合て、三人同心に一軍して、死出の山をも離ず御伴仕らんと云ければ、兼康(かねやす)然べしとて道より帰、足病居たる小太郎が許にゆき、前には柴垣を掻、後には大木を木楯にして敵を待処に、木曾左馬頭(さまのかみ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて跡見に付て尋けるに、兼康(かねやす)爰(ここ)に在とて、幾程助るべき事ならねど、小太郎を後に立て、我身は矢面に指顕て、指詰々々散々(さんざん)に射る。十三(有朋下P266)騎に手負せて馬九匹射殺し、矢種も又尽ければ、今は角とて腹を掻切て失にけり。小太郎兼通も引取(ひきとり)々々(ひきとり)射けるが、父が自害を見て、同枕に腹切て臥にけり。郎等宗俊も手の定り戦て、柴垣に上て、剛者の死ぬる見よやとて、太刀の切錚口に含み、逆に落貫かりてぞ死にける。木曾は妹尾父子が頸を切、備中国鷺森に懸て引退く。万寿庄に陣を取、後陣の勢を待儲て、是より平家を為(二)追討(一)屋島の発向をぞ議定しける。
S3311 依(二)行家謀叛(一)木曾上洛事
〔斯りける処に〕木曾西国(さいこく)下向之時、乳母子(めのとご)の樋口次郎兼光をば、京の守護に候へとて留置たりけるが、十一月二日早馬を立て、十郎蔵人殿こそ鼬のなき間の貂誇りとかやの様に、院のきり人して院宣を給り、木曾殿(きそどの)を誅奉べき、其聞候へと申下したりければ、木曾大に驚て平家を打捨て、夜を日に継で馳上る。
S3312 行家与(二)平氏(一)室山合戦事
十郎蔵人是を聞て、千騎(せんぎ)の勢にて指違て、丹波路より播磨国へ下る。平家は折節(をりふし)播磨の(有朋下P267)室に著給たりけるが、此事を聞て、門脇(かどわきの)新中納言父子、本三位中将重衡、一万(いちまん)余騎(よき)にて室山坂に陣を取て、十郎蔵人を相待けり。討手を五に分たり。一陣飛騨三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)景経五百(ごひやく)余騎(よき)、二陣越中次郎兵衛盛嗣、五百(ごひやく)余騎(よき)、三陣上総五郎兵衛忠清(ただきよ)五百(ごひやく)余騎(よき)、四陣伊賀平内左衛門尉(へいないざゑもんのじよう)家長五百(ごひやく)余騎(よき)、五陣門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)
P0815
八千(はつせん)余騎(よき)にて引へたり。十郎蔵人是をば不(レ)知、室山を打程に、飛騨三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)進出て、散々(さんざん)に暫戦て、景経の弓手の小黒の中へ引退く。源氏爰を蒐通て二陣に付。越中次郎兵衛道を切て防けれ共、戦兼て盛嗣妻手の林へ引籠る。源氏此を打破て三陣に付。上総五郎兵衛出塞つて戦けれ共、忠清(ただきよ)負色に成て北の麓へ被(二)追下(一)。源氏爰を破て四陣に付。伊賀平内左衛門尉(へいないざゑもんのじよう)待受て戦けるが、家長も不(レ)叶して南の谷へ追落さる。源氏四陣を破て五陣に付。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)八千(はつせん)余騎(よき)にて引へ給へり。大勢支塞て戦ける中に、中納言の侍に、紀七、紀八、紀九郎とて、兄弟三人ありけるが、劣らぬ剛者精兵の手きゝ也けるが、死生不(レ)知に進出て、矢尻を揃て指詰引取散々(さんざん)に射ければ、面を向べき様なくして、十郎蔵人取て返して落ければ、五陣大勢時を造懸て責付たり。是を聞て四陣三陣二陣一陣、道を塞ぎ時を合て待処に、源氏四陣を破らんとす。是も矢尻をそろへて射ければ、十郎蔵人は敵にはかられにけりと心得(こころえ)て、其(有朋下P268)時は射にも及ばず切にも不(レ)能、しころを傾け冑の袖を真甲にあてて、弓を脇に挟み、太刀を肩に懸て、通れ者共よ若党とて、四陣を走せ抜て見たりければ、千騎(せんぎ)の勢三百騎は討れて七百騎になる。此勢にて三陣につく。是も散々(さんざん)に戦けれ共、思切て打破て通にけり。三百騎討れて四百騎(しひやくき)になる、此勢にて二陣につく。是も打破て出て見れば百騎成。此勢にて一陣に付て、今を限と死生不(レ)知に戦て、係散して出たれば、僅(わづか)に七八十騎(じつき)には過ざりけり。能登守教経、伊賀平内左衛門(へいないざゑもん)家長、田太左衛門生職、駿河兵衛光成、飛騨三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)景経を始として五百(ごひやく)余騎(よき)、南山の麓より、
P0816
馬鼻を並て北へ向て蒐、陣の内より豊後右衛門頼弘、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠清(ただきよ)、矢野右馬允家村、同七郎兵衛高村を始として三百(さんびやく)余騎(よき)、東へ向て源氏を中に挟て蒐。源氏平家両陣乱合て、或弓手に懸並べて討捕もあり。或妻手に相合て討落もあり。四方に馳乱れて懸合懸組、馬足音矢叫の声、山を響し地を響す。源氏も平氏も何隙あり共見えざりけり。爰(ここ)に美作(みまさかの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)恵比入道守信、播磨国住人(ぢゆうにん)佐用党利季兼知を始として七百(しちひやく)余騎(よき)、西の山の鼻より時を造つて懸ければ、源氏三方より被(二)押囲(一)て、軍忽(たちまち)に破て東を指て落行けり。平家勝に乗て敵を懸背て、おもの射にぞ射取ける。備前守行家は、赤地錦の直垂に黒糸威(くろいとをどし)の鎧を著(有朋下P269)て、さび鴾毛の馬に乗、山田次郎重弘、三遠雁の直垂に紫威の鎧著て、黒馬にぞ乗たりける。三十(さんじふ)余騎(よき)を相具して、東の原を北へ向て引退く。景経、忠清(ただきよ)、盛嗣、家村等鞭を打轡を並て追攻めければ、伊賀国の住人(ぢゆうにん)つげの十郎有重、美濃国住人(ぢゆうにん)をりとの六郎重行を始として十一騎(じふいつき)、おり禦て戦ふ。有重は盛嗣に馳合て押ならべて組ければ、盛嗣立上りて、左の手にて有重が甲を引落し、髻を取て鞍の前輪に引付て頸を掻、太刀の切錚に貫て、馬を引へて歩ませ行。誠にゆゝしくぞ見えける。重行は景家(かげいへ)に組れて首とられにけり。此間に行家重弘は遁得て、和泉国へぞ越にける。つげの十郎有重、をりとの六郎重行を始として、百八十人頸切懸たり。懸ければ、備前、播磨両国の勇士等、皆平家に随付にけり。
S3313 木曾洛中狼藉事
〔去(さる)程(ほど)に〕源氏世を取たりとても、其ゆかりなからん者は指せる何の悦か有べきなれ共、人の心のうたてさ
P0817
は、平家の方の弱きと聞ば悦、源氏の軍の勝と云をば興に入て悦合けり。さはあれ共、平家西国(さいこく)へ落下給(たまひ)て後は、世の騒に引れて、資雑財具東西に運隠し、京白川(有朋下P270)挿絵(有朋下P271)挿絵(有朋下P272)にても吟ければ、引失者も多、深き井の中に入、穴を掘りて埋などせしかば、打破朽損じて失しばかり也。流石(さすが)残物も有しぞかし。木曾五万余騎(よき)を引卒して上洛して、武士京中に充満て家々(いへいへ)に乱入、門には白旗を打立て家主を追出し、財宝を追捕す。只今(ただいま)食はんとて箸を立るをも奪取ければ、口を空して命生べき様なし。道を通る者をも衣装を剥れ、手に持肩に荷へる物をも抑へ取ければ、やす心なし。浅猿(あさまし)などは云計なし。可(レ)然大臣公卿の御所などこそさすが憚て狼藉をばせざりけれ。平家の代には、六波羅の一家と云しかば、只恐れをなすばかりにて有しに、加様に目を見合せて食物を箸奪取事やは有し、心憂事也と老たるも若も歎けり。加賀国住人(ぢゆうにん)井上次郎師方が申行に依て、木曾懸る悪事をするとぞ聞えし。只人民の煩のみに非、賀茂、八幡、稲荷、祇園より始て、神社仏閣、権門勢家の御領をも嫌はず、青田を刈取て秣に飼、堂塔卒都婆などを破取て薪としけり。狼藉不(レ)斜(なのめならず)、殆人倫の所為とも不(レ)覚、遥替劣したる源氏也とぞ沙汰しける。何者(なにもの)が所為にてか有けん、院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の四足の門に、札に書て立たりけり。
あかさいてしろたなごひに取替て頭にしまく小入道哉 K178
さしも乱れの世の中に、よくあとなき者も有けりとぞ申ける。