『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十五

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伝巻 第三十五
S3501 範頼義経京入事
大手搦手、尾張国熱田社より相分て、宇治勢多へ向けり。大手の大将軍は蒲冠者範頼、相従ふ輩には、武田太郎信義、加々見次郎遠光、一条次郎忠頼、小笠原次郎長清、伊沢五郎信光、板垣三郎兼信、逸見冠者義清、侍には稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、森五郎行重、千葉介経胤、子息小太郎胤正、相馬次郎成胤、国府五郎胤家、金子十郎家忠、同与一近範、源八広綱、渡柳弥五郎清忠、多々良五郎義春、同六郎光義、別府太郎義行、長井(ながゐの)太郎義兼、筒井四郎義行、葦名太郎清高、野与、山口、山名、里見、大田、高山、仁科、広瀬、家子郎等打具して三万(さんまん)余騎(よき)、海道を上りに、宿々山河打過て、近江国勢多長橋に著にけり。搦手の大将軍は九郎冠者義経、相従輩には、安田三郎義定、大内太郎維義、田代冠者信綱、侍には佐々木四郎高綱、畠山次郎重忠、河越太郎重頼、子息小太郎重房、師岡兵衛重経、梶原平三景時、子息源太景季、同平次景高、同三郎景家(かげいへ)、(有朋下P314)曽我太郎祐信、土屋三郎宗遠、土肥次郎実平、嫡子弥太郎遠平、佐原十郎義連、和田小太郎義盛、勅使河原権三郎有直、庄三郎忠家、勝大八郎行平、猪俣金平六範綱、岡部六弥太忠澄、後藤兵衛真基、新兵衛尉基清、鹿島六郎維明、片岡太郎経春、弟八郎為春、御曹司手郎等に、奥州(あうしうの)佐藤三郎継信、弟四郎忠信、伊勢
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三郎義盛、江田源三、熊井太郎、大内太郎、長野三郎、
武蔵坊弁慶(べんけい)を始として、家子郎等相具して二万五千(にまんごせん)余騎(よき)、伊勢路(いせぢ)を廻て攻上と聞けり。大手搦手都合して、六万余騎(よき)の兵也。
去(さる)程(ほど)に木曾(きそ)義仲(よしなか)は、折節(をりふし)勢こそなかりけれ。樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家を攻んとて河内国へ越ぬ。今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)、方等三郎先生義弘、五百(ごひやく)余騎(よき)にて勢多手に指遣す。根井大弥太行親、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)進六郎親直、仁科、高梨、三百(さんびやく)余騎(よき)にて宇治手に指遣す。
木曾は力者(りきしや)二十人汰て、関東の兵強くば、院を取進せて西国(さいこく)へ御幸成進せんと支度して、上野国住人(ぢゆうにん)那和太郎弘澄を相具して、院(ゐんの)御所(ごしよ)を奉(二)守護(一)、其(その)勢(せい)僅(わづか)に百騎計には不(レ)過けり。
九郎義経は、伊勢国(いせのくに)より伊賀路に懸て責上けるが、音に聞ゆる鈴鹿山の麓関を通るにも、去年の白雪(はくせつ)村消て、谷の氷も猶残れり。
  見る儘に跡絶ぬれば鈴鹿山雪こそ関のとざし成けれ K179 (有朋下P315)
と詠じけるを思つゞけて、八十瀬の白浪分過つゝ、加太山にぞ懸ける。此山の為(レ)体、峯高して峙て上り。巌嶮して身を側て伝ひ、谷深して漲落る水早ければ、足を危して渡る。河を渡ては山路に上り、山を越ては河瀬に浸る。興を催す所もあり、心を摧く砌(みぎり)もあり。角て山路を出ぬれば、殖柘里、くらぶ山、風の森をも打過て、当国の一宮、南宮大菩薩(だいぼさつ)の御前をば、心計に再拝して、暫新居川原
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に磬たり。西に平岡あり、九郎義経里人を招きて、是より宇治へ向はんには、何地が道は能と問給へば、西に見え候平岡をば、あをた山と申、其より前に、頸落滝と云所を通るには近く候と申。其外又道はなきかと問給へば、是より長田里、花苑と云所を廻て、射手大明神(いとのだいみやうじん)の御前を、笠置に懸つても道能候と申。射手大明神(いとのだいみやうじん)とは何なる神にて御座ぞと問ひ給へば、其までの事は争知り候べき、いとゝは射手と書て候なれ共、申易に付ていとと申し候とぞ承ると云ければ、九郎義経は、戦場に向に、あらた山、首落の道禁忌也、射手明神(いとのみやうじん)可(レ)然とて、長田里花苑を廻り、射手大明神(いとのだいみやうじん)の御前にて下馬し給(たま)ひ、所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)と祈請して、当来導師弥勒菩薩の笠置寺、今日甄原和泉河、河風寒く打過て、柞森を弓手になし、高倉宮(たかくらのみや)討れさせ給し光明山の鳥居の前を妻手に見て、山城国宇治郡、平等院(びやうどうゐん)の北の辺、富家の渡りへ著給ふ。
元暦(有朋下P316)元年正月廿日、大手搦手宇治勢多に著。九郎義経河端に推寄見給へば、橋板を破取て向の岸に垣楯に掻、櫓に構たり。水は長さ増て底不(レ)見、其上乱杭(らんぐひ)逆茂木隙なく打て、大綱小綱引張て流し懸たれば、鴛鴨などの水鳥も、輙くゞり通るべし共見ざりけり。川の耳分内狭して、打臨たる者四五千騎(しごせんぎ)には不(レ)過、二万(にまん)余騎(よき)は寄付べき所なくして、只徒に後陣に引へたり。河の様をも見ず、橋を引たるも知ぬ者のみ多ければ、渡るべき評定にも不(レ)及けり。御曹子は雑色歩走の者共を集て、家家(いへいへ)の資財雑具一々に取出させて、河端の在家を悉(ことごと)く焼払(やきはら)ひ、大勢を一所に集べしと下知し給。此由
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走散て■(ののしり)けれ共、兼て山林に逃隠たりければ家々(いへいへ)には人もなし。此上は手手(てんで)に続松を指上て、宇治の在家を焼払(やきはらひ)、行歩に叶はぬ老者少者共、さり共と忍居たりけれ共、猛火に焼死、適遁出たれども、馬人に踏殺さる。まして牛馬の類は助る者もなければ、其数を不(レ)知焼死けり。風吹ば木安からずとは加様の事なるべし。広々と焼払(やきはらひ)たりければ、二万五千(にまんごせん)余騎(よき)、貽る者もなく河耳に打臨たり。御曹子河の辺近く高櫓を造らせて、此上に登て四方を下知し給けり。矢立の硯を取寄て、宇治川(うぢがはの)先陣と剛者とを、次第明々に注して、鎌倉殿(かまくらどの)へ見参に入べしと被(レ)仰ければ、軍兵各勇を成て、抽(レ)忠とぞ色めきける。御曹子は櫓の上にて、様々の事(有朋下P317)下知し給けれ共、大勢思々にとゞめきければ、打紛れて聞えざりければ、平等院(びやうどうゐん)の御堂より太鼓を取寄、櫓の下にて打ければ大勢静りて、何事やらんと鳴をしづめて軍将に目を懸る時、大音揚て下知し給(たま)ひけるは、二万五千(にまんごせん)余騎(よき)の勢の中に、海の辺川端に栖て、水練の輩多かるらん、郎等家子舎人雑色までも、懸る時こそ群に抜たる高名をもすれ、我と思はん者どもは、物具(もののぐ)ぬぎ置て瀬踏して、川の案内を試るべし、向の岸を見に、矢筈を取たる者四五百騎(しごひやくき)と見たり、瀬踏する者あらば、定て引取(ひきとり)々々(ひきとり)射んずらん、剛座に付んと思はん人々は、馬をも捨て橋桁を渡り、向の岸の軍兵を追払て、水練の輩を思様に振舞せよと被(二)下知(一)ければ、是を聞、平山馬より飛下、橋桁の上に走登、弓杖を衝(つき)扇はら/\と仕うて申けるは、二万五千(にまんごせん)余騎(よき)の其中に、橋桁の先陣渡は、武蔵国住人(ぢゆうにん)平山武者所季重と云小冠者也とぞ名乗ける。抑当河の有様(ありさま)、
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深淵潭々として巨海の波に浮めるが如、下流■々(べうべう)として滝水の漲落るに臨るに似たり。虹の橋桁危くして、雁歯の構奇しければ、渡えん事難けれ共、軍将の下知を背ば命を惜むに似たり。身をば宇治川(うぢがはの)底に沈むとも、名をば後代の末に流さんとて、平山是を渡処に、佐々木太郎定綱、渋谷右馬允重助、熊谷次郎直実、子息小次郎(こじらう)直家、已上五人ぞ続て渡しける。矢比も近成ければ、(有朋下P318)向の岸の軍兵、弓を強く引んが為に態と甲を脱で、思々に引取(ひきとり)々々(ひきとり)放ける矢、雨の足の如に飛来けれ共、甲冑をゆり合せ/\、矢間をたばひて振舞ば、鎧は重代の重宝也、裏かく矢こそ無りけれ。
熊谷橋桁を渡らんとて、子息の小次郎(こじらう)を招きて云けるは、汝は今年十六歳、心は猛く思ふ共、さねは未竪まらじ、直実だにも平に渡付事難かるべし、汝は大勢の川を渡ん時、惣を力にして渡るべしと聞えければ、小次郎(こじらう)打咲ひて、秋の菓にこそ核の固る固まらぬと申事は侍れ、十歳已後の者、実の固まらぬ事や有べき、若又竪まらざらんに付ても、父をば争か奉(レ)離べき、恐くは父こそ常は風気とて、目のまふ膝の振ふとは仰られ候へ、此大河に向て細桁を渡給はん事危く覚侍り、目舞足振給はば直家を憑給へ、渡申さんと云ければ、父是を聞て、さらばつゞけ小次郎(こじらう)とて、親子連てぞ渡しける。誠に瀬には子に過たる宝なし、死出山三途河の旅の道も、親子ぞ互に助ける。五人の兵流石(さすが)目舞足振て、水は逆に流るゝかとぞ覚ける。各弓をば手に懸て、■々(はふはふ)渡る有様(ありさま)、誠に余(あまり)の命とぞ見えし。熊谷は我身の事は去事にて、子息の事の心苦さに、続くか小次郎(こじらう)誤すな/\と呼ければ、直家は、心ゆるし
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給(たまひ)て落入給ふな/\とぞ教ける。父子の情の哀さに、熊谷は是よりして、発心の思は有けるとかや。(有朋下P319)
S3502 高綱渡(二)宇治河(うぢがは)(一)事
〔去(さる)程(ほど)に〕直実大音揚て云けるは、抑此川固たる倫は、木曾殿(きそどの)の樹根の郎等にはよもあらじ、一旦付従ひたる人共にこそ有らめ、命は惜き習也、無(レ)詮合戦に与力して、大事の命失ふな、落ば助んと云儘に、引取(ひきとり)引取(ひきとり)放箭に、木曾殿(きそどの)の郎等に、藤太左衛門尉(とうたさゑもんのじよう)兼助と云者逆に被(二)射落(一)けり。是を始として、水練の者あらば防矢射んとて、五人進寄て散々(さんざん)に射ければ、多の郎等手負討れけり。其間に佐々木が郎等に、常陸国住人(ぢゆうにん)鹿島与一とて無双の水練あり。鎧脱置褌をかき、腰には鎌を指、手には熊手を以河の底に入、良久沈みくぐりて、乱杭(らんぐひ)逆母木(さかもぎ)引落し、大綱小綱切棄けり。実の器量と見えたりけり。去共未川を渡す者はなし、如何有べきと評定様々なりけるに、畠山庄司次郎重忠進出て申けるは、事新し、此河は近江の湖の末、今始て出来たる川にあらず、春立日影の習にて、細谷川の氷解、比良の高峰の雪消て、水のかさは増共、水の減事有べからず、足利(あしかがの)又太郎(またたらう)忠綱(ただつな)も、高倉宮(たかくらのみや)の御謀叛(ごむほん)の御時は、渡せばこそ渡けめ、鎌倉殿(かまくらどの)の御前にて、さしも評定の有しは是ぞかし、始て驚べき事に非ず、兼ての馬用意其事也、重忠渡して見参に入れんと云処(有朋下P320)に、平等院(びやうどうゐん)の小島崎より武者二騎蒐出たり。梶原源太と佐々木四郎と也。景季が装束には、木蘭地直垂に、黒革威の鎧に、三枚甲の緒をしめて、滋籐の弓の中を取、二十四差たる小中黒の矢負、練鐔の太刀佩て、鎌倉殿(かまくらどの)より給り
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たる磨墨と云名馬に、黒塗の鞍置て騎たり。高綱は褐衣の直垂に、小桜を黄に返たる鎧に、鍬形打たる甲に、笛籐弓の真中取、二十四差たる石打の征矢頭高に負、嗔物造の太刀帯て、是も鎌倉殿(かまくらどの)より給たる生■(いけずき)に、黄覆輪の鞍置てぞ騎たりける。誰か先陣と見処に、源太颯と打入て遥(はるか)に先立けり。高綱云けるは、如何に源太殿、御辺(ごへん)と高綱と外人になければ角申。殿の馬の腹帯は以外に窕て見物哉、此川は大事の渡也、河中にて鞍踏返して敵に笑はれ給なと云ければ、左も有らんと思て馬を留、鐙踏張立挙、弓の弦を口に■(くはへ)、腹帯を解て引詰々々しめける間に、高綱さと打渡して二段計先立たり。源太たばかられけりと不(レ)安思て、是も打浸して渡しけるが、馬の足綱に懸て思様にも不(レ)被(レ)渡。高綱は究竟の逸物に乗たれば、宇治河(うぢがは)はやしといへ共、淵瀬を不(レ)云さゞめかして金に渡し、向の岸近く成て、高綱が馬綱に懸て足をさと歩除ければ、自(レ)元期する事なれば、太刀を抜、大綱小綱三筋さと切流し、向の岸へ打上り、鐙踏張弓杖突て、佐々木四郎高綱、宇治河(うぢがは)の先陣渡たりやと名乗も果ぬ(有朋下P321)に、梶原源太も流渡に上りにけり。源太佐々木鎌倉へ早馬を立。何れも劣じ負じと馳て行。源太が早馬は先立たりけるが、如何したりけん、足柄の中山にて高綱が早馬先立ぬ。三日と申に馳付て、高綱宇治川(うぢがは)の先陣と申たり。同時に梶原が使又来て景季先陣と申けり。右兵衛佐殿(うひやうゑのすけどの)は、安立新三郎清恒を召て、佐々木梶原生たりやと問給へば、共に候と申。其後は尋給事なし。後日の注進に、宇治川(うぢがは)の先陣は高綱と被(レ)注たりけるを見給(たまひ)てこそ言と心と相違なしとは宣(のたまひ)けれ。
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佐々木梶原一陣二陣に渡を見て、秩父、足利、三浦、鎌倉、党も高家も、我も/\と打浸々々渡しけり。庄五郎広賢、糟谷藤太、榛谷、此等は馬より下弓杖を衝、橋桁を渡らんとしけり。武蔵国住人(ぢゆうにん)男衾郡、畠山庄司重能が子息重忠は、青地錦直垂に、赤威の鎧著て、鬼栗毛と云馬に、巴摺たる貝鞍置、糸総鞦懸て乗たりけるが、手勢五百(ごひやく)余騎(よき)、さと河にぞ打入たる。此河余所に聞しには不(レ)員思しに、水面杳にして上は白浪流早、底は深うして水漲下れり。瀬臥の石も高して、馬の足立べき様なし。軍兵等皆危く思けるに、畠山は、渡せ殿原々々、佐々木梶原も鬼神にあらず、渡せばこそ一陣二陣に渡らめ、馬の足の立ん程は手綱すくへ、馬の足はづまば手綱をくれて游がせよ、水しとまばさうづに乗さがり、鞍坪を去て水をとほせ、強馬を(有朋下P322)ば上手に立て、■(たかく)流を防せよ、弱き馬をば下手に立て、ぬるみに付て渡べし、河中にして弓引ざれ、射向の袖を真顔に当て、鐙を常にゆり合よ、弓に弓を取違へて、前なる馬の尻輪さうづに、後の馬の頭を持て息を継せよ、息はづめば馬の弱るに、透をあらせて押並々々て、馬にも人にも力を副へよ、金に渡て誤すな、水の尾に付て渡や/\と下知したり。是に続て、党も高家も力を得て、打浸し々々渡けり。爰(ここ)に木曾が方より、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)根井大弥太行親と名乗て、褐直垂に、小桜威の腹巻に、洗革の大鎧重て、三尺六寸の大太刀に、二十四指たる黒羽の征矢負て、白星の五枚甲(ごまいかぶと)を猪頸に著、塗籠籐の弓真中取、黒糟毛の馬の太逞に、金覆輪の鞍置て乗たりけるが、垣楯面へ進出、弓杖つき敵の陣を見渡し、軍掟する事柄(ことがら)を見に、容儀
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人に勝たり。蒲御曹子歟、九郎御曹子歟、田代殿歟、此等の大将軍にてぞ御座らん、行親が今日の得分と思て、十四束を取番、引竪て兵と放つ。畠山が乗りたりける鬼栗毛が吹荒をぞ射通しける。行親一の矢射損じて、御方の運は早尽にけり、大将軍たる者が一の矢を放つは、弓箭の運の尽る所也、一の矢射損じて二の矢射事なし、敵に鎧の毛見知れぬ先にとて、掻楯の内へ引退く。畠山が鬼栗毛も、天馬の駒とはやりしか共、手負ぬれば疵を痛て弱ければ、重忠馬より下、前(有朋下P323)足二取て妻手の肩に引懸て、水の底をくゞりたりける。徐目には、はや畠山流れぬと見けるに、只一度弓杖衝浮上て、息をちと継、猶水の底をくゞりて向の岸へ渡けるに、草摺重く覚て、見れば黒革威の鎧著たる武者、然べくば助給へと云ければ、何者(なにもの)ぞ名乗れ、向の岸へ抛つべしと云ければ、其を好む者也、奉(レ)被(レ)投、名乗んと申。さらばとて冑総角■(つかん)で提持て行。又赤威の鎧著て、黒馬と劣らじ負じと流行者あり、穴無慙何者(なにもの)ぞ、是に取付とて弓の筈を指出したり。塩冶小三郎維広と名乗て弓に取付、弓を引寄、其馬の鞦しほでの間に取付と教ければ、維広しりがいに取付つゝ浅き所に上にけり。其後河耳一段計に近付て、汝何者(なにもの)ぞ、好まば抛ぞ誤すなと、件の提持て行つる大の男をゆらりとなぐ。被(二)投上(一)て弓杖にすがりて立直て、只今(ただいま)歩にて宇治川(うぢがは)渡たる先陣は、武蔵国住人(ぢゆうにん)大串次郎と名乗けり。敵も御方もとゝ笑ふ。悪く云ぬとや思けん、一陣畠山、二陣大串とぞ云直したる。畠山向の岸に打昇つて、何和君は重忠に被(レ)助て、重忠を蔑如にして一陣とは名乗と云ければ、大串申けるは、殿に奉(レ)被(レ)助、争其
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恩を忘べき、余に音もし侍らねば、をめて見候らんとて名乗たりと陳ずれば、弓取の法也神妙(しんべう)也とぞ感じける。さて塩冶に如何にと問へば、八箇国の倫、誰か殿の家人ならぬ人侍る、され共今命を助られ(有朋下P324)奉ぬれば、向後深奉(レ)憑候と申。神妙(しんべう)なりとて、馬は流れぬ、是に乗て京入し給へとて、小鴾毛とて秘蔵の馬を与たりけり。塩冶は今日流たるが高名にて、還馬まさりとぞ申ける。佐々木、梶原、一陣二陣と申せ共、畠山馬人三人、水の底にて助けるこそ由々しけれ。去ば重忠蒙(二)御勘当(一)たりけるに、大串陣の前へは寄たれ共、弓を平めて帰けり。宇治川(うぢがは)の恩を報ずとぞ見えたりける。畠山は二人の武者を助て後、馬に打乗て向の岸につと揚る。敵は矢さきを汰へて散々(さんざん)に射けれ共、重忠■(しころ)を傾て攻寄る処に、木曾が従弟に、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)長瀬判官代(はんぐわんだい)義員と名乗て蒐出たり。赤地錦直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧の、鍬形の甲に白総馬に白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。金造の太刀を抜て向けるに、畠山は、是ぞ宇治路(うぢぢ)の大将なるらんと見て、秩父がかう平と云は、平四寸長さ三尺九寸の太刀也。抜儲て歩せ寄れば、義員如何思けん、引退いて垣楯の中に入にけり。返合/\戦はんとはしけれ共、畠山にや恐けん、かう平にや臆しけん、引退々々、都に向て落行けり。中にも根井大弥太行親は、七八度まで返し合て戦けるが、暫息を継んとて、思坂の辺に引たりけるに、武蔵国住人(ぢゆうにん)河口源三と云者と、駿河国住人(ぢゆうにん)船越小次郎(こじらう)と云者と、二人先陣に進たりけるが、落武者の身として、敵に後を見せじ/\と、返合々々戦けるこそ由々しけれ。(有朋下P325)今日の大将軍と見えたり。いざや組んとて二騎喚て懸る。行親は矢種は射尽つ、
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太刀打には一人にこそあひしらはめ。其間に一人無(二)覚束(一)、二人を一度に捕んと思て、左右の手をはたけて待懸たり。舟越、河口、弓手に廻り、妻手に廻、左右の脇よりつとより、えたりやとてむずといだく。行親は二人を脇に挟んで強くしめたれば、草葉の如してちとも働かず。先妻手の脇に取付たる舟越が、鎧の上帯を取てむずと引上、妻手の深田へ向て投(なげ)たれば、冑は重し、田は深し、起ん/\としけれ共不(レ)叶して死にけり。其後弓手の脇なる河口を、前後の上帯取て曳々と引けれ共、船越が様にせられじとて、鐙を馬の腹に踏廻し、強く乗て上らざりければ、大弥太弓手の肘(ひぢ)を馬の下腹へ指やりて、馬と主とを中に上、弓手の深田へ曳と云て投(なげ)たれば、河口泥の中にて馬に敷れて死にけり。馬も深田に打こまれて、主と共にぞ失にける。東国の兵是を見て、舌振して不(レ)進ければ、大弥太は、いかに殿原続給はぬぞ、去ば都に上、木曾殿(きそどの)と一所にて侍奉らんと■(ののしり)懸て、木幡庄へ入とは見えけれ共、自害やしけん落もやしつらん、其後は向後を不(レ)知けり。
九郎義経宣(のたまひ)けるは、今度大将軍として、郎等に先陣を被(レ)渡て、二陣に続ん事不(レ)可(レ)然とて、橋より引下て橘小島に馬を引へ、爰(ここ)は水は早けれ共遠浅也、渡せ/\と下知し給へば、我も/\と進けり。(有朋下P326)挿絵(有朋下P327)挿絵(有朋下P328)是は大事の川、加様の河を渡には馬筏を組、健馬をば上手に立、弱き馬をば下手に立よ、馬の足の届ん迄は、手綱をくれて游せよ、馬の足はづまば、弓手の手綱を指甘げて、妻手の手綱をちと縮めよ、四居にのりこぼれて游せよ、手綱強引て、馬に引れて誤すな、尾口沈まば前輪にすがれ、馬に石突
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せさすな、常に内鐙を合よ、我等(われら)渡ると見ならば、敵は定て矢衾を作つて射ずらん、敵は射る共射返すな、相引して■(しころ)射らるな、痛く俛て手変射らるな、射向の袖を指かざせよ、物具(もののぐ)に透間あらすな、水強してさがらん武者をば、弓の弭を指出て取付て游せよ、金に渡して誤ちすな、馬の頭を水面に引立て、童すがりに弓の本筈を打懸て、曳音を出して馬に力を副よ、渡せ者共、渡せ者共と下知しつつ、真前懸て渡けり。二万(にまん)余騎(よき)の大勢、一度に颯と打入て渡しければ、漏水こそ無けれ。前後のはづれの水にこそ何れもたまらず流れけれ。大勢河を渡しぬれば、千騎(せんぎ)二千騎(にせんぎ)五千(ごせん)六千、二百騎三百騎七百八百騎(はつぴやくき)、思々心々に、或は木幡、大道、醍醐路に懸つて、阿弥陀(あみだ)が峰の東の麓より攻入もあり、或は小野庄、勧修寺を通つて、七条より入者もあり。或櫃川を打渡、木幡山、深草里より入もあり、或は伏見、尾山、月見岡を打越て、法性寺一二橋より入もあり。道は互に替れ共、同都へ乱入。行親、親忠等、宇治橋を引て防戦と(有朋下P329)いへ共、義経河を渡して合戦す。行親等が軍忽(たちまち)に敗て四方に馳散由、使を木曾が許へ立たれば、義仲(よしなか)大に驚て、先使者を院(ゐんの)御所(ごしよ)へ奉て申けるは、東国の凶徒(きようと)已宇治川(うぢがは)を渡して都へ攻入る、急醍醐寺の辺へ御幸有べきと申たりければ、更に此御所をば不(レ)可(レ)有(二)御出(一)と被(二)仰遣(一)けり。爰(ここ)に義仲(よしなか)、赤地錦鎧直垂(よろひひたたれ)に紅の衣を重て、石打の胡■[*竹冠+録](やなぐひ)に紫威の鎧を著て、随兵六十余騎(よき)を率して院(ゐんの)御所(ごしよ)に馳参じ、剣を抜懸目を嗔らかして砌下に立て、御輿を寄て可(レ)有(二)臨幸(一)由を申す。上下色を失ひ貴賎魂を消。公卿には花山院大納言(だいなごん)兼雅、民部卿成範、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)
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親信、宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)定能、殿上人(てんじやうびと)には実教、成経、家俊、宗長祇候したりけるが、各皆藁沓を著して御伴に参ぜんとて、庭上に被(二)下立(一)たりければ、人々涙に咽て東西を失ひ給へり。叡慮只可(レ)奉(二)推量(一)。義仲(よしなか)が郎等一人馳来て、敵既(すで)に木幡伏見まで責来れりと申ければ、義仲(よしなか)は抛(二)臨幸事(一)、門下にして騎馬して罷出ぬ。法皇は内々諸寺諸社へ御祈(おんいのり)を懸させ給ける上、御所中(ごしよぢゆう)の女房男房、立ぬ願も無りける験にや、無(二)事故(一)罷出たれば、手を合て悦あへり。其後は門をさせとてさゝれにけり。
S3503 木曾惜(二)貴女遣(一)事(有朋下P330)
木曾は院(ゐんの)御所(ごしよ)をば出たれ共、軍場には不(レ)出けり。五条内裏(ごでうだいり)に帰て、貴女の遺を惜つゝ、時移るまで籠居たり。彼貴女と申は松殿殿下基房公の御娘、十七にぞならせ給ける。無(レ)類美人にて御座(おはしまし)ければ、女御后にもと労りかしづき進けるを、木曾聞及奉て、押て奉(二)掠取(一)。御心憂は思召(おぼしめし)けれ共、混ら荒夷にて、法皇をも押籠進せ、傍若無人に振舞ければ、不(レ)及(二)御力(一)事なりけり。賤が編戸の女にも、馴なば情は深して、別路は猶悲きに、まだ見も馴ぬ御有様(おんありさま)、さこそ名残(なごり)は惜かりけめ。斯る処に越後中太能景馳来つて、敵は既(すで)に都に乱入れり、如何に閑に打解給(たま)ひ角はと云けれ共、引物の中に籠り居て、尚も遺を惜けり。能景、弓矢取身の心を移まじきは女也、只今(ただいま)恥見給はん事の口惜さよとて、今年三十六に成けるが、縁より飛下腹掻切て失にけり。加賀国住人(ぢゆうにん)津波田三郎も此由云けれ共、出ざりければ、御運ははや尽給にけりとて、引物の前にて此も腹切つて臥にければ、津波田が自害は義仲(よしなか)を進むるにこそとて、百余騎(よき)の勢を率して、五条(ごでう)を東へ油小路を直違に、六条河原へ出たれば、根井行親、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)等、二百(にひやく)
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余騎(よき)にて木曾に行逢、主従勢三百(さんびやく)余騎(よき)、轡を並て見渡せば、七条八条の河原、法性寺柳原に、白旗天にひらめきて、東国の武士隙を諍て馳来る。義仲(よしなか)申けるは、合戦今日を限とす、身をも顧命をも惜まん人々(有朋下P331)は此にて落べし、臨(二)戦場(一)逃走て東国の倫に笑はれん事、当時の欺くのみに非、永代に恥を貽さん事口惜かるべしと云ければ、行親、親忠等を始として申けるは、人生て誰かは死を遁ん、老て死るは兵の恨也、其恩を食で其死を去ざるは又兵の法也といへり、更に退者有べからずと云処に、畠山次郎重忠五百(ごひやく)余騎(よき)にて進来。義仲(よしなか)馬頭を八文字に寄せて声を揚、鞭を打て懸入ば、重忠が郎等中を開て入組々々、妻手に違ひ弓手に合、又弓手に違ひ妻手に相闘て、義仲(よしなか)裏へ通れば、二河左衛門尉頼致を始として、三十六騎被(二)討捕(一)ぬ。川越小太郎茂房三百(さんびやく)余騎(よき)にて進たり。義仲(よしなか)馬の頭を雁の行を乱さず立下し蒐入、茂房が兵、外を囲内を裹て折塞て戦。義仲(よしなか)うらへ懸通れば、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)を始として十六騎は討れにけり。佐々木四郎高綱二百(にひやく)余騎(よき)にて引へたり。義仲(よしなか)馬の足を一面に立直して、敵を弓手に懸背いて前輪に懸、甲をひらめて馬を馳並、裏へぬくれば、高梨兵衛忠直を始として十八騎討れにけり。梶原平三景時三百(さんびやく)余騎(よき)にて引たり。義仲(よしなか)馬の足を一所に立重て、敵を先に蒐余て、うらへ蒐通れば、淡路冠者宗弘を始として十五騎被(二)討捕(一)けり。渋谷庄司重国二百(にひやく)余騎(よき)にて引へたり。義仲(よしなか)馬の足を立乱て、思々に蒐入ければ、重国が随兵共押囲て、隙を諍詰寄て、折懸々々責戦ふ。義仲(よしなか)裏へ通れば、根井行親を始として二十三(有朋下P332)騎は討れにけり。爰(ここ)に源九郎義経是を見、三百(さんびやく)
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余騎(よき)馬の足を詰並重入ければ、敵両方へ相分れけるを、四方へ蒐散し駆立て、矢前(やさき)を調て討取ければ、義仲(よしなか)が軍忽(たちまち)に敗れて、六条より西を指て馳走る。義仲(よしなか)忽威三軍之士、雖(レ)敗(二)方囲之陣(一)、義経又廻(二)必勝之術(一)、退(二)強大之兵(一)けり。義仲(よしなか)左右の眉の上を、共に鉢付の板に被(二)射付(一)て、矢二筋折懸て院(ゐんの)御所(ごしよ)へ帰参しけるに、少将成経門を閉て鎖を指たりければ、再三扣押処に、源九郎義経、梶原平三景時、渋谷庄司重国、佐々木四郎高綱等十一騎(じふいつき)、鞭を打、轡を並、矢前(やさき)を汰て放射ければ、義仲(よしなか)不(レ)堪して落て行。義経の郎等共(らうどうども)、北を追て攻行けり。
S3504 義経院参(ゐんざん)事
大膳大夫業忠、築地に登て世間の作法を見ければ、武士六騎門外に馳参ぜり。木曾が帰参にこそ、今度ぞ君も臣も、有無の境とわなゝき見る程に、義仲(よしなか)に非して東国の武士也。門外に馬に乗ながら、築地を見上て高声に、鎌倉兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)の使、舎弟(しやてい)九郎冠者義経、宇治路(うぢぢ)を破て馳参ぜり、御奏聞あれやと申。業忠嬉しさの余に、手の舞足の踏所(ふみどころ)を忘て急下ける程に、悪く飛で腰を損じて、にがみ入たりける顔の気色、いと咲しくぞ見ける。■ (有朋下P333)々(はふはふ)御前へ参て、義経が申状具に奏聞申ければ、法皇を始進せて、人々大に悦、門を開れたり。義経已下の兵六騎門外にして下馬す。御気色(おんきしよく)に依、中門の外、御車宿の前に立並たり。法皇は中門の羅門より有(二)叡覧(一)、出羽守貞長を以六人が年齢交名住国を被(二)聞召(一)(きこしめさる)。貞長は、狩衣の下に紺糸威の腹巻を著し、立烏帽子(たてえぼし)に嗔物作の太刀脇に挟て出けるが、太刀をば御所の簀に立て、御気色(おんきしよく)の次第を相尋ぬ。
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赤地錦直垂に、萌黄の唐綾を畳て、坐紅に威たる鎧著て、鍬形の甲下人に持せて後にあり、金作の太刀帯たるは、鎌倉兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)舎弟(しやてい)九郎義経、生年二十五歳、今度の大将軍と名乗に合て、鎧の袖に南無(なむ)宗廟八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と書付けり。寔に軍将の笠璽と見たり。薄紅の紙を切て、弓の鳥打の程に左巻にぞ巻たりける。青地の錦の直垂に、赤威鎧を著、備前作のかう平の太刀帯たるは、武蔵国住人(ぢゆうにん)秩父末流、畠山庄司重能が一男、次郎重忠生年二十一と名乗。菊閉直垂に緋威(ひをどしの)鎧は、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)渋谷三郎重国が一男、右馬允重助生年四十一と名乗。蝶丸の直垂に、紫下濃の小冑は、同国住人(ぢゆうにん)河越太郎重頼と名乗、子息小太郎茂房、生年十六歳と云。大文を三宛書たる直垂に、黒糸威(くろいとをどしの)冑は、同国住人(ぢゆうにん)梶原平三景時、子息源太景季、生年二十三と名乗。三目結の直垂に、小桜を黄に返たる冑の裾金物の殊にきらめきて見ける(有朋下P334)は、近江国住人(ぢゆうにん)佐々木源三秀義が四男に、四郎高綱生年二十五、今度宇治川(うぢがは)の先陣と名乗けり。大将軍義経は熊皮の頬貫を■(はき)、自余は牛皮を■(はく)。貞長一一に此由を奏す。法皇聞召御覧じては、誠頬魂事柄(ことがら)ゆゝしき荘士也とぞ仰ける。重て上洛の子細を被(二)尋下(一)。義経畏て申けるは、木曾(きそ)義仲(よしなか)上洛の後、狼藉重畳之間、為(二)追討(一)頼朝(よりとも)大に驚き、範頼、義経両人を指上候、郎等六十人、其数六万余騎(よき)、二手に分て宇治勢多より上洛す、義経は宇治路(うぢぢ)を敗て罷上る、範頼は勢多より入洛未(二)見来(一)候、木曾は河原まで打出たりつるを、郎等共(らうどうども)に留よと加(二)下知(一)候畢、今は定打捕ぬらん、義経は仙洞の御事■(おぼつかなく)存て先参上之由、最事もなげに申たり。重て院宣に
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は、義仲(よしなか)が余党など、帰参して狼藉もや仕る、今夜は御所に候て守護仕べしと。義経随(二)勅定(一)候けり。懸りしかば諸衛官人諸国の宰史、兵杖を帯して其夜は法皇を守護し奉る。さてこそ君を始進せて、女房も男房も、安堵の思は出来けれ。
S3505 東使戦(二)木曾(一)事
木曾は六条河原軍に負て、院(ゐんの)御所(ごしよ)に参、法皇を取進せて西国(さいこく)へ御幸成進せんと思けれ共、(有朋下P335)門を閉られたりける上、義経が兵共(つはものども)に被(二)責立(一)て、又河原に出て三条を指て落行けり。其(その)勢(せい)七八十騎(しちはちじつき)には過ず。義経の軍兵は、党も高家も雲霞の如して、我先々々と隙を有せず進けり。義仲(よしなか)も今日を限と思ければ、命を不(レ)惜散々(さんざん)に戦。武蔵国住人(ぢゆうにん)塩谷太郎兄弟三騎、四条河原の東の端に引へたりけるが、兄の太郎弟の三郎に云様は、御辺(ごへん)は栗子山にて能敵に組で、物具(もののぐ)剥取て高名せんと云しは忘たりやとはげませば、三郎争か忘るべきとて、馬を川に打入て、西へ向て渡る処に、木曾方より、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)長瀬判官代(はんぐわんだい)と云者、黒糸威(くろいとをどしの)鎧に、葦毛の馬に乗て、河の西の端より打入て東へ向て渡たり。長瀬。塩谷東西より河中に歩せ寄、馬と馬とを並て、組でだんぶと落にけり。手に手を取組、腹に腹を合て、上になり下になり、浮ぬ沈ぬ俵のころぶ様に、四五段計流たり。敵も御方も目を澄して是を見、深き所に流入て、水の底にて組合たり。良暫不(レ)見けるに、水紅に流ければ、誰討れぬらんと思処に、塩谷は左の手に敵の首を捧、右の手には敵の物具(もののぐ)剥取て口に刀をくはへつゝ、東の陸へさと上り、武蔵国住人(ぢゆうにん)塩谷三郎某、長瀬判官代(はんぐわんだい)が首捕たりやと名乗。由々敷ぞ聞えし。
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義仲(よしなか)は、上野国住人(ぢゆうにん)那和太郎弘澄、多胡次郎家包、越後中次家光等を引具して落けるが、家光は遂遁まじき物故に、人手にかゝらんよりはとて馬(有朋下P336)より飛下、腹掻切て三条河原に伏にけり。軍兵追懸々々戦ければ、八十余騎(よき)とは見しかど、五十(ごじふ)余騎(よき)に成にけり。
武蔵国住人(ぢゆうにん)勅使河原権三郎有直は、木蘭地の直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の冑に白星の甲、二十四指たる黒布露の矢、黒漆の弓に、黄駱馬に黒漆の鞍置てぞ乗たりける。同四郎有則は、ひらくゝりの直垂に、赤威の鎧、同色の甲に、十八指たる鴟の石打頭高に負、三所籐の弓の中取て、黒駮馬に金覆輪の鞍置て乗たりけり。兄弟二騎は三百(さんびやく)余騎(よき)にて追懸申けるは、北陸道の大将軍、朝日将軍と呼れ給し人の、正なくも後をば見せ給もの哉、源氏の名折とは不(二)思召(一)(おぼしめさず)や、無跡までも名こそ惜けれ、返合給や/\とて、二重三重に打並て、武蔵国住人(ぢゆうにん)、勅使河原権三郎有直生年三十一、同四郎有則二十八と名乗懸て、轡をならべて喚て蒐。木曾十余騎(よき)馬の鼻を引返し、杉のさきにさと立て宣(のたまひ)けるは、有直慥に承れ、義仲(よしなか)にはあはぬ敵と思へ共、弓矢取身は、大将軍の詞は一も得こそ嬉けれ、現世の名聞後生の訴にもせよとて、弓をば脇にはさみ、太刀の切鋒打つるべて、勅使河原余すなとて、蛛手十文字竪様横様切廻ければ、三百(さんびやく)余騎(よき)の大勢も五十(ごじふ)余騎(よき)に被(二)懸立(一)て、馬の足立る隙こそ無りけれ。只小勢に付て五廻六廻が程廻けるが、有直弓手の肘(ひぢ)被(二)打落(一)て、神楽岡を指て引退。五十(ごじふ)余騎(よき)の勢も被(二)打取(一)て、二十五(有朋下P337)騎にぞ成にける。木曾危見けるを、根井小弥太、左近五郎、岡津平六兵衛、城小弥太郎、兄弟二人、
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佐竹の者共防矢射てこそ遁れけれ。又秩父師岡打囲て散々(さんざん)に攻ければ、木曾方にも、根井次郎行直、進六郎親直等、思切て大勢の中へ打入て、命を不(レ)惜我一人と戦たり。小勢懸れば大勢さと引退、大勢懸れば小勢さと引退。寄つ返つせし有様(ありさま)は、辻風の塵を巻にぞ似たりける。其手をも打破て落行ば、横山党に奥次弥次と、三浦党に佐原十郎、三浦二郎、三百(さんびやく)余騎(よき)にて、漏すなとてこそ戦けれ。二十五騎と見しか共、僅(わづか)に十二騎に成。
S3506 巴関東下向事
畠山は、九郎義経と院(ゐんの)御所(ごしよ)に候けるが、木曾漏やしぬらん覚束(おぼつか)なしとて、三条河原の西の端まで打出たり。義仲(よしなか)は三条白河を東へ向て引けるを、重忠は本田半沢左右に立歩出し、東へ向て落給は大将と見は僻事か、武蔵国住人(ぢゆうにん)秩父の流れ、畠山庄司、次郎重忠也、返合給へや/\と云ければ、木曾馬の鼻を引返し、誰人に合て軍せんより、一の矢をも畠山をこそ射め、恥しき敵ぞ思切と下知して河を阻て射合たり。さすが敵は大勢也、木曾(有朋下P338)は僅(わづか)に十三騎、畠山が郎等の放矢は、雨の降が如に飛ければ、わづか小勢堪兼て、三条小河へ引退。重忠勝に乗て責懸ければ、木曾も引返々々、弓箭に成、打物に成、追つ返つ返つ追つ、半時計戦ける。其中に木曾方より、萌黄糸威の鎧に、射残したりける鷹羽征矢負て、滋籐の弓真中取、葦毛馬の太逞きに、少し巴摺たる鞍置て乗たりける武者、一陣に進て戦けるが、射も強切も強、馳合馳合責けるに、指も名たかき畠山、河原へさと引て出。畠山半沢六郎を招て、如何に成清、重忠十七の年、小坪の軍に会初て、度々の戦に合たれども、是程軍立のけはしき
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事に不(レ)合、木曾の内には、今井、樋口、楯、根井、此等こそ四天王と聞しに、是は今井、樋口にもなし、さて何なる者やらんと問ければ、成清、あれは木曾の御乳母(おんめのと)に、中三権頭が娘巴と云女也、つよ弓の手だり荒馬乗の上手、乳母子(めのとご)ながら妾にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を不(レ)取、今井樋口と兄弟に〔し〕て怖しき者にて候と申。畠山さてはいかゞ有べき、女に追立られたるも云甲斐なし、又責寄て女と軍せん程に、不覚しては永代の疵、多者共の中に、巴女に合けるこそ不祥なれ、但木曾の妾といへば懐きぞ、重忠今日の得分に、巴に組んで虜にせん、返せ者共とて取て返し、木曾を中に取籠て散々(さんざん)に蒐、畠山は巴に目(有朋下P339)をぞ懸たりける。進退き廻合ん/\と廻ければ、木曾巴を組せじと蒐阻々々て、二廻三廻が程廻ける処に、畠山、巴強ちに近く廻合。是は得たる便宜と思、馬を早めて馳寄て、巴女が弓手の鎧の袖に取付たり。巴叶じとや思けん、乗たる馬は春風とて、信濃第一の強馬也。一鞭あててあふりたれば、冑の袖ふつと引切て、二段計ぞ延にける。畠山、是は女には非ず、鬼神の振舞にこそ、加様の者に矢一つをも射籠られて、永代の恥を不(レ)可(レ)残、引に過たる事なしとて、河原を西へ引退き、院(ゐんの)御所(ごしよ)へぞ帰参ける。
木曾は此彼を打破て、東を指て落行けり。竜華越に北国へ伝とも聞けり。長坂にかゝり、播磨へ共云けり。其口様々也けれども、大津へ向て被(レ)打けるが、四宮河原にて見給へば、僅(わづか)に七騎に残たり。巴は七騎の内にあり。生年二十八、身の盛なる女也。去剛の者成ければ、北国度々の合戦にも手をも負
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ず、百余騎(よき)が中にも七騎に成まで付たりけり。四宮河原、神無社、関清水、関明神打過て、関寺の前を粟津に向てぞ進ける。巴は都を出ける時は、紺村紅に千鳥の鎧直垂(よろひひたたれ)を著たりけるが、関寺合戦には、紫隔子を織付たる直垂に、菊閉滋くして、萌黄糸威の腹巻に袖付て、五枚甲(ごまいかぶと)の緒をしめ、三尺五寸の太刀に、二十四指たる真羽の矢の射残したるを負、重籐の弓に、せき弦かけ、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に金覆輪の鞍置てぞ乗たり(有朋下P340)ける。七騎が先陣に進て打けるが、何とか思けん甲を脱、長に余る黒髪を、後へさと打越て、額に天冠を当て、白打出の笠をきて、眉目も形も優なれけり。歳は二十八とかや。爰(ここ)に遠江国住人(ぢゆうにん)、内田三郎家吉と名乗て、三十五騎の勢にて巴女に行逢たり。内田敵を見て、天晴武者の形気哉、但女か童か■(おぼつか)なしとぞ問ける。郎等能々見て女也と答。内田聞敢ず、去事あるらん、木曾殿(きそどの)には、葵、巴とて二人の女将軍あり、葵は去年の春礪並山の合戦に討れぬ、巴は未在ときく、是は強弓(つよゆみ)精兵、あきまを数る上手、岩を畳金を延たる城也共、巴が向には不(レ)落と云事なし、去癖者と聞召(きこしめし)て、鎌倉殿(かまくらどの)、彼女相構て虜にして進べき由仰を蒙たり。巴は荒馬乗の大力、尋常の者に非ずと聞、如何がすべきと思煩けるが、郎等共(らうどうども)に云様は、女強といふとも百人(ひやくにん)が力によも過じ、家吉は六十人が力あり、殿原三十(さんじふ)余人(よにん)、既(すで)に百人(ひやくにん)にあまれり、殿原左右より寄て、左右の手を引張れ、家吉中より寄て、などか巴を取ざらんと云けるが、内田又思返す様、まて/\暫し、槿花の朝に咲て夕べに萎だにも、己が盛は有物を、八十九十にて死なん命も、二十三十にて亡ん命も同事、女程の者に
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組むとて、兎角計ごとを出しけるよと、殊に後陣に引へたる、甲斐の一条の思はん事こそ恥しけれ、殿原一人も綺べからず、家吉一人打向て巴女が頸とらんと云ければ、(有朋下P341)三十(さんじふ)余騎(よき)の郎等は、日本(につぽん)第一に聞えたる怖しきものに組むまじき事を悦びて、尤々(もつとももつとも)と云ければ、内田只一人、駒を早めて進む処に、巴是を見先敵を讃たりけり。天晴武者の貌哉。東国には、小山、宇都宮歟、千葉、足利歟、三浦、鎌倉か、■(おぼつか)な誰人ぞ、角問は木曾殿(きそどの)の乳母子(めのとご)に、中三権頭兼遠が娘に巴と云女也、主の遺の惜ければ、向後を見んとて御伴に侍ると云。鎌倉殿(かまくらどの)の仰を蒙、勢多手の先陣に進るは、遠江国住人(ぢゆうにん)内田三郎家吉と名乗進けり。巴は、一陣に進むは剛者、大将軍に非ずとも、物具(もののぐ)毛の面白きに、押並て組、しや首ねぢ切て軍神に祭らんと思けるこそ遅かりけれ。手綱かいくり歩せ出す。去共内田が弓を引ざれば、女も矢をば不(レ)射(いざり)けり。互に情を立たれば、内田太刀を抜ざれば、女も太刀に手を懸ず。主は急たり馬は早りたり。巴、内田、馬の頭を押並、鐙と/\蹴合するかとする程に、寄合互に音を揚、鎧の袖を引違たり。やをうとぞ組だりける。聞る沛艾の名馬なれ共、大力が組合たれば、二匹の馬は中に留て働かず。内田勝負を人に見せんと思けるにや、弓箭を後へ指廻し、女が黒髪三匝(さんさう)にからまへて、腰刀を抜出し、中にて首をかゝんとす。女是を見て、汝は内田三郎左衛門(さぶらうざゑもん)とこそ名乗つれ、正なき今の振舞哉、内田にはあらず、其手の郎等かと問ければ、内田我身こそ大将よ、郎等には非ず、行(有朋下P342)跡何にと申せば、女答て云、女に組程の男が、中にて刀を抜、目に見する様やは有べき、軍は敵に依て振舞べし、故実も知ぬ内田
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哉とて、拳を握り、刀を持たる臂(ひぢ)のかゝりをしたたかに打。余に強く被(レ)打て、把る刀を被(二)打落(一)、やをれ家吉よ、日本一(につぽんいち)と聞たる木曾の山里に住たる者也、我を軍の師と憑めとて、弓手の肘(ひぢ)を指出し、甲の真顔取詰て、鞍の前輪に攻付つゝ、内甲に手を入て、七寸(しちすん)五分の腰刀を抜出し、引あふのけて首を掻、刀も究竟の刀也、水を掻よりも尚安し。馬に乗直り、一障泥あふりたれば、身質(むくろ)は下へぞ落にける。首を持ち木曾殿(きそどの)に見せ奉れば、穴無慙や、是は八箇国に聞えし男、美男の剛者にて在つる者を、被(レ)討けるこそ無慙なれ、是も運尽ぬれば汝に討れぬ、義仲(よしなか)も運尽たれば、何者(なにもの)の手に懸、あへなく犬死せんずらん、日来は何共思はぬ薄金が、肩に引て思也、我討れて後に、木曾こそ幾程命を生んとて、最後に女に先陣懸させたりといはん事こそ恥しけれ、汝には暇を給ふ、疾々落下とぞ宣(のたま)ひける。巴申けるは、我幼少の時より君の御内に召仕れ進せて、野の末山の奥までも、一の道にと思切侍り、今懸る仰を承こそ心うけれ、君の如何にも成給はん処にて、首を一所に並べんと掻詢(かきくどき)云ければ、木曾誠にさこそは思ふらめ共、我去年の春信濃国(しなののくに)を出し時妻子を捨置、又再び不(レ)見して、永き別の(有朋下P343)道に入らん事こそ悲けれ、去ば無らん跡までも、此事を知せて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりも可(レ)然と存る也、疾々忍落て、信濃へ下り、此有様(ありさま)を人々に語れ、敵も手繁く見ゆ、早々と宣(のたまひ)ければ、巴遺は様々惜けれ共、随(二)主命(一)、落涙を拭つゝ、上の山へぞ忍びける。粟津の軍終て後、物具(もののぐ)脱捨、小袖装束して信濃へ下り、女房公達に角と語、互に袖をぞ絞ける。世静て右大将家(うだいしやうけ)より被(レ)召ければ、巴則
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鎌倉へ参る。主の敵なれば、心に遺恨ありけれ共、大将殿も女なれ共、無双の剛者、打解まじきとて森五郎に被(レ)預。和田小太郎是を見て、事の景気も尋常也、心の剛も無双也、あの様の種を継せばやとぞ思ける。明日頸切べしと沙汰有けるに、和田義盛申預らんと申けるを、女なればとて心ゆるし有まじ、正しき主親が敵也、去剛の者なれば、隙もあらば伺思心有らん、叶まじと被(レ)仰けるを、三浦大介義明が、君の為に命を捨、子孫眷属二心なく、君を守護し奉て、年来奉公し奉る、争思召(おぼしめし)忘給ふべき、義盛相具して候(さうらふ)共(とも)、僻事更に在まじきと、様々申立預にけり。即妻と憑て男子を生。朝比奈三郎義秀とは是なりけり。母が力を継たりけるにや、剛も力も并なしとぞ聞えける。和田合戦の時朝比奈討れて後、巴は泣々(なくなく)越中に越、石黒は親かりければ、此にして出家して巴尼とて、仏に奉(二)花香(一)、主親朝比奈が後世弔ひけるが(有朋下P344)九十一まで持て、臨終目出して終りにけるとぞ。
 < 或説には、赤瀬の地頭の許に仕るといへり。>
 < 高望王より九代孫、三浦大介義明、杉本太郎義遠、和田小太郎義盛、朝比奈三郎義秀也。>
S3507 粟津合戦事
範頼は勢多の手に向給たりけれ共、橋は引れぬ底は深し、渡べき様なければ、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝を先として、田上の貢御瀬を渡しつゝ、石山通に攻上、今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて国分寺の毘沙門堂に陣を取たりけるが、出合防戦けり。方等三郎先生義弘爰(ここ)にして討れぬ。三万(さんまん)余騎(よき)の兵雲霞の如くに重なりければ、何にも難(レ)防ける上に、宇治の手已敗て、軍兵都へ乱入と聞けれ
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ば、兼平(かねひら)心弱覚て、木曾殿(きそどの)は北国へぞ趣き給らんと思ければ、湖の西の渚(なぎさ)を、三百(さんびやく)余騎(よき)にて北へ向て歩行。義仲(よしなか)は関山関寺打過て、南を指て行程に、粟津浜にて行会ぬ。木曾云けるは、都にていかにも成べかりつるに、今一度互に相見んとて、多の敵に後を見せ是まで来れりと語て涙ぐみけり。今井も勢多にて如何にも成べう候つれ共、御向後の■(おぼつか)なく侍て、是まで遁参たりと申けり。義仲(よしなか)、兼平(かねひら)(有朋下P345)馬を打並て宣(のたまひ)けるは、川原の合戦に、高梨、仁科、根井も討れぬ。身も已(すで)に疵を蒙て、心疲力尽て進退歩を失、為(レ)敵被(レ)得事名将の恥也、軍敗れ自害するは猛将之法也と申ければ、兼平(かねひら)申けるは、勇士は不(レ)食不(レ)飢、被(レ)疵被(レ)屈、軍将は遁(レ)難求(レ)勝、去(レ)死決(レ)辱、就(レ)中(なかんづく)平氏西海に在す、軍将北州に入給ば、天下三に分ち海内発乱せん歟、先急で越前国府まで遁給へ、兼平(かねひら)此にて敵を可(二)相禦(一)と云て挙(レ)旗。義仲(よしなか)が随兵共、多は北国の輩なれば、北を指て落けるが、旌の足を見て、五十騎(ごじつき)三十騎(さんじつき)此彼より馳集る。勢多より落来者、二十騎(にじつき)三十騎(さんじつき)集加ければ四五百騎(しごひやくき)に及。兼平(かねひら)力を得、左右を顧て云、各思を報じて命を棄ん事有(二)此時(一)、禦矢射て奉(レ)延んと申ければ、五百(ごひやく)余騎(よき)の輩心を一にして、西の山を後に当て、東の浜を前に得て、馬の足を軽して、矢筈を取ける程に、武石三郎胤盛、猪俣金平六範綱等を始として、七百(しちひやく)余騎(よき)攻来て時音を発す。兼平(かねひら)已下の軍士又声を合す。木曾宣(のたまひ)けるは、此等は源氏郎等共(らうどうども)、我と思はん若者共、蒐出て追散せと下知し給ければ、二河次郎頼重と云者、三十(さんじふ)余騎(よき)にて鞭を打て敵の中へはり入て、両方互に乱合て相戦。範綱已下の輩小勢を押裹、
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中に取籠てければ、頼重を始として、不(レ)漏皆討捕れにけり。其後甲斐の源氏に、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、七千(しちせん)余騎(よき)にて先陣に進、粟津浜に打出た(有朋下P346)り。木曾は赤地錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、薄金と云冑著て、射残したる護田鳥尾の矢負て、歩ばせ出して名乗けるは、清和(せいわの)帝(みかど)に十代後胤、六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)には孫、帯刀先生義賢次男、木曾左馬頭(さまのかみ)兼伊予守、今は朝日将軍、源(みなもとの)義仲(よしなか)生年三十七、甲斐の一条と見は僻事か、雑人の手にかけんより組や組とて、轡を並て踉■(やすらひ)たり。一条次郎忠頼も、同流の源に、伊予守頼義(らいぎ)の三男、新羅三郎義光が孫、武田太郎信義が嫡子、一条次郎忠頼、同三郎兼信、兄弟二人と名乗て進出つゝ、木曾と一条と、魚鱗、鶴翼の戦をぞ並たる。一条忠頼は鶴翼の戦とて、鶴の羽をひろげたるが如くに、勢をあばらに立成て、小勢を中に取籠んとぞ構たる。木曾(きそ)義仲(よしなか)は魚鱗の戦とて、魚の鱗をならべたるが如、さきは細く、中ふくらにこそ立たりけれ。一条板垣は甲斐源氏、木曾(きそ)義仲(よしなか)は信濃源氏也、共に清和(せいわの)苗裔同多田(ただ)の後胤也。一門弓箭を合せ、同姓勝負を決せんとす。義仲(よしなか)魚鱗の構にて、五百(ごひやく)余騎(よき)轡を並べてさと蒐入たれば、忠頼鶴翼の支度にて、大勢の中に小勢をくるりと巻、馳合馳却、戦たり。義仲(よしなか)は今を限の軍也、いつまで命を惜べき、一条次郎能敵ぞ、あますな者共とて、蒐破ては出喚ては入、五六度まで戦て、くと抜て出たれば、二百(にひやく)余騎(よき)は討れにけり。次に同甲斐源氏に武田太郎信義、加々見次郎遠光、兄弟二人大将軍にて二千(にせん)余騎(よき)、木曾を(有朋下P347)中に取籠て散々(さんざん)に戦、かけ入かけ出て、四廻五廻戦て先へ抜て見れば、八十余騎(よき)は討れけり。次同国源氏に逸見四郎有義、伊沢
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五郎信光兄弟二人、従弟に小笠原小次郎(こじらう)長清、三人大将軍にて三千(さんぜん)余騎(よき)、木曾を中に取籠て戦、追入追出し、一時戦て懸抜て見れば、五十(ごじふ)余騎(よき)は討れにけり。次に武蔵国住人(ぢゆうにん)稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、兄弟二人大将として二千(にせん)余騎(よき)、木曾を中に取籠てあますなとて散々(さんざん)に戦。蛛手十文字にかけ破て、くと抜て見たれば、五十(ごじふ)余騎(よき)は討れにけり。
次に下総国住人(ぢゆうにん)千葉介経胤、大将軍にて三千(さんぜん)余騎(よき)、木曾を中に取籠て遁すな者共とて、透間なくこそ戦たれ。思切たる木曾なれば、命も不(レ)惜振舞けり。散々(さんざん)にかけ破て後へ通て見たれば、七十余騎(よき)は被(レ)討て、僅(わづか)に二十余騎(よき)にぞ成にける。
次に大将軍蒲冠者範頼、七千(しちせん)余騎(よき)にて木曾を中に取籠て、ましぐらにこそ戦たれ。木曾は此大勢にて追つ返つ/\、粟津原より打出浜まで、引退々々こそ堪たれ。二十余騎(よき)とは見えしかど、落ぬ討れぬする程に、主従五騎(ごき)に成たりけるが、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)手塚太郎討れければ、手塚別当も落にけり。上野国住人(ぢゆうにん)多胡次郎家包と名乗て打出ければ、大勢の中を打廻、我と思はん人々は、家包討捕て勲功の賞に預れやと云て、散々(さんざん)に切廻けり。鎌倉殿(かまくらどの)兵共(つはものども)に相触れて、多胡次郎家包木曾に付て在也、相構て虜て進(有朋下P348)せよと被(二)仰含(一)たりければ、家包は大狂廻切廻けれ共、軍兵は疵を付じと射もせず切もせず、手をひろげて取ん取んとしけるこそ由々しき大事なりけれ。兵の中に、家包甲を脱太刀を納て降人に参れ、助ん、木曾殿(きそどの)も今は主従三騎也、和君一人命を棄たり共、木曾殿(きそどの)軍に勝給ふべしや、唯
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降人に参れ、無(レ)由々々と云ければ、家包申けるは、弓矢取身は主は二人不(レ)持、軍の習討死は期する処也、惜(レ)命降人に成て、角云人々に面を合すべしや、正なし/\教訓も事によるべし、其よりも只寄合、組で討取給へや殿原とて斬廻りけれども、大勢■(しころ)を傾けて押寄、終に生捕にけり。去年六月に木曾北陸道を上しには、五万余騎(よき)と聞えしに、今四宮河原を落けるには、只七騎には不(レ)過けり。粟津の軍の終には、心は猛く思へ共、運の極めの悲さは、主従二騎に成にけり。増て中有の旅の空、独行なる道なれば、想像こそ哀なれ。木曾殿(きそどの)鐙踏張弓杖衝て今井に宣(のたま)ひけるは、日来は何と思はぬ薄金が、などやらん重く覚る也と宣へば、兼平(かねひら)何条去事侍べき、日来に金もまさらず、別に重き物をも付ず、御年三十七御身盛也、御方に勢のなければ臆し給ふにや、兼平(かねひら)一人をば、余(よ)の者千騎(せんぎ)万騎とも思召(おぼしめし)候べし、終に可(レ)死物故に、わるびれ見え給ふな。あの向の岡に見ゆる一村の松の下に立寄給(たまひ)て、心閑に念仏申て御自害(ごじがい)候へ、其程(有朋下P349)は防矢仕て、軈(やが)て御伴申べし、あの松の下へは、廻らば三町直には一町にはよも過侍らじ、急給へと泣々(なくなく)涙を押へ詢ければ、木曾は遺を惜つゝ、都にて如何にも成べかりつれ共、此まで落きつるは汝と一所にて死なんと也、何迄も同枕に討死せんと思也と宣へば、今井いかに角は宣ふぞ、君自害し給はば兼平(かねひら)則討死也、是をこそ一所にて死ぬるとは申せ、兵の剛なると申は最後の死を申也、さすが大将軍の宣旨を蒙程の人、雑人の中に被(二)打伏(一)て首をとられん事、心憂かるべし、疾々落給(たまひ)て御自害(ごじがい)あるべしと勧ければ、木曾誠にと思ひ、向の岡松を指て馳
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行けり。今井は木曾を先に立て、引返々々命も不(レ)惜戦けり。木曾は今井を振捨て、畷に任て歩せ行。比は元暦元年正月廿日の事なれば、峯の白雪(はくせつ)深して、谷の氷も不(レ)解けり。向の岡へ直違にと志。つららむすべる田を横に打程に、深田に馬を馳入て、打共々々不(レ)行けり。馬も弱り主も疲たりければ、兎角すれ共甲斐ぞなき。木曾は今井やつゞくと思つゝ、後へ見返たりけるを、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)石田小太郎為久が、能引て放つ矢に内甲を射させて、間額を馬の頭に当て、俛しに伏にけり。為久が郎等二人馬より飛下、深田に入て木曾を引落し、やがて首をぞ取てける。今井是を見て、今ぞ最後の命なる、急御伴に参らんとて進出て申けるは、日比(ひごろ)は音にも聞けん、今は目に(有朋下P350)も見よ、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)中三権頭兼遠が四男、朝日将軍の御乳母子(おんめのとご)、今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)也、鎌倉殿(かまくらどの)までも知召たる兼平(かねひら)ぞ、首取て見参に入よやとて、数百騎(すひやくき)の中に蒐入て散々(さんざん)に戦けれ共、大力の剛の者成ければ、寄て組者はなし、唯開て遠矢にのみぞ射ける。去共冑よければ裏かゝず、あきまを射ねば手も不(レ)負。兼平(かねひら)は箙に胎る八筋の矢にて八騎射落しける。太刀を抜て申けるは、日本一(につぽんいち)の剛者、主の御伴に自害する、見習や、東八箇国の殿原とて、太刀の切鋒口にくはへ、馬より逆に落貫てぞ死にける。兼平(かねひら)自害して後は、粟津の軍も無りけり。
樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家を追討のために、五百(ごひやく)余騎(よき)にて河内国へ下たりけるが、行家をば討漏して、兼光女共虜にして京へ上ける程に、淀の大渡にて、木曾殿(きそどの)已(すで)に討れ給ぬと聞て、虜をば
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追放て、兵共(つはものども)に云けるは、木曾殿(きそどの)早討れ給にけり、御内には今井樋口とて一二の者也、遂に遁べき身に非、我身は京に上て可(二)討死(一)也、命も惜く故郷も恋しからん人々は、是より落べしと云ければ、五百(ごひやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)、木曾殿(きそどの)左様に討れ給ける上は、誰が為に命をも捨べきとて、思々に落失て、僅(わづか)に五十(ごじふ)余騎(よき)にて上けるが、鳥羽殿(とばどの)の秋の山の程にて見ければ、三十騎(さんじつき)には不(レ)過けり。造道、四塚、東寺の門へ歩せ行。樋口次郎京へ入と聞えければ、九郎義経の郎等共(らうどうども)、七条を西へ朱雀大宮(おほみや)(有朋下P351)を下に、造道へ馳向。信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)茅野太郎光弘と云者は、樋口次郎兼光が甥也。木曾殿(きそどの)為(二)誅罰(一)、東国より討手上と聞て、山道より只一騎(いつき)上けるが、今日都に著て聞ば、木曾殿(きそどの)は已(すでに)討れぬ、樋口今日京に入と聞て、急四塚辺へ馳向て、兼光が勢に打具して戦けり。何まで助るべきにはなけれ共、親き中こそ哀なれ。光弘矢さきに塞て散々(さんざん)に戦処に、筑前国住人(ぢゆうにん)原十郎高綱と名乗つて蒐出たり。光弘申けるは、何れの十郎にてもあれ、敵をば嫌まじとて、間近き程に攻寄て、太刀を抜て戦けるが、茅野太郎が手に懸り、原十郎討れにけり。同国上宮の茅野大夫光家、其弟に茅野七郎光重も、兄弟鼻を並て戦けるが、敵四人切殺して我身も討死してぞ失にける。児玉党団扇の旗指て、百余騎(よき)の勢にて出来れり。樋口を中に巻籠て、軍をばせず申けるは、やゝ樋口殿軍を止給へ、和殿計は助奉らん、広き中に入て聟に成は、加様の時の料也、無(レ)詮々々とて、心ならず取籠て具して京へ上り、軍将義経に角と申ければ、奏聞してこそ助めとて、院(ゐんの)御所(ごしよ)に将参、此旨申入ければ、今日は不(レ)被(レ)斬けり。
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S3508 木曾頸被(レ)渡事(有朋下P352)
二十二日に新摂政(しんせつしやう)を奉(レ)止て、元の摂政(せつしやう)に成返り給へり。摂録の詔書を被(レ)下て僅(わづか)に六十日、そも春日大明神(かすがだいみやうじん)の御計なれば、可(レ)然事と云ながら、見果ぬ夢とぞ思召(おぼしめし)ける。去共人の申けるは、昔一条院御宇(ぎよう)に右大臣道兼と申しは、太政大臣(だいじやうだいじん)兼家公次男也。〈 号(二)東三条殿(とうさんでうどの)(一)也。 〉正暦六年四月廿七日に、関白(くわんばく)の諂事を下給らせ給(たまひ)て、御拝賀の後只七日、前後十二日ぞ御座(おはしまし)ける。是を粟田関白(くわんばく)と申き。懸る様も有しぞかし、是は六十日が間に、除目も二箇度行給しかば、思出ましまさぬには非ず。一日とても摂録を黷し給こそ目出けれ。二十六日(にじふろくにち)に、伊予守義仲(よしなか)が首大路を被(レ)渡。法皇は御車を六条東洞院(ひがしのとうゐん)に立て被(二)御覧(一)、九郎義経六条河原にて検非違使(けんびゐし)の手に渡す。検非違使(けんびゐし)是請取て、東洞院(ひがしのとうゐん)を北へ渡して、左の獄門の樗木に懸らる。其首四つ、伊予守義仲(よしなか)郎等に信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)、高梨六郎忠直、根井四郎行親、今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)也。是三人は、四天王に員へられて一二の者なりければ、義仲(よしなか)と同く懸られたり。何者(なにもの)が所為にか、獄門の木の下に、札を書き立たりけるは、
  信濃なる木曾の御料に汁懸て只一口に九郎義経 K180 
伊予守の頸、剣に貫て赤絹を切て、賊首源(みなもとの)義仲(よしなか)と銘を書て髻に付、義仲(よしなか)左右の眉の上に、被(レ)疵(きずをかうむり)たれば、粉米をぞ塗たりける。次に降人中原兼光、葛紺水干葛袴の練色衣に、引(有朋下P353)立烏帽子(たてえぼし)を著す、徒跣にて渡けり。法皇御車の前にして被(二)召留(一)て御覧あり。上下市を成て見物す。兼光死を遁れて降人と成、大路を被(レ)渡面を曝す、其心勇士にはあらざりけり。皆人恥しめあへりけり。度々の合戦に
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功有しかば、其名を得たる兵なりしに、今人の嘲を招けるも、可(レ)然運の極と覚たり。
S3509 兼光被(レ)誅並沛公(はいこう)入(二)咸陽宮(一)事
樋口次郎兼光は、児玉党が依(二)嘆申(一)、義経被(二)奏聞(一)ければ、宥(二)死罪(一)大路を渡し、被(二)禁獄(一)たりけるを、院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の軍の時、然べき上搶蘭[達(にようばうたち)などを捕て衣裳を剥取、裸に成て五六日奉(二)取籠(一)、恥を奉(レ)見たりける故に、彼女房達(にようばうたち)口惜事に思召(おぼしめし)て、かたへの女房達(にようばうたち)を相語、兼光男を生置せ給はば、尼にならん御所を出ん。淀河、桂河に身を投んなど、様々に訴申させ給ければ、法皇も力及せ給はず、公卿有(二)僉議(せんぎ)(一)、女房の訴訟も難(二)黙止(一)。兼光は木曾殿(きそどの)が四天王の随一(ずゐいち)、死罪を被(レ)宥事有(二)虎養恐(一)と、殊に有(二)沙汰(一)て、明二十七日(にじふしちにち)に獄舎より取出て、五条(ごでう)西朱雀に引出て被(レ)斬けり。伝聞、虎狼の国衰て諸侯蜂の如く起り、沛公(はいこう)先咸陽宮に入といへ共、項羽が後に来らん事を恐て、金銀珠玉をも掠めず、軍兵美人(有朋下P354)をも不(レ)犯、徒に函谷関を守て漸々に敵を亡し、遂に天下を治る事を得たりといへり。漢高祖と申は彼沛公(はいこう)の事也き。義仲(よしなか)も先都に入と云とも其慎み有て、頼朝(よりとも)の下知を守らましかば、彼沛公(はいこう)が謀に同くして、世を取事も有なまし。義仲(よしなか)早晩奢つゝ、奉(レ)背(二)天命(一)、叛逆を起し、悪事身に積て、首を粟津に被(レ)刎て、恥を獄門に被(レ)曝けり。但帝王に向て弓を引者、大果報之人は六十日を持、小果報之人は四十日を不(レ)過といへり。木曾は五十(ごじふ)余日除目二箇度、松殿の御聟になり、朝日将軍の宣旨を被(レ)下たり。大果報とも云べきか。