『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十六
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阿巻 第三十六
S3601 一谷(いちのたに)城構事
平家は播磨国室山、備中国水島、二箇度の合戦に討勝つてぞ会稽の恥をば雪めける。懸りければ、山陽道七箇国、南海道六箇国、都合十三箇国の住人(ぢゆうにん)等悉に靡く、軍兵十万余人(よにん)に及べり。木曾討れぬと聞ければ、平家の人々は讃岐国屋島をば漕出て、摂津国(つのくに)と播磨との境、難波潟一の谷にぞ籠ける。去る正月より、此能所也とて城郭(じやうくわく)を構たり。東は生田森を城戸口とし、西は一谷(いちのたに)を城戸口とす。其中三里は、須磨板宿、福原、兵庫(ひやうご)、明石、高砂、隙なく続きたり。北は山の麓、南は海の汀(みぎは)、人馬の隙ありと見えず。陸には此彼に堀をほり逆茂木を引、二重三重に櫓を掻垣楯を構たり。海上には数万艘(すまんさう)の舟を浮て、浦々島々に充満たり。一谷(いちのたに)と云所は、口は狭して奥広し。南は巨海漫々として浪繁く、北は深山(しんざん)峨々として岸高し。屏風を立たるが如くなれば、馬も人も通べき様なし。誠に由々しき城郭(じやうくわく)也。海には兵船数万艘(すまんさう)を浮て算を散せるが如く、陸には赤旗立並て不(レ)知(二)(有朋下P356)其数(一)、春風に吹れて翻(レ)天、猛火の燃上に似たり。誠に夥(おびたたし)共云計なし。縦敵寄たりとも免出べき様見えず。平家年来の伺候人、伊賀、伊勢、近国に死残たる輩、北陸南海より抜々に来著ければ、云に及ばず。山陽、山陰(せんいん)、四国、九国に宗(むね)と聞る者共、阿波民部大輔成良が口状を以て、安芸守基盛の
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息男、左馬頭(さまのかみ)行盛執筆として、交名記して被(レ)催たり。先播磨国には津田四郎高基、美作(みまさか)には江見入道、豊田権頭、備前には難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)、同三郎経房、備中には石賀入道、多治部太郎、新見郷司、備後国には奴賀入道、伯耆国には小鴨介基康、村尾海六、日野郡司義行、出雲国には塩冶大夫、多久七郎、朝山紀次、横田兵衛維行、福田押領使、安芸国には源五郎兵衛朝房、周防国には石国源太維道、野介太郎有朝、周防介高綱、石見国には安主大夫、横川郡司、長門国には郡東司秀平、郡西大夫良近、厚東入道武道、鎮西には菊池次郎高直、原田大夫種直、松浦太郎高俊、郡司権頭真平、佐伯三郎維康、坂三郎維良、山鹿兵藤次秀遠、坂井兵衛種遠也。豊後国には尾形三郎維義一党、伊予国には河野四郎通信が伴類の外は、弓矢に携宗徒の輩大略参ければ、其次々の者共も、必志はなかりけれ共、人並々々出立て、漏者こそ無りけれ。昔項羽が鴻門に向しが如し。何かは是を攻落さんとぞ見たりける。(有朋下P357)
S3602 能登守所々高名事
四国九国の輩、我も/\と参ける中に、讃岐国在庁等、平家を背て源氏に心を通じ、船三十(さんじふ)余艘(よさう)に、二千(にせん)余騎(よき)乗連て都へ上けるが、抑源氏へ参に、争か平家に一矢不(レ)射(いず)しては通るべきとて、門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)教盛の、備中国下道郡に五百(ごひやく)余騎(よき)にて御座(おはしまし)ける所へ、押寄て時を造懸たり。教盛事ともし給はず、昨日までは平家に奉公して、馬に草刈水汲し奴原也。今当家を背き源氏に心をかはす条奇怪也、一々に射殺せやとて子息に越前三位通盛、能登守教経大将軍にて、船十余艘(よさう)に乗て押向て、散々(さんざん)に
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禦戦給ければ、在庁等被(二)追散(一)て、はか/゛\しき矢一も不(レ)射(いず)。奥懸に淡路国福良と云所へつく。淡路国に淡路冠者、掃部冠者とて二人あり。故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)が孫共也。淡路冠者は為義(ためよし)が四男、左衛門尉(さゑもんのじよう)頼賢が子、掃部冠者は同五男、掃部助頼仲が子也。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)には共に従父兄弟也。当国住人(ぢゆうにん)等、此両人が下知に随ければ、讃岐在国庁も同彼に靡付にけり。通盛教経是を聞、淡路国へ推渡、一日一夜攻戦ける程に、淡路冠者、掃部冠者共に討れぬ。大将軍二人討れしかば、残る輩、此彼に被(二)追詰(一)て一々に被(二)射殺(一)被(二)射殺(一)、能登守は百三十二人が首を取(有朋下P358)て、姓名書副福原へ進する。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)は、下道郡より福原へ帰給ふ。
伊予国住人(ぢゆうにん)河野四郎通信を責とて、通盛教経二手に分て四国へ渡る。越前三位は阿波国北郡花苑に著給。能登守は讃岐国屋島御崎にぞ著給ふ。河野四郎此事をきゝ、安芸国奴田太郎は源氏に志あり。一に成て軍せんと思て奴田尻へ渡りけるが、今日は備後の蓑島に懸て、翌日は蓑島を漕出て奴田尻に著。能登守是を聞、奴田城に推寄て一日一夜責戦。奴田太郎矢種射尽て、叶じとや思けん、鎧を脱弓を外して降人に参けり。河野は郎等皆討れて主従七騎に成、細縄手を浜へ向て落けるを、能登守の郎等に平八為員と云者、引詰々々射ける矢に、六騎被(二)射落(一)て二人は則死す。四人は半死半生也。河野は、口惜事也、敵一人に六騎まで被(二)射殺(一)て、我一人生たらば何の甲斐かは有べきと思切て、太刀を額に当て、手負の上を飛越々々打懸。平八為員を打取て落けるが、手負四人が中
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に、讃岐七郎為兼と云ける郎等は、命に替て不便の者なれば引起し、肩に懸て小舟に乗せ、伊予国へぞ渡にける。能登守は河野をば討漏たれ共、大将軍奴田太郎を虜て、福原も■(おぼつか)なしとて帰られけり。淡路国住人(ぢゆうにん)に安摩六郎宗益、源氏に志あて、淡路冠者、掃部冠者に同意したりけれ共、両人討れければ、宗益忍て五十(ごじふ)余騎(よき)にて、兵船六七艘に乗て都へ上ると聞けれ(有朋下P359)ば、能登守百五十騎(ごじつき)にて、十二艘に漕連て追けるが、西宮(にしのみや)沖にて追詰、前を切て散々(さんざん)に射。安摩六郎河尻へは不(レ)入して、紀伊路をさして落行けり。
紀伊国住人(ぢゆうにん)園部兵衛重茂も、源氏に志有けるが、淡路安摩六郎、能登殿に被(二)追返(一)て、和泉国吹井谷川と云所に著たりと聞て、一に成て可(二)上洛(一)と聞えければ、能登守紀伊路へ押渡、園部館へ攻入て散々(さんざん)に追払、三十六人が首を切、姓名を注して福原へ進する。
伊予国河野四郎、豊後国尾形三郎、海田兵衛宗親、臼杵次郎維高等が、一に成て備前国今木城に籠たりと聞ければ、能登守二千(にせん)余騎(よき)にて推寄て、一日一夜戦今木城を追落す。尾形は豊後へ漕戻す。河野は伊予へ渡にけり。能登守は今木城を追落て、福原も■(おぼつか)なしとて帰給ふ。能登殿所々の高名、大臣殿大に被(二)感仰(一)けり。誠由々しくぞ見えし。平家は浦々島々にて、朝夕の軍立に過行月日も忘て、憂かりし春にも廻あふ。世が世にてあらましかば、故禅門相国の遠忌を迎て、兼て堂塔をも起立し仏経をも用意して、後世菩提を吊はるべけれ共、懸乱の世中なればそも叶はずして、只男女の人々、
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指つどひては泣給へる計也。
S3603 福原除目付将門(まさかど)称(二)平親王(一)事(有朋下P360)
元暦元年二月四日、平家は福原にて故(こ)入道の忌日とて、仏事如(レ)形被(レ)行て、都へ可(二)帰上(一)之由聞えければ、旧里に残留てさびしさを嘆ける者共、多く隠下ければ、福原にはいとど勢こそ付増けれ。三種の神器を帯して、君かくて渡らせ給へば、爰こそ都なれとて、叙位除目僧事など被(レ)行ければ、僧も俗も官を給る。大外記中原師直が子、周防守師澄は大外記に成、兵部少輔尹明は五位蔵人に成つて蔵人少輔と云。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)教盛卿(のりもりのきやう)をば、正二位(しやうにゐの)大納言(だいなごん)にあがり給へと聞書を送進たりければ、やゝ打見給(たまひ)て御返事(おんへんじ)に、
今日迄もあればあるとや思ふらん夢の中にも夢を見る哉 K181
と、誠にと覚えて哀なり。
昔将門(まさかど)が東八箇国を打靡したりけるに、下総国相馬郡に都を立て、我身平親王と被(レ)祝て百官をなす。将門(まさかど)が舎弟(しやてい)、御厨三郎将頼下野守に任ず。同大葦原四郎平将平上野介に任ず。同平将為下総守に任。同平将武伊豆守(いづのかみ)に任ず。常羽御厩別当多治経明常陸介に任ず。藤原玄茂上総介に任ず。武蔵権守奥世安房守に任ず。文屋好兼相模守に任ず。諸国の受領を点定し、王城を建べき記文に云、下総国に可(レ)建(二)立亭(一)、南以(二)礒橋(一)為(レ)都山崎、以(二)相馬郡津(一)京の大津とすべしと申て、大臣納言参議文武六弁八史等、百官を成たりけるに、暦博士計ぞなかりける。是は彼に似べきに非、
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故郷(有朋下P361)をこそ出させ給たれ共、故高倉院(たかくらのゐんの)王子万乗の位に備給へり。内侍所御座(おはしま)せば、叙位除目行はるゝ事非(二)僻事(一)と申けり。大臣殿已下宗徒の人々は福原の旧都に御座(おはしま)して、加様に除目被(レ)行軍の評定あり。一門の若人、諸国の侍共は、東西の城戸に分遣したり。平家は西国(さいこく)悉(ことごと)く打靡して、既(すで)に都へ還入給べしと聞ければ、余党の残留たりけるも皆福原へ参向ふ。其外他家の人々も、実も都へ帰上て、再世にもや御座(おはしま)さんずらんとて、色代の使等閑の消息(せうそく)、各被(レ)下ければ、平家の一門も侍も、いとゞ力付て覚けり。
S3604 維盛住吉(すみよし)詣並明神垂跡(すいしやく)事
権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)は、月日の過儘に、明ても暮ても故郷のみ■(おぼつかなく)て、軍の事も心に入給はず、弟の新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)を招具し奉りて深く身を窄し、住吉社へ参給つゝ、一夜の通夜をぞ被(レ)申ける。祈誓は今一度都へ帰入、再妻子令(レ)見給へと也。
抑此明神と申は、元は是高貴徳王の変身として名を仏教に顕し、今は即叡哲聖主の周衛として、化を神州に被らしめ給へり。本地の悲願垂跡(すいしやく)の化導を奉(レ)仰、御祈念あるぞ哀なる。明ぬれば住江殿の釣殿に御座(おはしまし)てつく/゛\と嘯て、彼住吉(すみよし)の姫君、昔誰松風の絶ず吹らんとて、琴掻鳴し給けるを思出(有朋下P362)て、無常の句をぞ被(レ)頌ける。山に入市に交ても難(レ)遁は無常の使、関固め兵を集ても難(レ)防は生死の敵、漢高祖三尺の剣を提し、獄率の武きをば征せず。張良一巻の書に携し、閻王の攻には靡けり。名利身を助れ共、野原の末に被(レ)棄て、雨露骸を潤し、恩愛心を悩せ共、中有の旅に出ぬれ
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ば黒業神に随と、口には誦し給へ共、心は都に通けり。能因法師と云しは中比の数寄者也。在俗の時は永トと云けり。備前守元ト子也。伊豆三島社にては、天降ます神ならばと詠、奥州(あうしう)白川関にしては、秋風ぞ吹白川の関と読て、関屋の柱に筆を止む。其能因が修行の時、
心あらん人に見せばや津国の難波渡の春のけしきを K182
と読とゞめて、名にし負歌枕なれば、良詠しめ帰給ふ。
S3605 忠度見(二)名所々々(一)付難波浦賤夫婦事
薩摩守忠度も、源氏も未(レ)寄ければ、能隙と覚して、摂津国(つのくに)名にし負名所々々を巡見給ふ。山には玉坂山、有馬山、待兼山をも見給けり。河には玉川、三島、稲河、芥河とかや。江には三島江、住江、堀江、玉江、難波江、浦には須磨浦、長井(ながゐの)浦、蓋篋浦、野には印南野、(有朋下P363)昆陽野とかや。森には生田森、てくらの森、滝には布引滝、関には須磨関、橋には長柄橋、島には砥島、豊島、田蓑島、里には長井(ながゐの)里、玉川里、此に移り彼に渡て見給。中にも難波浦こそ古の事思出つゝ哀なれ。村上天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)天暦の比とかや、此浦に或人夫婦相住。指もの賤女なりけれ共、妻は情ある女にて、生死の無常を恐れ、慈悲心に深くして、乞食貧人に物を施しければ、夫は邪見放逸にして、更に憐の思なし。我貧は汝が宝を費故也と大に是を嗔けれ共、女是を不(レ)用して、隠忍ても与へければ、夫今は制するに不(レ)及とて、永く其妻を去てけり。女はいみじき心有ければ、蒙(二)諸天の加護(一)て則国主の妻室と成ぬ。男は其後仏神にや被(レ)捨たりけん、貧成てすべき方の無りければ、日々(ひび)
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に難波堀江に行て葦を刈て世過けり。此女輿に乗て道を過ける時、元の夫は葦を刈て立たり。女輿の中にて是を見ていと哀に無慙に思、彼男を召寄て、何汝我を捨ぬれ共、角こそはあれと云ければ、男限なく辱しく思て、
君なくてあしかりけりと思にもいとゞ難波の浦ぞ住憂き K183
女の返事には、
あしからじとてこそ人は別れしか何か難波の浦は住うき K184 (有朋下P364)
と読たりければ、男則消入にけるとなん。或説には、翌日に百石を元の男に送共あり。彼夫婦の住ける所とて里人の教けるを見給へば、今は家の跡だにも見えず、混ら野にこそ成にけれ。物思所なれば、被(二)思知(一)て哀也。浦々島々の名所注して、一巻の書に留給(たま)ひつゝ、福原へこそ帰給けれ。
S3606 維盛北方歎並梶井宮遣(二)全真歌(一)事
三位中将(さんみのちゆうじやう)維盛は、日重り年阻ぬるに随て、故郷に留置し人々も恋しく聞まほしく思召(おぼしめし)けるに、適商人の便を得て、北方より御文あり。珍とて披き見給へば、相構て迎取給べし。人しれず歎悲心の中、争か知せ奉べきとまで、責ての事には覚て候、只推量給べし、少者共の不(レ)斜(なのめならず)恋しがり奉れば、我身の尽せぬ思に打副て無(二)為方(一)思へば、ながらへ候べし共覚えず、生て物を思も苦しければ、消も入なばやと思へども、又憂世(うきよ)に立廻らば、などか今一度見もし見えもし奉る事なからんと、難面心につながれて、今迄は角て侍れども、遂に如何なるべし共思分ず。若昔語とも成なば、少き人々の父に
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こそ奉(レ)被(レ)捨らめ、母にさへ後て、憑方なき者と成て、奉(二)誰育(一)(たれにはごくまれたてまつらんと)、兼て思も悲くこそ侍れ、さても如何(有朋下P365)に只一人は御座(おはしまし)候なるぞ、心苦くこそ、如何ならん人をも相語ひ給(たまひ)て、旅の御徒然をも慰給へかし、契はそれにしも依べきかはと濃に書給(たま)ひたりれけば、最悲く覚えて伏沈給けるぞ哀に見え給ける。是をば角とも知給はず、三位中将(さんみのちゆうじやう)は、池(いけの)大納言(だいなごん)の様に二心あるにこそとて、大臣殿も打解給事なければ、怒々さは無物をとて、いとゞあぢきなしとて、さらば迎取て一所にて何にも成ばやと、常は思立給けれ共、我身こそ角憂からめ、人の為に糸惜ければとて明し晩し給(たま)ひけるぞ責ての志の深さと覚て哀なる。二位僧都(そうづ)全真は、梶井宮の御同宿也。僧都(そうづ)西海の浪に漂て、何れの国に落居とも不(レ)聞ければ、宮も御心苦事に思召(おぼしめし)、風の便にはと思出けれども、空く月日を送らせ給けるに、都近く福原まで上たりと聞召ければ、旅の有様(ありさま)思召(おぼしめし)遣こそいと御心苦しけれ。都も未(レ)閑、浮世の習と云ながら、何かなるべし共不(二)思召(おぼしめし)分(一)、月日の重るに付て、御恋しさ理に過てこそなど、濃にあそばして御書を被(レ)下けり。奥に一首の歌あり。
人しれずそなたを忍心をばかたぶく月にたぐへてぞやる K185
全真は此御書を給(たまひ)て、衣の袖をぞ被(レ)絞ける。(有朋下P366)
九郎義経は、平家追討の為に西国(さいこく)へ発向すべしと聞ければ、義経を院(ゐんの)御所(ごしよ)六条殿へ召て、我朝には神代より伝たる三種の御宝あり。則神璽宝剣内侍所是也。天津御神の国津主に伝て、百王鎮護の神宝、
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万民豊饒の霊珍也。相構て無(二)事故(一)都へ奉(二)還入(一)とぞ被(二)仰含(一)ける。義経畏ていと事安げに、子細や候べきとて罷立ければ、法皇御嬉気に被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。
S3607 福原忌日事
二月三日、源氏は一谷(いちのたに)へ向べしとて勢汰あり、評定ありけるには、明日四日は故太政(だいじやう)入道(にふだう)の忌日と聞ゆ。妨(二)仏事(一)(ぶつじをさまたぐる)こと罪深し、延引すべし。五日は西塞り、六日は悪日也。七日の卯刻の矢合と定て、東西の城戸より、兄弟大将軍として攻べきにぞ有ける。
抑源氏は入道の忌日に芳心情あり。忌日と云事は内外の典籍に明文あり。天竺震旦にも有(二)先規(一)。梵網経には、父母兄弟死亡日講菩薩戒律云々、礼記には、忌日には忌人云云。廬山僧慧は鶴を詞けるに、僧慧死して後、彼鶴年々の忌日に来て、羽を垂て終日に啼居たりき。晉代に師曠と云人は、秘蔵して一挺琴を持てんげり。其主死て後、此琴忘形見に留つて空き壁にそばだち、塵積れども払人無りけるに、師曠が年々の忌日に、不(レ)弾に自鳴て悲の音を含けり。琴は非情也、鶴は畜趣也けれども、知(レ)恩の志如(レ)此。況人倫争か不(レ)優。就(レ)中(なかんづく)或経には、忌日には亡者必閻魔宮より暇を得て、旧室に来て子孫の善悪を見るに、善を見ては悦咲、悪を見ては歎泣と云文あり。源氏も此意を得たりけるにや。情を忌日に籠けるも優也と、讃ぬ人こそ無りけれ。(有朋下P367)
S3608 源氏勢汰事
同七日法皇、八条烏丸の御所にして、平氏追討の御祈(おんいのり)に、五尺の毘沙門天像を被(レ)造。始先御衣の木を安置す、二丈(にぢやう)五尺也。南を以為(レ)上。法印院尊為(二)大仏師(一)、権僧正(ごんのそうじやう)定遍奉(レ)加(二)持御衣木(一)西へ向へり。
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法皇は鈍色の裳付衣を召れて、砌下の御座に著御あり。高麗縁の畳一帖を地上に敷て御座とす。御仏作始て後、北に向て立奉て、法皇三度御拝あり。
〔其後九郎義経は、平家追討の為に西国(さいこく)へ発向すべして聞召ければ、義経を院(ゐんの)御所(ごしよ)六条殿へ召て、我朝には神代より伝たる三種の御宝あり、則神璽宝剣内侍所是也、天津御神の国津主に伝て、百王慎護の神宝、万民豊饒の霊珍也、相構て無(二)事故(一)都へ奉(二)還入(一)とぞ被(二)仰含(一)ける。義経畏ていと事安げに、子細や候べきとて罷立ければ、法皇御嬉気に被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。〕
同日卯刻には、源氏已(すで)に発向す。追手の大将軍には蒲冠者範頼、相従ふ輩には稲毛三郎重成、同舎弟(しやてい)榛谷四郎重朝、同森五郎行重〈 兄弟三人 〉、長野五郎清重、梶原平三景時、子息平太景季、同平次景高、同三郎景家(かげいへ)、曽我太郎祐信、千葉介常胤、子息太郎胤将、小次郎(こじらう)成胤、相馬次郎師常、子息国分五郎胤通、同六郎胤頼、武石三郎(有朋下P368)胤盛、舎弟(しやてい)大須賀四郎胤信、佐貫四郎大夫広綱、海老名太郎兄弟四人、中条藤次家長、児玉には、庄太郎家長、同三郎忠家、同五郎広賢、塩谷五郎維広、小林次郎、同三郎小河五郎、勅使河原権三郎有直、秩父武者四郎行綱、大田兵衛重平、広瀬太郎実氏、大田四郎重治、安保二郎実能、中村小三郎時経、玉井四郎助重、高山三郎、八木次郎、同小二郎、河原太郎高直、同次郎盛直、小代八郎行平、久下次郎実光、小野寺太郎道綱等を先として五万余騎(よき)、播磨路に懸て、次の日は摂津国(つのくに)昆陽野に陣を取。入道の仏事の日なれば、馬も我身も休けり。
搦手の大将軍は九郎義経、相従輩には安田三郎義定、一条二郎忠頼、逸見冠者義清、武田右兵衛有義、畠山庄司重忠、久下権頭直光、大内冠者維義、斎院次官親能、山名太郎義範、土肥二郎実平、子息弥太郎遠平、三浦別当義澄、和田小太郎義盛、佐原十郎義連、多々良五郎義春、同次郎光義、糟谷権頭重国、同藤太有季(ありとし)、河越太郎重頼、同小太郎茂房、後藤兵衛実基、猪俣金平六範綱、平
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佐古太郎為重、熊谷次郎直実、子息小次郎(こじらう)直家、平山武者所季重、大川戸太郎広行、師岡兵衛重経、金子与一近範、源八広綱、小川小次郎(こじらう)助茂、山田太郎重澄、原三郎清益、片岡太郎経治、長井(ながゐの)小太郎義兼、筒井次郎義行、伊勢三郎義盛、葦名太郎清高、蓮沼太郎忠俊、(有朋下P369)同六郎国長、岡部六弥太忠澄、同三郎忠康、渡柳弥五郎清忠、江田源三、熊井太郎、蒲原太郎正重、同三郎正成、池上次郎、香河五郎、諏訪三郎、藤沢六郎、平賀次郎景宗、封戸次郎、同六郎正頼、手郎等には奥州(あうしうの)佐藤三郎兵衛継信、同四郎兵衛忠信、城三郎、片岡八郎為春、備前四郎、鈴木三郎重家、亀井六郎重清、武蔵坊弁慶(べんけい)等を始として一万(いちまん)余騎(よき)にて、是も同四日の寅卯刻に都を出て、丹波路に懸て、二日路を一日に打て、播磨、丹波、摂津国(つのくに)、三箇国の境なる丹波国氷上郡、三草山の東の山口、小野原と云里に、戌刻に馳付て、即爰(ここ)に陣を取。但し関東の評定には、梶原平三は、侍大将軍にて九郎義経に付、土肥次郎は、侍大将軍にて蒲冠者に相従べしと被(レ)定たりけるに、実平は範頼を捨て九郎義経に付、景時は義経を離て、五百(ごひやく)余騎(よき)を引分て蒲冠者に属にけり。畠山は、元は九郎義経に打具して宇治川(うぢがは)を渡たりけるが、京にては蒲冠者に伴けり。今度一谷(いちのたに)へ発向には、畠山又範頼の手を引分て、五百(ごひやく)余騎(よき)にて義経に付、其故は、梶原兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の気色誇して、諸国の侍共を手に握、我儘にと振舞ければ、景時に被(二)下知(一)事目ざましく思ける上、蒲冠者の軍将様、九郎御曹司には雲泥を論じて劣給へりとて、搦手にぞ付にける。九郎義経は此等が出入を見給(たまひ)て、梶原が義経を悪しとて出たれ共、畠山
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又返入たれば、よ(有朋下P370)しよし無(レ)利無(レ)損、同五百(ごひやく)余騎(よき)、武も剛も同事也。去共力は争か畠山に並ぶべきなれば、猶替勝りとぞ宣(のたま)ひける。三草山は山内三里也。源氏既(すで)に東山口に陣を取と聞えければ、平家は西の山口を固べしとて、大将軍には新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)資盛、左少将有盛、備中守師盛、副将軍には平内兵衛清家、江見太郎清平を始として七千(しちせん)余騎(よき)、三草山を西の山口に馳向て陣を取。源平互に大勢にて、三里の山の中に阻て支へたり。
S3609 義経向(二)三草山(一)事
〔去(さる)程(ほど)に〕九郎義経、招(二)土肥次郎(一)て、軍は如何有べき、夜討にやすべき暁や寄べきと問給。土肥未物も云ざる前に、伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)田代冠者信綱と云者申けるは、平家はよも夜討の用意はあらじ、是程の大勢也、定て夜明にぞ軍はあらんずるとて、馬の足休め物具(もののぐ)甘げなんどして休らん、去ば夜討は能候ぬと存ず、敵は七千(しちせん)余騎(よき)と聞ゆ、御方は一万(いちまん)余騎(よき)、何事か有べき、夜の紛に押寄、踏散して通給へかしと被(レ)申ければ、土肥は、田代殿の御儀可(レ)然候、実平も角こそ存候へ、先制(レ)人、後為(レ)人制せらるとも云、一陣破残党不(レ)全とも申せば、先夜討に追落して不(レ)如(レ)乗(レ)勝と同じつゝ、此上はいかにと申せば、夫は元来(有朋下P371)義経が所存也、さはあれ共、一義二義を出して惣に味はゝするは故実也、去ば疾々急給へとぞ宣(のたまひ)ける。彼田代冠者と申は、俗姓は後三条院(ごさんでうのゐん)第四皇子御子、左皇有佐五代の孫とぞ承る。父為綱卿蒙(二)朝恩(一)伊豆(いづの)国司を給り、任国の神拝に下給たりけるが、暫在国の間、工藤介茂光が娘を思て儲たりし子也。任限の後は為綱は上洛しけれ共、信綱は未嬰児の事なれば、外戚の祖父工藤介夫婦是
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を憐て、伊豆国(いづのくに)にて養立ける程に、生年十一歳より流人兵衛佐(ひやうゑのすけ)の見参に入て、内外なき事にて御座(おはしまし)けり。石橋山の合戦にも、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の軍破て杉山へ入給けるに、祖父狩野介が首を取、伯父甥つれて萩野五郎を射払、佐殿の方へ馳参たる剛者也。木曾追討之時、軍兵多く被(二)指上(一)けるに、此田代冠者をば、自然の用心にとて鎌倉に被(レ)留たりけるが、木曾が合戦に勢多討手負て無勢也、猶軍兵を被(レ)副べしと関東へ申されたりけるに依て、九郎都に候へば、何事も被(二)仰含(一)候べしとて、後れ馳に狩野五郎に打具して、五百(ごひやく)余騎(よき)にて上洛せり。文は父方を学、武は外方を伝つゝ、兼帯公家武家、文武一双の達者なりければ角被(二)計申(一)けり。九郎義経は、さらば夜討にせよとて、一万(いちまん)余騎(よき)にて三草山を山越に、西の城戸へと打給。平家の方には、先陣こそ自夜討もやと用心しけれ共、後陣は明日の軍とて、甲を脱箙を解て枕として、打重々々前後(有朋下P372)挿絵(有朋下P373)挿絵(有朋下P374)も不(レ)知伏たりけり。源氏の兵は、幽なる山中を而も無案内にて、木の本いぶせき闇の夜に、過る事こそ難治なれ。上下嘆思けるに、軍将真先蒐て打給。大将も流石(さすが)始たる山なれば、武蔵坊々々々と召、弁慶(べんけい)前に進出たり。例の大続松用意せばやと宣ふ。軍兵等は不(レ)得(二)其意(一)けれ共、弁慶(べんけい)は用意仕て候とて、大勢に先立て、道の辺の家々(いへいへ)に追継々々火を指けり。火焔天に耀て地を照しければ、山中三里は此光にてするりと越にけり。誠に大続松とは今こそ人々心えけれ。既(すで)に子丑刻にも成ぬ。如(レ)法夜半の事なれば、くらさは闇し東西も不(レ)見けるに、夜討の声に驚て、平家取物も取あへず、甲を著て鎧をば棄、矢をば負て弓をば取ず、馬一匹には二三人取付て我先に
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と諍。弓一張には四五人取合て引折たり。主は従者を不(レ)知、親は子を省ず。適太刀を抜て適を斬と思へ共、目指とも知ぬ闇なれば、多は友討にこそ亡けれ。大将軍新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)資盛は、大勢に追散されて、一矢を射までは不(二)思寄(一)、■々(はうはう)落て遁給たりけるが、面目なしとて福原へは入給はず、船に取乗讃岐屋島城へ渡り給。源氏は軍の手合に、門出能とて勇けり。虜共の首切て、西の山口に竿結渡して、百八十人を懸、(有朋下P375)
S3610 平氏嫌(二)手向(一)付通盛請(二)小宰相局(一)事
同五日備中守師盛、平内兵衛清家、大臣殿へ参給(たまひ)て、御方の兵共(つはものども)兼夜討有べき共不(レ)存之間、暁までとて休伏たる処に、源氏等(げんじら)如(レ)法夜半に推寄て散々(さんざん)に懸廻せば、不(二)思寄(一)俄事にて、我先々々にと落失ぬ。山手ゆゝしき大事の所に候、猶も手を向らるべきにて候と被(レ)申ければ、大臣殿浅増(あさまし)き事にこそとて、安芸右馬助(うまのすけ)基康を使にて、方々へ被(レ)仰けれども、面々に辞退申さる。能登殿へ被(レ)仰けるは、三草山既(すで)に夜討に被(レ)破ぬと申、一谷(いちのたに)をば貞能(さだよし)、家仲に仰付ぬれば、さり共と存ず、生田をば新中納言、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)固候ぬれば心安(こころやすく)覚ゆ、山の手には盛俊を遣しぬれ共、大事の所と承はれば心苦しく存る間、なほ手を向ばやと思侍るに、兵共(つはものども)が、大将軍一人もおはしまさでは悪かりなんと歎申に付て、人々に申せば、何の殿原も、悪所なれば向はじと申合する、如何し侍べき、且は身々の御大事(おんだいじ)也、被(レ)向候て兵共(つはものども)をも御下知あれかしと被(レ)仰たり。能登守の返事には、軍は相構て我一人が大事と存じて振舞だにも、時の臨悪き様の事多し、其に心々にて、悪所をば、不(レ)行不(レ)固と嫌、善方へは向はん守らんと申されんには、遂によかるべし共覚えず、悪所(有朋下P376)とて被(レ)簡、兵の命を惜にこそ、
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身をたばはんには軍場へ向ぬには不(レ)如、源平東西に諍て、命を限の軍なれば身命を惜むべからず、死はいつも同事也、人々の強し悪しとて嫌給処をば教経に預給へ、幾度も可(レ)固候、御心安(おんこころやす)く思召(おぼしめせ)とて、能登殿は三草山へぞ被(レ)向ける。誠に由々敷ぞ聞し。越中前司盛俊が仮屋の前に仮屋打て、敵を今や/\とぞ待懸たる。然程に五日も既(すで)に暮にけり。
源氏の大手は、昆陽野に陣を取て遠火を焼。平家は生田森に陣を取て向火を合す。彼方此方の篝火を、更行儘に見渡せば、晴たる天の星の如、沢辺の蛍に似たりけり。
越前三位通盛は、旅の仮屋にて物具(もののぐ)脱置て、小宰相局と申女房を船より被(レ)迎たり。何も会夜の度毎に、眤言尽ぬ中なれば、短き春の夜のうらめしさは、丑みつ計に成にけり。能登守は、宵程は骨なしと覚して不(レ)被(レ)申けるが、既(すで)に夜半も過ければ、高らかに、此手をば強方とて人々も辞申されつれ共、教経向へと候へば罷向ぬ、所の体を見に誠にこはかるべし、後は山々なれ共、平地にして下透たれば馬の馬場と云べし、前は海なれ共遠浅にて、船付わるくして船を難(レ)出、去ば敵後の山より跋と落さば、鎧を著たり共甲を不(レ)著、弓を取たり共矢をはげんに暇あるまじ、去ばこそ新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)も、西の山口をば落れけめ、帯紐解広げて思事なくおはする事勿体なし、女房(有朋下P377)の悲も子の糸惜も、身の豊なる時の事也、自然の事あらば如何はし給べき、其上九郎冠者は謀賢者にて、今もや夜討に攻来らん、御心得(おんこころえ)有べしと被(レ)申ければ、三位げにもと被(レ)思ければ、衣々に起別て、船へぞ被(二)返送(一)
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ける。三位討れて後にこそ是を最後と被(レ)泣けれ。
S3611 清草射(レ)鹿並義経赴(二)鵯越(一)事
〔同〕六日の未明、上の山より巌崩て落、柴の梢ゆるぎければ、城の中には、すはや敵の寄はとて、各甲の緒をしめ馬に騎、筈を取て待処に、雄鹿二雌鹿一つゞきて出来れり。能登守は、此鹿の下様を思に、一定敵が寄ると覚たり、爰(ここ)にはまん鹿だにも人に恐て深く山に入べし、深山(しんざん)の鹿争か人近く下るべき、菩薩を山の鹿に喩たり、招けども不(レ)来といへり、敵の近付る条子細なし、我と思はん者あますなと宣へば、伊予国住人(ぢゆうにん)高市武者所清章は、馬の上にも歩立にも弓の上手なる上に、而も猟師成けるが、折節(をりふし)射付馬の早走に乗たりけり。一鞭あてて弓手に相付て、箙の上ざし抜出して、雄鹿二は同草に射留つ、雌鹿一は逃てけり。不(レ)意狩したり、殿原草分のかふ、そしゞのはづれ、肝のたばね、舌根、(有朋下P378)鹿の実には能処ぞ、鹿食殿原と云けれ共、大形の怱々の上、軍場にて鹿食事憚あり、其上稲村明神とて程近く御座(おはしまし)ければ、松の二三本有ける本に棄置けり。其よりしてこそそこをば鹿松村とぞ名付けれ。大将軍の仰なれ共、只今(ただいま)の矢一は敵十人は防べし、清章が鹿射、由なし/\と口々に云ければ、高名も還をこがましく見けり。〔去(さる)程(ほど)に〕軍は七日の卯刻に矢合と被(レ)定たりければ、義経、田代冠者を招て宣ふ様、土肥次郎実平等を具して、七千(しちせん)余騎(よき)にて、一谷(いちのたに)西の城戸口、山の手を破給へ。義経は音に聞ゆる鵯越を落し候べしとて、佐藤三郎継信兄弟、江田源三、熊井太郎、伊勢三郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、片岡八郎為春、佐原十郎義連、後藤兵衛真基、源八広綱、武蔵坊
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弁慶(べんけい)等を始として、手に立べき究竟の兵三十(さんじふ)余騎(よき)を撰勝り、一万(いちまん)余騎(よき)が中より三千(さんぜん)余騎(よき)を相具して、三草山奥へ入、綱下峠打過て、青山にかゝり、折部山、鉢伏峯、蟻戸と云所へ向けり。軍将の其(その)日(ひ)の装束には、青地錦の直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧著て、鹿毛なる馬の太く大なるに、貝鞍置て乗給ふ。
< 一説には、赤地錦の直垂に、黄返の鎧著て、宿鴾の馬の太く逞が、尾髪足れるに乗給。名をば青海波とて、東国第一の名馬と云云。 >
太夫と云黒馬には、白覆輪の鞍置て、労て引せらる。此黒は今度の上洛に鎌倉殿(かまくらどの)より得給へり。本名をば薄墨(有朋下P379)とぞ申ける。彼山道は、長山遥(はるか)に連て人跡殆絶たり。鵯越とて由々しき嶮難の石巌也。自鹿計こそ通けるに、軍将前に進で宣(のたまひ)けるは、義経が乗たる大鹿毛は、陸奥国にて名を得たる気高き逸物也、敵にあはん時は必此馬に乗べしとて、平泉を立し時、秀衡が我に得させたりき。鎌倉殿(かまくらどの)のたびたる薄墨にも、底はまさりてこそ在らめ、去ば宇治川(うぢがは)を渡し時も、此二匹の馬共は、鞍取より上を不(レ)濡、逸物也。さても我朝の名馬には、三日月、和琴、鳥形、浦々、荒磯、望月、宮木、大耳子、小耳子、夏引、小花なんど也。或は長七尺(しちしやく)にあまり、或は八尺なんど有けりと云ふ。満政が赤六、貞任が大黒も劣べし共不(レ)覚、音に聞ゆる鵯越の巌石、此馬のかけらざるべき所にしもあらじ、卯刻の矢合也、急や/\夜中にとて、伏木磯道をも嫌ず、木透を守て引懸々々、指窕て打給へば、我も/\とつゞきたり。去共六日の月は既(すでに)入ぬ、山嶮して大木茂り、岩高して道幽也ければ、手綱を引へて踉■(やすらひ)踉■(やすらひ)ぞ歩せける。九郎義経宣(のたまひ)けるは、御方の勢の中に、若此山の案内知たる者やあると問給ふ。答者なし。
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爰(ここ)に武蔵国住人(ぢゆうにん)別府小太郎忠澄、生年十八に成けるが、進出て申けるは、加様の事は先長達の申べき事に候、末の者申入事其恐侍れ共、親にて候し入道の常に教へ候しは、若者は聞も習へ、山越の狩をもせよ、敵をも攻よか(有朋下P380)し、山に迷たらんには、老たる馬を先に立て行べし、其必道に出なりと教訓申候き。今思出られ候、さもや有べかるらんと申ければ、御曹司、戯呼さる事聞侍り、斉国の桓公が胡竹の国を伐ちし時、深雪路を埋て帰事不(レ)叶けるに、管仲と云者、老馬を雪に放て道を得たりと云本文に叶へり、返々も神妙(しんべう)々々(しんべう)とぞ感じ給ける。爰(ここ)に同国住人(ぢゆうにん)平山武者所進出て、季重此山案内よく存知仕りて候、先陣給はらんと申。近打連たる土肥、畠山、熊谷等、取々口々に云けるは、武蔵国者が、今度始て西国(さいこく)の討手に下、今度始て此山を通る、西国(さいこく)初旅也、摂津国(つのくに)と播磨との境なる山の案内をば争知べき、得通の聖者に非、飛行の神仙にもあらじかしと笑ければ、平山云様は、鹿付の山をば猟師知、鳥付の原をば鷹師知、魚付の浦をば網人しり、知恵ある人をば智者ぞしる、吉野泊瀬の花の色、須磨や明石の月の影は、其里人は不(レ)知ども、数奇たる人こそ知る習なれ、於(二)諸事(一)道をば道が知事ぞかし。桃李不(レ)語、下自成(レ)蹊、況敵を招城の内、軍を籠たる山中には、剛者こそ案内者よとて、鞭を揚て先陣に進けり。兵共(つはものども)当座の会釈の面白さに、平山が詞傍若無人也、誰か心に可(レ)劣と計云捨て、各勇進けり。(有朋下P381)
S3612 鷲尾一谷(いちのたに)案内者事
〔去(さる)程(ほど)に〕九郎御曹司下知し給けるは、此山の足立極て悪し、鹿の落しも有らん、熊押なども上たるらん、悪所
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に懸て馬をも人をも不(レ)可(レ)損とて、武蔵坊弁慶(べんけい)と召。弁慶(べんけい)候とて進参す。装束には褐衣の直垂に、黒革威の鎧に、同毛甲に、三尺五寸の黒漆の太刀帯て、黒羽の征矢負て、塗籠の弓に、好長刀取具して馬より下、軍将の前にあり。元来色黒長高法師也。身の色より上の装束まで、牛驚く程に有ければ、焼野の鴉に似たりけり。やゝ弁慶(べんけい)承れ、木陰茂て道見えず、山の案内者尋てんやと宣へば、取定たる事もなきに、候なんとて馬に乗、乾に向て十余町(よちやう)歩はせ下つて谷の底を伺求に、幽に火の見けるを、打寄て見ればけしかる萱屋あり。内に七十余なる翁と六十余なる嫗と、腹掻出して火にあたり居たり。弁慶(べんけい)こわづくろひして事々敷申けるは、鎌倉兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、朝敵追討の院宣を給り御座によりて、軍兵を被(二)指上(一)間、平家都を落て此山に籠、則御弟の蒲御曹司大手に向給ぬ、九郎御曹司搦手として、此上の山に御座、案内者に参との御使に、武蔵坊弁慶(べんけい)とて古山法師の怖者が来れり。疾々可(レ)参也と云。老人急起上て、烏帽子(えぼし)打著て(有朋下P382)申けるは、若侍し時は、摂津国(つのくに)丹波山々暗き所なし、春夏はねらひ射、秋冬は笛待落しくゝり押上、犬山など申て、昼夜に山に侍しかば、木根岩角知ぬはなし、年闌身衰て、此二十余年は不(二)弓引(一)、行歩不(レ)叶候、子息の小冠者は不敵の奴、案内よく知て候らん、被(二)召具(一)べしとて、片屋に有けるを呼起して心を含て進せけり。柿の衣物に同色の袴、節巻の弓に猿皮靭、鹿矢あまた指て半物草をぞはきたりける。弁慶(べんけい)に相具して参たり。続松とぼして見給へば、頬骨あれて輔車たかく、まかぶら覆うて勢大なり。御曹司は、如何に汝が居所をば何くと云ぞ、年はいかに
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と問給へば、歳は生年十七、居所は山鼻が指覆て、鷲の貌に似たりとて、鷲尾と申付て候。さて汝が親には嫡子か末子かと、名乗はいかにと問給へば、名は未(レ)付、親には三郎に相当候と申。旁聞召(きこしめし)て、仏の正法説給し処、鷲に似たれば鷲峯山と被(レ)号、達多が邪法を弘めける砌(みぎり)は、象の頭に似たりとて象頭山と呼けり。震旦には、香炉に似たる山とて香炉山、竜の臥るに似たりとて驪竜山、我朝には比叡山(ひえいさん)は長ければ長柄山、金獄は金の多ければ金峯山と名を得たり。様無にしもあらず、去ば汝をば鷲尾三郎と云べし、名乗は我片名に父が片名を取て経春と付べし、片岡と同名なれ共、多き人なれば事かけじ、只今(ただいま)烏帽子親(えぼしおや)の引出物とて、花憐木の管に白金(有朋下P383)筒の金入たる刀に、鹿毛の馬に鞍置て、赤革威の甲冑小具足付て給たりけり。是より思付奉て、一谷(いちのたに)の案内者より始て八島、文司関、判官奥州(あうしう)へ落下給し時、十二人の虚山伏の其一也。老たる親をも振捨て、悲き妻をも別つゝ、奥州(あうしう)平泉の館にして最後の伴をしたりしも、情ある事とぞ聞し。或人の云けるは、摂津国(つのくに)源氏にて、如(レ)形所領の有けるを、難波(なんばの)次郎(じらう)に被(二)押領(一)山林を狩て此に住けるとぞ云ける。
< 異説に云、三草山の夜討の時、虜多かりける中に、斬べきをば被(二)斬棄(一)、可(レ)被(レ)宥をば木の本に結付て、山案内者にとて、兵具をば不(レ)許召具し給(たま)ひたりける。男を引出し問給けるは、抑和俗は平家伺候の家人か、国々の駈武者かと。是は平家之家人にも非ず、又駈武者にも侍らず、播磨国、安田庄下司、多賀管六久利と申者にて候が、重代の所領を平家侍越中前司盛俊に被(二)押領(一)て、年来訴申候へ共、理訴を権威に被(レ)押、妻子を養ふ便なければ此山に住、鹿鳥を捕て世を渡り侍つる程に、懸る源平の御合戦と
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承れば、軍に交つて疵をも蒙り、命をも失たらば、子孫の安堵にも成候へかしとて、自然に伴たりと申。偖ば汝を深く山の案内者には憑、所領の安堵子細あらんとて、誡を免して、馬鞍兵具たびて被(二)召具(一)たりけり。問答鷲尾三郎が如し。平家亡て後、九郎判官加(二)判形(一)、安田庄の安堵を給と云云。 >
御曹司(有朋下P384)は、如何に鷲尾、山の案内はと問給ふ。此山をば鵯越とて極たる悪所、左右なく馬人通るべし共覚ず、上七八段は屏風を立たる様にて、白砂交の小石なれば、草木不(レ)生、馬の足留がたし、夫より下五六段は岩磯にて、人だにも難(レ)通と申す。さて此山には鹿は無か、彼悪所をば鹿は通らずやと問給ふ。鹿こそ多候へ、世間寒く成候へば、雪の浅りに■(くらは)んとて、丹波の鹿が一谷(いちのたに)へ渡り、日影暖に成ぬれば、草の滋みに臥さんとて、一谷(いちのたに)より丹波へ帰候也と申す。さて其下には落堀ひしなど植たりやと問ば、去事承らず、御景迹候へかし、馬も人も通べき所ならねば、争其用意侍べきと答。御曹司は是を聞給(たま)ひ、殿原さては心安(こころやす)し、やをれ鷲尾、鹿にも足四、馬にも足四、尾髪の有と無と、爪の破と円と計也。西国(さいこく)の馬は不(レ)知、東国の馬は鹿の通所は馬場ぞ、打や殿原とて、岩の鼻岸の額、馬の足を手綱に合て馳落し馳上、尻輪に乗懸前輪に平み、引居引詰、鞭と鐙と打合せ打乱し、狼の如くに翔り虎の如くに走て、北の山の下にぞ至りける。義経兵法其術を得て、軍将其器に足り、相従ふ者又孟賁の類樊■(はんくわい)の輩成ければ、連て同通にける。二月上の六日の事なれば、月は宵よりはや入ぬ。木陰山陰(やまかげ)暗して、夜も五更(ごかう)に及けれ共、鷲尾に被(レ)具て、敵の城(じやう)の後なる鵯越をぞ登ける。鷲尾東に指
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て申けるは、あれにほの見え候は(有朋下P385)河尻、大物浜、難波浦、昆陽野、打出浜、西宮(にしのみや)、葦屋里と申、南は淡路島、西は明石浦、汀(みぎは)に続て火の見しは平家の陣の篝火、此下社一谷(いちのたに)よ、東西の城戸の上、東岡をば平■(へいりう)とて、海路遥(はるか)に見渡して、眺望殊に面白ければ、望海楼をも構ぬべし、西の岡をば高松原とて、春の塩風身に入て、秋の嵐の音冷き所也とぞ申たる。軍兵を漫々たる海上に見渡し、渚々の篝の火、海士の篷屋の藻塩火やと、最興ありて思けるに、鷲尾角申つゞけたれば、御曹司は武き事がらも、優なる詞をも感じ給つゝ、皆紅に日出したる扇を以鷲尾にたび、是にて敵を招き高名仕れ、勲功は乞によるべしとぞ宣(のたまひ)ける。空も未ほの晩かりければ、暫爰(ここ)にて馬の足をぞ休めける。
< 異説には、扇を多賀菅六久利にたびて、安田庄の下司、不(レ)可(レ)有(二)子細(一)と宣(のたま)ひけり。>
大手の勢は、宵の程は昆陽野に陣を取たりけるが、三草山の手に向たる越前三位、能登守の陣の火を、湊河より打上て、北の岡に燃たりけるを、搦手已(すでに)城戸口に馳付給へりと心得(こころえ)て、打や/\とて、我先に/\と五万余騎(よき)、手毎に松明捧て急けり。所々に火を放ければ、汀(みぎは)につゞき海上に光て、身の毛竪て夥(おびたた)し。七日の暁は、源氏大手搦手挟みて東西の城戸口まで攻寄たり。(有朋下P386)
S3613 熊谷向(二)大手(一)事
〔去(さる)程(ほど)に〕六日の夜半計に、熊谷は子息の小次郎(こじらう)を近く招て私語(ささやき)けるは、明日の軍は磯を落んずれば、打こみの合戦にて、誰先陣と云事あらじ。又馬損じても由々しき大事、一方の一陣を懸て、鎌倉殿(かまくらどの)にも聞え奉、子孫のため名をも挙ばやと思也。宇治川(うぢがは)にても先陣を志行桁を渡しに、佐々木四郎、生■(いけずき)と云土竜
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に乗て渡しかば、直実二陣にさがりぬ、心憂かりしか共、身独が事ならねば自害するに及ばず、又向の岸より馬を遅越たりしかば、九郎御曹司と相共に院(ゐんの)御所(ごしよ)へも不(レ)参、旁本意を失ひき。去ば潜に此手をば出て、音に聞える播磨大道の渚(なぎさ)に下て、一谷(いちのたに)の城戸口へ先陣に寄ばやと思は如何が有べき、矢合は卯刻也、今は寅の始にもなるらんと覚ゆ、さもあらば急がんと云。小次郎(こじらう)は、直家も存処にて候、平山が山案内者たててひしめき候つるも音もせず、よに奇く覚候、其上此殿は郎等に先陣懸さする事おはしまさず、自一陣を懸給ふ時に、此殿に連たらん侍共の、先陣つとめて高名する事は難(レ)有覚候、疾々急給へと勧む。熊谷は子ながらも、あの年齢にはしたなく思もの哉と思。さらば小次郎(こじらう)同心ぞとて、搦手をば密に出て、渚々の篝火を(有朋下P387)験として大手へとて下りけるが、内々平山が陣を見せければ人なしと云。さればこそ平山も大手を志て一陣を蒐ると思にこそ、急々とて、旗指具して親子三騎、坂を下に歩せたり。熊谷は褐鎧直垂(よろひひたたれ)に、家の紋なれば、鳩に寓生をぞ縫たりける。黒糸威(くろいとをどし)の鎧に同毛の甲、大中黒の征矢に二所籐弓を持、紅の母衣懸て、権太栗毛に乗たりけり。此馬は、熊谷が中に権太と云舎人あり。李緒が流をも不(レ)習、伯楽が伝をも不(レ)聞けれ共、能馬に心得(こころえ)たる者成ければ、召向て、当時に源平の合戦あるべし、折節(をりふし)然べき馬なし、海をも渡し山をも越べき馬尋得させよと云て、上品の絹二百匹持せて奥へ下す。権太陸奥国一戸に下て、牧の内走廻て撰勝つて、四歳の小馬を買たりけり。長こそちと卑かりけれ共、太逞こたへ馬の、はたはりたる逸物也。
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さてこそ此馬をば権太栗毛とは呼けれ。
< 燕昭王は、五百両の金にて、駿馬の骨を買てこそ駿足後に至りけれ、熊谷直実は二百匹の絹を以て、栗毛の馬を商なひて、軍陣の先を懸にけり。 >
子息小次郎(こじらう)は、練貫に沢潟摺たる直垂に、ふし縄目の鎧著て、妻黒の征矢重籐の弓持て、是も紅の母衣懸て、白浪と云馬に乗たりけり。此馬は奥州(あうしう)姉葉と云所に、白波と云牧より出来たる上に、尾髪飽まで白ければ白浪と名けり。権太栗毛に上下論じたる逸物也。又西楼と云秘蔵の馬あり。後(有朋下P388)戸風と云舎人男に引せたり。権太栗毛いかなる事もあらん時はとて、乗替の料に引せたり。白き馬の太逞が、尾髪飽まで足れり。三戸立の馬也。余に秘蔵して、仮居の西に厩を立て、昼は人目を憚て、夜は引出し愛しければ、馬の白きを月に喩、西の厩を楼に喩へ、西楼とぞ号けたる。熊谷兼て舎人に云含けるは、乗たる栗毛は終夜(よもすがら)山坂馳たる馬なれば、明日の軍には西楼にのるべし、其意を得べき也、狩場に出て鹿を射に、先なる鹿をとほしぬれば、射手手迷して次々の鹿やすく通る、軍は重々城を構たれ共、一の城戸を破ぬれば、後陣の兵武く勇と、鎌倉殿(かまくらどの)被(レ)仰しかば、千万騎軍も籠れ、我は城戸口をば離るまじきぞ、西楼をば引儲よとぞ下知しける。旗差は、秋の野摺たる直垂に、洗革の鎧著て、鹿毛馬に黒鞍置て乗。主従三騎打連て、播磨大道の渚(なぎさ)と志て下けるに、小峠坂の人宿りに、人あまた音しけり。忍聞ければ平山と成田と也。此等も大手へ行にやと心得(こころえ)て、物具(もののぐ)裹み轡とらへ、峠の下七八段打
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下、深く忍て通けり。其後はいとゞうしろいぶせく覚て、鞭に鐙を合せければ、寅の終に一の城戸口へ馳付たり。くらさは暗し敵に未(二)出合(一)、御方に続く勢はなし、只三騎ぞ引へたる。夜半の嵐に誘れて、寄来波ぞ高かりける。木綿付鳥の音もせず、明行鐘の響もなし。やもめ烏のうかれ声、渚(なぎさ)の鵆音信(おとづれ)(有朋下P389)て、武き心の中までも、物哀にぞ覚しける。さても城の構ぞ夥(おびたた)しき。山の岸より海の遠浅まで大なる岩を取積て、岩の上に大木を切伏、其上の櫓を二重にかいて狭間を開たり。上には楯を並て兵共(つはものども)矢たばね解、弓張立て並居たり。下には岩の上に逆茂木を引懸て、郎等下部まで熊手薙鎌持て、あと云ばさと出べき体成けり。其後には鞍置馬二三十里に引立て其数を不(レ)知、其と云ばつと可(二)引出(一)様也。南の海の浅所には大船を傾て、其を便として櫓を隙なく掻、深所には儲(レ)舟、数万艘(すまんさう)うかべたり。蒼天に行を乱せる雁の如くなり。大形高所には弩を張柵を掻、卑所には堀ほりひしを植、屋形(やかた)屋形(やかた)の前には、此にも彼にも赤旌立並て、天に耀き地を照せり。鬼神と云共輙難(レ)落こそ見えたりけれ。(有朋下P390)