『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十八
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幾巻 第三十八
S3801 知盛遁(二)戦場(一)乗(レ)船事
〔去(さる)程(ほど)に〕新中納言知盛卿は、浜へ向て落給けるを、武蔵国司にて御座により、奉(二)見知(一)たりけるにや、児玉党団扇旗指て、三騎をめきて奉(二)追懸(一)。爰(ここ)に落給ふは大将軍とこそ見進せ候へ、如何にまさなく後をば見せ給ふぞとて、無下に近付寄ければ、中納言の侍に、監物太郎頼賢は究竟の弓の上手、能引放矢に、旗指頸の骨を射させて馬より落。二騎の者共■(しころ)を傾て打て懸る。中納言危く見え給ければ、御子武蔵守知章中に阻て、引組て落て、取て押て頸を掻、敵の童落重つて武蔵守をば討てけり。監物太郎頼賢、弓矢をばからと棄て落合童が首を取。頼賢は主の首と童が頸と取具して、馬にのらんとしけるが、膝の節を射させ、今は最後と思ければ、人手にかゝらじとて、腹掻切て死にけり。其紛に新中納言は、井上と云究竟の馬に乗給(たまひ)たりければ、海上三町(さんちやう)計游せて、船に乗移て助り給にけり、知章は忽獲(二)勇兵之首(一)、専顕(二)荘士之名(一)、遂救(二)父子死(一)、永亡(二)己之命(一)。船には馬立(有朋下P426)べき所なかりければ、舟のせがいより馬の頭を礒へ引向て、一鞭あてたれば馬は游返けり。阿波民部大夫成良が、あの御馬射殺給へ、敵の物に成なんと申けれ共、中納言は、敵の馬に成とても、如何我命を助たらん馬をば殺すべきとて、遺惜げにぞおはしける。馬は渚(なぎさ)に游上り、塩々とぬれて、年来の好みを慕ひつゝ、舟の方を見返り
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て三度嘶たりけるこそ蓄類なれ共哀なれ。此馬は中納言の武蔵国司にて座しける時、当国河越より進たりければ、名をば河越の黒とぞ申ける。余に秘蔵し給(たまひ)て、馬の為に月に一度太山府君の祭をぞせられける。其験にや馬の命も四十に成けり。我御身も今度被(レ)助給ぬ。九郎御曹司、此馬を院(ゐんの)御所(ごしよ)へ被(レ)進たりければ、聞ゆる名馬也とて、御厩にぞ立られける。
S3802 平家公達最後並頸共掛(二)一谷(いちのたに)(一)事
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛の子に若狭守経俊は、兵庫(ひやうご)の浦まで落延給たりけるを、那和太郎に組で討れ給ふ。同経盛末子に無官(むくわんの)大夫敦盛は、紺錦直垂に、萌黄匂の鎧に、白星の甲著て、滋籐弓に十八指たる護田鳥尾の矢、鴾毛の馬に乗給、只一騎(いつき)、新中納言の乗給ぬる舟を志て、一町計游せて、浮ぬ沈ぬ漂給ふ。武蔵国住人(ぢゆうにん)熊谷次郎直実は、哀よき敵に組ばやと、(有朋下P427)渚(なぎさ)に立て東西伺居たる処に、是を見付(みつけ)て馬を海にざぶと打入。大将軍とこそ奉(レ)見、まさなくも海へは入せ給ふ者哉、返給へや/\、角申は日本(につぽん)第一の剛者、熊谷次郎直実と云ければ、敦盛何とか思はれけん、馬の鼻を引返し、渚(なぎさ)へ向てぞ游せたる。馬の足立程に成ければ、弓矢をば抛捨て、太刀を抜額にあて、をめきて上給けるを、熊谷待受て上もたてず、水鞠さと蹴させつゝ、馬と/\を馳並て取組、浪打際にどうと落、上に成下になり、二度三度は転たりけれ共、大夫は幼若也、熊谷は古兵也ければ、遂に上に成、左右の膝を以て冑の袖をむずと押たれば、大夫少も働給はず。熊谷は腰の刀を抜出し、既(すで)に頸をかゝんとて内甲を見ければ、十五六計の若上掾A薄気壮に金黒也、にこと笑て見え給ふ。熊谷は穴無慙や、弓矢取身は何やらん、
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是程若く厳き上揩ノ、いづこに刀を立べきぞと心弱ぞ思ける。抑誰の御子にて渡らせ給ふぞと問ければ、只とく切とぞ宣(のたまひ)ける。奉(レ)斬て雑人の中に棄置進せんも無(レ)便侍り、うきふしも知ぬ東国の夷下揩ノ逢て、名乗まじと被(二)思召(一)(おぼしめさるる)か、それも理に侍れ共、存ずる旨有て申也と云。大夫思はれけるは、名乗たり共不(二)名乗(一)とも非(レ)可(レ)遁、但存ずる旨とは勲功の賞を申さん為にこそ有らめ、組も切るゝも先世の契、讐をば恩で報也、さあらば名乗んと思ひつゝ、存る旨の有なれば(有朋下P428)聞するぞ、是は故太政(だいじやう)入道(にふだう)の弟に、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛と云人の末の子、未無官(むくわん)なれば無官(むくわんの)大夫敦盛とて、生年十六に成也と宣(のたまひ)けり。熊谷涙をはら/\と流けり。穴心憂の御事や、さては小次郎(こじらう)と同年にや、実に左程ぞ御座らん、岩木をわけぬ心にも、子の悲みは類なし、況や是程わりなく厳き人を奉(レ)失て、父母も悶こがれ給はん事の哀さよ、中にも小次郎(こじらう)と同年に成給なる糸惜さよ、奉(レ)助ばや、又御心も猛人にて座しけり、日本(につぽん)第一の剛者と名乗に、落武者の身として、此年の若に返合給へるも、大将軍と覚たり。是は公軍也、穴惜や如何せんと思ひ煩て、暫し押へて案じけるに、前にも後にも組で落、思々に分捕しける間に、熊谷こそ一谷(いちのたに)にて現に組たりし敵を逃して、人にとられたりといはれん事、子孫に伝て弓矢の名を折べしと思返て申けるは、よにも助進せばやと存侍れ共、源氏陸に充満たり、迚も遁給べき御身ならず、御菩提をば直実能々訪奉べし、草の陰にて御覧ぜよ、踈略努々候まじとて、目を塞歯をくひあはせて涙を流し、其頸を掻落す。無慙と云も愚也。敦盛不(レ)恐(レ)死不(レ)降(レ)心、雖(レ)為(二)幼齢之人(一)、頗非(二)凡庸之
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類(一)けり。平家の人々は、今被(レ)討給までも情をば不(二)捨給(一)、此殿軍の陣にても、隙には吹んとおぼしけるにこそ、色なつかしき漢竹の笛を、香もむつましき錦の袋に入て、鎧の引合に指れたり。熊谷是(有朋下P429)を見奉り、糸惜や此程も城の中に、此暁も物の音の聞えつるは此人にて御座(おはしまし)けり。源氏の軍兵は東国より数万騎上たれ共、笛吹者は一人もなし、如何なれば平家の公達は、加様に優には御座らんとて、涙を流して立たりけり。彼笛と申は、父経盛笛の上手にて御座(おはしまし)けるが、砂金百両宋朝に被(レ)渡て、よき漢竹を一枝取寄、殊によき両節間を一よ取、天台座主(てんだいざす)前明雲(めいうん)僧正(そうじやう)に被(レ)仰て、秘密瑜伽(ゆが)壇に立て、七日加持して、秘蔵して被(レ)彫たりし笛也。子息達の中には、敦盛器量の仁なりとて、七歳の時より伝て持れたりけり。夜深る儘にさえければ、さえだと名付られける也。熊谷は笛と頸とを手に捧、子息の小次郎(こじらう)が許に行、是を見よ、修理(しゆりの)大夫殿(だいぶどの)の御子に無官(むくわんの)大夫敦盛とて、生年十六と名乗給(たま)ひつるを、奉(レ)助ばやと思けれ共、汝等(なんぢら)が弓矢の末を顧て、角憂目を見悲しさよ、縦直実世になき者と成たりとも、穴賢奉(二)後世吊(一)と云含、其よりして熊谷は弥発心の思出来つゝ、後は軍はせざりけり。
但馬守経正は大夫敦盛の兄也。赤地錦直垂に、鎧は態と不(レ)著けり。身を軽くして落給はん料にや、小具足計、長覆輪の太刀を帯、黄駱馬に乗、侍一人も具し給はず、大蔵谷へ向て落給ふ。是は武蔵国住〔人〕(ぢゆうにん)城四郎高家と云者也。此に落給は平家の公達と奉(レ)見、返合て組給や/\と申懸て追て行。経正きつと見返て、逃には非(有朋下P430)己を嫌也とて馬を早む。高家腹を立て、まさなき殿の詞哉、軍の習は不
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(レ)嫌(二)上下(一)、向ふ敵に組は法也、其義ならば虜にして恥を見せよ、打や者共/\とて、主従三騎鞭をあてて追て懸る。今は叶はじと思給ければ、馬より飛下、腹掻切て臥給にけり。高家落合、首を捕て見ればたぶさに物を結付たり。軍終て人に是を問ければ、梵字の光明(くわうみやう)真言也。其真言の奥に、縦朝敵と成て頸をば被(レ)渡とも、此真言をば必たぶさに可(レ)被(二)結付(一)とぞ被(レ)書たる。哀にぞ覚えける。首を被(レ)渡ける時聞えけるは、此経正は仁和寺(にんわじ)の守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)の年比の御弟子にて、都を落し時、彼宮に参て御暇を申けるに、宮哀と思召(おぼしめし)、御自筆にあそばして給たりける真言也。哀也とて結付たりける定にして、頸をば渡されける也。獄門の木に被(レ)懸て後、御室より被(レ)申て、骨をば高野に送られて、様々御追善有ける也。土沙加治の功徳、なほ無間の苦を免といへり、況即身に受持てらんに於をや。師資の契は多劫の因縁といへり、誠なるかな此事をや。
備中守師盛は、軍場をば遁出て、小舟に乗て渚(なぎさ)を漕せて、助船に移らんとおぼしける程に、武者一人高岸に立て云、あれは備中守殿の御舟と見進す、是は薩摩守殿の御内に、豊島九郎実治と申者にて侍り、助させ給へやと云て招ければ、只一人也、それ乗よと宣ふ。水手等、御船狭候、如何と申けれ共、只(有朋下P431)寄て乗せよと被(レ)仰ければ、漕寄たり。実治は大の男、而も鎧著ながら、高岸より力を添て飛乗。船ばたに飛懸て、船を踏傾けたるを、のり直さん/\としける程に、踏返て皆海に沈にけり。師盛は浮上たりけるを、伊勢三郎義盛、熊手に懸て引上、首を取てけり。
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< 異本には、大臣御乳人子(おんめのとご)に、清九郎馬允と名乗て舟を覆と云々。 >
一谷(いちのたに)にて被(二)討残(一)たる平家の人々、船にこみ乗波にゆられて、浮ぬ沈ぬ有か無かに漂ひけり。
新中納言、大臣殿に被(レ)申けるは、武蔵守にも後れぬ、頼賢も討れぬ、家長、有国などもよも生侍らじ、心細こそ候へ、只一人持たる子が、父を助んとて敵に組を見ながら、親の身にて子を育心なく落延たるこそ、命はよく惜者哉と、身ながらもうたてく覚候へ、人々の思召(おぼしめす)らんも恥敷こそとて、さめ/゛\と泣給ふ。大臣殿は、武蔵守は心も剛に手もきゝ、能大将軍にて座せし者を、穴惜やとて御子の右衛門督(うゑもんのかみ)を打見給、今年は同年にて十七ぞかしとて涙ぐみ給ければ、人々も皆袖をぞ絞ける。家長とは伊賀平内、左衛門有国とは武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもん)也。此等は新中納言の一二の者にて、命にも替、一所にて如何にもならんと契深かりければ、中納言も子息の武蔵守と同惜み給ける侍共也。
九郎義経は、一谷(いちのたに)に棹結渡て、宗人の首共取懸たり。千二百とぞ注したる。大将軍には、越前三位通盛〈 門脇子 〉蔵人(有朋下P432)大夫業盛、〈 同子 〉薩摩守忠度、〈 入道弟 〉武蔵守知章、〈 新中納言子 〉備中守師盛、〈 小松殿(こまつどの)子 〉若狭守経俊、但馬守経正、無官(むくわんの)大夫敦盛〈 已上三人は修理(しゆりの)大夫(だいぶ)子 〉、侍には越中前司盛俊、伊賀平内左衛門尉(へいないざゑもんのじよう)家長、武蔵三郎左衛門有国已下、京都辺士の輩、四国西国(さいこく)者共也。其外はさのみ名を注すに及ず。箭にあたり剣に触て巷に臥族、一谷(いちのたに)の城郭(じやうくわく)の内、東西の城戸辺、死人の多き事麻を散せるが如也。水に溺山に隠し者は幾千万と云事を知ず。主上女院二位殿(にゐどの)、
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内大臣(ないだいじん)、平大納言已下、并に人々の北方、御船に召てまのあたり是を被(二)御覧(一)。いかばかりの御事思召(おぼしめし)けんと、被(二)推量(一)哀也。翠帳紅閨万事の礼法引替て、船中波の上一生の悲、喩ん方こそ無りけれ。親は波の上に漂、子は陸の砂に倒、妻は船の中に焦(こがれ)て、夫は渚(なぎさ)の側に亡ぬ。友を忘主を忘ても、片時の命を惜み、兄を奇て弟を奇も、しばしの身をぞ畜たる。小水の魚の淡に■(きつく)が如く、客舎の羊の屠所に歩むに似たり。いつまで命を生んとて、各身をぞ惜ける。被(二)討漏(一)たる人々は、水手梶取、八重の塩路に棹指て、波にぞゆられ給ける。或は生田沖を漕過て、雀の松原、混陽の松、南宮の沖を沖懸に、紀伊の地へ移る船もあり、或芦屋の沖に懸て、九国へと急船もあり、鳴門沖を漕過て、屋島へ渡る船もあり、明石浦の浪間より、淡路の狭迫を漕過て、島隠れ行船もあり、未一谷(いちのたに)の沖に漂(有朋下P433)て、波にゆらるゝ舟もあり、霜枯の小竹が上の青翠、紫野に染返し、細谷川の水の色、薄紅にて流たり。汀(みぎは)の波湊の水、錦を濯ふに似たりけり。
S3803 熊谷送(二)敦盛頸(一)並返状事
熊谷次郎直実は、敦盛の頸をば取たれ共、嬉敷事をば忘て、只悲みの涙を流し、鎧の袖を濡けり。倩事の有様(ありさま)を案ずるに、愚なる禽獣鳥類までも、子を思ふ道は志深し。焔の中に身を亡し、矢さきに当て命を失ふ事も、子を思情に有、人倫争憐まざらん。弓矢取身とて、なにやらん子孫の後を思つゝ、他人の命を奪らん、蜻蛉の有か無かの身を以て、何思べき世の末を、是程に若く厳き上揩失歎給ふらん、父母の心中こそ糸惜けれ。縦勲功之賞には不(レ)預共、此首遺物返送、今一度替れる貌をも奉(レ)見ばやと思ひければ、実検(じつけん)にも合せ、懸頸にもしたりけれ共、大将軍に申請て、馬、鞍、冑、甲、
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弓矢、漢竹の笛、一も取落さず、一紙の消息(せうそく)状に相具して、敦盛の首をば、父修理(しゆりの)大夫(だいぶ)へぞ送りける。其状に云、
直実謹言上、不慮奉(レ)参(二)会此君(一)之間、挿(下)呉王得(二)匂践(一)、秦皇遇(二)燕丹(一)之嘉直(上)欲(レ)決(二)(有朋下P434)勝負(一)之刻、依(レ)拝(二)容儀(一)、俄忘(二)怨敵之思(一)、忽抛(二)武威之勇(一)、剰加(二)守護(一)、奉(二)供奉(一)之処、大勢襲来之間、始雖(下)辞(二)源氏(一)参(中)平家(上)彼多勢也、此無勢也、樊■(はんくわい)之威還縮、養由(やういう)之芸速約、爰直実適禀(二)生於弓馬家(一)、幸眩(二)武勇於日域(一)、廻(レ)謀落(レ)城、靡(レ)旗、虐(レ)敵、雖(二)天下無双之得(一)(レ)名、如(下)蟷螂(たうらう)合(レ)力而覆(レ)車、螻蟻一(レ)心而穿(上)(レ)岸、憖挽(レ)弓放(レ)箭、空被(レ)奪(二)愚命於同軍之戟塵(一)、覃(二)于憂名於傍輩之後代(一)、自他背(レ)身之本望、非(二)家之面目(一)、然間奉(レ)仰(二)此君御素意(一)之処、早賜(二)御命(一)、可(レ)訪(二)菩提(一)之由、依(レ)被(二)仰下(一)、乍抑(二)落涙(一)、不(レ)謀而賜(二)御頸(一)畢、恨哉此君与(二)直実(一)奉(レ)結(二)縁於悪世(一)、悲哉宿運久萌至(レ)今、成(二)怨酬之害(一)、雖(レ)然翻(二)此逆縁(一)者、争互截(二)生死之糾(一)、不(レ)成(二)一蓮之実(一)哉、然則偏卜(二)閑居之地形(一)、懇可(レ)奉(レ)祈(二)御菩提(一)、直実所(レ)申、真偽定後聞無(二)其隠(一)候歟、以(二)此趣(一)、可(レ)有(レ)洩(二)御披露(一)候、恐惶謹言。
二月十三日 直実状
進上 平左衛門尉殿(さゑもんのじようどの)として書たりける。
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛は、此頸遺物を送得て、夢か現か分兼て、物も覚えず泣給ふ。公達あまた御座(おはしまし)けれ共、
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此殿は末の子にて、殊に憐給つゝ、前にて生立て、み(有朋下P435)めも心も世に有難人にて、分方なく思はれしに、軍場に出て其後、敵にや取られけん深海にや沈けん、遁て徐にや有らんと、其行末を知給はねば、忍の涙を拭て、神に祈仏に誓て、存命せるか死せるか知ばやと被(レ)思けるに、今は不審は晴れたれ共、見ては歎ぞ増りける。生しき首を膝の上に舁載て、如何にや/\敦盛よ、懸貌をみする事こそ悲けれとて、流るゝ涙は雨の如し。前に候ける女房も兵も、只夢の如くに思つゝ、袖をのみこそ絞けれ。使の侍も心元なしとて、泣々(なくなく)返事せられけり。其状に云、
敦盛并遺物等給候畢、此事自(下)出(二)花洛之古郷(一)、漂(中)西海之波上(上)以降、兼所(レ)存也、今非(レ)可(レ)驚、故望(二)戦場之上(一)者、何有(二)再帰之思(一)哉、盛者必衰者、無常之理也、老少前後者、穢土之習也、然而為(レ)親為(レ)子、先世之契不(レ)浅、釈尊愛(二)羅■(らご)之存(一)、楽天悲(二)一子之別(一)、応身権化猶以如(レ)此、況凡夫争不(レ)歎哉、而去七日、自(下)討(二)立于戦場(一)之朝(上)迄(二)于後旅船之暮(一)、其面影未(レ)放(レ)身、来燕之声幽、帰雁之翅空、死生無(二)告者(一)、而迷(二)行方存亡(一)聞(二)音信(おとづれ)(一)、而知(二)由緒(一)、仰(レ)天伏(レ)地訴(レ)之、砕(レ)心焦(レ)肝祈(レ)之、偏仰(二)神明之納受(なふじゆ)(一)、併待(二)仏陀之感応(一)之処、於(二)七日之内(一)今見(二)此之貌(一)、仏神之効験有(レ)誠而不(レ)虚、内哀傷徹(レ)骨、外感涙洒(レ)袖、生而不(レ)劣(二)再来(一)、蘇而相(二)同重見(一)、抑非(二)貴辺芳恩(一)者、争今得(二)相見(一)哉、一門(有朋下P436)風塵猶捨退、況於(二)軍徒怨敵人(一)乎、訪(二)和漢両国之儀(一)、顧(二)古今数代之法(一)、未(レ)聞(二)其例(一)、此恩深厚須弥頗下、蒼海還浅、進酬自過去遠々、退難(レ)報
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未来永々者歟、万端雖(レ)多難(レ)尽(二)筆紙(一)、謹言。
二月十四日 左衛門尉(さゑもんのじよう)平公朝
熊谷次郎殿 御返事(おんへんじ)とぞ被(レ)書たる。
直実は此返事を給(たまひ)て、いとゞ涙を流しつゝ、為方なくぞ思ける。穢土の習を悲みて、遁ばやと思けるが、西国(さいこく)の軍鎮て、黒谷法然房に参つゝ、髻を切蓮生と名を付て、終に世をこそ背けれ。
S3804 小宰相局付慎夫人事
偖も今度討れ給へる人々の北方、皆髪を下して姿を替、流るゝ涙に袖朽て、身を墨染に窄しつゝ、念仏申て後世弔合れけるこそ哀なれ。其中に本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)の北方も、既(すで)に御髪下さんとし給けるを、内御乳母(おんめのと)也、いかゞは猿御事侍べきと、大臣殿強ちに被(二)制申(一)ければ、力及ずして尼には成給はざりけり。越前三位通盛は、大臣殿の御聟にておは(有朋下P437)しけれ共、女房未少く御座(おはしまし)ければ、近付き給事はなし。小宰相の局と申女房をぞ相具し給たりける。彼局と申は、故(こ)刑部卿(ぎやうぶきやう)憲方の娘、上西門院の女房也。心に情深く、形人に勝給たりと聞えしかば、心を懸ぬ人はなし。上西門院四方の花を御覧の為に、北野御幸有けるに、小宰相局をも召具せさせ給へり。越前三位の左衛門佐にて座しけるをも御伴にさゝれて参けり。万里を飛し梅の花、一夜に生る松枝、現神人の効験も、今更貴く思召(おぼしめし)、漸社壇も近付ば、大内山の霞は木隠てのみ見渡る。女院御車より下させ給へば、小宰相局も下給けり。通盛風見給(たまひ)て、宿所に帰て忘れんとすれ共忘ず、如何せんとぞ思はれける。又萌出る春の草、主なき宿の埋火は、下にのみこそ
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焦れけれ。乳母(めのと)の女房を招て、いかゞはせんと此物語(ものがたり)ありければ、不(二)思寄(一)御事也、当時女院の御方に候はせ給(たまひ)て、片時も御前を立離させ給はぬものをと申ければ、一筆の文までも叶まじき歟と問給へば、それは何か苦く侍るべきと申。さらばとて御文あり。
吹送風のたよりに見てしより雲間月に物思ふかな K194
と書て奉る。小宰相は人や見つらん浅増(あさまし)や、不(二)思懸(一)とて返事なし。此を便として三年が程、書尽ぬ水茎の数積れ共、終に返事なかりけり。通盛御所の舎人を語ひて、御文を(有朋下P438)書て、是を持て小宰相局に奉て、散ぬ所に打置とて給(たまひ)てけり。舎人御文を給(たまひ)て隙を伺けるに、局女院(によゐんの)御所(ごしよ)へ参給けり。折節(をりふし)御所近成て、車の物見より投入て、使ははや失にけり。小宰相局、車の内にて忍騒給。是は如何なる人の伝へぞやと宣へ共、御伴の者も知ずと申ければ、大路に捨んも流石(さすが)也、車に置んもつゝましく思煩、いかにすべき様もなくて、袴の腰に挟みて御前へ参らせ給ぬ。隙なき御遊(ぎよいう)に打紛て御座(おはしまし)ける程に、女院の御前にしも此文を落給にけり。女院御衣の御袂(おんたもと)に引隠させ御座(おはしま)して、御遊(ぎよいう)の後、女房達(にようばうたち)の中にて懸文を求めたり、主誰ならんと仰ければ、我も/\不(レ)知と申させ給けるに、小宰相局ゆゝしく浅増気なる有様(ありさま)にて、あきれてぞ見え給ふ。女院此文を取出させ給へば、妓炉の煙に薫つゝ、香もなつかしき匂あり。手跡もなべてならず厳く、筆の立所もめづらかなり。
わがこひは細谷川の丸木橋ふみ返されてぬるゝ袖かな K195
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踏かへす谷のうき橋浮世ぞと思しよりもぬるゝ袖かな K196
難面御心も、今は中々嬉くてなんと書たり。是は逢ぬを恨たる文也。何と思なるべき人やらん、左衛門佐の申とは聞召しかども、細かには不(二)知召(一)、あまりに人の心づよきも讐(有朋下P439)となる者をや。此世にはまのあたり青鬼と成て、身を徒になし、又後世の障ともなる。今の世には又独行道にしも合て、情なき事を宛共申伝侍、人をも身をも鬼になして何にかせん、懸念無量劫とかやも罪深し、中比小野小町と云けるは、容顔人に勝、情の色も深かりければ、見人も聞人も、肝を働かし心を傷しめぬはなかりけり。去共其道には心づよき名を取たりけるにや、人の思の積つゝ、はては風を禦便もなく、雨を漏さぬわざもなし。空に陰らぬ月星を涙にやどし、人の惜む物を強て乞ひ、野辺の若菜摘て命を継げるには、青鬼こそ床をば並べける。一夜契何か左程苦しかるべきとて、女院御自御硯引寄せ御座(おはしまし)て、
たゞ憑め細谷川の丸木橋ふみ返(かへし)ては落る習(ならひ)ぞ K197
谷水の下に流(ながれ)て丸木橋ふみ見て後ぞ悔しかりける K198
と遊して、女院御媒にて渡らせ給へば、力及ばで終に靡き給(たま)ひにけり。仙宮玉妃、天地を兼て契りけん深き志も床敷て、雲上の御遊(ぎよいう)にも、今はすゝましからぬ程のなからひ也。角て馴初給(たまひ)て日比(ひごろ)へけるに、通盛或女房に心を移してかれ/゛\に成ければ、小宰相局角ぞ怨やり給(たま)ひける。(有朋下P440)
呉竹の本は逢夜も近かりき末こそ節は遠ざかりけれ K199
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本より悪からざりける中なれば、通盛此文にめで給、互に志浅からずして、年比にもなり給(たま)ひければ、是までも具し下り給(たま)ひけり。
< 昔漢文帝、上林園に御幸あり。慎夫人といへる女御座を並て御座、爰■(ゑんあう)と云臣下、夫人の座を退く。帝御気色(おんきしよく)かはり、夫人嗔れる色あり。爰■(ゑんあう)畏つて申。公に后御座、又妾御座、妾は座を不(レ)並とも、后は席を一にす。夫人は妾にして后に非ず、何ぞ公と床を一にせん。昔の人■(じんし)がためしを思知給へと云ければ、夫人此言を悟得て、爰■(ゑんあう)が賢心を歎給、金五十斤を給といへり、迎たるを云(レ)妻、走れるを云(レ)妾本文あり。>
越前三位通盛も、此事を思知給けるにや、大臣殿の御娘は妻室也。夫婦契におはしければ、小宰相局は仮初の眤也、妾にてぞ御座(おはしま)しける。一つ御船には住給はで、別の舟に宿し置奉、三年の程波の上に漂、時々事を問給へり。中々情ぞ深かりける。軍より先に三草山の仮屋へ奉(レ)呼給けり。旅寝の空の草枕を、今こそ最後と知給へ。三位の侍に宮太滝口時員と云者あり。一谷(いちのたに)の合戦に被(二)討漏(一)たりけるが、船の中に参て申けるは、三位殿(さんみどの)は湊川下にて、近江国住人(ぢゆうにん)、佐々木の一党木村源三成綱と云者が手にかゝりて討れさせ給(たま)ひぬと泣々(なくなく)語申ければ、北方は露物も仰られず、兼て思はぬ外の事(有朋下P441)の様に引かづき臥給(たまひ)て後は、枕も床も浮ぬ計ぞ泣給ふ。今度討れ給へる人々の北方、いづれも歎悲み給へる有様(ありさま)、疎也共見えざりけれ共、是は理にも過給へり。乳母子(めのとご)成ける女房の只一人奉(レ)付たりけるも、同枕に臥沈たりけるが、涙を押へて申けるは、今は如何に思召(おぼしめす)共甲斐あるまじ、御身身
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とならせ給(たまひ)て後、御さまをも替、後世をも弔進せさせ給へ、懸浮世の習なれば、始て驚思召(おぼしめす)べからず、御身一の事也共如何はせん、人々の北の御方も皆角こそなど慰め申けれ共、只泣より外の事なし。返事をだにもし給はず。一定討れぬとは聞給けれ共、若や生て帰ると待給けるに、日数経て四五日にも成ぬ。一谷(いちのたに)は七日に落されたりけるに、十三日までぞ臥沈給へる。明日十四日に屋島の磯へ付べしと聞えける其夜、人定て乳母子(めのとご)の女房に宣(のたまひ)けるは、三位は討れたりと人毎(ひとごと)に云つれ共、余(よ)の人々もかなたこなたに落散給ぬと聞ば、さもや有らんと思て誠とも思はざりつるが、此暁よりはげにもさも有らんと思定めたる也、其故は、明日打出んとての夜は、終夜(よもすがら)いつよりも心細き事どもを云継て涙を流つゝ、如何にも我は明日の軍に討れんずると覚ゆるぞ、去ば後にいかなる有様(ありさま)にてか、世にもおはせんずらんと思こそ心苦しけれ。世の習なれば、さてはよもおはせじな、如何なる人にか見え給はんずらん、そも心憂など云し(有朋下P442)かば、いかに角は宣ふやらんと、心騒して覚えしかども、必しも懸べしとは思はざりしに、げに限にて有ける事の悲さよ、生て物を思ふも苦ければ、水の底にも入なんと思ふ也、是まで付下りて、一人残り居て思はん事こそ糸惜けれ、故郷に待聞て歎給はんも罪深けれども、此世に存へて有ならば、心の外の事も有ぞかし、なき人の魂、草の陰にて見んもうたてかるべし、如何なる男なれば、蓬が杣にも後じとは契りけるぞ、如何なる女なれば、難面く残居て歎くべきぞ、たゞならず成たる事を、其夜始て知せたりしかば、不(レ)斜(なのめならず)悦て、我三十に成ぬれ共、未子のなかり
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つるに、始て見ん事は嬉けれども、角いつとなき船の中、波の上の住居なれば、身々とならん時も通盛いかゞはせんずると、只今(ただいま)あらんずる事の様に歎しぞや、はかりなかりける兼言哉、中々何しに知せけんとて、涙も関敢ず泣給ければ、乳母子(めのとご)の女房思けるは、日比(ひごろ)は泣給より外の事なくて、墓墓敷物も宣はざりつるに、角細やかに、来方行末の事まで口説給こそ怪けれ、げにも千尋の底までも思入給はんずるやらんと、胸打騒申けるは、水の底に入らせ給たりとても、恋しき人を非(レ)可(レ)奉(レ)見、今は云に甲斐なき御事也、其よりは只平かに身々とならせ給(たまひ)て後、をさなき人をも奉(二)生立(一)、御形見共御覧じ、又故郷に御座(おはしま)す人々にも奉(レ)見御座(おはしま)し候べし、御(有朋下P443)身をなき者になし給(たまひ)ては、何の詮かは侍るべき、我身も故郷に老たる親をも棄て、是まで下侍し事は、いかならん野末山の奥までも奉(レ)離らじとこそ思ひしか、されば無人の御事は、今は力なき御事にて侍り、童も知ぬ旅の空、習ぬ船の中に住居して、夜昼心を砕、憂目を見候事も、御故にこそ堪へ忍ても過し侍、志を忘させ給(たまひ)て、誰を憑何に慰とて左様の事思召(おぼしめし)立らん悲さよ、責ては御貌を替させ給(たまひ)て、墨染の袖に身を窄し、苔むす庵に籠居て、閼伽を結花を採、御菩提をこそ訪御座(おはしま)すべきに、悲の余りに海に入せ給(たま)ひたらんは、中々罪深御事にてこそ候はめなど、細々に慰制しける程に、夜も漸更にければ、乳母子(めのとご)の女房もまどろみて、船の中もはや定たりけるに、小宰相局忍びて船耳に立出給つゝ、念仏百返ばかり申て後、南無(なむ)西方極楽世界、大慈大悲阿弥陀如来(あみだによらい)、本願■(あやまり)給はず、別にし三位通盛と、一仏浄土(じやうど)の蓮葉
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に導給へと、忍音に祈つゝ、漫々たる海上なれば、いづくを西とはわかね共、月の入さの山の端を、そなたと計伏拝、海へぞ飛入給ける。三位は此女房の十五と申けるより見初給(たまひ)て、今年は十九に成給ふ。束の間も難(レ)離思はれけれ共、大臣殿の御聟にて御座(おはしまし)ければ、其方様の人には知せじとて、官兵共の船に奉(二)宿置(一)て、時々見参せられけり。屋島へ漕返夜半計の事なれば、船人も皆より臥たり(有朋下P444)挿絵(有朋下P445)挿絵(有朋下P446)けるに、梶取共は是を見て、こは如何に、女房の海へ入給ぬるぞやと■(ののしり)ければ、乳母子(めのとご)の女房打驚き心迷して、傍を探るに人もなし。穴心憂やあれや/\と叫ければ、各海に飛入て、取上奉らんとしけれ共、折しも月さへ朧にて、阿波の鳴戸癖なれば、満塩引塩諍て、潜共々々見えざりけり。相構て取上たりければ、此世にもはや無人に成給にけり。白袴に練貫の二衣引纏て、髪より始てしをれつゝ、僅(わづか)に息ばかり通給けれども、目に見開給はず、寝入たる様にぞ座しける。乳母子(めのとご)の女房をめき叫て近づくより、手を取組て、如何に角心憂き目をば見せ給ふぞや、多人の中に相具せんと候しかば、老たる親にも別れ少子をも振捨て、是まで付進らせて下りたる志をも思召(おぼしめし)忘させ給、我身一人を残置、角成給ぬる事の口惜さよ、水の底へも引具してこそ入給はめ、片時離れ奉らんとも思ざりつる者をや、長き世の恨如何にせよとて、責ては今一度物被(レ)仰て聞させ給へ、さしも終夜(よもすがら)此事をこそ申侍しに、まどろむを待給ける悲さよとて、手に手を取、顔に顔を並て口説けれども、一言の返事もし給はず。舟の中の上下是を見て、皆涙をぞ流しける。夜も既(すで)に明なんとして、程も経にければ可(レ)叶も見えず。たま/\通ける息
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も止て、事切果にけり。さてしも有べきに非とて、三位の著背の残たりけるに、浮もぞ上るとて押巻、又(有朋下P447)海へ入奉、乳母子(めのとご)の女房も後れじと連て海へ入けるを、人々取留たりければ、船の中に臥倒をめき叫けり。理に過て無慙也。余りの悲さに自髪をはさみ下したりければ、中納言律師忠快、尼になし戒を授給ふ。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)も、憑給へる嫡子越前三位と、最愛の乙子蔵人大夫業盛とて今年十七に成り給へりし二人の御子達(おんこたち)を討れつゝ、旁歎深かりけるに、三位の形見とて、此小宰相局をこそ見奉らんとおぼしけるに、角成給ぬる哀さよ。兎にも角にも涙関敢給はず、心の中只可(二)推量(一)。薩摩守忠度、但馬守経正、此人々の北方も座し合れけれ共、涙に沈ながらさてこそおはしけれ。昔も今も夫に後れて、様などかゆるは尋常の習也。忽(たちまち)に身を投る事はためし少なくぞ有らん。昔天竺の金地国の后は、王の遺を惜て、王と一所に生れんとて、葬火の中に飛入て亡にけり。今日本(につぽん)の通盛の北方は、三位の別を悲て、海に沈みて消にけり。火に飛入水に入る志、とり/゛\にこそ哀なれ。権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛は、此有様(ありさま)を見給(たまひ)て打涙ぐみ、賢ぞ此人共を心づよく留置てける。我も具したりせば、懸事にこそあらんずらめと宣(のたまひ)けるこそ糸惜けれ。
S3805 平家首掛(二)獄門(一)付維盛北方被(レ)見(レ)頸事(有朋下P448)
源氏は、七日卯時に一谷(いちのたに)の矢合して、巳時に平家を追落し、二千(にせん)余人(よにん)が首共切懸。其内宗徒の人々十人が首取持せて、同(おなじき)十日上洛と披露あり。平家のゆかりの人々、さすが多く京に残留たりければ、是を聞、誰々なるらんと肝心を消す。其中に権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)の北方は、遍照寺の奥、小倉山の麓、大覚寺と
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云所に忍て住給けるも、隙なき襟にてぞおはしける。風の吹日は、今日もや此人の舟に乗給ふらんと肝を消し、軍と聞ゆる折節(をりふし)は、今日や此人の討れ給ぬらんと閑心なく思しけるに、首共の多上るなれば、此中にはよもはづれ給はじと思はれけるこそ糸惜けれ。三位中将(さんみのちゆうじやう)と云ふ人の、虜にせられて上と聞えければ、少き者共の恋しさも難(レ)忍、いかにして此世にて今一度相見んずると返々云しかば、都に有ならば、若見る事もやなど思て、此人の生ながら取れて上たるやらん、縦見々えん事は嬉しけれ共、京鎌倉恥をさらさん事は、其身の為心憂かるべしなど口説つゞけ給(たまひ)て、伏沈てぞ座しける。さても三位中将(さんみのちゆうじやう)とは、重衡卿(しげひらのきやう)の事也と聞て後も、今度はづれ給たりとも、終には如何聞えんずらんと、慰む心もなきぞよとて袖を絞給ふこそ責ての事と哀なれ。
同七日夜半に、西海の追討使源九郎義経、飛脚を奉て申けるは、逆徒自(二)去五日(一)摂津国(つのくに)一谷(いちのたに)に、上には構(二)城郭(じやうくわく)(一)軍陣を張、下には砂浜を掘て逆木を立、大将軍前内大臣(ないだいじん)(有朋下P449)已下は、兵船に乗て浮(二)海上(一)、其(その)勢(せい)十万余騎(よき)也。南浜の繋手は範頼、北の山の搦手は義経、今日辰刻に両方より繋(二)襲賊徒之軍(一)、忽(たちまち)に敗れ、平三位通盛卿、前但馬守経正、前薩摩守忠度、前若狭守経俊、前備前守国盛、前備中守師盛、前武蔵守知章、散位業盛、敦盛、郎従、前越中守盛俊等、討捕畢。此外斬(レ)首者三百八十人、前左三位中将(さんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)は、甲冑を脱棄て上の山へ遁入といへ共、延やらずして、即虜れ畢。前内大臣(ないだいじん)、前平中納言教盛已下は、乗(レ)船逃去畢とぞ申たりける。
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十三日に大夫判官(たいふはんぐわん)仲頼、六条河原にて、九郎義経の手より平氏の首共請取て、東洞院(ひがしのとうゐん)の大路を北へ渡して、左の獄門の樗木に懸らる。通盛、忠度、知章、経俊、師盛、経正、業盛、〈 已上大将軍 〉盛俊、家貞(いへさだ)、〈 侍 〉此人々の頸也。抑此頸ども、大路を渡し獄門に可(レ)被(レ)懸之由、範頼、義経、兄弟両人奏し申ければ、法皇思召(おぼしめし)煩はせ給(たまひ)て、蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)を御使にて、太政大臣(だいじやうだいじん)、左右大臣、内大臣(ないだいじん)、堀川(ほりかはの)大納言(だいなごん)に有(二)御尋(おんたづね)(一)、五人公卿一同に被(レ)申けるは、此輩は先帝の御時、戚里の臣として久朝家に奉(レ)仕、就(レ)中(なかんづく)卿相(けいしやう)の首、大路を渡し獄門に掛らるゝ事、未其例なし。範頼義経が申状、強に不(レ)可(レ)有(二)御許容(一)と被(レ)申ければ、渡さるまじきにて有けるを、九郎義経重て奏し申けるは、父義朝(よしとも)は、保元の逆乱に御方に参て、凶徒(きようと)を退け雖(レ)抽(二)合戦之忠(一)平治(有朋下P450)に悪衛門督信頼卿(のぶよりのきやう)の語により、不(レ)意蒙(二)勅勘(一)間、其頸大路を渡されて、曝(二)骸於獄門(一)、彼を以案(レ)之、平家昨日までは朝家之重臣として雖(レ)列(二)卿相(けいしやう)(一)、今日は国家之逆臣として已(すでに)蒙(二)勅勘(一)。就(レ)中(なかんづく)軽(レ)命捨(レ)身合戦を仕事、且は奉(レ)重(二)朝威(一)、且は為(レ)雪(二)父之恥(一)也。舎兄鎌倉頼朝(よりとも)深此旨を存ず、而を且取得処の平家之首、任(二)申請(一)大路を渡れずば、向後何の勇有てか朝敵を可(二)誅戮(一)と殊に憤申ければ、力及せ給はで、終に大路を渡し獄門に懸られけり。昔は列(二)北闕之群臣(ぐんしん)(一)足雲上之台を踏しか共、今は成(二)西海之凶賊(一)、首を獄門之枝に懸られたり。京中の貴賤多く是を見。老たるも若も、涙を流し袖を不(レ)絞と云事なし。権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)の北方は、此事伝聞給(たまひ)て、彼首の内には我人よも遁給はじとおぼしければ、斎藤五、斎藤六
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を召て、己れ等は無官(むくわん)の者とて、出仕の伴をもせざりしかば痛く人に知れず、此二三年の程入籠て色も白くなり、老替りたる様なれば、知たる者も今は見忘たるらんと覚ゆるぞ、渡さるゝ頸の中に、此人やましますらん、見て参れと被(レ)仰ければ、兄弟様を窄し姿を替て、大路に出て是を見るに、維盛の御頸はなかりけれ共、一門の人々の首共なれば目もあてられず、哀に悲く覚えて、つゝむ袂(たもと)の下より余て涙ぞこぼれける。片辺の者ども怪げに見ければ、流石(さすが)空恐しく覚えつゝ、急大覚寺に帰て申け(有朋下P451)るは、小松殿(こまつどの)の公達には、備中守殿の御頸ばかりぞ御座(ござ)候つる。其外は誰々と語申ければ、北方は、心憂や人の上共覚えずとて泣給(たま)ひけるぞ誠にと覚えて糸惜き。斎藤五が申けるは、見物の者の中に、雑色かとおぼしきが、由々しく案内知りたりげに候つるが、四五人立て互に物語(ものがたり)申侍りつるは、小松殿(こまつどの)の公達は、今度は三草山の大将軍にて、新三位中将殿(しんざんみのちゆうじやうどの)、小将殿、備中殿、三所向せ給たりけるが、陣を破られて、二所は御船に召て讃岐の地へ著給にけりと聞るに、此備中殿は、いかにして兄弟の御中を離て、討れ給けるやらんと申つるに、偖三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)はいかにと尋進せ候つれば、其殿は御所労にて今度は打立給はず、船に乗給(たまひ)て淡路へ渡らせ給けるぞと、語り候つると申ければ、北方穴痛しや、故郷に残留給へる身々の事の悲さに、思歎の積つゝ、病と成にけるにこそ、世にも又心強き人かな、所労大事ならば、角こそ有て軍にもあはず淡路へ渡ぬると、などや音信(おとづれ)給はざるらん、人は加様に心強きにこそとて、又雨々と泣給へば、げに理と覚えつゝ、よその袂(たもと)も絞にけり。さても都を出
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給しより後は、我身の侘しき事をば一言も宣はず、少き者共はわぶるか、終には一所にてこそすまんずれとのみ時々音信(おとづ)れ給ふ計也。それも憑もしくも覚えず、皆人も具すればこそ野の末山の奥にも、一所にあらば互に悲しき事(有朋下P452)をも慰べきに、所々に住ばこそ折に触て角のみ心をも砕き又人も労り給ふらめ、いかゞして人を下して、何事の御労ぞと慥の事をも聞べきと、怨み口説給(たま)ひければ、六代殿〔仰けるは、〕などやをれ斎藤五、其程に細々と物語(ものがたり)する程の者に、何の御労ぞとは問はざりけるぞ、穴不覚の者やと宣(のたま)ひければ、斎藤五は未少御心に、是まで思召(おぼしめし)寄ける事よと、いとゞ涙を催しけり。三位中将(さんみのちゆうじやう)も通心の中なれば、被(レ)渡頸の中に我首なくば、水の底にも入にけるやらんと、如何に■(おぼつか)なく思らんとて、疎ならぬ者を使にぞ被(レ)上ける。今日までは露の命も消やらでこそ侍れ。打棄て下りし後は、いかにして世にも立廻給らんと心苦し。少き者共の方に何事かなど細やかに書給へり。心の中に思立給こと有ければ、是を限とおぼしけるに、涙にくれて書もやり給はず。若君姫君の御許へも御文あり。旅の空に憂事もやとて留置たりしか共、中々心苦ければ、必迎取互に相見んずる也、若又世になき者と聞なし給はば、是を形見にも御覧ぜよと書給たれ共、是が最後の筆のすさみ共争か思召(おぼしめす)べき。只いつか無人と聞なさんずらんと、兼ておぼすぞ悲しき。
S3806 重衡京入並定長(さだなが)問答事(有朋下P453)
本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)は、庄三郎家長に虜れて、再都へ帰上給ふ。掛らるゝ頸共も去事なれ共、生ながら故郷に恥を曝し給こそ無慙なれ。六条を東へ渡れけり。貴賤男女市の如くに集り是を見る。口々に
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申けるは、あまたの殿原の中に、入道殿(にふだうどの)にも、二位殿(にゐどの)にも、覚えの御子にて御座(おはしまし)しかば、一家の人々も重ずる事に思給たりき、院内へ参り給しかば、老たるも若も所を置、■(もてな)し奉らせ給き、時々は口をかしき事なんどをも云置て、人に忍ばれ給し者を、如何なる罪の酬にて、角は成給(たま)ひぬるやらんといへば、或人の申けるは、争可(レ)不(レ)報、親り南都東大寺(とうだいじ)より始て、仏像経巻焼亡しゝ報なれば、懸る憂目を見給にや。去共哀、事に触て人に情を懸、万に甲斐々々敷はなやかなりし人々ぞかし。親のいとほしみも去事にて、よその人迄も憑しき事に思申しゝぞかしなんど、上下口々に憐けり。院宮の女房達(にようばうたち)の中にも、馴近付給たる人々も多く御座(おはしまし)ければ、是を聞見ては、只夢の心地してぞおぼしあはれける。十四日蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)、依(二)法皇之仰(一)故中御門中納言家成卿の八条堀川(ほりかはの)御堂にて、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)を可(レ)被(二)召問(一)とて、土肥次郎実平同車(どうしや)して来給へり。重衡卿(しげひらのきやう)は、紺村紺の直垂に練貫の二小袖を著られたり。折烏帽子(をりえぼし)を引立給へり。土肥次郎は、木蘭地直垂に膚に腹巻を著たり。郎等三十人を相具して皆甲冑を著す。(有朋下P454)蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)は赤衣に剣笏を帯せり。昔は人の数共おぼさゞりしに、今は生ながら冥官に値給へる心地して恐しくぞ被(レ)思ける。定長(さだなが)院宣趣条々、委重衡卿(しげひらのきやう)に被(二)思含(一)ける中に、三種神器を都へ返入奉らば、頼朝(よりとも)に仰られて死罪をも被(レ)宥、西国(さいこく)へも可(レ)被(二)返遣(一)とぞ仰ける。重衡卿(しげひらのきやう)、院宣の御返事(おんへんじ)被(レ)申けるは、先祖平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)が時より、故(こ)入道(にふだう)相国(しやうこく)に至まで、代々朝家の御守として一天の御固たりき、而を入道薨去之後、子孫君に棄られ進せて西海の浪に漂ふ。通盛
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已下の一門、多一谷(いちのたに)にして被(レ)誅、其首獄門に掛られぬ。重衡又懸る身に成ぬれば、一人西国(さいこく)に帰下て候(さうらふ)共(とも)、負べき軍に勝事侍まじ、不(レ)被(二)返下(一)共、勝べき軍に負事候まじ、宿運忽(たちまち)に尽て、一門の中に重衡一人虜れて、故郷に帰上り恥をさらす、されば親き者に面を合べし共不(レ)覚、今一度見んと思ふ者はよも候はじ、若母の二位の尼などや、恩愛の慈悲にて無慙とも思候はん、其外は哀を懸べし共不(レ)存、就(レ)中(なかんづく)主上の帰入せ給はざらんには、三種神器計を奉(レ)入事は難(レ)有こそ存候へ、然而忝蒙(二)院宣(一)上は、若やと私使にて申試侍べしとて、平左衛門尉(へいざゑもんのじよう)重国と云侍を可(二)下遣(一)由被(レ)申けり。此重国と云は、重衡卿(しげひらのきやう)の少くより不便の者に思はれて、自烏帽子(えぼし)を著せ給。片名をたびて重国と呼れけり。三位中将(さんみのちゆうじやう)、加様に甲斐々々敷御返事(おんへんじ)をも被(レ)申けれども、心(有朋下P455)憂事におぼされつゝ、打うつぶきて只涙をのみぞ流し給ふ。御使定長(さだなが)も、岩木をむすばぬ身成ければ、落涙に袖ぬれて、赤衣の袖を絞りけり。
S3807 重国花方帯(二)院宣(一)西国(さいこく)下向同上洛奉(二)返状(一)事
同(おなじき)十五日に、重衡の使平左衛門尉(へいざゑもんのじよう)重国、院宣を帯して西国(さいこく)へ下向。院よりは御壺召次に、花方と云者を被(二)副下(一)けり。彼院宣に云、
一人聖帝出(二)北闕九重之台(一)、而幸(二)于九州(一)、三種神器移(二)南海四国之境(一)、而経(二)数年(一)、尤朝家之御歎、亡国之為(レ)基也、彼重衡卿(しげひらのきやう)者、東大寺(とうだいじ)焼失之逆臣也、任(二)頼朝(よりとも)申請之旨(一)雖(レ)須(レ)被(レ)行(二)死罪(一)、独別(二)親類(一)已為(二)生虜(一)、籠鳥恋(レ)雲之思、遥浮(二)千里之南海(一)、帰雁失(レ)友之情、定通(二)九重之中途(一)歟、然
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則於(レ)奉(レ)返(二)入三種神器(一)者、速可(レ)被(レ)寛(二)宥彼卿(一)也、者院宣如(レ)此、仍執達如(レ)件。
元暦元年二月十四日 大膳大夫業忠奉
平(へい)大納言殿(だいなごんどの)とぞ被(レ)書たる。
三位中将(さんみのちゆうじやう)も、内大臣(ないだいじん)、並平(へい)大納言(だいなごん)の許へ、院宣の趣委く被(二)申下(一)けり。母(有朋下P456)二位殿(にゐどの)へも、御文細やかに書て、今一度重衡を御覧ぜんと思召(おぼしめさ)ば、内侍所を都へ返入進する様に、よく/\大臣殿に申させ給へとぞ書下し給ける。北方大納言佐殿(だいなごんのすけどの)へも御文進せ度思けれ共、私の文はゆるさゞりければ、詞にて、旅の空にも人は我に慰、我は人にこそ奉(レ)慰しに、此六日は必限共知ず、申置度事も多く有し者を、憑もしき人もなきに、明し暮し給ふ覧と想像こそ心苦しけれ。又身の有様(ありさま)も心の中も只推量り給へ、憂かりし船の中波の上も、今は思出して恋くこそと宣もあへず泣給へば、重国も涙を流しけり。預り守武士も、鎧の袖をぞ絞合ける。
十六日(じふろくにち)には、重て重衡卿(しげひらのきやう)を召問れけり。平家は都を出て西国(さいこく)に落下給たりけれ共、只浪の上舟の中にのみ漂て、安堵し給はざりける上に、一門多く一谷(いちのたに)にて亡にければ、いとゞ為方なくぞおぼされける。被(二)討漏(一)たる人々も、春の尾上の残の雪、日影に解る風情して、消なん事を歎けり。
十八日(じふはちにち)には、在々所々に武士の狼藉を止べき由、蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)、依(二)院宣(一)頭左中弁光雅朝臣に仰。廿二日には、諸国兵粮米の貢を可(レ)止之由、定長(さだなが)、依(二)院宣(一)光雅朝臣に仰す。
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二十七日(にじふしちにち)には、両国へ被(二)下遣(一)重衡卿(しげひらのきやう)の使重国、召次花方、両人帰洛して、右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)の宿所に行向て、前内大臣(ないだいじん)宗盛の被(レ)申たる奉(二)院宣御返事(おんへんじ)(一)、定長(さだなが)則院参(ゐんざん)して是を奏聞す。彼状に云、(有朋下P457)
右今月十四日院宣、同(おなじき)二十四日、讃岐国屋島浦到来、謹所(レ)承如(レ)件、就(レ)之案(レ)之、通盛已下当家数輩、於(二)摂津国(つのくに)一谷(いちのたに)(一)、已(すでに)被(レ)誅畢、何重衡一人可(レ)悦(二)寛宥之院宣(一)、抑我君者、受(二)故高倉院(たかくらのゐん)之御譲(一)、御在位既四箇年、雖(レ)無(二)其御恙(一)、東夷結(レ)党責上、北狄成(レ)群乱入之間、且任(二)幼帝母后之御歎尤深(一)、且依(二)外戚外舅之愚志不(一)(レ)浅、固(二)辞北闕之花台(一)、遷(二)幸西海之薮屋(一)、但再於(レ)無(二)旧都之還御(一)者、三種神器争可(レ)被(レ)放(二)玉体(一)哉、夫臣者以(レ)君為(レ)体、君者以(レ)臣為(レ)体、君安則臣不(レ)苦、君憂則臣不(レ)楽、謹思(二)臣等(しんら)之先祖(一)、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)、追(二)討相馬(さうまの)小次郎(こじらう)将門(まさかど)(一)、而自(レ)鎮(二)東八箇国(一)以降、伝(二)子々孫々(ししそんぞん)(一)、誅(二)戮朝敵之謀臣(一)、及(二)代々世々(一)、奉(レ)守(二)禁闕之朝家(一)、就(レ)中(なかんづく)亡父太政大臣(だいじやうだいじん)、保元平治両度合戦之時、重(二)勅威(一)、軽(二)愚命(一)、是偏奉(レ)為(レ)君非(レ)為(レ)身、而彼頼朝(よりとも)者、父左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)謀叛之時、頻可(二)誅罰(一)之由、雖(レ)被(レ)仰(二)下于故(こ)入道大相国(たいしやうこく)(一)、慈悲之余所(レ)申(二)宥流罪(一)也、爰頼朝(よりとも)已(すでに)忘(二)昔之高恩(一)、今不(レ)顧(二)芳志(一)、忽以(二)流人之身(一)、濫列(二)凶徒(きようと)之類(一)、愚意之至思慮之讐也、尤招(二)神兵天罰速(一)、期(二)廃跡沈滅(一)者歟、日月為(二)一物(一)不(レ)暗(二)其明(一)、明王(みやうわう)為(二)一人(一)不(レ)抂(二)其法(一)、何以(二)一情(一)不(レ)覚(二)大徳文(一)、但君不(レ)思(二)召忘亡父数度之奉公(一)者、早可(レ)有(レ)御(二)幸于西国(さいこく)(一)歟、于(レ)時臣等(しんら)奉(二)院宣(一)、忽出(二)蓬屋之新館(一)、再帰(二)花亭之旧都(一)、然者(しかれば)四国九国、如(レ)雲集靡(二)異賊(一)、(有朋下P458)西海(さいかい)南海、如(レ)霞随誅(二)逆夷(一)、
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其時主上帯(二)三種神器(一)、幸(二)九重之鳳闕(一)、若不(レ)雪(二)会稽之恥(一)者、相(二)当于人王八十一代之御宇(ぎよう)我朝之御宝(一)、引(レ)波随(レ)風、赴(二)新羅、高麗、百済、契丹(一)、雖(レ)成(二)異朝之財(一)、終無(二)帰洛之期(一)歟、以(二)此旨(一)可(レ)然之様、可(下)令(レ)洩(二)奏聞(一)給(上)、宗盛頓首謹言。
元暦元年二月二十八日(にじふはちにち) 内大臣(ないだいじん)宗盛請文
とぞ被(レ)書たりける。御壺の召次花方は、平左衛門尉(へいざゑもんのじよう)重国に具して、院宣の副使に西国(さいこく)へ下たりければ、平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)、花方を捕て以(レ)金焼(レ)頬に、波方とぞ焼付たる。其後髻を切鼻を■(そい)で、是は己をするには非ずとて追放けり。無益の院宣御使勤て、身のかたはをぞ付にける。さてこそ花方をば、異名には波方とも呼けれ。時忠卿(ときただのきやう)の己をするに非ずと宣(のたまひ)けるは、されば法皇の御事を申けるにや、畏々とぞ人皆舌を振ける。偖重国申けるには、依(二)東国之逆乱(一)、西国(さいこく)に臨幸あり。主上無(二)還御(一)、三種神器輙難(レ)被(レ)奉(二)返入(一)、倩慮(二)夷狄之俗(一)、已(すでに)同(二)虎狼之性(一)、只殉(レ)利不(レ)殉(レ)名、偏忘(二)廉譲之思(一)、深淫(二)色欲之心(一)、然忽被(レ)賞(二)異類之賊(一)、永被(レ)棄(二)一族之輩(一)、或称(二)勲功(一)、或振(二)威猛(一)、云(二)国衙(こくが)(一)、云(二)庄園(一)、無(二)立(レ)針之土地(一)、虜(二)掠之(一)、無(二)片粒之官物(くわんもつ)(一)、却(二)略之(一)、世之衰乱逐(レ)日弥甚、国之残滅積年(有朋下P459)益滅歟、臣若被(レ)献(二)国家安全之諌言(一)、君何不(レ)廻(二)天下和平之叡慮(一)哉、前内大臣(ないだいじん)被(レ)申之由を奏しける。(有朋下P460)