『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十
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目巻 第四十
S4001 法輪寺附中将相(二)見滝口(一)並高野山事
抑法輪寺は道昌僧都(そうづ)の建立(こんりふ)、勝験無双の霊地也。彼小僧都(せうそうづ)法眼和尚(くわしやう)位道昌は、讃岐国香川郡の人、弘法大師の御弟子也。俗姓は秦氏、秦始皇(しくわう)六代孫、融通王の苗裔也。淳和帝御宇(ぎよう)、天長五年に就(二)弘法大師(一)、登(二)灌頂(くわんぢやうの)壇(一)、真言の大法を伝受せり。三十歳。其後虚空蔵求聞持法を修せんとて、勝地を尋求けるに、大師教て云、於(二)葛井寺今法輪寺(一)、可(レ)修(レ)之、彼山霊瑞至多、勝験相応の地也と。仍同六年に此寺に参籠して、一百(いつぴやく)箇日求聞持の法を修し給ふ。五月の頃、皓月隠(二)西山(一)、明星出(二)東天(一)時、奉(レ)拝(二)明星(一)、汲(二)閼伽水(一)之処、光炎頓耀て、宛如(二)電光(一)、恠で是を見明星天子来影、虚空蔵菩薩現(レ)袖、非(レ)■(あらずゑにあらず)非(レ)造、如(レ)縫如(レ)鋳、雖(レ)経(二)数日(一)、其体不(レ)滅、尊相厳然として異香芬馥せり。是則生身御体として、奇特の霊像也、誰不(レ)致(二)帰敬(一)(レ)之誠、爰道昌造(二)虚空蔵形像(一)、其木像の御身に件の影像を奉(レ)納、於(二)神護寺(一)、弘法大師是を奉(二)供養(一)、彼像の前にして不断の行法を修しけ(有朋下P500)るに、利生誠に新也。貞観十六年に、引(二)山腹(一)埋(二)幽谷(一)、建(二)仏閣(一)安(二)置件霊像(一)、改(二)葛井寺(一)名(二)法輪寺(一)。鎮守(ちんじゆ)は本地虚空蔵、号(二)法童法護大菩薩(だいぼさつ)(一)。阿弥陀堂と申は当山最初の旧寺の跡也。天平年中にこれを建立(こんりふ)して葛井寺と云けり。天慶年中に空也上人参籠之時、貴賤上下を勧進して、旧寺を修行して
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常行堂とするとかや。詠(レ)月遊興之輩は、明神忽(たちまち)に与(二)巨益(一)、往詣参籠之人は、本尊必満(二)願望(一)給ふ。月照(レ)窓之夜は、煩悩之雲正に晴、嵐吹(レ)松之時は、妄想之夢必覚。斯る目出(めでた)き寺なれば、滝口も閉籠て行澄して居たりけり。妹背の情に引れつゝ、尋行ける横笛も、菩薩の善巧方便にて、善知識とぞ覚えける。
< 異説云、比は二月半の事なれば、梅津里の春風は、徐まで匂ふ垣根哉、桂里の月影は、朧に照す折なれや、亀山(かめやま)や、すそより出る大井川、殊更心細して、久方のそこ共知ず尋行。此坊彼坊尋れど、上人が行末は不(レ)知けりと。又異説には、横笛は法輪より帰て髪をおろし、双林寺に有けるに、入道の〔許〕より、
しらま弓そるを恨と思ふなよ真の道にいれる我身ぞ K210
と云たりければ、女返事に、
白真弓そるを恨と思しにまことの道に入るぞ嬉しき K211 (有朋下P501)
< 其後横笛尼、天野に行て入道が袈裟衣すゝぐ共いへり。異説まち/\也。いづれも哀にこそ。>
滝口入道は法輪寺を出て高野に籠、五六年にぞ成ける。然べき人々は滝口入道と云けるを、一家の者共は、高野の上人とぞ云ける。時頼入道は幼少より小松殿(こまつどの)に候けるが、出仕の時は、絵書花付たる狩衣に立烏帽子(たてえぼし)、私の行には、直垂に折烏帽子(をりえぼし)、衣文を立て鬚を撫、さしも花やかなりし有様(ありさま)に、今は黒き衣に同色の袈裟に、窄れにけりと哀也。三十にたらぬ若入道の、いつしか老僧姿に成
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果て、剃たる髪はさかり過て生延、麻の衣の香の煙にしみかをり、思入たる道心者、羨しくぞ見給ける。入道は三位中将(さんみのちゆうじやう)を見奉て、夢か現かとあきれ迷たるさまなり。泣涙に咽て物もえ申さず。三位中将(さんみのちゆうじやう)も袖を絞りて宣ふ事もなし。入道良久ありて申けるは、屋島に御渡りと承侍しかば、世中の今は昔に替り行有様(ありさま)、御一門の人々思召(おぼしめさ)るらん、御心中も推量り候へば、罷下て憂世(うきよの)有様(ありさま)をも承、又歎申入ばやと折節(をりふし)毎に思ひ出し侍りつれ共、憖(なまじひ)に出家入道して、加様に引籠りて、身は松の煙にふすぼり、形は藤の衣に窄て、御前に参可(レ)懸(二)御目(一)有様(ありさま)にもあらねば、中々にと身に憚て罷過侍りき、如何にして是までは伝御座(おはしまし)けるやらん、更にうつゝ共覚え候はず、故殿常の仰には、賢人は不(レ)誇(二)栄花(一)、卜(二)居於草庵(一)仰し物を、只今(ただいま)思合られ候(有朋下P502)ぞやと申て、墨染の袖を顔にあてて泣けり。中将宣(のたまひ)けるは、都にて何にも成べかりしに、人なみ/\に西国(さいこく)へ落下りたりつれ共、肝心も身にそはず、留置し者共も、理に過て恋しく■(おぼつか)なければ、何事に付ても、世の中あぢきなければ、思ほれて年月を経る程に、是をば角とも知給はで、大臣殿も、池(いけの)大納言(だいなごん)の様に二心ある者とおぼして打解け給はねば、いとゞ心も止まらで、あくがれ出て是まで来れり、いかにもして故郷に伝ひ、替ぬ貌を今一度見えばやと思つれ共、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の生ながら捕れて、父の骸に血をあやす事もうたてければ、是にて髪を下して、水の底にも入なんと思ふなり、但熊野へ詣んとの志ありと宣も敢ず泣給へば、上人誠に夢幻の世の中は、兎ても角ても有なん、長き世の闇こそ苦しかるべけれ、目出も思召(おぼしめし)立ける御事也と申。夜明にけれ
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ば、三位中将(さんみのちゆうじやう)は入道を先達として、先本寺より始て院々堂々巡礼あり。彼高野山は、帝城を去て二百里、郷里を離て無(二)人声(一)、晴嵐梢を鳴して夕日の影も閑也。金剛八葉峯の上、秘密瑜伽(ゆが)の道場也。一度参詣の輩は、永三途の苦を離る、十三大会(たいゑの)聖衆には、肩を並て阻なし、三十七尊の聖容は、心の中にぞ坐し給ふ。八の尾八の谷に、修生本覚の心蓮華を像り或上或下る、行願証義菩提心を顕せり。金堂と申は嵯峨(さがの)天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)也。或釈尊涅槃の像を写せる道場もあ(有朋下P503)り、在世の昔を慕ふかと哀也。弥陀来迎の粧を画霊場もあり、終焉の夕を待かと覚えたり。若は説法衆生の庭、坐禅入定の窓もあり。若は秘密修行の室、念仏三昧の砌(みぎり)もあり。顕教密教掻交、聖道浄土(じやうど)各也。峨々として高き山、渺々として遠き峯、霖霧の底に花綻、尾上の霜に鐘響、嵐に紛ふ鈴の音、雲井に上香の煙、取々にこそ貴けれ。夫より檜原杉原百八十町分過て、奥院に参給。大師の御廟(ごべう)を拝給へば、瓦に松生て、垣に蘿はへり。庭に苔深うして、軒にしのぶ茂たり。是や此仁明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、承和二年三月二十一日の寅の一点に、入定し給へる石室なるらんと、過にし方を数へければ、三百(さんびやく)余歳(よさい)も越にけり。
S4002 観賢拝(二)弘法大師之影像(一)付弘法入唐事
< 延喜の聖主、有(二)御夢想(ごむさう)告(一)とて、檜皮色の御装束を被(二)進奉(一)、勅使に般若寺の観賢僧正(そうじやう)に仰たりければ、御弟子に石山の内供奉俊祐と相共に、奥院に詣つゝ、御帳を押開て宣命を奉(レ)伝、御装束を進せ替んとし給しに、雲霧忽(たちまち)に立隔る心地して、大師の御体を不(レ)奉(レ)拝。観賢涙を流しつゝ、我一生の間未(二)禁戒犯(一)、有(二)何罪(一)かは見え給はざるとて、五体を地に(有朋下P504)投て発露啼泣し給へば、速に雲晴て日の出るが如くに、大師の御体顕御座(おはしまし)けり。観賢又随喜の涙に香染の衣の袖を絞りつゝ、御肩の廻まで黒黒
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と生延させ給(たま)ひける御髪を奉(レ)剃、御装束を進替させ給つゝ、内供奉に、此御有様(おんありさま)をば奉(レ)拝哉と問給ければ、俊祐霞に籠たる心地して、不(レ)奉(レ)見と答ければ、僧正(そうじやう)自内供奉が手を取て、大師の御膝に引宛て、是こそ御膝よと宣へば、俊祐三度まで撫進せけり。其御移香失せずして、石山の聖教に移り、何の箱とかやに残留て、今の世までも有とかや。目出貴き事共也。其後僧正(そうじやう)、御廟(ごべう)の御戸を立て帰給はんとし給ふに、大師帝への御返事(おんへんじ)に、
我昔遇(二)薩■[*土+垂](さつた)(一) 親悉伝(二)印明(一) 発無(レ)此(二)誓願(一) 陪(二)辺地異域(一) 昼夜愍(二)万民(一) 住(二)普賢悲願(一) 肉身証(二)三昧(一) 待(二)慈氏下生(一) K212
とぞ仰ける。>
其後後朱雀院御宇(ぎよう)、長暦三年〈 己卯 〉三月の比、当山に貴僧在て、観賢僧正(そうじやう)の例を尋て、奉(レ)拝(二)御形(一)らんと云願を発して宣旨を申、御廟(ごべうの)御前にて致(二)祈誓(一)御帳を開たりけるに、御体隠なく拝れさせ給、御鬚の生延させ給たりければ、彼僧正(そうじやう)の如く奉(レ)剃(レ)之けるに、御膚を見んとて、以(二)剃刀(一)御頭を小切たりければ、血のさとあえさせ給たりけるに、目くれて雲霧に向る心地して、則急出にけり。其時内より帳を打付られ(有朋下P505)て、其後は開かれずとぞ承る。昔は宣旨と申ぬれば、仏神もこれを背給はざりけり。末世になればにや、当世は云甲斐なき人民に至まで、勅命を軽ずるこそ悲けれ。彼迦葉尊者の鶏足洞に入、弘法大師の高野の石室に籠給しより以来、五十六億七千万歳の春秋を隔てて、慈尊三会の暁を待給ふこそ遥かなれ。三位中将(さんみのちゆうじやう)は御廟(ごべうの)前に良久念誦して、又もと思ふ参詣も心に任ぬ我身也、遠うして又遥也、維盛進んでは釈迦の出世にあはず、退きては慈氏の下生難(レ)期、恨らくは其中間に留つて、空く三途
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に帰らん事を。今暮雲のこころ難(レ)繋、既(すで)に朝露の命消なんとす、願の妄執を廟松の風に払て、永く煩悩を法水の波に洗ふ、三界の火宅を出て、無苦の宝刹に生んとぞ被(レ)奉(レ)拝ける。さても維盛が身は、雪山の鳥の今日不(レ)知(レ)死と啼らん様に、今日歟明日歟と思者をと宣て、左右の袖を顔にあて、雨々と泣給へば、阿浄も重景も、共に袂(たもと)を絞りけり。其後時頼入道が庵室に帰、持仏堂にさし入て拝廻し給へば、本尊かた/゛\に奉(二)安置(一)、閼伽をしな/゛\奉(レ)備有様(ありさま)、浄名居士の方丈に、三万二千の床を立て、三世十方の諸仏を崇奉たりけんも、角やと覚えて最貴し。行儀の作法を見給ふにも、昔は世俗奉公の袖を掻をさめしに、至極甚深の床の上には、心地の玉を瑩くらんと覚えたり。後夜晨朝の鐘の声には、生死の睡を覚すらん(有朋下P506)と聞えけり。尾上の嵐はげしくて、檐のしのぶに露乱、雲井の月さやけくて、苔むす庭も静なり。晋七賢の籠けん竹林寺の庵の中、漢の四皓の住ひけん商山洞の窓の前、かくやと思知れたり。遁れぬべくば角てこそあらまほしくおぼしけれ。其夜は来方向末の物語(ものがたり)して、互に泣より外の事なし。夜も已(すで)に明にければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)、時頼入道に仰けるは、故郷に留置し少き者共の、さしもわりなかりしをも、其母が強ちに慕ふをも、今一度見もしみえばやとこそ思て、屋島をば忍出しか共、そも今は叶はず、さらば出家して熊野へ参らばやと思也と語り給へば、入道涙ぐみて、此世は夢幻の所、憂事も悲事も、始て驚思召(おぼしめす)べきに非、都に留め置せ給、公達北方の御事、尤思召(おぼしめし)切せ給べし、分段輪廻の境に生たる者、誰か死滅の恨をまぬかれたる、妄想如幻の家に会輩、終に別離の悲み
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あり、彼沙羅林の春の空を尋れば、万徳の花萎て、一化の緑永く尽ぬ、歓喜園の秋の風を聞けば、五衰の露消て、巨億の楽み早く空、況下界泡沫の質に於てをや、不定短命の州に於てをや、依(レ)之(これによつて)老たるも去、若も去つて、大小の前後定なし、貴も逝賎も逝て、上下の昇沈難(レ)知、三界二十五有の栖、何者(なにもの)歟此苦を脱れん、五虫千八百(はつぴやく)の類、争か其愁を離るべき、可(レ)厭は憂世(うきよ)也、可(レ)悲は此身也、君御一門の余執に引れて、西海の旅に趣給へ(有朋下P507)る上は、敵の為に捕れ御座歟、水底に沈み給べきか、大師入定の霊地也、両部結戒の道場也、此峯にして忽(たちまち)に俗服脱、法衣を著し御座(おはしま)さん事、即身に安養の浄刹に詣し給へりと思召(おぼしめし)作べし、如何にと申に、日本(につぽん)一州仏法(ぶつぽふ)流布の所、広く大師先徳弘法利生の人多し、就(レ)中(なかんづく)此寺は是、真言上乗弘通の砌(みぎり)、秘密教興隆の境也、高祖大師は大権化現也、讃岐国多度郡人、俗姓は佐伯氏、母の夢に、天竺より聖人来て、我懐に入と見て姙て生子也、生産の後、四天大王蓋を取て随従し給へり、石淵勤操僧正(そうじやう)に師とし事へて、初には虚空蔵求聞持の法を学し、終に二十の歳出家して沙弥の十戒(じつかい)を受、名を教海と云、其後改て如空と称す、具足戒の時、又改て空海と号す、延暦(えんりやく)二十三年〈 甲申 〉五月に、遣唐使正三位藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)賀能が舟に乗て入唐して、青竜寺恵果和尚(くわしやう)に謁する日、和尚(くわしやう)笑を含みて云、我兼て汝が来る事を知れり、相待こと日久し、今始て相見大に好、大に好、汝はこれ非(二)凡従(一)第三地の菩薩也、内に大乗の心を具し、外に小国の僧を示す、為(二)密教之器(一)、悉可(二)授与(一)とて、五部灌頂(くわんぢやう)誓水を灑、三密持念印明を授て、両部の曼荼羅、金剛乗教二百(にひやく)余巻(よくわん)、三蔵付法の
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道具等与畢て云、我此土の縁尽たり、不(レ)能(二)久住(一)、汝速に本国に帰て天下に流布せよと、空海和尚(くわしやう)行年卅四、平城(へいじやう)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、大同二年〈 丁亥 〉八月に、帰朝の船を泛る(有朋下P508)日、発願祈誓して曰、所学の教法秘密撰所感応の地あらば、此三鈷到点せよとて、日本(につぽん)に向て抛上給に、遥(はるか)に雲中に飛入て、東を差て去にけり。和尚(くわしやう)行年三十三(さんじふさん)、嵯峨(さがの)天皇(てんわう)弘仁七年〈 丙申 〉高野山登給ふ。道にあやしき老人あり、和尚(くわしやう)に語て云、我は是丹生明神、此山の山神也、恒に厭(二)業垢(一)、久得道を願、今方に菩薩到来し給へり、妾が幸也と云て、山中心に登て、御宿所を示して芟掃所、海上にして抛処の三鈷、光を放て爰(ここ)に在、秘法興隆の地と云事明也。依(レ)之(これによつて)和尚(くわしやう)慈尊三会の暁に至迄、密蔵の燈を挑んために、一十六丈の多宝と塔婆を建立(こんりふ)して、過去七仏の所持の宝剣を安置し給へり事奇特也、法の効験也、女人影を隔てて、五障の雲永くをさまり、僧俗心を研て、三明(さんみやう)の月高晴たり、誠に穢土にして浄土(じやうど)を兼、凡夫にして仏陀に融す、難(レ)有聖跡也、賢くぞ女房公達を留置給ける、引具給たりせば、争か此霊場へも御参有べき、御心強かりける御事は、然べき御得脱の期の至御座、永離三悪の峯に登、生仏不二の覚を開き給べきにこそと細々とぞ申しければ、
S4003 維盛出家事
三位中将(さんみのちゆうじやう)涙を流し打頷許給(たまひ)て、誠に都を出し日より敵の為に亡されて、骸を山野の道の(有朋下P509)辺りに曝て、名を西海の波の底に沈むべしとこそ思しに、懸べしとは懸ても思寄ざりき、是も善業の催す処と云ながら、如何にも故郷の少者共の事のみ思出つれ共、其事思棄て参詣せし程に、粉河にて法然上人に対面して、念仏往生の法門(ほふもん)を聴聞し、大乗無作の大戒を授られ、剰へ上乗瑜伽(ゆが)の霊峯に登、大師草創の仏閣を拝、
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堂堂巡礼して、六道(ろくだう)輪廻の業を滅すらんと存上、加様に目出く貴き事共承はれば、昔は家門主従の礼儀たりしか共、今は菩提の大善知識とこそ思召(おぼしめし)、さらば急出家をと宣ふを見奉に、潮風に黒み、尽せぬ御襟に痩衰へ給(たまひ)て、其人共見えず成給たれ共、猶人には勝て粉ふべくもなし。らふたくうつくしくぞ御座(おはしまし)ける。如何なる讐敵成共哀と思ぬべし。御戒の師には、東禅院に理覚坊の心蓮上人と申僧を請じ奉、時頼入道出家の御具足取調へたりけるに、三位中将(さんみのちゆうじやう)は、与三兵衛、石童丸二人を近く召て宣(のたまひ)けるは、我身こそ懸る道狭き者と成て様を替るとも、己等はいかなる形勢(ありさま)をすとも、なじかはながらへざるべき、如何にもならん様を見終なば、都へ上身々をも助、少者共の便ともなるべしと宣へば、二人共にはら/\と泣て、暫は物も不(レ)申、良有て与三兵衛申けるは、重景が父与三左衛門尉(さゑもんのじよう)景康は、平治の合戦の時、故殿の御伴に候けるが、二条堀川(ほりかは)にて、左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が郎等、鎌田兵衛正清に(有朋下P510)組で、悪源太義平に被(レ)討けり、其時は重景二歳にて候けり、母には七歳にて後れぬ、竪固の孤子に成果て、哀糸惜と申親者もなかりけるを、景康は我命に代し者也、其子なれば殊に不便の者也とて、御前より生立御座(おはしまし)て、九と申しゝ年、君の御元服(ごげんぶく)の次でに、忝(かたじけな)くも軈本鳥を取上られ進て、盛の字をば御代に奉(レ)付とて君つかせ給ぬ、重の字をば松王に給とて、重景とは付させ給けり、童名を松王と呼れけるも、二歳の時母が懐て参たりければ、此家をば小松といへば付る也とて、松王とは被(レ)召けり、君の御元服(ごげんぶく)の年より、取分て御方に仕て、今年は十七年に罷成、表裏ともなく被(二)召具(一)しかば、遊戯進せ、一日片時
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立離進せず、小松殿(こまつどの)隠れさせ給し時は、此世の事つゆ思召(おぼしめし)棄させ給(たまひ)て、一言をも仰置せ給はざりしか共、御いとほしみあれかしの御志にて、さしも多き侍の中に、重景よく/\少将に奉公して御心に違ふなと計こそ最後の御詞にて候しか、されば君、神にも仏にもならせ給(たま)ひなん後は、いかなる楽栄侍るとも、世に有べしとこそ存じ候はね、東方朔西王母が一万歳の命、皆昔語に名を伝へ、欲色二界の快楽の天、限あれば衰没の悲みありと承る、生死の友には会て別やすく、輪廻の門には別てあひ難し、同は菩提の種を植て、一つ蓮に座を並候べしとて、腰の刀を脱出し本鳥を切、三位中将(さんみのちゆうじやう)よりさきに、(有朋下P511)時頼入道に剃せてけり。法名戒実と云。石童丸も八歳よりつき奉り、跡懐より生立て、今年は十一年にぞ成ける。志深く御糸惜くし給ければ、重景にもおとらず思奉けり。多の人の中に、屋島より打解、是まで召具せられ奉て、真の道に非(レ)可(レ)奉(レ)被(レ)捨と申て、本結際より推切て、同入道に剃せけり。法名戒円と云。此等が先立て剃を御覧じ給にも、御涙(おんなみだ)関敢給はず。時頼入道は、本尊の御前に香を焼、花を供し儲たり。三位中将(さんみのちゆうじやう)は本鳥を左右に結分て、四恩師僧を拝し給ふ。心蓮上人髪剃を取、泣々(なくなく)御後に立寄つゝ、流転三界中、恩愛不能断、奇恩入無為、真実報恩者と、三反唱へて剃給けるにも、北方に今一度かはらぬ貌を見せて角もならば、思事なからましとおぼすぞ、愛執煩悩、罪深しと云ながら、誠にと覚えて糸惜き。奉(二)御髪剃落(一)ければ、御衣を召替て、心蓮上人、大哉解脱服、無相福田衣被(レ)服、如(レ)戒行広度(二)諸衆生(一)と唱て、奉(レ)授(二)御袈裟(一)、法名戒法房とぞ申ける。
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< 或説云、父小松内府出家して浄蓮と申ければ、我身をば心蓮といはんと仰けりと云云、可(レ)尋(レ)之。 >
三位中将(さんみのちゆうじやう)も与三兵衛も、同年にて二十七、石童丸は十八也、三人共に盛をだにも過給はぬ人々の、かく剃給(たま)ひつゝ居並たるを見渡て、心蓮上人も時頼入道も、墨染の袖を絞けり。中将入道、舎人武里を召て宣(のたまひ)けるは、我兎(と)も角(かく)も成(有朋下P512)なば都へは向ふべからず、後の形見に今一度、日比(ひごろ)恋かりつる事をも云、又様を替身の成果を書やらばとは思へ共、はや世になき者と聞ならば、思歎に堪ず、髪を落し貌を窄さんも不便也、それは責てもいかゞはせん、淵河に身をも沈めて、少き者共が便なく、父には生て別ぬ、母には死て後れぬと、小賢く歎悲まんも糸惜かるべし、終には隠れ有まじけれ共、何鹿知せじと思也、急迎とらんと誘へ置し事も空く成ぬ、いかばかりかはつらく思ふらん、都に留りて歎思ふらんよりも、旅の空にあくがれて為方なく悲き心をば知ず、恨ん事もいと痛しとて、御涙(おんなみだ)関敢ず。只是より屋島に行て、新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)、左中将達に有の儘に申せ、侍共いかに■(おぼつか)なく思らん、誠に角とも知せねば、誰々もさこそ恨給らめ、抑唐皮と云鎧、小烏と云太刀は、当家代々の重宝として、我まで嫡嫡に相伝はれり、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)が許に預置けり、其をば取て三位中将(さんみのちゆうじやう)に奉れ、もし不思議にて世も立なほらば、後には必六代に譲り給へと可(レ)申とて、雨々とぞ泣給ふ。
S4004 唐皮小烏抜丸事
彼唐皮と云は非(二)凡夫之製(一)、仏の作り給へる鎧也。桓武天皇(てんわう)の御伯父に慶円とて、真言の(有朋下P513)奥義を極め給へる貴き上人御座(おはしまし)き。綸言を給(たまひ)て、紫宸殿の御前に壇を拵へ、胎蔵界の不動の前に智印を結び、意
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を安平に准へて、彼法を加持せらる。七日と云未刻に、紫雲起りてうづまき下り、其中よりあらゝかに壇上に落る物あり。雲消壇晴て是を見れば一両の鎧あり。櫨の匂に白き黄なる両蝶をすそ金物に打て、糸威には非して皮威也。裏を返て見るに、実のあひ/\に虎毛あり、図知ぬ虎の皮にて威たりと。故に其名をば唐皮とぞ申ける。帝御尋(おんたづね)有ければ、慶円申させ給けるは、是はこれ本朝の固め也、是不動降伏の冑也。彼明王(みやうわう)は、外に降魔の相を現ずといへ共、内に慈悲哀愍を具足せり。火焔を身に現ずれば、女我の相を顕す。女我の相とは、大日胎蔵の身を現ずる也。大日胎蔵の身と云は、大歳の腹体を垣断也。彼垣冑にしかず。されば不動に七両の鎧あり、兵頭、兵体、兵足、兵腹、兵背、兵指、兵面也。皆是五天、五国、五花、相承相対せり。人五体を囲はん料也。然者(しかれば)州中の守不(レ)如(二)甲冑(一)、此鎧は七両が中の兵面と云鎧也。本朝の守には何物か是に増るべき。人甲冑を著せし時は、専国家壁と思て、我物の想をなさじ、国を囲はん時は、偏(ひとへ)に州頭の壁とのみ思はざれ、皇の御衣と思ふべき也と被(二)奏聞(一)けり。されば此鎧は、真言秘教の中より不動明王(ふどうみやうわう)の化現し給へる処也。国家の守として、六代ま(有朋下P514)では大内の御宝也けり。其後武道に遣して将軍にもたすべき由、日記に留給たりけるを、高望王の御孫、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)に被(二)下預(一)より以来、維盛迄は嫡々九代に伝はれり。今の唐皮と云は是なり。
又小烏と云太刀は、彼唐皮出来て後、七日と申未刻に、主上南殿に御座(おはしまし)て東天を御拝有ける折節(をりふし)に、
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八尺霊烏飛来て大床に侍、主上以(二)御笏(一)被(二)招召(一)けり。烏依(二)勅命(一)躍上、御座の御縁に觜を懸て奏し申さく、我は是、太神宮より剣の使者に参れりとて、羽刷して罷立けるが、其懐より一の太刀を御前に落し留けり。主上御自此剣を被(レ)召て、八尺の大霊烏の中より出たる物なればとて、小烏とぞ名付させ給(たま)ひける。唐皮と共に宝物に執し思召(おぼしめす)。されば太刀も冑も同仏神の御製作なり。本朝守護の兵具也。仍代々は内裏に伝りけるを、貞盛(さだもり)が世に下預て、此家に伝て希代の重宝なり。又平家に抜丸と云剣あり。池(いけの)大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)にあり。中古伊勢国(いせのくに)鈴鹿山辺りに、賎貧男あり、身の乏事を歎て、常に精進潔斎して太神宮に詣て、世にあらん事を祈申、年比日比(ひごろ)おこたる事なかりければ、神明其志を憐んで、汝深山(しんざん)に遊猟して獣を得て妻子を養へと示現し給ければ、御託宣(ごたくせん)を憑、鈴鹿の山を家として、夜昼猟して獣をとる。得たる時は妻子を養ひ、得ざる時は口を空くす。是を以一期活命の便と成べし共覚えざりければ、我年来(有朋下P515)参詣の功に依て霊夢を感ず、任(二)神慮(一)、深山(しんざん)に遊猟すれ共、身を助るはかりごと成べし共覚えず、太神宮如何にと御計有やらんと、愚にも冥慮を奉(二)恨思(一)ける折節(をりふし)、三子塚と云所にて奇太刀を求得たり、此太刀儲て後は、聊も目に懸る禽獣鳥類遁事なし、然べき宝なりけり。我聞漢朝の高祖は、三尺の剣を以て座ながら諸国の王を従へたり。日本(につぽん)の愚猟一振の剣を求て帯ながら山中の獣を得たり。是天照太神(てんせうだいじん)の冥恩也と思ければ、昼夜に身を放ず。或夜鹿を待て大なる木の下に宿す。太刀を大木に寄せ立て其夜を明す。朝に此木を見れば、古木の如く
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して、枝葉皆枯たり。猟師不思議にぞ思ける。月比日比(ひごろ)も此木の下を栖とせしか共、さてこそ有しに、夜部までは翠の梢盛にこそ有しに、今夜此太刀を寄懸たる故にや、一夜が内に枯ぬるこそ奇しけれ、是定て神剣ならんとて、木枯とぞ名付たる。其比刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛、伊勢守にて御座(おはしまし)けるが夙聞て件の猟師を召、此太刀を見給ふに、異国はそも不(レ)知、我朝には難(レ)有剣也とて、よに欲思はれければ、栗真庄の年貢三千石に替て取れけり。さてこそ猟師家富身ゆたかにして、弥太神宮の御利生共思知けり。忠盛都に帰上、六波羅の池殿の山庄にて、昼寝して前後も知ず座しけるが、此木枯の太刀を枕に立て置たり。大蛇池より出て口を張、游近付忠盛を呑んとす。木枯鞘よ(有朋下P516)りさと抜て、かばと転び倒るゝ音に驚て、忠盛起直て見給に、剣は抜て鐔を蛇に向たり。蛇は剣に恐て水底に沈にけり。太刀かばと倒るゝは主を驚さんがため、鞘より抜るは主を守て、大蛇を切んが為也けり。其よりして木枯の名を改て抜丸とぞ呼れける。平治の合戦に、頼盛(よりもり)三川守にて、熊手に懸られて討るべかりけるにも、此太刀にて鎖金を打切て遁給けり、懸る目出(めでた)き剣なれば、嫡々に伝はるべかりけるを、頼盛(よりもり)当腹にて相伝ありければ、清盛(きよもり)頼盛(よりもり)兄弟なれ共、暫は中悪く御座(おはしまし)けりと聞えきなんど、細かに物語(ものがたり)し給(たまひ)て、唐皮小烏は、重代の重宝家門の守也、世立直らば必六代に伝へ給へと、よく/\仰含けり。
S4005 維盛入道熊野詣附熊野大峰事
此より熊野参詣の志ありとて、修行者の様に出立給ければ、如何にも成給はん様を見奉らんとて、時頼入道も御伴申て参けり。紀国三藤と云所へ出給(たま)ひ、藤代王子に参り、暫らく法施を奉り給ふ。所願(しよぐわん)
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成就(じやうじゆ)と祈誓して、峠に上給へば、眺望殊に勝れたり。霞籠たる春の空、日数は雲井を隔れど、妻子の事を思出て、故郷の方を見渡して、涙のこりを(有朋下P517)ぞかき給ふ。和歌浦、玉津島の明神を伏拝給ふにも、昔遠明日香天皇(てんわう)の后、衣通姫と申しが、帝を恋奉り、行幸のなれるを知ずして、
我せこがくべき宵なりさゝがにのくもの振舞兼て知しも K213
と詠じ給(たま)ひたりけるを、帝立聞給(たまひ)て、叡感の御情(おんなさけ)いとゞ深くぞおぼしける。彼を思ひ出るにも、古郷の人の悲さに、絞りかねたる袂(たもと)也。衣通姫此所を目出くおぼしければ垂(レ)跡給へり。吹上の浜、与田浦、日前国懸の古木の森、沖の釣舟磯打浪、哀は何れも取々也。蕪坂を打下、鹿瀬の山を越過て、高家王子を伏拝、日数漸く経程に、千里の浜も近付けり。岩代の王子を通給ふ。其辺にて狩装束したる者、七八騎ばかり会たりけり。敵の来り搦捕んずるにやと、肝心を迷して、各腰の刀に手を懸て自害せんとしける程に、はらはらと馬より下、深く平みて通にけり。見知たる者にこそ、誰ならんと浅増(あさまし)くいぶせく思ひ給ければ、いとゞ足ばやにぞ指給ふ。当国住人(ぢゆうにん)に湯浅権頭入道宗重が子息、湯浅兵衛尉宗光と云者也。郎等共(らうどうども)も奇げに思て、此道者は誰人にて御座(おはしまし)候ぞと問ければ、宗光、あれこそ平家の故小松大臣の御子に、権亮三位中将殿(ごんのすけさんみのちゆうじやうどの)よ、一門の人々に落連て西国(さいこく)にとこそ奉(レ)聞しに、如何にして屋島より是まで伝給けるやらん、小松殿(こまつどの)の御時は、常に奉公(有朋下P518)申て御恩をも蒙、此殿をも見馴奉りたれば、近く参て見参にもと思ひつれ共、道狭き御身と成て、憚思召(おぼしめす)御気色(おんきしよく)あらはなりつればさて
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過ぬ、穴痛しの御有様(おんありさま)や、替る代の習と云ながら、心憂かりける事哉とて、馬を留てはら/\と泣ければ、郎等共(らうどうども)も皆袖をぞ絞ける。三位中将(さんみのちゆうじやう)入道(にふだう)は、日数経れば岩田川に著給(たまひ)て、一の瀬のこりをかき給。我都に留置し妻子の事、露思忘るゝ隙なければ、さこそ罪深かるらめども、一度此河を渡る者、無始の罪業悉滅すなれば、今は愛執煩悩の垢もすゝぎぬらんと、憑もしげに仰られて、
岩田川誓の船にさをさして沈む我身も浮ぬる哉 K214
と詠じ給(たまひ)ても、父小松大臣の御熊野詣の悦の道に、兄弟此河水あみ戯て上たりしに、権現に祈申事あり、浄衣脱替べからず、御感応ありとて、是より重て奉幣有し事思出給(たまひ)ても、脆きは落涙也。其(その)日(ひ)は滝尻に著給、王子の御前に通夜し給、後世をぞ被(二)祈申(一)ける。彼王子と申は、本地は不空絹羂索、為衆生利益とて、垂跡此砌(みぎり)、当来慈尊の暁を待給ふこそ貴けれ。明ぬれば峻しき岩間を攀登、下品下生の鳥居の銘、御覧ずるこそ嬉しけれ。
十方仏土中以(二)西方(一)為(レ)望 九品蓮台間 雖(二)下品(一)可(レ)足 K215
注し置たる諷誦の文、憑もしくこそおぼしけれ。高原の峯吹嵐に身を任せ、三超の巌を(有朋下P519)越には、■利(たうり)の雲も遠からず、発心門に著給。上品上生の鳥居額拝給(たまひ)ては、流転生死の家を出て、即悟無生の室に入とぞ思召(おぼしめす)。夫より本宮に著給(たまひ)ては、寂静坊阿闍梨(あじやり)が庵室に入給ふ。此坊は故小松内府の師なれば也。阿闍梨(あじやり)中将入道を奉(レ)見、夢の心地して哀にもなつかしくも覚えければ、御前に参て、七旬の余算を持
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て、奉(レ)拝(二)再御顔(一)事嬉しさよ、故大臣の御参詣、只今(ただいま)の様に覚えてこそとて、老の袂(たもと)を絞りけり。三位中将(さんみのちゆうじやう)も、今更昔に立かへる御心地(おんここち)して、父の大臣の御事、げに昨日今日の様に思出られ給ふにも、尽せぬ御襟に打副て、阿闍梨(あじやり)が袖を絞るを見給ふにぞ、今一際の悲みも増ける。さても中将入道殿(にふだうどの)は、参社せんとて坊を出給つゝ、此御山を見給に、大悲利物の霞は、熊野山に聳、和光(わくわう)同塵(どうぢん)の垂跡は、音無川に住給ふ。常楽我浄の春風に、妄想の氷解、仏性真如の月影に、生死の闇も晴ぬらんと、信心肝に銘じつゝ、証誠殿の御前に、再拝念誦し給けり。常住の禅徒客僧の山伏、参集りて懺法をぞ読ける。一心敬礼の声澄ば、三世の諸仏随喜を垂、第二第三の礼毎に、無始の罪障滅らんと、最貴く思召(おぼしめし)ければ、賢くぞ思立ける。父の大臣の、命を召て後世を助給へと被(レ)申ける事思出て、懸るべき事を兼てさとり給けると覚えて哀也。此権現と申は仏生国の大王、善財太子と相共に、女の心を悪みて遥飛来(有朋下P520)つゝ、此砌(みぎり)にぞ住給。斗薮の行者を孚、修験の人を憐。大峯と申は、金剛胎蔵、両部曼荼羅の霊地也。此山に入人は、此社壇より出立、役優婆塞は、三十三度の修行者、竜樹菩薩に値奉て、五智三密の法水を伝へ、伊駒嵩に昇つて、二人の鬼を搦て末代行者の使者とせり。弘法智証の両大師、行者の跡を尋て大峯にぞ入給ふ。山王院大師、熊野権現の在所を尋て参詣し給ふに、雲霞峯を隔て、荊棘道を埋て東西を失、滝尻に留、七日祈誓し給へば、八尺の霊烏飛来て、木の枝を食折て其路を示せば、跡を趁て上つゝ社壇に詣給き。八尺の長頭巾この表示とぞ聞ゆる。花山法皇の那智籠、寛平法皇
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の御参詣、後白川院【*後白河院】(ごしらかはのゐん)の卒都婆の銘、忝(かたじけなく)ぞ覚ゆる。善宰相は、浄蔵貴所の祈祷により閻魔宮よりかへされ、通仁親王は、行尊僧正(そうじやう)の加持により冥途の旅より蘇息せり。皆是大峯修行の効験、権現掲焉の利生也。凡彼山の為(レ)体、三重の滝に望ば、百丈の浪六根の垢を洗ひ、千草の岳に上れば、四季の花一時に開て盛也。ふきうの峯には寒嵐衣を徹し、古家の宿には時雨袖を濡す。彼馳児宿竜のむなしき、大禅師小禅師屏風のそば道、釈迦岳、負釣行者帰、何れも得通の人に非ば争か爰を通ん。然而権現金剛童子の加護にて、無(レ)恙こそ貴けれ。或は高山に登て薪を採、或深谷に下て水を汲。大王の阿私仙に従て、千歳の給仕に相似た(有朋下P521)り。太子の檀特山に入て、六年の苦行に不(レ)異。一見の新客は初僧祇の功徳を得、三度の古衆は三祇却の万行を満たり。誠哉一陀羅尼の行者は智者の頭を歩といへり。是皆垂跡(すいしやく)権現の善巧方便の利益也。証誠殿と申は本地は阿弥陀如来(あみだによらい)、誓願を饒王の往昔に発て、大悲を釈迦の在世に弘め、正覚を十小劫に成して、済度を極十歳に留。一念十念をも不(レ)嫌、五逆十悪猶助給へり。一座無為の実体は、遥(はるか)の西にましませど、随縁化物の権迹は、此砌(みぎり)にぞ住給ふ。前に大河流たり、水功徳池の波を添、後に長山連なれり、風宝林樹の枝に通らし。本地の悲願を仰ぎて、本願誤給はず、必西方浄土(じやうど)に引導給へと申給ける。中にも古里に留置し妻子安穏にと祈給けるこそ、憂世(うきよ)を遁実の道に入りても、妄執は猶尽ざりけりと悲けれ。明ぬれば寂静坊に暇を乞ふとて、和光(わくわう)同塵(どうぢん)は区にましませ共、利益衆生は一なり。両度参詣の契を以て、一仏浄土(じやうど)に必とて、本宮を出給(たま)ひ、備崎
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より舟に乗、時々に苔路をさし、新宮に詣給ふ。一夜通夜し給(たまひ)て、祈誓は本宮に同事、翌日は明日香神蔵に、暫念誦し給(たまひ)て、那智へぞ参給ける。佐野の浜路に著給へば、北は緑の松原影滋く、南は海上遥(はるか)に際もなし。日数の移るに付ても、あた命の促るほど、屠所の羊の足早く、心細くぞおぼしける。那智御山は穴貴と飛竜権現御座、本地は千手観音化現也。(有朋下P522)三重百尺の滝水、修禅の峯より流出て、衆生の塵垢を洗き。千手如意の本誓は、弘誓の船に棹して、沈淪の生類を渡給ふも憑しや。法華読誦(どくじゆ)の音声は、霞の底に幽也。如来(によらい)の説法し給し、霊山浄土(じやうど)に相似たり。観音薩■[*土+垂](さつた)の霊像は、岩の上にぞ座し給ふ大悲の生を利益する、補陀落山とも謂つべし。去し寛和の比、花山法皇の行給にける所とて、時頼入道奉(レ)教ければ、滝本へ下給(たまひ)て其旧跡を拝すれば、今は御庵室も霧に朽て其跡なし。庭上に若草繁して墻根に蔦まとへり。昔の遺を忍べとや、千代の形見に引植させ給ける老木の桜計こそ、折知がほに咲にけれ。加様の事共御覧じけるに、彼は明哲聖主の君、猶浮世をば厭ひ給けり。我は愚昧凡人の臣、何にか執を留べきと思召(おぼしめし)けるにこそ、無始の罪障露消ぬ共おぼしけめ。偖も社頭に念誦し給たりけるに、社参の客僧の中に、五十有余(いうよ)とおぼしき山伏の雨々と泣有。かたへの僧、けしからず、何事にかく泣給ぞと問ければ、此僧答て曰、余に哀なる事有て、そゞろに角泣るゝ也、各知給はずや、只今(ただいま)御前に参給へる道者をば誰とか見給ふ、あれこそ平家の嫡々、故小松大臣の一男、権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛よ、一門に落具して屋島にと聞しが、如何にして是までは伝ひ給たるやらん、
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出家し給たるにこそ、御髪の剃様近き程と見えたり、最哀なる事哉、右の方に少指出て居(有朋下P523)たるは、軈父小松の大臣の侍に、三条斎藤左衛門大夫望頼が子、斎藤滝口時頼よ、あれも建礼門院(けんれいもんゐん)の雑司に、横笛と云女に心を移て通しを、父が勘当を得て、わりなく思し妻に別、親にもしられずして、十八と申しに偸に出家して、高野に登て行澄して有と聞しが、先達して参りたるにこそ、善知識の料と覚たり、左の方に少指退きて居たるは、平治の時悪源太に討れし与三左衛門尉(さゑもんのじよう)景康が子、与三兵衛重景よ、其後なる小入道は、此殿の召仕し石童丸と見えたり、皆出家してけるや、斯る世中に是まで参り給へるは、後世の事を祈念して、水の底にも入なんと思召(おぼしめす)やらん、父の大臣も此御前に参給(たまひ)て後世の事を祈給、下向して程なく失給(たま)ひにしかば、其事思出給ふと覚ゆるぞ哀なる、安元(あんげん)二年の春の比、法皇法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にて五十の御賀の有しに、時の■(きら)に付て、青海波の曲を舞給しに、前には月卿(げつけい)玉冠を研て十二人、後には雲客(うんかく)花の袂(たもと)を連ねて十五人、其中に父大臣は内大臣(ないだいじん)の左大将、叔父宗盛は中納言右大将(うだいしやう)、知盛は三位中将(さんみのちゆうじやう)、重衡は蔵人頭(くらんどのとうの)中宮亮已下、一門の月卿(げつけい)雲客(うんかく)、今日を晴ときらめきて、皆花やかなる貌にて、舞台の垣代に立給たりし時は、さしもうつくしくおはせしが、中にも此時は、四位(しゐの)少将にて舞給たりしかば、嵐に類花の色、匂を招く舞の袖、天を照し地も耀程に見えしかば、簾中簾外皆さゞめき立(有朋下P524)て、桜梅の少将とこそ申しゝか。哀にうつくしく見え給ふ人かな、今三四年が程に、大臣の大将は疑あらじものをと、諸人に謂給しぞかし。去共竜樹菩薩の釈に曰、世間如(二)車輪(一)、時変似(二)
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輪転(一)文、げに只今(ただいま)の有様(ありさま)に引替て御座るを見れば、朝の紅顔夕の白骨、理也と思合て泣るゝなりと語ければ、皆人々柿の衣の袖をぞ絞りける。
S4006 中将入道入(レ)水事
中将入道(にふだう)、三の山の参詣事ゆゑなく被(レ)遂ければ、浜宮の王子の御前より、一葉(いちえふ)の舟に棹さして、万里の波にぞ浮給ふ。遥(はるか)の沖に小島あり、金島とぞ申ける。彼島に上りて松の木を削つゝ、自名籍を書給(たま)ひけり。
平家嫡々正統小松内大臣重盛公(しげもりこう)之子息、権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛入道、讃岐屋島戦場を出て、三所権現之順礼を遂、那智の浦にて入水し畢。
元暦元年三月二十八日(にじふはちにち)、生年二十七と書給(たま)ひ、奥に一首を被(レ)遺けり。
生ては終にしぬてふ事のみぞ定なき世に定ありける K216
其後又島より船に移乗、遥(はるか)の沖に漕出給ぬ。思切たる道なれど、今を限の浪の上、さこそ心細かりけめ。三月の末の事なれば、春も既(すで)に暮ぬ。海上遥霞籠、浦路の山も幽(有朋下P525)也。沖の釣舟の波の底に浮沈を見給ふにも、我身の上とぞ被(レ)思ける。帰雁の雲井の余所に一声二声(ふたこゑ)音信(おとづるる)を聞給(たまひ)ても、故郷へ言伝せまほしくおぼしけり。西に向ひ掌を合、念仏高く唱へつゝ、心を澄し給へり。既水に入給かと見えけるが、念仏をとゞめて宣(のたまひ)けるは、噫呼今を限とは争か都に知るべきなれば、風の便の言伝は、折節(をりふし)毎にあひまたんずらん、終に隠れあるまじければ、世になき者と聞て、いか計か歎悲まんずら
P1011
ん、思連らるぞや、縦水の底に沈む共、などや今は限の文一なからんと、恨ん事も糸惜かるべし、されば後の世の形見にもなれかしと思へば、最後の文をかゝばやと思也とて、軈(やが)て書給へり。さて都を出て西国(さいこく)に落留たらば、迎奉らんとこそ思申しに、敵に攻られて此にも彼にも安堵せねば、そも不(レ)叶、とても遁るまじき身也、年月を重て積る思も晴がたければ、忍つゝ山伝して、今一度見もしみえ奉て、如何にもならんは力なしと思立て、屋島をばあくがれ出たれ共、浦々島々に敵充満たりと聞ば、平かに上付て、人々を見奉らん事もかたし、甲斐なき者共に虜れて、重衡卿(しげひらのきやう)のやうに恥をさらさん事も、身の為人の為、日比(ひごろ)の思に打そへて、由なく思侍つれば、道より思返て、高野に登髪を落し、戒を持つて、貴き所々拝廻、熊野に参後世を祈、那智の海にて空く成侍りぬ、角と聞給(たまひ)ての御歎、兼て思置(有朋下P526)奉こそ痛しけれ。御身と云少者と申、後いかならんと思残す事侍らず、心の中只推量給べし、舟中より申せば、筆の立所もさだかならず、朽せぬ契ならば、後世には必とて、奥に、
故郷にいかに松風恨らん沈む我身の行へしらずば K217
とあそばして、武里にたびて後宣(のたまひ)けるは、やゝ入道殿(にふだうどの)、哀人の身に妻子は持まじき者也けり、此世にて物を思のみに非、後世菩提までの妨と成事の心憂さよ、親人にも知らせで、屋島を出しも若や都へ忍著て、今一度相見事もやと思立たりしか共、其事叶べくもなし、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の虜れて、京都鎌倉恥をさらすだにも心憂に、我さへとられ搦られて、父の頭に血をあやさん事もうたてければ、
P1012
思切て髪を剃し上は、今更妄念有べし共覚えざりしに、本宮証誠殿の御前にて、終夜(よもすがら)後世の事を祈申しに、少き者共の事思出て、我身こそ角成ぬ共、故郷の妻子平安に守給へと申されき。又未来の昇沈は、最後の一念によると聞ば、一心に念仏申て、九品の蓮台に生んと、今を最後の正念と思へば、又思出ぞや、誠や思事を心中に残すは妄念とて、罪深しと聞ば懺悔する也と語給へば、時頼入道涙を押拭て、尊き卑も、恩愛の道は繋けるくさりの如くとて、力及ざる事に侍り、さ(有朋下P527)れば迷を捨て悟をとる、釈迦如来(しやかによらい)菩提の道に入らんとて、十九にして城を出給(たま)ひしに、耶■陀羅女(やしゆだらによ)に遺を惜て出兼給けり、仏猶如(レ)斯、況凡夫をや、尤悲むべし、争か不(レ)痛、中にも夫妻は一夜の契を結ぶ、既(すで)に五百生の宿縁と申せば、此世一の御事にあらず、角思召(おぼしめす)尤理なれ共、生者必滅会者定離は憂世(うきよの)習なれば、縦遅速こそ有とも、後れ先立御別、終になくてや侍べき、いつも同事と可(レ)被(二)思召(一)(おぼしめさるべし)、但第六天の魔王と云外道は、欲界人天を我奴婢と領じて、此中の衆生の仏道を行し、生死を離るゝ事を惜み憤りて、様々の方便を廻し、是を妨内、或子と成て菩提の大道を塞、或妻と成て愛執の牢獄を不(レ)出、去共三世の諸仏者、一切衆生を悉に我御子の様に思召(おぼしめし)て、浄土(じやうど)不退の地に勧入んとし給ふに、妻子と云者生死を繋紐なるが故に、仏の重く誡給ふは即是也、御心よわく不(二)思召(一)(おぼしめさず)、伊予入道頼義(らいぎ)は、東国の俘囚貞任宗任を亡さんとて、十五年の間、人の首を切事、一万五千人(いちまんごせんにん)、山野の獣、江河の鱗に至まで、其命を断事幾千万と云数を知ず。去共一念菩提心を発しに依、往生する
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事を得たり。御先祖平将軍(へいしやうぐん)は、相馬(さうまの)小次郎(こじらう)将門(まさかど)を討て、東八箇国を鎮給しより以来、相続朝家の御守にて、嫡々九代に成給へば、君こそ今は日本国(につぽんごく)の大将軍にて御座(おはします)べけれ共、故小松大臣世を早うせさせ給(たまひ)しかば、御身に積る御罪業ある(有朋下P528)べし共覚えず、況出家の功徳は莫大なれば、先世の罪障悉に亡給らん。謹で諸経の説を案ずるに、百千歳が間百羅漢を供養するも、一日出家の功徳には及ず、縦人ありて七宝の塔を立ん事、高さ三十三天(さんじふさんてん)に至とも、一日出家の功徳には猶及難しといへり。又一子出家すれば、七世の父母皆得脱す共明せり、七世猶如(レ)此、況我身に於をや。さしも罪深き伊予入道、心強きが故に往生を遂、させる罪業おはしまさゞらんに、などか極楽へ参給はざるべき。中にも弥陀如来(みだによらい)は、十悪五逆をも嫌ず、一念十念をも導給はんと云悲願御座、彼願力を憑まん人疑やは有べき。二十五の菩薩を引具し給(たまひ)て、伎楽歌詠し、只今(ただいま)極楽の東門を出来給べし。観音捧(二)蓮台(一)、勢至合(レ)掌迎給はんずれば、今こそ蒼海の底に沈と思召(おぼしめす)とも、則紫雲の上にこそ昇り給はんずれ。成仏(じやうぶつ)得脱して、神通身に備給(たま)ひなば、娑婆の故郷に還て恋しき人をも御覧じ、悲き人をも導給はん事、いと安かるべしと申ければ、中将入道然べき善知識にこそと嬉敷て、忽(たちまち)に妄念を翻て正念に住し、又念仏高く唱給、光明(くわうみやう)遍照十方世界、念仏衆生、摂取(せつしゆ)不捨と誦し給(たま)ひつゝ、海にぞ入給にける。与三兵衛入道、石童丸も、同連て入にけり。舎人武里是を見て、余(あまり)の悲さに海へいらんとしけるを、如何にうたてく御遺言(ごゆいごん)をば違るぞ、下揩アそ口惜けれとて、時頼入道(有朋下P529)いだき留たりければ、船の中に
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伏まろび、喚叫事不(レ)斜(なのめならず)。悉達太子の十九にて檀特山に入給(たま)ひし時、車匿舎人が被(レ)棄て悶焦けんも、是には過じとぞ見えし。時頼入道も流石(さすが)哀に悲くて、墨染の袖絞り敢ず、若浮もぞ上り給ふとて暫見けれ共、三人ながら深沈みて見えざりけり。日も既(すで)に暮ければ、名残(なごり)は惜く思へ共、空き舟を漕もどす。梶の雫落る涙、何れもわきて見えざりけり。礒近く成儘に、渚(なぎさ)の方を見れば、海士共多く集て沖の方へ指をさし、何とやらん云ければ、奇しく覚えて船を指寄て問。老人申けるは、沖の方に例ならず音楽の声しつれば、各奇く聞侍つる程に、又先々もなき紫色の雲一村、彼の程に出来て侍つるが、程なく見えず成ぬ。既(すで)に八十に罷成ぬれ共、未あれ様の雲も見侍ずと語けり。さては此人々の往生の瑞相顕れぬ、如来(によらい)の来迎に預て、紫金の台に乗給にけりと思ければ、別離の涙、随喜の袂(たもと)とり/゛\どり也。
< 或説に云、三山の被(レ)遂(二)参詣(一)にければ、高野へ下向ありけるが、さてしも遁はつべき身ならねばとて、都へ上り院(ゐんの)御所(ごしよ)へ参て、身謀首にも侍らねば、罪深かるべきにも非ず、命をば助らるべき由をぞ申入ける。事の体不便に被(二)思召(一)(おぼしめされ)て、関東へ被(二)仰遣(一)けり。頼朝(よりとも)御返事(おんへんじ)に、彼卿を下し給(たまひ)て、体に随て可(二)申入(一)と申たりければ、可(二)罷下(一)由法皇より被(二)仰下(一)ける。後は飲食を断たりけ(有朋下P530)るが、廿一日と云けるに、関東へも下著せず、相模国(さがみのくに)湯下宿にて入滅ともいへり。禅中記に見えたり。
或説には、那智の客僧等是を憐て、滝奥の山中に庵室を造りて隠し置たり。其所今は広き畑と成て、彼人の子孫繁昌しておはす。毎年に香を一荷那智へ備ふる外は別の公事なし。故に爰を香■(かうはだ)と云と、入海は偽事と云云。 >
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時頼入道は高野へ上にけり。武里は讃岐屋島に下にけり。御弟の新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)に奉(レ)逢、三位中将(さんみのちゆうじやう)入道殿(にふだうどの)宣(のたまひ)ける事共、有の儘に語申せば、穴心憂や、如何なる事成共、などや資盛には知せ給はざりける、さあらば御伴申て同水底にも入なまし物を、我憑奉る程は思給はざりけるうらめしさよ、一所にて如何にもならんとこそ申しゝかとて、涙を関敢ず流しけるこそ無慙なれ。三位中将(さんみのちゆうじやう)をば、池(いけの)大納言(だいなごん)の如くに、頼朝(よりとも)に心通はして京へ上にけりと、大臣殿も心得(こころえ)給(たまひ)て、資盛にも打解給はざりつるに、さては身を投給ける事の悲しさよ、云置給事はなしやと問給へば、武里泣々(なくなく)申けるは、京へは穴賢上るべからず、屋島へ参て有つる事共委申せ、一所にて如何にもならんとこそ思侍りしか共、都に留置し少き者共の余に■(おぼつか)なくて、有そらもなかりしかば、若や伝ひ上て今一度見ると思て、あくがれ出たりしか共、叶ふべき様なければ角罷成ぬ、備中守も討ぬ、維盛もかく成ぬれば、如何にも便なく思召(おぼしめす)らんと(有朋下P531)心苦しくこそ侍れ、又唐皮小烏までの事、細々と申たりけるを聞給(たまひ)て、今は資盛とても非(レ)可(レ)叶と、宣も敢ず御涙(おんなみだ)を流し給ふ。故三位中将(さんみのちゆうじやう)にゆゝしく似たれば、武里も見奉りては、共に袖をぞ絞りける。(有朋下P532)