『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十一
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弥巻 第四十一
S4101 頼朝(よりとも)叙(二)正四位下(しやうしゐのげ)(一)附崇徳院遷宮事
元暦元年三月二十八日(にじふはちにち)の除目に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)正四位下(しやうしゐのげ)に叙す。尻付には追(二)討義仲(よしなか)(一)賞とぞ有ける。元従五位下なれば、已五階の賞に預る。勲功の越階、其例あるに依なり。
同四月十五日子時に、崇徳院遷宮あり。春日が末北河原の東也。此所は大炊殿の跡、先年の戦場也。去し正月の比より、民部卿成範卿、式部権少輔範季、両人奉行として被(二)造営(一)けるが、成範卿は故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)が子息也。信西保元の軍の時、御方にて専事行はれ、新院を傾け奉たる者の息男也。造営の奉行神慮はゞかり有とて、成範を改られて、権大納言(ごんだいなごん)兼雅卿奉行せられけり。法皇御宸筆(ごしんぴつ)の告文有、参議式部大輔(たいふ)俊綱卿(としつなのきやう)ぞ草しける。権大納言(ごんだいなごん)兼雅卿、紀伊守範光、勅使をつとむ。御■(ごべう)の御正体には御鏡を被(レ)用けり。彼御鏡は、先日御遺物を兵衛佐(ひやうゑのすけの)局に御尋(おんたづね)ありけるに、取出て奉たりける八角の大鏡也。元より金銅普賢の像を鋳付奉たりける。今度平文の箱に被(レ)奉(レ)納たり。又故宇治左大臣の■(べう)(有朋下P534)同東の方にあり。権大納言(ごんだいなごん)拝殿に著して、再拝畢て告文を披かれて、又再拝ありて、俗別当神祇大副卜部兼友朝臣に下給ふ。兼友祝申て前庭にして焼(レ)之けり。玄長を以別当とす。〈 故教長卿子 〉慶縁を以て権別当とす。〈 故西行法師子 〉遷宮の有様(ありさま)、事に於て厳重也き。
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S4102 忠頼被(レ)討付頼盛(よりもり)関東下向事
同廿六日(にじふろくにち)に、甲斐の一条次郎忠頼被(レ)誅けり。酒礼を儲て謀て、宮藤次資経、被官滝口朝次等是を抱たりけり。忠頼為方なくて亡にけり。郎等あまた太刀を抜て縁の上に走昇り、打て懸りけるを搦捕んとしける程に、疵を蒙者多かりけり。忽二三人は伏誅せられ、其外は皆虜られぬ。忠頼が父、武田太郎信義を追討すべき由、頼朝(よりとも)の下知に依、安田三郎義貞は甲斐国へ発向す。義貞が為には信義は兄也、忠頼は甥ながら聟なりけり。世に随習とて、兄誅罰に下りけるこそ無慙なれ。
同五月十五日、前大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)上洛し給へり。関東にて被(二)賞翫(一)給ける事、心も詞も及がたし。此人鎌倉へ下り給(たま)ひける事は、平家都を落給しに、共に打具して下給ふ程に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)兼ての状を憑て、道より返給へり。彼状には難(レ)遁命を寛して生られ奉りし事、偏(ひとへ)に池尼御前の芳恩に侍り、其御志生生に忘(有朋下P535)難、頼朝(よりとも)世に経廻せば、御方に奉公仕て、彼御恩に可(レ)奉(レ)報、此条■飾(けうはう)の作言に非、且は二所八幡の御知見を仰ぐと、度々被(二)申上(一)たりければ、深其状を憑て落残給たれ共、頼朝(よりとも)こそ角は思共、木曾冠者(きそのくわんじや)十郎蔵人、我に情を置べきに非、如何成行んずらん、波にも著ず、磯にも著ぬ風情して、肝心を砕て過給ける程に、行家は木曾に恐て都の外に落ぬ、義仲(よしなか)は九郎冠者に討れければ、聊安堵し給へるに、兵衛佐(ひやうゑのすけ)より重て状を上せ給へり。企(二)上洛(一)可(二)参申(一)之処、其状当時難治に侍り、急御下向あらば畏存ずべし、且故尼御前を見奉と思侍べし、宗清左衛門尉(さゑもんのじよう)、同可(レ)被(二)召具(一)と被(レ)申たりけるに依て下向給(たま)ひけり。弥平左衛門尉(やへいざゑもんのじよう)宗清と云は、本は平家の一門なりけり。当時侍振舞にて、
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池殿には相伝専一の者也。頼朝(よりとも)の命に任て可(二)召具(一)由被(レ)仰けるに、宗清辞申けり。大納言(だいなごん)如何にと問給へば、君は角て御渡あれ共、御一門の公達西海に漂て、安き御心なし、思遣奉に心憂く覚えて、安堵の心侍らず、今度の御伴をば暇給(たまひ)て、追て可(二)下向仕(一)と申也。大納言(だいなごん)苦々しく恥思給(たまひ)て、一門を引別て落留る事、我身ながらもいみじとは存ね共、妻子もあれば世も難(レ)捨て、甲斐なき命も惜ければ憖(なまじひ)に留りき、此上は留るべきに非ず、下らんと思也、大小事汝にこそ被(二)仰合(一)しか、落留し事不(レ)受思はば、其時などや所存を申さざりけるぞと(有朋下P536)宣へば、宗清、人の身に命に過て惜き物やは候べき、身あれば又世は捨られぬ事なれば、御とまりを悪しとには非ず、兵衛佐(ひやうゑのすけ)も命を被(レ)生進せてこそ懸幸にも合給へ、平治之時預置時、情ある体にて相当りし事、又故尼御前仰にて、近江国篠原宿まで送奉し事、忘ぬと承れば、御伴申て下たらば、定て所領引出物なんど給はんずらん、其に付ても西海に御座(おはしま)す公達侍共の待聞ん事恥しく侍れば、今度は暫罷留るべし、君は落留御座上は、御下向なからんも中々様がましかるべし、兵衛佐(ひやうゑのすけ)尋申されば、折節(をりふし)労る事ありと申度こそ侍れとて下らざりければ、聞人げにもと感じ申けり。大納言(だいなごん)鎌倉に下著し給たりければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)急見参し給けるに、先宗清左衛門尉(さゑもんのじよう)は御伴歟と被(二)尋申(一)労事有て下向なしと宣(のたまひ)ければ、世にも本意なげにて、頼朝(よりとも)召人にて宗清がもとに預置れたりしに、事にふれて情深あたり申しかば、難(レ)忘恋しくも覚えて、必可(レ)被(二)召具(一)由兼て申上せて侍れば、御伴には定めて下り候らんと相存知て候へば、返々
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遺恨に候き。平家都を落ぬ、今更頼朝(よりとも)に面を合ん事よ、など云意趣も残侍にやとまで宣て、誠に本意なしと思へる気色也。宗清が料とて、所領の宛文まで成儲、馬鞍絹染物等、様々の引出物用意あり。其上大名三十人に仰て、一人別の結構(けつこう)には、鞍置馬裸馬各一匹、長櫃一合、其中には宿物一領、小袖(有朋下P537)十領、直垂五具、絹十匹入べし、此外不(レ)可(レ)過(レ)分と被(二)下知(一)ければ、三十人面々(めんめん)に我おとらじと、馬は六鈴沛艾を撰び、鞍は金銀を鏤たりけれ共、下らざりければ、是も面々(めんめん)に本意なき事にぞ思ひ申ける。大納言殿(だいなごんどの)をば、暫鎌倉にも御座(おはしま)し候へかしと宣(のたま)ひけれ共、京都にも■(おぼつかな)く思ふらんとて、急被(二)上洛(一)ければ、大納言殿(だいなごんどの)に可(レ)奉(二)成返(一)之由被(レ)申内奏ける上、本の知行庄園は一所も無(二)相違(一)、其外所領八箇所下文等書副て奉。鞍置馬二十匹、裸馬廿匹、長持二十合、中には衣染物砂金鷲羽など被(レ)入たり。其値十万余貫に及べりと云。兵衛佐(ひやうゑのすけ)加様にもてなし給ければ、大名小名我も/\と引出物を奉。宗清が料の用意も皆此殿にぞ奉りける。去ば上り給けるには、馬も三百匹に余けり。命を生給へるだにも難(レ)有、剰徳付所知得給へりと披露有ければ、人の口様々也。或は家の疵を顧ず、一門を引分て、永く名望を失て、今に存命を全する事不(レ)可(レ)然と謗る者もあり。又池尼公、頼朝(よりとも)を宥生ずば、頼盛(よりもり)争か虎口を遁て鳳城に還らん、積善の家には必有(二)余慶(一)と云、誠なるかなと、羨嘆る者もあり。其口何れも理也。
S4103 義経関東下向附親能搦(二)義広(一)並除目事(有朋下P538)
同六月一日、源九郎義経、不(レ)申(二)身之暇(一)、潜に関東へ下向す。梶原平三景時が為に讒言せられて、無
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(レ)誤事を謝んとぞ聞えし。其間に土肥次郎実平、西国(さいこく)より飛脚を立つ。九国の輩大略平家に同意之間、官兵不(レ)得(レ)利之由言上したりけれ共、義経平家追討の事を抛て下向したりければ、人皆傾け申けり。
同三日前斎院次官親能、〈 前明経博士広季子頼朝(よりとも)之臣専一者也 〉双林寺にして前美濃守義広を搦捕間、両方疵を蒙者多し、木曾(きそ)義仲(よしなか)に同意して、去正月合戦之後、跡を晦してなかりけるに、今在所をあなぐられて、遂に被(二)搦捕(一)けり。此義広と云は、故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)が末子也。武を以ては夷賊を平げ、文を以は政務を糺すとこそ云に、親能は明経博士也。義広は源家の勇士也。今重代武勇の身と生れて、儒家の為に虜れけるこそ口惜けれと、人皆脣をかへして爪を弾く、実と覚えたり。
同六日、前大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)大納言(だいなごん)に還任す。蒲冠者範頼参川守に任じ、源広綱駿河守に任じ、源(みなもとの)義延武蔵守に任じけり。此等は内々頼朝(よりともの)朝臣(あそん)吹挙申けるとぞ聞えし。
S4104 三日平氏付維盛旧室歎(二)夫別(一)並平氏歎事
同八日、去晦日、平氏備前国に責来る。甲斐源氏に板垣患者兼信、〈 信義次男 〉美濃国を出(有朋下P539)て、備後国に行向て合戦しけり。平氏の船十六艘を討取間、両方命を失ふ者其数を不(レ)知、依(レ)之(これによつて)兼信、美作(みまさかの)国司に任ずべき由言上しけり。
伊賀国山田郡住人(ぢゆうにん)、平田四郎貞継法師と云者あり。是は平家の侍肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)が弟也。平家西国(さいこく)に落下て、安堵し給はずと聞えければ、日比(ひごろ)の重恩を忘れず、多年の好みを思て、当家に志ある輩、
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伊賀伊勢両国の勇士催し、平田城に衆会して謀叛を起し、近江国を打従へて、都へ責入べしと聞えければ、佐々木源三秀義驚騒ぎけり。我身は老体なれば、東国西国(さいこく)の軍には、子息共を指遣不(二)下向(一)、近き程に敵の籠たるを聞ながら、非(レ)可(二)黙止(一)とて、国中(こくぢゆう)の兵を催集て、伊賀国へ発向ければ、甲賀上下郡の輩、馳集て相従けり。秀義は法勝寺(ほつしようじ)領大原(おほはらの)庄に入、平家は伊賀壬生野平田にあり、行程三里には不(レ)過けり。源平互に、勝に乗べきか、敵の寄るを待べき歟と評定しけり。平家の方に伊賀国住人(ぢゆうにん)壬生野新源次能盛と云ふ者の計ひ申けるは、当国は分限せばし、大勢乱入なば国の煩人歎也、近江国へ打出て、鈴鹿山を後に当て軍せんに、敵弱らば蒐てんず、敵健ならば山に引籠、などか一戦せざるべきと云ければ、然べしとて、源次能盛、貞継法師、三百(さんびやく)余騎(よき)の兵を引率して、柘殖郷、与野、道芝打分て、近江国甲賀郡、上野村、■窪(ふしくぼ)、篠鼻田、堵野に陣を取て、北に向て引へたり。(有朋下P540)佐々木は、大原(おほはらの)庄油日明神の列、下野に南へむけて陣を取。源平小河を隔て扣へたり。両陣七八段には過ざりけり。互に名対面して、散々(さんざん)に射殺ぬる者もあり、手負者も多し。平家は思切たりければ、命も惜ず戦ふ。源氏の軍緩なりければ、源三秀義一陣に進んで、平氏は宿運既(すで)に尽て西海に落給(たま)ひぬ、残党争源家を傾くべき、蒐よ若党、組や者共と下知しける処に、壬生野の新源次能盛、十三束三伏を、よ引竪めて放つ矢に、透間を射させて馬より落。秀義が郎等、敵をもらさじと目に懸て、暫竪めて放つ矢に、能盛馬より下へ射落さる。敵に頸を取れじと、乗替の童馬より飛下、主の頸を掻落して、
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壬生野の館に馳帰る。源氏郎等共(らうどうども)も、今日の大将軍源三秀義を誅して、五百(ごひやく)余騎(よき)轡を並て、河をさと渡して、揉に揉てぞ蒐たりける。西国(さいこく)の住人(ぢゆうにん)等散々(さんざん)に蒐立られて、自先立者は遁けれ共、後陣は多討れにけり。今は返合するに及ずとて鈴鹿山に引籠。夫よりちり/゛\にこそ成にけれ。平家重代之家人也、相伝恩顧の好難(レ)忘して、思立ける志は哀なれ共、大気なしとぞ覚えたる。三日平氏と笑けるは此事也。
同(おなじき)十七日(じふしちにち)平氏軍兵等舟に乗り、摂津国(つのくに)福原の故郷に襲来る由、梶原平三景時、備前国より飛脚を以て申上たりければ、都のさわぎ不(レ)斜(なのめならず)。
権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)入道(にふだう)の北方は、自の言伝も絶果、風の便の音信(おとづれ)をも聞給はで(有朋下P541)程ふれば、覚束(おぼつか)なくぞ思召(おぼしめし)ける。月に一度などは必文をも待見給へ共、春を過夏も闌ぬ。いかにと成給ぬるやらんと思召(おぼしめし)けるに、三位中将(さんみのちゆうじやう)は屋島には御座(おはしま)さずと云人ありと聞給(たまひ)て、浅猿(あさまし)さの余りに、人を屋島へ奉たりけれ共、それも急返り上らず、早秋にも成にければ、いとゞ為方なくぞおぼされける。七月七日御使返り上たり。如何に御返事(おんへんじ)はと尋給へば、御使涙を流して、去し三月十五日に屋島を出させ給(たまひ)て、高野へ参給たりけるが、時頼入道の庵室にて御髪おろし、其より熊野へ伝給つゝ、三山拝せ給(たまひ)て後、那智の沖にて御身を抛させ給ければ、重景も石童丸も出家し侍りけるが、後世迄の御伴とて同水に入ぬと、熊野迄御伴申たりける舎人武里、たしかに語り申侍りしが、是を最後の御文言伝申侍るとて進せたれば、北方
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取上披き給ふにも及ず、さればこそ怪かりつる者をとばかり宣(のたま)ひて倒れ臥、喚叫給事理にも過給へり。若君姫君も声々に悶焦れ給へり。消も入給ぬと見えければ、若君の乳母(めのと)の女房泣々(なくなく)慰め申けるは、今更驚思召(おぼしめす)べきに非ず、是皆兼て思召(おぼしめし)儲し御事也、本三位中将殿(ほんざんみのちゆうじやうどの)の様に、生ながら取れて御恥をさらし、又弓矢のさきにかゝり御命を失ひ給はば、同御別と申ながら、いかばかりかは悲侍べきに、高野にて御髪おろし御戒持て、熊野へ参御座(おはしまし)て、故小松殿(こまつどの)の御様(おんさま)に、後世の事を厭しく申させ(有朋下P542)給つつ、臨終正念にて沈入せ給(たま)ひけり。願てもあらまほしき御事なれば、御心安(おんこころやすく)こそ思召(おぼしめす)べけれ、痛敷御歎候まじ、今は如何なる山の中岩の迫にても、少き人々を生立、御形見にも御覧ぜんとこそ思召(おぼしめ)さめ、無人の御為に、心を尽し身を苦しめさせ給(たまひ)ても何の詮かは侍べき、泣歎き御座(おはしま)す共、返来り給ふべきに非ず、都を落て道狭き御身となり御座(おはしまし)し上は、賢くも御計ひ候けりとこそ思召(おぼしめし)候はめなど申ければ、女房涙の隙より、御文を披見給ふに、
古郷にいかに松風恨むらん沈む我身の行へしらずば K218
と読給(たまひ)ては、其文を顔にあて胸に当て、忍兼給へる有様(ありさま)なり。様をも窄し身をも投給べきまでに見給ぞ無慙なる。三位中将(さんみのちゆうじやう)高野に上り出家し、那智の澳に沈ぬと聞えければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)宣(のたまひ)けるは、あゝ賢かりし人の子にて、賢計し給けり、但隔なく打向来りせば、命をも宥申てまし、小松内府の事疎ならず、池尼御前の御使として、頼朝(よりとも)を流罪に申宥られしは、偏(ひとへ)に彼人の芳恩たりき、争か其
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恩を忘べきなれば、其子息達疎に思はず、殊入道出家し給けん上は子細にや及べき、高野に籠て心静に後世をば祈給はで、糸惜糸惜とぞ宣(のたま)ひける。
平家は屋島に返り給(たまひ)て後、又東国より討手二十万(にじふまん)余騎(よき)、既(すで)に都に著て西国(さいこく)(有朋下P543)へ責下共聞ゆ。九国の輩尾形三郎を始として、臼杵、戸槻、松浦党等、二千(にせん)余艘(よさう)にて四国へ渡るべし共聞。此を聞彼を聞にも、心を迷し肝を砕く。一門の人々は一谷(いちのたに)にて多く討れ給ぬ、憑給へる侍共も又残少く討れにき、今は力尽果て、只阿波民部大夫成良が、四国の輩を語たるばかりを深憑給へるぞ危き。そも東西より責るにはおだしからん事有まじと、兼ておぼすぞ悲き。女院二位殿(にゐどの)を始奉て、女房達(にようばうたち)さしつどひつゝ、涙にのみぞ咽給ふ。
七月二十五日には、平家去年の朝までは都に在し者を、泡立しく去年の今日、花の栖を迷出て、草の枕に仮寝して、明ぬれば磯打波に袖をぬらし、晩ては藻塩の煙に肝を焦す、つながぬ月日と云ながら、角て程なく廻来にけりと思召(おぼしめす)にも、最都の恋さに、各袂(たもと)を絞けり。
S4105 新帝御即位付義経蒙(二)使宣(一)並伊勢滝野軍事
同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)には、新帝太政官庁にて御即位あり。大極殿(だいこくでん)いまだ造れねば、是にして被(レ)行。治暦四年七月に、後三条院(ごさんでうのゐん)の御即位の例とぞ聞えし。神武天皇(じんむてんわう)より以来八十二代、神璽宝剣なくして御即位例、今度始とぞ申す。
八月六日、九郎義経左衛門尉(さゑもんのじよう)に成て、即使の(有朋下P544)宣を蒙て、九郎判官と申けり。是は一谷(いちのたに)合戦勧賞とぞ
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聞し。同(おなじき)十一日九郎判官義経は、和泉守平信兼が、伊勢国(いせのくに)滝野と云所に城郭(じやうくわく)を構て、西海の平家に同意すと聞て、軍兵を指遣して是を責。信兼に相従郎等百余人(よにん)城内に籠て、皆甲冑を脱棄て大肩脱に成、楯の面に進出て散々(さんざん)に射ければ、義経が郎等多被(二)討捕(一)けり。矢種尽にければ城に火を放ち、信兼已下自害して、炎の中に焼死けり。誠に由々敷ぞ見えし。負(二)■苡(よくい)之讒(一)、遂に亡けるこそ無慙なれ。〔又九月十八日(じふはちにち)に、九郎判官義経叙(二)従五位下(一)、検非違使(けんびゐし)如(レ)元。〕
S4106 屋島八月十五夜附範頼西海道下向事
同(おなじき)十五日、屋島には秋も既(すで)に半に成にけりと哀也。何しか稲葉の露も置増つゝ、荻吹風も身に入に、蜑人の燃藻の夕煙、尾上の鹿の暁の声、哀も催す便也。さらぬだに秋の空は物憂に、宿定らぬ旅なれば、何事に付ても心を傷しめずと云事なし。此春より後は、越前三位の北方の様に、波の底に身を沈むるまでこそなけれ共、女房達(にようばうたち)の明ても暮ても臥沈み泣給も糸惜。顧(二)故郷於万里之雲外(一)、忍(二)旧儀於九重月前(一)、今夜は名を得たる月なれば、人々隈なき空を詠けるに、左馬頭(さまのかみ)行盛かくぞ読給(たま)ひける。(有朋下P545)
君すめばこれも雲井の月なれど猶恋しきは都なりけり K219
と、是を聞ける人々、皆涙を流しけり。
九月二日、参川守範頼、平氏追討の為に西海道に下向す。相従輩には、足利蔵人義兼、武田兵衛有義、板垣冠者兼信、斉院次官親義、佐々木三郎盛綱、北条四郎時政、土肥次郎実平父子、千葉介経胤、其孫境平次経秀、三浦介義澄、子息平六能村、土屋三郎宗遠、渋谷庄司重国、長野三郎重清、稲毛
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三郎重成、弟に榛谷四郎重朝、葛西三郎重清、宇都宮四郎武者所茂家、子息太郎朝重、小山小四郎朝政、同七郎朝光、中沼五郎宗正、比企藤内朝宗、同藤四郎能員、大多和次郎義成、安西三郎秋益、同小次郎(こじらう)秋景、公藤一郎祐経、同三郎秋茂、宇佐美三郎祐能、天野藤内遠景、大野太郎実秀、小栗十郎重成、伊佐小次郎(こじらう)友政、浅沼四郎弘綱、安田三郎能貞、大河戸太郎弘行、同三郎弘政、中条藤次家長、一法房昌寛、土佐房昌春、小野寺禅師太郎通綱等を始として、其(その)勢(せい)十万余騎(よき)、軍船千余艘(よさう)にて室泊に著。去共十二月廿日比(ころ)迄は、室高砂に逗留して、遊君に遊宴して、国は正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)を費し、所には人民百姓は煩はしけれ、上下是を不(二)甘心(一)、大名も小名も、急四国に渡て敵を責られよかしと思けれ共、大将軍の下知による事なれば力及ず。(有朋下P546)
S4107 盛綱渡(二)藤戸(一)児島合戦附海佐介渡(レ)海事
同(おなじき)十八日(じふはちにち)に、九郎判官義経叙(二)従五位下(一)、検非違使(けんびゐし)如(レ)元。平家讃岐屋島に乍(レ)有、山陽道を打靡し、左馬頭(さまのかみ)行盛を大将軍として、飛騨守景家(かげいへ)以下侍を相具して、二千(にせん)余艘(よさう)にて備前国児島著。参川守範頼も、室泊に有けるが、舟より上、同国西河尻、藤戸渡に押寄て陣取。源平海を隔て引へたり、海上四五町には過ざりけり。
同廿五日に、平家海を隔て、扇をあげて源氏招。源氏是見、海を渡せと云こそ、船なくして叶べきならねば、是も以(レ)扇招合ふ。源平遥(はるか)に見渡て、其(その)日(ひ)も徒に晩にけり。爰(ここ)に佐々木三郎盛綱、夜入て案じけるは、渡べき便のあればこそ平家も招らめ、遠さは遠し淵瀬はしらず、如何はせんと思けるが、其
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辺を走廻て浦人を一人語ひ寄て、白鞘巻を取せて、や殿向の島へ渡す瀬は無か、教給へ、悦は猶も申さんと云へば、浦人答て云、瀬は二候、月頭には東が瀬になり候、是をば大根渡と申、月尻には西が瀬に成候、是をば藤戸の渡と申、当時は西こそ瀬にて候へ、東西の瀬の間は二町計、其瀬の広さは二段は侍らん、其内一所は深候と云ければ、佐々木重て、浅さ深さをば争知べきと問へば、浦人、浅き所は浪の音高く侍ると申す。さらば和殿を深く憑也、盛綱を具して瀬踏 (有朋下P547)して見せ給へと懇に語ひければ、彼男裸になり先に立て、佐々木を具して渡りけり。膝に立所もあり、腰に立所もあり、脇に立所もあり。深所と覚ゆるは鬢鬚をぬらす。誠に中二段計ぞ深かりける。向の島へは浅く候也と申て、夫より返る。佐々木陸に上て申けるは、や殿暗さは闇し、海の中にてはあり、明日先陣を懸ばやと思ふに、如何して只今(ただいま)のとほりをば知べき、然べくは和殿人にあやめられぬ程に、澪注を立て得させよとて、又直垂を一具たびたりければ、浦人斯る幸にあはずと悦て、小竹を切集て、水の面よりちと引入て、立て帰て角と申。佐々木悦で明るを遅しと待。平家是をば争か可(レ)知なれば、二十六日(にじふろくにち)の辰刻に、平家の陣より又扇を挙てぞ招たる。佐々木三郎盛綱は、黄生衣の直垂に、緋威(ひをどし)の冑、白星甲、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に、金覆輪の鞍置てぞ乗たりける。家子に和比八郎、小林三郎、郎等に黒田源太を始として、十五騎轡をならべて海へ颯と打入てぞ渡ける。参川守、馬にて海を渡す事やはある、佐々木制せよと宣(のたま)ひければ、土肥、梶原、千葉、畠山承、継て■(あやまり)し給な、返せ返せと声々に制しけれ共、兼て瀬踏
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して澪注を立たれば、耳にも聞入ず渡けり。頭の烏頭、草脇、胸帯尽に立所もあり、深所をば手綱をくれ游せて、浅くなれば物具(もののぐ)の水はしらかし、弓取直し向の岸へさと上る。鐙踏張弓杖にすがりて名乗(有朋下P548)挿絵(有朋下P549)挿絵(有朋下P550)けるは、今日海を渡し、敵陣にすゝむ大将軍をば誰とか見る、宇多天皇(てんわう)の王子、一品式部卿(しきぶきやう)敦実親王より九代の孫、近江国住人(ぢゆうにん)佐々木源三秀義が三男に、三郎盛綱也、平家の方に我と思はん者は、大将も侍も落合て、組や/\と喚て蒐入、散々(さんざん)に蒐。源氏の兵是を見て、海は浅かりけり。佐々木討すな渡せ者共とて、土肥、梶原、千葉、畠山、我先々々と打入打入、五千(ごせん)余騎(よき)向の岸へさと上る。平家は扇を以て度々に招けれ共、流石(さすが)海なれば争か渡すべきと、思ひ延て有けるに、角押寄せ時を造ければ、互に時を合せ、喚叫て戦けり。遠きをば弓にて射、近をば熊手にかけて取、或は射殺され切殺され、源平互に乱合て、隙をあらせず息を継ず、討もあり被(レ)討もあり、取もあり被(レ)取も有ければ、少時と思時の間に、両方八百(はつぴやく)余騎(よき)こそ亡にけれ。佐々木三郎の家子に、上総国住人(ぢゆうにん)和比八郎と、平家の侍に讃岐国住人(ぢゆうにん)加部源次と組合ひて馬より落、上になり下に成、弓手にころび妻手に転び、からかひけるが、源次は遥(はるか)に力勝にて、和比八郎を取つて押へて頸をかく。源平目をすましてぞ見たりける。八郎が従兄弟に小林三郎重隆と云者、加部源次に落合て引組で、是も上に成下に成転びけるが、海の中へぞころび入にける。郎等に黒田源次続きたりけれども、共に海へ入りたりければ、水の底へつゞくに及ばず、汀(みぎは)に立て、今(有朋下P551)やあがる/\と待けれ共、此者共はなほ水底にて、上になり下に成転びければ、波
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の荒き所へ弓のほこを指入れて、彼此を捜りければ、敵の源次弓の筈に取付たり。引上見れば敵也。主の小林も、源次が腰にいだき付て上りければ、敵の源次をば頸を切、主をば取上助てけり。平家是を見て、今は叶はじとや思ひけん、舟にとり乗漕退、矢鋒をそろへて、指詰指詰散々(さんざん)に射。源次は勝に乗、汀(みぎは)をまはりて是も散々(さんざん)に射ければ、平家は児島の城(じやう)を落て、讃岐屋島へ漕返れば、源氏は馬を游がせて、藤戸の陣へ帰にけり。佐々木四郎高綱が、宇治川(うぢがは)の先陣を渡したりをこそ高名と云ひたりしに、同三郎盛綱が、馬にて海を渡す事、漢家本朝ためし無きとぞ源平共に感じける。誠にゆゝしくぞ見えたりき。
< 或説に云く、平家立籠備前国児島、之時、盛綱遥(はるか)に海上を渡し、先陣を蒐て群敵を責落畢。依(レ)之(これによつて)右大将家(うだいしやうけ)御自筆之御下文云、自(レ)古渡(レ)河雖(レ)有(二)先例(一)、未(レ)聞(二)遥渡(レ)海之例(一)と、即賜(二)彼島(一)之上、賜(二)伊予讃岐両国(一)畢。昔備前国に、海佐介と云けるこそ兵の聞え有ければ、西戎を鎮められんが為に、官兵を指副られたりけるに、官軍は船に乗けれ共、佐介は馬に乗ながら、先陣に進て海上を渡る。程なく賊徒を責随へて、又馬に乗ながら海の面を歩せて本国に帰りけるが、備前の内海にて、海鹿と云魚に馬を誤たれた(有朋下P552)りけれ共、馬少もひるまずして、佐介を陸地に著て、後に馬は死けり。其所に堂を立て孝養しけり、馬塚とて今に有。時の人云、馬は竜也、佐介直人に非ずとぞ申ける。佐介は波上を歩せて西戎を従へ、盛綱は水底を渡して平家を落す。>
S4108 義経拝賀御禊(ごけい)供奉附実平自(二)西海(一)飛脚事
十月十一日、義経拝賀を申。拝賀とは、使の宣を蒙て、従五位下に叙しける御悦申也。其夜内の昇殿をゆるさる。火長前を追べしや否やの事、内々大蔵卿(おほくらのきやう)泰経卿に尋申ければ、希代の例なれば、
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身には不(レ)存とて、梅小路中納言長方卿に被(レ)向ければ、殿上の六位の検非違使(けんびゐし)前を追へり。五位尉として相並て雲上に在、前を不(レ)追頗る光花無歟と被(レ)申ければ、前を追へり。総て其作法佐にたがふ事なかりけり。院(ゐんの)御所(ごしよ)にては御前へ被(レ)召けり。伴には布衣の郎等三人を召具す。左衛門尉(さゑもんのじよう)時成、右兵衛尉義門、左馬允有経也。此外武士三百(さんびやく)余人(よにん)路次にまはれり。用心の為にやと覚えたり。
同(おなじき)二十五日に大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)あり、源九郎大夫判官(たいふはうぐわん)義経本陣に供奉す。色白して長短し、容貌優美にして進退優なり。木曾などが有様(ありさま)には似ず、事外に京馴て見えしか共、平家の中にえりくづと云し人にだに(有朋下P553)も及ねば、心ある者は皆昔を忍て袖を絞る。豊御衣今年ぞせさせ給(たま)ひける。節下は後徳大寺(ごとくだいじ)内大臣(ないだいじん)実定公勤給ける。敷政門を入て著陣せられける形勢(ありさま)、最ゆゑ/\しくぞ見え給ける。去々年先帝の御禊(ごけい)には、節下は前(さきの)内大臣(ないだいじん)宗盛勤給き。作法進退優美に見え給しに、今は公庭にて再見奉べきに非ずと申出て、涙流す者多かりけり。平家一族の人々、公事の庭には取々にはなやかにのみ見え給しに、今日は一人も見え給はず、移行世の有様(ありさま)、幾程を経ざれ共、替果にけりと哀なり。
土肥次郎実平が許より飛脚を立て、九郎判官へ申送けるは、前平中納言知盛卿、既(すで)に文字関に攻入、安芸周防已下皆平氏に従ふ、其(その)勢(せい)甚多し。兵船は百余艘(よさう)を以毎度に襲来。船中には大楯を組て其身を顕さず、陸地より馳向時は、矢間を開て馬の腹を射、乗人馬より落時は、歩兵の輩数百人(すひやくにん)、舟より下降て打取間、度々の合戦に官平皆敗畢。親類の者共も多く被(二)討捕(一)畢。実平老体の上重病を
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受、当時の如くは敵対に叶はず、急軍兵を可(レ)被(二)相副(一)と申上せたり。平家は児島の軍に打負て、屋島の館へ漕戻。屋島には、大臣殿を大将軍として、城郭(じやうくわく)を構て待懸たり。新中納言知盛は、長門国彦島と云所に城を構たり。是をば引島とも名付たり。源氏此事を聞て、備前、備中、備後、安芸、周防を馳越て、長門国にぞ著にける。当国の国府には(有朋下P554)三御所あり、浜御所、黒戸御所、上箭御所と云。参川守は此御所御所を見んとて、今夜は爰(ここ)に引へたり。蒼海漫々として、磯越す波旅の眠を驚し、夜の月明々として、水に移影鎧の袖を照しけり。同征馬の旅なれ共、殊に興ありてぞ覚えける。明なば引島の城(じやう)を責べしと議定有けるに、文字、赤間の案内知らでは叶はじとても豊後地へ渡、尾形三郎を先として責べしとて、先使を維能が許へ遣しけり。維能五百(ごひやく)余艘(よさう)の兵船をそろへて参川守を迎奉ければ、範頼是に乗て豊後の地へ渡にけり。去(さる)程(ほど)に十月の末にも成しかば、屋島には浦吹風も烈く、磯越浪も高ければ、船の行通も希なり。空掻陰打時雨つゝ、日数経儘には、都のみ思出て恋しかりければ、新中納言知盛、
住馴し都の方はよそながら袖に波こす磯の松風 K220
と口ずさみ給(たまひ)て、脆はたゞ涙なり。三河守範頼追討使として、既(すで)に発向すと聞えければ、いとゞ心を迷しあへり。
S4109 被(レ)行(二)大嘗会(だいじやうゑ)(一)付頼朝(よりとも)条々奏聞事
十一月十八日(じふはちにち)には、大嘗会(だいじやうゑ)被(二)遂行(一)けり。大極殿(だいこくでん)焼失しにければ、去々年には紫宸殿にし(有朋下P555)て被(レ)行たりける
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が、先帝西国(さいこく)へ落下らせ給たれば、今度不吉例去れんが為に、治暦嘉例に任て、太政官の庁にして被(レ)行けり。
去治承四年より以来、諸国七道の人民百姓、或平家為に被(二)追補(一)、或源氏為に被(二)却略(一)ければ、家烟捨て山林に交、妻子に別れて道路吟て、春東作企忘、秋西収営を棄てければ、国衙(こくが)も庄園も、正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)の所済なければ、如何にしてか加様の大礼(たいれい)も被(レ)行べきなれ共、さて又黙止べき事にあらざれば、如(レ)形被(二)遂行(一)けり。
平家は西海波漂ひて、死生いまだ定らず、東国北国は鎮たれ共、花落上下西国(さいこくの)人民、是非に迷て不(二)安堵(一)。依(レ)之(これによつて)兵衛佐(ひやうゑのすけ)より条々奏聞あり。其状云、
源(みなもとの)頼朝(よりとも)謹奏聞条々事
一朝務以下除目等事
右守(二)先規(一)、殊可(レ)被(レ)施(二)徳政(一)、但諸国受領等、尤可(レ)有(レ)計(二)御沙汰(ごさた)(一)候歟、東国北国両道之国々、追(二)討謀叛輩(一)之間、土民不(二)安堵(一)、於(二)于今(一)者、牢人如(レ)元可(レ)令(レ)帰(二)住旧里(一)候、然者(しかれば)来秋之時被(二)仰含(一)、国司被(レ)行(二)吏務(一)者可(レ)宜候。
一平家追討事
右畿内近国、号(二)源氏平氏(一)、携(二)弓箭(一)之輩、并住人(ぢゆうにん)等、早任(二)義経之下知(一)可(二)引率(一)之由、(有朋下P556) 可(レ)被(二)仰下(一)
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候、海路雖(レ)不(レ)幾、殊急可(二)追討(一)之旨、可(レ)被(レ)仰(二)付義経(一)候也、於(二)勲功之賞(一)者、逐可(二)計申上(一)候。
一諸社事
我朝者神国也、往古之神領不(レ)可(レ)有(二)相違(一)候、其外今度又始於(二)諸社神明(一)、可(レ)被(三)新 加(二)所領(一)候歟、就(レ)中(なかんづく)去比鹿島大明神(だいみやうじん)御上洛之由、風聞出来之後、賊徒追討神戮不(レ)空者、 敵兼又諸社若有(二)破壊顛倒之事(一)者、随(二)破損之分限(一)、可(レ)被(レ)召(二)付受領之功(一)候、其後可 (レ)被(二)載許(一)候。
一恒例神事
守(二)式目(一)、無(二)懈怠(一)可(二)勤行(一)之由、可(レ)被(レ)尋(二)沙汰(一)候。
一仏寺事
諸山御領、如(二)旧例(一)勤行、不(レ)可(二)退転(一)、如(二)近年(一)者、僧家皆存(二)武勇(一)、忘(二)仏法(ぶつぽふ)(一)之間、竪閉(二)修学之枢(一)、併失(二)行徳之誉(一)、尤可(レ)被(二)禁制(一)候、兼又於(二)濫行不信之僧(一)者、不 (レ)可(レ)用(二)公請(一)、至(二)僧家之武具(一)者、自今以後、為(二)頼朝(よりとも)之沙汰(一)任(レ)法奪取、可(レ)与(二)賜朝敵追討之官兵等(一)之由、所(二)思給(一)候也。以前条々言上如(レ)件。(有朋下P557)
元暦元年十一月日 従四位下(じゆしゐのげ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)
とぞ被(レ)申たる。大膳大夫成忠卿此旨を被(二)奏聞(一)。法皇叡覧有て、頼朝(よりとも)は賢人成けるにやとぞ仰せける。
S4110 義経院参(ゐんざん)西国(さいこく)発向附三社諸寺祈祷事
元暦二年正月十日、九郎大夫判官(たいふはうぐわん)義経は、平家追討の為西国(さいこく)へ発向す。先院(ゐんの)御所(ごしよ)に参り、大蔵卿(おほくらのきやう)康経
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朝臣を以奏聞しけるは、平家は栄花身に極、宿報忽(たちまち)に尽て神明にも放たれ奉、君にも捨られ進て西国(さいこく)に漂ひ、此三箇年が間、多の国々を塞、正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)を押領し、人民百姓を悩乱す、是西戎の賊徒にあらずや、今度罷下なば、人をば不(レ)知、義経に於ては、彼輩を悉不(二)討捕(一)者、王城へは不(レ)可(二)帰上(一)、鬼界高麗新羅百済までも、命を限に可(レ)責之由を申、ゆゝしくぞ聞えし。院(ゐんの)御所(ごしよ)を出て西国(さいこく)へ下けるにも、国々の兵共(つはものども)に向て、後足をも踏、命をも惜と思はん人々は、是より返下給へ、打つれては中々源氏の名折也、義経は鎌倉殿(かまくらどの)の御代官なる上、忝勅宣(ちよくせん)を奉たれば、角は申也とぞ宣(のたまひ)ける。
同(おなじき)十三日九郎大夫判官(たいふはうぐわん)、淀を立て渡部へ向。相従輩には、佐渡守義定、大内太郎維義、田代冠者信綱、(有朋下P558)畠山庄司次郎重忠、佐々木四郎高綱、平山武者季重、三浦十郎能連、和田小太郎義盛、同三郎宗実、同四郎能胤、多々良五郎能春、梶原平三景時、子息源太景季、同平次景高、同三郎景能、比良佐古太郎為重、伊勢三郎義盛、庄太郎家永、同五郎弘方、椎名六郎胤平、横山太郎時兼、片岡八郎為春、鎌田藤次光政、武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)等を始として、其(その)勢(せい)十万余騎(よき)也。
同(おなじき)十四日伊勢、石清水、賀茂三社へ奉幣使を被(レ)立、平家追討の御祈(おんいのり)之上、三種神器無(二)事故(一)可(二)返入給(一)之由、被(レ)載(二)宣命(一)けり。上卿は堀川(ほりかはの)大納言(だいなごん)忠親卿(ただちかのきやう)也。又今日より神祇官(じんぎくわん)人并諸社司等、本宮本社にして追討の事可(二)祈申(一)之由、院より被(二)仰下(一)けり。又延暦(えんりやく)、園城寺(をんじやうじ)、東寺、仁和寺(にんわじ)にして、七仏薬師(しちぶつやくし)五壇法、大元延命熾盛光等の秘法数を尽し、調伏の法も被(レ)行けり。
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S4111 平家人々歎附梶原逆櫓事
屋島には、隙行駒の足早く、留らぬ月日明晩て、春は賤が軒端に匂ふ梅、庭の桜も散ぬれば、夏にもなりぬ。垣根つゞきの卯花、五月の空の郭公、啼かとすれば程もなく、秋の色に移て、稲葉に結ぶ露深く、野辺の虫の音よわりつゝ、冷じき比も過暮て、冬の景気(有朋下P559)ぞ冷き。麓の里に時雨して、尾上は雪も積けり。角て春を送春を迎て既(すで)に三年にもなりぬ。東国の兵の責来と聞えければ、越前三位の北方の様に、身を投るまでこそ無れ共、有空も覚えねば、女房達(にようばうたち)はさしつどひつゝ、唯泣より外の事ぞなき。
内大臣(ないだいじん)宣(のたまひ)けるは、都を出て既(すで)に三年になりぬ。浦伝島伝して、明し晩すは事の数ならず、入道の世を譲りて福原へ下給たりし其跡に、高倉宮(たかくらのみや)とり逃し奉たりし程心憂かりし事はなしと被(レ)仰ければ、新中納言は、都を出し日より、少も後足を可(レ)引とは思はず、東国北国の奴原も、随分に重恩をこそ蒙たりしか共、今は恩を忘契を変じて、悉に頼朝(よりとも)に随付ぬ、西国(さいこく)とても憑しからず、さこそはあらんずらんと思ひしかば、唯都にて弓矢太刀刀の続かん程は禦戦て、討死射死をもして、名を後の世に留、家々(いへいへ)に火をも懸て、塵灰とも成んと思しを、身一人の事ならねばとて、人なみ/\に都をあくがれ出て、終に遁まじき者故に、斯憂目を見るこそ口惜けれとて、大臣殿の方を拙気に見給(たまひ)て、涙ぐみ給(たま)ひけるぞ哀なる。
同(おなじき)十五日に、源氏は西国(さいこく)へ発向す。日比(ひごろ)渡部、神崎(かんざき)両所にて舟ぞろへしけるが、今日既(すで)に纜を解て、三河守範頼は神崎(かんざき)を出て、山陽道より長門国へ赴き、大夫判官(たいふはうぐわん)義経は、南海道より四国へ渡るべしとて、
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大物が浜にあり。平家は又屋島を以て城郭(じやうくわく)とし、彦島を以軍の陣とす。(有朋下P560)前中納言知盛卿、九国の兵を卒して門字関を固たり。大夫判官(たいふはうぐわん)は大物浦にて、大淀の江内忠俊を以て船揃して、軍の談議ありけるに、梶原平三景時申けるは、船に逆櫓と申物を立候て、軍の自在を得様にし候ばやと申けり。判官、逆櫓とは何と云事ぞと問給へば、梶原は、逆櫓とは船舳に艫へ向て櫓を立候。其故は、陸地の軍は、進退逸物の馬に乗て、心に任て懸るべき処をば蒐、可(レ)引折は引も安き事にて侍り。船軍は押早めつる後、押戻すはゆゝしき大事にて侍べし、敵つよらば舳の方の櫓を以て押戻し、敵よわらば元の如艫の櫓を以て押渡し侍らばやと申たりければ、判官、軍と云は、大将軍が後にて蒐よ責よと云ふだにも、引退は軍兵の習なり、況兼て逃支度したらんに、軍に勝なんやと宣へば、梶原、大将軍の謀の能と申は、身を全うして敵を亡す、前後をかへりみず、向ふ敵ばかりを打取んとて、鐘を知ぬをば、猪武者とてあぶなき事にて候、君はなほ若気にて、加様には仰せらるゝにこそと申。判官少色損じて、不(レ)知とよ、猪鹿は知ず、義経は只敵に打勝たるぞ心地はよき、軍と云は、家を出し日より敵に組て死なんとこそ存ずる事なれ、身を全せん、命を死なじと思はんには、本より軍場に出ぬには不(レ)如、敵に組で死するは武者の本也、命を惜みて逃は人ならず、去ば和殿が大将軍承たらん時は、逃儲して(有朋下P561)百挺千挺の逆櫓をも立給へ、義経が舟にはいま/\しければ、逆櫓と云事聞とも聞じと宣へば、あたり近兵共(つはものども)是を聞て、一度に咄と笑ふ。梶原、よしなき事申出してけりと赤面せり。判官は、抑景時が義経を
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向う様に猪に喩る条こそ希怪なれ、若党ども景時取て引落せと宣へば、伊勢三郎義盛、片岡八郎、武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)等、判官の前に進み出で、既(すで)に取て引張るべき気色なり。景時是を見て、軍談議に兵共(つはものども)が所存をのぶるは常の習、能義には同じ悪きをば棄、如何にも身を全して、平家を亡すべき謀を申景時に、恥を与んと宣へば、返殿は鎌倉殿(かまくらどの)の御為には不忠の人や、但年比は主は一人、今日又主の出きける不思議さよとて、矢さしくはせて判宮に向。子息景季、景高、景茂等つゞきて進む。判官腹を立て喬刀を取て向処を、三浦別当能澄判官を懐止。畠山庄司次郎重忠梶原を抱て動さず。土肥次郎実平は源太を抱く。多々良五郎能春は平次を懐く。各申けるは、此条互に穏便ならず、友諍其詮なし、平家の漏聞んも嗚呼がましし、又鎌倉殿(かまくらどの)の被(二)聞召(一)(きこしめさるる)も其憚在べし、当座の興言くるしみ有べからずと申ければ、判官誠にと思てしづまれば、梶原も勝に乗に及ず、此意趣を結てぞ判官終に梶原には弥讒せられける。判官は、都を出時も申しし様に、少も命惜しと思はん人々は是より返上給へ、敵に組で死なんと思は(有朋下P562)ん人々は義経付と宣へば、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、渋谷庄司重国、子息右馬允重助、土肥次郎実平、子息弥太郎遠平、佐々木四郎高綱、金子十郎家忠、伊勢三郎義盛、渡部源五馬允眤、鎌田藤次光政、奥州(あうしうの)佐藤三郎兵衛継信、其弟に四郎兵衛忠信、片岡八郎為春、武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)等は判官に付、梶原は逆櫓の事に恨を含、判官につき軍せん事面目なしと思ひければ、引分れて参川守範頼につき、長門国へ向ふ。