『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十二
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資巻 第四十二
S4201 義経解(レ)纜四国渡附資盛清経頸可(レ)上(二)京都(一)由事
十六日(じふろくにち)午刻に、判巻既纜を解て船を出す。南風俄(にはか)に吹来て、兵船渚々に吹上て、七八十艘打破。其を繕とて今日は逗留。今や/\と待けれ共、風弥烈して、二日二夜ぞふきたりける。十七日(じふしちにち)の夜の寅時に、空かき陰急雨して、南の風は静て、北風烈く吹出したり。木折砂を揚。判官は、風既(すで)に直れり、急舟共出せと宣ふ。水手楫取等申けるは、是程の大風には争出し候べき、風少弱候てこそと申。判官大に嗔て、向たる風に出せといはばこそ僻事(ひがこと)ならめ、加様の順風は願処なり、日並もよく海上も静ならば、今日こそ源氏は渡らめとて、平家用心稠くして、浦々島々に大勢指向々々待ん所へ、僅(わづか)の勢が寄たらば、物の用にや可(レ)叶、斯る大風なれば、よも渡らじ、船も通はじなんど思て、打解あはけたらん所へ、するりと渡てこそ敵をば誅すれ、疾々此船共出せ、不(レ)出者ならば己等こそ朝敵なれ、射殺せ斬殺せと下知しければ、伊勢三郎、大の中指打くはせて射殺さんと(有朋下P564)馳廻ければ、水手楫取共如何はせん、是程の風に船出したる事いまだなし、船を出しぬる者ならば、一定水の底に沈まんず、不(レ)出箭に中て死なんず、死は何れも同事、さらば出して馳死にせよとて、寅卯間に判官の船を出す。兵船は数千艘有けれ共、如法夥(おびたた)しき大風なれば、船を出す者なかりけるに、只五艘を出す。一番判官
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船、二番畠山が船、三番土肥次郎船、四番和田小太郎船、五番佐々木四郎船也。五艘の船に馬のせ兵粮米積。夫に随下部歩走なんど乗ければ、一百(いつぴやく)余騎(よき)には過ず。此等は上下皆一人当千(いちにんたうぜん)の兵也。判官は、義経が船ばかりに篝を■(たく)べし、其を本船として各馳よ、自余(じよ)の舟に篝ともすべからず、敵の船の数を見せじ為也と下知して、渡辺島より船を出す。吹風木の枝を折、立波蓬莱を上。水手楫取吹倒されて、足を踏立るに不(レ)及けれ共、究竟の者共にて、舟を乗直し/\、帆柱を立て帆を引事不(レ)高、手打懸計也。風弥強当りければ、帆のすそを切て結分風を通す。纜三筋十丈ばかりに■(より)さげて、沈石綱あまた下して、脇梶面梶を以船をちやうと挟立て、傍風来れば風面に乗懸、眦になれば中に乗、隙なく湯を取らす。舳へ打波摧けて艫を洗、艫を済波いかにも難(レ)叶けれ共、究竟の梶取也、浪の手風の手を作て、大なる波をばついくゞり、小浪をば飛越飛越、馳よ者共漕や者とて、曳声を出して馳け(有朋下P565)れば、押て三日に漕所を、只三時に阿波国はちまあまこの浦にぞ馳著たる。五艘の船一艘も誤なく、皆一所に漕並たり。汀(みぎは)より五六町計上て岡の上に、赤旗余多(あまた)立並て敵籠れりと見ゆ。判官宣(のたまひ)けるは、平家此浦を固たり、各物具(もののぐ)し給へ、船に揺風に吹れて立すくみたる馬共也。左右なく下して誤ちすな、沖より追下して、船に付て游せよ、馬の足とづかば、船より鞍を置べし、其間に鎧物具(もののぐ)取付て、船より馬には乗移れ、敵寄と見るならば、平家は汀(みぎは)に下立て、水より上じと射ずらん、浪の上にて相引して、脇壺内甲射さすな、射向の袖を末額にあてて、急汀(みぎは)へ馳寄よ、敵近付ばとて騒ぐ事なかれ、
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今日の矢一は敵百人(ひやくにん)禦べし、透間をかずへて弓を引、あだ矢射なとぞ下知し給ふ。軍兵随(二)軍将之下知(一)、礒五六町より沖にて馬を追下し、船に引付引付游せたり。馬の足とゞきければ、鎧物具(もののぐ)取付て、船より馬にひたと乗、一百五十(いつぴやくごじふ)余騎(よき)の兵共(つはものども)、射向の袖を甲の末額にあて、轡を並て汀(みぎは)へさと馳上たり。判官先陣に進、此浦固たる大将軍は誰人ぞや、名乗名乗と攻けれ共答る者なし。此浦をば、阿波民部大輔(みんぶのたいふ)成良が伯父、桜間外記大夫良連軍将として、三百(さんびやく)余騎(よき)にて固たりけれ共、何とか思けん不(二)名乗(一)ければ、判官は、此奴原は近国の歩兵にこそ有めれ、若者共責入て、一々に首切懸て軍将に奉れと下知しければ、河越小太郎(有朋下P566)茂房、堀弥太郎親弘、熊井太郎忠元、江田源三弘基、源八広綱、五騎(ごき)轡を並鞭を打て蒐入けり。城中(じやうちゆう)よりは簇をそろへて散々(さんざん)に射る。源氏は一百(いつぴやく)余騎(よき)後陣に支へて、責よ蒐よ隙なあらせそととゞめきければ、五騎(ごき)の者共郎等乗替相具して、三十(さんじふ)余騎(よき)■(しころ)を傾て攻入ければ、三百(さんびやく)余騎(よき)も不(レ)堪して、さと開て通しけり。取て返て竪さま横さま、おもの射に射ければ、木葉を風の吹が如く、四方へさと逃走けるを駈立つゝ、強る者をば頸を切、弱者をば虜にす。大将軍外記大夫も禦兼、鞭を揚て逃けれ共、不(二)延遣(一)して虜れけり。首共四五十切掛て奉(二)軍神(一)、悦の時二度造、西国(さいこく)の軍の手合也、物能物能とぞ勇にける。備前児島城は、去し冬土肥次郎実平、塩干に渡瀬を求て、暗夜五十(ごじふ)余騎(よき)を卒して、責寄て関を発ければ、平氏の軍兵不(レ)計ける程なれば、防戦に不(レ)及して、船に諍乗て逃けるを、或虜或頸を切ければ、其後は備中備前之輩、悉官軍に相従ひける処に、此春又平氏
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二百(にひやく)余艘(よさう)の兵船を調へて、夜半に彼城へ寄せて合戦しける程に、実平軍敗て、息男遠平疵を蒙り、家人多く被(二)討捕(一)けり。船軍の事西国(さいこく)の賊徒は自在を得たり、東国の官兵は寸歩を失て、実平毎度に被(レ)敗けり。懸りし程に豊後国住人(ぢゆうにん)等、舟を艤て官兵を迎ければ、参川守範頼已下彼国へ入にけり。又三位中将(さんみのちゆうじやう)資盛入道、并左中将清経朝臣を、当(有朋下P567)国輩討捕て、首を範頼の許へ送けり。清経朝臣は不(レ)劣心不(レ)顧(レ)死、敵を討自害し給たりけるを、資盛入道の頸と取具して、京都へ可(レ)献由其沙汰有けり。平家は源氏の討手下ると聞えしより、讃岐国屋島の浦に城郭(じやうくわく)を構へ、軍兵を儲て相待けり。前(さきの)内大臣(ないだいじん)宗盛、前平中納言教盛、前権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)知盛、前修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛、前(さきの)右兵衛督(うひやうゑのかみ)清宗、小松少将有盛、能登守教経、小松新侍従忠房已下、五十(ごじふ)余騎(よき)とぞ聞えし。浦々島々指塞てぞ守護しける。
S4202 勝浦合戦附勝磨並親家屋島尋承事
判官虜の者に問給けるは、平家軍兵は、屋島よりこなたには何の所にか在と宣ふ。此より三十(さんじふ)余町(よちやう)罷候て、阿波民部大夫(たいふ)の弟に、桜間介良遠と申す者こそ五十(ごじふ)余騎(よき)計にて陣を取りて候へと申。さては小勢や打や/\とて押寄、時を造る。城内にも時も合たり。良遠は大堀を掘て水を湛、岸に■(ひし)植櫓掻て待受たり。輙く難(二)責落(一)かりけるを、源氏の兵其辺の小家を壊堀に入浸して、■(しころ)を傾一味同心に責入ければ、城内乱て我先にと落行けり。良遠を延さんとて、家子郎等三十(さんじふ)余騎(よき)残留つて禦矢射けるが、一々搦捕れて、忽(たちまち)に首被(レ)刎、被(レ)祭(二)軍神(一)。両陣を追落して後、又浦人を召て、此所をば何と云ぞと問。勝浦(有朋下P568)と申と答。軍に勝たればとて、色代して■飾(けうしよく)を申にこそ、加様の奴原が不思議の事をばし
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出すぞ、返忠せさすな、義盛は無き歟、しや頸斬れと宣へば、伊勢三郎太刀をぬき進出たり。浦人大に恐戦て、其儀は候はず、此浦は御室の御領五箇庄にて、文字には勝浦と書て候なるを、下揩ヘ申安きに付てかつらと呼侍き。上揩フ御前にて侍れば、文字の儘に申上候と云。判官是を聞て、さては神妙(しんべう)神妙(しんべう)、去ためしあり。昔天武天皇(てんわう)の未東宮(とうぐう)位に御座(おはしまし)ける時、大友皇子に、〈 天智子 〉襲て、近江国湖水に船を浮て東の浦に著給。葦の下葉を漕分て船を岸に寄給ふ。田作る男一人あり。春宮(とうぐう)問曰、汝何者(なにもの)ぞ、此をば何所と云ぞと。田夫答て申さく、是をば勝浦と云、我身をば月下勝磨と申也とて、賤が藁屋に請入奉り、様々貢御進め進せたりければ、春宮(とうぐう)大に御悦ありて、朕勝浦に著て勝磨にあへり、軍に勝て帝位につかん事疑なし、御即位の後に御願寺(ごぐわんじ)を可(レ)被(レ)立と御誓ありけるに、果して帝位に即て、彼所に寺を被(レ)立けり。月上寺とて今にありと伝へ聞。義経軍の門出に、はちまあまこの浦にて軍に勝て、又勝浦に著て敵を亡す、末憑しとぞ悦ける。
判官又浦の人に問給ふ。此勝浦より屋島へは、行程いくら程ぞと。二日路候と申。さらば敵の聞ぬ先に打や/\とて、鞭障泥を合て打処に、大将軍と覚しくて、黒革威(くろかはをどし)の鎧に、■(くろ)(有朋下P569)馬に乗て一百(いつぴやく)余騎(よき)にて歩せ来る。笠符も不(レ)付旗も不(レ)指。判官宣(のたまひ)けるは、見来軍兵源平いづれ共不(二)見分(一)、敵の謀やらん、不(レ)可(レ)有(二)心許(一)、義盛罷向て子細を尋て将参と下知しければ、伊勢三郎仰承て、十五騎にて行向て、何とか云たりけん安々と具して参。判官汝は何者(なにもの)ぞ、源平何れ共不(レ)見と問給へば、是は阿波国
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住人(ぢゆうにん)臼井近藤六親家と申者にて侍が、近年源平の乱逆に不(二)安堵(一)、浪にも磯にも著ぬ風情也、何れにても日本(につぽん)の主と成給はん方を主君と憑奉らんと相待処に、平家都を落、源氏軍将の蒙(二)院宣(一)給ふと承る間、白旗を守て馳参ずと申す。判官宣(のたまひ)けるは、神妙(しんべう)也、源氏の大将軍鎌倉の兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の弟に、九郎大夫判官(たいふはうぐわん)と云は我也、平家追討の蒙(二)院宣(一)西国(さいこく)に発向せり、親家を西国(さいこく)の案内者に憑、屋島の尋承せよ、但所存を知ん程は物具(もののぐ)をば不(レ)可(レ)免とて、甲冑をぬがせて召具しけり。やをれ親家、屋島には勢幾程とか聞と。よも千騎(せんぎ)には過候はじ。凡は五千(ごせん)余騎(よき)とこそ承しか共、臼杵、戸槻、松浦党、尾形三郎等が依(レ)背、平家彼輩を被(レ)誅とて、此間は軍兵等多所々へ被(二)分遣(一)。其外阿波讃岐の浦々島々に、五十騎(ごじつき)三十騎(さんじつき)百騎二百騎被(二)指遣(一)間に、勢は少と承と。偖屋島より此方に敵ありやと問へば、近藤六申けるは、今三十町計罷て勝宮と云社あり、彼に阿波民部大輔(みんぶのたいふ)成能が子息、伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)成直、三千(さんぜん)余騎(よき)に(有朋下P570)て陣を取たりつるが、此間河野四郎通信を攻んとて、伊予国へ越たりと聞ゆ、余勢などは少々も候らんと云ければ、判官急々とて、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、佐々木四郎高綱、平山武者所季重、熊谷次郎直実、奥州(あうしうの)佐藤三郎兵衛継信、同弟四郎兵衛忠信、鎌田藤次光政等、一人当千(いちにんたうぜん)の者共を先として、打や/\とて勝社に押寄せて見れば、伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)が兵士に置たりける歩兵等少々在けれ共、散々(さんざん)に蹴散して、逃るはたま/\遁けり。向奴原一々に頸切懸て打程に、新八幡の宝前をば、判官下馬して再拝すれば、郎等も又如(レ)此。判官は勝浦の勝もかつと読、勝宮の勝もかつ
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とよむ、傍の軍に打勝て、今大菩薩(だいぼさつ)の御前に参、源氏の吉瑞顕然也、平家の滅亡無(レ)疑、八幡三所遠き守と守り幸給へとて、馬に打乗馳つ■(ひかへ)つ/\、讃岐屋島へ打程に、
S4203 金仙寺観音講附六条北政所(きたのまんどころ)使逢(二)義経(一)事
〔斯る処に〕中山と云所の道のはたより、二町計右に引入て竹の林あり、中に古き寺あり、栗守后の御願(ごぐわん)金仙寺と云伽藍なり。本尊は観音、所の名主百姓が集りて、月次の講営とて、大饗盛並盃居て、既(すで)に行はんとしけるが、長百姓は善と嘆、若者共は悪ときらふ。善(有朋下P571)悪しと讃毀程に、百余人(よにん)の講衆とゞめきけり。軍兵是を聞て、敵の籠たるぞと心得(こころえ)て、弓取直し片手矢はげて、時をどと造て押寄たれば、講衆は始て、汁御菜持運たる尼公女童、下取んとて集たる子孫童部(わらんべ)に至まで、取物も取敢(とりあへ)ず、蜘蛛子を散したるが様にぞ逃迷ける。幼少の子孫が尻随たるをも打捨、老耄の親祖父が杖に懸をも不(レ)助、我先我先と此彼に隠忍て是を見。軍兵縁の際まで打寄て、御堂の内に下居て、我物がほに講の座に著す。五種御菜に三升盛を、百二三十前計組調たり。座上に坏居、大桶に汁入、樽二に濁酒入て座中に舁居たり。仏前には花香供じ、仏供燈明備へたり。机上に巻物一巻あり、講式と覚ゆ。判官は座上に著す、兵共(つはものども)思々に列座せり。武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)座より起て、判官の前に五本立に取並て、戯呼今月の講は、随分尋常に営出して覚候、来頭は誰人ぞ、此定候ぞよと云。判官実に此講目出し、来頭は義経営侍るべしと宣へば、兵皆咲壺会也。飯酒共に行て、仏壇の中より老翁を尋出して、是は何講ぞと問へば、翁ふるひ/\、是は月並の観音講にて候が、只今(ただいま)は御景気共の恐しさにわなゝくとぞ云ける。講食てたゞ有べきに
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非ず、誰か可(二)式読(一)と云ければ、弁慶(べんけい)、黒皮威(くろかはをどし)の鎧に矢負太刀帯ながら、礼盤に昇て高声に、観音講式をたゝめかしてよむ。判官は式は観音講、貌は毘沙門講、穴貴おそ(有朋下P572)ろしと云ければ、兵共(つはものども)皆笑けり。さても勇士等西国(さいこく)の軍の門出に、勝浦勝社に著、今また講座に著す、事に於勇あり。昔八幡殿の奥州(あうしう)を被(レ)責けるにこそ剛臆の座をば被(レ)分けれ、今の軍兵一人も洩ず講座に著、平家を亡さん事子細なしとぞ■(ののし)りける。其より屋島へ打程に、中山路の道の末に、貲の直垂に立烏帽子(たてえぼし)、立文持て足ばやに行下種男あり、京家の者と見ゆ。判官馬を早めて追付問けるは、汝は何者(なにもの)ぞ、何所へ行人ぞと。此男判官とは夢にも不(レ)知、国人ぞと思て、是は京より屋島の方へ下者也と答。京よりは誰人の御許より、屋島の何れの御方へぞと問ば、いや只と云て最不(二)分明(一)。判官、はや殿是は阿波国の者にてあるが、屋島の大臣殿の依(二)御催(一)参る者ぞ、誠や九郎判官と云者が、源氏の大将にて下なるが、淀河尻にて舟汰へして、今日明日の程に屋島の内裏へ寄べしと聞ば、御辺(ごへん)は京より下給へば定めて見給ぬらん、勢幾ら程とか申など問て、昼の破子食せ、能々心を取て後、さても御辺(ごへん)は誰れ人の御使ぞと問。是は六条摂政殿(せつしやうどの)の北政所(きたのまんどころ)より、大臣の御方へ申させ給御文なりと申。御文には何事をか被(二)仰下(一)らんと問へば、下揩ヘ争か御文の中を奉(レ)知べき、御詞には源氏九郎大夫判官(たいふはうぐわん)、既(すで)に西国(さいこく)へとて都を立ぬ。浪風静りなば一定渡るべし、さしも鬼神の如くに畏恐し木曾も、九郎上ぬれば時日を廻さず亡し(有朋下P573)ぬる怖しき者に侍り、城をもよく構へ兵をも催集て、可(レ)有(二)御用心(一)とこそ申させ給つれば、御文も定其御心に
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こそ候らめ、誠に淀河尻には軍兵充満て雲霞の如し、六万余騎(よき)が二手に分て、参川守、九郎判官兄弟して、四国長門より指挟みて下るべしと披露しき。波風やみなば今日明日の程には軍は一定あるべし、急々屋島へ可(レ)有(二)御参(一)とて、抜々と判官に相連て行。さて御辺(ごへん)は始て下る人歟、先々も下給へる人歟と問ば、六条摂政殿(せつしやうどの)の北政所(きたのまんどころ)と大臣殿とは、御兄弟(ごきやうだい)の御中にてましませば、西国(さいこく)の御住居(おんすまひ)御心苦く思召(おぼしめし)、源氏上洛の後は、都の形勢(ありさま)人の披露、聞召に随て仰らるれば、常に下向する也と云。さては屋島城の有様(ありさま)はよく知給(たま)ひたるらん、誠や究竟の城(じやう)にて、敵も左右なく難(レ)寄所と聞は実か、哀さやうの城(じやう)にて高名をして、勲功に預ばやといへば、男が云けるは、是は敵に聞すべき事には非ず、御方へ参らるれば申、源氏が知でこそよき城とは申せ、事も無所也、あれに見ゆる松原は武例高松と申、彼松原の在家に火を懸て、塩干潟に付て山のそばに打そうて渡らば、鐙鞍つめの浸る程也、百騎も二百騎も塩花蹴立て押寄ば、あは大勢の寄はとて、平家は汀(みぎは)に儲置たる船に乗て沖へ押出さば、内裏を城にして戦は無念の所也と、細々と語けり。判官是を聞、実に無念の所や、可(レ)然八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御計也とて、(有朋下P574)都の方を拝つゝ、やをれ男め、我こそ九郎大夫判官(たいふはうぐわん)よ、其文進よとて奪取、海の中に抛入て、男をば中山の大木に縛上てぞ通ける。其(その)日(ひ)は阿波国坂東西打過ぎて、阿波と讃岐の境なる中山山口の南に陣を取。翌日は引田浦、入野、高松郷をも打過て、屋島城へ押寄けり。
S4204 屋島合戦付玉虫立(レ)扇与一射(レ)扇事
屋島には、伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)成直が伊予国へ越、河野四郎通信を攻けるが、通信をば討遁して、其伯父
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福良新三郎以下の輩、百六十人が頸を切つて、姓名注して進せたりけるを、内裏にて首実験かわゆしとて、大臣殿の御所にて実験あり。
大臣殿は、小博士に清基と云者を御使にて、能登殿へ被(レ)仰けるは、源九郎義経、既(すで)に阿波国あまこの浦に著たりと聞ゆ、定て終夜(よもすがら)中山をば越候らん、御用意あるべしと被(レ)申。去(さる)程(ほど)に夜も明ぬ。屋島より塩干潟一隔、武例高松と云所に焼亡あり。平家の人々、あれや焼亡焼亡と云ければ、成良申けるは、今の焼亡誤にあらじ、源氏所々に火を懸て焼払(やきはらふ)と覚えたり、敵は六万余騎(よき)の大勢と聞、御方は折節(をりふし)無勢也、急御船に召、敵の勢に随て、船を指寄指寄御軍あるべし、(有朋下P575)侍共は汀(みぎは)に船を用意して、内裏を守護して戦べしと計申ければ、可(レ)然とて、先帝を奉(レ)始、女院二位殿(にゐどの)以下女房達(にようばうたち)、公卿殿上人(てんじやうびと)、屋島惣門の渚(なぎさ)より御船にめさる。去年一谷(いちのたに)にて被(二)討漏(一)たる人々也。
前(さきの)内大臣(ないだいじん)宗盛、前平中納言教盛、前権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)知盛、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛、前(さきの)右衛門督(うゑもんのかみ)清宗也。小松少将有盛、能登守教経、小松新侍従忠房已下、侍共は城中(じやうちゆう)に籠れり。大臣殿父子は一船に乗給たりけるが、右衛門督(うゑもんのかみ)も鎧著て打立んとし給けるを、大臣殿大に制して、手を引いて例の女房達(にようばうたち)の中へ座しけるこそいつまでと無慙なれ。
同廿日卯時に、源氏五十(ごじふ)余騎(よき)にて、屋島の館の後より責寄て鬨を発す。平家も声を合て戦。判官は紺地の錦の直垂に、紫坐滋鎧に、鍬模打たる白星甲に、滋紅幌懸て、二十四指たる小中黒
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征矢に、金作の太刀を帯、滋籐の弓真中取、黒馬の太逞に白覆輪の鞍を置、先陣に進で、馬に白沫かませ軍の下知しけり。武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)有国、城の木戸の櫓にて大音声を揚て、今日の大将軍は誰人ぞと問。伊勢三郎義盛歩出して、穴事も疎や、我君は是清和(せいわの)帝(みかど)の九代後胤、八幡太郎(はちまんたらう)義家(よしいへ)に四代の孫、鎌倉右兵衛権佐殿(うひやうゑのごんのすけどのの)御弟、九郎大夫判官殿(たいふはうぐわんどの)ぞかしと云。有国是を聞て大に嘲、故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が妾、九条院雑司常葉が腹の子と名乗て、京都に安堵し難かりしかば、金商人が従者して、蓑笠笈背負つゝ、陸奥へ下し者(有朋下P576)の事にやといへば、伊勢三郎腹を立て、角申は北国砥波山の軍に負て山に逃入、辛命生て、乞食して這々京へ上ける者也。掛忝(かたじけな)く舌の和なる儘に角な申しそ、さらぬだに冥加は尽ぬる者ぞ、甲斐なき命も惜ければ、助させ給へとこそ申さんずらめと云。有国は我君の御恩にて、若より衣食に不(レ)乏、何とて可(二)乞食(一)、東国の者共は、党も高家も跋跪こそ有しか、金商人と云をだに舌の和なる儘と云、況や年来の重恩を忘、十善帝王に向進て悪口吐舌は如何有べき、就(レ)中(なかんづく)汝が罵立耳はゆし、伊勢国(いせのくに)鈴鹿関にて朝夕山立して、年貢正税(しやうぜい)追落、在々所々に打入、殺賊強盗して妻子を養とこそ聞、其は有し事なれば諍所なしと云。金子十郎家忠進出て申けるは、雑言無益也、合戦の法は利口に依ず、勇心を先とす、一谷(いちのたに)の戦に、武蔵相模の兵の勢は見給けん、それよりは只打出て組や/\と云処に、家忠が弟に金子与一引儲て、有国が頸骨を志て射たりけるに、有国甲を合立たりければ、胸板(むないた)にしたゝかに中る。矢風負て後は言戦は止にけり。東国之輩九郎判官を先
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として、土屋小次郎(こじらう)義清、後藤兵衛尉実基、同息男基清、小河小次郎(こじらう)資能、諸身兵衛能行、椎名次郎胤平等、我も/\と諍蒐。平家方より越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、矢野右馬允家村、同七郎高村已下の輩、櫓より下合て防戦けれ(有朋下P577)ば、時を移し日を重けり。能登守教経は、打物取ても鬼神の如し、弓矢を取ても精兵の手聞也ければ、源氏の兵多此人にぞ討れける。判官下知しけるは、平家は大勢也、御方の勢はいまだ続ず、敵内裏に引籠て、出合出合戦はんには優々敷大事、其上兵船海上に数を不(レ)知、屋島の在家を焼払(やきはらひ)て、一方に付て責べしと云ければ、条里を立て造並たる在家、一千五百(いつせんごひやく)余家(よか)ありけるに、軍兵家々(いへいへ)に火を放。折節(をりふし)西風烈く吹、猛火内裏に覆、一時が間に焼亡ぬ。余煙海上に浮て、雲の波煙波と紛けり。城内の軍兵は儲舟に諍乗。船の中の男女は、遥(はるか)に是を見給けり。遂に安堵すまじき旅の宿、是も哀を催す。軍陣忽(たちまち)に陸の辺に乱て、兵船頻(しきり)に波の上に騒。平家は兼て海上に舟を浮べ、舳屋形(へやがた)に垣楯掻たりければ、彼に乗移て、或一艘或二艘、漕寄漕寄散々(さんざん)に射。源氏の方より判官を先として、畠山庄司次郎重忠、熊谷次郎直実、平山武者所季重、土肥次郎実平、和田小太郎義盛、佐々木四郎高綱と名乗て、一人当千(いちにんたうぜん)の兵也。東国にも誰かは肩を並ぶべきなれ共、我と思はん人々は、推並て組めや/\と■(ののしり)懸て、追物射にいる。源平何れも勝負なし。源氏七騎兵は、馬足を休め身の息をも継んとて、渚(なぎさ)に寄居たる船の陰に休居たり。平家も船を奥に漕除て、暫猶予する処に、勝浦にて軍しける輩、屋島浦の煙を見て、軍既(すで)に始れり、(有朋下P578)判官殿(はうぐわんどの)は無勢
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におはしつるぞ、急々とて追継追継に馳加る。此外武者七騎出来れり。判官何者(なにもの)ぞと問給へば、故八幡殿御乳母子(おんめのとご)に、雲上後藤内範明が三代の孫、藤次兵衛尉範忠也、年来は、平家世を取て天下を執行せしかば山林に隠居て、此二十余年明し暮し侍りき。今兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)院宣を承給(たまひ)て、平家誅戮と披露之間、余嬉さに馳参ずと申。判官昔の好を思出て、最哀に思けり。即荒手の兵を指向て、入替入替戦けり。源平互に甲乙なし。両方引退き、又強健処に、沖より荘たる船一艘、渚(なぎさ)に向て漕寄。二月廿日の事なるに、柳の五重(ごぢゆう)に紅の袴著て、袖笠かづける女房あり。皆紅の扇に日出たるを枕に挟て、船の舳頭に立て、是を射よとて源氏の方をぞ招たる。此女房と云は、建礼門院(けんれいもんゐん)の后立の御時、千人(せんにん)の中より撰出せる雑司に、玉虫前共云又は舞前共申。今年十九にぞ成ける。雲の鬢霞の眉、花のかほばせ雪の膚、絵に書とも筆も及がたし。折節(をりふし)夕日に耀て、いとゞ色こそ増りけれ。懸りければ、西国(さいこく)までも被(二)召具(一)たりけるを、被(レ)出て此扇を立たり。此扇と云は、故高倉院(たかくらのゐん)厳島へ御幸の時、三十本切立てて明神に進奉あり。皆紅に日出したる扇也。平家都を落給し時厳島へ参社あり、神主佐伯景広此扇を取出して、是は一人の御施入、明神の御秘蔵也、且は故院の御情(おんなさけ)、帝業の御守たるべし、されば此扇を持せ給(有朋下P579)たらば、敵の矢も還て其身にあたり候べし、と祝言して進せたりけるを、此を源氏射弛したらば当家軍に勝べし、射負せたらば源氏が得(レ)利なるべしとて、軍の占形にぞ被(レ)立たる。角して女房は入にけり。源氏は遥(はるか)に是を見て、当座の景気の面白さに、目を驚し
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心を迷す者もあり、此扇誰射よと仰られんと肝膾を作り堅唾を飲る者もあり。判官畠山を召。重忠は木蘭地直垂に、■縄目(ふしなはめ)の鎧著て、大中黒の矢負、所籐の弓の真中取、■(くろ)の馬の太逞に金覆輪の鞍置、判官の弓手の脇に進出て畏つて候。義経は女にめづる者と平家に云なるが、角構へたらば、定て進み出て興に入ん処を、よき射手を用意して、真中さし当て射落さんと、たばかり事と心得(こころえ)たり、あの扇被(レ)射なんやと宣へば、畠山畏つて、君の仰、家の面目と存ずる上は子細を申に及ず、但是はゆゆしき晴態也、重忠打物取ては鬼神と云共更に辞退申まじ、地体脚気の者なる上に、此間馬にふられて、気分をさし手あはらに覚え侍り、射損じては私の恥はさる事にて、源氏一族の御瑕瑾と存ず、他人に仰よと申。畠山角辞しける間諸人色を失へり。判官は偖誰か在べきと尋ね給へば、畠山、当時御方には、下野国住人(ぢゆうにん)那須太郎助宗が子に十郎兄弟こそ加様の小者は賢しく仕り候へ、彼等を召るべし、人は免し候はず共、強弓(つよゆみ)遠矢打者などの時は、可(レ)蒙(レ)仰と(有朋下P580)深申切たり。さらば十郎とて召れたり。褐の直垂に、洗革の鎧に片白の甲、二十四指たる白羽の矢に、笛籐の弓の塗籠たる真中取て、渚(なぎさ)を下にさしくつろげてぞ参たる。判官あの扇仕れと仰す。御諚の上は子細を申に及ね共、一谷(いちのたに)の巌石を落し時、馬弱して弓手の臂(ひぢ)を沙につかせて侍しが、灸治も未(レ)愈、小振して定の矢仕ぬ共不(レ)存、弟にて候与一冠者は、小兵にて侍れ共、懸鳥的などはづるゝは希也、定の矢仕ぬべしと存、可(レ)被(二)仰下(一)と弟に譲て引へたり。さらば与一とて召れたり。其(その)日(ひ)の装束は、紺村紺の直垂に緋威(ひをどし)の鎧、鷹角反甲居頸に著なし、
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二十四指たる中黒の箭負、滋籐の弓に赤銅造の太刀を帯、宿赫白馬の太逞に、州崎に千鳥の飛散たる貝鞍置て乗たりけるが、進出て、判官の前に、弓取直して畏れり。あの扇仕れ、晴り所作ぞ不覚すなと宣ふ。与一仰承、子細申さんとする処に、伊勢三郎義盛、後藤兵衛尉実基等、与一を判官の前に引居て、面々(めんめん)の故障に日既(すで)に暮なんとす。兄の十郎指申上は子細や有べき、疾々急給へ/\、海上暗く成なばゆゝしき御方の大事也、早々と云ければ、与一誠にと思ひ、甲をば脱童に持せ、揉烏帽子(えぼし)引立て、薄紅梅の鉢巻して、手綱掻繰、扇の方へぞ打向ける。生年十七歳、色白小鬚生、弓の取様馬の乗貌、優なる男にぞ見えたりける。波打際に打寄て、弓手の(有朋下P581)沖を見渡せば、主上を奉(レ)始、国母建礼門院(けんれいもんゐん)、北政所(きたのまんどころ)、方々の女房達(にようばうたち)、御船其数漕並、屋形(やかた)屋形(やかた)の前後には、御簾も几帳もさゝめけり。袴温巻の坐までも、楊梅桃李とかざられたり。塩風にさそふ虚焼は、東袖にぞ通ふらし。妻手の沖を見渡せば、平家の軍将屋島大臣を始奉、子息右衛門督(うゑもんのかみ)清宗、平中納言教盛、新中納言知盛、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛、新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)資盛、左中将清経、新少将有盛、能登守教経、侍従忠房、侍には、越中次郎兵衛盛嗣、悪七兵衛景清、江比田五郎、民部大輔(みんぶのたいふ)等、皆甲冑を帯して、数百艘の兵船を漕並て是を見。水手梶取に至まで、今日を晴とぞ振舞たる。後の陸を顧れば、源氏の大将軍、大夫判官(たいふはうぐわん)を始て、畠山庄司次郎重忠、土肥次郎実平、平山武者所季重、佐原介能澄、子息平六能村、同(おなじく)十郎能連、和田小太郎義盛、同三郎宗実、大田和四郎能範、佐々木四郎高綱、平左近太郎為重、伊勢三郎義盛、横山太郎時兼、城太郎
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家永等、源氏大勢にて轡を並て是を見る。定の当を知ざれば、源氏の兵各手をぞ握りける。されば沖も渚(なぎさ)も推なべて、何所も晴と思けり。そこしも遠浅也、鞍爪鎧の菱縫の板の浸るまで打入たれ共、沛艾の馬なれば、海の中にてはやりけり。手綱をゆりすゑ/\鎮れ共、寄る小波に物怖して、足もとゞめず狂けり。扇の方を急見れば、折節(をりふし)西風吹来て、船は艫舳も動つゝ、扇(有朋下P582)枕にもたまらねば、くるり/\と廻けり。何所を射べし共覚ず。与一運の極と悲くて、眼をふさぎ心を静て、帰命頂礼(きみやうちやうらい)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、日本国中(につぽんごくぢゆう)大小神祇、別しては下野国日光宇都宮、氏御神那須大明神(だいみやうじん)、弓矢の冥加有べくは、扇を座席に定めて給へ、源氏の運も極、家の果報も尽べくは、矢を放ぬ前に、深く海中に沈め給へと祈念して、目を開て見たりければ、扇は座にぞ静れる。さすがに物の射にくきは、夏山の滋緑の木間より、僅(わづか)に見ゆる小鳥を、不(レ)殺射こそ大事なれ、挟みて立たる扇也、神力既(すで)に指副たり、手の下なりと思つゝ、十二束二つ伏の鏑矢を抜出し、爪やりつゝ、滋籐の弓握太なるに打食、能引暫固たり。源氏の方より今少打入給へ/\と云。七段計を阻たり。扇の紙には日を出したれば恐あり、蚊目の程をと志て兵と放。浦響くまでに鳴渡、蚊目より上一寸置て、ふつと射切たりければ、蚊目は船に留て、扇は空に上りつゝ、暫中にひらめきて、海へ颯とぞ入にける。折節(をりふし)夕日に耀て、波に漂ふ有様(ありさま)は、竜田山の秋の暮、河瀬の紅葉に似たりけり。鳴箭は抜て潮にあり、澪浮州と覚えたり。平家は舷を扣て、女房も男房も、あ射たり/\と感じけり。源氏は鞍の前輪箙を扣て、あ射たり/\と誉ければ、舟にも陸
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にも、どよみにてぞ在ける。紅の扇の水に漂ふ面白さに、玉虫は、(有朋下P583)
時ならぬ花や紅葉をみつる哉芳野初瀬の麓ならねど K221
平家侍に、伊賀平内左衛門尉(へいないざゑもんのじよう)が弟に、十郎兵衛尉家員と云者あり。余りの面白さにや、不(二)感堪(一)して、黒糸威(くろいとをどし)の冑に甲をば著ず、引立烏帽子(ひきたてえぼし)に長刀を以、扇の散たる所にて水車を廻し、一時舞てぞ立たりける。源氏是を見て種々(しゆじゆ)の評定あり。是をば射べきか射まじきかと。射よと云人もあり。ないそと云者もあり。是程(これほど)に感ずる者をば、如何無(レ)情可(レ)射、扇をだにも射る程の弓の上手なれば、増て人をば可(レ)弛とはよも思はじなれば、な射そと云人も多し。扇をば射たれ共武者をばえいず、されば狐矢にこそあれといはんも本意なければ、只射よと云者も多し。思々の心なれば、口々にとゞめきけるを、情は一旦の事ぞ、今一人も敵を取たらんは大切也とて、終に射べきにぞ定めにける。与一は扇射すまして、気色して陸へ上けるを、射べきに定めければ、又手綱引返て海に打入、今度は征矢を抜出し、九段計を隔つゝ、能引固て兵と放。十郎兵衛家員が頸の骨をいさせて、真逆に海中へぞ入にける。船の中には音もせず、射よと云ける者は、あ射たり/\と云、ないそと云ける人は、情なしと云けれ共、一時が内に二度の高名ゆゝしかりければ、判官大に感じて、白■馬(さめむま)に、〈 尾花毛馬也 〉黒鞍置て与一に賜。弓矢取身の面目を、屋島の浦(有朋下P584)に極たり。近き代の人、
扇をば海のみくづとなすの殿弓の上手は与一とぞきく K222
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平家不(レ)安思、楯突一人、弓取一人、打物一人、已上三人小舟に乗、陸に押付浜に飛下、楯突向て寄よ/\と源氏を招。判官は、若者共蒐出て蹴散と下知し給へば、武蔵国住人(ぢゆうにん)丹生屋十郎、同四郎等喚て蒐。十五束の塗箆に、鷲の羽、鷹羽、鶴の本白、矯合たる箭を以て、先陣に進む十郎が馬の草別を、筈際射込たれば、馬は屏風をかへすが如く倒けり。十郎足を越て、妻手の方に落立処に、武者一人長刀を額に当て飛で懸る。十郎不(レ)叶と思て、貝吹て逃。逃も追も雷の如し。十郎希有にして逃延て、馬の陰に息突居たり。敵長刀をつかへて扇ひらき仕。今日此頃、童部(わらんべ)までも沙汰すなる上総悪七兵衛景清、我と思はん人々は落合や、大将軍と名乗給ふ判官は如何に、三浦、佐々木はなきか、熊谷、平山は無歟、打物取ては鬼神にも不(レ)負と云なる畠山はなきか、組や/\といへ共、名にや恐れけん打て出る者はなし。平家方に、備後国住人(ぢゆうにん)鞆(ともの)六郎と云者あり。六十人が力持たりける力士なりければ、大臣殿、判官近付たらば組で海にも入、程隔たらば遠矢にも射殺せとて、船に被(レ)乗たり。松浦太郎艫取にて、屋島浦を漕廻し/\、判官を伺けれ共便(有朋下P585)宜を得ず、責ては日の高名を極たる那須与一を成共射殺さばや、組ばやと伺廻けれ共叶ず。爰(ここ)に伊勢三郎義盛が郎等に、大胡小橋太と云者有。駿河国田子浦にて生立、富士川に習、究竟の水練の上手にて、水底には半日も一日も潜ありきけるが、兵の乗ながら而も軍もせずして漕廻々々するは、大将軍伺やらん、直者にはあらじと危思て、人にも不(レ)知、焼内裏の芝築地の陰より、裸になりて犢鼻褌を掻、刀二持て海へ入、敵も御方も是を不(レ)知。鞆(ともの)
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六郎がせがいに立て、己は軍もせず、人の船を下知して、軍はとこそすれ角こそすれと云ける処に、つと浮上て、足を懐いて曳声を出し、海へだぶと引入たり。陸にてこそ六十人が力と云けれ共、水には不(二)心得(こころえ)(一)ければ、深き所へ引て行、六郎が頸を取、髻を口にくはへて水の底を■(はひ)、源氏の陣の前にぞ上たる。判官見給(たまひ)て尋聞給へば、上件の子細を申。下揩ネれ共思慮賢とて、鷲造の太刀を給り、世静て後、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)も、武芸の道神妙(しんべう)神妙(しんべう)とて、千余石の勧賞あり、誠にゆゝしかりける面目也。平家二百(にひやく)余人(よにん)船十艘に乗、楯二十枚つかせて漕向へて、簇を汰へて散々(さんざん)に射る。源氏三百(さんびやく)余騎(よき)、轡を並て波打際に歩せ出て是を射。矢の飛違事は降雨の如し。源平の叫音は百千の雷の響くに似。平氏は浪に浮みたり、源氏は陸に引へたり。天帝空より降、修羅海より出て、互に(有朋下P586)挿絵(有朋下P587)挿絵(有朋下P588)火焔剣戟を飛せつゝ、三世不(レ)休戦も、角やと覚えて無慙なり。平家射調れて、船共少々漕返す。判官勝に乗て、馬の太腹まで打入て戦けり。越中次郎兵衛盛嗣、折を得たりと悦て、大将軍に目を懸て熊手を下し、判官を懸ん/\と打懸けり。判官■(しころ)を傾て、懸られじ/\と太刀を抜、熊手を打除打除する程に、脇に挟たる弓を海にぞ落しける。判官は弓を取て上らんとす。盛嗣は判官を懸て引んとす。如法危く見えければ、源氏の軍兵あれはいかに/\、其弓捨給へ/\と声々に申けれ共、太刀を以て熊手を会釈ひ、左の手に鞭を取て、掻寄てこそ取て上。軍兵等が、縦金銀をのべたる弓也共、如何寿に替させ給ふべき、浅猿(あさまし)浅猿(あさまし)と申ければ、判官は、軍将の弓とて、三人張五人張ならば面目なるべし、去共平家に被(二)責付(一)て弓を落し
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たりとて、あち取こち取、強ぞ弱ぞと披露せん事口惜かるべし、又兵衛佐(ひやうゑのすけ)の漏きかんも云甲斐なければ、相構て取たりと宣へば、実の大将也と兵舌を振けり。
小林神五宗行と云者あり、越中次郎兵衛盛嗣が、熊手を似て判官を懸て取んとしけるを、大将軍を懸させじとて、続いて游せたりける程に、事由なく上り給たりければ、盛嗣判官を懸弛て不(レ)安思ひ、游艇に乗移り、指寄て宗行が甲の吹返し、熊手をからと打懸て、曳音を出して引。宗行鞍の前輪に強く取付て鞭を打。主も(有朋下P589)究竟の乗尻也、馬も実にすくやか也。水に浮る小船なれば、汀(みぎは)へ向舳浪つかせて、ささめかいてぞ引上たる。宗行熊手に被(レ)懸ながら馬より飛下、貫帯たりけるが、沙に足を踏入つゝ、頸を延て曳々とぞ引たりける。盛嗣も大力、宗行も健者、勝劣何れも不(レ)見けり、金剛力士の頸引とぞ覚えたる。両方強く引程に、鉢付の板ふつと引切、鉢は残て頭にあり、■(しころ)は熊手に留りぬ。盛嗣船を漕返せば、宗行陣に帰入。源平共に目を澄し、敵も御方も感嘆せり。判官宗行を召て、只今(ただいま)の振舞凡夫とは見えず、鬼神のわざと覚えたりとて、銀にて鍬形打たる竜頭の甲を賜はる。此甲と云は、源氏重代の重宝也。銀にて竜を前に三、後に三、左右に一宛打たれば、八竜と名付たり。保元軍に、鎮西八郎為朝の著たりける重代の宝なれ共、命に替んとの志を感じ、強力の挙動神妙(しんべう)也とて是を給ふ。宗行家門の面目と思ひて、畏てぞ立にける。
S4205 源平侍共軍附継信盛政孝養事
大臣殿船中にて是を見給(たまひ)て、能登殿へ被(レ)仰けるは、源氏の軍将九郎冠者を、度々目に懸て討外しぬる
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事、返々遺恨也。最前七騎にて寄たりしには、残党に恐て不(二)討留(一)海上に(有朋下P590)馳入るゝ時は、盛嗣熊手に懸弛ぬ、鍬形の甲に金作の太刀、掲焉装束也、船より上て軍し給へ、相構て九郎冠者を目にかけ給へと宣ふ。能登守は返事に、其条は存ずる処に候とて、飛騨三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)景経、同四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同七郎兵衛景清、矢野馬允家村、同七郎高村已下、究竟の輩三十(さんじふ)余人(よにん)、船を漕寄陸に上り、芝築地を前にあて後にあて、進退招たり。判官日既(すで)に及(レ)晩、夜陰の軍は有(レ)憚、只今(ただいま)の敵は名ある者共と覚たり、列者共一揉揉んとて打立給へば、土肥次郎実平、大将軍度々の合戦軽々敷候、若者共に預給へとて、判官をば本陣に留置、実平先陣に進ければ、子息弥太郎遠平、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、佐々木四郎高綱、金子十郎家忠、渋谷庄司重国、子息馬允重助、渡辺源五馬允眤、伊勢三郎義盛、鎌田藤次光政、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信、片岡八郎為春等を始として、一人当千(いちにんたうぜん)の者共五十(ごじふ)余騎(よき)、轡を並て蒐出づ。平家は歩立にて、芝築地より打出て、引詰引詰馬の上を射る。源氏は馬上より指当指当落し矢に射る。寄つ返つ追つ追れつ、入替入替々々射合たり。流るゝ血は砂を染、揚塵は煙の如し。源氏手負は陣に舁入、平家討れば舟に運びのす。此にして、常陸国住人(ぢゆうにん)鹿島六郎宗綱、行方六郎、鎌田藤次光政(有朋下P591)を始として、十余人(よにん)は討れにけり。能登守は心も剛に力も強、精兵の手聞(てきき)なり。源氏が懸廻し懸廻して、ちと踉■(やすらふ)所を見負せて、指詰々々射ける矢に、武蔵国住人(ぢゆうにん)河越三郎宗頼、目の前に被(レ)射て引退。
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次に片岡兵衛経俊、胸板(むないた)被(レ)射て引退く。次に河村三郎能高、内甲被(レ)射落にけり。次大田四郎重綱、小かひな射られ引退。次に判官乳母子(めのとご)、奥州(あうしうの)佐藤三郎兵衛継信は、黒革威(くろかはをどしの)鎧を著たりけるが、首の骨を被(二)射貫(一)、真逆さまに落たりけるを、能登守童に菊王丸と云者あり、本は通盛の下人成けるが、越前三位討れて後、其弟なればとて此人に付たりけるが、萌黄糸威腹巻に、左右射■(こて)さして、三枚甲居頸に著なし、太刀を抜て飛で懸り、継信が首を取らんとする。四郎兵衛忠信立留り、引固て放矢に、菊王丸が腹巻の引合つと被(二)射貫(一)て、一足もひかず覆倒。忠信が郎等に八郎為定、小長刀を以開て、童が首を取んと懸る。能登守童が頸取れじと、太刀を打振つとより、童が手を取引立て、曳声を出して船に抛入。暫しは生べくや有けんに、余り強被(レ)投て、後言もせず死にけり。忠信は此間に、兄の継信を肩に引懸、泣々(なくなく)陣の中へ負て入たり。判官近く居寄給、いかに継信よ/\、義経爰(ここ)に有、一所にとてこそ契しに、先立る事の悲さよ、如何にも後生をば可(レ)弔、冥途の旅心安(こころやすく)思ふべし、さても何事をか思ふ、云置かし(有朋下P592)と宣へ共、只涙を流す計にて、是非の返事はなし。判官重て、汝心があればこそ涙をば流すらめ、猛兵の矢一に中て、生ながら不(レ)言事やはある、左程の後れたる者とは不(レ)存者を、今一度最後の言聞せよと宣へば、継信息吹出し、よに苦しげにて息の下に、弓矢取身の習也、敵の矢に中て主君の命に替は、兼て存る処なれば更に恨に非ず、只思事とては、老たる母をも捨置、親き者共にも別れて、遥(はるか)に奥州(あうしう)より付奉し志は、平家を討亡して、日本国(につぽんごく)を奉行し給はんを見奉ら
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んとこそ存しに、先立奉計こそ心に懸侍れ、老母が歎も労しと申ければ、さしも猛武士なれ共、判官涙をはら/\とぞ流し給ける。実に思ふも理也、敵を亡さん事は不(レ)可(レ)経(二)年月(一)、義経世にあらば、汝兄弟をこそ左右に立んと思ひつるにとて、手に手を取合て泣給へば、継信穴嬉しと、其を最後の詞にて、息絶けるこそ無慙なれ。此を聞ける兵共(つはものども)も、鎧の袖を絞けり。日も西山に傾ける上、判官には多くの郎等の中に四天王とて、殊に身近く憑み給へる者は四人あり。鎌田兵衛政清が子に、鎌田藤太盛政、同藤次光政と、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信也。藤太盛政は、一谷(いちのたに)にて討れぬ、一人闕たる事をこそ日比(ひごろ)歎しに、今日二人を失て、今は軍も無(レ)為とて、継信、光政が死骸を舁て、当国の武例高松と云柴山に帰給(たま)ひて、其辺を相尋て(有朋下P593)僧を請じ、薄墨と云馬に、金覆輪の鞍置て申けるは、心静ならば懇にこそ申べけれ共、斯る折節(をりふし)なれば無(レ)力、此馬鞍を以て、御房庵室にて卒都婆経書、佐藤三郎兵衛尉継信、鎌田藤次光政と廻向して、後世を弔給へとて、舎人に引せて僧の庵室に被(レ)送けり。此馬と云は、貞任がをき黒の末とて、黒き馬の少ちひさかりけるが、早走の逸物也。多の馬の中に、秀衡殊に秘蔵也けれ共、軍には能馬こそ武士の宝なれば、山をも河をもこれに乗て敵を攻給へとて、判官奥州(あうしう)を立ける時、進たる馬也。宇治川(うぢがは)をも渡し、一谷(いちのたに)をも落せし事此馬也。一度も不覚なかりければ、吉例と申けるを、判官五位尉に成りけるに、此馬に乗たりければ、私には大夫とも呼けり。片時も身を放じと思給けれども、責ても継信光政が悲さに、中有の路にも乗かしとて被(レ)引たり。
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兵共(つはものども)是を見て、此君の為に命を失はん事不(レ)惜とぞ勇ける。
源氏は武例高松に陣を取、平家は屋島焼内裏に陣を取、源平の両陣三十(さんじふ)余町(よちやう)を隔たり。源氏は軍にし疲て、箙を解て枕とし、鎧を脱で寄臥たり。伊勢三郎義盛ぞ終夜(よもすが)ら夜打もぞある。打とけ寝給ふなよ/\と、立渡立渡触れ明しける。平家は夜討の評定あり。敵は三百(さんびやく)余騎(よき)にはよも過じ、今夜は軍に疲し、柴山にこそ臥たるらめ、御方の軍兵一千(いつせん)余騎(よき)、足軽に出立て、高松山を引廻し、一人も不(レ)漏などか夜討に(有朋下P594)せざるべきと、此儀可(レ)然とて、思々に出立ける程に、美作(みまさかの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)江見太郎守方と、越中次郎兵衛盛嗣と、先陣後陣を諍程に、其夜も空く明にけり。夜討は実に可(レ)然かりけれ共、是も平家の運の尽るゆゑなり。
廿日夜も既(すで)に暁に成ぬ。野寺の鐘も打響、孀烏のうかれ声、旅寝の眠を驚す。判官急起直り、軍にはよく疲にけり、暫と思ひたれば早明にけり、いざや殿原よせんとて、七十余騎(よき)にて、焼内裏の前、平家の陣へ押寄て時の声を発す。平家も期したりければ声を合せ、楯つき向て支たり。平家には次郎兵衛、悪七兵衛、五郎兵衛、三郎左衛門(さぶらうざゑもん)等、三十人ばかり歩立に成て、熊手、薙鎌、手鋒、長刀を以て、馬をも人をもきらふ事なし。刺たり、突たり、切たり、薙たり、飆(つじかぜ)の吹が如くに狂廻る、面を向べき様もなし。源氏には熊谷、平山、畠山と、佐々木、三浦と、土肥、金子、椎名、横山と、片岡等三十(さんじふ)余騎(よき)、薙鎌長刀に恐て、馬足一所にとめず、弓手に廻し妻手に馳、指詰指詰、追物射にこそ射
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たりけれ。兵五六人被(二)射伏(一)て、平家こらへず舟に乗て漕出す。能登守又二十騎(にじつき)計船より下、芝築地を木陰として、引取指詰散々(さんざん)に射ければ、昨日矢風は負ぬ、進者もなし。武蔵房(むさしばう)、常陸房、旧山法師にて、究竟の長刀の上手にて、七八人(しちはちにん)歩立になり、長刀十文字に採、掃木を以て庭を払が如く薙入ければ、平氏(有朋下P595)の軍兵十余人(よにん)なぎ伏たり。能登守無下に目近く見えければ、打懸る処に、いぶせくや思はれけん、又船に乗て指出す。去(さる)程(ほど)に、大風に恐て留たりける軍兵、跡目に付て屋島の浦に馳来る也。(有朋下P596)