『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十三

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衛巻 第四十三
S4301 湛増同(二)意源氏(一)附平家志度道場詣並成直降人事
熊野別当湛増法眼は、頼朝(よりとも)には外戚の姨聟也。年来は平家致(二)安穏祈祷(一)けるが、国中(こくぢゆう)悉源氏に志を運。湛増一人背ても後難あり、今更平家をすてん事も昔の好を忘に似たり、如何あるべからんと進退思煩ふ。所詮非(レ)可(レ)及(二)人力(一)、可(レ)任(二)神明冥覧(一)とて、田部の新宮にて臨時の御神楽を始む。神明託(二)巫女(一)曰、白鳩は白旗に付と。湛増猶不(レ)信(レ)之、同新宮御前にて、赤は平家白は源氏とて、七番の鶏を合けるに、赤鶏白鶏を見て、一番も不(レ)番逃にけり。此上は奉(レ)任(二)神慮(一)とて、熊野三山、金峯、吉野、十津河、死生不(レ)知の兵共(つはものども)を語集、若一王子の御正体を奉(レ)下、榊枝に飾付、日月山端を出るが如し。旗紋、楯面には金剛童子を画に顕す、見るに身毛(みのけ)竪けり。兵船二百(にひやく)余艘(よさう)を調て、紀伊国田部湊より漕渡て源氏に加る。
河野四郎通信は、元来源氏に志有ければ、所々の軍に家子郎等多く討れたりけれ共、千余騎(よき)の軍兵を卒して、伊予国より馳来て勢を合す。懸りけ(有朋下P598)れば、判官弥力付て、荒手の兵入替々々責ければ、平家遂に被(二)責落(一)て、二十一日の巳刻には、屋島の渚(なぎさ)を漕出て、塩に引れ浪に諍、何を指とはなけれ共、風に任動行こそ悲けれ。先帝を奉(レ)始て、女院二位殿(にゐどの)、女房男房宗徒の人々は、讃岐志度へぞ御座(おはしまし)ける。
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源氏は屋島軍に討勝て、三箇日逗留して四国の勢を招。判官伊勢三郎義盛を召て、河野四郎追討のために、成良が嫡子伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)成直、三千(さんぜん)余騎(よき)にて伊予へ越えたり、召捕て進せよと下知す。依(レ)命起(レ)座。義盛は究竟の山賊海賊、古盗人の謀賢き男也。先下搨jを一人出し立て、次第脛巾、簔笠に旅籠持て、伝内左衛門(でんないざゑもん)に伺遇て云べき様委教て、一日路を先立て伊予国へ越。義盛は三千騎(さんぜんぎ)を従へんとて、十七騎の勢を具して、一日路さかりて向けり。人々嗚呼々々敷思ける。成直は河野が館へ推寄たれ共、通信をば漏つ、家子郎等多く討捕、館に火懸て、首をば兼て進り、虜共あまた編連て、屋島も■(おぼつかなし)とて、伊予より讃岐へ帰けり。道に夫男に遇。伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)、己は何所よりいづくへ通る者ぞと問。屋島より伊予へ罷る者にて候と答。偖屋島には何事かあると問。夫男答て云様は、伊予国河野四郎殿の伯父、福良新三郎殿頸実検(くびじつけん)の日、源氏九郎判官と名乗て、雲霞の勢屋島の内裏へ押寄て、夥(おびたたし)き軍にて候しが、源氏の為に内裏を被(レ)焼て、平家は船に乗て、下会々々(有朋下P599)戦給し程に、平家は無勢に御座、源氏は大勢なれば、平家軍に負て、大臣殿父子、小松殿(こまつどの)公達生捕れ給ぬ、桜間大夫殿(だいぶどの)は十七日(じふしちにち)阿波勝浦の軍に虜と披露あり、民部太輔殿(みんぶのだいふどの)は、軍破て降人に被(レ)参けり、其外の人々死るも被(レ)捕も、いくらも有と聞え候き、能登殿こそ由々しく御座(おはしまし)けれ、源氏も其手に多く討れて、終には小船に乗て漕出し、海に沈み給ぬとて上下嘆奉候き、東国の勢はさる事にて、熊野別当とて二百艘の兵船を漕、河野四郎殿は、千余騎(よき)にて屋島へ被(レ)馳き、其外五十騎(ごじつき)百騎、四国九国より馳集て、
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阿波讃岐の浦々は軍兵にて候。判官は暫逗留して、平家の方人を平ぐべしとぞ承つる、其外の事は不(レ)知と申て過ぬ。伝内左衛門(でんないざゑもん)此言を聞より、心弱く思て、一所にて何とも成べかりける者を、無(レ)由伊予へ越てけり、父降人に参給ける事は、成直を今一度見もし見えん為歟、但下揩フ説不(レ)足(二)信用(一)、実否を聞んとて馬を打て行程に、讃岐国三木郡、琴造の宮と云所にて、伊勢三郎と伝内左衛門(でんないざゑもん)と行会たり。義盛鐙踏張弓杖つき、あれは伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)と見は僻事(ひがこと)歟、是は源氏の郎等に伊勢三郎義盛と云者也、平家は屋島の軍に負て、内裏以下人々の家々(いへいへ)皆焼ぬ、大臣殿父子、小松殿(こまつどの)の公達、恥あるは大底被(レ)虜給ぬ、汝が父民部大輔(みんぶのたいふ)は、頸を延て降人に参ず、桜間大夫勝浦にて虜る、此二人義盛預。汝が父は降人な(有朋下P600)れば頸をば可(レ)継、桜間大夫は死罪難(レ)遁、種々(しゆじゆ)歎申間、御恩に申かへんと存ず、能登殿こそ由々敷振舞給たりしが、判官殿(はうぐわんどの)乳母子(めのとご)佐藤三郎兵衛、鎌田藤次を始として、多の郎等討れぬ、結句舟に乗海に入給ぬ、実の大将軍と覚き、抑汝源氏に可(レ)奉(レ)随か、猶意趣あるか、民部大輔(みんぶのたいふ)の降人に参る事、今一度汝を見んとの恩愛の情と存ず、父をも見故郷にかへらんと思はば義盛につけ、命をば可(二)申請(一)、角云をそむき給はば通し侍るまじと云。弓取直し矢束を解。成直は夫男が詞、義盛口上無(二)相違(一)と思ければ、父左様に参ける上は、成直以て同事とて、弓を弛し甲を脱て義盛に随。伊勢三郎申けるは、降人として軍兵を引卒す、不審可(二)相貽(一)と云。成直郎等に暇をたび、其より散々(ちりぢり)に返す。義盛謀澄して判官の許へ将向。十七騎の勢にて三千(さんぜん)余騎(よき)を従る事、古今無(レ)類。判官は参上神妙(しんべう)
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也、成直己が頸をも継で父をも見んと思はば、状を父が許へ音信(おとづれ)よと宣ふ。成直畏て状を遣す。源平の合戦勝劣雲泥也、後勘有(レ)恐、前(二)降源家(一)、早住(二)同心之思(一)、必遂(二)面謁之志(一)と。阿波民部成良は、平家の軍如何にも叶べくも不(レ)見ければ、心を源氏に懸たりけるに、成直虜れぬと聞ければ、判官に通じて阿波国へ渡ぬ。彼国の住人(ぢゆうにん)等、成良が命を守て皆随(二)属源氏(一)。此三箇年の間は平家に忠を尽して、度々軍にも父子共に忠を致しけるに、忽(たちまち)に心替(有朋下P601)しぬ。平家運尽とはいひながら無慙なり。
二月十七日(じふしちにち)は阿波勝浦の軍、二十一日には屋島を責落し、二十二日(にじふににち)には讃岐志度を被(レ)攻けり。二十三日に梶原已下の兵屋島の渚(なぎさ)に著。諍終のちぎりぎの風情なりとて、人皆口をすくむ。
源氏は讃岐屋島にあり。平家は屋島の城(じやう)を被(レ)落、同国志度へ移たりけれども、爰(ここ)をも被(二)攻出(一)て、長門国引島に著。如何が有べかるらんと■(おぼつか)なし。其をも漕出して、浦伝島伝に落行けり。白鳥丹生の社をも漕過て、筑前国箱崎津に著給ぬ。九国の輩源氏に心を通じて、彼津をも可(レ)責由聞えければ、平家かしこをも出給ぬ。何れの所を宿と不(レ)定れば、浪と共に諍て、漕れ行こそ哀なれ。
S4302 住吉(すみよし)鏑並神功責(二)新羅(一)附住吉(すみよし)諏訪並諸神一階事
元暦二年二月十六日(じふろくにち)夜の子刻に、住吉社第三神殿より、鏑矢の声出て西を指て出行ぬと、当番の神人、并祝等是を聞由、神主長盛、并権祝有遠奏状を進する。賊徒滅亡神兵の力ありと叡信を被(レ)垂ければ、御剣已下色々(いろいろ)の幣帛(へいはく)、種々(しゆじゆ)の神宝即長盛有遠を召て奉進あり。昔第十五代帝仲哀天皇(てんわう)の后、神功皇后(じんぐうくわうごうの)御宇(ぎよう)、新羅の西戎我国を背く由聞えければ、皇后可(レ)責(二)異賊(一)旨、天照太神(てんせうだいじん)に
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被(レ)申、謹で無(レ)懈とて、二人の荒みさきを差副給へり。(有朋下P602)皇后懐胎月満て産月也。纜を解給時、御産の気出来給。皇后仰云、胎内王子慥に聞しめせ、為(レ)守(レ)妾本朝新羅の異賊を責んとて、遥(はるか)に海上に浮、若今生給はば、必水中の鱗と成給ふべし、君吾国の主と成て、百王の位に即せ給ふべくば、異賊を随へ、本朝に帰て誕生(たんじやう)し給へと宣命し給ければ、御産気止りて、異国へ渡り給しに、二人荒みさき艫舳に立て守奉しかば、新羅高麗の西戎を平げて日本(につぽん)に帰、筑前国にして御産あり。其よりして其所を宇美庄と云。即宮を造て宇美明神と名く。皇子位に即給ふ、応神天皇(てんわう)是也。神と顕給(たまひ)ては、宇佐八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と申。二人の荒みさき、一人は摂津国(つのくに)住吉郡に留給ふ、今の住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)是也。巨海の浪に交ては水畜を利益し、禁闕の窓に臨では玉体を守護せり。社は千木の片殺神寂、松の緑生替、形は皓々たる老翁也。幾万世を経給けん。一人は信濃国(しなののくに)諏訪郡に跡を垂、即諏訪明神是也。昔柏原天皇(てんわう)、皇子に沙門開城と申人御座(おはしまし)き。是は摂津国(つのくに)勝尾寺の善仲、善算、両上人に随て、出家受戒の御弟子也。金字如法の大般若経を為(二)書写(一)、奉(レ)祈(二)三宝(一)、得(二)清浄水(一)思召(おぼしめし)けるに、形夜叉の如して、一すくひの水を進むる者あり。皇子怪みて、汝何者(なにもの)ぞ、此水大清浄也やと問給ふ。夜叉答て申さく、我は是信濃国(しなののくに)諏訪南宮也、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の厳命を賜て、西天白鷺池の水を汲、一夜が程に往(有朋下P603)還来れりと申。彼水を硯に入、六箇年の間六百巻を書写せしに、一度入て後、其水終に不(レ)尽けり、不思議なりし事也。道場建立(こんりふ)し、件の経を安置して、遥(はるか)に慈尊の出世を待故に、弥勒寺と名けたり。
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水尾天皇(てんわう)臨幸の時、改(二)寺号(一)勝尾寺と申。懸る現人神達(あらひとがみたち)なれば、新羅征伐之時は、天照太神(てんせうだいじん)も被(二)差副(一)けるにこそ。昔の征伐今の神託、御憑敷ぞ思召(おぼしめす)。
同三月三日平家追討の御祈(おんいのり)に、諸国の明神に被(レ)奉(レ)授(二)一階(一)之由、被(二)宣下(一)けり。凡兵革の祈祷、天下安穏をために、諸国の神明に一階を増さらるゝ事、代々之例也。
仁明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、嘉祥四年正月に、天下諸神不(レ)論(二)有位無位(むゐ)(一)、共叙(二)正六位上(一)云官府を被(レ)下より以降、朱雀院御宇(ぎよう)天慶三年正月諸国諸神奉(レ)増(二)一階(一)、白河院(しらかはのゐんの)御宇(ぎよう)、永保元年二月、同奉(レ)増(二)一階(一)。崇徳院御宇(ぎよう)、永治元年七月、同奉(レ)増(二)一階(一)。高倉院(たかくらのゐんの)御宇(ぎよう)治承四年十二月、同奉(レ)増(二)一階(一)、仍今度もかように被(レ)行けり。
S4303 源平侍遠矢附成良返忠事
平家は屋島をば落ぬ、九国へは入られず、寄方もなく浮宕て、長門、壇浦、赤間、門司関、引島に著て波上に漂、船中に送(レ)日給ふ。源氏は阿波国勝浦に著。所々の軍に討勝て、(有朋下P604)屋島の内裏を追落し、平家の船の行に任て陸より責追。焼野雉の隠なく、鷹の責るに不(レ)異。源氏は於井津部井津と云所に著。平家の陣を去事二十余町(よちやう)也。
同三月二十四日、九郎判官義経已下の軍兵、七百(しちひやく)余艘(よさう)にて夜の陵晨に責寄す。平家待請たり。五百(ごひやく)余艘(よさう)の兵船を漕向へ、矢合して戦。源平両方の軍兵十万余人(よにん)なれば、互に時を発す声鏑矢の鳴違音、上は蒼天に聞え、下は海底に響らんとぞ驚れける。
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参川守範頼、千葉介常胤、稲毛、榛谷、海老名、中条、相馬、大田、大胡、広瀬、小代、中村、久下、塩谷、三万(さんまん)余騎(よき)にて九国地に著、前をきる。籠中の鳥出難く、網代■(ひを)免れんや。海には船を浮たり、陸には轡並たり、東西南北塞て、漏べき方こそなかりけれ。
権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)知盛卿、船の舳に立出て被(レ)申けるは、軍は今日を限、各退く心有べからず、自(レ)昔至(二)于今(一)まで、軍敗運尽ぬれば、名将勇士も、或路人の為に被(レ)獲、或為(二)行客(一)囚、是皆難(レ)去死を遁んと思故也、各命を此時に失て、必名を後の世に留よ、東国の奴原にわるびれて見ゆな、何の科にか命をも可(レ)惜、心を一にして義経を取て海に入よ、今度の合戦の執心此事にありと被(レ)申ければ、近く候ける武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもん)有国、各此仰奉れやと申。悪七兵衛景清が、中坂東の者共は、馬上にてこそ口は聞候へ共、船軍は未練なるべし、只魚の木に登らん如く(有朋下P605)なるべし、必失(二)寸歩(一)可(レ)抛(二)弓箭(一)、一々に取て海に入なんと申。由々敷ぞ聞し。越中次郎兵衛盛嗣申けるは、九郎冠者が軍将として上ると承し間、縁に付て其様を尋聞しかば、面長して身短く、色白して歯出たり。身を窄してよき鎧をきず、日々(ひび)朝夕に物具(もののぐ)を替ふと云き、得(二)其意(一)くまん/\と申。人々口々に、九郎は心こそ猛共、勢が小あるなれば、其冠者何事か有べき、目にかれてんには寄合、片脇に掻挟でつと海へ入なんと申。伊賀平内左衛門(へいないざゑもん)家長は、あゝ世は不思議の事哉、金商人が従者して奥州(あうしう)へ下たりける者が、源氏の大将軍して、君に向ひ進矢を放事よ、御運の尽させ給ふと云ながら、口惜事哉とてはら/\と泣。
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権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)知盛卿、大臣殿の前へ進で被(レ)申けるは、今日の合戦兵の景気勇ありて見え候、但成良は一定心替したりと覚ゆ、頸を切侍ばやと宣へば、大臣殿は、そも実否を聞定てこそ、若僻事(ひがこと)ならば不便也とて不詳ければ、度々被(二)諌申(一)成良を召。木蘭地直垂に、洗革の冑著て、大臣殿の前に蹲踞せり。成良こそ先々の様に事をもおきてね、今日はわるびれて見ゆ、若臆し侍るか、四国の者どもに軍よくせよと下知すべしと被(レ)仰ければ、なじかは臆し侍べきとて立ぬ。知盛卿は太刀の管に手を懸て、頸を打ばやと思召(おぼしめし)けれ共、免し給はねば力なし。肥後国住人(ぢゆうにん)菊地次郎高直、原田大夫種直等は、平家(有朋下P606)に相従たりければ、三百(さんびやく)余艘(よさう)先陣に漕向へ、弓の上手大矢共をそろへて散々(さんざん)に射ければ、源氏の兵多く討れて舟共指退。平家は勝ぬとて、阿波国住人(ぢゆうにん)新居紀三郎行俊、唐鼓の上にのぼりて、責鼓を打て■(ののしり)けり。
判官は軍負色に見えければ、塩瀬の水に口を漱、目を塞て合(レ)掌、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を祈念し奉る。加(二)神明擁護(をうご)(一)給、白鳩二羽飛来て、判官の旗の上にぞ居たりける。源平共にあれ/\と云程に、東の方より一村の黒雲たなびき来て、軍場の上にかゝる。雲中より白旗一流おり下て、判官の旗頭ひらめきて雲と共に去ぬ。源氏は合(レ)掌拝(レ)之、平家は身毛(みのけ)竪て心細く覚しける。
源氏の軍兵等、此等の霊瑞を拝ければ勇■(いさみののしり)て、或船に乗移て、漕寄々々戦者もあり。或は陸を歩せて、指詰々々射者もあり。強弓(つよゆみ)精兵矢継早の手だり共、不(レ)劣不(レ)負と散々(さんざん)に射ければ、平家乱合
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て戦、勝劣更に不(レ)見。三浦平太郎義盛、船には不(レ)乗浦路を歩せ、敵の舟をさしつめ/\射けるこそ物に当るも健く、遠も行けれ。
前権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)知盛卿乗給へる船、三町(さんちやう)余を隔て澳に浮ぶ。三浦義盛十三束二伏の白箆に、山鳥の尾を以矯たりけるを、羽本一寸ばかり置て、三浦小太郎義盛と焼絵したりけるを、能引て兵と放つ。知盛卿の舷に立て動けり。中納言此矢を抜せて、舌振して立給へり。三浦は遠矢射澄したりと思て、鐙踏張弓杖つき立上つ(有朋下P607)て、扇をひらいて平家を招。其矢射返せとの心也。中納言是を見給(たまひ)て、平家の侍の中に、此矢可(二)射返(一)者はなきかと被(レ)尋けるが、阿波国住人(ぢゆうにん)新居紀四郎宗長、手は少し亭なれ共、遠矢は四国第一とて被(レ)召たり。宗長三浦が箭をさらり/\と爪遺て、此箭箆姓弱矢つか短し、私の矢にて仕侍べしとて、黒塗の箭の十四束なるを、只今(ただいま)漆をちと削のけ、新居紀四郎宗長と書付て、舳屋形(へやがた)の前ほばしらの下に立て、暫固て兵と放つ。三浦義盛が弓杖に懸けて居たりける甲の鉢射削、後四段計に引へたる三浦石左近と云ふ者が、弓手の小かひな射通す。源氏軍兵等、嗚呼、義盛無益して遠矢射て、源氏の名折ぞ/\と云ければ、判官宗長が矢を取て、これ返すべき者やあると被(レ)尋ければ、土肥次郎実平が申けるは、東八箇国には此矢に射勝べき者不(レ)覚、甲斐源太殿の末子に、浅利与一殿ぞ遠矢は名誉し給たると挙す。さらば奉(レ)呼とて招寄。判官宣(のたま)ひけるは、三浦義盛遠矢射損じて、答の矢被(レ)射たり、時の恥に侍、其返給ひなんやといはれければ、与一は宗長が矢を取て、さらり
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さらりと爪遣て、此は箆誘も尋常に、普通には越侍、但遠忠が為には不(二)相応(一)、私の具足にて仕べしとて判官の前を立。其(その)日(ひ)の装束には、魚綾の直垂に、折烏帽子(をりえぼし)を引立て、黄河原毛馬に、白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。白木弓の握太なるを召寄(有朋下P608)て、白篦十四束二伏に誘たる、切府に鵠の霜降破合て矯たる征矢一手取り添て、遠矢の舟はいづれぞと問。舳屋形(へやがた)の前に扇披きつかひて、鎧武者の立たる船と教ふ。遠忠能引固て兵と放つ。宗長が遠箭射澄たりと存て、ほばしらにより懸り、小扇ひらき仕ける鎧の■板(むないた)かけずつと射とほし、其矢はぬけて海上五段計にさと入。宗長ほばしらの本に倒る。其後源平の遠矢はなかりけり。三浦義盛遠矢射劣て、此恥を雪んと思、小船に乗、楯突向て漕廻々々、面に立平家の侍共、差詰々々射倒す。元来精兵の手だりなれば、簇に廻者なし。源氏方に斉院次官親能と名乗■(ののしり)懸て戦ふ。平家方には誰とは不(レ)知武者一人、舷に立て、あゝ親能は右筆ばかりは取も習たるらん、弓矢の道は不(レ)知者をと云たりければ、敵も御方もはつと笑。親能赤面してぞ侍りける。
源氏は大勢也、勝に乗て攻戦。平家は小勢也、今日を限と振舞けり。帝釈修羅の闘諍、争かこれには勝るべき。平家は船を二三重に構たり。唐船には、軍将の乗たる体にて軍兵を乗たり。兵船には大臣殿已下、可(レ)然人々被(レ)乗たり。源氏軍将の唐船を攻ん時、兵船源氏の船を指廻して、中に一人も取籠不(レ)洩うたんとの謀也。民部大輔(みんぶのたいふ)成良は、さしも平家に忠を致しか共、忽(たちまち)に心替して、四国の軍兵三百(さんびやく)余艘(よさう)漕却て、軍の見物して居たり。平家強らば源氏をいん、源氏勝色(有朋下P609)ならば平家を射んとぞ強健
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たる。天をも可(レ)度地をも可(レ)度、只不(レ)可(レ)度は人の心と、誠哉成良。
源氏、海には櫓械を並て兵船数を不(レ)知、陸には轡を並て其(その)勢(せい)雲霞の如。平家如何にも難(レ)叶見えける上、子息伝内左衛門(でんないざゑもん)が事も悲ければ、成良判官へ使を立て申けるは、唐船には、大将軍の乗たる様にて軍兵を被(レ)乗たり、兵船には、大臣殿已下の公達召れたり、唐船を責させて、源氏を中に取こめんと支度し侍、御意有べき中言して、成良が一類、相従四国の者共、三百(さんびやく)余艘(よさう)漕寄つゝ、指合て平家を射。成良は心替者なり、頸を切ばやと中納言のよく宣(のたまひ)ける者をと、大臣殿後悔し給けれ共云がひなし。
S4304 知盛船掃除附占(二)海鹿(一)並宗盛取替子事
〔去(さる)程(ほど)に、〕源氏の兵共(つはものども)いとゞ力を得て、平家の船に漕寄々々乱乗。遠をば射近をば斬、竪横散々(さんざん)に責。水手かんどり、櫓をすて梶を捨て船を直すに及ず、被(二)射伏(一)被(二)切伏(一)、船底倒れ水の底に入。中納言は、女院二位殿(にゐどの)などの乗給へる御船に参られたりければ、女房達(にようばうたち)、こはいかに成侍ぬるぞと宣(のたまひ)ければ、今は兎(と)も角(かく)も申にことば不(レ)足、兼て思儲し事也、めづらしき東男共をこそ御覧ぜんずらめとて打笑給。手自船の掃除して、見苦き物共(有朋下P610)海に取入、こゝ拭へかしこ払へなど宣ふ。さほどの事に成侍なる閑なるに戯言哉とて、女房達(にようばうたち)声々をめき叫給。此に海鹿と云大魚二三百もやあるやらん、塩ふき立て食て来る。安部晴延と云小博士を召て、いかなるべきぞと尋給ふ。晴延占文披いて、此海鹿食返ば源氏有(レ)疑、食通ば御方に無(レ)憑と申けるに、此魚一も不(レ)食返。平家の船の下をついくぐり、ついくゞり食て過ぬ。小博士今はかう候とて、涙をはら/\と流ければ、人々声を立てぞをめき
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給ふ。二位殿(にゐどの)は今を限にこそと聞給ければ、宗盛は入道大相国(たいしやうこく)の子にも非ず、又我子にもなし、されば小松内府が心にも似ず、思おくれたるぞとよ、海に入自害などもせで、虜れて憂目などをや見んずらん、心憂こそ覚れとぞ宣(のたまひ)ける。宗盛、入道の子に成ける故は、二位殿(にゐどの)重盛(しげもり)を嫡子に儲て後、又懐妊したりけるに、入道、弓矢取身は男子こそ宝よ、嫡子に一人あれば心苦、必弟儲て給へ、とぎにせさせんと云。二位殿(にゐどの)不(レ)斜(なのめならず)仏神に祈申、月満じて生れたれば女子也、音なせそ如何がせんとて、方々取替子を尋ける程に、清水寺の北坂に、唐笠を張て商ふ僧あり。憖(なまじひ)に僧綱(そうがう)に成たりければ、異名に唐笠法橋と云ける者が許に、男子を産たりけるに取替つゝ、入道に男子儲たる由告たれば、大に悦で、産所もはてざりけれ共、嬉さには穢事も忘て女房の許に行、あゝ目出(有朋下P611)々々とぞ悦給ける。入道世に有し程は、露の言葉にも出し給はず、壇浦にてぞ初角語給ける。
S4305 二位禅尼入海並平家亡虜人々附京都注進事
二位殿(にゐどの)今は限と見はて給にければ、練色の二衣引纏、白袴のそば高く挟て、先帝を奉(レ)懐、帯にて我身に結合進せ、宝剣を腰にさし、神璽を脇に挟て艇に臨給。先帝は八にぞ成せ給ける。御年の程よりはねびとゝのほらせ給(たまひ)て、御形あてにうつくしく、御髪黒くふさやかにして、御背に懸給へる御貌、無(レ)類ぞ見えさせ給ける。御心迷たる御気色(おんきしよく)にて、こはいづこへ行べきぞと被(レ)仰けるこそ悲けれ。二位殿(にゐどの)は兵共(つはものども)が御船に矢を進せ候へば、別の御船へ行幸なし進せ候とて、
  今ぞしる御裳濯河の流には浪の下にも都ありとは K223 
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と宣(のたま)ひもはてず海に入給ければ、八条殿同つゞきて入給にけり。国母建礼門院(けんれいもんゐん)を始奉て、先帝御乳母(おんめのと)、帥典侍(そつのすけ)、大納言典侍(だいなごんのすけ)已下の女房達(にようばうたち)、船の艫舳に臥まろび、声を調て叫給も夥(おびたた)し。軍喚にぞ似たりける。浮もや上らせ給と暫しは見奉けれ共、二位殿(にゐどの)も八条殿も、深(有朋下P612)沈て不(二)見給(一)。昔は一天の主として、殿をば長生と祝、門をば不老と名けしか共、今は雲上の竜下て、忽(たちまち)に海中の鱗と成給こそ悲けれ。哀哉花に喩し十善の御粧、無常の風に匂を失ひ、悲哉月に瑩し万乗の玉体、蒼海の浪に影を沈御座事を。無常元来定なし、有待誰かは恃有なれ共、清涼紫宸の玉台を振棄て、闘戦兵革の船中に行幸して、未十歳にだにも満せ給はぬ御齢に、忽(たちまち)に波の底に入給けん、哀と云も疎也。女院は後奉らじと、御焼石と御硯の箱とを左右の御袂(おんたもと)に宿し入、御身を重くしてつゞきて海に入せ給(たま)ひけるを、渡辺源次兵衛尉番が子に、源五馬允眤と云者、急飛入て奉(二)潜上(一)けるを、眤が郎等熊手を下て御髪をから巻て御船へ引入奉。弥生の末の事なれば、藤重の十二単の御衣を召れたり。翡翠の御髪より始て、皆塩垂御座ぞ御痛しき。帥典侍(そつのすけ)も同飛入給けるを、衣のすそと御袴とを舷に射付られ給(たまひ)て、沈み遣給はざりけるを、源次兵衛番奉(二)取上(一)。眤はもしやの時とて、鎧唐櫃の底に持たりける唐綾の白小袖一重取出して女院に進たりけるぞ、夷なれ共情あり。眤は近くは不(二)参寄(一)、程を隔畏て、君は女院にて渡らせ御座かと、度々尋申ければ、御覧じ馴ぬ夷の有様(ありさま)、恐しく思召(おぼしめし)けれ共、御言をば出させ給はず、二度打うなづかせ給けり。眤御船を漕て、女院をば判官の船に渡入奉。近衛殿(このゑどの)の北政所(きたのまんどころ)
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も、(有朋下P613)海へ飛入せ給けるを、人々取留奉。判官伊勢三郎義盛を以、海には大事の人々入せ給たるを、取上進せたらん者共、狼藉仕るなと下知しければ、義盛小船に乗て触廻。此彼より女房達(にようばうたち)をば判官の船へ送渡奉る。
兵共(つはものども)先帝の御船へ乱入て、大なる唐櫃の鎖ねぢ破、中なる箱を取出し、箱のからげ緒切解て、蓋をあけん/\としければ、忽(たちまち)に目眩鼻血たる。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)見給(たまひ)て、内侍所の御箱也、狼藉也と宣へば、判官是を聞て制止を加ふ。武士共御船を罷出ぬ。即平(へい)大納言(だいなごん)に申て、如(レ)元御唐櫃に奉(二)納入(一)。末代といへ共かく霊験の御座こそ目出けれ。神璽は海上に浮給たりけるを、片岡太郎経春取上奉る。前左馬頭(さまのかみ)行盛は其盛子、前左少将有盛は小松大臣の息男、共に太政(だいじやう)入道(にふだう)の孫也。同船して御座(おはしまし)けるが、軍の様今を限と思ければ、甲を脱捨鎧の袖切落、身軽して舷に進み出、有盛先陣に在て源氏の兵と射合けり。行盛は暫最後所作と覚くて、船の舳頭にして、提婆品をぞ読給ふ。一品既(すで)に終ければ、西に向て廻向して、有盛と立並、簇をそろへて射けるにこそ数の兵も亡びけれ。熊井太郎忠元、江田源三弘基已下の輩、舟を押廻て両方より乗移ければ、行盛、有盛弓をば棄、剣を抜、不(レ)弱(レ)心不(レ)■(レ)命(いのちををしまず)艫舳に廻て散々(さんざん)に戦、首をならべて討死してぞ亡にける。勇兵の振舞尤くぞ覚ける。行盛提婆品を読給(たま)ひける事(有朋下P614)は、父基盛大和守に任じて上洛時、宇治河(うぢがは)のはたに下て、水練して游けるに、水に流て死けり。其後基盛の女房夢に見えけるは、我思かけず宇治左大臣頼長の為にとられて河の底
に沈ぬ、法華経(ほけきやう)にあらずば得道しがたし、追善には提婆品読誦(どくじゆ)書写して廻向せよと見えたりければ、此夢を阿翁入道殿(にふだうどの)に語たれば、不便なりとて福原の経島に御堂を立て、八人(はちにん)の持経者を置て、毎日に法華経(ほけきやう)を転読し、殊に提婆品をば極信に被(レ)読けり。行盛其此は幼少也、成人して是を聞、毎日に不(レ)懈此品をよみ給けるが、今日は未読給はざりけるやらん、又今を最後と思召(おぼしめし)けるにや、最貴哀にぞ覚えける。
源氏の郎等に後藤三範綱は、平家の船に飛入て、弓をば捨て打物抜て走廻けるを、越中次郎兵衛盛嗣、寄合組で重り、上に成下になり、船中を五ころび六ころびしければ、互に刀を抜隙もなかりける処に、盛嗣を助とて悪七兵衛景清、範綱をばさしてけり。前能登守教経は、元来心剛に身健にして、有(二)進事(一)無(二)退事(一)。軍敗ぬと見えければ思切、死生不(レ)知に振舞。是ぞ聞ゆる能登守とて、我先我先にと諍て懸けれ共、少も面も振ず戦。矢ごろに廻者をば指詰々々指詰射けるに、更にあだ矢なし。近付者をば引寄、提て海へ抛入ければ、面を向がたし。太刀にて切は少く水にはまるは多し。前中納言知盛卿是を見て、由なき事し給者か(有朋下P615)な、此輩は皆歩兵にこそ侍める、強に目にたて給べきにあらず、自害をもし給へかしと宣へば、偖は九郎冠者に組とにこそ、其は存る処也。如何がはせんと伺廻処に、判官の船と能登守の船と、すり合て通りけり。能登守可(レ)然とて、判官の船に乗移、甲をば脱棄大童になり、鎧の袖草摺ちぎり捨、軽々と身を認て、何れ九郎ならんと馳廻る。判官
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兼て存知して、兎角違て組じ/\と紛れ行。さすが大将軍と覚て、鎧に小長刀突て武者一人あり。能登守懸(レ)目て、軍将義経と見るは僻事(ひがこと)歟、故太政(だいじやう)入道(にふだう)の弟、門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)教盛の二男に、能登守教経と名乗、にこと笑飛懸る。判官は組では不(レ)叶と思て、尻足踏でぞやすらひける。大将軍を組せじとて、郎等共(らうどうども)が立隔々々しけれ共、除奴原人々敷とて、海の中へ蹴入取入つと寄。既(すで)に判官に組んとしければ、判官早態人に勝たり、小長刀を脇に挟み、さしくゞりて、弓長二つばかりなる隣の船へつと飛移、長刀取直て、舷に莞爾と笑て立たり。能登守は力こそ勝たりけれ共、早態は判官に及ねば、力なくして舟に留あゝ飛たり/\と嘆。其後能登守、今を限と狂廻ければ面を向難し。爰(ここ)に安芸太郎時家と云者あり。是は安芸国住人(ぢゆうにん)にもなし、安芸守が子息にも非ず、阿波国住人(ぢゆうにん)安芸大領と云者が子也。三十人が力持たりと聞ゆ。郎等二人あり、同三十人づつ力あり。時家二人(有朋下P616)の郎等に云けるは、我等(われら)三人心を一にしてくまんには、鬼神と云共負まじ、能登殿強しと云共、やは三人には勝給べき、三人取つて合すれば九十人が力也、私の力態は人の証拠にたゝず、能登守に組で力をも人に知せ、剛の名をも極めんと思ふは如何にといへば、郎等子細にや及べきとて、三人一度に傾(レ)■(しころをかたぶけ)打て懸る。能登守は、源氏の郎等に名もあり力あればこそ教経には懸るらめ、是ぞ軍の最後なると思ければ、閑々(しづしづ)と相待処に、三人鼻を並透間もなくつと寄。一人をば海中へたふと蹴入、二人をば左右の脇に掻挟で、一凍々て、いざおのれら教経が御伴申せ、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)/\(あみだぶつ)とて海の底へぞ沈ける。
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 < 異説には自害云云。 >
宗盛公、子息清宗二人は海にも入ず自害をもせず、船中を兎違角違々行給ければ、侍共余に悪く思て、通様にて海に奉(二)突入(一)。人は鎧の上に碇を置、冑の上に鎧を重て、身を重してゐればこそ沈むに、是はすはだにて、而も究竟の水練也。清宗は父沈給はば我も沈んとおぼし、宗盛は子沈ば我も沈んと思て、二人ながら沈ず、竪ざま横ざま立游、犬游して沈み給はざりけるを、伊勢三郎義盛船を押寄せて、右衛門督(うゑもんのかみ)を熊手に懸て引上。大臣殿此様を見て、態義盛が船近く游寄て、被(二)取上(一)給にけり。飛騨三郎左衛門(さぶらうざゑもん)景経見(レ)是て、何者(なにもの)なれば我君をば奉(レ)取ぞと云て、太刀を抜て打てかゝる(有朋下P617)処に、義盛が童主を不(レ)討と中に隔り戦けるが、童一の刀に甲を被(二)打落(一)て、二の刀に頸を切落されぬ。即義盛に打懸。危見えけるに、堀弥太郎親弘固て放矢に、景経が内甲を射。ひるむ処を親弘弓を捨て得たりと懐く。上になり下になりころびける処を、親弘が郎等落合て、景経が首をとる。此三郎左衛門(さぶらうざゑもん)と云は、大臣殿の乳母子(めのとご)也。目の当見給へば、さこそ悲く覚しけめ。前(さきの)内大臣(ないだいじん)宗盛は、苟も為(二)征夷之将(一)、忽囚(二)匹夫之手(一)、永懸(二)■(そしり)於万人之唇(一)、独残(二)恥於累祖之跡(一)、無慙と云も疎也。
前修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛卿は、船を遁去て入(二)南山(一)、自害して被(二)堀埋(一)にけり。去(レ)難不(レ)去(レ)死、骨を埋共、不(レ)埋(レ)名。
前平中納言教盛、同新中納言知盛卿は、一所に御座(おはしまし)けるが、伊賀平内左衛門(へいないざゑもん)を被(レ)召て、いかに家長
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見るべき事は見つ、先帝を始進せて、一門の人々自害し海に入ぬ、今までも角あれば、強面命を惜むに似たり、大臣殿は如何に成給ぬるやらんと問給。家長涙を流して、大臣殿右衛門督殿(うゑもんのかみどの)二人は、一度に海に入給たりつるを、敵熊手にかけ奉て、二所ながら引上取進せ候ぬ、景経も討死候ぬと申ければ、知盛卿は穴心憂、など深は沈給はざりけるぞと二度宣て、涙をはら/\と流て、今は何をか可(二)見聞(一)、家長日比(ひごろ)の約束はいかにと仰られければ、今更君に離奉て、いづちへ行べきに候はず、御伴なりと申せば、知盛卿余に嬉し(有朋下P618)げに思て、平中納言教盛卿(のりもりのきやう)と冑脱捨て、西に向念仏申て、両人被(二)自害(一)ければ、有国家長已下侍八人(はちにん)、同枕に自害して伏ぬ。知盛卿は不(レ)辱(二)猛将之聞(一)、教盛卿(のりもりのきやう)は不(レ)劣(二)武勇之名(一)、共亡(二)命於西海(一)、互伝(二)誉於東路(一)たる。
 < 一説云、知盛、教盛両人は、腹巻の上に鎧を著、身を重して手を取組、海に入給ければ、侍共八人(はちにん)同続て入にけり。源氏の兵共(つはものども)哀とみる処に、年三十計の男の、木蘭地直垂に黒糸威(くろいとをどし)の腹巻に、二所籐の塗籠たる弓の真中取、甲をも著ず箙も負ず、矢二三執添て、赤銅作の太刀帯て、中納言の海へ入給へるせがいへつと出来、海を睨て立たり。源氏其意をば不(レ)知、目を澄て是を見、あはれよき侍共をば召仕給ける者哉、或ひは虜、或海に沈て、主は一人もなけれ共、事に遇べき事様也、何者(なにもの)に目を懸伺居たるらんと私語(ささやき)見けれども、近付寄者なければ、仕出せる事はなし。良久海を睨て後、弓矢をざぶと投入つゝ、我身も海につと入、又も浮まで沈にけり。こは何としつる事ぞと、取々不審を成けるに、或人の申けるは、此者は一定中納言の侍なり、中納言さる謀賢人にて、身をばよく認て入たりとも、若浮上事もあらば、敵の手に懸ずして汝射殺と約束せられたり
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けると覚る。大臣父子沈もやらで、敵に虜れ給へるをも心憂こそ覚しけめ、さればこそ主の入たる処を睨で、別に子細はなくして共(有朋下P619)に海には沈らめ。哀此人に世を譲たらば、たとひ運の極也とも、都にて如何にも成給なましと、惜まぬ者はなかりけり。 >
赤旗赤符海上に充満て、紅葉を嵐の吹散したるが如し。海水も血に変じて、渚々に寄波、薄紅にして流ける。主を失へる船は、風に随塩に引れて、越路の雁行を乱れるが如、膚を離たる衣は、水に浮波に諍て、蜀江の錦色を洗かと疑る。玉楼金殿の昔の栄花、船中の浪の底、今の有様(ありさま)、思並て哀なり。
 < 元暦二年の春の暮、如何なる年如何なる日ぞ、一人海底に沈、百官水泡と消ゆ。 >
豊後国八代宮の神主に、七郎兵衛尉某と云者父子は、平家に被(レ)催軍しける程に、壇浦の軍敗て遁べき方なし、自害をせばやと思て、子息の大夫を招て、平家ははや亡ぬ、我等(われら)囚〔びと〕に成なば一定可(レ)被(レ)誅、旧里に帰今一度妻子をも見ばやと思、又可(二)自害(一)歟それ計へと云。子息大夫申けるは、我等(われら)必しも平家重代の侍に非、又心より発て軍せず、十善帝王御座とて、被(二)駈催(一)一旦参ず、強に罪深からず、只旧里に返退て、無(レ)■(あやまりなき)由を陳じ申給へ、但只今(ただいま)舟を漕行ば、落人とてよも不(レ)被(レ)生、年来の水練此時にあり、水底を游給へと云。可(レ)然とて鎧物具(もののぐ)脱棄て裸に成、褌かき、父子共水底に飛入て、豊前国柳浦を志て游行。門司が浦より柳浦までは、海の面五十(ごじふ)余町(よちやう)の処也。今二十町計不(二)行著(一)して、父の兵衛尉(有朋下P620)子息大夫を呼返して云、去共と思つれ共、我左の足を引入/\する者あり、今は故郷に游著ん事難(レ)叶、去ばこそ汝にも游後ると云。大夫は疲給たるにこそ、何物(なにもの)
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かは足を引侍べき、只我肩に懸給へといへば、我身こそ死ぬ共、汝をさへ沈めん事不便也、如何にも足が重ければ叶はじと云へば、大夫水底に入て足を捕て見れば、余に周章(あわてて)、髄当の片方の緒をば解て、今片方を不(レ)解けるが、水にしとみて重かりけり。引切て角といへば、さては游んとて、二時計に柳浦へ游上る。宿所に帰て妻子を見悦事極なし。世静て鎌倉に下陳じ申ければ、難(レ)遁罪科なれ共、社官に被(二)咎行(一)事、思へば神慮難(レ)量とて、八十五町の神田相違なく、如(レ)元被(レ)補(二)神主職(一)罷下にけり。
平家亡て、猪俣近平六と、常陸の八田左衛門知家と乗たる船の本へ、つきうす一つゆられ来。機嫌なしと笑けるに、近平六、平家の臼と見ゆる也けりと云。八田知家、年来の憑も今はつきはててと付、人々興に入てぞ笑ひける。
同四月四日、九郎判官義経合戦の次第注進して、以(二)飛脚(一)院(ゐんの)御所(ごしよ)へ奏申けり。注進状には、去三月廿四日午刻、於(二)長門国壇浦(一)、平氏悉討取、大将軍前(さきの)内大臣(ないだいじん)已下虜、神璽、内侍所、無為可(二)帰入御座(一)、宝剣厳島神主景弘仰、探(二)求海底(一)、虜人、建礼門院(けんれいもんゐん)、若宮冷泉局、大納言典侍(だいなごんのすけ)、帥典侍(そつのすけ)、前(さきの)内大臣(ないだいじん)、前平中納言時忠卿(ときただのきやう)、前(有朋下P621)右衛門督(うゑもんのかみ)清宗卿、前(さきの)内蔵頭(くらのかみ)信基朝臣、前左中将時実朝臣、前兵部少輔尹明、蔵人大夫親房、全真僧都(そうづ)、能円法師、自害人、前中納言教盛卿(のりもりのきやう)、同知盛卿、前修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛卿、〈 登(レ)山自害掘埋 〉前能登守教経、戦死者、前左馬頭(さまのかみ)行盛朝臣、前左少将有盛朝臣、入(二)海中(一)人、
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先帝、准后、八条局、侍虜、美濃守則清、左衛門尉(さゑもんのじよう)信康、阿波民部大輔(みんぶのたいふ)成良、降人、前安芸守景弘、〈 厳島神主 〉民部大輔(みんぶのたいふ)景信、雅楽助貞経、〈 貞能(さだよし)男 〉伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)則長、矢野右馬允家村、同舎弟(しやてい)高村、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)熊代三郎家直とぞ注し申たりける。法皇大に有(二)御感(一)、貴賎悦あへり。使節広綱を御坪に召れて、合戦の次第委有(二)御尋(おんたづね)(一)。叡感の余り広綱左兵衛尉に補す。
同日に徳大寺(とくだいじの)内大臣(ないだいじん)定実、院(ゐんの)御所(ごしよ)六条殿へ被(レ)参たり。以(二)大蔵卿(おほくらのきやう)泰経卿(一)、神鏡神璽は無為に御座。宝剣は厳島神主仰(二)景弘(一)、探(二)求海底(一)之由、義経言上す。虜前(さきの)内大臣(ないだいじん)已下の罪科、何様に可(レ)被(レ)行哉と被(二)仰下(一)ければ、実定畏て、璽鏡事、弁官并近衛司等を雖(レ)可(レ)被(二)指遣(一)、定て及(二)遅怠(一)歟、先為(二)軍将沙汰(一)、奉(レ)渡(二)淀辺(一)事由を奏せば、供奉人等参向して奉(レ)迎之条可(レ)宜歟、生捕の輩が罪の所致、唯可(レ)被(レ)決(二)叡慮(一)かとぞ被(レ)申ける。同五日猶依(二)御不審(一)、北面下揩ノ、藤判官信盛を西国(さいこく)へ被(二)下遣(一)。信盛宿所に不(レ)帰、鞭を上て急馳下る。権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)北方伝聞給(たまひ)ては、賢ぞ身抛給ける、つひの別は同事と云(有朋下P622)ながら、今迄もながらへて角聞なさば、如何計かは悲しからましと、今こそ思知れけれ。
奉(レ)始(二)建礼門院(けんれいもんゐん)(一)、北政所(きたのまんどころ)、帥典侍(そつのすけ)、大納言典侍(だいなごんのすけ)以下、或は討れ或は捕れたる人々北方、上揄コ搗D底に臥まろび、声を調てをめき叫給へり。人目をも見ぬ人々の、不(二)見馴(一)武士の手に懸て、都へ帰上給しは、王昭君が夷の手に被(レ)渡て、胡国へ行し悲さも、争か是には勝るべき。
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抑依(二)諸国七道合戦(一)、公家も武家も騒動し、諸寺諸山も破滅す。春夏は旱魃して、秋冬は大風洪水、適雖(レ)致(二)東作之業(一)、終不(レ)及(二)西収之勤(一)、三月無(レ)雨、寒風起麦黄不(レ)秀、多横はる。九月に霜降て、秋早寒ければ、秋の穂不(レ)熟して青苗皆乾、兵乱打つづきて、口中の食を奪取ば、天下の人民及(二)餓死(一)。僅命を生たる者も、譜代相伝の田地を棄、恩愛慈育の子孫にわかれ、家を出ても身を助けんと逃隠、境を越ても命を生んと迷行ければ、浪人街■(がいく)にさすらひ、愁の音こゝかしこに充満たり。
S4306 安徳帝不(二)吉瑞(一)並義経上洛事
此帝をば安徳(あんとく)天皇(てんわう)と申て、御位を受させ給(たまひ)て、様々の不思議御座(おはしまし)けり。受禅の日は、昼御座御茵の縁、犬食損、夜の御殿の御帳の中に鳩入籠り、御即位の時は、高御厨子の後(有朋下P623)に、女房俄(にはか)に絶入し、御禊(ごけい)の日は、白子帳の前に夫男上居き。惣じて御在位三箇年の間に、天変地震打続て無(レ)隙、諸寺諸山よりさとしを奏する事頻也。堯の日光を失、舜の雨潤なし。山賊、海賊、闘諍、合戦、天行、飢饉、疫病、焼亡、大風、洪水、三災七難残事なし。貞観の旱、永祚の風、承平の煙塵、正暦の疾疫、上代にも有けれ共、彼は其一事計也。此御代の様は不(レ)及(二)伝聞(一)、御裳濯河の御流、懸るべしやと人傾申けり。漢高祖は太公の子、秦王を討て即(レ)位、秦始皇(しくわう)は呂不韋が子、荘襄王の譲を得、舜王は瞽■(こそう)が息堯王天下を任たり。人臣の位を受、猶以帝位を全せり。先帝は人皇八十代帝、高倉院(たかくらのゐん)の后立の皇子に御座(おはしま)せば、天照太神(てんせうだいじん)も定て入替らせ給、正八幡宮(しやうはちまんぐう)も必守護し奉るらんに、いかに角は申けり。是を聞人云、異国には実にさる様し多し、我朝には、人臣の子として位を践事なし、此
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帝高倉院(たかくらのゐん)の后立の皇子と申ながら、故清盛(きよもり)入道(にふだう)、天照太神(てんせうだいじん)の御計をも不(レ)知、高倉院(たかくらのゐん)の御恙もましまさぬに御位を奉(レ)退、推て奉(二)即位(一)。其身帝祖といはれ、非(二)摂政(せつしやう)関白(くわんばく)(一)、恣に天下を執行、君をも臣をも蔑如にし、諸寺仏閣焼払(やきはらひ)、上下男女多亡しかば、人の歎神の怒、末の露もとのしづくに帰る様に、平家の悪行君に帰し、天地の心にも違、冥慮の恵にも背にあり。
 < 不(レ)患(二)位之不(一)(レ)貴、而患(二)徳之不(一)(レ)崇、不(レ)恥(二)禄之不(一)(レ)夥(おほからざるを)、(有朋下P624)而恥(二)智之不(一)(レ)博云といへり。先帝も猶帝徳の至ましまさゞりけるを、入道横に計申たれば、懸る不思議多して天下も不(レ)治、終に亡御座(おはしまし)けりとぞ申ける。 >
同(おなじき)十六日(じふろくにち)、九郎判官義経虜の人々を相具して、播磨国明石浦に著。名にしおふ名所なる上、今夜はことに月隈なくさえつゝ秋の空にも不(レ)劣、深行儘に女房達(にようばうたち)頭さしつどへて、旅寝の空の旅なれば、夢に夢見る心地にて、終夜(よもすがら)打まどろむ事もなし。唯顔に袖を当て、忍音をのみぞ泣れける。時忠卿(ときただのきやう)の北方帥典侍(そつのすけ)、つく/゛\と泣明し給にも、
  雲の上に見しに替ぬ月かげの澄に付ても物ぞ悲き K224 
判官情ふかき人にて、
  都にて見しに替らぬ月影の明石浦に旅ねをぞする K225 
と。帥典侍(そつのすけ)は、妹背の契の悲さに、思残す事もおはせず、時忠卿(ときただのきやう)も虜れて程近く御座なれ共、相見る事もなければ、昔語も恋しくて、
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  詠ればぬるゝ袂(たもと)にやどりけり月よ雲井の物語(ものがたり)せよ K226 
と、時忠卿(ときただのきやう)も、身は所々に隔たれ共、通ふ心なりければ、
  我思(おも)ふ人は波路を隔てつゝ心幾度浦つたふらん K227 (有朋下P625)
と、二人の心中被(二)推量(一)て哀なり。昔北野天神の移され給ふとて、此所に留給(たま)ひ、
  名にしおふ明石の浦の月なれど都よりなほ雲空哉 K228 
と詠じ給(たま)ひける御心の中、帥典侍(そつのすけ)の、月よ雲井の物語(ものがたり)せよの心の中、取々に哀也。故郷に還上る事の嬉しかるべけれ共、指も眤まじき人々、多は水の底に入ぬ。適生残たるは此彼に被(レ)誡、憂名を流す。縦都に上たり共、家々(いへいへ)は一年都落に焼ぬ。何処に落留誰育べきに非ず。雲上の昔の楽、旅枕の今の歎、思も並て、月よ雲井物語(ものがたり)と口ずさみ給(たまひ)て、涙に咽給へば、人皆袖を絞けり。判官は東男なれ共、物めでし情ある人にて、様々慰労けり。
S4307 神鏡神璽還幸事
同(おなじき)二十一日、神鏡神璽還幸事、院(ゐんの)御所(ごしよ)にして議定あり。左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣(ないだいじん)実定、皇后宮大夫実房、中御門大納言(だいなごん)宗家、堀川(ほりかはの)大納言(だいなごん)忠親(ただちか)、前源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼、左衛門督実家、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)通親、新藤(しんとう)中納言(ぢゆうなごん)雅長、左大弁(さだいべん)兼光ぞ被(レ)参たりける。頭(とうの)中将(ちゆうじやう)通資朝臣、諸道勘文を左大臣に下しければ、次第に伝下す。左大弁(さだいべん)読(レ)之。群議之趣雖(二)事多(一)、神鏡(有朋下P626)神璽入御事、供奉之人鳥羽に参向して奉(レ)渡(二)朝所(一)、朝所より儀を整て、可(レ)幸(二)大内(一)とぞ、被(二)定申(一)ける。