『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十四

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緋巻 第四十四
S4401 神鏡神璽都入並三種宝剣事
同(おなじき)二十五日、神鏡神璽入御あり。上卿は権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)経房、参議は宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)泰通、弁左少弁(させうべん)兼忠、近衛には、左中将公時朝臣、右中将範能朝臣也。両将共に壺胡■[*竹冠+録](つぼえびら)を帯せり。職事蔵人(くらんど)左衛門権佐(さゑもんごんのすけ)親雅ぞ供奉しける。四塚より下馬して各歩行す。先頭(とうの)中将(ちゆうじやう)通資朝臣参向して行事す。内侍所、内蔵寮新造唐櫃に奉(レ)納、大夫尉義経、郎等三百騎(さんびやくき)を相具して前行す。御後又百騎候。朱雀北行、六条東行、大宮(おほみやを)北行、入(二)御待賢門(一)、在(レ)著(二)御朝所(一)けり。蔵人左衛門尉(さゑもんのじよう)橘清季、兼て此所に候けり。神鏡神璽は入御あれ共、宝剣は失にけり。神璽は海上に浮けるを、常陸国住人(ぢゆうにん)片岡太郎経春が奉(二)取上(一)けるとぞ聞えし。神璽をば注の御箱と申、国手璽也、王者の印なり、有(レ)習云々。
抑神代より三柄の霊剣あり。天十握剣、天叢雲剣、布流剣是也。十握剣をば羽々斬剣と名。羽々とは大蛇の名也。此剣大蛇を斬ば也。又は蝿斬剣と云、此剣利剣也。其刃の上に居る蝿の、不(二)(有朋下P628)自斬(一)と云事なければ也。素盞烏尊(そさのをのみこと)の天より降り給けるに帯給たる剣也。今石上宮に被(レ)籠たり。天叢雲剣をば草薙剣と云。日本武尊草を薙で、野火を免給へる故也。又は宝剣と云、内裏に留て、代々帝の御宝なれば也。布留剣は、即大和国(やまとのくに)添上郡、礒上布留明神是也。此剣を布留
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と云事は、布留河の水上より一の剣流下。此剣に触者は、石木共に伐砕流けり。下女布を洗て此河にあり。剣下女が布に留て不(二)流遣(一)、即神と奉(レ)祀。故に布流大明神(だいみやうじん)と云。宝剣は、昔素盞烏尊(そさのをのみこと)、天より出雲国へ降給けるに、其国の簸河上山に入給ける時啼哭する音あり、声を尋て行て見れば、一の老公と老婆と、小女を中間に置て、髪掻撫哭し居たり。尊問曰、汝等(なんぢら)誰人ぞ、哭する故いかにと。老公答曰、我は是国津神也、名をば脚摩乳と云、女をば手摩乳と申、此河上の山に有(二)大蛇(一)、年年に呑(レ)人、親を食るゝ子を呑、親子互に相歎て、村南村北に愁の音無(二)絶事(一)、就(レ)中(なかんづく)我に八人(はちにん)の有(二)小女(一)、年々八岐の大蛇の為に呑る、今一人を残せり、貌勝(レ)人、心世に無(レ)類、名をば棄稲田姫と云、又曽波姫とも申、今又大蛇の為に呑れんとす、恩愛の慈悲無(二)為方(一)、別を悲て泣也と申せば、尊憐(レ)之給(たまひ)て、汝が娘命を助けば我にえさせてんやと宣へば、老公老婆手を合て悦。縦怪の賤男なりとも、娘の命を助は不(レ)可(レ)惜、況尊をやと(有朋下P629)て即棄稲田姫を進、即奉(二)后祝(一)。小女湯津、湯津とは祝浄詞也、女を后に祝へば也。浄櫛を御髪にさし給ふ。浄櫛とは潔斎の義也。さて山頂に奉(レ)昇、父老公に八■(はちうん)の酒を被(レ)召。老公出雲国飯石郡長者なれば、取出して奉(レ)之。尊彼酒を八の槽に湛て、后を大蛇の居たる東の山の頂に立て、朝日の光に后の御影を槽の底に移し給たりけるに、大蛇匍匐来れり。尾頭共に八あり。背には諸の木生苔むせり。眼は日月の如して、年々呑人幾千万と云事を不(レ)知。大蛇の八尾八頭、八岡八谷にはびこれり。大蛇此酒を見るに、八の槽中に
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八人(はちにんの)美人あり。実の人と思ひ、頭を八の槽に浸して、人を呑んと思て其酒を飲干。大蛇頭を低て酔臥。尊帯給へる十握剣を抜て、大蛇を寸々に斬給ふ。故に十握を羽々斬と名く。蛇の尾不(レ)切、十握剣の刃少欠たり。恠て割破て見(レ)之、一の剣あり。明なること瑩る鏡の如し。素盞烏尊(そさのをのみこと)是を取て、定て是神剣ならん、我私に安かんやとて、即天照太神(てんせうだいじん)に奉る。太神大に悦まし/\て、吾天岩戸に閉籠し時、近江国胆吹嶺に落たりし剣なりとぞ仰ける。彼大蛇と云は、胆吹大明神(だいみやうじん)の法体也。此剣大蛇の尾に有ける時、常に黒雲聳て覆ける故に、天雲叢剣とは名たり。天照太神(てんせうだいじん)の御孫、天津彦尊を葦原瑞穂国の主とせんとて、奉(二)天降(一)時、八咫鏡、叢雲剣、神璽、三種の神器(有朋下P630)を奉(レ)授、其一也。代々帝の御宝なれば宝剣と云。素盞烏尊(そさのをのみこと)と申は、今出雲国杵築大社是也。
 < 彼老公女を尊に奉る時、潔斎の義にて浄櫛をさす。奉(レ)祝(レ)后湯津しけり。湯は祝の義也、津は詞の助也、天津社、国津社と云が如し。されば今の世までも、斎宮群行の時、帝自斎宮の御額に櫛をさして宣はく、一度斎宮に祝給なば、再都に不(レ)可(二)帰給(一)と仰なるは此故也。又櫛に取なし給けるは、蛇の難を遁んと也。爪櫛には悪者の怖事あるにこそ。
或人醜女に追れて逃けるに、如何にも難(レ)遁して捕れなんとしけるに、懐より爪櫛を取出して打蒔たれば、鬼神其より還ぬ。さてこそ命は延にけれ。今の世までも、抛櫛を取ぬと云は是より始れり。老公女を浄櫛に取成して奉(レ)尊たれば、遁(二)大蛇の難命は延給にけり。娘に櫛をさす事を、今の世の人歌にも、
  かつみれど猶ぞ恋敷わきもこがゆづの爪櫛いかゞさゝまし K229 >
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崇神天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)恐(二)神威(一)御座、同殿不(レ)輙とて、更に剣を改鏡を鋳移、古をば太神宮に奉(二)返送(一)、新鏡新剣を御守とす。霊験全く減らせ給はず。
景行天皇(けいかうてんわう)四十年夏六月に、東夷背(二)朝家(一)、関より東不(レ)静。天皇(てんわう)日本武尊に命じて、数万の官兵差副て東国へ発向す。冬十月朔〈 癸丑 〉日本武尊道に出給ふ。〈 戊午 〉先伊勢太神宮を拝し給ふ。厳宮倭姫命を(有朋下P631)以、今蒙(二)天皇(てんわう)之命(一)、赴(二)東征(一)誅(二)諸叛者(一)。こゝに倭姫命、天叢雲剣を取て日本武尊に奉(レ)授云、慎で無(二)懈事(一)、汝東征せんに、危からん時以(二)此剣(一)防て可(レ)得(二)助事(一)。又錦袋を披て異賊を平げよとて、叢雲剣に錦袋を被(レ)付たり。日本武尊是を給(たまひ)て東向。駿河国浮島原著給。其所凶徒等(きようとら)、尊欺んが為に、此野には麋多し、狩して遊給へと申。尊野に出て、枯野荻掻分々々狩し給へば、凶徒(きようと)枯野に火を放て尊を焼殺さんとす。野火四方より燃来て、尊難(レ)遁かりければ、佩給へる叢雲剣を抜て打振給へば、刃向草一里までこそ切れたりけれ。爰(ここ)にて野火は止ぬ。又其後剣に付たる錦袋を披見るに燧あり。尊自石のかどを取て火を打出、是より野に付たれば、風忽(たちまち)に起て、猛火夷賊に吹覆、凶徒(きようと)悉に焼亡ぬ。偖こそ其所をば焼詰の里とは申なれば、此よりして、天叢雲剣をば草薙剣と名たり。彼燧と申は、天照太神(てんせうだいじん)百王の末帝まで、我御貌を見奉らんとて、自御鏡に移させ給けるに、初の鋳損の鏡は、紀伊国日前宮に御座、第二度御鏡を取上御覧じけるに、取弛して打落し、三に破たるを燧になし給へり。彼燧を錦袋に入剣に被(レ)付たりける也。今の
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世までに、人腰刀に錦の赤皮を下て、燧袋と云事は此故也。日本武尊猶夷を鎮んが為に、これより奥へ入、武蔵国より御船に召、上総へ渡給けるが、浪風(有朋下P632)荒して、御船危かりけるに、旅の御徒然の料に、御志深き下女を相具し給たりけるが、風波は竜神(りゆうじん)の所為也、君は国を治んが為に、遥(はるか)に東夷を平げ給、我争か君を助奉らざらん、童竜神(りゆうじん)を宥んとて、舷に立出て、千尋の海に入にけり。実に竜神(りゆうじん)納受(なふじゆ)ありけるにや、風波即静りぬ。尊其後上総に渡り、夷を随へ給ける。折々(をりをり)には海に入し下女恋しく思召(おぼしめし)出ては、常に我妻よ/\と被(レ)召ける。御片言あつま/\とぞ聞させ給ける。東をあつまと云事は、其よりして始れり。尊東夷の凶賊討平、所々の悪神を鎮給(たまひ)て、同四十三年〈 癸丑 〉に帰上給けるが、異賊の為に被(二)呪咀(一)給(たまひ)て、日本武尊、尾張国よりぬるみほとほり給けるが、いとゞ燃焦るゝ御心地(おんここち)し給ければ、御身を冷さんとて、弓の弭にて地を掘り給たりけるに、冷水忽(たちまち)に湧出て河を流す。これに下浸給(たまひ)て御身を冷給へり。近江国醒井の水と云は是也。去共御悩(ごなう)いとゞ重く成給ければ、是より伊勢へ移給。虜の夷并草薙剣を天神に返進て、御弟の武彦尊を御使にて、天皇(てんわう)に奏し申させ給けり。日本武尊終に崩じ給ふ、御年三十。白鶴と変じて西を指て飛去。讃岐国白鳥明神と顕れ給ふ。草薙剣を、天神より尾張国熱田社に預置。天智天皇(てんわう)七年に、沙門道行と云僧あり。本新羅国者也。草薙剣の霊験を聞て、熱田社に三七日籠て、剣の秘法を行て社壇に入、(有朋下P633)盗出して五帖の袈裟に裹て出。即社頭にして、黒雲聳来て剣を巻取て社壇に送入。道行身
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毛(みのけ)竪て弥霊験を貴、重て百日行て、九帖袈裟に裹て近江国まで帰処に、又黒雲空より下、剣を取て東を指て行。道行取返とて追て行。近江国蒲生郡に大磯森と云所あり、追初森也。道行剣を取返さんとて、此より追初ければ也。行業の功日浅ければこそ角はあれとて、道行又千日行して上、二十五帖の袈裟に裹て出。筑紫に下船に乗て海上に浮み、望既足。又新羅国の重宝と悦程に、俄(にはか)に波風荒して不(二)渡得(一)ければ、如何にも難(レ)叶とて海中に抛入。竜王(りゆうわう)これを潜上て、熱田社へ送進す。末代には又懸者も有なんとて、少も不(レ)替剣を四造具して、社頭の中に被(レ)立たり。一の社官が一人に教授る時、五の指を差上てこれを伝る様あり。其外の人、本剣新剣を不(レ)知といへり。天武天皇(てんわう)朱鳥元年六月〈 己巳 〉天皇(てんわう)病崇。草薙剣を尾張国熱田社に被(二)送置(一)。
 < 此事沙門道行は、天智天皇(てんわう)七年に盗(レ)之。たとひ三年行ひたらば、天智天皇(てんわう)九年歟十年歟の事也。天武天皇(てんわう)朱鳥元年は、十四年を隔たり。此時熱田へ送遣すと。両説不(レ)実、可(レ)決。 >
S4402 老松若松尋(レ)剣事(有朋下P634)
〔去(さる)程(ほど)に〕平氏取て都の外に出。准后持て海中に入給たり共、上古ならば失ざらまし、末代こそ悲けれ。潜する蜑に仰て探り、水練する者入れて被(レ)求けれ共、終に不(レ)見。天神地祇に祈誓し、大法秘法を被(レ)行けれ共無(レ)験。法皇大に御歎あり、仏神の加護に非ずば難(二)尋得(一)とて、賀茂大明神(かものだいみやうじん)に七日有(二)御参籠(一)、宝剣の向後を有(二)御祈誓(一)。第七箇日に有(二)御夢想(ごむさう)(一)、宝剣の事、長門国壇浦の老松若松と云海士に仰て尋聞召と、霊夢新なりければ、法皇有(二)還御(一)、九郎判官を被(レ)召て、御夢旨に任て被(二)仰含(一)。義経百騎の
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勢にて西国(さいこく)へ下向、壇浦にて両蜑を被(レ)召。老松は母也、若松は女也。勅定の趣を仰含。母子共に海に入て、一日ありて二人共に浮上る。若松は子細なしと申す。我力にては不(レ)叶、怪き子細ある所あり、凡夫の可(レ)入所にはあらず、如法経を書写して身に纏て、以(二)仏神力(一)可(レ)入由申ければ、貴僧を集て、如法経を書写して老松に給ふ。海人身に経を巻て海に入て、一日一夜不(レ)上。人皆思はく、老松は失たるよと歎ける処に、老松翌日午刻計に上。判官待得て子細を問。非(レ)可(二)私申(一)、帝の御前にて可(レ)申と云ければ、さらばとて相具し上洛。判官奏し申ければ、老松を法住寺(ほふぢゆうじの)御所に被(レ)召、庭上に参じて云、宝剣を尋侍らんが為に、竜宮城と覚しき所へ入、金銀の砂を敷、玉の刻階を渡し、二階(にかい)楼門(有朋下P635)を構、種々(しゆじゆ)の殿を並たり。其有様(ありさま)不(レ)似(二)凡夫栖(一)心言難(レ)及。暫惣門にたゝずみて、大日本国(だいにつぽんごく)の帝王の御使と申入侍しかば、紅の袴著たる女房二人出て、何事ぞと尋、宝剣の行へ知召たりやと申入侍しかば、此女房内に入、やゝ在て暫らく相待べしとて又内へ入ぬ、遥在て大地動、氷雨ふり大風吹て天則晴ぬ。暫ありて先の女来て是へと云。老松庭上にすゝむ。御簾を半にあげたり。庭上より見入侍れば、長さは不(レ)知、臥長二丈(にぢやう)もや有らんと覚る大蛇、剣を口にくはへ、七八歳の小児を懐、眼は日月の如く、口は朱をさせるが如く、舌は紅袴を打振に似たり。詞を出して云、良日本(につぽん)の御使、帝に可(レ)申、宝剣は必しも日本(につぽん)帝(みかど)の宝に非ず、竜宮城の重宝也。我次郎王子、我蒙(二)不審(一)海中に不(二)安堵(一)、出雲国簸川上に尾頭共に八ある成(二)大蛇(一)、人をのむ事年々なりしに、
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素盞烏尊(そさのをのみこと)、憐(二)王者(一)孚(レ)民、彼大蛇を被(レ)失。其後此剣を尊取給(たまひ)て、奉(二)天照太神(てんせうだいじん)(一)、景行天皇(けいかうてんわうの)御宇(ぎよう)に、日本武尊東夷降伏の時、天照太神(てんせうだいじん)より厳宮御使にて、此剣を賜ひて下し給(たまひ)し、胆吹山のすそに、臥長一丈の大蛇と成て此剣をとらんとす。去共尊心猛おはせし上、依(二)勅命(一)下給間、我を恐思事なく、飛越通給(たまひ)しかば力及ず、其後廻(レ)謀とらんとせしか共不(レ)叶して、簸川上の大蛇安徳(あんとく)天皇(てんわう)となり、源平の乱を起し竜宮に返取、口に含(有朋下P636)挿絵(有朋下P637)挿絵(有朋下P638)るは即宝剣なり、懐ける小児は先帝安徳(あんとく)天皇(てんわう)也、平家の入道太政大臣(だいじやうだいじん)より始て、一門人皆此にあり。見よとて傍なる御簾を巻上たれば、法師を上座にすゑて、気高上搗エ数並居給へり、汝に非(レ)可(レ)見、然而身に巻たる如法一乗(いちじよう)の法の貴さに、結縁の為に本の質を不(レ)改して見ゆる也、尽未来際まで、此剣日本(につぽん)に返事は有べからずとて、大蛇内に■(はひ)入給(たまひ)ぬと奏し申ければ、法皇を奉(レ)始、月卿(げつけい)雲客(うんかく)皆同成(二)奇特思(一)給(たまひ)にけり。偖こそ三種神器の中、宝剣は失侍りと治定しけれ。
 < 疑崇神天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、恐(二)霊威(一)新鏡新剣を移して、本をば太神宮に被(レ)送といへり。然者(しかれば)壇浦の海に入は新剣なるべし。何んぞ竜神(りゆうじん)我宝と云べきや。次素盞烏命蛇の尾より取出たる時、奉(二)太神宮(一)には、天神の仰に、我天岩戸に有し時、落たりし剣也と仰す。今又竜神竜宮の宝と云。然者(しかれば)竜神(りゆうじん)と天照太神(てんせうだいじん)とは一体異名歟、不審可(レ)決云々。 >
同日夜に入て、故高倉院(たかくらのゐん)の第二宮、都へ帰入せ給。法皇より御迎御車被(レ)進、七条侍従信清御伴に候けり。七条坊城の御母儀(おぼぎ)の宿所へ入せ給ふ。此宮は当時の帝の同御腹の御兄、もしの事あらば儲君まで
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と、二位殿(にゐどの)賢々敷被(二)具進(一)たり。都に御座(おはしまさ)ば、此宮こそ御位にも即せ給べきに、其可(レ)然事なれ共、四宮御運は目出かりけりと人申あへり。今年七歳にならせ給ふ。御心ならぬ旅の空に出て、三年を過け(有朋下P639)れば、御母儀(おぼぎ)も御乳人(おんめのと)持明院の宰相も、■(おぼつかな)く恋しく思奉けるに、事故なく入給(たま)ひたれば、奉(レ)見ては誰々も悦泣してぞ御座(おはしまし)ける。
S4403 平家虜都入附癩人法師口説言並戒賢論師事
同四月二十六日(にじふろくにち)申時に、前(さきの)内大臣(ないだいじん)、前平(へい)大納言(だいなごん)時忠、前(さきの)右衛門督(うゑもんのかみ)清宗已下、虜入洛。内府並清宗卿は同車(どうしや)、八葉の車に前後の簾を巻、左右物見をあぐ。各浄衣を被(レ)著たり。時忠卿(ときただのきやう)同車(どうしや)を遣つづけ給へり。子息の讃岐中将時実は、現所労にて不(レ)渡、内蔵頭(くらのかみ)信基、蒙(レ)疵閑道より入。武士百余騎(よき)車の左右にあり、兵三騎又車の前にあり。内大臣(ないだいじん)は四方を見廻して、痛思入たる無(二)気色(一)、さしも声花に麗しかりし人の、あらぬ貌に疲衰へ給へり。右衛門督(うゑもんのかみ)は、うつぶして目も見挙給はず、深思入たる有様(ありさま)也。貴賤上下都の内にも不(レ)限、近国遠国、山々寺々より、老たるも若も来集て、鳥羽の南の門、造道、四塚、東寺、洛中に充満たり。人は顧事を得ず、車は轅を廻らすに不(レ)及、治承養和の飢饉、東国西国(さいこく)の合戦に、人は皆死亡ぬと思へるに、残は猶多かりけりとぞ見えし。都を出給(たまひ)て、僅(わづか)に三年まぢかき事なれば、其有様(ありさま)一として不(レ)忘、今日の(有朋下P640)事がら夢現分兼たり。心なき賤男賤女までも、涙を流し袖を不(レ)絞者なかりけり。増て馴近付言葉にも懸ん人、さこそは哀と思けめ。年来重恩をも蒙、親祖父が時より伝はりたりける輩も、身の棄がたさに、多く源氏に付たりけれ共、
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昔の好み争か可(レ)忘なれば、袖を覆て面をもたげぬ者も多かりけり。其中に鳥羽里の北、造道の南の末に、溝を隔て白帯にて頭をからげ、柿のきものに中ゆひて、■杖(かせづゑ)など突て十余人(よにん)別に並居たり。乞者の癩人の法師共也。年闌たる癩人の鼻声にて語を聞ば、人の情を不(レ)知、法を乱るをば悪き者とて、不敵癩と申たり。去共此病人達の中にも、不敵たるもあり不敵ならざるもあり、又直人の中にも、善者も不善者もこも/゛\也。世の習人の癖也。此法師加様の病を受たる事此七八年也。当初事の縁有て、文章博士殿に候し時、田舎侍に小文を教られしを聞ば、世は人の持にあらず、道理の持也と云事をよまれき。又清水寺に詣て通夜したりし時、参堂の僧の中に、法華経(ほけきやう)を訓に綴読あり。近付寄て聴聞せしかば、不信の故に三悪道に落と読れき。此内外典に教たる二の事、耳の底に留て明暮忘ず、心の中にたもたれて候ぞ、前世の不信の故、道理を不(レ)知ける罪の報にて、此世まで懸る病を受て候へ共、程々に随は、道理をば背かじと不信ならじと、深く思執て候へば、心中(有朋下P641)をば神も仏もかゞみ給(たまひ)て、本地垂跡(すいしやく)の御誓誠ならば、来世は去共と憑思て候ぞ。就(レ)其も不(レ)及事なれ共思合せらる。此平家の殿原の、世にはやらせ給し有様(ありさま)と、今日の事様と、申ても/\浅増(あさまし)く候。故太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)は、申も恐ある事なれ共、道理を不(レ)知人にて、只我思儘に振舞れし事は、世一の事にあらず、前世の果報也とは思ながら、身の程も顧ず、我身より始て、一家の子孫に至るまで、高官位に推なるのみに非ず、掛も忝帝王院宮を奉(レ)煩、多の上搨Bを殺し流し、余に狂して不信故に、三井寺(みゐでら)
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興福寺(こうぶくじ)を亡し、金銅(こんどう)の大仏をさへ奉(レ)焼。本尊聖教の咎は何か有し、家人眷属に至までも、彼心に叶はんとて、欲をかき恥を忘たりき。皆道理を忘たる振舞と承たりしが、答ぬ事にて、入道殿(にふだうどの)世盛にて失られぬ、取つゞきいつしか数の公達郎等までも都を打出でて、今日はよろづの人の口にのり目をさます、皆道理ゆゑと覚ゆ、文虚言せずとは是也。嫡子にて最愛し給し小松(こまつの)内大臣殿(ないだいじんどの)は、みめも心も能人にて、父の入道の余に僻事(ひがこと)せられしを制し兼て平家の世はこたゆまじ、答ざる父の後まで生て何にかはせん。命をめせと熊野に参て被(レ)祈ければ、程もなく腫物をやまれけれ共、様ありとて療治(りやうぢ)もし給はで死給き。其公達あまた御座(おはしまし)けれ共、一人も刀のさきにかゝらず、心と海に入給けり、今の内大臣殿(ないだいじんどの)の有様(ありさま)(有朋下P642)こそはかなく無慙なれ、其に取ても禁忌敷事を承ぞとよ、入道殿(にふだうどの)の世におはせし時より、妹の建礼門院(けんれいもんゐん)に親しくよりて被(レ)儲ける子を、高倉院(たかくらのゐん)の御子と云なして、王位に即申たりけるとかや、不(レ)及心にも、さも有りけるやらんと覚え候ぞ、去ばこそ受禅の君とて、内侍所なんど申す様々の御守共を取加られて御座ながら、不(レ)持して、かゝるひしめきは出来て候にこそ、此事の起たゞ不信よりなる事也、されば入道殿(にふだうどの)も、臨終浅増(あさまし)くして悪道に堕給けり、今わたさるゝ人々も、生ながら三悪道に堕られたりと覚ゆと云。又並居たる長しき乞者が云様は、御房の宣ふ様に、人と生て仁義を不(レ)顧、恥を不(レ)知者をば人癩と云、聞え給大臣殿に近づきよりて見参をせばやな、恥を不(レ)知人に御座(おはしまし)けるにこそ御座(おはしまし)けれ。一門の殿原は皆海に入給けると聞ゆるに、何とて命の惜かるべき
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ぞ、哀人癩の上昵嘯ゥな、子細なき我等(われら)が同僚にや、但此間の御心は、恐らくは我等(われら)には劣給へり、いざ/\御房達、大臣殿の此前をとほり給はん時車を抑て、辱号かくに爪つひず、勘当かぶるに歯かけずと、拍子で舞踊らんと云。是を聞ける徐人々云けるは、哀也、みめさまこそ禁忌しけれ共、心の至は恥しくも語りたりといへば、又傍に有ける僧の云様は、病は四大の不(レ)調よりも発る、又先業の報ふ事もあり、心は失ぬ事なれば形(有朋下P643)にや依べき、天竺に戒賢論師と云けるは法相唯識の法門(ほふもん)を護法へ受伝へて、大小乗の奥義をきはめ、有空中の三時教をぞ立たりける。知慧の光は一天空を耀し、徳行の水は卒土の塵を潤しけれ共、身に癩病を受て、療治(りやうぢ)に力を失へり、如(レ)無(二)仏天加護(一)、三宝冥助し給ざるか、内外の治術不(レ)及して、即に自殺せんとし給けるに、天人来下して告云、汝深く如来(によらい)の教籍を達すといへ共、業病難(レ)助、釈尊頭痛背痛し給へり、況凡身をや、空く身命を不(レ)捨して、宜仏法(ぶつぽふ)を流布すべし、聖僧震旦より来て、必汝が法を伝受すべしと、戒賢諸天の告に驚、捨身をとゞめて相待処に、玄弉三蔵天竺に渡て謁(二)戒賢論師(一)、五相宗の教を伝たり、然して後に論師浮生の重病を厭て、終に自殺し給けり。覚り深き人なれ共、身あれば必病あり、心あらん者は心を浄く持べき事なれば、加様の乱僧なればとて、心さへ拙かるべきに非ずとぞ語ける。去(さる)程(ほど)に内大臣殿(ないだいじんどの)の車近なるとて、見物の上下色めきければ、武士共雲霞の様に打囲て雑人を払ければ、口立る乞者法師原(ほふしばら)も、蜘蛛子を散して失にけり。法皇は六条朱雀に御車を立て御覧あり。人々多御伴に候
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けり。近く召仕れ奉しかば、御心弱く哀に思召(おぼしめさ)れて、御衣の袖を竜顔にあてさせ給。供奉の人々も只夢の心地にて、現とは不(レ)覚けり。貴も賤も目をも懸てし、詞ばにも懸らばやと(有朋下P644)こそと思あへりしに、今角可(二)見成(一)とは不(レ)測也。真竜失(レ)勢同(二)蚯蚓(一)といへり、此ことわざ誠也けり。一年大臣に成給(たまひ)て拝賀の時、公卿には花山院大納言(だいなごん)を始奉て十二人、中納言四人、三位中将(さんみのちゆうじやう)三人、殿上人(てんじやうびと)には、蔵人頭(くらんどのとう)右大弁親宗以下十六人伴をして、公卿も殿上人(てんじやうびと)も、今日を晴と花を折て■(きらめ)き遣列てこそ有しか。即此平(へい)大納言(だいなごん)、其時は左衛門督にて御座(おはしまし)き。院(ゐんの)御所(ごしよ)より始て参給処ごとに、御前へ召れて御引出物給り、もてなされ給へりし気色、目出かりし事ぞかし。今懸るべしとは不(二)思寄(一)、是やこの楽尽て悲み来なる天人五衰なるらんと、只涙を流しけり。
S4404 大臣殿舎人附女院移(二)吉田(一)並頼朝(よりとも)叙(二)二位(一)事
今日車を遣ける牛飼は、木曾が院参(ゐんざん)の時車遣て、出家したりし弥次郎丸が弟に、小三郎丸と云童也。西国(さいこく)までは仮男に成て、今度上りたりけるが、今一度大臣殿の車をやらんと思ふ志深かりければ、鳥羽にて九郎判官の前に進出て申けるは、舎人牛飼とて下揩フはてなれば、心あるべき身にて候はね共、最後の御車を仕ばやと深く存候、御免有なんやと泣々(なくなく)申ければ、何かは苦かるべきとて免てけり。手を合額を突て悦つゝ、心(有朋下P645)計はとり装束てぞ車をば仕りける。道すがら涙に咽て面をももたげず、此に留つては泣彼に留つては泣ければ、見人いとゞ袖をぞ絞ける。大路を渡して後は、判官の宿所六条堀川(ほりかは)へぞ被(レ)遣ける。物まかなひたりけれ共、露見も入給はず、互に目を見合て、たゞ涙をのみ
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ぞ流し給ける。夜に入けれ共装束もくつろげず、袖片敷て臥給へり。暁方に板敷のきしり/\と鳴ければ、預の兵奇て、幕の隙より是を見れば、内大臣(ないだいじん)子息の右衛門督(うゑもんのかみ)を掻寄て、浄衣の袖を打きせ給けり。右衛門督(うゑもんのかみ)は今年十七歳也。寒さを労給はんとて也。熊井太郎、江田源三など云者共是を見て、穴糸惜や、あれ見給へ殿原、恩愛の慈悲ばかり無慙の事はあらじ。あの身として単なる袖を打きせ給たらば、いか計の寒を禦べきぞや、責ての志かなとて、猛きもののふなれ共皆袖を絞けり。建
礼門院(けんれいもんゐん)は、東山の麓吉田の辺に、中納言法橋慶恵と申ける奈良法師の坊へぞ入らせ給(たま)ひける。住荒して年久成にければ、庭には草高く、軒には垣衣繁、簾絶て宿顕なれば、雨風たまるべくもなし。昔は玉の台を瑩、錦の帳に纏れて、明し暮し給しに、今は悲人々には皆別果ぬ。浅増気なる朽坊に、只一人落著給ける御心中、被(二)推量(一)て哀也。道の程伴なひ進せける女房達(にようばうたち)も、一所に候べき様もなければ、是より散々(ちりぢり)に成ぬ。御心細さにいとゞ消入様に被(二)思召(一)(おぼしめされ)け(有朋下P646)り。誰憐誰孚むべし共思召(おぼしめさ)ねば、魚の陸に上りたるが如、鳥の子の栖を離たるよりも尚悲し。憂かりし波の上船の中、今は恋しくぞ思召(おぼしめし)出ける。同底のみくづと成べき身の責ての罪の報にや、被(二)取上(一)残留てぞ思召(おぼしめす)も哀也。天上の五衰の悲みは、人間にも有けりとぞ見させ給ける。
同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)、主上閑院より内裏に行幸有けり。大納言(だいなごん)実房卿以下ぞ被(二)供奉(一)ける。内侍所、神璽、官庁より温明殿(うんめいでん)へ被(レ)奉(レ)渡。上卿、参議、弁次将、皆もとの供奉人なりけり。三箇日被(レ)行(二)臨時御神楽
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(一)けり。三条大納言(だいなごん)実房卿参、件座著て、大外記頼業を召て、源(みなもとの)頼朝(よりとも)、追(二)捕前(さきの)内大臣(ないだいじん)(一)賞に叙(二)従二位(じゆにゐ)(一)由、可(レ)仰(二)内記(一)とぞ仰給ける。頼朝(よりとも)本位正下四位(しゐ)也。勲功の越(レ)階常例也。
S4405 宮人曲内侍所効験事
二十九日、国忌なりければ御神楽被(レ)止、五月一日に又被(レ)行ける。宮人曲多好方仕ければ、勧賞には、子息右近将曹好節を被(レ)任(二)将監(一)けり。宮人の曲と云は、好方祖父八条判官資忠と云々。舞人の外は知者なし。堀川院(ほりかはのゐん)ばかりにぞ奉(レ)授たりける。資忠は山村政連が為に被(レ)殺ければ、此曲永世に絶なんとしけるを、内侍所の御神楽被(レ)行と(有朋下P647)て、堀川院(ほりかはのゐん)、資忠が子息近方を砌下に召置れて、主上御簾の中にして拍子をとらせ給(たま)ひ、近方に被(二)授下(一)けり。父に習ひたらんは尋常の事也。苟孤子として父にだにも不(レ)習者が、懸る面目を施す、道をただしと思召(おぼしめし)、絶たるを継廃れたるを興給へれば、其より以来今に伝(二)彼家(一)。内侍所は、昔天照太神(てんせうだいじん)天岩戸に御座(おはしまし)ける時、我御形を移留給へる御鏡也。捧(二)天神手於宝鏡(一)天忍穂耳尊に授給(たまひ)て云、我子孫此宝鏡を視しては、必我を見と思へ、同殿に床を一にして奉(レ)祝とて奉(レ)授より次第に相伝へて、一御殿に有(二)御座(一)けるを、第十代帝崇神天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に及で、恐(二)霊威(一)給(たまひ)て被(レ)奉(レ)遷(二)別殿(一)、後には温明殿(うんめいでん)にぞ御座(おはしま)す。遷都の後百六十六年を経て、村上天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)天徳四年九月二十三日子刻に、内裏焼亡。火は左衛門陣より出来たりければ、内侍所の御座温明殿(うんめいでん)も程近かりける上、如法夜半の事なれば、内侍も女官も不(二)参会(一)、内侍所をも不(レ)奉(レ)出。小野宮急参給(たまひ)て見給へば、温明殿(うんめいでん)ははや焼けり。内侍所も焼させ給ぬるにや、代は角にこそと思召(おぼしめし)、涙を流し給ける程に、
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灰燼上にして奉(二)見出(一)たりけるに、木印一面其文に、天下太平の四字ありけり。又南殿の桜の梢に飛かゝらせ給たりけるが、光明(くわうみやう)赫奕として朝日の山端を出づるが如し。代は猶不(レ)失けりと悦の涙関敢給はず、右の膝を突左袖を披て、昔天照太神(てんせうだいじん)為(レ)奉(レ)(有朋下P648)守(二)百皇(一)移し留給へる御鏡也。御誓未(二)改給(一)者、神鏡実頼が袖に宿入らせ給へと被(レ)仰ける。御言の未(レ)終に、高梢より飛下らせ給(たまひ)て、御袖に入せ給へり。即つゝみ奉て御前を進で主上の御在所、太政官の朝所へぞ被(二)渡進(一)ける。猛火の中にして無(二)損失(一)けるこそ霊験掲焉と覚ゆれ。今の代には、誰人か請じ奉らんと可(二)思寄(一)、神鏡も飛入せ給はん事そも不(レ)知、上代は目出かりけりと、身毛(みのけ)竪て貴かりけり。
S4406 時忠卿(ときただのきやう)罪科附時忠聟(二)義経(一)事
同五月三日、頭弁光雅朝臣仰承て、内大臣(ないだいじん)実定に被(レ)問けるは、依(二)時忠卿(ときただのきやう)申状(一)、奉(二)扶持(一)先帝、同(二)意謀叛臣(一)畢、令(レ)被(レ)行(二)所当罪(一)之条、更無(レ)所(二)遁申(一)、但於(二)内侍所(一)者、前(さきの)内大臣(ないだいじん)、入(レ)海時可(レ)奉(レ)投(二)海中(一)之由、再三雖(レ)示(レ)之、奉(レ)捧(二)頭上(一)帰降畢、此雖(レ)為(レ)扶(レ)命、又非(二)微忠(一)哉、今度被(レ)免(二)罪科(一)、剃髪染衣と望申之間、内侍所事、被(レ)尋(二)義経(一)之処に、有(二)其実(一)之由所(二)言上(一)也。何様に可(レ)被(レ)行哉、可(二)計申(一)之由被(二)仰下(一)ければ、実定返事被(レ)申けるは、虜の人々の罪科の所(レ)致如(二)臣下(一)、非(レ)可(二)計申(一)、可(レ)被(レ)決(二)叡慮(一)之由、先日申入畢。但於(二)時忠卿(ときただのきやう)(一)者、非(二)武勇人(一)、任(二)申請(一)被(二)優怒(一)之条、尤可(レ)為(二)善政(一)(有朋下P649)歟とぞ被(レ)申たりけれ共、院宣の御使花方が鼻をそぎ、本鳥切などして、己(おのれ)にするに非と狼藉申振舞たりけるに依て、遂に流罪に定にけり。此時忠卿(ときただのきやう)、子息讃岐中将時実も、判官の宿所近く
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おはしけり。心猛人也。かほどに成ぬる上は思切べきに、尚も命の惜く思けるにや、中将に語て、如何がはすべき、散すまじき状共を入たる皮籠を一合判官に取れたり、彼状共鎌倉に見えなば、損する者も多、我身も難(レ)遁(レ)死と歎給。中将計申、判官は大方も情ある上、女などの打堪歎事をばもちはなれずと承侍、懸る身々と成ぬれば非(レ)可(レ)苦、親成給へかし、さらばなどか情をもかけざらんと云。時忠卿(ときただのきやう)涙をはら/\と流して、我世に在し時は女御后にもと思て、なみ/\の人に見せんとは不(レ)思とて袖を顔に当給へば、中将も同涙を流して、今は云に甲斐なし、只疾計ひ給べしと宣(のたま)ひければ、当時の北方帥典侍(そつのすけ)の腹に、今年十八になる姫君の不(レ)斜(なのめならず)厳をぞ中将は申けれ共、其をば猶労く覚して、先腹に二十八に成給へるを、内々人して風めかしければ、判官も可(レ)然とて迎取ぬ、年こそ少し長しく侍けれ共、清たわやかに、手跡うつくしく、色情ありて声花なる人也。判官志深く思ければ、本妻河越太郎重頼が女も有けれ共、是をば別の方をしつらひて居たり。中将の計少しも不(レ)違、やゝ相馴て後、彼文箱の事申た(有朋下P650)りければ、判官封を不(レ)披返送けり。大納言(だいなごん)大に悦て、坪中にして焼(レ)之。何事にか有けん、悪事共の日記とぞ聞えし。
S4407 頼朝(よりとも)義経中悪附屋島内府子副将亡事
〔去(さる)程(ほど)に〕平家は北国西国(さいこく)度々の合戦に亡ぬ。前(さきの)内大臣(ないだいじん)以下被(レ)虜ぬ。今は国々も鎮て、人の行通も無(レ)煩。都の上下安堵したりければ、九郎判官神妙(しんべう)也と法皇被(二)思召(一)(おぼしめさる)。洛中の男女、哀此人の世にて侍れかしと云と鎌倉に披露有ければ、源二位宣(のたま)ひけるは、九郎が高名何事ぞ、以(二)頼朝(よりとも)謀(一)軍兵を指上せて平家を亡し
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天下を穏にす、九郎一人して争か世をば可(レ)鎮、其に法皇の叡慮も不(二)心得(こころえ)(一)、人の云に誇て、世をば我儘に計たるにこそ、早晩しか人こそ多けれ、時忠の聟に成て、彼大納言(だいなごん)をもてあつかふなるも無(レ)謂、又世に恐をなさず、時忠九郎を聟に取も不思議也、此定ならば、九郎鎌倉へ下ても、過分の事共計ん歟、存外々々と宣(のたまひ)ければ、始終中よからじ、世の乱とは成なんと私語(ささやき)けり。
同七日前(さきの)内大臣(ないだいじん)以下虜共、九郎判官義経相具して、関東下向すべしとてひしめきあへり。六日晩に大臣判官に宣(のたまひ)けるは、虜の中に八歳になる小童は、宗盛が末子に侍、誠や明日 (有朋下P651)関東下向と聞侍り、彼小童今一度見たく侍り、免し給なんやと被(レ)仰ければ、判官最安事なりとて、奉(レ)免(レ)之。此児をば判官の兄公に、河越小太郎茂房預て宿所に奉(レ)置。介錯に少納言殿、乳母(めのと)に冷泉殿とて、二人の女房つき奉、はては如何にと見なさんと、若君を中にすゑ奉て旦暮泣歎けり。理也。血の中より手を離たず、八歳まで生立たれば、親をも捨都をも隔て、倦旅の空波の上までも付奉て、今虜れて見馴し父にも引別、恐しき夷中に御座(おはしまし)ければ、歎思も哀也。六日晩程に判官の使とて、少人急度奉(レ)具と申たれば、二人の女房は、穴心憂や、朝鎌倉へと聞に、今夜可(レ)奉(レ)失にこそとて、足手を摺てをめき叫。いづくにあらば可(レ)遁ならね共、左右の袂(たもと)に取付て、悶焦も哀也。既(すで)に出ければ、二人の女房も相連て出たるが、涙にくれて行空も見ず。大臣殿は此間恋しく覚しけるに、若君父を奉(レ)見、急冷泉殿が手を下て、膝上に居給へり。大臣はいかに副将々々とて、髪掻撫はら/\と泣給へば、右衛門督(うゑもんのかみ)二人の女房、共に涙を
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流けり。内大臣(ないだいじん)やゝ有て、涙の隙に仰られけるは、あの右衛門督(うゑもんのかみ)、三歳と申侍る時母には後候ぬ、其後是が母を相具して侍しか共、右衛門督(うゑもんのかみ)七に成まで子もなかりしかば、人の孤子は無慙なる者をと思て、厳島社に参て祈申侍りし程に、明神の御利生に懐妊したりしかば、母(有朋下P652)も不(レ)斜(なのめならず)悦て、同は男子にて侍れかしと申し程に、難産せし間、数の宝を抛て仏神に祈申しかば、此子を生たりしか共、母は命生べき様もなし、よわ/\しく成て、七日と申ししに、既(すで)に限と見え侍しに、母が申し事思出て無慙に候。我身まかりなば、人は齢若ければ、定て人を語、子をも儲給べし、其は尋常の事なれば恨に非ず、此子出来て、幾程もなく無(レ)墓ならん事の悲さよ、人は不(レ)来子をば申まじかりけり。身まかりて後は、相構て我孝養には、別に仏事功徳をば営給はず共、此子不便にせよ、なさぬ中は愛する事と聞見侍れば、七歳の少人をも情を懸て過しき。此事を思に、後世の障と成ぬべしと口説侍しかば、人一人が子ならばこそ角は仰られめ、何も宗盛が子也。な歎給そ、三にならば袴著せ、五にて元服(げんぶく)せさせ、能宗となのらせて兄弟左右におきて、人々の忘形見にみんずれば、心苦しく思給な、夫妻に縁なき身也、今は男聖して二人の者を育んずれば、更に疎の事有まじと申しかば、偖は嬉き事哉、哀さらんを見て死ばや、能宗よ/\、いとゞ命の惜ぞと、是を最後の言にて消入侍き。母が云置し事、よに無慙に侍りしかば、つかの間も突て、朝夕前にて生立侍りき。おとなしく成儘に、よに宗盛に似たりと申せば、いとゞ不便に覚えて、哀これを母に見せばや、さしもこそ歎しにと思侍。(有朋下P653)是を副将と申
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事は、小松内府薨じて、入道世を我に譲りしかば、右衛門督(うゑもんのかみ)は嫡子なれば、大将軍して東国を知せん、是は弟なれば、副将軍とて西国(さいこく)を知せんと存じて、副将々々と申侍ける兼言こそはかなけれとて、浄衣の袖にかゝへ給、髪掻撫てさめ/゛\と泣給ふ。右衛門督(うゑもんのかみ)も二人の女房も、声を不(レ)惜をめき給へば、上下品こそ替共、子は悲事なれば、さこそ覚すらめとて、武士も袂(たもと)を絞けり。若公此有様(ありさま)を見給(たまひ)て、浅増(あさまし)げにぞ覚して、みろ/\とかいを造給ふぞ糸惜き。夜も漸く深ければ、内大臣(ないだいじん)今はとくとく帰れ、嬉しく見つと宣へば、ひし/\と浄衣の袖に取付て泣給ふ。大臣は穴無慙、終につれはつまじき者をとて御涙(おんなみだ)に咽、無(二)為方(一)ぞおはしける。右衛門督(うゑもんのかみ)泣々(なくなく)、今夜は是に見苦き事あるべし、帰て明日とく/\よと宣へ共、父の膝の上を離給はざりければ、兎角すかして押のけ奉る。乳母(めのと)冷泉殿懐取、少納言局と泣々(なくなく)出ければ、内大臣(ないだいじん)は日比(ひごろ)の恋しさは事の数にも侍ず、今を限の別こそとて、袖を顔に押あて給ふぞ糸惜き。判官は河越小太郎茂房を召て、此少者をば夜中に可(レ)失と宣へば、茂房仰承て、駿河次郎と云中間を相具し、二人の女房に懐せて、六条を東川原までこそ出にけれ。今は奉(レ)失べきにこそ、本の宿には帰ぬ方へ行事よと、肝胸騒て現心なし。六条川原に敷皮しき、乳母(めのと)の女房の手よ(有朋下P654)り武士懐きとらんとしければ、二人の女房可(二)惜遂(一)あらね共、永別を悲て、共にかゝへて不(レ)放(レ)之、唯悶焦てをめき叫。さすが岩木をむすばぬ身成ければ、武士も涙を流て、無(二)左右(一)不(レ)取(レ)之、夜も既深ければ、さのみは如何がとて若公を奪取、鎧の上に懐つゝ、二人女房を押
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隔れば、若公あまり恐ろしさに声を挙て、冷泉殿はなきか少納言殿はなきか、我をば畏しき者に預ていづくへ行ぬるぞ、恐々と叫ければ、二人女房も遥(はるか)に是を聞、石上に臥倒てをめきけり。駿河次郎布革のそばに寄、腰刀を抜出して既指殺んとしければ、穴畏し、冷泉殿是いかにせん、少納言殿とて、敵の鎧の袖下に■(はひ)入て、ひし/\とこそ懐付けり。余に悲思ければ、刀の立所も不(レ)知けり。主命力及ねば、目を塞歯をくひ固て、心先三刀指て押退つゝ穴を堀、川原に埋て武士は帰にけり。二人女房は猶留て、指爪のかけ損ずるをも不(レ)顧、空き骸を堀起し、引上中に置、手取足取いかに/\と叫けり。責ての思の余に身を懐き、河の耳を下に行、八条が末に深き所の有けるに、冷泉殿若公の身我身に結びつけ、少納言局と手を取組て、水に沈て死にけり。
S4408 女院出家附忠清(ただきよ)入道(にふだう)被(レ)切事(有朋下P655)
同八日建礼門院(けんれいもんゐん)、吉田辺にて御餝下させ給、御戒師は長楽寺の阿証坊印西上人とぞ聞えし。御布施は先帝の御直衣なりけり。上人給(レ)之、申出せる詞はなくして涙を流す。墨染の袖も絞計也。其期まで召れたりければ、御移香も未残。西国(さいこく)より御形見とて、いかならん世までも御身をはなたじと思召(おぼしめ)されて、朝夕取出して御覧じけれ共、可(レ)成御布施物のなき上、殊に御菩提の御為にとて、泣々(なくなく)御自これを取出させ給けるぞ悲き。上人庵室に帰、十六流の幡に縫、長楽寺常行堂に被(レ)懸たり。阿証坊の印西と申は、柔和を性に受、慈悲の心深し。釈尊平等の思に住し、菩薩抜苦の恵あり。世の人のことわざに、知慧第一法然坊、持律第一葉上房(えふしやうばう)、支度第一春乗房、慈悲第一阿証坊といはれけり。されば
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同追善と云ながら、先帝の御事、奉(二)深思入(一)、道場荘厳の旗に被(レ)懸けり。縦沈(二)蒼海之底(一)、雖(レ)受(二)修羅之苦患(一)、豈生(二)白蓮之上(一)、不(三)誇(二)菩提之快楽(一)やと、憑しくぞ覚えける。女院は御年十五にて入内ありしかば、十六にて后妃の位にそなはり給き。二十二にて皇子誕生(たんじやう)、いつしか立(二)皇太子(一)給(たまひ)て、程なく位に即せ給しかば、二十五にて院号ありき。入道大相国(たいしやうこく)の御女(おんむすめ)の上、天下国母にて御座(おはしまし)しかば、世の重く奉(レ)仰事理にも過たり。今年は二十九にぞ成給へる。桃李粧濃、芙蓉形衰給はね共、高倉院(たかくらのゐん)(有朋下P656)にも後させ給ぬ。先帝も海に入給(たまひ)て、御歎打続き晴る御事なければ、翡翠の簪、今は付ても何かはせさせ給べきなれば、御様(おんさま)を替させ給へり。憂世(うきよ)を厭ひ真の道にいらせ給へ共、御歎は休まらず。人々の今はかうとて海に入し有様(ありさま)、先帝の御面影、いかならん世にかは可(二)思召(おぼしめし)忘(一)。はかなき露の命と云ながら、何に懸て消やらざるらんと思召(おぼしめし)つゞけては、御涙(おんなみだ)にのみぞ咽給ふ。五月短夜なれ共明し兼させ給へり。露まどろませ給ふ御事なければ、昔の御有様(おんありさま)を夢にだにも御覧ぜず、壁に背たる残燈影幽に、暗き雨の窓を打音も閑なり。上陽人が上陽宮に被(レ)閉たりけん悲しみも有(レ)限、寂さは争か是には過じとぞ思召(おぼしめす)。昔を忍妻となれとや、本の主の移し植たりける軒近き盧橘に、風なつかしくかをりける。折しも郭公の鳴渡ければ、角ぞ思召(おぼしめし)つゞけける。
  郭公花たちばなの香をとめて啼けば昔の人や恋ひしき K230 
大納言典侍(だいなごんのすけ)聞給(たまひ)て、
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  猶も又昔をかけて忍べやとやふりしに軒に薫るたちばな K231 
女房達(にようばうたち)多くおはしけれ共、二位殿(にゐどの)の外は水の底にも沈人なし。武士の手に捕れて故郷に帰上たれ共、住馴し宿も煙と昇し後は、空き跡のみ残て滋野辺と成、そこはかとも(有朋下P657)不(レ)見けり。適見馴し人の問来もなし。謬て仙家に入りし樵夫が、里に出て七世の孫に逢たれ共、誰と咎めざりけんも角やと覚ていと悲し。されば若も老たるも様を替形を窄て、在にもあらぬ有様(ありさま)にて、不(二)思懸(一)谷の底にも柴の庵を結。岩の迫に赤土の小屋を修て、露の命を宿しつゝ、明し暮すぞ哀なる。昔は雲台花閣の上にして、詩歌管絃に興ぜしに、今は人跡絶たる朽房に、友なき宿を守御座(おはしま)せば、会坂の蝉丸が、藁屋の床に独居て、宮も藁屋もはてしなければと読けるも、今こそ被(二)思召(一)(おぼしめされ)けれ。此大納言佐(だいなごんのすけ)と申は、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の北方、邦綱卿(くにつなのきやう)の御女(おんむすめ)、先帝の御乳母(おんめのと)にておはしけり。重衡一谷(いちのたに)にて虜られて京へ上給しかば、旅の空に憑もしき人もなくて、歎悲み給にしか共、先帝につき進せて西国(さいこく)におはせしが、水に入せ給にしかば、故郷に還上て、建礼門院(けんれいもんゐん)につき進せて、暫は吉田に候はれけれ共、其も幽なる御有様(おんありさま)にて可(レ)叶もなければ、姉にておはする人、大夫三位に同宿して、日野と云所におはするを憑て移居給へり。重衡卿(しげひらのきやう)も露命未(レ)消と聞給へば、いかゞして今一度見もし見えもすべきと思召(おぼしめし)けれ共、風の便の言伝をだに聞給はねば、唯泣より外の事なくして、明し暮し給ふぞ糸惜き。同(おなじき)十日、上総入道忠清(ただきよ)をば、姉小路川原にして、河越小太郎茂房斬(レ)首。遂に遁ざりけるに、命を惜みて降人になりて、斬られに(有朋下P658)けるこそ無慙なれ。