『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十五
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裳巻 第四十五
S4501 内大臣(ないだいじん)関東下向附池田宿游君事
去七日は、九郎判官、前(さきの)内大臣(ないだいじん)以下の虜共相具して、都を立て、六条堀川(ほりかは)の宿所を打出けるに、大臣武士を召て、此に在し少者は母もなし、我も下りなば憑もしき者もなくて、いか計かは歎侘侍らん、残し留るこそ心苦く侍れ、相構て不便にし給へと宣も敢ず、御涙(おんなみだ)を被(レ)流けるぞ哀なる。夜部六条川原にて失たるをば知給はず、角宣(のたまひ)けり。猛き夷なれ共、恩愛の道は哀也と、皆袖をぞ絞りける。角て内大臣(ないだいじん)父子、美濃守則清以下、都を出給(たまひ)て会坂関にかゝり、都の方を顧給(たまひ)て、いつしか大内山も隔ぬと、流す涙を袖に裹、東路や今日ぞ始て踏見給(たまひ)て、昔蝉丸と云し世捨人、山科や音羽里に居をしめ、此関の辺に藁屋の床を結びて、常に琵琶を弾つゝ、和歌を詠じて思をのぶ。
これや此ゆくも帰るも別れてはしるもしらぬも逢坂の関 K232
世中はとても角ても有ぬべし宮も藁やもはてしなければ K233 (有朋下P660)
流泉啄木の二曲を伝んとて、博雅三位三年まで、夜々(よなよな)通し所也と思出給にけり。蝉丸は延喜第四宮なれば、此関のあたりをば、四宮河原と名けたり。東三条院(とうさんでうのゐん)石山寺に詣給(たまひ)て、還御に関の清水を過させ給ふとて、
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あまた度ゆきあふ坂の関水をけふを限のかげぞ恋しき K234
と詠じさせ給(たま)ひしも、我身の上とぞ思召(おぼしめす)。関山関寺打過て、大津の打出浦に出ぬれば、粟津原とぞ聞給ふ。天智天皇(てんわう)六年に、大和国(やまとのくに)明香岡本の宮より、近江国志賀郡に被(レ)遷て、大津宮を被(レ)造ける所にやと思召(おぼしめし)つゞけつゝ、湖水遥(はるか)に見渡せば、跡定めなき蜑小舟、世に憂我身にたぐひつゝ、勢多長橋轟々と打渡、野路野原を分行て、野州の河原に出にけり。三上嵩を見給へば、緑冷山陰(やまかげ)の、麓の森に神住、三上明神と名付たり。此神と申は、第四十四代御門、元正天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、養老年中に天降、日本(につぽん)第二の忌火にて、此所にぞ住給ふ。能宣と云れし者こそ社に詣つゝ
ちはやぶる三上の山の榊葉は昌ぞまさる末の代までも K235
と詠じける、思出して羨しくこそおぼしけめ。篠原堤、鳴橋、駒を早めて打程に、今日は鏡に著給。昔七翁の老を厭ひて、(有朋下P661)
鏡山いざ立寄てみてゆかん年経ぬる身は老やしぬると K236
詠じけるをも思出して武佐寺を打過ぎて、老曽杜をば心計に拝しつゝ、小野細道露払ひ、醒井宿を見給へば、木陰涼しき岩根より、流るゝ清水冷や。何事に付ても心細くぞ被(レ)思ける。美濃国関山に懸れば、細谷川水音すごく、松吹風に時雨つゝ、日影も見えぬ木の下路に、関の萱屋の板庇、年経にけりと覚えたり。杭瀬川をも打渡、萱津の宿をも過ぬれば、尾張国熱田社に著給。此明神と申は、景行天皇(けいかうてんわうの)
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御宇(ぎよう)に、此砌(みぎり)に跡を留、和光(わくわう)の恵を垂れ給ふ。一条院御時、大江雅衡と云博士、長保末の比当国守にて、大般若を書写して此社にて供養をとぐ。其願文に云、
我願既満、任限亦満たり。故郷に帰登、其期不(レ)幾。と書たりけん事こそ浦山敷(うらやましく)は覚しけれ。鳴海潟、塩路遥眺れば、磯打波に袖を濡し、友なし千鳥音信(おとづ)れり。二村山を過ぬれば、参川国八橋を渡給ふ。昔業平が劇草の歌読たりけるに、皆人袖の上に涙を流しける所と覚しけるも、御涙(おんなみだ)関敢給はず。矢矯宿(やはぎのしゆく)をも打過、宮路山をも越ぬれば、赤坂宿と聞えけり。参河川入道大江定基が、此宿の遊君力寿と云に後れて、真の道に入事も、あらまほしくや思召(おぼしめし)けん。高師山をも過ぬれば、遠江橋本(有朋下P662)宿に著給。眺望殊に勝たり。南は巨海漫々として蜑船波に浮。北は湖水茫々として人屋岸に列れり。磯打浪繁ければ、群居る鳥も声■(いそがは)し。松吹風高ければ、旅客睡覚易し。浜名の橋のあさぼらけ、駒に任て打渡り、池田宿の長庚に、今夜は是に宿を取。侍従と云遊君あり、情深き女にて、終夜(よもすがら)旅をぞ奉(レ)慰。内大臣(ないだいじん)は憂身の旅の空なれば、目にも懸給はね共、女は前なる畳に副臥て明しけり。侍従暇申て帰るとて、
東路のはにふのこやのいぶせさに故郷いかに恋しかるらん K237
内大臣(ないだいじん)優しく思召(おぼしめし)て、
故郷も恋しくもなし旅の空都もつひの栖ならねば K238
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侍従と云遊君は、此宿の長者湯谷が女也。内に入て今夜の御有様(おんありさま)、歌の返事まで細やかに語ければ、母湯谷哀に思て、紅梅檀紙を引重て、文を書て奉(二)右衛門督(うゑもんのかみ)(一)。取次奉(レ)父たれば、是を披見給ふに一首あり。
もろ共に思召(おぼしめし)てしぼるらし東路にたつころもばかりぞ K239
大臣是にや慰み給けん返事あり。
東路に思ひ立ぬるたび衣涙に袖はかわくまぞなき K240 (有朋下P663)
右衛門督(うゑもんのかみ)聞給(たまひ)て、
三年へし心尽の旅寝にも東路ばかり袖はぬらさじ K241
明ぬれば天竜河を渡り給に、水増ぬれば船を覆すと聞給にも、西海の波上被(二)思出(一)けり。彼巫峡の流れ、我命の危き事も思列て、小夜中山に懸ぬ。南は野山谷より峯に移る路、雲を分て入心地して、尾上の嵐も最冷じ。菊川宿打過て、大井河を渡つゝ、宇津山にも成ぬ。昔業平が都鳥に言伝けん、何所なるらん、彼鳥もあらば言伝しまほしく思召(おぼしめし)、清見関に懸りては、昔朱雀院の御時、将門(まさかど)追討の為にとて、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)が奥州(あうしう)へ下りしに、民部卿忠文が、漁舟火影寒焼(レ)波、駅路鈴声夜過(レ)山と云へりし唐歌を詠じける昔の跡ぞ床敷。田子浦を過行ば、富士高峯を見給に、時わかぬ雪なれど、皆白平(しろたへ)に見渡、浮島原に著ぬ。北は富士たかね也、東西は長沼あり、山の緑陰を浸して、雲水も一也。葦分小舟竿刺て、水鳥心を迷せり。南は海上漫々として蒼海渺々たり。孤島に眼遮て、遠帆幽に列れり。原には藻塩
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の煙片々として、浦吹風に消上る。昔は海上に浮て、蓬莱の三島の如なりければ、浮島とも名付たり。駿河国、千本松原打過て、伊豆国(いづのくに)三島社に著給ふ。此宮は伊予三島を奉(レ)祝、天下旱魃して禾穂青ながら枯けるに、伊予守実綱が命に(有朋下P664)挿絵(有朋下P665)挿絵(有朋下P666)より、能因入道が、
天くだるあら人神(ひとがみ)の神ならば雨下り給へ天くだる神 K242
と読たりけるに、炎旱の天より俄(にはか)に雨下つゝ、枯たる稲葉忽(たちまち)に緑に成し現人神(あらひとがみ)。木綿だすき懸て、末憑もしく成給へと祈念して、箱根山をも歎越、湯本の宿に著給。谷川漲落て、岩瀬の波に咽けり。源氏物語(げんじものがたり)に、涙催す滝の音哉といへるも思出し給けり。判官は事に触て情ある人にて、道すがら奉(二)労慰(一)ければ、大臣殿宣(のたま)ひけるは、相構て父子が命を申請給へ、出家して心閑に後世を助らんと被(レ)申ければ、御命計は去共とこそ思ひ給し。さらば奥の方へぞ遷奉らんずらん、義経が勲功の賞には、両所の御命を可(レ)奉(二)申請(一)と憑し気に申ければ、内大臣(ないだいじん)俘(二)囚千島(一)也とも、甲斐なき命だにあらば、嬉き事にこそとて、いとゞ涙を流し給(たま)ひけり。日数経れば、大磯、小磯、唐河原、相模河、腰越、稲村、打過て、既(すで)に鎌倉に著給。屠所の羊の歩々の悲み、小水の魚の泡の命、角やと覚て哀也。
S4502 女院御徒然附大臣頼朝(よりとも)問答事(有朋下P667)
建礼門院(けんれいもんゐん)は、吉田辺に歎明し泣暮させ給(たま)ひけるに、内大臣(ないだいじん)父子判官に相具して、鎌倉へ下向の道にて可(レ)奉(レ)失と申者ありければ、今更なる様に思召(おぼしめさ)れて、御心迷して、げにもさこそはと思召(おぼしめし)、哀人々の失し所にて兎(と)も角(かく)も成たらば、憂事をば見聞事あらじと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。世の聞えを恐て言問者もなし。
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判官は情有し人にて、女院の御事不(レ)斜(なのめならず)心苦き事に思進せて、様々の御衣を調へ、女房達(にようばうたち)の装束までも被(レ)進けり。是を御覧ずるにも只夢とのみ思召(おぼしめし)ける。壇浦にて夷共が取たりける物の中にも、御具足と覚しきをば、尋出して進せけり。其中に、先帝の御手馴させ給ける御具足共あり。御手習の反古の御手箱の底にあり。御覧じ出て御顔に押当、忍あへ給はず、さめ/゛\と泣給けるぞ悲き。恩愛の道は何も疎ならね共、内裏に御座(おはしまし)て、時々雲井の徐に奉(レ)見御事ならば、加程はなからまし、此三年が程一御船の中に、朝夕奉(二)手馴(一)給ければ、無(レ)類思召(おぼしめし)、御年の程よりも長しく、御形御心ばへ勝てまし/\し者をと語出しては、御袖を被(レ)絞けり。
同(おなじき)十七日(じふしちにち)、九郎判官義経、平氏の虜共相具して関東に下著したりければ、源二位対面有けれども、最言すくなにて打解たる無(二)気色(一)。義経も思の外に事違ひて、合戦の事不(二)申出及(一)けり。前(さきの)内大臣(ないだいじん)は、庭隔たる屋に座を儲たりければ、被(レ)著たりけるに、源二位は簾中に座して、比企(有朋下P668)藤四郎能貞を使として被(レ)申けるは、於(二)平家人々(一)、不(レ)奉(レ)存(二)私意趣(一)、其故は専依(二)禅閣之恩言(一)、被(レ)宥(二)頼朝(よりとも)之死罪(一)、争忘(二)違恩(一)忽(たちまち)に有(二)反心(一)哉、然而可(レ)奉(二)追討(一)之由、今被(レ)下(二)宣旨(一)之間、難(レ)背(二)叡慮(一)之故、只随(二)勅定(一)之計也。是源平両氏の、互に昔より今存ぜる事也。不(レ)図に奉(二)見参(一)こそ本意に侍れと宣(のたまひ)ければ、能貞大臣殿の前に進たりけるに、居直り深敬節せられけり。右衛門督(うゑもんのかみ)は不(二)居直(一)、国々の武士多並居たり。右衛門(うゑもん)の督(かみ)ぞ返事しける、当家代々、為(二)朝家之守護(一)、度々鎮(二)賊陣之狼藉(一)、依(二)勲功之労(一)、昇(二)太政
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大臣(だいじやうだいじん)(一)、賜(二)洪恩之賞(一)黷(二)左右大将(一)、雖(レ)無(二)身誤(あやまり)(一)、蒙(二)朝敵咎(一)、是非(二)私恥(一)、世皆所(レ)知也、芳恩には、急被(レ)刎(レ)首よと。聞(レ)之武士、彼に返答の体神妙(しんべう)々々(しんべう)とて、落涙する者多かりけり。父内大臣(ないだいじん)をば宥毀者口々也。毀者は、敬節し給たらば命の助り給べきかは、西海に沈給はずして、東国に恥をさらすこそ理也けれと嘲けり。宥申人は、人心無(二)定主(一)、人身無(二)定法(一)、尊(レ)之則為(レ)将、卑(レ)之又為(レ)虜、抗(レ)之則翔(二)青雲之上(一)、抑(レ)之又沈(二)深淵之底(一)、用為(レ)虎、不(レ)用為(レ)鼠、是又深理也。必しも大臣殿に限に非、猛虎在(二)深山(しんざん)(一)百獣震恐、及(三)其在(二)檻穽之中(一)、揺(レ)尾而求(レ)食云本文あり。心は、いかに猛虎も深山(しんざん)に在時は、百獣恐わなゝきて、あたりに近付事なけれ共、檻穽とて、をりの中被(レ)籠ぬれば、人に向て尾をふりて食(有朋下P669)を求。されば如何に猛軍将なれども、加様に成りぬれば替心にて有ものをとぞ申ける。大臣の刎(レ)首事不(二)容易(一)とて、俎上に大なる魚を置、利刀を相具して内大臣(ないだいじん)父子前に被(レ)置たり。自害し給へとの謀也。大臣は思寄給はずもや有けん、そも不(レ)知、右衛門督(うゑもんのかみ)は、さもと思はれけれ共、壇浦にて水底に沈みはてぬは、父の向後の■(おぼつか)なき故也。今更非(レ)可(二)先立(一)とおぼしければ、自害なし。待ども/\自害し給ざりければ、内大臣(ないだいじん)をば讃岐権守と改名して、九郎判官に被(二)返預(一)けり。
S4503 虜人々流罪附伊勢勅使改元有否事
同廿一日、平家の虜の輩国々へ可(二)流遣(一)之由、被(レ)下(二)官府(一)けり。上卿源(げん)中納言(ぢゆうなごん)通親也。前平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)は能登国、追立使は信盛、此時忠卿(ときただのきやう)は、筆執平氏なり。後に謀叛など起すべき非(レ)人とて、流罪に定られ給けり。子息前左中将時実は周防国、追立使は公朝也。内蔵頭(くらのかみ)信基は備後国、使
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は章貞也。兵部少輔尹明出雲国、使同章貞也。熊野別当法眼行明常陸国、使は職景也。二位僧都(そうづ)全真は安芸国、使は経広也。法勝寺(ほつしようじの)執行能円は備中国、使は同経広也。中納言律師良弘阿波国、使は久世也。中納言律師忠快は飛騨国、使(有朋下P670)は同久世也。六月十六日(じふろくにち)に、伊勢公卿勅使可(レ)被(二)発遣(一)否、又可(レ)有(二)改元(一)否事、人々に被(二)尋下(一)けるに、左大弁(さだいべん)兼光卿云、
天照太神(てんせうだいじん)、手持(二)宝鏡(一)、奉(レ)授(二)天忍穂耳尊(一)時、詔(二)天児屋根命(一)、同侍(二)殿内(一)、善為(二)防護者(一)歟、然則云(二)鏡璽来格之報賽(一)、云(二)宝剣可帰之請祈(一)、思其元始已在(二)彼社(一)、尤公卿勅使可(レ)被(二)発遣(一)とぞ被(レ)申ける。内大臣(ないだいじん)実定は、我君践祚之後、改(二)寿永(一)為(二)元暦(一)以来、逆徒伏(レ)誅、都鄙平定、何強に急有(二)改元(一)哉、彼東漢建武之明時、本朝天慶之佳例、尤可(レ)資(二)准帰(一)歟とぞ被(レ)申たりける。彼両条、人々申状異趣同旨なり。前(さきの)内大臣(ないだいじん)父子、並三位中将(さんみのちゆうじやう)重衡、去九日義経に相具て被(二)上洛(一)けり。鎌倉にて可(レ)被(レ)刎(レ)首とこそ思あはれけるに、又都へ被(二)帰上(一)ければ、いとゞ心を迷給けり。国々宿宿(しゆくじゆく)も過ぬ。尾張国野間内海と云所あり。こゝは故義朝(よしとも)が首を切たりける所也。此にて斬て彼霊に祭らんずるにやと思ひあひ給ける程に、其をも過にければ、大臣殿今は去共と憑し気に宣(のたまひ)けるこそ思ひあまり給へるにやと悲くは覚ゆる。右衛門督(うゑもんのかみ)はよく心得(こころえ)給へり。平氏の正統也、頼朝(よりとも)に見せて後、京にて刎(レ)頸渡さんずるにこそと思召(おぼしめし)けれ共、余に父の歎給ければ角とは不(レ)宣、只道すがら内大臣(ないだいじん)にも念仏をすゝめ、我身も唱給けり。日数ふれば、同廿日は近江国篠原宿に著ぬ。廿二日(にじふににち)
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に勢多にて、大臣殿も(有朋下P671)右衛門督(うゑもんのかみ)も、格別の処に奉(レ)置ければ、今日を限と思給(たまひ)て、右衛門督(うゑもんのかみ)は何れの所にぞ、一所にてこそ如何にも成果んと思つる、生ながら別ぬるこそ悲けれとて、涙を流し給ぞ哀なる。内大臣(ないだいじん)判官に被(レ)仰けるは、出家は免なければ力及ばず、僧を請じて受戒、最後の知識に用ばやと宣へば、其辺相尋て、金性房湛豪と云僧奉(レ)請、僧知識僧参て最後の事勧申けるに、内大臣(ないだいじん)涙せき敢給はず、向(レ)僧宣(のたまひ)けるは、右衛門督(うゑもんのかみ)はいかに成ぬるやらん、被(レ)刎(レ)首共、一筵に手を取組てこそ死なんと思つるに、さもなき事の悲さよ、副将には明日関東へ下らんとせし夜別ぬ、其もいかゞ成ぬらん■(おぼつか)なし、右衛門督(うゑもんのかみ)には今日別れぬ、此十七年間、一日も無(二)立離事(一)。西海の水底に沈べかりし身の、角憂名を流すと云も、右衛門督(うゑもんのかみ)が故也とて泣給へば、知識僧申けるは、今に於は其事不(レ)可(二)思召(おぼしめす)(一)、最後の御有様(おんありさま)を見奉らんも見え給はんも、互の御心中悲かるべし。倩事の心を思ふに、君は為(二)外戚之臣(一)、至(二)丞相之位(一)、為(二)征夷之将統(一)天下之政、上輔(二)導於一人(一)、下照(二)臨於万民(一)、世之奉(レ)仰如(二)日月(一)、人之奉(レ)恐如(二)雷霆(一)、令(レ)失(二)勢於衆人之上(一)、被(レ)奪(二)命於匹夫之手(一)、楽尽悲来之謂、物盛必衰之理、更非(二)当時之災殃(一)、皆是前世之業報任たり。是以色界の天衆猶遇(二)退没之愁(一)、得道羅漢不(レ)免(二)必滅之理(一)、秦始皇(しくわう)侈を極ども驪山墓に埋、漢武帝惜(レ)命ども(有朋下P672)杜陵苔朽、普賢観経云、我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法と、我心自空なれば、罪福全主なし、静に心を観ずるに、定れる心なし。諸法の相を達するに、一法として法の中にあるを不(レ)見、さけば善悪共に空なり。
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世出同無と観ずる、仏の知見に相叶事なれば、何物も始終不(レ)可(レ)有と思召(おぼしめす)べき也。法華経(ほけきやう)には、三界無安猶如火宅、衆苦充満、甚可怖畏とて、栄花名聞も火宅の楽み、重職官位も炎中の勇也。それがために還て招(レ)苦、これが為に必ず懐(レ)憂。妻子眷属は恩愛苦海の波を起し、我執怨僧は邪見放逸の剣を鋭。順縁逆縁共に生死の妄染なれば、自身他身皆火宅の炎に咽ぶ。一切有為の法は、悉如(レ)夢如(レ)幻、水月鏡像の喩にさとりぬべし。未得真覚、恒処夢中、故仏説為、生死長夜と説給へり。誠に真覚のひらけずは、無明の長夜あけ難く、妄想の憂悲み晴事なかるべし。而を弥陀如来(みだによらい)は大悲願を発して、一念十念共に導んと誓給へり。此願億々万劫にも聞がたく、世々生々にも値がたし。たとひ天上勝妙の楽に誇とも、仏法(ぶつぽふ)にあはざれば悲む也。譬ひ卑賤孤独の報を得とも、三宝に帰依するを幸とす。君先世の怨僧に答て、今生の誅害にあひ給へり。一筋に余念を止て、一心に念仏申て、衆苦永く隔り、十楽身に荘、浄土(じやうど)へ生んと思召(おぼしめす)べき也と奉(二)教訓(一)、先授(二)三帰五戒(ごかい)(一)、後に奉(レ)勧(二)念仏(一)。内大臣(ないだいじん)可(レ)然(有朋下P673)知識成と思召(おぼしめし)、西に向合(レ)掌、余言を止て念仏三百返計ぞ唱へ給。橘内右馬允公長、剣引側て後へ廻ければ、大臣殿念仏を止て、右衛門督(うゑもんのかみ)も既(すで)にかと宣(のたまひ)ける。詞の未(レ)終けるに、首は前に落にけるこそ悲けれ。彼公長は平家重代の家人也。新中納言の許に、朝夕伺候の者也けり。身を顧世を渡らんと思ふこそ悲けれとて、涙をぞ流しける。其後上人右衛門督(うゑもんのかみ)の許に行向ひて奉(レ)授(レ)戒、様々教訓し念仏すゝめければ、大臣殿の最後如何御座(おはしまし)つると問給。上人、何事も思召(おぼしめし)
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切、目出こそ御渡候つれと申せば、さては嬉く候とて、念仏高く唱つゝ、今は疾々と被(レ)仰ければ、今度は堀弥太郎切てけり。さしも罪深く難(レ)離し給ければ、身をば公長が沙汰にて、一つ穴にぞ埋てける。
S4504 内大臣(ないだいじん)京上被(レ)斬附重衡向(二)南都(一)被(レ)切並大地震事
同廿二日(にじふににち)、九郎判官義経、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経卿許へ申送けるは、前(さきの)内大臣(ないだいじん)父子、近江辺にして可(レ)斬(二)其首(一)、洛中へ持参して、可(レ)渡(二)検非違使(けんびゐし)(一)歟、将亦勢多辺にして可(レ)棄歟、両箇趣兼て言上、事由可(レ)随(二)勅定(一)之由、頼朝卿(よりとものきやう)所(レ)令(レ)申(レ)之也。又重衡卿(しげひらのきやう)は、可(レ)遣(二)東大寺(とうだいじ)(一)之由、同令(レ)申(レ)之間、相具して可(二)入洛(一)と申たりければ、泰経彼状を有(二)奏聞(一)。内大臣(ないだいじんの)(有朋下P674)許に被(レ)遣て可(二)計申(一)由被(レ)仰ければ、後徳大寺(ごとくだいじの)実定被(レ)申けるは、彼両人被(レ)行(二)斬罪(一)上は、被(レ)渡(レ)首事可(レ)有(二)議定(一)歟、凡渡(レ)頸事は、於(二)京師(一)人為(レ)令(レ)見(レ)実也、而先日乍(レ)生已(すで)に被(レ)渡(二)洛中(一)、今度義経相具して上洛、行(二)斬罪之相(一)、依(二)何不審(一)、重又可(レ)被(レ)渡(二)大路(一)哉と有けれ共、翌日二十三日に、検非違使(けんびゐし)、知康、範貞、信盛、公朝、明基、経弘等、六条河原にして彼両人首を請取、大路を渡して懸(二)獄門左樗木(一)けり。京中白川辺土近国輩、競集て見(レ)之、法皇は三条東洞院(ひがしのとうゐん)に御車を立て有(二)御覧(一)。謹考(二)故実(一)、三位已上の首、懸(二)獄門(一)事無(二)先例(一)、称徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、大師藤原恵美朝臣押勝謀叛時、軍士石村々主、近江国にして斬(二)押勝首(一)伝(二)于京師(一)之由雖(レ)載(二)国史(一)、渡(二)其頸(一)梟(二)獄門(一)之由、無(二)所見(一)。近平治に、右衛門督(うゑもんのかみ)信頼(のぶより)、さしも罪深して被(レ)刎(レ)首たりしか共、獄門には不(レ)被(レ)懸、如(レ)此例、依(二)時儀(一)被(二)始行(一)事なれども、両度被(レ)渡(二)大路(一)之条刑法甚とぞ人傾申ける。哀哉西国(さいこく)より入ては、生て七条を東へ被(レ)渡、東国
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より帰ては、死て洞院(とうゐん)を北へ渡され、死の恥生の辱、とり/゛\にこそ無慙なれ。
本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)は、前(さきの)内大臣(ないだいじん)父子と相共に、九郎判官に相具して上けるが、内大臣(ないだいじん)父子は勢多にて切れぬ。重衡をば南都大衆へ出して切(レ)首、可(レ)懸(二)奈良坂(一)とて、故源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)頼政(よりまさ)が息、蔵人大夫頼兼相具して、(有朋下P675)山階や神無森より醍醐路に懸て、南を指てぞ通ける。住馴し故郷、今一度みまほしく思召(おぼしめし)けれ共、雲井のよそに想像、涙ぐみ給も哀也。小野里、醍醐寺を過て、中将泣々(なくなく)宣(のたまひ)けるは、日比(ひごろ)各情をかけ憐つる事、嬉し共云難(レ)尽、同は最後の恩を蒙べき事あり、年来相具したりし者、こゝ近き日野と云所に在と聞、鎌倉に在し時も、風の便には文をも遣して、返事をも聞ばやと思ひしか共、免しなければ不(レ)叶、南都の衆徒に被(レ)渡なば、再び可(二)還来(一)身に非、されば彼人を今一度、見もし見えもせばやと思はいかゞ有べき、我に一人の子なければ、此世に思置事なし、此事の心に懸て、よみぢも安く行べし共不(レ)覚と宣(のたま)ひければ、武士共も、遉岩木ならねば涙を流つゝ、何かは苦しかるべきとて免しければ、手を合悦給(たまひ)て、日野大夫三位の許へ尋入て案内せられけり。彼大夫三位北方と申は、大納言典侍(だいなごんのすけ)の姉也。大納言典侍(だいなごんのすけ)とは、故五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)の御娘、先帝の御乳母(おんめのと)也。平家都を落し時、同西国(さいこく)に下給たりけるが、壇浦軍敗れて後、再都へ帰上たれ共、家々(いへいへ)は都落の時焼ぬ、可(二)立入(一)所もなければ、女院に付進せて、暫吉田に座しけれ共、さても可(レ)叶様なければ、姉の三位局を憑て、彼宿所の片方に忍てぞおはしける。三位中将(さんみのちゆうじやう)の使は石童丸と云舎人也。童内に
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入て、重衡こそ東国にて如何にも成べしと思しに、南都(有朋下P676)亡したる者也とて、衆徒の手に渡され侍りし、兎角武士に暇を乞て立寄侍り、今一度奉(レ)見ばやと云入たりければ、北方物をだにも打纏給はず、迷出て見給ければ、藍摺の直垂、小袴著たる男の、疲れ黒みたるが、縁により居たりけるぞそなりける。如何にや夢か現か、これへ入給へかしと宣(のたま)ひける声を聞給に、目も眩心も消て、袖を顔に覆て泣給ければ、大納言典侍(だいなごんのすけ)も只涙に咽て、宣出る言なし。三位中将(さんみのちゆうじやう)半縁に寄懸り、御簾打纏て、北方に目を見合て、互にいとゞ涙を流し、うつぶし給へり。北方起直りて、是へ入給へとて重衡の手を取り、御簾の内へ奉(二)引入(一)、先物進めたりけれ共、胸塞喉塞て聊も不(レ)叶けれ共、責ての志を見えんとて、水計をぞ勧め入給ける。したるけに見え給へば、著(二)替是(一)給へとて、袷の小袖に白帷取具して奉れば、練貫小袖の垢付たるに脱替給ふ。北方取(レ)之、胸に当顔に当てぞ泣給ける。三位中将(さんみのちゆうじやう)も、いつまで著べき小袖ならね共、最後の著替と思召(おぼしめし)けるに、いとゞ袖をぞ絞りける。涙の隙に、
脱替る衣も今は何かせん今日をかぎりのかたみと思へば K243
北方も泣々(なくなく)、
憑みおく契はくちぬ物といへば後の世までも忘るべきかは K244 (有朋下P677)
三位中将(さんみのちゆうじやう)宣(のたまひ)けるは、去年の春如何にも成べかりし身の、一門の人こそ多き中に、責ての罪の報に、重衡一人虜れて、京鎌倉に曝れて、終には奈良の大衆中に出され切べしとて罷なり。斯る有様(ありさま)なれば、
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中々由なしと思つるが、命存へて二度非(レ)可(レ)奉(レ)見、年来の情、尽ぬ思に任て角と申つる也、奉(二)嬉見(一)ぬる者哉、命のあらん事も只(ただ)今日に限れり。今一度見奉らんと思より外は、此世に思置事なし。程遠き所ならば如何がはせん、爰(ここ)にしもおはして、最後に見みえぬる事、前世の契と云ながら、心中可(二)推量給(一)、子のなかりしをこそ本意なき事に思申しに、賢くぞ子の無りける。在ばいかばかりか心苦からん、今は此世に執心留る事なければ、冥途安く罷なんと思こそいと嬉けれ。人に勝て罪深くこそ侍らんずらめ、哀不便と思し母の二位、深く憑し一門兄弟悉に亡ぬる上は、残留て後の世を弔ふべき者も侍らず、人は若くおはすれば、便にも付給はんずらん、さもして世をも渡給べし、非(二)其恨(一)、日本(につぽん)第一の大伽藍を亡したりしかに、阿鼻の炎兼て想像こそ苦しけれ、いかならん有様(ありさま)にて御座(おはしま)す共、忘給はで弔給へ、多き人の中に、斯身に相馴給ふも、可(レ)然先の世の深き契にこそ侍らめなれば、後の世とても忘給べきかは。出家をもして、髪をも奉(レ)剃見せばやと思へ共、其も免しなしとて涙を流し給へば、北方、日比(ひごろ)の(有朋下P678)思歎は事の数ならず、可(二)堪忍(一)心地もし給はず。軍は常の事なれば、必しも去年二月六日を限とも不(レ)思しか共、別れ奉しかば、越前三位上の様に、水の底にも沈むべかりしに、先帝の御事の、御心苦思奉し上に、正しく世におはせず共不(レ)聞しかば、今一度見奉事もやと思て、強面昔の貌にてすぐし侍つるに、今日を限にて御座(おはしま)すらんこそ悲けれ。今までも延給つれば、若やと思ひつる憑も有つる者をとて、又うつぶし臥給。昔今の事宣通ふに付ても、悲さのみ深く成行ば、日を重ね
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夜を重ぬ共尽べきに非ず。程ふれば武士共の待思はん事も心なければ、奉(レ)見(レ)嬉つとて泣々(なくなく)立給へば、北方、如何にや、さるにてもしばしとて袖を引へ、今日計は留給へ、武士もなどか一日の暇を得させざらん、年を経ても待得べき事に非、又もと思見参も、今日を限の別なればと宣へば、中将、一日の暇を乞たり共、明日の別も同事、心の中たゞ推量給へ、去共遁べきにあらず、契あらば来世にても可(レ)見とて出給へば、北方は人の見るにも不(レ)憚、縁の際まで出給(たま)ひ、臥まろびて喚叫給。中将は馬に乗たりけれ共、進もやり給はず、涙にくれて行前も見ず、其身は南都へ向へども、心は日野にぞ留りける。大納言典侍(だいなごんのすけ)は、走付てもおはしぬるべく覚え給けれども、それもさすがなれば、引纏てぞ臥給ふ。永別の道、さこそは悲く思ふら(有朋下P679)めと、武士も袂(たもと)を絞りけり。中将は石金丸と云舎人を具し給へる。是は八条院より、最後の有様(ありさま)を見よとて鎌倉まで付られたりけるが、南都迄も付たりける也。大納言典侍(だいなごんのすけ)は、木工允友時と云者を召て、三位中将(さんみのちゆうじやう)は、小津河奈良坂の辺にてぞ切れんずらん、首は定て大衆の手に渡らんずらん、身は曠野に棄べし、跡を隠すべき者なし、汝行て身を舁返せ、孝養せん、さしもに後生弔と云つる者をとて、地蔵冠者と云ふ中間と、十力法師と云力者(りきしや)を、友時に相具して進けり。三人の者共泣々(なくなく)走ければ、木幡、岡野屋行過て、宇治辺にて奉(二)追付(一)けり。平等院(びやうどうゐん)をば心ばかりに伏拝、屠所の羊の歩近付ば、新野池をも打過て、光明山の鳥居の前にも著給ふ。治承の合戦に、高倉宮(たかくらのみや)流矢に中て亡給し所也と見給にも、今は身の上とぞ思召(おぼしめし)ける。丈六堂の辺を過給には、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)が一門、為(二)
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当家(一)亡されし所也、亡魂いかゞ思らん、今は昔に替行、憂世(うきよ)の習こそ悲けれと、思残す事なし。大納言典侍(だいなごんのすけ)は引纏ひて臥給(たまひ)たりけるが、暮る程に起上り、法戒寺より上人を請じて様を替給にけり。中将和州小津に著給へば、土肥次郎使者を南都へ立て云、三位中将(さんみのちゆうじやう)重衡をば、関東にして雖(レ)可(レ)被(レ)刎(レ)首、南都両寺(りやうじ)を亡す依(レ)咎、可(レ)渡(二)遣衆徒之手(一)由、源二位家の下知に任て寺辺に発向す。可(三)具足入(二)寺内(一)歟、於(二)境外(一)可(レ)被(二)請取(一)歟と申(有朋下P680)たりければ、東大興福両寺(りやうじ)の大衆、宿老(しゆくらう)若輩貝鐘鳴して、大仏殿の大庭に有(二)会合僉議(せんぎ)(一)。若大衆の僉議(せんぎ)云、天竺震旦の法滅は暫閣、我大日本国(だいにつぽんごく)は神国也、其神慮は為(レ)守(二)護仏法(ぶつぽふ)(一)、而欽明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、仏法(ぶつぽふ)初て渡(レ)従(二)百済国(一)、守屋大臣、為(レ)崇(二)国神(一)欲(レ)滅(二)仏教(一)、然而救(二)世の垂跡(すいしやく)上宮太子、従(レ)討(二)守屋(一)以来、君主専帰(二)正法(一)、臣公同崇(二)三宝(一)、爰故浄海入道悪逆(あくぎやく)之所(レ)催、以(二)重衡(一)為(二)軍将(一)尽(二)園城(をんじやう)三井之法水(一)、消(二)南京二寺之恵燈(一)、悲哉最初成道一十六丈の聖容、必滅之煙聳(二)蒼天之空(一)、痛哉法相三論八不唯識の金言、垂没之露消(二)春日之野(一)、啻匪(レ)亡(二)仏陀之教法(一)、専廃(二)失浄侶之弘通(一)、過(二)守屋之違逆(一)、超(二)調達之謗法(一)五刑之類比(レ)之猶軽(二)五逆伴党、不(レ)可(レ)求(レ)外、衆徒多別亡。君臣大に愁嘆す、常住諸尊仏陀含(レ)恨、護法之善神成(レ)怒、故一門悉沈(二)西海(一)、重衡独為(二)生虜(一)、修因感果究竟、彼卿寺辺廻来、然者(しかれば)早衆徒の手に請取、両寺(りやうじ)の大垣三度廻し、其後七箇日間に堀(レ)頭歟、鋸歟、嬲切に可(レ)殺とぞ申ける。若大衆は、尤可(レ)然と同じけるを、老僧の僉議(せんぎ)に云、重衡卿(しげひらのきやう)重犯事、衆徒の僉議(せんぎ)に同ず、因果道理実必然也。但彼卿治承に南都
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を亡し時、以(二)衆徒力(一)打も留搦も取たらば、刑罪可(レ)任(二)僉議(せんぎ)之旨(一)。而今年月を送て勇士に取れ、武家の手より請取て罪を行事、全非(二)大衆高名(一)。就(レ)中(なかんづく)修学利生之窓中にして、行(二)邪見不(有朋下P681)善科(一)、背(二)菩薩大悲(一)、僧徒の威儀いあらじ、誠に自業自得の所(レ)催、彼卿死罪難(レ)遁歟。然者(しかれば)寺院の内に不(レ)入して、いづくにても武士が切たらん頭をば請取て、伽藍の敵なれば、可(レ)懸(二)奈良坂(一)なりとぞ僉議(せんぎ)しける。此条可(レ)然とて、別の使を相副て、重衡卿(しげひらのきやう)間事被(二)申送(一)、源二位家仰奉畢。但衆徒の手に請取て行(二)刑罪(一)事其憚あり、般若野より南へ不(レ)入して可(レ)被(二)相計(一)。首をば衆徒中に給(たまひ)て可(レ)加(二)一見(一)と返事しけり。南都の返事聞て後、土肥次郎は、其(その)日(ひ)も早暮ければ、河より南の在家の中に、大道よりは東南に向て、一間四面に造たる旧堂あり。是へぞ入奉りける。ゆかけをせばやと宣(のたま)ひければ、近所より新き桶杓を尋出し、水を上て奉る。御堂の傍にて行水し、髪洗たぶさを取、最後御装束と覚えて、武士共兼て用意し持せたりければ、小袖、帷、直衣、褌、扇、笏、沓に至まで取出して奉。日比(ひごろ)著給(たま)ひたる物をば、武士給(たまひ)てのきにけり。武士の申儘に御装束をめし、新き沓には子細ある者をとて、紙を畳て敷さしはきて、縁を歩て、正面よりは東西向にして座しける。此間東の旅に下り上り、風に窄れ日に黒みて、あらぬ貌にして衰給たれ共、遉に余(あまり)の人には替てぞ見え給ける。暫有ければ、御食賂出して進せたり。是や此下揩フ云なる死粮とは、只今(ただいま)死する者の、魚鳥不(レ)可(レ)有とて取除さす。散飯多かに取て仏前(有朋下P682)に備て、其後はまゐらず、又酒を奉(レ)進。只今(ただいま)頸切れ
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んずる者の、極熱に酒は悪かる者をとて、三度請るまねをして、舌の先ばかりに宛て是も進ず。其後手洗嗽て宣(のたまひ)けるは、抑汝等(なんぢら)は、頼朝(よりとも)が政をば善とや思悪しとや思、所謂(いはゆる)善と思へばこそ平家をば角は虐らめ。昔は如(レ)此人を虐、今は又人の為に虐げらる、因果の理世をも恨べからず、但敵を敵へ渡事は、昔よりして未(レ)聞、頼朝(よりとも)も弥勒の代をばよも持じ、今日は人の上と思共、明日は必身の上と思ふべし、重衡を罪深き者と云なれ共、全く罪深からず、心より発て南都を亡たらば、西海の波の底にも沈、東路の頭に骸をも曝すべけれ共、法相三論の学地の辺、華厳法華修行の砌(みぎり)、仏法(ぶつぽふ)流布の境、奈良都に廻来て、切れて其後首を東大興福の両寺(りやうじ)に被(レ)渡事、大乗値遇の過去の縁浅からずと思へば、可(二)罪深(一)共不(レ)覚と宣へば、実平申けるは、二位家の計ばかりにてはよも候はじ、法皇の御計にてこそ候らめ。就(レ)其鎌倉にて善便宜は候し者を、など御自害(ごじがい)は候はざりけるやらんと申せば、中将は打咲ひ給(たまひ)て、人の■(むね)には、三身の如来(によらい)とて仏御座、怖悲しと思て、身より血をあえさん事は仏を害するに似たり、されば自害をばせざりき、只今(ただいま)も首を刎んとせば、流石(さすが)妄念も起りぬべし、何となき振にもてなし、我に不(レ)知首を打と宣へば、武士共目を合て畏る。其後(有朋下P683)中将突立て、正面の東の妻を立廻、後戸の方を見給へば、歳六十余(あまり)の僧、左手には花を持、右手には念珠に打鳴し、取具して参たり。哀僧かな、一人と思召(おぼしめし)つるに神妙(しんべう)にも参給へり、はや入給へとて、中将は本の道より帰りて、正面の東の間、本の座に西向におはしければ、彼僧は西の妻を廻て、正面の西の間、東向にぞ候ける。実平
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は縁にあり、家子郎等は坪中大庭に並居たり。中将僧に向て宣(のたまひ)けるは、善知識の人かなと思つるに、折しも神妙(しんべう)にも候、抑重衡世に在し程は、出仕にまぎれ世務にほだされて、■慢(けうまん)の心のみ起て後世のたくはへ微塵ばかりもなし、況世乱軍起つて後、此三四年間は、禦(レ)彼助(レ)我との営の外は又他事なし、就(レ)中(なかんづく)南都炎上(えんしやう)の事、王命と云武命と云、君に仕世に随習、力及ばす罷向ひ侍りぬ、其に思はずに火出来て、風烈くして伽藍の及(二)滅亡(一)、其を重衡が所為と皆人の申し事の、今思合すれば実に侍けり、さればにや人もこそ多けれ、一門の中に我一人虜れて、京鎌倉に恥を曝し、此迄骸をさらさん事只今(ただいま)に極れり、されば斯る罪人の如何なる善を修しいかなる仏を奉(レ)憑てか、一劫助る事候べき、示給へと泣々(なくなく)掻詢(かきくどき)て宣へば、僧急と土肥に目を見合すれば、実平とも/゛\随(レ)仰被(レ)参候へと申。上人念珠おしすり金打鳴して、阿弥陀経一巻懺法一巻読て後、法華経(ほけきやう)一部と志、早らかに転読す。(有朋下P684)八の巻に及で、実平今は夜も明方に成候ぬ、とくと申せば、八の巻をば巻置奉(レ)授(レ)戒、若浄土(じやうど)に生んと思召(おぼしめさ)ば、西方極楽を歓ひ御座(おはしま)せ、極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽と説れたり、弥陀名号を、口に唱へ心に念じ給べし、若悪道に赴御座(おはします)べくば、地蔵の悲願仰給へ、抜苦与楽慈悲深く、大悲抜苦の誓約あり、依(レ)之(これによつて)■利(たうり)雲上にしては、正しく釈尊殷懃の付属をうけ、奈落炎中にしては、必衆生難(レ)忍の受苦を助給、彼と云此と云、深く憑み奉らば争か利勝なからんと、細々に讃嘆し奉(二)教化(一)ければ、中将も実平も、眼に余る涙の色、家子も郎等も、絞兼たる袂(たもと)也。土肥申けるは、加様に候べしと
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だにも兼て知進せたりせば、御布施なども用意仕るべく候ける者を、是は日比(ひごろ)君の召て候者なればとて、取納たりける御装束裹より取出し、仏前にぞ備へたる。其後又弥陀経一巻、懺法早らかに一巻読けるが、六根段に懸けるに、暁の野寺の鐘の声、五更(ごかうの)空にぞ響ける。中将涙を流し突立て、東の妻を後戸の方へおはす。兵二人影の様にて不(レ)奉(レ)離(二)御身。後戸の縁を彼方此方へ行道し御座(おはしまし)けるに、紫の雲一筋出来りたり。折しも郭公の啼て、西をさして行けるを聞給(たまひ)て、かく、
思事かたりあはせん郭公げに嬉しくも西へ行かな K245 (有朋下P685)
とすさみ給ける御音計ぞ幽に聞えける。坪の中大庭に並居たりける武士も、はら/\と立にけり。上人は、こゝは何と成給ぬるやらんと思て、立給たる跡を見れば、涙を拭給へる畳紙もぬれながら未あり。庭を見れば、沓の鼻をかゝへてかぶり居たる犬あり。立廻後戸を見れば、頸もなき死人うつぶしに臥たり。犬二三匹そばにて諍(レ)之居たり。穴無慙や、此中将既(すで)に切れ給(たま)ひけるにこそと思、前後なりける犬共を追除て、松葉柴葉を折かざし、経よみ念仏申て奉(レ)弔。大道方には馬の足音稠かりければ、上人急立出て見れば、歳五十計なる男の、貲布直垂に長刀杖に突たる男、北へ向て行けるを袖を引へ、是に御座(おはしまし)つる上揩ヘ、何と成給ぬるやらんと問申ければ、御首(おんくび)をば南都へ奉(レ)渡ぬとて、高念仏申て北をさして過行けり。其後友時泣々(なくなく)来りて、中将の空き身を輿に舁のせて日野へ帰、地蔵冠者、十力法師、共に涙にくれて行先も見えず。
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< 已上は南都より出たり。次の説は、世に流布の本也。
異説に云、中将日野を出て小津に著給へば、頼兼使者を南都へ立、衆徒僉議(せんぎ)如(レ)上。さては此にて可(レ)切とて、小津川のはたに奉(二)下居(一)、布革の上に奉(レ)居。重衡今を限と思召(おぼしめし)ければ、木工馬允友時を召て、此辺に仏御座なんやと宣(のたまひ)ければ、友時泣々(なくなく)其辺の在家を馳廻けれ共、世間に恐けるにや不(レ)出ければ、古堂より阿弥陀(あみだ)の三尊(さんぞん)(有朋下P686)を尋出、河原の砂に東に向て、三位中将(さんみのちゆうじやう)の前に奉(二)掘立(一)、重衡は浄衣の袖の左右のくゝりを解、仏の御手に奉(二)結付(一)。五色の糸を引へ給へる心地にて、法然房の教訓し給(たま)ひし言を信じ、如来(によらい)大悲の誓願を深く憑て宣(のたまひ)けるは、提婆達多は三逆罪人也。無間の炎の底にして、成仏(じやうぶつ)の記別に預る。下品下生は五逆の業人也。苦痛の床上にして、往生の素懐を遂たり。皆是弥陀平等の大悲に答、法華一実の効験に寄る。重衡逆縁重く萌と云ども、致深懺悔仏法(ぶつぽふ)不思議の力、忽(たちまち)に罪を滅して浄土(じやうど)に導給へ、況弥陀如来(みだによらい)に、一念十念も来迎せんと云願御座、極楽世界に上品下品に往生すと云文あり、重衡彼下品器に当れり、本願に無(レ)誤、大悲に実有らば、最後の十念を以て、浄刹の下品に迎取給へと詢つゝ、西に向合(レ)掌、念仏百返ばかり高声に唱へ給ければ、頸は前にぞ落にける。友時首を地に付て喚叫。見る人も皆涙を流す。良久有て友時は、三位中将(さんみのちゆうじやう)の空き身を輿にのせて日野へ帰、地蔵冠者も十力法師も、涙にくれて行先も見えざりけり。 >
既(すで)に車寄に奉(二)舁入(一)。北方は兼て思儲たりつる事なれ共、今更なる様に覚て、物をだにもはき給はず、車寄に走出て、頸もなき人に取付て、無(二)為方(一)泣給。今一度見る事もなくてさてやみなんと、日比(ひごろ)思けるは物の数ならず、中々一谷(いちのたに)にて何にも成給たらば、今は思忘るゝ事も有なましと(有朋下P11687)おぼすぞ責ての事と哀なる。今朝は声花なる貌にて見給(たまひ)つるに、今夕は紅を染て首もなければ、さこそは悲かり
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けめと、被(二)推量(一)無慙也。無常は世の習、相別るゝは人の癖なれ共、懸べしとは兼て不(レ)知、生て思ふも悲きに、同道にと泣■(なきこがれ)給へ共其甲斐なし。偖もあられぬ事なれば、上の山にて薪に積籠焼あげ奉り、灰を埋て墓を築卒都婆を立て、骨をば拾ひて高野山へ送給ふ。
< 一説には、重衡をば奈良坂にて首斬といへり。 >
重衡卿(しげひらのきやう)の首をば、頼兼大衆の中へ渡したりければ、衆徒請(二)取之(一)、東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)の大垣三度廻らし、法華寺の鳥居の前に、竿に貫高捧て是をさらす。治承の合戦の時爰(ここ)に打立、南都を亡したればとて也。其後般若野の道のはたに大卒都婆を立て、張付にして是をさらす。見る人、大仏を焼給はずば今懸る恥にあひ給べしやとて謗る者もあり、涙を流す人も多かりけり。七箇日の間奈良坂に有けるを、北方大納言典侍(だいなごんのすけ)、内々俊乗坊上人に付て、さしも罪深人なれば、後の世を弔はばやと思侍。衆徒をも宥仰られて、首を返賜ひて孝養せんと被(二)乞請(一)ければ、上人哀に思召(おぼしめし)て、様々に大衆を誘申されて日野へ送進す。北方大に悦て、即高野山に送りて塔婆を立て、追善を営給けり。彼俊乗上人と申は、左馬大夫季重が孫、右衛門大夫季能が息男、黒谷の法然房の弟子也。慈悲深してものを憐。上醍醐(有朋下P688)に蟄居して、専憂世(うきよ)を厭ひける程に、東大寺(とうだいじ)造営の大勧進に被(レ)補、一寺に重き人也ければ、大納言典侍(だいなごんのすけ)も、此上人に付て乞れければ、衆徒も難(レ)背して免遣しける也。倩事の心を案ずるに、因果の道理は如(レ)影随(レ)形、為(レ)善生(レ)天、為(レ)悪入(レ)淵といへり。重衡卿(しげひらのきやう)滅亡、月支東漸之仏教、焼(二)
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失日或南北之霊場(一)、故に冥衆不(レ)祐(二)其人(一)、神祇成(レ)崇(二)其身(一)、生は奮(二)恥於東国(一)、死は曝(二)骸於南城(一)、まして奈落の薪底、想像こそ無慙なれ。前(さきの)内大臣(ないだいじん)父子、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡被(レ)斬、平家無(レ)残亡、山陽、山陰(せんいん)、四国、九国、静也ければ、国は国司に随、庄は領家の儘也ければ、都鄙の上下安堵せり。同七月九日午刻大地震なり。良久振て夥(おびたた)しなど云も愚也。同(おなじき)十二日に又地震あり。九日にはなほ超過せり。赤県中、白川の側、六勝寺、九重塔より始て、破傾き倒崩、大内中堂(ちゆうだうの)廻廊、園城寺(をんじやうじの)廻廊、法勝寺(ほつしようじ)阿弥陀堂も顛倒しけり。神社仏閣も如(レ)此なりければ、増て人屋の全きは一宇もなし。根本中堂(こんぼんちゆうだう)の常燈も、三燈は消にけり。大師手自石火を敲出して、炬し給へる一燈は不(レ)消けり。法滅の期には非ずして、臨時の災と覚えたり。同(おなじき)十四日に弥益々々震けり。堂舎の崩るゝ音雷の鳴が如し。塵灰の揚る事は煙を立たるに似たり。天闇光失、地裂山崩れければ、老少男女肝を消し、禽獣鳥類度を迷す。こは如何に成ぬる世中ぞやとて喚叫、(有朋下P689)被(二)圧殺(一)者もあり、被(二)打損(一)人も多し。近国も遠国も如(レ)此なりければ、山崩て河を埋、海傾浸(レ)浜、石巌破谷にころび、樹木倒て道を塞げり。洪水漲来ば岡に登ても助り、猛火燃近付ば河を阻ても生なん、只悲かりけるは大地震也。鳥にあらざれば空をも不(レ)翔、竜にあらざれば雲にも難(レ)入、心憂しとぞ叫ける。主上鳳輦に召て、池の汀(みぎは)に御座(ござ)あり。法皇は新熊野に有(二)御参籠(一)、御花進給けるが、人屋の倒けるに、人多く被(二)打殺(一)、触穢出来にければ、御参籠の日数不(レ)満けれ共、六条殿へ有(二)還御(一)。天文博士参集て、占文不(レ)軽と騒申。今夜は南庭に仮屋を立
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て御座(ござ)あり。諸宮諸院卿上(けいしやう)雲客(うんかく)の亭共も倒れ傾ける上、隙なく震ければ、車に召船に乗てぞ御座(おはしまし)ける。有(二)公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)(一)、可(レ)有(二)祈祷(一)之由、諸寺諸山に仰す。今夜の亥子丑寅時は、大地可(二)打返(一)と占申たりと云て、家中に居たる者は上下一人もなし。蔀遣戸を放ちて大庭に敷、竹の中、木の本にぞ居ける。天の鳴地の動度には、すはや只今(ただいま)こそ地を打返せと云て、女は夫に取付、少者は親祖父に懐付、貴賎上下高に阿弥陀仏(あみだぶつ)を申ければ、所々の声々夥(おびたた)し。八十九十の者共、未懸事は不(レ)覚とぞ申ける。余に少者年闌たる老人は、目眩心地損ずなど云て、被(二)振殺(一)者多し。謹で釈尊出世の時分を考るに、正像各一千年、末法一万年の其後こそ世は滅すべしなどいへば、後冷泉院の永承年(有朋下P690)中に末法に入て、僅(わづか)に百三十(さんじふ)余年也。遉今日明日とは不(レ)思つる者をとて、長きが泣をめきければ、若き者も音を立て叫。叫喚大叫喚の罪人も、角やと覚て夥(おびたた)し。文徳天皇(てんわう)斉衡三年三月、朱雀院天慶元年四月に、大地震ありと注せり。天慶には主上御殿を避給(たまひ)て、常寧殿の前に五丈の幄を立て渡らせ給けり。四月十五日より八月に至迄、打列震ければ、上下家中に不(二)安堵(一)と伝たれ共、其は見ぬ事なればいかゞはせん、今度の地震は上古末代類あらじと貴賎騒歎けり。平家の死霊にて世の可(レ)滅由申合り。昔も今も怨霊は怖き事也。蚤の息天に上と云事も有ぞかし。況万乗の聖主、玉体を西海の波底に沈、三公の忠臣、屍骸を北闕の獄門に懸たり。其外卿上(けいしやう)雲客(うんかく)、衛府諸司(しよし)、有官無官(むくわん)、軍兵士卒、男女老少、生霊死霊、怖し/\。就(レ)中(なかんづく)異国の例はそも不(レ)知、本朝には昔より為(二)卿相(けいしやう)(一)人、生ても死て
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も、大路を渡曝(二)頸於獄門(一)事なし。世中いかゞ成立んと申けり。
S4505 源氏等(げんじら)受領附義経任(二)伊予守(一)事
同八月十四日に、被(レ)行(二)除目(一)。源氏六人受領す。平氏追討賞とぞ聞えし。志田三郎先生義憲、任(二)伊豆守(いづのかみ)(一)。大内冠者維義越中守、上総太郎義兼上総介、加々美次郎遠光信濃守、遠江守(有朋下P691)義宗が男、兵衛尉義助越後守、九郎大夫判官(たいふはうぐわん)伊予守に任じけり。鎌倉源二位挙申に依也。大夫判官(たいふはうぐわん)は伊予守を賜はる上、院御厩の別当に成て、京の守護に候へとて、侍十人付られたり。判官思ひけるは、義経度々合戦に命を捨て、既(すで)に世の乱を鎮父の敵を亡す、私の宿意と云ながら国家の固也、これ莫大軍功に非や、而に関より東は云に及ず、京より西をばたばんずらんと思ひつるに、僅(わづか)に伊予一国没官の地、二十箇所知行せよとの源二位の所存、無(二)本意(一)と思けれ共、但重て思計ふ様ありなんと過ける程に、僅付たりける十人の侍も、兼て心を合たりければ、親の所労子の病悩など云て、皆東国へ逃下にけり。判官いとゞ不(二)意得(一)思ける程に、源二位判官を討んとて、関東に様々の計ありと、はと京都に披露ありぬ。何事のあらんずるやらんと、貴賎此彼にさゝめき合へり。建礼門院(けんれいもんゐん)は西国(さいこく)より上り、吉田にも仮に立入せ給と思召(おぼしめし)けれ共、五月も立六月も半過ぬ。今日迄もながらへさせ給べしと不(二)思召(一)(おぼしめさざり)けれ共、御命は限あれば、明ぬ暮ぬとしけるに、大臣殿父子の首、被(レ)渡(二)大路(一)被(レ)掛(二)獄門(一)、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)は奈良坂にて被(レ)切て、卒都婆に付てさらさる。彼人々の今は限に成給へる有様(ありさま)、人参てこま/゛\と申ければ、女院は御■(おんむね)せきて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず、しばしつや/\物をだにも不(レ)被(レ)仰けり。
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良(有朋下P692)在て、此人々帰上と聞召しかば、甲斐なき命計は助りぬるにやと思召(おぼしめし)けるこそ愚に思ひ侍れ、露の命消やらで、斯憂事を聞こそ責ての罪の報なれ、都近かりけるばかり心憂かりける事はあらじ、折に触時に随て、驚(レ)耳心を迷はすも、さすが生る身は口惜き事も多かりけり。露の命風を待らん程も、深山(しんざん)の奥の奥に思入ばやと思召(おぼしめし)けれ共、去べき便なくて過させ給けるに、さらぬだに住荒したる朽坊の、度々の地震に築地崩門も倒れぬ、いとゞ住せ給ふべき御有様(おんありさま)にも見えさせ給はず、憑もしき人一人も侍らず、地打返すべしなど聞召は、可(レ)惜御命にはなけれ共、只尋常の御事にて、消入ばやとぞ思召(おぼしめ)されける。緑衣の監使宮門を守るもなく、伴の御奴朝浄するもなし。心の儘に荒たる籬は、滋き野辺よりも猶露繁く、折知がほにいつしか虫の声々怨むも、我身の上とぞ思召(おぼしめす)。秋も既(すで)に半に欲す、夜もやう/\長くなる儘に、いとゞ御寝覚がちなれば、明し兼させ給けるぞ哀なる。
< 八月十七日(じふしちにち)に改元有りて文治と云。 >