『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十六

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勢巻 第四十六
S4601 南都御幸大仏開眼附時忠流罪忠快免事
文治元年八月二十七日(にじふしちにち)、法皇南都へ有(二)御幸(一)。公卿には花山院大納言(だいなごん)兼雅、堤中納言朝方、中山中納言頼実、衣笠中納言定能、吉田中納言経房、民部卿成範、藤宰相親信、平宰相(へいざいしやう)親宗、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経、殿上人(てんじやうびと)には雅方朝臣以下、皆著(二)浄衣(一)被(二)供奉(一)けり。伊予守義経、同著(二)浄衣(一)候す。御後随兵六十騎(ろくじつき)を相具せり。同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)、大仏開眼あり。亥刻に法皇有(二)臨幸(一)けり。左大臣経宗、権大納言(ごんだいなごん)宗家卿以下被(二)参入(一)けり。開眼師は僧正(そうじやう)定遍、呪願は僧正(そうじやう)信円、導師は大僧都(だいそうづ)覚憲也。同晦日弁暁権少僧都(ごんのせうそうづ)に被(レ)仰けり。開眼師定遍僧正(そうじやう)賞譲とぞ聞えし。
同九月二十三日、前平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)は、追立使信盛承て、能登国鈴御崎へ遣す。子息讃岐中将時実は、公朝が沙汰として周防国へ下す。平家僧俗の虜共、去五月に、配所を国々に被(レ)定ける内なり。父子後を合せ、西北境を隔つゝ、波路に流、雪中に赴けるこそ哀なれ。時忠卿(ときただのきやう)建礼門院(けんれいもんゐん)へ被(レ)申けるは、今は有甲斐無身に侍れ(有朋下P694)共、近く候て御鍾事をも承度侍るに、責ての罪重くして、今日都を罷出て、越路の旅に趣侍り、身の有様(ありさま)心中、只推量せ給べし、又いかなる御有様(おんありさま)にてか御座(おはしま)さんずらんと奉(二)思置(一)こそ行空も覚え侍らね、参りて今一度奉(レ)見度侍れども、心に任ぬ身不(レ)及(レ)力など、細か
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に被(レ)申たり。女院聞召(きこしめし)て、此人ばかりこそ昔の遺とて御座(おはしまし)つるに、さては遠国へ赴き給らんこそ悲けれ、逢見る事はなく共、都の中にありと聞召ば、憑敷こそ思召(おぼしめし)つるに、死ても別生ても別なん事こそと、いとゞ掻くらす御心地(おんここち)成ければ、坐に御涙(おんなみだ)ぞすゝみける。彼時忠と申は、出羽前司知信が孫、兵部権大輔(たいふ)時信息男也。故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御■(おんしうと)にて御座(おはしまし)しかば、高倉上皇には御外戚也。唐楊貴妃、玄宗皇帝に幸し時、■(しうと)楊国忠が栄しが如し。八条二位殿(にゐどの)も妹にて御座(おはしまし)しかば、太政(だいじやう)入道(にふだう)には兄公也、建礼門院(けんれいもんゐん)には伯父也。世覚時の■(きら)目出かりき。されば兼官兼職心に任、富貴(ふつき)栄花思の如。位正二位(しやうにゐ)、官大納言(だいなごん)に至り、子息時実時家中少将に成にき。太政(だいじやう)入道(にふだう)万事申合つゝ、天下を我儘に執行ければ、時の人平関白(へいくわんばく)とぞ申ける。検非違使(けんびゐし)別当にも三箇度(さんがど)まで成りけり、無(二)先例(一)事也。今暫も平家世にあらば、大臣は疑なからまし。此人心猛理つよに御座(おはしまし)ければ、庁務の時も様々の事張行て、強盗二十八人(にじふはちにん)が右の手を切給けり。昔悪別当恒成(有朋下P695)と云ける人こそ強盗の頸をば切りたりとも伝たれ。西国(さいこく)に御座時も、院より召次を被(レ)下。帝王并三種神器、都へ奉(二)返入(一)と仰遣たりしに、院使花方が頬に浪方と云火印を指、是は汝をするには非ずと申けり。法皇を申けるにや。故女院御ゆかりなれば、平家の一門悉官職を止られしか共、此卿父子をば不(レ)被(二)停止(一)、帰上給へば可(レ)被(レ)宥なれ共、懸る悪事を思召(おぼしめし)忘させ給はず、伊予守と親く成て其好深ければ、流罪をも申宥んと思けれ共、法皇の御気色(おんきしよく)も悪、源二位も免しなければ力及ず。軍の先をば不(レ)蒐ども、謀を惟幄の中に廻らし、兵を敵陣の前に勇る事、偏(ひとへ)
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に此人の結構(けつこう)なれば理なり。年闌齢傾きて妻子にも別れ、見送る人もなくて遠境に被(レ)遷けん心の中こそ無慙なれ。遥(はるか)に西海の波の底を免て、遂に北国の雪中に埋れけるこそ宿習とは云ながら哀には覚ゆれ。北方帥佐殿(そつのすけどの)は、何事も思入たる人にて、心づよく翫給へ共、遉遺の惜ければ、忍音にて泣給へば、其腹に今年十四になる息男あり。尾張侍従時宗と云。不(レ)斜(なのめならず)糸惜がり給けり。是を見置給(たまひ)て、還様知ず遠国赴事よと泣歎給へば、侍従も同道にと宣へ共、免しなければ其甲斐なし。既(すで)に都を出給、関山関寺打過て、志賀の故郷唐崎や、浦路に駒をぞ進めける。日吉社を顧ては、南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)七社(しちしやの)権現、願再故郷に返(有朋下P696)入給へと心計に祈念して、菜岡社を過ぎ給へば、比良の高峯に風寒て、湖水に波繁かりけり。蜑の釣舟波の上に漕つれて、網に懸れる魚難(レ)遁を見給にも、我身の上と哀也。浦人にこゝをば何所と云ぞと問給ふ。是こそ名にしおふ比良のすそ野の、竪田浦と申ければ、時忠卿(ときただのきやう)涙ぐみて、
  帰りこん事も竪田に引網のめにあまりたる我涙かな K246 
と最哀にぞ聞えける。其より湖水漫々と見渡して、浦々宿々(しゆくじゆく)打過つゝ、敦賀の中山遥々(はるばる)と、木間を分、岩根を伝て下けり。いつしか打時雨つゝ、嵐烈しては膚を徹し、木葉狼藉しては道を埋、荒乳山、木辺峠を越行ば、越の初雪踏分て、燧山、柚尾坂、越前国分、金津宿、蓮池、細呂宜山を越過て、加賀国須川社を拝しつゝ、篠原、安宅打過ぎて、日数ふれば能登国鈴の御崎に著き給。立渡見給へば、岩間に
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生たる浜松の、岸打波に顕れて、其根あらはに有けるを見給(たまひ)て、浮名を流す旅の空、打解寝入給はねば、我身の思になぞらへて、
  白波の打驚す岩の上にねいらで松の幾世へぬらん K247 
いとあはれにぞ聞えし。
門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)教盛卿(のりもりのきやう)の子息、中納言律師忠快も、配所を飛騨国(有朋下P697)に定められて、検非違使(けんびゐし)久世が許に被(二)預置(一)たりけるに、自(二)鎌倉源二位家(一)関東へ下給ふべしとて、袖かさたる四方輿に、力者(りきしや)十二人、并道の用心にとて、兵士あまた被(レ)上たり。こは何事ぞ、流人に定められたる者の、迎の体こそ難(二)意得(一)けれと、上下おもはずに思へり。律師も最不思議に思て、余(あまり)の事なれば、若人違にやと宣へ共、二位家の消息(せうそく)に、急可(レ)有(二)下向(一)、可(レ)入(二)見参(一)子細侍と判形し給へる分明の状成りければ、関東へ下給けり。近江国鏡宿より始て、宿々(しゆくじゆく)の設共丁寧也。既(すで)に鎌倉に下著して、角と申入たりければ、二位殿(にゐどの)急見参して宣(のたまひ)けるは、先御下向悦存し侍、抑御本尊に、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)や安置し給へると被(レ)問けり。律師さる事候と答。其本尊片手や折給へると宣へば、御手の折させ給へるとは不(レ)覚、奉(二)久納(一)、遥(はるか)に不(レ)奉(レ)拝、則これに持て奉れりとて、錦の御舎利袋より、紫檀を以造て、金銀を以かざりたる厨子を取出して、御戸を開て拝せ奉給へば、仏の荘厳心も言も及ばず。瑪瑙の地盤に、紺瑠璃を以て伽羅陀山をたたみ、水晶の花実に、琥珀の蓮華を葺けり。其上二三寸の地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)を安置
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せり。右に黄金の錫杖を突、左に如意宝珠を持給へるが、うでくび折懸りてぞ御座(おはしまし)ける。二位殿(にゐどの)奉(レ)拝(レ)之、はら/\と涙を流し、五体を地に抛入礼し給ふ。因幡守弘基を召て、厳重殊勝の御仏、拝(有朋下P698)給へと被(レ)仰ければ、弘基同拝をなす処に、二位殿(にゐどの)物語(ものがたり)に宣はく、去比有(レ)蒙(二)霊夢(一)、錫杖つきたる貴僧の容貌うつくしきが、我枕上に立給(たまひ)て、平家門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)の子息、律師忠快と申をば、此僧に免し給へかし、年来深く我を相憑める僧に侍り、不便に覚ゆと被(レ)仰しを、夢の心地に、此御房は地蔵よなど意得たりしかば、承候ぬと申聞給(たま)ひ、返々本意也とて御飾つくろはせ給ふが、左の御手の折れ給へるをよに痛気にせさせ給と奉(レ)見間に、あの御手はいかにと問申せば、西海の船にて、忠快を助け乗せんとせし時に、左の手を■(あやま)りてと仰すと示現を蒙る、末代なれ共加様に威験の御座(おはしま)しける御信心の程こそ目出貴けれと宣へば、弘基も感涙を流して、難(レ)有御事にこそと申けり。律師宣(のたまひ)けるは、都を出て三年、宿定らぬ旅なれば、心閑に奉(レ)拝(二)相好(一)隙も候はず、されば御手の折給へるも争か存知候べき、御尋(おんたづね)につきて候はずば、何としてか左様に御渡り候べきと、よに不審に候つるに、御夢に思合する事候。先帝太宰府に御座(おはしま)しし時、尾形三郎維義が三万(さんまん)余騎(よき)にて責来しに、奉(レ)始(二)主上(一)、周章(あわて)騒船に乗候しに、悪様に乗て、已水に入ぬべく侍しを、下僧の一人来て助乗せて後に、忠快は船にあり、下僧は陸に立て、右手を以て左の腕を拘たりしを、あれは如何にと問ば、悪様に参て手を損じて候へども、事闕候は(有朋下P699)じと申しを、汝は誰人の共ぞと尋しかども、船は急漕出。人は多く阻し程に、返事を聞
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事もなかりき。今の御夢相を承るに、はや是ぞ地蔵の御助にてと、語りも終ず衣の袖を絞りけり。二位殿(にゐどの)もいとゞ帰依の涙を流し給ふ。二位家の北方も、簾中にして聞(レ)之拝給、信心骨髄に徹し、衣小袖を取出して、殊更供養有ければ、女房達(にようばうたち)も取渡々々奉(レ)拝。小袖、染物、鏡、手箱等しな/゛\奉。二位殿(にゐどの)も、砂金百両、巻絹百端、馬三匹を被(レ)引ける也。十二間の内侍外侍に候ける大名も小名も、馬鞍、鷲羽、鷹羽、衣、染物、取寄々々供養しければ、誠に一の法事とぞ見えたりける。則仏師を被(レ)召御手をつぎ奉る。鎌倉中の貴賎男女競来りて、礼拝供養する事市をなせるが如し。偖二位殿(にゐどの)宣(のたまひ)けるは、都へ帰上給べきか、鎌倉に被(レ)坐よかし、縦何所に御座(おはしまし)候とも、頼朝(よりとも)が生たらん程は、如何にも不(レ)可(レ)有(二)粗略(一)と聞えければ、律師は、懸浮者に成ぬれば、いづくにも侍べけれ共、花洛の東山なる所に、一人の老母候が自が外は憑む方なく候へば、罷上度存候。其上静ならん処に隠居して、練行の功をも積度侍り、此事本望に候へばとて、鎌倉を出給けり。本知行の領、一所も違ず有ける上に、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)供養の布施物の外、種々(しゆじゆ)の引出物たびけり。只非(レ)遁(二)流罪(一)、依(二)信力恩徳(一)、大徳付てぞ上給。既(すで)に上洛有ける(有朋下P700)に、二位殿(にゐどの)より角書送り給けり。
  みちのくの里は遥(はるか)に遠くとも書尽してぞつぼの石ぶみ K248 
地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)の大悲代苦の悲願憑敷哉忠快は、西海の波上にしては沈べき命を済れ、東路の旅の空にしては、難(レ)遁身を被(レ)助たり。
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S4602 女院入(二)寂光院(一)事
同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)、建礼門院(けんれいもんゐん)、大原(おほはら)の奥に寂光院と云ふ所へ入せ給けり。都近しては心憂事のみ聞召ば、片山陰(かたやまかげ)の柴庵なりとも、御心閑にと日比(ひごろ)思召(おぼしめし)けるに、ある女房のゆかりにて角と申ければ、嬉き事にこそとて思立せ給けり。冷泉大納言(だいなごん)隆房(たかふさ)の北方は御妹にておはしければ、御輿などは被(レ)進けり。大方も西海より御上の後は、様々に被(二)訪申(一)けり。此人の憐にて、角有べしとは兼ても不(レ)思者をとて、難(レ)有さも嬉さも、人わるきまでにおぼし知られけるに付ても、御涙(おんなみだ)をぞ流させ給ける。いと人も不(レ)通谷道を、遥々(はるばる)と分入せ給へば、山陰(やまかげ)なればにや日も既(すで)に暮なんとす。道芝深く茂りつゝ、分入御袖も露滋して、思召(おぼしめし)残す事一もなし。西山の麓北谷奥に寂光院と云堂あり。其傍に怪げなる(有朋下P701)庵室有、年へにけりと覚て痛荒たり。彼へぞ移せ給ける。古にける石の色、落来水の音、緑蘿窓を閉紅葉道を埋り。絵に書共筆も及難ければ、由ある体にぞ御覧じける。いつしか空掻陰り打■(うちしぐれ)つゝ、木葉乱飛鹿の音軒に聞ゆ。嵐に伝ふ鐘の音、風に消行香煙、板間を漏る月光、窓に怨虫の声、何も無常の理を示、偏(ひとへ)に有為の有様(ありさま)を顕せり。かゝらざらましかば、唯朝露の快楽に被(レ)覊、暮日の終焉を不(レ)知ましと思召(おぼしめし)つゞけて、仏前に詣給(たまひ)て、出離生死頓証菩提と、突(レ)額奉(レ)拝給けるにも、先帝御面影、夢にも非現にもあらで御身に添ければ、御心迷ひて消入せ給ぬ。女房達(にようばうたち)拘奉り泣悲み給けるに、やゝ程経て後ぞ御心地(おんここち)も出来にける。
S4603 頼朝(よりとも)義経中違事
伊予守義経、源二位頼朝(よりとも)を背由、此彼にさゝやき合り。兄弟なる上に父子の契にて、殊に其好み深し。
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依(レ)之(これによつて)去年正月に、木曾(きそ)義仲(よしなか)を追討せしより、重(レ)命捨(レ)身、度々平家を攻落して、今年終に亡果ぬ。一天鎮て四海澄ぬ。勲功無(レ)類、可(二)恩賞深(一)処に、如何なる子細にて懸るらんと上下怪をなす。此事は、去年八月に蒙(二)使宣(一)、同九月に五位大夫(有朋下P702)に成けるを、源二位に申合事なし、何事も頼朝(よりとも)が計にこそ依べきに、仰なればとて不(二)申合(一)条自由也。又壇浦の軍敗て後、女院の御船に参会条狼藉也、又平(へい)大納言(だいなごん)の娘に相親む事無(レ)謂、旁不(レ)得(レ)心宣て、打解まじき者也と被(レ)思けるに、梶原平三景時が、渡辺の船汰の時、逆櫓の口論を深遺恨と思ければ、折々(をりをり)に讒す。平家は皆亡ぬ、天下は君の御進退なるべし、但九郎大夫判官殿(たいふはうぐわんどの)ばかりや世に立んと思召(おぼしめし)候らん、御心剛に謀勝給へり、被(二)一谷(いちのたに)落(一)事鬼神の所為と覚えき、川尻の大風に船出給し事人の所行と覚えず、敵には向ふとは知て一足も不(レ)退、誠に大将軍哉と怖しき人にまします、尤の心え有べし、一定御敵とも成給ぬと存と申ければ、頼朝(よりとも)も後いぶせく思なりとて、追討の心を挟給へり。三浦、佐々木、千葉、畠山等多く参集たりける中に、鎌倉殿(かまくらどの)仰けるは、九郎が心金は怖き者也、西国(さいこく)討手の大将軍に誰をか可(レ)立と思しかば、両三人を呼心根見んとて、提絃を焼て、手水かけて進せよと云しかば、始は蒲冠者参て手を焼、あと云て退ぬ。二番に小野冠者来て、是も手あつしとて除ぬ。三番に九郎冠者、白直垂に袖露結肩に懸て、彼焼たる提絃を取て、顔も損せず声も出さず、始より終まで、手水を懸通したる者也。あはれ是を今度の大将と思て、都へ上せ西国(さいこく)へ指下たれば、木曾(有朋下P703)と云平家と云、三年三月の戦に、九郎
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冠者先をのみ蒐けれ共、終にうす手一つも負ず、平家を誅罰して、天下を鎮たるは神妙(しんべう)なれ共、頼朝(よりとも)にかさみて見ゆ。頼朝(よりとも)〔が〕父下野殿は平家討給ぬ、依(二)当腹(一)、十三歳の時六条川原にて可(レ)被(レ)切と有しを、池尼御前の垂伏依(レ)被(レ)申死罪を被(レ)宥、始は伊勢国(いせのくに)御座島にうつされ、是は都近とて、其より東路の末、伊豆国(いづのくに)北条蛭小島に移されて、廿一年さて過ぬ、軍功をいたして花洛へ責上たれ共、未昇殿をだにも免されざりき、何弟の身として、仙洞の御気色(おんきしよく)よければとて、頼朝(よりとも)に不(二)申合(一)、推て五位尉になる事奇怪也、又立ふぢ打たる車に乗、禁中花色の振舞、以外に過分也、頼朝(よりとも)にかさみて見ゆ、我を我と思はん人々、九郎冠者を打てたべと宣(のたま)ひけれ共、閉(レ)口是非の返事申人なし。鎌倉殿(かまくらどの)良相待給へ共、無音の間腹立して、いや/\此中には誰々と云とも、梶原計ぞ侍らん、景時都に上て打て進せよと仰す。梶原心中に思けん、人の上に被(レ)仰事かなと存じたれば、身の上に懸れり、今度は景時遁ばやと思て御前に参、袂(たもと)掻合て、仰の旨なれば、東は駒の爪の通、西は艫棹の至らんまでも可(レ)攻に侍れ共、判官殿(はうぐわんどの)の討手に景時上洛、然べし共不(レ)覚、梶原罷上らば、今明の上洛不(レ)得(二)其意(一)、義経に中悪き者也、追討使を所望して上にこそと被(二)推量(一)なば、還て逆打に討れぬと覚候、人(有朋下P704)を不(レ)損して敵を亡こそよき謀にて候へば、只思懸なからん人に被(二)仰付(一)たばかりて安々と討給へと申して、辞退申して出ぬ。秩父、河越、三浦、鎌倉、高家も党も、不(レ)悪者こそ無けれ。
鎌倉殿(かまくらどの)良案じて、土佐房昌俊を召て事の心を被(二)仰含(一)、九郎を討て進よ、大名などを指上ば、さる者にて
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心得(こころえ)ぬと覚ゆ、和僧は本奈良法師なれば、七大寺詣と可(二)事寄(一)と仰す。仰承て即御前を立ぬ。此昌俊と云は、本大和国(やまとのくにの)住人(ぢゆうにん)なるうへ奈良法師也。当国に針庄とて西金堂の御油料所あり。不慮の沙汰出来て、当庄代官小河四郎遠忠と云者が、西金堂衆に敵して、興福寺(こうぶくじ)の上綱に侍従律師快尊を相語て、年貢所当を打止間、堂衆又昌俊を語ひて大勢を引率し、針庄に推寄て遠忠を夜討にす。快尊又大衆を語ひて、土佐房を追籠て、春日神木をかざり洛中へ奉(二)振入(一)、昌俊を可(レ)被(二)禁獄(一)之由、為(二)奏聞(一)。大衆発向之処に、昌俊数多凶徒等(きようとら)を卒して、衆徒会合を追払、春日神木を奉(二)伐捨(一)。大衆憤深して、就(レ)経(二)天奏(一)昌俊を召けれども、敢て不(レ)従(レ)勅、依(レ)之(これによつて)衆徒之訴訟雖(二)鬱深(一)、両方の理非未(二)聞召開(一)、急企(二)参洛(一)被(レ)申(二)道理(一)者、可(レ)有(二)聖断(一)之由。被(二)宥仰下(一)ければ、昌俊即上洛す。可(二)召誡(一)之旨仰(二)別当兼忠(一)。昌俊を召捕て、大番衆土肥次郎実平に被(レ)預けり。月日を送りける程に、心様甲斐甲斐敷者なりければ、(有朋下P705)実平に親くなりぬ。随又公家にも御無沙汰なりけれ共、南都は敵人強ければ、還住せん事難治にて、実平に相具して関東に下、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に奉公す。心際不覚なしとて、身を不(レ)放召仕給けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)治承の謀反の時、昌俊二文字に結び雁の旗を賜たりけるとかや、去ば本南都の者なり。七大寺詣と号して指上す。
S4604 土佐房上洛事
同(おなじき)二十九日に、土佐房鎌倉を立て、十月十一日に京著、佐女牛町に宿を取。義経が宿所中四町を隔たり。昌俊上洛と聞ども源二位の状なし、昌俊不(二)見来(一)、伊予守子細を存ぜり。同(おなじき)十月十七日(じふしちにち)に、伊予守
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義経、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経を以申入けるは、命(二)糸綸(一)趣(二)千里之路(一)、交(二)矢石(一)忘(二)万死之命(一)、討(二)平氏(一)雪(二)父恥(一)、偏(ひとへ)に義経功也、我君争不(レ)被(二)抽賞(一)哉、頼朝(よりとも)又可(レ)加(二)殊恩(一)之処に、悉奪(二)取所領(一)之上、忽(たちまち)に欲(レ)令(二)誅殺(一)之間、進退失(レ)歩、前後迷(レ)度。枉下(二)賜官府(一)、暫欲(レ)全(二)身命(一)、若無(二)勅許(一)者、早可(二)自害(一)と申ける。詞中に奥旨ありければ、法皇殊驚思召(おぼしめし)て人々に被(二)仰合(一)けり。義経上洛の後、北国の凶徒(きようと)を誅して洛中安堵し、西海の逆賊を亡して天下静謐せり、随(二)所望(一)頼朝(よりとも)が憤憚あり、背(二)彼命(一)義経(有朋下P706)可(レ)懐(レ)恨、いかゞ有べきと。左大臣経宗被(レ)申けるは、為(レ)免(二)其難(一)、云(二)平将(一)云(二)義仲(よしなか)(一)、皆任(二)申謂(一)、被(二)成下(一)畢、限(二)今度(一)被(レ)惜無(レ)益歟、後日に頼朝(よりとも)に被(二)謝仰(一)、何胎(二)腹心(一)哉と被(二)計申(一)ければ、従二位(じゆにゐ)源朝臣頼朝卿(よりとものきやう)を可(二)追討(一)之由、被(レ)下(二)官府(一)ける上、九国四国之勇士、可(レ)従(二)義経行家下知(一)、兼又不(レ)論(二)国衙(こくが)庄園(一)、可(レ)備(二)調庸(一)之由、被(レ)成(二)下庁下文(一)けり。同日に伊予守土佐房を召す。随(レ)召昌俊参。いかに何事に上洛ぞ、など又音信(おとづれ)は無ぞと問。昌俊畏て、且被(二)知召(一)たる様に、本奈良の者にて候が、宿願事侍れ共、近年源平の合戦に打紛て不(レ)遂(二)其願(一)、彼を果さん為に、七大寺詣の志候て罷上て候、明日罷立候間、取乱候へば、奈良より罷上て、心静にと相存ずるに候と申。伊予守嘲咲て、和僧が上洛全非(二)七大寺詣(一)、義経夜討料也、大名などを上せば、九郎用心して天下煩にも成なん、又逃隠事も有べし、和僧奈良法師也、事を七大寺詣と披露して義経討との謀ぞや、和僧、源平糸を乱せるが如く、士卒似(二)蜂起(一)、然共義経上洛後、両年間に亡(二)凶徒(きようと)
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(一)鎮(二)海内(一)、夜討にせんと思寄条頑也、即雖(レ)可(二)召誡(一)、和僧が勝に乗ざる前に、義経手を出ならば、兼て臆病也と後の世までも及(二)口遊(一)事似(レ)恥、且又舎兄源二位の使也、争可(レ)無(二)芳心(一)、随(レ)召参上神妙(しんべう)と云。土佐房陳申て云、全其義侍らず、(有朋下P707)為(レ)散(二)不審(一)起請文を書進せんと云。伊予守は、起請を書たればとて不(レ)可(レ)実、其上事和僧が心任よといへば、昌俊其辺より、熊野牛王尋出して、其裏に上天下界神祇奉(二)勧請(一)、起請文書灰に焼て呑、宿所に帰て思けるは、起請は書たれ共、今夜不(レ)計ば悪かりなんと思て、夜討支度しけり。伊予守は、其比磯禅師が娘、禅と云白拍子を思けり。女に語て云、此晩程よりいと心騒頻也。一定昼の起請法師が夜討に寄んと思ふなりといへば、禅、大路は塵灰立て、何となく人足いそがし、不(レ)可(二)打解給(一)と申。太政(だいじやう)入道(にふだうの)禿童を二人召仕ければ、土佐房が宿所見て帰れとて、彼を遣侍共々々不(レ)見。亥時終程に半物を召て、日比(ひごろ)の寝夫を尋る由にて遣(レ)之。十七日(じふしちにち)の夜半の事なれば、月は隈なく照たり。女程なく帰て大息突申けるは、御使禿童と覚しきは、二人ながら土佐房が宿所の小門に死臥たり、暁大仏詣とて、大庭に大幕引、其中に鞍置馬四五十匹ばかり引立たり、鎧物具(もののぐ)身に取付て手綱を把、鞍に手打懸て、只今(ただいま)乗んずる様に候と云ぞ遅き、土佐房昌俊并児玉党等六十余騎(よき)、十七日(じふしちにち)子刻に、伊予守義経の六条堀川(ほりかはの)宿所に押寄て、時の声を発す。館内には不(レ)処事なれば、義経を始として纔(わづか)七騎ぞ有ける。伊予守時声を聞、さればこそ起請法師が所為也、但其僧は尤からず、何事か有べきとてちとも不(レ)騒。禅、者(有朋下P708)をばあなどるまじき事也とて、
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冑を取て打懸、灸治し乱て労の折節(をりふし)成けれ共、鎧小具足取付て、縁の際に立出て、門を開と下知す。舎人馬を待儲たり。義経馬に乗て蒐出。今日近来、日本国(につぽんごく)に誰かは義経を思懸べき、況昌俊法師をや、あますな者共とて、竪横散々(さんざん)に蒐ければ、木葉を嵐の吹様に、さと左右へぞ散たりける。伊予守、引退て指詰々々射ければあだ矢なし、寄手も矢前(やさき)を汰へて射けり。源八兵衛尉広綱は、内甲を鉢付の板に射付られて、馬より落て死にけり。熊井太郎は、膝節いさせて死生不(レ)定也。義経敵の中に懸入て、あますな射取れと下知しける上、郎等共(らうどうども)此彼より馳集ければ、昌俊が軍敗て、河原を指て逃走る。行家此事を聞馳来ければ、夜討の党類弥四方に敗散。昌俊は川原を上に落けるを、其僧あますな若党とて、義経は暁天に院(ゐんの)御所(ごしよ)へ馳参ず。甲の上に矢多く折懸たり。胡■[*竹冠+録](やなぐひ)に矢纔(わづか)に三筋ぞ残たりける。猛将の条は人の所(レ)知、世の所(レ)免なれ共、其気色実にゆゝしかりければ、人称美しあへり。昌俊は大原路(おほはらぢ)にかゝり、竜華厳を志、北山を指て落けるが、軍兵二手三手(みて)にさし廻し、先を切て延やらず、昌俊大原(おほはら)より薬王坂を越、鞍馬山に逃籠。伊予守児童の時、当時居住の好ありて、大衆法師原(ほふしばら)、山踏して尋ける程に、鞍馬奥僧正(そうじやう)が谷と云所にて搦捕、伊予守に奉。大庭に引居て、(有朋下P709)いかに和僧は、腹黒なしと起請書ながら、加様の結構(けつこう)をば巧けるぞ、冥覧在(レ)頂、神罰不(レ)廻(レ)踵、奇怪々々と云ければ、土佐房今は助るべき身に非と思て及(二)悪口(一)。夜討は二位家の結構(けつこう)、起請は昌俊が私の所作也、必しも非(二)冥罰(一)、只自然の運の尽にこそ、互に其期あるべきと云。伊予守腹を立て、しや頬打とて、つら
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を打せたりければ、昌俊不(レ)振(レ)面不(レ)損(レ)顔、只飽まで打給へ/\、昌俊が顔我つらにあらず、是は源二位家の御頬也、此代には又鎌倉殿(かまくらどの)、伊予守殿の顔を打給はんずれば、思合給はんずらんと申す。伊予守から/\と打笑つて、和僧が志誠に神妙(しんべう)也、主を憑むと云は角こそ有べけれ、召人なれ共、土肥が親く成けるは宣く理なりと感じて、命惜くば助ん、二位殿(にゐどの)へ参れと云ければ、昌俊取替もなき命を奉て、鎌倉を立し日より、生て可(レ)帰と不(レ)存、夜討し損じ虜れぬる上は、非(下)可(二)申請(一)命(上)、芳恩には急頭をめせと申。伊予守以下侍共感じ申けり。さらば切れとて、六条川原に引出して、京者の中務丞友国と云者切てけり。伊予守二位家よりあまた人を付たりける内、安達新三郎清経と云雑色あり、下揩ネれ共能者也。旗指にせよとて付られたりけれ共、実には、九郎冠者謀叛をも発頼朝(よりとも)を背ば、急告よとの検見(けんみ)の使也ければ、土佐房が被(レ)討を見て、清経其暁鎌倉へ逃下て、二位殿(にゐどの)に角と申け(有朋下P710)れば、あゝ九郎は頼朝(よりとも)が敵にはよく成にけり。今は憚るべからずとて、弟に三河守範頼を大将軍にて、六万騎の兵を相副て、可(二)上洛(一)之由被(レ)申ければ、範頼既(すで)に出立て、小具足計にて、熊王丸に甲持せて二位殿(にゐどの)に見参し給ふ。和殿とても非(レ)可(二)打解(一)、九郎が様に二の舞もやと存ずれば、上洛事暫可(二)相計(一)と宣ふ。三河守小具足解置、努々不(レ)存(二)其義(一)、可(二)起請仕(一)とて、不(レ)可(レ)奉(レ)背之由、梵天帝釈下奉て、百日に百枚之起請文を書上たれ共不(レ)用して、範頼暫被(レ)宥けり。為(二)義経誅戮(一)、北条四郎時政、土肥次郎実平、可(二)上洛(一)之由有(二)評定(一)。
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S4605 高直被(レ)斬並義経申(二)庁下文(一)附義経惜(二)女遣(一)事
同(おなじき)十一月一日肥後国住人(ぢゆうにん)原田大夫高直被(レ)切けり。是は此三箇年の間平家に付て、度々合戦に勲功ありしかども、平家滅亡之後は安堵し難うして、命ばかりもやと思て、頸を延て降人に下たりけれども、源家敵対の罪科難(レ)遁とて、かく被(レ)行けり。
同(おなじき)二日伊予守義経、法皇の御所六条殿に参ず。何となく見人上下恐を成してひそまる気色なりけるに、思よりも閑にして、忍やかに大蔵卿(おほくらのきやう)泰経朝臣に案内したりければ、出合有(二)対面(一)け(有朋下P711)るに、義経畏て申様、源二位頼朝(よりとも)が度々の奉公をば忘れて、無(レ)由悪思事更に不(レ)得(二)其意(一)、無(二)其誤(一)由聞や直すと思候へども、弥にこそ承侍也、今は思切て京都にて如何にも可(レ)成候に、君の御為にも人為にも煩あるべし、西国(さいこく)の方へ可(二)罷下(一)由思立侍り、可(レ)然は豊後国住人(ぢゆうにん)惟妙、惟義等が許へ、始終見放さず可(二)合力(一)由、院庁御下文申給候なんや、宸襟を奉(レ)休、度々の軍功争可(レ)被(二)思召(おぼしめし)捨(一)、最後所望唯此事に侍と掻詢(かきくどき)申ければ、泰経奏聞す。法皇聞召、御進退の間思召(おぼしめし)煩て、即以(二)泰経(一)殿下に申る。左大臣に被(レ)仰、又蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)定長(さだなが)を御使にて右大臣に仰す。各計申されけるは、洛中にて合戦に及ば、朝家の御大事(おんだいじ)も出来すべし、軍士を外土へ被(レ)出事穏事にこそと被(二)奏申(一)ければ、任(二)申請(一)庁御下文を被(レ)成にけり。義経畏つて賜(レ)之出ぬ。
同日の夕べ夜に入て、義経最後の別を惜つゝ、女の許へ行けり。前平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の娘也。月比は志深通けれ共、源二位に中悪くなる由披露の後は、此女房にも不(二)打解(一)、平家を亡時忠を虜りたりしに、
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文箱を乞はん料に、不(レ)意情を籠しばかりなり。女成とも義経をばよき敵とこそ思らめなればとて、かれ/゛\に成たりけるが、都を落なん後は、再云通はさん事も有まじ、行て事の様をも見聞んと思て、忍て彼宿所の垣根にたゝずみ聞けれ(有朋下P712)ば、かたへの女房に物語(ものがたり)すとて、伊予守は源二位に中悪く成て、都を出べしと聞ゆ、世をつゝみて云事も無やらん、一夜の契疎ならず、遉積ぬる月日なれば難(レ)忍侍る、などや音信(おとづれ)ざるらん、うらめしくも人の心強面かりけりとて、
  つらからば我もろ共にさもあらでなど浮人の恋しかるらん K249 
と打詠じてさめ/゛\と泣けり。伊予守聞(レ)之、心替りはなかりけりと哀に思ければ、今夜は爰(ここ)に留て、以来向後の物語(ものがたり)、互に袖を絞ける。女房云けるは、母には死て別ぬ、父には生て別ぬ、無(レ)便身也、誰哀を懸べし共不(二)思侍(一)、可(レ)然先世契にこそ近付侍らめ、如何なる有様(ありさま)に御座とも相具し給へと歎給(たまひ)けり。伊予守は、実にさるべきにこそ侍れ共、義経源二位に中違ぬる上は、日本国(につぽんごく)誰か敵にあらざるべき、今は身一の置所(おきどころ)なければ、何方へも可(二)落忍(一)、如何ならん末代までもとこそ思侍しに、心に任ぬ身の憂さよ、奉(二)留置(一)後、いかならんと兼て思こそ心苦しけれとて、衣々になる暁の空、出るも留るも、さこそ遺は惜かりけめ。
S4606 義経行家出(レ)都並義経始終有様(ありさま)事(有朋下P713)
同三日卯時に、義経院(ゐんの)御所(ごしよ)六条殿に参て大庭に跪き、事の由を奏す。赤地錦の直垂に、萌黄の糸威の鎧を著たり。よろづを慎て、都鄙の逆党を平て一天の安全をなす、義経有(二)勲功(一)無(二)邪返(一)、爰(ここ)に頼朝(よりとも)
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軍兵を指上て追討の企を起す、速に時政、実平を待得て雖(レ)可(レ)決(二)雌雄(一)、都煩人歎たるべし、依(レ)之(これによつて)只今(ただいま)洛中を罷出処也、今一度可(レ)奉(レ)拝(二)竜顔(一)由雖(二)相存(一)、其体異形也、非(レ)無(二)其恐(一)、命存へん程は、当時と云向後と云、更不(レ)可(レ)奉(レ)背(二)勅定(一)と申たりければ、聞(レ)之人々、或憐或惜けり。即罷出けれ共、少も人の煩をなさず。備前守行家、同打具して都を出。彼此が軍兵、見人数へければ三百騎(さんびやくき)ぞ有ける。凡義経京中守護間、有(レ)威不(レ)猛、有(レ)忠無(レ)私、深不(レ)背(二)叡慮(一)、遍相(二)叶人望(一)ければ、貴賎上下惜み合りけるに、懸事出来たれば、男女大小歎けり。今度の奏聞次第の所行、荘士の法を不(レ)乱ければ、生ては被(レ)嘆死ては被(レ)忍けり。八幡の伏拝の所にて、義経馬より下(おり)、■(かぶと)をぬぎ、弓脇に挟て跪き申けるは、忝八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は源氏氏神とならせ給ふ、本意を申せば、高祖父頼義(らいぎ)蒙(二)夢告(一)、怪傀儡腹に男子をなす、則八幡の宮に奉て、八幡太郎(はちまんたらう)と世に申伝たり、一天の固として鎮(二)四海(一)、而を近年平家の逆乱さかりになりし間、源氏跡を失事二十一年也。今又平家の宿運尽て源家世を取、中に木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)、朝威を(有朋下P714)挿絵(有朋下P715)挿絵(有朋下P716)軽しめ過分の故に、義経手を下して義仲(よしなか)を誅す、是義経が奉公の始なり。加之四国九州に赴て、若干の平氏を誅戮し畢。此に雖(二)無(レ)誤無(一)(レ)犯、舎兄頼朝(よりとも)が讒訴について、今義経行家都を罷出。譬ば岸の額に離(レ)根草、江頭に不(レ)繋舟の如し。一門一味にして世をとりし平家も、運尽る日は一人もなし。賢しといへ共、頼朝(よりとも)心狭くして、一人世を知んと思事、神慮実に難(レ)測、大菩薩(だいぼさつ)はいかゞ守らせ給らん、今は今生の望候はず、本地弥陀にておはすなれば、後生をば助給へとて、
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指を折て南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)と百返計申て、立様に口ずさみけるは、
  思より友をうしなふ源の家にはあるじ有べくもなし K250 
と云、合(レ)掌伏拝て立程に、伊予守義経備前守行家、源二位に中悪くて、時政実平討手の使として上洛の間、両人西国(さいこく)へ落下と披露有ければ、関東の聞えを恐れ、源二位に志ある在京の武士、馳重馳重是を射けれ共、散々(さんざん)に蹴破て西を指て落行。摂津国(つのくに)源氏多田(ただの)蔵人行綱、大田太郎、豊島冠者等千余騎(よき)の勢を引具し、当国中小溝と云所にて陣を取、矢筈を揃て射けれども事共せず、追散して通にけり。大物が浜より船に乗て九国に下、尾形三郎惟義を憑て支へて見ん、其猶不(レ)叶ば、鬼界、高麗、新羅、百済までも落行んと(有朋下P717)思けれ共、折節(をりふし)十一月の事なる上、平家の怨霊や強けん、度々船を出けれども、波風荒うして、大物が浦、住吉(すみよしの)浜などに被(二)打上(一)て、今は不(レ)及(二)於出(一)(レ)船、敵の兵は追続々々に馳来。可(レ)遁様なかりければ、三百(さんびやく)余騎(よき)の者共も、思々に落にけり。義経、行家其行方を不(レ)知。都より相具したりける女房達(にようばうたち)も、此彼に被(レ)捨て、浜砂に袴を踏漉、松木の本に袖を片敷て泣臥たりけるを、其あたりの人憐みて、都の方へ送けり。白拍子二人、礒の禅師ばかりぞ義経に付て見ざりける。何者(なにもの)か読たりけん、義経が宿所六条堀川(ほりかはの)門柱にかく、
  義経はさてもとみつる世中にいづくへつれて行家をさは K251 
同(おなじき)十二日、太宰権師経房卿奉(レ)仰て、美作(みまさかの)国司に仰けるは、源(みなもとの)義経同行家、巧(二)反逆(一)赴(二)西海(一)、
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去六日に於(二)大物浜(一)、忽逢(二)逆風(一)漂没之由、雖(レ)有(二)風聞(一)、亡(レ)命之条非(レ)無(二)独疑(一)、早く仰(二)有(レ)勢武勇之輩(一)、尋(二)捜山林河沢之間(一)、不日に可(レ)令(レ)召(二)進其身(一)とぞ院宣を被(レ)下ける。昨日は依(二)義経競望(一)、可(レ)追(二)討頼朝卿(よりとものきやう)(一)之由被(レ)下(二)宣旨(一)、今日は恐(二)頼朝(よりとも)威勢(一)、可(レ)捕(二)進義経(一)、之由被(レ)下(二)院宣(一)、朝に成て夕に敗、誰人か信(二)綸言(一)、何輩か帰(二)勅命(一)。さればにや、成頼卿は好(二)文章(一)其性廉なり、親範卿は伝(二)文書(一)熟(二)公事(一)、各遁(レ)世為(レ)臥(二)雲侶(一)(有朋下P718)不(レ)出(二)大原(おほはらの)幽澗(一)。隆季卿は雖(レ)生(二)素■(そざんの)家(一)、頗為(レ)膚(二)文臣(一)、早く以没す。長方卿は大才無(レ)双、文章相兼たり、殆不(レ)恥(二)上古名臣(一)、寄(二)事於素意(一)、剃(二)落鬢髪(一)。悲哉君子道消て小人諍進ことを。最哀。彼義経と云は、母は九条院雑司常葉ぞかし。故下野守左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)に相具して、三人の男子をなす。義朝(よしとも)平治の兵乱に、云に甲斐なく成し後、大弐清盛(きよもり)の許より使を立て常葉を尋ければ、さ思つる事也、中々に逃隠ても悪かりなんとて、十歳に未(レ)満子共三人掻持て、泣々(なくなく)清盛(きよもり)に逢たりけり。容貌事様より始て、振舞心立に付て思増様なりければ、情ある女なりとて、清盛(きよもり)通ける程に、女一人儲たり。廊の御方とて、花山院内大臣(ないだいじん)の北方にて御座(おはしまし)ける。姉公(こじうと)の体に候はれけるは是也。清盛(きよもり)心に情ありて、彼継子三人を憐、中々に披露あるまじ、我子といはんとて、各法師になれとて、教訓しければ、常葉悦て、太郎をも法師になして、後には鎌倉の悪禅師といはれき。次郎をも僧に成て公暁と云き。三郎は義経ぞかし。稚より鞍馬寺に師仕せさせて、遮那王殿とぞ云ける。学文などせんと云事なし。只武勇を好て、弓箭、太刀、刀、飛越、力態などし
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て谷峯を走、児共若輩招集て、碁双六隙なかりければ、師匠も持あつかひて過ける程に、十六に成ける時の正月に、師の僧の云けるやう、今は僧に成て父の後生をも(有朋下P719)弔給へかし、男にならんと思志なんどおはするか、さらば此世中に非(レ)可(二)御座(一)、世になからんに取ては、男の義有べくもなしなんど、懇に語ける時、此児打笑て答様、僧は聖教を読学し、書籍を伝習たるぞさる様にてよけれ、加様の文盲の身にては、法師に成たり共非人にてこそあらめとて、いと心入なかりける気色を見て、此僧の申ける様は、人の果報は凡夫不(レ)知事也、如何にも覚さん儘に、■(はふ)方へ■(はひ)給へとて、笑て止にけり。さて七八日、此児物思ふ様にて有ければ、彼師怪と思て慰けりとする程に、少くより持習たりし弓矢をとり、夜の間に児失にけり。東西尋けれ共、児みえず、母の常葉も同尋けり。其年の二月に、此師の弟子なりける僧の、尾張より上たりけるが、諸の物語(ものがたり)申ける次にや、実に不思議の事侍ふ、此に御座(おはしま)せし遮那王殿こそ男になりて、金商人に具して奥の方へ下給しか、僻目(ひがめ)かとて能々見しかば、いまだ金も落ずしておはしき、角みる事は夜の間なりき、去にても忍やかに物申さんと思て、忍に如何にやと申て候しかば、少し物はゆげに覚して、其事に侍、師御房の僧になすべき由懇に候し旨其謂候き、去共人間に生る間は難(レ)有と申ぞかし、如何にして父の恥をすゝがんと、年比鞍馬寺の毘沙門に祈申き、身の果報を天道に任進せて、東の方へ罷也、坂東に名ある者、一人として(有朋下P720)父祖父の家人ならぬはなしと承れば、去共様有なんと思て罷也、事の次でのあらん時、此由師の御房に語給へ、文なんどにては落
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散事もあり、必人伝ならでと語て、はら/\と涙を流し候しぞと語ければ、彼師も袖を絞つゝ、さらばさこそ宣ふべけれ、如何して其迄もかゝぐり付れけんとて、忍て母の許に行此由を云ければ、常葉手をあかひて、いや/\努々此事又人に語給ふな、空怖しとて止みにけり。其比伊勢(いせの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)江三郎義盛とて心猛者ありき。あたゝけ山にして、伯母聟に与権守と云けるを打殺したりし咎に被(二)禁獄(一)、赦免の後東国に落行て、上野国荒蒔郷に住ける時、旅人一人来て遊。義盛、我も本は旅人なりき、慰んと思て、何となく■(むつまじく)て日比(ひごろ)遊けるに、いかにも直人共見えざりければ、不(レ)寂労りけり。又此旅人も、義盛をよき者と見てけり。互に馴遊て年月をふる程に、義盛が申様、我をば義盛と知給へるにや、殿をば誰共不(レ)奉(レ)知、今更可(レ)奉(レ)問、よも義盛が敵にては御座(おはしま)せじと云ければ、旅人答様、人は家をば憑ず心をぞ憑む、見馴進せて久く成ぬ、是は父母もなし親類もなし、天より天降たる者成とて、上下なくて過しける程に、鎌倉にて、流人源兵衛佐(ひやうゑのすけ)の謀叛を起して■(ののし)る由、まめやかに聞えける時、旅人義盛に云様、下人一人やとはかし給へ、四五日が程に帰すべし、年比の本意(有朋下P721)に侍りと有ければ、義盛是非の言なし、藤太冠者と云ける奴を召て、此殿に己をば奉る也、いかにも随(レ)仰へと云てけり。偖彼下人と此旅人と、懇に私語(ささやき)物語(ものがたり)して、通夜消息(せうそく)を書て、明る朝に出し立、旅の殿の教の儘に、藤太冠者は鎌倉に行付て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の御座(おはしまし)ける館を徐に見て、輙く人の行至るべき様もなかりければ、身の毛竪て門にたゝずむ。暫しこそあれ、いつとなくたゝずむ程に、人々怪て、あれは何者(なにもの)ぞやと尋ありける時、懐
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より文を取出たり。暫ある程に返事を持て出て、いづら九郎御曹司の御使と呼けれ共、藤太冠者不(二)意得(一)して居たり。文を取次たる人出来て、あれこそはそよとて、藤太冠者を呼て返事をつらせつ。詞には疾々御渡り候へと申せとぞ云ける。藤太冠者胸はしりつつ、急帰て旅の殿に返事わたして、後に此有様(ありさま)を義盛に語に、志不(レ)浅つる上に弥■(むつまじく)て、九郎御曹司と申てかしづき、主従の礼をなす。さて取物も不(二)取敢(一)様に出立て、義経鎌倉へ上る。義盛一の郎等たり、理なり。夜に入て鎌倉に著、明朝以(二)義盛(一)角と申入らる。兵衛佐(ひやうゑのすけ)の返答に、只今(ただいま)急に侍り、夕方心閑に可(レ)申とあり。其程は義経義盛忍て宿にあり。戌の半計の時、兵衛佐(ひやうゑのすけ)使を義経の許へ立て被(二)呼寄(一)。見参して鳥の鳴程に被(レ)出ぬ。又朝に指出られたりしより、いつしか又上もなき家の子也。義経木曾殿(きそどの)并に(有朋下P722)平家追討の為(二)討手(一)、京上の時は、伊勢三郎義盛とて先陣を打、西国(さいこく)屋島壇浦までも不(二)相離(一)、義経都を落ける時、義盛君の落著給へらば急ぎ可(二)馳参(一)と様々契申て、思様ありとて暇を乞て、故郷伊勢国(いせのくに)に下、其時の守護人、首藤四郎を伺討つ。国中(こくぢゆう)の武士追かゝりければ、義盛鈴鹿山に逃籠て戦けるが、敵は大勢也、矢種射尽して自害して失にけり。武蔵国住人(ぢゆうにん)河越太郎并一男小太郎被(レ)誅けり。是は故秩父権頭が次男の子ぞかし。然程に、義経都を落て金峰に登て、金王法橋が坊にて、具したりし白拍子二人舞せて、世を世ともせず二三日遊戯て、あゝさてのみ非(レ)可(レ)有とて、白拍子を此より京へ返送とて、金王法橋に誂付て、年来の妻の局、河越太郎が女計を相具して下にけり。義経が舅子舅なるに依て角亡にけり。陸奥国
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権館、秀衡入道が許に尋付たりければ、造作して居侍つて過る程に、秀衡老死しぬ。其男安衡を憑て有けるが、鎌倉に心を通して義経を誅す。其時妻女申けるは、一人の子なれば思置事なし、残居て憂目を見んも心うし、我を先立て死出山を共に越給へと云ければ、義経南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)と唱へて、女房を左脇に挟かとすれば頸を掻落して、右に持たる刀にて、我腹掻割て打臥にけり。昔将門(まさかど)が合戦の時、御方したりし俵藤太秀郷が末葉に、陸奥出羽両国の地頭にて権大夫常清、其一男に(有朋下P723)権太郎御館清衡、其男に御館元衡、其男に御館秀衡、其男に安衡是也。背(二)父遺言(ゆいごん)(一)安衡義経を討たりけれ共、無(二)其詮(一)、源二位頼朝(よりとも)奥入して、安衡をば被(レ)誅けり。源二位或望或欝申事ありて、時政実平を指進せて、可(レ)潜(二)近臣輩(一)由聞えければ、人皆恐怖しけり。
S4607 時政実平上洛附吉田経房卿御廉直事
同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)、両使数百騎(すひやくき)の兵を率して入洛す。義経行家は都を落ぬ。時政実平上洛したれ共、合戦なければ洛中静也。時政源二位の依(二)下知(一)、諸国に守護を置、庄園に地頭を可(レ)成由、吉田藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)経房卿を以奏し申す。又二十六箇国を相分て、庄領国領をいはず、段別兵粮米を充、義経行家追討のためとぞ聞えし。無量義経云、王敵を亡す者には賞するに半国を賜はると見えたれ共、我朝いまだ無(二)先例(一)、頼朝(よりとも)申状頗過分也と、君も臣も思召(おぼしめし)ければ、御返事(おんへんじ)有(二)御猶予(一)ければ、時政奏すらく、吾朝日本国(につぽんごく)に、昔よりして謀叛人多く日記に留れ共、平相国(へいしやうこく)に過たる犯人を不(レ)見。天竺には、提婆達多、仏の御身より血をば出したりけれ共、国を悩す事はなし。唐会昌天子僧尼を亡しけれ共、臣公は(有朋下P724)穏しかりき。
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平家太政(だいじやう)入道(にふだう)は、南都園城(をんじやう)仏法僧(ぶつぽふそう)を滅し、仙洞梁園を蔑ろにし、三公侍臣を流し失、昔も類を不(レ)聞、向後も実に難(レ)有、朝庭これを歎、仏家専悲、是を平ぐるは源氏の高名也、是を鎮るは関東の忠勤也、国を守人をめぐまんが為に被(二)奏申(一)処也、などか御免なからんと申上たりければ、道理はさも有けれども、当時の威応に恐て任(二)申請旨(一)、諸国の守護人、段別の兵粮米、平家知行の跡に地頭識を被(レ)許けり。
吉田中納言経房卿をば、其比は勧解由小路中納言と云き。廉直の姓世に顕れし、忠貞の誉無(レ)隠ければ、源二位今度院奏しけるは、大小事、向後以(二)経房卿(一)可(二)奏聞(一)之由被(レ)申たり。平家時も大事をば此卿に被(二)申合(一)き。故太政(だいじやう)入道(にふだう)の法皇を鳥羽殿(とばどの)に籠奉りし後、院伝奏おかれし時は、八条中納言長方と此大納言(だいなごん)と二人をぞ別当には被(レ)成ける。今度源氏の世に成りても、角憑まれるこそ難(レ)有けれ。三公以下、参議、非参議、前官当職等四十三人中に被(レ)択けるぞ優々敷。平家にむすぼほれたりし人々も、今は源氏に追従して、源二位の許へ状を遣し、使を下して種々(しゆじゆ)にこそ眤けれ共、此卿は露諂事なし、只有に任たる心也。されば後白川院【*後白河院】(ごしらかはのゐん)建久二年の冬比より御不予(ごふよの)事ありて、同三年正月の末よりは、憑少き御事と思召(おぼしめし)て、種々(しゆじゆ)の御事共(おんことども)仰置給しに、御後の事奉行すべき由、彼経房卿(有朋下P725)承き。執事にて花山院左府(さふ)、近臣にて左大弁(さだいべん)宰相候る。此人々被(二)申沙汰(一)、可(レ)有(二)何不足(一)なれども、思召(おぼしめし)入加様に被(二)仰含(一)事の忝(かたじけな)さよとて、感涙を流し給けるとぞ聞えし。よく実ある人にて、君も角思召(おぼしめし)けるにこそ。
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此卿は、権右中弁(ごんのうちゆうべん)光房朝臣息男、十二歳時父光房に後れ、孤子にておはしけれ共、次第の昇進不(レ)滞三事顕要を兼帯し、夕郎貫首を経、参議右大弁、中納言、太宰師をへて、終に正二位(しやうにゐの)大納言(だいなごん)に至けり。人をば越けれども人には越られず、君も重く思召(おぼしめし)、臣も憚思ふべき、人の善悪は針を袋に入たるが如しといへり。誠に隠れなかりければ、源二位までも被(レ)憑給けり。
S4608 尋(二)害平家小児(一)附闕官恩賞人々事
同年十二月十七日(じふしちにち)侍従忠房、前左兵衛尉実元が預たりけるを、野路辺にて斬(レ)首。又小児五人内、二人は前(さきの)内大臣(ないだいじん)の息、一人は通盛卿男、二人は維盛卿子也。同彼所にして誅殺す。何もとり/゛\に貌有様(ありさま)よし有て見えければ、武士共剣刀の宛所も不(レ)覚ければ、とみに不(レ)斬して程へけるに、此少き人共、或殺さるべしと知て泣悲むもあり、又思分ずして母をよばひ、乳母(めのと)を慕て泣悶るもあり。彼を見此を見るに、無慙にもかはゆ(有朋下P726)くも覚えければ、兵ども涙をぞ流ける。
同日、任(二)源二位申状(一)、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経、右馬権頭経仲、越後守隆経、侍従能成、少内記信康被(二)解官(一)けり。上卿左大臣経宗、職事頭弁光雅朝臣也けり。大蔵卿(おほくらのきやう)父子三人被(二)解官(一)ける事は、義経以(二)彼卿(一)、毎時奏聞しける故とぞ聞えし。能成は義経が同じ母弟、信康は義経が執筆也。又左馬権頭業忠、兵庫頭(ひやうごのかみ)範綱、大夫尉知康、同尉信盛、左衛門尉(さゑもんのじよう)時定、同尉信定等、為(レ)加(二)其刑(一)、関東より召下とぞ聞えし。同晦日解官並流人被(レ)下(二)宣旨(一)けり。参議親宗、右大弁光雅、刑部卿(ぎやうぶきやう)頼経、左馬権頭業忠、大夫史隆職、兵庫頭(ひやうごのかみ)範綱、左衛門尉(さゑもんのじよう)知康、同尉信盛、同尉信貞、同尉時盛被(二)解官(一)けり。光雅朝臣隆職は、官府を成下しける
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故とぞ聞えし。泰経卿は伊豆、頼経朝臣は安房へ配流の由被(二)宣下(一)けり。威(レ)君潜(レ)臣こと不(レ)異(二)平将(一)。時政既天下の権を執ければ、諸公卿士列(二)左右(一)集(二)門下(一)。去二十七日(にじふしちにち)可(レ)預(二)議奏(一)人々とて、関東より交名を注進す。右大臣兼実、右大臣実定、三条大納言(だいなごん)実房、中御門大納言(だいなごん)宗家、堀川(ほりかはの)大納言(だいなごん)忠親(ただちか)、権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)実家、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)通親、藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)経房、藤宰相雅長、左大弁(さだいべん)宰相兼光也。今度源二位注進の状に、入人は其威を振ひ、不(レ)入人は失(二)其(その)勢(いきほひを)(一)、世の重じ人の帰する事平将に万倍せり。是人之非(レ)成、天之所(レ)与也。右大臣可(レ)被(レ)下(二)内覧宣旨(一)之由(有朋下P727)同被(レ)申たりければ、法皇も頼朝卿(よりとものきやう)任(二)申入之旨(一)、於(レ)今者世事偏可(レ)被(二)計行(一)と被(レ)仰ければ、右府頻(しきり)に被(二)謙譲申(一)けり。(有朋下P728)