『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十七
P1162(有朋下P729)須巻 第四十七
S4701 北条上洛尋(二)平孫(一)附髑髏尼御前事
平家は一門広かりしかば、彼等が子孫定て京中に多く有らん、尋捜て可(レ)誅と、源二位北条時政に被(二)仰含(一)ければ、時政上洛して、平家の子孫尋得たらん者は、訴訟も勧賞も可(レ)依(レ)謂と披露しければ、案内知りたるも不(レ)知も賞に預からんとて、上下男女伺求ければ、多く尋ね出しけるこそ人の心うたてけれ。実の平氏の子ならぬ者も、多く被(二)召捕(一)けるとぞ聞えし。痛少をば水に沈め土に埋、少成人したるをば指殺し突殺し、母の悲み乳母(めのと)の歎、可(レ)類方なかりけり。北条も子孫多く有ける上、遉岩木ならぬ身なれば、加様に無(レ)情振舞けるもいみじとは不(レ)思、随(レ)世習心憂く思ける。東山長楽寺と云所に、阿証坊印西とて貴き上人座しけり。慈悲の思深して物を憐み、柔和の性静にして不(レ)犯(二)禁戒(一)、世挙て慈悲第一の阿証坊と云。此人西山栂尾の明恵上人に謁して帰給けるに、一条万里小路を通り給ふ。一条面は平門、小路面は両緒戸に、土門薄檜皮の御所の前に、人多く(有朋下P730)集てひしめき合り。立寄て良見ければ、門々に武士あまたあり。内より五六歳計なる少人の、梧竹に鳳凰織たる小袖に、上に練貫の小袖を打著せて、地白の直垂に玉だすき上て、下腹巻に烏帽子(えぼし)かけして、太刀計帯たる男の肩に乗せて、大路に出て西を指て走。見れば不(レ)斜(なのめならず)、厳き小児也。髪黒々と生延て肩の廻過たり。
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乳母(めのと)とおぼしき女房の二十四五計なるが、歩徒跣にて泣々(なくなく)不(レ)後と走行。上人是を見るに、此程聞ゆる平家の子孫を、武士が取て失んとするにこそ、誰人の子孫なるらんと人に問けれ共、分明にも不(レ)謂。非(二)直事(一)、此人の果見んと思て、西方へおはしける程に、又二十余(あまり)の女房の、不(レ)斜(なのめならず)厳きが、いつ土踏たるらん共不(レ)覚、見るも労しかりけるが、唐綾の二小袖に、練貫の二小袖を打纏て、顔も不(レ)隠恥をも忘て、道をもさだかに不(レ)歩、現心もなげにて泣々(なくなく)行を見るに、是は母上ならんとぞ覚えける。旁哀におぼして、駒を早めておはしける程に、蓮台野の方へ向て走けり。遥(はるか)に奥に行て峯の堂と云所あり、此すそに古き墓共多くあり。其辺に下し居て、肩に乗せたる男は、汗押拭て傍に休居たり。継て走ける男、無(二)風情(一)走寄て取て抑て、膝の下におしかふかとすれば、軈(やが)て頸をぞ切てける。頸をば古き石の卒都婆の地輪にすゑて、上なる練貫小袖にて刀押拭て、身をばそばなる堀に投入て、軈走て帰に(有朋下P731)ける。上人つく/゛\と是を見給(たまひ)て涙を流し、穴口惜、斯る事を見つる心憂さよ、何しに中々来けんと、後悔し給へ共無(レ)力。死人の首のもとに立寄て、泣々(なくなく)阿弥陀経(あみだきやう)読、念仏申て後生を弔給ける程に、母上も乳母(めのと)も、涙に汗も争て出来、母は切て居たる首を見て走寄り、懐気に取付て、こは何と成ぬる有様(ありさま)ぞ、夢かよ/\と云ながら、軈倒れて絶入にけり。乳母(めのと)の女房は、堀なる身を懐上て、首もなき死人を把て、是も同消入ぬ。上人是を見給(たまひ)て、日比(ひごろ)は音にこそ聞つるに、今まのあたり懸るかはゆき事を見事よと、落る涙に墨染の袖、白妙(しろたへ)にこそ絞りけれ。夕日既(すで)に山の端に傾き、いぶせき山
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の中なれば、此人々も被(レ)失なんず、如何すべきとて、上人よりて事の子細を尋れ共、暫しはあきれて物もいはず。様々教化して、御命は限有る事に侍り、今日斯憂目を御覧ずるも、前世の事にこそ侍らめ、折節(をりふし)愚僧参会て後世をも奉(レ)弔は、同御事と云ながら、若公の菩提も助り給ぬらん、一度にたへぬは思にてこそ侍るなれば、帰給(たまひ)て後生をこそ弔給はめと宣へば、女房現心もなくして、こは如何にと云事ぞ、此をばいづこと申所にて侍るぞと宣(のたまひ)ければ、上人此は蓮台野と申て、無人を送る鳥辺野也、たま/\ある者は死人の骸、草深うして露滋し、いぶせく奇所也と答給ふ。女房人心地出来て宣(のたまひ)けるは、北条とかや上て、平家(有朋下P732)の子孫失侍など聞えしかば、人の上共不(レ)覚、憂目をや見んずらんと、日比(ひごろ)は思儲たり、され共愚にも只今(ただいま)の事とは思侍らずこそ有つるに、何者(なにもの)か云伝けん、俄(にはか)にたばかりとられて出侍つれば、最後の物などすゝむる事なし、懐糸惜く面影をも見ず、かきくらす別の悲さに、心一に迷出たりつれ共、そこはか共不(レ)覚、元来西も東も不(レ)知身にて侍上、斯る歎さへ打副て物の心も不(レ)覚、今朝の花やかに厳しかりつる有様(ありさま)の、今角見べしとは思ひ侍らず、こは何と成ぬる事ぞやとて、身もなき首を抱て泣給へば、乳母(めのと)の女房は、頸もなき身を懐きて共に泣けり。上人宣(のたまひ)けるは、爰(ここ)に角ては如何御座侍るべき、帰り給(たまひ)てこそ兎(と)も角(かく)も思召(おぼしめし)成給はめ、女房の御身として懸る山に渡らせ給はば、盗人など云情なき者も出来て及(二)御恥(一)、又人を損ずる獣なども参なば、中々可(二)口惜(一)、疾里に出おはしませと様々勧奉れば、女房宣(のたま)ひけるは、今は命を惜べき身にも侍らばこそ、
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帰ても嬉しからめ、左様にて消も失なば、若公と一つ闇路を伴ひたらば、中々嬉敷侍なん、出る日の如くにわりなく思ひつる少き者には後れぬ、又命惜とも不(レ)思とて、声も惜まず泣■(なきののしり)給ければ、上人、さらでだに女人は五障三従とて罪深き御事にて侍り、我御身こそ悲しき地獄に落給共、さしも御糸惜き若公の刀のさきに懸て失給ぬるを御弔もなくて、悪き(有朋下P733)道へ堕し奉らんと思召(おぼしめし)侍か、長き闇路を祈助け給はんこそ遠き御情(おんなさけ)にて侍べけれ、一樹の陰一河の流れと云事もあれば、先立給ふ御歎は去事なれ共、無人の御為にはそも由なしなど、一度は教訓しつ、一度は威しつ宣(のたまひ)けれ共、猶悲みの涙色深うして、同道にと焦れ給けるが、やゝ暫有て女房、さらばこゝにて様を替ばやと宣へば、上人それはさるべき御事にも侍べしとて、蓮台野に池坊と云所あり、其傍に地蔵堂と云御堂に具足し入れ奉て、傍の庵室より剃刀を借寄て、持給へる水瓶にて髪を洗ひ、長に余れる簪をおろし奉。落涙髪の雫、露を垂てぞ争ける。御乳母(おんめのと)も共にならんと云けるを、様々制し給けるが、自髪を切落したりければ、不(二)力及(一)剃給ふ。其後長楽寺の坊に奉(二)誘入(一)て、四十八日(しじふはちにち)の念仏を始、七日七日の仏事営、御菩提を弔給へば、母上も乳母(めのと)も嬉しくこそは被(レ)思けれ。され共首をば身にそへて放ち給はず、又此若公、慰にとて常に翫給ける小車と、二を並置て、恋しき時は是を見てぞ慰給ける。乳母(めのと)は終に思死に失にけり。念仏結願し給ければ、尼御前上人に被(レ)申けり。此少者の父と申は、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)にて侍き。大仏殿奉(レ)焼て、罪深き者に有りしかば、其報にこそ末の露までも懸る憂目にも合侍ら
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め、されば懺悔の為に奈良へ参侍ばやと被(レ)仰ければ、上人、只御心閑に閉籠、御念仏(有朋下P734)申てかた/゛\の御菩提を弔給はば、是に過たる懺悔滅罪の功徳有べからずとすゝめ制し給けれ共、しひて暇を乞、奈良へぞ参り給ける。暫都にも御座(おはしまし)し度は思召(おぼしめし)けめども、若公には別れ給(たま)ひぬ、其形見にもと思給し乳母(めのと)をさへ先立て、難面命の今日までも、何にながらへてとぞ常は歎給ける。奈良に参りて興福寺(こうぶくじ)、東大寺(とうだいじ)の焼跡共を拝廻給にも、さこそ罪深く悲くおぼしけめ。御姿を窄し、乞食修行者の様に成果て、浅増気にて、行寄所を臥どとし、乞得物に命をつぎて悲行ける程に、既(すで)に年の暮にも成ぬ。修行者の尼共多く有けれ共、此尼を見て疎けり。さもぞ怖しき尼よ、ひたすら下揩ゥとすればさにもあらず、なま尋常気なる者か、する事の恐しさよ、我子にて有けるか、養君にて有けるか、五六計なる少者の頸を懐に入持て、常は取出して、厳しき小車に並て見る事のきたなさよ、親子に別るゝ事はよの常の習ぞかし、さまであれ程に有べしとも不(レ)覚とて、悪む者も多し。又堪ぬ思はさのみこそあれ、悲しき子に後れて糸惜さの余、心の置所(おきどころ)のなきにこそするらめ、如来(によらい)在世の往昔に、提婆提女と云けるは、一子の女を先立て、其身を干竪めて頸に懸てありきけり、様なきにもあらずとて、情をかくる者も有けり。角は云けれ共、髑髏の尼と名付て、修行者の中には不(レ)交けり。されども是を不(レ)歎、人の言(有朋下P735)ども聞も入ず、元来思切て出たれば、栖を定る事なし。爰(ここ)の唐居敷彼の築地のはら、木根萱根いづくにも、傾き臥てぞ悲みける。年も既(すで)に明ければ、救世観音の草創也、仏法(ぶつぽふ)最初の霊地也とて、人に相
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具して天王寺へぞ参給ふ。西門にて七日七夜(なぬかななよ)湯水を不(レ)飲、断食念仏して居たりけるが、七日と云ける晩程に、今宮の前木津と云所より海人を語ひて、膚に隠し著たりける綾小袖の垢付たりけるを脱ぎてたび、此難波沖に、此車の主にてある者の、死たる骨を入んと思ふ也とていざなひければ、蜑哀に思て船に奉(レ)乗、遥(はるか)の沖に漕出す。爰(ここ)の程こそ骨をも御経をも入る所にて侍らんと申ければ、さらばとて舷に立寄、西に向て念仏二三百返計申て、車と首とを括合て、入れんとする由にもてなし、手に持給たりけるが、左右の掌を合ながら、南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)阿弥陀如来(あみだによらい)、太子聖霊先人羽林、若公御前、必一つ蓮に迎取給へと唱つゝ、海へぞ入給(たまひ)にける。如何にやいかにやと云けれ共、深沈みて不(レ)見ければ、海人力及ずして、空き船を漕戻す。西門に帰て此哀を語ければ、伴なひたりける者共も、糸惜や実にさる人の有つるぞや、此程は断食念仏しつるが、早思切たる人なりけりと涙を流し、次の日のまた朝、蜑共船に乗つれ、遥(はるか)の沖に出て見れば、尼波にぞ浮たる。昨日の事也ければ事切果ぬ。是を取上て灰に焼、元来好給ぬる(有朋下P736)所也とて又海に入れて、西門に集て念仏申し、追善しけるぞ情ある。去(さる)程(ほど)に長楽寺の上人の許には、正月十五日より毎年に四十八日(しじふはちにち)の間、念仏(ねんぶつ)法問(ほふもん)の談議あり。上人の弟子に、天王寺に信阿弥陀仏(あみだぶつ)と云僧、上洛して此談議に遇けるが、法問(ほふもん)の隙に諸の物語(ものがたり)の次に、彼僧申出たりければ、上人聞給(たまひ)て、なに/\今一度語給へとて、委いはせて涙をはら/\と流し、さる事侍き、それは是にて髪をおろしたりし人也、持たる首は子也とて、一条万里小路より蓮台野の有様(ありさま)、
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出家して後世を弔しまでに、泣々(なくなく)語給ければ、諸僧涙に溺、聴衆袖をぞ絞りける。其後一文一句の談議も、随喜聴聞の功徳をも、此人の孝養にぞ被(二)回向(一)ける。其上諸僧を勧進して、一字三礼の一日経(いちにちぎやう)を書、難波の海へぞ送給ふ。母上も若公も、縦罪業深とも、印西上人の志、などか不(レ)出(二)生死(一)。抑此女房と申は、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)には孫、桜町中納言成範卿の娘に、新中納言御局とて、内裏に候はれける人也。本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)の時々通給し女房、最後の余波を悲みて、八条堀川(ほりかは)へ迎給し人の事也。
S4702 六代御前事
故三位中将(さんみのちゆうじやう)維盛の子に、六代と云人あり。是は平家都を落し時、北方、如何ならん野末(有朋下P737)山の奥までも相具し給べし、少者共をば誰に預誰に育とて、打捨て出給ふぞやとて、慕焦(したひこがれ)給(たま)ひしか共、行先とても可(レ)穏かはとて、振捨給し若公也。平家の嫡々なる上、歳もおとなしかりければ、如何にもとて尋出さんとしけれ共、聞事もなければ、明日時政鎌倉へ下向せんとしける其夕暮に、女一人北条が宿所六波羅に来て云けるは、遍照寺の奥小倉山麓、菖蒲谷の北に大覚寺と申所侍り、彼にこそ此二三箇年、権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)の北方とて、若公姫君二人相共に忍て住給へと云。北条不(レ)斜(なのめならず)悦て止(二)関東下向(一)、則此女に人を付て伺見。大覚寺北に奥深僧坊あり、女房あまた忍たる体にて住居たる所あり。垣の隙より見れば、犬子の縁に走出たりけるをとらんとて、少き人のいと厳きが続て出たりけるを、又女房出て、穴浅増(あさまし)、人もこそ見侍れとて急呼入ければ、是ならん六代はとて立帰、角と申ければ、次の日北条行向て、四方を打囲て人を入て申けるは、故三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)の若公是におはすと承て、時政御迎に参
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たりといはせたりければ、母上聞給(たまひ)て、露現もなくあきれ迷て、此少き人を拘て、我を今の程に失て後此子をば取べし、命のあらん程は放つべし共不(レ)覚と宣(のたまひ)ければ、乳母(めのと)の女房も前に倒れ臥て悶焦れ、女房達(にようばうたち)も如何はせんと歎あへり。斎藤五、斎藤六兄弟は、三位中将(さんみのちゆうじやう)都を落し時、如何ならん世の末迄も少者(有朋下P738)共が杖柱ともなれとて、留置し侍也ければ奉(レ)付、同忍て居たりけるが、是も色を失ひて、若や奉(レ)出と上の山を立廻て見れども、武士打囲みて可(レ)漏方もなければ、女房の御前にて、兵四方を囲みて、若公可(レ)奉(レ)出隙なしとて涙を流す。日比(ひごろ)は声を呑目をひそめて忍給けるに、今は人の聞をも不(レ)憚、有とある者は声を調へて泣叫。時政申けるは、世も未静り侍らねば、狼藉なる事こそ侍れとて奉(レ)渡也、不(レ)可(レ)有(二)別御事(一)、疾々と責ければ、斎藤五、是皆日比(ひごろ)思召(おぼしめし)儲たる事也、非(レ)可(二)驚給(一)、命はいかにも遁させ給べき方なし、出奉り給へとこしらへけれ共、母上は拘て放給はず、若公は、罷たり共、暇乞てとく帰参べし、痛な歎給そと、涙を拭つゝ宣へば、是を聞て母上も乳母(めのと)の女房も、出なん後は再帰来まじき者を、心細やとて、いとゞ声を不(レ)惜泣ければ、北条も涙も拭ひて、心苦しくや思けん、推入てもとらず、つく/゛\と待居たりけり。日も既(すで)に暮なんとす。さても有べきにあらねば、武士共のいつとなく侍らんも心なしとて涙をのごひ、髪掻撫奉(二)気装(一)などして奉(レ)出、更に現とも不(レ)覚、母上は引纏て臥給へり。消入給たるにやと見けるに、若公既(すで)に出給へば、今を限ぞかしと覚しけん心の中、類べき方なし。小き黒木の念珠を取出して、是にて如何にもならんまでは、念仏申て
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後世たすかれとて進給へば、母上には今(有朋下P739)日既(すで)に奉(レ)別なんとす、今いづく成共、父の御座(おはしま)さん所へぞ詣たきとて、涙を流給ふぞ実に無(二)為方(一)は覚ゆる。今年は十二に成給へ共、年の程よりはおとなしく、不(レ)斜(なのめならず)厳くして、故三位中将(さんみのちゆうじやう)に違はず似給へれば、いとゞ目もくれ心も消て、母上倒臥てぞ歎給ける。いそがれぬ道なれば、若公も居留て、母上の顔をつく/゛\とまもり、目に目を見合ては、互に不(レ)堪涙を流し給へり。既(すで)に輿に乗給へば、妹の姫君、いかにや誰にも離て独はおはするぞ、童も参んとて走出給へば、女房泣々(なくなく)奉(二)取留(一)。若公出給にければ、母上も乳母(めのと)も臥沈みて、物もいはれざりけり。歎き悲む事限なし。誠愚に頑なる子すら、恩愛の道は悲きに、さしもこまやかに厳しく、心様わりなき上、三位中将(さんみのちゆうじやう)の形見とて、男女に只二人座しつれば、徒然の空をも此に慰、三位の恋しき時も、見給(たまひ)ては思を休給つるに、今生ながら別給ける母上の心中、推量れて哀也。斎藤五斎藤六、伴にとて有けるが、涙にくれて行さきも見えね共、泣々(なくなく)輿の左右に付て走ければ、北条是を見て、郎等の乗たる馬を取て、是に乗給へとてたびけれ共、竪く辞して不(レ)乗けり。若公は、母上夜叉御前、乳母(めのと)が事共思ひつゞけて、道すがら袖絞りあへざりけり。日来は平家の子孫取集ては、稚をば土に埋水に入、おとなしきをば首を切指殺すと聞ゆ。此をば如何して失はんずらん、(有朋下P740)此三年の間は、夜昼心を砕魂を迷して、今や/\と思儲たる事なれ共、今出来たる不思議の様に覚ゆるこそ悲けれ。されば如何なる罪の報にて、三位中将(さんみのちゆうじやう)には都落の時生て別ぬ、恋し悲と思暮し歎明して、其事露も不(レ)忘に、
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今又若公を武士にとられて、被(レ)殺別れん事の無慙さよ、終に遁れまじき者と兼て知たりせば、西国(さいこく)に下り、三位中将(さんみのちゆうじやう)と一所にて如何にも成るべかりけるに、心強く残し置て、二度物を思ふこそ悲けれ、日比(ひごろ)の三位の思は物の数にも侍らず、我少より深く奉(レ)憑(二)観音(一)、若公出来し後は、殊に六代安穏とこそ祈申しに、斯る憂目を見事の悲さよ、人の子は、里や乳母(めのと)の許に置て、適見るも恩愛の道は悲きぞかし、是は始て出来たりしかば、つかのまも身を放事なし、朝夕二人が中に生立哀糸惜と、明ても暮ても見るに不(レ)飽者をや、今夜もや失ぬらん、おとなしければ頸をこそきらんずらめ、如何計かは怖敷思らんと■(ののしり)立れば、打臥て泣給ぬ。起上ては、いかにも難(レ)遁事と思取て出ぬる面影、如何ならん世にかは可(レ)忘、遂に世になき者と成とも、今一度いかにしてか可(二)相見(一)とて、声も不(レ)惜泣給ふ。日の暮る儘には、いとゞ可(二)堪忍(一)も覚給はず、夜は若公姫君を左右に臥せてこそ慰つるに、いかなる月日なれば、一人はあれども一人はなかるらんとて、長き夜いとゞ明し兼て露まどろまれねば、夢にだ(有朋下P741)にも其面影を見給ふ事なし。限あれば夜も既(すで)に明ぬ、いかに成ぬらんとしづ心なく思入給へりけるに、斎藤六帰参たり。心迷していかにと問給へば、今までは別の御事侍らず、御文とて取出したり。披見給へば、心苦く思給ふぞ、只今(ただいま)までは何事も侍らず、いつか誰々も恋くこそ奉(レ)思、中にも夜叉御前の御跡慕、難(レ)忘こそ侍れと書給へり。母上是を額に押当てうつぶし給ぬ。斎藤六申けるは、如何に■(おぼつか)なく思召(おぼしめす)らんと思こそ心苦けれ共、終夜(よもすがら)寝も入給はず、今朝も物進せたれ共、露御覧じもいれ給は
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ず、御詞には、自歎くと思召(おぼしめさ)ば、御心苦しく思召(おぼしめさ)んずるに、不(レ)侘してあると申せとこそ候つれと申せば、左様に終夜(よもすがら)寝も入ず、物をだにもくはざる程に思なるに、不(レ)侘してあると云おこせける事よ、哀おとなしきも少きも、男子は心つよき者也けりとて引纏臥給ふ。枕にあまる涙せき敢ずこそ見給へ。程ふれば時の間も■(おぼつか)なく奉(レ)思とて、斎藤六帰参らんと申せば、涙に溺て筆の立所そこはかとなけれ共、心ばかりは細々と書き給へり。斎藤六是を賜て、急六波羅へ参て奉たりければ、御文披見給(たまひ)て、袖に引入てうつぶし臥給へば、斎藤五斎藤六も、無(二)為方(一)悲ける。(有朋下P742)
S4703 文覚関東下向事
〔斯りける処に、〕乳母(めのと)の女房は、責て心のあられぬ儘迷出て其辺を行ける程に、怪尼の過たりけるが、女房は何事を思ふ人ぞ、たゞならずこそ見侍れと問ば、乳母(めのと)涙を流してしか/゛\と語。尼又やゝ墨染の袖を絞りて申けるは、我身も平家の若公を血の中より奉(二)手馴(一)、糸惜哀と奉(レ)孚つる程に、此四五日が前に、北条とかや武士にとられて、水に入られたれば、現心もなくて髪をおろし、貴き所をも拝、彼後世をも弔はんとて浮宕ありく也、世には我のみ物を思ふかと歎たれば、ためし〔も〕有ける悲さよとて、互に語て泣けるが、尼申けるは、此奥に高雄と云所あり。彼におはする上人こそ鎌倉殿(かまくらどの)にも不(レ)斜(なのめならず)重く奉(レ)被(レ)思、世にも赦されたる人にて侍るが、形よき児を求侍ると承れ、哀我養ひ君だにもおはせば、歎申てみんと思へ共、今は甲斐なし、若千万に一もさる事もぞある、行て歎き給へかしと細々に語つゝ、尼も次でに彼山寺拝まんと思立給へと申せば、いと嬉き事に思て、母上には角と不(レ)申、軈(やが)て尼と伴ひて高雄に登、上人の庵室
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に尋行、物申さんといへば、上人障子を引あけて、何者(なにもの)ぞ、是へは女人いれぬ所也、何事をか云べきと(有朋下P743)宣へば、血の中より奉(二)生立(一)、今年十二に成給つる若公を、昨日武士にとられて侍り、鎌倉殿(かまくらどの)には重き御事と承侍れば尋上り侍、命生給なんやとて、上人の前に臥倒れ、手をすり声を挙悶焦るゝ形勢(ありさま)、誠に無慙に見えければ、上人事の様を委尋給ふ。乳母(めのと)起上て泣々(なくなく)申けるは、小松三位中将殿(ちゆうじやうどの)北方の、親く御座人の子を取て、やしなひ奉りつるを、中将殿(ちゆうじやうどの)の実の御子とや人の申たりけん、昨日の晩程に、武士の取て罷侍にき、如何成給ぬらんと云もあへず涙を流す。武士は誰とか聞給しと問ければ、北条四郎とこそは承しかと申ければ、罷向て尋侍るべしとて、上人急出給ぬ。此事恃べきにはあらね共、思量もなかりつるに、上人の憑しげに申けるに、少心地出来て、大覚寺へ帰まうでたれば、母上宣(のたまひ)けるは、身など投に出たるやらんと思つれば、我も可(二)堪忍(一)心地もせねば、水の底にもと思立るゝに、猶心の有やらん、此姫君の事を思に、今までやすらはれつるとて泣給へば、高雄の上人に申つる事、又上人の申つる事とて語申ければ、北方是を聞給(たまひ)て手をすりて、嬉くも尋行て歎けり。哀乞請て今一度見せよかしとて、尽せぬ涙もせき敢給はず。文覚、北条四郎の宿所に行向て角と云ければ、急出て対面あり。誠や平家維盛息男のおはすなるはと問ければ、北条、今度の上洛条々の沙汰侍。平家は一門広かりしか(有朋下P744)ば、子孫定て多かるらん、尋出して失べし、腹の内までも可(レ)見、中にも故中将息、故中御門大納言(だいなごん)の娘の腹に六代と云童は、平氏の正統也、必尋出せと鎌倉殿(かまくらどの)の蒙(レ)仰、心の及程尋奉
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つれ共、行へを知奉り侍ざりつれば、罷下なんと思ひ侍つるに、昨日はからざるに奉(二)迎取(一)たるが、みめ事がら類なく見え給ふ糸惜さに、未兎(と)も角(かく)もし奉らず、中々(なかなか)心苦しくこそ侍れと申。文覚奉(レ)見ばやと云ければ、此内に御座とて障子を引あけて入れたりけるに、二重織物の直垂に、黒き念珠の小きを持給たりけるが、上人を見て、念珠を懐に引入て、顔打赤めて寄居給へり。顔付より始て糸惜く見え給へり。此世の人共不(レ)覚、天人の貌だも限あれば、争是には過べきと覚えたり。今宵は打解寝給はざりけりと覚て面痩給へり。何とか思給(たま)ひけん、上人を見給(たまひ)て打涙ぐみ給へり。如何ならん末の代に敵となる共、いかゞは是を失ふべきと覚ければ、上人も墨染の袖を絞りけり。北条も猛武士といへ共、岩木ならねば涙を流す。文覚申けるは、此若公を奉(レ)見に、先世に如何なる契かあるらん、余に糸惜く思奉れば、鎌倉殿(かまくらどの)へ参て可(二)申謂(一)、今二十日を待給へ、それは御辺(ごへん)の可(二)芳心(一)、文覚鎌倉殿(かまくらどの)に忠を致、奉(レ)入(レ)功事は、且見給し事ぞかし。今更申に及ねども、下野殿の頸を盗取て、文覚が頸にかけて鎌倉へ参しより後は、千里の道を遠し(有朋下P745)とせず、足柄箱根を股に挟みて、摂津国(つのくに)経島楼御所に参、以(二)右兵衛督(うひやうゑのかみ)光能(みつよし)(一)院宣令旨を申給り、二十日余(あまり)の道を七日八日に上下し、其間に富士河大井河にて水に溺、宇津の山高師山にて疲に臨侍し事一度にあらず、命を軽じ契を重くして、加様に奉公し侍し時は、手を合て、我世にあらば如何なる事也共、文覚が所望をばたがへじとこそ宣(のたま)ひしか、今平家を亡して天下を手に把給事、偏(ひとへ)に文覚が非(二)恩徳(一)や、昔の契改給はずば、
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争か其言の末をば違へ給べき、一期の大事此所望にあり、もし若公を預け給はずば、軈文覚鎌倉にて、干死にして死霊と成なば、鎌倉殿(かまくらどの)の為も由なかるべし、人倫の法として、重恩忘給べきならねば、夜を日に継で鎌倉へ下て可(二)申謂(一)とて出でければ、斎藤五斎藤六是を聞て、上人を仏の如くに三度礼拝して、嬉しさの余にも只涙を流ける。若公は少き心に、一門の亡けるは此上人の所為にや、うらめしやとおぼしけれ共、今は我身に当ては、うれしく憑しくぞ思ける。今度は斎藤五、急大覚寺へ参りて、上人の申つる事共を語ければ、人々手を合悦あへり。免されんは不(レ)知、先二十日の命は生ぬるにこそと、母上も乳母(めのと)も心少やすまりぬ。是は偏(ひとへ)に長谷の観音の御助と覚ゆれば、始終も憑しとぞ宣(のたまひ)ける。文覚既(すで)に関東へ下けるが、大覚寺に打寄、乳母(めのと)の女房を呼出して、先世に此若公に、如何(有朋下P746)なる契の有けるやらん、見奉しより糸惜く思ひ奉れば鎌倉に下侍也、さり共申預なんと思侍ふ、免し給たらば必高雄に奉(レ)置給へと云ければ、御命を助給なんには、兎(と)も角(かく)も上人の御計にこそとて涙を流す。母上も見聞給(たまひ)ては、鎌倉のゆるされは不(レ)知とも、指当りてかく憑しく云ければ、嬉しきつらき掻乱して泣給へり。文覚既(すで)に下て後は、明ても暮ても只上人の登をぞ待給(たま)ひける。いかゞ聞なさんと心苦くおぼしけるに、不(レ)留(二)月日(一)過行て、二十日も既(すで)に満ければ、こはいかにと成ぬるやらん、さしも憑しくこそ宣しに、免れのなければこそ音信(おとづれ)も聞ざるらめと肝を砕る程に、北条も、上人は二十日とこそ申しに、今に承事なし、御免のなきにこそ、誠に争か免給ふべき、平家の嫡嫡(ちやくちやく)
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にておはすれば、難(レ)奉(二)容易宥(一)、在京も此左右を待程也、都にて年を晩すべきにあらず、暁罷下なんとて出立ければ、斎藤五斎藤六、手を束ね心を砕共甲斐なくて、此度は二人ながら大覚寺へ参て、上人も今まで見侍ず、此御事に又都にて年を重ぬべきにも非とて、北条も暁下なんと仕、鎌倉へ下つかで、道にて奉(レ)失侍らんずるにこそ、北条より始て家子郎等共(らうどうども)も、奉(レ)見ては涙を流す、終に如何に成奉らんずるにかとて、兄弟袖を顔に覆て泣悲ければ、母上乳母(めのと)宣(のたまひ)けるは、上人憑もしげに申て下し後は心の隙も有つるに、暁に(有朋下P747)成ぬれば、もしやと思しつる憑も弱り果ぬるこそとて、頭をつどへて只泣より外の事なし。偖斎藤五斎藤六如何思と宣へば、いづくまでも最後の御伴申て、斬れさせ給たらば、御身をも奉(二)取納(一)、出家入道し、山々寺々修行〔し〕て、花を摘香を捻て、御菩提をこそ奉(レ)弔侍らめと申せば、母上泣々(なくなく)手を合て悦給へり。定なき世と云ながら、露の命の消も失なで、若きを先立て、彼が為と仏に申さん事の悲さよと、涙に咽給ふぞ哀なる。兄弟は又六波羅へ帰参ぬ。又母上乳母(めのと)夜叉御前、語てはなき泣ては語、終夜(よもすがら)こそ焦れけれ。暁方は母上乳母(めのと)の女房に宣(のたまひ)けるは、只今(ただいま)ちとまどろみたりつる夢に、此子の白馬に乗て来りたりつるが、余に恋しく奉(レ)思つれば、暫の暇を乞請て参たりとて、傍に居てさめ/゛\と泣つるぞや、程なく驚れて、若やと傍を捜ども人もなし、夢なりとも暫しもあらで、覚にけるこそ悲けれと宣へば、乳母(めのと)も是を聞て、共に声を調へてなき明しけり。十六日(じふろくにち)に、北条は六代殿相具して鎌倉へ下る。斎藤五斎藤六血の涙を流し、輿の左右に付て
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下けり。北条これに乗れとて馬をたびたれ共不(レ)乗。あまりの悲さには、痛き事も忘けるにや、物をだにも不(レ)■(はかず)、唯袖を絞て足に任て走けり。既(すで)に都を出て会坂をも越ければ、何鹿故郷も山を隔て見えず。大津浦、粟津原、勢田唐橋打渡、野路篠原も過ぬれば、今日(有朋下P748)は鏡に著にけり。何国も旅寝と云ながら、母上や乳母(めのと)に別つゝ、羊の歩の道なれば、いかに悲しくおぼしけん。明ければ鏡を立て、宿々(しゆくじゆく)国々に過行けり。若公は涙に咽て、道すがらも物まかなひたれ共、露見も入給はず。怪げなる僧の上るを見ては、上人やらんと肝をけし、文持たる者あれば、上人の音信(おとづれ)かと心を迷す。又小馬を早むる者あれば、急我を失へとの使やらんと疑はれ、武士私語する時は、我を切との物語(ものがたり)やらんと■(おぼつか)なければ、御涙(おんなみだ)関敢給はず。此有様(ありさま)を奉(レ)見にも、兄弟の者共無(二)為方(一)、年も既(すで)に暮なんとすれば、馬の足を早めて下りけるが、駿河国千本松原と云所に下居て、北条、斎藤五斎藤六を招いて云けるは、今は鎌倉も近成侍ぬ、各是より帰上給へと云。二人の者共、さては爰(ここ)にて奉(レ)失べきにこそと、胸塞心迷て、云出す事もなくしてうつぶし居たり。良有て、故三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)の蒙(レ)仰て、此三年が間夜昼奉(レ)付、一日片時不(レ)奉(レ)離、如何にも成給はんを見奉らんとて是まで下れり、さては今を限の御命にやとて、声も惜まず叫けり。北条重て申けるは、平家の人々の御子奉(二)尋申(一)たらば時日を経べからず、急奉(レ)失と度々蒙(レ)仰ども、此若公の御事をば、上人も難(レ)去被(レ)申しかば、今までも待侍れ共御免のなきにこそ、今は力の及処にあらず、約束の日数も過て是まで奉(レ)具事も、上人の音信(おとづれ)を聞事もやと思(有朋下P749)侍つる也、
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又足柄の山こそ越侍るべかりつれ共、上人は定て箱根越にこそ上らんと存ずれば、是までは奉(二)具足(一)ぬ、鎌倉へは今一両日の日数を経て、山を越奉ん事、鎌倉殿(かまくらどの)の御気色(おんきしよく)難(レ)知侍れば、此にて御暇を奉べき也とて、北条若公に申けるは、日来奉(レ)馴て、いかにし奉べしとも覚侍らね共、志の程は見え進せぬ、今は何事も先世の事と思召(おぼしめし)、世をも人をも恨給ふべからず、御心静に御念仏候べしと申ければ、若公の御返事(おんへんじ)とおぼしくて、泣々(なくなく)二度打頷許給けり。斎藤五斎藤六に宣(のたまひ)けるは、今を限にこそ有めれ、此まで付下て、終になき者にみなさん事こそ各が心中被(二)推量(一)て最無慙なれ、母御前へ御文進度思へ共、筆の立所も覚えねば叶ず、詞には、鎌倉までは別の事なく下著侍り、日数経るに随て、いとゞ人々の御事恋しくこそ侍れと申せ、此にて失はれたりとは努々申べからず、終に隠れ有まじけれ共、何にとして知せ奉思也、余に歎給はん事の心苦きに、我身こそ角成共、己等は急上て、能々御宮仕申べしと宣つゞけて、涙を流し給へば、兄弟の者どもは、君に奉(レ)後、安穏に都に上著べし共覚侍ずとて、臥倒れて喚叫。此形勢(ありさま)を見て、北条いとゞ涙を流ければ、家子郎等も皆袖を絞けり。日も既晩なんとすれば、偖も有べき事ならずとて、北条泣々(なくなく)疾々と勧めけれども、家の子郎等も、是を爰(ここ)にてきらん(有朋下P750)と云者なし。何も竪く辞退しければ、北条も思煩けるに、
S4704 六代蒙(レ)免上洛附長谷観音並稽文仏師事
東の方より墨染の衣著たる僧の、文袋頸に懸て、鴾毛なる馬に乗て馳せ来あり。何者(なにもの)ならんと思ける程に、上人の弟子に覚文と云僧也けり。今一足も急とて先立て馳けるが、馬より下や遅き高声に、誤(あやま)ちし給ふな北条殿とて、文袋より二位殿(にゐどの)の御免し文取出たり。
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北条披見ければ、自筆にてぞ書れたりける。其詞に云、
小松三位中将(さんみのちゆうじやうの)息六代、高雄上人頻(しきり)に申請間、所(二)預給(一)也と書れたり。北条高らかに読上ぬ。戯呼嬉き者哉とて打置ければ、免し給けるにこそとて、武士共聞て悦あへり。斎藤五斎藤六、是を聞けん心中、幾計也けんと難(レ)測。さる程に上人も軈馳来りたり。馬より下、やゝ北条殿、若公は申預ぬ、今一足もとて免し文を先立て奉ぬ、定めて見給ぬらん。鎌倉殿(かまくらどの)宣(のたま)ひつるは、此童は平家の嫡々の正統也、父の三位中将(さんみのちゆうじやう)は初度の討手に大将軍也、いかにも難(レ)免、頼朝(よりとも)も幼稚を宥られて今斯る身となれり、此童を免し置ては、定後悪かりなんず、上人が奉公其恩忘がたけれ共、此事は難治 (有朋下P751)也とて、つや/\動給はざりつるを、日比(ひごろ)の忠共申続けて、上人が心を破給(たまひ)ては、鎌倉殿(かまくらどの)も争冥加おはすべき、此をたびたらば、軈(やが)て法師になして仏法(ぶつぽふ)修行せんずれば、更に後悪事侍るまじ、若不(二)預給(一)ば、文覚鎌倉にて飲食を断、思死にして御子孫の怨霊とも成べしなど、一度は威つ一度はすかしつ、種々(しゆじゆ)に申つる程に、抑維盛卿息をば、頼朝(よりとも)を相し給し様に見給ふ処ありて、角は申請給歟と問給つる間、是は其儀には不(二)思寄(一)、免方なき程の不覚の人にて、聊も心に籠たる事は侍らず、わりなき姿の不便さに、慈悲の心に催されて、とまで申たれば免給ぬと、ゆゝしく気色してぞ云ける。北条は、承し日数も過しかば、御免なきにこそと思給つれば罷下つるに、賢くぞ■(あやまり)仕ざりける、今一時も遅かりせば、本意なき事も有なましと申ければ、上人、実に日数も延ぬれば無(二)心元(一)つるに、今日まで別事なきは、
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御辺(ごへん)の御恩とぞ悦ける。角て若公は上人に相具して、再都へ帰上給けり。是や此爼上魚の移(二)江海(一)、刀下の鳥の交(二)林薮(一)とは、只夢の心地ぞし給ける。六代御前は猶も現とはおぼさゞりければ、
消ずとて憑む命にあらね共今朝まで露の身ぞ残りける K252
と、最哀に糸惜く聞えければ、北条も又涙をぞ流ける。斎藤五斎藤六も、更に現とは思は(有朋下P752)挿絵(有朋下P753)挿絵(有朋下P754)ざりけり。北条、鞍置たる馬二匹引出して兄弟にたびければ、此度は請取けり。申けるは、日来奉(レ)被(レ)懸(レ)情つる御恩、難(二)申尽(一)とて涙を流す。若公も宣ふ言なけれ共、思歎くに■(おぼつかな)くし給へるも、痛敷思給けるに、引替うれしげに覚して顧給へば、北条涙を拭て申けるは、一日も御送に参べけれ共、急申べき大事共侍れば、此より可(二)罷下(一)、奉(二)久馴(一)、御遣こそ難(レ)尽侍と申せば、若公も打涙ぐみ給(たまひ)て、日来の名残(なごり)こそと宣ふも、いとつき/゛\しくこそ聞えけれ。上人は若公奉(レ)具急上けるが、道にて年も暮にければ、尾張国熱田社にて年をとり、正月五日、文覚上人の二条猪熊の里坊に落著給(たまひ)て、旅の疲を労りつゝ、夜に入て大覚寺を奉(レ)尋けれども、建治て人もなし。如何に成給けるやらん、悲の余に身など投給にけるやらん、又平家のゆかりとて武士などの奉(レ)取たるにやと、あきれ迷て其辺を尋けれ共、夜深にければ答る者もなし。縁の上に立やすらひ給たりけるに、若公の飼給ける犬の、籬の隙より走出て、尾打振て向たりければ、人々はいづくへぞ問給へ共、なじかは可(レ)答。責ての思の余に宣ふにこそはと最悲。終夜(よもすがら)三人一所に座して、旅の歎思続て語給ける。中にも命生て帰上たる甲斐には、此人々に見え
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奉たらばこそは嬉しからめ、道の程だにも無(二)心元(一)つるにとて、泣居給へるぞ心苦き。限あれば夜も既(すで)に(有朋下P755)明にけり。其鐘也ける人出来て申けるは、若公出給(たまひ)にし後は、御歎の余に淵河にも身を入んなど仰候けるが、若又帰上給ふ事もぞある、甲斐なき命を生て、上人の左右をも聞ん程、大仏へ参て其より長谷寺に伝、百日籠らせ給べしと承しが、御年をば奈良にてとらせ給けり、今は長谷にと聞侍と申ければ、其はさも侍らんと少心落居て、斎藤五急長谷寺へ参けり。若公は又上人に相具して、高雄へぞ上にける。斎藤五長谷に尋参て、かくなん帰上給へりと申ければ、母上も乳母(めのと)の女房も夢の心地して、露現共覚え給はず。若公下給にし日より、大覚寺をば迷出て、此御堂に夜昼うつぶし臥て、大慈大悲の誓は有(レ)罪をも無(レ)罪をも漏給はず、必願を満給ふなれば、などか今一度相見程の命生給はざらんと、心を砕思を運て、祈申給へる験にやとぞ思給ける。但今度は百日参籠とこそ思ひ侍つれ共、左様に帰上り給なる上は又もこそとて、観音に悦の奉(二)礼拝(一)、師匠に暇を乞給、急出給たりければ、若公も高雄より下合給り。母上も乳母(めのと)も、打見給より互に涙に咽て、共に宣出る事なし。嬉しきにもつらきにも、先立ものは涙也。かく難(レ)遁命の助りて、再糸惜き面影を見る事も、偏(ひとへ)に長谷の観音御利生也とぞ覚ける。
< 此寺は是聖武天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)、法道仙人の建立(こんりふ)也。文武天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に、此仙人観音の霊像を造らんと云願(有朋下P756)ありて、料木を尋けるに、難波浦に夜々(よなよな)放(レ)光者あり、行て見れば楠流木也。たゞ事に非と思て、是を取て庵を造、加持する事十五年、養老五年に大権の
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化現、稽主勲稽文会と云仏師に誂て、二丈(にぢやう)六尺の十一面観音を奉(レ)造、三時の行法功を積、安置の砌(みぎり)を祈処に、夢中に金人来て示て云、此峯に磐石あり、其面金容なり、大悲菩薩の所座也、我等(われら)神王、天竜八部、梵王帝釈、日月二天、閻魔水天四天王等、番々守護の霊石也と、夢覚て後、雷鳴雨ふりて山崩石砕声あり。明旦其所を見るに、引平たる事宛鏡の面の如し。中に方八尺の馬脳の石あり。石面に大なる足跡あり。人の踏るが如し。仙人寸法を取て菩薩の御足にくらぶるに、更に広狭なし。霊像を奉(レ)居に本跡の如し。公家に奏達せしかば、神亀元年に伽藍を建立(こんりふ)して、同四年三月廿日、以(二)行基菩薩(一)被(レ)遂(二)供養(一)寺也。古老伝云、風輪際より、三俣の大石ありて閻浮提に出世せり。一は中天竺摩訶陀国、寂滅道場の金剛座是也。一は大日本国(だいにつぽんごく)大和国(やまとのくに)、長谷寺の菩薩座是也といへり。 >
斯る目出施無畏薩■[*土+垂](さつた)にて、信心渇仰の人、利益空き事なければ、母上も此菩薩に帰して六代を儲、此大悲を憑て祈誓し給ければ、夢の中には白馬に乗て帰るとみ、現の前には再相見事を得たりけり。さても六代は、不(レ)習旅の東路に、跡に心の留りし事、折に触て北条が情を残し事共、つ(有朋下P757)きづきしく語給(たまひ)ても泣給ければ、見る人も聞人も皆袂(たもと)を絞けり。旅のしるしと覚えて、日黒みして少面痩給(たま)へりければ、母上痛敷悲くぞ見給ける。角ても暫副奉らばやと思給へ共、世の聞えも怖しく、又上人の思はん事も憚ありとて、急高雄へ帰給ぬ。上人は不(レ)斜(なのめならず)かしづき奉て、斎藤五斎藤六をも孚み、母上の大覚寺の住居の幽なるをも訪申けり。若公、姿形心づかひ無(レ)類おはしけるに付ても、文覚は、懸れども如何なる事かあらんずらんと、空怖しく肝つぶれてぞ覚えける。(有朋下P758)