『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十八
P1183(有朋下P759)
巻 第四十八
S4801 女院吉田御住居(おんすまひ)同御出家(ごしゆつけの)事
建礼門院(けんれいもんゐん)と申は、平家太政(だいじやう)入道(にふだう)清盛(きよもりの)御娘、高倉院(たかくらのゐんの)后、安徳(あんとく)天皇(てんわう)の御母儀(おぼぎ)に御座(おはしまし)き。悪徒(あくと)に引れて都を出て、三年の間西海に落下らせ給(たまひ)て、舟中浪の上に漂給し程に、元暦元年三月廿四日に、長門国、門司関、壇浦にて源氏の為被(レ)攻つゝ、或命を白刃のさきに失、或身を蒼海の底に沈めつゝ、上下悉亡給し時、建礼門院(けんれいもんゐん)も、先帝と同海中におはしけるを、渡辺党に源兵衛尉眤が子に、源五馬允番と云者奉(二)取上(一)たりければ、其よりあらけなき武士の手に懸て、西国(さいこく)より都へ還上給(たまひ)て、東山麓吉田の辺なる所にぞ立入せ給ける。中納言法橋慶恵とて、奈良法師也ける者の朽坊也。住荒して年久成にければ、庭には草深うして軒に忍茂り、簾絶てねや顕なれば、雨風もたまるべくもなし。昔は玉台を瑩き、錦の帳に纏れて、明し暮し給しに、今は有とある人には皆別果て、浅増気なる朽坊に、只一人落著給へる御心の中、幾計なりけん。道の程ともなひ給つる女房(有朋下P760)達も、是より皆散散(ちりぢり)に成果て、御心細さに、いとゞ消入様にぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。誰憐誰可(レ)奉(レ)育共見えず、魚の陸に上るが如し、鳥の子の巣を離たるよりも猶悲く、うかりし波の上船の中の御住居(おんすまひ)、今は恋しく思召(おぼしめさ)るる。同じ底のみくづとも成ぬべかりし身の、責て罪の報にや、残り留りてと思召(おぼしめせ)共甲斐ぞなき。天上
P1184
の五衰の悲み、人間にも有ける者をとぞ思召(おぼしめし)知れける。
五月一日、女院御髪おろさせ給。御戒師には、長楽寺の阿証坊上人印西ぞ被(レ)参ける。御布施は先帝の御直衣とぞ承し。上人是を賜て、何と云言をば不(レ)出けれ共、涙を流墨染めの袖絞るばかり也。先帝の海へ入せ給ける其期まで奉(レ)召たりければ、御移香も未(レ)尽、御形見とて西国(さいこく)より持せ給たりけり。如何ならん世までも、御身を放たじと思召(おぼしめし)けれ共、御布施に成ぬべき物のなき上、彼御菩提の御為にとて、泣々(なくなく)取出させ給けるぞ悲き。上人庵室に還、彼御直衣にて十六流の幡を縫、長楽寺の常行堂に被(レ)懸て、御菩提を奉(レ)弔給けるこそ難(レ)有けれ。縦修羅闘戦の咎に依て蒼海の底に沈み給共、などか常行荘厳の善に答て、青蓮の上に生れ給はざらんと、憑しくこそ覚えけれ。
女印は御歳十五にて内へ参給しかば、軈女御の宣旨下されき。十六にて備(二)后妃位(一)、君王の傍に候し給(たまひ)て、朝には万機をすゝめ奉り、夜は夜を専にせさせ給(たま)ひ、二十二にて王子(有朋下P761)御誕生(ごたんじやう)御座(おはしま)しき。いつしか皇太子に立せ給ふ。東宮(とうぐうの)位に即せ給しかば、廿五にて有(二)院号(一)、建礼門院(けんれいもんゐん)と申き。太政(だいじやう)入道(にふだう)の御娘なる上、天下の国母にて御座(おはしまし)しかば、世の重くし奉事不(レ)斜(なのめならず)、今年は二十九にぞ成せ給ふ。桃李の粧猶こまやかに、芙蓉御形未衰させ給はね共、翡翠の御簪、今は付ても何にかはせさせ給ふべきなれば、御様(おんさま)かへさせ給へり。厭(二)憂世(うきよ)(一)、誠の道に入らせ給へ共、御歎は不(レ)休。人々の今はかうとて海に入にし有様(ありさま)、先帝の御面影、いかならん世にか思召(おぼしめし)忘べき。露の命何に懸て今まで消やらざるらん
P1185
と、思召(おぼしめし)続けさせ給(たまひ)ては、御涙(おんなみだ)せき敢させ給はず。五月の短夜なれ共、明し兼させ給つゝ、自打まどろませ給ふ事なれば、昔の事を夢にだに御覧ぜず。遅々たる残燈の、壁に背たる影幽に、蕭蕭たる暗夜、窓打雨音閑なり。上陽人が上陽宮に被(レ)閉たりけん悲さも限あれば、さびしさは是には過じとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。昔を忍ぶ妻となれとや、本の主や移植たりけん軒近き花橘の風なつかしく薫たりける。折しも山郭公の一声二声(ふたこゑ)音信(おとづれ)て、遥(はるか)に聞えければ、御涙(おんなみだ)を推拭ひ給(たまひ)て、御硯の蓋に角ぞ書すまさせ給ける。
郭公花橘の香をとめてなくはむかしの人や恋しき K253
と。大納言典侍(だいなごんのすけ)是を御覧じて、いとゞ悲く思召(おぼしめし)ければ、(有朋下P762)
猶も又昔をかけて忍べとやふりにし軒にかをるたち花 K254
S4802 大臣父子自(二)鎌倉(一)上洛附女院寂光院入御事
女院は、吉田にも仮に立入らせ給ふと思召(おぼしめし)けれども、五月も立六月も半に過ぬ。今日までもながらへさせ給べくも思召(おぼしめさ)ざりしか共、御命は限あれば、明ぬ暮ぬと過させ給し程に、大臣殿父子、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)、鎌倉より還上給と聞せ給ければ、誠ならず思召(おぼしめし)けれ共、甲斐なき命計もやと思召(おぼしめし)ける程に、大臣殿父子は、都近き近江国勢多と云所にて失給ぬと聞召ければ、悲とも云ばかりなし。三位中将(さんみのちゆうじやう)、奈良の大衆の中へ出されて、今は限の御有様(おんありさま)、御頸は大卒都婆に釘付にせられ給へる事、又大臣殿父子の御頸、大路を渡して獄門の木に被(レ)懸たる事、人参て細々と申ければ、由なく聞せつる者哉と思召(おぼしめし)
P1186
つゝ、御胸塞御涙(おんなみだ)せき敢させ給はず。都に近くて懸事を聞召に付ても、尽せぬ御歎は休せ給はず、露の命風を待程も、深山(しんざん)の奥の奥にも籠入ばやと思召(おぼしめし)けれ共、去べき便もなし。吉田には、去文治元年九月九日の大地震に、築地も崩れ、荒たる屋共もいとゞ傾破て、すませ給べき御有様(おんありさま)にも見えさせ給はず、憑もしき人一人もなし。地震に打復べしなど聞召(きこしめ)せ(有朋下P763)ば、惜かるべき御命にはなけれ共、只尋常にて消入ばやとぞ思召(おぼしめし)ける。晩行秋のさびしさは、いとゞ御心細からぬと云事なし。心の儘に荒たる籬は、繁野辺よりも露けくて、折知がほにいつしか虫の音声々に怨も哀也。都も尚静なるまじき様に聞召ければ、今少かき籠ばやとぞ思召(おぼしめし)ける。何事も替り果ぬる憂世(うきよ)なれば、如何にと申人もなし。自哀をかけ訪申ける草の便も枯果て、可(レ)奉(二)誰育(一)とも不(レ)(二)思召(おぼしめさ)(一)けるに、信隆卿の北方と、隆房卿(たかふさのきやう)の北方と、忍つゝ時々憐申ける。秋も既半に成ぬ。御襟に秋の哀をさへ打副て、いとゞ難(レ)忍思召(おぼしめせ)ば、夜漸長く成儘には、御寝覚がちにして明しぞ兼させ給ける。偖も女院に候はせ給ける女房のゆかりにて、大原(おほはら)の奥に寂光院と申所を尋出したりと申ければ、悦思召(おぼしめし)て、渡らせ給べきに定りにけり。御乗物などは、冷泉大納言(だいなごん)隆房(たかふさの)北方より忍たる様にて、女房車二両被(レ)進けり。彼北方と申は、女院の御妹にて御座(おはしまし)ける故也。大方も常は訪申されければ、嬉しと思召(おぼしめし)けり。此人の憐にて角有るべしとこそ懸ても不(二)思召(一)(おぼしめさざり)しかとて、御涙(おんなみだ)を浮べさせ給へば、候給ける人々も、皆袖をぞ絞りける。
P1187
比は十月末の事にや、いと人通たり共見えぬ道を、遥々(はるばる)と分入せ給に、四方の梢の色衰へたるを御覧ずるに付ても、我身の上やらんと御心すまずと云ふ事なし。山陰(やまかげ)なればにや、日も既(すで)に(有朋下P764)暮懸りぬ。何となく御心細思召(おぼしめす)に、野寺の鐘の入相の音すごく、草葉の露にそぼぬれさせ給へり。角て分入せ給へば、地形幽閑の洞の内、西の山の麓、北山の谷の奥に、寂光院と云御堂あり。怪気なる坊もあり。年経にけりと覚て、古にける石の色、落くる水の音も由ある体也。緑蘿の垣紅葉の山、絵に書とも筆も難(レ)及。いつしか、空掻陰うち■(しぐれ)つゝ、嵐烈して木葉猥がはし。鹿音時々音信(おとづれ)て、虫の怨も絶絶(たえだえ)弱れり。秋の悲秋の哀をさへ取集たる御心すごさに、古歌を思召(おぼしめし)出しつゝ、
奥山に紅葉ふみ分啼鹿の声聞時ぞ秋は悲しき K255
〔と〕口ずさませ給けるに付ても、浦伝島伝せしか共、流石(さすが)是程はなかりし物をと思召(おぼしめし)て、責の御事と覚えて哀なる。秋の木葉の霜を待よりも、猶危御住居(おんすまひ)也。窓打雨の音幽に、松吹嵐物騒しく、不(レ)知鳥の声のみ檐近音信(おとづれ)て、たのもの雁は雲井遥(はるか)に啼渡、荻の上風うちそよぎ、鹿鳴草の下露玉をたる。ゆゑある気色難(二)御覧棄(一)、昔の事共思召(おぼしめし)出させ給(たまひ)て、御涙(おんなみだ)関敢させ給はざりける折しも、外面の谷の楢葉のそよぎけるを、誰ならん、日来はさてこそ有つれ共、事問人もなかりつるに、故郷人の問来にやと御心迷して、急物の隙より御覧ずれば、故郷の人には非して、妻恋鹿の籬の中をぞ通りける。山深き御住居(おんすまひ)、今(有朋下P765)更におぼし知れて、角ぞ思召(おぼしめし)つゞけさせ給ける。
P1188
岩根ふみ誰か問こんならのはのそよぐは鹿の渡也けり K256
角て御心すごく、幽なる御住居(おんすまひ)にてぞ渡らせ給ける。常は仏の御前に参給(たまひ)て、過去聖霊、一仏浄土(じやうど)へ導給へと申させ給に付ても、先帝の御面影、二位殿(にゐどの)、今は角とて海へ入せ給し御有様(おんありさま)、如何ならん世にか可(二)思召(おぼしめし)忘(一)、露の命何に懸りて消やらざるらんと思召(おぼしめす)も理也。御歎はひしと御身に添て、忘進する時はなけれ共、殊に悲しく思召(おぼしめし)出させ給折節(をりふし)にや、仏の御前に倒臥させ給(たまひ)て、消入せ給御事も度々なりければ、御前なる尼女房達(にようばうたち)、こは如何にやとて奉(レ)拘つゝ呼叫合へり。良久有てぞ人心地出来させ給ける。不(レ)尽御歎積にやと覚て哀也。角て経(二)年月(一)程に、
S4803 法皇大原(おほはら)入御事
後白川【*後白河】(ごしらかはの)法皇(ほふわう)、女院の幽なる御有様(おんありさま)を聞召(きこしめし)て、御心苦く思召(おぼしめし)ければ、一御所にも住せ給はばやと思召(おぼしめし)けれ共、其比九条殿摂政(せつしやう)にて御座、近衛殿(このゑどの)御籠居也。いつしか引替たる代に成て、都の人心様々也。又十郎蔵人行家、九郎大夫判官(たいふはうぐわん)義経等、都を出たりと(有朋下P766)いへ共生死未(レ)定、人の口もつゝましく、鎌倉源二位の漏聞ん事憚ありと思召(おぼしめし)て、過させ給ふ程に、秋も暮冬も過て、あらたまの年立回り、文治二年にも成ぬ。二月上旬の比、大原(おほはらの)山の奥へ御幸ならばやと思召(おぼしめし)けれ共、余寒猶烈くして、去年の白雪(はくせつ)消遣ず、谷のつららも打解ねば、思召(おぼしめし)とゞまらせ給に、春も過夏にも成にけり。北祭など打過て、卯月の末の三日思召(おぼしめし)立せ給ふ。大原(おほはら)の御幸とは、世の聞えを憚せ給つゝ、補陀落寺の御幸と披露有て、あじろの輿に奉り、夜を籠て忍て寂光院へ御幸あり。御伴の公卿には、後徳大寺(ごとくだいじの)左大将実定、花山院大納言(だいなごん)兼雅、按察使
P1189
大納言(だいなごん)泰通、冷泉大納言(だいなごん)隆房(たかふさ)、侍従大納言(だいなごん)成通、桂大納言(だいなごん)雅頼、堀川(ほりかはの)中納言通亮、花園中納言公氏、梅小路三位中将(さんみのちゆうじやう)盛方、唐橋三位綱屋、源三位資親、殿上人(てんじやうびと)には柳原左馬頭(さまのかみ)重雅、吉田右大弁親季、伏見左大弁(さだいべん)重弘、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)時景、北面には高倉左衛門尉(さゑもんのじよう)、石川判官、河内守長実を始として、已上十八人(じふはちにん)とぞ聞えし。
清原深養父が建たりし、〈 肥後守(ひごのかみ)元輔と云ふ下総守春光の息也、 〉補陀落寺を拝せ給(たま)ひつゝ、女院の住せ給(たま)ひける芹生里、大原(おほはら)や小塩山の麓なる寂光院へぞ御幸なる。分入山の道すがら、秋の比にはあらね共、夏草のしげみが末をたどり入らせ給にも、露にしをるゝ御衣の袖、膚を徹嵐の音、冷くぞ思召(おぼしめす)。卯月末の事なれば、遠山に懸白雲は、散(有朋下P767)にし花の形見とや、青葉に見ゆる梢には、春の遺惜まるゝ。始たる御幸なれば、御覧じ馴たる方もなし。細谷川の水、岩間を過る音すごく、芹生里の細道、誰踏初て通ひけん、逢人稀峙のかけ路、問々入せ給程に、女院の御庵室近成由聞召ども、緑衣之監使宮門を守なし、主殿の伴の御奴、庭を払も不(レ)見けり。彼寂光院景気を御覧じければ、古く造なせる山水木立、何となくわざとにはあらね共、由ある様なる御堂也。甍破霧焼(二)不断之香(一)、枢(とぼそ)落月挑(二)常住之燈(一)とは、加様の所をや申べき。檐には垣衣茂、庭には葎片敷て、心の儘に荒たる籬は、しげき野辺よりも猶乱、氷解ぬる谷川の、筧の水も絶々(たえだえ)也。波に漂池の萍、錦を曝すかと疑れ、露を含める岸の款冬、玉を貫かと誤たる。青葉まじりの遅桜、梢の花も散残、若紫の藤花、墻根の松に懸れるも、
P1190
春の遺を惜めとや、君の御幸を待貌也。八重立雲の絶間より、初音ゆかしき山郭公をば、此里人のみや馴て聞らんと、思召(おぼしめし)知せ給けり。岸の青柳色深くして、池水みどりの浪に立ければ、法皇角ぞ思召(おぼしめし)つゞけさせ給ける。
池水に岸の青柳散しきて浪の花こそさかりなりけれ K257
御堂の後に、蓬の軒を並て、怪げなる柴の庵二つ三つ有けるを、女院の御庵室と聞召ば、(有朋下P768)哀なる御棲(おんすみか)かなと有(二)叡覧(一)、以(二)北面下掾i一)、人やあると尋させ給へ共、寂寞の柴の枢なれば、無人声として答人もなし。香煙出(レ)窓、芝草覆無(レ)人、禅侶向(二)壇金(一)、磬鳴有(レ)響瑜伽(ゆが)振鈴(しんれい)の音にこそ、庵室の中に人あり共聞召。香煙細く燃昇、片々として空に消、人跡遥(はるか)に絶果て、蕭然として音もせず、僅人目ありがほに、賤尼一人留守に置れたり。法皇此尼を召て、女院はいづくへ渡らせ給たるぞと御尋(おんたづね)有ければ、尼答て申けるは、此上の山へ、御花摘に入せ給候ぬと申に、法皇是を聞召より、早晩か哀に思召(おぼしめし)て、さこそ世を遁させ給と申ながら、如何に賤がわざをばせさせ給ぞ、御前近召仕はせ給人のなきか、自つませ給はずば、御事の闕させ給べきかと聞えさせ給へば、此尼申けるは、家を出御飾をおろさせ給ふ程にては、などかさる御行もなくて候べき、過去の戒善修福の功に依、忝天下の国母と成せ給たれ共、先の世に加様の懇の御勤の候はざりければこそ、今斯憂目をも御覧ぜられ候へ。去ば欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因とて、依(二)過去業因(一)、現在の
P1191
得報を知、現在の善悪に応て、未来の苦楽を悟べしと被(レ)説候ぬ。我今疾苦、皆由過去、今生修福、報在将来とも被(レ)宣て候へば、大内遊宴の昔の楽は、誠に戒善によれりと申せ共、其戒徳始終持とげさせ給はざりける故、露の御命かりそめに(有朋下P769)置、草の便も枯果させ給へば、因果の道理をも知召、未来の昇沈を兼て覚り御座(おはしまし)て、花を摘水をあぐる御事、いつも御自也、なじかは賤がわざとも可(レ)被(二)思召(一)(おぼしめさるべき)と申を御覧ずれば、色黒うして疲衰へたる老尼の、紙衣の上に、濃墨染の衣をぞ著たりける。あの身の程にて賢々しく、加様の事を申不思議さよと思召(おぼしめし)、己は如何なる者ぞと問せ給へば、尼さめざめと打泣て、暫は物も不(レ)申。いかに/\と度々勅定ありければ、尼泣々(なくなく)申やう、加様の形勢(ありさま)にて、申も愚に覚えつゝ、憚思候へ共、度々勅定恐あれば申なり、我は一年平治の乱の時、悪衛門督信頼(のぶより)に失はれ候し少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)が孫、弁入道(べんのにふだう)貞憲が娘に、阿波内侍と申しは尼が事に候きとて、御前にうつぶき臥て泣ければ、法皇聞召、無慙やな、誠や此尼は紀伊二位にも孫也、彼二位と申は、法皇の御乳母(おんめのと)成ければ、此尼も御乳母子(おんめのとご)にて、殊に御身近召仕し人なれば、なつかしかるべき者にこそ。替れる貌とて、御覧じ忘けるこそ哀なれと思召(おぼしめし)、竜顔より御涙(おんなみだ)せき敢ずぞ流させ給(たま)ひける。さて女院を待進させ給、其程に彼方此方たゝずませ給(たまひ)て御覧ずれば、いさゝ小竹に風そよぎ、後は岸前は野沢、山月窓に臨では閨の燈を挑、松風軒を通て草庵の枢を開。世にたゝぬ身の習とて、憂節しげき竹柱、都の方の言伝は、間遠にかこふ竹垣や、僅(わづか)に伴なふ者とては、賤が爪(有朋下P770)木の斧の音、
P1192
正木の葛青累葛、長山遥(はるか)に連て、来人稀なる里なれば、適言問者とては、巴峡の猿の一叫、塒定むる鶏、孀烏のうかれ音、樒の花柄花笥、かつ見るからに哀也。満(レ)耳者樵歌牧笛声、遮(レ)眼者竹煙松霧之色とかや。懸閑居の有様(ありさま)を、忍てすごさせ給けんと、叡覧あるに付ても、御涙(おんなみだ)ぞ進ける。草の庵の御住居(おんすまひ)、幽なる有様(ありさま)、瓢箪屡空、草滋(二)顔淵之巷(一)云つべし。柴の編戸も荒はてて、竹の簀子もあらは也。藜蓼深鎖、雨湿(二)原憲之枢(一)とも覚えたり。何事に付ても、御心を傷しめずと云事なし。偖も竹の編戸を打叩、叡覧あれば、昔の空薫に引替て、香の煙ぞ匂たる。僅(わづか)に方丈なる御庵室を、一間は仏所に修て、身泥仏の三尺の弥陀の三尊(さんぞん)、東向に被(レ)立たり。来迎の儀式と覚えたり。中尊の御手には五色の糸をかけ、御前机に浄土(じやうど)の三部経を被(レ)置ける。内に観無量寿経あそばしさしたりと覚くて、半巻ばかり巻れたり。傍に一巻の巻物あり。披いて御覧ずれば、高倉先帝、安徳(あんとく)天皇(てんわう)を始進せて、太政(だいじやう)入道(にふだう)、小松大臣、屋島の内府以下、一門の卿上(けいしやう)雲客(うんかく)、御身近被(二)召仕(一)ける諸大夫侍に至まで、姓名を被(二)書注(一)たる過去帳也。毎日に読あげ弔はせ給にやと思召(おぼしめし)ければ、竜顔に露を諍て、御衣の袖にもかゝりける。仏の左には普賢の絵像を懸、御前には八軸の法華経(ほけきやう)を被(レ)置たり。右には善導和尚(くわしやう)の御影を奉(レ)懸、(有朋下P771)浄土(じやうど)の御疏九帖、往生要集を被(レ)置たり。北の壁には、琴琵琶各一帳立られたり。管絃歌舞菩薩の来迎の粧を、思召(おぼしめし)准かと覚たり。又時々の御心慰にや、古今、万葉、源氏、狭衣、其外の狂言綺語の物語(ものがたり)、多取散されて、折々(をりをり)の御手すさみ、
P1193
昔の御遺(おんなごり)と覚えて哀也。御傍障子の色紙形には、諸経の要文共被(レ)書たり。中にも一切業障海、皆従妄想生、若欲懺悔者、端坐思実相と見えたり。昇沈不定の悲、此死生(レ)彼歎も、真如平等の理に迷、妄想顛倒の心より起れり。懺悔の方法によらず、争恵日の光に照されんと覚たり。諸行無常、是正滅法、生滅々已、寂滅為楽とも被(レ)書たり。此文の心は、一切の行は皆無常也。無常の虎の声は、明々暮々耳に近づけ共、世路の趨に聞えず、雪山の鳥の音は、日々(にちにち)夜々(よなよな)に今日不(レ)知(レ)死と鳴共、棲を出て忘れず、冥途の使身に競、屠所羊の足早して、親に先立子、子に先立親、妻に別るゝ夫、夫に後るゝ妻、形は芭蕉の風に破るゝが如く、命は水の泡、波に随て消ぬ、万法皆しかなれば、諸行無常と置れたり。若有重業障、無生浄土(じやうど)因乗弥陀願力、必生安楽国とも被(レ)書たり。妄想懺悔も便なく、寂滅為楽も不(レ)覚ば、弥陀悲願の被(レ)済、往生安楽憑ありと覚たり。又三河入道寂照が大唐国へ渡つゝ、清涼山の竹林寺に詣て、終焉をとりける夕べに、詠じける詩もあり。(有朋下P772)
草庵無(レ)人扶(レ)杖立 香炉有(レ)火向(レ)西眠 笙歌遥聞孤雲上 聖衆来迎落日前 K258
雲の上にほのかに楽の音すなり人にとはばやそら聞かそも K259
此詩歌の次に、女院角ぞ思召(おぼしめし)そへられける。
乾くまもなき墨染の袂(たもと)かなこはたらちねが袖のしづくか K260
御腰障子にも、女院御手と思くて
P1194
思きや深山(みやま)の奥に住居して雲井月をよそにみんとは K261
消がたの香の煙のいつまでと立廻べき此世なるらん K262
此外、四季の歌も書れたり。
古の奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな K263
うちしめり菖蒲ぞかをる郭公啼くや五月の雨の夕暮 K264
久竪の月の桂も秋はなほ紅葉すればや照まさるらん K265
さしも亦問れぬ宿と知ながらふまでぞ惜き庭の白雪(しらゆき) K266
此山のはに三尺の閼伽棚をつくり、樒入たる花かつみ、霰玉ちる閼伽の折敷ぞ被(レ)置たる。御傍の障子を引開御覧ずれば、御寝所と覚えて、蕨のほどろを折敷て、鹿の臥猪床を諍へ(有朋下P773)り。夜の御衾とおぼしくて、白御小袖の怪げなるに、麻の衣、紙の御衾取具して、竹の竿に被(レ)懸たり。此等を御覧じ廻すに付ても、片山影の柴の庵の御住居(おんすまひ)、一品ならず哀に御心すまずと云事なし。昔は玉台を瑩き、錦帳の中に、漢宮入内の后として明し暮し給つゝ、漢家本朝の珠玉各数を尽し、綾羅錦繍の御衣色色(いろいろ)袖を調て、御目に御覧ずる物とては、源氏狭衣の狂言をのみ翫、御耳に触物とては、詩歌管絃の音をのみ聞召しに、今は柴曳結庵中、げに消易露の御住居(おんすまひ)、盛者必衰の理、眼の前にあらはなりと、思召(おぼしめし)続させ給にも、昔逢坂の蝉丸が、山階や藁屋の床に住居つゝ、往来の人に身をまかせ、月日
P1195
を送けるにも、
世中はとても角ても有ぬべし宮もわらやも果しなければ K267
と詠じける事も限あれば、角こそ思召(おぼしめし)続させ給(たまひ)ては、中々無(レ)由御幸成て、此有様(ありさま)を見つる者哉と、竜顔所せきまで御涙(おんなみだ)を流させ給へば、御伴の公卿殿上人(てんじやうびと)、北面の輩に至まで、皆袖をぞ絞ける。加様に哀なる御事共(おんことども)、良御覧じ廻ける程に、後山の尾上より、岩の峙路を踏渡、木根の間を伝つゝ、尼こそ二人おり下れ。共に濃墨染の衣をぞ著たりける。一人の尼は、妻木に蕨折副て、胸に拘て前にあり。一人尼は、樒、躑躅、藤花入たる花笥、(有朋下P774)肱懸て後にあり。法皇怪く思召(おぼしめし)、御めかれもせず御覧ずれば、爪木に蕨折具して胸に拘たる尼は、大宮太政大臣(だいじやうだいじん)伊通公御孫、鳥飼中納言伊実卿の御娘、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやうの)養子、大納言典侍殿(だいなごんのすけどの)と申て、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)北方、先帝の御乳母(おんめのと)也。花籠肱に懸たるは、即女院にてぞ御座(おはしまし)ける。御留守に置れたるは、弁入道(べんのにふだう)貞憲の娘、阿波内侍と申も、大納言典侍殿(だいなごんのすけどの)と申も、女院の后の宮にて渡らせ給し御時より、つかのまも御身を離進せざりし人共の、実の道に入せ給までも付進せたりける。先世の御契の程、哀とぞ思召(おぼしめし)ける。
法皇は、女院と御覧じ進せられて、忝(かたじけなく)も歩の御行にて、山に向て歩御座(おはしまし)けり。女院は角とも思召(おぼしめし)依せ給はざりければ、おり下らせ給けるが、夏山の翠の木間より、御庵室の方を御覧ずれば、払ぬ庭の叢に、■(あじか)の輿を舁居て、例よりもよに人繁様成ければ、里遠く、人も通ぬ柴の戸に、奇しや誰か
P1196
事問はんと思召(おぼしめし)て、木陰に添てよく/\是を御覧ずれば、法皇の御幸とみなし進させ給つゝ、思の外の御幸哉と、恥しさにあきれさせ給つつ、思召(おぼしめし)煩はせ給(たまひ)て、山へも帰上らせ給はず、御庵室へもすゝみ下らせ給はず、寂寞之柴の枢には、偏(ひとへ)に摂取(せつしゆ)の光明(くわうみやう)を待て、十念之窓の前には、専聖衆の来迎をこそ期しつるに、思の外なる御幸なる上、流石(さすが)御身の有様(ありさま)も、如何にとやらん思召(おぼしめし)、只今(ただいま)の程に消も(有朋下P775)失なばやと思召(おぼしめし)けれ共、霜雪ならねばそも叶せ給はず、霧霞ならねば、立隔御事もなし。心憂しと思召(おぼしめし)て、立すくませ給たりけるが、世を遁様を窄して深山(しんざん)に籠、自花を摘水を揚程にては、何かは苦しかるべき、猶も憂世(うきよ)に留心のあればこそ恥る思ひも有らめと思召(おぼしめし)かへして、難面下させ給にけり。御庵室に入せ給つゝ、昔の御遺(おんなごり)と覚えて、鈍色二衣を御衣の上に引懸させ給(たまひ)て、法皇の御前に参せ給つゝ、何に角遥々(はるばる)の山の奥、浅増(あさまし)き草の庵へ御幸ならせ給候こそ覚共覚え候はねと、被(レ)仰も敢させ給はず、御涙(おんなみだ)をはら/\と流させ給へば、法皇は、其後御向後の覚束(おぼつか)なさに参たりと計にて、御袖を竜顔に押当させ給(たまひ)て、御涙(おんなみだ)にぞ咽ばせ給ふ。暫は互に御詞も不(二)出給(一)。
良久有て、女院御涙(おんなみだ)の隙より、年比日比(ひごろ)うらめしく思召(おぼしめし)ける御事共(おんことども)を、崩し立て申させ給けるは、君をば高き山深海とこそ宗盛は憑進て、内々は西国(さいこく)へも御幸なし進んと計申候しに、思には違ひて、御所にも渡らせ給はず、後にこそ比叡山(ひえいさん)にとも承候しか、君に被(レ)棄進せ候し後は、憑木本に雨のたまらぬとかやの風情にて、宗盛以下一門の人々泣々(なくなく)都を落、長夜に迷へる心地して、寿永
P1197
の秋の空に、主上ばかりを取進て、あくがれ出候し有様(ありさま)、御輿を指寄て、疾々と進まゐらせ候しかば、まだ幼き主上を奉(レ)懐、神璽宝剣ばかり取具して、自も心な(有朋下P776)らず御輿に乗候ぬ。御伴には平(へい)大納言(だいなごん)時忠、内蔵頭(くらのかみ)信基ばかりぞ候し。行先も涙にしをれて道見えず、都をば一片の煙と焼上て、西海の浪の上に漂、習ぬ船の中にて年月を送、春の雁の越路に伝ひ、秋の燕の故郷に帰を余所にうらやみ、夜は渚(なぎさ)の千鳥と共に泣明し、昼は磯辺の浪に袖を浸、海士の焼藻の夕煙、物や思と燃■(もえこがれ)、枯野の草の朝露に、虫の恨も最悲し。浦吹風もいたく身にしみ、岸打波も音冷。満塩船を挙時は、只今(ただいま)や水の底に入なんと魂をけし、荒風波をたゝふる時は、又すはや船を覆すと心を迷す。
偖も筑前国太宰府とかやに落着て候しかば、近夷は皆参たれ共、遠きは先使を進せ候し程に、豊後国住人(ぢゆうにん)尾形三郎維義が、一院の御諚とて、大勢にてよすると申しかば、取物も取敢(とりあへ)ず、駕与丁もなければ玉御輿をも打捨て、主上を次の御輿にのせ進せて、怪者共にかゝせ進せつゝ、公卿殿上人(てんじやうびと)、指貫のそばをとり、女房北方は裳唐衣を泥にふみ、箱崎と申所へ我先にと諍行ども、猶道遠く覚て、一日に行帰なる道をゆきもやらず、日も暮夜も深ぬ、折節(をりふし)雨風烈くて沙を天にあぐ、竜にあらねば雲へも上らず、鳥にあらざれば天にも翔がたし、唯長夜に迷へる心地にて、男女の泣悲音は、地獄の罪人もかくやと思知(おもひしら)れ候き。人々は鬼界高麗とかやへも渡らんと申候しか共、波風向て叶はねばとて、山鹿兵藤次秀遠(有朋下P777)に被(レ)具て、山鹿城に籠て候しに、維義猶寄と申しかば、竜頭鷁首もなければ、■舟(ぐしう)とて
P1198
小船共に乗つれて、終夜(よもすがら)落行て、豊前国柳と申所に著て、其に七日ぞ候し。是へも敵寄と申しかば、又船に取乗、潮に引れ波に任て漂行候しに、小松大臣が子、三男左中将清経が、都をば源氏に被(二)攻落(一)ぬ、鎮西をば維義に被(二)追出(一)ぬ、何へ行ば遁べきかとて、月の隈なく候し夜、船の屋形(やかた)の上に昇て、東西南北見渡て、哀墓なき世中哉、いつまで有べき所ぞや、網に懸れる魚の様に、心苦く物を思事よとて、念仏静に申つゝ、波の底に沈み候にき、是ぞ憂事の始にて候し。
其後讃岐の屋島に渡て、阿波民部大輔(みんぶのたいふ)成能がもてなし奉て、内裏可(レ)造など聞え候しかば、少し安堵したる心地の候し程に、こゝをも九郎判官に被(二)責落(一)て屋島を漕出、又塩に引れ風に随て、いづくを差て行ともなくゆられありきて、長門国門司関壇浦にて、今は角とて人々皆海へ入候にき。二位殿(にゐどの)は先帝を奉(レ)懐て、練袴のそば高くはさみ、君の御宝なればとて宝剣を腰にさし、神璽をば脇に挟て、鈍色の二つ衣打被き、臨(レ)舷候しかば、先帝あきれさせ給(たまひ)て、是は何へ行んずるぞと被(レ)仰候しに、兵共(つはものども)が御船に箭を進候へば、こと御船へ行幸なし進せ候也と申や遅き、波の底へ入候にき。偖先帝の御乳母(おんめのと)帥典侍(そつのすけ)、あの大納言典侍(だいなごんのすけ)已下の女房達(にようばうたち)是を見て、声を調(有朋下P778)挿絵(有朋下P779)挿絵(有朋下P780)て喚叫事夥(おびたたし)、軍よばひにも劣候はず、或波の底に沈、或虜にせられて命を失ふ。中にも宗盛清宗父子、沈も果なで生ながら被(二)取上(一)候しを、まのあたり見候し事、いつ可(レ)忘とも覚えず、自も同じ底のみくづと成候しを、渡部の番とかや云者に取上られ、あらけなき武士に被(レ)具、難面命の存へつゝ、再都に帰上、角
P1199
憂身の有様(ありさま)として、君の御幸を見進る事の恥しさよとて、又雨々と泣御座(おはしまし)ければ、法皇仰の有けるは、人間有為の理、三界無安の悲、有に付ても歎多、無に付ても愁繁し、生老病死の仮の身、終に保うる事難、愛別怨憎の定れる報い、人毎(ひとごと)にこれ有、前後の相違耳に近うして常に是を聞、老少不定遮(レ)眼頻(しきり)に是を見、世のさが人のくせと思召(おぼしめし)て、今更御歎候べからず、但此御有様(おんありさま)にて渡らせ給とは努々知進せず、誰かは訪進せ候と申させ給へば、信隆、隆房(たかふさ)の北方の計としてこそ角ても候へ、昔は彼人々の孚にて世に候べしとは兼て不(二)思寄(一)者をとて、御涙(おんなみだ)ぐみ御座(おはしまし)ければ、法皇、如何に六条摂政(せつしやう)の方よりは、申事候はずやと申させ給へば、世に恐て其よりは音信(おとづるる)事候はずと申させ給けり。此御有様(おんありさま)を見聞進て、法皇を始進せつゝ、供奉の公卿殿上人(てんじやうびと)、或冠の巾子を地に付、或束帯の袖を絞けり。其中に後徳大寺(ごとくだいじの)左大将実定は、哀に堪給はず、御前の座を立出て縁に座しけるが、古詩を、(有朋下P781)
朝有(二)紅顔(一)誇(二)世路(一) 夕為(二)白骨(一)朽(二)郊原(一) K268
と詠じ給(たまひ)て、御庵室の柱に、
古へは月にたとへし君なれど光失ふ深山べの里 K269
書すさまれたりければ、いとゞ哀を催しけり。
S4804 女院六道(ろくだう)廻物語(ものがたりの)事
法皇申させ給けるは、何事に付ても、如何に昔も恋し無(レ)便御事にて候らん、隔なく仰られよ、昔の好み更に忘進らせずと聞えさせ給へば、女院仰の有けるは、何かは無(レ)便候べき、朝夕の事は、隆房(たかふさの)北方訪
P1200
申せば煩なし、斯る身と成て候、一旦の歎に任てこそ君をも恨申し候つれ共、誠は将来不退の悦と、思取てこそ候へ。今更不(レ)及(レ)申事なれ共、偕老同穴の眤を成て、千秋万歳と祝し、竜顔にわかれ奉て、幾程もなく父相国に後候にき。都の外に漂て後は、又八条の尼公にも別、天津御子にも後れ奉ぬ。親き人々を始て、有と有し者共唯一時に亡にき。親を思子を悲心は獣すら猶深しと申、まして人界の類には、何事か是にすぎん、釈尊入滅之時は、身子の羅漢五百の弟子の悲の音、天に(有朋下P782)のぼり地を響かす、迦葉尊者の叫ける音は、三千世界に聞えけり。生者必滅の道、愛別離苦の理なれ共、此身の有様(ありさま)は、昔も今もためし、少こそ候ぬれ。いかばかりかは惜も悲も候し。去共不(レ)殺命限あれば、一人残留て彼後生菩提を弔候へば、賢くぞ残留にける。貧女が一燈とかやも角こそと覚え候。諸仏薩■[*土+垂](さつた)争納受(なふじゆ)し給はざらん。中にも老言の様に候へ共、五障三従の身を持ながら、早く釈迦太師遺弟に列、竜女が成仏(じやうぶつ)憑あり、忝弥陀他力本願を信ず、韋提得悟無(レ)疑、此世は仮の宿なれば、屠所羊足早思をなし、月日の鼠の口騒観を凝しつゝ、三時に六根の罪障を懺悔して、一筋に九品の蓮台を相待、臨終の夕に一念の窓を開て、順次の暁三尊(さんぞん)の迎を得ん事、これ既(すで)に一旦別離の故に候。法華経(ほけきやう)には、善知識者是大因縁と説れたり、彼浄蔵浄眼は、生て父の知識たり。安徳(あんとく)天皇(てんわう)は、崩じて母の知識たり。されば今度離(二)生死(一)菩提に到らん事は、思定て候。三界無安、猶如火宅、衆苦充満、甚可怖畏と説れたれば、さなしとても有(レ)心人は厭べし、況我身かほどの憂目に
P1201
あひながら、争難面不(二)思知(一)、空過候べき。又韋提希夫人の、悪子の為に被(レ)閉て、如来(によらい)を奉(レ)請、不楽閻浮提、濁悪世也此濁悪処、地獄餓鬼畜生、盈満多不善聚と歎給けんも被(二)思知(一)候、その故は、人は皆生を替てこそ六道(ろくだう)(有朋下P783)をば見候へ、そも隔生即妄とて、生死道へだたりぬれば、昇沈苦楽悉に忘、胎卵湿化一として不(レ)覚、それに自こそ生を替ずして、まのあたり六道(ろくだう)の苦楽を経廻候へ、天上人中の快楽も夢の中に戯、地獄鬼畜の愁歎も迷の前の悲み也、今は見たき所もなく、住たき境も候はず、されば随(レ)日衆苦充満の穢土の厭はしく、遂(レ)時快楽不退の極楽は欣はれ候へば、さりとも今度は生死をば離候なんと、憑もしく候へば、世の事露不(レ)思、されば何事にかは、今更貪思もあり、諂心も候べきと申させ給ければ、法皇聞召(きこしめし)て、此条覚束(おぼつか)なく候、天竺には釈迦如来(しやかによらい)の御弟難陀尊者、在俗の時奉(レ)随(二)仏通力、九山八海を廻、天上地獄を見たりき、唐土には玄弉三蔵、解前に六道(ろくだう)を見給き、我朝には金峯山の日蔵上人、蔵王権現の御誓によりて、六道(ろくだう)を見たりとは承伝たり、彼等は皆大権の化現たる上、依(二)仏神通力(一)見て候、女人の御身として正く六道(ろくだう)を御覧じける事、実しからぬ様にこそ覚候へと仰ければ、女院打咲せ給(たまひ)て申させ給けるは、勅定誠にさる事に候へ共、自生を替ずして、六道(ろくだう)の苦楽を経たる有様(ありさま)を、此世に准て申候はん、我身入道(にふだう)相国(しやうこく)の世に候し時、其娘として何事にか乏候し、院の御位の時は后宮にて候しかば、十五にて内へ参、軈女御の宣旨を被(レ)下、十六の時后妃の位に備、君王の傍に候て、朝(有朋下P784)には朝政を進めまゐらせ奉て、夜はよを専
P1202
にして、二十二にて王子御誕生(ごたんじやう)ありしかば、春宮(とうぐう)にこそ立せ給べかりしか共、いつしか天子の位につかせ給しかば、二十五にて院号給(たまひ)て、建礼門院(けんれいもんゐん)と云はれ、天下の国母と被(レ)仰し後は、百敷の大宮人にかしづかれて、一天四海を掌の内に握、百官万民を眼の前に照しつゝ、竜楼鳳闕の九重の中に、清涼紫宸の床を相並、玉簾内錦茵上にして、詩歌管絃、扇合、絵合の興に戯れ、玄上鈴鹿、河霧、牧馬の弾をきゝ、大内山の花の春は、南殿の桜に心を澄して日の長き事を忘、清涼殿の秋の夜は、雲井の月に思ひを懸て夜の明なん事を歎、冬は右近馬場にふる雪を、先笑花かと悦、夏は木陰涼しき暁に、初郭公の音もうれし。玄冬素雪の寒き朝なれ共、衣を重て嵐を防、九夏三伏の熱夕べには、泉に向納涼す。長生不老術を求て不(レ)衰事を願、蓬莱不死の薬を尋て久保ん事を思き。乳泉の滋味朝夕に備たり、綺羅の妙なる色、夜も昼も荘とす。一門の栄花は堂上花の開が如く、万人の群集は門前に市立るに不(レ)異。彼極楽世界の荘厳も、菩薩聖衆の快楽も、争これにはすぎんと覚え候き。貧き事なくほこりて乏事も不(レ)知、無(二)醜事(一)。わすれて善所を不(レ)欣、明ても暮ても楽栄し事は、大梵王宮の高台の閣、天帝釈城の勝妙の楽、衆車園の遊、歓喜園の戯不(レ)楽ふるなる(有朋下P785)■利天(たうりてん)の葡萄、不(レ)打鳴帝釈宮の楽の音、かくこそと思侍き。是は暫天上の楽みと思候しに、去養和の秋の初七月末に、木曾(きそ)義仲(よしなか)に都を被(レ)落て、行幸俄(にはか)に成しかば、九重の内を迷出て、八重立雲の外をさし、故郷を一片の煙と打詠、旅衣万里の浪に片敷て、浦伝島伝して明し暮し、折折(をりをり)
P1203
に、波間幽に千鳥の声を聞、終夜(よもすがら)友なき事を悲み、浦路遥藻塩の煙を見、終日は不(レ)堪思懇也、憑便もなく寄方もなかりし事は、是や此天上の五衰退没の苦ならんと覚き。天上欲退時、心生大苦悩、地獄衆苦痛、十六不及一とかゝれたるも是なり、今度人界に生て愛別怨憎の苦を受、盛者必衰の悲みを含めり。人間の事は今更申に及ず。
同秋の末、九月上旬に成しかば、昔は雲の上にして見し月を、今は伏屋の床にして詠し事の心憂、十月の比にや、備中国水島、幡磨国室山、所々の合戦に打勝たりしかば、人々色少直りて見えし程に、摂津国(つのくに)一谷(いちのたに)と云所にて、一門多亡し後は、直衣束帯の姿を改て、皆鉄をのべて身を裹、諸の獣の皮を以て足手に纏つゝ、冑の袖を片敷、甲の鉢を枕とし、明ても晩ても、目に見ゆる物は弓箭兵杖の具、海にも陸にも、耳に聞ゆる者は箭叫軍呼の声のみ也。是や此須弥の半腹にして、天帝修羅各権を諍、三世にたえず戦、一日三時の闘諍、天鼓自然鳴の報ならんと思へば、修羅道の苦患(有朋下P786)も経たる心地し候し。
豊後国にて、少心を休むるやらんと思候し程に、尾形三郎に追出されて、秀遠に被(レ)具て山鹿城に籠り入りしに、空掻曇り晴間もなかりしかば、唐の一行上人の火羅国に被(レ)流たりけん様に、月日の光をも見ず、浅増(あさまし)き有様(ありさま)にて候ひし程に、それをも追落されしかば、二位殿(にゐどの)は先帝を懐進せ、網代の輿に奉、箱崎方へ落させ給しに、其外の人々は、公卿も殿上人(てんじやうびと)も、かちはだしにて迷出つゝ、兵船に棹を
P1204
さし泣々(なくなく)浪路に焦れ給、よるせも不(レ)知船の中に漂しかば、山野広といへども休とするに無(レ)処、国々悉塞つて御調物もかまへねば、供御を備る人もなし、人天多といへ共、食を願に不(レ)与といへるに不(レ)異、諸の苦中にこれ尤甚し。得尸羅城の餓鬼は、五百生の間終に水を得事なく、師子国の餓鬼は、垣伽河(こうががは)の七度、山と成海となるまで、飲食の名を聞かず、去ばにや、血肉の頭べを破て脳を食し、恩愛の子を生て自食す、以(レ)之倶舎には、我夜生五子、随生皆自食といへり、希に供御を備へたり共、水なければ不(レ)進、万水海に満たれ共、飲んとすれば潮水也、自陸にあがりて菓をもらんとすれば、敵已(すで)に寄るといへば捨て去ぬ、百菓林に結取んとすれば人目しげし、餓鬼道の苦に不(レ)異、一谷(いちのたに)を被(レ)落て後は、夫は妻に別、妻は夫に別、親は子を失、子は親た後れて、喚叫音船の中(有朋下P787)に充満、泣悶る音陸の側に不(レ)尽しかば、叫喚大叫喚と覚たり。助る船有しか共、人多込乗しかば底のみくづと成にき、適船に乗人も、心に任ぬ波の上と云ながら、我淡路のせとを押渡、阿波鳴戸を沖懸に、紀伊地に赴船もあり、或葦屋沖に懸りつゝ、浜南宮を伏拝、九国へ赴く船もあり、思々に漕別れ、蜑の焼火に身を焦し、磯打波に袖ぬらす。白鷺遠樹群居を見ては、源氏の旗かと肝を消し、夜雁雲井に啼渡を聞ては、兵船を漕かと魂を迷す。源平互にまけぬれば、首を刎足手を切、身は紅と染る時は、等活地獄とも覚たり。玄冬素雪の冬の夜は、衾は袖狭くすそ短くして、霜の朝雪の夜も、つまを重ぬる事なければ、紅蓮大紅蓮の氷に如(レ)被(レ)閉、九夏三伏の夏天なれ共、斑女が扇も捨られつゝ、
P1205
泉の水をも結ばねば、木陰涼き便もなし、焦熱大焦熱の炎に焦心地也。今一の道も経たる様に思候へ共、其までは申も事長様に候へばと申させ給へば、法皇仰の有けるは、六道(ろくだう)の有様(ありさま)、生を替ず御覧じ廻由、誠に理に候、但今一を残させ給ふ事最本意なし、仏道には懺悔とて、罪をかくさずとこそ承候へ、御憚有まじきにこそと申させ給へば、女院、家を出て懸身と成候ぬれば、何かは苦るしく候べき、又御伴に候はるる人々も見なれし事なれば、恥しかるべきに非とて、自は君王にまみえられ奉て、后妃(有朋下P788)の位に備候し上は、仮初の妻を重ぬべしとこそ不(レ)思候しに、阿波民部大輔(みんぶのたいふ)成能が、宗盛に心を通はして呼入進せしかば、讃岐国屋島に付て、大裏造などして安堵して候しに、そこをも源氏に被(二)追落(一)て、一船の中に住居也しかば、兄の宗盛に名を立と云、聞にくき事を云をも、又九郎判官に虜れて、心ならぬあだ名を立候へば、畜生道に云なされたり、誠に女人の身ばかり申に付て悲けれ共、我身一人の事にあらず、昔もためしの候ければこそ。
天竺の術婆訶は、后宮に契をなし、夢路を恨て炎と昇、阿育大王の鳩那羅太子は、八万四千(はちまんしせん)の后を亡給けり。震旦には、則天皇后(そくてんくわうごう)は長文成に会給(たま)ひ、遊仙崛を作らせ、雪山と申獣に会けんも口惜や、唐の玄宗皇帝の楊貴妃は、一行阿闍梨(あじやり)に心をうつして、咎なき上人を流し給ふ。
吾朝には、聖武天皇(てんわう)の御娘、孝謙女帝は、道鏡禅師に心を移して恵美大臣を亡し、仁明天皇(てんわう)の五条(ごでう)后と申は、冬嗣大臣の御娘也。業平中将に御心を通して、我通路の関守はと侘給ければ、中将
P1206
も、よひ/\毎に打もねななんと詠けり。文徳天皇(てんわう)の染殿后は、清和(せいわの)帝(みかどの)御母儀(おぼぎ)、太政大臣(だいじやうだいじん)忠仁公の御娘也。柿本紀僧正(きそうじやう)御修法の次に奉(レ)懸(レ)思、紺青鬼と変じて御身に近付たりけん、同道と云ながら怖しくぞ覚る。清和(せいわ)天皇(てんわう)の二条后と申は贈太政大臣(だいじやうだいじん)長良御女(おんむすめ)なりけるが、在原業平が忍つゝ、(有朋下P789)五条(ごでう)渡の西の対の亭に、月やあらぬと詠けり。寛平法皇の京極御息所は、時平大臣の御娘、志賀寺詣の御時、彼寺の上人奉(レ)懸(レ)心、今生の行業を譲り奉らんと申せば、
よしさらば真の道のしるべして我をいざなへゆらぐ玉の緒 K270
と打詠給(たまひ)て、御手を授給けり。源氏の女三宮は、柏木右衛門督(うゑもんのかみ)に通て、薫大将を産めり。
誰が世にか種は蒔しと人問(とは)ばいかゞ岩根の松はこたへん K271
と、源氏の云けんも恥しや、小衣大将は、聞つゝも涙にくもると忍けり、天竺、震旦、我朝、貴も賤も、燈に入夏の虫、妻を恋秋の鹿、山野の獣の江河の鱗に至まで、此道に迷て心を尽し命を失習也。されば所有三千界、男子諸煩悩、合集為一人、女人為業障と、仏の説給へるも理と覚たり、今も昔も男女の習、不(レ)及力事なれば、兎ても角ても候なん、是をこそ自は六道(ろくだう)を経たりとは申すに候へ、但猶、生死の境にかへるべき恩愛の道の悲しさは、先帝の御事忘んとすれ共不(レ)忘、思消どもけされず、是や妄念ならんと思候へば、仏の御名を唱、経教の文も習、花を摘水を汲事怠らず、よし/\恩愛別離の歎によらずば、争厭離穢土の志もいでこんと、打翻て思へば、ゆゝしき善知識とこそ
P1207
覚て候へ。
長門国壇浦にして、軍は只今(ただいま)を限とて、人々の海へ入給し時、自も(有朋下P790)同波の底に沈まずして武士に被(二)取上(一)、二度都へ帰上り、憂事を見聞候しには、いかなりける先の世の罪の報にやと口惜しく候しか共、今は不(レ)死ける事の嬉しさよと、引替嬉しく候也。其故は、自生不(レ)残ば、誰かは此人々の後世をば弔給候べき。此寂光院と申は、よに静なる所にて候、如何に無(レ)情人也とても、心を澄し哀を催すべき有様(ありさま)なれば、況自は、恨歎身にあまりて候へば、御堂に参て終夜(よもすがら)香の煙と燃焦(もえこがれ)、朝の露と泣しをれて、静に念仏申経を読て、人々の後世を祈申候し験にや、或夜聊まどろみ入て候し夢に、昔の大内には超過して、ゆゝしき所に罷て候しかば、先帝を始進せて一門の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、目出く礼儀して候しかば、都を出て後は懸所は未(レ)見、是はいづこぞと尋候しに、新中納言知盛と覚しき人、是は竜宮城と答しかば、難(レ)有かりける所かな、此には苦はなきかと問候しに、争か苦なくて候べき、竜軸経の中に説れて候、能々御覧じて、後世弔ましませと申と思ひて覚候ぬ。穴無慙や、さては此人々、竜宮城に生にけり、後世を被(レ)弔て、角夢に見えけるにこそと思て、雪の朝の寒にも、峯に登て花を摘、嵐烈き夕にも、谷に下て水を掬、難行苦行日重、転経念仏功績て、仏に祈申候へば、さり共今は此人々、竜畜の依身を改て、浄土(じやうど)菩提に至ぬらんとこそ覚て候へ、化功帰(レ)己の道理(有朋下P791)あれば、自らも此尼女房達(にようばうたち)も憑もしくこそ候へ、さても/\難(レ)有御幸に、何となき詢事のいぶせさこそと被
P1208
(レ)仰もあへさせ給はず、御涙(おんなみだ)に咽せ給へば、公卿殿上人(てんじやうびと)の、籬のはざま杉の御庵の隙より承見進せて、昔まのあたり見進せし御事なれば、いみじかりし御有様(おんありさま)も、只今(ただいま)の様に覚て哀也。有(レ)限、昔釈尊の霊鷲山にて法を説給けんも、争か是にはすぎんとぞ各袖を絞ける。
法皇御涙(おんなみだ)を推拭はせまし/\て、一乗(いちじよう)妙典の御法を持、十念成就(じやうじゆ)の本願を憑て、九品の往生を欣、聖衆来迎を待、すぎ別させ給し高倉先帝、安徳(あんとく)天皇(てんわう)、一品大相国(たいしやうこく)、屋島内府已下、兄弟骨肉、六親眷属もろともに、敵の為に亡され波の底に沈し輩も、一仏浄土(じやうど)に生給へと、難行苦行して御弔ひあれば、妄念の罪早消て、菩提の縁を結給はん事御疑あるまじと申させ給(たまひ)けるに、夕陽西に傾て、入逢の鐘も響けり。小夜も漸深行ば、巴峡の猿の一叫、催(レ)憐友となり、情騒しき■(むささび)も、所からにぞ心澄。飯篠群竹吹風に、旅寝の夢も可(レ)覚。玉巻葛葉の朝露は、行人の袖を絞らん。何事に付ても不(二)御心澄(一)と云事なし。卯月の末の事なれば、晨明の月の出るをしるべにて、法皇還御ならせ給。御遺(おんなごり)惜く思召(おぼしめし)ければ、たゞ先立物とては御涙(おんなみだ)ばかり也。芹生里の細道、来迎院の形勢(ありさま)、難(レ)忘ぞ思召(おぼしめす)。女院も御遺(おんなごり)をしまさせ給つゝ、遥(はるか)に見送(有朋下P792)進せて、ありし昔の大内山の御住居(おんすまひ)、思召(おぼしめし)出させ給(たまひ)て、御遺(おんなごり)惜く思召(おぼしめし)ければ、泣々(なくなく)立入せ給つゝ、御本尊に向進せて、高声に念仏申させ給(たまひ)て、天子聖霊成等正覚と廻向せさせ給(たまひ)て、絶入やうに御座(おはしまし)けるぞ糸惜き。昔は南に向はせ給(たまひ)て、天照太神(てんせうだいじん)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を拝ませ給(たまひ)て、天子宝算千秋万歳とこそ祈らせ給しに、今は西に向せ給つゝ、弥陀如来(みだによらい)観音
P1209
勢至と唱へて、過去聖霊往生極楽と、たむけさせ給ふも哀也。
建久三年三月十三日に、法皇隠れさせ給ぬ。其後主上代をしろしめす。おり居にならせ給(たまひ)て、承久三年に思召(おぼしめし)立御事の有けるが、御謀叛(ごむほん)の事顕て、院は隠岐国へ被(レ)流まし/\、宮々は国に被(レ)遷給ぬ。雲客(うんかく)卿相(けいしやう)、或は浮島が草の原にて露の命を消、或は菊河の早流に憂名を流すなど披露有りければ、女院聞召(きこしめし)て、今更又悲くぞ思召(おぼしめし)ける。此院は、高倉院(たかくらのゐんの)御子にて御座(おはしまし)しかば、女院には御継子にて、安徳(あんとく)天皇(てんわう)の御弟にまし/\しかば、外の御事共(おんことども)不(二)思召(おぼしめさ)(一)、配流の後は隠岐院とぞ申ける。又は後鳥羽院(ごとばのゐん)共名け奉。平家都を落て西海の浪に漂、先帝海中に沈み給、百官悉亡し事只今(ただいま)の様に覚えて、其愁未やすまらせ給はず、如何なる罪の報にて、露の命の消やらで、又懸事を聞食らんと、不(レ)尽御歎打続せ給けるに付ても、朝夕の行業懈らせ給はざりけるが、御歳六十八と申し貞応三年の春の比、(有朋下P793)五色の糸を御手にひかへ、南無(なむ)西方極楽教主、阿弥陀如来(あみだによらい)、本願■(あやまり)給はず、必引摂し給へと祈誓して、高声に念仏申させ給(たまひ)て引入せ給ければ、紫雲空に聳き、異香空に薫じつゝ、音楽雲に聞ゆ。光明(くわうみやう)窓を照して、往生の素懐を遂させ給けるこそ貴けれ。二人の尼女房も、遅速こそ有けれ共、皆如(二)本意(一)、臨終正念に終けり。
泡沫無常の世の習、分段輪廻の里の癖、いづくか常住の所なる。誰も不退の身ならね共、上一人の玉の台より、下万民の柴の枢に至まで、今も昔も類すくなき事共也。されば女院の今生の御恨は一旦の
P1210
事、善知識は是莫大の因縁なり、昔のごとく后妃の位に御座(おはしま)さば、争か法性の常楽をば経させ給べき、源平両家の諍ありて憂目を御覧じけるは、偏(ひとへ)に往生極楽の勝因のきざしけるにこそと、心ある人は皆貴み申けるとかや。(有朋下P794)