興亜教育会編纂
藤田東湖正気歌・回天詩・弘道館記 読解
序言
藤田東湖先生は、近世の偉人であり、傑士である。其の忠孝の節、経綸の識、詩文の才、一世に知られ、其の徳風、今日一般の欽慕するところとなつてゐる。正気歌及び回天詩は、先生の尊皇愛国の信念気魄を吐露せられた熱作で、之を読む者、其の切々たる士節に嘆服興起せざるを得ない。弘道館記も、其の原案は、先生が藩主烈公の命を受け、畢生の学殖を傾けて力作せられたもので、実に皇道水戸学の大精神を表出した神州の一大文字である。
本書は、時局の重大性に鑑み、水戸学に造詣深き一教育家を煩し、以上三つの詩文に就いて、正しき読方と平明な解説とを施し、青少年の日夕朗誦用として編纂したものである。現代青少年の国民的気魄を振作する上に、聊かなりとも寄与することを得ば、誠に本会の光栄とするところである。
昭和十六年六月
興亜教育会
回天詩 藤田東湖
三決死矣而不死。二十五回渡刀水。
五乞閑地不得閑。三十九年七処徙。
邦家隆替非偶然。人生得失豈徒爾。
自驚塵垢盈皮膚。猶余忠義填骨髄。
嫖姚定遠不可期。丘明馬遷空自企。
苟明大義正人心。皇道奚患不興起。
斯心奮発誓神明。古人云斃而後已。
○詩の読方
三たび死を決して而して死せず。二十五回刀永を渡る。
五たび閑地を乞うて閑を得ず。三十九年七処に徙る。
邦家の隆替偶然に非ず。人生の得失豈徒爾ならんや。
自ら驚く塵垢の皮膚に盈つるを。猶余す忠義骨髄を填む。
嫖姚遠期す可からず。丘明馬遷空しく自ら企つ。
苟しくも大義を明らかにし人心を正さば。皇道奚ぞ興起せざるを患へん。
斯の心奮発神明に誓ふ。古人云ふ斃れて後已むと。
みたびしをけつしてしかうしてしせず。にじふごくわいたうすゐをわたる。
いつたびかんちをこうてかんをえず。さんじふくねんしちしよにうつる。
はうかのりゆうたいぐうぜんにあらず。じんせいのとくしつあにとじならんや。
みづからおどろくぢんこうのひふにみつるを。なほあますちゆうぎこつずゐをうづむ。
へうえうていゑんきすべからず。きうめいばせんむなしくみづからくわだつ。
いやしくもたいぎをあきらかにしじんしんをたゞさば。くわうだうなんぞこうきせざるをうれへん。
このこゝろふんぱつしんめいにちかふ。こじんいふたふれてのちやむと。
○詩の由来
水戸学の気魄を知るに足る好資料は、藤田東湖の回天詩史と正気歌である。東湖、名は彪、字は斌卿、通称は虎之助、後誠之進と改む。東湖は其の号でぁる。出生の地水戸市梅香は、其の束仙波湖に臨むを以てかく号した。東湖夙に文武に勝れ、度量海の如く、大義を明らかにし、名分を正すを以て己が畢生の任と為し、国家の事変に遭遇する毎に常に死を以て自ら誓ひ、敢へて何ものにも畏れざるの気魄があつた。回天詩史に平素の覚悟を述べて曰く、「敬神・尚武を以て政教の根本と為し、以て尊皇攘夷の大義を明らかにするに至つては、之を鬼神に質して謬らず。百世其の人を俟つて惑はず。資性駑なりと雖も、冀はくは畢生の心を竭くし、終身の力を極めて事に斯に従ひ、上は国家の鴻恩に報い、下は以て先臣の遺志を述べんとす。所謂此の心を神明に誓ひ、斃れて而して後已む、これ吾が一分の衷念なり。」と。其の豪爽の英気、凛然たる忠烈、以て思ふべきである。
藩主烈公が、当時尊王愛国主義の政治家として、其の真価を発揮し得た所以のものも、東湖の如き忠孝の節高き傑士が、よく之を輔翼して、財政経済の改革、国防の充実、文教の刷新等に努めたからであることは云ふまでもない。
回天詩史と正気歌は、東湖の尊皇愛国の信念気魄を吐露したもので、筆端自ら慷慨淋漓、之を読む者、其の切々たる士節に嘆服興起せざるを得ない。
東湖は、不幸安政二年十月二日江戸大地震に遭ひ、母堂を屋内から救ひ出さうとして、激震と共に偶々落下し来つた玄関鴨居の為に圧死してしまつた。真に惜しいことであつた。然し孝道を全うした最後であると謂つてよい。
晩年の東湖は、恰も諸藩勤皇志士の思想指導の中心格に立ち、幕府の要路或は地方の俊傑と接触して愈々政治的に活躍せんとして居つたので、彼がも少し長命したならば、維新回天の事業の上にもつと具体的な政治的功績を挙げ得たことであらうに、誠に残念なことをした、天下の不幸であつた。然し東湖が、各方面に与へた思想的感化の偉大な功績は、幕末維新史上永久に残るであらう。辱くも明治二十二年二月、正四位を賜はつた。
回天詩は、弘化元年五月の作で、当時藩主烈公、幕府の冤罪を蒙り、致仕して江戸駒込別邸に謹慎の身となるや、東湖もまた小石川藩邸内に蟄居を命ぜられ、切々の感慨遂に此の詩をなしたものである。此の詩と、此の詩の精神を各句毎に往事を追懐して更に詳述した叙情史とを以て、回天詩史と名づくるものである。而して此の詩と叙述とは同時に作成されたものであることは、詩史の序に、「余の罪を獲て屏居するや、偶々『三決死矣不死』の句を得たり。既にして又其の韻に就いて『二十五回渡刀水』の句を●(「庚」+「貝」)す。一句を得る毎に往事を追懐し、感慨四もに集る。乃ち其の句に就きて事実を左に録す。此の如きもの連日にして遂に八韻十四句を成し、其の録も亦十一篇となれり。其の叙事或は類に触れて之を長じ、或は物に託して之を発す。固より悶を遣り欝を泄すの余に出づと雖も、亦以て世の変を観るべきなり。因つて命けて詩史と云ふ。冠するに回天の二字を以てするものは、微意の存するものあり。然れども、言頗る忌諱に触れ、事亦機密多し。敢へて之を他人に示すにあらず、聊か子孫に遣すといふのみ。」と述べてあるによつて明らかである。此の詩作の翌年には、小梅に徙され、更に正気歌を熱作した。
「三決死矣而不死」から「三十九年七処徙」までは、東湖三十九年間の半生の経歴を述べたもので、「邦家隆替非偶然」から「猶余忠義填骨髄」までは、主として水戸藩当時の事態や、東湖現在の境遇を述懐し、其の義憤を洩らされたものである。而して「嫖姚定遠不可期」から終の句までは、東湖が将来成さうとする志望を吐露したものである。
○詩の解説
自分は今禁錮の身となつて徐かに過去の生涯を回想して見るのに、これまで邦家の難局に処して死を決したことが三度もあるが、遂に死を得ずして今日に至つて居る。また夙くから国事に奔走し、屡々江戸・水戸の間を往来して、二十五回も刀根川を渡つた。公職を辞して閑地に就かうとしたことも五度もあつたが、それも叶はなかつた。過去三十九年間に、公事の為に家居を移すこと七度にも及んで居る。而して今測らずも藩公は禍に遭ひ、自分も亦茲に幽囚の身となつてしまつた。個人一身上ですら斯の様な変化である。我が水戸藩政の盛衰消長今日に至る誠に偶然ではない。人生得意となり失意となるのも決してただ事ではない。思へば益々感慨深きものがある。
自分は幽居既に数月に及び、身の不潔云ふばかりなく、皮膚を掻けば塵垢爪に盈ち、自分ながら驚くほどだが、烈々たる一片の忠義心はなほ内に潜み骨髄を填めて居る。自分のやうな不敏の者は、彼の漢武帝の臣霍嫖姚が匈奴を征すること六度、内蒙古の地をして漢に帰せしめた如き、又漢明帝の臣班定遠が西域に使して留ること二十年、域内を悉く漢に服せしめた如き大事業は到底為し得ないが、魯の史官左丘明が左氏伝を撰作し、或は漢武帝時代の学者司馬遷が史記を完成した例に倣ひ、専ら修史述刪に努め、以て大義名分を正さうといふ気魄だけは持つて居る。君臣の大義を明らかにし人心を正すといふことは、実に皇道振作の唯一の道である。自分は資質駑鈍ではあるが天地神明に誓ひ、畢生の心を竭くし、終身の力を極め、事に斯に従ひ、古人の云つた如く、斃れて後已むの決心を以て、此の志を達成しようと堅く期して居る。
正気歌 藤田東湖
天地正大気、粋然鍾神州。秀為不二嶽、巍々聳千秋。
注為大瀛水、洋々環八洲。発為万朶桜、衆芳難与儔。
凝為百錬鉄、鋭利可断●。●臣皆熊羆、武夫尽好仇。
●は「霧」の下側+「金」。●はクサカンムリ+「盡」。
神州執君臨、万古仰天皇。皇風洽六合、明徳●太陽。
●はニンベン+「牟」。
不世無汚隆、正気時放光。乃参大連議、侃々排瞿曇。
乃助明主断、焔々焚伽藍。中郎嘗用之、宗社磐石安。
清丸嘗用之、妖僧肝胆寒。忽揮龍口剣、虜使頭足分。
忽起西海颶、怒涛殱胡氛。志賀月明夜、陽為鳳輦巡。
芳野戦酣日、又代帝子屯。或投鎌倉窟、憂憤正●々。
●はリッシンベン+「員」
或伴桜井駅、遺訓何慇懃。或●天目山、幽囚不忘君。
●はケモノヘン+「旬」
或守伏見城、一身当万軍。承平二百歳、斯気常獲伸。
然方其欝屈、生四十七人。乃知人雖亡、英霊未嘗泯。
長在天地間、隠然叙彜倫。孰能扶持之、卓立東海浜。
忠誠尊皇室、孝敬事天神。修文与奮武、誓欲清胡塵。
一朝天歩艱、邦君身先淪。頑鈍不知機、罪戻及孤臣。
孤臣困葛●、君冤向誰陳。孤子遠墳墓、何以謝先親。
●はクサカンムリ+「儡」の右側
荏苒二周星、唯有斯気随。嗟予雖万死、豈忍与汝離。
屈伸付天地、生死復奚疑。生当雪君冤、復見張綱維。
死為忠義鬼、極天護皇基。
○詩の読方
天地正大の気、粋然神州に鍾る。秀でては不二の嶽となり、巍々千秋に聳ゆ。
注いでは大瀛の水となり、洋々八洲を環る。発いては万朶の桜となり、衆芳与に儔し難し。
凝つては百錬の鉄となり、鋭利●を断つべし。●臣皆熊羆、武夫尽く好仇。
神州孰か君臨す、万古 天皇を仰ぐ。皇風六合に洽く、明徳太陽に●し。
世汚隆無くんばあらず、正気時に光を放つ。乃ち参す大連の議、侃々瞿曇を排す。
乃ち助く明主の断、焔々伽藍を焚く。中郎嘗て之を用ひ、宗社磐石安し。
清丸嘗て之を用ひ、妖僧肝胆寒し。忽ち揮ふ龍口の剣、虜使頭足分る。
忽ち超す西海の颶、怒涛胡氛を殱す。志賀月明の夜、陽に鳳輦の巡を為す。
芳野戦酣なるの日、又代る帝子の屯。或は投ぜらる鎌倉窟、憂憤正に●々。
或は伴ふ桜井の駅、遺訓何ぞ慇懃なる。或は●ふ天目山、幽囚君を忘れず。
或は守る伏見の城、一身万軍に当る。承平二百歳、斯の気常に伸ぶるを獲たり。
然れども其の欝屈するに方つては、四十七人を生ず。乃ち知る人亡ぶと雖も、英霊未だ嘗て泯びず。
長く天地の間に在り、隠然彜倫を叙つ。孰か能く之を扶持するや、卓立す東海の浜。
忠誠皇室を尊び、孝敬天神に事ふ。修文と奮武と、誓つて胡塵を清めんと欲す。
一朝天歩艱み、邦身先づ淪む。頑鈍機を知らず、罪戻孤臣に及ぶ。
孤臣葛●に困しむ、君冤誰に向つてか陳べん。孤子墳墓に遠ざかる、何を以てか先親に謝せん。
荏苒二周星、唯斯の気の随ふあり。嗟、予万死すと雖も、豈汝と離るるに忍びんや。
屈伸天地に付す、生死復奚ぞ疑はん。生きては常に君冤を雪ぐべく、復見ん綱維を張るを。
死しては忠義の鬼と為り、極天皇基を護らん。
てんちせいだいのき、すゐぜんしんしうにあつまる。ひいでてはふじのたけとなり、ぎぎせんしうにそびゆ。
そそいではたいえいのみづとなり、やうやうはつしうをめぐる。ひらいてはばんだのさくらとなり、しゆうはうともにたぐひがたし。
こつてはひやくれんのてつとなり、えいりかぶとをたつべし。じんしんみないうひ、ぶふことごとくかうきう。
しんしうたれかくんりんするばんこ てんのうをあふぐ。くわうふうりくがふにあまねく、めいとくたいやうにひとし。
よをりゆうなくんばあらず、せいきときにひかりをはなつ。すなはちさんすおほむらじのぎ、かんかんくどんをはいす。
すなはちたくくめいしゆのだん、えんえんがらんをやく。ちゆうらうかつてこれをもちひ、そうしやばんじやくやすし。
きよまろかつてこれをもちひ、えうそうかんたんさむし。たちまちふるふたつのくちのけん、りよしとうそくわかる。
たちまちおこすせいかいのぐ、どたうこふんをつくす。しがげつめいのよ、あらはにほうれんのじゆんをなす。
よしのたたかひたけなはなるのひ、またかはるていしのちゆん。あろひひとうぜらるかまくらのいはや、いうふんまさにうんうん。
あるひはともなふさくらゐのえき、ゐくんなんぞいんぎんなる。あるひはしたがふてんもくざん、いうしうきみをわすれず。
あるひはまもるふしみのじやう、いつしんばんぐんにあたる。しようへいにひゃくさい、このきつねにのぶるをえたり。
しかれどもそのうつくつするにあたつては、しじふしちにんをしやうず。すなはちしるひとほろぶといへども、えいれいいまだかつてほろびず。
ながくてんちのかんにあり、いんぜんいりんをついづ。たれかよくこれをふぢするや、たくりつすとうかいのひん。
ちゆうせゐくわうしつをたつとび、かうけいてんしんにつかふ。しうぶんとふんぶと、ちかつてこぢんをきよめんとほつす。
いつてうてんぽなやみ、はうくんみまづしづむ。ぐわんどんきをしらず、ざいれいこしんにおよぶ。
こしんかつるゐにくるしむ、くんゑんたれにむかつてかのべん。こしふんぼにとほざかる、なにをもつてかせんしんにしやせん。
じんぜんにしうせい、たゞこのきのしたがふあり。あゝわればんしすといへども、あになんじとはなるるにしのびんや。
くつしんてんちにふす、せいしまたなんぞうたはん。いきてはまさにくんゑんをそそぐべく、またみんかうゐをはるを。
ししてはちゆうぎのきとなり、きよくてんくわうをまもらん。
○本文正気歌は、東湖が幽居中、特に書して会沢伯民に贈つた原文遺墨によつたのであるが、其の後、門人菅政友の懇請に応じて染筆した遺墨や、東湖遺稿に載つてゐるものなどと比べると、字句に多少の相違がある。其の主なる箇所を括弧で示して置いた。
○詩の由来
正気歌は、江戸向島小梅村の牢屋に幽閉中、慷慨の赴くところ遂に詩となつたもので、時は弘化二年十一月、東湖四十歳の作である。歌は支那宋朝の忠臣、文天祥の正気歌に擬して作られたものであるが、詩の想は全くこれと別で、我が尊皇愛国の思想が一篇の中枢を為して居る。
東湖幼時、父幽谷が文天祥の正気歌を常々愛誦するのを膝下に聴き、特に其の感銘を深くするところあつた。随つて我が現在の境遇が文天祥ほどではなくとも、此の過去の感銘から、自ら天祥を以て期するに至つたものであらう。長詩を通して其の烈々たる忠誠の至情が窺はれる。実に此の一篇は日本精神詩であり、国民忠道史の詩的叙述である。此の詩は、幕末維新当時、勤皇志士の間に盛に愛誦せられ、明治回天の大業に思想的貢献を為すところ大であつた。
「天地正大気」から「鋭利可断●」までは、正気が我が神州の「物」に現れた場合を詠んだもの、即ち我が国土の美を詠じたものである。
「●臣皆熊羆」から「明徳●太陽」までは、正気が我が神州の「人」に現れた揚合を詠んだもの、即ち国体の尊厳を詠じたものである。
「不与無汚隆」から「一身当万軍」までは、正気が「非常時」に於て現れた場合を詠じたもの、即ち国民忠道の粋を叙説したものである。
「承平二百歳」から「隠然叙彜倫」までは、時運太平の「常時」でも正気の決して消え失せない次第を説いたものである。
「誰能扶持之」から「誓欲清胡塵」までは、「水戸藩の正気を扶持する本領」を述べたもの、即ち尊皇攘夷の思想を詠じたものである。
「一朝天歩艱」から「極天護皇基」までは、国家非常の時艱に遭遇して、「東湖自身が正気と終始する所以の本旨」を述べたもので、彼が古の忠臣義士の跡を受け継いで、皇道に殉ぜんとする其気魄が偲ばれる。
回天詩では、結句に斃れて後已むと述べて居るが、此の正気歌に於ては、斃れて已まず、更に忠義の鬼となり、天地のあらん限り皇基を護らんと述べたところに、東湖信念上一歩の進境を見せて居る。
東湖は、当時墨水の禁錮困阨甚だしく、到底生還期し難きを感じ、此の正気歌一篇を書して水戸会沢伯民に贈つたのであるが、これに添へられた次の書牘にも東湖の偉大な風格が躍動して居る。
「群陰凝結、一陽未だ復せず。伏して惟みるに、先生動止万福、既に明夷の艱貞に処り、乃ち嘉遯の正志を得たり。所謂君子以て小人を遠ざく、悪しうせずして厳なるもの其れ斯の時に在るか。曩に楊生の帰るに因り、敢へて蕪詞を呈せしに、即ち高和を辱うし、瓦礫を以て瓊瑶を得たり、感謝曷んぞ已まん。彪、総に徙りてより以来、禁錮益々厳、独り姻戚江生及び隣翁忠助なる者の来訪を許されしのみ。然るに、前月中、江生遽かに罪を獲、忠助亦肯へて来らず。是に於て、彪の耳啻に治乱黜陟なきのみならず、老母稚子の消息と雖も復得て聞くべからざるなり。然れども、去年来、彪の困阨せる所以は特其の外物のみ、耿々として中に存する者に至りては、則ち有司も害する能はず、陰陽も賊ふ能はず、いづくんぞ傷まん。武吉諸子、恩赦厳譴一日に並び至る、抑、亦奇なり。其他同志の士、近状如何。彪、嘗て竊に易説を推して之を考ふるに、屯難の世勢十年を過ぎず、其の或は七年或は五三年、又或は七日にして来復するもの、亦天地生生の意なり。之む要するに、達人よりして之を観るときは、則ち実に一朝幕のみ。夫れ士の仁に志す、固より当に死して後已むべし、しかるを況や区々一朝暮の困阨復何ぞ道ふに足らん。しかるに、或は幽欝憤懣痛飲気を遣り、疾病の其の後に随ふを知らず、或は妻孥を顧み、飢寒を患ひ、憫然として可憐憔悴の色あらば、則ち啻に平生の志に背くのみならず、将た何の面目ありて古人を地下に見んや。同志の士豈斯の態あらん、而して過慮此に及ぶ者、亦輔仁の義なり。彪、深く形迹を慎み、未だ嘗て一信を諸子に通ぜず、先生或は其の室に過らば、則ち幸に斯の意を致されよ。近作正気歌、翰を染めて覧を涜す。固より顰に效ふを免れず、亦頑鈍故態聊か一粲に供するのみ。江生将に郷に帰らんとす、蓋し今より以往書を発するに由なからん。乃ち二書を裁して江生に付し、一は以て老母に贈り、而して敢へて親戚に及ばず。一は以て先生に呈し、亦敢へて諸子に及ばず。伏して惟みるに、先生之を諒とせられよ。十一月初五。憇斎会先生座前。彪再拝。(原漢文)
○詩の解説
此の天地間には、正大の気といふものが充満し、常に流動して居る。此の気は、宇宙万物の生成L、発展し、また連行する根元力であつて、其の性や正であり、明であり、また剛大である。或はこれを至誠の気といつてもよい。此の正気は、世界中の何れの国にも普く広く流れて居るが、純粋無雑の姿に於て結晶して居るのは、独り我が神州日本のみである。
乃ち此の正気が、我が神州の物に凝結しては、或は巍々として千秋に聳ゆる秀麗そのものの富士の嶽となり、また国土の四周を環らす洋々として涯りもない広い/\大海の水ともなり、或は其の精美万花に傑出する爛漫たる万朶の桜となり、或はまた鉄兜も断切るほどの百錬鍛功の鋭利な日本刀となつて表れて居る。
次に此の正気が神州の人に現れては、其の活動振が熊や羆のやうに勇猛な忠臣(●臣)となり、また朝臣の好き仲間(好仇)として役立つ武夫ともなつて活躍して居る。かくの如き忠勇義烈な人々が、上に万世一系の 天皇を仰いで忠誠の限りを尽くし、以て皇業を扶翼し奉るのであるから、弥々上の御稜威は天地四方に普く広まり、其の明徳即ち御恵は、太陽にもひとしいほどである。かくして我が国体は永遠に尊厳である。
然しながら、世の中は何時も太平ではなく、時に盛衰消長無きを得ない。かゝる非常時に当つては、此の正気は一屠其の光を放つものである。乃ち仏教伝来し、国論沸騰した際に於ては、大連物部尾輿の排仏思想となり、侃侃諤々、、其の剛直な意気を以て仏教(瞿曇)を排斥した。また仏教の採否に就いて、蘇我稲目対物部尾輿等の論争が起つた際に於ては、欽明天皇(明主)の御英断となつて表れ、仏像は難波の堀江に投ぜられ、焔々伽藍は焼き払はれるに至つた。
中臣鎌足は、此の正気を以て彼の逆臣蘇我入鹿を討滅し、これによつて我が皇室国家は磐石の安き得た。和気清麻呂は、此の正気を振るつて宇佐八幡の御宣託を奏し奉り、妖げな僧道鏡の肝胆を寒からしめた。北条時宗は、此の正気の迸るところ、文永十二年蒙古の使者を鎌倉龍口に斬棄て、我の剛気を凜然彼に示してやつた。
弘安四年元寇の国難に際しては、此の正気が西海に暴風を起し、さかまく怒濤を起し、国民一致の忠烈な奮戦となり、怪しげな気即ち蒙古の暴威を殲滅することが出来た。
元弘元年八月、北条高時、畏れ多くも 天皇を遷し奉らうとして京都に兵を派した。 天皇は神器を奉じて志賀の浦辺の延暦寺に行幸なさらうと思し召されたが、三条河原に於て、鎌倉兵をたぶらかすため、大納言藤原師賢は、勅命によつて 天皇の御衣を着し御輿に乗り、恰も鳳輦の御一行の如く陽り装うて、月明の夜延暦寺に向かうた。そこで、かしこくも 天皇は笠置山に無事逃れ遊ばすことが出来た。
また元弘三年春、北条高時大兵を以て芳野を攻めた際、村上義光は、護良親王の御難(屯)を救ひ申しあげるため、親王の御鎧を着し、御身代りとなつて討死し、親王は免れて高野山に御入りになることが出来た。師賢といひ、義光といひ、これら忠臣の業績は、何れも正気の発揚である。
或はまた、此の正気は、鎌倉の窟に投ぜられ給うた護良親王の●々たる御憂憤の情となつて表れ、後人をして悲憤慷慨に泣かしめ、大楠公と共に桜井駅に伴はれては、其の子正行に対する懇篤なる遺訓となつて表れて居る。
武田勝頼の臣小宮山内膳が、主君天目山に最後を遂ぐる悲運を見て、我が身先に讒言にあひ幽閉中であつたにも拘らず、其の恩を忘れず、天目山に駈け登り、主君に殉死したこと。或は徳川家康の臣、鳥居元忠が、慶長五年二千の手兵で伏見城を守り、石田の軍三万数千の大軍に応戦して討死を遂げたこと。これらの忠節もまた正大の気の然らしめるところである。
以上は、非常時に於ける正気の発揚に就いて述べたのであるが、世が無事太平大の時であつても、決して此の正気は消え失せるものではない。すなはち世は徳川の天下となつて太平茲に二百年、此の間此の気は伸々として発展し、表面平静そのものの如くであつたが、一度其の伸張を欠き、欝積屈伏するに当つては、突如四十七士の義挙となつて表れたのでもわかる。惟ふに、人の肉体といふものはたとへ亡びても、其の霊魂といふものは決して滅するものではない。古の忠臣義士の正気といふものは、長く何時までも此の天地間に存在し、儼として人倫の常道(彜倫)といふものを立派に維持して居るものであることが知られるのである。
さて現代の国家非常時に処して、誰が此の正気を扶持するのであらうか。それはいふまでもなく、東海の浜に卓立して居る我が水戸藩である。我が水戸藩は、忠孝不二・文武不岐を以て多年修練され、現下尊王攘夷を以て自ら任じて居るものである。然るに一朝天運悪く、天保十五年藩主斉昭公は、国防に力を注いだ点を幕府から誤解されて、隠居謹慎を命ぜられてしまつた。これ幕府当局の頑固遅鈍、時勢の機微を知らぬものであつて、自分までも罪に問はれ、蔓草のからまつた如く幽閉束縛不自由の身となつて居る。今主君斉昭公の冤罪であることを誰に向かつて訴へることが出来ようか。自分の郷里は水戸であるが、遠く三十余里も隔つて居る。何を以て先親(亡父幽谷)の霊に御わびすることが出来ようか。
かくして幽囚生活もだん/\長引き、茲に二周年の星霜を過し、顧みて何とも悲憤慷慨に堪へないものがある。けれども唯力強く思ふことには、此の正大の気が我が魂となつて身に随うて居ることである。嗟、自分は今此の厄難に遭遇し、万が一にも生きることがないとしても、此の正気と離れることは忍び得ない。自分は一身の屈伸浮沈などは天地自然のままに委せ、生死また問題でなく、平然自若、びくともせぬ決心で居る。若し幸に生きて世の中に出ることが出来たならば、正気の発するところ、極力我が主君の冤罪を雪ぐことに努めよう。然らば主君が以前藩政をとられた時のやうに国内の紀律(網維)が立派に立ち、復び盛世を見ることであらう。不幸にして死んでも、忠義の霊魂となり、天地のあらん限り皇国の基礎を奉護し、我が本分を必ず果したいものである。
弘道館記
弘道者何。人能弘道也。道者何。天地之大経。而生民不可須臾離者也。弘道之館。何為而設也。恭惟上古神聖。立極垂統。天地位焉。万物育焉。其所以照臨六合。統御宇内者。未嘗不由斯道也。宝祚以之無窮。国体以之尊厳。蒼生以之安寧。蛮夷戎狄以之率服。而聖子神孫尚不肯自足。楽取於人以為善。乃若西土唐虞三代之治教。資以賛皇猷。於是斯道愈大愈明、而無復尚焉。中世以降。異端邪説。誣民惑世。俗儒曲学。舍此従彼。皇化陵夷。禍乱相踵。大道之不明於世。蓋亦久矣。我東照宮。撥乱反正。尊王攘夷。允武允文。以開太平之基。吾祖威公実受封於東土。夙慕日本武尊之為人。尊神道。繕武備。義公継述。嘗発感於夷斉。更崇儒教。明倫正名。以藩屏国家。爾来百数十年。世承遺緒。沐浴恩沢。以至今日。則苟為臣子者。豈可弗思所以推弘斯道。発揚先徳乎。此則館之所以為設也。抑夫祀建御雷神者何。以其亮天功於草昧。留威霊於茲土。欲原其始報其本、使民知斯道之所●(「鷂」の右側が「鳥」でなく「系」)来也。其営孔子廟者何。以唐虞三代之道折衷於此。欲欽其徳。資其教。使人知斯道之所以益大且明。不偶然。嗚呼我国中士民。夙夜匪懈。出入斯館。奉神州之道。資西土之教、忠孝无二、文武不岐。学問事業。不殊其效。敬神崇儒。無有偏党。集衆思、宣群力、以報国家無窮之恩、則豈徒祖宗之志弗墜。神皇在天之霊。亦将降鑒焉。建斯館、以統治教者誰。権中納言従三位源朝臣斉昭也。
天保九年歳次戊戌春三月斉昭撰文并書及篆額
○舘記の講方
弘道とは何ぞや。人能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして生民の須臾も離るべからざるものなり。弘道の館は何が為にして設けたるや。恭しく惟みるに、上古神聖極を立て統を垂れたまひ、天地位し万物育す。其の六合に照臨し、宇内を統御したまへる所以のもの、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり。宝祚之を以て無窮、国体之を以て尊厳、蒼生之を以て安寧、蛮夷戎狄之を以て率服す。而して聖子神孫尚肯て自ら足れりとせず、人に取りて以て善を為すを楽しみたまふ。乃ち西土唐虞三代の治教の若き、資りて以て皇猷を賛けたまふ。是に於て斯の道愈々大に、愈々明らかにして復尚ふることなし。
中世以降、異端邪説、民を誣ひ世を惑はし、俗儒曲学、此を舍て彼に従ひ、皇化陵夷し、禍乱相踵ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋し亦久し。我が東照宮、撥乱反正、尊王攘夷、允武允文、以て太平の基を開く。吾が祖威公、実に封を東土に受け、夙に日本武尊の人となりを慕ひ、神道を尊び、武備を繕む。義公継述、嘗て感を夷斉に発し、更に儒教を崇び、明倫正名、以て国家に藩屏たり。爾来百数十年、世々遺緒を承け、恩沢に沐浴し、以て今日に至る。則ち苟も臣子たる者、豈に斯の道を推弘し、先徳を発揚する所以を思はざる可けんや。此れ則ち館の設けられたる所以なり。
抑も夫れ建御雷神を祀るものは何ぞや。其の天功を草昧に亮け、威霊を茲に留めたまへるを以て、其の始を原ね、其の本に報い、民をして斯の道の●つて来る所を知らしめんと欲してなり。其の孔子の廟を営めるものは何ぞや。唐虞三代の道、此に折衷するを以て、其の徳を欽じ、其の教に資り、人をして斯の道の益々大に且つ明かなる所以の偶然ならざるを知らしめんと欲してなり。
嗚呼我が国中の士民、夙夜懈らず、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教に資り、忠孝二なく、文武岐れず、学問事業其の效を殊にせず、敬神崇儒偏党ある無く、衆思を集め群力を宣べ、以て国家無窮の恩に報いなば、則ち豈徒に祖宗の志の墜さざるのみならんや。神皇在天の霊、亦将に降鑒したまはんとす。斯の館を設け、以て其の治教を統ぶる者は誰ぞ。権中納言従三位源朝臣斉昭なり。
○館及び館記の由来
弘道館は水戸の藩学で、藩主烈公が、当時国家の将来に深く思を出(ママ)され、人材教育を通して皇道水戸学の精神を天下に弘めようとして設立されたものである。天保五年に其の志を立て、爾来幾多の苦心む経ていよ/\同十三年に仮開館式を挙げるに至つたものである。
館の教育方針は、館記文中に、「神州の道を奉じ、西土の教に資り、忠孝二無く、文武岐れず、学問事業其の效を殊にせず、敬神崇儒偏党あるなく、衆思を集め群力を宣べ、以て国家無窮の恩に報ゆ。」と示されてあるによつて明らかなる如く、惟紳の大道を教育の淵源とし、之に儒教を同化し、忠孝一本、文武一途、知行一致、億兆一心の主義を徹底し、以て皇運を扶翼し奉ること、略言すれば、皇道の実践これであつた。特に館教育に於て注視すべき点は、政治と教育とは其の趣くところを一にするといふ見解から、政教一致の精神を高調し実行したことだ。しかも此の館教育の大方針を以て水戸一藩の特有とせず、全国的に拡充し、之を以て我が国民教育の根柢を築かうとしたもので、事実当時全国諸藩の藩学興隆上に影響を与へたところ決して尠くなかつた。
館の学科目は、文武両科に分れ、文科は国学・漢学・医学・蘭学・天文・数学・音楽(雅楽)・歌学等で、武科は兵法・剣術・槍術・射術・砲術・柔術・馬術・水術・火術・統術等である。これに関する設備として、文には講習・居学・寄宿の各寮及び講習別局があり、武には武館・調練場・馬場・砲場・対試場があり、其の他、兵学・音楽・歌学・編修の諸局及び天文台等があつた。
諸士以上の子弟年十歳に至れば必ず私塾(館文武教師の家塾)に入れ、句読及び書札を学ばしめ、十五歳の頃選抜して講習寮に入らしめる。更に其の優等な者を選びて居学寮に送り研究を為さしめた。居学生は武芸で云へば免許以上に相当する者である。年二十歳に至り講習寮に入るべき学力を有せざる者は、特に講習別局に入ることを許して、軍書・雑史の如き仮名の書を通読せしめた。
寄宿寮は、小姓寄合組(側近奉仕)並に布衣三百石以上の嫡子十八歳から二十四歳までの者を一ケ年に三ケ月宛寓せしめ、昼夜文武の修練を為さしめる所謂道場教育所で、幹部養成機関である。
凡て生徒は、午前には文を学び、午後には武を学ぶことにした。時限は午前八時から午後四時までを一日と定めた。文武共考査を定期又は臨時に行ひ勤惰・賞罰を厳にした。一年の休暇日に祈年祭・新甞祭・土神祭・吉田祭(吉田神社の祭日)等を加へ、敬神教育を重視した。正月及び年末の儀式や、文武の成績大考査の時などは、藩公自身家老以下主だつた役人全部を引具して之に臨まれ、親しく検閲激励の努をとられた。学館の儀式は宗廟の祭に次ぐ大事な式典とせられた。
館記は館の教育綱領を示した記文で、東湖が烈公の命を受け、公の意見と己が意見とを折衷して原案を起草し、更に此の原案を公を中心として、会沢伯民・青山延于・佐藤坦等の大儒が慎重討議刪正の上天保八年に決定したものである。実に大中至正なる皇道水戸藩の主義綱領を表象した一大経典で、其の文辞も荘重、典雅、簡潔で、しかも気魄に満ち、水戸学の精髄此の記文にありと謂つてよい。
○館記の解説
弘道とは如何なる義であるか。弘道とは人が能く道を弘めるといふ意である。即ち道を世に弘め、人々に能くこれを実行させることである。然らば其の道とは何であるか。道とは天地に基いた人の大道である。
凡そ事物には理法(則)といふものがある。宇宙の万物皆夫々此の理法に順つてゆくことが道である。即ち天地には天地の道があり、人には人の道がある。故に人たるものは、斯の道から寸時も離れることは出来ない。而して我が日本民族としての遵ひ守るべきの道、これ即ち皇道である。
謹んで考へるのに、神代に於て、畏くも 天祖天地に基づいて大中至正の道(極)をお立てになつて、斯の国を肇め、斯の国に君臨し、斯の国民を教へ導きなされ、そして後世御子孫がこれを承け継がれるやうに、天業の基をお定めになつた。これによつて、天は高く地は低く、各々其の所を得て安らかに万物皆夫々時を得て完全に生々発育して居る。神皇が世界に照臨し、天下を統べ治められるのに、一として斯の道に由りたまはぬことはない。斯の道によりて宝祚は無窮であり、斯の道によりて国体は尊厳であり、全国民は斯の道により安寧幸福であり、又斯の道の光被によつて諸外国の民までも悦服し同化する。神州の宇内に冠絶する所以、此に存するのである。而して御歴代の 天皇は、畏くも 天祖の立て給うたかやうな立沢な道を以て、これで充分であると御満足なさらず、更に他国の長所を取入れ、斯の道の内容を一層立派なものにすることを楽しみとなされた。乃ち支那の理想時代と謂はれた唐虞三代(尭・舜、夏・殷・周の三代)の政治文化の如き、其の美点を資り入れて皇政上の御参考となされた。是に於て、宇内に冠絶する我が皇道が、愈々大きく、愈々明らかに、愈々善美を極めるに至つた。
然るに、中世この方、此の正道に反した邪悪な外来思想が世人を欺き惑はし、また見識の狭い、心卑しき儒者や、時代に迎合して学の本義を曲げるやうな学者が出て、我が国粋を捨てて外国の風に惑溺するやうになつて、為に畏れ多くも 天皇の御徳化が漸次に衰替し、兵禍戦乱続出し、皇道の世に明らかでなくなつたことが随分久しい間であつた。
我が東照公には、乱世を治めて正造の御世に引きかへされ、皇室を尊び、夷狄を攘ひ、武功文徳並似び勝れ、以て天下太平の基を開かれた。我が祖威公(頼房)領を常陸に封ぜられるや、夙に日本武尊の御性格を慕はれ、神道を尊崇し、武備を治め整へられた。次いで義公は威公の志業を継承してこれを大成することに努められ、或る時支那の伯夷・叔斉の伝を読んで痛く感動し、更に儒教を崇ばれ、人倫を明らかにし、大義名分を正し、以て皇室の御垣の守となられた。爾来百数十年の間、子孫代々其の遺業を承け継ぎ、朝廷及び幕府から甚大なる御恩沢を被り、以て今日に至つたのが水戸藩の実情である。さうであるから、苛も臣子たるものは、斯の道を益々推し弘め、先祖の美徳を愈々顕し、以て列聖の鴻恩に報い奉ることを深く思はなければならぬ。これ則ち弘道館の設けられた所以である。
次に建御雷神を館内に祀つたのは、どういふ訳であるか。これは皇道の淵源を崇拝する精神からである。皇道の淵瀬は固より 天祖であるから、天祖を祀るのが本筋ではあるが、人臣が 天組を祀ることは畏れ多いといふので此の神を祀つたのである。建御雷神は、神代に於て 天祖の大御業を御助けなされた御神であらせられ、しかも領内鹿島に鎮座まし/\霊験あらたかなるによつて、此の神を祀り、以て報本の義をこれに寓し、領内の民をして斯の道の由つて来る所を知らしめようとするものである。
その孔子廟を館内に造営したのは、如何なる訳であるか。それは決して神儒同格の施設といふのではない。惟ふに唐虞三代の道を折衷して中正の処に定められた孔子教が、忠孝仁義を重んずる其の精神に於て、我が皇道精神と一脈相通ずるものがあり、古米我が国の治教上に寄与するところが尠くなかつたので、斯の敦の本尊たる孔子の徳を欽慕し、其の教に資りて尊び、人々に我が皇道の内容が益々大きくなり、愈々明らかになつたことが、決して偶然でないことを知らしめようとするものである。
嗚呼、我が水戸藩下の士民たるもの、日夜懈ることなく、斯の館に出入して学び、我が神州固有の皇道を遵奉し、皇道の精華を発揮する為の助として儒教を取入れ、忠孝の大義を重んじ、且忠と孝とは一本で二物ではないことを体得して実行し、文武は其の帰を一にするものであるから、両道分れることなく一本筋で修練し、また学問と事業との一致を認め、理論と実際とが相離れないやうに修養し、敬神と崇儒が其の一方に偏し、又は神儒同格とならぬやう留意し、能く衆人の考を集め、衆人の力を展べ、上下一体一気、治教に努力し、以て国家無窮の御恩に報い奉るやうにしたならば、ただに我が藩祖宗の志を堕さないばかりでなく、在天の神霊も亦御降りになつて御助け下され、真に皇道を推弘める所以となるであらう。これ実に弘道館教育の方針とするところである。斯の弘道館を創立し、其の政教を一にして斯の道を推弘しようとするものは誰であるか。権中納言従三位源朝臣斉昭である。
昭和十六年七月三日印刷
昭和十六年七月七日発行
定価金二十銭
著作者 興亜教育会
代表者須藤喜三郎
発行者 須藤喜≡郎
東京市豊島区高田南町一ノニー五
印刷者 清水弥太郎
東京市神田区小川町一丁目七番地
発行者 興亜教育会